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2020年2月25日 (火)

欲望への囚われ

2月25日 年間第7火曜日のミサから 

ヤコブの手紙。連続朗読。願い求めても与えられないのは何故か。それは動機が間違っているから。自分お楽しみのために使おうと願っても神は聞き届けない。

わたしたちの祈りの動機は大丈夫か?

マルコの福音。

エルサレムに向かうイエスの一行。イエスは弟子たちに「自分が殺されるが三日目に復活する」と予言する。しかし弟子たちは理解しない。それどころか、「自分たちの中で誰が一番偉いか」という議論していた。イエスが【途中で何を議論していたのか】とお尋ねになった。彼らは黙っていた。」

さすがに弟子たちは後ろめたく感じていたのである。彼らの心は自分の欲望、名誉と権力への思いに囚われていた・

「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』

子どものように素直に、無欲に、先入観なしに、イエスを受け入れなければ神の国には入れない、とイエスは言われたと思う。

 

 

第一朗読  ヤコブの手紙 4:1-10
(愛する皆さん、)何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」
だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

福音朗読  マルコによる福音書 9:30-37
(そのとき、イエスと弟子たちは)ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

祈りのヒント

 

2020年2月24日 (月)

信じます、信仰のないわたしを助けてください。

2020年2月24日のミサより

 

幼い時からひきつけを起こす子供の父親がイエスに言った。

「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

イエスは答えた。

「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

イエスは言われた。「信じる者には何でもできる。」

父は答えた。

「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

父は「信じます」と答えた。しかし付け加えていった。「信仰のない私を助けてください。」

「信じる」ということと「信仰がない」ということが整合しない。どういう意味だろうか。イエスはそのことを問題にはしない。

子のわたしはどうだろうか。わたしの信仰な完全だ、100%大丈夫とは不遜にして言えない。

わたしの信仰は脆い、しかし信じている。正直なところそんなものだろう。

 

福音朗読  マルコによる福音書 9:14-29
(そのとき、イエスは三人の弟子とともに山を下りて)ほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

2020年2月23日 (日)

「敵を愛しなさい」という難しい教え

年間第7主日A年

2020年2月23日、本郷教会

 第一朗読 レビ記 レビ19・1-2、17-18

第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 一コリント3・16-23

福音朗読 マタイによる福音 マタイ5・38-48

 

きょうの福音も、先週の続き、山上の説教であります。
「敵を愛しなさい」とイエスは教えました。
このイエスの教えは、キリスト教徒でない人にも広く知られています。
一体、人間に敵を愛するということはできるのでしょうか…。

きょうの、福音朗読の結びの言葉の、
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい」という言葉も、非常にむずかしい教えであると感じないでしょうか。

既に、「隣人を愛しなさい」という教えは、旧約聖書の教えでありました。
この、隣人とはだれであるかということについての、理解の発展がありました。当初、イスラエルの人々は、自分の周りの人々、家族、親類、あるいは、同じ部族、同じ集団の人のことを「隣人」と考えていたようであります。

しかし、神の教えが次第に明らかにされるに従って、隣人というのは、自分たちの枠「イスラエル民族」という枠を超えた外にいる人々、そして、全ての人を指すというようになったと思います。

そして、隣人を愛するということについて、謂わば、このようなことはしないようにしなさいということと、このようにしなさいということと、二つに分けて考えられるようになったのではないでしょうか。

隣人を愛するというというのは、隣人に害を与えないだけでなく、心の中で人々に恨みを抱くことのないようにしなさいというように既にレビ記が教えています。

きょうの福音では、さらに、「敵」と思われる人に対して、つまり、「自分を迫害するもの」に対して、「その人々のために祈りなさい」、と教えています。

新約聖書では、一貫して敵のために良いことをするようにと教えております。

使徒パウロのローマの教会への手紙の中には次のように言われている、
「だれに対しても、悪に悪を返さず、すべての人の前で、善を行うように心掛けなさい。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
ですから、自分が自分の敵であると感じる人に対しても、悪く思わないだけでなく、進んで善を行うようにしなさいと教えているのであります。

きょうのイエスの教えでは、その動機と理由について、次のように述べられています。
「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせてくださる」
天の父は、善人に対しても、悪人に対しても、正しい者にも、正しくない者にも等しく恵みを注いでくださる、あなたがたもそのようにしなさい。そういう意味であります。

そして、自分に良くしてくれる人にそのお返しとして良くすることは易しいことであり、だれにもできるではないか、あなたがたは、その人間の通常の状態を超えるもの、天の父の子になるように努めなさいと言っているのであります。

そして、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
この完全な者になりなさいと言われると、ちょっとひるんでしまう。「わかりました。やります」と、言えるかたは幸いですけれども…。この言葉に悩みますね。わたくしも考えてみましたが、明快な解答は得られません。まあ、こういうことではないかと思うことを申し上げます。

「完全である」というのはどういう言葉を訳したのかなと思いまして調べましたら、やはり、「完全」なのです。英語で言うとパーフェクトなのですね。ギリシャ語の原文も、どれをみても、日本語で完全となっている。

「完全」というのは、人間にはあり得ないのではないかと思う。

『聖書と典礼』の脚注にありますが、ルカによる福音では、「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい。」(ルカ6・36)となっているのですね。こちらの方だと少しは分かりやすいかなという気がする。でも、憐み深いという訳語に、わたしは、ちょっと引っかかる。「いつくしみ深い」という言葉もあります。
フランシスコ教皇は慈しみの特別聖年を提唱されました。いかに天の父がいつくしみ深いかたであり、そのいつくしみはイエス・キリストにおいて完全に表され、実行されたということを言われたのであります。ですから、完全と言う言葉をいつくしみ深いという言葉に入れ替えると、もっと近づきやすい教えになるのではないかと思う。

わたしたちはいつくしみ深くされたので、神の愛を信じ、そして、人を通して、自分が大切にされているという体験を持つことができたのであります。

「主の祈り」を思い起こしますと、「わたしたちの罪をおゆるし下さい、わたしたちも人をゆるします」と祈っているのであります。実に、わたしたちはゆるしてもらわなければならない存在であります。単に、不完全であるというだけでなく、道を踏み外す、過ちを犯すものであります。それは、どんなに努力しても完全に神の掟、イエス・キリストの教えを実行することができる者には、完全には、なり得ないでしょう。

完全にはできないから、どうでも良いということにはならないわけで、できる限り努めます。
その際、自分がゆるされている者であり、ほかの人から受け入れられ、大切にされている者であるという自覚を持つならば、より、いつくしみ深くあれという教えを実行することができるのではないでしょうか。

自分にとって気に食わないことをする人を好きにはなれないのでありますが、「敵を愛しなさい」という場合に、どんな人のことも好きになりなさいといっているわけではない。愛するということと、好きになるということは、まあ、重なりますけれども同じではないわけであります。

わたしたちは、皆、罪びとであり、欠点を持っている者であります。お互いにゆるし合い受け入れ合わなければならないのであります。そして、その際、自分にとって受け入れることがむずかしいと感じる人であっても、その人が自分のためにしてくれていることを想い、その人の良さを認め、そして、更に、その人の中に神の美しさが輝いているということを認めることができるようになり得ると思います。

全ての人は神の似姿であり、イエス・キリストの十字架によって贖われたものであり、そこに、キリストの復活の光が射しているのであります。

ですから、「敵を愛する」ということは、人に対して恨みを抱かないということから始まって、全ての人の中に、神の美しさを見出すように努めること、どんな人も、その人にしかない良さが与えられていることを、フランシスコ教皇もたびたび言っておられますが、「その人の中にある良いこと、美しいことを見つけるように努めたい」と思う。

そして、天の父からの恵みを自分がどんなにたくさん受けているかということをいつも思い起こし、感謝を献げるようにいたしましょう。

 

使徒座

聖ペトロの使徒座のミサ説教

2020年2月22日、本郷教会

最初のローマの司教聖ペトロ

 

 2020年2月22日という日、間もなく「灰の水曜日」を迎えようとしている今日、わたしたちは使徒ペトロの使徒座の祝日を祝います。

  イエスはペトロをはじめとする12人を選び使徒とされ、そして使徒たちにご自分の任務を引き継ぐように命じました。ペトロは12人の代表とされており、今日の福音によりますと、彼は使徒を代表してイエスに対する信仰告白を行っております。

「あなたはメシア、生ける神の子です」。

このペトロの信仰告白の上に教会が成立し、そして存続してきました。

きょうの集会祈願で私たちは祈ります。

「全能の神よ、あなたは使徒の信仰をいわおとして、教会をゆるぎないものとしてくださいました」.

この使徒たちは、決して優秀なユダヤ教の信徒ではなかった。彼らは概ね漁師などの仕事をするものであり、特別に学問を修めた者でもなかった。率直に素朴にイエスを尊敬しイエスに従ったのであります。

とくにペトロのことを思い起こしてみますと、彼は、ほんとうに率直で、そして単純な人であったと思われます。

今日のこの信仰告白、「あなたはメシア、生ける神の子です」のすぐ後で、イエスはご自分の受難のことを打ち明けますと、つまり、

「わたしは、やがて、長老、祭司、そして律法学者たちに迫害されて、そして、やがて殺されてしまうが、三日目に復活することになっている」といわれたときに、ペトロは非常に正直に反応します。「いえ、先生、そんなこととんでもないことです。絶対にそんなことがあってはなりません」。

そのペトロに対して、イエスはなんと言われたか?

「サタンよ、退け!」

まっ、サタンというのは悪魔ということよりも、神のみ心に反対する者という意味であります。

さらに、思い起こせば、ペトロはイエスが十字架にかけられる直前、三度もイエスのことを「わたしは知らない。あの人はわたしに関係ない」と言って、しらを切ってしまった人であります。

復活したイエスがペトロに現れて「わたしの羊を僕しなさい」と三度も言われました。この三度というのは、ペトロが三度もイエスを否んだことを表していると思われるのであります。

 そのような、いわば頼りない人が、どうして教会の礎となり、そして、ローマの使徒座の最初の司教となることができたのでしょうか?

それはひとえに、神が共にいてくださる、復活したイエスが、ペトロと共に歩んでくださるという私たちの信仰によるのであります。

 ペトロが非常に立派な人であり、頼もしい人ではありますが、わたしたちにとっては(教会を信じることが)ちょっと難しいという気がする。

わたしたちと同じ弱い人間であり、臆病風に吹かれて、主イエスを否定してしまうような人間が教会の指導者になったということは、わたしたちに対する、まぁ、ある意味で慰めではないだろうかと。

 ペトロの手紙が、きょう第一朗読で読まれました。この中の言葉で、特に気を付けるべき言葉は次の言葉ではないかと思います。

「権威を振り回してもいけません」

教会の第一人者とされたという意識は、「自分は偉いんだ。自分には何もかも許されているんだ。わたしの言うことは全部正しくて間違いがない」.

という思い込みに陥りがちであり、自分に委ねられたと考える権威、それは権限に通じる。権限を行使して、自分の満足、自分の支配のために乱用するという危険が生じるのであります。

実際、教会の歴史を見れば、最初は、貧しい人々、迫害され、そして、片隅に追いやられている人々の集いに過ぎなかったイエス・キリストの教会が、やがて多くの人が信者になるにしたがって、ローマ帝国はキリスト教を公認いたしました。313年という年。それからほどなく、さらに、キリスト教をローマ帝国の宗教と定めたのでありました。

そのところから教会の深刻な問題がはじまったのではないでしょうか。「権威を振り回してはいけません!」というこの言葉を肝に銘じて、歴代のローマの司教は謙遜に神と人に仕えなければならなかったのであります。実際に多くのローマの司教はそうしましたが、そうしなかった、そうできなかった人もいたことをわたしたちは知っている。

そこで教会の歴史の中では様々な問題が生じた。宗教改革という出来事もあったのであります。

いま現在、ペトロの使徒座はローマ教皇庁といわれている。

この教皇庁の改革ということが真剣に望まれているのであります。

ローマの使徒座は、世界中にあるそれぞれの教会の連絡の中心となっていますし、もっとそうならなければならない。お互いによく知り合うための仲介者の役割が大切であります。

そして、それぞれの地方の教会が自分たちの考えで、自分たちのやり方でイエス・キリストを述べ伝えることができるよう励まさなければならない。自分のやり方を強制してはならないのであります。

そして、もともと貧しい者の教会であったので、権力、権威、財力、そういうものから離れたできるだけ小さな存在として貧しい僕、イエス・キリストの姿を現すものでなければならないのであります。

現在のローマの司教、フランシスコはその教会の原点に立ち返るべく大きな努力をしていると思います。

教皇様のためにお祈りいたしましょう。

 

2020年2月21日 (金)

死から命へ

年間第6金曜日のミサの朗読より

2020221日、本郷教会

「死から命へ」

月曜からの第一朗読はヤコブの手紙。行いの伴わない信仰は死んだ信仰であると言っている。

今日の福音。

《自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。》

救いたいと思う自分の命は地上の命、福音のために失って救う命は永遠の命、神の命である。失う命は偽りの命、救う命は真の命である。キリスト者の生涯は偽りの命を捨てて真の命へ至る旅,死から命への歩みである。

 

 

第一朗読  ヤコブの手紙 2:14-2426
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

福音朗読  マルコによる福音書 8:34-9:1
(そのとき、イエスは)群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 

 

2020年2月20日 (木)

勘違い、思い違いはないか?

年間第6木曜部ミサの福音朗読について

人には神の思いははるかに超えている》

2020年2月20日

 

イエスが弟子たちに、

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と訊ねるとペトロが答えました。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

マタイ福音書では、イエスは

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16・16-19)

と言われました。ペトロを称賛しさらに重要な任務を授けているのです。それにもかかわらず、ペトロがイエスを脇へお連れしてお諫めするとイエスは

ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

この落差をどう受け取ったらいいのでしょうか。最高に褒めておいてサタン呼ばわりをするとはどういうことでしょうか。それは、確かに人間には神の思いが分かりませんよ。だからと言ってもう少し言いようがあるのではないか、とも思いませんか・

わたしたちは主の祈りで

「み旨が行われますように」

と日々祈っています。自分がどうすることがみ旨を行うことに適うのか、真剣に願い求めているのではないでしょうか。問題は具体的に何が神のみ旨であるのか、すぐには明白にはならない、ということです。さらに明白の成っても、それを実行する力があるだろうか、という不安があります。

神の思いは人の思いをはるかに超えています。実にイザヤ書が言っています。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55・8-9)

 

人と人との思いのすれ違いとか勘違いとかよく起こります。まして人と神の間では思いが通じるということは難しんではないだろうか。人が勝手に自分の思いを神の思いと信じる場合もあります。

 

 

  マルコによる福音書 8:27-8:33
(そのとき、)イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 

2020年2月19日 (水)

心の目を開くには?

年間第6水曜日説教

2020219日、本郷教会

 

今日のマルコによる福音はイエスが一人の盲人をいやされたという話であります。

今日の話を読んで気の付いたことを少し申し上げます。

イエスは非常に丁寧に優しく盲人の目を開けてあげています。

「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し」とあります。どうして村の外に連れ出したのでしょうか。人の目に触れないところに連れて行ってお癒しになったのであります。

「その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった。」

イエスは段階的に盲人のいやしを行いました。

「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』

そして次の段階で

「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」

のであると記されています。

そしてイエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰されました。

「メシアの秘密」という言葉があります。イエスはたびたび、いやしを行った時に、この事を人に話してはならない、と告げています。何故であるのか、が論じられています。おそらくご自分の使命が誤解されるのを恐れたからであろうと言われています。

盲人の目を開けてあげたという話は他にも出ています。

ところで今思いますに、わたしたちは心の目をもっと開けるようにしなければならないのではないでしょうか。心が開いていないと見ても見えない、ということがあります。聞いていても聞いていない、ということがあります。

本当に事が見えるように、神の栄光、神の美しさが見えるように、わたしたちの心を清めていただけるよう祈りましょう。見える人にはこの世には神の美しさが現れているのです。

 

第一朗読  ヤコブの手紙 1:19-27
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現ないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

 

福音朗読  マルコによる福音書 8:22-26
(そのとき、イエスと弟子たちは)ベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された

 

 

2020年2月18日 (火)

ファリサイ派のパン種に気をつけなさい

年間第6火曜日ミサ説教

 2020年2月18日、本郷教会

第一朗読は使徒ヤコブの手紙です。

ヤコブは「神は決して人を誘惑することはない」とはっきりと言っています。誘惑することはありませんが試練に遭わせることはあります。人が罪をおかすのは「それぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥る」からです。

今日の福音ではイエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められました。このイエスの言葉を弟子たちは悟ることが出来ませんでした。パンを持ってくることを自分たちが忘れたことをイエスが言っているのだと考えたのです。これは、イエスがパンを増やす奇跡を二度も行った後のことでした。イエスは弟子たちの無理解に対して彼らをやさしく諭しています。わたしが何千二もの人を養うパンの奇跡をおこなったことをあなたがたは知っているでしょう。わたしが言っているのはパンのことではない。イエスは、パリサイ派の人々、そしてヘロデ王(その周りの人々)のこと、その生き方の事を言っています。この人々はしばしばイエスと敵対しました。パリサイ派の人々の偽善、ヘロデの権力欲と誤った支配についてイエスは言っています。少数の人が全体に悪い影響を与え腐敗させることがあります。わたしたちは神の国のパンだねとして全体を神の国に変えていく小さな存在であるのです。神はわたしたちを通して世界を神の御心が行われる民の共同体に変えてくださるののだと信じ希望しています。

 

第一朗読  ヤコブの手紙 1:12-18
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

 

福音朗読  マルコによる福音書 8:14-21
(そのとき、)弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

 

2020年2月17日 (月)

「思い」で人殺す?

年間第6主日A年の説教

2020年2月16日、茂原教会

第一朗読 シラ書15章15~20

第二朗読 コリントの信徒への手紙2章6~10

福音朗読 マタイによる福音5章17~37

 

マタイによる福音書の5章は有名な山上の説教であります。

今お聞きになりましたように、主イエスはわたしたちに非常に厳しい教えを伝えています。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである」と言われ、

「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の義に勝っていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」

と言われました。この主イエスのお言葉は何を言っておられるのでしょうか?

旧約聖書には膨大な律法や預言の言葉が載せられています。わたしたちは新約の時代に生きています。旧約聖書と新約聖書はどういう関係にあるのでしょうか?イエス・キリストが来られて、わたしたちは新しい時代に入っているのではないだろうか?

しかし、いま聞きましたように、イエスは旧約の律法や預言者を廃止したのではないといわれます。

旧約聖書を読むと非常に細かい規定がたくさん出ています。特に驚くのは、このいけにえの献げ方について、ずいぶん詳しく細かく述べられています。

イスラエルの民は牛や羊などの動物をいけにえとして神に献げていました。わたしたちは、もうそうする必要はないのです。ですから、旧約聖書が規定しているいけにえの献げ方の規則は、もうわたしたちには不要となった。

それでは、聖書が教えている人間の生き方についても廃止されたのかというと、もちろん、そうではありません。もっと、厳しく教えているのではないでしょうか。

「人を殺してはならない」。

これは誰でも、どの国においても、どの時代でも人々が守るべき大切な掟とされています。

今日、イエスが言われたのは「兄弟に腹を立てれば、人を殺したことになるのだ」そこまで言われると困ってしまいます。新約聖書の他の個所を思い出してみましょう。

ヤコブの手紙では次のように言われている。

「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」(ヤコブ1・19-20)

「怒る」ということは、神のみ心に適わないと言っている。

エフェソの手紙は次のように教えています。

「「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」(エフェソ4:26)

「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」(エフェソ4:31)

 ですから、新約聖書の教えは明白であって、「怒りとか憤りを捨てなさい」と教えています。

聖書、とくに旧約聖書にはしばしば「神が怒っている」と出ています。

神の怒りとわたしたち人間の怒りとどう違うのでしょうか。

わたしたちが怒るのは、どういうときに怒るのでしょうか?

わたしたちの場合,「憤る、大声を出して喚く」ということはそう度々のことではないでしょう。しかし、一日終わって、「きょうは面白くなかったー、嫌だなぁー、あの人は・・・、とか、気分が悪かった」などと思わないわけではない。「まぁー、馬鹿者とかー」とか思わない人はいない。毎日そう思う人はいないけれど、そう思うことは避けられないですね。わたしたちが不愉快に思うのは、これ、どうしても避けられないことです。こちらがそう思えば、他の人もわたしのことをそう思っているかもしれないわけです。まぁーそこは、わたしたちは大人ですから、自分をきちんと納めて、まっ、大過なく、大きな過ちに陥ることなく過ごしております。

できれば、怒ることがあっても、その怒りを静めて神様にお詫びして、そして、いつも晴れやかでいたい。

 あるときに書店で「怒り」についての本を見つけました。その本の題名は「人はなぜ怒るのか」でした。その本の説明によると、怒りとは、「不一致による違和感」であります。難しい説明ですけど、不一致。一致しない。こちらが思うことと相手のすること言うこととが、ぴたっと合わない。こちらがしてほしいと思うとおりに相手がしない。こちらがこうしないでほしいと思うことを相手の人がする。まぁ、仕方がないことですね。わたしたちは互いに違う人間なのですから。こちらのことは解ってくれない。ある程度は分かってくれるけど、完全には解ってくれない。これは仕方のないことなんですが、その度に怒っていたのでは付き合っていけないわけです。

結論を言えば、要するに、世の中というものは自分の思い通りになるわけではないわけです。子供の時、幼い時はそういうことは思わないですけれど、だんだんわかってくる。大人になると、もっと厳しくそう感じるわけです。教会なら大丈夫というと、そうじゃーないんですよねぇー。

人間というのは自分の思いがあって、その思いを他の人に理解してもらいたい、実行してほしいと思うわけです。そういう風に思うことを止めないと、まぁー、怒ったり、不愉快に感じたり、憤ったりするということは止むことがないわけですね。

 しかし、まぁー、職場でもこれが問題になっているのでしょうか。どうしたら怒らないで済むかについての本というのが、そういうつもりで見るとたくさんあります。 

 山上の説教というのは、その行いだけ守っていればそれで済むということではなくて、心が伴っていなければ、その掟を守ったことにはならないのです。まさか人を殺すという人はほとんどいないんです。殺したら犯罪であります。殺さないで、しかし、「こんな奴と会いたくないなぁー」とか、「いなけゃーいいのに」とか、或いは、ひどい場合は「死んでしまえ」とか、心の中で悪態をつくことが、まったくないというわけにはいかないんですねぇ。そう思って、それに承諾すれば、人を殺したも同じだとイエスは言っている。

もしそうならば「人間やってられない」と思ってしまいます。

ですから、「人を殺すなかれ」という掟は、イエスの教えによって更に強化されてしまいました。易しくは全然ならなかった。他の教えについても同じことです。

一日終わって、静かに振り返ったときに、きょう自分の気持ちはどんなふうに推移したか、揺れ、移り変わったか、と反省する。そうすると、もう感謝でいっぱい、感謝以外何もありません、という方は立派な人ですね。逆に、今日あの人はこういうことをした、不愉快だなぁということのほう先に浮かんでくるのであれば、それを逆にして、とにかく、こうしていただいた、それに対してわたしはさほどできなかった、お詫びします、という気持ちが先に来るようでありたい。そして、その後、なぜ自分は面白くないと思っているのだろうか、と自分の心を見つめたらよいのだと思います。

イエス・キリストも勿論人間でありますから、感情を持っていたわけです。彼は律法学者やファリサイ派の人と非常に鋭く対立している。そして、非常に厳しい言葉を投げかけていまして、おそらくお怒りになったのでしょう。ただ、怒る理由がわたしたちと違うのですね。自分の思い通りにならなかった、自分のプライドを傷つけられた、こちらがして欲しいことをしなかったので癪に障るというような動機ではなかった。そのこと自体が神のみ心に適っていないということを、きちんとはっきりと述べたわけです。そうすれば、どのように反撃されるかということは十分に予想していたが、それでもやめなかった。その結果、いろいろ経緯があって彼らに恨まれて、十字架に付けられるというわけになったのであります。

わたしたちは、自分のことが原因で怒る。イエスは天の御父のこと、そして苦しんでいる人貧しい人のために怒った。

わたしたちもイエスの弟子であるからには、少しでもイエスの生き方にならなければならない。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16・24)

とイエスは言われました。

わたしたちは毎日「御心が行われますように」と祈っている。「自分の思いが実現しますように」とは祈らない。ですから、イエスに倣い、そして人とのかかわりの中で、人の苦しみや悩みを自分のものとして受け取ることができますよう、日々お祈りいたしましょう。

 

 

 

イエス、異邦人を癒す

年間第五木曜日 ミサ説教

2020年2月13日(木)、本郷教会

 

今日の福音はイエスがティルスという地方で、シリア・フェニキア生まれのギリシア人の女性の娘をいやしたという物語を伝えています。

この女性はイエスに「娘から悪霊を追い出してください」と頼みました。

その答えは意外にも非常に厳しい侮蔑的とも思われる言葉でありました。

新共同訳の聖書では、

「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」

調べてみますと、この言葉がイエスの真正な言葉であったか、あるいはマルコの福音記者が後から付け加えた言葉であるのか、よく分からないそうであります。

しかし、マルコの福音が書かれた時には、このような表現が成立していたのである。

ユダヤ人から見れば、フェニキアにいるギリシア人は完全に異邦人であります。

その異邦人のことを、「子犬」という侮蔑的とも思われる言葉であらわしたわけです。

「子供たち」であるユダヤ人にはパン(恵み)を与えるが、「子犬」である異邦人には与えられないとイエスは思われたのでしょうか。

しかし、女性はイエスの否定的な言葉にめげないで答えます。

「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」

マルコの福音でイエスのことを「主よ」と呼びかけているのは、この箇所だけだそうです。

ほかの福音書では珍しくないですが、マルコではこの箇所だけであります。

マルコの福音が最も古い成立であり、最初にできた福音書であることは確かであるので、非常に注目すべき箇所であるといえましょう。

『そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊は

あなたの娘からもう出てしまった。」』

このイエスの言葉を別の翻訳で読むと、こうなります。

「その言葉のゆえに、行くがよい。娘さんから霊は出ていった。」

「その言葉のゆえに」直訳ではそうなるのであります。

どのように受け取ったら良いのか、翻訳は苦労しております。

おそらく、イエスはこの時、ユダヤ人と異邦人の境を越えて、人びとに福音を宣べ伝えることをあらためて決意したのではないでしょうか。

それは「主よ」と呼びかけたこの女性の強い信仰に心を動かしたからであると思います。

出血症の女性をいやされた時にイエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(マコ5:34)と言われました。

イエスの言葉をへりくだって受け入れ、「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」と機知にとんだ答えをしたフェニキアの女性に、イエスは心を動かされたのではないだろうかと思います。

 

2020年2月16日 (日)

主よ、教えてください、わたしの使命、任務を!

年間第5土曜 召命のためのミサ

2020215()14:00、本郷教会

第一朗読 創世記 121-4a
福音朗読 ルカによる福音1425-33

説教

きょうは召命のためのミサを選びました。
「召命」というのは、神が、わたしたちを呼び出される、神がわたしたち一人ひとりに、ご自分の計画を実現するための協力を求められるという意味であります。

狭い意味では、召命といえば、従来、カトリック教会では司祭、あるいは、修道者への召し出しを意味していました。

今日、わたしたちは、召命という言葉をもっと広い意味にとり、それぞれの人が、神さまに望まれている自分の務めを果たすということを意味するようになっております。

さて、きょうの、召命のためのミサのために、第一朗読は、創世記にある、「アブラムの話」であります。

アブラムですけれども、後に、「アブラハム」という名前に変えられます。アブラハムというのは「諸民族の父」という意味であります。チグリス・ユーフラテス川のほとりに「ウル」というところがあって、紀元前1500年頃なのでしょうか、そこにアブラハムとその一家が住んでいました。
そのアブラハムに神の声が降った。何という声であったかというと、ここにある言葉であります。
「あなたは、生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。/わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創121-2

生まれ故郷を離れて、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい…、わたしの示す地というのはどこか、この時点では、はっきりしていない。
そして、そのあと、どうなるのか。
「あなたを大いなる国民に」するといっても、それは何を意味しているのかよくわからない。
人間は、特に、この時代、この地縁と血縁のつながりの中で生きている。

「地縁」(土地の地とのつながり)と、それから「血縁」ですね、血のつながりの中で、人々は自分の存在を確認し、そして、そのつながりの中で日々の仕事と生活を送っております。
それを一切やめて、どこか訳の分からないところへ行くというのは、大変な冒険であります。行ってどうなるのだろうか…。
アブラハムは、その神の言葉に従って、すぐに、ふるさとと家々を離れて出発しました。

召命というのは、「神の呼びかけに応える」ということであります。そこには、リスクというものが伴う。
わからない所で、わからない人との関係の中で、これから自分の人生を新たに築いていくということは、不安と、そして、恐れを伴うものでありますが、アブラハムは、すぐに神の呼びかけに応えて、出発したのでありました。

福音朗読は、イエスが弟子たちに向かって言われた言葉を告げている。

キリストの弟子というのは、つまり、キリストに従う者であるという意味であります。

イエスは、
「わたしに、ついてきなさい。」(マコ117ほか)と、言われました。
ついていくというのは、どういうことであろうか、と…。
きょうの言葉は、文字通り受け取ると、とても難しい、極端な言葉のように聞こえはしないでしょうか。
まあ、アブラハムは故郷を捨て、家族を捨てて、殆ど捨てたのではなくて、家族は一緒でしたが、父の家を離れて出発した。イエスの要求は、もっと激しい。
家族ですね、血縁、父、母、きょうだい、姉妹を置いて、わたしに従いなさい。

ここでは、「それを憎まないなら」と、これが分かりにくい表現であります。キリストの弟子になるためには、自分の家族を憎まなければならないのか、そんな非常識なことをイエスは言っているのだろうか…。多くの人は、この言葉に疑問を持ち、あるいは、躓いてしまう。

イエスが言われたのは、まあ、文字通り家族を「憎む」ようにしなさい、という意味ではない。
聖書の言葉は、わたしたちが使っている日本語と全く違う言語なので、正確な意味を理解することは、易しくは無いのでありますが…。(少なく愛するという意味)
この「憎む」というのは、いわば、自分自身の「エゴ」というか、「小さな我」、「小我」と言いましょうか、「小さな自分」、「小さな我」の思い、願い、欲望を捨てて、イエスの声に聴き従いなさい。わたしの言うことを優先しなさい、という意味であります。

そうするならば、本当の意味で、父、母、家族を愛することができる。そうでないならば、自分の小さな我欲に振り回されて、本当に家族を大切にすることにはならないのだ、と。

人間は、日々、いろいろなことを望み、欲し、そして、気にしている。そして、しばしば、自分の思い通りにはならないのであります。

「自分の十字架を背負ってついて来」なさい(ルカ1427ほか)、これは、どういう意味でしょうか。
わたしたちは、だれでも、ああしたい、こうしたい、あるいは、ほかの人にこうしてもらいたい、そういうことはしてもらいたくない、自分の期待に反することをほかの人がするならば、あるいは、期待しないことをするならば、わたしたちの小さな自分、エゴが傷つく。十字架を背負うというのは、自分の小さな思い、「小我」を捨てて、本当の自分の姿に目覚めなさい、という意味であります。

同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない。考えてみれば、いや、考えなくても明白ですが、わたしたちはいろいろなものを持っていて、そして、持ち物を完全に支配していればよいですけれども、持ち物によって支配されているということが無いだろうかと…。

全ての物から自由になり、そして、全ての物とのふさわしい距離を持ちながら、本当の自分の声、自分の心の底の底に住んでおられる神さまの声を聴いて、それを実行するものでなければならない。

召命のためのミサを献げていますが、召命というのは、「神の呼びかけに応えること」であります。

神の呼びかけとは、いつ、どのようにして聴こえて来るのか…。自分の都合の良いような声だけでなく、自分にとって都合の悪いこと、嫌なこと、苦しいことも神さまがお望みになっているかもしれない。
その場合、自分を捨て、自分の命、この自分の地上の命であっても、それよりも神さまがくださる命の方を大切にする。神の命を優先することが、キリストの弟子の道ではないかと思います。
きょうの福音は、そういうことを言っているのではないだろうか。

 

2020年2月14日 (金)

認識の枠組み

聖チリロ隠棲修道者 聖メトジオ司教 記念日ミサ説教


2020年2月14日(金)、本郷教会

 

今日の福音もイエスが「いやし」をなさったという話です。耳の聞こえない人の耳を開いてあげたという話であります。
今日のいやしの話は、これまでのいやしの話と比べると、丁寧というか具体的である。
イエスは直接その人に接触して、「エッファタ」という言葉を使って、いやされました。
「エッファタ」(開けの意)というのはアラム語(アラマイ語)で、その時実際にイエスの口から出た言葉であります。

 

人間の言語能力というのは、生まれた時から周りの言葉を聞いて、次第に発達していくのでありましょう。親から、特に母親からの影響が大きいと思われます。母国語のことを英語ではマザータンmother tongue と言います。
その一番大切な言語習得の最初の部分が不十分だと、人間の言語能力は十分には発達しないのであります。人は聞いて、話すことを学ぶ。
それゆえに、「ろうあ者」と申し上げて良いでしょうか、聞こえない人は話すこともできなくなるのであります。
耳の機能が不十分ですと、言語の能力が成長しないということである。

 

神の言葉を聞く用意がないと、神の言葉を行うことも出来なくなるのではないでしょうか。。
預言者は神の言葉を人びとに告げるという使命を授かった人です。
「エゼキエル書」という預言書を読んでみますと、いかにイスラエルの民ユダの人が神の言葉に対して耳を塞ぎ、反抗し、頑なであったかということが述べられている。その次第が詳しく述べられているのであります。
エゼキエル預言者の告げた民に限らず、人びとは神の言葉を聞き入れようとはしない。
人間は大人になる段階で物事を理解するための枠組みというものが形成されています。
「認識論」という哲学の分野がありますが、人間はどのようにして認識するのかということについて、いろいろな考え方があるそうです。そこでは、人間はもうすでに埋め込まれている認識の枠組みがあるので、その枠組みに嵌らないものは受け入れられないということが論議されています。
神の言葉がその人の認識の枠の外にあると、人は聞こうとせず、理解しようとしないのであります。人間の認識の枠組みというものは、もうこうだと思っておりますと、その思いの外にあることは受け入れられないのです。
誰しもそういう問題を持っている。いくら言っても、言っても、分かろうとしない。
人のことではなくて、わたくし自身もそういう根源的な問題を持っているのではないだろうか。無心になるということは、そのような先入観から解放されることであります。
神の霊のはたらきに心を開くということではないでしょうか。

 

 

第一朗読  列王記 上 11:29-32、12:19
そのころ、ヤロブアムがエルサレムを出ると、シロの預言者アヒヤが道で彼に出会った。預言者は真新しい外套を着ていた。野には二人のほかだれもいなかった。アヒヤは着ていた真新しい外套を手にとり、十二切れに引き裂き、ヤロブアムに言った。
「十切れを取るがよい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはソロモンの手から王国を裂いて取り上げ、十の部族をあなたに与える。ただ一部族だけは、わが僕ダビデのゆえに、またわたしが全部族の中から選んだ都エルサレムのゆえにソロモンのものとする。
このようにイスラエルはダビデの家に背き、今日に至っている。
福音朗読  マルコによる福音書 7:31-37
(そのとき、)イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年2月12日 (水)

思いの罪

年間第五水曜日 ミサ説教
2020年2月12日(水)、本郷教会

「人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」とイエスは言われました。
「中から」とは、人間の心のことを指している。
「人間の心から出る、悪い思いが人を汚す」と言われました。
人間の心には、良い思いと悪い思いの両方が棲んでいると言えましょうか。
確かに人間の心の中には、今日列挙されているような悪い思いがあります。
パウロのガラテア書の中では、肉の業と聖霊の実りという言葉で、人間の心を支配している良い思いと悪い思いのことが告げられています。
良い思いとは聖霊の実りであり、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラ5:22)であるとパウロは言っています。

ミサの開祭のとき、わたくしたちは毎回罪の赦しを願う祈りを唱えています。
「わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。」
「思いによって罪を犯す」、思いというものは、それ自身は見えませんが、思いによる行動は人にも分かるのであります。
山上の説教で、イエスは憎しみや姦淫などの心の思いを厳しく指摘しています。

一つ思い出すことがあります。
若い頃、函館の男子修道会シトー会でしばらく祈りの生活をさせていただいたことがありました。
「ゆるしの秘跡」を受けた時の司祭の訓戒の言葉が思い出されます。
「人間は思いによっても罪を犯す。しかし人間は弱いので神さまは赦してくださる。
天使が思いによって罪を犯したならば、即悪魔に変えられてしまう。」
悔い改める余裕がなかったという意味でしょうか。
思っただけで即結果が出る。
わたくしたちは思いの中で揺れ動いていて、最終的な決定、最終的な決断というのは、おそらく死の時まで延ばされているのだろうと思います。

第一朗読  列王記 上 10:1-10
(その日、)シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやって来た。彼女は極めて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た。ソロモンのところに来ると、彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせたが、ソロモンはそのすべてに解答を与えた。王に分からない事、答えられない事は何一つなかった。
シェバの女王は、ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにし、また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、息も止まるような思いであった。
女王は王に言った。「わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。わたしは、ここに来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じてはいませんでした。しかし、わたしに知らされていたことはその半分にも及ばず、お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。」
彼女は金百二十キカル、非常に多くの香料、宝石を王に贈ったが、このシェバの女王がソロモン王に贈ったほど多くの香料は二度と入って来なかった。
福音朗読  マルコによる福音書 7:14-23
(そのとき、)イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」†イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 

 

朽ちないものとされる

世界病者の日ミサ説教
2020年2月11日(火)、本郷教会

フランスとスペインの国境にあるルルドというところに、貴婦人が現れ、少女ベルナデッタに霊泉が湧き出ることを教えたという出来事を記念して、2月11日は「ルルドの聖母の日」とされ、またヨハネパウロ2世によって「世界病者の日」と定められました。
わたくしたちの主イエス・キリストは、生涯にわたってさまざまな人の病気や障がい、あるいは心の問題をおいやしになりましたが、考えてみれば、数知れない多くの病人の中の一部の者に過ぎませんでした。
「いやし」ということは、結局のところ人間の救いということであり、救いは心と身体のいやしにならなければならないのであります。
そして、一人ひとりの救いは神の命に最終的決定的に与ることであり、イエス・キリストの復活の栄光の状態にあげていただくほかなりません。
今日のパウロのコリント書はそのことを教えていると思います。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

第一朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (一コリ15:50-55)
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、
朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。
わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパがなるとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死よ、お前の勝利はどこになるのか。
死よ。お前のとげはどこにあるのか。」

 

福音朗読 マタイによる福音 (マタ8:14-17)
(そのとき)イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを
御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめに起き上がってイエスをもてなした。
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 

人の心の悪への感染

病者のためのミサ

2月11日(火曜日)、五井教会

説教 岡田武夫名誉大司教

 

みなさま、今年も2月11日五井教会で世界病者の日のミサを献げさせていただけることを大変ありがたくうれしく存じます。

 

1858年のこと、ルルドというところ、フランスとスペインの国境に近いフランス側の寂しい所で、少女ベルナデッタにそれは美しい麗しい姿をした婦人が現れ「わたしは原罪無くして宿ったものである」と言われたのであります。

 人々はすぐには信じなかった。そこで、信じてもらうために清らかな泉を湧き出せたところ、その水に浸った人の多くが癒されたのであります。

 その出来事を記念して2月11日がルルドの聖母の日となり、聖ヨハネ・パウロ二世はご自身自体が難しい病気を患っていた方なのですけれども、「世界病者の日」とお定めになったのでありました。

たしたちが、救い主として信じ仰いでいるイエス・キリストという方は、どんなことをしてくださったという方であるのかというとを思い起こしてみますと、今読んでいただいた福音書が告げておりますとおり、多くの人の病気を癒し、そして、悪霊を追い出してくださったことであります。そして、更に復活なさってすべての人の上に聖霊を注ぎ永遠の命へとわたしたちを招いてくださっています。

 福音書を読むと非常に目立つはっきりとしたイエスの行いは、困っている人悩んでいる人病気の人、或いは体の不自由な人をお癒しになった、《癒し》ということでありました。また、こんにち理解しにくいかもしれないが、汚れた霊や悪霊に憑かれた人からその霊を追い出してくださったということであります。

それは大変多くの人数であったと思いますが、しかし、その当時の地上に何人の人がいたのか、そして今、何十億の人がいるのか?すべての人がそのようなイエス・キリストによる癒しの恵みを受けたわけではなかった。

まぁー、こんにち益々わたしたちの状況は難しくなっているともいえましょう。わたしたち自分自身を含め家族、友人、知人そのほかの人々のことを思えば、まったく健康に問題がない人というのは非常に少ない。今の医学は非常に進歩しているので、調べれば必ず何か問題があると、まっ、調べなければいいのではないかもしれませんが・・・。ということになるわけであります。

そのように、わたしたちは「完全なる健康」というものは与えられていないといっても、それほど間違えではない。されど、一つ思いますことがあります。

体の健康というのはわかりやすい。体の病気は解りやすい。しかし、心の健康というと、どうなったら健康なんでしょうか?

人間の心というものは、非常に困ったもので、聖書のいろいろなところにありますが、「人の心は癒しがたい悪に感染している」と。いま、コロナかヴィールスの感染が問題になっていますが、心に入り込んでいるばい菌は、なかなかのことでは駆除できない。

 

最近、非常に世界規模の大きな会社の会長であった人の犯罪が報道されています。何が事実であったのか?わたしにも分かりませんが、そういう問題がある。それに関連して、他の有名なある企業のトップになった人が、インタビューで述べている言葉がわたしの心に響いています。「人間というものはしようがないもんですなぁー。人間は嘘をついてはいけない。胡麻化していけない。そして、自分に与えられている権力、権限を自分のために使ってはいけない。自分の利益のために使ってはいけないです。わたしは心に深くそうしないと誓いましたが、思い起こせば若い時に、ついうっかり、上司に言われて、『問題ありません』と嘘をついてしまったことがある。それは、バレると自分の評判が悪くなることを恐れてのことであった。それ以来、自分は絶対に嘘をつかない。それから、自分のために自分の持っている力を使わない。困っている人、他の人には使うが自分を喜ばせるためには絶対に使わないと誓った。』

人間なかなかそれが実行できないものであります。最初は真面目に純粋にその道を歩みますけども、だんだん事がうまくゆくと評判も良くなりだんだん地位も上がっていくと、だんだん思い上がって、そこに魔が差すといいましょうか、気が付くと、自分のために喜んでいろんなことをするが、人のためにすることをだんだん遠ざけるようになる。そういう人間の性というものはなかなか直らない。人間の一番大きな病気はそういう人間の弱さ、エゴイズムというか、他の人よりも自分のことを優先させてしまう心の傾きではないかともいえましよう。

わたしたちが癒しておくべき病気、それはそういう心の病気ではないだろうか?主イエス・キリストはそういう私たちの苦しみを受け、そして、復活してくださったのであります。結局のところ、わたしたちは主イエス・キリストの復活に与ることによって、心も体も問題のない健康な状態に変えていくわけなのであるとわたしたちは固く信じている。が、その時まではどうしても不完全な自分でありますし、問題ない自分とは言えませんが、まぁ、お互い励ましあって、そして希望をもって歩んでいきたいと思います。

2020年2月11日という日、ここに集うことができたわたしたちに慈しみ深い全能の神が聖霊を豊かに注ぎ、わたしたちを、心も体もすべてにおいて、神の平和に与るものとしてくださるように、復活の喜びに加えていただけるものとなるようにお祈りいたしましょう。

2020年2月10日 (月)

権力は腐敗する

<聖スコラスチカおとめ記念日 ミサ説教
2020年2月10日(月)、本郷教会

 

今日の短い福音朗読は、(イエスに)「触れた者は皆いやされた。」と言っています。
おそらく、イエスの評判を聞いた人びとが各地から大勢集まってきて、イエスの力を受けていやされたいと願ったのであろうと思います。
イエスはその願いを聞き入れました。
病気の人や体の不自由な人というのは、いつの時代もどこにでもおりましたし、今もそうであります。
わたくしたちは、自分の周りにいる体の具合の悪い人をすぐに思い起こすことができる。
イエスは、地上のすべての人の病気や障害をいやしたわけではなかった。
イエスの前の時代も、後の時代も、病気という問題はずっと人類の中に継続しているわけであります。
日本は世界の中でも有数の長寿の国である。
医療も非常に進んでいる国であります。
しかし、病気というものが根絶したわけではない。
イエスという人は何をしたかというと、「いやし」ということが非常に目立つのであります。
ほかの箇所では、出血症の女性のいやし、目の見えない人を見えるようにした、十二歳の少女のよみがえりなど、かなり丁寧な記述をしていますが、今日の福音では、「触れた者は皆いやされた。」と「いやし」ということを十把一絡げにして言っているような気がする。
何かほかの箇所とは調子が違うと思います。
イエスはすべての人の病気をいやしたわけではない。

 

次に、病気がいやされれば人間の問題がなくなるかと言われれば、そうではない。
体は病気でなくとも、人間はいろいろな問題を持っているわけであります。
心の問題もある、人間関係の問題もある、それはお互いにつながっていることでありましょう。
心と体、あるいは社会生活はすべてお互いに関わり合っているのであります。
体がいやされても心の問題が残る。
イエスは、人間の根本的な問題を解決するために来たのではないだろうか。
その問題というのは、心の問題ではないかと思う。

 

世界規模の企業グループの会長を務めた人の犯罪が報道されています。
日本の有名なメーカーのトップだった人ですが、逮捕されました。
人間というのは仕方がない者ですね。
偉くなると誘惑が多い、権力を握ると権力を乱用することが起こりがちである。
「権力は絶対に腐敗する」と誰か言っておりましたが、権力は人のために与えられているが、自分のために使ってしまうようになる。
先日、インターネットで読んだ記事に興味をひかれるものがありました。
大企業のトップに上り詰めた人からの取材記事です。この人がまだ偉くなる前、自分の身を守るために上司に嘘をついてしまったことがあったそうです。
幸い大過なく問題を引き起こすことなく事なきを得たが、自分の心に固く誓ったそうです。
「絶対に嘘はつかない」
そして、「自分の地位、権力を自分のためには使わない。」
「それは、大変難しかったが一生懸命守ってきた」そう言っていたのであります。
続きはまた後日にしましょう。

 

 

2020年2月 9日 (日)

人の性は善か悪か?

年間第5主日A年

202029日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言  イザヤ58 58710

第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 一コリント215

福音朗読 マタイによる福音 マタイ51316

説教

きょうの福音は、マタイの5章、有名な山上の説教の一部であります。この前の箇所は、「幸い八か条」いわゆる「真福八端」という教えでありました。「心の貧しい人は幸いである」という言葉から始まっています。

きょうはその続きの箇所、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」と言われました。

イエスの周りに集まった人はどんな人であったでしょうか。貧しい人々、病気の人、いろいろな問題を抱えている人、社会の中で片隅に追いやられているような人々でありました。そういう人々に向かってイエスは あなたがたは祝福されている。「幸いです」というのは祝福されているという意味であります。

そしてきょうの箇所は、「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われたのであります。

地の塩でありなさい、世の光でありなさい、と言われたのだろうかと思うと、いや、そうではない。

あなたがたが、地の塩、世の光であるのです。そういわれたのであります。

この言葉をどう受け取ったらよいでしょうか。

どちらかといえば、或いははっきりいえば、自分のことに自信がない、疲れ切っている人、元気のない人々が、イエスの周りに集まってきたのであります。

人々の羨むような、模範になるような状態にはない、そういう自覚を持っていた人々ではないでしょうか。

頑張った、けれどもうまくいかなかったという人々、であるかもしれない。

そういう人に向かって、もっと頑張って、人々から模範と思われるような人になりなさい、とイエスが言われたのであろうかというと、そうではない。

しかし、他方、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」とも言われているわけです。

論理的にこういうことになりますね。

あなたがたは地の塩です。そしてあなたがたは世の光です。その光を人々の前に輝かしなさい。

そうすると、自分ではだめだと自分のことを思っているかもしれないが、そうではないのですよ。

あなたがたは既に、今、そのままで、地の塩、世の光になっているのです。そのことを深く思いなさい、自覚しなさい。そして、その自覚を持って、人々にキリスト者、ここではキリスト者とまだなっていないのですけれど、人々の前に光を輝かせなさい、地の塩として生きなさい、そういっているのではないだろうかと。

まだ地の塩でない、世の光でない人に向かって、頑張って、地の塩、世の光になりなさいと言われているならば、理論に整合性があるのですけれど、もう地の塩だよ、世の光だよ、と言いながら、光を輝かせなさい、というとどういうことになるのかと思いませんでしょうか。

イエス自身、「わたしは世の光である」とも言われています。

イエスのきょうの教えはわたしたち全ての人間に当てはまることではないだろうか。

わたしたちは、誰でも地の塩、世の光になっている。しかしそういう自覚がどれだけあるでしょうか。「こんなわたし、とてもとてもそんな風には思えないし、思ってもらえない」という思いが勝っているのか、それとも、「わたしを見なさいよ、みんなわたしのようにすればいいんだよ」と胸を張って言えるでしょうか、まぁ、たぶん、両方の極端、自分はだめだと落ち込んでいる状態、とほかの連中は皆だめだなぁ、俺のようにすればいいんだよ、と高ぶった思いとの、どちらかになっている人はおそらくいないだろうと思う。正直なところ、わたしたちは、自分に自信が持てない、しかし、自信を持てる部分もある。そしてお互いに他の人をみると、あの人はこういうところが素晴らしいなぁとか、美しいなぁとか、そう思うことがあるのではないでしょうか。

たしか使徒パウロの言葉に、「お互いに相手を自分よりも優れたものと思いなさい」という言葉がございます。

話は前後するのですけれども、わたしたち人間は、神から造られたわけです。神の似姿、神に似たものとして造られました。世界の歴史の中で、宗教家とか哲学者が、人間とは何かということをずっと論じてきているのですが、大きく分けて性善説と性悪説というのがあります。

人間は本来、善である。或いは、本来、悪である。その両方の間を揺れ動いているのかもしれない。

我々キリスト教は人間というものをどう見ているのだろうか。

きょうの山上の説教はそのことに深く関わっているのであります。イエスの周りに集まった、惨めな状態にある人に向かって、「あなたがたは、地の塩、世の光である」と言われたということは、これはどう考えても性善説であります。しかしわたしたちは自分の中に、思わしくない点とか、自分でも嫌になる点とか、そういう部分があることを知っている。真っ白でもないし、真っ黒でもないわけであります。とはいえ、話が右左(みぎひだり)に動くんですけれども、基本的にわたしたちは神の子である。神から出たものですから、限りなく善いお方、慈しみ深い方の子どもでありますので、わたしたちの中に神の性質が宿っている。まして洗礼を受け、聖霊を受けて神の子となったわたしたち、そして復活の栄光に与っているわたしたちは、イエス・キリストの、いわば兄弟になっているのであります。その自覚を深めること、自分に、正しい意味で、誇りを持たなければならないと思う。ま、人にそう言っているわたくしが自分にいつもそう言い聞かせているのであります。

 

仏教で、仏性(ぶっしょう)、仏の性質、仏性ということを言うそうであります。すべての人には仏である性質が既に備わっているのだという教えであるようです。わたしたちは皆、神の子であり、神はわたしたちひとり一人を自分の子どもとして、かけがえのない価値を与えて下さっているのであります。

その自覚を強めることによって、わたしたちはおのずから神から与えられる光を人々に伝えることができる。光は神から与えられて、わたしたちの中に既に宿っているのであります。その光、自分の中にある光、或いは塩味を深く自覚し、そしてそういう者として、毎日を歩むことが大切ではないでしょうか。

 

偽善者の屁理屈

病者のためのミサ(ルルドの聖母)説教

2020年2月8日(土)、本郷教会

 

第一朗読は、「列王記」。

ソロモン王が神殿を建設し、神に奉献した時の祈りを伝えています。

たいへん敬虔な立派な祈りであります。

ソロモンは「ソロモンの知恵」と謳われ、また「ソロモンの栄華」とも言われて、非常に繁栄した王であります。

知恵と富において、地上のいかなる王にも勝っていたと伝えられています。

しかし、晩年、彼は驕り高ぶったからでしょうか、主の目に悪とされることを数々行いました。

近隣の国から外国人の妻を迎え、その妻の宗教を礼拝し、国民を圧迫する悪政を強いて

堕落した状態に陥りました。

神は再三ソロモンに警告しましたが、聞き入れなかった。

父ダビデに免じてソロモンの生存中は処罰することを控えたが、ソロモンの死後、王国は分裂することになると神は言われたのであります。

その次第が列王記に出ています。

知恵において、だれにも負けないくらいの神のめぐみに満ちていた人が、どうしてそのようなひどい状態に落ちてしまったのでしょうか。

つくづく考えさせられる歴史上のエピソードであります。

 

福音についてであります。

イエスはたびたびフェリサイ派の人びとや律法学者と対立してきました。

今日の争点、両者の争いの中心にあるのは、彼らの偽善という問題であります。

「彼らは口先では神を敬っているが、心の中は神から遠く離れている。」

「人間の戒めを守って、かえって神の掟をないがしろにしているではないか。」

その例が、「父と母を敬え」という掟であります。

モーセの十戒の「父と母を敬え」、そして、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」という重要な掟であります。

彼らは巧みにこの掟を骨抜きにし、形式上守っているようにしながら、「父母を敬う」という律法の精神を無にしていたのであります。

 

『もしだれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。

この理論というか、説明は分かり難いかもしれません。

コルバンというのはアラム語で神への供え物という意味です。

これから先の理屈が非常に独自なものです。

子どもが親に為すべき、尽くすべき親孝行、親を扶養して親の世話をするといった親に対する当然為すべきことを、神さまへの供え物としてしまえば、もう神さまのものですから取り戻せない。

何か分かったような、分からないような理論です。

全然分からないのだけれども、そういう理論が通用している。

神さまのものになったのですから、わたくしの方では手の付けようがない、それで親にしてあげられるものは何も残っていない、みな神様のものになってしまったのだから・・・。

そういう説明ですが、分かりますか?

何とでも理屈はつけられるわけであります。

 

イエスは。ファリサイ派、律法学者の人たちに怒っているわけです。それは、頭のよいファリサイ派、律法学者たちは理屈をこねまわし、本来神が望んでいることを無視しあるいは骨抜きにして、神の掟をないがしろにしながら、自分たちか敬虔に律法をも持っている者だとの態度をとっていた他なりません。

 

 

 

2020年2月 8日 (土)

善と悪の間を揺れ動くヘロデの心

年間第四金曜日 ミサ説教

20202月7日()、本郷教会

 

洗礼者ヨハネが首をはねられるという物語が今日の福音であります。

今日の「マルコによる福音」を読んで感じましたことを一言申し上げたい。

ヘロデという王は、どんな人であったのでしょうか。

彼は洗礼者ヨハネに対して、必ずしも悪い気持ちだけを持っていたのではなかった。

「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」

とあります。

他方、ヘロデの妻ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうとさえ思っていた。

ヘロディアという人は、ヘロデ王の異母兄弟の妻であったが、ヘロデが奪い取って結婚したということになっている。

そして、このヘロディアにはすでにサロメという娘がいて、この娘はヘロデにとっては義理の姪であり、また姪の娘であるという、系図を見ても分かり難い非常に複雑な人間関係が入り組んでいるのであります。

ヘロデは自分の誕生日の祝宴で、言わなくてもいいことを言ってしまった。

「欲しいものがあれば、何でも言いなさい。お前にやろう」

「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」

その結果、ヨハネの首をはねなければならなくなりました。

「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。」

この記述から、ヘロデはヨハネの首をはねることを本当は望んでいなかったが、見栄もあり、多くの人の前で言ってしまった手前、やむを得ず衛兵に首をはねさせたということが分かります。

ここにヘロデという人の悲劇があるように感じる。

人間というのは、心の中が複雑で、良いことを願いながらそれを必ずしも実行できない。

しかし悪いことだけに徹するという人もあまりいない。

両方の間、善と悪の間で揺れ動きながら、心が責め苛まれているのであります。

彼は洗礼者ヨハネを処刑した後も、そのことが気になって仕方がなかったように思われます。

ヘロデ王、そしてヘロディアという人は、特別な心の状態にあったのかもしれませんが、わたくしたちとて場合によれば、このヘロデ王あるいはヘロディアのような心に振り回されないとも限らないのではないでしょうか。

 

第一朗読  シラ書 47:2-11
和解の献げ物から脂肪が取り分けられるように、ダビデもイスラエルの子らから選び分けられた。彼は子山羊と戯れるように、獅子と戯れ、小羊と戯れるように、熊と戯れた。彼は若いとき、巨人を打ち倒して民の恥を取り除き、石投げを持った手を上げて、ゴリアトの高慢を粉砕したのではなかったか。彼はいと高き主に祈り求めて、その右手に力を与えられ、あの力ある戦士を倒し、自分の民の勢力を高めることができたのだ。こうして、数万の敵を倒したと言って人々は彼を称賛し、主を賛美しつつ彼をほめたたえ、栄光の冠を彼に与えた。彼は取り囲む敵を打ち滅ぼし、刃向かうペリシテ人を完膚なきまでに倒した。彼らの勢力は今日まで衰えたままである。彼はいかなる業をなしたときも、聖なるいと高き方を栄えある言葉で称賛し、心を尽くして賛美の歌をうたい、自分の創造主を愛した。彼は祭壇の前に歌い手たちを立たせ、美しい声で歌をうたわせた。こうして彼らは毎日賛美の歌をうたうことになった。彼は祭りを荘厳なものにし、祭りの手順を完璧に整え、人々に主の聖なる御名をたたえさせて、暁とともに美しい声を聖所に響かせた。主は彼のもろもろの罪を赦し、その勢力を永遠に続くものとして高め、彼に王国の契約とイスラエルにおける栄光の座を与えられた。

福音朗読  マルコによる福音書 6:14-29
(そのとき、)イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

 

 

 

2020年2月 6日 (木)

イエスは二人ずつ組みにして派遣した

聖アガタおとめ殉教者記念日 ミサ説教

2020年2月6日(木)、本郷教会

 アガタというおとめ殉教者は、三世紀の人で、シチリア島のカタロニアで殉教したと伝えられています。ローマ典礼の第一奉献文に出てくるお名前です。

第一朗読は、ダビデが息子ソロモンに遺言をのこす場面であります。

「モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。」

「掟」と「戒め」と「法」と「定め」とは要するに「律法」であります。「律法」を守りなさいと遺言した。

ソロモンは晩年、モーセの律法から大きく逸れてしまったわけであります。

 「マルコによる福音」は十二人の派遣の場面です。

このイエスの言葉を現代のわたくしたちは、どのように受け取ることができるでしょうか。

なかには原理主義的にイエスの言葉に従うような人たちもいるようですが、文字通りに実行することは難しいわけであります。

軽装備といいますか、「杖一本のほか何も持たず」に行くようにと言われました。

わたくしたちはあまりにも多くの物を持ちすぎているような気がいたします。

ただひたすら、神の力に信頼して宣教しなさいという意味ではないかと思う。

何のために宣教するのか。

宣教という言葉は、ミサの起源となっている「ミッシオmissioラテン語で派遣の意」であります。

悔い改めさせるため、悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやすためである、とされています。こんにちの教会は、復活したイエスから命じられて宣教しているというところが、今日の福音との大きな相違であります。

しかし、基本的にわたくしたちの宣教は派遣されたものであり、悔い改めの福音、悪霊の追放をどう考えるか、悪とのたたかい、そして心と身体を病んでいる人を助けるということがわたくしたちの為すべきことでありましょう。

 

第一朗読  列王記 上 2:1-4、10-12
福音朗読  マルコによる福音書 6:7-13
(そのとき、イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 

2020年2月 5日 (水)

日本二十六聖人聖人殉教者

日本二十六聖人殉教者祝日 ミサ説教

2020年2月5日(水)、本郷教会

 

二月五日「日本二十六聖人殉教者の祝日」の福音は、

「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。」という、イエスの御命令を伝えています。このイエスの宣教命令に従って、多くの人が世界中に派遣され、イエス・キリストを宣べ伝える証しをしました。「殉教者」という言葉は、「証しをする人」という意味であります。

日本は殉教者の国です。殉教者は血を流し、命を賭けて、自分の信仰を人びとの前に証ししました。

証しするためには、深い強い信仰がなければなりません。殉教した人は、福音宣教者あるいはいろいろな人を通してイエス・キリストと出会いました。

イエス・キリストの愛を心に深く刻みこまれた人であります。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とイエスは言われました。

イエスは復活後、弟子たちに聖霊を注ぎ、聖霊の働きを通して御自分をすべての人に現わし、伝えておられます。

第一朗読で、パウロが言っています。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

キリストと自分との間に区別がなくなるような神秘的な体験をパウロはしたようであります。

わたくしたちは、どのようにしてイエス・キリストと出会ったのか。イエス・キリストは自分にとって誰であるのか。

イエス・キリストとの出会いの体験について、今日あらためて思いを深くしたいと思います。

 

第一朗読  ガラテヤの信徒への手紙 2:19-20
(皆さん、)わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

福音朗読  マタイによる福音書 28:16-20
(そのとき、)十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

2020年2月 4日 (火)

安心して行きなさい

間第四火曜日 ミサ説教

2020年2月4日(火)、本郷教会

 

昨日の福音朗読は、悪霊に取りつかれたゲラサの人から、イエスが汚れた霊を追い出したという話でありました。

今日の箇所はその続きです。

イエスが二人の女性をおいやしになりました。

十二年間、出血症に苦しんでいた女性と、ヤイロという会堂長の娘で死にかけていた十二歳の少女の話であります。

今年の1月18日土曜日に「病者のためのミサ」をお献げしましたが、その時の福音は今日の福音とほぼ同じ内容であります。

その時は「ルカによる福音」(ルカ8:43-48)でしたが、今日は「マルコによる福音」(マコ5:25-34)です。

「マタイよる福音」(マタ9:20-22)にも同じ話が出ている。並行箇所と言っております。

三つの福音に同じ内容が出ているということは、どんなにかこの話が人びとの心の中に強く印象づけられたかということを表していると思います。

出血症の女性のいやしの話は、ヤイロの娘のよみがえりの話の中にはめ込まれているという形をとっています。

出血症という病気はどんな病気なのでしょうか。

レビ記(レビ15:25-30)によると、出血症の女性は汚れた存在とされ、人や物に触れると、その人や物も汚れたものになるとされていました。

重い皮膚病という病気のことを話したことがありますが、同じように社会的に忌避された存在でありました。

出産した女性も四十日間の清めの期間を経ないと、神殿に詣でることができなかったとあります。

この女性が身体的にも社会的にも精神的にも、たいへん苦しんでいたことは明白であります。

「全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」

という、まさに踏んだり蹴ったりという状況にあったと言えます。

イエスという人の評判を聞いて、イエスならば自分をいやしてくれるだろうと思った。

しかし出血症の女性が誰かに触れるということは厳しく禁じられていたわけですから、その禁を犯すことになる。

犯したならば、恐ろしい結果を招くということも予想されたわけです。

彼女は本当に思い切ってイエスの服の房に触れた。

房には敬虔なユダヤ人が付けていた律法の要約が書いてあったそうです。

触れた時にイエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいた。

イエスは自分に触れた者を感じ、この女性の存在に気づく。

女性は「震えながら進み出て、ひれ伏し、すべてをありのままに話した。」

その時イエスは言われました。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

どんなに大きな喜びを彼女はいただいたことでしょうか。

人にとって救いとは何かというと、その人によって少しずつ違うかもしれませんが、この出血症の女性にとっては明白なことで、出血症という非常に深刻な病気をいやしていただくことが救いでありました。

 

現代の日本の社会で救いとは何であるのか。

人によって違うかもしれませんが、その救いを伝えるしるしとしての教会の働きはどうなっているのだろうかと考えるわけであります。

2020年2月 3日 (月)

多くの悪霊に憑りつかれた男が癒された!

 福者ユスト高山右近殉教者記念日 ミサ説教

2020年2月3日(月)、本郷教会

 

今日の第一朗読「サムエル記」の朗読に出てくるダビデという人は、歴代の中で最も高い評価を得た王でありますが、彼とても悲劇を免れることはできませんでした。

自分の息子アブサロムに背かれて、エルサレムから逃れて行かなければならなかった事情が述べられています。

そのダビデは、前任者サウルの遺族と関係者から呪いを受けなければならなかったということも書かれています。

 さて、今日の「マルコによる福音」では、ゲラサ人の地方で、イエスが汚れた霊に取りつかれた人から霊を追い出した話の次第が述べられています。

かなり詳しい描写が見られます。

この人は墓場に住んでいた。人びとは彼を鎖や足枷で拘束しようとしたが、物凄い力で鎖を引きちぎり、足枷を砕いてしまう。そして昼も夜も墓場や山で大声を出し、石で自分を打ちたたいていた。

まことに恐ろしい気持ちの悪い風景であります。

しかしイエスに出会い、イエスが「汚れた霊、この人から出て行け」言われると、彼は正気に戻った。

汚れた霊はレギオン(軍団の意)と名乗ります。おびただしい数の悪霊が、この男に取りついていたと考えられていました。

悪霊から解放されて、男は正気に戻り、服装を整え、しっかりと座っていたのであります。

イエスはその人に向かって、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせない。」と言われました。

今までの福音書の「いやし」の物語では、イエスはいやされた人に、その出来事を人びとに言ってはならないと言われることが通常でした。

この場合は場所が異邦人の地だからなのでしょうか、あるいは特別なケースだったからでしょうか、「あなたが受けた恵みを人びとにことごとく知らせなさい」と言われたのでありました。

このいやされた人は、イエスに着いて行きたいと願ったのですが、自分の家に帰って周りの人に自分の物語を告げ知らせなさいと言われた。

わたくしたちの今日の考えかたで言えば、これこそ正に福音宣教であります。

このゲラサの人のいやしは非常に印象的です。

墓場に拘束されていた人の恐ろしい様子、解放された後の清々しい様子の間に著しいコントラストが見られます。

人びとはこの出来事を見て大いに喜んだかというと、そうでもない。

「イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。」とあります。

なぜでしょうか。

よく分かりませんが、豚二千匹ほどが湖で溺れ死んだと書いてありますので、経済損失を動機にしているのかもしれない。あるいは、このいやしということ自体が彼らには受け入れ難いことであり、自分たちがこの悪霊に取りつかれた人に対して、今までしてきたこと、取っていた態度をどう考えるのか、どうしたら良かったのかということの責任を問われたと思ったのではないかとも思う。

今日の話はかなり極端です。現代の日本において、このような凄まじい風景は見られないでしょう。しかし本質的に同じようなことがあるのではないかと思うのであります。

 ――

 第一朗読  サムエル記 下 15:13-14、30、16:5-13a
(その日、)イスラエル人の心はアブサロムに移っているという知らせが、ダビデに届いた。ダビデは、自分と共にエルサレムにいる家臣全員に言った。「直ちに逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう。」
ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上って行った。ダビデ王がバフリムにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子、名をシムイという男が呪いながら出て来て、兵士、勇士が王の左右をすべて固めているにもかかわらず、ダビデ自身とダビデ王の家臣たち皆に石を投げつけた。シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。」
ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「なぜあの死んだ犬に主君、王を呪わせておかれるのですか。行かせてください。首を切り落としてやります。」王は言った。「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう。」ダビデは更にアビシャイと家臣の全員に言った。「わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」ダビデと一行は道を進んだ。

福音朗読  マルコによる福音書 5:1-20
(そのとき、イエスと弟子たちは、)湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

2020年2月 2日 (日)

試練と誘惑

主の奉献 A年

202022日、本郷教会

 第一朗読 マラキの預言  マラキ 314

第二朗読 使徒パウロのヘブライ人への手紙 21418

福音朗読 ルカによる福音 ルカ232

 

説教

 きょう2月2日は、主の降誕の日からちょうど40日目にあたり、主の奉献の祝日とされています。イエスの両親、ヨセフとマリアは律法の規定に従って、幼子イエスを連れてエルサレムの神殿に詣で、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽とともにイエスを主なる神に献げたのでありました。

 神殿に連れて来られた幼子イエスを見た二人の老人、シメオンとアンナは、第一朗読マラキの預言の成就、即ち、待望している主が聖所に現れる、という預言の成就を見たのであります。主の奉献の日、わたしたちは、主の神殿で主に献げられたイエスを、生涯忠実に、主の僕(しもべ)としての生涯を貫いた人として、全ての人の救いの源であると信じています。

 第2朗読はヘブライ書であります。ヘブライ書で描かれているイエスについて、きょうはわたしたちの思いを向けて、少々黙想してみたいと思います。

ヘブライ書が強調しておりますが、イエスは「罪」という点を除いて、わたしたちと全く同じ人間でありました。人間であるということは、わたしたちと同じ人間としての弱さ、或いは限界を持っていた存在であります。イエスはわたしたちと同じように、悲しむこと、苦しむことのできる人間でありました。実際、ナザレのイエスは、わたしたちと同じ人間として、苦しみと試練をつぶさに体験したのであります。

 さらに、イエスは悪へのいざないも体験しました。四旬節の起源となっている荒れ野における40日間の、悪霊からの誘惑の体験を思い起こしてみたいと思います。彼は40日間にわたって荒れ野において、悪霊からのいざないを受け、そしてその誘惑に打ち勝ったのでありました。

 さらにゲッセマネの園におけるイエスの祈りを思い起しましょう。イエスは死を目前として祈って言われました。

「父よ、できることならこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし私の願い通りではなく、み心のままに。」

この祈りとともにイエスは人間として、死ぬほどの恐怖を感じていたにもかかわらず、その恐怖に打ち勝ち、十字架の刑が待っている次の段階へと進んで行ったのであります。

 わたしたちは、イエス・キリストという人を信じています。

そのイエス・キリストとは誰であるのか、どんな人であったのか。

この問いがわたしたちにとって重要な問いかけであります。

もしイエスが、「神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神である」とすれば、すれば、じゃなくてそう信じているわけですが、その人がどうしてわたしたちと同じ弱い人間であり、そしてさらに、悪霊の誘惑を受けることができたのでしょうか。ここに、わたしたちには伺い知ることのできない深い神秘が隠されているのであります。

 わたしたちは、弱い人間でありますし、数々の困難に出遭っていますし、そして誘惑を受けている者であります。

「主の祈り」の中でわたしたちは祈る。

「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。」

 イエスも誘惑を受けたのでしょうか。イエスが苦しんだことは疑いがありません。しかしイエスはわたしたちと同じように誘惑を受けたのでありましょうか。この点について、最初の教会の中で議論がありましたが、結論は、イエスはわたしたちと同じ人間になったので、誘惑を受けた。荒れ野において40日間、悪魔の誘惑を受けたのであります。そして誘惑に打ち勝った、そして罪を犯すことがなかった。わたしたちの場合、誘惑を受けると場合によっては誘惑に負けて罪に陥ってしまう。

ですから、「誘惑に陥らせず悪からお救いください」と祈るのであります。

 「誘惑」という言葉ですが、似たような言葉で「試練」という言葉があります。原文は同じで、その原文を文脈、その文章の流れ中で「誘惑」あるいは、「試練」と訳したりしています。

試練と誘惑は違います。どう違うのか、考えてみるとそう簡単に説明ができない。神はわたしたちに試練を与えている、これは動かすことのできない事実ですね。しかし、神が人間を誘惑することはない。これも動かすことのできない真理であります。

誘惑するものがある。それを、わたしたちは悪魔とか悪霊とか呼んでいます。
神は人間を誘惑することはない。誘惑するような神は神ではないと言わなければならない。しかし、困難に遭わせていることも否定できないのではないでしょうか。数々の困難にわたしたちが出遭うことを、神は、謂わば、許しているというか、黙認していると言えましょう。

神は、わたしたちを試練に遭わせて、わたしたちを教育するということはあり得ます。しかし、罪に誘うことはあり得ません。誘惑は乱れた欲望の動きに同意するようそそのかす悪霊から来るのであります。

悪魔がわたしたちの欲望に働きかけて、悪を行うよう、誘惑するのであります。その誘惑に同意すると、罪に陥るということになります。
ですから、わたしたちは「主の祈り」で悪からお救いくださいと祈っていますが、この「悪」と訳されている原文は「悪いもの」といいう意味であり、この「悪いもの」とは「悪魔」、「悪霊」と訳すことも可能であります。

神は、悪魔が人を誘惑することを、今のところですね、許している。これはわかりにくいことですけれども、まあ、悪魔の存在そのものがわかりにくい事ではあります。
しかし、悪魔に打ち勝つ聖なる霊、「聖霊」をわたしたちに与えてくださっている。「聖霊」を豊かに注いでくださっているのであります。

イエスは誘惑に打ち勝ち、復活の栄光に入り、わたしたちに聖霊を注いでくださっています。

わたしたちの教会の最高指導者、教皇フランシスコは、繰り返しわたしたちに励ましを送っています。

「信者の毎日は、悪とのたたかい。悪霊の誘いを退けるためのたたかいであります。聖霊の恵みに信頼し悪に打ち勝つようにいたしましょう。」

 

 

2020年2月 1日 (土)

人は死んだらどうなるのか?

亡くなったかたに献げるミサ説教

202021()、本郷教会

 

今日は人間の死ということについて、思いを深めたいと思います。

人は必ず死を迎えます。

わたくしたちは誰でも、家族や親しい人との永遠の別れである死を体験していると思います。

次のような述懐に出会いました。

「人はいつか亡くなる。このことは理解しているはずなのに喪失感は壮絶でした。四十六年間連れ添った夫がいなくなってしまい、眠れず、食欲がわかず、体重は五キロ減りました。泣きすぎて自分の顔ではないみたいに変わってしまって、こんな自分が嫌なのになかなか悲しみから抜け出せない日々です。」

親しい人との地上における別れは、どんなに大きな痛手を人に与えることでしょうか。

わたくしが最初に思い出す死の体験といえば、わたくしの祖母の死であります。

その埋葬の時の風景を今でもありありと思い起こすことができます。

わたくしは司祭として司教として、多くの方々の死を見送りました。

わたしの東京大司教としての前任者は白柳誠一枢機卿でありました。

20091230日が御命日であります。

暮れも押し詰まった1230日でしたので、その後のお正月どころではなく、身も心も葬儀のことで精一杯だったという記憶が鮮明であります。

人が亡くなるということは、大変なことであります。

聖書は、キリスト教は、死についてどう考えているのか、死んだらどうなるのか。

これは人間にとって非常に重要な問題であります。

死んだらそれで終わりなのか、死んだら次の世界があってどこかに行くのか、どうなってしまうのか。

そういう疑問を多くの人は持っています。

わたくしたちの場合は明確に次のように教えています。

何度も同じことを申し上げておりますが、今お献げしている死者のためのミサの中で、司祭の唱える叙唱では次のように言われているのであります。

「信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています。」

肉体は滅びますが、その人自身は新しいいのちの状態に変えられて、天にある永遠のすみかへ受け入れられるということが、わたくしたちの信仰であります。

今日の福音朗読でもイエスは言われました。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。わたしはあなたがたのために住む所を準備してある。そしてあなたがたは私と一緒に父の家に行くことができる。」と言われました。

人の死に出会い、葬儀に出席して、その折々にわたくしたちは思い考えるのであります。

目の前に亡くなったかたのご遺体があっても、もうそこにその方はいない。

ではどこに行ったのだろう、どこでどうしているのだろう、そう思います。

聖書の考え方では、人間は心と体が一体であると教えています。

その体がなくなると何が残るのだろうか。

従来では、霊魂が残っていると考えられていましたが、霊魂だけの存在というのはどうなっているのだろうか。

そこに新たに加わった考えは、イエス・キリストの復活という信仰であります。

イエスは体が滅ぼされても霊魂だけで生き続けたというわけではないですね。

復活の体をもって人々に現れた。

「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(ルカ24:39)と言われました。

それは、霊魂だけが生き続けるという考えではない。

でもそれはキリストだけで、わたくしたちはどうなのかと考えるかもしれないが、わたくしたちもキリストの復活に与る参加するのだというように信じることができる。

復活するわけです、わたくしたちも。

ただ、ではどうなるのかということについては、地上にいるわたくしたちには直感できない。

特別な霊感のある人が、亡くなったかたと交信をしたという記録は多々残っています。

体を持った存在でも地上の体とは違う。

わたくしたちは、三次元の時空の中にいますが、その条件から解放されるので、時間のない世界に行くことになるのであります。

時間の中にいる者と、時間に束縛されない者との通信というのは、いわば霊的な通信である。

よく亡くなった人が夢枕に現れると言いますが、夢などの特別な状況で、亡くなった方と生きている人の間の通信が可能なのでしょうか。

そこはわたくしには分かりません。

人が死んで、霊だけが残るという考えは聖書の教えではないように思います。

「諸聖人の通功」(= Communio sanctorum聖徒の交わり)という言葉を思い出していただきたい。

毎年、111日は諸聖人の祭日、その翌日112日は死者の日です。

人は死ぬとみな聖人になる。

ただすぐには聖人になりきれないので、どこかでどうにかなっている。

亡くなった人のために祈るというのは、その人が神さまのもとに到着しているかどうか分からないので、そのことを助けるために、つまり清めを受けるためにお祈りを以って支援するというように教会は考えてきた。

そして、すでにわたくしたちの支援を受ける必要のなくなった方は、逆に神さまのもとからわたしたちを助ける祈りをしてくださる。

カトリック教会では取次ぎの祈りと言います。

最大の取り次ぎ手はイエス・キリストですが、聖母マリアを始め諸聖人は天の父のもとに居る方ですので、その方がたにお願いしてわたくしたちのことを神さまに取次いでもらおうと、そう考えたわけであります。

わたくしたちのもとから去っていった祖父母、両親、兄弟姉妹、友人知人、そして教会で出会った司教司祭やいろいろな方の永遠の安息を願って祈りましょう。

地上のわたくしたちを助けてくださるようお願いしましょう。

 

 

2020年1月31日 (金)

日本という土壌

聖ヨハネ・ボスコ司祭記念日 ミサ説教

2020年1月31日(金)、本郷教会

 

イエスは神の国の福音をたとえ話で説明されました。

今日の福音を見ますと二つのたとえが告げられています。

「神の国は土に種を撒いて、その種が芽を出して成長するようなものである。」

これを読むと先日(1月29日)の福音を思い出します。

神の国の福音は、聞く人の状態能力によってその効果が変わってきます。

受け取る人の心が良い土地であれば、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶという話でした。

今日の話は少し趣きが違う。

土に種が撒かれると、種は芽を出して成長します。

土には力がすでに宿っている、存在している。

種を受け取って発芽させ、成長させ、結実させるように働きかける力が、土壌の中には存在しているのだと言っているように思います。

 

わたくしは長年日本の福音宣教ということを考えてきました。

日本という土壌はどういう土壌なのだろうか。

聖フランシスコザビエルは、日本に福音をもたらした時に、日本人は非常にレベルの高い国民であることに驚いたそうであります。

教育もよく普及しているし、人びとの道徳も立派である、納得できない点もない訳ではないが、ということを本国に報告したと聞いています。

日本という土壌は、神の国の福音を受け取って、それを発芽させ成長させる良いものがすでに存在していると思います。

それは日本に住んでいるわたくしたち自身のことであり、わたくしたちの心を指していると思う。

今日の第一朗読は有名なダビデ王の重大な罪の話ですが、あの理想的な王であるダビデも大きな罪を犯している。

しかし、人間は本来良いもの、神の似姿として造られています。

機会があれば芽を出し実を結ぶことのできる可能性を秘めている、与えられている。

「からし種のたとえ」も告げられています。

どんなに小さな種であっても、成長して空の鳥が宿るほどの大きな木に成長する。

 

話が前後しますがわたくしたちの本郷教会にとって、次の日曜日は大切な日であります。

信徒総会の日です。

小さな存在である本郷教会ですが、空の鳥が巣を造るほどの大きな枝に成長する可能性を持っている。

そうなることができるのだ、そういう恵みはすでに与えられているのだ、ということを自覚して、心を神の招きに開くようにしたいと思います。

第一朗読  サムエル記 下 11:1-4a:4c-10a13-17
年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。
ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。
ダビデはヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」
ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」
ダビデはウリヤを招き、食事を共にして酔わせたが、夕暮れになるとウリヤは退出し、主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかった。翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。

福音朗読  マルコによる福音書 4:26-34
(
そのとき、イエスは人々に言われた。)「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 

聞く耳のある者は聞きなさい

年間第三木曜日 ミサ説教

2020130()、本郷教会

 

昨日の福音は「種蒔きのたとえ」でありました。

神の言葉は受け取る人の心の状態によって実の結び方が異なってくると言っているようです。

良い土地に蒔かれると何倍もの実を結ぶ。

今日の福音をその譬えで考えてみると、まず「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。

さらに「何を聞いているかに注意しなさい。」と続きます。

イエスの言葉をよく聞くならば、そして聞いて実行するならば、持っている人は更に多く与えられることになる。神の恵みに与っている者は、更に神の恵みに与るように注意して努力して心を開いていれば、更に豊かに恵みを与えられるでしょう。

しかし心を向けていなかったり、ほかのことに囚われていたりすると、既に与えられている恵みまで失うことになるから気をつけなさい、そう言っているのかもしれないと思います。

「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」とも言っています。

「自分の量る秤」とはどういう意味だろうか。人間の器の大きさによって受ける恵みも変わってくる。広い深い大きな心を持てば、神の恵みはそれだけ豊かに与えられるでしょう。

そういう意味ではないかと思います。

第一朗読  サムエル記 下 7:18-1924-29
(ナタンから主の言葉を告げられた後、)ダビデ王は主の御前に出て座し、次のように言った。「主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。主なる神よ、御目には、それもまた小さな事にすぎません。また、あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてありえましょうか。主よ、更にあなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御自分の民として堅く立て、あなた御自身がその神となられました。主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください。『万軍の主は、イスラエルの神』と唱えられる御名が、とこしえにあがめられますように。僕ダビデの家が御前に堅く据えられますように。万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。あなたは僕にこのような恵みの御言葉を賜りました。どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください。主なる神よ、あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。」

福音朗読  マルコによる福音書 4:21-25
(そのとき、イエスは人々にわれた。)「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 

 

 

2020年1月29日 (水)

キリストの言葉を受け入れる心

年間第三水曜日 ミサ説教

2020129()、本郷教会

第一朗読 サムエル下74-7

福音朗読 マルコ41-20

 

イエスはしばしば「たとえ」をもって、神の国の福音をお話しになりました。

今日の福音は「種蒔きのたとえ」と呼ばれています。

イエス御自身がこの「たとえ」の意味を説明されました。

「種」というのは神の御言葉、「種を撒く人」はイエス・キリスト御自身です。

パレスチナの農業では、種はいろいろなところに撒かれるようであります。

道端に落ちた種、石だらけの所に落ちた種、茨の中に落ちた種、そして良い土地に蒔かれた種、それぞれ撒かれた場所の状態によって実の結び方が異なってきます。

道端に撒かれると、すぐにサタンが来て御言葉を奪ってしまう。

石地に撒かれた場合は、一旦は御言葉を受け入れるが、根がないので困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまう。

茨の中に撒かれた場合、わたくしたちはこの場合に当てはまることが多いと思いますが、この世の思い煩いや富の誘惑、自分の欲望に囚われて、身を結ぶことができなくなる。

良い土地に蒔かれた場合は御言葉を受け入れて、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ。

カトリック教会の教えの中には、いろいろな定理・命題があります。

その中に次のような言い方がある

「何であっても受け入れられるものは、受け入れる人の受け入れ方に従って、受け入れられる。」(ラテン語で「Quid quid recipitur ad modum recipientis recipitur.」と言います。)

これは人間の認識の仕方についての法則であります。

人は物事を理解する時に、理解の仕方の枠組みというか、理解の仕方の仕組みというものが既に出来ていて、その人の受け入れる能力や方法によって受け入れるので、その結果が異なってくる。

わたくしたちの理解の仕方も、既に知っていることの中に受け入れようとする。

知らないことについても、すでに知っている事と結びつけて受け入れようとするわけであります。

今日のこの譬え話の説明のために、この定義が有効かどうか自信がありませんが、「心の貧しい人は幸いである」とイエスは言われた。

心から神の救い神の恵みを求めている人は、神の言葉が心の中に沁み込んでくるのであります。

 

2020年1月28日 (火)

わたしの兄弟・姉妹とはだれか

聖トマス・アクィナス司祭教会博士記念日
ミサ説教

2020128()、本郷教会

今日のマルコによる福音の場面を思い浮かべてみましょう。

イエスは神の国の福音を宣べ伝えていました。

多くの人がイエスの周りに集まって、話に聴き入っていた。

「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。」とあります。

そこにイエスの母と兄弟が、何か用があったのでしょうか、イエスに会うために訪ねて来た。

そういう場面であります。

「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、

イエスの言葉は意外なものでありました。

「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して、

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

ここに教会のありかたが示されていると思われます。

聖書全体を通して見ると、イスラエルという民族集団は、血縁によって成立していたと思われます。

マタイの福音書の冒頭は、カタカナの名前の羅列である系図が続くので、多くの人はここで躓いてしまう。

しかし、聖書にはそのような血縁を越えて、すべての人を一つに集めるという動きが流れている。

イスラエルの人びとは、十二の部族の連合体であったようですが、イエスによって天の父を信ずる人びとの範囲がユダヤ人以外の人に広がっていく様子が、使徒言行録などによって示されています。

さらに、「すべての人に福音を宣べ伝えるように」と復活したイエスが命じられ、その命令を受けた教会は、民族の境界を越え、国家の違いを越え、文化、言語の違いを越え、すべての人にイエス・キリストを宣べ伝えるという使命に励んできました。

しかし、同じイエス・キリストを信じる人の間に対立や相克があったことも事実であります。

ほかの宗教に対する態度が、必ずしもイエスが望んでいたようなものではなかった。

カトリック教会は二千年の歴史の中で絶えず反省と刷新を繰り返してきました。

第二バチカン公会議において、教会一致運動と諸宗教対話という路線をはっきりと打ち出したわけであります。

日本のカトリック教会も、1993年の第二回福音宣教推進全国会議を端緒に、家庭という現実を踏まえて、家族という繋がりを教会という繋がりと重ねて、より確かなものにしようとする努力が行われてきました。

第一朗読  サムエル記 下 6:12b-1517-19
(その日、)王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。
人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、兵士全員、イスラエルの群衆のすべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った。

福音朗読  マルコによる福音書 3:31-35
(そのとき、)イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年1月27日 (月)

赦されない罪

年間第三月曜日 ミサ説教

2020127()、本郷教会

 

今日の「マルコによる福音」も、悪霊についての話であります。

悪霊の存在、悪霊の働きを、わたくしたちはどう受け取ったらよいのでしょうか。

悪霊に対して聖霊があり、悪霊の働きと聖霊の働きがあります。

ある宗教では悪の力と善の力が両方働いて、ある時は善が勝ち、ある時は悪が勝つ、という解釈をしているようです。

聖アウグスティヌスが一時期信奉していたマニ教は、そういう善悪二元論であったそうです。

わたくしたちの宗教は、唯一の神、父と子と聖霊を信ずる宗教であります。

神によってすべての罪は赦される。

教皇フランシスコも「神はすべての罪を赦してくださる。どんな重い罪を犯しても神は赦してくださる。」とたびたび言っております。

しかし今日のイエスの言葉によれば、「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

この言葉をどう受け取ったらよいでしょうか。

律法学者たちはイエスのことを「悪霊にとりつかれた者、悪霊の頭(かしら)の力を使って悪霊を追い出す者」という、ひどい中傷をしていたのであります。

「聖霊を冒瀆する者は赦されない」という言葉は、わたくしたちが、自らを赦しの必要とする者と思い、赦しを願うならば、どんな罪でも赦していいただけるという意味であると思う。

言い換えれば、赦してもらう必要がない、自分には問題がないと思い、赦しを受け入れず赦しを拒む者は、自分で自分を許されない状態のままに置いている、ということになるのだと解釈されます。

聖霊はわたくしたちをいつも神の命に導いてくださいますが、わたくしたちの中にそれを受け入れない悪の力が働いている、その悪の力が悪霊だと考えられます。

わたくしたちは毎日「わたしたちを悪からお救いください」」と祈っています。

わたくしたちは赦していただくべき人間である、どうかわたしたちをおゆるしくださいと赦しを願うならば、神はいつでも赦してくださるのであります。

ーー

第一朗読  サムエル記 下 5:1-710
(その日、)イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」
イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。
ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した。王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」
しかしダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。
ダビデは次第に勢力を増し、万軍の神、主は彼と共におられた。

福音朗読  マルコによる福音書 3:22-30
(そのとき、)エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年1月26日 (日)

パウロの回心

宣教・福音化のためのミサ(パウロの回心)説教

2020125()、本郷教会

 

今日125日は聖パウロの回心を記念する日となっています。

聖パウロは、聖ペトロと並ぶ教会の二本の柱とでも言うべき重要な人物であります。

パウロは異邦人の使徒と呼ばれ、ユダヤ人ではない人びとにイエスの福音を宣べ伝えた人であります。

およそ紀元5年から10年頃と推定されますが、タルソスという繁栄していた都市で生まれました。

イエスよりも十歳くらい若いということになります。

ガマリエルという律法学者のもとで熱心に勉強した、いわば筋金入りのファリサイ派のユダヤ教徒でありました。

「サウロ」「サウル」はユダヤ名(ヘブライ語)であります。

彼は手に職を持っており、テントを造る「テント職人」と呼ばれています。(使18:3

第一朗読では、そのパウロがサウロと呼ばれていた時に、復活したイエスに出会って回心した次第を述べています。

使徒言行録には実に三回もパウロの回心の物語が出てきます。

(使9:1-2222:3-1626:12-18

内容はほぼ同じですが、三回も出てくるのは、それだけ重要な出来事だったからでありましょう。

その回心の出来事は紀元36年頃と推定されています。

イエスが十字架につけられた年が紀元30年と言われているので、その6年後のことです。

6年しか経っていなかった時期にパウロは回心して、熱烈なイエス・キリストの使徒になりました。

一体なにが起こったのでしょうか。

第一朗読ではその時の様子を告げています。

サウロという名前のパウロがダマスコへ向かう途中、天から光が差して来て、その光はあまりに眩しかったのでしょう、彼は地に倒れた。

そして「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

この声は、「同行していた人たちには、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えずに立っていた」

声は聞こえたということは、呼びかけている内容は分かったのでしょうか。

それともただ声がしたということだけなのか、そこは分からないですね。

そしてサウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあって、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」

サウルはイエスを迫害するつもりはなかったと思う。

イエスに従う人たちを迫害していた。

イエスの弟子たちを迫害することは、そのままイエスを迫害することになるという意味だと思われます。

「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」

このサウロを助ける人が、アナニアという人であります。

わたくしたちは自分だけでイエスの恵みを受けることが出来ない、難しい。

サウロもこのアナニアという人の手引き助けがあって、目が見えるようになり、立ち上がることができました。

アナニアはサウロがどんな人であるのかをすでに聞いていたので、そのサウロのために何かするように言われても納得できなかったのであります。

その時の主の言葉が非常に印象深い。

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」

サウロの方は志願するどころかむしろ正反対で、その気がないどころかキリスト教徒を根絶やしにするために働いていたわけですが、その人をイエスは選んで自分の使徒とされたわけであります。

イエスは十二人を選んで、十二使徒とされましたが、その使徒の中にはのちにイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダも入っていました。

これも分かり難いことですが、今度はキリスト教徒を猛烈に迫害しているその当人を選んで、自分の手足となる者に変身させた。

「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」

実際、サウロ(のちのパウロ)はたいへんな苦しみを体験しながら、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたのであります。

コリント書(2コリ11:24-29)には、自分の被った数々の苦難が列挙されております。

それを読むと、このパウロという人は非常に身体が頑健だったようで、とても並みの人間では耐えられそうにないような、非常に危険な旅行を幾度も体験したのであります。

何度も舟が難破して漂流したり、むち打ちの刑を受けたり、石を投げられたりと散々な目に遭っているわけですが、それでも彼はひるまずに最後までイエスの道を走り抜いたわけです。

さて、アナニアはサウロの上に手を置きました。

この「手を置く」という行為は、聖霊が降ることを意味しています。

こんにちでもミサの時に司教、司祭は手を差し伸べて、聖霊が降るようにと祈ります。

叙階式の時も、司教が司祭志願者の頭の上に手を置いて祈る、そして決められた祈りの言葉を唱えると、その瞬間その人は司祭に叙階されるのであります。

サウロをパウロにしたのは神の霊、聖霊です。

「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れて下さった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」とアナニアが言います。

「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」

『目からうろこ』という言い方は、普段から日本人が使うような言葉になっておりますが、起源はここにあります。

そのあとサウロは元気になって、すぐにイエス・キリストを神の子救い主と述べ始めた。

昨日まで迫害していた者が、今度は迫害される側に向かって、イエスこそ救い主と言ったものですから人びとは驚いた。

なかなか彼の言うことを信じようとはしなかった。

無理もないことですね。

それでもめげずにサウロは自分の務めを果たしたわけであります。

彼はしばしば、自分は神から選ばれイエス・キリストによって派遣されたキリストの使徒であると主張しています。

ペトロを始めとする十二使徒は、イエスと一緒にほぼ三年間生活を共にし、イエスから直接任命され、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」という命令を受けている者です。

しかし、パウロは生前のイエスに出会ってはいない。

復活したイエスが現れたと言っても誰が信じるだろうか。

同行の人はどういう風にこの事件を受け取ったのでしょうか。

天からの声というのが、同行の人に分かるような言葉であったのか。

それらは不明であります。

パウロは自分がイエスから召し出しを受けて、イエスの福音を宣べ伝えるように命令された者であるということを、繰り返し繰り返し主張しなければならなかったのであります。

さて、2008年にベネディクト16世教皇は「聖パウロ年」を定め、パウロについて勉強するようにという指示を出されたのであります。

その折にも、わたくしたちはパウロについて勉強したわけであります。

パウロは新約聖書に沢山の手紙を残しています。

パウロ自身は自分の書いた手紙が聖書になると思って書いたわけではなく、日々の宣教活動の中で必要に迫られて書いた手紙であります。

おそらく自分で直接書いた手紙ではなくて、口述筆記によって記され、最後に本人が署名したものが回覧されて、それが何年か経って新約聖書の正典となったと思われます。

パウロの教えの中心は、「人は律法を守ることによって正しい者、救われる者になることはできない。イエス・キリストを信じることによってのみ、救いに与るのである。」という点につきるのであります。

このパウロによってイエス・キリストの宗教は、ユダヤ教からキリスト教として独立したといえるのでないでしょうか。

ーー

第一朗読  使徒言行録 22:3-16
(その日、パウロは人々に言った。)「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。
ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」

福音朗読  マルコによる福音書 16:15-18
(そのとき、イエスは11人の弟子に現れて、)言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

祈りのヒント

わたしについて来なさい

年間第3主日A年

2020年1月26日、本郷教会

 

第一朗読 イザヤの預言  イザヤ 8・23b~9・3

第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 一コリント1・10-3、17

福音朗読 マタイによる福音 マタイ4・23

 

説教

 

主イエスは、漁師であったペトロとその兄弟アンデレをお召しになり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われました。

「わたしについて来なさい。」と言われたのであります。ペトロとアンデレはすぐにイエスに従いました。ペトロはご承知のように、十二人の使徒の頭(かしら)となり、最初のローマの司教とされてわたしたちカトリック教会の頭となった方です。

 

コリントの教会への手紙の朗読を聞きました。パウロが創立した教会であります。このコリントの教会には、仲間争い、分派、対立という問題が生じていたことが、きょうの朗読で告げられています。教会は、同じイエス・キリストを信じる神の民でありますが、時としてお互いに攻撃したり、排斥したりするということが起こりましたし、現在もある程度起こっているかもしれない。

昨日は、使徒パウロの回心の日でありました。使徒パウロ、使徒ペトロはわたしたちの教会の創立に大きな役割を果たしました。歴史の発展の中で、いろいろな事情からキリストの教会はいくつかの教派、教団に分かれてしまっています。そういう現状の中で、イエス・キリストにおいて、もっとひとつになろうという運動が起こってきました。教会一致運動であります。

1517年、今から503年前になりますが、ルーテルというアウグスチノ会の修道者が、結果的に宗教改革を開始しました。500年の間、対立、分裂が続いておりますが、第二バチカン公会議、62年から65年に開催されたこの会議においてわたしたちカトリック教会は対話をするという方向に転じたのであります。人の話をよく聴こうという姿勢になりました。そして50年の間、耳を傾けてみると、意外なことがわかってきた。両方の教会の教えは基本的に同じである。強調点、或いは表現の違いはあるが、基本的には同じように主イエス・キリストを理解し、受け取っているのであるということがわかりました。

キリスト教徒の間でも意見の違いがあっても、同じイエス・キリストを信じており、そして同じ聖書を正典として学んでおります。お互いの違いに注目するよりも、同じ信仰理解をもっと大切にするほうが、イエス・キリストのみ心にかなうことであります。この考え方をさらに広げますと、ほかの宗教の人々にも同じ態度をとらなければならないということになります。これも第二バチカン公会議の教えですが、ほかの宗教の教えから学びましょうという運動が、諸宗教対話ということであります。世界中の教会で、この諸宗教対話が勧められており、日本の教会でも司教協議会、司教たちの協力する機関、において、諸宗教対話部門が設置され、定期的にほかの宗教の方と対話するようにしております。わたくしも担当しておりました。

 

わたくしの心に残っている仏教の教えをひとつ、紹介したいと思います。

わたしたち宗教者はどんな宗教であれ、平和のために働かなければならない。戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない。

どこかで聞いた言葉だと思いませんか。「ユネスコ憲章」の言葉であります。

人の心の中に平和を妨げるものがある。それはなんであるのか。

仏教では「三毒」ということをいうそうであります。

「三毒」は三つの毒、ということで、難しい漢字ですけれども、「貪(とん) 瞋(じん) 癡(ち)」 といいます。

貪(とん)というのは貪欲のどん、で、むさぼるということ。「瞋」(じん)いうのも難しい字ですけれども、こうこう。 嫉み(ねたみ)、そねみ、怨み、いかる、憤るということですね。」

癡(ち)っていうのは病ダレの中に疑いという字を入れた字なんですけれども

認知症の痴とちょっと違って、中が疑うという字なんですけれども、これは、無明(むみょう)、無知という意味だそうです。無明というのは、光がない。きょうの第一朗読では、光ということが出てきますが、

光がない、というのは無知であるということです。真実を知ろうとしない、相手の立場に立って、相手のことを知ろうとしない。自分の本当の姿を見ようとしない。これは大変耳に痛い言葉ですね。

程度の差こそあれ、人間はこの三つの毒に侵されてと、仏教で教えているそうです。「貪瞋癡」

そこで、修行とは この「貪瞋癡」から解放されることであり、人の為に尽くす修行をすること。

それはとりもなおさず慈悲の行いに励む、ということであります。

 

慈悲といえば、フランシスコ教皇は、就任してすぐだったと思いますが、「慈しみの特別聖年」を宣言されました。

「わたしたちの神は慈しみ深い方であるから、あなたがたも慈しみ深いものとなりなさい」と言われます。そして慈しみ深くあるということはどういうことであるかというと、非常に具体的にお話になりました。

 

「飢えている人に食べ物を、渇いている人に飲み物を、裸の人に着るものを、泊まるところがない人に宿を、病気の人をお見舞いし、牢に繋がれている人を訪ねる。そして最後に亡くなった人に尽くす。死者を大切にする。」ということであります。

 

で、さらに、精神的な慈悲の行いが勧められています。

「疑いを持っている人に助言する。」

「無知な人に教える。」

「間違いを犯している人を戒める。」

「悲しんでいる人を慰める。」

「いろいろな侮辱をゆるす。」

「煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶ。」だそうです。

 

きょうの福音は、漁師であったペトロ、アンデレ、そして、ヤコブとヨハネを、イエスがお呼びになると、彼らはすぐさま、全てを捨てて従われました。「わたしについて来なさい。」と言われた。イエスが「ちょっと来て、わたしの説教をきいて、よく考えて、良ければ来なさい」と言ったのではなくて、「わたしについて来なさい」 それで終わり。ものごとがそのように行くと大変よろしいのですけれども、わたしたちの場合はなかなかそうは行かなかったのでありますが、考えてみると、結局、根本的な決断、それはだれかに出会ったときにその人について行くかどうかということであり、わたしたちの場合は、誰かを通して示されたイエス・キリストに、ついて行こう、途中でわからなくなったり、疑わしくなったり、疲れたりしても、それでも最後までついて行こう。

「わたしについて来なさい。」その声をもう一度心にこだまさせる必要があると思います。

2020年1月24日 (金)

12使徒の任命

聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士記念日 ミサ説教

2020年1月24日(金)、本郷教会

 

今日の福音は、イエスが山に登って御自分の意思で十二人を選び、使徒と名付け、十二使徒を任命された次第を告げています。

十二人を任命した目的は、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」

まず御自分のそばに置くためでありました。

御自分との親しい交わりの中で、十二人に自分の使命を理解させ、養成するためであったと思います。

使徒という言葉は、派遣された者という意味であり、彼らはイエスによって派遣され、宣教しました。

宣教というのは、神の国の知らせを宣言するという意味であります。

そしてイエスは、悪霊を追い出す権能をお授けになりました。

しばしば聖書に出てくる悪霊、汚れた霊、あるいはサタンという言葉は、現代のわたくしたちには分かり難い。

わたくしたちは、主の祈りで「わたしたちを悪からお救いください」と唱えております。

悪との戦いをおこなうための力を授けたという意味であると考えられます。

のちに十二使徒を中心に造られた教会は、十二使徒に与えられた使命を継続し、発展させています。

悪と戦うということが、イエスから直接受けた、教会の使命であると思います。

 

第一朗読は昨日の続きですが、サウルという人の難しい性格を言っているのでしょうか。

彼の心はダビデとの関係の中で大きく揺れ動いている。

何度もダビデのことで後悔し、ダビデの誠意を認めると言いながら、またダビデに対する憎しみや嫉妬に負けてしまう。

そのようなサウル王の心の動きが描かれていると思います。

――

第一朗読  サムエル記 上 24:3-21
(その日、)サウルはイスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って「山羊の岩」の付近に向かった。途中、羊の囲い場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた。ダビデの兵は言った。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです。」ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」
ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。」

福音朗読  マルコによる福音書 3:13-19
(そのとき、)イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

 

2020年1月23日 (木)

ダヴィデの嫉妬

年間第二木曜日 ミサ説教

2020年1月23日(木)、本郷教会

 

第一朗読「サムエル記」、福音朗読「マルコによる福音」を読んで、心に思うところを申し上げます。

 

マルコによる福音では、イエスが目覚ましい「いやし」をされたと告げている。

「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ」とあります。

病気は汚れた霊によって引き起こされるという考えが前提にあるからでしょうか。

「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」と続きます。

このイエスの「自分のことを言いふらさないように」という言葉は、イエスが病者や障がい者をいやした時によく使われる台詞であります。

これはなにを意味しているのだろうか。

「メシアの秘密」という言葉がありますが、おそらくイエスが目覚ましい働きをすることによって、人びとがイエスの使命を誤解し、地上の王にしようとすることを避けるためであったという考えがある。

五千人の人を養うためにパンを増やす奇跡をおこなったという話がありました。

この奇跡の話は四つの福音書すべてに出ています。四つの福音素が共に同じ話を伝えているわけであります。

人びとはイエスを王にしようとしたので、人々を避けて逃れていったとヨハネの福音で述べられています。

この「王」という者はなにであるのかということについて、イスラエルの歴史の中でいろいろな記述がなされています。

すでに朝のミサで出てきましたが(1月17日)、人びとは自分たちも王が必要だから王を任命して欲しいと要求をしたわけですね。

神さまはその民の要求を喜ばなかったが、サウルという人を任命しました。

このサウルは今日の朗読にあるように、ダビデに激しい嫉妬を覚え、ダビデを殺そうとします。

ダビデはサウルの息子のヨナタンと仲が良かったので、ヨナタンはダビデを守りました。

ヨナタンが父を戒めるとサウルは過ちを認めて、「主は生きておられる。彼を殺しはしない。」と誓いますが、またしばらくすると同じことになる。

サウルの心はダビデに対する怒り、憎しみ、嫉妬から逃れることができなかったことが窺えます。

王という名誉や権力に捉えられると、人間は神の前に素直な従順であることが非常に難しくなると思われます。

 

日本の教会の歴史において、短い生涯を神さまの招きに応えて貧しく清らかに生きた女性、

北原怜子(きたはらさとこ)さんは、ローマ教皇庁から尊者と認められました。

その北原さんの取り次ぎを求める祈りを、御命日である1月23日の今日、ご一緒に唱えたいと思います。

 

尊者エリザベト・マリア北原怜子の取り次ぎを求める祈り

 

主よ、あなたは

尊者エリザベト・マリア北原怜子に

多くの恵みをお与えになりました。

とりわけ東京で戦争の犠牲になり、

顧みられなかった貧しい人々に喜びをもって自らを与え、

輝く証しのうちに信仰生活をおくる力を与えてくださいました。

またけがれなきみ母マリアのご保護のもとに

小さな人々の育成と援助に愛をもって生涯を捧げる恵みをも

お与えくださいました。

わたしたちは彼女をとおして示された

あなたの業に心から感謝いたします。

主よ、エリザベト・マリア北原怜子の取り次ぎによって、

あなたに真心をもって祈るわたしたちに、

言葉と行いの一致のうちに信仰を証ししてゆく力を与え、

あなたを求めるすべての人に信仰の光を与えてください。

また、いま信頼をもって祈る

わたしたちの願いをききいれてください。

わたしたちの主、イエス・キリストによって、アーメン。

 

 

第一朗読  サムエル記 上 18:6-919:1-7
(その日、)皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。女たちは楽を奏し、歌い交わした。「サウルは千を討ちダビデは万を討った。」サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。
サウルは、息子のヨナタンと家臣の全員に、ダビデを殺すようにと命じた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデに深い愛情を抱いていたので、ダビデにこのことを告げた。「わたしの父サウルはあなたを殺そうとねらっている。朝になったら注意して隠れ場にとどまり、見つからないようにしていなさい。あなたのいる野原にわたしは出て行って父の傍らに立ち、あなたについて父に話してみる。様子を見て、あなたに知らせよう。」
ヨナタンは父サウルにダビデをかばって話した。「王がその僕であるダビデのゆえに、罪を犯したりなさいませんように。彼は父上に対して罪を犯していないばかりか、大変お役に立っているのです。彼が自分の命をかけてあのペリシテ人を討ったから、主はイスラエルの全軍に大勝利をお与えになったのです。あなたはそれを見て、喜び祝われたではありませんか。なぜ、罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか。」サウルはヨナタンの言葉を聞き入れて誓った。「主は生きておられる。彼を殺しはしない。」ヨナタンはダビデを呼んで、これをすべて彼に告げた。ヨナタンはサウルのもとにダビデを連れて行き、ダビデはこれまでどおりサウルに仕えることになった。

福音朗読  マルコによる福音書 3:7-12
(そのとき、)イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 

2020年1月22日 (水)

安息日論争

間第二水曜日 ミサ説教

2020122()、本郷教会

 

昨日の福音と今日の福音は、共に安息日を巡る論争を伝えています。

昨日、イエスは言われました。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マコ2:27

この言葉は人びとには許し難いと受け取られたと思います。

安息日は主の十戒の中の三番目の掟で、彼らは非常に重要な掟と考えていました。

昨日も申しましたが、安息日には何をしてはならないということが、律法学者の重要な研究課題でありました。

こんにちでもユダヤ教では、安息日にしてはならないこと許されることについての詳しい分類がされていると聞いております。

この議論は、わたくしたちにはあまり意味がないですね。

わたくしたちの場合は、主の日である日曜日があり、その日曜日をどう過ごすかということが大切であります。

昨日も言ったことですが、今はさほど日曜日の意味を考えることがないように思う。

これは問題であると思います。

さて、今日の福音では、イエスは最初から安息日に彼らが許されないと思っている行為を行うつもりであったことが窺えます。

いわば挑発的とも思える行為でありました。

そこで率直に感じるのは、なぜわざわざ彼らを怒らせるようなことを安息日にしたのかということであります。

安息日ではないほかの日時に手の萎えた人を癒すこともできたわけです。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

論理が飛躍していないでしょうか。

命を大切にするということは重要でありますが、手の萎えた人をいやす行為は、命を救うというほどのことではないのではないか。

「善を行うことか、悪を行うことか。」

答は明白であります。

しかし善いことであっても安息日にしなくともよいという論理があります。

今日のわたくしたちの場合、日曜日に《いやし》をおこなってよいかどうかについては、ほとんど議論の余地がないでしょう。

日曜日に家族の具合が悪くなったら救急車を呼ぶのは当たり前で、日曜日だからは止めておこうと思う人はいないわけです。

それでは、この安息日論争というのは、なにを意味しているのでしょうか。

そこでわたくしたちが考えるべきことは、イエスはなぜ律法学者やファリサイ派、ひいてはヘロデ派の人と対立し、処刑されるようになったのかということであります。

キリスト教の成立というのは、律法についての解釈の違い、律法とはなんであるかについての理解の違いから来ているとわたくしは思います。

 

第一朗読  サムエル記 上 17:32-3337:40-51
(その日、)ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」
ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。

 

 

福音朗読  マルコによる福音書 3:1-6
(そのとき、)イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 

 

 

2020年1月21日 (火)

主の日の意味

聖アグネスおとめ殉教者ミサ説教

2020121()、本郷教会

 

「安息日を守りなさい」という掟は、イスラエルの人びとにとって非常に重要でした。

こんにちでもユダヤ教徒は厳格に安息日を守るようにしているそうです。

キリスト教徒の場合、安息日の規定は廃止され、その代わり主の日である日曜日を聖とすることが重要な義務となっています。

日曜日のミサの参加、日曜日を主に献げるという掟がこんにちどうなっているのか。

はっきり言うと、事実上ほとんど守られていないわけです。

これをどう考えたら良いのでしょうか。

もちろん、いろいろな事情がありましょう。

日曜日に仕事をしなければならない人もいる、家族の中で自分だけが信者であるので毎日曜日に教会に出かけることが難しい人もいる。

しかし、どんな理由があるにせよ、主の日を聖としなさいという掟が廃止されたわけではない。

そして、なぜ主の日を聖としなければならないのかという理由について、わたくしたちはさらに黙想する必要があるのではないだろうか。

 

今の社会は、労働して収入を得るということが基本になっている社会です。

労働しない、自分のために働かない、何の利益にもならない時間を神さまに献げるということがほとんど行われていない。

今のユダヤ教徒がキリスト教徒にとって廃止された安息日を、こちらから見れば極端にまで守っているということを否定的に見るよりも、肯定的に見る必要があるのではないだろうか。

聞くところによりますと、何をしたら良いのか何をしたらいけないのかということが厳格に厳しく定められているそうです。

そこまでしなくても良いと思うが、しかし、日曜日をどう過ごすのかということについて、わたくしたちはもっと真剣に反省する必要がある。

自分のためではなく、神のために献げる時間であります。

神のために献げるということが、結局自分のために献げることになるのではないだろうかと思う。

 

 

第一朗読  サムエル記 上 16:1-13
(その日、)主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」
サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

福音朗読  マルコによる福音書 2:23-28
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

 

 

2020年1月20日 (月)

新しい革袋

年間第二月曜日 ミサ説教
2020年1月20日(月)、本郷教会

 

今日のサムエル記の結びにおいて、サムエルはサウルに言いました。
「主の御言葉を退けたあなたは 王位から退けられる。」
もともと、王の存在は神の喜びとするものではなかったとサムエル記は伝えています。
イスラエルの民は、周辺の国々に倣って王が欲しいとサムエルを通して神に要求したので、神はやむを得ずその要求を聞き入れ、サウルを王としました。
しかしサウルは神の御心にかなう王として、王の任務を果たすことができなかったのであります。
焼き尽くす献げ物やいけにえよりも、主の声に聞き従うことが大切であると言っています。

 

今日のマルコによる福音では、イエスの弟子たちは断食をしていなかったらしく、その点で非難を受けたようであります。
イエスは御自身を婚礼の花婿のような存在である、と例えています。
イスラエルの人びとに、神の福音の喜びを告げ知らせる使命を持っていました。
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
新しいぶどう酒は発酵して、古い革袋を破る恐れがある、という説明もあります。
ここでいう「新しいぶどう酒」とは、イエス御自身、あるいはイエスの福音を指していると思います。イエスによって新しい時代が到来したのです。
律法はいわば子供を養い育てる養育係のような役割を担っていたが、新たにイエスの福音が述べられて、イエスを信じることによる救いが人びとに告げられました。

 

パウロが力説していることは、人は律法を守ることによってではなく、イエスを信じる信仰によって救われるのであるということであります。
イエスの救いは、聖霊を受けることによって実現します。
聖霊のもたらす実り、それは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であるとガラテヤ書で述べられております。(ガラ5:22)
新しいぶどう酒とは、もしかしてイエスの復活と聖霊降臨を通して人びとに注がれる聖霊の恵みをさしているのかもしれません。

 

第一朗読  サムエル記 上 15:16-23
(その日、)サムエルはサウルに言った。「やめなさい。あなたに言わねばならないことがある。昨夜、主がわたしに語られたことだ。」サウルは言った。「お話しください。」
サムエルは言った。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」サウルはサムエルに答えた。「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです。」サムエルは言った。
「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる。」
福音朗読  マルコによる福音書 2:18-22
(そのとき、)ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 

 

神の小羊

年間第2主日A年

2020119日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言  イザヤ 49・3、5-6

第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 一コリント113

福音朗読 ヨハネによる福音 ヨハネ1・2934

 

説教

今日、年間第2主日の福音は、ヨハネによる福音、1章からとられております。

洗礼者ヨハネがいわれた言葉「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」という言葉を今日、少し深く味わうようにしたいと思います。

わたしたちは、イスラエルの民の中から生まれたキリスト教という宗教を、この日本において告げ知らせ宣教しているのであります。イスラエルという民族の歴史、文化、言語と非常に遠い環境にあるわたしたちが、このイスラエルの民の中から生まれたイエス・キリストを信じる宗教をどういうように理解し、どのように説明したらよいだろうか。これがわたしたちの課題であると思います。

今日の福音の言葉のおそらく中心となる表現は 「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉ですね。

あぁ、なるほどなるほど、と心から共感できればよろしいのですけれども、「神の小羊」という言葉はもう何度も何度も耳にしていて、もしかして素通りしているかもしれないんですけれども、なんで「神の小羊」が世の罪を取り除くことになるのかと言われたら、どう説明できるでしょうかね。

わたくしも、もう何十年もの信者ですが、あまり人に説明するということを考えたことがない。しかし、司祭になり、説教もするときに、もうわかっていることだからあまり言わなくともいい、という感じで過ごしてきてしまいましたが、ま、今回、ふとこの言葉を一般の人に、自分の家族に、友達に、もし説明する機会があったら、どういうように話すだろうか。皆さん、どうしますかね。

イスラエルの人々は、牛や羊を飼う人々だったですね。わたしたちの周りには、あまり、というかほとんど牛や羊っていうものはないわけです。それからこの「罪」という言葉ですが、まぁ、もちろん意味は知っていますけども、一般の人は「あなたは罪人(つみびと)です」といわれると、わたしは何も悪いことはしていないよ、と。ま、交通違反をしたりですね、或いは、人のことを憎らしいと思ったりすることはあるけれども、それがどうしたんだ、というような反応が、ま、言葉には出さないかもしれないけれども、起こるのではないだろうか。どう言ったらよいのかなーと思うんです。でもそれで終わりだったら仕事にならないわけなので、一生懸命考え祈っています。これはわたくしがやらなければならないことなんですけれども、皆さんもしなければならない宿題なんですね。それでこの問題を延々と話すわけにいかないんですけれども、今、献げているミサですね、ミサの中で、毎回、ほとんど毎回、「神の小羊」という言葉を使っているわけで、平和の賛歌で「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、我らをあわれみたまえ」 と唱えています。栄光の讃歌でも「世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」と唱えています。

そこでヒントになるようなことをご一緒に、ちょっとの時間しかありませんけれども、考えてみたいと思う。

この聖書と典礼はいつも脚注、この下の欄に小さな活字で大切な言葉についての説明がついております。

神の小羊というのは過越祭のときに捧げられる犠牲なんですね。

イスラエルの民はエジプトから脱出したことを記念する過越の祭りというのをしてきました。

そして、そのイスラエルの民の罪を赦してもらうために捧げる生贄(いけにえ)でありました。

イスラエルの人々は、モーセを通して律法を授かったわけです。この律法を守ることができなかった。そういう場合どうするかというと、神様には「わたしたちは、守りおこないます。」と約束したわけですから、約束を守れなかった場合には、お詫びして赦してもらうことになるわけで、お詫びする、そのお詫びの仕方が、彼らのやり方としては、動物の生贄を捧げる。動物、自分たちの財産である動物、家畜、羊、牛、あるいは山羊とかを、屠る(ほふる)、殺して神様にささげる、特に、「焼き尽くすという生贄」という生贄があって、焼き尽くすんですから、全部焼いて、あとかたなく、灰しか残らないようにする献げ方なんだろうと思う。そうやって、「神様、ごめんなさい、おゆるしください」とお詫びするわけですが、罪の度に、何度も何度も繰り返しお詫びしなければならない。

そのうちに、預言者を通して神様言われた。「わたしはもうあなた方の血なまぐさい生贄には飽きた、もうそんなものはもういらないよ、」と。「わたしが願っているのは動物の生贄ではない。あなた方が心から悔い改めることだ、あなた方の心が欲しいんだ、心だよ」そういうお告げがあったのです。

わたしはあなた方から動物の生贄を望んではいない、そういわれました。

そういうイスラエルの歴史の中で、ナザレのイエスというひとが現れたのであります。

皆さま、ご存じと思いますが、このミサの中でわたしたちは繰り返し罪の赦しのための犠牲を、パンと葡萄酒という形で捧げています。

昔のように動物を殺して、動物の血を流して、神様に捧げる必要はない。それはイエス・キリストがただ一回だけ、十字架にかかってすべての罪を贖う(あがなう)、罪のお詫びとなる犠牲となってくださったので、もう神様に動物の生贄を捧げる必要はなくなった。

わたしたちはその新しい時代、イエス・キリストによってもたらされた新約の恵みを受け取る時代に生きているのであります。

使徒パウロの言葉をもう一度思い起こしましょう。

「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために、御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ書8・3)

この言葉を、まぁ、わかりやすいとは言えないですね。

神は御ひとりごイエス・キリストを送ってくださった。わたしたちと同じ人間となってくださった。わたしたちと同じ人間の弱さを身にまとってくださった。そしてその体をもって神様へのお詫びの生贄となってくださり、そして罪を罪の結果として受けるべき罰を、イエス・キリストが十字架によって受けてくださったのである。そういうように説明していると思います。

こういう説明が我々、この日本列島に住んでいる者にとってわかりやすいのかどうか、ずっと昔から考えているけれども、わかりやすいとは言えないような気がするが、しかし神様に動物の生贄を捧げることは必要ない、必要ないどころかあまり意味がないということはわかります。

何が大切かというと、神様がお望みになっていることを行うことであって、形式的に儀式に与り動物を殺してそれで済んだということは、そういう生き方は意味がないんだ、ということをイエス・キリストは自分の命をかけて示してくださったのであります。ですから、我々は血なまぐさい生贄は捧げません。そのかわり イエス・キリストが生涯をかけて示してくださった生き方を記念するミサ聖祭を捧げているのであります。

 

2020年1月19日 (日)

タリタ・クム

病者のためのミサ説教

                                                                                                                              2020年1月18日(土)、本郷教会

病者のためのミサを献げながら、福音書からイエスが病気の人や障がいのある人にどのようになさったのかということを学んでいきたいと思います。
非常に目立つことは、イエスが多くの病人をいやしたり、悪霊に憑かれた人から悪霊を追放したという記述であります。
今読んだルカによる福音では、二つのいやしの話が告げられている。
一つはヤイロという会堂長の娘のよみがえり、もう一つは出血症の女性のいやしの話です。
この二つの話が同時進行のように述べられています。
ヤイロの娘の話の中に、出血症の女性の話が挿入されているという形になります。
出血症の女性の方の話をまず見ますと、どんなに辛いどんなに苦しい体験を重ねてきたことでしょうか。
十二年間にもわたって出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしが、一向に効き目がなく、治らなかった。
出血している女性には触れてはいけないという考えがイスラエルの人びとの中にあったので、この女性がイエスに触れるということはその禁を犯すということになるわけです。
こっそり分からないようにすれば何とかなると思ったのでしょうか。
みんなの見ている前でイエスの体に触れる、イエスに触れていただくというわけにはいかない、そういう状況だったと思います。
群衆に紛れてイエスの服の房に触れると、たちどころに出血が止まったと述べられている。
「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し」(ルカ8:47)とありますが、触れてはいけないという禁を犯し、たちどころにいやされたという状況で、イエスがどういう態度をとるのか注目されるところですけれども、イエスは言われました。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ8:48)
「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、かなり頻繁にイエスの口から発せられた言葉であります。
「信仰」と「いやし」との間には何か関係があるのでしょうか。
この出血症のいやしの話はほかの福音書にも出ていますが、この娘はイエスの体にさえ触れればいやされるであろうという強い信仰を持っていたのであります。
「安心して行きなさい。」とイエスは言われましたので、この女性はどんなにか喜んだでしょうか。
 
そして、この女性のいやしが間に挟まっている形でヤイロという会堂長の娘、十二歳の少女の話が進行していきます。
これから人生が花開いていく時に死ななければならない、本人もさることながら、家族の嘆きはどんなに深かったかと思います。
会堂長はイエスに娘のいやしを願ったが、家に着く前に娘は息を引き取ったので、遣いを送ってもう来ていただくには及びませんと伝えました。
ここで言われたイエスの言葉は、
「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(ルカ8:50)
この「恐れることはない。」という言葉も、イエスがたびたび口にしている言葉ですね。
わたくしたちはどういう場合に恐れを持つのでしょうか。
いろいろな場合がある
もちろん第一次的には健康に関することでしょうが、それ以外にも生身の人間はいろいろなことを恐れている。
何かを失うこと、財産を失うこと、名誉を失うこと、失敗することなどさまざまなことを恐れている。
信仰というのは、人間としての恐れを持つとしても、でも恐れない、ということではないだろうか。
恐れるなと言われても、生身の人間は恐れるわけです。
ヨハネの手紙にこういう言葉があります。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(一ヨハ4:18)
愛があれば恐れることはない、恐れがあるのは愛がないからだと言われてしまうと、愛のテストみたいですけれども。
人間はいろいろなことに恐れます。
恐れても恐れに負けない、恐れを越える力、それが信仰だと思います。
「恐れることはない、ただ信じなさい。」
信じるという場合に、いやしを受ける人の信仰がまず考えられます。
出血症の女性は、その思いつめたとさえ言える信仰、イエスへの深い信仰、信頼の心にたいしてイエスは応えられたと思われる。
ヤイロの娘の場合は、娘自身の信仰については何も言っていない。
父母を始めとする娘のことを心配している人びとの信仰に対して、「ただ信じなさい。」と言われたのであります。
さて、イエスは会堂長の家に着いて娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけると娘はすぐに起きあがったとあります
「その霊が戻って」という言葉が入っているので、死ぬというのは霊が去ることであり、
生き返るというのは、その霊が戻るというふうに考えたのでしょうか。
イエスが娘の手を取り、言葉をかけると、彼の言葉は力があって、その言葉の内に込められている真実が現実になったのであります。

 

共観福音書の並行箇所を見ると、マルコの福音では、
「そして子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。』という意味である。」(マコ5:41)
イエスの言われた「タリタ、クム」はアラム語でありまして、ギリシア語で編纂された新約聖書には、イエスが語った言葉の音声として、いくつかのアラム語が直接使われている例があります。
それは非常に印象が強かったために、音声がそのまま耳に残ってほかの人にも伝えられていった「言葉は力」という考えです。
現代のわれわれの力は薄く、いい加減なものという感じがありますが、本来人間は言葉というものが持つ力を信じていた。
良い言葉を使い、悪い言葉は使わないように努めていた。
良いことを言えば良いことが起こり、悪いことを言えば悪いことが起こると素朴に信じていたのであります。
イエスの「タリタ、クム」(娘よ、起きなさい)
この「タリタ、クム」という言葉が発せられると、娘の霊が戻ってきてすぐに起きあがったのでありました。

イエスとはどんなかたであったのかということを、日々より深く知るように努めることが、わたくしたちの務めであります。
すべての人が心と体の健康を願っています。
なかなか実現は難しいわけですが、今日の第一朗読にもあるように、人の痛みや苦しみを担うことによって、わたくしたちは互いに支え合い、助け合うことができるのであります。
今日のミサ、そして今日授けられる病者の油が、わたくしたちの力、わたくしたちの希望となりますように祈ります。
――

 

第一朗読 イザヤの預言 53・1-5
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 

福音朗読  ルカによる福音書 8・40-56
イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。
イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」エスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

 

 

 

2020年1月17日 (金)

イスラエルの王制の始まり

年間第一金曜日 聖アントニオ修道院長記念日 ミサ説教

2020年1月17日(金)、本郷教会

 

今日のサムエル記は、王制の起源について述べています。

イスラエルには、もともと王という存在はありませんでした。

周囲の部族はそれぞれ王と呼ばれる人を戴いていた。

しかしイスラエルの民の王は主であると考えられていたので、王の存在を必要としてきませんでした。

しかし今日のサムエル記が告げているように、人びとはどうしても王が必要だとサムエルに訴えたのであります。

サムエルは、王の存在はよくないと考えておりました。

しかし民の強い要求に屈し、それを主に申し上げると、主は民の要求を聞き入れることに同意されたのであります。

「サムエルは民の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れた。主はサムエルに言われた。

『彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。』」

 

王の権能がどういうことであるかということが、今日の朗読で具体的に告げられています。

これを聞くと、王制というものに対してイスラエルの歴史は否定的であったと思われる。

サムエルはまずサウルという人に油を注いで王とした。

以後の歴史は御承知の通り、サウルが退けられてダビデが王となり、ダビデのあとはソロモン、ソロモンのあとはイスラエルとユダの二つの国に分裂し、それぞれの国は滅亡の道を辿ることとなります。

歴代の王のほとんど全員が、「主の目には悪とされることを行った」という評価を得ている人たちでありました。

 

「王であるキリスト」(典礼歴最後の主日)という日があります。

イエス・キリストは神がおのぞみになる王、神の御心をおこなう王として来られたのであります。

 

さて、今日の福音はイエスが中風(ちゅうぶ)の人をいやされたという話です。

病気のいやしと罪の赦しということの関係がどうなっているのか。あるのかないのか。

いやすということと、罪を赦すということは、どういうことになるのか,

ということを考えために非常に重要な箇所であると思います。

―――

第一朗読  サムエル記 上 8:4-7、10-22a
(その日、)イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」
サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた。彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。
また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。
また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。
また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。
あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」
民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」サムエルは民の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れた。主はサムエルに言われた。「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」

福音朗読  マルコによる福音書 2:1-12
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

 

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