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2020年5月22日 (金)

誰にも奪われない喜び

5月22日 復活節第6金曜日

「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。」

イエスは御自分の死を目前として弟子たちに遺言を残す。イエスは無残な死と遂げなければならなかった。弟子たちはどんなにか驚き悲しみ躓いたことだろう。しかし、十実刑の三日にイエスは復活して弟子たちの前に現れる。このイエスの復活という出来事の上にキリスト教の成立がある。結局キリスト教徒とはナザレのイエスの復活への信仰である。復活してイエスが生きていて世の終わりまでわたしたちと共にいてくださるという信仰の上にキリスト教の教会は成立し存続し宣教をしている。この喜び、それは地上のいかなる幸せが与える喜びではない。復活してキリストから来る喜びである。復活の証人となることこそすべての信者の使命である。

 第一朗読  使徒言行録 18:9-18
(パウロがコリントに滞在していた)ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。
ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」そして、彼らを法廷から追い出した。すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。
パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。

福音朗読  ヨハネによる福音書 16:20-23a
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。」

 

 

2020年5月21日 (木)

あなたがたはもうわたしを見なくなる

521日 復活節第6木曜日

 

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

このイエスの言葉は何を意味していたのか。弟子たちにはわからなかった。

受難、磔刑、昇天、聖霊降臨の出来事全体を指しているのだろうか。「あなたがたはもうわたしを見なくなる」とは受難のことではないだろう。それは目に見える出来事だった。昇天のことを指しているように思われる。「またしばらくすると、わたしを見るようになる。」とは何を意味しているのか。再臨のことではないだろう。「しばらくすると」とは何をいっているのだろうか。聖霊降臨のことだろうか。聖霊を受けることを「わたしを見るようになる」と言っているのだろうか。それてもイエスの復活の出現を言っているのだろうか。しかし復活は昇天の前の出来事である。

この辺を説明している注釈書があればいいのだが。・・・

イエスの言葉は生前理解されなかった。今のわたしたちにとっても依然謎のようである部分が残っている。

わたしたち人間の日常のcommunicationも不完全である。互いに理解できない部分がる。思い込んでしまうことがある。人は自分の認識の枠組みから出ることが困難である。理解できなくとも深く広く受け入れることができるようでありたい。

第一朗読 使徒言行録 18:1-8
(その日、)パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。
シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。

福音朗読  ヨハネによる福音書 16:16-20
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

 

 

 

 

 

 

2020年5月20日 (水)

からだの復活

5月20日復活節第6水曜日

 

「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」

主の復活から昇天までの日々を過ごしている。真理の霊はわたしたちに何を教えるのか。「教会の祈り」の読書課の本日に該当する箇所は聖レオ一世教皇の説教である。レオ教皇は言う。

「これらの日々にこそ、恐ろしい死の恐怖が取り除かれ、霊魂の不死性だけではなく肉体の不死性も公にされたのです。」

この弱く脆い肉体、種々の病気と障がいを免れない肉体も、キリストの復活の栄光に与り、不死のからだをいただくことが出来るのです。

使徒パウロの第一朗読で言っています。

「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」

「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

「からだの復活」の神秘を味わいましょう。

 

第一朗読  使徒言行録 17:15、22-18:1
(その日、)パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。
パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、
『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。
わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 16:12-15
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 

 

2020年5月19日 (火)

世の誤り

519日 復活節第6火曜日

 

「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」

 

弁護者である聖霊が世の誤りを明らかにする。「世の誤り」とは何を意味するのか。子のわたしの誤りはなんであるのか。人として誤りのない人はいない。

先日述べたように貪・瞋・癡という仏教の教えがある。人は癡という拭い難い限界を持っている。人のことがわからない。誤解する。自分のことが分かってもらえないならば、自分も人のことがわからない。せめて「分からない」という限界を認める者でありたい。人はさまざまにその認識を条件付けられている、頭からそうだと思い込んでしまうことある。

聖霊来てください。わたしの心を照らしてください。心の闇を照らしてください。真実を悟らせてください。…。アーメン。

 

 

第一朗読  使徒言行録 16:22-34
(その日、フィリピの町の群衆も一緒になってパウロとシラス)を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 16:5-11
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」

 

 

2020年5月18日 (月)

神の名による殺人

518日復活節第6月曜日

「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」

 恐ろしい言葉です。キリストの弟子たちを殺すことが神の仕えることだと考える人たちがいる、というのです。実際イエスを十字架に追いつめた人たちは、そうすることが正しく相応しいと考えた律法の専門家と祭司たちでした。彼らはイエスが冒涜の罪を犯したと考えたのです。

キリスト教は反体制の宗教でした。しかし4世紀末に国教になった時に、迫害される側からは迫害する側に転じるという恐ろしい危険に陥りました。

聖ヨハネ・パウロ二世が紀元2000年を迎えるに際して『紀元二千年の到来』を発表し、「教会の子らが信教の自由の基本的人権を妨げた」という事実を認めた遺憾の意を表したのでした。

 第一朗読 使徒言行録16:11-15
わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。

 福音朗読  ヨハネによる福音書 15:26-16:4a
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

 

 

2020年5月17日 (日)

洗礼から堅信へ

2020年5月17日、復活後第6主日C年

                                カトリック本郷教会信徒館会議室

第一朗読:使徒言行録8・5-8、14-17
第二朗読:一ペトロ3・15-18
福音朗読:ヨハネ14・15-21

 4月11日、復活徹夜祭で洗礼、5月31日聖霊降臨の主日にカテドらルで堅信、という予定が、コロナウイルス蔓延のため、その予定が大きく変更になりました。

5月31日に洗礼式を挙行できるか、今日相談します。

 

復活徹夜祭は洗礼を受けるのに、最もふさわしい時です。その時に、使徒パウロの手紙、ローマ書が読まれます。その手紙の中で、洗礼の意味が説明されています。洗礼を受けるということは、水の中に沈められ、そして水から引き上げられるということを意味しています。実際、昔は、浸水礼と言いますが、本当に全身を水に浸して、それから引き上げられるという式であったそうです。この式の意味しているところは、一旦わたしたちは水の中に沈められて古い人が死ぬ。そして、新しい人となって生まれ変わる、ということを表しています。神様のお恵みに、神の命に与り、そして古い人にさよならして今日から新しい人になります。そういうことを意味しています。新しくなって、清々しい気持ちになって、恵みに溢れて、毎日お過ごしになってきたと思います。

 しかし実際のところなかなかそうもいかないということがあります。

わたしも洗礼を受けた。あんまり変わったような気はしませんでした。罪ということが無くなったわけではないです。洗礼を受けたからといって、罪は犯しませんというわけではない。ですから、赦しの秘跡という秘跡があって、たびたび告解をしなさいと勧められています。さらにわたしたちは毎日祈ります。「わたしたちの罪をおゆるしください」と。
 ヨハネの手紙の中にありますが、わたしは罪を知らない、犯さない、ということは偽り者であると明示しています。洗礼を受けても、わたしたちは神の前に清廉潔白な身で立つことができない。そういう自分を見出す。同じヨハネの手紙の中に、肉の欲、目の欲、生活のおごりという言葉があります。わたしたちは様々な欲望に振り回されることがあります。少なくとも欲望というものは、消えるものではない。いかにこの欲望を制御し、罪と闘い、悪に打ち勝つように祈るという日々がわたしたちキリスト者の生活であります。
 今日は紹介したい話があります。『平和のための宗教者の使命』という冊子、良いものでありますので、今日、その内容の一部を紹介します。これはキリスト教の話というよりも他の宗教の話が多く出ています。わたしの心に強く残っている仏教の教えを簡単に紹介します。
人間には三つの毒が入っている、と言います。三毒、それは貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)という難しい漢字です。
 この貪(とん)というのは貪欲の貪。欲深い。貪(むさぼ)る。欲深いと自分では思わないのだけれども、気が付くと、あれもこれも整理がつかない。人に言われて初めて、そうだなと。これは人が自分の思い通りにしないと気持ちが良くない。
 瞋(じん)というのは、いきどおりという難しい字です。目をへんに、昔の真実の真の旧字体がつくりの字。これは妬み、嫉み、怨み。われわれは小さなことかもしれないけれども、毎日、怒りというほどではないにせよ不快になっている。今の社会、文句を言う人が非常に多い。病院でも、学校でもそうです。そのようなお仕事のかたは大変だろうと思います。
 それから癡(ち)という言葉ですけれども、これは病だれの中が疑問の疑という字です。ものごとがわからないという意味だそうです。わかっているつもりですけど、わかっていない、ということ。まず人のことがわからない。人の立場がわからない。人がどんな思いをしているか、わからない。歳をとると、自分が、他の人のことが分からない人間であると気が付く。だんだんそういう気持ちになる。この歳に至ると色々なことが思い出され、家族のこと、親のこと。もう遅いのですけれども。十代くらいの時は、親に対してどういう気持ちを持っていたか、どんな態度をとったか、こういうことはわかっていなかったです。自分の気持ち、自分のことでいっぱいで、親が子どものためにどんな苦労をしていたかということを知ろうとはしなかった。ずっと何十年も経ってから、あの時こうだったのかなと思うのですけれども。これはわたしのことで、皆さんのことじゃないですよ。人間は生涯こういう問題を抱えていく。

 さて、洗礼を受けてからこれからいつか堅信を受けられる皆さん、今日の福音にそれが出てきますが、聖霊、ギリシャ語でパラクレートスといいますが、側にいて助けてくれる聖霊が降りてきて、日々わたしたちを教え、導いてくださいます。聖霊によってわたしたちは、日々の生活の中で、自分の問題、何だかわからない自分、自分の欲望をきちんとコントロールできていない自分を見つめ、そして助けていただくように祈り、堅信の時に授けられる聖霊の七つの賜物、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心」は、わたしたちが聖霊の導きに従って生きるために必要な賜物であります。皆さんはまず自分自身の毎日の生活を整え、心清く祈り、そして犠牲をささげるようにしください。
 それだけではないのです。堅信の儀では、自分の信仰を力強くはっきりと人々に宣言し、そして自分の信じていることを実行するという恵みを授けられるわけであります。洗礼を受け、堅信を受けるものは全員イエス・キリストの使命に与るものとなります。それはイエス・キリストの福音をのべ伝える、証しするという使命です。全員がそうです。神の民全員がそれぞれ自分の場所で、自分の生活の中で、イエス・キリストをのべ伝え、証しする。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい、というキリストの教えを実行するように呼びかけられています。そして、そうできるようにと聖霊が降り、わたしたちと共にいてくださいます。毎日の祈りの時に、聖霊に助けをさらに求めるようにいたしましょう。
 全員が福音・宣教することができるように、毎日祈り、聖書を学び、そしてお互いに助け合うようにしていただきたいと思います。

 

2020年5月15日 (金)

キリストの弟子は世に憎まれる

516日 復活節第5土曜日

 

「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。」

キリストの弟子は世に属していない。キリストの弟子たちはその主人のように世から憎まれる。

事実、初代教会、弟子たちは迫害された。日本での多くの殉教者を輩出した。

ヨハネの手紙1は言う。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(215-16)

「肉の欲、目の欲、生活のおごり」とは何だろうか。単に性的な欲望を指すのではない。神の霊に反する諸々の在り方、乱れた欲望の動きを指しているのだろう。ガラテヤ書は「肉の業」と呼んでいる。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」519-23)

313という年が重要である。この年、キリスト教はローマ帝国で公認された。後任から国教化への道はそれほどの年月を要しない。キリスト教は支配者の宗教とされて「世と世にあるもの」に密着する団体となる危険を帯びるようになった。その問題は現在も存続している。「世に会って世に属さないキリスト者」という課題を我々は生涯背負うことになっている。

 

 

第一朗読  使徒言行録 16:1-10

(そのころ、)パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。

さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:18-21

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。

2020年5月14日 (木)

使徒会議の決議文

515日 復活節第5金曜日

教会の歴史上最初の使徒会議、のちの公会議の決議文が、エルサレムからアンティオキアの教会へと、パウロとバルナバを介して伝えられた。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

「聖霊とわたしたちは」という表現に注目したい。使徒たちは、この決定は聖霊と一致して行われたと確信していた。ここに、ユダヤ教からキリスト教の分離・独立の姿を見ることが出来る。ここに、キリスト教信者はユダヤ教の複雑・煩瑣な掟から解放され、真に脱民族の普遍宗教への道を歩み始めた。この際、異邦人の使徒パウロの果たした役割は大きい。

今日の福音朗読。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」

昨日とほぼ同じ内容である。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

新しい掟は明瞭である。簡単で容易になったのか。いやそうではない。命を懸けて友を愛することはかえって旧約の数多い掟よりもより困難になった。ひたすら聖霊の導きを願うしかいない。それでも聖霊に従っていない自分を自覚し赦しを乞うしかないのが多くの人の現実である。しかし、他方多くの殉教者はこのイエスの言葉を守って命をささげたのである。この証の上にわたしたちの教会が成立し発展してきた。

 第一朗読  使徒言行録 15:22-31
(その日、)使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:12-17
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

 

2020年5月13日 (水)

実を結ぶ

514日 聖マティア使徒

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

 「わたしがあなたがたを選んだ。」

何度も聞いたイエスの言葉。わたしにそれだけに価値があったからだろうか。

人間的に言ってとてもそうは思えない。わたしより優れた人――人柄も、能力も、健康も、環境的にも、・・・たくさんいるのに。

このわたしに何が出来るのだろうか。「出かけて行って無を結び、その実が残るように。」どんな実りがありますか。

その人固有の役割、使命がある。余人をもって代えがたし、という仕事、位置、存在がある。それが見えないとしたら寂しい。

 使徒マティアは使徒ユダの後継者として選ばれた。ユダは何故自殺したのか。自分固有の役割が見えなくなったのだろうか。

 画一的な仕事と役割を振り向けられ、個性の働く余地が極小の今の社会。何事もマニュアルのよって動かされている今の社員・職員、構成員たち。自分らしさをどこで発揮できるだろうか。

「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

イエスの名によって願うということが大切である。何を願いましょうか。

 日々願う祈りの中に自分の召命を全うできますようにと祈ることが肝要である。

 

第一朗読  使徒言行録 1:15-1720-26

(その日、)ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。詩編にはこう書いてあります。

 『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』

また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:9-17

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

2020年5月12日 (火)

わたしにつながっていなさい

復活節第5水曜日 513

 

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」

イエスは繰り返し「わたしにつながっていなさい」と言っている。イエスにつながっているとはどういうことだろうか。

第一朗読で初代教会の論争を伝えている。割礼論争である。割礼を受けることが救われるために不可欠と考える人たちがいた。「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」という主張である。エルサレムでの使徒会議の結果、もはや割礼は不要という結論になった。この場合、割礼がイエスにつながるためには不要ということである。

さて、筆者は最近約一か月入院を余儀なくされた。生まれて初めての体験。様々に考えさせられた。この環境で「イエスにつながっている」とはどういうことを意味するのだろうか。ミサも挙げられない。ひとりで「教会の祈り」を唱える。だんだん必死になってくる。一人ぽっちである。自分の弱さ、脆さを実感する。

このような環境にいる人はわたしだけではないだろう。日本の状況で孤立している信徒・信者は少なくはない。イエスというぶどうの木につながっている人は社会の隠れたところにいることだろう。

さて、日本の社会状況で「どうすればイエスにつながっている」といえるのだろうか。主日のミサに参加すればそれでよいのか。主日のミサ参加を厳守している信徒・信者はどのくらいいるだろうか。事実上それは困難である。

最もコロナウイルス感染の危険から主日のミサ参加が免除されているという教会始まって以来の異例の状態に今置かれている。一か月のミサを挙げられなかったという体験も司祭叙階以来初めてのことである。

 

自分はイエス・キリストにつながっていると言えるのはどのような場合か。今一度じっくり考え祈り求めましょう。

 

第一朗読  使徒言行録 15:1-6
(その日、)ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:1-8
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

 

2020年5月 9日 (土)

キリストの平和

復活後第5火曜日、5月12日

 

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」

 

「キリストの平和」は「ローマの平和」と比べられる。ローマ帝国は圧倒的な軍事力で広大な

領土に秩序をもたらした。キリストの平和は軍事力に依存しない。それは聖霊による神の恵み、愛の支配による平和である。第二ヴァチカン公会議は『現代世界憲章』を発布、平和について教えている。

「平和は力の支配の結果ではない。」

「平和は勢力の均衡の結果ではない。」

「平和はよりよい社会を築こうとする日々の努力の蓄積の中に存在している。」

社会の平和。心の平和。良心の平和。心に責められる所のないない状態。罪の赦し、神との和解の状態にあること。

平和は何より復活したキリストが与える聖霊の賜物である。

司祭はミサの「交わりの儀」の聖体拝領前の祈りで次のように唱える。

「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。わたしは平和を、あなたがたに残し、わたしの平和をあなたが谷与える。わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み、おことばとおり、教会に平和と一致をお与えください。」

 

第一朗読  使徒言行録 14:19-28

(その日、)ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。

二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 14:27-31a

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。」

2020年5月 8日 (金)

三 P

復活後第5月曜日、511

 

弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

 

主の復活、昇天、聖霊降臨の後の時代は、教会の時代である。教会の時代は聖霊の時代である。

教会は聖霊に聞く神の民。聖霊が何を言うべきかをわれわれに教えてくださる。聖霊に聞くためには心を空しくしなければならない。心に捉われがあっては聖霊がブロックされてしまう。

妨げになる思いとは何か?ある説によると

POWER(権力), PRESTIGE(権威)、POSSESSION(所有)

の三P であるという。よく黙想してみたい。

人を思うように動かしたい、という思いが権力欲。多少ともこの思いから人は免れない。無視されると悔しい思いをする

人から重んじられたいという権威・名誉への欲望からも人は自由ではない。言い換えれば馬鹿にされたくないという思い。

好きなものを自由に支配し使用したいという所有欲。これも侮れない欲望。手に入らないと悔しい、寂しい、面白くない、などのマイナスの思いに捉われる。

謙遜、従順、素直、平和、寛容、親切、忍耐、節制などの徳に恵まれたいものです。

 

 福音朗読  ヨハネによる福音書 14:21-26
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

 

 

 

2020年5月 6日 (水)

5/8,9,10日の福音

復活後第4金曜日、5月8日

復活後第4土曜日、5月9

復活後第5主日、5月10日

第一朗読 使徒言行6・1-7
第二朗読 一ペトロ2・4-9
福音朗読 ヨハネ14・1-12
5月8日、復活後第4金曜日、ヨハネ14・1-6

5月9日、復活後第4土曜日、ヨハネ14・7-14

三日間ほぼ共通)
 

説教

ヨハネの福音の14章が、今日の福音の箇所であります。イエスは地上を去る時が来たことを知り、弟子たちに遺言のように数々の教えを残されました。ヨハネによる福音は、そのようなイエスの言葉と生涯を編集した福音書であると思われます。

 さて、イエスは、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」と言われました。弟子たちが不安や危険を感じている時に、彼らを励まして、わたしたちは父の家に行くのですよ、父の家には住む所がある、あなたがたのためにすでに、住む所が用意されている、心を騒がせてはならない、と言われたのであります。「わたしは道であり、真理であり、命である。」その父のもとの住む所にどうやって行ったらいいだろうか。正しい道を歩まなければたどり着くことができない。どこに行くにも道を調べて、その道に従って行かないとたどり着くことができないわけですが、まして、地上の旅をしながら天の父のもとに行く旅、それは容易なことではない。わたしたちはなかなか神様の教えをよく理解することができなかった。そして、さらに、おっしゃっていることがある程度わかるけれども、なかなか実行できない。脇道に逸れてしまう。そのようなわたしたち、いわば罪人であり、そして破れたところがあると申しましょうか、そういう人間を赦し、励まし、そして助けながら天の父のもとへ連れてってくださる方がイエス・キリストであります。天の父のもとへ行く道。その道を示す人がイエス。そのイエスは人を欺いたり、あるいは失敗させたりする方ではなく、信頼するに値する方。イエスと共に歩めば、天の父のもとに行くことができますよ、信頼するに値する、そういう意味で真理であると言えます。そして、すでに天の父の命を生きている人なのだと。

 わたしを見る人は、天の父を見ることと同じである。父はわたしの内にすでにおられ、わたしも父の内にいる。わたしと父は一体であると宣言しておられます。ですから、天の父のもとに行くためには、イエスと共に歩まなければならない。地上の生活を終えたイエスは、天に昇られ、そして弟子たちに聖霊を注いで、教会を設立しました。今は教会の時代であります。イエスはわたしたち教会の中に留まり、人間として留まるというよりも霊的に留まり、色々な機会を通して、わたしたちに教え、励まし、導いてくださっています。

第二朗読の中で、次のような言葉がありました。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」これはどういうことでしょうか。すでにわたしたちは、神の子となり、洗礼を受け、神様の恵みに与り、イエス・キリストの務めを果たす、務めに協力することができるものとなっているんですよと。神様に日々の生活をお献げする祭司、そしてイエス・キリストの教えをのべ伝える福音宣教者、さらに生活の中で神の愛を実行することによって、人々を神様のもとに導くことができる、そういう人になっています。そして、既に洗礼を受けさらに堅信の秘跡を受けた人は、さらに聖霊の賜物を受け、力強く信仰を証しし、実行することができるようにされているのであります。知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心、聖霊の七つの賜物を受け、そして主イエス・キリストの教えを自分の場所で、自分の言葉で説明する人。イエス・キリストが生きられたように、神の愛を実行する人になります。

 福音宣教をするという教会の務めは全員の務めであって、司祭、修道者が持っているが、信徒の方はその神父様やシスターを助ければいいというわけではない。もちろん助けていただかないといけないのでありますが、自分でも自分の場所で出会う人に、信じている信仰、わたしは何をどう信じているか、なぜ信じたか、どのようにして信じるようになったのかということを、自分の言葉で話す人になっていただきたいし、そうできるはずであります。それは聖霊が働くからであります。

 神の民全員が宣教する人、そして、この世界をより福音の教えにかなったものするために働く者となるのです。さらによく聖書を学び、お祈りをし、そして自分の周りの人を見て、困っている人、助けを必要とする人、必ずいるんですよね、そのためにできる奉仕をするようにしていただきたいと思います。

 

第一朗読  使徒言行録 6:1-7

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。

こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

 

第二朗読  ペトロの手紙 一 2:4-9

(愛する皆さん、)主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。

「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」

従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。

彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 14:1-12

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろう。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

 

2020年5月 5日 (火)

イエスを受け入れる人

復活後第4木曜日、57

 

第一朗読 使徒言行録 より

「この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕

をもってそこから導き出してくださいました。・・・・」

パウロはアブラハム以来の救いの歴史を要約し、洗礼者ヨハネにつなげる。

ヨハネの後登場したイエスは、以下のように主張する。

ヨハネの福音から。

「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

かくてイエスとイスラエルの神のラインがつながることになる。

そしてイエスの弟子とイエスのつながり。

わたしたちは イエスから派遣されている。この自覚を深めたい。それは易しいことではないだろう。わたしは今、此処に、いる。神よ、助けてください。

第一朗読  使徒言行録 13:13-25
パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。
「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』」

福音朗読  ヨハネによる福音書 13:16-20
(イエスは弟子たちの足をお洗いになった後、こう言われた。)「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

 

 

 

 

 

父である神と子である神の関係

復活節第4水曜日 5月6

福音朗読より

「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」

「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」

昨日の福音(ヨハネ10・30)と同じ内容である、言えよう。

イエスを見る者はイエスを使わされた父である神をみることになる。イエスと父である神は一体である。

また、イエスの言葉は父の言葉と同じである。イエスは父の命じるままに話すからである。

ヨハネの福音は総体としてイエスと父である神の一致を強調している。

(「わたしを見た者は父を見たのである。14・9。」「ことばは神であった。1・1.」など参照)

 

すると、人間イエスが苦しんだ時神も苦しんだのだろうか。イエスが十字架の上で

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを見捨てられたのか。マタイ27・46)

と叫んだとき父はどのような気持ちで聞いていたのだろうか。ともに苦しんだに違いない。

 

な、いお、ニケア・コンスタナチノープル信条では、イエス・キリストは

「神からの神、光からの光、まことの神よりのまことの神」と表現している。

 

使徒言行録より。

「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。

バルナバとパウロはアンティオキアで人々から按手を受けて任務に派遣された。按手とは聖霊のたまものを授ける祈りの儀式である。

 

 

第一朗読  使徒言行録 12:24-13:5a
(そのころ、)神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。
アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 12:44-50
(そのとき、)イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

 

 

2020年5月 4日 (月)

divinization

復活節第4火曜日、5月5日

 

第一朗読より

「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」

クリスチャン(キリスト者)という呼称の起源を述べる。このときから、おそらく、ユダヤ教からキリスト教が分離し独立するに至ったのであろう。

 

福音朗読より

「わたしと父とは一つである。」

明白な宣言、イエスは、自分は父である神と等しい存在であると断言した。

「二ケア・コンスタンチノープル信条」ではイエスは「父と一体である」と表現されている。

もちろんわたしたちはそうは言えない。しかし、神のいのちがわたしたちの中に注がれていることを、聖霊が与えられていることを、心から信じなければならない。このことを、この神秘を、東方教会の伝統では、「神化」divinizationと言うそうである。わたしたちは神の子であり、互いにその尊厳を担う者であり、復活したキリストの栄光の写しである、という自覚を深めたい。

 

第一朗読  使徒言行録 11:19-26
(その日、)ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 10:22-30
そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

 

 

 

2020年5月 3日 (日)

いのちをかけるアガペー

復活節第4月曜日、5月4日

     

   わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが         父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。

 本日の福音朗読は、昨日、復活節第4主日とほぼ同じ趣旨の福音である。

良い牧者イエスとその羊の間には非常に親しい交わりがなければならない。羊はイエスをよく知っている筈である。

それではわたしたちはイエスをよく知っているだろうか。どのようにイエスを知っているだろうか。

この視点から、イエスをよりよく知る、という動機をもって福音書からイエスを学ぶことは極めて大切である。

よい牧者は『雇い人』ではない。『雇い人』とは「雇われ人」「雇われて報酬のために働いている人」の意味である。自分の身に危険が及ぶと仕事を放棄して羊を見捨て逃亡してしまう。羊は自分の羊ではないからである。良い牧者は自分の羊を守るために命すら捨てるのである。

良い牧者イエスにはまた、まだ囲いに入っていない羊がいる。それは「異邦人」のことである。

第一朗読、使徒言行録は、ペトロが如何にして異邦人に福音を伝えたかを宣べている。ユダヤ人にとってけがれた食物――地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などを食べるということは律法を破る事になり、とんでもないことだった。おなじように異邦人を仲間と認めることは考えられない「想定外」のことであった。

 「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

 かくて、きょうの使徒言行録が伝える経緯により、福音はギリシャなど異邦人の世界に広がって行ったのでした。

 さて、いまの日本において、イエスの羊とは誰か?囲いの外にいる羊とは誰か?どのように囲いの中に招き入れたらよいのか?

これはわたしたちキリスト者の福音宣教という課題です。圧倒的にマジョリティの囲いの外の人々に(99パーセント)囲いの中の信者はどう福音宣教するのか?

 思うに、結局、「いのち」すら惜しまないイエスのアガペーを実行するしかないのではないだろうか。

 第一朗読  使徒言行録 11:1-18
(その日、)使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

福音朗読  ヨハネによる福音書 10:11-18
(そのとき、イエスは言われた)わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 

2020年5月 2日 (土)

召命のために

 復活節第4主日、202053

 「召命のために祈る」

世界召命祈願の日です。召命のためにお祈りできますことを、大変嬉しく思っております。
「わたしは良い牧者である」と主イエスは言われました。イエスは、すべての人を、ご自分のもとにお招きになります。わたしたちのことを、よくご存知の上で、わたしたちを呼び出し、ご自分と一緒に歩むようにと勧め、励ましてくださいます。
みなさまのお祈り、ご支援の賜物があってこそ、助祭となり司祭となる人が生まれます。彼らは、自分の弱さということを自覚していく。自分が弱い者であるということ、自分が司祭の仕事を果たすためには力が足りない、足りないというより、ないということを知っております。

その点については、司教も同じ想いです。司祭が叙階するときに、司教が唱える祈りの言葉の中に、「使徒から受け継いだ司教の務めを果たすには力の足りないわたしを顧み、・・・今わたしにもこの人たちを必要な助け手としてお与えください」と祈ります。そして、司祭は司教の務めを助ける者として与えられます。

既に、旧約聖書の時代から、神はいろいろな人を呼び出し、ご自分の務めにあずからせました。呼ばれた者は、とても自分にはそのような務めはできないと断ったり、躊躇したりしています。

例えば、モーセは「わたしはもともと弁が立つ方ではありません。・・・全くわたしは口が重く、舌の重い者なおです」(出エジプト410)からとてもあなたの言葉を伝えることができない」と言っています。
預言者エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ16)どうしてあなたの務めを果たすことができるでしょう、と言っています。

イエスの周りにいた、ペトロをはじめとする弟子たち、彼らは、イエスのために命を捨てることさえ辞さないと言ったのに、あえなく、裏切り、逃げ去ってしまった。そのような弱い人間を神様は用いて、ご自分の務めを継続させ、発展させます。

その際、必要なことは、「自分が弱い者であるということ」、「自分が本当に分かっている者ではないということ」をつくづく思い、必要な助けを祈り求め、更に、教会の仲間に助けを求めることではないかと思います。
神は約束してくださいます。「わたしがいつもあなたと共にて助け、必要な言葉を与えるから、信頼して歩みなさい」と。

さて、今日は、世界召命祈願の日であり、何よりもまず、司祭、修道者、奉献生活者の召命のために祈る日です。今日、更に、「召命」ということについて、いま一度、分かち合いをしたい。
「召命」というのは、すべてのひとに与えられている、神様の呼びかけです。神様は、「誰々さんは必要だけれども、あなたは必要ではない。あなたはいなくてもよい。」とおっしゃる方ではない。
すべての人は、神様のみ心によって、この世に生まれ、果たすべき務めを与えられています。その立場、その境遇、その場所において、自分が成すべきこと、あるいは、自分にしかできないことがあります。それが何であるのか。その人にしか、分からないことであるかもしれない。

 「わたしは良い牧者。わたしは羊のことをよく知っている」。
そのイエスの言葉に、更に耳を傾け、「わたしは何をしたら良いでしょうか。どのようにしたら、あなたのみ心に適うことができるでしょうか。」と祈り求めるときが、特に今日ではないかと思います。

神様が、そして、主イエス・キリストが、わたしたちを必要としてくださるということは、何と素晴らしいことでないでしょうか。
神様は、わたしたちに「はい」という同意を求めている。「これをしませんか。してくれませんか。」、「はい、喜んでいたします。」
その答えを求めています。どうか、わたしたちが、主イエス・キリストの呼びかけに、喜んで答え、そして、生涯を献げることができますよう、お祈りいたしましょう。

第一朗読  使徒言行録 2:14a36-41


(五旬祭の日、)ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

 

 

第二朗読  ペトロの手紙 一 2:20b-25
(愛する皆さん、)善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

 

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 10:1-10
(そのとき、イエスは言われた。)「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 

 

 

 

 

 

2020年4月29日 (水)

信仰告白する

復活節第3水曜日、430

 

使徒言行録のエチオピアの宦官カンダケの受洗の物語。
「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」

カンダケはすでに神を礼拝するものであった。これはイザヤ書の主の僕の歌である。フィリポはこの僕はイエス・キリストを意味していると説明したことだろう。イエス旧約聖書で預言されていた救い主であると信じてカンダケは即座に洗礼を受けた。ここに受洗準備の教話の原型がある。現在の教話はどのようなものだろうか。できるだけ簡潔でありたい。

こうしてはじめてエジプトに福音が伝えられたのであろう。

イエスによる教話、ヨハネ6章。(そのとき、イエスは人々に言われた。)「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

「わたしは永遠の命のパンである。」ピリオドを打つかのようにイエスは繰り返しこの主張をしている。この宣言の前に人は自分の態度を決めなければならない。ペトロたちがイエスへの信仰を宣言できたのは幸いなことであった。

さて、わたしたちは今もペトロに倣い、同じ信仰告白をしている。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたを置いて何処にいきましょう。」(聖体拝領前の祈り)

 

 

 

2020年4月28日 (火)

神の救済意志

復活節第3水曜日

ヨハネによる福音の6章を毎日読んできました。
今日の箇所で特に強調されていることは、父である神の「救済意志」ということ、
つまり父である神は、わたしたち人間を救おうと望んでおられるということであります。
そしてこの神の意志は、御子イエスキリストを通して伝えられ、そしてイエスキリストに
よって実行されます。
「わたしの父の意志は、子を見て信じる者が永遠のいのちを保ち、終わりの日に復活することである。」
アレルヤ唱の言葉です。
ちなみにアレルヤ唱は、すぐ後で読まれる福音の要点を述べる言葉となっています。

 

さて今日の福音では、わたくしの心に留まった言葉がございまして、それは
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」
というイエスの言葉です。
「わたしは決して追い出さない。」と言われました。来る人がいればその人を追い出さない、逆に言いますと、来なければ受け取ることができない、という意味になります。
それでわたくしが思い出す言葉が一つある。それは次の言葉です。
「あなたなしにあなたを造った神はあなたなしにあなたを救わない」
あなたは無から創造された、あなたは存在しなかった、存在しないあなたを神はお創りになった。そのあなたを救うためには、あなたの協力がなければ救いが実現しない。しかし、あなただけがあなたを救うことはできない。救うのは神ですけれども、神はあなた自身の承諾、あなた自身の協力を求めている。
そういう意味であります。聖アウグスチヌスの言葉と伝えられています。

 

2020年4月27日 (月)

マナ

復活節第三火曜日

ヨハネの福音書6章を読み継いできています。

昨日、の福音では、「神の業をおこなうためには何をしたら良いでしょうか」という問いに対して、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられました。

イエスと人々との問答は上手く噛み合っていないように感じます。

今日の30節から35節でも同じように話がうまく噛み合っていないように思われます。

マンナという言葉が出てきます。マンナはイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出して、荒れ野を40年間放浪した時に神から与えられた食べ物でありました。

こちらはマナとなっていますけれども、出エジプト記1631節ではこうなっています。

「イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。」

そういうものを神が天からお与えになった。このマナ、あるいはマンナは、わたしたちが今日もいただくご聖体をあらかじめ指し示すものだと考えられます。

6章の49節から51節では次のようにいわれています。

「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。

しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」

イスラエルの民が荒れ野で命を養っていただいたパンはマンナと呼ばれていましたが、

そのマンナを食べて40年間生きたイスラエルの民もやがては死んでしまった。しかしイエスが与える命のパンは、人を永遠の命へと導くものであるとイエスは言われました。

このイエスの言葉を人々は理解することは出来なかったのでした。

ヨハネの福音6章全体が、このイエスを信じるということと、イエスが天から降った命のパンであるということを信じるということに全体がさかれています。全体がイエスを信じること、それからイエス自身が永遠の命を人々に与える者であると述べるために構成されているというように考えられます。

毎日少しずつですけれども、ヨハネ6章を読みながら、イエスキリストを信じるということ、それからご聖体をいただくということの意味を深めていきたいと思います。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 6:30-35

(そのとき、群衆はイエスに)言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

 

 

 

2020年4月26日 (日)

信仰の分かち合い

復活節第3月曜日

「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」という問いに対して、イエスはお答えになられました。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
今日の答唱詩編の答唱は、「神のみ旨を行うことは、わたしの心の喜び」であります。
神のみ旨、神のみこころを行うことができるようにと、わたしたちも日々祈っています。
「主の祈り」は「みこころが行われますように」と祈っていますが、わたしたちを通して、わたしたちにおいて、神のみこころ、主のみこころが行われますように、わたしたちが主のみこころを行う者となることができますように、という意味を込めての祈りであります。神の業、つまり神のみこころを行うためには、神がお遣わしになった者を信じる者でなければならない。

イエスはフィリポに言われました。「わたしを見る者は、父を見るのである。」
さらに、「父がわたしにおり、わたしが父の内におられることを、どうして信じないのか」という言葉であります。
神のみこころを行う者となるためには、信じる者でなければならない。
「信じる」という最も単純なことですが、それがかえって難しい場合もあります。
イエスの弟子たちもなかなかイエスを信じ、生きることができなかった。
過越の神秘、死から命への過越の神秘を目の当たりにし、復活したイエスに出会って
彼らは少しずつ復活したイエスキリストを認め、受け入れるようになったのでありました。
わたしたちの場合は、復活したイエスに出会った人たちがつくった教会に加わっており、
復活を信じて復活を証しした人の信仰のいわば繋がりの中に置かれています。

信仰の分かち合いが 大切と考えます

 

 

 

 

 

 

2020年4月25日 (土)

日本の宣教

復活後第3主日 、4月26日

エマオの弟子にキリストが現れた次第。(4月15日の福音朗読と同じ個所。「噛んで含めるように」をご覧ください。)

旅人の姿のイエスを二人は復活したイエス・キリストと気が付かなかったが最後に夕食の場面、その人がパンを取って祝福し、パンを割く場面において、彼らはその人が復活したイエスであることを認めた。

この物語は全体がミサの構造をしています。

さて、いまわたしたちはいつどこでどのように復活したイエスに出会うのだろうか、栄光と権力を帯びたそれとすぐにわかる様子では現れないようだ。ひそかにありげなく目立たないようにあらわれる。信仰の目で見なければイエスは見つけられないと思われる。

旧約聖書の説明がイエスの登場には不可欠である。この日本において旧約は遠い世界である。どうしても丁寧にイエスの前の時代の物語を学ぶ必要がある。それにそえて、現代の日本の文化状況のなかでイエスのメッセージがどのような意味を持ちうるのか、丁寧に分かち合うことが求められている。

イスラエルの歴史と日本の文化、ナザレのイエスの生涯の意味を複合的に統合することがわたしたちの使命である。

 

福音朗読  ルカによる福音書 24:13-35

この日、(すなわち週の初めの日、)二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

2020年4月24日 (金)

福音を宣べ伝えなさい

復活後第二土曜日、4月25日聖マルコ福音記者

 

マルコの福音は最後の部分は 学者の説明によると、この部分は後から付け加えられた部分であるとされています。マルコの福音は、イエスの墓が空であったと言う記述で一旦終わっているが、のちにこのマルコ16章9節~15節が付け加えられたということが大方の意見であります。しかしこの部分が正典であるということについては、教会として疑いを持っていないのであります。
さて、今日の福音朗読を読んで感じることは、イエスの復活を信じるというはそう易しい事ではなかったということです。繰り返し「信じなかった」、「信じなかった」、そしてイエスが人々の「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と出ております。
復活したイエスに出会った人はイエスを信じましたが、復活したイエスに出会ったこと、イエスが生きておられるということをマグダラのマリアなどが他の人々に告げ知らせても、聞いた人はすぐには信じなかったようです。
復活を信じるということはどういうことでしょうか。わたしたちは復活を信じた人の証言に基づいてイエスの復活を信じているのです。トマスに「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と復活したイエスは言われたのであります。
わたしたちは復活の証人となりました。復活の証人として生きるという事はどういう事なのだろうか。今日の福音の結びは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」『福音を宣べ伝えなさい』といわれました。わたしたちにとって、またわたしたち一人一人にとって、福音とは、何であるのか、福音を宣べ伝えるというのは何をすることなのか、そのことが重大な問題、重大な課題として問われていると思います。

朗読  マルコによる福音書 16:15-20

(そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、)言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった

2020年4月23日 (木)

五つのパンと二匹の魚

復活節第2金曜日

 

ヨハネの福音6章。ご聖体の教えと考えられます。

五つのパンと二匹の魚。分かち合うことにより五千人の給食となったというお馴染みのお話。

現代世界の諸問題もこの精神を適用すれば解決の道を見つけられる。

いまはコロナウイルス禍。国境を越え体制を越えて被害防止に協力すれば難局を克服できると考える。自分の都合から抜け出て隣人と苦楽を共にすることに聖体の意味があると思われる。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 6:1-15

(そのとき、)イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

 

 

 

2020年4月22日 (水)

恥を覆う

復活第二木曜日に思う

 

神の愛について、非常に心惹かれる説明の一つが、

「神は、わたしたちひとり一人を、あたかもわたしたちただ一人を愛されるように愛し給う」

というアウグスチヌスの言葉です。

神はすべての人を愛してくださるが、ひとり一人の人をほかの人がいないかのように、その人を愛されるという意味です。自分を愛する神は他の人がいないかのように自分を愛する、という意味だと思います。自分しかいない。自分が自分であるから、愛してくれる、という意味。分かるような気がする。あなたがあなたであるから大切にしてくださる、欠点や罪があってもあなたがあなたでるという理由で愛してくださる、という意味だと思います。

それと関連して思うことがあります。神はわたしたちの至らなさ、欠点、醜さ、あるいは恥ずべき惨めさを覆い癒してくださるということです。罪びとといわれると抵抗を感じる人が多いでしょう。罪は犯罪ではないですが、恥ずかしいこととも違います。日本の文化は恥の文化と言われますが、わたしたちは恥辱に鋭敏です。神は恥辱を覆ってくださるとしたら、それはわたしには大きな福音です。

 

 

 

 

 

 

2020年4月21日 (火)

闇を選ぶのは何故?

悪を行うものは光を避け光を憎む。自分の行いがあかるみにでるこ

とを恐れるから。

闇は悪を覆い隠す。しかし本人は知っている.それが真理に反していることを。人は隠れて悪事を行う。昼間、人の見ている所を避ける。ただイエスを信じイエスの赦しを受けさえすればよいのに。イエスに降参すればよいのに。

福音朗とこ読  ヨハネによる福音書 3:16-21

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

 

 

 

2020年4月20日 (月)

福音の神髄の言葉

復活節第2火曜日 

第一朗読  使徒言行録 4:32-37

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

 福音朗読  ヨハネによる福音書 3:7a、8-15

(そのとき、イエスはニコデモに言われた。)「あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。

風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 

今日のヨハネによる福音の最後の部分を一緒に味わってみたいと思います。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

この言葉は、民数記が伝えている次の出来事に由来しています。

人々はモーセに率いられてエジプトを脱出し、長い試みの期間に入っていました。だんだん人々はモーセの指導による試練の連続に堪えがたくなってきました。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。 民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。(民数記216-9)これは、旗竿の先に掲げられた蛇の像を人々が仰ぐと命が助けられた、という話であります。この民数記の出来事が、イエスキリストの十字架上の死による救いを信ずることと結びつけられています。

「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

「青銅の蛇を仰ぐ」ということと、「十字架の上のイエスを仰ぐ」ということが結びつけられ、イエスを信じ、信仰をもって十字架を仰ぎ見る者は永遠の命を得ることができる、というわたしたちの信仰の中心が述べられています。そして、ヨハネの福音はこの直ぐ後の、非常に有名な聖句(聖なる言葉)につながっているのです。

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)

十字架上のイエスを仰ぎ見てイエスを信じる者は永遠の命に与るのである、というヨハネの福音の教えを今日はさらに深く心に刻みたいと思います

2020年4月17日 (金)

見ないで信じる人は幸い

見ないで信じる人は幸い!

 

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

2020419日(日)

第一朗読 使徒言行録512-16

第二朗読 黙示録19-11a,12-13,

福音朗読 ヨハネ2019-31

説教

「トマよ、あなたはわたしを見たので信じた。見ないで信じる人は幸い」(本日のアレルヤ唱)とイエスは言われました。

復活したイエスが弟子たちのところにあらわられたとき、トマスは居合わせなかったのであります。それはちょうど週の始めの日の夕方、と書かれていますので、イエスが復活したその日のことであります。それから八日目に再びイエスが弟子たちのところにお現れになりました。今日がその八日目にあたる日であります。イエスはご自分の体を弟子たちに示して、そして自分であるということを証明なさった。この、手の傷、わき腹の傷を弟子たちに示された。

今までなにげなく読み過ごしてきましたが、復活したイエスの体というのはどういう体なのでしょうか。もうすっかり傷もなくなってきれいな体になっていたのかと思うとそうではなくて、傷跡がなまなましく残っている体でありました。人々に、ご自分の十字架上の死をいつまでも思い起こしてもらいたいという気持ちがこめられているのからでしょうか。

ところでしかし復活したイエスの体は生きていたときの体とは全く違う体となっていて、もはや苦しむことも痛みを覚えることもない栄光の体に変えらえていたのでした。トマスは、イエスが出現したときにそこに居なかったので、信じられない、といったわけです。非常に実証主義的な人だったのかもしれません。

しかし、そのあと八日目に再び同じイエスが現れたたときに、無条件でイエスを礼拝し、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。そういう物語であります。

「見ないで信じる者は幸いである」とイエスは言われた。復活祭が一週間前でしたが、そのあと毎日のミサの福音の朗読で復活したイエスが弟子たちに現れた次第を読んできました。それによりますと、弟子たちは必ずしもすぐに復活したイエスを認めたわけではないようであります。なかなか認めない。最初にイエスが現れた弟子は女性のマグダラのマリアであります。 マリアのほうは、すぐにイエスであるということを知った。そして男の弟子たちに、イエスと出会った、イエスを見たということを知らせました。それからもうひとつ有名な話は、エマオに向かう弟子たち、二人の弟子たちに旅人の姿をしたイエスが現れたという話であります。そちらのほうはもっと時間が必要でありました、イエスを認めるために。長い時間一緒に歩き、イエスの言葉を聞きながら、次第に心が熱くなってそして一緒に食事をする場面で、イエスがパンを割いたときにその人がイエスであることがわかった。かなり、イエスを認めるためには時間がかかっている。マグダラのマリアのほうは、もうすぐにわかった。もちろんイエスから「マリア」と呼びかけられたときに悟った、となっています。

全体的に、復活したイエスが現れてもすぐにそれを見たひとが、イエスであると、すぐに悟ったのではないようであります。

ところで、わたしたちの場合はどうであるか。もちろんわたしたちは地上のイエスに会ったことはない、ナザレのイエス、30何年の生涯をおくられた一人の男性であったイエスと会ったり、生活をともにしたりしたことはない。どうして信じるようになったのでしょうか。考えてみるとたいへん不思議なことではあります。

でも他方、もう一回考えてみると、よく知っている人間であるイエスが復活し、その後、弟子たちと一緒にいてくださる、というメッセージは、かえって信じにくいのかもしれない。わたしたちは生前のイエスとは会ったことがないのですから、復活を霊的な世界の問題として最初から受け止めております。そして、イエスを信じて生きている人々の姿をみて、わたしもそうなりたいと願い、そして聖霊の働きに心を開いて、イエスを信じ、復活しているイエスがともにいてくださるということを信じて洗礼を受けました。信仰という貴重な賜物をいただいているわたしたちはこれからもっともっと信仰を深め信仰を強くしていただけるようにお祈りすることが大切ですが、さらに大切なことは、わたしたちお互いに励まし合うということだと思います。ひとりで信仰を守り育てるということは、たいへん難しいと思います。信仰というのは共同体の信仰であります。わたしたちは信じます、そしてわたしは信じます。この「わたしたち」と「わたし」の信仰の交わりの中で、信仰というものは生まれ、育み、そして伝えられていくのであります。 

今、新型コロナウイルスが世界中で蔓延して人人を不安と恐怖に巻き込んでいる最中です。この試練を、復活したイエスへの信仰のうちに、力を合わせて、希望のうちに、この戦いを勝ち抜くように努めましょう。

 

 第一朗読 徒言行録 2:42-47

(信者たちは、)使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まり、そこには恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

第一朗読 一 ペトロの手紙 一 1:3-9
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:19-31
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

 

 

2020年4月16日 (木)

マルコの福音最後の箇所

の土曜日ミサ説教


2020年4月18日(土)

今日のマルコの福音は最後の部分ですが、 学者の説明によると、この部分は後から付け加えられた部分であるとされています。マルコの福音は、イエスの墓が空であったと言う記述で一旦終わっているが、のちにこのマルコ16章9節~15節が付け加えられたということが大方の意見であります。しかしこの部分が正典であるということについては、教会として疑いを持っていないのであります。
さて、今日の福音朗読を読んで感じることは、イエスの復活を信じるというはそう易しい事ではなかったということです。繰り返し「信じなかった」、「信じなかった」、そしてイエスが人々の「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と出ております。
復活したイエスに出会った人はイエスを信じましたが、復活したイエスに出会ったこと、イエスが生きておられるということをマグダラのマリアなどが他の人々に告げ知らせても、聞いた人はすぐには信じなかったようです。
復活を信じるということはどういうことでしょうか。
昨日の福音でもそのことを取り上げたのですけれども、わたしたちは復活を信じた人の証言に基づいてイエスの復活を信じているのです。トマスに「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と復活したイエスは言われたのであります。
わたしたちは復活の証人となりました。復活の証人として生きるという事はどういう事なのだろうか。今日の福音の結びは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」『福音を宣べ伝えなさい』といわれました。わたしたちにとって、またわたしたち一人一人にとって、福音とは、何であるのか、福音を宣べ伝えるというのは何をすることなのか、そのことが重大な問題、重大な課題として問われていると思います。

現在世界中がコロナウイルスの蔓延という非常事態にあります。多くの人々が不安の中で必死でこの問題に取り組んでいます。主の復活は必ず世界にこの問題の解決をもたらすでしょう。死に打ち勝つわたしたちの信仰がその証をすることができますように祈ります。
明日は復活節第二主日、聖ヨハネパウロ二世によって「神のいつくしみの主日」とされました。神の慈しみを深く味わいながら、神の慈しみを証することが出来ますよう、祈りたいと思います。復活の土曜日ミサ説教

昨日の福音でもそのことを取り上げたのですけれども、わたしたちは復活を信じた人の証言に基づいてイエスの復活を信じているのです。トマスに「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と復活したイエスは言われたのであります。
わたしたちは復活の証人となりました。復活の証人として生きるという事はどういう事なのだろうか。今日の福音の結びは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」『福音を宣べ伝えなさい』といわれました。わたしたちにとって、またわたしたち一人一人にとって、福音とは、何であるのか、福音を宣べ伝えるというのは何をすることなのか、そのことが重大な問題、重大な課題として問われていると思います。

現在世界中がコロナウイルスの蔓延という非常事態にあります。多くの人々が不安の中で必死でこの問題に取り組んでいます。主の復活は必ず世界にこの問題の解決をもたらすでしょう。死に打ち勝つわたしたちの信仰がその証をすることができますように祈ります。
明日は復活節第二主日、聖ヨハネパウロ二世によって「神のいつくしみの主日」とされました。神の慈しみを深く味わいながら、神の慈しみを証することが出来ますよう、祈りたいと思います。

 

 

 

2020年4月15日 (水)

ペトロのその後

復活の金曜日ミサの福音朗読について
                            2020年4月17日
復活祭の後の8日間は、特別に主イエスの復活とそのご出現を記念する8日間となっています。わたしたちは毎日、弟子たちが復活したイエスに出会った次第を読んできました。復活したイエスに出会った弟子たちは、その信仰を深め、堅め、そして勇敢にイエスキリストの復活の証人となったのでありました。
今日の使徒言行録は、そのような弟子の姿、特にこのペトロの勇敢な証言を伝えています。ペトロは、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と確信に満ちて証言しています。
そうではありますが、このペトロについて、あるいは他の弟子も同様ですけれども、このような勇敢な福音宣教者になるまでに、どこでどうしていたのだろうかと、という疑問を感じます。今日のヨハネによる福音ですと、ペトロは「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言ったとあります。ですから元の漁師に戻ったのでしょうか。彼らが漁をしている時に復活したイエスが現れたが、最初彼らはその人がイエスであるとは分からなかったのでした。昨日、一昨日の福音も、エマオへの弟子にイエスが現れた次第を読みましたが、その時もその旅人がイエスであるとは、エマオの弟子たちは、最初は分からなかった。少し経って、やっとその人がイエスであるということが分かった、となっておりました。
わたしたちの教会は、復活したイエスに出会った弟子たちによって設立されたわけでして、ナザレのイエスは十字架につけられたが、復活して今も生きておられ、いつもわたしたちと共にいてくださる、という信仰の上に教会が設立され、そして今日まで発展してきたのであります。弟子たちがそのような堅い信仰を持つに至った経緯を、復活祭後の教会の典礼は語っておりますが、四つの福音書によるイエスの出現の話は、首尾一貫していないように思われます。そしてさらに、弟子達は最初からは、イエスが現れたというように受け取ったわけではない事も、明らかであります。ですから、どのようにしてペトロ達がイエスの復活を確信するようになったのか、ちょっと不思議であるという気がしないでもありません。
それはともかく、きょうの福音ではイエスが弟子たちにパンを与え、そして取った魚も同じように裂いた、となっております。この時から、弟子たちはイエスの復活を確信するようになったのでありましょう。

 

弟子たちはすぐに素直に復活したイエスを信じたか!

復活の木曜日

イエスの弟子たちは素直に直ぐに復活を信じたわけではなかった!

 

復活の木曜日ミサ説教

今日のルカによる福音は昨日のエマオの弟子の話の続きであります。
イエスは弟子たちに言われました。
「あなたがたはこれらのことの証人となる。」
「これらのこと」とは何でありましょうか。イエスが、聖書に書いてあるとおり苦しみを受け、十字架にかかり、人々の罪の赦しと救いのために復活するということ、さらに、あらゆる国の人々に救いの福音が宣べ伝えられる、ということを指していると思います。
イエスの受難と復活はすでに旧約聖書で預言されているとイエス自身が言っています。しかしこの復活という出来事を受け入れるためには弟子たちにはなお心の準備、信仰が必要でありました。復活したイエスに出会ってもすぐにはその人がイエスであるとは気がつかなかったとエマオの弟子の話が伝えています。イエスがかなり長い時間を使ってご自身について聖書が書いていることを説明し、さらにイエスがパンを裂いてくださったときになって初めて、エマオの弟子たちは、その人がイエスだと分かったのでありました。
またこの後すぐにイエスがエルサレムでお現われになり、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」のであります。そのときに弟子たちは多いに喜んだと思われますが、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と福音書は述べています。なぜ彼らは恐れおののいたのでしょうか。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」ともルカ福音書は述べています。
弟子たちは復活したイエスに出会っても直ぐに素直にイエスを信じたわけではありませんでした。イエスが復活したということを信じるためにはイエス自身からの呼びかけ、助け、恵が必要でありました。
ところで今日の第一朗読「使徒言行録」でペトロは確信をもって宣言しています。
「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。」
使徒たちは復活の証人として人々にイエスの復活を宣べ伝え、使徒の証言を聞いた人々はイエスを信じました。わたしたちも、復活してイエスに直接お会いしたことはないが、復活を信じて生きた人々と出会ってイエスの復活を信じることができたのです。
主イエスはトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ2029)
復活節を過ごすわたしたちが、「見ないで信じる信仰」を深め強めていただけるよう、聖霊の助け、導きを祈りましょう。

第一朗読  使徒言行録 3:11-26
(その日、いやされて歩けるようになった)男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」

福音朗読  ルカによる福音書 24:35-48
(そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。

 

 

 

2020年4月14日 (火)

噛んで含めるように語ったイエス

噛んで含めるように語ったイエスーーエマオへの弟子へ現れたイエス

20204月15

イエスの復活に接した弟子たちがキリスト今日の教会を設立した。といってのすぐに一気につくったわけではない。第一朗読にあるように、ペトロとヨハネはユダヤ教の神殿に祈り委もう出ている様子を見ると、彼らはユダヤ教徒は別の教団を創立する意図はもっていなかったようだ。

復活の信仰も最初から確固としたものではなかった。次第に確信に至る過程が垣間見られる。きょうのエマオへの弟子の話がその典型的な次第を語る。

旅人の姿をして現れたイエスに彼らはその人がイエスだとは気が付かない。旅人は聖書(旧約)を使って、「噛んで含めるように」イエスがメシアであることを説明する。極め付きは最後の晩餐の場面と酷似のパンを割く場面である。この光景を目にしてエマオの弟子たちはこの人がイエスであると気が付いた。が、その瞬間、イエスは姿を消す。

*****

昨日はヨハネの福音でマグダラのマリアへイエスが現れた次第を聞きました。今日のルカによる福音はエマオの弟子へ復活したイエスが現れた次第を語っています。

エマオいう所はどこなのかよく分かりませんが、エルサレムから近い、多分北西の方向にある村であるようであります。

ちょうどこの日というのはイエスの復活した日、たぶん午後でしょうか、二人の弟子がエマオという村へ向かって歩いていた。その二人に一人の旅人が近づいて来て、一緒に歩き始められた。その旅人はイエスご自身でありましたが、二人の目は遮られていてイエスだとは分からなかったのです。

昨日のマグダラのマリアへ出現したイエスの場合も、マリアの方は、最初はイエスであるとは分からなかったとあります。今日の話もその点共通しています。

道々三人が話し合って歩いて行ったわけですが、この旅人は二人に向かって、モーセと全ての預言者から始めて聖書全体に亘り、ご自分について書かれている事を説明された。聖書といえば、この時は我々が旧約聖書と呼んでいる聖書の事であります。わたしたちは旧約聖書を正典と認めて旧約聖書の勉強もしております。旧約聖書の中にイエスの事が説明されている、預言されているというように考えているから、旧約聖書が大切であるということになります。

さて、一行は目指す村に近づいた。この村がエマオというところらしいです。

二人が「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言ってイエスを無理に引き留め、そして共に泊まる家に招き入れた。

そして夕食になり、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

この場面はわたしたちが献げ、祝っているミサ聖祭とほぼ同じ場面となっています。

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

「パンを裂いてお渡しなる」とあります。実はミサは「パンを裂く式」とも呼ばれているのです。

その場面を見て、二人はこの人はイエスだと分かった。分かった途端にこの旅人の姿が見えなくなったのでした。二人はもう夜おそくになっていたのでしょうが、すぐに取って返してエルサレムに戻って11人とその仲間にその出来事を報告した。

今日のルカの福音はそういう物語であります。

そこで、この個所は「ミサ」を表しているといわれているわけですね。

「ミサ」の構造がこのエマオの弟子の物語に出て来ているというように言われています。

わたしたちのミサは「ことばの典礼」、それから「感謝の典礼」と大きく二つに分かれます。

神の言葉、それから主イエスの言葉を聴き、分かち合うところが前半で、そのあとパンとぶどう酒をお献げし、そしてパンとぶどう酒を分かち合う交わりの儀となっています。

ミサ全体がイエスキリストと深く交わるための式となっているのであります。

 

第一朗読  使徒言行録 3:1-10
(その日、)ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

福音朗読  ルカによる福音書 24:13-35
ちょうどこの日(は、週の初めの日であったが、)二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

2020年4月13日 (月)

なぜ復活したイエスが最初に出会ったのがマグダラのマリアであったのか。

復活の火曜日ミサより

2020413

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。わたしたちの教会はこの復活したイエスに出会った人々の信仰の体験によって成立し、そして発展してきました。

マグダラのマリアの場合は、イエスの生前どこかでイエスと出会い、7つの悪霊を追い出していただいたことがある、と福音書が告げています。それはどういう事であったのか、様々に解釈されていますが、彼女の人生においてそれは大きな意味を持っていたのであります。癒しといいますか、救いということを経験したのでしょう。当然、マグダラのマリアはその時からイエスに従い、イエスを慕って人生を歩んできました。

そのイエスが、十字架につけられて処刑されました。その場面にも彼女は居合わせております。イエスが葬られた時も朝早く墓に詣でています。ヨハネの福音の今日の場面はその後でのマリアの体験を伝えています。

今日の福音では不思議な記述があります。それは、マリアが、イエスが立っておられるのを見たのに、それがイエスだとは分からなかった、となっていることです。どうして分からなかったのでしょうか。マグダラのマリアの方は、イエスがそこにいるということはまったく予想していなかったのでイエスを認める心の準備がなかったから、そのために分からなかったのでしょうか。イエスの方が、マリアに話しかけて、そして「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われると、マリアはその人を園丁だと思ったとあります。そしてなお、イエスの方が彼女の名前を呼びました。「マリア」と言われたこの時にマリアはその人がイエスであると分かったのでした。彼女はすぐに「ラボニ」と答えました。「ラボニ」はわたしの先生という意味であります。その後の場面、非常に有名な場面ですが、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とイエスがたしなめます。この個所はいろいろに訳されています。調べると「わたしに触れていてはならない」「わたしに触れてはならない」「わたしに触ってはならない」などと訳されています。ヨーロッパの名画によくある場面です。ラテン語で「Noli me tangere、ノリ・メ・タンゲレ」の場面と言われています。

この場面は、「マリアはイエスに触ろうとしたので触ってはならない」と言われたという意味なのか、もう触っていて、「もうこれ以上触り続けるのは止めなさい」という意味なのでしょうか。原語から考えると、触っているマリアに「もう止めなさい」と言ったらしいです。

ところで、この時のマリアの気持ち、それは大きな喜びであったと思われます。その喜びに浸っているマリアの様子が窺えます。でもイエスの方は「もう喜びに浸っているのはよしなさい、今はするべき事はほかにある。あなたがわたしに出会ったことを他の弟子たちに伝えなさい」と言われたのでありましょう。

わたしたちにはマグダラのマリアほどの大きな喜びの体験は無いかもしれませんが、何らかの意味でイエスと出会ったという喜びや安心を持っているわけであります。わたしたちイエスの弟子の使命は、この喜びの体験を他の人々に、特にわたしたちが出会う他の人々に何らかの形で、何らかの表現で伝えていくことではないだろうかと思います。それが教会の使命ではないでしょうか。

ところでなぜマグダラのマリアは復活したイエスの最初に出会うという栄誉に浴したのでしょうか。おそらくマリアのほうに、イエスを求め慕う心があったから、しかも強く激しく求めていたからではないだろうか。男性の弟子たちはマリアの後塵を拝することになったのでした。

 

第一朗読  使徒言行録 2:36-41
(五旬祭の日にペトロはユダヤ人たちに言った。)「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:11-18
(そのとき、)マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 

 

 

 

 

なぜ復活したイエスが最初に出会ったのがマグダラのマリアであったのか。

復活の火曜日ミサより

2020413

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。わたしたちの教会はこの復活したイエスに出会った人々の信仰の体験によって成立し、そして発展してきました。

マグダラのマリアの場合は、イエスの生前どこかでイエスと出会い、7つの悪霊を追い出していただいたことがある、と福音書が告げています。それはどういう事であったのか、様々に解釈されていますが、彼女の人生においてそれは大きな意味を持っていたのであります。癒しといいますか、救いということを経験したのでしょう。当然、マグダラのマリアはその時からイエスに従い、イエスを慕って人生を歩んできました。

そのイエスが、十字架につけられて処刑されました。その場面にも彼女は居合わせております。イエスが葬られた時も朝早く墓に詣でています。ヨハネの福音の今日の場面はその後でのマリアの体験を伝えています。

今日の福音では不思議な記述があります。それは、マリアが、イエスが立っておられるのを見たのに、それがイエスだとは分からなかった、となっていることです。どうして分からなかったのでしょうか。マグダラのマリアの方は、イエスがそこにいるということはまったく予想していなかったのでイエスを認める心の準備がなかったから、そのために分からなかったのでしょうか。イエスの方が、マリアに話しかけて、そして「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われると、マリアはその人を園丁だと思ったとあります。そしてなお、イエスの方が彼女の名前を呼びました。「マリア」と言われたこの時にマリアはその人がイエスであると分かったのでした。彼女はすぐに「ラボニ」と答えました。「ラボニ」はわたしの先生という意味であります。その後の場面、非常に有名な場面ですが、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とイエスがたしなめます。この個所はいろいろに訳されています。調べると「わたしに触れていてはならない」「わたしに触れてはならない」「わたしに触ってはならない」などと訳されています。ヨーロッパの名画によくある場面です。ラテン語で「Noli me tangere、ノリ・メ・タンゲレ」の場面と言われています。

この場面は、「マリアはイエスに触ろうとしたので触ってはならない」と言われたという意味なのか、もう触っていて、「もうこれ以上触り続けるのは止めなさい」という意味なのでしょうか。原語から考えると、触っているマリアに「もう止めなさい」と言ったらしいです。

ところで、この時のマリアの気持ち、それは大きな喜びであったと思われます。その喜びに浸っているマリアの様子が窺えます。でもイエスの方は「もう喜びに浸っているのはよしなさい、今はするべき事はほかにある。あなたがわたしに出会ったことを他の弟子たちに伝えなさい」と言われたのでありましょう。

わたしたちにはマグダラのマリアほどの大きな喜びの体験は無いかもしれませんが、何らかの意味でイエスと出会ったという喜びや安心を持っているわけであります。わたしたちイエスの弟子の使命は、この喜びの体験を他の人々に、特にわたしたちが出会う他の人々に何らかの形で、何らかの表現で伝えていくことではないだろうかと思います。それが教会の使命ではないでしょうか。

ところでなぜマグダラのマリアは復活したイエスの最初に出会うという栄誉に浴したのでしょうか。おそらくマリアのほうに、イエスを求め慕う心があったから、しかも強く激しく求めていたからではないだろうか。男性の弟子たちはマリアの後塵を拝することになったのでした。

 

第一朗読  使徒言行録 2:36-41
(五旬祭の日にペトロはユダヤ人たちに言った。)「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:11-18
(そのとき、)マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 

 

 

 

 

なぜ復活したイエスが最初に出会ったのがマグダラのマリアであったのか。

復活の火曜日ミサより

2020413

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。わたしたちの教会はこの復活したイエスに出会った人々の信仰の体験によって成立し、そして発展してきました。

マグダラのマリアの場合は、イエスの生前どこかでイエスと出会い、7つの悪霊を追い出していただいたことがある、と福音書が告げています。それはどういう事であったのか、様々に解釈されていますが、彼女の人生においてそれは大きな意味を持っていたのであります。癒しといいますか、救いということを経験したのでしょう。当然、マグダラのマリアはその時からイエスに従い、イエスを慕って人生を歩んできました。

そのイエスが、十字架につけられて処刑されました。その場面にも彼女は居合わせております。イエスが葬られた時も朝早く墓に詣でています。ヨハネの福音の今日の場面はその後でのマリアの体験を伝えています。

今日の福音では不思議な記述があります。それは、マリアが、イエスが立っておられるのを見たのに、それがイエスだとは分からなかった、となっていることです。どうして分からなかったのでしょうか。マグダラのマリアの方は、イエスがそこにいるということはまったく予想していなかったのでイエスを認める心の準備がなかったから、そのために分からなかったのでしょうか。イエスの方が、マリアに話しかけて、そして「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われると、マリアはその人を園丁だと思ったとあります。そしてなお、イエスの方が彼女の名前を呼びました。「マリア」と言われたこの時にマリアはその人がイエスであると分かったのでした。彼女はすぐに「ラボニ」と答えました。「ラボニ」はわたしの先生という意味であります。その後の場面、非常に有名な場面ですが、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とイエスがたしなめます。この個所はいろいろに訳されています。調べると「わたしに触れていてはならない」「わたしに触れてはならない」「わたしに触ってはならない」などと訳されています。ヨーロッパの名画によくある場面です。ラテン語で「Noli me tangere、ノリ・メ・タンゲレ」の場面と言われています。

この場面は、「マリアはイエスに触ろうとしたので触ってはならない」と言われたという意味なのか、もう触っていて、「もうこれ以上触り続けるのは止めなさい」という意味なのでしょうか。原語から考えると、触っているマリアに「もう止めなさい」と言ったらしいです。

ところで、この時のマリアの気持ち、それは大きな喜びであったと思われます。その喜びに浸っているマリアの様子が窺えます。でもイエスの方は「もう喜びに浸っているのはよしなさい、今はするべき事はほかにある。あなたがわたしに出会ったことを他の弟子たちに伝えなさい」と言われたのでありましょう。

わたしたちにはマグダラのマリアほどの大きな喜びの体験は無いかもしれませんが、何らかの意味でイエスと出会ったという喜びや安心を持っているわけであります。わたしたちイエスの弟子の使命は、この喜びの体験を他の人々に、特にわたしたちが出会う他の人々に何らかの形で、何らかの表現で伝えていくことではないだろうかと思います。それが教会の使命ではないでしょうか。

ところでなぜマグダラのマリアは復活したイエスの最初に出会うという栄誉に浴したのでしょうか。おそらくマリアのほうに、イエスを求め慕う心があったから、しかも強く激しく求めていたからではないだろうか。男性の弟子たちはマリアの後塵を拝することになったのでした。

 

第一朗読  使徒言行録 2:36-41
(五旬祭の日にペトロはユダヤ人たちに言った。)「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:11-18
(そのとき、)マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 

 

 

 

 

なぜ復活したイエスが最初に出会ったのがマグダラのマリアであったのか。

復活の火曜日ミサより

2020413

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。わたしたちの教会はこの復活したイエスに出会った人々の信仰の体験によって成立し、そして発展してきました。

マグダラのマリアの場合は、イエスの生前どこかでイエスと出会い、7つの悪霊を追い出していただいたことがある、と福音書が告げています。それはどういう事であったのか、様々に解釈されていますが、彼女の人生においてそれは大きな意味を持っていたのであります。癒しといいますか、救いということを経験したのでしょう。当然、マグダラのマリアはその時からイエスに従い、イエスを慕って人生を歩んできました。

そのイエスが、十字架につけられて処刑されました。その場面にも彼女は居合わせております。イエスが葬られた時も朝早く墓に詣でています。ヨハネの福音の今日の場面はその後でのマリアの体験を伝えています。

今日の福音では不思議な記述があります。それは、マリアが、イエスが立っておられるのを見たのに、それがイエスだとは分からなかった、となっていることです。どうして分からなかったのでしょうか。マグダラのマリアの方は、イエスがそこにいるということはまったく予想していなかったのでイエスを認める心の準備がなかったから、そのために分からなかったのでしょうか。イエスの方が、マリアに話しかけて、そして「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われると、マリアはその人を園丁だと思ったとあります。そしてなお、イエスの方が彼女の名前を呼びました。「マリア」と言われたこの時にマリアはその人がイエスであると分かったのでした。彼女はすぐに「ラボニ」と答えました。「ラボニ」はわたしの先生という意味であります。その後の場面、非常に有名な場面ですが、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とイエスがたしなめます。この個所はいろいろに訳されています。調べると「わたしに触れていてはならない」「わたしに触れてはならない」「わたしに触ってはならない」などと訳されています。ヨーロッパの名画によくある場面です。ラテン語で「Noli me tangere、ノリ・メ・タンゲレ」の場面と言われています。

この場面は、「マリアはイエスに触ろうとしたので触ってはならない」と言われたという意味なのか、もう触っていて、「もうこれ以上触り続けるのは止めなさい」という意味なのでしょうか。原語から考えると、触っているマリアに「もう止めなさい」と言ったらしいです。

ところで、この時のマリアの気持ち、それは大きな喜びであったと思われます。その喜びに浸っているマリアの様子が窺えます。でもイエスの方は「もう喜びに浸っているのはよしなさい、今はするべき事はほかにある。あなたがわたしに出会ったことを他の弟子たちに伝えなさい」と言われたのでありましょう。

わたしたちにはマグダラのマリアほどの大きな喜びの体験は無いかもしれませんが、何らかの意味でイエスと出会ったという喜びや安心を持っているわけであります。わたしたちイエスの弟子の使命は、この喜びの体験を他の人々に、特にわたしたちが出会う他の人々に何らかの形で、何らかの表現で伝えていくことではないだろうかと思います。それが教会の使命ではないでしょうか。

ところでなぜマグダラのマリアは復活したイエスの最初に出会うという栄誉に浴したのでしょうか。おそらくマリアのほうに、イエスを求め慕う心があったから、しかも強く激しく求めていたからではないだろうか。男性の弟子たちはマリアの後塵を拝することになったのでした。

 

第一朗読  使徒言行録 2:36-41
(五旬祭の日にペトロはユダヤ人たちに言った。)「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:11-18
(そのとき、)マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 

 

 

 

 

マグダラのマリアは使徒たちの使徒

復活の月曜日のミサより

2020年4月13日

第一朗読 使徒言行録2・14,22-32

福音朗読 マタイ28・8-15

 

わたしたちの信仰はナザレのイエスという人の復活という出来事によって成立しました。「使徒たちの宣教」でペトロが人々の前で話しているように、キリストの教会はこのイエスという人の復活という信仰によって成立し発展してきました。

このイエスの復活を宣べ伝えた人が復活の証人であります。「わたしたちは皆、そのことの証人です」とペトロが言っています。

その「わたしたち」の中には女性たちが含まれています。いや、そういうよりもまず、男性の弟子よりも女性の方が先に証人となったのでした。

イエスの墓が空になっていることを最初に発見した人はマグダラのマリアという人でありました。昨日の復活祭の福音が告げている通りです。男性ではなく女性の弟子であるマグダラのマリアという人が朝早くイエスの墓に詣でて、墓から石が取り除けてあるのを見ました。墓の中にはイエスの身体が見当たらなかったのです。そこで彼女は、シモン・ペトロとイエスの愛しておられた弟子のところに行って、主の身体が見当たらないということを報告したのです。

お墓にイエスの身体がないと最初に発見した人はマグダラのマリア、そしてさらに、マグダラのマリアは、復活したイエスにお会いした最初の人であります。明日の福音は、彼女が復活したイエスに出会うという場面であります。

ですから、お墓に詣でて、お墓にイエスの身体がないことを発見した最初の人がマグダラのマリア、そして復活したイエスに会った最初の人もマグダラのマリアでした。彼女はペトロたちにそのことを報告しました。このマグダラのマリアの証言からわたしたちの教会が始まったのです。

そこで、マグダラのマリアは「使徒たちの使徒」(意味は、使徒へ遣わされた使徒)とさえ呼ばれています。

ーー

第一朗読  使徒言行録 2:14.22-33
(五旬祭の日に、)ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。 『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。
あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右にあげられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」

 

福音朗読  マタイによる福音書 28:8-15
(そのとき、)婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。
「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

 

2020年4月12日 (日)

福音化の使命

復活の主日 日中のミサ

2020412

第一朗読 使徒言行録10.34a37-43
第二朗読 コロサイ3.1-4
福音朗読 ヨハネ20.1-9

「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」
今日、復活祭の福音朗読はこのような言葉で始まります。イエスの受難、十字架刑という出来事に直面した弟子たちは驚き慌て、そして恐怖に襲われて、皆、逃げてしまった。しかし、マグダラのマリアという女性はイエスの十字架のもとにとどまっていた、とヨハネは告げています。そして、週の初めの日と言いますから、今日の日曜日、まだ暗いうちにマリアはイエスの葬られた墓に詣でたのであります。墓は空であった。そしてそのことをペトロたちのところに知らせました。この マグダラのマリアの体験と証言から復活の信仰が生まれ、そして広がったのであります。

今日の第一朗読、使徒言行録ではペトロの証言が告げられています。「神は聖霊と力によって、この方を油注がれた者となさいました。」油注がれた者、つまりキリストとされました。

わたしたちはキリスト者、キリストに属する者、キリストに倣う者とされています。ペトロが言っているように、キリストを述べ伝え、証しする者とされました。

今からちょうど33年前のこと、日本の教会は日本の人々に福音宣教するための会議を開きました。福音宣教推進全国会議、いわゆる「ナイス」(NICE)と呼ばれるものであります。そして「開かれた教会づくり」をスローガンとして掲げました。教会から遠い人、苦しんでいる人、弱い立場に置かれている人、悩んでいる人に開かれている、そういう人たちが、自分の場所を見いだしていただけるような、そういうわたしたちの共同体になろうという決意を掲げたのでありました。

福音宣教、あるいは福音化という言葉で言い表されるわたしたちの使命、これはわたしたち全員の使命であります。司祭、あるいは修道者、奉献生活者がもっぱら担当するのであって、他の人は黙って聞いていればよいというわけではなくて、全員が、ここに集まっておられる全員が、それぞれの場所、それぞれの立場で、その人たちにできる福音宣教をするようにと主イエス・キリストは望んでいるのであります。

教会に来て、イエスキリストの教えを聞きたいという方がいらっしゃいます。そういう場合、もちろん司祭が教えを伝えることを行いますが、もうすでに実現していることですけれども、司祭でない方も、イエスキリストの教え、教会の教えを伝えることはできるし、そうしなければならない。いやそればかりではない。キリスト者はそれぞれ自分の置かれている場所で、その場所でできるふさわしい、イエス・キリストの証をしなければならないのであります。

そこでご一緒に考えてみたいことがあります。日本にキリスト教が伝えられて、400年、500年たちます。途中長いキリスト教禁止の時代がありましたが、明治になって、キリスト教が解禁になり、宣教できるようになって150年以上たちます。いまわたしたちは依然として少数者であります。少数者でもいいのですけれども、多くの人にイエス・キリストの福音の喜びを伝えなければならない。そのための努力をしてきました。
そこでどういう点がわたしたちの努力を難しくしているのか。キリスト教というのは、どういう点が、今の日本に住んでいる人々にとって、難しいのか。受け入れるのが難しいのか。どういう疑問があるのか。どんなことがわたしたちの課題であるのか。もちろんイエス・キリストの教えを変更して分かりやすく受け入れやすいようにするわけにはいきません。しかしわたしたちの伝え方、あるいは証しの仕方が人々にとって分かりにくいのかもしれません。よく最近、プレゼンテーションということばを聞きますけれども、どういう風にプレゼンテーションするかということをもっとわたしたちは考え、そして工夫し、新しい試みをしていかなければなりません。

それは「新しい福音化。」これは、どういうふうにしたら新しい福音化、福音宣教になるのか、みんなで考えて、みんなで話し合って進めていくことであります。

――

 

第一朗読

使徒言行録1034a37-43

イエスが死者の中から復活した後、わたしたちはイエスと一緒に食事をした。

使徒たちの宣教

その日、1034aペトロは口を開きこう言った。37「あなたがたはこのことをご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

答唱詩編

詩編1181+216+1722+23

きょうこそ神が造られた日、喜び歌え、この日をともに。

詩編118

1181恵み深い神に感謝せよ。
そのあわれみは永遠。
2
イスラエルよ、叫べ。
神のいつくしみは絶えることがない。

16神の右の手は高く上がり、
その右の手は力を示す。
17
わたしは死なず、わたしは生きる。
神のわざを告げるために。

22家造りの捨てた石が、
隅の親石となった。
23
これは神のわざ、
人の目には不思議なこと。

第二朗読

コロサイ31-4

上にあるものを求めなさい。そこにはキリストがおられる。

使徒パウロのコロサイの教会への手紙

皆さん、31あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

または

①コリント56b-8

新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。

使徒パウロのコリントの教会への手紙

皆さん、56bわずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。7いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。8だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

福音朗読

ヨハネ201-9

アレルヤ、アレルヤ。わたしの過越、キリストはほふられた。主のうちにともに喜び楽しもう。アレルヤ、アレルヤ。

ヨハネによる福音

201週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

 

2020年4月11日 (土)

救いの歴史

復活徹夜祭

2020年4月11日

 

復活徹夜祭の典礼は一年中で最も豊かな内容を示しています。今年は本日読まれる聖書から神の救いの計画を深く味わいたいと思います。

今日の福音の冒頭は次のように記されています。

「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」

男性の弟子たちはイエスの無残な死に接し、「事終われり」と考えたのでしょうが、女性の弟子たちはイエスへの思いが深く、安息日が終わるや否や墓に詣でたのです。マグダラのマリアとも一人のマリアはそこで天使の出現に接します。

天使はイエスの復活を彼女たちに告げます。彼女たちが最初の復活の証人となりました。

此処にいたるまでの長い救いの歴史を本日の典礼を展開しています。

まず創世記22章のアブラハムの犠牲の物語です。

聖書によれば、アブラハムは信仰の模範とされています。アブラハムの生涯は数々の試練の連続でした。なかでも本日朗読されたイサクの犠牲の話は非常に辛く苦しい信仰の試練の物語であります。

神は、長い間子どもに恵まれなかったアブラハムに、イサクというかけがえのない一人息子をお与えになりました。さらに神は、イサクから生まれるアブラハムの子孫は空の星のように増えるだろうと、約束されたのです。

それにもかかわらず、そのイサクを焼き尽くすいけにえとして神にささげるよう命じたのでした。その命令は、要するに独り息子を殺しなさい、ということです。なんと残酷な命令でしょうか。

それでもアブラハムは黙々と神の命に従い、翌朝早く、いけにえをささげる場所として指定されたモリヤの山へ向かいます。三日目までの道中、父と子の会話は何も記されておりません。息子イサクは何歳だったのでしょうか。イサクは自分を燃やすための薪を背負わされたのです。

さて

「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。』アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、『わたしのお父さん』と呼びかけた。彼が、『ここにいる。わたしの子よ』と答えると、イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。』アブラハムは答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。(22・4-8)

この親子のやり取りは胸もつぶれる思いでしか読めません。

その後、アブラハムがまさに刃物を取って息子イサクを屠ろうとしたときに、天のみ使いの声がしました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22・12)

このような展開となり、危うくイサクの命は助かったのでした。非常に分かりにくい話です。この話をわたしたちはどのように受け止めることができるでしょうか?

従順に父に従うイサクの姿は、十字架にかけられたイエスを想起させます。愛する独り子を神にささげる苦悩を体験したアブラハムは、愛する独り子イエスが十字架の上で殺されるにまかせた天の父を思い起こさせます。アブラハムも苦しみ、イサクも苦しんだのに違いないのです。

この話、アブラハムの信仰だけではなくイサクの信仰も注目されるべきです。イサクはイエスの犠牲をあらかじめ指し示すしるしを考えられます。

わたくしは、この物語は、父である神と十字架のイエスの死をあらかじめ指し示すものではないか、と考えます。父である神はご自分のもっとも大切な子であるイエスを犠牲にしてまでわたしたち人間の救いを望まれました。おん子の苦しみは父である神の苦しみであります。そして父の苦しみは同時にそれでも人類を救おうとされる神の強い意志、神の愛の表明であります。

実に、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネの福音3・16)のです。

神はイエスの死の犠牲によってわたしたちを永遠の命へ導きます。

復活徹夜祭で行われる洗礼は、わたしたちイエス・キリストの死と復活の神秘に与らせ、永遠の命へと導く神の恵みを示しています。それは、本日の朗読ローマの教会への手紙(6・3-11参照)が説明しているとおりです。

洗礼の秘跡の教えはすでに本日の朗読、旧約聖書のエゼキエルの預言において述べられておりました。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(エゼキエル36・26-27)

「新しい心」とは「悔い改め罪の赦しを受け清められた心」であり、「新しい霊」とはイエスが弟子たちに注ぐ神の霊・聖霊を指しています。「石の心」とは神の言葉を受け入れないで自分の判断に固執する頑な心です。「肉の心」とは、神の霊の勧めに素直に従う柔軟で従順な心であります。

モーセが受けた十戒は石の板に刻まれていたました。新しい契約の掟は聖霊によって心の中に刻まれます。それは預言者エレミヤが言っている通りです。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。」(エレミヤ31・33) 

 洗礼をうけたときわたしたちは白衣を授かりました。それはわたしたちが「新しい人となり、キリストを着る者となり、神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩む」ためでありました。

 洗礼の時にはローソクの授与という式もあります。この復活のローソクから光を受けて、キリストの復活の光を人々に示す人となるのであります。

 すでに、洗礼を受け、さらに堅信の秘跡を受けたわたしたちは、今日の復活徹夜祭の典礼、本当に美しい、豊かな内容を与えてくださる教えをもう一度味わいながら、わたしたち自身、新しい人、白い衣を着せられた、キリストにおいて新しく生まれた人として、キリストの霊に従って日々歩む人として、これからも歩んでいきますという決意を新たにいたしましょう。

 

創世記の朗読(22:1―18)

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 

ローマの信徒への手紙の朗読(6:3-11)
(皆さん、)あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 

福音朗読  マタイによる福音書 28:1-10
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

2020年4月 9日 (木)

最初のミサ

聖金曜日、主の受難

2020410

今日は主イエス・キリストのご受難を特別に深く黙想するべき日です。

四つの福音書はいずれもイエスの受難を詳しく述べています。4つの福音書のなかでマルコの福音が最も古く成立した福音書であると考えられます。イエスの受難の様子は目撃者に深い印象を残しました。マルコは目撃者の証言をできるだけ忠実に書き残したと思われます。今日聖金曜日には毎年、ヨハネの福音が読まれます。四つの福音書で最後に成立したヨハネの福音では、受難に際しての毅然としたイエスの姿がうかがえます。イエスは言いました。

「わたしの国は、この世には属していない」「成し遂げられた」。

このようなイエスのことばには父である神の御心を行おうとする強い意志が感じられます。

イエスを取り巻く人々、弟子たち、総督ピラト、祭司、兵士と群集は、騒然とした状況の中で、憎悪、懐疑、嫉妬などの狂気のような感情に支配されています。イエスだけが冷静に心の均衡を保っています。この情景をみるだけでも、イエスはまことに神の子である、という印象を持つことができたことでしょう。

総督ピラトはイエスに出会って深い印象を持ったようです。ピラトはイエスに何の罪も見出せませんでした。ピラトはイエスを釈放しようとしますが群集の脅迫に屈してしまいます。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。」

ピラトはこの言葉を受け、保身のためにイエスをユダヤ人の手に渡してしまいます。

イエスの死はどのような意味があったのでしょうか。教会は旧約聖書のイザヤ書にその理由を見出します。イザヤは、主の僕の歌を残しました。「主の僕はわたしたちの病を担い、わたしたちの背きのために苦しみ、懲らしめをうけ、わたしたちの罪の償いを背負わされた」とイザヤは述べています。(本日の第1朗読イザヤ5213-5312)

第二朗読のヘブライ人への手紙では、「キリストは・・・多くの苦しみによって従順を学び、完全な者となられたので、自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となった」(ヘブライ58-9)と述べています。イエスの受難はすべての人々の救いのためでした。

使徒パウロはさらに、イエスの受難は信じる者のために罪の償いの供え物であると述べています。(ローマ324)

イエスの受難は罪人であるわたしたちの救いのための苦しみであり、その死は償いと贖いのための死でした。

さて今日の盛式共同祈願のなかに、「神を信じない人々のための祈り」があります。日本では神を信じる人は多くはありません。できるだけ多くの人にわたしたちの信仰を伝えたいと願っています。そのためにはわたしたち自身の回心と刷新が必要です。

わたしたちは今日、つぎのように祈ります。

「人々が多くの困難の中にもあなたの慈しみを知り、神を信じる人々のよい行いを見て、唯一のまことの神、人類の父であるあなたを信じる喜びに達することができますように。」

この証しを実行できますように祈りましょう。

 

 

 

 

 

 

2020年4月 8日 (水)

主の晩餐の夕べのミサ

聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサ

202049日、

 

 聖木曜、主の晩餐の夕べのミサを献げています。(今年は公開ミサはできませんが。)わたしたちが最も大切にしている祭儀、ミサ聖祭の由来、起源をわたしたちに伝える、いわば、最初のミサの次第を、今日、わたしたちは記念しております。わたしは、今日のヨハネの福音を読んで、感じること、強く思うことを申し上げて、皆様にもご一緒に考えていただきたいと思います。 

 イエスは、ご自分の最後の時が来たことを知って、弟子たちと夕食をともにされました。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。どんなにイエスが弟子たちを愛したかということを示すために、みずから、模範をお示しになり、弟子たちの足を洗われました。今日、この後、洗足式が行われます。足を洗うということは、下僕が行うべき、いわば、卑しい仕事とされていた。(今年は中止ですが。)

 人々は足を洗うということを大切にし、足を洗う役を持っている人がいたそうであります。イエスは、みずから弟子たちの足を洗って、模範を示し、あなたがたも互いに足を洗い合いなさいと言われた。他の箇所でイエスが言われたことは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということでありました。その言葉を、身をもって実行し、一つの模範例を示したのだと思われます。 

 わたくしは、今日もまた、イスカリオテのシモンの子ユダという人のことを考えてみたい。非常に悪名高いイエスの弟子ですね。イエスを裏切った人。裏切ったという点では、弟子たち全員が同罪なのです。どう違うのでしょうか。ペトロの方は、裏切るというつもりは全然なかった。「わたしはあなたのためなら命を捨てます」と大見得をきったわけです。でも、実際はそうはいかなかった。そこは人間の弱さのためであると、我々には理解できる。このユダの方は、どうだったのでしょうか。なぜ、イエスを裏切ったのでしょうか。もう裏切ろうという気持ちを持っていた。最初からそうだったのでしょうか。途中からそうなったのでしょうね。

 イエス自らが言っているわけです。弟子を選んだのはわたしである。弟子の方がイエスを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。選ばれた人の中に、ユダもいた。ユダはイエスから選ばれた人なのですね。イエスから使命を受け、期待をかけられていた。どうして途中でイエスから離れようと思ったのか。離れるだけでなく、裏切る、敵の手に渡す、手引きをして売り渡すことをしようとし、そして実行したわけであります。そして、あとで後悔した。ペトロもあとで後悔した。後悔したという点では同じですが、ユダの方は自ら申し訳ないと思ったからか、自殺してしまった。ペトロの方は、痛悔の涙を流し、そして、以後、イエスに従い、殉教の最後を遂げた。

 皆さん、この2人の違いについて、今週の聖週間の典礼の朗読で弟子たちの心の動きを伝えていまして、ユダのことが非常に頻繁に出てくる。あなたがた12人はわたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。これはイスカリオテのシモンのユダのことを言われたのであると、ヨハネの福音書が言っている。そして、マタイの福音ですけれども、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかったほうがその者のために良かったと言われた、とあるわけなのですね。この言葉が難しいですね。生まれなかった方が良かった。でも、生まれなかった方が良かった者をイエスは選んでいるわけですね。選んだ時に、まさかこの人が自分を裏切ることになる、裏切るという役を彼にやらせようと思って選んだわけではないでしょう。このユダという人は、多くの人の関心を引いています。どうして裏切ったのだろうか?

 いろいろな見方があるようですが、ユダはイエスに期待をかけたが、その期待がかなえられなかったのでしょうね。どんなことを期待したのでしょうか。他の人たちもそうですけども、力強い王、イスラエルの人たちが待ち望んでいたメシア、外国の支配、ローマ帝国の支配から自分たちを解放し、ダビデ、ソロモンの栄華を回復してくれる政治的、軍事的指導者になるという期待をしていたが、一向そうなるような様子はないし、むしろ、そういうことを否定しているような成り行きでした。その様子に失望したからだろうか。あるいは、この弟子の間のこの争い、確執があって、ユダは孤立していたのかもしれない。イエスがどの弟子を重んじているかということは、十二人の間で大きな関心だったとあるわけです。そういう弟子たちの間の争い、確執というものが、ユダを裏切りへと導いたのでしょうか。 他の弟子に対する嫉妬、妬みが彼を裏切りに駆り立てたのでしょうか。あるいは、何であったのでしょうか。わかりません。色んな人が色々想像して、でも、ともかく裏切った。イエスはユダが自分を裏切るだろうということは、途中からか、途中からだと思いますが、わかっていた。それで今日の場面ですが、十二人の弟子の足を洗ったのですから、その中にユダもいたわけですよね。そして、ユダのことを、友よと呼んでいます。そして、わかりにくいのですが、「あなたのすべきことをしなさい」とも言われた。

 難しい問題です。ユダは特別悪い奴だったので、わたしたちに関係ないとは思えない。わたしたちの人生の中に、人と人との関わりの中で、裏切る、あるいは、信頼に応えない、応えられないという問題が起こるわけです。ペトロの方は、もう分かりやすいですね。ペトロの方は、単純にイエスについて行こうとし、どんな事があっても、あなたのことを知らないとは言わないし、見捨てることはしないと言ったけれども、ものの見事に三度も知らないと言ってしまった。これは分かりやすい。

 ユダいう人の方は複雑で、どういう人なのか分かりにくい。世俗的な能力があったのでしょう。会計係を仰せつかっていた。それで、財布の中身を誤魔化していたということであります。このようなイエスと弟子の集団の中で起こった出来事と、ユダヤの社会の指導者、祭司、律法学者、そして、ローマ帝国の支配。このような様々な要素の中で、ナザレのイエスという人が自分の生き方を貫いて、苦しみのうちにもぶれることなく、まっすぐに父のもとへ向かって、苦しみの道を歩んでいく。わたしたちの宗教は、そのイエスを父である神が復活させたという信仰に基づいているのであります。

 

 

 

 

2020年4月 7日 (火)

ユダはなぜイエスを裏切ったのか?

受難の水曜日ミサ説教

2019417日、本郷教会

 

昨日はヨハネの福音ではユダとペトロの裏切りについての箇所が読まれましたが、今日はマタイの福音がユダの裏切りについて述べています。今日イエスが言われた言葉、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉は衝撃的です。このことばをどう受け取ったらよいか、が議論されています。そもそも生まれなかった方がよい、という者がありえるのだろうか、イエスの口からそのような言葉が本当に出たのだろうか、という疑問が生じています。ルカの福音ではこの言葉が省かれています。他方マルコの福音でも同じ言葉が記されています。どういう意味だろうか。イエスは12人をご自分でお選びになったのでした。ユダはイエスが選んだ人です。非常に才能のあった人で、イエスの集団の会計係をしていて、実務的な分野で才能を発揮していたと思われます。他方他の弟子たちとの間で折り合いが良くなかったのではないかと考える人もいます。

昨日も申し上げたのですが、ユダはどうしてイエスを裏切ったのであろうか。他の弟子たちもイエスの受難に際して恐怖のあまりイエスを見捨て、裏切ってしまいました。ペトロの裏切りの場合は理由が分かりやすい。他方、ユダの方は分かりにくいと思います。「生まれなかった方が、その者のためによかった」とイエスに言われてしまった。イエスは苦しいユダの心中を察し同情して、「あなたが生まれなかったらこのような苦しみに出会わなくてすんだでしょうに」という意味でそういったのでしょうか。決してユダの存在自体を否定してそう言ったのではない、と考えられる。あるいは、「まだ遅くない、あなたのその計画を辞めなさい」と言おうとしたのか。イエスは、他の弟子たちに、「裏切り者がユダである」とは言わなかった。いつの時点で裏切りが成立したのか、ということも微妙な問題です。すでにユダは祭司長たちの所に行き、銀30枚でイエスを引き渡す約束をしているので、裏切りは始まっていた、と言えます。昨日のヨハネの福音では、ユダがイエスかからパン切れを受けたときにサタンが彼の中に入った、となっています。どいう風に考えたらよいのか、・・・難しい問題です。

ユダの裏切りは神の計画に入っていた。ユダに裏切らせることによって、イエスは十字架の刑が成立し、その結果イエスは全ての人の救いを成し遂げた。ユダの裏切りは神の計画のシナリオに入っていたのである。」そういう見方もあります。しかしそれはユダにとってあまりにも気の毒な見方です。またさらに、ユダの裏切りをむしろ良いこととして評価しユダに感謝すべきである、という極論さえもあるようです。

このように、ユダという人について様々な意見、見解がありえます。わたしたちはどう考えるか。一つわたしが昨日からなるほどと思ったことがあります。

イエスが、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言った時、弟子たちは非常に心を痛めました。そして

「『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」

とあるのです。『主よ、まさかわたしのことでは』と言った時の弟子たちの気持ちはどのようなものであったでしょうか。もしかしてそれぞれの弟子は、多少とも自分にもイエスを裏切る可能性がある、という自覚を持っていたのかもしれない、と思うのです。人は何かのきっかけで、重大な背信行為に走ってしまうこともありうる、と考えてしまいます。そのような可能性、ユダになるという可能性が自分の中にもある、ということをしみじみ考え思う必要があるのではないか、と思います。

 

 

 

 

 

2020年4月 6日 (月)

ユダの裏切り

受難の火曜日ミサ説教

20204月7日、本郷教会

 

今日は受難の火曜日です。今日の福音朗読はヨハネによる福音で、イスカリオテのユダの裏切りという劇的な場面を伝えています。

イエスは、過越祭の前に弟子たちと食事をしましたが、その時言われました。

「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

弟子たちは非常に驚きました。福音書は述べています。

「イエスの愛しておられた者」がイエスに『主よ、それはだれのことですか』と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。・・ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」

イエスからパンを受け取った時にユダは裏切りを決意したのでしょうか。「夜であった」という表現が印象的です。闇に覆われる夜は罪の支配の時を現しているかのようです。

なぜ、ユダはイエスを裏切ったのでしょうか。ユダもイエスが選んだ12使徒のひとりです。イエスは、ユダへ期待したので、彼を選んだのではなかったでしょうか。彼が裏切ることを知っていたのに、それでも彼を選んだとは考えにくい。ユダの期待にイエスが応えなかったので、彼はイエスから離れていったのだろうと思われます。ユダはイエスに何を期待していたのでしょうか。この世における成功と権威に参加できるという期待があったのでしょうか。

イエスの裏切りの動機について種々に言われています。

ユダが他の弟子たちを嫉妬していたたからとか、イエスに失望したからとか、弟子たちの中で孤立していたから、という人もいます。

他方、ペトロの方は、イエスの身の上に異変が起こることを知って訊ねました。

「『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」」

イエスのためなら命を捨てるといったペトロの心には偽りはありませんでした。しかし、彼は自分の弱さを知りませんでした。結果はイエスの予言通りとなりました。

ユダもペトロも「裏切り」は同じです。しかし、その動機と結果は違っています。

 聖週間は、イエスをめぐる人々の心の動きを追体験するときです。その気まぐれな群集心理、臆病な弟子たち、自己保身を優先する指導者たち、人々の人間の心に住んでいる残酷さ。そのような状況でイエスは最後まで、平和で和な態度を保持しました。イエスはあくまでも、今日の第一朗読、イザヤの預言の言葉「わたしの神こそ、わたしの力(495)」という父への信頼を生きていたのです。このイエスの生き方を見つめながら、わたしたちが死と復活の過ぎ越しの神秘に深く与ることができますよう、祈りましょう。

 

第一朗読  イザヤ書 49:1-6
島々よ、わたしに聞け遠い国々よ、耳を傾けよ。
主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して、わたしに言われた
あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
わたしは思った、わたしはいたずらに骨折り
うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
働きに報いてくださるのもわたしの神である。
主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形づくられた主は、こう言われる。
わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

福音朗読  ヨハネによる福音書 13:21-3336-38
(そのとき、イエスは弟子たちとともに食事の席についておられたが、)心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

 

 

ベタニアのマリアとユダ

難の月曜日ミサ説教
2019年4月15日、本郷教会
第一朗読 イザヤ42.1-7
福音朗読 ヨハネ12.1-11

 

昨日から聖なる一週間が始まり、今日は受難の月曜日であります。今日の福音、ヨハネの12章は、過ぎ越し祭の6日前にベタニアで起こった出来事を告げています。イエスは、度々、ベタニアにある、マルタ、マリア、ラザロの家に赴かれたようであります。
さて、この時、マリアは、純粋で、非常に高価なナルドの香油を、一リトラというかなりの量を持ってきてイエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭いました。家は香油の香りでいっぱいになりました。このマリアのしたことは大いに人々を驚かせました。この時の情景が目に浮かんできます。
後でイエスを裏切るイスカリオテのユダは、このマリアの行為を非難して言いました。「なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
3百デナリオンというお金は相当な金額になります。1デナリオンが1日の労働者の賃金であると言われますので、1年分の給与近い金額に相当します。このような高価な香油を使ってマリアは何のためにこのようなことをしたのでしょうか。
マリアの心とユダの心の間には大きな隔たりがあったようであります。マリアはひたすらイエスのことを思い、そして、間もなくイエスがこの世から去ることを予感し、その葬りのための用意をしたのではないかと考えられています。更に、イエスこそまことの王であり、油注がれた者、メシアであるということを、予め、前もって、人々に指し示したのではないか、とも考えられます。
それに対して、イスカリオテのユダの考えていたことは何であったのでしょうか。ユダが本当に貧しい人のことを思って言ったのではなくて、彼はイエスから会計を預かっていて「その中身をごまかしていた」と書かれています。彼はそのお金を、貧しい人のために使うことを考えたのではなく、ごまかしているお金のことを思って、そう言ったのであると福音書は告げています。
昨日から始まった聖なる一週間、イエスがどのようにして十字架上の死に赴いていったのか、イエスを取り巻く人々の心はどのように揺れ動いていったのか、そして、その一週間の中で、2千年後のわたしたちは、自分自身の心を見つめながら、主イエスの受難の意味を黙想し、そして、死から命への過ぎ越しの神秘を思いながら、大きな復活の喜びにあずかることができますよう、心静かに過ごしたいと思います。

第一朗読  イザヤ書 42:1-7
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。
島々は彼の教えを待ち望む。
主である神はこう言われる。
神は天を創造して、これを広げ
地とそこに生ずるものを繰り広げ
その上に住む人々に息を与え
そこを歩く者に霊を与えられる。
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。
見ることのできない目を開き
捕らわれ人をその枷から
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 12:1-11
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

 

 

 

2020年4月 5日 (日)

イエスの苦しみ

受難の主日A年、2020年4月5日

 

 

今年の受難の主日は公私ともに、特別な思いで迎えました。

世界中がコロナウイルスの感染の不安と恐れに覆われています。コロナウイルスは神の怒りの現れだという言う人がいます。わたしはそうは思いませんが、しかし、これは人類にとってどんな意味があるのだろうかと考えさせられます。国境を越え体制・文化・言語を超えて同じ病気の問題で人類が苦しむ。人類の間の深いつながりを感じます。

2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。そのとき日本にいた子どものエレナさんが時の教皇ベネディクト16世に質問を送ったところ、驚いたことに、教皇はその質問に答えたのでした。質問は、

「教皇様、日本に住んでいるわたしたち子どもは非常に怖い目に合っています。どうしてですか?教皇様、神様に聞いてください」

という内容でした。教皇は答えました。

「どうしてか、わたしにもわかりません。しかし信じてください。神様は皆さんの苦しみをご存じです。世界中の人々が皆さんのために祈り心配しています。どうしてか、ということがわかる時がいつか来るでしょう。」

およそそのような内容でした。

さて、ただいまわたしたちは、マタイによる主イエス・キリストの受難の朗読を聞きました。二千年前に起こった、ナザレのイエスと呼ばれる、ひとりの男の最後の場面を、教会は大切な記憶として、今日まで伝えております。

イエスが受けた苦しみは、十字架につけられるという、肉体の苦しみだけでなく、弟子たちから裏切られ、見捨てられ、人々から侮られ、蔑まれるという、精神的な苦しみでした。
更に、今日の朗読が伝えている、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」というイエスの言葉から想いますに、それは、父である神から見捨てられるという心の苦しみではなかったかと思います。

イエスが十字架につけられて、そして、息を引き取るまでの様子を、聖書は詳しく伝えていますが、先ほどの朗読によると、12時頃から、暗闇が辺りを覆い、3時まで続いたとあります。3時頃、イエスは息を引き取りました。暗闇が、世界全体を覆っている。その状況を、わたしたちは想像しています。そして、この暗闇は、イエス自身の心をも襲った暗闇ではなかったでしょうか。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。イエスの口から発せられた、この言葉は人々の心に、強く、深く、刻み込まれました。それはマタイの福音が開設しているように、「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになるのか」という意味でした。そして、この言葉は、本日の答唱詩編22の冒頭の言葉と全く同じ文言です。

イエスのこの言葉は、何を意味しているのでしょうか。
わたくしは、このイエスの叫びは、イエスの心が罪の力、闇によって覆われていたことを表していると思います。「罪」とは人が神から離れている状態です。神の光が届かない暗闇を意味します。

 イエスは、全く罪のない人でしたが、「神は、このイエスを罪とした」とパウロは言っています。パウロの言い方では、「罪とは何の関わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって、『神の義』を得ることができたのです」(コリント二5・21)となります。

「神の義」という言葉が、わたしたちには、いまひとつわかりにくいのですが、「イエスが罪とされ苦しみを受けたのは、イエスの苦しみを通してわたしたちが罪の赦しを受けるためであった」という意味であると考えられます。イエスは、わたしたち罪人のために、罪人に代わって、罪の闇を引き受けてくださったのです。

イエスの死はすべての人のための死でした。この「ために」には二つの意味があると思います。まず「原因」です。わたしたちの罪が原因で、罪のゆえに苦しみを受け、死んでいった、という意味。もう一つは、「目的」。わたしたちを罪から解放するために、私たちの救いのために、という意味です。

父である神は、このイエスの苦しみを献げものとして受け入れ、その答えとして、イエスを復活させました。そして、すべての人のために、永遠の命への道を開いてくださったのです。

本日の第二朗読は言います。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公にのべて、父である神をたたえるのです。」(フィリッピ2・10-11)

 

一人の人ナザレのイエスの死がすべての人の救いとつながっているという深い神秘を黙想いたしましょう。

2020年4月 4日 (土)

一人の死が皆の救いになる

四旬節第5土曜日ミサの聖書朗読と福音朗読

 

エゼキエル。ダヴィデの王国は南北、ユダとイスラエルに分裂、やがて両国とも滅亡する。エゼキエルの言う一人の王に治められる王国はどのように実現するのか。

ヨハネの福音。カイアファの発言。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」彼は政治的な意味でそういった。図らずもイエスはすべての人の救いのために死ぬことになる。イエスの死がどのような意味ですべての人の救いにつながるのか。キリスト教信者はその信仰をどう説明しあるいはどう実証するのか。課題です。

 

第一朗読  エゼキエル書 37:21-28
主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に別れることはない。彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」

 

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 11:45-56
(そのとき、)マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」

 

 

 

 

 

 

2020年4月 3日 (金)

復讐

四旬節第5金曜日 

エレミヤ書。エレミヤの訴え。「わたしに見させてくださいあなたが彼らに復讐されるのを。」これは気になります。この気持ち、わからないではないが。しかし自分で復讐するのではなく主に復讐を任せる。ローマ書にも同じ趣旨が出ている。復讐は神に任せない。自分で復讐しないで敵のために祈り悪に対して善をもって報いなさい。

ヨハネの福音。イエスは冒涜の罪を問われる。イエスの主張。神は自分の中にいる。神の子なら神が宿っている。人は神の子。神である「神性」が神の子には与えられている。

それではわたしたちの場合はどうだろうか。自分が神の子であるとはどういうことだろうか。死にゆく人間が神の子とは死を超えた命を前提にしないでは考えられない。

 

第一朗読  エレミヤ書 20:10-13
わたしには聞こえています多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
しかし主は、恐るべき勇士としてわたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき勝つことを得ず、成功することなく甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのないとこしえの恥辱である。万軍の主よ正義をもって、人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。わたしに見させてくださいあなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。

福音朗読  ヨハネによる福音書 10:31-42
(そのとき、)ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。

 

 

2020年4月 2日 (木)

悪魔憑き

四旬節第5木曜日

 

聖週間がまじかとなった。今日の第一朗読、アブラハムの話。

わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。」

この託宣は何を意味するのか。武力でカナンの先住民を征服せよと解釈したのだろうか。モーセの後継者ヨシュアはヨルダン川の東西の民、王たちを皆殺しにしたのであった。イスラエルのパレスチナ占領は今日まで尾を引くパレスチナ紛争の原因になっているのではないだろうか。(「ヨシュア記」参照)

今日の福音、イエスは悪魔に憑かれている、と言われている。このことは心にとどめるべき。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」この男頭がおかしい。頭がおかしいのは悪霊の所為だ、と考えたのであろう。

聖書は難しい。

第一朗読  創世記 17:3-9
(その日、神は、ひれ伏しているアブラムに)語りかけて言われた。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」神はまた、アブラハムに言われた。
「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。」

福音朗読  ヨハネによる福音書 8:51-59
(そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 

 

 

 

 

 

2020年4月 1日 (水)

イエスはだれか。

イエスは『わたしはある』

四旬節第5水曜日ミサ説教
2019年4月10日

 

次の日曜日は受難の主日(枝の主日)であります。そしてその日からの一週間が聖なる一週間(聖週間)であり、4月21日が復活祭となります。わたしたちは毎日ヨハネの福音を読みながらイエスの最後の一週間の出来事、受難に向かって歩んでいます。
イエスとユダヤ人の間には、神とはどんな方であるのか、ということについての大きな理解の違いがありました。イエスは、自分は神から遣わされた者であり、神から聞いたことを人々に伝えていると主張していますが、彼らはそれを認めることが出来なかったのでした。
昨日の福音で、イエスは、自分は「わたしある」という者だと言われました。「わたしある」は、モーセにあらわれた神が、モーセから名前を聞かれて「わたしはある」であると答えたときの「わたしはある」であります。そこで、イエスがヨハネの福音で、自分を「わたしはある」ギリシャ語で「エゴーエイミイ」としたということは、は神に等しい者であるとした、ということになります。昨日の福音で「多くの人はイエスを信じた」と在りますので、問題は解決したのかと言えば、今日の福音によると、そうではありません。「信じた」と言いますが、何をどのように信じたのか、分からなくなってきます。「信仰」と言ってもその内容、程度にはいろいろであるということになります。彼らは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言ったイエスの「自由にする」という言葉に躓いたのでした。
「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
とユダヤ人は言っています。自分たちは誰の奴隷でもない、アブラハムの子である、と彼らは主張しました。それに対してイエスは、アブラハムの子ならアブラハムのように生きている筈なのに、あなたがたはわたしを殺そうとしているではないか、と言いました。あなたがたは血筋の上ではアブラハムの系図に属しているだろうがアブラハムの信仰を生きていないではないか、とイエスは言っているのです。それどころか「あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」とイエスは言われました。さらに言われました。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」
此処でイエスが言う「父」とは誰か。ヨハネの福音のこの先を読んでみると、この父とは「悪魔」である、ということになります。
此処で話は跳びますが、今日のこのヨハネの福音はわたしたちに何を語っているのでしょうか。わたしたちはイエスを信じてイエスの弟子となりましたが、わたしたちはイエスの弟子であるという信仰をどのように、どの程度生きているでしょうか。いまわたしたちは日々の生き方を深く反省する時を迎えています。

 

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