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2019年9月19日 (木)

罪深い女

年間第二十四木曜日 ミサ説教

2019919()、本郷教会

 ある罪深い女性の話であります。イエスはこの女性に、「

あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ750

と言われました。

イエスは、ほかの場面でも同じような言葉、「あなたの信仰があなたを救った。」と言っています。

今日の話も、ファリサイ派の人とイエスの間に起こった、信仰の理解の違いの物語ではないかと思われます。

この罪深い女とはどんな女性だったのでしょうか。

この話はどこで起こったのでしょうか。おそらく、イエスが活動した主な場所、ガリラヤの湖のほとりではなかったかと思われますので、カファルナウムかもしれないと思われます。

罪深い女というのは、もしかしたら娼婦であったと考えられます。

この女性は、イエスのことをすでに知っていました。

もしかしたら、何処かでイエスの話を直接聞いたことがあったのかもしれない。

イエスは神の愛、神のいつくしみを説いていました。

「いつくしみの特別聖年」という、特別な期間があったことを思い起こします。

イエスは、「神はいつくしみ深い」ということを説いたのでありました。

この女性は、人々に後ろ指さされ、爪弾きされるような仕事をしていた。

そのことを非常に後ろめたく思い、毎日辛い思いをしていたと思われます。

このような自分でも救われるのだろうか。そういうふうに思ったことでしょう。

しかし、イエスの話を聞いて、神は自分を赦してくれると思うようになった。

どんなに辛いことがあっても、自分を受け入れてくれる者、自分を赦してくれる存在、

自分を認めてくれる者がこの広い世界に一人でもいる限り、生きるための力をいただくことができるのではないでしょうか。

毎日辛い思いをしていたこの女性にとって、イエスとの出会いは、命を賭けた大切な出来事でありました。

イエスを通して、いつくしみ深い神を知った女性は、精一杯の感謝の気持ちを表したのでありました。

その女性の感謝の仕方は、非常識というのでしょうか、人を十分に驚かせるに足るものであった。

特に、イエスを食事に招いたファリサイ派の人を躓かせたのです。彼女の行動はファリサイ派の人には到底受け入れ難いものでありました。

そのような女性の行為、

「この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。」(ルカ744

「この人は足に香油を塗ってくれた」(ルカ746)をイエスは受け入れました。

このようにして、この女性はなりふり構わずに精一杯、自分の感謝の気持ちを表したのでありました。

そのような女性をイエスは庇って言われた。

「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ747

この女性は、赦されたということを信じ、そして罪深い自分が赦されている、受け入れられているということを信じ、大きな喜びをもってイエスへの感謝を表したのでありました。

 

いつも同じことを言っておりますが、福音宣教というのは、良い便りを告げ知らせることであります。

聞く人にとって、良い便り、喜ばしい便りを告げ知らせなければならない。

この女性の場合は、いつくしみ深い神が自分を赦し受け入れてくださっているということを身をもって表現し行動で示してくださった方がナザレのイエスであったので、そのイエスに対する限りない感謝の念を、このような特別な行動で表明したのでありました。

わたしたちの場合、なにが福音であって、そしてどのようにしたら福音への感謝を表すことができるでしょうか。

 

大酒のみのイエス

年間第二十四水曜日 ミサ説教

2019918()、本郷教会

 

イエスの述べた神の国の福音は、受け入れる人もいましたが、受け入れない人も少なくはなかったのであります。

今日の福音によると、イエスは、悪口を言われています。

「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカ734

イエスは、代表的な罪人と思われていた徴税人の仲間であるとされていました。

教会の使命は、福音宣教ということですが、現在において徴税人という言葉で表されている罪人とは、誰のことでしょうか。

罪人という言葉は、今の人たちには受け入れ難い言葉でしょう。

確かに、罪人と犯罪人は違いますが、自分が罪人であるとは、どういう場合をいうのだろうか。

自分は救いを必要としている、このままの自分では駄目だ、足りない、寂しい、虚しさを覚えているという人は、多くいるのではないだろうか。

そういう人々のためにイエスは来たのであると思われる。

イエスによって建てられ、遣わされているわたしたち教会は、現代において、もしナザレのイエスが宣教するとしたら、どのようにして誰と一緒に何を言い、何をするのか。

多くの人が求めてはいる、しかし、その求めていることが何であって、その求めていることにわたしたちはどのように応えているのでしょうか。

カトリック教会は敷居が高いと思われ、日本の司教協議会は1987年に、その敷居の高さを取り除くための全国集会を開いて、誰にでもどんな人にでもアクセスしやすい、そこに行ったら助けがある、安らぎがあるという、そういう教会になりたいと宣言したのでありました。

その方針が今どのくらい実現しているだろうか。

さまざまな努力をしたが、依然としてイエス・キリストの福音は、遠い存在になっていると思わないわけでもない。

この前の日曜日の福音は、ルカによる福音15章で、「迷い出た一匹の羊」、「失われた銀貨」、そして「放蕩息子」の三つのたとえ話でありましたが、自分たちが失われた者であって、失われた者として行くところがあればどこかに行きたい、その行くべきところ、縋りつくべきところ、受け入れてくれるところが何であるかということを、もっと明確にしなければならないのではないかと、いつも考えております。

 

2019年9月18日 (水)

監督

年間第二十四火曜日 ミサ説教

2019917()、本郷教会

 

ナインというところで、イエスの一行は、お葬式の行列と出会いました。

ある母親の一人息子が亡くなったのでありました。

イエスは、この母親を見て、憐れに思い、亡くなったこの一人息子を生き返らせたのでありました。

イエスの母親はマリア様ですけれども、父親のヨセフは先に亡くなったので、マリア様もやもめの生活をしていたのだろうと思います。

イエスは、この母親に深く同情なさったのでありました。

この話は分かりやすい。

深く憐れという言葉は、心から同情するという意味であって、聖書のいろんな箇所で使われております。

 

第一朗読は、テモテへの手紙ですけれども、「監督」それから「奉仕者」にはどのような人が相応しいかということが述べられています。

「監督」という職は、スーパーバイザー、今日では司教が「監督」に該当するのでありますが、当時の「監督」は、今の司教とはかなり違う役割を持っていたのでしょうか。

「自分の家庭をよく治める人でなくてはなりません」(一テモ34)とされております。

「奉仕者」の方も、同じであります。

 

昨日、長崎教区で補佐司教の叙階式がありました。

あらためて、司教という人は、どういう人でなければならないのかということをつくづく考えてみますと、自分の名誉を求めない人でなければならないと思います。

自分のパワーを使って人を支配しない人でなければならないと思います。

これがなかなか難しいことではないだろうかと思うのであります。

 

2019年9月17日 (火)

喜び祝うのはあたりまえではないか

年間第24主日説教

9月15日(日曜日)敬老の日、茂原教会

  今日の福音はルカの福音の15章に出てくる三つの譬話であります。三番目のたとえ話は有名ないわゆる放蕩息子のたとえであります。

今、お聞きになった通りですが、弟の方は父親から自分の財産の分け前を貰い受け父親の家を出て遠い国へ行って、放蕩して財産をすべて使い果たしてしまいました。折しも飢饉が起こり彼は食べる物にも困ってしまった。豚の世話をさせられる、というユダヤ人には屈辱的な状況に置かれて、やっと彼は「我に返った」のでした。

この「我に返った」ということは、どういうことでしょうか。大切な言葉です。

本来の自分に目覚めたということでしょう。「父の所に帰ろう」と思ったのであります。父のところに帰るということは、自分のいるべき場所は父の所であるということを深く悟ったのであります。

「底つき体験」というのでしょうか、どん底の状態におかれて、初めて自分の本来いるべきところは父の所であるということに気が付いたのでありました。この弟の体験は、人類全体の体験を象徴しているように思われます。父親の方は、出ていった弟の方を毎日心配しておりました。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけてあわれに思い、走り寄って首を抱き接吻した」とあります。弟の方は父親に詫びを入れて赦してもらおうと思いましたが、父親の方は最後まで言わせないですぐに彼を受け入れて、息子としての待遇を与えているのであります。

この話とよく似たたとえ話が仏教の方にもあります。長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬と言いまして、長者は金持ち、窮子は窮乏状態で困り果てた状態にある息子という意味でしょう。同じように家を出て放蕩三昧したが、困り果てて、やっとたどり着いた豪華な家で、彼は雑用係に採用されました。実はその家の主人は、息子を探そう思って家を出て、新たに家をかまえた父親であった。父親はすぐにその男が自分の息子であることに気が付いたが、あえてすぐには父親の名乗りをあげなかった。息子の方は、その家の主人が自分の父親であるとは夢にも思わなかった・・・。

そういう話でありました。父親の方はすぐに親子の名乗りをしたいと思ったが、そこは辛抱して、息子には掃除などのいわゆる汚い仕事をさせて息子がすっかり性根を叩き直されたところで初めて親子の名乗りをするようにした、という話でございます。

ルカの15章の譬話とは対象的で、父親は息子になんの罰も与えないし、質問もしないし、責めることもしない。無条件に受け入れているのであります。ただ自分のところに戻ってきたという事実だけで大喜びで宴会を催したという。

この話を私たちはどのように受け取ったらよいでしょうか。兄の方は、この父親の態度を理解することができなかった。わたしたちの場合はどうであろうか。

仏教の方が理にかなっているような気がしないでもない。福音書の父親のように、そんなに甘いことをしていたのでは息子のためにならないし、しめしがきかないと、普通は思うかもしれない。回心とか、悔い改めということを、わたしたちはよく聞くし、よく話すのでありますが、それはどういうことだろうか。

回心とは、神の方に向かって向きを変える、神の方に向かうということであります。神の方に向きを変えるということは、神を信じる、神の慈しみを信じるということ、神の方にわたしたちの心を向けるということが、神の慈しみ、神のあわれみを信じる、ということではないかと思うのであります。

このような、父である神様の心というものをイエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに説明したのであります。

もしかして、この兄の態度はファリサイ派の人々や律法学者を指しているのかもしれない。

神がわたしたちに求めていることは、まず何よりも自分のところに戻ってくるということであります。

神のもとに立ち帰るというのはどういうことだろうか?

わたしたちの場合、どうすればよいのだろうか?

立派な人間にならないとわたしたちを神様は受け入れてくれないのだろうか、これこれの事をちゃんとできるようにならないと神様の前に立てないのではないだろうか、という思いがあるかもしれませんが、神が求めていることは信頼をもって自分の方に顔を向けるということであって、わたしたちがどんな状態にあろうとも、或いは、相変わらず罪びとであっても、過ちを犯していても、不完全であっても、そのことは問わない、ということではないだろうかと思うのであります。

 第一朗読は、怒りに燃える主なる神さまをモーセが宥めたので、神は民に災いを下すことを思いなおされたという話でありました。

第二朗読は、使徒パウロが、自分が如何にひどい罪びとであった、冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者であったが、神は忍耐をもって自分を見逃し、そして回心に導いてくれたという話でありました。

 わたくしの念頭にはいつも「日本における福音宣教」ということがあります。

何が福音であるのか?福音とは何であるのか?

わたしたちは何を人々に伝えなければならないのか?

たくさんの教えや掟がありますが、あまりにも複雑で難しそうに見えるので、なかなか人々にはなじみにくい。その中でこれさえ伝えれば、あとは自ずから備わってくる、というものがあるのではないだろうかと思うのであります。

さて、今日は敬老の日に因んで、これより病者の塗油が行われます。

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年間第24主日C年

 第一朗読  出エジプト記 32:7-11、13-14
(その日、)主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

 第二朗読  テモテへの手紙 一 1:12-17
(愛する者よ、わたしは、)わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 福音朗読  ルカによる福音書 15:1-32
(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

 

すべての人を救う神

聖コルネリオ教皇 聖チプリアノ司教殉教者 ミサ説教

2019916()、本郷教会

今日の福音は、カファルナウムに駐屯していた、ローマ軍の百人隊長の僕のいやしの話であります。

以前、聖体拝領の前に唱えていた言葉は、今日の福音から採られていました。

「主よ、わたしは主をわが家に迎え奉るに足らぬ者である。ただ一言語り給え。そうすればわたしの霊魂はいやされるであろう」

聖体拝領の前の祈りに採用されていました。

イエスは、百人隊長の信仰を称賛して言われました。

「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」

(ルカ79

イエスは、何人かの人にむかってその信仰を称賛し、あるいは「あなたの信仰があなたを救った。」と言っておられます。

さて、今日の第一朗読も非常に大切な箇所であります。

テモテへの手紙一

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」

(一テモ24

このパウロの教えを、第二バチカン公会議の後の教会は、どのように受け取っているのでしょうか。

「教会のそとに救いはない」という言い方がずっとありましたが、他方、異邦人の中にも、イスラエルの人が及ばないような深い信仰の人もいたのであります。

そのような人の救いは、どうなるのでしょうか。

イエス・キリストは、唯一の仲介者でありますので、イエス・キリストの仲介を経なければ、天の父のもとに行くことができないということになります。

しかし、イエス・キリストに出会う機会がなかった人は、イエス・キリストを信じる機会が与えられなかった人は、どうなるのでしょうか。

他方、神は、すべての人が救われて、真理を知ることを望んでいる。

この二つの命題、神はすべての人が救われることを望んでいるということと、イエス・キリストは唯一の救い主であるという、この命題をどのように両立させたらいいのだろうかという難しい問題があります。

第二バチカン公会議は、この問題に次のように答えました。

「神は、神だけがご存知の方法で、すべての人がイエス・キリストの過越の神秘に与ることができるように取り計らってくださる」

 

 

 

 

 

 

2019年9月15日 (日)

自分を無にする

病者のためのミサ説教

2019914() 十字架称賛の祝日、本郷教会

神は、すべての者が救われて永遠の命に入ることを望まれ、御子イエス・キリストを

わたしたちのところにお遣わしになりました。

イエス・キリストは、神の御子でありながら罪ということを除いてすべての点で、わたしたち人間と同じ者になられました。

それだけでなく、自分を空しくし人の僕となり、十字架の死に至るまで謙遜で従順な生きかたを示してくださいました。

「自分を無にする」ということは、いろいろな宗教でも同じように教えていると思います。

この「自分を無にする」ということは、誰にとっても難しいことではないでしょうか。

わたしたちは、自分の日々を振り返ってみますと、いろいろな時にいろいろな場面で、自分というものを主張しており、自分の思いが遂げられない時には、不愉快に思ったり、怒りを覚えたりするのであります。

それは、主イエス・キリストの生き方にはそぐわない生き方であります。

そういう謂わば原罪というマイナス要因に条件づけられている人間でありますが、それでもわたしたちは、イエス・キリストを信じることによって、聖霊の注ぎを受けております。

ただひたすら、イエス・キリストを信じるということは、日々イエス・キリストによって生かされているということを信じ、そして自分自身の中にイエスが来てくださっている、わたしたちは聖霊の神殿とされているということを、自分で認めることではないかと思います。

すべての人は、地上の生活をいつか終わらなければなりませんが、地上の生活を終わったのちも、天には永遠の住処が備えられております。

そして、日々イエス・キリストの復活の命を受け、最終的に復活の栄光に与ることができる、

完全に主と同じ姿に変えていただけると、わたしたちは信じます。

自分自身のことを含め、わたしたちは体についても心についても、何らかの問題を持っているのでありますが、その事実を謙虚に認め、そしてそのようなわたしたちの内に復活したイエス・キリストが来てくださっているということをあらためて認め、そしてお互いに尊敬するようにしたいと思います。

そして、この世界が神のお造りになった世界であり、そもそも極めてよい世界であるという創世記の教えをあらためて確認いたしましょう。

どんなことがあっても、この世界は神の造られた世界であり、そして神の輝きのもとに置かれています。

どうかわたしたちのこの信仰を、聖霊が強めてくださいますように。

 

 

 

 

 

2019年9月13日 (金)

自分のことは棚に上げて

聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士 ミサ説教

2019913()、本郷教会

第一朗読  テモテへの手紙 一 1:1-212-14

わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。

わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。

福音朗読  ルカによる福音書 6:39-42

(そのとき、イエスは弟子たちに)たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

説教

イエスは、ファリサイ人や律法学者たちに向かって、非常に痛烈な批判をしています。

今日の福音も、その流れの中で解釈する方がよいのでしょうか。

イエスは、偽善者に向かって言っています。自分の目の中に丸太があるのに、兄弟の目の中にあるおが屑を取り除こうとしている偽善者に向かって非難しています。

自分に大きな問題があるのに、人の小さな問題を云々することを批判しているのであります。

人間は、なかなか自分の問題に気がつかないが、他人の問題には敏感であります。

この今日の話は、大変耳に痛い話でありますけれども、わたくしはすぐに思い浮かべたことがあります。

それはヨハネ・パウロ2世教皇が、紀元二千年を迎える時に、世界中に手紙を出しまして、

「わたしたちキリスト者は心からの反省、回心、悔い改めをしなければ、紀元二千年という節目の年を過ぎることはできない。第三の千年紀の敷居を跨ぐことができない」と言われた。

そして、反省事項の中に三つのことを挙げています。

一つは、「キリスト者の間に生じた分裂」です。

第二は、「不寛容」ということで、表現としては、「真理への奉仕における暴力の行使」ということですね。

ちょっと具体的ではないのですが、おそらく異端審問とか、もしかして十字軍ということを指しているのかもしれない。不寛容の罪です。

三つめは、「全体主義政権による基本的人権の侵害を黙認」したということ。

全体主義政権が何を指しているのか。ナチスとか共産主義を指していたようであります。

人のことをとやかく言う前に、自分自身のことを反省しなければならないという教えであり、

わたしたち自身、個人としても教会としても、本当に心から自分自身を振り返なければならないと思います。

 

 

 

 

 

 

敵を愛しなさい

年間第二十三木曜日 ミサ説教

2019年9月12日(木)、本郷教会

 

第一朗読  コロサイの信徒への手紙 3:12-17
(皆さん、)あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

 

福音朗読  ルカによる福音書 6:27-38
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

説教

今読み上げたルカによる福音の6章は、あらためてイエスの教えが何であったかということを、わたしたちに思い起こさせ、そして畳みかけるようにわたしたちに繰り返し迫ってくるように感じます。

 

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」(ルカ6・27)

「あなたがたは敵を愛しなさい。」(ルカ6・35)

繰り返し「敵を愛する」ということについて、言い換えをしてわたしたちに迫ってくるように感じます。

キリスト教は、「敵を愛する」ことを教えているということは、多くの人が知っています。

しかし、この教えをどのように実行しているかということについては、もしかしてかなり批判的ではないだろうか。

キリスト教徒は、二千年の歴史の中で、このイエスの言葉をどのように実行してきたでしょうか。

わたしたちは、主イエスのご命令に従い、イエス・キリストの教えを宣べ伝え、イエスの弟子をつくるために力を尽くしていますが、なかなかその任務が発展しないのも事実であります。

どうして人々は、イエスの福音、教会の教えを受け入れないのだろうか。

もしかして、人々は思っています。

イエスの福音は非常に良いと思う、良いが実行は難しい、と思う。その非常に良い、イエスの福音の教えをあなたがたはキチンと実行しているのか。

そのように問いかかける気持ちを持っているのではないだろうか。

 

わたしたちキリスト者は、このイエスの言葉をいろいろ解釈し、例外を定めるという作業を繰り返して来たと思う。

「敵を愛しなさい。しかしこう言う場合は違います。」

あるいは、「暴力を使ってはいけません。しかし、こういう場合は当てはまりません。正当防衛という理論もあります。」

「人を裁いてはいけない。人を罪に定めてはいけない。しかしこういう場合はその言葉が当てはまりません。」

そういうことが多いように思う。

わたしたちは、イエスの言葉をどのように実行したら良いのだろうか。

それを考えると、非常に胸が苦しくなるような気がいたします。

 

 

貧しい人々は幸い!

年間第二十三水曜日 ミサ説教

2019911()、本郷教会

第一朗読  コロサイの信徒への手紙 3:1-11
(皆さん、)あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

 

福音朗読  ルカによる福音書 6:20-26
(そのとき、)イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 

説教

「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ620)とイエスは言われ、

また「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」(ルカ624)とも言われました。

マタイの5章の山上の説教に対応する、ルカによる山上の説教の教えであります。

わたしたちは、このようなイエスの言葉を福音として受け取り、そして人々に告げ知らせるように、求められています。

通常の人々の考え方とは合わない教えでありますので、そのような教えを人々に伝えるということは、けっして易しいことではないと思う。

その易しくないことを、福音宣教という使命を、わたしたちは与えられています。

今日のイエスの言葉を、さらに使徒パウロはコロサイの教会への手紙の中で説明しています。

キリスト者は貧しい者である。マタイの福音では、霊において貧しい者であります。(心の貧しい者と訳されています。)

貧しい者はひたすら上にあるものを求め、地上のものから心を引き離して生きる者です。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロ33)と言っています。

そして、地上的なものを捨て去りなさいと言っています。

地上的なものとは、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」(コロ35)のことであり、そしてさらに少し後で、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。」(コロ389)と言っています。

このように生きるということは、日々「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」(コロ310)ということです。

古い人を脱ぎ捨て、新しい人になるというパウロの教えを、わたしたちはどのように実行できるのか、祈り求めたいと思います。

 

証書の釘付け

日本二百五福者殉教者 ミサ説教

2019910()、本郷教会

第一朗読  コロサイの信徒への手紙 2:6-15
(皆さん、)あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。

 

福音朗読  ルカによる福音書 6:12-19
そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

 

説教

今日の福音は、十二使徒の選びを告げています。

イエスは十二人を選ぶ前に山に行き、一晩祈って過ごされました。

そのようにして選ばれた十二人でありますが、その中の一人が、のちにイエスを裏切ったイスカリオテのユダでありました。

ユダについて、いろいろのことが言われています。聖週間の典礼の時に、もう一度ユダについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

第一朗読のコロサイ書は、罪の赦しについて言っています。

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(コロ21314

十字架に付けられたのはイエス・キリストですけれども、同時に、何だか借金の証書のような感じですけれども、わたしたちを訴えていた罪の証書を、破棄し、なかったことにしてくれた、それは十字架に釘付けにされたことに因ってである、と言っています。

イエスの十字架と罪の赦しという、わたしたちの信仰の根幹に関わる教えについて、さらに深く黙想したいと思います。

 

 

 

2019年9月 9日 (月)

イエスの挑発行為

年間第23月曜日ミサ説教

 

第一朗読  コロサイの信徒への手紙 1:24-2:3

福音朗読  ルカによる福音書 6:6-11
(ある)安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

 説教

ナザレのイエスという人はどんな人だったのでしょうか。

わたしたちは福音の朗読を聞きながらイエスはどのように生きたのか、そしてどのようにして十字架刑に処せられるようになったのかということを学んでいます。

今日の福音によると、「律法学者、ファリサイ派の人々は怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」と出ております。今日の箇所から、イエスの態度は非常に挑戦的、あるいは挑発的であったと言えましょう。彼らがそのように怒り狂うほどに、イエスに反発するだろうということは充分に予想されていたにもかかわらず、あえてイエスは右手の萎えた人を癒す行為に出たのであります。安息日に掟を破る者として、瀆聖の罪を犯す者として、イエスは十字架に架けられるようになったのでありました。

自分を憎んでいいのか?

年間第23主日

2019年9月8日、本郷教会

第一朗読 知恵の書9・13-18

第二朗読 使徒パウロのフィレモンへの手紙9b-10,12-17

福音朗読 ルカによる福音14/25-33

(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 

説教

 

イエスは、大勢の群衆が自分について来られるのを見て、「自分の弟子になるためには、どうでなければならないのか」ということを言われました。

イエスの言葉を、わたしたちはどのように受け取ったらよいでしょうか。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、きょうだい、姉妹を、さらに、自分の命であろうともこれを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

「憎む」という言葉は、どういう意味でしょうか。おそらく、聖書の言い方では、わたしたちが使う「憎む」という意味とは違う意味合いが含まれていると思われます。

この『聖書と典礼』の脚注を見ますと、「憎む」は、ここでは「より少なく愛する」という意味になっております。「より少なく愛する」というのは、日本語の表現にはないので、どういうことなのだろうかと思うわけであります。

イエスは決して家族や、隣人をないがしろにして良いとは言っていない、それは明白なことであります。また、「モーセの十戒」の中に「父母を敬いなさい」という規定が、厳然としてそびえているわけであります。家族や、隣人を大切にするということと、イエスに従うということとが矛盾するのでしょうか。矛盾するはずはないわけですが、ではどのように解釈をしたらよいのであろうかと…。

きょうの福音では、二つのたとえが出てきます。

「塔を建てる人の費用の計算」というたとえ。それから、「戦いに行こうとするときの準備」のたとえが出ています。

二つのたとえに共通して出てくる言葉は「腰をすえる」、つまり「腰をすえて計算する」あるいは、「腰をすえて考える」という表現です。

自分が計画していることを、実行するかどうか、ということを最終的に決めるために、「大丈夫だろうか」、「成功するだろうか」、「やり遂げることができるだろうか」と考えるわけです。それを「腰をすえて」考える、計算するという、表現で述べているのだろうと思われる。

そうすると、「イエスに従う人は、イエスに従おうと決心するときに、腰をすえて考えなさい」、そういう意味ではないかと思われる。どういう心構えが必要なのか…。

何か、その過激な原理主義の宗教のように、家族を否定して、家を飛び出して、何もかもやめて、呼びかけに応えなさいという意味ではないだろう。教会の歴史の中で、このイエスの言葉をほぼ文字通り受け取って実行した人もいますが、全ての人が、自分の家族や、仕事・任務を放棄して、放り出して出かけてしまうということを期待しているわけではない、それは明白だろうと思う。

そうすると、どういう意味かということになります。一つ、二つ、考えられる解釈を申し上げて、皆さんにも一緒に考えていただきたい。

ひとつは、「より少なく愛する」ということですが…。

わたしたちは神からの呼びかけに応えなければならないわけです。さまざまなことをしなければなりませんが、「優先順位」というものがあります。わたしたちも、日々、意識してか、しないでか、なすべきことの中で「優先順位」をつけているわけであります。こちらより、こちらの方を選び、こちらの方を先にするということを選んでいるわけです。

ですから、「イエスに従う」という場合、「家族を大切にし、仕事をしながらイエスに従うという道」があるわけですが、家族を大切にすることと、仕事を誠実に行うということを、放棄するとか、ないがしろにするということではないはずであります。

それでは、どういうことになるのかと考えてみますと、「わたしがあなたに与える自分の十字架を背負ってついて来きなさい」いうことをイエスは言っています。

きょう、入祭の歌で「来なさい、「わたしの十字架を担って来なさい、「わたしの与える荷は軽い、負いやすい」と歌っていただいたのですが、イエスが与える十字架、あるいは重荷は軽い、負いやすい、その言葉を併せて考えて…。

「来なさい、「わたしのもとに来なさい、重荷を負う者。わたしはあなたを休ませる」と、そう、同じイエスが言われた。

きょうの福音だけを聴くと、「自分の家族を捨て」そして、さらに「自分のいのちでさえ憎まなければわたしの弟子になれない」と言われたので、全くもってそんなことはとてもできないというように思います。

「自分の十字架を背負ってきなさい」と言われたので、その十字架というのは何であろうか、「自分のなすべきことを放擲して、自分のいまの場所から出て、どこかに行って、イエスに従う、司祭になるとか、修道者になるとか、そういう道もありますけれども、通常、全員が司祭になるわけではないし、自分の置かれているその場所で、自分の置かれている状況の中でわたしの弟子になりなさい、それが、「わたしの十字架を担いなさい」ということと重なっているのではないだろうか。

「腰をすえてわたしに従いなさい」ということでもあります。そうすると、「腰をすえる」というのは、「いまの自分の立場で、さまざまな人とのかかわりの中で、自分が与えられている十字架を背負う」ということ、あるいは「重荷を負う」とは何であろうか…。

それぞれの人には、それぞれの課題があるようでありまして、ほかの人には代わってもらえない、その人が為すべき、その人しかできないことがあります。

 

きょう、みなさんそれぞれ「自分の十字架」、「自分の重荷」、「イエスが一緒に担ってくださる」、「軽くしてくださる重荷」というのは何であろうかということを一緒に考えてみたいと思います。

 

自分の思いに人を合わせようとすれば、自分の思い通りにしてもらえないから…、人生は思い通りにならないので、悩んだり、苦しんだりしますけれども…、それは、お互いのことであります。

自分の思いを捨てて、そして、人の問題や、人の欠点、人の問題を自分のこととして受け入れるならば、自分というものはそこから消えていくわけです。

これが、なかなかできることではないわけでして、十字架というのは、どこか遠くに行かなければ無いのではなくて、実は、毎日の生活の中にあるのです。

ですから、「憎む」というのは、他人に自分の都合に合わせて生きている自分の生き方を否定して、人のために、それはイエス・キリストの生き方に倣って、神様がお望みの生き方を選ぶということだろうと思う。

 

そのことを第一朗読と併せて考えてみますと、「知恵の書」(9章17節)からの朗読でありまして、

「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれがみ旨を知ることができたでしょうか。」「人はあなたの望まれることを学ぶようになり、知恵によって救われたのです。」

 

神の知恵、それは聖霊によって示され与えられます。わたしたちが自分のものではなく、神のお望みを知り、神のお望みを行うことができますよう、そして、喜んで、自分の思い、望みを神のお望み、主イエスの生き方に適った生き方に合わせることができますよう、祈り求めたいと考えます。

2019年9月 6日 (金)

新しい革袋

年間第二十二金曜日 ミサ説教

2019年9月6日(金)、本郷教会

 

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」(ルカ5・37)と、イエスは言われました。

「新しいぶどう酒」とは何でしょうか。

「新しい革袋」とは何でしょうか。

エレミヤの預言において、新しい契約という言葉が出てきます。

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」

(エレ31・31)

「わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、かれらはわたしの民となる。」(エレ31・33)

「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。

彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。」

(エレ31・34)

新しい契約の預言であります。

「新しいぶどう酒」、そして「新しい革袋」という言葉は、このエレミヤの「新しい契約」

の預言と関係がある。あるいは、新しい契約のこと自体をさしているのかなぁというように思います。

「花婿が奪い取られる時が来る。」(ルカ5・35)とイエスは言われた。ご承知のように、それは、イエスが十字架刑につけられる時のことを言っていると思われます 。

そして、 新しい契約の血を流されたイエスは復活し、父のもとに昇り、聖霊を弟子たちの上に注がれました。

パウロのローマの信徒への手紙の中で、次のように言われています。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ5・1 - 2)

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5・5)

エレミヤは、わたしたちの心に新しい律法を記すと言われました。

それは石の板に刻まれた律法ではない、直接一人ひとりの心の中に、神がしるしてくださる

律法であり、そしてそれは聖霊の注ぎによって実現する、と言われたと思います。

わたしたち新しい契約の神の民は、新しいぶどう酒、新しい革袋の神の民として、日々神の新しさを生きることができるよう、祈りましょう。

 

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ペトロの召命

年間第二十二木曜日 ミサ説教

2019年9月5日(木)、本郷教会

 

今日の福音は、ペトロ、そしてヤコブ、ヨハネの召し出しを告げています。

昨日の福音で、ペトロの義母のいやしが告げられています。

ペトロの召し出しよりも、ペトロのしゅうとめの方のイエスとの出会いの方が、先にあったのでしょうか。

ペトロの家には、多くの人が出入りしていたようであります。

ペトロの召し出しの話は、いろいろなところですでに話されていて、強く記憶されていますけれども、ペトロのしゅうとめの話はあまり注目されていない。

イエスは、多くの病人をいやされましたが、その中にペトロのしゅうとめのいやしがありました。

人々がイエスに願ったので、イエスは彼女をいやされた。

いやされた彼女はすぐに元気になって、人々をもてなしたと出ております。

今日はその続きの箇所であって、漁師であるペトロがイエスの言葉に従って、

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」(ルカ5・5)とこたえて、そして沖に出て網を降ろしたところ、おびただしい魚がかかったという奇跡的なすなどり〔漁〕の話であります。

ペトロは、おびただしい魚がとれたことに非常に驚き、そしてさらにおそれを感じました。

「シモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。』と言った。」(ルカ5・8)とあります。

聖なる人のそばにいると感じた時に、人は自分が罪深い者であるということを感じます。

明るい光に照らされると、小さな埃やゴミまでが分かると同じようなことなのでしょうか。

ペトロは、イエスがただの人ではない、神から使わされた聖なるお方である、と直感したのだと思います。

ペトロの召し出し、長いペトロの生涯の話がここから始まります。

わたしたちも自分の召命ということを思い起こし、これから為すべきことを考えてみなければならないと思います

2019年9月 5日 (木)

野坂操壽葬儀ミサ説教

野坂恵子(野坂操壽)葬儀説教

2019年9月3日、東京カテドラル聖マリア大聖堂

 

わたしは神に一つのことを願い求めている。

生涯、神の家をすまいとし、

あかつきとともに目ざめ、

神の美しさを仰ぎ見ることを。

 

わたくしは野坂恵子さんの生涯を思うときにこの詩編27の祈りの言葉を深く想います。

野坂さんは「美しさ」を探し求め「美しさ」を表わし伝えようとされたと思います。その美しさとは筝曲によって表し伝える美しさです。

すべての美しさの源は天地万物を創造された神にあります。神の美しさは種々の形で、いろいろな道を通して現れています。芸術家は自分の専門分野で神の美しさを表現します。美術家は自分の作品である絵画、彫刻等を通して、音楽家は、作曲、演奏等を通して神の美しさを再現します。野坂さんは音楽を通して、演奏を通して、そして筝曲演奏を通して神の美しさを再現し伝達されたとわたしは考えます。

野坂さんはその生涯の間にキリストの福音に触れる機会がありました。野坂さんはヨーロッパの文化に根を下ろしたキリスト教の信仰表現を通してイエス・キリストとの出会いを経験したのであります。カトリック教会の信仰告白の代表が「クレド」であります。そのクレドと筝曲の間にある深いつながりに注目された方が皆川達夫先生でした。

ある日曜日わたくしは千葉県の教会でミサをあげるためラジオを聞きながら自動車を運転しておりました。たまたま自動車での移動時間が皆川先生のNHKの音楽の泉の放送の時間と重なりました。そのときの皆川先生のお話はとても興味深いものでした。その内容はすでの皆さんごぞんじでしょうが、筝曲の「六段」とカトリックの典礼の信仰宣言「クレド」はそのメロディーが基本的にはつながっている、という趣旨であったと思います。

さて2012年4月8日のこと、その日はその年の復活祭でしたが、野坂恵子さんはわたくし岡田大司教の立ち合いのもと、カトリック麻布教会において、カトリックの信仰を告白され、カトリック教会の一員となられました。

その翌年の2013年11月4日、野坂さんは東京カテドラル聖マリア大聖堂で、チャリティコンサートに出演してくださいました。その日はわたくしの司祭叙階40周年の記念の日であり、わたくしが理事長をしていた二つの公益法人のために野坂さんは喜んで奉仕の演奏をしてくださったのであります。この日の献金はすべて二つの団体、『公益財団法人・東京カリタスの家』と『社会福祉法人ぶどうの木・ロゴス点字図書館』に贈与されたのであります。

さて、神は御自分の住まいへすべての人を招いておられます。神の住まいとは復活したイエス・キリストのおられる世界であります。イエスは十字架の死を通して、罪と死に打ち勝ち、神のいのち、神の麗しさ、神の輝きの世界に入りました。そしてご自分の霊である聖霊を送り、復活の恵みに与るよう、わたしたちを招いています。わたしたちに求められていることはただ、イエスの招きに「はい」と答えること、そして日々神の美しさ、輝きに与りながら歩むということに他なりません。

わたしはいつも野坂操壽さんの演奏に神のうるわしさ、輝きを感じました。野坂さんに続くお弟子の皆さん、演奏を賭して神の麗しさ、美しさ、輝き、そして安らぎの世界を多くの皆さんに伝えて頂きたいと願いながら、次の祈りをもってわたしの話の結びといたします。

いつくしみ深い主なる神が、悲しみのうちにある遺族の方々に慰めと希望を与えください。ご遺族が故人の遺志を継ぎ、故人の目指した目標に向かって心を合わせて、力強く歩ことが出来ますように 
 また、世を去ってわたしたちの父母、兄弟、姉妹、恩人、友人、支援してくださったすべての方々に永遠の安らぎと喜びを与えてくださいますように。

                    アーメン。

シモンの姑の癒し

年間第二十二水曜日

201994()、本郷教会

ガリラヤの湖のほとりに、カファルナウムという町があります。

きのうの福音に引き続き、今日の福音もイエスがカファルナウムで行われた、いやしの業を伝えています。

きのうは、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追放されたという話でした。

今日は、シモンの家で、シモンのしゅうとめの病気をいやしたという話であります。

シモンはペトロのことであります。

ペトロは非常に重要な人物でありますが、シモン・ペトロの召し出しの話の前に、シモンのしゅうとめ、つまりシモンの妻の母ということになりますが、その人の高熱を下がらせた、熱を叱りつけて、熱が去るようにしたという話であります。

今の医学の考え方からは分かりにくいですけれども、熱は何か悪いものの仕業であるという考えが支配していた時代の話かもしれない。

ナザレで宣教活動の第一声を発したイエスは、捕らわれ人に解放を告げるために来たと言われました。

その解放というのは、まことの自由へ人々を導くための解放であります。

今日の集会祈願で、わたしたちは祈りました。

「あなたの愛を受けた民を顧み、御子を信じる人々に、まことの自由と永遠の喜びをお与えください。」

 「まことの自由と永遠の喜び」とは、神の霊、キリストの霊である聖霊によって与えられるのであります。

 

 

 

 

 

 

悪からの解放

聖グレゴリオ一世教皇教会博士

93日、本郷教会

 第一朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 5:1-69-11

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

 福音朗読  ルカによる福音書 4:31-37

(そのとき、)イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。

 

説教

故郷のナザレで神の国福音を宣べ伝え始めたイエスはガリラヤの町カファルナウムに来て、安息日に人々に教えておられました。人々はイエスの教えに非常に驚いたと今日の福音が告げています。それはイエスの言葉には権威があったからでした。権威があったというのは、イエスが自分自身の教えとして、自部自身の言葉として話したからです。律法学者やファリサイ派の人々はモーセの律法に基づき、モーセに律法にはこのように書いてあるというように教えましたが、イエスは自分自身の教えとして話したのでした。

またイエスの言葉には、力がありました。イエスの言葉はその内容をすぐにその場で実現させる力を持っていました。イエスが、男にとりついている悪霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行ったのでした。

イエスは公生活・宣教活動において、何をしたのかということを考えてみますと、神の国の福音を宣べ伝えるとともに、病人、障がいのある人を癒し、また悪霊にとりつかれた者から悪霊を追い出したのであります。

わたしたちは毎日主の祈りを唱え、結びの祈りとして「わたしたちを悪からお救いください」と唱えています。この「悪」という言葉は「悪霊」というように解釈することもできます。ナザレで宣教を開始したイエスは「捕らわれ人に解放を告げる」というイザヤの言葉を引用しました。昨日のミサで「捕らわれからの解放とは何か」ということをお話ししましたが、今日の福音からさらに考えるに、それは「悪からの解放」であり、悪からの解放の中には悪霊からの解放が含まれています。教皇フランシスコは使徒的勧告『喜びに喜べ』の中で、「悪魔は実在する。その誘惑に負けないよう絶えず聖霊の助けを祈らなければならない」と教えています。

聖霊の助けを祈りましょう。

 

解放の福音

9月2日 年間第22月曜日 ミサ説教

 第一朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 4:13-18

 福音朗読  ルカによる福音書 4:16-30

(そのとき、)イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 

説教

イエスは故郷のナザレの会堂でイザヤ書を朗読されてからお話になりました。イザヤ書は『主の僕の歌』と言われる個所であります。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」

「わたしに油を注がれた」ということと、「主の靈がわたしの上におられる」、ということは、同じことを意味しています。油注がれた者は、メシア、すなわちキリストであり、油とは主の靈、神の霊の力を指しています。キリストは油注がれた者であり、貧しい人に福音を告げ知らせるという務めを与えられています。

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

キリストは主なる神から遣わされた者であり、解放を告げるという使命を受けていました。解放とはいろいろな捉われからの解放であります。その捉われの中には社会的な捉われ、貧しさ、圧迫、差別、人権侵害とか、貧しい人々が被っている、あるべきでないすべての状態が含まれています。解放とはそのような捉われからの解放を意味しています。また、一人ひとりの人の心の捉われ、すなわち、人の心を縛っている思い込み・怨み・憎しみなどのからの解放を意味しています。

「目の見えない人に視力の回復を告げ」とは肉体の目の見えない人に見えるようにしてあげるということと共に、本当のことが見えなくなっている人々に、神の真実、神がお造りになったこの世界の美しさを見えるようにしてあげる、という意味も含まれています。

「主の恵みの年を告げる」とは、旧約聖書で定められているヨベルの年を指していると思われます。ヨベルの年は50年ごとに定められていて、その年には一切の負債が免除されることになっていました。

そこで、解放とは、精神的、霊的、社会的なさまざまな次元、領域での解放を意味し、そして同時に、主の靈に与ること、神の美しさ、神の麗しさに与ることを意味していたと思います。

 

 

2019年9月 2日 (月)

本当の自分を見つける

小黙想会「福音とは何か」
《イエスのみ心》のミサ説教
2019年8月31日(土)、本郷教会

 

今日、わたしたちは、「福音というのはなんであるのか」ということを一緒に学び、考え、祈り求めたいと思います。
「福音」であります。
この2時からのミサは、どういうようなミサにしたらよいかとずっと考えましたが、「イエスのみ心のミサ」に落ち着きました。
17世紀にフランスで、聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647~1690)という修道女がいまして、彼女にイエスが現れて言われた。
その出来事だけが「み心の信心」の根拠ではないと思いますが、イエスが彼女になんと言われたかということを確かめますと、次のようになっています。
「この心(イエスの心臓)を見なさい。これは人間を非常に愛し、人々にその愛を示すために涸れ果てるまで何一つ惜しまなかったものなのに、多くの人々からその報いに、特に聖体の秘跡において、忘恩、不敬、さらに冒瀆、冷淡、無関心しか受けていない。最も辛いのはわたしに献身した人々もそうした態度を取っていることである。したがってわたしの望みは、聖体の祝日の翌週の金曜日に、わたしが聖体において受けたすべての辱しめを償うための祝日を設け、その日に償いの心をもって、聖体拝領することである。」と言われた。
聖マルガリタ・マリア・アラコックが受けたこの「み心の信心」は、フランスから世界中に広がりました。
「み心」、「聖心」という名前のついた修道会とか学校とか、たくさんあるわけですね。
もっともカトリック的と言いましょうか。
そこで、福音ということを考える時に、多少「み心」ということに触れることにはためらいを感じますが、やはり「み心」の信心を一緒に味わうことが、「福音」とはなんであるかを考え、確認する、味わうためにもっとも良い道ではないかなぁと思いました。

 

神とはどんな方であるかということは、人間にはよく分からない。
そこで神の方から、いろいろな呼びかけがなされた。
旧約の歴史、そして新約の歴史は、神が人間にさまざまな機会にさまざまな人を通し、さまざまな言葉で行われた呼びかけの歴史であり、救いの歴史であります。
その神の呼びかけの頂点が、イエス・キリストでありました。
そのイエス・キリストが地上の生涯を終わりまして、天の父の許にお帰りになりましたが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28・20)と言われました。
どのようにして一緒にいてくださるのだろうか。
わたしたちカトリック教徒として、最もそのことを強く思う場所というか、機会というのは、ミサ聖祭であり、ミサの時に献げられるご聖体であります。
われわれ教会では、ご聖体はミサの時だけのことではなくて、いつもご聖体を安置し、いつでもご聖体を訪問して、礼拝しお祈りするようになっている、そうするようにと勧められています。
かつてそのことを強く言われていたが、段々それが廃れてきているような気がするのであります。

 

ところで観念的に言えば、神さまは完全に満ち足りている方ですから、何かが足りないとか、あるいはこうしてくれないと困るとか、こういうことをすると腹が立つとか、こんなことが非常に悲しいとか、そういう人間的な反応がないはずであります。観念的には。
しかし聖書を見ると、神さまは憤ったり、嘆いたり、あるいは人間に求めたりしているわけです。
そして、そういう神の心が、ナザレのイエスという人を通して、人々に知らされた。
そしてイエスは、復活して天の父の許に帰られましたが、それでも事は終わっていない。
特別な人に現れて、「わたしは大変悲しい。非常に辱めを受けている」と。
その「人々の忘恩、不敬、冷淡を償うために、これこれのことをして欲しい」と言われた。
このマルガリタ・マリア・アラコックに言われたことは、すべての人が信ずるべき公けの啓示ではない。公けの啓示は、新約聖書を以って終了したというのが、カトリック教会の立場ですけれども、しかしイエスがいろいろな人を通して、わたしたちに呼びかけておられるということを、わたしたちは尊重しなければならない。
それで、わたしたち人間と同じように、悲しいとか非常に辛い、辛いから何とかしろと言ったということは、イエスは本当に神さまなのか、そんなことあるのかなぁという思いもしないわけでもないが、でもそう言われたということを信ずるならば、それではそれに応えましょうというふうにするのが、通常のわたしたちの反応ではないだろうか。

 

さて、今日そういうふうにわたしたちは、「福音とは何ですか」ということを確認しようということで、時間を取っているのであります。
「あなたにとって福音とは何でしょうか」、そしてそれは「イエス・キリストとは誰でしょうか」ということと、深く強くしっかり結びついているわけでございます。
神は、そしてイエスは、わたしたちに強い深い関心を持っているわけですね。
どうでもよいと思ったら、嘆きも怒りもしない、勝手にしろということになるわけですが、強く求めている。
わたしたちは求められているわけです。
(神が)求めているのに、(わたしたちは)冷淡であった。
人間同士、そういうことありますね。
強く激しく求めたのに、相手は知らんぷりということは、わたしたちが経験しないわけではないんですけれども、神が、あるいはイエスがわたしたちに求めているということは、人間的にはなかなか実感できない。
これは霊の世界、信仰の世界の問答であります。

 

そこでどういう風に話を持っていったらいいかと思うのですが、今日の福音ルカの15章
一匹の「見失った羊」の話であります。
99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで探し回る。
そして見つけたら大喜びで肩に担いで連れ帰って、「一緒に喜んでください。」というように、羊飼いが言った。
その羊飼いは良い牧者であり、そしておそらくわたしたちのところに遣わされたイエス・キリストを指している。
そしてイエス・キリストによって派遣されたすべての牧者は、この良い牧者のようでなければならない、という教訓だろうと思います。
ところで、この話でちょっとスッキリしない思いがするのは、「悔い改める」という言葉なのですね。
「悔い改めなさい」。悔い改めの言語はメタノイア。
要するに、「あなたがたは罪ばかり犯しているから、悔い改めなさい」というためのたとえなのか。
してはいけないことをしてしまうわたしたち、あるいはすべきことをしていないわたしたちがいる。
「さあ、感謝してこれからは良いことをし、悪いことはしないようにしなさい」という話なのか。
「そんなことは言われなくても分かっている、ただできていないのだよね」となるわけで、果たしてそれが福音になるのか。
できていないのに、おまえはできていないと言われて、「あぁ嬉しい」とは、わたしは思わない。
「そんなことは言われなくても分かっているよ」と、かえってますます心が萎びちゃうという思いなのですけれど。
これは何を言っているのだろうか。
それは皆さん考えていただきたいのですが、わたしが思いますに、「悔い改める」という言葉は、あまり良い訳ではないのかもしれないのですけれども、「放蕩息子」のたとえ(ルカ15・11)が同じような趣旨であります。
息子がお父さんのところから出ていってしまったのですね。
出ていってしまったが、やっぱり自分のいる所はお父さんの所なのだ、今更どの顔をさげてお父さんの所に戻れるのかと思うけれど、勇気を出して戻る。
それで、お父さんの方は、出ていく時に留めたりはしないし、帰ってきたら「お前やっぱり言っただろう。だからちゃんと俺の言うことを聞けばいいのだよ」とは言わなかったですね。
「悔い改める」というのは、もちろん悪かったとつくづく認識して、もうしませんという決意することではありますが、やはりこの「天の父の許に戻る」、自分のいるべきところはない、お父さんの所なのだと思うことであり、それは自分自身の再発見というか、自分とは誰であるか、本当の自分は誰であるか、どういう存在なのか、本当の自分を見つける、それが改心するというか、神の許に帰るということではないだろうか。

 

今日は時間があるので、皆さん考えてください。
「福音とはなんであるのか」
あなたはできていないと言われることが「福音」であるとは、わたくしは思わないのです。
あなたはできていないが、あなたは大事なのだと言われると「福音」になりますね。
できていない、採点すると何点だ、だからもっと点数を上げろと言われることが「福音」であるわけではないですね。
では何なのか。
あなたはあなたとして素晴らしいが、わたしはあなたのことを大切に思っているのだ。
あなたはほかの者と比べられない大切な存在なのだ。
ほかの人では替えがきかない、スペアがない、あなたはあなたしかいないのだ。
そういうメッセージだったら、「そうか俺はそんなに大事なのだ。点数も悪い、会社の仕事もあまり上手くできない、性格も良くない、いろいろマイナスばかりだけれども、それでもあなたがあなたであることを喜んでくれるという人がいるのかな。」と。
親は本来そうだと思うのですね。
ですから、「福音とはなのだろうか」というと、本当の自分に出会うということではないだろうかとわたくしの場合、思うわけであります。

 

最近聖アウグスティヌスの日がありました。(2019年8月28日(水))
最も有名な聖人、神学者、哲学者で、彼の残した言葉の中でこういう言葉があります。
「わたしは神を一生懸命探した。探して探して探しまくった。外にいると思ってあちこち行ったんですけれども、見つけられなかった。でもあなたはわたしの心の中におられたのですね。どうして早く気がつかなかったのだろう。もっと早く気がつけば良かった。あなたはわたしの心の中におられました。」そういう告白をしているわけです。
われわれは、聖アウグスティヌスではないけれど、わたしたちの中にダイヤモンドのような本当の自分がいるのだ。
それは神さまがわたしたちを造ってくれた時からそうなのだ。
神の似姿、神に似た者としてわたしたちは造られている。
自分の価値に目覚めることが、神に立ち返ることではないだろうか。
悪いことをしました、もう悪いことをしませんと思うことは、また同じような結果になる。
どんなに頑張ってもできないで、ますます自己嫌悪に陥ってしまう。
自分の業績にかかわらず、自分は尊い存在なのだということを確認できることが、「福音」かなぁと思いますが、皆さんの場合どうだろうか。
「イエスのみ心」の信心は、あなたが冷淡であるのでわたしはこんなに傷ついているというメッセージですけれども、裏返せば、あなたはわたしを喜ばせることができるのだよというメッセージにもなるわけでもあります。
その辺をご一緒に考えてみたい。

 

2019年9月 1日 (日)

お返しのできない人を招きなさい

年間第22主日C年

2019年9月1日、本郷教会

第一朗読 シラ書 シラ3:17-18、20、28-29

第二朗読 使徒パウロのヘブライ人への手紙 12:18-19、22-24a

福音朗読 ルカ14:1、7-14

 

説教

「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

このようにイエスは今日の福音で言われました。お返しのできないような人を招きなさいという

この教えは非常に明解であります。しかし、わたしたちの常識には合わない、そして実行は難しいおしえでもあると思います。わたしたちの社会では、すべてがこの「お返し」という関係で成り立っているような気がします。物の売り買いの場合は、これは明白であって、対価交換。物を買うときにはその物の価値に見合った額のお金を払うわけであります。売買の場合はそうですけれども、売買でない場合は必ずしも対価を交換するというようにはなっておりませんが、かなりな影響を受けていて、わたしたちはいろいろな人との関係において、やはり、お返しをするという意識をもっているのではないでしょうか。あの方にはこうしていただいたからこのようにお返しする。或いは、あの方にこうしないと今後の自分の生活や仕事に差し支えが生ずる、とか、そのように考えて、ま、はっきり考えるわけではないけれども、そういうものの見方が身についております。教会もこの社会にある団体なので、いろいろな催しをするときに、どんな人を招くかということがあるわけです。そして、やはりその関係のある人たちをまずお呼びすると、そうすると、どの範囲までお呼びするのかという、その境界がどこにあるのかということを場合によっては考えることになる。このイエスの言葉のように実行すると、社会は混乱する。わたしたちの団体も難しいというように感じはしないだろうか。

神の国はこの世の論理とは違う論理に依って成り立っている。こうしたからこうしてもらえるだろうという期待を込めて行うのではなく、返しを期待しないで、無条件で必要なことを必要な人のために行うことが神の国のあり方ではないでしょうか。「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。そうすれば隠れたことを見ておられる父があなたに報いてくださる」(マタイ6・3-4参照)ともイエスは教えておられます。

わたしたちが持っている価値あるもの、金銭、財産、だけでなく、健康とか能力とかは、自分のものではあるが、預かっているもの、自分だけの力で獲得したものではなくて、多くの方々のおかげで今の自分があるし、今自分が預かっているいろいろなものがあるわけであります。預かっている、それをどのように生かすかということにおいて、責任がありますが、自分の所有物ではない、自分が好きなように、自分のこうしたいと思う目標のためにどのように使ってもよいというものではないのであります。そのことを考えると、この宴会を催すというときに、自分のために、今後の自分のあり方にプラスになるような人を招くということは、神の国の考え方には沿っていないということになります。ま、そうは言っても、そんな風にしていたら成り立たないという現実もある。わたしたちは、その、この世の論理と神の国の考え方の両方のなかにいて、できるだけ神の国のあり方を実現するようにしているのではないでしょうか。

今日、この福音を皆さんと分かち合うに際して、ひとつ思いましたことは、この分かち合うという精神ではないかと思うんですね。  「分かち合う」 英語でshareという言葉がありますけれども、シェア。シェアする。すべては神様によってつくられ、神様によって与えられた賜物であります。すべてのものは神のもの、その神のものをわたしたちは分かち合っているわけであります。ですから、すべての人がお互いに神のもとにある兄弟姉妹であるということを思い、持っている人は持っていない人のために、いただいているものを分かち合う。そのようにすれば神の国のあり方が実現するのではないかと思う。自分の実力で自分の責任で獲得したんだから、自分がどのように使ってもよいという考え方ではないのであります。「ただで受けたものだからただで与えなさい」(マタイ10・8)、とも言われました。

さて今日は、日本のカトリック教会は「すべての被造物を大切にすることを祈る日」と定めました。すべての被造物、この自然、大地は、神の賜物であって、人間が自分の都合に合わせて濫用してはならないものであります。環境破壊という問題が強く意識されるようになりました。神様からいただいている素晴らしい賜物を自分の都合、自分の生活、自分の快適な生活のために悪用するという間違いを正して、そしてともに神様に感謝を捧げ、より簡素な質素な生活をするようにいたしましょう。    

今日の第二朗読は、次のように言っています。わたしたちの行先はどこであるかといいますと、「生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス」であります。新しい天のエルサレムに向かってわたしたちはともにいっしょに歩んでいる。喜びも苦しみも悲しみも分かち合いながら、天のエルサレムに向かって歩んでいるわたしたちの旅を聖霊が導き、そして助けて下さることを今日あらためて確認いたしましょう。

 

2019年8月30日 (金)

人生で人に変わってもらえないことは何か?

年間第二十一金曜日 ミサ説教

2019830()、本郷教会

 

第一朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 4:1-8
兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。

 

福音朗読  マタイによる福音書 25:1-13
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 

説教

今日も、イエスは、天の国をたとえ話によって、説明していきます。

婚宴の習慣を借りて、イエスは天の国を説明しました。

今読んだ福音にあるような婚宴の習慣が、パレスチナでは定着しているのだそうです。

十人のおとめが花婿を迎えに出て行き、そして花婿と一緒に婚宴の席に着くようになっている。問題は、花婿がいつ来るのか分からない。

そこで、いつ来ても相応しくお迎えできるように、準備していなければならないのであります。

この花婿が来るということと、イエス・キリストが再臨されるということが、重なっていると思われる。

「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタ2513

「その時」とは、イエス・キリストが再びわたしたちのところに、この世界に、来られる時を指していると思われる。

「その時」に、わたしたちが相応しく主イエス・キリストをお迎えできるように、いつも準備していなさいという教えであります。

「相応しくお迎えする」とは、どういうことかが問われる。

油を用意して、そしていつでも火をともしてお迎えできるようにしなければならない。

その油というのは、何でしょうか。

愚かなおとめの方が、賢いおとめの方に、「油を分けてください。」と頼みましたが、断られてしまいます。

この「油をわけてください」というときの「油」とは、その人が自分のために用意すべきものであって、他の人が代わりにしてあげることのできないものだと思われます。

ほかの人が代わってあげられない大切なことが、それぞれ人生にはあるのであります。

その「油」というのは何でしょうか。

ある人は、それはイエス・キリストに対する信仰であるといっていますが、さらに、ではイエス・キリストを信仰のうちに迎えるというのは、どういうことだろうかということが、さらに問われていると思います。

 

2019年8月29日 (木)

ヘロデ王の心の揺れ

洗礼者聖ヨハネの殉教 ミサ説教

2019年8月29日(木)、本郷教会

第一朗読  エレミヤ書 1:17-19
福音朗読  マルコによる福音書 6:17-29
(そのとき、)ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

説教

洗礼者ヨハネの殉教を告げる福音が読まれました。

洗礼者ヨハネは、主イエス・キリストの先駆者の役割を果たした人であります。

ヨハネは、ヘロデ王がその兄弟フィリポの妻へロディアと結婚していることについて、それは律法で許されていないと言ったために、ヘロデはヨハネを牢につなぐことにしました。

しかしながら、ヘロデという人の気持ちが複雑であって、

「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた。」(マコ6・20)のであります。

他方、へロディアの娘に、多くの人々が見ている前で、「欲しいものがあれば、何でも言いなさい。お前にやろう」(マコ6・22)「この国も半分でもやろう。」(マコ6・23)と大見得をきって誓いを立てています。少女の母親へロディアは娘の口を通して「洗礼者ヨハネの首を今すぐに」という要求を言わせました。「首を」という言い方が異常ですけれども、特に「今すぐ」というところがさらに異常だと感じます。

王はどうしたか。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった」(マコ6・26)のでその要求に応じてしまいます。

この辺に、王の心の揺れ動きが出ているように思う。ヘロデは、ヨハネが正しい人であることを知ってはいたが、しかし自分の妻の要求、そして満座の人々への見栄もあり、王としての威厳を保つために、心ならずもヨハネの首をはねさせたという展開になったと思います。

さて、このヘロデの心の動きというものを見ますときに、わたしたちの心の中にそういう部分、心の揺れ動き、人に気兼ねして不本意な判断をしてしまう、ということがないわけではない。何が正しいことかは知っているが、その正しいことを実行できない、実行しない、弱い自分がいることも感じないわけにはいかないと思います。

 

2019年8月28日 (水)

聖アウグスチヌス

聖アウグスティヌス司教教会博士記念日 ミサ説教

2019828()、本郷教会

今日の福音は昨日の続きでありまして、イエスは激しく律法学者、ファリサイ派の人々の偽善を攻撃しております。

非常に痛烈な表現で彼らを非難しました。

「彼らは白く塗った墓のようなもので、外側は美しいが、内側はあらゆる汚れで満ちている」と言い、また「預言書の血を流した者たちの子孫」であることを指摘し、そして、「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。」と言い、何とも言えない捨て台詞を残しております。

ところで、今日はアウグスティヌスという人の記念日であります。

非常に偉大な聖人、神学者、哲学者であり、そして司牧者としてヒッポという北アフリカにある都市の司教を長い間務め、そして多数の著作を残しました。

彼の著作は、すべて司教として牧者としての活動の結果であって、学者として著作を世に残すために活動したのではなく、当時のさまざまな問題その中には、「ドミナトゥス派」という人々の問題、「ペラギウス派」の人々の問題がありましたが、そういう人たちの過ちと闘うために残した著作だといわれております。

現代の教会がアウグスティヌスの精神に学ぶことが出来ますよう祈りましょう。

 

 

 

イエスの非難

年間第二十一火曜日 聖モニカの記念日

2019827()、本郷教会

今日の福音は昨日の続きであります。

イエスは律法学者、ファリサイ派の人々の偽善を非難されました。

律法の細かい掟を守るように人々に勧めながら、自分自身は最も重要な律法である「正義、慈悲、誠実」はないがしろにしているからでありました。

また、外面だけ善を装いながら、その内側心の中は、強欲と放縦で満ちています。

まず、心の中をきれいにしなさい。

そのように言われたのであります。

(イエスと律法学者、ファリサイ派との衝突がイエスの十字架と深くかかわっています。そのあたりをじっくり黙想しましょう。)

 

 

 

偽善者

間第二十一月曜日 ミサ説教

2019年8月26日(月)、本郷教会

 

今日からマタイによる福音書の23章が読まれます。

イエスは律法学者、ファリサイ派の人々を攻撃して言われました。

「あなたたち偽善者は不幸だ。」(マタ23・13)

この「不幸だ」という訳語は、「災いあれ」とも訳されております。

「不幸だ」というと優しく聞こえますが、「災いあれ」というと、呪いの言葉であります。

わたしたちの文化では、言葉遣いに非常に注意をしていて、悪い言葉は口に上らせないように気を付けています。

「呪う」という場合は、目の前にいる人に対して、直接的に強い言葉で悪い事をハッキリと述べて、その言葉が実現することを祈るという意味が込められている。

イエスの、律法学者ファリサイ派の人々に向けて言われた言葉は、単にあなたがたは不幸であるということだけではなくて、その人達自身の現実をはっきりと強く否定し、非難する言葉でありました。

そしてその理由の第一は、彼らの「偽善」ということにありました。

「偽善」は、ὑπόκρισις(hypokrisis)ヒポクリシィスと言いますが、書いて字の通り「善を偽る」、「善でないのに善であるように見せかける」、「外側だけよく見せる」ということが、「偽善」であります。

「あなたがたは白く塗った墓のようだ。中は醜い死体でいっぱいだ」という、この上ないほどのひどい罵倒の言葉を浴びせているわけであります。

人は多少とも偽善ということがあるかもしれない。

いろいろな宗教で偽善ということは、いつも付き物であると言ってもいいでしょう。

自分の真実を誤魔化して、外側だけよく見せるということを人間はしがちであります。

律法学者、ファリサイ派はそのような人々の代表といえるのであります。

イエスはそういう人達に対して、「災いあれ」と言われた。

ナザレのイエスとはどんな人であるのかということをわたしたちは日々祈り求め、知ろうとしています。

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい」(マタ11・29)と言われましたが、他方、このように激しく偽善者を糾弾する面もあったことを、わたしたちは心に留めるべきではないでしょうか。

 

 

2019年8月25日 (日)

狭き門

年間第21主日C

2019825日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言 イザヤ661821

第二朗読 使徒パウロのヘブライ人への手紙 1257, 1113

福音朗読 ルカ132230

説教

「狭い戸口から入るように努めなさい」という主イエスの言葉は何を意味しているのでしょうか。わたしたちは信じています。主イエスが、道であり、真理であり、命である。イエス・キリストによらなければ父のもとに行くことはできない。

ところで、「狭い戸口」という言葉ですが、わたくしにとって「狭い戸口」というと 「狭き門」ということばを思い出させられます。「狭き門」という有名な小説がございます。

「イエス・キリストに依らなければ天の父にたどりつくことができない」としますと、人は全てイエス・キリストという門を通らなければなりません。関所というところがありますし、ゲートというんでしょうかね、空港に行くとそこを通らなければ搭乗できない。けっこう狭いところでありまして、あっちからもこっちからも入れるわけではなくて、そこを通らないと、通過しないと、搭乗できないわけであります。そういう意味で、「狭い戸口」と言っているのでしょうか。

今日の朗読全体から考えてみますと、第二朗読では、「神は愛する子どもたちを鍛錬させる、鍛えられる」と言っております。今日の福音でも「狭い戸口から入るように努めなさい」この「努める」という言葉と「神からの鍛錬」、厳しい指導を耐え忍んで、受け取って、頑張って、イエス・キリストの救いにあずかるように努めなさい、という意味になるのでしょうか。そうだろうと思います。しかし、ま、それだけでは足りないような気がする。

人間は自分の努力で神の救いにあずかることができるのでしょうか。教会の歴史上、論争がありました。人間は神の掟を守り努力しなければならない。それは当然のことであり、それを否定することはできません。しかしそれでも、人間は自分の力で神の掟を完全に守り抜くことはできない、という体験も真実であります。その問題に多くの聖人は悩み苦しんだと伝えられています。聖アウグスチヌスという人がその代表者でありましょう。

使徒パウロは、復活したイエスに出会って非常に強烈な体験をし、イエス・キリストを異邦人に述べ伝える使徒となりました。そのときまで、パウロはファリサイ派の中でも最も熱心なユダヤ教の信奉者であり、律法を守り、且つ律法を守らせることに熱心でありました。しかし、復活したイエスとの出会いによって彼は新しい信仰理解に達したのであります。人は自分の力によって、律法を守ることによって、救いに達することはできないのだ。ではどうしたらよいのか。イエス・キリストを信じる信仰によって人は神の前に義とされるのである。この「義とされる」という言葉は、わたしたちにはわかりにくい。わかりやすく言えば、イエス・キリストを信じる信仰によってわたしたちは救いにあずかるのである。自分の力によって自分の救いをまっとうするのではなく、イエス・キリストを通して与えられる恵みを受けることによってのみ、わたしたちは神のいのちにあずかるのである。神の恵みを受けること、ただ単純に自分の弱さ、自分の過ちを認め、そして、神のいつくしみ、神の憐みに触れることによってわたしたちは神のいのちに導かれるのである。 そういう教えであると思います。

この教えが、広い入り口であるのか、狭い入り口であるのかは、その人がイエス・キリストがどういう人であるかと思うことにより違ってくる。自分の力で、自分の努力で、律法を守って救いに達しようとする人にとっては、イエス・キリストを信じる道は難しい道、むしろ視野にはいらない、非常に狭い道になってしまうのではないだろうか。

聖書のおしえ、聖書全体からこの問題をみると、例えば、ファリサイ人と取税人が一緒に神殿に上りました。あのたとえ話を思い出してみますと、ファリサイ人は神様に祈った。わたしはあなたの掟を守り、そしてこれ、これのことをし、自分の収入の十分の一を献金しています。隣にいる取税人のような罪深い者ではありません。神様に感謝します。そう祈った。取税人は、目を上にあげることさえせず、罪深いわたしを憐れんでください、と祈るだけでありました。どちらが、神の前に義とされたかというと、取税人のほうである、とイエスは教えています。わたしたちは、神の前に、どうしても罪を免れないものであるし、また弱い、もろいものであります。そのような自分に、神が、憐みを、慈しみを注いでくださり、そして神の前にご自分の子どもとして、自分の似姿としてわたしたちをかけがえのない大切なものとして受け取ってくださる。その信仰によって、わたしたちは狭い門を通ることができるのではないだろうか。

「心の貧しい人は幸いである」と山上の説教でイエスは言われました。自分の貧しさを知る人こそ神の恵みにあずかるのであります。

わたしたちが受け取った福音とはなんであるのか、自分にとって福音とはなんであるのか、わたしたちひとりひとり、皆さんひとりひとり、自分はなぜキリスト教徒になったのだろうか、

自分にとって福音はなんであるのだろうか、どういう教えに自分は救いを見出しているのだろうか。そのことを、この暑い2019年の8月、ゆっくり思い返し、黙想することはたいへん意味深いことではないだろうかと思います。(お知らせで831日、土曜日の小黙想会に言及する。)

 

 

2019年8月18日 (日)

宣教・福音化

宣教・福音化のための土曜日のミサ 説教

2019817()、本郷教会

 

わたしたち教会がなすべき使命は「福音宣教」、あるいは「福音化」という言葉で言い表されます。

今日の福音でイエスは言われました。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタ2819

イエスの弟子をつくることが、福音宣教であると思います。

しかし、イエスの弟子になるということと、福音を受け取ってイエスに従う者になるということの間に、繋がりがあるはずでありますというよりは同じことであります。

イエスの教えは「福音」と呼ばれ、喜ばしい便りであります。

教会は、人々にとって、喜ばしい便りを伝えてきました。

そこで多くの人が教会に加わった。

当初、イエスの福音を受け入れた人は、貧しい人々でありました。

イエスの周りに集まった人は、貧しくそして力がない、社会の中で周辺に押しやられていた人々であります。

「貧しい人々は、幸いである」(ルカ620)、あるいは「心の貧しい人々は、幸いである」(マタ53)とイエスは言われました。

貧しい人にとって、イエスの存在とイエスの言葉は、本当に喜ばしい言葉、救いの言葉でありました。

ところで、時代は移り変わって、キリスト教は当初は迫害される宗教でありましたが、ローマ帝国の中で非常に人数が増えると、ローマ帝国はキリスト教徒の存在を認め、そして紀元313年という年に、キリスト教を公認しました。

そして、その後キリスト教はさらに発展し、ついにローマ帝国の宗教、いわば支配階級の宗教となりました。

そこから本来の教会の在り方に少しずつ変化が生じてきたのであります。

貧しい人の宗教であった、貧しい人のための福音であったにもかかわらず、支配する人、権力のある人、財産を持っている人、名誉のある人々の宗教になっていったために、本来のイエスの教えと逸れていくという問題が生じたわけであります。

そこで教会は、何度も改革をしてきました。

1962年から1965年、「第二バチカン公会議」が開催されました。

その公会議を受けて、その10年後の1975年にパウロ6世教皇は福音宣教についての新しい教えを発表しました。

日本のカトリック教会としては、1987年に「福音宣教推進全国会議」を開いて、日本の社会にイエス・キリストの福音を宣べ伝える努力をすることを再度決意したのであります。

その時に、「開かれた教会」にしようという目標を掲げました。

そして、貧しい人、苦しんでいる人、孤独に苦しんでいる人々にとっての温かい交わりが憩い、助け、支えとなる、そういう共同体を造ろうという決心を表明したのでありました。

それからもう30年以上経ったわけでありますけれども、この決意はどの程度実行されてきたでしょうか。

開催時の決意を実行する当事者の一人であるわたくしとしては、とてもまだ道は遠く、大変恥ずかしいという状況にあると思います。

一人ひとりの人が、自分にとって福音とは何であるのか、自分はなぜキリスト者になったのか、どういう喜びをもって信者になり、どういう支えをいただいてきたのかということをご自分の言葉で話し、かつその信仰を生活の中に反映させることが、本当に正しい有効な宣教ではないかといつも考えております。

この暑い夏が過ぎて、秋になる時に改めて教会の使命をご一緒に考えたいと思います。

よろしくお願いします。

 

 

 

 

2019年8月16日 (金)

離縁と離婚

年間第19金曜日ミサ

 第一朗読  ヨシュア記 24:1-13

 福音朗読  マタイによる福音書 19:3-12
(そのとき、)ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

 説教

今日の福音はイエスとファリサイ派の人々との議論を伝えています。それは、結婚と離婚についての論争でした。どういう理由があれば離縁してよいのかということをファリサイ派の人々はイエスに問いかけました。

今読んだ福音の箇所からどんな文脈で議論が行われたのか、ということを考えてみますと、イエスは、男性優位の社会の中で、女性の立場から、女性を守るために発言しているように思います。

本来、離婚ということはない筈なのです。しかし当時現実には、男性が自分のほうの一方的な理由だけで妻を離縁することが珍しくはなかったので、妻を守るために、離縁する場合はどのような理由が必要かということを律法で定めたのであろうと思われます。

これはイエスの時代の話ですが、現代はどうなだろうか、ということになりますと、わたしたちは婚姻については、地上の法律である市民法、例えば民法などと、教会の法律である教会法の二種類の法律のもとに置かれているのです。そこで両方の定めを知らなければならない、ということになります。教会は神聖な結婚を守るために様々な努力をしてきました。しかし、残念ですが、現実には、破綻してしまう結婚があります。その当事者をどう救済するかということについては、教会は配慮してきました。まず離婚はできなくとも教会法上の『別居』という選択肢があります。また婚姻の解消、あるいは婚姻の無効宣言という可能性もあります。このような問題については、教会法の勉強をした専門家がいまして、関係者からの相談に応じることになっています。

結婚・離婚の問題は非常に微妙であり、重要であります。その解決のためには、教会二千年の知恵に助けてもらうという道があるということをお伝えします。

2019年8月15日 (木)

聖母の被昇天

聖母の被昇天

                                                                                                                2019年8月15日、本郷教会

第一朗読黙示録11.19a,12.1-6,10ab

第二朗読:1コリント15.20-27a

福音朗読:ルカ1.39-56

 

福音の本文

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 説教

皆さん今日は8月15日です。わたしたちカトリック信者にとっても日本国民、あるいは世界中の人々にとっても記念すべき日です。

8月15日は聖母マリアの被昇天を祝う日であり、また、第二次世界大戦、あるいはアジア太平洋戦争が終わり、平和が回復された日、日本にとっては敗戦を受け入れた日でもございます。

8月6日から15日はカトリック平和旬間できょうはその締めくくりの日となります。

マリア様のこと、平和のこと、わたしたちの日々の霊的生活のことにとって非常に意味深い日であります。わたしにとっては、この本郷教会での初めて聖母の被昇天の日です。

 聖母の被昇天という教えは、1950年に、時の教皇 ピオ12世が、正式にカトリック教会の教えとして、すべての人に向かって宣言して教義として定めた教えでございます。

すべての人は死ななければなりません。遺体は腐敗するのです。葬儀とは、遺体への尊敬を込めた葬送の儀礼と申しましょうか、聖母の場合は、そのご遺体は腐敗を免れて天に上げられたとわたしたちは信じます。それは聖母が死後直ぐに主イエスの復活の体の状態に上がられたということを意味しています。

 きょうの第二朗読で使徒パウロが教えていますが、わたしたちも主イエス・キリストのご復活に与り、栄光の体に変えていただけるという希望を与えられているのです。わたしたちの生身の身体は朽ち果てても、主の復活の体と同じような復活の体、朽ちることのない永遠の命を表し伝える体にしていただけるのです。

本日の第二朗読は述べています。

一人の人によってこの世に死が入ってきたが、一人の人によってすべての人にいのちが及ぶことになった。このいのちとは、わたしたちすべてのものに与えられる復活のいのちであります。

 ところで、きょうは第一朗読に注意を留めていただきたい。ヨハネの黙示録を読んで感じたことを申し上げたい。

身ごもった女と竜の壮絶な戦いが述べられています。

女とはわたしたち神の民を指しており、竜とはサタン、悪魔、悪の力を意味しているといいます。

本郷教会では昨年7月から火曜の晩に教皇文書の「読書会」をしてきました。無事、一年が経過しましたが、先日、三番目の文書『喜びに喜べ』を終了しました。

ここで教皇フランシスコが強調している点は、キリスト者の日々は悪とのたたかいである、ということです。悪とはサタンであり、人間を悪へ誘う霊的な存在です。

主の祈りの中で「悪からお救いださい」と祈っておりますが、それは、悪魔の誘惑に陥らないように守ってください、という意味であります。

悪との戦いとは、悪霊の誘惑を退け、聖霊の導きに従うことに他なりません。

それは思い上がらないように、高ぶらないようにとの聖霊の導きに従うことであります。

マリアの賛歌、マグニフィカトは述べています。

 主はその腕で力を振るい、

 思い上がる者を打ち散らし、

 権力ある者をその座から引き降ろし、

 身分の低い者を高く上げ、

 飢えた人を良い物で満たし、

 富める者を空腹のまま追い返されます。

 その僕イスラエルを受け入れて、

 憐れみをお忘れになりません、

それは権力への欲求、名誉、所有への欲望を放棄し、貧しい人々へ仕えることを意味しています。

 

主イエスと聖母の生き方に倣って、謙遜、柔和に生きることこそ、平和を実現するために使徒として生きることなのです。

日々そのような歩みを続けることが出来ますよう、聖霊の導きを祈りましょう。

アーメン。

 

2019年8月14日 (水)

兄弟の罪を赦す

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教

                                                                                                                                             2019年8月14日

 第一朗読  申命記 34:1-12

 福音朗読  マタイによる福音書 18:15-20
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 

説教

今日は聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の殉教を記念します。

昨日の福音は、子どものようにならなければ天の国に入ることが出来ない、という主イエスの教えでありました。それはマタイによる福音の18章の最初の部分にある教えです。今日の福音は同じ18章から取られています。そこで18章全体を見ますと、見出しだけ見れば、最初の話は先ほど言ったように、天の国一番偉い者は誰か、という話で、次は、小さな者を躓かせてはいけないという話、そして次は、迷い出た羊の話。100匹の中で一匹が迷い出た時にどうするかという話。それから今日の箇所で、兄弟に忠告する場合にどうするかという話。ちなみにそのすぐあと、兄弟が自分に罪を犯したなら、7の70倍まで赦しなさいという教えであります。

そいう文脈の中であらためて今日の教え、「兄弟的忠告」という教えを読んでいきましょう。

「兄弟があなたに罪を犯したなら」とあります。兄弟がいて、その兄弟が自分に罪を犯した、という場合。どんな罪なのか分かりませんが、罪を犯した場合ですから、自分とその兄弟の間の問題なのですね。あまりこの言葉に注意を向けていなかったのです。誰かが困ったことをしているとか、問題を起こしているという場合に、その人に忠告するということはよくあるのですが、自分に罪をおかした場合、となると、なかなか難しい(ケースだ)という気がするのです。わたしたたちはそういう場合どうしているだろうか。その兄弟に直接言うでしょうか。なかなか言わないような気がする。言うのは難しい。イエスは、二人だけでまず話し合いなさい、二人だけのところで忠告しなさいと言っている。こちらの言うことを聞き入れてくれたら、大変それはよろしい。兄弟を取り戻したことになる。失敗すれば、二人きりの話ではうまくいかなかったので、他に一人か二人一緒に話を聞いてもらうということになる。それで話がつけばよろしいが、それでも聞き入れてもらえなければ、教会に申し出なさい。マタイの福音が成立したころ、教会共同体というものがすでにあった。その共同体が彼の問題を取り扱う。それでも彼が自分の過ちを認めなければ、異邦人か徴税人と同様にみなしなさい。これはどういう意味だろうかと思いますが、教会共同体の交わりから外すという意味だろうと思います。(わたしの解釈ですが。)

それで地上でつなぐことは天上でもつながれるし、地上で解くことは天上でも解かれることになります。

これは、ペトロに言われたことと同じことのようですが、「あなたがた」と言っていますので、教会共同体に言ったことであって、共同体として兄弟の罪の問題をどういうように扱うか、ということを言っている。

そして、その次の話は、7の70倍赦しなさい、となります。

この話の展開をどういう風に受けとめたらよいだろうかと思います。

「兄弟を赦す。」

赦すためにはその兄弟に、自分の過ちを認めてもらえるようにしないといけない。そこで戒めるわけです。過ちを過ちでないないとすることが赦すことではないのであります。しかし、赦しなさい、7の70倍も赦しなさいと言っておられる。

どう考えたらよいのか?

一人の兄弟を大切にするという思いが強く滲んでいるように思います。

 

子どもの心

間第19火曜日

8月13日 

第一朗読  申命記 31:1-8

福音朗読  マタイによる福音書 18:1-5、10、12-14

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

[ これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 

説教

今日のイエスの言葉をご一緒に黙想しましょう。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

「心を入れ替えて子供のようになる」とは何を意味しているでしょうか。わたしたち大人は自分の考え、自分の思い、というものをもっています。すでに成長する過程で、物事を見、判断するための枠組みが出来ています。その枠組みに合わせて物事を判断し人の価値を決めたりしています。まだ子どもにはそのような枠組みが出来ていない。白紙のような状態でしょうか。教育というのは、子どもに正しい考え方、判断力をつけるようにすることだろうと思います。

子どもの場合、善い事、悪い子も、そのまま子どもの心に入って、刷り込まれてしまいますので大人の責任は重大だと思います。

天の国とは、神様の恵みが行きわたっている状態です。天の国と神の国は同じことです。神の支配が神の国です。わたしたちは、頭では、神の恵みを受け、神の御心を行うつもりでいますが、なかなか素直に、謙遜に、神様の恵みを受け取るようには出来ていないと思います。

例えば、天の国で一番偉いのは誰か、ということが弟子たちの関心事でありました。偉いかどうかということが彼らにとって大切であったようであります。

「偉い」というのは通常の意味で「権力がある」ということです。あるいは、「名誉がある人である」あるいは「人を動かす力がある」ということでしょうか。

自分が偉いかどうかということを第一の関心にする人は天の国の人ではないと思います。

ではわたしたちはどうだろうかと思います。本当に柔和、謙遜なイエスに倣って生きているだろうか、と思います。

この前の日曜日の福音ですが、わたしたちは、自分の生涯の終わりにその人生の総決算をしなければならないのです。その時に、どれだけ柔和、謙遜に生きたか、そして平和を実現するために力を尽くしたか、ということが問われているのだと思います。

 

2019年8月13日 (火)

ペトロの魚

年間第19月曜日ミサ

 

第一朗読  申命記 10:12-22
(モーセは民に言った。)「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。」

 

福音朗読  マタイによる福音書 17:22-27
(イエスと弟子たち)がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

 

説教

今日の福音はイエスが「神殿税」という税金を納めたという話であります。当時神殿税という税がありまして、人々は皆、神殿に税を納めなければなりませんでした。イエスは通常のイスラエルの民としてその義務を負っていたわけです。しかし、他方イエスは神のおん独り子ですので、自分の家である神殿のためには、人々から税を取り立てる側にいるわけです。それでも人々を躓かせないために、税を納めなさいとペトロに言ったのです。

ガリラヤ湖から取れる魚の口の中に銀貨一枚が見つかったのでそれをもってイエスとペトロの分として納入させました。ガリラヤ湖に行くとペトロの魚というのがいますがたぶんこの魚のことかもしれません。

昨日の日曜日わたしは、人は人生の最後の時に、最終的で決定的な神との出会の時を迎えるのであるから、そのときに備えて、毎日しっかりと目を覚まして歩みなければならない、という話を致しました。

主日の第二朗読はヘブライ書でありまして、信仰の模範を示した人々の話が告げられていました。その代表者はアブラハムであります。アブラハムは一子イサクを焼き尽くすいけにえとして献げるようにと神に命じられました。分かりにくい話ですが、それでもアブラハムは信仰によって神に従おうとしたのです。

わたしたちの地上の旅は仮住まいの旅であって、天には永遠の住処が備えられていると信じます。わたしたちはこの信仰に従い、天の故郷に向かって日々歩んでいるのです。その際、三つの対神徳、信望愛、信仰、希望、愛にいつも身を固めて、神を信じ、神を愛し、隣人を愛し、そして希望をもって、歩むようにしなければなりません。

そして同時に、地上における市民としての義務を果たしながら、神が命じている務めを行います。その務めとは、社会的弱者の保護ということです。旧約聖書は、今日の第一朗読、申命記などで繰り返し、社会的弱者である、孤児、寡婦、寄留者を大切にするようにと、イスラエルの民に繰り返し命じているのです。

 

 

2019年8月11日 (日)

日本は平和か?

年間第19主日C年

2019年8月11日、本郷教会

第一朗読 知恵の書 知恵18:6-9

第二朗読 使徒パウロのヘブライ人への手紙 11:1-2, 8-19

福音朗読 ルカ12:32-48

 

説教

日本の教会は、平和旬間をいま過ごしております。昨日は炎天下、カテドラルでの東京教区平和旬間行事に参加してくださった方々、ほんとうにお疲れ様、ありがとうございました。

「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」とイエスは言われました。

わたしたちが主イエスと決定的にお会いするとき。それは人類でいえば、イエスの再臨のときでありましょうし、個人でいえば、わたしたちの最後のときでありましょう。そのときに問われることがある。

「あなたはどう生きたのか。」そのどう生きるということの中に、あなたは平和の実現のためにどのように働きましたか、という問いがあると思います。

「平和」とは何かということをひとことで、言葉でいうことは難しいし、あまり意味のないような気もいたしますが、それは「調和」ということではないか。

自分と神との調和、ほかの人との調和、自然との調和、そしておそらく自分自身を受け入れる平和ということではないだろうかと思うのであります。

カトリック教会 総体全体として2千年の歩みの中で平和のために力を尽くしてきましたが、非常に不充分であったということも認めざるを得ない。

ヨハネ・パウロ2世教皇、列聖された教皇は、みなさま、覚えていらっしゃると思いますが、「紀元2千年という歴史の大きな節目を迎えるにあたって、心からの反省をしましょう」と言われました。その反省の中に、ある意味で非常に政治的なことが入っている。全体主義政権が、基本的人権を侵害したときに、見過ごしてしまった、或いは黙認してしまった、ということがひとつ。それから、わたしたち教会の子ら、ま、教会の子っていうと教会のメンバーのことでしょうが、真理に仕える熱心さのあまり、暴力を使ってしまったということを言っております。真理と暴力と、非常に微妙な関係にある。暴力を行使することをイエスは否定しました。そして、敵を愛するように教えました。教会は、しかし、その教えを忠実に守ることには失敗したことがある。

日本の教会総体としてはどうだったかというと、この冊子(「戦後70年司教団メッセージ 平和を実現する人は幸い」カトリック中央協議会)をぜひお読みいただきたい。入口に置いてあります。戦後50年、60年、70年、節目のときにわたしたちは、日本の教会の、戦争についての反省を行いました。特に50年のときに、なぜわたしたちは結果的にあのアジア・太平洋戦争、多くの尊いいのちが失われたあの戦争をとめないどころか、結果的に協力してしまったのはなぜだろうかという反省をしたのであります。

そして、60周年のときには、わたしたちが戦争を深く反省した結果うまれた憲法を、日本国憲法の中で、特に政教分離の規定と、それから戦力不保持、即ち憲法9条を大切にすることを改めて誓い、そして政府と人々に訴えました。「非暴力による平和」ということをあらためて訴えたのであります。

昨日の平和旬間行事で、中野晃一先生のお話、それから菊地大司教のミサに参加して感じましたことをひとつ、ふたつ申しあげてわたしの話を締めくくりたいと思います。

中野先生の話は非常に興味深いものでありました。彼は、前後関係が切れてしまいますが、わたしは日本の社会、けっこういい社会じゃないかと思っていたのだけれども、人間関係が冷えている、冷たくなっていると。自己責任ということをいわれて、困っている人がいても、それは自分のせいだという雰囲気が支配的だということを言われたのですね。あ~そうなのか、そういえば、そういう気もすると。それがひとつですね。それから、韓国との関係に言及されて、韓国のことをもっと大切にしないとだめだと。一番大切な国なのです。隣国、長い歴史上の付き合いがある。日本と韓国は力を合わせてこの極東の平和を守らないといけない。今、中国という大国とアメリカという大国の間にものすごい緊張が生じている。そのあいだで、日本などはすぐにやっつけられてしまうし、ひとたまりもないし、朝鮮も半島が2つに分裂してしまって非常な 緊張関係にある。そういう中でごちゃごちゃしている場合じゃないのです。日本の国益のために大切だ。別に信仰上の理由とか言ってないんですが、非常になるほどと思いました。

それから、ミサのほうですが、たしかに日本はここ60年70年、戦争はしていないし戦争に加わっていない、戦争に加わっているかいないかは微妙ですけれども、戦争によって殺したり、殺されたりはしなかった。しかし、ほかの理由で殺されているのですね。いのちが粗末にされている。障がい者が虐殺される。それからさらに、悲しいことに、自死、自殺者が多い。一時、毎年3万人を超えていた。*3万人とは大変な数字なのですね。10年経つと30万人ですからね。大変な数字なのです。10数年、毎年3万人を超える人が自殺した。自殺未遂者はたぶんその10倍はいるだろう。政府はじめ多くの方の努力で3万人は切るようになったけれども、依然として2万人台の人が死んでいる。この事実は戦争よりももしかしたら悲惨かもしれない。

人間が本当に粗末にされているのかなぁ。こんなに安全な国はないと思うのですけれども、しかし逆説的に、何よりも自分で自分を大切にするということが非常に不安定になっているのではないだろうかと。わたしたちキリスト者はこの事実の前に奮起しなければならないと思います。

*1998年より14年間、連続3万人以上が自殺した。2003年がピークで3万4427人。また自殺未遂者については次のような報告も見られる。

53万5000人―――。 これは過去1年以内に自殺未遂を経験した人の数である(推計)。 「自殺未遂者は、自殺者数の10倍程度」というのが、これまでの定説だった。ところが日本財団が行った調査で、20倍近くもいることが明らかになったのである。しかも、そのうち、女性の49%、男性の37.1%が、「4回以上、自殺未遂を経験した」と回答したのだ(「日本財団 自殺意識調査2016(速報)」)。

 

2019年8月10日 (土)

十字架

年間第18週の金曜日

2019年8月9日

福音朗読  マタイによる福音書 16:24-28

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 

説教

ペトロの信仰告白を称賛したイエスはその直後に同じペトロを悪魔呼ばわりし、さらにそのあとで「受難の予告」をして言いました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

「自分の命を救いたいと思う者」という時の「自分の命」とは何でしょうか。それはエゴ、偽りの自分、自己主張し自分の欲望を遂げようとする、古い命の自分をさしています。「わたしのために命を失う者は、それを得る」の「それ」と何でしょうか。いったん失われた地上の命が蘇生する、生き返るという意味でしょうか。

これはヨハネの福音が言う「永遠の命」のことを指しています。あるいは使徒パウロの言う「新しい命」を指しています。洗礼を受けたわたしたちは古い自分が死んで新しい自分に生き返らされたのです。パウロは教えています。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマ6・3-5)

 

日々新たに生まれるという生き方がキリスト者の生き方です。新しく生まれるためには日々死ななければなりません。それは日々イエスの過ぎ越しの神秘を生きることに他なりません。

聖霊の助けを祈ります。

 

2019年8月 8日 (木)

聖ドミニコの記念日

説教
8月8日は聖ドミニコ司祭の日であります。
ちょうど6年前の8月8日、わたしはさいたま教区の教区管理者として初めて、さいたま教区の司教座聖堂である浦和教会でミサを献げ、さいたま教区の皆さんに挨拶を致しました。ちょうどその日が聖ドミニコの日でありました。
今日の福音は御存じのとおりペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰宣言をし、イエスからお褒めに与り、天国の鍵を授かったという、カトリック教会にとっては非常に重要な箇所であります。それなのにその直後に当の同じペトロがイエスから、激しい叱責を受けています。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
ペトロの善意には疑いがないのです。イエスのことを思ってお諫めしたのであります。しかしそのペトロの言動はサタンの仕業であるとされて退けられてしまったのです。わたしたちの教会の設立に関しては、この二つの出来事、つまりペトロへのイエスの称賛・承認とペトロに対するイエスの激しい叱責の二つの出来事が同時に深くかかわっていたのです。これは大変不思議な現象ではないでしょうか。
他方わたしたちは毎日のミサで民数記を読み続けてきました。民数記はエジプトを脱出したイスラエルの民がモーセに率いられて約束の地に向かう様子を述べています。民は何度もモーセに反抗し、泣き言を言い、ついにモーセはもうどうにもならないと音を上げて、「どうかわたしのいのちを取り上げてください」とさえ神に訴えたと述べているのです。今日の朗読では「メリバ」という地名の由来が説明されています。「メリバ」というのは「争い」という意味であり、水がないということで民がモーセに逆らったという出来事を表わしています。

2019年の日本の東京というところでわたしたち教会はどう歩むべきでしょうか。様々な試練と誘惑の中でわたしたちが人間の思いではなく神の思いに従って歩むことが出来ますよう、聖霊の導きをお祈りいたしましょう。

イエスカナンの女性に根負け

説教

2019年8月7日

イエスはカナンの女性に向かって言われました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」

福音書の中にはイエスが何人かの人に向かってその人たちの信仰を称賛する場面が出てきます。「あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9・22、マルコ5・4、ルカ8・48、マタイ20・52、ルカ18・42)「イスラエルの中でさえこのような信仰をみたことがない。」(マタイ8・10、ルカ7・9)とイエスは言われました。

このカナンの女性の願いをイエスは無視し、また取り上げないと言ったのですが、女性がそれにもめげずに必死でイエスに願ったので、いわば根負けした形で、イエスはこの女の願いを聞き入れたのでした。

このカナンの女性の信仰と対比されるのが、40年間にわたって荒れ野を彷徨することになったイスラエルの民の不信仰であります。彼らは荒れ野での不自由な生活、出会う困難に不満を抱き、主である神への信仰、信頼を失い、神から遣わされた指導者、モーセとアロンに向かって神への不平を募らせ、泣き言を言って、神を怒らせたでありました。

さて2019年の東京といういわば現代の荒れにいるわたしたち現代のイスラエルの信仰はどんなものでしょうか。わたしたちの使命は福音宣教・福音化であります。一日としてこのことがわたしの念頭を去ったことはありません。現代の荒れ野におけるこの使命遂行に大きな困難を感じています。いつも自分を遣わされた主なる神への信頼が試されているように思います。

どんなに拒まれてもひたすらイエスへ懇願したあのカナンの女性の、強い信仰、信頼に肖りたいものだと思います。

 

 

2019年8月 6日 (火)

主の変容

主の変容

                                                                      2019年8月6日,本郷教会

第一朗読  ペトロの手紙 二 1:16-19

(愛する皆さん、)わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

福音朗読  ルカによる福音書 9:28-36

(そのとき、)イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

説教

イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登りました。それは「受難の予告」をしてから八日目のことであり、エルサレムへ出発する前に、静寂な環境で、父である神と親しい交わりのひと時過ごしたいとイエスが切望したからでした。たぶん深夜のことでしょう、祈っているイエスの様子が変わり、イエスの顔と姿は神の栄光に包まれました。そこにモーセとエリヤが現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について話していました。

モーセはシナイ山で神から律法を授かった人、エリヤは神の言葉を告げる預言者の代表です。 イエスはモーセとエリヤで代表される旧約聖書の教えと預言を成就するためにエルサレムに上ります。そこには十字架の最期という苦しみが待ち受けています。そのことをイエスは知っていました。受難へ向けて父である神との語らいが必要でありました。また弟子たちの前で、あらかじめ受難の前に、ご自分の栄光を垣間見させ、弟子たちの躓きと失望を防ぎ、彼らの信仰を堅くする必要を感じたのではないか、と思われます。

イエスは事前に復活の栄光を弟子たちに示し、弟子たちもその栄光にあずかる道を示しました。弟子たちは主の復活の後で、ご変容の出来事を明確に思い出し、後世のわたしたちに、栄光の瞬間の様子を伝えたのでした。  

ところで、主の栄光にあずかるという信仰と希望は弟子たちだけに与えられたのではありません。今ここに集うわたしたちは誰でも、キリストの復活の栄光にあずかるという信仰と希望を持っています。

わたしたち人間は本来「神の似姿」である神の子です。本来のわたしたちは神の栄光の輝きに包まれる神の子であるのです。

実はすでにわたしたちはイエスの復活の栄光を受けているのです。しかしその輝きは人の目には隠されており、自分の目にも隠されています。実際現実には、人間は、罪という毒に侵されています。毒麦の譬えを思い出してください。毒麦のおかげで、わたしたちのなかには影と闇が生じています。聖霊の導きと肉の欲望の間で葛藤を経験しています。また病気、心身の不自由、肉体の弱さに苦しんでいます。しかしこれは見せかけの状態であり、本来の人間の姿ではないのです。人は神の子であり、神の栄光にあずかる者であり、すでに神の栄光に与っているのです。そしていつか、神はこの「卑しい体」を、完全に、キリストの「栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリッピ3・21)

 

2019年8月 5日 (月)

モーセ

年間第18月曜日ミサ
                                                                                                         2019年8月5日、本郷教会

第一朗読  民数記 11:4b-15
(その日、イスラエルの人々は)泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」マナは、コエンドロの種のようで、一見、琥珀の類のようであった。民は歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった。夜、宿営に露が降りると、マナも降った。モーセは、民がどの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いた。主が激しく憤られたので、モーセは苦しんだ。モーセは主に言った。「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。」

福音朗読  マタイによる福音書 14:13-21
イエスは(洗礼者ヨハネが死んだこと)を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 

説教
明日から日本のカトリック教会の平和旬間が始まります。昨日は非暴力による平和の建設ということを主日の説教で申し上げました。
今日の二つの朗読は非常に印象深い話であります。
第一朗読、民数記はモーセという人の物語であります。モーセという人は非常に苦しんだのであります。「どうかむしろ殺してください」と神に願った、とあります。民衆の要求にこたえることができない。他方神はモーセに難しい要求をしている。民衆と神との間に立ったモーセは非常に苦しんだのであります。民衆の要求というのは、民数記によれば、食べ物に関することです。エジプトで食べていたような野菜とか肉を食べさせろということで、それはそう的外れな要求ではないと思う。
モーセは誰よりも柔和謙遜な人であったとあります。そのモーセが苦しんだという民数記の記述が非常に興味深い。神と人との間に在る人は苦しむのであります。
今日の福音は二匹の魚と五つのパンの奇跡の話です。わたしが司教になったときの紋章はここからとられています。(貧しい人々がわずかなもの物を分かち合う姿にわたしたちの教会の本来のあるべき姿が示されています。)

2019年8月 4日 (日)

平和を実現する人

年間第18主日C年

2019年8月4日、本郷教会

第一朗読 コヘレトの言葉1・2;2;21-23

第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙3・1-5,9-11

福音朗読 ルカによる福音12・13-21

 

説教

平和旬間の開始にあたりまして、きょうは平和について考える、そして、平和のためにお祈りしたいと思います。

きょうの福音は、「愚かな金持ち」の話であります。この金持ちは、安心したかったのでしょうか、自分のために大きな蔵を立て始めて、そこに自分の全財産をしまい、そして、これで安心できると思ったのでありました。

その金持ちに対して、神が言われたのは『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』

そしてイエスはさらに言われました。「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」

自分のために富を積むということを、わたしたちもしているのかもしれない。

第一朗読で、「すべては空しい…」と言われました。

どんなに財産を積んでも、所詮、いつか失われるものである。自分のために富を積むのではなくて、神の前に豊かにならなくては意味がない。人生の意味は、自分のために生きるのではなくて、神のために、神様のみこころに従って生きるところにあるのであります。

第二朗読をご一緒に思い起こしましょう。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い等を捨て去りなさい。」そして、日々新たにされるように努めなさい。

日々新たにされるということは、何よりも、神様のみ旨に従って新しい人間となるように努めることであり、そして、平和のために働くものとなるようになることではないでしょうか。

自分のためにだけ生きる者同士、いつも争いが絶えないのであります。しかし、ともに神のみこころに従い、平和を実現する人として努力するものが集まれば、そこに、平和が生まれるのであります。

イエスは、敵を愛するように教え、そして、暴力に依らないで平和を実現するようにと諭されました。

日本の司教団は、たびたび平和のためのメッセージを発表しております。

次のような事柄が非常に大切であると思いますので、いま、引用いたします。

「教皇ヨハネ・ペウロ二世は、聖パウロの教えに従って、平和は悪が善によって打ち負かされるときにのみもたらされる辛抱強い闘いの成果であることを明らかにしています。軍備と武力行使によってではなく、非暴力を貫き対話によって平和を築く歩みだけが「悪に対して悪をもって報いるという悪循環から抜け出す唯一の道」(注10)なのです。これはガンディーの非暴力による抵抗運動などが示しているように、多くの人の共感を呼ぶものです。この非暴力の精神は憲法第九条の中で、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄、および戦力の不保持という形で掲げられています。(注11)六十年にわたって戦争で誰も殺さず、誰も殺されなかったという日本における歴史的事実はわたしたちの誇りとするところではないでしょうか。」(カトリック中央協議会:戦後70年司教団メッセージ『平和を実現する人は幸い』)

きょうの『聖書と典礼』の7ページを皆さんご覧になって下さい。ここに、那覇教区のウェイン・フランシス・バーント司教様の言葉が出ております。

沖縄のかたのこころからの願いと叫びがここに綴られています。

「キリストのこころをもって新しい人となった皆さん、キリストが望んでいる世界を築く使命を果たしましょう。被爆者の泣き声を聴いて、核兵器を廃絶するために働きましょう。沖縄県民の叫び声に耳を傾けて、戦争の準備となることを止めましょう」。

 

注10:2005年1月1日「世界平和の日」メッセージ

注11:憲法第九条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。第2項:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。

 

本郷教会司祭命日記念ミサ

本郷教会帰天司祭合同命日祭ミサ説教

201983()、本郷教会

井手雄太郎神父様は、201834日帰天されました。

藤岡和滋神父様は、20181121日。

内山賢次郎神父様は、2017224日が御命日であります。

わたしたちがたいへんお世話になった司祭方を思い起こし、心から感謝申し上げたいと思います。

司祭は、主イエス・キリストから召されて、イエス・キリストの救いの御業を宣べ伝え、そしてイエス・キリストの生きたその神の愛を証しする、ということを使命として受けました。

今日記念する司祭方は、人間としての弱さと闘いながら、懸命に生きてその生涯を全うしてくださいました。心から感謝申し上げたいと思います。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ146

司祭は、このイエスの言葉を自らも生き、そしてこのイエスの言葉を人々に告げ知らせるのです。そして皆さんとご一緒に、天の父のもとへと歩んでくださった方々が司祭であります。

わたしたちの生涯は、神である父からこの世に生を与えられて、そしてこの世の中で共に歩みながら、また自分に命をくださった天の父のもとへと戻るという旅路のようなものであります。

そして、その天の父のもとに戻る時に、復活なさった主イエス・キリストが共にいてくださり、わたしたちを照らし、導き、そして一緒に歩んでくださいます。

その復活したイエス・キリストの不完全な代役をつとめるのが、司祭であります。

わたしたちの人生にはさまざまな困難が伴っている。

しかしわたしたちは、その生涯の終わりにおいて、死から命へと完全に移行することができると信じています。死から命へ移されるということは、イエス・キリストの復活の命に与ること、復活の栄光に与ることにほかなりません。

わたしたちは皆一度の生涯をいつか終わらなければなりませんが、その日こそは新しい命の始まりであります。

亡くなった司教司祭がわたしたちの祈りに応え、そしてわたしたちのためにも祈ってくださると信じ、今日のミサをご一緒にお献げしましょう。

 

 

«あなたの信仰があなたを救った!