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2020年10月22日 (木)

神はアブラハムに何を命じたか?

悪についての小考察その10

――神はアブラハムに何を命じたか。「イサクの犠牲」という躓きについて

 

キリスト教がなぜ日本の地でなかなか受け入れられないのは何故か?教会の宣教の仕方に問題があるからか?教会自体の在り方に問題があるからか?あるいはキリスト教の内容、教理、教えが、人々にとって理解を阻んでいるのか?

聖書の教えが難しいからか?

 

今回は「躓きの石」かもしれない創世記で述べられている「イサクの犠牲」の物語を取り上げます。この個所はカトリック教会で最も大切にしている典礼の復活徹夜祭の朗読の選択肢に挙がられています。まず以下に本文を引用します。

 

アブラハム、イサクをささげる

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、

アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。

そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。

御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、

あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。

地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

(創世記221-18

 

アブラハムは多くの人々から信仰の模範とされています。ユダヤ教はもちろんですが、キリスト教、イスラム教でも信仰の父として尊敬されています。

アブラハムは生涯にわたり数々の試練を受けました。特に本日朗読されたイサクの犠牲の話は非常に深刻で辛い試練でありました。神はアブラハムに独り子イサクを与えたにもかかわらず、イサクを焼き尽くすいけにえ(かつては燔祭と訳されていた。)として神にささげるよう命じました。すでに神は、アブラハムの子孫が増えて、空の星のようになるだろうといわれたのです。イサクをささげるとは文字通り息子を殺す、ということです。なんと残酷な命令でしょうか。でもアブラハムは黙々と神の命に従い、早速出発して、いけにえをささげるべき山へ向かいます。途中の会話は何も記されておりません。息子イサクは何歳だったのでしょうか。13歳という説があります。イサクは自分を燃やすための薪を背負わされたのです。アブラハムがまさに刃物を取って息子イサクを屠ろうとしたときに、天の見使いのこえがしました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」主はイサクの替わりにお羊を用意し、お羊をささげるように準備してくださったので、危うくイサクの命は助かったのでした。

それではわたしたちはこの話をどのように受け止めることができるでしょうか?
従順に父の従うイサクの姿は、十字架にかけられたイエスを想起させます。愛する独り子を神にささげる苦悩を体験しタアブラハムは、愛する独り子イエスが十字架の上で惨殺されるに任せた天の父を思い起こさせます。アブラハムも苦しみ、イサクも苦しんだに違いないのです。

父である神はご自分のもっとも大切な人イエスを犠牲にしました。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである、』(ヨハネ316)

復活徹夜祭で行われる洗礼は、人々をイエス・キリストの死と復活の神秘に与らせ、永遠の命へと導くための恵みを与える秘跡であります。(ローマ63-11参照)

 

「焼き尽くす献げ物」とは「燔祭」の犠牲のことです。息子を燔祭の犠牲にするということは、はっきり言えば、焼き殺しなさい、という意味です。神は本当にそう命じたのでしょうか。

かつて聖書の分かち合いにこの個所を取り上げて、この神の命令をどう思うかと訊ねたところ、「とんでもない、正気の沙汰ではない」という感想が返ってきました。そうです、正に、父親が罪もない子供を焼き殺すとは、あってはならない以上な出来事なのです。この時イサク何歳だったのか、はっきりしませんが、唯々諾々と父親がなすがままに任せていたのでしょうか。それても暴れて抵抗したのでしょうか。100歳を超えた高齢者のアブラハムと少年あるいは青年だったかもしれないイサクが肉体で争えば、イサクの方が勝つでしょう。これは本当にあった出来事でしょうか。何等かに似たような出来事がこのように内用が変えられたのでしょうか。当時は確かに子どもを犠牲として神に献げて神の怒りを宥めるという悪しき習慣が行われていたとも考えられます。聖書自体はこの創世記の記述をどう解釈しているかといえば、ヘブライ書がこの出来事を取り上げています。

 

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

   (ヘブライ1117-19)

ヘブライ書によれば、アブラハムは自分の子を殺すことに疑念を抱いていないようです。たとえイエスを殺しても神はイサクを生き返らせてくださると信じていたからでした。

使徒ヤコブもイサクの犠牲に言及して言っています。

神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。

(ヤコブ221-24)

ヤコブによれば、アブラハムがイサクを屠った行為は何ら非難すべきことではなく、むしろ称賛されるべきことである、と言っているように見えます。

人間社会の法律・道徳から言えば犯罪であり非道な残虐行為ですが、神の目から言えば、称賛に値する従順な信仰の行為である、ということになり、ここに、倫理と信仰の対立という現象が生じるのです。(この点については、キエルケゴールの『おそれとおののき』を取り上げて一緒に論じることにします。(注1)

 

一体、わたしたちはこの創世記の記述をどう解釈したらいいのでしょうか。旧約聖書は新約聖書の光ももとに解釈しなければなりません。イエス・キリストの復活の光のもとにイサクのいけにえを読み直す必要があります。今日訳聖書の解釈については第二バチカン公会議の啓示憲章を見なければなりません。(2)

 

ここで考えてみるに、神は本当にアブラハムにイサクを殺すように命じたのか、という疑問があります。「イサクを神に献げなさい」という命令ならわかります。「献げる」=「殺す」と解釈されるところが問題です。「殺してはならない」と命じられた神がアブラハムには息子を殺すようにと命じられたのでしょうか。人間は神の命令に服するが、神自身はその義務はないということだろうか。法の制定者自身が法を遵守しなければその方は向こうではないだろうか。

アブラハムは「神が息子を燔祭にするように命じた」と理解しました。それは間違いないと思われます。しかしその理解は間違っていたと考えるべきです。

人間の啓示の理解は徐々に発展してきました。神は六日間にわたって天地を創造したと創世記一章が伝えていますが、六日間という時間は、人間の考える時間ではない、ということは、今日、多くの人が諒解しています。

旧約聖書に出て来る記述で今日受け取りにくいことは他にも縷々あります。例えば「聖絶」(ヘレム)という問題です。

紀元前十三世紀、モーセに率いられたイスラエル群はエジプトからカナンの地に移住しましたがその際起こった理解しがたい現象が聖絶(ヘレム)と呼ばれる、カナン先住民殲滅事件でした。旧約聖書の専門家H・クルーゼ師によれば「神の裁きによる判決を人間の手を通して行う死刑執行」と定義されています。申命記によればこの死刑は神の意思に基づいて行われます。(4)

あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離してわたしに背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである。あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである。

   (申命記71-5)

この聖絶の思想は今に続くパレスチナ紛争の原因の一つになっています。この思想に「一神教」の危うさを指摘する者がいたとしたらそれは無理もないことだと思います。「聖絶」は形を変えて十字軍となり、さらにナチスの虐殺へとつながってきたと考えるのは行き過ぎでしょうか。

さて、神はアブラハムにイサクを殺すようにとへ命じなかったとして(仮説ですが)もう一つの問題があります。それは神がアブラハムを「試された」、ということです。

 

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 

つまり、アグラハムが神に忠実であるか、神を真に信じているかを知るためにテストした、という意味です。この「試された」という動詞の名詞は、「試み」となりこれは「試練」とも訳されています。「試練」はヘブライ書が

 

「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。」(1117)

 

でいうところに「試練」であります。そして「試練」のギリシャ語原文はペイラスモスpeirasumosρειρασμο(′)ςです。そしてpeirasumosは「主の祈り」出て来る「誘惑」なのです。おなじことばpeirasmosが「試練」となり「誘惑」となります。

日本語で試練と誘惑は明白に意味が違います。試練は人が人生で出会う、克服すべき困難。辞典によれば「心も強さや力の程度を試すために苦難」(新明解国語辞典)「信仰・決心など強さをきびしく試すこと。またその時に受ける苦難」(広辞林)となっています。どうも「試す」という要素が入っているようです。「誘惑」はどうかと言えば「相手を、その本来の意図に反する方向に(置かるべき状況とは異なった状況に)誘い込むこと。」

(新明解国語辞典)「人を迷わせて、悪い道に誘い込むこと。相手の心をひきつけて、自分の思い通りにすること。」(広辞苑第七版)とあり、誘惑者が自分の求める方向に人の心を引き寄せることを言うようです。(注3

さて、「主の祈り」では、現在の口語訳では「わたしたちを誘惑におちいらせず悪からお救いください」となっていますが、かつての文語の文言では「われらを試みに引き給わざれ」となっていました。明らかに,peirasmosの解釈が「試み」から「誘惑」並行しています。

人は誘惑に遭います。誘惑に遭っても誘惑に負けて罪に陥らせないように助けてください、がこの祈りの意味であります。試みに遭わせないようにとは祈ってはいないのです。神は人を決して誘惑はしませんが試みには遭わせるわけです。「神は人を誘惑しない」ということは神の神性(神の本来の在り方)から行って必然であります。ヤコブは言います。

 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。(ヤコブ113

神が人を罪・悪に誘うなら、それは神ではないということになります。

それでは誘惑は何処から来るのか。ヤコブは、誘惑は人間の欲望から来ると言います。

  むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブ114-15)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(一ペトロ5・7)

そして、誘惑は「悪いもの」つまり悪魔から来るのです。主の祈りの出典であるマタイによる福音で次のように祈っています。

わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。(マタイ6・13)

 

またペトロの手紙は言っています。

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。

(一ペトロ5・8-9)

(「悪魔」については稿をあらためて考察したい。)

そこで「ペイラスモス」である「誘惑」は、悪魔ないし人の欲望から来るということになります。それでは「ペイラスモス」である「試練」=「試み」は何処から来るのでしょうか。アブラハムの受けた試みは神からの直接のものでした。アブラハムは息子イサクを燔祭にすると解釈しましたが、果たしてそうなのか、という疑問を筆者は提出しています。使徒パウロの次の言葉は有名です。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(一コリント1013)

人は試練に遭います。「試練に遭わせる」という言い方は何を意味しているのでしょうか。試練は神から来る、神の意向である、神が原因である、という意味でしょうか。

 使徒パウロの受けた試練は数えきれないものでした。その中に「とげ」があります。

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(二コリント127-10

「とげ」はパウロにとって非常に辛いものでした。それが何であったか明らかではありません。人間パウロの弱さ、疾病にかかわる重大な欠陥であったようです。

の弟子たちは必然的に「多くの苦しみを経なければならない」のです。師イエスが苦しみを受けたのなら、その弟子が同じく苦しみを受けるのは必然であります。弟子たちの受ける苦しみは、神から来るのではなく「世」から、神の支配を拒否するこの世の罪から来るのであります。

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚なさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。(ヨハネ1518-25)

「あなたがたには世で苦難がある。」(ヨハネ1633)

二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。(使徒言行録1421-22

主イエスも人間として誘惑を受けられました。その誘惑はもちろん神から来たのではなく、またイエスご自身の欲望か来たのでもなく、それは、悪霊から来たのであり、イエスは人間の有限性をもって、悪霊の誘惑をその身に受け、そして退けたのでした。神がイエスを試みに遭わせたとは思えません。イエスは自ら苦しみを見に受け、父である神はイエスが試みと誘惑に遭うのを忍び、ゆるし、そして一緒に戦ったのだと考えます。

 

「試みる」というとき、主語が神である場合と主語が民である場合があります。

Theoligical Dictioanry of the New Testament,peiraoなどの項を参照してください。)

神は人を心に合わせます。アブラハムの受けた「試み」ですが、神がアブラハムにイサクをいけにえにするように命じた、とは考え難いです。聖書解釈について(2)で説明していますように、寓意的解釈という方法があります。神がアブラハムに命じたのでは、イサクを文字通り燔祭の生贄にするようにという意味でなく、愛する息子であった執着せずに、神の計らいにゆだねるように、老い意味であると思われます。神はアブラハムが自分に従うかどうか、忠実であるかどうか知るために、イサクの生贄を命じたとは考え難いのです。神は人に試験をして、合格するどうか探り、合格したたらその人を祝福する、というような神でしょうか。そのようには思えません。神が人に試練をゆるすのは、おのれを捨て己が十字架を担うという人の生き方を教え導き助ける為であります。人をイエスの十字架の神父に与らせ過ぎ越しの神秘の恵みに与らせるためであります。決して、人の品定めをするという意地悪い意図をもって人を苦しめるわけではありません。

イサクはイエスの前表と考えられます。あらかじめイエスを指し示すしるしとしての役割を担いました。イサクの信仰も多いに評価されるべきです。旧約の生贄、血を流す動物の生贄はイエスの十字架によって廃止され、今は、パントぶどう酒による献げものがミサで献げられているのです。

ところで神が人を試練に遭わせることがあるとして、その逆、つまり、人が神を試みることは信仰者としてあってはならないことです。『教会の祈り』で毎日次のように唱えています。

  今日、神の声を聞くなら、

   メリバのあの日のように、

  マッサの荒れ野の時のように、

   神に心を閉じてはならない。

  「あのとき、あなたがたの先祖たちは、

  わたしのわざを見ていながら、

   わたしをためし、試みた。」

主なる神を試し試みる、とは、不信仰の態度であり、神の愛と力を疑い、神の命令に不従順中であることを示しています。旧約聖書はイスラルの民が荒れ野で神に不平を言った神の愛を疑ったことを告げています。(出173、明20132024,2714、申3251,338、詩818,958,10632

 

―――

(注1) 『おそれとおののき』はデンマークの哲学者セーレン・キルケゴールが1943年発表した作品で、婚約者レギーネ・オルセンとの婚約破棄という劇的事件を背景にして、キルケゴールがその苦悩を綴った論文であります。婚約破棄は一方的にキルケゴールの方から行われ、その理由は誰にも説明されませんでした。等の相手のレギーネにとっても全く意外な納得の行かない出来事であったと思われます。この事件がイサクの犠牲の物語とどのような関係あるのか、必ずしも、読者には明確ではないのです。イサクの犠牲の話はイサクの信仰を主題にしています。婚約破棄の原因はキルケゴールの信仰の問題にあるようであります。「信仰」ということが重要な主題であり、「神を信じるとはどういうことか」が論じられているのが『おそれとおののき』であります。

アブラハムは愛する息子、たった一人の息子を燔祭の生贄とするように神から求められました。アブラハムは即座に応諾し、朝早く発ってモリヤの山に向かいました。その際、彼は当のイサク、そしてその母であり自分の妻であるサラに、神のお告げの説明は一切しないのです。父子の間には何の会話もなかったようですが、ただ一回の会話、つまり次のような言葉が記録されています。

22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

真に涙なしには語れない物語です。アブラハムは息子をささげるようにと命令されたのですが、息子の方はそれを知りません。何か気付いていたかもしれませんが、あえて確かめる事態には至りませんでした。アブラハムの答えは、ヘブライ書にあるように、実際に息子を手にかけることは起こらないだろうという意味か、あるいは、たとえ燔祭にささげられても神はイサクを蘇らせてくれると信じていた、という意味か、判然とはしません。実際のところ、アブラハムは刃物を手にして息子を屠ろうとしたのです。ここで問題は、果たしてアブラハムの判断と行動は正しかったのかどうか、ということです。彼は神の命令にしたがったのですから、彼には何ら誤りはない、と言うべきでしょうか。神の命令は絶対です。地上のいかなる倫理・道徳も、法律も、神の命令の下に置かれているのですから、たとえ、道徳や法律に反しても、神の命令は絶対であり、神の命令で行ったことはすべて義とされるのです。「殺すなかれ」は神の十戒の一つですが、神が命令する場合はその限りではありません。実際、国家による死刑、あるいは戦争は「十戒の適用外」とされてきました。(やっと最近問題とされるに至ったのですが。) 愛するわが子、その子孫は空の星のように増えるという祝福を受けたイサクをわが手にかけなければならない父アブラハムの苦悩は如何ばかりであったでしょうか。問題は神の命令であれば神の掟に反する重罪を起こしてもよいのか、あるいは例外として、その責任は問われないのか、ということです。キルケゴールはその論点を詳細に論じています。信仰の世界、超自然の世界では、地上の論理、道徳は無効である、というのが彼の見解です。ここに信仰の逆説があります。「信仰の逆説は、(信仰者である)個別者が普遍的なものよりも高くあるということであり、いまではかなり稀になっている教義上の差別を思い起こしてもらえば、個別者が絶対的なもの()に対する彼の関係によって、普遍的なもの(例えば、殺す勿れという掟)に対する彼の関係を規定するということであって、普遍的なものに対する彼の関係によって、絶対的なものに対する彼の関係を規定するということではない。この逆接は、神に対する絶対的義務が存在する、というふうに言い表すことが出来る。なぜなら、この義務関係においては、個別者は個別者として、絶対者に対し絶対的に関係するからである。」(世界の大思想24、キエルケゴール、『おそれとおののき』、63㌻。カッコ内の説明は筆者の解釈による。)

アブラハムが神の命令を誰にも打ち明けなかったのも、アブラハムの沈黙は信仰者の行為として是認されるだけでなく、称賛に値します。誰かに話しての到底理解してもらえないだろう、いや説明すべき言葉を彼は持たなかったのだ、とキルケオールは言います。言葉にはならない信仰の世界の出来事なのです。またキルケゴールはイエスの言葉を引用してアブラハムを弁護し称賛します。

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

貴方がたのうち、等を立てようとするとき、作り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

     (ルカ1425-33)

14章25節の「これを憎むmiseou」ですが、当時のデンマークではこの言葉を文字通りには受け取らないで、弱めて解釈し、「あまり愛さない」「ないがしろにする」「気にかけない」「無視する」などの意味にとっていたそうです。それは誤りだとキルケゴールは断言します。(しかし、アブラハムがイサクを憎むと言っても、燔祭にして殺すという意味だったかは、多いに問題です。)ともかく、イエスの従う者は一切を投げうって従わなければならない、同様に、主なる神の呼びかけには無条件に従わなければならないわけで、アブラハムはその模範であります。

 

 

(注2

啓示については第二バチカン公会議の『啓示憲章』に学ばなければなりません。(以下、『カトリック教会のカテキズム』34㌻―38㌻によって説明します。)

神は愛によってご自分を人類に掲示しました。啓示の源泉は聖伝と聖書です。聖書の作者は神です。何故なら聖書は神の霊感によって書かれたからです。神は人間である聖書記者に霊感を授けました。聖書記者は人間的な表現で神の言葉を伝えています。ですから聖書を正しく理解するためには、当時の状況と文化、当時使われていた「文学類型」、当時の人々のものの感じ方、話し方、物語の方法を考慮する必要があります。そして、霊感を与えた聖霊に忠実に解釈するために荷は次の三つの基準に従わなければなりません。

① 聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払うこと。受難の後の復活の光に照らして解釈すること。

② 教会全体の生きた伝承にしたがって聖書を読むこと。教父の教え方に従い、霊が教会に与えた霊的意味に従って聖書を霊的に解釈しなければなりません。

③ 信仰の類比に留意しなければなりません。「信仰の類比」とは、信仰の諸真理が、それら相互においても、啓示の教え全体においても一貫している、という意味です。

聖書の意味には文字通りの意味と霊的な意味との二つの意味があります。後者は寓意的な意味、道徳的な意味、天上的な意味とに分けられます。これらの四つの意味は根本的には一致し、聖書の解釈をより豊かにしてくれます。

霊的な意味。 

1)寓意的意味。寓意に託して表現される啓示の真理。例えば紅海を渡るのはキリストの勝利と洗礼を意味する。

 寓意とは、「他の物事に託して、それとなく真意をほのめかすこと。また、その裏に隠れた意味。(広辞林)。 「アレゴリー(英: Allegory)とは、抽象的なことがらを具体化する表現技法の一つで、おもに絵画、詩文などの表現芸術の分野で駆使される。意味としては比喩(ひゆ)に近いが日本語では寓意、もしくは寓意像と訳される。詩歌においては「諷喩」とほぼ同等の意味を持つ。また、イソップ寓話に代表される置き換えられた象徴である。」(ウイキペディア)

2) 道徳的意味。正しい行動に導くための表現

3) 天上的意味。永遠の意味を示す。例えば地上の境界は天上のエルサレムのしるしです。

 

(3) ちなみに英英辞典では次のように説明しています。

Temptation/tempting or being tempted tempt/(try to)persuade (sb)to do sth wrong or foolish/ Attract (sb) to have or do sth./(old use,biblical) test

Temptation とtestとの区別は必ずしも明確ではないような印象です。

 

(注4) 岡田武夫『現代の荒れ野で』オリエンス宗教研究所、III-4、ねたむ神と聖絶、を参照。)ならびに『神言』H.クルーゼ、南窓社、16㌻、参照。

以下、「クリスチャントゥデイ」(2019214日付け)より引用。

羽生選手が引用した「試練は乗り越えられる者にしか与えられない」や、池江選手の「神様は乗り越えられない試練は与えない」は、新約聖書の言葉「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント一10章13節)に基づくものだとみられる。

(中略) 一方、ここで言われている「試練」という言葉は、日本語では「逆境」や「苦難」といったニュアンスで捉えられる場合が多いが、原語のギリシャ語「ペイラスモス」は「試み」や「誘惑」とも訳せる言葉だ。またこの箇所は、主に偶像礼拝に対する警告が書かれているところで、13節の後には「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」(14節)と続く。そのため、13節で触れられている「試練」は、一般的にイメージされる「逆境」や「苦難」よりも、偶像礼拝やみだらなこと、神を試みること、不平を言うこと(8〜10節)との戦いという、信仰上の「試練」と捉えた方がよいのかもしれない。ちなみに、イエス・キリストが荒野で40日間断食し、悪魔から誘惑を受けたとされる新約聖書の別の箇所(マタイ4章1〜11節)で、「誘惑」と訳されている言葉も、ペイラスモスの語源となる言葉だ。また「主の祈り」の「われらを試みに会わせず」の「試み」もペイラスモスが使われている。

 

2020年10月18日 (日)

年間第29主日A年、神のものは神に

年間第29主日A年説教「神のものは神に」

第一朗読  イザヤ書 45:1、4-6

主が油を注がれた人キュロスについて主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り 国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ どの城門も閉ざされることはない。

わたしの僕ヤコブのためにわたしの選んだイスラエルのために わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたがあなたは知らなかった。

わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが あなたは知らなかった。

 日の昇るところから日の沈むところまで人々は知るようになる わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。

 

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 1:1-5b

パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。

わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。

 

福音朗読  マタイによる福音書 22:15-21

(そのとき、)ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」説教―殉教者に学びながら」

2020年10月18日、本郷教会司祭館にて

 

今日の第一朗読はイザヤ書45章です。ここで繰り返し述べられていることがあります。

「わたしが主、ほかにはいない。」という言葉です。

すなわち、

「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。」

「日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる

わたしのほかは、むなしいものだ、と。

わたしが主、ほかにはいない。」

と繰り返し主張されているのです。

イスラエルの歴史は、この信仰の歴史です。イスラエルは何度もほかの神を神とし、バールを礼拝したりして神を怒らせます。

主なる神だけを礼拝するということは、他のもの、他の価値、存在を神として礼拝しない、ということです。

信仰を捨てるよう、日本の殉教者たちは強要されたが、「ほかのことならともかく、それだけは捨てることはできない、いのちにかけても」といってそれを拒否し、信仰を守り宣言した人たちです。

今日のイザヤの預言で繰り替えし強調されている「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない」という、この信仰を守った人々が殉教者です。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」はよく引用されるイエスのことばです。政教分離をめぐる議論のときに使われ、政治と宗教は別な次元に属するから、政治問題を宗教に持ち込んではならない、という主張の根拠とされます。地上の権力者への服従の根拠とされるのです。

殉教者は信仰を捨てるようにとの時の権力の命令に従わなかったので処刑されました。信仰の自由は基本的人権であり、皇帝の任務の範囲の問題ではありません。信仰の問題はまさに神の問題、領域なのです。それなのに400年前の為政者は信仰を理由にキリシタンを処刑しました。信仰は皇帝の管轄でないのに皇帝のものとしたのです。

デナリオン銀貨には皇帝の肖像と銘が刻まれていました。ですから皇帝のものは皇帝に返しなさい、とイエスは言われました。

確かに神は地上に権威者を立て、人が権威者に従うよう定められました。権威者は神によって建てられるのですから、権威者は神の御心によって民を治めなければなりません。弱い人、貧しい人を守り保護しなければならないのです。正しく治める限る人は権威者に従わなければなりません。もし為政者がそうしないのなら人は服従する義務はないのです。

それでは人には何が刻まれているのでしょうか。人は神の似姿として創造されています。(創世記1・27参照) だれにでも神の像が刻まれているのです。ですから人は神のものであり、神のものは神へ返さなければなりません。殉教者は神のものを皇帝に返すことに反対して殉教者となりました。殉教とは神のものを神のものとすることだと思います。

いまわたしたちは、いのちにかえても守るべきものをもっているでしょうか。それを知っているでしょうか?

神の愛を知り信じた人はもはや神を否定することはできません。それは自分自身を否定することになるからです。

400年前、数々の困難のなかで不屈の勇気をもって司祭の職を全うし殉教したペトロ岐部神父、障害者となり病者と共に生きて、神の贖いの愛をより信じ、処刑に際して信仰を告白して神の愛の証人となったヨハネ原 主水。この二人の東京教区の殉教者に学びながら、「神のものは神に」とは、現代のこの状況において何を意味するのか、考えてみなければなりません。

現代はある意味で非人間化の時代ではないでしょうか。

わたしは、「神のものは神に」とは、現代において、神が一人ひとりを掛け替えのない存在としてくださるという神の愛への信仰を生きること、その信仰を強くしていただくことだと思います。

わたしたちがそのあかしをたてることができるように、殉教者の取次ぎによって祈りましょう。

 

2020年10月17日 (土)

悪についての小考察その9 「さびしさ」と「かなしさ」の中で

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2020年10月15日 (木)

「はかなさ」と「さびしさ」 悪についてその7

悪についての小考察その8

――「はかなさ」と「さびしさ」ついて

 

はかなさ

「悪」であるかどうかは別にして、人間がであう重要な問題の中に、人生の「はかなさと「さびしさ」という問題があります。仏教の深い洞察は「人生の諸行無常」という真理でした。キリスト教ではその点は何でしょうか。聖アウグスチヌスが言っています。

「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』:Confessiones I, 1, 1〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、59頁〕)。(注1)

「はかない」とはどういうことでしょうか。キリスト教では、人は神の被造物です。神によって造られ神によって導かれ神のもとに招かれ神に向かって旅をしている「旅人」であります。「旅人である被造物性」。これは「はかなさ」に通うものがあるにせよ、同じではないでしょう。むしら「偶有性」のほうが人間存在を言い表すには適しているかもしれません、「偶有性」については小考察その6の注1で触れています。偶有性はラテン語ではcontingensという。論理的には「その存在が必然ではないが、それが存在するとしても、そのゆえに、いかなる不可能も生じて来ないもの」と定義されています。なんともはかない感じの存在です。存在することは必然ではないがあってもよい、そういう存在なのでしょうか。いわば偶然の存在です。

キリスト者にとって「偶然」ということをどう考えたらよいのでしょうか。「偶然」は信仰と深くかかわります。この世界の存在、そして自分という者の存在。これらは偶然でしょうか。無ければならないものではないがあってもよい、というものでしょうか。

信仰者にとって自分の存在は神の意思によるのです。自分はあってもなくてもよいものではない。神の御心に従ってこの世に生まれてきたのです。たとえ悲惨な状況の中に生まれてきたとしても、それは神の御手の中にあるのです。しかし、極端な話、強姦によって身籠って生を受けて者があったとして、そのような生は神の祝福のうちに置かれているのでしょうか。あるいはいったん受胎しても堕胎によって抹殺された胎児も神の御心によって受胎されたのでしょうか。まさか、強姦、あるいは堕胎は神の御心にかなっているとは言わないでしょう。強姦、あるいは堕胎は「偶然」の出来事であり、神のあずかり知らないことなのか。

エレミヤ書で言われています。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から

あなたを知っていた。

母の胎から生まれる前に

わたしはあなたを聖別し

諸国民の預言者として立てた。」(15)

また詩編作者は言います。

わたしはあなたに感謝をささげる。

わたしは恐ろしい力によって

驚くべきものに造り上げられている。

御業がどんなに驚くべきものか

わたしの魂はよく知っている。

秘められたところでわたしは造られ

深い地の底で織りなされた。

あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。

 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。

わたしの日々はあなたの書にすべて記されている

まだその一日も造られないうちから。(13914-16

聖書においては誰一人「あってもなくてもよいもの」ではありません。誰にも替わってもらえない唯一の存在、かけがえのない存在、ユニークな価値のある存在です。

但し、哲学の考察によってこの真理を論証できるでしょうか。いうまでもなく哲学は啓示を援用できない、啓示を論拠にはできないのです。あくまでも人間理性の考察により結論でなければならないのです。かけがえのない価値の根拠に神を持ち出すことは哲学者の禁じ手ではないでしょうか。

 

偶然性

さて、この偶然性ということを哲学の重要な課題として取り上げた人が『いきの構造』の作者である九鬼周造でした。(『偶然性の問題』(1935年、岩波書店)。彼は偶然とは何か、について非常に緻密な考察を展開しています。彼は「偶然性」に、ラテン語のcontingentiaを当てています。つまり「偶然性」は「偶有性」であります。

それでは、九鬼周造による「偶然性」とはいかなる意味かを、九鬼周造研究者の説明に従って学んで行きます。

九鬼周造は本書の序説で次のように述べています。

偶然性とは必然性の否定である。必然とは必ず然(し)か有ることを意味している。即ち、存在が何らかの意味で自己のうちに根拠を有(も)っていることである。偶然とは偶々(たまたま)然(し)か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を持っていないことである。即ち、否定を含んだ存在、無いことのできる存在である。換言すれば、偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無との接触面に介在する極限的存在である。有が無に根差している状態、無が有を侵している形象である。(同書、13㌻。)

 

冒頭のことことばは本書のまとめであり結論でもあります。九鬼周造の研究者、田中文久氏は次のように言っています。

「九鬼周造によれば、人間は本質的に「偶然性」というものに貫かれた存在であるという。」そして、九鬼は「偶然性」の本質は「無」であるとしています。九鬼にとって「無」とは「同一性」の裂け目としての「無」において成立する、という。「同一性」の裂け目とは、分裂や対立を意味しています。(同書119-120㌻。)

九鬼周三の著書『偶然性の問題』は、人生とは如何に偶然性に満ちたものであるかを説きます。人間は自ら選び取れない状況の中で生まれ日々その中で生きて行かなければならない。人生で遭遇する出来事は不条理で無意味なものに満ちている。偶然性が人生の営みを無化する。九鬼周造は『偶然性の問題』の中で言っています。

「偶然は無概念的である。無関連的である。無法的、無秩序、無頓着、無関心である。偶然には目的がない。意図が無い。ゆかりが無い。偶然はあてにならない。」

このように「無い、無い尽くし」を並べており、田中文久『日本の「哲学」を読み解く』によれば、九鬼周造の哲学はまさに「無」の哲学であります。

さて、さらに筆者は、〈「個物」の抱える「偶然性」〉という見出しのもとで論議を展開しています。(同書134㌻以下。)

ライプニッツが言っているそうですが、宇宙には完全に同じものは存在しない。同じ雨粒はない。すべての事物は何らかの意味で孤立性や例外性を持っている、と言います。そしてこの孤立性や例外性を最も切実に自覚するのが人間である、と言います。

 

しかしここで筆者(岡田)が理解しがたいと思うのは、どうして、人間の個物性(個人性)を自覚することがマイナスになるのか、ということです。これは、同じ人間でありながら、一人ひとりの人間が負わされている「偶然性」を否定的に解釈するが故の評価ではないでしょうか。人間には個人差があります。健康な人、病気の人、富んだ人、貧しい人、賢い人、愚かな人、頭のよい人、悪い人、美しい人、醜い人、明るい人、暗い人、敬虔な人、冒瀆的な人、親切な人、勝手な人…など(切りがありませんが)、この個人差は場合によっては個性と呼べるものであり、その人をその人たらしめている特徴であります。四葉のクローバーが例外であるように、人間にも例外がある、という論議でしょうか。障がい者の存在はこの例外に該当するのでしょうか。障がい者は人間の一般概念から漏れる「偶然性」をもった例外であるのでしょうか。第7章で紹介した「世界に一つだけの花」というSMAPのうたで言っている「ただ一つしかない存在」の価値を貶めることにはならないでしょうか。

「くせに」という言葉があります。「女のくせに」などという表現に使われ、差別を意味する言い方になっています。「くせ毛」などと言いますが、本来の有るべき毛があって、くせ毛はその基準に該当しなし毛であるという言い方ではないでしょうか。

「偶然性」という言葉の意味が「個別性」「例外性」と結びき、それが否定的差別的な意味に結び付くことに大きな懸念をおぼえます。

人間はそれぞれ個別な存在であり、これ以上分解できない個人であり、そこに不可譲かつ不代替の価値を認めるのです。

この問題を鋭く意識して論じている哲学者がいます。(注2) それは宮野真生子氏で、宮野氏は、「である」と「「がある」の違いと意味を通してこの問題を論じています。「である」は普遍性・一般概念を表わし、「がある」は「個別性・偶然性」を表していると宮野氏は分析します。人は誰でも「〇〇××さん」であり、「人」さんという人はいません。まず人間であって次に具体的に誰それという在り方を取るわけです。もし「わたしは教師である」として、教師である自分が、他の教師でもよい存在になってしまうということを感じることがあります。つまり「別にこれはわたしでなくともよいのではないか」という交換可能性の問題です。実際多くの職務は、たぶんすべて職務というべきでしょうか、交代が可能です。AさんのしていたことはAさんにしかできない、ということはありません。もしそうなら組織は継続しないし社会が成り立たなくなります。首相が辞任すれば後継者が任命されます。司教が辞めれば次の人が司教に任命されます。組織は何の支障なく存続します。大切なのは普遍性を維持しながら唯一性を尊重することです。これは個人の間でも団体の間でも国家の間でも適用される法則ではないでしょうか。

 

三つの偶然性

さて、九鬼周造は偶然の諸相として「定言的偶然」「仮説的偶然」「隣接的偶然」の三つの

様態に分けています。(以下、『偶然性の問題』の解説(小浜善信)によるところが多い。)

「定言的偶然」とは、定言的必然性の外に枠にある偶然の場合を言います。例えば「人間は理性的動物である」という命題のように、主語概念と述語概念との間に同一性の関係、必然的な関係があります。しかし、「人間は黄色である」という命題の場合、人間は必ずしも黄色であるわけではないので、黄色であるという属性は偶然であります。しかし皮膚の色の違いの場合、その違いを説明できる原因があって説明できる場合は皮膚の色の違いは偶然ではない、ということになります。

「仮現的偶然」とはどういう場合の偶然か。

「クローバーのなかには四葉がある。」「ある人々は黄色である。」と言った場合、クローバーにとって四葉であること、人類にとって黄色であることは、その概念から必然的ではありませんので、「四つ葉」「黄色」は偶然となります。しかし個物を、「この」という限定の言葉が着く「この四葉のクローバー」や「この黄色の人間」、つまり「具体的個物そのものとして見れば、個のクローバーにとって四葉であること、この人間にとって黄色であることは、無くても良いもの、切り離して考えられる属性ではなく、むしろそれらは不可分の関係を持って結びついています。論理的次元では偶然的な関係しか持たないと見做される属性も、具体的・経験的次元では不可分の関係を持って主体(個物)に属しているのです。これらの偶有が個物をその個物たらしめているのです。

それでは「隣接的偶然」とは何か。

隣接とは隣り合って存在すること。XYZ、・・・などが隣り合って存在している場合に,偶々Xとなっていて、Yでもなく、Zでもない場合に言われる偶然です。敷衍すれば、物事には原因と理由があると考えます。有限の存在である人間には分からないが、全能の存在が見れば、そのような結果が生じている原因あるいは理由が見通しであるとします。例えば、なぜこの「私」が地上に生を受けたか。それは父・母がいるからである。その父母はどのようにして知り合い結婚したのか。聞いてみればわかることでしょう。それではそれぞれの父母のそのまた父母はどうして結婚したのか。これもある程度わかるかもしれません。しかしそれ以前のそれぞれの両親のことになると事情を知ることは難しくなります。それはともかく、どんどん先祖に遡及していくとその最初はどうであったか、という問題に遭遇します。それは生命の始まりということになるのでしょうか。どのようにして生命が発生したのか。科学はその点を実証しようとしています。この議論は無限遡及に陥ります。九鬼周造はその、因果律の始まりを「原始偶然」となずけました。「はじめに原始遡及があった。」ということです。この原始遡及の主体は自らのうちにその存在の根拠を持つものでなければなりません。それは絶対者であり、自因性の存在であり不動の動者と言われる神であります。九鬼周造は「神」という言い方は避けています。原始偶然は因果律の届かない世界にいます。次のように言われています。

「原始偶然は絶対者の中にある他在である。絶対的形而上的必然を心的実在と考え、原始偶然を世界の端初または墜落(Zufall=abfall)と考えることの可能性もここに起因している。絶対的必然は絶対者の静的側面であり、原始偶然は動的側面であると考えて差し支えない。(本書261262㌻より。)

 

わたしという存在は結局原始偶然に遡り、原始偶然は絶対者の動的側面であり、それは絶対者の働きであります。九鬼周造は晩年次のように述懐したと伝えられています。

「…やがて私の父も死に、母も死んだ。(中略) 思い出のすべては美しい。明かりも美しい。陰も美しい。誰も悪いのではない。すべてが死のように美しい。」(『偶然性の問題』の解説(小浜善信)441㌻よりの引用。)

 

「九鬼が言いたいのは、偶然した実存としてのわれわれと他者・世界との出会いの中で、無意味に過ぎ去るものは何一つないのだということだろう。・・・すべてが意味あるものとして立ち現れるか、それとも無意味なものとして過ぎ去るか、それはひとえに偶然した実存としての主体の意志に懸かっているということであろう。」(小浜善信、同書440㌻。)

 

ここで再確認したいことは、本原稿執筆の動機と目的です。それは日本における福福音を宣べ伝え証し実践するか、ということです。

 

「いき」とは

『「いき」の構造』の「いき」とは何か。『広辞苑』第七版によると次のようになります。

いき【粋】(「意気」から転じた語)①気持ちや身なりがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気をもっていること。②人情の表裏に通じ、特に遊里・遊興に関して精通していること。また、遊里・遊興のこと。

他の辞典も大同小異の説明です。『「いき」の構造』は、この辞典の説明とは矛盾しないが、日本民族としての「いき」の理解をさらに哲学的に深く分析し、さらに「いき」に周辺にある関係の深い概念である上品と下品、派手と地味、甘味と渋味、意気と野暮などの分析を行っています。さらに言葉遣い、姿勢、身振り、表情、着付け、髪形、着物の色彩や模様、建物の造作等、人々の生活と文化全般に及ぶ課題として詳しい言及をしており、その薀蓄の深さに驚かされます。

九鬼は「いき」の三つの徴表として、「媚態」「意気地」「諦め」を挙げ、「いき」」とは「垢ぬけして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」と定義しています。(『いき』の構造)講談社学術文庫、51㌻) この定義は分かりやすい説明です。九鬼はこの内容をさらに深く説明します。

三つの徴表のなかで「媚態」が原本的な存在を形成しています。これは要するに異性との関係にかかわる特徴です。色っぽさとは「なまめかしさ」「つやぽっさ「「色気」などの言葉と重なる内容であり、九鬼はこのことを哲学的に次のように表現しています。

「一元的な自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。」(同書、39㌻)

この場合、「上品」とは両立しない。上品には敢えて異性に働きかける態度が欠落しているはずです。また一元的な自己が実現した時、つまり相手へのアプローチが功を征してお身を遂げた時には、この「媚態」は消滅する運命にあります。故に「媚態」とは異性間の二元的動的可能性が可能性のまま絶対的に維持されていなければならないのです。

次いで第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」です。「意気地」には江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている、と言います。(同書、41-42㌻。)「いき」には「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な犯すべからざる気品気格が無ければならないと言います。「意気」の対極にあるのが「野暮」であり、江戸っ子が軽蔑して生き方でした。(同書、41-41㌻参照。)

第三の徴表が「諦め」。執着を離脱した、垢抜けして、あっさち、すっきる、瀟洒たる心持ちをいう。「『いき』のうちの『諦め』したがって「無関心」は、世知辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡(てんたん)無碍(むげ)の心である。」(同書、45㌻) この「諦め」はおそらく仏教の人生観、無常と解脱の教えを背景にしているだろうと思われます。

「媚態」と「意気地」と「諦め」の三者のバランスの上に「いき」が成立しています。これは非常に危ういバランスです。「媚態」は異性を求めるといういわば本能的な欲求に基づいています。人は特定の異性を自分の方へ向かわせるために秘術を尽くす。その際、自分の自主性と誇りを忘れてはならない。自分を失うほど夢中になってはならないのです。さらに相手の自由を尊重しなければならないのです。人は他者を自由にはできないものです。「媚態」と言わずとも、他者を自分の思い通りにしたいという思いの集合が仏教のいうとことの煩悩であります。「諦め」は煩悩にストップをかけるストッパーの機能を果たします。

人が異性を想うこと自体を否定しないどころかむしろ評価します。その際、「意気地」と「諦め」という付帯条件が付きます。

恋と媚態はその始まりにおいて異性を慕いもとめるという点において共通しています。ですから、「いき」はたやすく「恋」に転ぶことができます。「いき」の場所である吉原でさえ、遊女がひそかに恋人をつくり、心中に追いつめられるという事件が起きています。そのような危険をさけるための「意気地」と「諦め」でした。それは繰り返しになりますが、「『いき』のうちの『諦め』したがって「無関心」は、世知辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡(てんたん)無碍(むげ)の心である。」(同書、45㌻)のであります。しかし、宮野真生子氏が指摘していることですが、問題は残ります。それは、なかなか人はいったん心に入れた異性の相手を諦めきれないものであり、またそれでもなお人を想い求める心はなくなるものではないだろう、それは何故だろうか、という問題です。

なお、「いき」は遊里を背景にして発達した人間関係の在り方です。遊離は「苦界」と呼ばれます。だましたりだまされたりする世界で在り「傾城に誠なし」と言います。「遊女が客に誠意をもって接するはずがない。遊女の言うことを信頼できない。」という意味ですが、それではあまりに寂しい。人間の真実の美しさへのあこがれが人にはいつも残っています。この問題に関して参考になるかもしれない例話、苦界である吉原を舞台にした落語の例が残っていますので参考までに紹介します。落語のなかには遊里を背景にしたものがいくつかあり、醜い欲望の世界が垣間見られますが、そのなかに、いわば泥沼の蓮の花のような清々しい落語が伝えられています。(注3)

 

「エロース」について

カトリック教会では求める愛「エロース」についてどう考えているのでしょうか。ここでは優れた神学者であった先の教皇ベネディクト十六世の考え方の一端を紹介します。(以下、教皇ベネディクト十六世、回勅『神は愛』、8-40㌻による。)

「愛」ということばは様々な意味を持っています。愛国心、友への愛、両親と子ども愛、隣人愛、神への愛などと言いますが、一つの意味が際立って使われます。それは男女の間の愛です。

これらの愛は基本的には一つであって、それぞれの場面で様々な現れ方をしているのであり、愛は究極的にはただ一つであると言えないでしょうか。あるいはそれぞれ質的に根本的な相違をもっているのでしょうか。神の愛アガペーと男女に愛エロースはどんな関係にあるのでしょうか。

確かに新約聖書ではアガペーという言葉が使われており、エロースという言葉の使用は皆無です。キリスト教は「エロース」に対して否定的であると思われていました。フリードリヒ・ニーチェは厳しくキリスト教を批判し、キリスト教は「エロース」に毒を飲ませ、教会は掟と禁令を通して、人生におけるもっとも貴重な事柄を台無しにした、と言って今師。しかしキリスト教は本当に「エロース」を破壊したのでしょうか。ベネディクト十六世はそうではない、と言っています。

キリスト教以前の世界のギリシャにおいては、「エロース」は人間を有限な人生の現実から引き離し、陶酔状態に引き上げ、エクスタシーの幸福を与えてくれる神的な力であると考えられました。旧約聖書では、神殿娼婦などに見られた歪んだ破壊的な形の「エロース」には反対していますが、「エロース。」そのものを拒絶することはありませんでした。

「エロース」という愛は人を永遠で無限の幸福へ、現実を超えた光と喜びの世界へと招いています。ただし、その目的地に到達するためには自己抑制、自己放棄、浄めと成熟が必要です。それは「エロース」自体を否定することではありません。それは人間が身体と精神からなる存在であることに基づいています。人間が真の意味で自分自身となることが出来るのは、自分の身体と精神が緊密に一致しているときです。人間は、精神だけを愛するのでもないし、身体だけをあいするのでもありません。身体と精神の結合した被造物である人間、人格を愛するのです。身体と精神が本当に意味で一致した時人は初めて完全に自分自身となり、その時「エロース」は成熟し、真の意味で偉大なものとなります。そうなるために、「エロース」は上昇と自己放棄、浄めと癒しの道を必要としています。

そのための示唆を旧約聖書に雅歌に見出します。雅歌は本来恋愛の歌だったと考えられます。なぜ聖書の正典として認められているのでしょうか。

雅歌では「愛」をあらわすために二つのヘブライ語がつかわれています。一つは「ドディム」です。これは、まだ不確かな、はっきりしない状態で求める愛を意味します。つで「アハバー」ということばが用いられています。「アハバー」がギリシャ語に訳される時に「アガペー」となりました。「アハバー」は他者への関心と配慮を意味しています。自分の幸福に酔いしれるのではなく、自分が愛する者の善を求めています。愛は自己放棄となり犠牲を厭いません。この愛は特定の人を排他的に愛するとともに、神へと向かう永遠の愛を目指すようになります。愛は自己を献げることを通して真の自己の発見へ、神との出会いへと導かれます。「自分のいのちを生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。(ルカ1733)(マタイ10391625、マルコ835、ルカ924、ヨハネ1225参照。) ここに十字架を経て復活に至る過ぎ越しの神秘が示されています。

世俗的な愛である「エロース」と信仰による愛を表す「アガペー」はしばしば「求める愛」と「与える愛」というように対立的に考えられました。「エロース」を欲望の愛、非キリスト教的な愛であり、「アガペー」を与える愛、キリスト教的愛であるとして、この両者を極端に対立させると、キリスト教は人間の生活と現実に無縁なものに成りかねません。実際のところ、人はこの二つの愛を全く別な愛として分離することは出来ません。人は他者の幸福を求めるとき次第に自分自身を相手に与え、相手と共にいたいと望み、相手に自己のすべを献げたいと強く望みます。求める愛は与える愛に変えられます。しかし他方、相手に与えるためには、与えられなければ与える力が萎えてしまいます。求めることと与えることの間の境界は非常に流動的です。

人を愛する力は神から来ます。聖グレゴリオが言っているように、牧者たるものは人を愛するためには自分が愛されていることを知り確かめなければならないのです。それは観想の道であります。

イスラエルの民に自らをあらわした神は存在するもの全ても者の創造主であり唯一の神です。この神はイスラルに愛することを求める神です。この愛は「エロース」の愛でであります。しかし同時に「アガペー」の愛です。神はイスラエルの幸福を望み、真の意味で人として正しい道を歩むように導き、そのためにイスラエルに掟を与え、イスラエルと契約を結びます。この神とイスラエルとの関係は男女の愛の関係にたとえられます。しかしイスラエルはしばしば神との契約を破ります。それでも神はイスラエルを愛することをやめません。神は背信のイスラエルを愛し裏切りを赦します。神の愛「アガペ―」は赦す愛として示されます。預言者ホセアはこの神の愛をいわば絶叫のような表現で伝えているのです。

ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

アドマのようにお前を見捨て

ツェボイムのようにすることができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。

(ホセア118-9)

ここには激しく葛藤する神の心が如実に表現されています。神はギリシャ哲学では「不動の動者」と呼ばれており、神が人間の態度のゆえに心を動かし苦しみ葛藤することは、「絶対者」という概念の中には含まれてはいないのです。しかしここでは非常に人間的な神の姿が描かれています。神は悲しみ怒りますが赦します。神が人間の罪ゆえに心に痛みを抱くという啓示に基づいて日本人の神学者北森喜蔵は『神の痛みの神学』を創出したのでした。(注4)

 

神になかに「エロース」の愛と「アガペ―」の愛があり、両者は一つに融合しています。「エロース」と「アガペ―」は愛のそれぞれの面を示している、といえます。あるいは「アガペー」ということばのなかに「エロース」の面が含まれているといえないでしょうか。雅歌が聖書正典に加えられたのはこのような根拠があったからでした。愛は一致を目指します。神と人間は、それぞれ自分自身でありながら完全に一つとなる事ができると聖書は教えます。

神は人間を男と女に創造しました。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記224) 男女が互いに惹かれ合い求めあうのは神の創造に結果であり、人間の本性に基づいています。そのような人間の本性は絶えずエゴイズムの危険に瀕しています。互いに求めあう愛は自らすすんで与える愛とならなければならないのです。本性上惹かれ合う相手にだけではなく、人間の偶有的属性を超え、自分を必要とするすべての人の隣人となるよう招かれています。その道は受肉した神の愛であるナザレのイエスが生涯をかけて自ら実行してその基準をしめしました。「アガペ―」の愛は、飢えている人、乾いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に拘束されている人に及びます。(マタイ福音2531-41参照) 飢え渇き裸であるなどの偶有的状態にある人々のなかにかけがえのなさという価値が隠されています。そのような人にしたのはイエス・キリストにしたのであり、しなかったのはイエス・キリストにしなかったことになるとイエスは言っているのです。一人ひとりの偶有性に絶対的な意味と価値を与えるのは、キリスト者にとって、受肉した愛であり神であるナザレのイエスにほかなりません。このに「エロース」と「アガペ―」の融合と一致をみることができるのではないでしょうか。

 

  1. 聖アウグスチヌスについては教皇ベネディクト十六世の126回目の一般謁見演説 聖アウグスチヌス(三)が非常に有益ですので以下に長い引用をします。

親愛なる友人の皆様。

 キリスト教一致祈祷週間の後、今日わたしたちは偉大な人物である聖アウグスチヌスに戻ります。わたしの敬愛する前任者であるヨハネ・パウロ二世は、アウグスチヌスの回心1600周年である1986年に、使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』という、アウグスチヌスに関する長く詳細な文書を発布しました。教皇自身、この文書が「神への感謝」だと述べます。この感謝は「神がアウグスチヌスのすばらしい回心をもって、教会に向けてまた教会を通して、全人類に与えられた恵み」(使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』序文)のゆえにささげられます。わたしは回心というテーマに別の謁見で戻ります。回心は、アウグスチヌス個人の生涯にとってだけでなく、わたしたちの生涯にとっても根本的なテーマです。先日の主日の福音の中で、主ご自身がご自分の宣教を「悔い改めよ」(マタイ417)ということばでまとめました。わたしたちは聖アウグスチヌスの歩みをたどることによって、回心とはいかなることであるかを考察することができます。回心ははっきりとした決定的なことがらです。しかし、わたしたちはこの根本的な決断を成長させなければなりません。すなわち、わたしたちの生涯全体を通してそれを実現しなければなりません。

 しかし、今日の講話は信仰と理性というテーマを扱います。これは聖アウグスチヌスの生涯を決定づけるテーマの一つです。さらにいえば、これこそが聖アウグスチヌスの生涯を決定づけるテーマだといえます。アウグスチヌスは幼いときから母モニカからカトリック信仰を学びました。しかし彼は青年時代になるとこの信仰から離れました。彼はこの信仰を理性にかなったものと認めることができなかったからです。また彼は、自分にとって理性すなわち真理を表現していないと思われる宗教を望まなかったからです。アウグスチヌスの真理への渇望は徹底的なものでした。それゆえ、この渇望がアウグスチヌスをカトリック信仰から遠ざけることになりました。けれどもアウグスチヌスはその徹底的な性格により、真理そのものに到達しておらず、したがって神に到達していないさまざまな哲学を受け入れることもできませんでした。神は、たんなる宇宙の究極的な理念ではなく、真の神でなければなりません。いのちを与え、わたしたちの人生の中に入ってくる神でなければなりません。それゆえ聖アウグスチヌスの知的・霊的な歩みの全体は、現代にも通用する、信仰と理性の関係における模範となります。このテーマは信仰者のものだけでなく、真理を求めるすべての人のテーマです。それはすべての人の判断と運命にとって中心的なテーマなのです。わたしたちはこの信仰と理性という2つの領域を、分離させても、対立させてもいけません。むしろ両者を常に同時に歩ませなければなりません。回心の後にアウグスチヌス自身が述べているように、信仰と理性は「わたしたちを認識へと導く二つの強い力」(『アカデミア派駁論』:Contra Academicos III, 20, 43)です。そのためアウグスチヌスの有名な二つの定式(『説教集』:Sermones 43, 9)はこの信仰と理性の不可分の統合を表現します。すなわち、「理解するために信じなさい(crede ut intelligas)」――信仰は真理への扉を通る道を開くからです――。しかし同時に、これと切り離すことができないのがこれです。「信じるために理解しなさい(intellige ut credas)」。すなわち、神を見いだし、信じることができるようになるために真理を究めなさい。

 アウグスチヌスの二つのことばは、2つの問題の統合をきわめて直接に、またこの上なく深いしかたで表現しています。カトリック教会はこの統合のうちに自らの道を見いだしてきました。歴史的にいえば、このような統合は、すでにキリストの到来以前から、ヘレニズム化したユダヤ教におけるユダヤ教信仰とギリシア思想の出会いによって行われました。その後、歴史の中で、この統合は多くのキリスト教思想家によって受け入れられ、発展させられました。信仰と理性の一致は、何よりも神が遠くにおられるかたではないことを意味します。神はわたしたちの理性、わたしたちの生活から離れたところにいるかたではありません。神は人間の近くにおられます。わたしたちの心の近くにおられます。わたしたちの理性の近くにおられます。しかしそのためにわたしたちは真実に道を歩まなければなりません。

 アウグスチヌスは、まさにこのように神が人間の近くにおられるということをきわめて強烈に体験しました。神は深く神秘的なしかたで人間のうちにおられます。しかしわたしたちはこのことを自らの内面においてあらためて認識し、見いださなければなりません。回心者アウグスチヌスはいいます。「外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内的人間に住んでいる。そして、あなたの本性が可変的であることを見いだすなら、あなた自身をも超えなさい。しかし、記憶しなさい、あなたが超えてゆくときには理性的魂をもあなたが超えてゆくことを。それゆえ、理性の光そのものが点火されるそのところへと、向かって行きなさい」(『真の宗教』:De vera religione 39, 72〔茂泉昭男訳、『アウグスチヌス著作集2』教文館、1979年、359360頁〕)。アウグスチヌス自身、このことを『告白』冒頭の有名なことばで強調しています。『告白』は神への賛美のために書かれたアウグスチヌスの霊的自伝です。「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』:Confessiones I, 1, 1〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、59頁〕)。

 ですから、神から離れているとは、自分自身から離れていることにほかなりません。アウグスチヌスは直接神に向かっていいます(『告白』:Confessiones III, 6, 11)。「あなたは、わたしのもっとも内なるところよりももっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました(interior intimo meo et superior summo meo)」(前掲山田晶訳、116117頁)。別の箇所で、アウグスチヌスは回心前の時期を思い起こしながらさらにいいます。「たしかに御身はわたしの眼前にましました。しかるにわたしは、自分自身からはなれさり、自分を見いだしていなかった。まして御身を見いだすことなどは、思いもよらなかった・・・・」(『告白』:Confessiones V, 2, 2〔前掲山田晶訳、160頁〕)。アウグスチヌスは自らこの知的・霊的旅路を歩んだからこそ、自らの著作の中で、直接に、深く、知恵をもってそれを表現することができました。アウグスチヌスは『告白』の別の2つの有名な箇所で(『告白』:Confessiones IV, 4, 9; 14, 22)、人間が「大きな謎(magna quaestio)」(前掲山田晶訳、138頁)であり、「大きな深淵(grande profundum)」(同150頁)であることを認めます。すなわち人間は、キリストのみが照らし、救うことのできる謎であり、深淵です。このことは重要です。神から離れた人間は、自分自身からも離れ、自分自身から疎外されています。だから彼は、神と出会うことによって初めて自分を見いだすことができます。このようにして彼は自分自身に、すなわち真の自分、真の自分のあり方へと導かれます。

 アウグスチヌスが後に『神の国』(De civitate Dei XII, 28)の中で強調するように、人間は本性的に社会的な存在ですが、悪徳によって反社会的なものとなっています。人間を救うことができるのはキリストだけです。キリストは神と人類の間の唯一の仲介者であり、「自由と救いをもたらす普遍的な道」(『ヒッポのアウグスチヌス』21)です。わたしの前任者であるヨハネ・パウロ二世が繰り返して述べたとおりです。同じ著作の中でアウグスチヌスはまたいいます。人類に与えられたこの普遍的な道を通ることなしに「誰も救われたことはなく、誰も救われることはなく、誰も救われるだろうこともないのである」(『神の国』:De civitate Dei X, 32, 2〔茂泉昭男・野町啓訳、『アウグスチヌス著作集12』教文館、1982年、382頁〕)。救いのための唯一の仲介者であるキリストは、教会の頭(かしら)であり、教会と神秘的なしかたで結ばれています。だからアウグスチヌスはいいます。「わたしたちはキリストとなったのである。彼が頭であれば、わたしたちは肢体であり、彼とわたしたちとは『全き一人の人』なのである」(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis Evangelium tractatus 21, 8〔泉治典・水落健治訳、『アウグスチヌス著作集23』教文館、1993年、381頁〕)。

 神の民は神の家です。それゆえ、アウグスチヌスの考えでは、教会は「キリストのからだ」という思想と密接に関連づけられます。この「キリストのからだ」という思想は、キリストの観点から見た旧約聖書の新たな読み方と、聖体を中心とした秘跡の生活に基づきます。主は聖体によってわたしたちにご自身のからだを与え、わたしたちをご自身のからだへと造り変えてくださるからです。ですから根本的なことはこれです。社会的な意味ではなくキリスト的な意味で神の民である教会は、まことにキリストと一つに結ばれています。アウグスチヌスがきわめて美しいことばで述べるように、「キリストはわたしたちのために祈り、わたしたちの内で祈っておられるとともに、わたしたちもわたしたちの神であるキリストに祈っている。キリストはわたしたちの祭司としてわたしたちのために祈り、わたしたちの頭としてわたしたちの内で祈り、わたしたちはわたしたちの神であるこのかたに祈っている。それゆえわたしたちはキリストの内にわたしたちの声を認め、わたしたちの内にキリストの声を認めるのである」(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos 85, 1)。

 使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』の終わりに、ヨハネ・パウロ二世は聖アウグスチヌスに対して、現代の人々に何を語っているかを尋ねます。そしてヨハネ・パウロ二世は、何よりもアウグスチヌスが回心の直後に書いた手紙の中で述べたことばでこたえます。「人間は真理を見いだすことへの希望へと導かれなければならないと、わたしは思います」(『書簡集』:Epistulae 1, 1)。この真理とは、まことの神であるキリスト自身です。『告白』のもっとも美しく、またもっとも有名な祈りの一つは(『告白』:Confessiones X, 27, 38)、このキリストにささげられます。

 「古くして新しき美よ、おそかりしかな、

 御身を愛することのあまりにもおそかりし。

 御身は内にありしにわれ外にあり、

 むなしく御身を外に追いもとめいたり。

 御身に造られしみめよきものにいざなわれ、

 堕(お)ちゆきつつわが姿醜くなれり。

 御身はわれとともにいたまいし、

 されどわれ、御身とともにいず。 

 御身によらざれば虚無なるものにとらえられ、

 わが心御身を遠くはなれたり。

 御身は呼ばわりさらに声高くさけびたまいて、

 わが聾(ろう)せし耳をつらぬけり。

 ほのかに光りさらにまぶしく輝きて、

 わが盲目の闇をはらいたり。

 御身のよき香りをすいたれば、

 わが心は御身をもとめてあえぐ。

 御身のよき味を味わいたれば、

 わが心は御身をもとめて飢え渇く。

 御身はわれにふれたまいたれば、

 御身の平和をもとめてわが心は燃ゆるなり」(前掲山田晶訳、365366頁)。

 ご覧のように、アウグスチヌスは神と出会い、その全生涯を通じてこの出会いを体験し続けました。こうしてこの現実――それは何よりもまずイエスという人格との出会いでした――はアウグスチヌスの人生を変えました。イエスと出会う恵みを与えられたあらゆる時代の人々の人生を変えたのと同じように。祈りたいと思います。主がこの恵みをわたしたちにも与え、そこから、わたしたちが主の平和を見いだすことができますように。

 

(注2) 宮野真生子氏は、『日常・間柄・偶然』(九鬼周造と和辻哲郎)、現代思想、『九鬼周造』(青土社)所載、でこの問題を詳細に論じており、非常に的確な分析を行っています。是非参照ください。以下にはこの論文からほんの一部を引用します。

九鬼によれば、「実存の意味を明確にするためには、一方に普遍的抽象を対し、他方に生命に対して、実存の限界を立てることが肝要」である。普遍的抽象とは、「人間とは理性的存在「である」というような一般化を指す。これにたいし、実存は、意志を持って「わたしは~である」と行為することで、「私がある」ことの意味を作り出したところに成立する。いわば九鬼の考える実存は、「がある」を起点として、その手前には人間を一般化する抽象的な「である」があり、その先には、人間の行為を規定する和辻的な間柄の「である」が控える所で可能となるものである。(宮野真生子『日常・間柄・偶然』、97㌻より引用。)

(注3)

「紺屋高尾」という落語があります。YouTubeで鑑賞可能です。あらすじは以下の通り。

神田にある紺屋に勤めている染物職人、久蔵の物語です。11歳の子どものときから奉公して、遊び一つ知らず、まじめ一途に働く。何時の元気なその久蔵が、なぜか患って寝込んでしまっている。心配になった親方が竹内蘭石という医師に診てもらったところ、「恋患い」であることが判明した。いやいやながら吉原に行った時高尾太夫の「花魁道中」を初めて目にして以来、高尾太夫のこの世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、何も手が使い病人になり、高尾太夫の錦絵を布団の下に敷いて寝込んでいました。そこで親方は久蔵が何とかして高尾太夫に会えるようにしてあげようと考える。高尾を座敷に呼ぶのにはどう少なく見積もっても十両はかかる。久蔵の給金の三年分でも足りない。不足分は自分が足してやるから三年間しっかり働いていためるようにと励ます。三年たったところで九両がたまった。親方は自分が一両足してあげて、医師の竹内蘭石という医者を案内役に仕立てる。いくらお金を積んでも、紺屋職人では高尾が相手にしてくれない。そこで、久蔵さんを流山のお大尽に仕立てて、医師はその取り巻きということで一芝居打ちましょうということになる。竹内医師は「下手なことを口走ると紺屋がバレるから、何を言われても『あいよ、あいよ』で通してください」と久蔵さんを指導。帯や羽織もみな親方にそろえてもらい、すっかりにわか大尽ができあがった。先生のおかげで無事に吉原に到着し、高尾に会いたいと申し出るとなんと偶然その日に限って予約がキャンセル、高尾に空きができた。

やがて夢のようなご対面が実現した。高尾太夫が煙管で煙草を一服つけると「お大尽、一服のみなんし」と言ってくれる。花魁が型通り「今度はいつ来てくんなます」と訊ねると、感極まった久蔵は泣き出してしまった。

「ここに来るのに三年、必死になってお金を貯めました。今度といったらまた三年後。その間に、あなたが身請けでもされたら二度と会うことができません。ですから、これが今生の別れです…」。

大泣きした挙句、自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまった。純真な久蔵に高尾は多いに感動して言った。

「源・平・藤・橘の四姓の人と、お金で枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人だろう。自分は来年の二月十五日に年季が明けるから、その時女房にしてくんなますか」言われ、久蔵、感激のあまり泣きだした。

金をそっくり返され、夢うつつのまま神田に帰ってきた久蔵は、それから前にも増して物凄いペースで働き出した。

「来年の二月十五日…あの高尾がお嫁さんにやってくる」、それだけを信じて。

「花魁の言葉なんか信じるな」なんていう仲間の苦言も何のその、執念で働き通していよいよ二月十五日が到来。お籠に載った高尾がやってきたのでした。親方が仲人になって久蔵と高尾太夫は夫婦となったという物語です。

 

(注4) 北森喜蔵師は有名な著書『神の痛みの神学』を著しました。神が痛みを覚えたり、悲しんだりということはギリシャ人の考える神では考えられません。神にはありえないことです。神は完全な存在であり、悲しんだり、怒ったりするというのは、足りない点とか、満たされないことがあるからそうなるので、神はいつも満たされておりますので、怒ったり、悲しんだりするはずないと考えるわけですが、聖書の神はそうではない。わたしたちのために、怒ったり、悲しんだりする、心に強い、激しい痛みを覚える、そういう神様であるということをわたしたちに告げております。カトリックの聖心の信心は、そのような聖書の神理解を更に具体化したものであると言えましょう。一時、大変多くの人に受け入れられ、聖心という名前を付けた修道会や学校などが多数造られたのであります。

 

喜びなさい!

悪についての小考察その7

――「主において常に喜びなさい」と言われてもね・・・

 

カトリック教会の2020104日のミサの朗読は使徒パウロのフィリピへの手紙です。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 4:6-9

(皆さん、)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

 

この時パウロは獄中におり、またフィリピの教会には深刻な抗争が進行中であったと推測されています。そのような困難な状況にあってもパウロは「主において常に喜びなさい」(フィリッピ44)と言っています。これは実に驚くべきことではないでしょうか。

人間的には心配しあるいは煩悶して当然です。しかしパウロは「主において喜びなさい」と言っているのです。喜びの動機と理由は主イエス・キリストにあります。十字架の苦しみに打ち勝ったキリストがパウロとともにて、パウロと言わば一致して生きているのです。キリスト教という宗教は十字架と復活という過ぎ越しの神秘を生きる宗教です。

 

ヒンドゥー教の偉大な聖者シャンカラの教えを学んでいます。

人は本来の自己、真の自己であるアートマンに出会い知り、自分がアートマンであることを悟るならばそこに無明からの解脱があり、吉祥(喜び)がある、という教えだと思われます。たとえ身体に苦痛があっても真の自己であるアートマンは命と光の喜びに満たされているのです。何か上述の使徒パウロの述べている喜びの体験に似ているような気がします。

パウロは言っています。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテア220)

 

さて、悪についての考察を行ってきました。アートマンによれば、「私」という意識が悪の根源であるとされています。「私」という意識が無明の所産であるとシャンカラは述べています。「これがわたしである。」「これがわたしのものである。」という思い込みが無明であり、輪廻、迷いの原因です。(『シャンカラ』島岩著、清水書院、113㌻より。)

この点について原始仏教はどのように教えているのでしょうか。ズバリ結論を言えば、

「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもありません。」

ということと思われます。(『真理のことば ブッダ』佐々木閑著、NHK出版、76㌻より引用。)

人間とは色々な要素の集合体に過ぎない。ブッダの『真理の言葉』(ダンマパダ)で次のように言われています。

見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろなものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住しない。(147、ブッダの真理の言葉 感興のことば 中村 元訳、岩波文庫、30㌻より引用。)

以下にこの結論へ至る説明を要約して敷衍します。

この状態は車輪にたとえられます。車輪は回転して物を運ぶという独自の働きをしているが、種々の部品、外枠、スポーク、軸受けなどから構成されており、仮の存在として「車輪」と呼ばれているに過ぎません。もし部品の結合が解けてバラバラになってしまえば、もはや「車輪」は存在せず、回転して物を運ぶという機能も消滅します。人間も車輪と同じで、肉体をつくる種々の物質的要素と精神を担当する種々の心的要素が集まって「私」という仮の存在を形成しています。これらの構成要素が分解されるならば、「私」という存在は消滅し、私の世界も消え失せてしまいます。これが「私」の正体です。自分とは種々の要素が組み合わさって出来た「自己認識機能」「意思機能」であります。しかし人には「意思機能」があるので、自分の意思で輪廻の世界から脱出して涅槃に入る可能性は残されています。ブッダは輪廻思想を信じていたが、ブッダにとって輪廻とは、何か「絶対的な自己」というものがあって、それが永遠の命をもって生まれ変わり、死に変わりを繰り返すというものではありません。ブッダにとって「不滅の霊魂」は存在しません。すべては要素の集合体です。

「あらゆる生き物は要素の集合体として存在している」のであり、わたしという存在も要素の集合体であり、自分にとって愛しい人々も要素の集合体であります。そして私という集合体と他の人々の集合体とは因果の法則によって相互に影響し合っています。お互いに影響し合っているのです。それは人間同士に限らずあらゆる生き物に間に成り立つ関係です。ですから、たとえ「霊魂不滅」を信じていなくとも、人が亡くなった場合でも、その人が生きていた時に周りの人々に与えた影響はそのまま人々の集合要素の中に残ります。子を亡くした親は悲しみに心が引き裂かれる思いをします。

親は子がどこかに生き続けているのではないかと考えるのは親の情として当然ですが、子は親の存在そのものの中に生き続けているのです。このように考えれば、死んだ子は今の生きている、といえるでしょう。このように考えれば、亡くなった人の残す遺物や遺骨はさほど重要ではない、ということになります。

「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもありません。」

究極の自己という存在はない、というのがブッダの考えです。「すべてのものにおいて「私」とか「私のもの」という実体は存在しない。すべてのものはその関係性において存在している」と考えます。この考え方を「諸法無我」といいます。)

さらにブッダは、世界で最も古いと言われているスッタニバータというお教で《空》という教えを説いています。すなわち、「自分というものがある」という思いを取り除きなさい、と言っています。つまり自分というものが永遠に存在するのではない、ということです。「私」はいろいろな要素の集合体に過ぎない。そこにある「私」は《空》であり、形はあっても実体のない仮の姿にすぎない、というのです。そのことを悟ってそのような自分に執著しなければ苦しみから解放される、と教えます。実にすべては諸行無常であり、「私」はたえず移り変わっています。人は記憶によって同じ自分が存続していると錯覚しているが、不変の自分は存在しないのです。本当の自分あり方を心が誤って認識しているにすぎません。

「すべてのものごとに永遠の実体はない」ことを教える「諸行無常」が永遠の真理であり、この真理を自分について当てはめれば、それは「諸法無我」であり、「私」という認識も幻に過ぎないと教えています。

 

いまわたしは、シャンカラからブッダに遡るという逆のコースを辿っています。

ブッダは紀元前500年頃に人(生・没年は不詳)です。イエスより500年も前に人です。ヒマラヤ山脈の南麓にあってカピラヴァットゥ国の王子として生まれ29歳で出家し、苦行の修行を経て只管の瞑想に入り、菩提樹のもとで涅槃の悟りを開いたと伝えられています。

ブッダをして現世を捨てさせ、修行に道に入らせるよう駆り立てた者は人生の苦悩でした。ブッダは、人生とは「一切皆苦」であると悟ります。「一切皆苦」は輪廻と結びついています。当時の人々は、人は生まれ変わり死に変わり「天」「人」「畜生」「餓鬼」「地獄」「阿修羅」の六つの世界を経めぐりながら果てしなく苦しまなければならないと信じていました。(既述のように、シャンカラは、輪廻は無明の結果であり、無明からの解放されるためにはアートマンを知ることが必要であると説きました。)

ブッダは、輪廻の世界からの脱出は人の心の悪、つまり煩悩を完全に断ち切ることであると考えたのです。一切皆苦は自分自身の煩悩が作り出している。煩悩を断ち切ることが真の幸福への道であるとブッダは悟ったのでした。

ブッダが悟ったこの真理の道を「四諦」と言います。(以下に、佐々木閑『真理のことば』32㌻以下によって説明します。)

苦諦:この世はひたすら苦しみの世である。

集諦:この苦しみの原因は心の中の煩悩である。

減諦:煩悩を消滅させれば苦悩が消える。

道諦:煩悩を消滅させるためには具体的に八つの道がある。 

 これは八正道(はちしょうどうしょうどう)と言います。八は以下の通り。

一 正見(しょうけん)  正しいものの見方

二 正思惟(しょうしゆいい) 正見にもとづいた正しい考えを持つ。

三 正語(しょうご)  正見にもとづいた正しい言葉を語る。

四 正業(しょうごう)  正見にもとづいた正しい行いをする。

五 正命(しょうみょう)  正見にもとづいた正しい生活を送る。

六 正精進(しょうしょうじん) 正見にもとづいた正しい努力をする。

七 正念(しょうねん)  正見にもとづいた正しい自覚をする。

八 正定(しょうじょう)  正見にもとづいた正しい瞑想をする。

『ダンマパダ』では、四諦八正道について次のように言っています。

さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、

正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。――すなわち、(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(しゅうめつ)におもむく八つの尊い道(八正道)とを見る。(以上の訳文は,『ブッダの真理の言葉 感興のことば』 中村 元訳、岩波文庫、36㌻より引用。)

「仏と法と僧」は仏教の三つの重要な要素であわせて「仏法僧」と呼び、聖徳太子が「十七条憲法」で、「厚く三宝を敬え」といっている、あの三宝をさしています。

 

このように、ブッダは八正道という修行を通して、自分の努力により、悟りに達する生き方を貫きました。(構成の大乗仏教はこのブッダの生き方とはかなり離れてきたそうです。) 

キリスト教徒仏教の違いはどこにあるかと言えば、イエスとブッダの違い,それも、そもそもの両者の現れ方の違いにあると言います。(以下、佐々木閑『真理のことば』39-41㌻参照。)

イエスは神の国の福音を宣べ伝え人々を福音へ導くために登場しましたが、ブッダは自分の問題の解決のために修行したのであり、人を助けるためではありませんでした。ブッダは、よりどころはあくまでも自分であると遺言しています。

このブッダの生き方は従来のバラモンの教えに真っ向から背くことになったそうです。

シャンカラの教えでのべたように、ヒンドゥー教の教えでは、自己の本性はアートマンであり、そのアートマンはブラフマンに他ならないということを悟ることが幸福への道でありました。この梵我一如という伝統的なバラモン教の教えをブッダは取り上げなかったようです。

仏教はどのようにして成立したのか。ブッダはバラモン教とヒンドゥー教をどう考えていたのか。本当にアートマンの存在を否定したのか。

この難しい問題に正確に答えることは困難です。ここでは仏教学・インド学の日本での権威野中村 元博士の入門書「中村 元の仏教入門」(春秋社、2014年第一刷、2020年第7,59-70㌻より。)に基づいてささやかに考察をしてみたいと思います。(注1)をご覧ください。

 

さて、ここ、第8章でわたしたちは立ち止まり問題点の整理をする必要を感じます。

わたしたちは悪についての小考察を行ってきました。

善とは真の自己を知ること、から、ヒンドゥー教の有名な教師シャンカラの教え、――「私」という意識が悪の根源、「私」という意識が無明の所産であるので、本来の自己出るアートマン手の出会いにより無明を克服せよ――から原始仏教の教えに遡りました。この点について原始仏教はどのように教えているのでしょうか。釈迦の教えでは、「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもない。この世界も自己という存在も実在ではない、見えるのは仮の姿に過ぎない。」だったと理解します。

しかし他方、「人間の真の自己というものは人間があるべき姿、法に従って、法を実現するように行動する中にあらわれている。」とも言っています。(注1参照)

アートマン=ブラフマンについての複雑な議論はここで棚上げにします。両者とも「私」を否定することが真の自己との出会いないし解脱であると言っているように理解しました。

 

「自分探し」という課題の設定は、その課題の措定そのものが問題であるのかもしれません。間違った問題の立て方をすれば、いくら頑張ってもその問題の解決には至らないのです。例えばカントが挙げている例ですが、

世界は空間・時間的に有限であるのか、無限であるのか

という問題はアンチノミーと呼ばれる二律背反の問題です。時間・空間という次元が有効な世界で初めて意味のある問題ですが、時間・空間という次元が無い世界では無意味な質問になるというのです。(『カント入門』石川文康、ちくま新書参照)

そもそも自分とは存在しないという世界では自分探しは意味がありません。あるいは、わたしたちが「自分」と考える自分は本当の自分ではないというなら、本当の自分と偽物の自分がいることになります。

話は振り出しに戻ったような気がします。

 

他の誰でもない自分、世界中に一人しかいない人間、かつていなかったしこれからも現れない人間である自分(あるいは太郎さん、花子さん)を如何に認識するのか、という問題です。この世の中では種々の機会に「自己証明」を要求されます。例えば本人限定郵便を受け取る場合、運転免許証などの自己証明の書類の提示が求められます。日本ではマイナバーという制度が導入され、国民は誰でもその人だけの番号が付けられます。このような自己証明は、もっぱら事務的・機械的に、行政的・経済的・金融的…な必要から、つまり管理的な意図をもって実行されているわけです。交通違反をして拘束された者が免許証の提示を求められるのは、その人固有の人格的な価値に関係なく行われることです。

人がその人として尊重されるということは何を意味しているでしょうか。人はそれぞれ違いを持っています。違うからこそ個性があり、人格の価値があります。もし能力が数量化されて評価され数値によって個別化が行われるとしたらその個人のかけがえのなさは何処で、何によって評価されるのでしょうか。もし人の価値が、「どれだけ社会で役に立つかどうか」によって決められるとしたら、役に立たないどころか負担をかける人は、存在の価値がないものとして抹殺されるということになりかねません。ナチスの優性思想は実際、障害者を抹殺する挙に走らせたのでした。

この世でまことに不完全ながら、一時的にせよ、そのようなかけがえのなさという価値が実感されるのは、親子の間、そして異性間の恋愛であります。(まことに脆弱な関係ではありますが、それでも人はそこに自他のかけがえのなさを感じます。) 人は「自部はこの瞬間のために生まれ生きてきたのだ」という体験をすることがあります。もちろん宗教の世界でそれは起こっています。いわゆる神秘家と呼ばれる人々の体験はそうしたものでしょう。(後日取り上げたい。) ヒンドゥー教の聖者(例えばシャンカラ)、仏教の徹底した信奉者(例えば妙己人たち)の中にそのような体験があるのだろうと思います。とはいえ、それは特別な場合であり、一般的ではありません。

わたくしはこの「善と悪の問題」を取り上げているのは福音宣教の視点からなのです。誰でも経験しうる体験の中に、神の愛への接点がないだろうか、と考えます。実際あるのですが、それが神体験と結びついて受け取られることは少ないのではないでしょうか。

 

ところで「恋愛」と言いますが、「恋」と「愛」とは違います。関係はあり、それもかなり深いものですが、恋は愛ではない。もちろん「恋」とは何か、「愛」とは何か、を論じればきりのない議論になります。キリスト教でも、アガペーとエロースとの比較が行われてきました。最近では教皇ベネディクト十六世が回勅『神は愛』を著わしています。これは両者を厳格に峻別する手法を取っていない点、大いに裨益されます。

(注2)

西田幾多郎と同時代のカトリック信徒で九鬼周造という有名な哲学者がいて、『いきの構造』という有名な論文で、人間の異性への欲求とその自制、この求める愛,エロスと神の愛、アガペーの関係を論じているように見えます。

この九鬼周三の思想を取り上げて学問的かつ詳細に、そして興味深く論じたのは、夭折した若き哲学者、宮野真生子氏でした。そこで次回、第8回は宮野真生子『なぜ、わたしたちは恋をして生きるのか』を軸に、『神は愛』を参照しつつ、恋と愛、エロースとアガペーという課題を見ていきたいと思います。

 

 

(注1) インド哲学では自己をアートマンと言います。もとは呼吸を意味する言葉で、ドイツ語のアートメンにあたります。もとは呼吸を意味し、息をしている人間は生きており、生きている人間にはその基本にアートマンという自己がいる、という素朴な考えに基づいているように思われます。

ところで仏教では次のように考えます。

「およそ自分の所有とみなされているものは常に滅するから、永久に自己に属しているものではない。またわれわれは何ものかをわれわれと考えてはならない。」

「われわれ人間を構成している精神的または物質的要素ないし機能は、いつでも自己であると解することはできない。」

ウパニシャッド哲学では認識主体としてのアートマンというものがあり、それを霊魂であり実態であると考えています。しかし仏教では実体としてのアートマンを否定しました。無我説とはこういう意味でした。

人間には霊魂が宿っており、霊魂は不死であるなら、人間が殺されても霊魂は死なないわけだから、人を殺しても問題ない、と考えることができる。(そうなるべきではない。)だから霊魂という実体があって不死であるという考えは倫理上不都合である、と仏教は考えました。霊魂が存在しなければ、人間の生命ははかなく消滅する、だからこそ生命を大事にしなければならない、と考えたのです。

但し後代になると無我説は、人間はいかなる実体も持っていない、という意味であると解せられるようになりました。「我という実体はない」だから我欲、我執を捨てなさい、という方便としての勧めのために無我説が説かれたのでした。当時のバラモン教やジャイナ教は何らかの意味での普遍で恒久的な自我、あるいは実態である霊魂の存在を想定していました。その霊魂が輪廻によって六つの世界を生まれ変わり死に変わって廻ると信じていました。ところが仏教は実体としてのアートマンを認めませんでした。その代わりに、人間を「五蘊」という五つの構成要素で成り立っている集合体と考えました。五つ(五蘊)とは、

(しき)・受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)・(・)識(しき) です。

「色」とは感覚的・物質的なもの一般を意味します。

「受」とは意識のうちほぼ感覚と感情とを含めた作用

「想」とはこころの内部を構成する知覚や表象を含めた作用

「行」とは能動性または潜在的形成力

「識」とは対象それぞれを区別して認識する作用

であり、個人はこのこれらの五蘊から構成されていると考えます。この五つはわれわれの存在の特殊な在り方を示しており、それをダンマと呼びます。あれわれの存在はこれらの五蘊、すなわち五種類の法の領域において保持され成立しています。このすべてものものの集まりを世俗的に仮に「われ」「自己」と呼んでいるが、われわれに中心主体はそのいずれの法の領域のうちにも認めることが出来ない、と教えています。

例えば、物質的な構成要素は色である。色は無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは非我、われならざるものである。非我はわがものではない。これはわがアートマンではない。このように説明します。色色(しき)受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)・(・)識(しき)のうちのどれ一つもアートマン、本当に自己であるとは言えない、となります。

さらに、六根、六境という説明もあります。

視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、と思考器官のために六つの器官があります。すなわち

(げん)・耳(じ)鼻(び)・(・)舌(ぜつ)・(・)身(しん)・(・)意(い)

の六つの場があります。この六つに対応している領域が六境で、次のようになります。

(しき)・声(しょう)香(こう)味(み)・(・)触(そく)法(ほう)

触は身体で触れられるもののこと、法は考えられるもの、思考器官で考えられるもの、思考器官の相手となるものです。

仏教はこれらの六根、六境のうちのどこにも真の自己は認められないとし、形而上学的原理としてのアートマンを否定しました。そのためこの思想的立場は無我説と呼ばれていますが、アートマンそのものを否定したわけではありません。もし自己を否定しただけなら「我がない」「自己がない」とそれだけを言えばよかったわけです。ところが説いていることは、客観世界に見出されるいかなる実体もアートマンではない、自己ではない、と言っている。一方で「アートマンが実在するかどうか」という問いについては、仏教は沈黙しています。「むしろ仏教は人間の行為のよりどころとしてのアートマンである自己を承認していました。」ブッダの臨終の説法は「自己(アートマン)に頼れ、法に頼れ、自己を灯明とせよ、法を灯明とせよ」という者でした。「自己の頼るということがどういうことかというと、人間の真の自己というものは人間があるべき姿、法に従って、法を実現するように行動する中にあらわれている、自己の頼るということは法に頼ることとおなじであるということです。」(同書、中村、66㌻からの引用。)

中村 元師のこのような説明を聞くと混乱します。仏教はアートマンを否定したのか、しなかったのか。形而上学の実在としてのアートマンは認めなかったが、法としてのアートンを認めていた、という意味になります。では実在としてのアートマンと法としてのアートマンはどう違うのでしょうか。

「仏教では実体的な我、アートマンを想定することはありませんでしたが、ダンマというものは認めています。これは、法と訳されますが、われわれを現にかくのごとくあらしめている、現実に成り立たせて決まりとか規範のことです。」(同書、69㌻)

 

(注2) 回勅『神は愛』は「エロース」と「アガペー」の関係に言及しています。(特に9㌻以降。次回にとりあげたい。

個々の人間の唯一性という価値を述べている福音は数々あるが特にルカによる福音書が重要です。読者の労を省くためにも、煩を厭わず以下に本文を引用します。

◆「見失った羊」のたとえ

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

◆「無くした銀貨」のたとえ

15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

◆「放蕩息子」のたとえ

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。

15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

三つのたとえ話のなかで、見失った羊のたとえ、と無くした銀貨のたとえは、なくてはならない固有の価値、代替の利かない価値ある存在について語ります。有名な「放蕩息子のたとえ」は、

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。…』

とあり、「我に返った」とあります。「本来の自分に帰った」という意味でしょうか。普通は「回心」という意味に解釈されています。本来いるべきところへ向かって生きる方向を転換する、という意味です。

「世界に一つだけの花」というSMAPのうたあります。その歌詞はいくらか、個の唯一性の価値を述べていると思います。

歌詞

No.1にならなくてもいい
もともと特別な only one

花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争うこともしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?
そうさ 僕らは

世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

困ったように笑いながら
ずっと迷っている人がいる
頑張って咲いた花はどれも
きれいだから仕方ないね
やっと店から出てきた
その人が抱えていた
色とりどりの花束と
うれしそうな横顔
名前も知らなかったけれど
あの日僕に笑顔をくれた
誰も気づかないような場所で
咲いてた花のように
そうさ 僕らも

世界に一つだけの花
一人一人違う種をもつ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
No.1
にならなくてもいい
もともと特別な only one

ラララララ

提供元LyricFind

ソングライター: 敬之 槇原

世界に一つだけの花 歌詞 © O/B/O Jasrac

 

 

2020年10月11日 (日)

年間第28主日A年聖書朗読

20201011日、年間第28主日A年の説教

 

主イエスは、神の国の福音を、いろいろなたとえ話によって、説明されました。

最近の主日の福音は、3回ほど続けて、『ぶどう園』に関するたとえ話です。

『ぶどう園の主人と農夫のたとえ話』が先週(年間第27主日)、その前は、『ぶどう園に招かれたふたりの息子のたとえ話』(年間第26主日)、さらに、3週間前は、『ぶどう園で働く労働者のたとえ話』(年間第25主日)でした。

ぶどう園というのは、神様が、わたしたちを派遣して、働く場所、人々を招いて、神様のみ心を行わせるための世界を表していると思われます。

わたしたちは、この世界、ぶどう園に遣わされ、そちらで、神様のみ旨に従って、良い実を結ぶようにと、期待されています。

今日は、「王が王子のために催す婚宴のたとえ話」です。

今日の話に出てくる王は、父である神様、御子イエス・キリストのために、婚宴を催すということを伝えている話であると思われます。

『婚宴』、あるいは、『宴会』という主題は、聖書を通して、たびたび登場します。

今日の第一朗読、イザヤ書では、万軍の主が、すべての民を招く祝宴が述べられています。

「万軍の主はこの山で祝宴を開き

すべての民に良い肉と古い酒を供される。

それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

主はこの山で・・・(省略)・・・

死を永久に滅ぼしてくださる。

主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい

御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる」(イザヤ256-8)。

神様が、わたしたちを、その喜びの宴会に、招いてくださるという、喜ばしい福音が、すでにイザヤ書で、述べられています。

さらに、黙示録の中では、次のように言われています。

「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」(黙示199)。

神の国が完成したときのイメージを持って、神様は、すべての人を、ご自分の宴会に招いてくださるという、喜びの便りを告げています。この言葉をわたしたちは、聖体拝領の前に唱える祈り、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」として唱えています。

さて、今日のたとえ話の後半です。

礼服を着ていない者は、外の闇に放り出されてしまう、と言うのです。

王は、家来を遣わして、いろいろな人を王子の婚宴に招きましたが、人々はいろいろな理由をつけて、招きを断ります。

そこで、王は、良い人であっても、悪い人であっても、誰でも良いから、呼んできなさいと命じます。そして、部屋がいっぱいになるほどの人が、婚宴の席に連なることになった。急に呼ばれて、身なりを整える余裕もないままに連れてこられた人に対して、礼服を着けていないことをとがめられるということであるならば、それは、よく分からない話であるということになりはしないでしょうか。

人生には、いろいろと重要な場面、例えば「死」という場面がありますが、いつ、どのようにして、その場面が自分に訪れるのかということを、わたしたちは知ることはできない。たぶん、そのことを教えているのかもしれない。いつでも準備していなければならない。いつでも、そのときが来たら、そのときを、よく迎えることができるように、心を整え、生活を整えていなければならない。わたしたちは、そのようにしなければならないのだと思います。

恐らく、この礼服というのは、文字通りの、立派な、婚宴のときに着ていく服というよりも、王の招きに、いつでも応えることができるような、準備のことを指しているのではないかと思います。準備とは、心の準備、生活の準備のことではないかと思います。

ふさわしい心、それは、神の招きに、いつでも応えようとする信仰、そして、自分が至らないものであるということを、よくわきまえる、謙遜さ、神の恵みへの感謝、そして、神の国の完成へと、自分が連なることができるという希望を表しており、そして、そのような心構えで、日々誠実に生きる、日々の愛の実行ではないかと思います。

今日、ご一緒に献げている、このミサは、神の国の完成の宴会の前触れ、かたどりであると言われます。

ミサというのは、主として、『ことば』の食卓と、父である神との親しい交わりを示す『感謝』の食卓から成り立っていますが、ご聖体をいただくときに、ふさわしい準備をして、主の御からだをいただきます。

それは、ちょうど、神の国に最終的に入るときのことを、あらかじめ、表していると考えることができます。

今日の主日の朗読を聞かれた皆さん、みなさんは、『福音を宣教する』という使命を授かります。福音宣教とは、すべての人を、神の国の宴会へ招くということであると、言い換えることができます。

「神様は、すべての人を、ご自分の幸せ、ご自分の喜びの集いに招いてくださっています。ですから、いつもふさわしい心で準備していなさい。生活も整えなさい。」

そのようなことを、人々に教え、伝えることが、福音宣教ではないかと思います。

 

 

 

 

2020年10月 4日 (日)

喜んでいなさい、と言われてもね---

年間第27主日A年の説教

第一朗読 イザヤ5・1-7

第二朗読 フィリピ4・6-9

福音朗読 マタイ21・33-43

本日の第二朗読で使徒パウロはやむにやまれない思いを抱いて次のように述べています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます。」「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

この時パウロは獄中におり、またフィリピの教会には深刻な抗争が進行中であったと推測されています。そのような困難な状況にあってもパウロは「主にあって喜びなさい」と言っています。これは実に驚くべきことではないでしょうか。

人間的には心配しあるいは煩悶して当然です。しかしパウロは「主において喜びなさい」と言っているのです。喜びの動機と理由は主イエス・キリストにあります。十字架の苦しみに打ち勝ったキリストがパウロとともにて、パウロと言わば一致して生きているのです。キリスト教という宗教は十字架と復活という過ぎ越しの神秘を生きる宗教です。

先週、先々週の主日の福音に引き続き、今日、年間第27主日の福音も、ぶどう園のたとえ話です。

ぶどう園の主人は農夫たちにぶどう園を貸し与え、収穫を受け取るために農夫たちのところに僕たちを遣わしました。しかし農夫たちは僕たちを拒否します。そこで主人は最後に跡取り息子を派遣しますが、農夫たちは息子をぶどう園の外に放り出して殺してしまいます。その結果、主人はぶどう園をほかの農夫たちに貸すことになります。

主人は、主なる神、農夫たちはイスラエルの指導者たち、僕たちは 預言者たち、息子はイエス・キリストを指しています。

主なる神はイスラエルの民をエジプトにおける隷属から解放し、カナンの地に導きそこに定住させました。本日の答唱詩篇はそのことを次のように言っています。

   あなたはぶどうの木をエジプトから移し、

    ほかの民を退けてそこに飢えられた。

   まわりが耕され、その木は根を張り、おい茂った。

しかし、第一朗読イザヤ書ではまた次のように言っています。

   わたしがぶどう畑のためになすべきことで

   何か、しなかったことがまだあるというのか。

   わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに

   なぜ、酸いぶどうが実ったのか。(イザヤ54)

 

ユダヤ人はイエスの招きを拒みイエスを十字架につけて殺させてしまいました。その結果、神の国の福音は異邦人にのべ伝えられました。使徒パウロは異邦人の使徒でした。パウロはローマ書において、異邦人がイスラエル人より先に救いにあずかる次第を語ります。そのパウロがフィリピの教会宛に手紙を出しています。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ46)

人生は心配の連続です。思い煩わないように、といわれても実行は難しいと感じます。しかし、思い煩いではなく、冷静、賢明、勇気、そして神への信頼が何より大切なのだと思います。パウロはいかなる場合であっても神への信頼を説いています。しかも、この手紙を出したときパウロ自身は牢獄につながれていました。そのような状況でフィリピの教会の人々へこのような勧めを与えることができたとは実にすばらしいことです。

パウロはまた次のようにも言っています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ44-5

毎年、待降節第3主日の入祭唱で唱えられるパウロのことばです。パウロは牢獄でこの言葉を述べたと言われています。

牢獄の中でパウロがこのような勧めを送ったとは実に驚くべきことではないでしょうか。

ところでこのようにパウロが書き送ったフィリピの教会に実は問題があったようです。信徒の間に深刻な抗争があったという考えがあるのです。

パウロはフィリピの教会を特に愛していました。フィリピの教会はパウロが創設した教会でした。(創設の次第は、使徒言行録16章に記されています。)

****

第一朗読  イザヤ書 5:1-7

わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。

よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。

しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よわたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのになぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず耕されることもなく茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに見よ、叫喚(ツェアカ)。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 4:6-9

(皆さん、)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

福音朗読  マタイによる福音書 21:33-43

(そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。)「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。

『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』

だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

2020年10月 1日 (木)

悪についての小考察、その6、(アートマン)

悪についての小考察、その6

――「如何にして真の自己を知るか」の続き

 

人は如何にして真の自己と出会うことが出来るでしょうか。真の自己とは何でしょうか。難しい問題です。

西田幾多郎の『善の研究』は、「善とは真の自己を知ることである」としています。「悪」を考察するには「善」を考察しなければなりません。その「善」の探求は自己の探求と結びついています。人の生涯は自己の探求であり、人類の歴史も自己の探求と切り離せないと思われます。東西の哲学・宗教の歴史も「自己の探求」の歴史ではないでしょうか。

ここの一冊の哲学の入門書があります。それは『ソフィーの世界』と言って、その帯では「世界で一番やさしい哲学の本」と銘打ってあり、14歳の少女ソフィーに「あなたは誰でしょうか」と問いかける、という内容となっています。(1995年、ヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子訳、日本放送出版会発行)。

著者はノルウエー人の作家で、本書は世界中でベスタ―セラーになりました。著者はファンタジーを折ませながら、デモクリトスからはじめて、主要な哲学者の口を通して「あなたは誰か。」という問題の解説を展開しているのです。結論はどうかと言えば、あまり明確ではないと思われますが、分かりやすい言葉でこの命題を説明している点が魅力です。

 

「自己を知る」というときの「自己」とは何でしょうか。人には種々の顔があります。どの顔もその人のすべてではないし、その人の真の姿であるとはいえないでしょう。そもそも「真の自己とは存在するのか」が問題です。自己の探求は東洋においても重要な課題です。それでは、「自己の探求」について、西洋と東洋の違いはどこにあるのか。ある見解によれば、東洋の哲学・宗教では、自分の内側から自己とは何か、を考えたが、西洋では人間の外側から「人間とは何か、世界とは何か」を追求した、と言われています。(『史上最強の哲学入門、東洋の哲人たち』飲茶(yamcha)著、マガジン・マガジン発行、26㌻以下、より。)

 

さて、哲学の課題のなかに「認識」の問題があります。人はこの世界と自分の外にある対象を、自分をどれだけ正確に知ることが出来るかー認識できるか、という問題です。

18世紀のこと、英国にヒュームという哲学者が居ました。(1711-1776)

(以下、『史上最強の哲学入門』、飲茶、河出文庫,デカルトとヒュームの項を参考にしている。) 彼の哲学は「経験論」と呼ばれます。デカルトという哲学者(1569-1650)はすべてを疑ってついに辿り着いた結論が「どんなに疑っても疑っている自分が存在することは疑いない」という命題でした。そこから始まって、人間には理性によって認識する能力は確実である、と考結論したそうです。しかしヒュームは違います。人間の認識は物事を知覚することによるが、人間が知覚によって得る経験は現実と一致しているという保証はない。「わたし」という存在はさまざまな知覚の集まりの体験にすぎない。デカルトまでの哲学者が当然の前提と考えた神の存在についてまでもデカルトは疑いの目を向けます。人間は不完全な存在であるから完全は存在である神を知ることはできない。神は人間の有限な経験の組み合わせによって造られた創造の産物にすぎない、と考えました。

そのような状況で登場した偉大な哲学者がエマヌエル・カント(1724-1804)です。彼はデカルトの合理主義とヒュームの経験主義を統合した哲学者であると言われています。カントは合理主と経験主義のそれぞれの長所を取り入れ、新たな哲学を樹立したとされています。

確かに人間の経験は相対的であり、人によってかなりの相違がある。しかし、人間として、時間と空間の中で生きる人間は、同じ結論を得ることが出来るような認識能力を人は生得的(アプリオーリ)に与えられている、とカントは考えました。人類共通の経験の受け取り方の形式があり、その範囲内でなら、人は普遍的な真理に達することが出来ると、カントは考えたのです。しかし同時にカントは、人間は「物自体」は認識できない、と言います。ここが分かりにくいところです。人間にとっての真理とは人間にとっての「現象」であり、そのもの自体ではない、と考えます。人間は時間と空間の中で普遍的な認識をすることが出来る。しかし、時間と空間を超えた世界においては人間の認識の力は及ばないと考えます。例えば「神は存在するかしないか」という問題は人間の通常の認識の枠を超えた問題、いわゆるアンチノミー(二律背反)であります。(『カント入門』石川文雄、ちくま新書、第一章 純粋理性のアイデンティティー、参照。)

難解なカントの思想を正しく理解したかどうか自信がありませんが、カントの思想は「真の自己を知る」という目的にどのように貢献しているのか、正直に言って理解できていないのです。「他の誰でもないこのわたしは誰であり、何のために生まれ、何のために生きているのか」という問題にどのようにカントの思想が関わっているのでしょうか。

人は人生の体験上、他者を理解することがいかに困難であるかを知っています。他者を理解できない、他方、自分も理解してもらえない。この事実をどう受け止めるか。ヒュームのいう経験論の中に、このわたしたち人類の体験が入っているのではないだろうか。理解とは共感であります。それはほとんど不可能だという気がしますが、しかし、ある程度可能です。分かって頂けた喜びを人は経験します。

理解されるより理解することを求める者であることが出来るように日々祈るのが人の道でありましょう。(フランシスコの平和を求める祈りを思い起こす。)

カント哲学の範疇での認識で人は救われるでしょうか。他の誰でもない自分として理解されることを人は求めているのです。人間とは何か、人は如何に認識できるか、という高度で抽象的な議論に人はどれほど関心を持つでしょうか。

このような問いかけ自体がカントの哲学の枠にははまらないのかもしれません。

(しかし、膨大で深遠はカントの哲学をさらに読み込んでいけばこの疑問への回答に出会うのかもしれません。今の自分には困難な道ですが。)

 

さて、此の点、東洋の哲学・思想ではどうでしょうか。「山川草木悉皆成仏」ということを申し上げましたがが。インドのヒンドゥー教では「真実の自己の探求」は「わが内なる本来の自己アートマンが宇宙の根本原理であるブラフマンと同一である、という真理を悟ることが輪廻から脱出して真の自己を知ることである」と説かれています。稿をあらためて、ヒンドゥー教と仏教の考え方を学んでみたいと思います。

 

インド最大の哲学者と呼ばれるシャンカラ(700-750)の教えは次のように要約されます。

「人が輪廻から解脱する道は、本来の自己であるアートマンと宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であるという真理(梵我一如)を悟ることである。悟りを妨げているのは「無明」であるので無明を克服する修行がしなければならない。」(『ウパデーシャ・サーハスリー』(真実の自己の探求),前田専学訳、岩波文庫、の訳者前書き、による。)

何となく西田幾多郎の『善の研究』に似通った内容ですが、ここに四つの理解困難な概念があります。

輪廻

アートマン

ブラフマン

無明

 

そこでできうる限りにおいてこの四つの考え方を追求してみたいと思います。

 

アートマンとブラフマンは宇宙の根本原理であるといわれています。宇宙の根本原理とは何でしょうか。

宇宙には秩序があることを認めるには吝かではありません。宇宙は規則正しく運行しています。その規則は基本的な原理で統括されている。それをヒンドゥー教ではブラフマンと言います。

このように理解すればいいのでしょうか。

しかし、あまりにも抽象的で内容が判然とはしません。宇宙の根本原理と言えば、天体の運行、時間の推移、生物の消滅,気候の変動などを指しているのでしょうか。アートマンとブラフマンとは同一であると言いますが、本来の自己というなら、本来でない自己があるのでしょうか。本来でない自己と本来の自己とはどう違うのでしょうか。

「本来」と「本来でない」という概念の分け方はスコラ哲学の本質essentiaと偶有accidentiaという区別distinctioを想起させます。スコラでは、本質と偶有とを分けて考え、物には、そのモノをそのモノたらしめている、本質、あるいは本性があると考え、それ以外の属性はたまたまそのモノに付属してものにすぎないと考えます。例えば、ここにパソコンがあるとして、そのパソコンがどこの会社の製品であるのかは偶有にすぎないと考えます。同じように、人間にも本来の要素と偶有的な要素があるのでしょうか。

 

ちなみに「偶有性」と「偶有」について、以下のような説明があります。一方は偶有性のラテン語がcontingens である場合、他方がaccidensである場合です。参考までに注として要旨を引用しておきます。(注1)

 

何が人を人としているのでしょうか。その本来の自己と宇宙の原理とは同じものであると言われてもにわかには納得できません。人間を人間としている原理は宇宙の原理である、という意味でしょうか。それならある程度は理解可能です。人間には尊厳があります。人間の尊厳は神に由来します。創世記にあるように、人間は神の似姿であり神に似たもの,写しです。その点において、人間は、人間の起源であり創造主である神と共通の特色を持ち、その限りにおいて人間は尊厳を持ち、かけがえのない存在であると言えましょう。

宇宙の根本原理であるブラフマンがアートマンと同一であると言っても、いかにして、個々の人間の本質であるアートマンを認識できるでしょうか。人間の肉体は時間と空間の中に置かれ、食べ、排泄し、疲れ病み、身体は朽ちてしまいます。アートマンと身体の関係はどんなものでしょうか。

以下、シャンカラの教説集『ウパデーシャ・サーハスリー』(真実の自己の探求)により理解できた、あるいは関心を引いた内容をメモとして(注2)で紹介しますので確かめてください。ここでは、複雑で難解なシャンカラの見解をまとめてみたいとおもいます。

(以下に、島岩師の『シャンカラ』で述べられている同師による結論を、多少言い換えながら、引用してみます。)

シャンカラが一貫して目指したものは、自己の本質であるアートマンと絶対者ブラフマンのとの同一を知るということだった。自己という小宇宙の本質と大宇宙の本質であるブラフマンとの同一性の認識である。それは異なる二つのものの合一という形の合一性でなかった。自己の本質と宇宙の本質は本来的に同一だと考えられるということである。つまり、自己の本質に目覚めた時がすなわち、宇宙の本質に目覚めた時なのである。そして、両者の同一性は、我々が気付いていないだけで、本当はすでに実現されているのである。それにもかかわらず我々はなぜそれに気づかないのかといえば、無明がその妨げの原因となっているからである。

無明とは、主客の対立に基づいた言語や概念によって世界を分節化して捉えてしまうという、我々の生得的な認識の在り方のことを指している。したがって無明を滅することが必要である。しかし人間にとって先天的といえるこの人間の傾向を滅することは非常に困難である。

シャンカラの提示する方法は瞑想である。瞑想によって、意識を内なる自己の本質に向け、身体・感覚器官・内菅の働きをすべて停止させることによってそれは可能となる。すなわち、身体的・言語的・心的行為をすべて消滅させるのである。すると世界は消滅し、身体は消滅し、最後に「私」という意識も消滅する。そして、そのときの輝きであるものこそ自己の本質であるアートマンであり、すなわちブラフマンである。これが悟りであり解脱である。そのとき我々は存在そのものであり、精神その者であって、至福に包まれるのである。

とはいえ、この状態は人間にとっての「死」である。それは生存活動そのものの停止に他ならないからである。(『シャンカラ』、島岩著、清水書院、206-207㌻)

 

このまとめに対して、自分としていかなる意見を持つことが出来るでしょうか。以下に自分としては十分には受容しがたい留意点、あるいは疑問点を列挙します・

1、自己の本質と自己の本性とは同じ意味でしょうか。自己の本質を意義が強調されていますが、自己に固有の部分の認識・評価はどうなるのでしょうか。いわば偶有的な自己の特色を評価しないのでしょうか。真の自己とはアートマンであり、アートマンは宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であると気づくことがどんな意味があるのでしょうか。そうなると、自分というものがブラフマンの中に吸収されて消滅されてしまいます。そのことが無明を克服ことになる、と言っているようですが。そうなると各自の固有の存在の意味、価値はどうなるのでしょうか。各自の自己同一性identityはどうなるのでしょうか。そもそもそのような考え方が無明であると言っているようです。そうだとすればとてもついてはいけないという気がします。

2.シャンカラによれば、「私」という意識や存在は、無明すなわち誤った認識が生み出したものです。そればかりでなく、この世界は実は実在しないと言います。アートマン=ブラフマン以外のものは虚無にすぎない、見えるのは仮象、仮の姿、幻に過ぎないと言っているようです。シャンカラによれば、無明こそ人間にとって根源的・先天的な悪のであります。(島岩『シャンカラ』161-162㌻参照。)

3.無明の目に映る世界は仮象であり、真の実在ではない、というのでしょうか。これはこの世界に対して著しく否定的な態度です。我々は幻の世界に置かれているのであり、すべては仮の姿であるというのでしょうか。「行為」ということに対する否定的な態度は、この世で生きることに対する否定、あるいは無意味さに通じます。現代人が求めているのは、自己の存在の意味、価値ではないでしょうか。しかし他方、すべての存在にアートマンが充満しているというような言い方を散見します。無明の世界とアートマンの世界との対比がわれわれを混乱させます。

4.身体に対する否定的な見方に当惑します。島氏がいうように、「身体・感覚器官・内菅の働きをすべて停止させる」ということは、人間にとっての「死」の状態であると言えないこともありません。このような考え方はキリスト教の十字架の教えにかようものがあると感じます。キリスト教は過ぎ越しの神秘の宗教です。死を過ぎ越して復活へ至る道を教えています。アートマンの悟り、自分の本性がアートマンであるという悟りは、自分は復活のキリストの兄弟・姉妹であるという神学と同じ底辺を持つ思想でしょうか。この辺をもっと深く追求してみたいと思います。しかし、アートマンという「共通項」の発見は真の自己、他の誰でもない自分の発見とはどうしても思えないのです。この辺が東洋と西洋の思想の対立点でしょうか。あるは実は底辺は同じ考え方であると言えるのでしょうか。

 

5.シャンカラの思想を理解するカギは「無明」です。無明とは「付託」であります。付託とは次のように説明されます。

例えば真珠貝を見て、依然見た銀を想起し、真珠貝を銀であると誤認することです。アートンと非アートマンの間にも相互に付託が起こる、と言います。アートマンに人間の経験を付託してそれをアートマンの見做す、あるいはその逆に、人間の身体にアートマンを付託して、身体をもってアートマンとみなすことが起こります。アートマンを人間の肉体で表現し、それをアートマンとして礼拝する、あるいは特定の人間を生き仏にように考えて神格化することなどがそれにあたると思われます。

6.仏教では三毒という思想があり、その中に、無知すなわち無明が入っています。無明とは真理を知らない、知ろうとしない人間の愚かさを指しています。杉谷義純師によれば、無明とは人間の心を犯している三毒の一つです。三毒とは、貪・瞋/・癡(とんじんち)の三つで、癡が無明にあたります。「無知であること、相手や相手に関することに対して知識を持とうとしない、目を開こうとしない、相手の立場に立てものを考えようとしない、自分がよければそれですんでしまう」ということです。(『平和のための宗教者の使命』-2015年シンポジューム記録、日本カトリック司教協議会 諸宗教部門 編集、カトリック中央協議会発行、35㌻より。)

7.なお「付託」については以下のように説明されています。

 「付託とは以前に知覚されたXが、想起の姿で別の場所Yに顕現することである。」(島岩著『シャンカラ』127㌻)

人間とは思いこみの動物です。わたしたちの認識は、既に獲得している経験と知識、認識の枠組みによって成立します。スコラ哲学がいうように「認識されるものはすべて認識する側の認識の様式によって認識されるのです。」(注3)

「付託」もこの格言の解釈に含めることが出来るかもしれません。人間には「思い込み」があります。縄をみて蛇と思い込むのが「付託」の例ですが、人は先入観をもっているので、その判断に惑わされてしまいます。「人を見たら泥棒と思え」ということわざがありますが。人間とは信用できない存在だという思い込みがある。他方、「渡る世間に鬼はない」とみい、人間とは親切で正直だ、という人間観があります。経験則の上で、どちらのも真実が含まれており、どちらだけに断定出来ないように思います。人は純粋に、間違いのない認識と判断をすることが出来るでしょうか。人の心は欲と歪みで汚されているので、それを拭い去らなければ正しく公正な判断はできないでしょう。それは地上の人間にはほとんど不可能なことです。

8.真の自己との出会いはアートマンとの出会い、あるイアートマンの発見であるとして、あるいは、自分がアートマンであることを悟ることだとして、それではすべての人間が同じアートマンであるのでしょうか。無数のアートマンが存在するのでしょうか。いやアートマン=ブラフマンで、唯一であると言われる。そうなると、人間の唯一性の存在価値はどうなるのでしょうか。そのような概念自体が無明の結果であり、幻に過ぎないのでしょうか。アートマンと個人の唯一性の価値。このパラドックスをどう解けばいいのでしょうか。

9.「輪廻」についてですが、「輪廻」とは無明のことです。すなわち、無明から解脱できない状態のことだと思われます。なぜなら以下のように言われているからです。

「ブラフマン=アートマン以外の一切の現象的物質的世界は、我々の載身体・感覚器官はもちろんのこと、一般に精神活動の中枢をなしていると考えられている統覚機能(心)に至るまで、真実のアートマン、すなわちブラフマンに対して誤って付託されたものにすぎない。したがって人間をブラフマンとは全く異なる存在であるかのように見せている非アートマン的要素はすべて、無明の産物であり、あたかもマーヤー(幻影)のように実在しない。したがってブラフマンとアートマンとは全く同一である、とシャンクラは説いている。彼の立場は不二一元論(Advaita)と呼ばれている。一般の人間は、無明のために、真実を知らず、アートマンと、統覚機能などのような非アートマンとを明確に識別していないために、輪廻しているのである。輪廻とは、結局この無明のことであり、この無明を滅することが解脱である、とシャンカラは教えている。(『ウパーデーシャ・サーハスリー』―-真実の自己の探求、シャンカラ著、の訳者、前田専学による、前書きより。7㌻。)

 

(注1)     偶有性 contingens

アリストテレスの用語で、endekomenonの訳語。存在することもしないこともありうるものの在り方をいう。ラテン語ではcontingensという。論理的には「その存在が必然ではないが、それが存在するとしても、そのゆえに、いかなる不可能も生じてこないもの」と定義される。必然性に対する。必然的なものについては論証と理論的知識が成り立つが、偶有的なものについてはこれが成り立たない。

偶有性は、形相と質料から合成される存在事物(感覚的個物)の在り方である。質料は偶有性を本性とするからである。この偶有なる個物にかかわることによって、行為とすべての実践的知識が成り立つ。行為は、存在することもしないこともありうる存在事物のうちに、或()る目的を実現することであり、実践的知識はこの行為を導くものだからである。中世の形而上(けいじじょう)学は、創造者である神を必然存在とし、すべての被造物を偶有存在とする存在把握を根幹とする。偶有存在の現存の事実から、その存在の原因として必然存在である神の現存を推論する道は、トマス・アクィナスの神の現存証明の第三の道である。(加藤信朗]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 

 

――

偶有性

ラテン語ではaccidens.

【一般概念と定義】アリストテレスが列挙した10個のカテゴリー(範疇、ラテン語のpraedicamenta)のうち、第一実体(ギリシャ語のousia、「ものが何であるか」)以外の9個のカテゴリーを中世のスコラ学者は偶有性(ラテン語でaccidentia[複数]と呼んだ。この言葉はギリシャ語のシュンベベーコスsynbebekos を訳したものであるが、アリストテレス自身は「付帯性」ないし「偶然性」の意味で用いた。スコラ学者はこの言葉をaccidentiaと訳し、主要な「有」(ens)である実体(substantia)に対して、第二次的な有を意味する語として用いた。これは、「どれほど」「どのようにして」「どこにあるのか」などの存在する様相(modus)を説明する概念であり、第一次的有である実体に依存する有である。

実体は「それ自体において在るもの」(ens per se)であり、偶有性はそのような実体において、つまり「他者において在るもの」(ens in alio)と解される。「有」は「類」に属さないから、厳密な「偶有性」の定義は次のようになる。

「他者において在ることがそれの本質に適合するところのもの」となる。

これと関連して『偶性』という用語がある。これも同じaccidens の訳語であるが、これはある存在の本質に属さない属性(偶有的)を述べるときに用いられる。たとえば、人間について述べるときにその人が「肥っている」「痩せている」がどうかという特徴は人間の本質に属さない特色であるので、それは遇性である、と言われる。(新カトリック大事典、稲垣良典 より。)

 

注2 韻文篇

第一章 純粋精神

・アートマンは純粋精神であり、一切に偏在し、一切の存在物の心臓のうちに宿っており、一切の認識を超えている。(同書、第一章、一、17㌻より。)

・人間の善悪の行為の結果は業として身体に結び付き、貪欲と嫌悪による行為の原因となる。(同書、第一章、三、18㌻より。)

・善行と悪業により無知な人は再び同じように身体と結合して輪廻として繰り返す。(同書、第一章、四、18㌻。)

・輪廻の根源は無知にある。無知をすてるためには宇宙の根本原理であるブラフマンを知らなければならない。(同書、第一章、五、18㌻より。)

・知識のみが無知を滅することが出来る。行為は〔無知と〕矛盾しないから、〔無知を滅することが〕できない。無知を滅しなければ、貪欲と嫌悪を滅することは出来ないであろう。(同書、第一章、六、18㌻。)

・貪欲と嫌悪が滅していなければ、かならず行為が〔貪欲と嫌悪という〕欠点から生ずる。それゆえ至福のために〔ウパニシャッドにおいてブラフマンの〕知識のみが述べられている。(同書、第一章、七、18㌻より。)

・行為はブラフマンの知識と両立しない。行為はアートマンに関する誤った理解を伴っているからである。ブラフマンの知識とはアートマンは不変であるという知識である。

・ブラフマンの知識は行為の要因を破壊する。(同書、第一章、十四、18㌻より。)

・人々は、生来、身体に包まれたアートマンを身体などと区別のないものと理解しているが、この理解は無明に由来している。この理解がある限り、行為を行えという聖典の命令は有効である。(第一章、一六,20㌻より。)

・無明をいったん除去すれば、「わたしは有(ブラフマン)である」という認識があるのに「(私)は行為主体である」「〔私は〕経験主体である」という観念を持たないはずである。

第四章 「私」という観念

・身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの知識を持ち、かつ、その知識が、身体はアートマンであると考える一般の人の観念と同じように強固な人は、望まなくとも解脱する。(同書、第四章、五、27㌻より。)

第六章 切断

・認識対象を捨て、つねにアートマンを[あらゆる限定を]離れた認識主体であると理解すべきである。「私」と呼ばれるものもすでに捨てられた[身体]の一部であると理解すべきである。(同書、第六章、四、30㌻より。)

第七章 統覚機能にのぼったもの

・アートマンは変化することなく,不浄性もなく、物質的なものでもない。そしてすべての統覚機能の目撃者であるから、その認識は限定されたものではない。一切万物はアートマンの統覚機能の中で見えるようになる。(同書、第七章、三、四、32㌻より。)。だ

第八章 純粋精神の本質

・アートマンは純粋精神を本性としている。虚空のように、一切に遍満し、不壊であり、吉祥、中断することなく、分割されず、行為しない最高(ブラフマン)である。(同書、第八章、一、三、3334㌻より。)

第一〇章 見(=純粋精神)

・アートマンは虚空であり、常に輝き、生まれず、唯一者であり、不滅であり、無垢,不二である最高者[ブラフマン]、本性上不変、いかなる対象もなく、不老・不死、原因でもなく結果でもなく、常に満足しており、ゆえに解脱している。(同書、第一〇章、一、二、三、37㌻より))

・身体・感覚器官から起こる一連の苦痛は、アートマンのものではなく、アートマンでもない。不変であるから苦痛は実在しない。(同書、第一〇章、五、38㌻より。)

・アートマンには始めも属性もない。行為も結果もない。(同書、第一〇章、七、38㌻より。)

第一二章 光に照らされて

・身体をアートマンと同一視するものは苦しむ。身体を持たないもの(=アートマン)は熟睡状態にあるときと同じく、覚醒状態において本来苦しむことはない。(同書、第一二章、五、47㌻より。)

・「アートマンは行為の主体である」「経験の主体である」という認識は誤りである。(同書、第一二章,一七、50㌻より、)

・「自分自身は」とか、「自分自身の」という観念は、じつに、無明によって想定されて者である。アートマンが唯一である、という知識がある場合には、この観念は存在しない。(同書、第一四章、一九、61㌻。)

・アートマンを、「私」という観念の主体であり、かつ認識主体である、と知る者は、まさしく[真実に]アートマンを知っているものではない。それとは別用に知っている者が、[真実に]アートマンを知っている者である。(同書、第一四章、二四、62㌻より。)

・「私」、すなわち「自分自身」という観念も、「私の」、すなわち「自分自身の」という観念も、無意味となるとき、その人はアートマンを知っていることになる。(同書、一四章、二九、63㌻より。)

・自己の本性は、何の原因の持たないものであるが、その他のものは原因を有するものである。自分自身によっても〔あるいは他のものによっても〕取られることも、捨てられることもない。(同書、第一六章、四一、83㌻より。)

・〔アートマンは〕一切万有の本性であるから、捨てることも、取ることもできない。なぜなら〔アートマンは、一切万有とは〕別のものではないからである。それゆえ永遠の存在である。(同書、一六章、四二、93㌻より。)

・〔アートマンとブラフマンとは〕別のものであるとする見解は、無明である。無明からの途絶が解脱である。この止息は、知識によってのみ得られる。(同書、一七章、七、104㌻)

・一切のものは無明から生じる。それゆえ、この世界は非存在である。世界は無明を持っている人に見られるが、熟睡状態において知覚されないから。(同書、一七章、二十、108㌻より。)

・実に心が、鏡のように、清らかとなるとき、明智が輝き出るから、心は清められるべきで

 

・身体などの非アートマンに対する、「私のもの」「私」という観念は、無明である。〔無明は〕アートマンの知識によって捨てられるべき出る。(同書,17勝、45114㌻より。)

・無明のために、〔アートマンは〕身体の中にあり、身体と同じ大きさであり、水に〔映る〕月などのように、身体の属性をもつもののように見られる。(同書、一七章、五五,117㌻より。)

・「私は不生であり、不滅であり、不死であり、不畏であり、一切智者であり、一切見者であり、清浄である」と悟った者は、〔再び〕生まれることはない。(同書、一七章、五八、118㌻。)

・天啓聖典を無視する人々は、アートマンと[その映像]について、ありのまま十分に知らないために、迷わされており、「私」という観念の主体をアートマンであると考えている。(同書、一八章、四八、138㌻。)

・人々は鏡の中の顔が「顔」と同一であると考える。それは顔の映像が顔の形相をもっているからである。同じように、人はアートマンに自分の影像を映して、統覚機能による認識をアートマンとし、逆に自己の統覚機能に純粋精神性を付託して、統覚機能が認識の主体であるとする。しかし、認識はアートマンの本性であり、永遠の光であるから、統覚機能によっても、アートマンによっても、他のものによっても、決して造られることはない。しかるに、一般の人々は身体に関して「私」という観念を持ち、身体が認識の主体であると考える。(一八章、64-67142㌻より。)

・心(=統覚機能)が精神的なものである、ということは、聖典によっても理論によっても支持されていない。もしそうなら、身体や目なども同じく精神的なものであるという欠陥が付随するであろう。(一八章、八八、148頁。)

・天啓聖句を聞いたときに、「私は有である」と理解されるか、それとも「私は別のものである」と理解されるであろうか。もし「私は有そのものである」と理解されるならば、「私」という言葉の意味は「有」であると承認されるべきである。(一八章、一〇五、152㌻。)

・「(私は)苦しい」という観念は身体などを「私」であると誤って考えることから確実に生じる。「私は内我である」と考える、識別智によって、識別智を持たない観念が否認される。(一八章、一六〇、一六一,166㌻より。)

・私(=アートマン)は触覚も身体もないから、決して焼かれることはない。それゆえ、「私は苦しみを受けている、という観念は、自分の息子が〕が死んだときに、〔私は〕死んだという〔観念が起こる〕ように、〔アートマンに関する〕誤った理解から生じる。(一八章、一六三,167㌻より。)

 

散文篇 第一章 弟子を悟らせる方法

アートマンは虚空と呼ばれ、・・・身体を持たず、粗大でない、などの特徴を持ち、悪を離れていることを特色とし、一切の輪廻の性質に触れることがない。・・・他に見られることなくして、自ら見るものである。他に聞かれることなくして、自ら聞くものである。他に思考されることなくして、自ら思考するものである。他に認識されることなく、自ら認識するものである。(第一章 一八 206-208㌻)

もし弟子が「先生、私は身体が焼かれたり、切られたりするときには、はっきりと苦痛を知覚します。また、飢餓などによって起こる苦しみをはっきりと知覚します。しかし最高のアートマンは、すべての天啓聖典および古伝書の中で『悪なく、老いることなく、不死であり、憂いなく、飢餓から自由である。』と言って一切の輪廻の属性を持たないと述べられています。わたしは最高のアートマンと本質を異にし、多数の輪廻の属性を備えているのにかかわらず、どうして最高のアートマン自身と理解することが出来るでしょうか。」というなら、師は次のように答えるべきである。「君が…苦痛をはっきりと知覚します」と言ったのは正しくない。何故なら、確かに焼かれたり、切られたりしている木と同様に、身体は知覚主体によって知覚される対象である。その対象である身体において焼かれたり、切られたりする苦痛が知覚されるのであるから、その苦痛は焼かれ、切られたりしている場所と同じ場所にある。人が苦痛を知覚するのは苦痛の原因となっている場所であり、苦痛の主体に苦痛があるとは指摘しない。「どこが痛いか」と訊ねられたら、『頭が痛い』『胸が痛い』などと答え、知覚主体を苦痛の場所と指摘することはない。もし苦痛の原因が知覚主体にあるならば人は苦痛の場所を知覚主体として指摘するだろう。しかし苦痛そのものは目の色・形がそうであるように、知覚されない。

苦痛及び苦痛の原因に対する嫌悪もまた苦痛の印象と同じよりどころをもっている。

貪欲と嫌悪は色・形の印象と共通のよりどころ(=統覚機能)を持っている。また知覚される恐怖も統覚機能をよりどころとしている。それゆえ認識主体は常に清浄であり恐怖を持たない。

では一体,色・形などの印象は何をよりどころにしているのか。

(師は答える。) 欲望のある場所である。

欲望は何処にあるのか。欲望・思惟・疑惑〔信仰・不信仰・堅固・不堅固・恥・思慮・恐怖、これら一切は意に他ならない〕は統覚機能にある。色・形は心にある。欲望は心に宿る。欲望・憎悪は対象である身体の属性であり、アートマンの属性ではない。

アートマンは一切であり部分を持たない。内も外も含み、不生である。叡智の名称である。一切万有の中に隠されている。身体の中にあって身体を持たない。生まれることも死ぬこともない。

一切万有の中に平等に住む。

一切の種類の形態を離れ、虚空のように等質であるのに、行為の目的・行為の手段・行為の主体が実際に経験され、あるいは天啓聖典で述べられており、見解の相違を引き起こすのは何故か。

それは無明の結果である。変化物はただ言葉による把捉であり名称にすぎない。

無明を持っているものは身体などの差別を得てアートマンが望ましいものと望ましくないものと結合していると考える。この差別こそ輪廻の性質である。

最高の真理の認識を得たい者は、自分の階級・生活期などがアートマンに属するという誤った見解を捨てて、息子・財富・三界などに対する願望を捨て去るべきである。

それゆえ一切の祭式および聖紐などの祭式の手段は無明の結果であるから、最高の真理の直観に安住している者によって捨て去られるべきである。

散文遍第二章 理解

弟子:どうすれば輪廻から解脱できますか。わたしは身体と感覚器官とその対象を意識します。覚醒状態で苦しみ、夢眠状態で苦しみます。熟睡状態に入れば中断するが、その後再び苦しみを感じます。これがわたしの本性でしょうか。別のものが本性でしょうか。別に本性があるなら何が原因で苦しむのでしょうか。自分の本性なら本性から逃れられないので解脱の望みはありません。何かの原因があるならその原因を取り除けるならば解脱できると思うがどうすればいいでしょうか。

:それはあなたの本性ではない。あなたの苦しみはある原因によるのです。

弟子:その原因とは何ですか。その原因を取り除くにはどうしたらいいですか。病人はその原因が取り除かれるならわたしは健康になるでしょう。

師の答え:その原因は無明であり、それを取り除くのは明智です。無明が亡くなれば輪廻から解放され苦しみを感じなくなります。

弟子:無明とは何ですか。

:君は最高我であり輪廻しないのです。しかし君は正反対に理解しています。また行為主体でないのに「わたしは経験の主体である」「私は永遠には存在しない」と考えています。これが無明です。

弟子:そういわれても、私は最高我ではありません。わたしの本性は行為したり経験したりする輪廻です。このことは直接知覚などの知識根拠によって認識されるからです。また無明を原因としてはいません。無明は自分のアートマンを対象とすることができないからです。無明とはAの性質をBに付託することです。例えばよく知られている銀をよく知られている真珠貝に付託し、あるいはよく知られている人間を木の幹に付託し、あるいはよく知られている木の幹を人間に付託することです。しかしよく知られていないものをよく知っているものに、またよく知られているものをよく知られていないものに、付託することはありません。アートマンは良く知られていないので、アートマンでないものをアートマンに付託することはありません。またアートマンをアートマンでないものに付託することもないと思います。

:それは正しくない。例外があります。必ずしも良く知られているものがよく知られているものにだけ付託されるとは限らない。「わたしは色が白い」「わたしは色が黒い」という場合は、身体の性質が「わたし」という観念の対象であるアートマンに付託されているし、「私はこれです」という場合は、「私」という観念の対象であるアートマンが身体に付託されているのです。

弟子:その場合、アートマンは「私」という観念の対象としてよく知られているものです。身体もまた「これ」としてよく知られているものです。よく知られている身体とアートマンとの相互委託にすぎません。何故「両者ともよく知られているものだけが相互に委託されるとは限らない」と先生は仰るのですか。

:聞きなさい。確かに身体とアートマンとはよく知られている。しかし、樹の幹と人間の場合互いによく知られている場合とは異なって、すべての人にはっきりと区別される観念の対象としてよく知られているわけではありません。

弟子:ではどのように知られているのでしょうか。

:常に全く区別のない観念の対象として知られているのです。誰も「これは身体、これはアートマン」というように、はっきりと区別された観念の対象として、身体とアートマンとを把握していないから、人々は、「アートマンとはこのようなものである」「アートマンとはこのようなものではない」と考えて、アートマンとアートマンでない者に関して、非常な混迷に陥っている。

弟子の反論:無明によって、A に付託されたBAには実在しません。縄に付託された蛇は縄には実在しないように。虚空に付託された地上の塵埃は虚空には実在しないように。それと同様に、身体とアートマンもまた、お互いに区別のない観念として相互に付託されるなら、身体はアートマンに実在しないし、アートマンは身体に実在しないということになります。身体もアートマンも無明によって相互に付託されるなら、身体もアートマンも実在しないという結論に至ります。(しかし、それは仏教徒の主張だから承認できない。) 身体だけが無明によってアートマンに付託されるというのであれば、アートマンは実在するが身体はアートマンに実在しないという結果になります。しかしそれは直接知覚などの知識根拠に矛盾するので承認できません。従って身体とアートマンとは相互に付託されるということはありません。

 

:では身体とアートマンとはいかなる関係にあるのか。

弟子:身体とアートマンは、家屋の竹と柱のように、つねに結合しています。

師:それは正しくない。もしそうなら、アートマンは無常であって、他のために存在するということになる。アートマンは身体とは結合しない。身体とは別なものである。

弟子の反論:アートマンは結合しないとしても、身体にすぎないとされ、身体に付託されてしまうので、アートマンは実在せず、無常であるということになります。その場合、身体はアートマンを持たないとする教務論者(仏教徒)の主張に帰着します。

:それは正しくない。アートマンは虚空のように本性上何ものとも結合しない。だからと言って身体など一切のものがアートマンをもたいないとは言えない。虚空が一切のものと結合していなくとも、一切のものが虚空を持たないということにはならないと同様です。また身体にアートマンが実在するということは直接感覚で認識されることではない。

弟子:知覚されないアートマンがどのようにして身体に付託され、アートマンに身体が付託されるのでしょうか。

:それは問題ない。

弟子:身体とアートマンとの相互付託は身体の集まりによってなされるのでしょうか。それともアートマンによってですか。

師:そのときにはどういうことになりますか。

弟子:もし私が身体などの集まりにすぎないのならわたしは非精神的なものであるということになり、他のために存在していることになります。したがってわたしが身体とアートマンを相互に付託することはありません。もしわたしが最高我であり、身体の集まりとは異なるものであれば、わたしは精神的なものですから、自己を目的とします。従って精神的な私がアートマンに対して付託を行います。

:もし君が、誤った付託が禍の種子であると知っているならば、それをしてはなりません。

弟子:私は他のものによって付託させられるのです。

師:そのとき君は非精神的なものですから、自己を目的とするのではありません。非独立的な君に誤った付託をさせるのは自己を目的とする精神的なものです。君は身体の集まりにすぎないのです。

弟子:もし私が非精神的なものであるならば、苦楽の感覚や先生の仰ったことをわたしはどのように認識するのでしょうか。

 

:君は、苦楽の感覚と私の言った事とは別のものですか、同一のものですか。

弟子:同一ではありません。

:何故か。

弟子:わたしは両者を壺のように認識の対象とします。もしわたしが両者と同一なら両者を認識できません。わたしが両者と同一なら苦楽の感覚の変化が自己を目的とするものとなり、先生の仰ったこともそのようになるでしょう。しかし両者が自己を目的とするものであることは合理的ではありません。

:その場合君は精神的なものであるから、自己を目的とするものであり、他の物によって誤った付託をさせられることはない。精神的なものが他のものに依存し、あるいは他のものによって付託させられることはない。

弟子:召使と主人は精神的なものであるのに、両者は互いのために存在するということが経験されるのではないですか。

師:そうではない。

弟子:観念は外界の対象の形相を持つものとして確立されます。わたしは外界の形相を持った諸観念を知覚する主体です。この主体は変化します。それゆえ私が不変であるということには疑問があります。

師:君の疑問は理に会わない。君はこれらの観念を必ず残りなく知覚するのであるから君は変化しない。それゆえ君は不変である。

弟子:知覚とは変化にほかなりません。

師:知覚と知覚主体の間に区別があれば君のいうことが正しい。しかし知覚と知覚主体は別のものではない。統覚機能の観念はアートマンの知覚が知覚主体であるかのように現れるとわたしは言った。

弟子:私が不変であるならば、わたしは私の対象である統覚機能の働きを余すことなく知覚する主体である、と何故仰ったのですか。

師:私は真理だけを話した。まさしく君は統覚機能を余すことなく知覚する主体であるという真理に基づいて君が不変であると言ったのです。

弟子:わたしは不変・恒常的な知覚を本性としており、音声など外界の形相を持った統覚機能の観念が生じ、かつそれは私の本性である知覚が知覚主体であるかのように現れるという結果で終わります。その場合、一体私にはどんな誤りがあるのでしょうか。

師:君のいうことは正しい。何の誤りもない。しかし私は無明だけが誤りであると言ったのだ。夢眠状態と覚醒状態は君の本性ではない。衣服のように離れ去る。偶然的であり、可滅性と非存在性を持っている。

弟子:もしそうなら、熟睡状態においてわたしは何も知覚しませんから、私の本性は精神性の無い、偶然的なものになってしまうのではありませんか。

 

師:熟睡状態においても、君は見ている。君は見られる対象の存在を否定しているだけであって、君が見ていることを否定しているのではない。君が見ること、それが精神性です。

もし君が、「知識主体に関する理解が生じない場合には、知識主体が理解されることはないでしょう」というならばそれは正しくない。理解する主体の対象が理解されるべき対象であるなら、無限遡及に陥る。しかしアートマンにある理解は、普遍で恒常的な光であり、太陽の光のように、他の物に依存しないで確立されている。そして、アートマンにある理解すなわち精神性の光は無常ではない。

質問者:理解が知識根拠の結果であり、かつ、不変・恒常であって、アートマンの光を本性としているということは矛盾しています。

師:矛盾していない。

質問者:どのように、矛盾していないのでしょうか。

師:理解は不変・恒常であっても、直接理解などの知識根拠に基づく観念形成過程の終わりに現れる。観念形成過程はそれを目的としているからである。直接知覚による観念が無常である場合は、理解は知識根拠の結果であると言われる。

弟子:もしそうであれば、理解は不変・恒常であり、アートマンの光を本性として確立しております。アートマンでないものは本性上、苦・楽・混迷を起こす観念によって理解されるので、他のためにのみ存在しています。従ってアートマンでないものは絶対真理の立場から見れば実在していません。覚醒状態と夢眠状態において経験される二元性もまた、その理解を離れては存在しないというのが合理的です。ちょうど夢眠状態において、青・黄などという種々の形相を有する諸観念はその理解から離れ去るので、本性上実在しないはずです。そして、この理解を理解する別の主体は存在しません。それゆえ、〔理解〕は、自己の本性上、自ら取ったり捨てたりすることは出来ません。他の何ものも存在しないからです。

師:「まさしくその通りである。覚醒状態と夢眠状態とを特徴とする輪廻の原因、それが無明である。その無明を取り除くものが明智である。このようにして君は無畏に達したのです。君は今後、覚醒状態と夢眠状態において、苦しみを知覚することはない。君は輪廻の苦しみから解脱したのです。」

 

注3.ラテン語の格言:Quidquid recipitur ad modum recipientis recipitur which means, whatever is received is received in the manner of the

2020年9月30日 (水)

大天使の祝日

聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使 祝日ミサ説教

2020年929()、本郷教会

 

9月29日は聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエルの三位の大天使の祝日であります。

ミカエルの洗礼名の方、塚本さん、おめでとうございます。

ミカエルという名前の方は沢山いらっしゃると思います。

ミケランジェロ(1475-1564)という有名な画家がいましたが、ミカエルですね。

ラファエロ(1483-1520)という同じ頃の素晴らしい画家もラファエルの名前をとっていると思います。

教会の祈りの中に「毎日の読書」という読書課がありまして、聖書以外の貴重な教えを毎日司祭、修道者は読むことになっております。

今日の箇所をここにコピーしてきました。

聖グレゴリオ一世教皇という方の遺された「福音講話」が29日の第二読書課です。

第一読書課は聖書です。

毎年この箇所を読むわけですが、たいへん印象的な内容なのでご紹介したい。

天使アンゲルスというのは、「告げる使い」という意味です。

ラテン語ではアンゲルス、英語ではエンジェルでしょうか。

天使には大天使と大のつかない天使、大天使はアルカンゲルスと呼ばれます。

天使は人間じゃないので何人とは言わないで、昔の言い方ですと何位(なんい)、位(くらい)といっていましたが、最近は聞かないですね。

ちなみにこの天使の存在のことを最近はあまり意識しなくなっている。

霊的な世界というものについての感覚が非常に鈍くなっているように思う。

以前は行き過ぎとでも言われるような、神さまをそっちのけにして、天使とか聖人の方に関心がいっていたのかもしれないが、その反動でこの霊的な世界というものに対する敏感な感性というものが大変弱くなっているように思う。

目に見えない世界に対するわたくしたちの態度、感覚が非常に弱くなっている。

同じ天使でも堕落した天使が悪霊、悪魔であります。

 

今の教皇様、教皇フランシスコの出した使徒的勧告『喜びに喜べ』という本を一緒に勉強してきて、一応終わったわけですが、その時に強く教皇様がおっしゃっていたことを思い出します。

現代の人はあまり悪魔の存在に注意を払っていない、それは大変危険なことです。

悪魔というのは譬えに過ぎないとか、単なるおとぎ話とか、悪を人格化したものであるとか、そういうように考えてあまり大切なことと考えていないのは重大な問題である。

実際に悪魔は存在し、わたくしたちをいつも悪に誘っているのです。

その悪魔に対抗するためには、絶えざる祈りなどが必要ですというようなことを、この本の終わりの方で言っていて、同じことをパウロ6世教皇、列聖された聖パウロ6世教皇も教会公文書の中で言っていますよということを註で言っています。

 

霊的な世界に対するわたくしたちの感覚が鈍化していることは否めない事実です。

昔のことですが、わたくしは函館の男子のトラピストに行きまして、確か一か月程そこで過ごしました。

さっそくゆるしの秘跡を受けましたが、その時に受けた訓戒の言葉を一生忘れることができません。

人間は罪を犯しても何回も赦しを受けることができる。

しかし、完全に霊的な存在は一度でも、そして「思い」だけでも神に反すると、もう引き返すことができない。

天使の中で自分も神のようになろうと思っただけで、悪魔になってしまったということが言われている。

人間は何度でも痛悔し、回心して赦しを受けることが出来るが、純粋に霊的な存在は純粋ですので、思っただけでその結果が現れて、それは覆すことができない。

そういう意味であったと思います。

わたくしたちは身体、肉体を持っているので、自分たちの思うことや為すことは、悪いことについても不完全、不徹底なのですね。

しかし霊というのは、霊の世界に鈍いからよく分かりませんが、非常に純粋でありますから、それゆえ思っただけで神に反する存在になってしまうという意味であるようです。

(わたくしたちは)体を持っているのでその点良かったですね。

地上にいる間は大丈夫ですね。

大丈夫だからって、いい加減なことをして良いわけではないですけれども。

ちょっとそういうことを思ったりいたします。

天使にはそれぞれ役割がある。

天使の名前はその使命、役割に因んでつけられている。

ミカエルは「神のようなものがだれであるか」という意味であると先程読んだ朗読のヨハネの黙示に出てきますが、ミカエルは悪魔とたたかって悪魔のはたらきを封じ込めるという役割を与えられている。

昔のお祈りで、昔はよく「大天使ミカエルに向う祈」というのをしていたようです。

さっき慌てて探して見つけた祈りの本、懐かしいですね。

今読んでみます。

「大天使聖ミカエルに向う祈

大天使聖ミカエル、戦においてわれらを守り、悪魔の凶悪なる謀に勝たしめ給え。

天主のかれに命を下し給わんことを伏して願い奉る。

ああ天軍の総帥、霊魂をそこなわんとてこの世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、

天主の御力によりて地獄に閉じ込め給え。アーメン。」

格調高い祈りですね。

それからガブリエル。

主のお告げの時に現れた天使です。

おとめマリアに主のお告げをした大天使です。

ガブリエルという名前は「神の力」という意味だそうで、一人の貧しい少女マリアを通して神の力が現れましたという救いの歴史があります。

 

ラファエルも良く使われる名前ですが、ラファエルという言葉の意味は「神の医薬」という

意味です。

聖書の第二正典トビト記に出てきます。

今日は大天使の日ですが、確か第二バチカン公会議(1962-1965)の前は別々の日に祝われていましたが、整理されて三位の天使が同じ日に祝うことになったと記憶しています。

 

ちょっと話は飛びますが、司祭は生身の人間、弱い人間でありながら主イエス・キリストの使命を地上で実行するために選ばれ、そして地上の生活においてさまざまな誘惑を受けながら生涯を神のみ旨をおこなう者として神と使徒に仕えました。

先日(924日)帰天されたフランシスコ・ザベリオ岸忠雄神父様。

わたくしが個人的に親しくさせていただいた方ですけれども、長い生涯を終えて帰天されました。

主のもとで安息に入られますよう、お祈りいたしましょう。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 1:47-51
(そのとき、)イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

2020年9月27日 (日)

相手を自分より優れた者と思いなさい

年間第26主日説教

2020927

今日の福音は2人の息子についての、たとえ話です。

先週の日曜日の話もたとえ話で、ぶどう園で働く労働者のことでした。今日も、ぶどう園で働きなさいという話です。

この話は、わたしたちに、何を告げてくださっているのでしょうか。わたくしの心に強く残る、イエズス様のお言葉は、次の箇所です。

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。(マタイ2131

徴税人、あるいは、娼婦と呼ばれる人たちは、代表的な罪人とされていました。罪人というのは、神様のおきてを守らない、あるいは、守ることができない人々です。蔑(さげす)まれ、嫌われ、見たくもないとされるような、汚れた人々とされていました。

この、徴税人や娼婦に対して、立派に神様のおきてを守り、そして、教えている人々、聖書では、しばしば、ファリサイ人、あるいは、律法の専門家と呼ばれている人々を指しているようですが、今日は、祭司長、民の長老という人たちに向かって、イエスは言われております。

いずれにせよ、この人たちは、洗礼者ヨハネの言葉を受け入れなかった。受け入れる必要を認めなかった。自分たちは、きちんと、神様の言葉を守り、人々に教え、そして、立派に民の指導をしていると、指導を受け入れない、哀れな困った人たちが、徴税人や娼婦と呼ばれる人たちでした。

祭司長、民の長老、あるいは、たぶん、律法学士、ファリサイ派の人々は、自分たちは、立派に神様のおきてを守っているし、神様のみ心に適う者であるという自覚を持っていた。自負していたと思います。

それに対して、徴税人、娼婦の方は、日頃から、自分たちのしていることは良くないことだと思い、さらに、自分たちが、人々からどのように思われているかということも分かっていました。

ここに、対照的な2つのグループがある。「自分は神様のみ心を行っている者である」という人たちと、「神様の定めから大きく外れている者である」というように自覚する人たち。わたしたちは、どちらでしょうか。あるいは、両方でしょうか。

さて、このイエスの言葉、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」というお言葉は、どのような意味でしょうか。

『徴税人、娼婦たちは、自分たちが罪人であり、そして、罪の赦しを受けなければならない者であるという自覚を持っていた』ということに注目したいと思います。

また、この2人の息子の話ですが、「ぶどう園に行って働きなさい」という呼びかけは、どのような意味でしょうか。

わたくしは、次のように考えています。『ぶどう園に行って働く』ということは、イエス・キリストによって示された、神の愛、神のいつくしみ、罪深い人間を受け入れ、赦してくださる、神の愛を信じ、その神の愛に応えて生きる決意を新たにすることだろうと思います。

わたしたちは、洗礼を受けたとき、「信じます。悪霊とそのわざを捨てます」というような約束をしました。まして、修道誓願を立て、あるいは、司祭の叙階を受けた者は、もっと、何重にも、そのような決意を新たにしました。

では、その通りにしているか、100パーセント大丈夫かと言いますと、他のかたは存じませんが、わたくしは、本当に恥ずかしい。内面、「忸怩(じくじ)たる思いがする」のであります。きちんと、約束したことを守り切ってはいない。

でも、そうしなければならないと思い、いつも祈ります。「あなたは、わたしのことをすべてご存知です。わたしが、どのような状態にあるか、わたしの心がどのようなものであるかをご存知です。どうか、それを承知の上でも、このわたしを赦し、務めを果たすことができるよう、励まし、導いてください」。そのように祈ります。

この祭司長、あるいは、民の長老、律法学士、ファイサイ派の人の心の中に、そのような思いがあったかどうかは、知ることができませんが、イエスが、別の箇所で、彼らに向かって、

「あなたがたは、白く塗った墓のようなものである。外側は綺麗だけれども、中は醜い。人間の死骸で一杯だ」

というような、大変な強い非難の声をぶつけているところからしますと、自分たちは、外側だけではなく、内側も問題なく綺麗だと思っていたのかもしれない。

しかし、いかに立派な人間であっても、わたしたちは、100パーセント、すべて神様に満足いただけるような人間にはなり切れないと思います。

さて、そのように思いながら、今日の朗読で、大変心に響く、あるいは、気になる言葉を、お伝えしたいと思います。

それは、第二朗読にある言葉です。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

わたしたちは、毎日、いろいろな人と一緒に生活し、いろいろな人のおかげで生きています。考えてみれば、ひとりで何もすることはできない。本当に、いろいろな人に、教えられ、助けられ、そして、許されて、自分の生活をし、自分の務めを果たしている。

そうなのですが、相手を自分より優れた者と考えなさいと言われても、優れている点はあるけれども、この点については、この人は自分よりできると思っても、この言葉が、『その人を自分よりも優れた者と、心の底からそのように考えて、尊敬するということ』を意味しているとすれば、できていない。これは、どのような意味なのだろうか。どうして、今日の第二朗読に、今日の箇所が取り上げられているのだろうか。こじつけかもしれませんが、立派に神様のおきてを守っていると思っている人にとって、罪人である、徴税人、取税人は、とんでもない人たちです。

わたしたちは、そこまでは思わないとしても、自分はこうしているのに、相手はこうではないか、という思いを持つことがないだろうか。そのことについても、わたくしの個人の心の問題ですが、極端なことを言いますと、毎日、これはこうではないかと思うが、こうしてくれない、という思いが湧いてきます。

まして、こちらで言われている通り、「利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、ひとりひとりの人を、自分を助けてくれる、大切な人と考えなさい」というパウロの言葉を、もっと、しっかりと心に留めて、実行していきたいと思います。

「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」という十分意味のある大切な言葉です。毎日、この言葉をどれだけ実行できたかを反省するだけで、素晴らしい進歩ができるのではないでしょうか。わたくしも、人に言うからには、もっと自分で、実行するようにしたいと思います。

 

 

 

 

2020年9月22日 (火)

如何にして真の自己を知るのか

悪についての小考察その5 如何にして真の自己を知るのか

 

人は如何にして真の自己を知ることが出来るのでしょうか。真の自己とは何でしょうか。

難しい、しかし非常に重要な難しい問題です。

西田幾多郎の『善の研究』は、「善とは真の自己を知ることである」としています。「悪」を考察するには「善」を考察しなければなりません。その「善」の探求は自己の探求と結びついています。人の生涯は自己の探求であり、人類の歴史も自己の探求と切り離せないと思われます。東西の哲学・宗教の歴史も「自己の探求」の歴史ではないでしょうか。

ここの一冊の哲学の入門書があります。

(『ソフィーの世界』と言って、その帯では「世界で一番やさしい哲学の本」と銘打ってあり、14歳の少女ソフィーに「あなたは誰でしょうか」と問いかける、という内容となっています。1995年、ヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子訳、日本放送出版会発行著者はノルウエー人の作家で、本書は世界中でベスタ―セラーになりました。)

著者はファンタジーを折ませながら、デモクリトスからはじめて、主要な哲学者の口を通して「あなたは誰か。」という問題の解説を展開しているのです。結論はどうかと言えば、わたくしにはあまり明確ではないと思われますが、分かりやすい言葉でこの命題を説明している点が魅力です。

「自己を知る」と言うときの「自己」とは何でしょうか。人には種々の顔があります。どの顔もその人のすべてではないし、その人の真の姿であるとはいえないでしょう。そもそも「真の自己とは存在するのか」が問題です。自己の探求は東洋においても重要な課題です。それでは、「自己の探求」について、西洋と東洋の違いはどこにあるのか。ある見解によれば、東洋の哲学・宗教では、自分の内側から自己とは何か、を考えたが、西洋では人間の外側から「人間とは何か、世界とは何か」を追求した、と言われています。(『史上最強の哲学入門、東洋の哲人たち』飲茶(yamucha)著、マガジン・マガジン発行、26㌻以下、より。)

 さて、哲学の課題のなかに「認識」の問題があります。人はこの世界と自分の外にある対象を、自分をどれだけ正確に知ることが出来るか(認識できるか)という問題です。

18世紀のこと、英国にヒュームと言う哲学者が居ました。(デイビット・ヒューム、1711-1776)

(以下、主として『史上最強の哲学入門』、飲茶、河出文庫,デカルトとヒュームの項を参考にしている。) 彼の哲学は「経験論」と呼ばれます。デカルトと言う哲学者(ルネ・デカルト、1569-1650)はすべてを疑ってついに辿り着いた結論が「どんなに疑っても疑っている自分が存在することは疑いない。」と言う命題でした。そこから始まって、人間には理性によって認識する能力は確実である、と結論したそうです。しかしヒュームは違います。人間の認識は物事を知覚することによるが、人間が知覚によって得る経験は現実と一致しているという保証はない。「わたし」と言う存在はさまざまな知覚の集まりの体験にすぎない。デカルトまでの哲学者が当然の前提と考えた神の存在についてまでもデカルトは疑いの目を向けます。人間は不完全な存在であるから完全は存在である神を知ることはできない。神は人間の有限な経験の組み合わせによって造られた創造の産物にすぎない、と考えました。

そのような状況で登場した偉大な哲学者がカント (エマヌエル・カント1724-1804)です。彼はデカルトの合理主義とヒュームの経験主義を統合し、合理主と経験主義のそれぞれの長所を取り入れ、新たな哲学を樹立したとされています。

確かに人間の経験は相対的であり、人によってかなりの相違がある。しかし、人間として、時間と空間の中で生きるという同じ条件のもとにある人間は、同じ結論を得ることが出来るような認識能力を人は生得的(アプリオーリ)に与えられている、とカントは考えました。人類共通の経験の受け取り方の形式があり、その範囲内でなら、人は普遍的な真理に達することが出来ると、カントは考えたのです。しかし同時にカントは、人間は「物自体」は認識できない、と言います。彼は、人間にとっての真理とは人間にとっての「現象」であり、そのもの自体ではない、と考えます。人間は時間と空間の中で普遍的な認識をすることが出来る。しかし、時間と空間を超えた世界においては人間の認識の力は及ばないと考えます。例えば「神は存在するかしないか」という問題は人間の通常の認識の枠を超えた問題、いわゆるアンチノミー(二律背反)であります。(『カント入門』石川文雄、ちくま新書、第一章 純粋理性のアイデンティティー、参照。

 難解なカントの思想を正しく理解したかどうか自信がありませんが、カントの思想は「真の自己を知る」というわれわれの目的にどのように貢献してくれるのか、正直に言って理解できていないのです。

我々の課題は、繰り返しますが、「他の誰でもないこのわたしは誰であり、何のために生まれ、何のために生きているのか。」ということであります。カントの世界はこの発想とは少し違うように感じます。

 人は人生の体験上、他者を理解することがいかに困難であるかを知っています。他者を理解できない、他方、自分も理解してもらえない。この事実を受け止めるか。ヒュームの言う経験論の中に、この人類の体験が入っているのではないだろうか。理解とは共感であります。それはほとんど不可能だという気がします。しかし、ある程度可能です。分かって頂けた喜びを人は経験します。

理解されるより理解することを求める者であることが出来るように日々祈るのが人の道でありましょう。(フランシスコの平和を求める祈りの精神) カント哲学の範疇での認識で人は救われるでしょうか。人間とは何か、人は如何に認識できるか、という高度で抽象的な議論に人はどれほど関心を本でしょうか。他の誰でもない自分として理解されることを人は求めているのです。

 

このような問いかけ自体がカントの哲学の枠にははまらないのかもしれません。

しかし、膨大で深遠はカントの哲学をさらに読み込んでいけばこの疑問への回答に出会うのかもしれません。今の自分には困難な道ですが。)

 

さて、此の点、東洋の哲学・思想ではどうでしょうか。既に「山川草木悉皆成仏」ということを申し上げましたがが。インドのヒンドゥー教では「真実の自己の探求」は「わが内なる本来の自己アートマンが宇宙の根本原理であるブラフマンと同一である、という真理を悟ることが輪廻から脱出して真の自己を知ることである」と説かれています。以後、稿をあらためて、ヒンドゥー教―仏教の考え方を学んでみたいと思います。

  

西田幾多郎は最初の著作、『善の研究』において「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。西田幾多郎の生涯はそのために真摯な努力と思索の生涯でした。

「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

果たして自分で自分を知ることができるのでしょうか。

自己とは何か。自己とは誰か。自分は何処から来て何処へ行くのか。

このような問いは誰しも抱く重要な問いかけであり、人は誰しも、人生のどこかの機会に抱く問題ではないでしょうか。このような問いは極めて宗教的な問題であります。西田幾多郎自身極めて宗教へ傾倒した人でしたが、この問題を宗教の信奉者つぃてではなく、一哲学者として解き明かそうと努めました。彼の思索は、『善の研究』依頼終始、この問題への取り組みであったと言えましょう。

人は直接自分自身を見ることが出来ません。これは自明の理です。目は目以外の物を見ますが目自身を見ることが出来ません。目という存在は見るためにあるのであり、見られることを予想していないのです。それは、火が、他の物を燃やし破壊するためにあるのであり、火が火自身を燃やすことはない、という事と同じです。

自分自身を見ることのできない人間は、他の人に自分自身を見てもらいます。

中国の歴史書、「史記」の中に次のような言葉が残っています。

『士はおのれを知る者のために死し、女はおのれを喜ぶ者のために容(かたち)づくる(化粧をする)。』

人の強い願望の中に、「自分を知ってもらいたい」という欲求があります。人は自分を知ってくれる人のためなら、自分のすべてを知っても自分を自分として評価してくれる人に出会ったなら、命すらいらないと思うものです。

自分で自分を直接知ることが出来なければ、自分を知る者に出会うことによってそれが可能になります。

しかし人生の体験によれば、それはなかなか難しい、珍しい事例ではないでしょうか。しかし、西田幾多郎の考察によれば、「自分の中に自分を映す鏡のような場所がある」と言っているようです。

その「自己の中に自分を映す鏡」のことを西田幾多郎は「絶対無の場所」と呼んでいます。それでは「絶対無の場所」とは何であるのか。

本稿はこの問題を考察するために書かれています。

人は自分をどう位置付けるでしょうか。生物としての自分は、他の生物と同じように、段階別に分類されます。その位階は

種・族・科・目・綱・門・界(しゅぞくかもくこうもんかい

です。

 

さて、わたし岡田武夫は、

動物界、脊椎動物門、哺乳綱、サル目、ヒト科、ヒト属、ヒト種

に属する存在であるという事になります。

ヒト種の下には各個別の階層が存在します。例えば

ヒト→日本人→男性→東京都民→文京区民→本駒込5丁目4番地3号の住民。

ここまでくるとこれ以下には細分できません。

例えば、

岡田武夫は日本人です。

岡田武夫は男性です、都民です、文京区の区民です、本駒込5-4-3の住民です。

目下のところ本駒込5-4-3の住民は岡田武夫一人です。すると文京区本駒込5-4-3の岡田武夫で特定されます。これ以下に細分化されない個人となります。

考えてみれば、地球上に生きている何十億の人類は、このような方法で特定の個人に収束されます。

人に限りません。いまわたくしはマグカップでコーヒーを飲んでいます。同じ製品は他にも存在するでしょうか、これは唯一です。もう30年くらい愛用しており、取っ手が取れたのをある人が修復してくれました。世界中に、頃と全く同じものは他には存在しないのです。

ヒト種に属する岡田武夫は動物界に属しています。

岡田武夫は動物です。

こういう命題は成り立ちます。

しかし、

「動物は岡田武夫です。」「都民は岡田武夫です。」

とは言えません。

主語と述語からなる文章では

主語は述語の中に含まれています。動物は岡田武夫を包摂する、より広く高い概念です。岡田武夫は述語になりえても主語になりえません。最終的に「岡田武夫は岡田武夫です。」としか言いようがないのです。岡田武夫という存在は、個別化・特殊化の究極の到達点です。真の自己を知る、というときには、この個別化の岡田を知ることであるはずです。

それでは包摂する概念である述語の上限はどうなるでしょうか。

「岡田は動物である。」その命題は、

 

「動物は被造物である。」となります。それでは被造物の上位の範疇は何か。見つかりません。キリスト教では被造物は神によって造られたと考えています。そうなると、被造物の上は神しかいないことになります。

しかし全被造物を包摂する被造物は無いのです。それは、全被造物を創造した存在は神としか考えられません。しかし神は被造物ではありえません。

ここで存在するものの位階(ヒエラルキア)は終結し、存在させた存在である創造主へと論議がつながれます。これがユダヤ―キリスト教―西洋哲学の論理でありましょう。

これはいわば「有」の世界です。「有」の世界に対して東洋では「無」の世界を考えます。「有」の世界では一般と特殊、主語と述語の関係を追及すると神という存在に到達しますが、「無」の世界ではどうなるのでしょうか。

西田哲学によればそれは「絶対無」という「場所」になるというのです。

 

「有」の世界で自分を知るとは、他者との関係で自分を知るという事になります。他者との関係といえば聖書は「愛する」という論理を展開します。2

聖書では明白にキリスト信者は「敵を愛しなさい」と命じられています。真の自分を知るとは、人との係わりに於いてであり、他者との係わりの中に自分の姿が現れます。そして、この掟を命令している神を信じる者は、神とその御独り子イエス・キリストの前で、その出会いと交わりの中で、自分を映し、真の自分の姿を知るのです。

それでは「無」の世界ではこの点はどうなるのでしょうか。ここで出て来る自己認識の道は「自己において自己を知る」ということです。これはどういうことでしょうか。自分で自分を知ることが出来るのでしょうか。

真の自己と出会うために自分という個人から出発し、個人→人間→創造主、という順番で自己を探求する方法が従来の西洋の「有」の哲学・神学の方法でした。そのために、司祭志望者は、神学を学ぶための前提として哲学を、認識論や存在論を学びました。そのうえで神の啓示であるに人間とその救いを教える神学を学んだのです。しかし「絶対無の場所」からの考察とはどうなるのか。

まず「無」の思想を考えてみます。

「無」とは何か。文字通り存在しないという事なのか。何もないという事なのか。

「有と無とか言うのは、存在するとか、存在しないとか言う意味ではない」、といいます。(以下の記述は、主として、小坂国継『西田幾多郎の思想』、第四回 西田哲学の性格(2)-無の思想、55㌻以下 による。)

「この点に関して言えば、有の無も、どちらも真の意味で存在するもの、すなわち真実在を表わす言葉である。」

「なぜ真実在を無といったりするのであろうか。真に実在するものは有であるのが当然で、真実在が無であるというのは矛盾ではなかろうか。このように考えるのは、ある意味でもっともなことである。しかし、ここで有というは、具体的に、『形がある』ということであり、反対に無というのは『形がない』ということである。したがって、正確に言えば、真実在を『形のあるもの』と考えるのが有の思想で、反対にそれを『形のないもの』と考えるのが無の思想という事になる。」

しかし、これは真に聖書の思想だろうか。神は「わたしはあるという者」(出エジプト記314)であり、存在そのもので形のないものです。イエスもサマリアの女に向かって「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ424)と言っています。神は靈であるので、偶像その存在を表現することを厳しく禁じています。

あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。出エジプト記204-6、他を参照

聖書の神は実に「形のない霊」である神であります。

 

聖書の創世記の一章は、天地万物の創造を語っています。

 1:1 初めに、神は天地を創造された。

1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

・・・

1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

2:1 天地万物は完成された。

2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

2:4 これが天地創造の由来である。

 

神が創造される前は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の神の霊が水の面を動いていた。」という状態であったのでした。この説明を通常、「無からの創造」といっていますが、それは何もないという意味の「無」からの創造と解釈しなくともよいのではないでしょうか。ここでは「すべての物が神を原因としており、神によって造られないものは何ひとつないということを説いたものであり、一切の有の根源としての純粋形相である神(絶対有)の存在が想定されている」(同書57)のであると思われます。(もちろん、形のない無自体、神の創造によると考えられます。)それに対して東洋では伝統的に、あらゆる形のあるものの根源には形のないものを考えてきた。すべて形のあるものは形のないもの、すなわち無から生ずるというのである。いいかえれば、一切の有は無のあらわれであるというのである。したがって、ここでは、恒常不変な実体は否定される傾向にある。永遠に変化しないようなものは何一つとしてない、という東洋の伝統的な考え方であった。」(同書57-58)

わたしたちが引き継いだキリスト教思想は多分にギリシャ化したものです。本来のヘブライ思想がギリシャ社会へ伝えられる過程でギリシャ哲学の影響を受けています。わたしが受けた哲学の教育もスコラ哲学であり、存在は形相と質量、すなわちformamateriaによって説明されました。小坂氏は言います。

「ギリシャにおいては、無は形の欠如したもののことであり、また形をもたないもののことであった。しかし、東洋においては、それはあらゆる形の根源であり、あらゆる形を生み出す原動力のことであった。・・・ギリシャにあったのは有の反対概念としての無であり、有の欠如としての無であった。有とは、形相すなわち形をもったもののことであったから、それと反対に無とは、形のないもの、形を欠いたもののことであった。したがって、それは正確に言えば、無ではなく『非有』であったのである。」

世界の始まりをどう考えるか。大きく二つに分けられます。世界の始まり、根源を「形のあるもの」と考えるか、あるいは「形のないもの」と考えるか、です。有にはその存在の根拠・原因がなければならない。その原因を追究していくと無限の連鎖に陥ってしまいます。そこで第一原因、すべての存在の根源となる原因として創造主を想定するわけです。この創造主は果たして「形ある存在」の有であるのか。形のない有であるところの「無」である、と考えることが可能ではないかと思うのです。

世界の根源は最も普遍的なものであり、一切を含むものであります。それが「形あるもの」と考えれば、それを包むより大きな形あるものが想定されなければならなくなります。それが「形のない有」と考えれば、一切のものを含むことが可能となります。

 

既に述べたように西田の哲学の動機と出発点は自己の人生の悲哀でありました。家族を襲った数々の不条理な悲劇に直面して彼は徹底的に自己の内面に沈潜し、「自己の内なる根源に向かうことで、もはや、人生の悲痛や苦悩を楽しみに一喜一憂している自己や自我なんどというものを消し去ってしまおうとしたのです。その先に彼が見出したものは『無』としか呼びようのないものだった。根源にあるものは、すべての現象の彼岸であり、またそこからすべてを生じさせる『無』に他なりません。・・・」

これは経済学の学者である佐伯啓思の言葉です。(佐伯啓思「西田幾多郎」無私の思想と日本人、43)

 

『善の研究』において、善とは真の自己を知ることであるという結論に達し、そこへ到達するために西田幾多郎は哲学者としての真摯な歩みを開始しました。そのために最初の概念が「純粋経験」(直接経験)でした。純粋経験はさらに『場所』の論理、そして『絶対無の場所』、そして最後に、晩年に至り『絶対矛盾的同一性』という論理に到達しました。その次第は『西田幾多郎哲学論集I,II,III』(岩波文庫)により追跡することが出来ます。特に、『西田幾多郎哲学論集III』に所載の二つの論文、『絶対矛盾的自己同一』と『場所的論理と宗教的世界観』は繰り返し西田哲学の論理の展開を語っています。しかし、その用語と説明は極めて難解であり、その叙述は、あたかも他者に説明するより自問自答しているような印象を与えます。自分で自分に言い聞かせているような言い方を理解するのには困難を来たします。しかしこのなかに日本の福音宣教のために非常に重要な課題が含まれています。熟慮の結果、今回は筆者に心に強く響いた事項あるいはよく理解できた事項に限ってその考察の結果を記すことにしました。

――

まず驚くことは、「悪魔」と言う表現が登場することです。『絶対矛盾的自己同一』の世界には悪魔が潜んでいるというのです。これはどういう意味だろうか。直観には我々を唆し、魂を殺してしまう悪の力が潜んでいると言っているようです。(以下に引用する。)

絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのではない、また相互に媒介するのでもない。生か死かの戦いである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するものではない。われわれの魂を否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それはわれわれを生かしながら我々を奴隷化するのである。我々の魂を殺すのである。・・・環境が自己否定的に自分自身を主体化するということは、自分自身をメフィスト化することである。直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。・・・作用が我々に逆に向かい来る所に、真の直観というものがあるのである。故に真の直観の世界は、我々が個別的であればあるほど、苦悩の世界であるのである。・・・本能的動物は悪魔に囚われるということはない。直観とは、我々の行為を惹起するもの、我々の魂の底までも唆すものである。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、62-63㌻)

 

判断と意志の主体である個別的自己である我々は、日々世界の中で能動的創造的に生きるように招かれています。創造の立場から見れば、過去と未来は対立する。その際「歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根底から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。行為的直観的に、我々の個人的自己に与えられるものは、単に質料的ではなく、単に否定的ではなく、悪魔的に我々の迫りくるものでなければならない。」(同書、66-67)とも述べているのです。

 

西田幾多郎の哲学によれば、この世界は「絶対無盾的自己同一」の世界で在ります。この世界に置かれている人間はもちろんその『絶対矛盾的自己同一』を免れないのです。彼はドストエフスキーに言及しながら言う。

  われわれの自己というものは、考えれば考えるほど、自己矛盾的存在であるのである。ドストエフスキーの小説という者は、極めて深刻に、かかる問題を取り扱ったものであるということができる。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、344㌻)

わたしたち人間は、それぞれこの世界に存在する無数の個別的存在として、矛盾的自己同一的世界の個物としてわれわれは自己成立の根底において自己矛盾的である。(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、77-78㌻参照)

西田はさらにキリスト教の原罪にも言及して次のように言っています。

「人間はその成立の根源において自己矛盾的である。知的に成ればなるほど、意的に成ればなるほど、爾(しか)いうことができる。人間は原罪的である。道徳的には、親の罪が子に伝わるとは、不合理であろう。しかしそこに人間そのものの存在があるのである。原罪を脱することは、人間を脱することである。それは人間からは不可能である。唯、神の愛の啓示としてのキリストの事実を信じることによってのみ救われるという。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、364㌻)

 

わたしたちは真の自己を知る、という目的に向かって歩んでいます。この歩みの中で宗教とは何でしょうか。宗教とは「我々の自己自身の存在が問われる時、自己自身が問題となる時、初めて意識される」(同論文、322㌻)と言います。宗教とは「我々が自己の根底に深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己存在そのものが問題となるのである。人生の悲哀、その自己矛盾ということは、古来言古された常套句である。」(同論文、323㌻。下線は筆者による。)

そして「我々の自自存在の根本的な矛盾の事実は、死の自覚にあると考える。」(同論文、324)と言います・

これはどういう意味だろうか。根本的な矛盾とは何か。

人は死という絶対的事実を自覚します。死という厳粛なる事実の前に、自己の存在自体に思いを馳せざるを得なくなります。肉体的な死は誰しも自覚します。では精神的死あるいは霊魂の存続についてはどうなのでしょうか。人は死後の存在をどう考えているのでしょうか。

人は不可逆的な人生の終局,つまり死を意識する時に、永遠の世界、つまり絶対に無限である世界、あるいは絶対者を意識する。意識するということは永遠への思いが人間には宿っているということである。地上の人生に終局があるということには疑いがない。人は自分で地上の存在を永続できない。その思うときに、人生の唯一性、一回限りの時間を意識する。しかし永遠への思いを無くすことはできない。死は終わりであるが終わりではない。(終わりではないのではないか、という考えも含める。) 

人の生涯は死への道程であります。生と生、終わりと始まり(死を新しい出発と考える立場、例えばカトリック教会の教え。)。相対立する二項目が同時に存在する。はたして死と生とは矛盾するのか。死は生であり生は死であると言えないか。生とは本来死を孕むものであるので、その生を矛盾と考えなくともよいのではないか、とも思われます。

 

さて、相対的なものが絶対的なものに対するということが死である、と西田は言う。(同論文326㌻)確かに預言者イザヤが神を見たときに彼は言った。災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」イザヤ65

相対的なものが絶対者に対するとは言えない。相対に対する絶対は絶対ではない。

それではいかなる意味で絶対が真に絶対であるのか。絶対は無に対することによって真の絶対である。自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるならば、その自己は絶対ではない。「絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無になることでなければならない。自己が絶対的無とならざる限り、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むというは言えない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立するということは、無が無自身に対して立つということである。真の絶対とは、此(かく)の如き意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、斯く言うほかはない。そこで神は自己自身の中に絶対的自己否定を含むものである。絶対とは無対立であるだけではなく絶対否定を含むものである。絶対はどこまでも自己否定において自己を有(も)つ。「神は愛から世界を創造したというが、神の絶対愛とは、神の絶対的自己否定として神の本質的なものでなければならない。」(この論理は同論文326-328㌻などで展開しているので参照してください。)

 

神が自己否定するとはどういう意味でしょうか。確かに「愛」は自己否定に深くかかわります。神はその独り子を賜る人この世を愛して下さった。愛する御子イエスが十字架に架けられることを敢えて妨げなかったのでありました。(ヨハネ316参照) 神が御子を派遣したこと、御子が十字架に架けられたことなど、はたして「神の自己否定」と言えるだろうか。神の愛とは言えるでしょうが。

これと関連してホセアの預言言葉が想起されます。

 

 ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。 (118-9)

 

ここでは、神は激しく身悶えし、怒りと憐みに心が引き裂かれています。結局神は怒りに打ち勝って憐れみの方を選びます。このホセアの預言は「神の自己否定」を表わしているのでしょうか。

また次のような例が挙げられます。

全能の神なのに自分の決定を悔い決定を覆すというようなことがありえるのでしょうか。創世記にはそのように読める記述があります。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧に

なって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記65-6)

 

さて、先に「神自身が絶対矛盾的自己同一である」と言う考え方を取り上げ、その際、悪魔的と言う表現さえ使われました。西田、幾多郎は同じ論文、「場所的論理と宗教的世界観」の中の別の箇所でも「悪魔的」と言う表現を使っています。

 

「神が自己自身において自己の絶対的自己否定を含み、絶対の自己否定に対するということは、単に神のない世界、いわゆる自然の世界に対するということではない。単なる自然の世界は無神論的世界である。あるいはまた無神論者的に、自然の秩序に神の創造を見るということができる。真に神の絶対的自己否定の世界とは、悪魔的な世界でなければならない。・・・極めて背理のようではあるが、真に絶対的なる神は一面に悪魔的でなければならない。」「絶対の神は自己自身の中に絶対の否定を含む神でなければならない。悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神であるのである。」「絶対のアガペは、絶対の悪人にまで及ばなければならない。神は逆対応的に極悪の人の心にも潜むのである。単に鞫(さば)く神は、絶対の神ではない。斯く言うのは、善悪を無差別視するというのではない。」「わたしの神と言うのは、…自己自身において絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるからである。」(「場所的論理と宗教的世界観」、334-335㌻より引用。)

 

このような西田哲学の論理をどのように理解することが出来るでしょうか。神とは絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるという主張をどう受け止めることが出来るでしょうか。

わたしたちは自分自身が矛盾と言う問題を抱えた存在であるということは直観的に理解します。キリスト教ではそれを「原罪」と言います。キリスト教徒でなくとも人間は有限な存在であり、不完全であり、人生の種々の困難に直面するものであると理解していると思われます。生・病・老・死の四苦、それに会者定離、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を加えた八苦は人々が人生の当然の苦悩と理解しています。そのような人間存在を自己矛盾と言うのは理解できます。(最も絶対矛盾とは分かりにくい言い方ですが。)またこの世界の中に矛盾することが多々あることも何となく直観的に理解しています。しかし、神・仏を「絶対矛盾的自己同一である」と理解することは困難です。ともかく「絶対矛盾的自己同一」という用語が理解を難しくしています。全知・全能の神とは、そのうちに矛盾を含まない、均質・均一の存在ではないだろうか。神が迷ったり悩んだり考え込んだりするということは考えられない。神の中に矛盾があるとは夢にも考えない。(もっとも既述のように、聖書はホセア預言書において、あるいは、創世記の中で、葛藤し煩悶する神の心を伝えています。)「神とは不動の動者である」という理解が伝えら、この神理解を前提としたカテキズムが行われてきました。

不動の動者とは、それこそ誰かによって、何かによって動かされることはありえない存在です、自らは動くことなく被造物を動かすのが創造主である神です。これはギリシャ哲学の考えた神であります。聖書の神ではありません。聖書の神、イエスの神は人々の悲しみ苦しみに深く共感する神、スプラングニゾマイ(ギリシャ語表記はσπλαγχνίζομαι。イエスが人々の苦しみに深く同情した時使われたギリシャ語の動詞。巻末の説教を参照。)の神です。

絶対の神は被造物になることはできません。しかし敢えて永遠のみ言葉が人となった。これは西田哲学の言う「神の自己否定」にあたるのかもしれません。このような「神理解」は西田哲学の理解に通じます。愛である神は超然として上から支配することは良しとはしないで、自ら民に預言者を遣わし最後には御独り子イエスを派遣し、イエスが磔刑に処せられるのを敢えて妨げなかったのだ、とキリスト教は理解しています。このような神は上述の西田幾多郎の神とほぼ同じではないでしょうか。

 

――

1

生物とは、生きた物のこと。バクテリア(菌類)も植物も動物も生物です。

たくさんの生物は、類縁関係が近い種ごとにグループ分けされています。地球上には、バクテリアから植物から動物まで発見されているだけで約100万~170万種の生物がいるとされています。類縁関係が近い種類をまとめて1つの「種(しゅ)」、

種同士で類縁関係が近い「種」をまとめて「属(ぞく)」、

属同士で類縁関係が近い「属」をまとめて「科(か)」、

科同士で類縁関係が近い「科」をまとめて「目(もく)」、というふうに、階層として分けられています。

分類の区切りは階層と呼ばれ、大きな階層から、

「界(かい)」、「門(もん)」、「綱(こう)」、「目(もく)」、「科(か)」、「属(ぞく)」、「種(しゅ)」

に分けられています。

人間はヒトという種類の生物なので、動物界 脊索動物門 哺乳綱 サル目 ヒト科 ヒト属 ヒト種

 普通、グループとか仲間という意味で「類」も使われます。「哺乳綱」とか「鳥綱」と表すよりも、哺乳類とか鳥類と表現するほうが、一般的でおなじみ。

  哺乳類 サル類 ヒト科 ヒト

2.

2020910日のミサで読まれる福音書は以下の通りです。

福音朗読 ルカ627-38

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。627「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

3.

2016.7.10 ()、鹿沼教会司牧訪問に際しての、岡田大司教による年間第15主日の説教。

第一朗読 申命記3010-14

第二朗読 コロサイ115-20

福音朗読 ルカ1025-37

皆さん、おはようございます。

わたくしは24年前の11月、92年の11月にこの教会を訪問したようです。したという記録と写真が残っております。それからいろいろなことがあって、今皆さんを拝見すると、フィリピンから来た方やヴェトナムから来た方もたくさんおられます。わたしたちの教会は非常に国際的な多国籍の教会となっています。お互いにそれぞれの違いを認めて大切にしながら、イエズス様のお望みになる教会、いつくしみ深い人々の教会として、成長するようご一緒にお祈りをし、そして努力をいたしましょう。

今日読まれた福音と聖書について少し分かち合いをしたいと思います。今、矢吹助祭が読んだ福音は、有名な「よいサマリア人」の話であります。追剥に襲われて、半殺しの目にあっていた人を見た、通りがかりのサマリア人。サマリア人というのは、ユダヤ人と仲が悪かった。そのサマリア人が「その人を見て、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行った介抱した。」(1033-34)とあります。ほかの人、その半殺しにあった人を見ても、他の人は知らぬふりをして通り過ぎてしまったが、このサマリア人は憐れに思って、このような人を助ける行為をしたのであります。

この《憐れに思い》という言葉が、今日の福音の教えの中心にあります。そして皆さんご存知のように、フランシスコ教皇様のご意向によって、世界中でいつくしみの特別聖年をわたしたちは祝っています。「天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い、あわれみ深いものでありなさい」と主イエスが言われました。いつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということをわたしたちは特にこの一年よく学び、そして実行するようにいたしましょう。

今日の福音に出てくる《憐れに思い》という言葉ですけれども、福音書はギリシャ語で書かれています。そのギリシャ語の原文は最近有名になりつつある言葉ですけれども、「スプラングニゾマイ」というのですね。「スプラングニゾマイ」。これは内臓、はらわたとかからきている言葉を動詞にしたもので、はらわたがゆさぶられる。日本語でははらわたがゆさぶられるという言い方はあまりない。はらわたが煮えくり返るというのは言うが、それは怒ってる時の表現です。胸がつぶれる思いとか言いますね、日本語の大和言葉の表現では。ここでは人の苦しみ、悲しみを見て体で感じてしまう。頭の問題ではなくて、心、体で人の苦しみ、悲しみに深く共感する、一緒に悲しみ、苦しみを覚えるという意味だそうです。いつくしみの特別聖年にあたって、このいつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということを学ぶようにと教皇様は言っておられる。そもそも人は人の苦しみや悲しみに対して、共感し、そしてその人たちを助けよう、何かできることをしようという心を持っているのであります。そういう心があるけれども、何かの事情でその心の声が鈍くなったり、あるいは聞こえなくなったりしているのかもしれない。

昔、高校生の時ですけれども、中国の偉い人で孟子という人がいたそうで、孔子、孟子、荀子という偉い人がいたんだけれども、孟子さんが言った教え、それは人には人の苦しみを見過ごしにはできない、人のために思わず良いことをしようとする、そういう心が備わっているんですという教えでした。「惻隠の情」。

惻隠というとちょっとわからないかもしれないけれど、惻隠の情という、あるいは惻隠の心があると、そういう教えでありました。

今日の聖書の福音の教え、良いサマリア人が強盗に襲われ、追剥に襲われた人を見て、憐れに思ったということと良く似ている教えだと思います。人間の本性は本来良いものか、悪いものか、この問題はずっと論じられてきた。人間は本来良いものだという人もいれば、悪いものだという人もいる。あるいは本来どちらでもないのだという人もいる。性善説とか、性悪説とか、わたしたちは聞きましたよね。キリスト教ではどうなんだろうか。難しいですけれども、旧約聖書の最初にある創世記の1章では、神様が全てのものをお造りになった次第が述べられていて、最後に人間を造った。そして人間を見て、極めて良いとおっしゃったのですね。我々は極めて良いものなんですよ。その割にはですね、いろいろ人間は悪いことをしていますね。どう説明したら良いのだろうか。これは悩むわけです。わたしが悩むのは勝手ですけども、世界中の人、偉い人がどう説明したらよいか、という問題にぶつかりました。難しいことは置いておいて、聖書によれば、神は人間を良いもの、極めてと付いているのですが、極めて良いものとしてお造りになった。その極めて良いものが、その良さを発揮できていない。元々良い、良いけれどもどうしてか、その良さが出てこない場合がある。でも、だいたいにおいて我々は良いことを知り、良いことを行っているんですね。悪いことばかり見たらキリがないですけれども、人間は本来良いものである。人の苦しみに同情する、人を助けるものなんですね。ただ自分のことも大事なので、ついしそびれてしまう。あるいは自分自身の強い思い、こうしたい、あるいはあの人が邪魔だとかいう思いも出てくる。良い思いと悪い思いの両方が、わたしたちの心の中にはあるのではないでしょうか。

今日の第一朗読を思い出すと、神様の戒めと掟を守ることは難しくないと言っている。いや、難しいとわたしは感じますけれども、難しくないんだよと。神様の教えはどっか遠い所にある、外にあるものではない。あなたの心の中にあるんだよと、自分の中にあるんだよと、そう教えていますね。自分の中にあることに気がつきさえすれば大丈夫ですと、簡単に言うとそういうことを言っているのかなと思います。

また第二朗読のコロサイ書という聖書の朗読でありました。どういう教えであったかと言うと、イエス・キリストは見えない神の見える姿。万物は御子によって、御子のために造られた。神様は目に見えません。しかしイエス・キリストは目に見える人間でした。そこでいつくしみの特別聖年のお祈りというものをもう一度思い出す。「主イエス・キリスト。あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。」と教皇フランシスコが言っている。イエス・キリストは見えない神の見えるみ顔であります。そのイエス・キリストは地上を去る時に、弟子たちに聖霊を注いで、そして聖霊の働きでご自分のように生きられるようにしてくださった。わたしたちは弱い人間です。罪深い人間と言ってもよい。しかしイエス・キリストはご自分の霊、聖霊を送って、聖霊の働きで、イエス・キリストと同じ働き、人々を助ける、自分のことを後回しにして人の苦しみのために働く、その人のところに走り寄ることができる、本来良い人間の働きをすることができるようにしてくださった。そういうように教えています。「あなたがたは神御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(1:22)と書いてある。

今日、皆さんどうしてここに来ましたか。ここに来て何か良いことがあるんですよね。ここに来て別に一銭の得にもならないが、もっと良いこと、神様の恵みを受けることができる。皆さんの心の中に、神様から恵みを受けたい、ミサに与りたい、イエス・キリストのお話しを聞きたい、そういう良い心があるのでここに来ていらっしゃる。ですから、皆さんはすでに聖なる者とされているのであります。

 

2020年9月20日 (日)

あなたは「あなたであるだけで大切です」という世界

人がただその人であることだけで大切にされる「神の国」

920日 年間第25主日の福音朗読は「ぶどう園で働く労働者」の譬えです。この話は何を言っているでしょうか。自分にとってこの話は何を言っているでしょうか。最初から「模範解答」を出すのではなく、人間である自分がどう感じるか、ということから出発することが大切だと思うのです。

 誰しも思うのは、この主人は不公平だということです。このような賃金の支払いの仕方は今の社会ではありえないことです。

「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」という文句は当然のことでしょう。自分が朝早くから働いた人の立場にある人はそう思うのは当たり前です。

他方、5時ころ雇われた人は、「なんと有難いことだ」と思うでしょう。しかし、朝から働いた人には、「申し訳ない」と引け目に感じるかもしれません。

ぶどう園で働いた労働者の雇用された事情は様々です。労働時間と働き具合に応じて報酬が与えられるはずだと我々は考えます。それが資本主義と貨幣経済の中で生きている者の一般的な意識です。しかしぶどう園の主人の考えからは違います。朝から働き始めた者も、日暮れに仕事にありついたた者も、同じように一デナリオンが支払われるのです。5時から働き始めた人は、5時まで誰も雇ってもらえなかった人です。

ここで思うのは、人生の不公平さということです。人生は不公平です。人は自分の出生を選ぶことが出来ません。何時何処でどのような親の基で生まれるのか、ということを自分で決定できません。もしかして、生得の人間の条件――能力、環境、容姿等もその時から決定されているのかもしれません。遺伝子という考え方があった、人は遺伝子によって自分の在り方がかなりの範囲、程度で決められてしまうそうです。そもそも「人間にはどのくらいの自由があるのか」と言う重大な問題があります。障がいと言う条件をもって生を受ける者もいるのです。

人は生涯にわたって何等かも「評価」を受けています。今の社会でその評価の基準値は何でしょうか。人は評価されたいのです。今の時代、評価の基準は何か。入学試験の合否の基準は通常学力です。会社では何でしょうか。多分、総合的な意味での「仕事での実績を挙げる能力」でしょう。それでは能力のないものは救われないのです。イエスは「貧しい人々は幸いである。」と言われました。貧しい人々とは能力、健康、財力などに恵まれないものです。

それでは、この世での評価に値する何物も持たない者が、その人であるという一点で評価され大切にされ、なくてはならない存在とされる世界はないでしょうか。

今日のぶどう園の労働者の譬えは、そのような世界、「人がその人であるというだけで評価され大切のされる世界」を語っていると思うのです。イエスは「神の国の福音」を説きました。現実の社会は利益社会、いわゆるゲゼルシャフトですが、ぶどう園はいわゆる一つのいわゆるゲマインシャフトです。その代表は家庭です。しかしその家庭が本来の在り方をかなり喪失しているのが現状です。その家庭の替わるべき共同体として想定されるのが教会共同体です。イエスは「神の国の福音」を説きました。神の国とは神の思いが行き渡っていることです。第一朗読でイザヤは言います。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」

教会は限りなく『主のぶどう園』に近づかなければなりません。

人はあなたがあなたであることを嬉しく思う」と言う他の存在、人の交わりが必要です。

そのような人は、あなたにとって誰でしょうか???

 

 

 

福音朗読  マタイによる福音書 20:1-16

(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 

第一朗読  イザヤ書 55:6-9

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。

 

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 1:20c-1:2427a

(皆さん、)生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。

 

2020年9月14日 (月)

悪について その5 真の自分を知る

悪についての小考察その5 真の自己を知る

 

西田幾多郎は最初の著作、『善の研究』において「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。西田幾多郎の生涯はそのために真摯な努力と思索の生涯でした。

「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

果たして自分で自分をしることができるのでしょうか。

自己とは何か。自己とは誰か。自分は何処から来て何処へ行くのか。

このような問いは誰しも抱く重要な問いかけであり、人は誰しも、人生のどこかの機会に抱く問題ではないでしょうか。このような問いは極めて宗教的な問題であります。西田幾多郎自身極めて宗教へ傾倒した人でしたが、この問題を宗教の信奉者つぃてではなく、一哲学者として解き明かそうと努めました。彼の思索は、『善の研究』依頼終始、この問題への取り組みであったと言えましょう。

人は直接自分自身を見ることが出来ません。これは自明の理です。目は目以外の物を見ますが目自身を見ることが出来ません。目という存在は見るためにあるのであり、見られることを予想していないのです。それは、火が、他の物を燃やし破壊するためにあるのであり、火が火自身を燃やすことはない、という事と同じです。

自分自身を見ることのできない人間は、他の人に自分自身を見てもらいます。

中国の歴史書、「史記」の中に次のような言葉が残っています。

『士はおのれを知る者のために死し、女はおのれを喜ぶ者のために容(かたち)づくる(化粧をする)。』

人の強い願望の中に、「自分を知ってもらいたい」という欲求があります。人は自分を知ってくれる人のためなら、自分のすべてを知っても自分を自分として評価してくれる人に出会ったなら。命すらいらないと思うものです。

自分で自分を直接知ることが出来なければ、自分を知る者に出会うことによってそれが可能になります。

しかし人生の体験によれば、それはなかなか難しい、珍しい事例ではないでしょうか。しかし、西田幾多郎の考察によれば、「自分の中に自分を映す鏡のような場所がある」と言っているようです。

その「自己の中に自分を映す鏡」のことを西田幾多郎は「絶対無の場所」と呼んでいます。それでは「絶対無の場所」とは何であるのか。

本稿はこの問題を考察するために書かれています。

人は自分をどう位置付けるでしょうか。生物としての自分は、他の生物と同じように、段階別に分類されます。その位階は

種・族・科・目・綱・門・界(しゅぞくかもくこうもんかい

です。

 

さて、わたし岡田武夫は、

動物界、脊椎動物門、哺乳綱、サル目、ヒト科、ヒト属、ヒト種

に属する存在であるという事になります。

ヒト種の下には各個別の階層が存在します。例えば

ヒト→日本人→男性→東京都民→文京区民→本駒込5丁目4番地3号の住民。

ここまでくるとこれ以下には細分できません。

例えば、

岡田武夫は日本人です。

岡田武夫は男性です、都民です、文京区の区民です、本駒込5-4-3の住民です。

目下のところ本駒込5-4-3の住民は岡田武夫一人です。すると文京区本駒込5-4-3の岡田武夫で特定されます。これ以下に細分化されない個人となります。

考えてみれば、地球上に生きている何十億の人類は、このような方法で特定の個人に収束されます。

人に限りません。いまわたくしはマグカップでコーヒーを飲んでいます。同じ製品は他にも存在するでしょうか、これは唯一です。もう30年くらい愛用しており、取っ手が取れたのをある人が修復してくれました。世界中に、頃と全く同じものは他には存在しないのです。

ヒト種に属する岡田武夫は動物界に属しています。

岡田武夫は動物です。

こういう命題は成り立ちます。

しかし、

「動物は岡田武夫です。」「都民は岡田武夫です。」

とは言えません。

主語と述語からなる文章では

主語は述語の中に含まれています。動物は岡田武夫を包摂する、より広く高い概念です。岡田武夫は述語になりえても主語になりえません。最終的に「岡田武夫は岡田武夫です。」としか言いようがないのです。岡田武夫という存在は、個別化・特殊化の究極の到達点です。真の自己を知る、というときには、この個別化の岡田を知ることであるはずです。

それでは包摂する概念である述語の上限はどうなるでしょうか。

「岡田は動物である。」その命題は、

 

「動物は被造物である。」となります。それでは被造物の上位の範疇は何か。見つかりません。キリスト教では被造物は神によって造られたと考えています。そうなると、被造物の上は神しかいないことになります。

しかし全被造物を包摂する被造物は無いのです。それは、全被造物を創造した存在は神としか考えられません。しかし神は被造物ではありえません。

ここで存在するものの位階は終結し、存在させた存在である創造主へと論議がつながれます。これがユダヤ―キリスト教―西洋哲学の論理でありましょう。

これはいわば「有」の世界です。「有」の世界に対して東洋では「無」の世界を考えます。「有」の世界では一般と特殊、主語と述語の関係を追及すると神という存在に到達しますが、「無」の世界ではどうなるのでしょうか。

西田哲学によればそれは「絶対無」という「場所」になるというのです。

 

「有」の世界で自分を知るとは、他者との関係で自分を知るという事になります。他者との関係といえば聖書は「愛する」という論理を展開します。2

聖書では明白にキリスト信者は「敵を愛しなさい」と命じられています。真の自分を知るとは、人との係わりに於いてであり、他者との係わりの中に自分の姿が現れます。そして、この掟を命令している神を信じる者は、神とその御独り子イエス・キリストの前で、その出会いと交わりの中で、自分を映し、真の自分の姿を知るのです。

それでは「無」の世界ではこの点はどうなるのでしょうか。ここで出て来る自己認識の道は「自己において自己を知る」ということです。これはどういうことでしょうか。自分で自分を知ることが出来るのでしょうか。

真の自己と出会うために自分という個人から出発し、個人→人間→創造主、という順番で自己を探求する方法が従来の西洋の「有」の哲学・神学の方法でした。そのために、司祭志望者は、神学を学ぶための前提として哲学を、認識論や存在論を学びました。そのうえで神の啓示であるに人間とその救いを教える神学を学んだのです。しかし「絶対無の場所」からの考察とはどうなるのか。

まず「無」の思想を考えてみます。

「無」とは何か。文字通り存在しないという事なのか。何もないという事なのか。

「有と無とか言うのは、存在するとか、存在しないとか言う意味ではない」、といいます。(以下の記述は、主として、小坂国継『西田幾多郎の思想』、第四回 西田哲学の性格(2)-無の思想、55㌻以下 による。)

「この点に関して言えば、有の無も、どちらも真の意味で存在するもの、すなわち真実在を表わす言葉である。」

「なぜ真実在を無といったりするのであろうか。真に実在するものは有であるのが当然で、真実在が無であるというのは矛盾ではなかろうか。このように考えるのは、ある意味でもっともなことである。しかし、ここで有というは、具体的に、『形がある』ということであり、反対に無というのは『形がない』ということである。したがって、正確に言えば、真実在を『形のあるもの』と考えるのが有の思想で、反対にそれを『形のないもの』と考えるのが無の思想という事になる。」

しかし、これは真に聖書の思想だろうか。神は「わたしはあるという者」(出エジプト記314)であり、存在そのもので形のないものです。イエスもサマリアの女に向かって「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ424)と言っています。神は靈であるので、偶像その存在を表現することを厳しく禁じています。

あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。出エジプト記204-5、他を参照

聖書の神は実に「形のない霊」である神であります。

 

聖書の創世記の一章は、天地万物の創造を語っています。

 

1:1 初めに、神は天地を創造された。

1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

・・・

1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

2:1 天地万物は完成された。

2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

2:4 これが天地創造の由来である。

 

神が創造される前は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の神の霊が水の面を動いていた。」という状態であったのでした。この説明を通常、「無からの創造」といっていますが、それは何もないという意味の「無」からの創造と解釈しなくともよいのではないでしょうか。ここでは「すべての物が神を原因としており、神によって造られないものは何ひとつないということを説いたものであり、一切の有の根源としての純粋形相である神(絶対有)の存在が想定されている」(同書57)のであると思われます。(もちろん、形のない無自体、神の創造によると考えられます。)それに対して東洋では伝統的に、あらゆる形のあるものの根源には形のないものを考えてきた。すべて形のあるものは形のないもの、すなわち無から生ずるというのである。いいかえれば、一切の有は無のあらわれであるというのである。したがって、ここでは、恒常不変な実体は否定される傾向にある。永遠に変化しないようなものは何一つとしてない、という東洋の伝統的な考え方であった。」(同書57-58)

わたしたちが引き継いだキリスト教思想は多分にギリシャ化したものです。本来のヘブライ思想がギリシャ社会へ伝えられる過程でギリシャ哲学の影響を受けています。わたしが受けた哲学の教育もスコラ哲学であり、存在は形相と質量、すなわちformamateriaによって説明されました。小坂氏は言います。

「ギリシャにおいては、無は形の欠如したもののことであり、また形をもたないもののことであった。しかし、東洋においては、それはあらゆる形の根源であり、あらゆる形を生み出す原動力のことであった。・・・ギリシャにあったのは有の反対概念としての無であり、有の欠如としての無であった。有とは、形相すなわち形をもったもののことであったから、それと反対に無とは、形のないもの、形を欠いたもののことであった。したがって、それは正確に言えば、無ではなく『非有』であったのである。」

世界の始まりをどう考えるか。大きく二つに分けられます。世界の始まり・根源を「形のあるもの」と考えるか、あるいは「形のないもの」と考えるか、です。有にはその存在の根拠・原因がなければならない。その原因を追究していくと無限の連鎖に陥ってしまいます。そこで第一原因、すべての存在の根源となる原因として創造主を分けです。この創造主は果たして「形ある存在」の有であるのか。形のない有である「無」であると考えることが可能ではないかと思われます。

世界の根源は最も普遍的なものであり、一切を含むものであります。それが「形あるもの」と考えれば、それを包むより大きな形あるものが想定されなければならなくなります。それが「形のない有」と考えれば、一切のものを含むことが可能となります。

 

既に述べたように西田の哲学の動機と出発点は自己の人生の悲哀でありました。家族を襲った数々の不条理の不幸に直面して彼は徹底的に自己の内面に沈潜し、「自己の内なる根源に向かうことで、もはや、人生の悲痛や苦悩を楽しみに一喜一憂している自己や自我なんどというものを消し去ってしまおうとしたのです。その先に彼が見出したものは「無」としか呼びようのないものだった。根源にあるものは、すべての現象の彼岸であり、またそこからすべてを生じさせる『無』に他なりません。・・・」

これは経済学の学者である佐伯啓思の言葉です。(佐伯啓思「西田幾多郎」無私の思想と日本人、43)

 

『善の研究』において、善とは真の自己を知ることであるという結論に達し、そこへ到達するために西田幾多郎は哲学者としての真摯な歩みを開始しました。そのために最初の概念が「純粋経験」(直接経験)でした。純粋経験はさらに『場所』の論理、そして『絶対無の場所』、そして最後に、晩年に至り『絶対矛盾的同一性』という論理に到達しました。その次第は『西田幾多郎哲学論集I,II,III』(岩波文庫)により追跡することが出来ます。特に、『西田幾多郎哲学論集III』に所載の二つの論文、『絶対矛盾的自己同一』と『場所的論理と宗教的世界観』は繰り返し西田哲学の論理の展開を語っています。しかし、その用語と説明は極めて難解であり、その叙述は、あたかも他者に説明するより自問自答しているような印象を与えます。自分で自分に言い聞かせているような言い方を理解するのには困難を来たします。しかしこのなかに日本の福音宣教のために非常に重要な課題が含まれています。熟慮の結果、今回は筆者に心に強く響いた事項あるいはよく理解できた事項に限ってその内容を紹介し感想を記すことにしました。

――

まず驚くことは、「悪魔」と言う表現です。『絶対矛盾的自己同一』の世界には悪魔が潜んでいるというのです。これはどういう意味だろうか。直観には我々を唆し魂を殺してしまう悪の力が潜んでいると言っているようである。(以下に引用する。)

絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのではない、また相互に媒介するのでもない。生か死かの戦いである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するものではない。われわれの魂を否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それはわれわれを生かしながら我々を奴隷化するのである。我々の魂を殺すのである。・・・環境が自己否定的に自分自身を主体化するということは、自分自身をメフィスト化することである。直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。・・・作用が我々に逆に向かい来る所に、真の直観というものがあるのである。故に真の直観の世界は、我々が個別的であればあるほど、苦悩の世界であるのである。・・・本能的動物は悪魔に囚われるということはない。直観とは、我々の行為を惹起するもの、我々の魂の底までも唆すものである。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、62-63㌻)

 

判断と意志の主体である個別的自己である我々は、日々世界の中で能動的創造的に生きるように招かれています。創造の立場から見れば、過去と未来は対立する。その際「歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根底から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。行為的直観的に、我々の個人的自己に与えられるものは、単に質料的ではなく、単に否定的ではなく、悪魔的に我々の迫りくるものでなければならない。」(同書、66-67)とも述べているのです。

 

西田幾多郎の哲学によれば、この世界は「絶対無盾的自己同一」の世界で在ります。この世界に置かれている人間はもちろんその『絶対矛盾的自己同一』を免れないのです。彼はドストエフスキーに言及しながら言う。

  われわれの自己というものは、考えれば考えるほど、自己矛盾的存在であるのである。ドストエフスキーの小説という者は、極めて深刻に、かかる問題を取り扱ったものであるということができる。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、344㌻)

わたしたち人間は、それぞれこの世界に存在する無数の個別的存在として、矛盾的自己同一的世界の個物としてわれわれは自己成立の根底において自己矛盾的である。(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、77-78㌻参照)

西田はさらにキリスト教の原罪にも言及して次のように言っています。

「人間はその成立の根源において自己矛盾的である。知的に成ればなるほど、意的に成ればなるほど、爾(しか)いうことができる。人間は原罪的である。道徳的には、親の罪が子に伝わるとは、不合理であろう。しかしそこに人間そのものの存在があるのである。原罪を脱することは、人間を脱することである。それは人間からは不可能である。唯、神の愛の啓示としてのキリストの事実を信じることによってのみ救われるという。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、364㌻)

 

わたしたちは真の自己を知る、という目的に向かって歩んでいます。この歩みの中で宗教とは何でしょうか。宗教とは「我々の自己自身の存在が問われる時、自己自身が問題となる時、初めて意識される」(同論文、322㌻)と言います。宗教とは「我々が自己の根底に深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己存在そのものが問題となるのである。人生の悲哀、その自己矛盾ということは、古来言古された常套句である。」(同論文、323㌻)

そして「我々の自自存在の根本的な矛盾の事実は、死の自覚にあると考える。」(同論文、324)と言います・

これはどういう意味だろうか。根本的な矛盾とは何か。

人は死という絶対的事実を自覚します。死という厳粛なる事実の前に、自己の存在自体に思いを馳せざるを得なくなります。肉体的な死は誰しも自覚します。では精神的死あるいは霊魂の存続についてはどうなのでしょうか。人は死後の存在をどう考えているのでしょうか。

人は不可逆的な人生の終局,つまり死を意識する時に、永遠の世界、つまり絶対に無限である世界、あるいは絶対者を意識する。意識するということは永遠への思いが人間には宿っているということである。地上の人生に終局があるということには疑いがない。人は自分で地上の存在を永続できない。その思うときに、人生の唯一性、一回限りの時間を意識する。しかし永遠への思いを無くすことはできない。死は終わりであるが終わりではない。(終わりではないのではないか、という考えも含める。) 

人の生涯は死への道程であります。生と生、終わりと始まり(死を新しい出発と考える立場、例えばカトリック教会の教え。)。相対立する二項目が同時に存在する。はたして死と生とは矛盾するのか。死は生であり生は死であると言えないか。生とは本来死を孕むものであるので、その生を矛盾と考えなくともよいのではないか、とも思われます。

 

さて、相対的なものが絶対的なものに対するということが死である、と西田は言う。(同論文326㌻)確かに預言者イザヤが神を見たときに彼は言った。(災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」イザヤ65

相対的なものが絶対者に対するとは言えない。相対に対する絶対は絶対ではない。

それではいかなる意味で絶対が真に絶対であるのか。絶対は無に対することによって真の絶対である。自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるならば、その自己は絶対ではない。「絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無になることでなければならない。自己が絶対的無とならざる限り、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むというは言えない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立するということは、無が無自身に対して立つということである。真の絶対とは、此(かく)の如き意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、斯く言うほかはない。そこで神は自己自身の中に絶対的自己否定を含むものである。絶対とは無対立であるだけではなく絶対否定を含むものである。絶対はどこまでも自己否定において自己を有(も)つ。「神は愛から世界を創造したというが、神の絶対愛とは、神の絶対的自己否定として神の本質的なものでなければならない。」(この論理は同論文326-328㌻などで展開しているので参照してください。)

 

神が自己否定するとはどういう意味でしょうか。確かに「愛」は自己否定に深くかかわります。神はその独り子を賜る人この世を愛して下さった。愛する御子イエスが十字架に架けられることを敢えて妨げなかったのでありました。(ヨハネ316参照) 神が御子を派遣したこと、御子が十字架に架けられたことなど、はたして「神の自己否定」と言えるだろうか。神の愛とは言えるでしょうが。

これと関連してホセアの預言言葉が想起されます。

 

 ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。 (118-9)

 

ここでは、神は激しく身悶えし、怒りと憐みに心が引き裂かれています。結局神は怒りに打ち勝って憐れみの方を選びます。このホセアの預言は「神の自己否定」を表わしているのでしょうか。

また次のような例が挙げられます。

全能の神なのに自分の決定を悔い決定を覆すというようなことがありえるのでしょうか。創世記にはそのように読める記述があります。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧に

なって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記65-6)

 

さて、先に「神自身が絶対矛盾的自己同一である」と言う考え方を取り上げ、その際、悪魔的と言う表現さえ使われました。西田、幾多郎は同じ論文、「場所的論理と宗教的世界観」の中の別の箇所でも「悪魔的」と言う表現を使っています。

 

「神が自己自身において自己の絶対的自己否定を含み、絶対の自己否定に対するということは、単に神のない世界、いわゆる自然の世界に対するということではない。単なる自然の世界は無神論的世界である。あるいはまた無神論者的に、自然の秩序に神の創造を見るということができる。真に神の絶対的自己否定の世界とは、悪魔的な世界でなければならない。・・・極めて背理のようではあるが、真に絶対的なる神は一面に悪魔的でなければならない。」「絶対の神は自己自身の中に絶対の否定を含む神でなければならない。悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神であるのである。」「絶対のアガペは、絶対の悪人にまで及ばなければならない。神は逆対応的に極悪の人の心にも潜むのである。単に鞫(さば)く神は、絶対の神ではない。斯く言うのは、善悪を無差別視するというのではない。」「わたしの神と言うのは、…自己自身において絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるからである。」(場所的論理と宗教的世界観、334-335㌻より引用。)

 

このような西田哲学の論理をどのように理解することが出来るでしょうか。神とは絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるという主張をどう受け止めることが出来るでしょうか。

わたしたちは自分自身が矛盾と言う問題を抱えた存在であるということは直観的に理解します。キリスト教ではそれを「原罪」と言います。キリスト教徒でなくとも人間は有限な存在であり、不完全であり、人生の種々の困難に直面するものであると理解していると思われます。生・病・老・死の四苦、それに会者定離、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を加えた八苦は人々が人生の当然の苦悩と理解しています。そのような人間存在を自己矛盾と言うのは理解できます。(最も絶対矛盾とは分かりにくい言い方ですが。)またこの世界の中に矛盾することが多々あることも何となく直観的に理解しています。しかし、神・仏を「絶対矛盾的自己同一である」と理解することは困難です。ともかく「絶対矛盾的自己同一」という用語が理解を難しくしています。全知・全能の神とは、そのうちに矛盾を含まない、均質・均一の存在ではないだろうか。神が迷ったり悩んだり考え込んだりするということは考えられない。神の中に矛盾があるとは夢にも考えない。(もっとも既述のように、聖書はホセア預言書において、あるいは、創世記の中で、葛藤し煩悶する神の心を伝えています。)「神とは不動の動者である」という理解が伝えら、この神理解を前提としたカテキズムが行われてきました。

不動の動者とは、それこそ誰かによって、何かによって動かされることはありえない存在です、自らは動くことなく被造物を動かすのが創造主である神です。これはギリシャ哲学の考えた神であります。聖書の神ではありません。聖書の神、イエスの神は人々の悲しみ苦しみに深く共感する神、スプラングニゾマイ(ギリシャ語表記はσπλαγχνίζομαι。イエスが人々の苦しみに深く同情した時使われたギリシャ語の動詞。巻末の説教を参照。)の神です。

絶対の神は被造物になることはできません。しかし敢えて永遠のみ言葉が人となった。これは西田哲学の言う「神の自己否定」にあたるのかもしれません。このような「神理解」は西田哲学の理解に通じます。愛である神は超然として上から支配することは良しとはしないで、自ら民に預言者を遣わし最後には御独り子イエスを派遣し、イエスが磔刑に処せられるのを敢えて妨げなかったのだ、とキリスト教は理解しています。このような神は上述の西田幾多郎の神とほぼ同じではないでしょうか。

 

――

1

生物とは、生きた物のこと。バクテリア(菌類)も植物も動物も生物です。

たくさんの生物は、類縁関係が近い種ごとにグループ分けされています。地球上には、バクテリアから植物から動物まで発見されているだけで約100万~170万種の生物がいるとされています。類縁関係が近い種類をまとめて1つの「種(しゅ)」、

種同士で類縁関係が近い「種」をまとめて「属(ぞく)」、

属同士で類縁関係が近い「属」をまとめて「科(か)」、

科同士で類縁関係が近い「科」をまとめて「目(もく)」、というふうに、階層として分けられています。

分類の区切りは階層と呼ばれ、大きな階層から、

「界(かい)」、「門(もん)」、「綱(こう)」、「目(もく)」、「科(か)」、「属(ぞく)」、「種(しゅ)」

に分けられています。

人間はヒトという種類の生物なので、動物界 脊索動物門 哺乳綱 サル目 ヒト科 ヒト属 ヒト種

 普通、グループとか仲間という意味で「類」も使われます。「哺乳綱」とか「鳥綱」と表すよりも、哺乳類とか鳥類と表現するほうが、一般的でおなじみ。

  哺乳類 サル類 ヒト科 ヒト

2.

2020910日のミサで読まれる福音書は以下の通りです。

福音朗読 ルカ627-38

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。627「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

3.

2016.7.10 ()、鹿沼教会司牧訪問に際しての、岡田大司教による年間第15主日の説教。

第一朗読 申命記3010-14

第二朗読 コロサイ115-20

福音朗読 ルカ1025-37

皆さん、おはようございます。

わたくしは24年前の11月、92年の11月にこの教会を訪問したようです。したという記録と写真が残っております。それからいろいろなことがあって、今皆さんを拝見すると、フィリピンから来た方やヴェトナムから来た方もたくさんおられます。わたしたちの教会は非常に国際的な多国籍の教会となっています。お互いにそれぞれの違いを認めて大切にしながら、イエズス様のお望みになる教会、いつくしみ深い人々の教会として、成長するようご一緒にお祈りをし、そして努力をいたしましょう。

今日読まれた福音と聖書について少し分かち合いをしたいと思います。今、矢吹助祭が読んだ福音は、有名な「よいサマリア人」の話であります。追剥に襲われて、半殺しの目にあっていた人を見た、通りがかりのサマリア人。サマリア人というのは、ユダヤ人と仲が悪かった。そのサマリア人が「その人を見て、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行った介抱した。」(1033-34)とあります。ほかの人、その半殺しにあった人を見ても、他の人は知らぬふりをして通り過ぎてしまったが、このサマリア人は憐れに思って、このような人を助ける行為をしたのであります。

この《憐れに思い》という言葉が、今日の福音の教えの中心にあります。そして皆さんご存知のように、フランシスコ教皇様のご意向によって、世界中でいつくしみの特別聖年をわたしたちは祝っています。「天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い、あわれみ深いものでありなさい」と主イエスが言われました。いつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということをわたしたちは特にこの一年よく学び、そして実行するようにいたしましょう。

今日の福音に出てくる《憐れに思い》という言葉ですけれども、福音書はギリシャ語で書かれています。そのギリシャ語の原文は最近有名になりつつある言葉ですけれども、「スプラングニゾマイ」というのですね。「スプラングニゾマイ」。これは内臓、はらわたとかからきている言葉を動詞にしたもので、はらわたがゆさぶられる。日本語でははらわたがゆさぶられるという言い方はあまりない。はらわたが煮えくり返るというのは言うが、それは怒ってる時の表現です。胸がつぶれる思いとか言いますね、日本語の大和言葉の表現では。ここでは人の苦しみ、悲しみを見て体で感じてしまう。頭の問題ではなくて、心、体で人の苦しみ、悲しみに深く共感する、一緒に悲しみ、苦しみを覚えるという意味だそうです。いつくしみの特別聖年にあたって、このいつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということを学ぶようにと教皇様は言っておられる。そもそも人は人の苦しみや悲しみに対して、共感し、そしてその人たちを助けよう、何かできることをしようという心を持っているのであります。そういう心があるけれども、何かの事情でその心の声が鈍くなったり、あるいは聞こえなくなったりしているのかもしれない。

昔、高校生の時ですけれども、中国の偉い人で孟子という人がいたそうで、孔子、孟子、荀子という偉い人がいたんだけれども、孟子さんが言った教え、それは人には人の苦しみを見過ごしにはできない、人のために思わず良いことをしようとする、そういう心が備わっているんですという教えでした。「惻隠の情」。

惻隠というとちょっとわからないかもしれないけれど、惻隠の情という、あるいは惻隠の心があると、そういう教えでありました。

今日の聖書の福音の教え、良いサマリア人が強盗に襲われ、追剥に襲われた人を見て、憐れに思ったということと良く似ている教えだと思います。人間の本性は本来良いものか、悪いものか、この問題はずっと論じられてきた。人間は本来良いものだという人もいれば、悪いものだという人もいる。あるいは本来どちらでもないのだという人もいる。性善説とか、性悪説とか、わたしたちは聞きましたよね。キリスト教ではどうなんだろうか。難しいですけれども、旧約聖書の最初にある創世記の1章では、神様が全てのものをお造りになった次第が述べられていて、最後に人間を造った。そして人間を見て、極めて良いとおっしゃったのですね。我々は極めて良いものなんですよ。その割にはですね、いろいろ人間は悪いことをしていますね。どう説明したら良いのだろうか。これは悩むわけです。わたしが悩むのは勝手ですけども、世界中の人、偉い人がどう説明したらよいか、という問題にぶつかりました。難しいことは置いておいて、聖書によれば、神は人間を良いもの、極めてと付いているのですが、極めて良いものとしてお造りになった。その極めて良いものが、その良さを発揮できていない。元々良い、良いけれどもどうしてか、その良さが出てこない場合がある。でも、だいたいにおいて我々は良いことを知り、良いことを行っているんですね。悪いことばかり見たらキリがないですけれども、人間は本来良いものである。人の苦しみに同情する、人を助けるものなんですね。ただ自分のことも大事なので、ついしそびれてしまう。あるいは自分自身の強い思い、こうしたい、あるいはあの人が邪魔だとかいう思いも出てくる。良い思いと悪い思いの両方が、わたしたちの心の中にはあるのではないでしょうか。

今日の第一朗読を思い出すと、神様の戒めと掟を守ることは難しくないと言っている。いや、難しいとわたしは感じますけれども、難しくないんだよと。神様の教えはどっか遠い所にある、外にあるものではない。あなたの心の中にあるんだよと、自分の中にあるんだよと、そう教えていますね。自分の中にあることに気がつきさえすれば大丈夫ですと、簡単に言うとそういうことを言っているのかなと思います。

また第二朗読のコロサイ書という聖書の朗読でありました。どういう教えであったかと言うと、イエス・キリストは見えない神の見える姿。万物は御子によって、御子のために造られた。神様は目に見えません。しかしイエス・キリストは目に見える人間でした。そこでいつくしみの特別聖年のお祈りというものをもう一度思い出す。「主イエス・キリスト。あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。」と教皇フランシスコが言っている。イエス・キリストは見えない神の見えるみ顔であります。そのイエス・キリストは地上を去る時に、弟子たちに聖霊を注いで、そして聖霊の働きでご自分のように生きられるようにしてくださった。わたしたちは弱い人間です。罪深い人間と言ってもよい。しかしイエス・キリストはご自分の霊、聖霊を送って、聖霊の働きで、イエス・キリストと同じ働き、人々を助ける、自分のことを後回しにして人の苦しみのために働く、その人のところに走り寄ることができる、本来良い人間の働きをすることができるようにしてくださった。そういうように教えています。「あなたがたは神御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(1:22)と書いてある。

今日、皆さんどうしてここに来ましたか。ここに来て何か良いことがあるんですよね。ここに来て別に一銭の得にもならないが、もっと良いこと、神様の恵みを受けることができる。皆さんの心の中に、神様から恵みを受けたい、ミサに与りたい、イエス・キリストのお話しを聞きたい、そういう良い心があるのでここに来ていらっしゃる。ですから、皆さんはすでに聖なる者とされているのであります。

2020年9月11日 (金)

チェノット大使追悼ミサ説教

日本二百五福者殉教者記念日 ミサ説教

2020910()、本郷教会

一昨日の深夜午前129分のこと、駐日教皇大使ジョゼフ・チェノットゥ大司教様がお亡くなりになりました。

享年76歳でした。

チェノットゥ大司教様は、2011年の1020日に日本に着任されました。

2011年といえば、311日に東日本大震災の起こった年です。

日本の司教団は、東日本大震災についてのメッセージを準備して、全会一致で全員の共同の意見としての文書を採択し発表したのでありますが、そのための臨時の会議をしているところに新任の大使として来られたのです。

あれからそろそろ10年になります。

昨年の11月に教皇フランシスコが日本を訪問してくださったので、そのことで大変お忙しかったと思いますが、無事にその責務を果たされました。

インドの人で、ケララ州というキリスト教徒の多いところでお生まれになりました。

インドはヒンドゥー教の国ですけれど、キリスト教徒はどのくらいいるのでしょうか。

なにしろ人口が多いですから、キリスト教徒だけでも大変な数でしょうね。

いろいろなキリスト教の宗派があるようですが、ローマカトリック典礼ではないようで、ほかの典礼の教会だったようです。

それはともかく、昨年11月の教皇フランシスコの来日行事の一連を無事に終えられ、75歳の定年を迎えて故郷への里帰りを楽しみにされていましたが、コロナウイルスの問題で帰国が伸びている最中の58日に倒れた。

58日に倒れて、帰国がかなわないまま、98日にお亡くなりになりました。

58日というと私事で恐縮ですが、ちょうどわたくしも自分の病気で入院している時のことでした。

この訃報をくれた浦野神父様がまだ公式発表前に、「チェノットゥ大使が倒れちゃったけれど、あなたは大丈夫?」と連絡をくださいました。

倒れたのは58日で、亡くなったのは98日ですから、ぴったり4か月。

感慨深いものがあります。

葬儀の日程はまだ発表されていませんが、ある情報によるとインドでおこなうようです。

日本でもおこなうとは思いますが、大使館と司教団が相談中かもしれないですね。

彼が在任中、わたくしは非常に頻繫にチェノットゥ大使とお会いしました。

そうしなければならない、いろいろな用があったのです。

さまざまな場面が思い出されます。

難しい問題もありました。

迷った末、やはりお知らせしないといけないと思い、重い腰を上げて大使館に赴いたこともありました。

あの大使館(駐日ローマ教皇庁大使館)に何度通ったことでしょうか。

そのチェノットゥさんがこんなに早く帰天されるとは思いませんでした。

心から永遠の安息をお祈りいたします。

 

今日は二百五福者殉教者の記念日であります。

日本は殉教者の多い国です。

日本二十六聖人をはじめとして、多くの福者、殉教者がいます。

最近ではペトロ岐部と八十七殉教者が列福されましたね。

二百五人の列福は1867年、まだ禁教令が廃止(1873年)される前ですので、日本の教会を励ますためのピオ九世教皇のご決断だったと思います。

それから百数十年経って、今の日本はどうであろうか。

 

今日の福音はわたくしたちがよく知っている教えであります。

よく知っていて、だから毎日よく実行しているかというと、そうでもない。

いかにキリスト弟子として生きることが難しいかということを思い知らされる教えであります。

しかしこの中のほんの一部でも、わたくしたちはおこなっているとは思うのですね。

各自が胸に手をあてて、このイエスの言葉をどう受け取っているのだろうか。

このような教えを人びとに伝えることがわたくしたちの使命ですが、実行していないことを言葉で伝えてもあまり効果がない。

おこなっていることを言葉で伝えないと、聞く人には響かないわけであります。

 

話はちょっと飛びますが、このところ時間をいただいているので、日本の福音宣教のためになることについて、わたくしの感想を原稿にして、できれば一冊の本にしたいと思って準備中でおります。

いろいろな経緯があって、仏教の教えに今かなり入り込んでしまっています。

そして最近のブログに出しましたが(peterokadatakeoのブロブ 202097日「 山川草木悉皆成仏」)、日本では「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」という言葉があります。

どこかで見たか聞いたかしたことがあるかもしれません。

「山川草木(さんせんそうもく)」、つまり山川(やまかわ)、草木(くさき)「悉皆(しっかい)」というのはすべて、「成仏(じょうぶつ)」は、仏になる。

仏になるのか、なっているのかそこは解釈が分かれますけれど、これは仏教の涅槃経(ねはんきょう)というお経から来たそうで、日本ではかなり発展したというか変えられて、そもそも、すべての生きとし生ける人間には仏性=仏の性質がある、仏の種が蒔かれているという意味だったそうです。

可能性がある、可能性があっても仏になっているわけではない。

我々がそうですけれども、すべてキリストの種が蒔かれている。

でもこういう教えを実行して輝いているというわけではない。

そういう人もいますが、非常に稀である。

まだ仏にはなっていないが、仏になれますよという、それは生きとし生ける人間のことだけれども、人間から広がって命あるすべてのもの、命があるかないか分からないけれど

山川草木ですから、存在するすべてのものが仏様の現れであるという、雄大な思想になっているわけです。

これは誰が言い出したのか、誰なのかを調べたけれど、日本の中で段々そうなってきたと

いうことであります。

時々ですけれども、嫌なやつだなあと思う時がある。

どうしてこんな人がいるのだろうと思ってしまうことがある。

それでもイエス様の言葉は、あなたが嫌だと思う人も、敵と思うような人も愛しなさい、大切にしなさい。

人間性に反することですけれども。

日本では、どんな人も仏さまだという考えが何となくある。

戦争でも、戦う時はやりますけれど死んでしまえば皆仏さまだ、敵も味方もないというような考え方もある。

そうすると今のわたくしたちとしては具体的にどうするのかと思いながら、話はいくつにも分かれてしまい纏まりがないのですけれども、

そもそも仏教では、存在するもの自体が本当に存在するのかという問題から出発している訳なので、そこを非常に楽天的にとらえて、仏さまはどこにでもいるのだというふうに捉え直したのが日本人であるというふうに考えられるのです。

だからキリスト教徒もそれに負けないように、教会の現実をみると、わたくしなどを見ると元気が出ないかもしれませんが、「山川草木悉皆成仏」、キリスト教ではどういうことになるのか、その辺を黙想していただけると良いかなあと思います。

ーーー

第一朗読  コリントの信徒への手紙 一 8:1b-711-13
(皆さん、)知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げ(ます)。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。


しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

福音朗読  ルカによる福音書 6:27-38
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

 

 

 

 

 

2020年9月 7日 (月)

山川草木悉皆成仏

    その4 悪についての小考察のその4 

「自己証明」から「山川(さんせん)草木(そうもく)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」の考え方へ

 

毎年、815日はカトリック教会では聖母マリアの被昇天の祭日です。教皇ピオ十二世は、聖母の被昇天をすべての信者が信ずべき教義であると宣言しました。マリアは無原罪に宿った方であり、その身体は死後腐敗する事なく天に挙がられた、と教えています。

さて、このところ偉大な日本の哲学者、西田幾多郎の思想に悪戦苦闘しています。難しいです。とても西田の著書を解読するには至りません。いまぼんやりと思うことを以下に記してみます。

西田幾多郎は1945年、終戦の815日を前にして67日に亡くなっています。75歳でした。明治・大正・昭和の激動の時代を生きました。八人の子供に恵まれましたがそのうち五人に先立たれていますし、最初の妻にも五年間の病床を経て先立たれています。家族についてだけでも、悲しみの体験の多い日々を過ごしています。

昔、司祭になるための勉強で、哲学を学びましたが、今思い出すのは、次の命題です。

「哲学の初めは驚きである。」

驚きはadmiratio という言葉でした。むしろ感嘆というべきかもしれません。この世界には驚くべき素晴らしいことで満ちている、という内容ではなかったかと思います。しかし、西田にとって哲学の動機は悲哀という事でした。人生の途上で遭遇する数々の哀しい出来事が彼をして人生の意味への思索へと駆り立てたのでした。彼は座禅をする人であり、また浄土真宗に深く帰依する人でしたが、あくまでも哲学者として、人生の困難な問題に取り組みました。彼の哲学論文はその悪戦苦闘の記録であります。もちろん宗教を信じる者にとって信仰は人生の苦難を克服するための慰めであり支えであります。そこに自分を託しさえすれば、思索によって苦闘する必要はないでしょうに、彼は人間として極限までこの問題、人生の真実を見つめ理論化しようと努めたようであります。

 

さて、『善の研究』で西田は、「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

人は自分を直接見ることが出来ません。鏡に映して自分の顔を見ます。鏡に映る自分はその時の自分の姿です。しかし、左右が反対になっていたりして、歪んで写ったりして、完全にそのままの自分を正確に映しているわけではありません。

そもそも自分とは何でしょうか。生まれたばかりの幼児には自分と他の人間との区別はありません。母と一体の存在です。次第に自分と自分の外との関係を知るようになりママス。自分を母との関係を知り、家族、そして、外界との関係を漠然と知るようになります。人は自分と自分以外の人とのかかわりの中で自分を位置づけしています。

仮にここに一人の男性がいるとします。彼が結婚していれば、妻に対して「夫」という立場になります。彼のことを妻は何と呼ぶでしょうか。もし子どもができれば、いつの間には妻は夫を「お父さん」と呼ぶようになります。夫が自分の父ではないことは十分に承知しているのですが、それでも自分の立場を子どもに置き替えて「お父さん」と呼ぶ場合が多いのです。もちろん夫は自分の子供に向かっては自分を、「お父さん」と呼びようになることが多いです。それは子どもにとって自分が何であるかを無意識にでも考慮しての言い方でしょう。

もし彼が教師をしているとすれば、彼は教室では自分のことを「先生は、昨日は都合によって授業を休みました。」というかもしれません。

もし彼が会社員であれば、上司に向かって自分のことを「わたしは」というでしょうか。そうかもしれないが、そういわないで、主語を書略して、直接相手の肩書を呼ぶことが多いと思います。「わたし・岡田は」ということも出来ますし、相手の上司に向かっては、その人の肩書をつけて呼び掛け、例えば「田中課長」とか「渡邊社長」とかという事ができます。日本語では、相手がだれであって何時も不変の独立した「わたくし」という言い方は通常していないのです。しばしば主語は省略されますので、人は前後の文脈から、主語が誰であるのか、を察しなければならないのです。誰が誰に何故何を言うのか、というような論理的な話し方は敬遠されます。角が立って聞き難いのです。

 

人は自分を直接見ることが出来ない。直接知ることが出来ない。他者に映った自分を通して自分を知るのです。家庭で子どもが見る父の姿と、社員が会社で見る、社長である父親の姿はかなり異なった物でありましょう。

人は他者を何時も、その立場から、肩書のある人として見ているのです。人を紹介する時も、某大学文学部哲学科准教授、という肩書で紹介すると、何となく、その人のイメージが浮かんできます。人はすでの、その肩書への理解を持っていて、その理解の枠の中でその人を理解するようにするのです。

 

人は同じ人でもその役割・立場の違いにより、いろいろな顔を持っているという事が分かったとして、それでも、いつでも、どんな場合でも変わらない自分とは何でしょうか。そもそも人はその身体からして刻々新陳代謝して変化しつつある存在ではないでしょうか。それは昨日の自分と今日の自分とは同じ自分であるのか。同じであるが違う、違うが同じ、という事になるのでないか。

例えば人は他者と契約します。買い物がそうです。何々を幾らで売り買うという約束をするとして、日にちが経ってしまうと、その約束はそのまま有効でしょうか。普通は有効期間を定めています。もし違う人間となるのでしたら何も約束出来ないことになります。人の状態は日々変わることを互いに諒解しながら、特段のことについては、期間を区切って、有効な契約として、信頼をもって実行することを互いに前提としているのです。

 

人は自分が変わらない自分であるという自己証明をどうするのか。最近、証明するための書類(ないしそのコピー)の提出を求められることが増えました。マイナンバー、運転免許証、パスポート、健康保険証などをもって、自分は東京文京区に居住する岡田武夫という住民であることを証明しなければならないのです。住民であることはそのようにして証明できますが、人は、住所、所属、肩書などを離れて存在する自分をどう証明するのでしょうか。

 

人は自分で自分を証明できないのです。電話をかけて、「あの、わたしですが何々さんいますか。」と訊ねても、電話で応対する人が電話してきた人を知らなければ、「どちら様ですか。」と誰何することになります。自分は自分であることを知っていて、それ以上当然のことはないのですが、それは相手には通じないのです。自分は岡田武夫という国民であることは国家に証明したもらうほかありません。

日本国籍を持つ者は一億二千万人はいるでしょう。自分はその中の一人に過ぎないのです。唯一無二の自分であることをどう自覚できるでしょうか。理論的に言って、自分という人間は、かつてなかったしこれからも現れないはずの存在です。唯一無二の自分を唯一無二としてくれるのは何か。自分で自分を証明しても、その証明している自分を誰が証明するのか。

例えば、岡田武夫-1という人がいます。その同じ岡田が岡田-2を証明します。するとその岡田を証明した岡田―2は誰が証明するのか。そこで岡田―3が必要になります。するとその岡田―3を証明する岡田―4が必要になります。かくて無限に自己証明の連鎖が遡ることになるのです。かくして、同じ岡田が同じ岡田を証明できないということになります。ではどうしたらよいのでしょうか。

結局、人を証明するのは人を超越した存在である超越者(例えば神)でなければならないでしょう。キリスト教の場合は、イエス・キリストという存在が、父である神へ取り次いでくださる仲介者であると考えられています。先日、聖クララの手紙を読みましたが、聖クララは主イエスをわたしたちの聖なる鏡と呼んでいます。

西田幾多郎はこの問題をどう解決したのでしょうか。彼は、真の自分を映す鏡を想定いします。その鏡を「場所」と呼んでいます。ではこの場所とは何か。場所とは、自分を空しくして映し出す場所です。その「場所」の理解は難解です。あらためて次の機会に考察してみましょう。

 

さて自己同一の証明です。同じ自己でありながら自己の中には、対立と葛藤があります。人は自分が秩序正しく統一された存在ではないと感じます。第一に病気ということがあります。病気は身体の秩序に乱れです。心の問題があります。人の心は、憎しみ、恨み、妬み、不安、乱れた欲情で揺れ動いています。人はしばしば平和に収まることから遠ざけられているのです。同じ自己でありながら自己の中に矛盾があり、調和がない。西田の有名な「絶対自己矛盾的自己同一」という難しい用語はこの人間の矛盾をも含む状態を指しているのでしょうか。

 

この問題に関して仏教では何と考えるのでしょうか。自己の解脱、悟りによって苦悩からの解放を説くブッダの教えから出発した仏教は、大乗仏教に発展し、さらに自分自身と如来の一致を説く教えに変容していったように思われます。軽率な結論は現に慎むべきですが、非常に魅力的な考え方だと思いますので、以下にその一端を紹介します。

 

 

「小考察その3」で引用しましたが、西田は以下のように述べています。

「真の自己を知るとは人類一般の善と一つになることであり、神の意志と一致することとなる。しかし、真の自己を知り神と合一するには、主客合一の力を得なければならない。そのためには、自分の偽我を殺し尽くし、この世の欲に死んで蘇(よみがえ)るのでなければならない。」(第十三章 完全なる善行 四 より)

 

この結論は、西田幾多郎個人の宗教体験と宗教理解を背景にしています。西さ個人は熱心な座禅の実践者でありまた浄土真宗に深く傾倒した人でもあります。そこで日本における仏教について今できうる限りのささやかな考察をしてみたいと考えました。(以下は主として、佐々木閑「集中講義『大乗仏教』、別冊100de 名著」NHK出版によりますが適宜他の資料も参考にしています。)

 

仏教は今から二千五百年前にインド北部(現・ネパール)の釈迦族の王子として生まれたゴータマ・シッダルタを開祖とする宗教です。(以下、釈迦という。)釈迦は人生の苦悩を克服するために修行し35歳の時に菩提樹のもとで悟りを開きました。釈迦は80歳で亡くなるまで各地を遍歴し自分の悟りを教えました。この教えが仏教 の基本であります。仏教は中国を経て日本に伝えられ、中国と日本での新たな変貌を遂げました。それはもはや釈迦の最初の教えとは似ても似つかない『大乗仏教』の教えとなっています。佐々木閑『大乗仏教』は繰り返し、『大乗仏教は本来の釈迦の教えとは異なる別個の宗教である」といっています。(p)浄土教については「ここまで変貌してしまうと、『釈迦の仏教』とは似ても似つかないものです。」(128)

しかしだからといって著者は大乗仏教の価値を否定しないでむしろ評しているのです。例えば次のように言っています。

「浄土教の教えは、お釈迦様の教えとはかけ離れたものになっているのは事実ですし、仏教で最も重要であるはずのお釈迦さまもどこかに吹っ飛んでしまっています。『釈迦の仏教』からは、『法華経』よりもさらに遠くに行ってしまった印象は否めません。でも、それはそれで価値を認めるべきです。宗教に正しいも間違っているもありません。大事なのは、「それを信じた人が幸せでいられるかどうか」、この一点です。」(132)

大乗仏教はそれぞれ自分たちのよって立つ基準となる経典を定めました。そのなかでも『般若経』『法華経』『華厳経』『涅槃経』などがよく知られています。それぞれ大変魅力的な内容を持った経典です。それぞれ民衆の救いという観点を重視しています。そしてそのために道をそれぞれ誰でも歩めるような具体的な道筋を提供するようになっています。

今日日本の仏教宗派のほとんどは、人はすでに生まれながらに「仏性」、ブッダとしての本性・性質を持っている、と説いています。自らの中に在る仏性に気づき、人として正しく生きていれば誰もがブッダに成れる、と説いています。『涅槃経』という経典は、ブッダはこの世に常に存在しており、さらに「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじゅうしつうぶっしょう)」という思想を唱えています。「一切衆生」とはすべての生き物、「悉」とは「ことごとく」という意味ですので、涅槃経は、すべて生きとし生けるものは仏性、仏の本性を持っていると説いているのです。「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじゅうしつうぶっしょう)」という思想はさらに発展して日本では「山川(さんせん)草木(そうもく)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」となりました。この言い方については以下の興味深い記事を参照ください。

 

 宮沢賢治の詩の世界、伝記的事項、「山川草木悉皆成仏」の由来(1)より、2031 

  もともとインドの大乗仏教では、成仏できるのは「有情」あるいは「衆生」と呼ばれる「心を持った生き物」、すなわち人間と動物に限るとされていました。それが中国の三論宗や華厳宗において、「草木成仏」という思想が生まれて、植物も成仏できると考えられるようになったのだそうです。

 これがさらに日本に入ると、「草木国土悉皆成仏」という形で、無機物である「国土」までもが成仏できるのだと説かれるようになったということで、このあたりの事情は、岡田真美子氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という論文に記されています。「草木国土悉皆成仏」という言葉は、能の謡曲には経文の一節としてしばしば登場するそうですが、現実の経典中にはこの言葉は見当たらず、末木文美士氏によれば、最初に登場するのは、平安時代の天台僧安然が著した『斟定草木成仏私記』においてだということです。

 一方、現代において、この「草木国土悉皆成仏」よりもはるかに親しまれているのは、「山川草木悉皆成仏」という言葉です。しかし、上記の岡田氏の論文によれば、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、仏教関係の文献を歴史的にいくら調査しても見つからず、むしろごく最近になってから、主に仏教者以外の人々によって使用されているというのです。

 「山川草木」という言葉も、仏典に限らず一般の漢文ではあまり用いられないもので、同じ意味の「山河草木」であれば、『大乗玄論巻第三』に登場するということです。すなわち、「古文、漢文の世界では、むしろ「山川草木」より「山河草木」ということばのほうが伝統的である」というのが、岡田氏の見立てです。

  また、宮本正尊氏は1961年に「「草木國土悉皆成佛」の佛性論的意義とその作者」という論文において、「草木国土悉皆成仏」という言葉の由来について綿密な調査を行ない、この言葉も現存する大蔵経中のどの仏教文献にも見出せないことを明らかにしています。そして、驚くべきことにこの論文では、現代でははるかに普及している「山川草木悉皆成仏」という言葉は、一切触れられていないのです。

 これらの所見から岡田氏は、「「山川草木悉皆成仏」は伝統的な仏教用語ではなく、少なくとも1961年以降、現代になってから人口に膾炙するようになった仏教用語らしい」という仮説を立てます。

 これに関連して袴谷憲昭氏によると、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、哲学者の梅原猛氏がさかんに用いて有名になり、さらに1986年に中曽根康弘首相(当時)が施政方針演説中に用いたことがきっかけで、広く世間に知られるようになったのだということです。梅原氏が委員をしていた臨教審の答申が中曽根の演説の前に出されていることから、袴谷氏がその答申内容を調べてみると、予想通りこの思想が盛り込まれていたことを確かめた上で、中曽根は梅原委員から「山川草木悉皆成仏」ということばを教えられたのであろうと推測しています。

  このような流れから岡田真美子氏は、「山川草木悉皆成仏」という言葉は梅原猛氏による造語ではないかと考え、梅原氏に質問の手紙を出したということですが、返事が得られずにいました。そんな時、岡田氏の夫君の岡田行弘氏が、たまたま新幹線で梅原氏に遭遇し、「山川草木悉皆成仏」は氏の造語ですかと尋ねたところ、氏はそれを肯定し、「山川草木悉皆成仏 梅原猛」と紙に書いてくれたのだということです。

 以上、ちょっとしたミステリーのようなお話で、一見すると歴史的由緒のありそうな有り難い言葉が、実はごく最近になって作られたものだったという結論は驚きですし、とりわけ「たまたま新幹線で遭遇して・・・」という展開は、いかにも現代的で面白いです。この謎解きをコンパクトにまとめ、現代の環境問題にもつながる岡田氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」は、知的刺激にもあふれた魅力的な論文です。

 ということで、この論文を読んだ時には「一件落着」と思って頭の片隅にしまい込んでいたのですが、ふと賢治の書簡を見ると、「山川草木悉皆成仏」に非常に似た言葉が、二度も登場するではありませんか。

ねがはくはこの功徳をあまねく一切に及ぼして十界百界もろともに仝じく仏道成就せん。 一人成仏すれば三千大千世界山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ。(保阪嘉内あて書簡631918519日)

わが成仏の日は山川草木みな成仏する。山川草木すでに絶対の姿ならば我が対なく不可思儀ならばそれでよささうなものですがそうではありません。(保阪嘉内あて書簡761918627日)

前者には「虫魚禽獣」という語句が余分に入っていますが、それでも意味としては同じですし、後者の「山川草木みな成仏」に至っては、「山川草木悉皆成仏」と、実質的にほぼ同じとも言えるでしょう。岡田真美子氏が指摘するところの「山河草木」ではなく「山川草木」になっている語法も、これが伝統的ではなく新しいものである可能性を示唆しています。

一方で、これが当時の賢治によるオリジナルな造語であるとも思えず、また「山川草木・・・成仏」という型は二つの書簡に共通していることから、やはり賢治の使用の元となる何らかの出典が、当時存在したのではないかと考えるのが、自然な感じがします。

 賢治が上記の書簡を書いた1918年(大正7年)は、彼が田中智学の思想に入れ込み始めた時期ですから、ひょっとして智学の著書に由来しているのではないかとも思い、『本化摂折論』や『日蓮聖人の教義』や『妙宗式目講義録』の一部をざっと見てみたのですが、見つけることはできませんでした。

 ということで、岡田真美子氏による調査をさらに推し進めるために、賢治の「山川草木みな成仏」の元となる出典があるのならば、それをぜひ知りたいと思っている次第です。

 また、もしも「出典」なるものは存在せず、これが賢治によって初めて使用された言いまわしだったとすると、宮澤賢治にも造詣が深かった梅原猛氏のことですから、当然ながらこれらの賢治の書簡を読んでいて、その潜在的な記憶を意識しないまま、1970年代になって「山川草木悉皆成仏」という言葉を作り出したということになるのでしょう。

 

本来釈迦の仏教では、各自が修行して苦悩から解脱することを教える自力救済の宗教でしたが、中国から日本へ伝達される過程で著しく実質的変貌を遂げ、成仏の主体も、人間から他の生き物へ拡大され、されに生物以外の被造物である山川草木にまで拡張されたのでした。

ここでキリスト教の立場から想起すべきことがあります。人間は創造主から自然等の被造物を治める務めを受けたと考え、その役割を濫用し、今日の環境破壊という問題を引き起こしています。それは教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』の指摘するところです。人間は被造物の一部であり、その生存は自然に依存しており、大地とのつながりの中で存立できて来たことを失念して思い上がった暴挙に出て、自らの足元を危殆に瀕ししてしまっています。創世記二章によれば、最初の人間アダムとイブが創造主への従順と信頼をゆるがせにするという過ちを犯したために、人間と自然との関係に罅(ひび)が入ってしまい、人間と自然とのあるべき良好な関係が壊れてしまったのでした。この状態は修復されなければなりません。聖書は、神の救いの御業の結果「新しい天と新しい地」が完成すると言っています。(ヨハネの黙示211、二ペトロ313、イザヤ6517など) さらに使徒パウロは被造物のあがないに言及しています。(以下参照)

  ローマ書813-25

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(813-25)

人間は自分たちだけの救いを考えてきましたが、他の被造物との切っても切れない関係にある人間は、自然・宇宙のあがないと救いの中に自分の救いを位置付けなければならないとおもいます。

 

ところで自分の中に在る仏性に気づくとは「主観と客観、自己と世界が分かれる以前の存在そのものに立ち戻る」ことではないかと考えられます。西田幾多郎が目指した境地はこれかもしれません。そのために雑念を取り払い心に無にすることが必要となります。座禅はこの「無心」の境地を目指す修行ではないでしょうか。道元が創始者の曹洞宗では「只管打座」を唱えています。道元はその際、座禅は「人は本来仏性を有している。座禅は自分の力で煩悩を消して悟りに至る修行ではなく、自分がすでにブッダになっていることを確認する作業である」と考えました。(『大乗仏教』174-175㌻より)

しかしこの考え方は誤解されやすいです。自分はすでにブッダになっているから何も努力の修行も不要になったと考えるとしたら、それは危険な考え方です。すでにブッダになったとはどういう意味か。煩悩を抱えたままであってもすでにブッダが宿っていて、共に、煩悩と戦ってくれると考えたほうが良いと思います。ブッダになる可能性を与えられている、ブッダになる種、あるいは胎児が宿っていると考えてもよいでしょう。(高崎直道『仏性とは何か』法蔵館文庫、参照)

さて、「仏性」「山川草木悉皆成仏」について現在の曹洞宗はどう考えているのでしょうか。これに応えることは甚だ僭越ですが以下の記事を参考に引用することをお許しください。

   この問題について現在の曹洞宗は例えば次にように説明しているようである。

以下は曹洞宗東海管区教化センター、道元さまのお言葉、正法眼蔵諸弁道話の巻より

 

「佛家には教の殊劣を対論することなく、法の深浅をえらばず、ただし修行の真偽をし

るべし。草華山水にひかれて、仏道に流入することありき。いはんや広大の文字は萬象

にあまりてなほゆたかなり。転大法輪また一塵にをさまれり。しかあればすなはち即心

即佛のことば、なほこれ水中の月なり、即座成仏のむね、さらにまたかがみのうちのか

げなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直証菩提の修行をすすむるに、佛祖

単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。」

真言宗では「即心是佛 即心作佛といふて、多劫の修行をふることなく、一座に五佛の正覚をとなふ」つまり是の心がそのまま佛であるから、あらためて修行しなくても即座に佛の位につけるという教えがあります。但しここにいう心とは「得道妙心」の心であり、欲望や煩悩妄想に侵されている自己中心的な心ではありません。否そのような心もある意味からはそれに含まれるのかもしれません。しかし「心」というのはやはり、いわゆる心の奥の奥にあるところの宇宙をあらしめているところの純粋な「心」でなければならないのであります。つまり心理学的に言うところの心ではなく、佛の真心という時の「心」なのであります。これを佛性とか法性とか真如とか言いますが、これを究明することが出来た人を悟りを得た人、つまり「覚者」というのであります。そしてそのような心の世界を悟りの世界、浄土ともいうことができると思います。この世界を日常体現し、この佛の真心で日常の行動の価値基準を決め規定するならば、この人は悟りを成就した人といい、「是心作佛」ということになります。この「心」を調整すれば宇宙の真理の世界が現れ、毘廬遮那佛の世界に住することが出来るという教えがあります。この「心」の調整の最上無為の方法を道元さまは「坐禅」であると説かれるのであります。仏法にはお釈迦さまの教えを法華経を中心とか華厳経を中心とか般若経を中心とかさまざまな中心のおきかたがありますが、もともと宗教とは思想・観念だけにとどまるものではありません。むしろその教えによって日常生活が豊かになり、限られた生命を全うできるかということが大切であります。したがって教の殊劣を対論し、法の深浅を論ずることは、無意味なことと言わなければなりません。いずれの教えもお釈迦さまの説かれた教えであり、どの教えから仏法に入っても悟りの世界は開けるのであります。要は実践こそ最も大切なことであります。正しい実践修行をするなかで、例えば草華山水を観ることの機縁によって悟りの境地に到ることもあるのであります。渓川のせせらぎの音を聴くことの機縁によって開悟することもありましょう。「草華山水にひかれて、仏道に流入することありき。」とはこのことであります。また天地自然宇宙万物のあるがままの姿こそ真理そのものであり、広大な文字であります。この生きた文字を観ることなく、教義の深浅を論じ、観念の世界にのみとどまるなど無意味なことであります。一片の塵にも宇宙の真理が宿り、それを観じ実践するならば「いはんや広大の文字は萬象にあまりてなほゆたかなり。転大法輪また一塵におさまれり」となるのであります。あらゆる存在のあるがままの相こそ転大法輪であり、生きた経巻であります。身心一如、修証一等という教えがありますが、これらの教えは仏法は観念ではなく実践であるということを説いたものであります。このことを道元さまは「しかあればすなはち即心即佛のことば、なほこれ水中の月なり、即座成仏のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべか

らず。いま直証菩提の修行をすすむるに、佛祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。」と説かれるのであります。

 

正法眼蔵仏性の巻、より。

釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易。これわれらが大師釈尊の獅

子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏、一切祖師の頂寧眼晴なり。」

この「仏性の巻」は先の「正法眼蔵弁道話」の巻、「正法眼蔵現成公案の巻」と併せて正法眼蔵の中では特に大切な巻とされています。この三巻の中で道元さまは「真理」を説き、「悟り」について説いておられます。この巻でいう「仏性」ということにつきまして道元さまが比叡山でのご修行中よりいだき続けられた疑問でありました。しかし、当時日本では道元さまのいだく疑問を満足に解きあかしてくれる人がいませんでした。それで道元さまはこの疑問を解くべく中国に渡られたのであります。この巻は仁治二年十月興聖宝林寺において弟子たちに説かれた巻であります。仏性ということは大乗仏教の成立とともに取り上げられた大きな問題であり、特に「大般涅槃経」ではこれを深く掘り下げられています。道元さまは中国に渡っても、すぐにはこの仏性について納得できる答を得ることが出来ませんでした。それで道元さまは諸々の経典、諸説を学び、多くの祖師に参じたのであります。ここにあります「釈迦牟尼仏言一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」というくだりは「大般涅槃経」の中にある一句であります。この意味は普通に読みますと「お釈迦様が言われるには一切衆生にはことごとく仏性がある。それは常住で、変わることが無い。」ということになるのでありますが、実は道元さまはそのようには捉えていなかったのであります。仏性とは「仏であることの本質」であります。ここでいう仏というのは「ものごと」が真理に従って、あるべきようにあることでありまして、執着を離れることであります。先の現成公案の巻や弁道話の巻においてお話しいたしました「あるがままにする」「空」の道理に従って「因縁所生」にあるということをいうのであります。 それを覚られたのがお釈迦さまであり、諸仏諸祖であります。曹洞宗では道元さまの師匠天童山の如浄禅師までにお釈迦さまから数えて五十人の祖師方がいます。その方々は仏性の道理を正しく捉えて悟られたのであります。そして道元さまは一切衆生、悉有仏性を「一切衆生はことごとく仏性がある」とは捉えず、涅槃経にありますように「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」と読み、ことごとくあるその全存在が衆であり、その内も外も全て仏性であるというのであります。お釈迦さまの全存在、全行動が仏性であります。諸仏、諸祖の皮肉骨髄、頂寧眼晴全存在、全行動が仏性であるということになります。さらに申せば森羅万象全てが仏性ということになります。また「仏性は成仏以後の荘厳なり」と説いておられます。一切は衆生であり、全存在が仏性であるというのでありますが、しかし、この仏性は弁道話のところでもお話しいたしましたように「修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」であります。発心し、修行し、菩提し、涅槃してはじめて現成するのであります。つめて言えば、正しい発心、修行、菩提、涅槃がそのまま仏性ということになります。

自己のあるべき姿とは「自己をわするるなり」であります。つまり無我になりきることであります。それは自己と他己との対立を捨て去ることであり、執着を離れることであります。そうすることにより「萬法がすすみて自己を修証する」境地が開けるのであります。

道元さまのことばに修証一如というのがありましたが実践の中に悟りがある、あるがままの実践が本来の衆生であり、全存在であり、悟りであります。

正しい体験の世界に没入するとき、融通無礙の自己を会得しうるのであります。仏性は常住不滅でありまして、悟りを開かれた祖師方は不断の仏作仏行により煩悩の火が二度と起こらないのであります。したがって開悟された祖師方でもその後もたゆまぬ修行をつづけられるのであります。行持道環であります。道元さまはこのことを次のように詠じておられます。

 峰の色 渓のひびきも

みなながら

我釈迦牟尼の声と姿と 

 

それはキリスト者の場合と同じです。すでにイエス・キリストと出会い、聖霊を受けて者はキリスト者です。キリスト者の体は聖霊の神殿となっています。しかし、悪の誘惑から完全に開放されているわけではありません。日々聖霊の導きを受けて浄められ新たにされより聖なる者となるべき存在です。使徒パウロが言っているように、キリスト者は肉の業を避け、礼の導きに従って歩むべきものです。ガラテヤ書は教えています。

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しまししょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。(ガラテヤ516-26)

 

 

2020年8月15日 (土)

自己証明について

悪についてのささやかな考察 その四 に替えて「自己証明について」という随想を掲載します。

 

自己証明について―――被昇天祭に想う(悪についてのささやかな考察、その四に替えて)

 

今日2020年8月15日はカトリック教会では聖母マリアの被昇天の祭日です。教皇ピオ十二世は、聖母の被昇天をすべての信者が信ずべき教義であると宣言しました。マリアは無原罪に宿った方であり、その身体は死後腐敗する事なく天に挙がられた、と教えています。

さて、このところ偉大な日本の哲学者、西田幾多郎の思想に悪戦苦闘しています。難しいです。とても西田の著書を解読するには至りません。いまぼんやりと思うことを以下に記してみます。

西田幾多郎は1945年、終戦の8月15日を前にして6月7日に亡くなっています。75歳でした。明治・大正・昭和の激動の時代を生きました。八人の子供に恵まれましたがそのうち五人に先立たれていますし、最初の妻にも五年間の病床を経て先立たれています。家族についてだけでも、悲しみの体験の多い日々を過ごしています。

昔、司祭になるための勉強で、哲学を学びましたが、今思い出すのは、次の命題です。

「哲学の初めは驚きである。」

驚きはadmiratio という言葉でした。むしろ感嘆というべきかもしれません。この世界には驚くべき素晴らしいことで満ちている、という内容ではなかったかと思います。しかし、西田にとって哲学の動機は悲哀という事でした。人生の途上で遭遇する数々の哀しい出来事が彼をして人生の意味への思索へと駆り立てたのでした。彼は座禅をする人であり、また浄土真宗に深く帰依する人でしたが、あくまでも哲学者として、人生の困難な問題に取り組みました。彼の哲学論文はその悪戦苦闘の記録であります。もちろん宗教を信じる者にとって信仰は人生の苦難を克服するための慰めであり支えであります。そこに自分を託しさえすれば、思索によって苦闘する必要はないでしょうに、彼は人間として極限までこの問題、人生の真実を見つめ理論化しようと努めたようであります。

 

さて、『善の研究』で西田は、「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

人は自分を直接見ることが出来ません。鏡に映して自分の顔を見ます。鏡に映る自分はその時の自分の姿です。しかし、左右が反対になっていたりして、歪んで写ったりして、完全にそのままの自分を正確に映しているわけではありません。

そもそも自分とは何でしょうか。生まれたばかりの幼児には自分と他の人間との区別はありません。母と一体の存在です。次第に自分と自分の外との関係を知るようになりママス。自分を母との関係を知り、家族、そして、外界との関係を漠然と知るようになります。人は自分と自分以外の人とのかかわりの中で自分を位置づけしています。

仮にここに一人の男性がいるとします。彼が結婚していれば、妻に対して「夫」という立場になります。彼のことを妻は何と呼ぶでしょうか。もし子どもができれば、いつの間には妻は夫を「お父さん」と呼ぶようになります。夫が自分の父ではないことは十分に承知しているのですが、それでも自分の立場を子どもに置き替えて「お父さん」と呼ぶ場合が多いのです。もちろん夫は自分の子供に向かっては自分を、「お父さん」と呼びようになることが多いです。それは子どもにとって自分が何であるかを無意識にでも考慮しての言い方でしょう。

もし彼が教師をしているとすれば、彼は教室では自分のことを「先生は、昨日は都合によって授業を休みました。」というかもしれません。

もし彼が会社員であれば、上司に向かって自分のことを「わたしは」というでしょうか。そうかもしれないが、そういわないで、主語を書略して、直接相手の肩書を呼ぶことが多いと思います。「わたし・岡田は」ということも出来ますし、相手の上司に向かっては、その人の肩書をつけて呼び掛け、例えば「田中課長」とか「渡邊社長」とかという事ができます。日本語では、相手がだれであって何時も不変の独立した「わたくし」という言い方は通常していないのです。しばしば主語は省略されますので、人は前後の文脈から、主語が誰であるのか、を察しなければならないのです。誰が誰に何故何を言うのか、というような論理的な話し方は敬遠されます。角が立って聞き難いのです。

 

人は自分を直接見ることが出来ない。直接知ることが出来ない。他者に映った自分を通して自分を知るのです。家庭で子どもが見る父の姿と、社員が会社で見る、社長である父親の姿はかなり異なった物でありましょう。

人は他者を何時も、その立場から、肩書のある人として見ているのです。人を紹介する時も、某大学文学部哲学科准教授、という肩書で紹介すると、何となく、その人のイメージが浮かんできます。人はすでの、その肩書への理解を持っていて、その理解の枠の中でその人を理解するようにするのです。

 

人は同じ人でもその役割・立場の違いにより、いろいろな顔を持っているという事が分かったとして、それでも、いつでも、どんな場合でも変わらない自分とは何でしょうか。そもそも人はその身体からして刻々新陳代謝して変化しつつある存在ではないでしょうか。それは昨日の自分と今日の自分とは同じ自分であるのか。同じであるが違う、違うが同じ、という事になるのでないか。

例えば人は他者と契約します。買い物がそうです。何々を幾らで売り買うという約束をするとして、日にちが経ってしまうと、その約束はそのまま有効でしょうか。普通は有効期間を定めています。もし違う人間となるのでしたら何も約束出来ないことになります。人の状態は日々変わることを互いに諒解しながら、特段のことについては、期間を区切って、有効な契約として、信頼をもって実行することを互いに前提としているのです。

 

人は自分が変わらない自分であるという自己証明をどうするのか。最近、証明するための書類(ないしそのコピー)の提出を求められることが増えました。マイナンバー、運転免許証、パスポート、健康保険証などをもって、自分は東京文京区に居住する岡田武夫という住民であることを証明しなければならないのです。住民であることはそのようにして証明できますが、人は、住所、所属、肩書などを離れて存在する自分をどう証明するのでしょうか。

 

人は自分で自分を証明できないのです。電話をかけて、「あの、わたしですが何々さんいますか。」と訊ねても、電話で応対する人が電話してきた人を知らなければ、「どちら様ですか。」と誰何することになります。自分は自分であることを知っていて、それ以上当然のことはないのですが、それは相手には通じないのです。自分は岡田武夫という国民であることは国家に証明したもらうほかありません。

日本国籍を持つ者は一億二千万人はいるでしょう。自分はその中の一人に過ぎないのです。唯一無二の自分であることをどう自覚できるでしょうか。理論的に言って、自分という人間は、かつてなかったしこれからも現れないはずの存在です。唯一無二の自分を唯一無二としてくれるのは何か。自分で自分を証明しても、その証明している自分を誰が証明するのか。

例えば、岡田武夫-1という人がいます。その同じ岡田が岡田-2を証明します。するとその岡田を証明した岡田―2は誰が証明するのか。そこで岡田―3が必要になります。するとその岡田―3を証明する岡田―4が必要になります。かくて無限に自己証明の連鎖が遡ることになるのです。かくして、同じ岡田が同じ岡田を証明できないということになります。ではどうしたらよいのでしょうか。

結局、人を証明するのは人を超越した存在である超越者(例えば神)でなければならないでしょう。キリスト教の場合は、イエス・キリストという存在が、父である神へ取り次いでくださる仲介者であると考えられています。先日、聖クララの手紙を読みましたが、聖クララは主イエスをわたしたちの聖なる鏡と呼んでいます。

西田幾多郎はこの問題をどう解決したのでしょうか。彼は、真の自分を映す鏡を想定いします。その鏡を「場所」と呼んでいます。ではこの場所とは何か。場所とは、自分を空しくして映し出す場所です。その「場所」の理解は難解です。あらためて次の機会に考察してみましょう。

 

さて自己同一の証明です。同じ自己でありながら自己の中には、対立と葛藤があります。人は自分が秩序正しく統一された存在ではないと感じます。第一に病気ということがあります。病気は身体の秩序に乱れです。心の問題があります。人の心は、憎しみ、恨み、妬み、不安、乱れた欲情で揺れ動いています。人はしばしば平和に収まることから遠ざけられているのです。同じ自己でありながら自己の中に矛盾があり、調和がない。西田の有名な「絶対自己矛盾的自己同一」という難しい用語はこの人間の矛盾をも含む状態を指しているのでしょうか。

2020年8月 9日 (日)

西田幾多郎の『善の研究』について

悪について考えるからには有名な西田幾多郎の『善の研究』を取り上げざるを得ない。ああ、難しい!良くは分からない。さらに続編の勉強しなければならない。今やらないと一生しないだろうから今日明日と頑張ります。以下、悪について・・・その三です。

『善の研究』について

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2020年8月 8日 (土)

悪についてのささやかな考察 その二

創世記1・31 極めて良かった についてのささやかな考察(独り言)に続き、中高でならった東洋の思想、性善説と性悪説をあらためて勉強してみましょう。以下のファイルを参照ください。

 

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2020年8月 7日 (金)

主の変容

主の変容 ミサ説教

202086()、本郷教会

86日は毎年「主の変容」の祝日となっています。

主の変容という出来事が受難の四十日前に起こったという伝承に基づいて定められた日であると言われています。

イエスは三人の弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ、十二使徒ではなく三人だけを連れて高い山、タボル山といわれている山に登られて弟子たちの見ている中で非常に光輝く姿に変わられた。姿が非常に栄光に満ちた様子に変わられたと告げています。

その出来事に出会ってペトロは気が動転してしまったのでしょうか、何か訳の分からないことを言っています。

「わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。」

その時、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者、これに聞け」という声が聞こえてきた。

似たような出来事は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時も天から声がして、同じように「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ317、マルコ111、ルカ322)と言われたと出ています。

この出来事は、何を意味しているのでしょうか。

普通、次のように解釈されている。

受難を目前としていたイエスは、弟子たちがつまずいてしまうことを心配して、あらかじめ事が起こる前にこの例外的な特別な出来事を目撃させて、彼らの信仰を強くしたのではないかと言われています。

そうしたにも関わらず、ペトロもヤコブもヨハネもイエスの十字架の出来事に際しては、この事を思い出したのでしょうか、恐怖に襲われて為すすべもなく非常にだらしない状態になってしまったわけであります。

今日の叙唱を見ると出ていますが、こうしてキリストのからだである教会の十字架の道によって栄光に至ることが示されました。

わたしたちの教会の主イエス・キリストに倣って十字架の道を歩むことによって、栄光に入ることができるということを予め示してくださったという意味であると思われます。

わたしたちの宗教というのは、ナザレのイエスという人をキリストであり、救い主であると信じる宗教であります。

彼は通常まったく普通の人間としての風貌や生活、様子を示していて特別なことはなかったわけですが、例外的に今日のような変容というできごと、あるは目覚ましいしるし、奇跡などをおこなって、自分が誰であるかということを人びとに示されたのでありました。

そのキリストによって造られた教会が、この世の中でキリストの存在と働きを出来得る限り現わし、そして行っていかなければならないのであります。

二千年の歩みの中で、さまざまな出来事があり、困難に出会い、あるいは人々のつまずきになるようなこともありました。

今わたくしたちの教会はどんな状態にあるのか。

日本のカトリック教会、世界のカトリック教会、カトリック教会といわずキリストの弟子たちはどういう状態にあるのか。

たまたま信者と限らず世界中の人はコロナウイルスという問題に悩まされています。

そういう中で、イエス・キリストの本来の姿、神の御ひとり子であり、神と等しい方であるということを現された変容の出来事を、弟子たちはいつも思い起こし、自分たちの働きを通して時々は復活の栄光を人びとに垣間見させることができているだろうか。

教会はキリストの復活の証人であります。

復活という出来事が毎日起こったら、人びとは忙しくて普通の生活をすることが出来なくなるでしょうが、時々人間の弱さの中にそれを超える、遥かに超えていく永遠の世界、復活の世界、朽ちることのない復活の体を受けるという信仰と希望を示すことができるような、そういう働きが教会のわたくしたちの間にあって然るべきだし、実際によく見えていないけれどもおこなわれているのではないかと思います。

今日、非公式のミサを献げることになって、自分は最後にいつミサを挙げたのだろうかと、ミサを挙げることが当たり前だと思って四十何年過ごしてきたけど、ミサも挙げない、挙げられない、そういう自分というものに大変力を落としていたんですけれども、不思議なんですね、慣れればそういうものだと思って、今日もミサ挙げなくていいんだというようになってしまう。それが良い事か悪い事か分かりませんが。

今日はミサというのは一人で挙げるものではありませんので、皆さんのおかげでささやかな非公開の個人ミサ、ミサ・プリヴァータを献げることができています。

最後にミサを献げたのは、もう思い出せないくらい昔のような気がするが、調べてみると75日だったんですね。ほぼ一か月前。

ちょうど都知事の選挙の日で、あの日一生懸命ミサを挙げたあと、香部屋で一休みしてから

本郷通りを横切って、昭和小学校の投票所に行って投票して来て、ああ今日司祭として都民としてやることを一応やることができたという思いを持ったことが思い出されますが、まだ一か月前。でも何年も昔のような気がしているのはどういう訳でしょうか。

ちなみに直接関係ないんですけど、今日韓国のある司教様が亡くなったという知らせを受け取りました。

日本の教会と韓国の教会は、近いけれども遠い関係にある両国の在り方を少しでも良くしようということで、日韓司教交流会ということを始めたわけです。

それは濱尾司教様が司教協議会の会長であった時のことですが、マニラでアジア司教協議会連盟の集会があった時に、浜尾司教と韓国の司教協議会の会長イ・ムンヒという方でしたが、会って話し合って、それぞれの国の有志の司教が参加してともかく顔合わせをして、知り合いになろうということになったんです。

それで毎年開かれて、結果的にほぼ全員が参加する行事になりました。

その時に向こうで最初からずっと参加してこの集いを支え進めてくださった司教のチャン・イックという方がいたんですけれど、チュンチョンという教区、春の川と書くんですね、「春の小川」の春の川、ソウルの北側にある教区なんですが、そこの教区の司教チャン・イック司教さんが毎回参加していまして、その司教様が亡くなったとのことで寂しく思いますが、教会が現実の中でイエス・キリストの復活を証しすることができるようにささやかな努力を続けていきたいと思います。

 

第一朗読  ペトロの手紙 二 1:16-19
(愛する皆さん、)わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。福音朗読  マタイによる福音書 
17:1-9
(そのとき、)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 

 

 

2020年8月 2日 (日)

年間第18主日A年の聖書朗読、福音朗読を読んで

18主日の朗読の感想を以下に添付します。

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2020年7月31日 (金)

黙想会講話:心の大掃除(糾明)

昨年12月の待降節黙想会の講話が文字となって届けられました。本郷教会の信徒のためですが、ご参考に、添付します。

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2020年7月28日 (火)

神が造った世界に何故悪が存在するのか?悪についての小さな考察、その1

全能で善である神の造った世界に何故悪が存在するのか?悪の問題についてのささやかな考察の1

 

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2020年7月21日 (火)

天の父のみ心

721日 年間第16火曜日

 

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

確かにそうなのだが、問題は、何が天の父のみ心であるのか、ということである。神の名において正義を主張し,抗争してきた歴史がわが教会の歩みの中にみられないか。異端審問、十字軍などはその汚点ではないか。

 

第一朗読  ミカ書 7:14-1518-20

(主よ、)あなたの杖をもって 御自分の民を牧してください あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に ただひとり守られて住み 遠い昔のように、バシャンとギレアドで草をはむことができるように。お前がエジプトの地を出たときのように彼らに驚くべき業をわたしは示す。

あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことを アブラハムに慈しみを示してください その昔、我らの父祖にお誓いになったように。

福音朗読  マタイによる福音書 12:46-50

イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 

 

 

2020年7月20日 (月)

イエスの示したしるし

7月20日 年間第16月曜日

 ミカ書。「人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。」

神がイスラエルの民に求めていること、それは上記のように、「正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと。」

ナザレのイエスはこの言葉を地上に生活において実行した。数々のしるし、癒し、悪霊の追放もその実行の実例であった。しかしユダヤの指導者たちはイエスを受け入れない。それどころが、彼を悪魔付き扱いにさえしてしまう。

ヨナ書では、ヨナが三日間大きな魚の中に飲み込まれていたとある。これは三日目に復活したイエスの前表であろう。ヨナの説教を聞いて異邦人のニネベの人は悔い改めた。

ソロモン王に時、南の女王が遠路わざわざソロモンを訪ねてきてソロモンの知恵を確かめた。知恵は裁きのために知恵。その女王も裁きの時に彼らを罪に定めるだろう。

これは、イエスのしるしを見ても律法学者、ファリサイ派はイエスを信じなかった。彼らはニネベの人々や御の女王にも劣る不信仰者だ、という意味だろうか。

閑話休題、ともかく、神の慈しみを実行したイエスを「神からの人」であると認めない律法学者・ファリサイ派への非難の言葉であろう。

 

第一朗読  ミカ書 6:1-4、6-8

聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ。聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発しイスラエルと争われる。「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ。わたしはお前をエジプトの国から導き上り奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムをお前の前に遣わした。

何をもって、わたしは主の御前に出で いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を 自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。

 

福音朗読  マタイによる福音書 12:38-42

(そのとき、)何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 

2020年7月19日 (日)

悪の問題

毒麦の譬え。

神が造った善なる世界に何故悪が蔓延っているのか。この問題に聖書とキリスト教はどうこたえているのか。年間第16主日の福音はその回答の一つ、あるいは示唆ではないか、という事を言おうとしたのですが、伝わらなかったでしょうか。これが意味のない戯言でしょうか。決してそうは思わない。最も重要な問いかけです。

 

 

 

2020年7月18日 (土)

神の造ったこの世界に何故悪が存在するのか:毒麦の譬え

2020年7月19日 年間第16主日

 

今日の福音朗読は毒麦の譬えのである。

神が造ったこの世界に何故悪が存在するのか、という、有名か「神義論」の問題がある。

この譬えはこの問題への一つの回答と言えるだろう。

悪という毒麦は何処から入ったのか。それは「敵の仕業だ」という。敵とは誰か。毒麦を蒔いた敵は悪魔である。悪魔の所為だ。その悪魔は何所から来たのか。福音書には悪魔、悪霊、汚れた霊などの言い方で悪魔は頻繁に登場する。イエスのしたことで目立つのは悪霊の追放である。(悪魔の起源については明解な説明は得られていない。バビロン捕囚後に時代にペルシアの信仰が入ってきた、という説がある。)

それでは何故毒麦という悪を引き抜いて退治しないのか。それは、一緒に良い麦も引き抜いてしまうかもしれないからである。毒麦と麦は見ただけでは区別が難しい。それにお互いの根も絡み合っている。これはまさにわれわれ人間の実態を表わしている。人間の悪と善は表裏一体、全を日繰り返せば悪となる。善と悪は峻別できない。悪だけ除こうとすると善も一緒に除かれてしまうお恐れがある。病気の治療と似ている。病気を引き起こしている腫瘍を除去すると健康な組織も損傷を受ける。所謂副作用である。悪いところだけ取り出し、他の部分には損害を及ぼさないようにはする治療はできないという現実がある。

それは人間の心の現実でもある。人の心には善と悪が宿っている。同じ人の心に善と悪が住んである。悪だけ取り除こうとするとその人の心自体を壊してしまうことになりかねない。この不思議をどうしたらよいだろうか。毒麦の譬えはわたしたち自身の心の問題でもある。心の弱さ、限界の問題でもある。

主人の判断と結論は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」出る。現在の世界は、両方とも育っている状況にある。しかし、いつか終わりが来る。それは刈り入れの時である。この世の終わり、終末、天の国、神の国の完成の時でル。その時には悪は完全に除去される。終末を待つしか解決はないのだろうか。

 ーーー

 第一朗読  知恵の書 12:13、16-19

(主よ、)すべてに心を配る神はあなた以外におられない。だから、不正な裁きはしなかったと、証言なさる必要はない。

あなたの力は正義の源、あなたは万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方となられる。あなたの全き権能を信じない者にあなたは御力を示され、知りつつ挑む者の高慢をとがめられる。力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる。力を用いるのはいつでもお望みのまま。神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:26-27

(皆さん、”霊”は)弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

 福音朗読  マタイによる福音書 13:24-43

(そのとき、)イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

《イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」》

2020年7月17日 (金)

イエスを殺そうとした動機

2020年7月18日、年間第15土曜日の福音から

「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」

どうしてファリサイ派の人々はイエスを殺そうと相談したのか。

この直前の箇所を引用しよう。

 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。(マタイ12・9-13)

 そこでわかるが、それは、イエスが安息日に片手の萎えた人を癒したからであった。この事件が、ファリサイ派足しがイエスの存在を抹殺するように動く動機になっている。どうしてこれがイエスの抹殺の動機になるのか。実に分かりにくい動機である。それほど彼らにとってイエスの言葉と行動は冒涜的であり涜聖の罪に当たると考えたのであろう。

 以下、本日の福音に続く。

ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。 異邦人は彼の名に望みをかける。」

――

イザヤ書の主の僕の歌よりの引用。

彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。

曽野綾子の小説に『傷ついて葦』というのがあったと思う。最新の優しさをもって傷ついた人、苦しむ人、病む人、悩む人に接するイエスの在り方を彷彿とさせる。

安息日に麦の穂を摘んで食べること

7月17日 年間第15金曜日

 

麦の穂を摘んで食べる、という行為はあまり褒めたものではないだろう。時代と場所が違うから何とも言えないが、自分の経験では、普通そういうことはしない。公序良俗に反すると思う。他方、麦の穂を摘んで食べる弟子たちを見て、目くじらを立てて、安息日の掟破りだというのもいかがなものか。

イエスは弟子をかばって言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

ダビデとその一行、神殿に仕える祭司は安息日の規則に拘束されない。自分は彼らよりの偉大な者である、と言っているように聞こえる。

イエスとファリサイ人、律法学者との対立は、安息日論争に起因している部分が大きいように思われる。麦の穂のことなどどうでもよいではないかと思うが律法の専門家には揺るがせにできない重大事であった。何か別世界での出来事のようだ。結論は、「人の子は安息日の主である。」

 

 

第一朗読  イザヤ書 38:1-6、21-22、7-8

そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て、「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』」と言った。ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた。

主の言葉がイザヤに臨んだ。「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」

イザヤが、「干しいちじくを持って来るように」と言うので、人々がそれを患部につけると王は回復した。ヒゼキヤは言った。「わたしが主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか。」

ここに主によって与えられるしるしがあります。それによって、主は約束なさったことを実現されることが分かります。「見よ、私は日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を十度後戻りさせる。」太陽は、影の落ちた日時計の中で十度戻った。

 

福音朗読  マタイによる福音書 12:1-8

そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

 

2020年7月16日 (木)

自分の十字架とは何か?

2020年7月16日、年間第15木曜日

 福音朗読  マタイによる福音書 11:28-30

(そのとき、イエスは言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 ―――

今日もこのみ言葉に出会う。

今のわたしにとってどう意味があるのだろうか。思いは乱れる。

イエスは次のようにも言っている。

「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10・38,39)

自分の十字架とは何だろ。喜んで自分の十字架を担いイエスに従う者でありたい。

 

第一朗読  イザヤ書 26:7-9、12、16-19

神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは わたしたちの魂の願いです。わたしの魂は夜あなたを捜し わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。あなたの裁きが地に行われるとき 世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。

主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を 成し遂げてくださるのはあなたです。

主よ、苦難に襲われると 人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと 彼らはまじないを唱えます。妊婦に出産のときが近づくともだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前でこのようでした。わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず 地上に住む者を産み出すこともできませんでした。あなたの死者が命を得 わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。

 

2020年7月15日 (水)

幼子はイエスを信じ受け容れた

7月15日 聖ボナベントゥラ司教教会博士

 

福音朗読  マタイによる福音書 11:25-27

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

―――

「これらのこと」とは何を指しているのか、わからない。

知恵あるもの、賢い者とはだれを指しているのか。さしあたり律法の専門家、モーセの教えを詳しく勉強している者、ファリサイなどのことだろうか。

幼子はイエスの言葉を素直に単純にそのまま受け入れた。しかし、既にいろいろな知識と体験を持つ者はかえってそれが災いして、考えすぎて、信じるに難しくなっていた。「預言者は故郷では容れられない。」イエスの人間性に躓くということもあったかもしれない。

それでは、この自分の場合はどうだろうか。

 

第一朗読  イザヤ書 10:5-7、13-16

(主は言われる。)災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。神を無視する国に向かってわたしは、それを遣わしわたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ野の土のように彼を踏みにじれ」と。しかし、彼はそのように策を立てず その心はそのように計らおうとしなかった。その心にあるのはむしろ滅ぼし尽くすこと 多くの国を断ち尽くすこと。

なぜならアッシリアの王は言った。「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った。わたしは諸民族の境を取り払い 彼らの蓄えた物を略奪し 力ある者と共に住民たちを引きずり落とした。わたしの手は、鳥の巣を奪うように諸民族の富に伸びた。置き去られた卵をかき集めるように わたしは全世界をかき集めた。そのとき、翼を動かす者はなく くちばしを開いて鳴く者もなかった。」

斧がそれを振るう者に対して自分を誇り のこぎりがそれを使う者に向かって高ぶることができるだろうか。それは、鞭が自分を振り上げる者を動かし 杖が木でない者を持ち上げようとするに等しい。それゆえ、万軍の主なる神は、太った者の中に衰弱を送り主の栄光の下に炎を燃え上がらせ火のように燃えさせられる。

 

2020年7月14日 (火)

悔い改め

2020年7月14日、年間第15主日の福音朗読より

 

カファルナウムはイエスの主要な宣教活動の場所ではなかったか。イエスは数々のしるし、不思議、癒しをおこなったが人々はイエスを受け入れなかった。

ソドムはゴモラと並んで悪名高い悪徳の町。(創世記18章20節~19章29節にソドムが滅ぼされた話が出てくる。)

さて、現代のわたしたちの場合はどうだろうか。奇跡が行われているのにそれにそれにさえ気が付かないのかもしれない。悔い改めなければならないのにその必要さえ認めていないのかもしれない。現代世界で最も悔い改めるべきことはなんであるのか。

 

  マタイによる福音書 11:20-24
(そのとき、)イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、
天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

 

2020年7月13日 (月)

イエスのために命を失うとは?

7月13日 年間第15月曜日

今日の福音は特に厳しいおことばです。

「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

「自分の命を得ようとする者は」は、「自分の命を得ている者は」(聖書協会1955年訳)「自分の命を自分の物とした者」(新改訳)とも訳されている。

自分の命をこれから得るのか、既に得ているのか、の違いは足したことのないように思われる。

病院に行くと自分の命を守るために多くの人が集まっている。人事を尽くしても地上の命にはいつか終わりが来る。「わたしのために命を失う者」とは、端的に言えば、殉教することであろう。殉教しない場合はどうであろうか。イエスのために命をささげる事を意味しているのだろう。では、イエスのために命をさげるとは何を意味しているのか。・・・自分の場合、どうすることだろうか。

 第一朗読  イザヤ書 1:10-17
ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よわたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが誰が、お前たちにこれらのものを求めたか わたしの庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など災いを伴う集いにわたしは耐ええない。お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護せよ。

福音朗読  マタイによる福音書 10:34-11:1
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。

 

 

2020年7月12日 (日)

被造物の呻きとは何か

7月12日 年間第15主日

 

神の造った世界になぜコロナウイルスという人類を恐怖に陥れる問題が発生しているのでしょうか。

あるいは2011年3月11日の東日本大地震のような災害が何故起こるのでしょうか。

神が造った世界は「極めて良かった」(創世記1・31)のではなかったか。

使徒パウロの本日の第二朗読、ローマ書8章によれば、人間だけではなく、人間以外の被造物も救いを待っている、とあります。すなわち「滅びからの隷属から解放されて、神の子供のたちの栄光に輝く自由にあずかれる」日が来るのを待ちながら呻き、生みの苦しみを味わっているのです。

「被造物の呻き」とは、例えば、地震であったり、コロナウイルスであったりするのではないだろうか。

 

「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」

 

人間の解放と被造物の解放がつながっています。教皇フランシスコは「ラウダート・シ」において、人間の環境破壊、地球への利己的侵害行為を非難していますが、現在の自然環境の不秩序は人間の一方的・利己的な開発行為に原因があると思われます。

救いとは、人類だけの救いではなく、すべての被造物の救いです。すべての被造物が贖われて初めて「極めて良い」という創世記1・31の言葉が実現するのではないでしょうか。

今日の福音の種まきの譬えは、「良い土地」とは、他の被造物の解放と救いと一緒でなければ人間の救いはありえない事を悟ることのできる人間の心の状態であれ、と言っているのではないだろうか、と思います。

 

第一朗読  イザヤ書 55:10-11
(主は言われる。)雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:18-23
(皆さん、)現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

福音朗読  マタイによる福音書 13:1-23
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
《弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」》

 

2020年7月 9日 (木)

天の国の到来のしるし

79日 年間第14木曜日

ホセア書に現れた神の心の葛藤。「わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」

神は怒りと憐れみの間で心引き裂かれるほど苦しむが結局怒りに憐れみが勝つことになる。人間的な神と言ってよいか?

ーーー

第一朗読  ホセア書 11:1-48c-9
(主は言われる。)まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに彼らはわたしから去って行きバアルに犠牲をささげ偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き彼らの顎から軛を取り去り身をかがめて食べさせた。
イスラエルよお前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨てツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。

 

福音朗読  マタイによる福音書 10:7-15

「天の国」の到来は、使徒たちによって、病人の癒し、死者の蘇り、重い皮膚病の人の癒し、悪霊を追い出すこと、などによって示された。それは「平和の到来」と同じ趣旨ではないか。

現代世界を見るに、これらのしるしは見らないわけではないが、ほんの僅かな現象に過ぎない。天の国=神の国の完成の時にこのような現象が行き渡るのだろう。

ーーー(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

 

 

 

 

 

 

2020年7月 7日 (火)

あなたの軛は何ですか

あなたの軛(くびき)は何ですか

年間第14主日A年

 

2020年7月5日、本郷教会

 

第一朗読:ゼカリヤの預言(ゼカリヤ9・9-10)

第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・9、11-13)

福音朗読:マタイによる福音(マタイ11・25-30)

 

説教

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

 

イエスは今日の福音でこのように言われます。

ちょうど6月19日、金曜日、「イエスのみ心」の福音朗読も同じ福音の箇所でありました。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。」

 

わたしたちの、本郷教会の掲示板に、この言葉が掲げられていたと思います。

掲示が多いので、今ちょっと隠れているかもしれません。

 

わたしたちは、福音という「よい便り」を受け取り、そして福音を人々に告げ知らせるという役割を受けたものであります。

福音宣教は教会全員の使命であります。

毎回思うことですが、それでは今、わたしたちにとって、人々にとって、福音とは、何を指すのでありましょうか。

疲れている者、重荷を負う者に対しては、安らぎ、安心、憩い、或いは、癒し。

要するに 救いということを意味していると思われます。

もちろん救いは、罪からの赦しと結びついており、罪からの赦しなしに 救いはありませんが、

罪という言葉はなかなか馴染みにくい印象を与えております。

もう一度、わたしたち、或いは、現代の人々にとって、救いとは、一体何であるかをこの機会に考えてみることは意味のある大切なことではないだろうか。

 

わたしたち自身、その存在自体にある、何かの不安、まだ満たされていない部分がある。その中に、病気ということもあるし、孤独ということもあるでしょう。そういう現実を、「罪」という言葉で括って説明するとなると、信者にはよいかもしれないが、一般の人にはちょっと受け取りにくいかもしれない。

罪とは神から離れている状態、でありますので、

あるべきでない状態にあるわたしたちは、広い意味で、罪のなかに置かれている、といってもまちがいはないでしょう。

 

さて、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

この「軛」ですけれども、見たことがおありでしょうか。

今の時代、そして、この東京という場所では、軛を目にすることはほとんどないでしょう。

私個人の記憶によると、私は千葉県の山間部で生まれ育ちましたので、子どものころ、馬車というものを、日ごろ、見ておりました。

駅からですね、荷物を馬車に積んで、町まで運ぶということを仕事としている人がいた。馬車屋さんと呼んでいました。

その馬は、軛というものをつけられている。その軛は、馬車の両脇の轅(ながえ)という部分に繋がれていたわけで、

軛と轅の関係がピタッと合っていないと、軛を負わされている動物、馬、牛、きょうの福音だと、ロバも入るわけですが、痛くてしかたがない。

ピタッと合った軛だと、喜んで軛を負いながら役割を果たすことができる。

 

イエスは、「わたしの軛を負いなさい」と言われました。

ちなみに、ナザレのイエスは、父、ヨセフの仕事を継いで、大工であったと思われます。そして、軛作りの名人であったという伝説が残っている。

ピタッと、その馬、牛に合う軛を作ることができた、とのことであります。

 

それでは、今日のわたしたちにとって、「わたしの軛を負いなさい」というイエスの言葉は何を意味しているのでありましょうか。

きょうの福音を見て、ちょっとたじろいでしまいますが、元気な、張り切った牧者が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」というならいいかもしれませんが、本人が疲れている場合に、ちょっと言いにくいと、そう思います。

 

きょうのミサの朗読全体として、何を受け取ることができるでしょうか。

小さなこと、ひとつですが、第二朗読に注目いたしましょう。

パウロのローマの教会への手紙であります。

柔和で謙遜な者はキリストの軛を負って歩む。その際、神の霊、聖霊がわたしたちの心に注がれるのであります。

ローマ5章5節の言葉。

神の霊、聖霊は、主イエス・キリストと共に歩む者の心に注がれます。

 

実に、キリスト者の歩みというのは、キリストの霊に従って歩む日々のことであります。

肉に従って歩む場合は、自分中心に歩む、自己中心の生き方を意味しています。

「肉」というのは、肉体という意味ではありません。神の導きに反する自分の都合を中心とした生き方のことを言っています。

 

洗礼を受けたキリスト者は、本来、古い自分に死んだはずですが、しかし、洗礼後も、いつでもどこでも、霊に従って歩んでいるとは限らない。

知らずにそれてしまう場合もあります。

逆に、洗礼を受けていなくても神の霊に従って歩んでいる人も見かけるのであります。

聖霊の導きに反して生きること、それが肉に従って生きる、自己中心な生き方を意味しております。

 

聖霊に従順であるためには、柔和で謙遜なものでなければなりません。

至らぬわたしたちは、主イエス・キリストにならって、柔和・謙遜であることができますよう、祈り求めましょう。

 

使徒の派遣

202078()、年間第14水曜日

 イエスは12人を使徒とし、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすための権能を授けて、イスラエルの家に派遣した。異邦人への派遣は後日のことであった。

12人の中にはあとでイエスを裏切ったユダも含まれている。イエスは自分を裏切るものも選ばれたとは、ふかく考えさせらる。

  

福音朗読  マタイによる福音書 10:1-7
(そのとき、)イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

 

イエスは福音を宣べ伝え癒された。

202077() 年間第14火曜日

福音朗読  マタイによる福音書 9:32-38
(そのとき、)悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

――

主イエスのなさったことは、今日の福音によれば、

―悪霊を追い出し

―会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え

―あらゆる病気や煩いをいやされた。

福音宣教はイエスのみわざと結びついている。癒しと救いは重なり、救いとは人間全体の癒しであり、罪と弱さからの解放となる。

 

2020年7月 6日 (月)

癒しと救い

2020年7月6日、年間第14月曜日ミサ福音朗読

 

マルコ、ルカに平行個所のある二人の女性の癒しの話。とくに出血症の女性の癒しに注目したい。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と彼女は自分に言い聞かせる。「治してもらえる」の治すはギリシャ語原文は本来「救う」という意味らしい。病気の人がイエスに期待するのは「救う」ことより「癒す」ことだろうから「癒す」「治す」と訳しているらしい。ここで考えたいことは「癒し」と「救い」の関係である。「癒し」は「救い」の中に内包されるだろう。人が救われる場合、「癒し」がなければならない。しかし癒されれば救われるとは限らない。「癒し」と「救い」の関係をこの機会に考えてみたい。出血症の女性にとって「癒しはまさに救い」であったと推察される。イエスの神の国の福音のなかに「癒し」は大きな働きを占めていた。いまの福音宣教で考慮すべきはさらなる「癒し」ではないだろうか。

 

福音朗読  マタイによる福音書 9:18-26
(そのとき、)イエスが話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。

 

2020年7月 4日 (土)

新しいい革袋

74日 年間第13土曜日

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

イエスの福音は新しいぶどう酒。福音を入れる新しい革袋とは何か。

新しい革袋とは、イエスの福音を伝える教会のことだろう。その組織、制度、神学、典礼、霊性などすべて新しいぶどう酒にふさわしい新しい在り方、表現、方法をとっていなければならない。INCULTURATION インカルチュレーションという言葉がある。福音宣教する際、今の文化を通し、今の文化によって、人々に通じる新しい表現をとらなければならない。

 

ーー

第一朗読  アモス書 9:11-15
(主は言われる。)その日にはわたしはダビデの倒れた仮庵を復興しその破れを修復し、廃虚を復興して昔の日のように建て直す。こうして、エドムの生き残りの者とわが名をもって呼ばれるすべての国を 彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。
見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続きぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせすべての丘は溶けて流れる。わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み 園を造って、実りを食べる。わたしは彼らをその土地に植え付ける。わたしが与えた地から 再び彼らが引き抜かれることは決してないとあなたの神なる主は言われる。

 

福音朗読  マタイによる福音書 9:14-17
(そのとき、)ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 

 

 

 

 

 

2020年7月 3日 (金)

トマスはイエスの体に触れただろうか?

202073日、聖トマ使徒 祝日

使徒トマスは疑い深い使徒として知られている。イエスが復活して弟子たちの隠れ家に現れた時、たまたまトマスは不在であった。仲間の弟子たちからイエスの出現を聞いても信じようとはしなかった。

「トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』

その八日後、トマスが居合わせた時、復活したイエスが現れてトマスに言われた。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

有名な場面である。見るだけではなく触ってみて確かめないと信じないといったトマスは人生の重要な問題については非常に慎重であった。そのおかげでほかの臆病で疑い深い人たちもトマスの前例を信じて、復活を信じることができるようになった。

さて、ところで復活したイエスの体はどんな体であったのか。鍵のかかっている家の中に入ってきた、とある。地上の存在の条件に左右されない体、生身の人間を超える状態にある体であったと思われる。確かに弟子たちはイエスの姿を見た。しかしある時間、ある場所で弟子たちが出会ったわけで、イエスはいつまでも、どこにでも現れ続けたわけではない。いわば《復活体》という体である。

それではトマスは実際にイエスの体に触れ、受難の後の体の傷跡に触ったのだろうか。ヨハネの福音からは明確ではないがおそらく触ってはいない。

「(イエスは)トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。」

トマスは、イエスの体に触るまでもなく、すぐに恐れ入ってイエスを礼拝している。

トマスの信仰告白があったからこそ教会が誕生し、生前のイエスを知らないし、復活したイエスを見てもいないわたしたたちがキリスト信者になる事が出来ている。

―――

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:24-29
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

 

 

 

 

 

2020年7月 2日 (木)

罪の赦しと癒し

202072日、年間第13木曜日

福音朗読  マタイによる福音書 9:1-8
(そのとき、)イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

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『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。言うだけならもちろん前者、罪の赦しである。

罪の赦しは目に見えない。中風の癒しは目に見える。「起きて歩け」と言ってその通りにならなければ、イエスは偽りもの、となる。罪の赦しの方は、赦されたかどうかを確かめる目に見えるしるしがわからない。罪の赦しを宣言しても起きて歩け、と言ってもその通りにならなければ、イエスの権威は疑わしいことになる。

人々は中風の癒しを見てイエスが罪の赦しを伝える権威を持つ者であることを信じた。

「癒し」と「罪の赦し」とどのような関係があるのか。

今日の福音の癒しはイエスが罪の赦しの権威をもことを証明するために行われたと思われる。

 

2020年6月28日 (日)

ペトロの信仰

聖ペトロ・聖パウロ使徒 祭日(629)

2020628日、本郷教会

 

第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録121-11

第二朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(テモテ46-8)

福音朗読:マタイによる福音(マタイ1613-19)

 聖ペトロ、聖パウロの二人の人は、教会の二つの礎、或いは、二本の柱というべき非常に重要な人物であります。
ペトロは、使徒の頭として、信仰を宣言し、イスラエルの小さな村から初代教会をつくり、パウロは、キリストの神秘を解き明かし、異邦人の使徒となりました。
本日のミサの叙唱が告げる通りであります。

きょうの福音で、ペトロは弟子たちを代表して、信仰告白しています。

「あなたはメシア、生ける神の子です」このペトロの信仰告白に対し、

イエスは言われました。

「バルヨナ・シモンあなたは幸いだ、あなたにこのことを表したのは人間ではなく私の父なのだ。」

イエスはペトロのこの言葉を、最大限に称賛していると思われます。
この言葉に続き、ペトロに向かって言われました。
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」

此処は、依然、わたしたちのローマカトリック教会がよく引用していた箇所であり、わたしたちの教会の成立の根拠、そして、最初のローマの司教であったペトロと、その後継者の役割、位置、特に、後日(第一バチカン公会議の時ですが)ペトロの首位権の根拠とされた箇所であります。
ペトロという名前ですが、彼のフルネームはバルヨナ・シモン

このシモンに、イエスはアラム語の「ケファ」という名前を与えられました。この「ケファ」というアラム語、彼らが話していたと思われる言葉ですが、「ケファ」をギリシャ語訳にすると「岩」という意味になります。そして、ギリシャ語では「ペトラ」となりますが、ペトラは女性名詞ですので、ペトロは男性であるから、「ペトロ」に替えたのではないかという説明があります。
「ペトラ」のままであるとすると、「ペトロの信仰」を意味していたのかもしれない。
しかし、いずれにせよ、ペトロの信仰、或いは、ペトロ自身をさすにしても、ペトロを教会成立の重要な礎にしたということに変わりはありません。

この後、さらにイエスは言われた。
「陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

「陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」この言葉によって、わたしたちはローマカトリック教会において、ペトロとその後継者は使徒の頭とされていると解釈してきました。

本日は、その問題はこれくらいにしておきまして、福音朗読の続きの部分を思い起こしたい。

この直後に、イエスは、いわゆる「受難の予告」を行っています。

イエスはご自分が「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから、多くの苦しみを受けて、殺され、三日目には復活することになっている、と、弟子達に打ち明け始められた」と、出ているのであります。

ペトロは大変正直な人で、直ぐにその言葉に反応しまして、イエスを脇にお連れして、いさめ始めた。

「主よ、とんでもないことです、そんなことがあってはなりません。」このペトロの言葉に対して、イエスは、「お前がそう言ってくれることはありがたいが、それは違うのだよ」という説明をしたかというと、そうではなかった。いきなり、ペトロを叱責して言いました。
「サタン、ひきさがれ、あなたは私の邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている」
と、なると、ペトロの信仰告白は、どれだけイエスの使命を理解した上でのことであったのか、非常に疑問になってきます。

人の思いと、神の思いの間には、天と地ほどの遊離、相違が存在していたと思われます。ペトロの言ったことは、いたって常識的なことでありました。わたしたちにもこのペトロの言葉になるほどと思う部分があります。しかし、わたしたちは既に知っています。イエスは、この後、ご自分の受難への道を歩み始めたのです。

受難とはなぜ起こったのか。イエスは自分の教えた言葉を実行しなければなりませんでした。

山上の説教、神殿での教え、これらの言葉は、すでに多くの人々、多くの宗教の指導者、祭司、ファリサイ人、律法学者、或いは長老達の反感、憎悪を引き起こしていたのであります。

わたしたちは、一年掛かって、イエスの生涯と受難を学んでいることになりますが、特に、四旬節、聖週間の典礼において、イエスの受難ということを学ぶことになっています。

わたしは、コロナ・ウイルスの問題で、今年はこの季節の典礼を充分に執行することができませんでしたが、ぜひ、次回は、イエスの受難についてもっと深くしっかりと学びたいと考えております。

 

2020年6月27日 (土)

イエス、癒し人

2020年6月27日、年間第12土曜日のミサ福音朗読より

ナザレのイエスは何をした人であったか?

「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

彼は実に「癒しの人」であった。今日の福音朗読では

百人隊長の僕

ペトロの姑

その他多数の癒しが報告されている。

「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

とはどういう意味だろうか。その苦しみを引き受けることによって人々を苦悩から解放した、という意味だろうか。どのようにしてそれが可能であるのか?

経験できない世界での出来事か?

 ーーー

マタイによる福音書 8:5-17
(そのとき、)イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 

2020年6月26日 (金)

重い皮膚病

2020年6月26日のミサより、「重い皮膚病」(ツァラト)

イエスという人は何をした人でしょうか。福音書から目立つイエスの行いは「癒し」であります。イエスは病気の人、患っている人、体の不自由な人を癒しました。今日の癒しは「重い皮膚病」の人の癒しです。

「重い皮膚病」と言う言葉は、従来は「らい」、あるいは「らい病」と訳されていました。しかし、「らい」という言葉は、人々に不快感を与え、差別を助長させます。 聖書には、この「らい」の人がたびたび出てきますが、「らい」はギリシャ語の原文では、「lepra(レプラ)」であります。旧約聖書にある「皮膚病の人」、「ツァラアト」という言葉なのですけれども、これが、ギリシャ語に訳すときに、「lepra(レプラ)」となりました。 医学が進歩して、この病気を引き起こす病原菌が発見されました。発見者の名前を取って、「ハンセン病」、あるいは「ハンセン氏病」というようにもなりました。  
聖書に出てくる「重い皮膚病」が「ハンセン病」と同じであるかどうか、ということは、今の医学では、確認できていないこともあって、「重い皮膚病」となっております。

さらに最近2018年に発表された「聖書 聖書協会共同訳」では「ツァラト」は「既定の病」と訳されています。ただし新共同訳聖書では「重い皮膚病」の訳を維持しております。(わたしは「ツァラト」でよいと思いますが。) 

自分自身の身体の変形、人に見られたくないような体の状態、それだけではなくて、人から忌み嫌われ、退けられる、一緒に暮らすことはできない、共同体の中には住めなくて、端の方に隔離されて、特に、旧約聖書の世界において、誰かに近づくときは、「わたしは汚れた者です」と叫ばなければならない、とされていました。どんなに屈辱的な思いをしたでありましょうか。  

この重い皮膚病の人はイエスの一言によって、清くされ、癒されました。司祭のところに行って、自分が癒されたことを証明し、そして、社会復帰をしても良いという許可をもらうようになったのでありました。

――

福音朗読  マタイによる福音書 8:1-4
(そのとき、)イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 

2020年6月25日 (木)

岩の上に家を建てる

2020625日、年間第十二木曜日 ミサ説教

 

山上の説教を学んできました。今日は「山上の説教」の結びにあたる部分で、

「『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ721)というイエスの言葉を聞きます。

「山上の説教」というのは、神の国の福音のあり方を述べておりますが、わたしたちにとっては、その実行がやさしくはないと思われます。

やさしくないから実行しなくてもよい、というわけではさらさらない。

しかし、実行できなくとも、実行するように努めなければならないのであると思います。

ヨハネの手紙のなかに次の様な言葉があります。

「もし自分に罪がないという者がいれば、その人は偽り者である。」(一ヨハネ18

神の前にわたしたちが正直に誠実に反省するならば、まったく自分に落ち度がないとか、過ちがないという人はいない。聖書のほかの箇所でもそのように言っています。そこでどうするのかと言うと、自分の問題を謙虚に認めて、赦しを願うということであります。

わたしたちが日々唱える「主の祈り」もそのような祈りになっています。

わたしたちは、「御心が行われますように」と祈り、それは自分のことはさておいて神様の御心が実行されますようにということよりも、自分において、自分が今日も神様の御心を行うことができますようにと、祈るのであります。

そして一日が終わって、自分がどのように自分は神の御心を実行したのかということを反省する時に、神の御心を完全に知ることもできませんし、神の御心に背くことをした、あるいは御心を行わなかったという反省をしないわけにはいかない。

そこで、「わたしたちの罪をおゆるしください」と祈るのであります。

ところで、今日の福音で言う「岩の上に家を建てる」とは、イエス・キリストという岩の上に家を建てるという意味ではないかと思います。

 

もし「わたしの天の父の御心を行う」という言葉の意味が「律法を行うこと」と同じであれば、イエスの言葉と使徒パウロの言葉が対立することになります。パウロは、人は律法を実行することによっては救われない、とはっきりと言っています。「岩の上に家を建てる」とはイエス・キリストに免じて神に受け入れていただくという意味であると考えます。

福音朗読  マタイによる福音書 7:21-29
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

 

2020年6月24日 (水)

洗礼者聖ヨハネの誕生とイエス

624日、洗礼者聖ヨハネの誕生

 624日は、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日であります。主イエス以外で、その誕生を祭日として祝う聖人は、聖母マリア以外には、本日祝う洗礼者聖ヨハネだけではないかと思います。

それほど洗礼者聖ヨハネの果たした役割が重要であると考えられています。

ヨハネの誕生とイエスの誕生の間に、ちょうど6ヶ月の期間があります。

ヨハネの果たした役割は、イエス・キリストの到来を準備するということでありまして、ちょうど旧約の時代から新約の時代に繋がる「つなぎ目」の役割をした人であります。

マタイの福音で1111節に、不思議な言葉がみられます。

「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」

この言葉は、何を言っているのだろうか。

前半は、大変ヨハネを評価する言葉である。ヨハネよりも偉大な者は、今までに現れたことはないとイエスは言われた。しかし、その直後に言われた言葉が少し分かり難い。天の国では、最も小さい者でさえ、ヨハネよりも偉大である。

ここに旧約の時代と新約の時代の比較があるのではないだろうか。

洗礼者ヨハネのイメージというのは、どういうものであるかと言うと、荒れ野で厳しい生活をし、らくだの毛衣を着て、イナゴと蜜を食物とし、とても普通の人にはできない難行苦行の生活をしながら、悔い改めを説いたわけであります。

イエスの方は神の国の福音を説きました。

イエスの周りには貧しい人が沢山集まっていました。イエスは貧しい人々と親しく交わりの時を持ち、また罪人として蔑まれていた人々ゆっくりとしたよく食べよく飲む生活をしていたようであります。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカ733)と悪口を言われています。

洗礼者ヨハネは、ヘロデによって斬首の刑を受けましたが、イエスは十字架の刑に処せられ、そして三日目に復活されました。

二人とも処刑されたわけですが、ヨハネを引きついイエスの死の後、教会が生まれました。イエスの死後生まれた教会は、神の救いの福音を宣べ伝え、今日の教会へと発展しました。

洗礼者ヨハネは、神の厳しい掟を説き 悔い改めを説いたのでありますが、イエスは愛の掟とともに、罪の赦しの福音を伝えたと思います。

キリストの聖体の説教で申し上げましたが、イエスが十字架の上で流した血は、罪の赦しのための新しい契約の血となったのであります。

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第一朗読  イザヤ書 49:1-6
島々よ、わたしに聞け遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠してわたしに言われた あなたはわたしの僕、イスラエル あなたによってわたしの輝きは現れる、と。わたしは思った わたしはいたずらに骨折り うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ イスラエルを集めるために母の胎にあったわたしを 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもましてわたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

第二朗読  使徒言行録 13:22-26
(その日、パウロは言った。「神は)サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』
兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られ(たのです。)」

福音朗読  ルカによる福音書 1:57-6680
さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 

 

2020年6月23日 (火)

狭き門

2020623日、年間第12火曜日

福音朗読  マタイによる福音書 7:612-14
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

――

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

有名なアンドレ・ジッドの小説『狭き門』の主題となる聖句はここからとられています。2017108日はカテドラルで子どものミサが献げられたが、「狭い戸口」の出てくる平行箇所、ルカ1322-30 が福音朗読の箇所として選ばれていました。)

「狭い門から入りなさい。―――」

というこのイエスは何を言っているのでしょうか。『狭き門』のヒロイン、アリサは、地上の人間の愛を犠牲にし断念することを説いていると受け取ったようです。彼女はジェロームへの愛を断念するめに苦しみ、悲劇的な最後を遂げます。しかし、果たしてこの箇所はそのような生き方を求めているのでしょか。

今日の福音はこの聖句の直前に

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

と述べています。これは掟の中の黄金律と呼ばれており、山上の説教のまとめであるとも考えられます。「狭い門」から入るとは、この黄金律を守ることである、とも考えられます。

ところで人はこの黄金律を守り切ることができるでしょか。誠実に反省すれば、誰でもそれは無理であると考えざるを得ません。ではどうするのか。罪の赦しを願って主イエス・キリストに自分の至らなさを告白して赦しを父である神に取り次いでいただくしかないと思います。イエス・キリストは「道、真理、命」ですから。(ヨハネ146参照)

自力で門を通ろうとすればそこは狭い門ですが、道であるイエス・キリストに依り頼むならば、通りやすい関所となるのではないでしょか。

 

 

2020年6月22日 (月)

裁いてはならない

2020622日のミサの福音朗読

福音朗読  マタイによる福音書 7:1-5
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

ーーー 

大変明解なたとえ話。子どもでも理解できる。人は他者の問題や欠点には敏感で注意深いが自分のことは棚に上げている。そもそも自分で直接自分の見ることはできない。鏡に映して見るのみ。

わわれは、日々こころのなかで人を裁いているが、決めつける前に、言葉にする前に、ひと呼吸して、公平な判断かどうか、反省すべきだろう。人は判断に偏りを避けられない。

 それでは、国家による裁判はどうあるべきか。いや教会によう裁判はどうだろうか。教会も反省すべき歴史をもっている。

 

二羽の雀の話

年間第12主日A年の説教

2020年6月21日、本郷教会

第一朗読 エレミヤの預言  エレミヤ20・10-13

第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ5・12-15

福音朗読 マタイによる福音 マタイ10・26-33

 

ほんとうに久しぶりに、この聖ペトロ聖堂で主日のミサを献げることができますことを、ご一緒に喜びましょう。

今日の福音朗読で、イエスは使徒たちを宣教に派遣するに際して言われました。

「恐れてはならない」

 三度も言われました。

「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

アサリオンという貨幣の単位はいくらぐらいの価値のある貨幣であるのか。

「聖書と典礼」の脚注に出ておりますが、1デナリオンの十分の一にあたる。デナリオンというのは一日の日当であります。1羽では売り物にならないということで、2羽1組で売っていたのでしょうか。いくらぐらいになるのか。300円とか、500円とか、2羽でまとめて売られていた。それほど価値の低い売り物でありました。ほんとうに取るに足りない安い売り物である。その雀さえも、神のご保護の中におかれている。まして、雀よりはるかに優れている人間は、髪の毛の数さえ、神に数えられているのだと。髪の毛の数。自分の髪の毛の数を数えた人はいないでしょうし、知っている人もいないでしょう。(ま、少なくなった人は別ですけど。)

これはたとえ話であります。神はわたしたちひとり一人の人間のことをすべて隅々までご存知である。当人が知らないことまで神はご存知で、わたしたちを守り、そして永遠のいのちへと導いてくださる。

たとえ体が滅びることがあっても、あなたという人間は永遠のいのちの世界へ移され、そしてイエス・キリストの復活の栄光に与るものとされるのだ。だから恐れることはない。そのように言っていると思います。

 

とはいえ、わたしたちは日々、自然の体の死、人間の日常の死、ということを体験しています。最初の人間とされるアダムの罪によって、この世に死というものが入ってきました。

第二朗読はローマ書の5章であります。一人の人によって死が人類に入ってきたが、一人の人、イエス・キリストによって、永遠のいのちがもたらされました。イエスの死と復活という出来事はすべての人に及ぶ永遠のいのちの恵みをもたらします。

ここにわたしたちの信じる信仰の神秘があるのであります。信仰の神秘はこのメッセージの中に込められています。そもそもわたしたち人類は、皆、つながりの中におかれている。同じ神によって創造された人間は、全て良いことについても悪いことについても、つながりの中に置かれています。最初の人、アダムに起こった悪いことは、不可避的に避けられないような仕方で、全ての人に影響を及ぼしました。わたしたちは、人類は、行い蓄積してきた悪のなかに生まれました。誰も自分の出生を選ぶことはできません。従って、この悪の連鎖の世界の中に生きることを免れないのであります。この悪の連鎖の中に生まれることを、「原罪」という言葉でいうことがあります。しかし、この悪の連鎖反応に比べて、善の、善いことの連鎖反応は、比べものにならないほど強く、そして、頼りになるものであります。善の連鎖とは、イエス・キリストの生涯、特に復活がもたらした恵みを指しています。復活したイエス・キリストは、聖霊を注ぎ、一人一人を内側から新しい人に生まれ変わらせてくださいます。

とはいえ、この善の連鎖反応は、いわば、自動販売機のように機能するものではありません。わたしたちの側の「信仰」という応答が必要であります。イエスによってもたらされる恵みを認め、受け入れる人間の側の応答が必要であります。教会は、人々がそのキリストの働きを受け入れるようにと、人々に呼びかけ働きかける使命を帯びています。

悪との闘いは、時には非常に大きな苦しみを伴います。今日の第一朗読、エレミヤ預言者は、その苦しみをエレミヤ書の中で告白しています。現代の教会も、悪との闘いの中で苦しんでいる部分があります。復活のキリストの再臨のときは、この闘いに終止符を打つとき、最終的な悪への勝利のときであります。そのときが来ることを待ち望みながら、希望のうちに歩んでまいりましょう。

 

2020年6月20日 (土)

十二歳のイエスの出来事

2020620日、マリアのみ心の記念日

今日の福音朗読は、ルカだけが伝える12歳の少年イエスの物語です。12歳と言えば当時のユダヤに社会では成人とみとめられていたようです。

大人として認められる年齢に達してイエスが何故両親に断りなく単独行動を取ったのだろうか。一言断れば済むことであるのに。当然、その軽率な行動を母マリアは咎めて言っている。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

母としてあってしかるべき注意の言葉である。それに対するイエスの応答が常識から外れている。普通はまず謝罪の言葉がある筈だ。その後で事情の説明ないし弁解があってしかるべきだ。学者との議論に夢中になって両親のことを失念してしまったのかもしれない。しかしイエスの言葉は意外な返事であった。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

どういう意味だろうか。両親には理解できなかった。しかし、マリアはこのイエスの言葉を心に治め、何度も思いめぐらしたことだろう。ヨセフの方はどうだったろうか。養父である自分の前で自分の真の父は神殿に住む神であると言われたとしたら、それをどんな気持ちで聞いたのだろうか。

イエスはこの後両親に、従順に過ごして、何事もなく平凡無事な日々を送ったらしい。イエスが宣教活動を開始するまでこのときからおよそ20年を要している。12歳のイエスが初めて自分の使命を自覚し、その準備のために20年を費やしたということだろうか。

 

第一朗読  イザヤ書 61:9-11
彼らの一族は国々に知られ、子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

福音朗読  ルカによる福音書 2:41-51
(イエスの)両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。

 

 

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