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人の子が現れるとき

年間第三十二金曜日 ミサ説教

2019年11月15日(金)、本郷教会

待降節が近づく季節になると、主の再臨についての聖書が読まれるようになります。
今日の福音は、人の子が現れるときに起こることについてのべています。
すでに創世記で、「ノアの洪水」の話、「ソドムとゴモラ」の話が告げられています。
神は、地上に人びとの悪がはびこるのを見て、人びとを滅ぼそうとされました。
ただほんの少数の人、ノアの家族を方舟の中に入れて救われたのでありました。
ソドムとゴモラについても、その罪を訴える声を聞いて、その地の人を滅ぼそうとしましたが、アブラハムの願いを聞き遂げ、ロトとその家族だけは助けた、という話が展開しています。

さて、それではイエスの再臨という出来事は、何をわたくしたちに告げているのだろうか。
待降節は主イエス・キリストの御降誕を迎える準備をする時ですが、同時にこの世界の歴史の終末を思う時であります。
この世界には、まださまざまな問題がある。人間の罪と悪が依然として存在しています。
神は最後のとき、すなわち人の子イエス・キリストの再臨の時ですが、すべての悪を滅ぼしてくださいます。
ミサの「交わりの儀」の時に、司祭は主の祈りの副文で祈っている。
「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、
現代に平和をお与えください。
あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、
すべての困難に打ち勝つことができますように。
わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを
待ち望んでいます。」

――
第一朗読  知恵の書 13:1-9
神を知らない人々は皆、生来むなしい。彼らは目に見えるよいものを通して、存在そのものである方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至らなかった。かえって火や風や素早く動く空気、星空や激しく流れる水、天において光り輝くものなどを、宇宙の支配者、神々と見なした。その美しさに魅せられて、それらを神々と認めたなら、それらを支配する主が、どれほど優れているかを知るべきだった。美の創始者がそれらを造られたからである。もし宇宙の力と働きに心を打たれたなら、天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、それらを通して知るべきだったのだ。造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造った方を認めるはずなのだから。とはいえ、この人々の責めは軽い。神を探し求めて見いだそうと望みながらも、彼らは迷っているのだ。造られた世界にかかわりつつ探求を続けるとき、目に映るものがあまりにも美しいので、外観に心を奪われてしまうのである。だからといって彼らも弁解できるわけではない。宇宙の働きを知り、それを見極めるほどの力があるなら、なぜそれらを支配する主をもっと早く見いだせなかったのか。
福音朗読  ルカによる福音書 17:26-37
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

 

 

2019年11月14日 (木)

神に国は何所に?

年間第32木曜日ミサ説教

2019年11月14日、本郷教会

 

今日の福音でイエスは言われました。

「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』というものではない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

イエスの福音は「神の国」の福音と言われています。「神の国」と「天の国」とは同じことを指していると考えられます。そして、神の国とは、文字通り受け取れば、「神の支配」ということであり、神の御心が行われるということを意味しています。

「神の国」とは何であるのか、ということは、イエスがいろいろな譬えで説明されました。今日の話は、「譬え」ではないかもしれないが、「神の国はあなたがたの間にある」と言われています。「あなたがたの間にある」とはどういうことだろうか。

「神の国」とは人が死んでから行く「天国」というところではない。それではその「神の国」は何所にあるのだろう、という疑問があります。まだ来ていないのか、これから来るのか、来ているとしたらどこにあるのか。

そういう疑問があったのだと思います。その疑問は基本的に同じ事情で現代に、も存在しているかもしれません。

イエスは、ご自分の存在をもって、「神の国」はすでに来た、と宣言しています。

それでは、現在の教会が「神の国」であるかというと、そうとも言えない。確かに教会は「神の国」と深い関係にある。教会は「神の国」が来ていることを表し伝える「しるし」です。「しるし」ですから、「神の国」そのものと完全に一致しているわけではない。「しるし」は、それ自身は「神の国」と一致しないけれども、「神の国」が来ていることを表し伝えるものであります。わたしたち教会の在り方、それは日常のわたしたちの状態、人と人とのかかわり方、人間関係の中に、神の国が現れて来るだろうと思います。わたしたちの弱さ、自己中心性、という問題を思うときに、「神の国」は自分たちから遠いという気がしますけれども、しかし、わたしたちの間には、真実で美しい事柄、現実が沢山ある。それを思うときに、ああ、ここに「神の国」がすでに来ていると思うのであります。

 

――

第一朗読  知恵の書 7:22b-8:1

知恵には、理知に富む聖なる霊がある。この霊は単一で、多様で、軽妙な霊、活発で、明白で、汚れなく、明確で、害を与えず、善を好む、鋭敏な霊、抵抗し難く、善を行い、人間愛に満ち、堅固で、安全で、憂いがなく、すべてを成し遂げ、すべてを見通す霊である。この霊は、ほかの理知的で、純粋で、軽妙なすべての霊に浸透する。知恵はどんな動きよりも軽やかで、純粋さゆえにすべてに染み込み、すべてを貫く。知恵は神の力の息吹、全能者の栄光から発する純粋な輝きであるから、汚れたものは何一つその中に入り込まない。知恵は永遠の光の反映、神の働きを映す曇りのない鏡、神の善の姿である。知恵はひとりであってもすべてができ、自らは変わらずにすべてを新たにし、世々にわたって清い魂に移り住み、神の友と預言者とを育成する。神は、知恵と共に住む者だけを愛される。知恵は太陽よりも美しく、すべての星座にまさり、光よりもはるかに輝かしい。光の後には夜が来る。しかし、知恵が悪に打ち負かされることはない。知恵は地の果てから果てまでその力を及ぼし、慈しみ深くすべてをつかさどる。

 

福音朗読  ルカによる福音書 17:20-25

(そのとき、)ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」

 

2019年11月10日 (日)

わたしの父の家を商売の家、強盗の巣にしてはいけない

病者のために献げる「ラテラン教会の献堂の祝日」のミサ

201911914時、教会の献堂・説教

 

今日わたしたちはすべての人の心と体の健康を願ってミサを献げます。また同時に、この世界、神が造られたこの地球の「健康」、そしてわたしたちの住んでいるこの社会の「健康」をも併せて祈り求めたい。

第一朗読はエゼキエル書という預言書です。エゼキエルという人は、イスラルの民族がバビロンに強制移住させられたころ、バビロン捕囚のころ、神の言葉を伝えた預言者です。今日の箇所はエゼキエルが見た幻視、幻の風景。ヴィジョンを述べています。彼の見た神殿の有様が述べられています。これによると、神殿の敷居の下を水が流れている。この水の流れる所はすべて浄められる。何か(この水は)、現代世界が最も必要としているものかな、と思う。汚れた川、海の水はすべて浄められ、そこに居る生き物はすべて生き生きとされ、そしてその川のほとりに生えている果樹は豊かな果実を実らせる。(これは)環境破壊の現代世界の最も必要な恵みではないかと感じる。

エゼキエルの見たこの幻視は神殿のイメージです。

神殿というのは何であるのか。

イスラエルの民族は何もかも失いバビロンで捕虜の生活を強いられ、辱めと侮り、嘲りを受ける毎日を送っていた。そのイスラエルの民に与えられた慰めと希望がエゼキエル預言となって残っているのです。

今日の福音はエゼキエルの神殿と関連しています。イエスの時代には、ヘロデ大王によって建てられたヘロデの神殿という壮麗な神殿がありました。今日のヨハネの福音が言っているように、46年もかかって建立された神殿であるそうです。その神殿でイエスのしたことは非常に乱暴なことでした。普通、こんなことをしたらたちまち警備員に捕まえられてしまうでしょう。何故イエスがそうしたかと言えば、それは、神殿が「祈りの家」であるべきなのに「商売の家」、「強盗の巣」(マタイ2113)となっていたからでした。境内には神殿で献げる生贄の羊、牛、鳩が売られていました。イエスは縄で鞭を作って、羊や牛をすべて追い出したのです。また両替のお店があったがその台をひっくり返したのです。神殿に貨幣を納めるためには、外国の貨幣では受け付けないのでユダヤの貨幣に替えてもらう必要があったそうですが、その店の金をまき散らした。イエスは神殿の在り方を全部否定するような乱暴な行動をとったのです。イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい(マタイ1129)」と言いながら、反面、このような乱暴で過激な、怒りを爆発させる場面をみせているのです。人間、怒るべき時に怒るのでなければならない。さらにイエスは言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」46年もかかってやっと完成した建物を三日で建て直しとは正気の沙汰とは思えなかったでしょう。しかしイエスが言ったのは三日で復活するということでした。弟子たちは後から、イエスが復活された時に、この言葉、三日で神殿を立て直すと言われたことを思い起こしたのでした。

さて、エゼキエル書とヨハネ福音を通してこの神殿ということが言われております。ここでわたしたちは使徒パウロの言葉を思い起こしたい。パウロは

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(一コリント316)

と言っています。イエスが復活されて弟子たちにご自分の霊である聖霊を注がれました。わたしたちキリスト者も聖霊を注がれた者ですので、わたしたちも聖霊の住む家、つまり神殿とされているのです。

地上を旅する教会は具体的な場所と建物を必要としています。しかしその建物が聖霊の住む神殿の働きをしなければ意味がない存在となるだけでなく、イエスの怒りを招くという反対の結果を引き起こすことになります。立派な建物を建ててもそこに聖霊が働いているのでなければ、聖霊の働きを受けたキリスト者が集まってお祈りをしているのでなければ、その建物にどんな意味があるのでしょうか。日本のカトリック教会はローマ教皇フランシスコをお迎えする直前であります。日本の教会が本当に聖霊の住む神殿であることを証しすることが出来ますように。たしかに聖霊がそこに働いているということを証しすることが出来ますように、祈りましょう。

 

第一朗読  エゼキエル書 47:1-28-912
(その日、主の使いは)わたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 2:13-22
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。

 

 

不正の管理人

2019118日、年間第31金曜日ミサ説教

 

今日の福音のたとえは「不正の管理人」の話です。イエスのたとえにしばしばわたしたちは困惑しますが、きょうのたとえ話もその一つです。とは言え、わたしは、この「わかりにくい」という点が大事だと思います。
イエスは言われた。「不正にまみれた富で友達をつくりなさい。そうすれば、金がなくなったとき、あなたは永遠の住まいに迎え入れてくれる。」(ルカ169)イエスの真意はどこにあるのでしょうか?
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ1613)ともイエスは言われました。富への執着、貪欲を厳しく諌めています。

地上の富というものは何らかの不正にかかわっているのではないでしょうか。大事なことは、自分が預かっている富を神の国のために活かして使う、ということです。決して不正な富自体を認めているわけではありません。
神はすべての人の救いを望んでいます。神は救いの機会をすべての人に与えます。しかし、心にしっかり刻み付けるべきことは、神はそれぞれの人に生涯の責任を問う、ということです。地上を去る時に自分の富で何をしたのか、が問われるのです。心して自分の富を神の国のために使いたいものです。
わたしたちの神は憐み深い神、すべての人が救われることを望み、すべての人にイエスの過ぎ越しの神秘に与る機会を与えてくださる。その神が与えてくださる機会にわたしたちは神への応答をしなければならないのです。その応答の中に、自分に与えられた資産と能力を何のために、どう使ったのか、ということが含まれているとわたくしは思います。
――

第一朗読  ローマの信徒への手紙 15:14-21

 

福音朗読  ルカによる福音書 16:1-8
(
そのとき、) イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

 

めとらず嫁がず

年間第32主日C年

2019年11月10日、本郷教会

第一朗読 マカバイ記 二マカバイ7・1‐2、9‐14

第二朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 二テサロニケ2・16~3・5

福音朗読 ルカ20:27-38

 

説教

教会の典礼暦はまもなく待降節に入ります。今日は、復活についての主イエスの言葉を学びたいと思います。

わたしたちは死んだあと、どうなるのでしょうか。全ての人にとって最も大切な問題であります。わたしたちキリスト者は、死ということを次のように信じている。

「信じる者にとって死は滅びではなく、新しい命への門であり、地上の生活を終わったのちも、天に永遠の住処(すみか)が備えられています。」

死者のためのミサを捧げるときにとなえられる叙唱にある言葉です。

地上の生涯の終わりは死でありますが、死は滅びではない。新しい命へ移されることである。その新しい命は復活の命であります。復活の信仰は、聖書の歴史の中で次第に明らかにされてきました。そして主イエス・キリストの復活と弟子たちへのご出現によって、確固とした信仰としてわたしたちに示されています。

第一朗読は、マカバイ記という、第二正典とも呼ばれる聖書に属している聖書であります。このマカバイ記、マカバイという家の7人の息子とその母親の壮烈な、そして強い信仰に基づく最後の様子がマカバイ記で綴られております。このマカバイ記の中で既に、永遠の命への信仰と希望が表明されています。

今日の朗読から次のような箇所を読むことができる。

「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」

あるいは、「わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」とも言われています。

イエスの時代の宗教の指導者は、祭司たちとそれから、律法学者、そしてファリサイ派の人々でありました。イエスはたびたびこれらの人々と論争しています。今日の場面は、祭司の人たちの中でサドカイ派と言われる人々との論争を告げています。サドカイっていう言葉は、サドクという司祭から来ているという説がありますが、彼らは非常に勢力のある集団で、最高法院の主要メンバーであり、ローマ帝国への協力者でもありました。モーセ五書だけを正典として認めていて、復活あるいは、天使を否定していた人たちであります。その人たちに対してイエスは言われました。「この世では結婚するということはあるが、次の世に入るならば、もはや結婚するということはなく子孫を残す必要もないだろう。」レビラト婚という言葉がございます。旧約聖書で家の財産を確保し、そして引き継がせるために定められたと思われる結婚の制度で、今日の福音にありますように、兄弟と、次々に結婚する女性が出てくるということが想定される。長男と結婚した女性がいたが、子がないまま夫がなくなると次男と結婚しなければならない。三男、次々と同じ女性を妻としなければならないという規則がありました。それをレビラト婚といいますが、そういうことが旧約聖書で決められていることを持ち出して、サドカイ派の人は、だからそんな馬鹿なことはあり得ないので、復活ということはないのであると主張したのでありましょう。

死の向こうに待っている新しい生活は、地上の生活とは全く異なる新しい世界であります。死の関門を通りぬけた人は天使に等しい者となる。天使になるということではないが、天使のようになる。パウロの言葉に依れば、それは朽ちる体が朽ちない体に変えられる。あたかも主イエスの復活のからだ、栄光のからだのように変えられると言っています。

わたしたちは、家族や親戚、友人、知人の葬儀に参加します。そして場合によって火葬場に行って遺体を火葬してもらうわけですが、その時に本当にしみじみと感じ入ることがあります。この体はたとえ火葬にしなくとも、やがて朽ち果ててしまう。それで人生終わりだろうか。わたしたちの信仰によれば、わたしたちには朽ちない、栄光の復活のからだが与えられるのであります。それはこの地上の肉体とは違うので、地上の条件に支配されない状態にある。すぐに見たり触ったりすることができませんが、そのような世界にわたしたちは入る、そういう世界に入れてもらえると信じているのであります。

わたしたちは、地上におりますので、地上というのは場所があって時間があるわけで、場所と時間の中でしか存在できませんが、霊の世界というのは、場所と時間を超えた世界であります。復活したからだというのも、場所と時間に支配されないからだになっているのであります。

 

今日はあらためてわたしたちの信仰、復活への信仰をより確かなものにしていただけるように、お祈りいたしましょう。今日の第二朗読からわたしたちの励ましをいただきたいと思う。

 

主イエス・キリストの復活に与るものとされたわたしたちが、日々聖霊の導きを受け、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者として歩むことができますように。

――

第一朗読  マカバイ記 二 7:1-2、9-14
(その日、)七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。彼らの一人が皆に代わって言った。「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」
(二番目の者も)息を引き取る間際に、彼は言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」
彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、毅然として言った。「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」そこで、王自身も、供の者たちも、苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。
やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。死ぬ間際に彼は言った。「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 二 2:16-3:5
(皆さん、)わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。
終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。

福音朗読  ルカによる福音書 20:27-38
(そのとき、)復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。《「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」》
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

 

2019年11月 7日 (木)

ルカ15章

11月7日年間第31木曜日

 第一朗読  ローマの信徒への手紙 14:7-12
(皆さん、) わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。
「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」
それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

 福音朗読  ルカによる福音書 15:1-10

(そのとき、) 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 

説教

今日の福音はルカの15章です。15章には三つのたとえ話が出ています。そのうちの二つが今日読まれました。もう一つは有名な「放蕩息子」の話であります。

今日の話も、イエスとファリサイ派の人々や律法学者たちに向けて話された話です。イエスとファリサイ派の人々、律法学者たちとの対立の争点、あらそいの元になった点)は一体何であったのかといつも考えさせられます。

今日の二つの話は何を伝えているのでしょうか。

「大きな喜び」という言葉に注目したいと思います。

一匹の羊が見つかった時には、大きな喜びが天にある。

あるいは失われたドラクメ銀貨一枚が見つかったら、神の天使たちの間に喜びがあると告げられている。この「喜び」ということが一番伝えたいことではないかと思います。

「放蕩息子」の方は、途中で気がついて父のもとに帰ろうと決心したわけですが、今日の二つの話は、羊や銀貨が見つけられたという話であり、羊や銀貨が自分から帰るということは出てこないのです。見つけたほうの喜びが述べられているのですが、結果的には見つけられた方の喜びもあったことが暗示されていると思います。

ところで羊の方も銀貨の方も自分が探されているということについては何も言っていない。主体が羊であり銀貨ですから、自分がどういう状態にあるという意識はないのでしょうが、これを人間のことを言っていると考えれば、自分がどれだけ探してもらっているかということに気がつくはずであります。いや、気がついて欲しいのです。人はそれほど必要で大切な存在だということを言っているのではないでしょうか。99匹を置いてでも一匹の羊を探し回る羊飼いの気持ち。あるいはたった一枚の銀貨であっても、何を置いてでも探し回る女性の気持ち。その気持ちというものが天の父の心を表わしていると思われる。そういう神の心に気がつくことが求められているのです。

 第一朗読には、葬儀の時によく読まれる個所が出てきます。その中で次の言葉、「キリストが死にそして生きたのは、死んだ人にも、生きている人にも、主となられるためです」に注目したい。キリストは、生きている人のためだけではなく、死んだ人のためにも、死んでくださった主である、という意味であります。

福音宣教とはイエス・キリストを宣べ伝えることですが、それはイエス・キリストがすべての人のために死んだくださったのであり、それは、すべての人がそれぞれ誰であっても、なくてはならない、かけがえのない大切な存在であるということを伝えること、そのことを理解してもらえるように努めることであ

 

 

2019年11月 6日 (水)

非常識

11月4日、5日、6日ミサ説教

 説教

 11月6日、水曜日の第一朗読ローマ書のなかで使徒パウロは言っています。

「すべての掟は『隣人を自分のように愛しなさい』という掟に要約される。愛は律法を全うする。」

誰しも納得できる教えです。隣人の中には当然、家族が含まれている筈です。

ところが今日の福音では、イエスは言われました。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

分かりにくい教えです。パウロの教えとイエスの教えは矛盾していないでしょうか?整合性がないように感じませんか?

そもそも、聖書の中には一見対立するような、矛盾するような表現がみられることは珍しくはありません。ここではこう言っているが他ではこうも言っている、というように感じる場合があります。

今日の福音で問題に感じるのは「憎む」という言葉です。イエスは家族を憎むようにと教えているのでしょうか。憎むと言えば「ヘイト・スピーチ」を思い出しますが、ここで言っているのは、家族に従うよりもイエスに従うことを優先するように、という意味です。

フランシスコ会の聖書の注によれば、「憎む」は「より少なく愛する」という意味であり、比較級を表わすのにしばしば対立概念である憎しみを用いているのであり、文字通りの日本語での「憎む」ではない、ということです。

イエスは「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」(マタイ10・37)と言っています。家族との係わりは難しい場合があります。しばしばイエスに従うことを妨げる原因となっていることをわたしたちは体験します。イエスに従うためには場合によっては、家族との絆を断ち切りあるいは自分の所有への執着を放棄しなければならないのです。

 イエスの教えは常識には合わないと感じることがあります。例えば一昨日の福音です。

「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

わたしたちはお祝いの席にはお世話になっている人、自分には大切な人、これからお返しをしてくれることが期待できる人を招待しているのです。いわばこの世の習わしである、「等価交換の原則」によっているのです。神の国は等価交換を超えた世界です。

わたしが司教叙階を受ける前に行った黙想でこの譬えをしみじみと考えました。その後司教になってからこのイエスの教えをどのくらい実行したでしょうか。斬鬼の至りです。

 福音とは常識に会わない教えです。

昨日の教えですが、宴会に呼ばれた人はこの世の事に忙しく、畑を買ったとか、牛を飼ったとか、結婚したとかいう理由で招待を辞退しています。このような理由は世間の常識です。福音とは常識を超えた世界です。何を差し置いてでもイエスの招きに応えるということが神の国の福音の招きに応えることなのです。

 

こう考えてみると、福音宣教の難しさ福音自体の「非常識」にあるのかもしれません。

 

 

11月6日 年間第31水曜日

第一朗読  ローマの信徒への手紙 13:8-10
(みなさん、) 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

福音朗読  ルカによる福音書 14:25-33
(そのとき、) 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

1月5日 年間第31火曜日

第一朗読  ローマの信徒への手紙 12:5-16a
(皆さん、わたしたちは) 数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。

 

福音朗読  ルカによる福音書 14:15-24
(そのとき、) 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

 

11月4日 聖カロロ・ボロメオ司教

第一朗読  ローマの信徒への手紙 11:29-36
(皆さん、)神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

福音朗読  ルカによる福音書 14:12-14
(そのとき、イエスは招いてくれたファリサイ派の議員に言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 

2019年11月 3日 (日)

ザアカイの物語

年間第31主日C年


2019年11月3日、本郷教会

第一朗読 知恵の書 知恵11・22~12・2
第二朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 二テサロニケ1・11~2・2
福音朗読 ルカ19:1-10

 

説教

今日の福音は、ザアカイという徴税人の頭の話であります。このザアカイという人は、人々から忌み嫌われていた人のようです。嫌われ者というんでしょうか。 このザアカイにとって、イエスの言葉「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」

この言葉は、文字通り喜びの言葉、福音でありました。
教会の使命は福音宣教であります。福音。喜ばしい幸いなたよりを告げることが教会の使命。人によってどういう言葉が福音であるのかは違ってくるかもしれませんが、このザアカイの場合は「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とイエスが言って下さったことが、福音でありました。
彼は、人々から罪人(つみびと)であるとみなされていた。罪深い男であると言われていた。そのような男のところにイエスがお泊りになる。それは大変光栄なことでもありました。ザアカイは大喜びであった。そして自分の財産の半分は貧しい人に施します。損害を与えていたら四倍に賠償します、とさえ言った。この順番、つまり、イエスから声をかけてもらったということがあって、その結果、ザアカイは非常に喜んだ。喜んで、良いことをすることを即座に宣言した。逆ではなかった。ザアカイが良いことをするので、イエスは「今日あなたの家に泊まりたいと、あなたは良い人だ」と言ったわけではない。

 

知恵の書は、新約聖書に非常に近い内容と年代の書。イエスの到来の直前に成立したといわれている、第二正典に属する書ですが、非常に大切な内容を告げています。
神はお造りになったものを何一つ嫌われない。そして存在するものは全ていとおしまれる。もし存在するものを嫌ったり憎んでおられるのなら、それは矛盾ではないか。そういうものをお造りにならなかったはずだ。ここには、全ての存在は神によって存在している、造られた、という信仰があります。そして特に人間は、神の作品、傑作であるとさえ考えられています。

 

あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。と、書いてある。
ですから、すべてのものに、神の霊が働いている。そして、人間は神の写しというのか、似姿というのか、神ではないが、神の子、神に似たものとして造られている。
その割に、なぜ、われわれは変なことをしているのかという疑問があるのですが…。
神は自分の造ったものを決して退けない、嫌われない、憎まれない。いとおしく思い、そして、慈しんでくださる。このメッセージが福音ではないかと思います。
ザアカイは人から嫌われていた。しかし、イエスをとおして、神の行為「わたしは今日、ぜひ、あなたの家に泊まりたい。」という、イエスの言葉を受けることができたのであります。
人間と人間の関係は、なかなかむずかしくて、ある人のことはどうしても嫌いでしょうがない、ということも有り得る。逆もありますね。誰かから嫌われている、と。理由はよくわからないが、好き嫌いはやむを得ず起こる感情であります。しかし、その時に、神はご自分の造ったものを何一つ嫌われることはない、という言葉は、わたしたちの慰め、励ましになると思います。
人のことを嫌いになるだけではなくて、場合によっては自分で自分を認めにくいという気持ちになることもある。
日本では、この「自死」を遂げる人が多い。
最近、おかげさまで減少してはいますが、若い人、あるいは、子どもでさえも自殺する。どうしてだろうか、と。自分で自分のことを大切に思えないとか、自分で自分のことが嫌になってしまうという動機なのでしょうか。人からいじめられたり、否定されたりすると生きていく力がそがれてしまうからでしょうか。動機、理由は良くわかりませんが、しかし、人間が生きていくためには、だれかから認められ、期待されているということが必要であります。
わたしたちの場合は、人間関係ではむずかしいことがあっても、わたしたちを造られたのは神であり、神はわたしたちをいつくしんでくださる。
たとえ、どんな問題があっても、どんな欠点があっても、人から嫌われても、神は自分の作品を、自分のことですからね、自分でしたことを否定はしないわけであります。それが福音でないかと思うのであります。

 

さて、わたしたちは、地上の教会に属していますが、天上の教会には多くの聖人が憩うていらっしゃる。その間に、浄めの教会があると教会は信じている。
だれが浄めの教会にいるのか、だれが天上の教会にいるのか、わたしたちにはわかりません。わかりませんが、亡くなった方は浄めを受けて、主のもとに受け入れられるとわたしたちは信じている。
きょうは、昨日に引き続き、亡くなった方、帰天された方を想いお祈りをお捧げいたしましょう。
カトリック本郷教会の歴代の主任神父様を思い起こしていただきたい。お名前をお呼びします。
松下義一、平田忠、瀬野勇、柴田真、関戸順一、水谷九郎、内山賢次郎、井手雄太郎。
そして、レイ大司教様、そのほか多くの方が本郷教会のために牧者として働いてくださいました、感謝申し上げます。
そして、皆様ご存じの、直接ゆかりのある、亡くなったご家族、先祖の方、友人、知人、恩人、いろいろな方を思い起し、お祈りを捧げてください。あとで、もしよろしければ、ここで焼香をしてお祈りすることがふさわしいと思いますのでどうぞなさってください。

 

2019年11月 1日 (金)

祝福あれ、貧しい人々!

諸聖人の祭日 ミサ説教

2019年11月1日(金)、本郷教会

 

アジア太平洋戦争が終わって、日本が非常に貧しい状態に置かれた時代に、一人の若い女性がイエス・キリストの福音に接し、イエス・キリストの生き方に倣って、人々の模範となるような美しいしかし短い生涯を献げました。その方はエリザベト・マリア北原怜子(きたはらさとこ)さんであります。

昨日は北原さんの足跡を辿る巡礼をいたしました。

今日はすべての聖人を記念する日です。

わたくしたちはイエス・キリストに出会い、イエス・キリストを信じる者となりました。

その時点ですでに神の子となっています。

地上においては、さまざまな困難・試練がありますが、地上の生涯を終える時に、御子イエス・キリストを直接仰ぎ見ることができるようになると、わたくしたちは信じています。

その時までは、地上においてさまざまな問題・困難・誘惑の中に置かれている。

そういう人びとに向かって、イエスは「あなたがたは、祝福された者である。」と言われました。

「幸いである」という言葉は、「祝福された者」という意味であります。

どういう人が祝福されているかというと、山上の説教においては八か条が宣べられている。

昔の言葉で言えば、「真福八端」。まことの幸いの八か条という意味です。

どうしてこのような人が祝福されているのでしょうか。

そのことについて、いろいろな人がいろいろ解説しています。

教皇フランシスコは、『喜びに喜べ』という教えで、山上の説教、特に真福八端について宣べています。

最初の一か条は、「心の貧しい人々は幸いである」(マタ5:1)という言葉です。

ルカの福音では、「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)となっています。

おそらく、同じことを述べていると思われる。

決して貧困と幸福を同じものであると言っているわけではない。

わたくしたちの教会も、地上から貧困をなくすために戦いましょうと呼びかけているわけであります。貧困と清貧とは、別なことであります。

イエスの周りに集まった人たちは、貧しい人びとでありました。

自分で自分を守ることができない、そのための手段を持っていない、権力や財産あるいは地位・名誉を持っていない無力な人たちであります。

イエス・キリストの教えた「神」は、そういう人びとの「神」であります。神は「そういう人びとの味方である」、「そういう人びとを御自分の幸せに招いてくださる」、「すでに神はあなたがたと一緒にいる」というメッセージでありました。

神の国はすでに来ていることをあらわすために、イエスは病人を癒し、そして悪霊に憑かれた人から悪霊を追放しました。

「心が貧しい」という日本語は良い意味には響きませんが、精神的に問題を抱えている人びとや生きる力が乏しいという人びとのことかも知れない。

「心」と訳されていますが、「霊」という意味であります。ギリシャ語プネウマ、ラテン語でスピリトス、です。

地上で生きることが難しい人びとに、「神さまはあなたのことを良く分かっているよ」、「いつも一緒にいるよ」とそのようにして、慰めた言葉ではないかと思われます。

 

―――

第一朗読  ヨハネの黙示録 7:2-7:4、7:9-7:14
わたし(ヨハネ)はまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」
また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」
すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。

 

第二朗読  ヨハネの手紙 一 3:1-3:3
(愛する皆さん、) 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:1-5:12
(そのとき、) イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 

 

狭い戸口

年間第三十水曜日 ミサ説教

20191030()、本郷教会

 

「狭き門」(アンドレ・ジッド)という小説があります。

今日の福音では、門ではなく戸口となっております。

「狭い戸口から入るように努めなさい。」(ルカ1324)というイエスの言葉が告げられています。

どういう意味だろうか

努力して神から授かった律法をよく学び、実行することによって、戸口を通って神の国に入りなさいという意味だろうか。

聖書全体の教えから言うと、それは誤解であるということになります。

教皇フランシスコは、教会の歴史の中で危険な思想が人びとを惑わしたと言っております。

「人間は自分の努力によって神の救いに与ることができる」という誤った考えであります。

その考えはさまざまに形を変え、未だ教会の中に残っている。

それでは、「狭い戸口から入りなさい」とは、どういう意味なのでしょうか。

狭いか広いかは、どうやって分かるのだろうかとも思います。

何年か前、カテドラルの子供のミサの時にもこの言葉が主題になっていました。

イエス・キリストという入り口を通らなければ、誰も神の国に入ることができない。

これは聖書全体のメッセージから出てくる結論ですね。

イエス・キリストは、神と人との仲介者です。

イエス・キリストに依らなければ、天の父のもとに行くことはできない。

ですから、イエス・キリストを通らなければいけないわけです。

関所があれば、関所を通らないと入れない。

飛行機に乗るときは搭乗口を通らないといけない、パスポートを提示しないといけない、ということになるわけであります。

そうすると、イエス・キリストを通るか通らないかということが、カギになるわけです。

それで、恐らく今日の福音は、イエス・キリストという戸口を通りなさいという話だと思う。

イエスという戸口を通らない人、認めない人、信じない人に向かって言われたのではないだろうか。

人はどんなに努力しても、自分の努力で神の掟を守ることはできないし、神の恵みを受けることはできない。

恵みというのは、一方的に神様から与えられる神の行為であります。

その行為を感謝して受け取るのであって、受け取らない人には神は強制することはしないわけです。

ですから、(戸口が)狭いか広いかは受け取る側の心構え、つまり信仰に因るのであります。

この前の日曜日の福音(ルカ18914)もそういう見方で受け取ると分かるかもしれない。

ファリサイ派の人は、自分がどんなに立派に掟を守っているかということを神様に報告しています。

徴税人の方は、自分はまったく落第であると思っていますので、「罪人のわたしを憐れんでください。」(ルカ1813)と神様に祈りました。

義とされた人、つまり神様から祈りを受け入れられ、神の国の戸口から入ることができるようにされた者は、ファリサイ派の人ではなく、徴税人の方でありました。

 

 

被造物の救い

年間第三十火曜日 ミサ説教

2019年10月29日(火)、本郷教会

 

主イエスは、たびたび「神の国」をたとえによって説明されました。

「神の国」という言葉は、神の支配という意味であります。

神の御心が行われるようになることが、「神の国」であります。

今日の福音では、二つの短いたとえ話が告げられています。

「からし種のたとえ」、それから「パン種のたとえ」です。

「からし種」は非常に小さいもののたとえであります。

神の国は非常に小さいが、やがて成長して空の鳥が巣を作るほどの木になると言っています。

 今日の第一朗読も、神の国と関係のある説明ではないかと思う。

わたくしたち人間は、罪から解放されて永遠の命にはいることを期待している、あるいはすでに永遠の命に移されていると信じていますが、すべての被造物もやがて神の国が完成する時に「滅びへの隷属から解放」(ロマ8:21)される時がくると言っています。

滅びへの隷属からの解放とは、どういうことを言っているのでしょうか。

十二使徒の選び

聖シモン聖ユダ使徒 祝日 説教
2019年10月28日(月)、本郷教会

 

十二使徒の中の二人、シモンとユダを記念する祝日であります。
今日のルカによる福音を読んで感じましたことを二、三申し上げます。
「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」(ルカ6:12)とあります。
一晩中山の中で祈って、そしてその後十二人を選ばれました。
十二人は十二使徒と呼ばれるようになりましたが、イエスが一方的に選んだ人であります。
誰かを選ぶときにはいろいろな方法がありますが、十二使徒の場合はイエスが祈ってその結果ご自分の考えで、聖霊の導きに従って、十二人を指名したというように思われます。
それであるのに、といいましょうか、十二人の中で最後に挙げられている人が、後に裏切り者となったイスカリオテのユダでありました。
ユダはなぜイエスを裏切ったのでしょうか。
聖週間の頃、ご一緒に黙想したいと思います。
その後「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」(ルカ6:17)
非常に多くの人たちがイエスの周りに集まってきました。
イエスの教えを聞くためでありましたが、さらに病気を癒していただくため、汚れた霊を追い出してもらうためでありました。
そして、「何とかしてイエスに触れようとした。」(ルカ6:19)とあります。
触れるだけでイエスから力が出て、すべての人の病気を癒したのでありました。
今日の福音から、イエスという人から力が多くの人に伝わり、人々を癒す力をイエスは持っていたということが読み取れると思います。

 

2019年10月27日 (日)

ファリサイ派と徴税人

年間第30主日C年

2019年10月27日、本郷教会

第一朗読 シラ書 シラ35:15b-17,20-22a

第二朗読 使徒パウロのテモテへの第二の手紙 二テモテ4:6-8,16-18

福音朗読 ルカによる福音 18:9-14

(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

説教

きょうも主イエスは一つのたとえを話されました。このたとえは、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して言われた話であります。そして、きょうの福音朗読の結びは、

「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる」と、なっております。

それでは、きょうイエスが伝えているたとえをご一緒に学んでまいりましょう。

二人の対照的な人物が登場します。

一人は、「ファリサイ派」の人、もう一人は「徴税人」であります。

ファリサイ派はたびたび福音書に登場する人物であります。

聖書をよく勉強し、そして、聖書が告げている掟を順守することに熱心な人々でした。「ファリサイ」とは「分離された人」という意味であり、律法を守らない罪人からは分離された清らかな存在であるという意味であると考えられています。

彼らは、本当にまじめに、すべての律法を守るようにしておりました。

本当に、うらやましいというか、感心するような人々であります。このファリサイ派の人と、イエスはたびたび衝突しているのであります。それはなぜでしょうか。

この「なぜ」ということが、イエスの宗教、わたしたちの信じているキリスト教の理解のために非常に重要だと思います。

 

さて、ファリサイ派の人は、「自分はこれこれこういうことはしていない、そして、こういうことを実行しております」と、胸を張って、神さまに報告し、そして、感謝します。ご立派です。

このファリサイ派の人には本当に感心しますが、問題があります。

それは、形式的には律法の掟を実行していたかもしれないが、しかし、「律法の精神」を本当に理解し、実行していたのであろうか、ということです。「全身全霊であなたの主である神を愛しなさい。」「隣人を自分のように大切にしなさい」という旧約聖書の掟を、彼はどのように理解し、実行していたでしょうか。

形式的に掟を実行しても、心の中で人を大切にする、尊敬するという心が無ければ、その律法順守は何の意味があるでしょうか。

このファリサイ派の人々は本当に、神の前に問題のない人であるのか、自分で自分が完璧だと思っていたかもしれないが、果たして神の前に全く清らかな問題のない人間であるのか…。

自分で自分を正しいとすること(自己義認)自体が問題であり、そして、他の人を見下すことがさらに大きな問題であると思われます。

他方、「徴税人」のほうはどうでしょうか。徴税人は人々から忌み嫌われ、自分自身も非常に引け目を感じていた人であります。

そのことを自覚していた彼は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神さま、罪びとのわたしをあわれんでください』」

「自分は神の前に至らない者である。罪、咎のあるものである」ということを彼は、強く、深く自覚していたので、何も誇るものが無い。ただ、神さまに赦しを願うしかないということを、彼はよく知っていたのであります。

ところで、神が受け入れた人はファリサイ派のひとではなく、徴税人のほうであったと福音は告げています。神の前にこの、「義とされた」のはファリサイ派の人ではなく、徴税人でありました。

義とされる」という言葉は、わたしたちの日本語の中では判りにくい、日常生活では使われることがありません。どういう風に言い表したらよいのか、いつも迷います。とりあえず、「神さまが祈りを受け入れ、そして、その人に問題があるにしても、それでもその人自身を、かけがえのない、愛する子どもであると認めてくだった」という意味ではないかと思います。

徴税人のほうは、すっかりもう、自分の問題を意識して自分の価値には全く目を向けようとしない自信喪失の態度です。ファリサイ派は神の前に堂々として自信に満ちた態度です。非常に対照的。どちらも極端ではないでしょうか。

わたくしがファリサイ派の人をうらやましいと思ったのは、「これこれのことはしていない、これこれのことをしていると胸を張って言える」ような自分ではないと自覚するからであります。

他方、徴税人のほうについては、あなたは自分のことを罪深いダメ人間だと思っているのだろうけれども、そういうあなたを神はそのままで受け入れ、愛してくださっているのですよ、と言いたい。

この神の神からの「よし」が福音の神髄ではないでしょうか。

神は正しい人、問題のない人をそれゆえに愛するのではない。問題があっても、不完全でも、過ちを侵す人であっても、あるいは、そうだからこそ、かけがえのない大切な人として認め、受け入れてくださるのであります。

そのような信仰理解こそがわたしたちにとって福音ではないかと思うのであります。

 

エレミヤ31章31節

宣教・福音化のためのミサ 説教

20191026()、本郷教会

 

今日のアレルヤ唱でわたくしたちは「全世界に行きすべての人を私の弟子にしなさい。」と唱えました。

昇天に際し、主イエスが弟子たちにくだされたご命令であります。

この命令は弟子たちだけでなく、今のわたくしたちに向けられたご命令でもあります。

宣教・福音化とは、このご命令の実施に他なりません。

ミサの集会祈願は、そのミサの趣旨を簡潔に表しています。

神は、全世界の人々がイエス・キリストの福音を聞き、そしてキリストの弟子になることを望んでおられます。

そのためにわたくしたちに神を派遣されます。

信じる者すべてに聖霊を注ぎ、イエスが世の終わりまで彼らとともにいることができるようにしてくださるのであります。

宣教の働きは弱いわたくしたち人間の働きではなく、聖霊の働きによってはじめて可能になる教会の使命の実行であります。

聖霊によってわたくしたちが、主イエス・キリストを宣べ伝えることができるようになるということは、旧約聖書ですでに預言されておりました。

今日選んだエレミヤの預言は、その中で最も重要な、新しい契約の預言を伝える箇所であります。

この箇所を今日はしっかりと読んでまいりましょう。

この契約は、古い契約ではない新しい契約、つまり新約のことであります

シナイ山でモーセを仲介として結ばれた古い契約とは違います。

彼らイスラエルの民は、古い契約を守ることができませんでした。

その契約は、石の板に刻まれていた十の戒め、十戒を指しています。

「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである」(エレ3133

古い契約は無効になり、新しい契約が発効される。

どういう契約でしょうか。

「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」(エレ3133

契約の律法は人のそとにあった文字でありました。

「文字は殺しますが、霊は生かします。」(2コリ36)と使徒パウロは言っております。

石の板に刻まれた文字が、モーセによってもたらされた古い契約、旧約であります。

その旧約は、彼らを生かすことができませんでした。

そこで新しく契約を結び直します。

この契約は人のそとに記すのではなく、「彼らの胸の中に授け、彼らの心の中にそれを記す」(エレ3133

このようにして、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレ3133

他の神を神とすることは、なくなるでしょう。

そして、「人々は隣人どうし、兄弟どうし『主を知れ』と言って教えることはない。」(エレ3134

「主を知る」ということは、非常に重要なことであります。

ヨハネの福音で言われていることを思い起こしてください。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハ173

「知る」ということが重要なキーワードとなっている。

頭で知ることではなくて、心で知る。

その人の心を受けて、その人になりきる。

言い換えれば、弟子になるということであります。

ある人を知るという時に、一般的にどういう人か知っているということは、その人を知る段階の最初の方でしょうけれど、その人を良く知るということは、その人のようになるということであります。

あるいは、その人がすることを自分もすることができるという意味でもあります。

深い交わりを意味しているのであります。

ですから主の霊が注がれますと、もはや「主を知れ」と言ってお互いに教える必要はなくなるというわけになります。

「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレ3134

このエレミヤの預言はナザレのイエスによって、ナザレのイエスの過越の神秘つまり死・純化・そして復活の神秘によって実現しました。

わたくしたちの上に主の霊、聖霊が注がれました。

そこで、問題は既にわたくしたちの心に注がれている聖霊の導きにどのように従うのかということであります。

そのためには聖霊に敏感でなければならない。

聖霊のはたらきをいつも受け止め、それを生活の中で行うことができるように準備していなければならないのであります。

キリスト者の生活、それはキリストの霊に従う生活、霊的生活であり、霊を受け、霊に従って歩むことであります。

 

2019年10月25日 (金)

時のしるし

年間第二十九金曜日 ミサ説教

2019年10月25日(金)、本郷教会

 

「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」(ルカ12:56)とイエスが言われました。

「時のしるし」を読み取るということは、どういうことでしょうか。

続けて言われます。

「あなたがたは、何が正しいのかを、どうして自分で判断しないのか。」(ルカ12:57)

 第二バチカン公会議の際、「時のしるし」という言葉がよく話されました。

1956年に終了した公会議の後何十年も経って、今の時代の「しるし」は何でありましょうか。

今日の福音の後半と、「時のしるし」という話との繋がりが分かり難いのですが、おそらくイエス・キリストによって示された神の国の福音を受け入れなさいという意味だろうと言われています。

「偽善者よ」と言っていますので、自分の問題を認めず、イエス・キリストの呼びかけに応えようとしない人々に向かって、「悔い改めて神の国の福音を信じなさい」というイエスのメッセージを早く受け入れなさいという意味ではないだろうかと思われます。

 さて、こんにちのこの日本という環境において、状況において、「時のしるし」は何であるのか、そして神との和解を受け入れるというのはどういうことなのかということを、わたくしたちは知らなければならない。

しばらく黙想したいと思います。

 

多く与えられた者

年間第二十九水曜日 ミサ説教

20191023()、本郷教会

「ローマの教会への手紙」を連続して読んできています。

今日の朗読では、

「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(ロマ618

と述べられています。

本日の福音は結びの言葉として次のように言われています。

「すべてを多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ1248

わたくしたちは、何をどのようにどのくらい求められ任されているでしょうか。

しばらく黙想したいと思います。

 

 

 

2019年10月22日 (火)

一人の人キリストによって救いが

年間第二十九火曜日 ミサ説教

20191022()、本郷教会

1020日の福音は、

「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ188

という言葉で終わっておりました。

今日の福音は、この言葉に関係があるのではないかと思います。

わたくしたちはいつも主キリストをお迎えする心の準備、信仰、を持っていなければならないと思います。

このところ第一朗読は「ローマの教会への手紙」です。

わたくしたちは、信仰によって救いを得ることができると教えていますが、その信仰は主イエス・キリストへの信仰であります。

最初の人間アダムによって罪と死が世に入って来ましたが、一人の人、イエス・キリストへの信仰によってわたくしたちは神の恵みに与り、永遠の命に入ることができることを使徒パウロが教えています。

 

 

 

 

 

 

 

2019年10月21日 (月)

神の前に豊かになる

年間第二十九月曜日 ミサ説教

20191021()、本郷教会

 

ルカによる福音の12章の今日のたとえは何を言っているのでしょうか。

「自分のために冨を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ1221

とイエスは言われました。

「神の前に豊かになる」とはどうすることでしょうか。

この金持ちの生き方は、現在の世界で多くの人がとっている態度であるかもしれない。

わたくしたちが所有している物は、実は神様からお預かりしている物であり、貧しい人々と分かち合うべき物であります。

個人としても団体としても、この世界の貧困という問題にわたくしたちは真剣に取り組まなければならないのであります。

第一朗読は引き続きローマ書の朗読でありました。

今日の箇所は、アブラハムの信仰について述べています。

アブラハムは神を信じたので義とされたと述べられています。

アブラハムのひとり子イサクを焼き尽くす献げ物とするように命じられたアブラハムは、躊躇したかもしれませんが敢えてその神の命令を実行しようとしました。

この話は、分かり難いと言えば分かり難いのですが、アブラハムが(神は)死んだ者も生き返らせることができると信じていたというように解釈することもできる。

そして、アブラハムの信仰はもちろんですが、イサクの信仰も評価されるのであると思われます。

 

 

 

 

牧者

牧者・司教・司祭のためのミサ 説教

20191019()、本郷教会

 

第一朗読  ローマの信徒への手紙 4:1316-18
(皆さん、)神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。

福音朗読  ルカによる福音書 12:8-12
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

 

説教

今日は「牧者」のためにミサを献げます。

「牧者」という言葉は、われわれカトリック教会では「司教」「司祭」〔助祭〕を指しております。プロテスタント教会では、「牧師」と言います。

ご承知の通り11月の末に、ローマの司教であるフランシスコ教皇が日本にお出でになります。

十二使徒の頭(かしら)とされた漁師のペトロがローマで殉教したという史実から、その後継者が使徒たちの頭(かしら)であるとカトリック教会では理解しております。

いつからか日本語では教皇という言葉を使うようになりましたが、英語ではポープPope

お父さんという意味でありますが、イタリヤ語ではパーパpapaであります。

紀元313年、この年は非常に重要で、ローマ帝国ではミラノ勅令によりキリスト教が公認されました。

それ以降キリスト教はローマ帝国の宗教となり、その指導者の地位も高い名誉ある権威あるものとされました。そして次第に司教という存在が、名誉、権威、財産をもつ地上的な存在となって行きました。そこでそのような教会のあり方を刷新するためにさまざまな努力が行われてきたのであります。

フランシスコ教皇も、大いなる決意をもって教会の改革刷新をしていると思います。

たしか以前の土曜日のミサでお話ししましたが、わたくしの記憶にあるローマの司教で非常に鮮明な存在はヨハネ・パウロ1世です。

2世は皆さんよくご存じですが、1世という方はわずか在位33日間でお亡くなりになりました。

1978年、ちょうどわたくしがローマ留学中のことなので、よく覚えております。

そのヨハネパウロ1世は、アルビーノ・ルチアーニAlbino Lucianiという方で、ヴェネツィアの総大司教でした。

彼は、教皇に就任する式を「全世界の最高牧者に就任する式」という位置付けにし、戴冠式を廃止しました。

極東の日本から見ると、戴冠式というものが良く分かりませんが、ローマの司教であるパーパPapaはイタリア半島中央部の領主になっていたのです。天上の権威だけではなく、地上の権威というか権力を持つ存在になりました。

その就任式は、荘厳な戴冠式で三重冠という三つの権能を象徴する冠を受ける式となったわけですが、ヨハネパウロ1世はそれを断固拒否した方であります。一か月余りで亡くなったので、急遽また教皇選挙が行われて、ヨハネ・パウロ2世が選出されるということになったわけです。

貧しい人々の教会、貧しい人々のための牧者である司教、そして、地上においては何も所有せず、人々を力で支配する存在ではないはずのイエス・キリストの弟子たちが、歴史の中で次第に権力・財力・名誉を持つ存在になってしまったのであります。

(ヨハネパウロ1世は)その在り方を根底から覆そうとなさったのではないでしょうか。

その後の教皇様たちもさまざまな努力はしてきたと思います。

現在の教皇は、貧しい人のための教会ということを力説してこられ、かつ教皇庁の改革を真に遂行していると報道されています。

司教は現在のところローマの司教から任命されていますがもとからそうではありませんでした。ローマの司教に権限が集中して、ローマの司教が全世界の司教を任命するようになっているわけです。

それはともかく、司教はローマの司教の下で、ローマの司教と共にイエス・キリストから託された任務を遂行する者であり、その司教を助ける人が司祭であり助祭であります。

司教、司祭、助祭の務めは三つの任務にまとめられます。

・神の民に仕えること、狭い意味での司牧

・福音を宣べ伝えること

・そして祭儀を執行すること。ミサを献げること

この三つにまとめることができる。

さて今読んだ福音ですが、マタイによる福音の25章(マタ253546)を思い出していただきたい。

これは最後の審判の場面です。

すべての人は、最終的に神の裁きを受ける。

その際、基準になることは、どれくらい神の慈しみを実行したか、しなかったかということであります。

非常に分かりやすい基準でありまして、要するにどれだけ人を助けたかということであります。

飢えている人に食べ物を、渇いている人に飲み物を、裸の人に着物を、寝る所がない人に寝る所を、そのほか病人を見舞う、囚人を見舞うなどのことが神の慈しみの業である。

そして、その人たちにしたことは、イエス・キリストにしたことである。

しなかったことは、イエス・キリストにしなかったことであると言われている。

4回も繰り返し「飢えている人に食べ物を、乾いている人に飲み物」をと、4回もまったく同じ文句が出てくるわけですね。

4回というのは、非常にそれが重要であるということを意味しているわけです。

そして、そういう人の中にイエス・キリストがおられると言っているのであります。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタ2540

しなかった人は、「イエス・キリストのためなら喜んでお仕えします。でもそうだとは思わなかったのでしませんでした」と言い訳をしますが、した人もしなかった人もイエス・キリストがそこにいるという意識がない場合が多い。

わたくしたちが誰かのために何か良い事をした場合、そこにイエス・キリストがそこにいるのでしたのであって、いないと分かればしないというのであれば、マタイ25章の裁きの前にバツをつけられてしまうわけであります。

ここで言われている事はわたくしの解釈ですが、キリストという看板がある場合に、「あなたはキリストでいらっしゃいますね。だったらこれこれのことをします」ということではなくて、そこに助けを必要とする人がいる場合に、その人のために何かをすることがキリストのためにすることだと言われているので、

今日の福音の「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者」(ルカ128)に該当するかどうかわかりませんが、たとえ言葉でキリストの仲間であると言わなくとも、実行においてキリストのお望みを行う者がキリストの仲間であるといえましょう。

名前だけキリストを名乗っていても、キリストの教えを実行しない者は、言葉だけはキリスト者ですけれどもキリストの仲間とは言えないという意味になるのかなあと思うわけです。

教会の牧者という者は、仕える者であって、支配する者ではない。

それぞれ人が自分の良い役割を良く果たすことができるように配慮する役割であります。

それぞれの人がみんな喜んで働けるように、そして教会共同体のためだけでなくて、この社会の中でイエス・キリストの生き方を伝えることができるように配慮し導くという役割が与えられていると思うのであります。

 

ルカの祝日

ルカ福音記者祝日 ミサ説教

20191018()、本郷教会

 

福音書を書いたと伝えられるルカの祝日であります。

ルカはシリアのアンティオキアの出身で、医者であったと言われています。

ルカの福音は、おそらく紀元70年から80年の間に書かれたと思われる。

使徒パウロの同行者として、異邦人に福音を宣べ伝えました。

マルコ、マタイの福音の伝える資料を使いながら、ルカ固有の資料を用いて、3番目の福音として、こんにちのルカの福音を編纂したようです。

ルカだけが伝える特別な内容がいくつかあり、特に女性の役割を重視する記事が目立ちます。

1章」、「2章」、「聖母マリアのエリザベトの訪問」など、ルカだけが伝えています。

今日の福音は「七十二人の派遣」の話です。

この話を今のわたくしたちに当て嵌めると、どういうことになるのだろうか。

多少なりとも当惑いたします。

わたくしたちは主の復活の時代を生きています。

わたくしたちにとって大切なことは、それぞれ派遣されている場所、それは職場であり地域であり家庭でありますけれども、そこでイエス・キリストが復活して、今もわたくしたちの中に生きておられるということを証しするということであります。

どう証しするかということが問題ですけれども。

どうしたら良いのか。

それがわたくしたちの課題ではないだろうかと思います。

 

 

 

気を落とさず絶えず祈りなさい

 

年間第29主日C年

2019年10月20日、本郷教会

 

第一朗読 出エジプト記 出エジプト17:8-13

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 二テモテ3:14-4:2

福音朗読 ルカによる福音 18:1-8

 

説教

 

主イエスは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ということを教えておられます。しかし今日の福音の結びの箇所では次のように言われました。

「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰をみいだすだろうか。」(ルカ188)これは気になるおことばではないでしょうか。

「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ということを教えるために、たとえを話されました。いわゆる、不正の裁判官の話です。「神を畏れず人を人とも思わない」ふととぎな裁判官であっても、うるさくてかなわない、という理由から、やもめの訴えを取り上げるだろう。まして全能で慈悲深い神が昼も夜も叫び求めている人々の声を聞き届けないはずはない、と言われます。

ところで、人は辛抱強く、いつもいつまでも祈り続けなければならないのですが、ときに祈ることに飽きてしまう、祈ることをやめてしまうことがあるのではないでしょうか。いくら祈っても聞き遂げていただけないように感じることがあるかもしれない。そういう場合、自分はどういう動機で何を願っているのか、ということをしばらく自分の心を見つめながら考えてみることが必要ではないでしょうか。神様はわたしたちの自分勝手な利己的な祈りは聞き入れないことでしょう。主イエスの名にふさわしい願いでなければなりません。

神様には神様の御計画があります。神は絶えず祈る者には必ず聖霊をあたえてくださるのであります。

福音書にはイエスが人々の不信仰をとがめる場面が出てきますが、人々の信仰を賞賛する場面もすくなくはありません。ルカの福音だけに限って思い出してみますと、たとえば次のような場面を思い出すことができます。

イエスは百人隊長の信仰に感心して言いました。〈言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない。〉(79

また罪深い女をゆるして言いました。〈あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。〉(750

さらに、ヤイロの娘をいやして言われました。〈娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。〉(839

エリコの近くで盲人をいやしたときに言われました。〈見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。〉(1842

 この人たちの非常に強く必死な祈りにわたしたちも見倣わなければならないのではないかと思います。

 

さて本日は世界宣教の日であります。

今日の第二朗読で次のように言われています。

「 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」

折が悪いときでも、人々に都合の悪い内容であっても、正しいこと、健全な教えを宣べ伝えるように、パウロはテモテを励ましています。わたしたち、洗礼を受け、さらに堅信を受けた者はすべてこのパウロの勧めに従って自分の場所で、自分のできる、御言葉を宣べ伝えるという任務に励まなければならないのであります。そうできますように、わたしたちの祈りをご一緒にお献げいたしましょう。

 

 

2019年10月13日 (日)

重い皮膚病

年間第28主日C年

2019年10月13日、本郷教会

第一朗読 列王記下 5・14-17

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 二テモテ 2・8-13

福音朗読 ルカによる福音 17・11-19

 

説教

イエスの一行は、ガリラヤからエルサレムに戻る旅をしておりました。そして、サマリアを通られた時に、十人の重い皮膚病の人と出会いました。

重い皮膚病という言葉は、従来は「らい」という言葉で訳されていました。しかし、この「らい」という言葉を使うことには問題があり、人々に不快感を与え、あるいは、差別を助長されるという理由で、この言葉は使わないことになりました。

らい」と訳されたギリシャ語は「レプラ」という言葉であります。そして、この「レプラ」は、旧約聖書では、「ツァラート」という言葉のギリシャ語訳であります。

そこで、このヘブライ語をどう訳したらよいかということが問題になりました。いろいろな研究と検討の結果、旧約聖書の「ツァラート」という言葉は必ずしも…、「レプラ」はあとで「ハンセン病」と言われるようになったのですが、「ハンセン病」であるとは言えない。そういうことで、結局、「重い皮膚病」という、少し曖昧な訳語に落ち着いたのであります。

因みに、昨年、聖書教会共同訳という新しい翻訳が出まして、ここでは、混乱するのですが、「既定の病」となっています。ここでは旧約聖書で規定されている病という意味です。

まあ、このような言葉の問題はさておいて、重い皮膚病の人の苦しみをわたしたちは知らなければならない。非常に忌み嫌われ、そして、隔離されていたわけでした。日本でもそうでした。「らい予防法」は、今日では撤廃されて無くなったわけですが…。

そして、さらに、この人は「サマリア人」でありました。サマリア人とユダヤ人は非常に仲が悪かった。その当時、二重に差別され、忌み嫌われていたのであります。「重い皮膚病」を患っている、「サマリア人」である、そして、全く、その社会の中で排除され、自分の場所の無いまま、さ迷い歩かなければならない。そういう人でありました。

そこで、十人の重い皮膚病の人、その中の一人は「サマリア人」であったということがわかります。

「先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(ルカ・17:13)この、必死の言葉を、イエスは耳にとめて、そして言われました。

「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(ルカ・17:)、彼らはそこへ行く途中で清くされた。

十人全員が清くされたのでありますが、その中で一人だけ「大声で神を賛美しながら戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」(ルカ・17:16)と、あります。

イエスは、そのサマリア人に言いました。

「あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ・17:19)

このイエスの言葉は彼にとって、どんなに大きな力、なぐさめになったでしょうか。

福音書には、イエスが他の人々にも同じような言葉をお与えになったことが記されています。

罪深い女と呼ばれている女性に対して、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

出血が止まらないで何年も苦しんでいた女性に向かって、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9:22)

さて、わたしたちは、イエスが「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9:22)といってくださるような強い信仰を持っているだろうか、そして、この排除されていた人々に対する深い同情、いつくしみの心を持っているだろうか。この点を反省したいと思います。

第二朗読を思い起こしましょう。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。」(二テモテ2:11-12)

わたしたちは、いわば「キリストと共に死んで、キリストと共に生きる」ものとされたのであります。

洗礼とは、「古い自分に死んで、新しい自分となって、新たに生きる」ということを意味しております。一度洗礼を受ければ、そのような生き方が完成するというわけではなくて、日々、この洗礼の精神を生きなければならない。

「古い自分に死ぬ」というのは、パウロの言葉に従えば、いわば、「肉の業とたたかい、肉の思いを捨てること」(ガラテヤ5・16-22)であります。

肉の業とは、例えば、「敵意、争い、妬み、憤り、みだらな心」(ガラテヤ5・19参照))などを指しています。

「キリストと共に支配するようになる」(二テモ 2:12)という時に、「キリストから与えられる聖霊に従って生きる」ということを意味しております。それは、「キリストの霊の実りを生きること」であります。

霊がわたしたちに与えてくださる賜物、それは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であると、パウロがガラテヤ書で言っております。(ガラテヤの信徒への手紙5:22-23参照)

わたしたちの心は、どういう状態なのだろうか、いろいろな人との関わりの中で、わたしたちは出来うる限り、霊の実りにふさわしい、聖霊の勧めに従う心を持つことができますよう、聖霊の助け、照らしを願い求めましょう。

 

第一朗読  列王記 下 5:14-17
(その日、シリアの)ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。

第二朗読  テモテへの手紙 二 2:8-13
(愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」

福音朗読  ルカによる福音書 17:11-19
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

 

2019年10月11日 (金)

イエスは悪魔の親分?

年間第二十七金曜日 ミサ説教

20191011日、本郷教会

 

わたくしたちは毎日ミサをあげて福音を読み、ナザレのイエスとはどんな人であったのか、何をした人であるのかということを学んでいます。

イエスはユダヤ人として生まれ、ユダヤ人の宗教を自分の宗教として生きた人ですが、ユダヤ人の宗教の指導者である律法学者、ファリサイ派、祭司たちと対立するようになりました。

今日の福音もその対立の場面を伝えています。

イエスはさまざまな誹謗中傷を受けましたが、その中で最も酷いものは「イエスは悪霊の仲間である」、「悪霊の頭(かしら)ベルゼブルの力を使って悪霊を追放している」という悪口であります。

悪の組織に通じていれば、その組織の一番上の者に指令を出すと、そこから配下に命令がわたって実行に移される、という考え方からこのような悪口が出てきたのでしょうか。

聖書の教え、福音書の教え、そして使徒パウロの教えは、「悪に対して悪を以ってせず、善を以って悪に勝ちなさい」、「暴力に対しては、非暴力で対抗しなさい」と言っています。

先日の福音(2019930日ルカ94650)で、イエスの弟子たちが、イエスの名を使って悪霊を追い出している者がいるのでやめさせましょうかとイエスに問う場面がありました。

今日の話はそれに似てはいるが、全く違う教えになっています。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

(ルカ1123

良いことをするについては、敵とか味方とかいう問題はない。

この世界には素晴らしいこと良いことがたくさん行われていて、それは教会の名において行われているか、あるいは教会の外で行われているかに関わらず、良いことは良いのであります。

この世の中で、あってはならないことがある場合に、その悪と戦うことがわたくしたちキリスト者の使命であり、すべての人類もその悪を追放することにおいて協力をしなくてはならない。

平和を実現するために、立場、宗教、主義、主張を超えて力を合わせるべきであります。

「わたしに味方しない者は敵対する」という言葉は、善の実現のために協力しないどころか反対する者は、悪霊の力に置かれている者、悪霊の仲間になっている者であるという意味であるかもしれない。

この度来日なさる教皇フランシスコは「喜びに喜べ」という最近出された教えの中で、

「わたしたちキリスト者の生活は、悪との戦いの日々である」と言っておられます。

 

 

2019年10月10日 (木)

霊的生活

年間第二十七木曜日 ミサ説教

2019年10月10日(木)、本郷教会

 第一朗読  マラキ書 3:13-20a
福音朗読  ルカによる福音書 11:5-13
(そのとき、イエスは)弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも
、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 

説教

今日の福音の言葉もよく知られている教えであります。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(ルカ11:9)

求めること、探すこと、門をたたくことがなければ、与えられたり、見つけたり、開かれたりすることはないだろう。

何よりも求める心が大切である、と教えていると思います。

懸命に求めれば、与えられることがあるだろうと考えられる。

わたくしたちの日常体験によっても、そのことは納得できるのではないでしょうか。

 今日の福音朗読の最後の部分であります。

「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:13)

この言葉の前までは分かりやすいと思いますが、この最後の部分は前との繋がりがよく分からない感じを与えている。

「聖霊」が出てくるのであります。

おそらく、わたくしたちが求めるべき最も大切なこと、大切のもの、は聖霊であり、聖霊を求めなければならないという意味だと思います

わたくしたちはいろいろなこと、いろいろなものを必要とし、求めています。

自分の胸に手を当てて、何が必要だろうか何を求めているだろうかと考えた時に、どういう答えがあるだろうか。

この「聖霊」ということが、わたくしたちの心に浮かんでくるだろうか。

 わたくしたちは毎日「主の祈り」を唱えています。

昨日の福音は「主の祈り」についての教えでありました。

「主の祈り」に聖霊という言葉は出てきませんが、聖霊の恵みを求めているということと、繋がっているのではないだろうかと思います。

そして聖霊を求めるには、求める強い気持ちがなければならない。

あればその求めに応じて神様が与えてくださる、というよりも、もう与えてくださっているのであります。

与えてくださっていることに気がつき、そしてそれに応えることができるように祈らなければならないのではないかと思います。

聖霊がすでにわたくしたちの心に注がれていることを知り、その聖霊の働きに応えることが大切ではないだろうか。

 キリスト者の生活は、霊的生活と呼ばれます。霊的生活というのは、聖霊の導きに従う生活ということであります。

聖霊の導きに従うことを妨げるさまざまなことから解き放たれなければならないのであります。

 

2019年10月 8日 (火)

マリアとマルタ

年間第二十七火曜日 ミサ説教

2019年10月8日(火)、本郷教会

第一朗読  ヨナ書 3:1-10

福音朗読  ルカによる福音書 10:38-42
(そのとき、)イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 

今日の福音は、「マルタとマリア」の姉妹の話であります。

よく知られている場面が読まれました。

マルタはイエスをもてなすために、姉妹のマリアが自分と一緒に働いて欲しかったのでした。

その気持ちはよく分かるような気がします。

マルタは思うだけでなく、イエスに向かって言いました。

「手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカ10:40)

そう思っても言うか言わないかはその人の決めることですが、マルタのこの言葉の内に不満、苛立ちを感じます。

マルタはいろいろなことを心配していました。

わたくしたちの人生も、毎日いろいろなことを心配したり、場合によっては恐れたりするようなことがあるのかもしれない。

なぜわたくしたちは心配したり、恐れたりするのだろうか。

それは相応しく正しいことであるかもしれないが、それが過ぎるとイエスの福音の精神には合わないことになります。

神様はすべてのことを備えてくださいます。

「何よりもまず、神の国とその義を求めなさい。」(マタ6:33)

そして復活したイエスは弟子たちに言われました。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ28:20)

さらにヨハネの手紙で言われています。

「完全な愛は恐れを取り除く」(一ヨハ4:18)

わたくし自身、心配や恐れにいつも囚われがちであると思います。

聖霊がわたくしたちを本当の自由、古い自分から新しい自分になることができるように、助けてくださいますように。

 

2019年10月 6日 (日)

福音宣教特別月間

年間第27主日C年

2019年10月6日、本郷教会

 

第一朗読 ハバククの預言 1・2-3, 2・2-4

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 二テモテ1・6-8、13-14

福音朗読 ルカによる福音 17・5-10

 

説教

 

「福音宣教のための特別月間」を迎え、わたくしたちは本郷教会としても、この一か月をどのように過ごしたら良いだろうかとご一緒に考えたいと思います。

教区からは、この一か月にこういうことについて、できることを実行するようにという勧めが来ております。

教皇さまの教え「福音の喜び」を学ぶこと。

或いは、10月20日の日曜日―「世界宣教の日」であります―カテドラルで「晩の祈り」がありまして、大司教が司式しますのでできるだけ出席してください。

それから先ほど申し上げましたが、ミサのときはご一緒に宣教のためのお祈りをいたしましょう。さらに10月31日ですが、尊者エリザベット・マリア北原怜子さんの足跡を、歩いた道をたどる巡礼が企画されておりますので、できる方はぜひご参加ください。

今日の福音朗読からわたくしが感じましたことを申し上げたいと思います。

弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」と言われた。この信仰というのはどういう内容であろうか。神に従う人は信仰によって生きるという旧約聖書、ハバクク書の言葉も読まれました。

わたしたちにとって「信仰」が非常に大切であります。折しも聖書通読会を本郷教会として行っておりますが、旧約聖書の「ヨブ記」を読んでいます。

ヨブは大変な試練に遭いました。持っているものは全部奪われ、そして非常に辛い病気になり、そして家族からも見放される、いう辛い試みに出遭った。それでも彼は神への信仰を貫くことができただろうか。そういうことについての物語であります。

順調な時に神に感謝することは易しい。しかし逆境にあって、それでも神への信頼を失わず、神のみ心に従って生きようとすることこそ真の信仰であります。弟子たちの言った「信仰」がそういう信仰であるかどうかわかりませんが、わたくし個人としては、自分はそういう信仰を持っているだろうか、そういう信仰を強くするように祈っているだろうかという思いがいたします。

もうひとつの点は、「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです。」という言葉です。前の話と後の話のつながりがわたくしにはよく見えないんですが、この僕というのは誰を指しているのだろうか。当然のことをしたから、なんら感謝されることはないんだと。「よくしてくれたね、ご苦労様」ま、普通はそう言いますけれど、いたわりも感謝も一言もない。それに対して物足りなさとか不満を感じないだろうか。普通の人は感ずる。

この僕というのは誰を指しているのか。おそらく最初の教会の奉仕者、今日でいえば、司祭とか司教とかそういう人のことだろうと言われています。彼らは一生懸命働く。それなのに、自分たちの努力が十分に報われていないと感じていたのかもしれない。感謝が足りないとか、もっとわたしたちのことを理解しろとか、そういう思いがあったのかもしれない。いや、かもしれないではなくて、そうだろうと思う。なにしろわたくしもそうですから。

人に奉仕する者は見返りを期待しないで、当然成すべきことをしているのだと思わなければならない。なにしろわたしたちは罪人(つみびと)であり、不完全な者であります。そういう者を神様が用いて、神様の御用に使っていただいている。それだけでおおいに感謝すべきであって、わたしはこんなことをしているのだ、してやっているのだと思って、自分が思うように報いが与えられないときに不満に思ったりするのは、神を信じる者のとるべき態度ではないという意味なのだろうと思います。

 

「信仰を増してください」そして「わたしは取るに足りない僕です」 この二つの言葉は、わたしたちが神の僕として当然の務め、つまり福音宣教するときに、非常に大切な心構えではないだろうかと思います。

お互いに相手を自分よりも優れた者と思い、感謝を捧げ、そして至らないところをお詫びするようでありたい。そうできますようにお祈りをいたしましょう。

 

 

第一朗読  ハバクク書 1:2-3、2:2-4
主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。
どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。
暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

第二朗読  テモテへの手紙 二 1:6-8、13-14
(愛する者よ、)わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

福音朗読  ルカによる福音書 17:5-10
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 

嫉み

病者のためのミサ説教

2019105()、本郷教会

今日のわたくしたちは、病者の恢復を願ってミサをお献げいたします。

神はイエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。

イエス・キリストを信じる者が永遠の命に入るためであります。

永遠の命、それはわたくしたちが神の命に与ることであり、神の命とは、神と共にある平和、神と共にいる幸福のことであります。

わたくしたちはすでに永遠の命に入っていますが、しかしまだ不完全な状態にあります。

そこでわたくしたちは日々祈りながら、わたくしたちがより豊かに神の命、そして永遠の命を受けることができるよう祈るのであります。

人間にどうして病気とか障がいがあるのかという疑問はとても難しい問題でありますが、神が望んでいることは、すべての人が幸福になることであります。

そのためにイエス・キリストがわたくしたちの病を身に負い、わたくしたちの贖いとなり、十字架にかかってくださった、とキリスト教徒は信じております。

永遠の命とは言い直せば復活の命でありますが、そのイエス・キリストの復活の命に与ることができますよう、死んでからでなくこの世において復活の命に与ることができますように、聖霊をわたくしたちに注いでくださいます。

聖霊がわたくしたちに与えてくださる賜物は何であるかということを使徒パウロが述べています。

それは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という恵みであります。

逆に聖霊の実りがまだ十分でない人の心には、聖書のいう「肉の思い」というものが残っています。

その「肉の思い」とはどういうものであるかというと、例えば敵意、争い、妬み、憤りなどであります。

わたくしたちは心も身体も健康になりたいと思っている。

心の健康とは、聖霊の実りに満たされていることであります。

それが不十分だといろいろな乱れた思いに襲われる。

襲われることは避けられないが、その思いに囚われないように、その思いに支配されないように、気をつけなければならないのであります。

聖書は不思議な書物で、立派に生きた人の話だけではなく、むしろこのような聖霊の働きが十分に受けられなかった人の思いが述べられております。

ペトロを始めとするイエスの弟子たちからして、イエスと一緒にいた時はまだ非常に不十分な心の持ち主であって、自分たちの中で誰が一番偉いのかということが最も大きな関心だったのであります。

イエスを死に追い詰めた人は真面目な宗教の指導者でありました。

彼らはファリサイ派とか律法学者と呼ばれていて、聖書をよく勉強し、そして実行していた人です。

そういう人がなぜイエスを追いやったかというと、いろいろな理由が考えられますが、イエスが人々の間でたいへんな人気者になりましたので、彼らはイエスを妬み憎むようになったのであります。

妬みが原因でありました。

旧約聖書を見ると、妬みや憎しみによって苦しんだ人々、あるいは大きな罪を犯した人々の物語が出ています

カインとアベルの話がその代表かもしれない。

アダムとエバが最初の人間で、その次にカインとアベルという子供が生まれたと創世記にあります。

二人ともそれぞれ自分が手に入れた物、畑で働いたカインは農作物、羊の世話をしていたアベルは羊の一番立派な初子を神に献げましたが、どういうわけか神はアベルの献げ物は受け入れたが、カインの献げ物には目を留めなかった。

カインの心に何が起こったかというと、猛烈な妬みそして怒り憎しみでした。

それを神様に「どうしてなのですか」と直接申し上げれば良かったのですが、その強いストレスをどのようにして解消したかというと、カインは弟のアベルを殺してしまう。

人類最初の殺人であります。

その原因、理由は兄弟の間の妬みであった。

イスラエルの人々の先祖はアブラハム、アブラハムの子がイサク、イサクの子がヤコブ。

このヤコブは、創世記を読むとわかりますが、二人の姉妹を妻にしたんですね。

姉妹の二人ともを妻にした。

そういうことをするとどういう結果を招くかというと、ラケルとレアという姉妹は非常に苦しんだ。

お互いに妬まなければならなかった。

どうしてこんなことをしたのか分かりませんが、一夫多妻制が普通であった社会だからでしょうか。

二人の女性は非常に苦しんだわけです。

これはわたくしたちに関係のない話ではなく、わたくしたちも時として妬みという気持ちに苦しまなければならない。

そういう時に心の平和が奪われてしまう。

聖霊の賜物を受けて、愛、喜び、平和が与えられますように、そしてそのようなマイナスの気持ちが起こった時に、そのような思いを退けてくださいますようにと祈りましょう。

「イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリ26

「自分を無にする」ということは、なかなかできないことであります。

そのイエス様が、わたくしたちに聖霊を受けることができますよう、そして御自分の生き方に倣うことができますよう助けてくださいますので、聖霊の導きを願って祈りましょう。

 

聖フランシスコ

聖フランシスコ(アシジ)修道者記念日 ミサ説教

2019年10月4日(金)、本郷教会

聖フランシスコという方は、カトリック教会だけではなく、教会の外の人からも愛されている聖人であります。

福音の勧めにすべてを献げて、生涯を貧しい者、小さな者として生きました。

今日のルカの福音は、人々の無信仰を責めています。

カファルナウムという地名が出てきますが、ガリラヤ湖畔の町で、イエスの活動の主な場所になったところです。

聖フランシスコはある時、キリストからの呼びかけを聞きました。

「わたしの教会を建て直しなさい。」

初は文字通り教会の建物を建て替えることであると思ったようでありますが、イエス・キリストの言葉を実践することによって、彼は十二世紀のカトリック教会のいわば刷新・改革をしたのであります。

多くの場合、教会の指導者を攻撃したり批判したりすることによって、改革し刷新することになりますが、聖フランシスコはそういうことは一切しなかったんですね。

しなかったが、そのままで良いとは決して思わなかったので、自分からイエスの言葉を実行し始めた。

その聖フランシスコに共感した人達が加わって、われわれは「フランシスコ会」と呼んでいますが、正式の名前は「小さい兄弟たちの会」が生まれました。

彼が心がけたイエスの福音の中心は、「貧しさ」ということでありました。

貧しいということは、物を持たない、物に依存しない、物から自由になる、ということでありました。

そして次に、「権力とか権限」を持たない。

人を支配したり命令したりする立場を放棄する。

人に力で接する、その力とは、金の力 肉体的な力、政治的権力でしょうが、そういうことを行使しない。

三番目は、「地位とか名誉とか威信」の放棄。

因みに、所有はポゼッションPossession、権力はパワーPower、威信はプレステージPrestige。

これを「三つのP」と言います。

貧しい、物を持たない、だけでなく、心においても小さな者として生きることによって教会を刷新したのでありました。

聖テレジア(幼いイエスの)おとめの精神に通うところがあります。

わたくしたちの教会も、この聖フランシスコの精神に従って改革されなくてはならないと思います。

平和があるように

年間第二十六木曜日 ミサ説教

2019103()、本郷教会

全世界のカトリック教会では、10月を「福音宣教特別月間」と宣言しております。

教会の典礼は、101日が「聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士」の記念日、102日が「守護の天使」の記念日、そして明日104日は「聖フランシスコ(アシジ)修道者」の記念日であります。

そのような教会の動きの中で、今日の福音はわたくしたちに何を語っているでしょうか。

「七十二人の派遣の話」であります。

現代の東京、文京区にある本郷教会として「福音宣教特別月間」にあたってどういう心構えを持つべきか、何を実行すべきかをご一緒に考えて実行しなければならないのであります。

「『この家に平和があるように』と言いなさい。」(ルカ105)というイエスの言葉ですけれども、平和にはさまざまな段階の平和があります。

世界の平和、心の平和、自然との平和、核兵器の禁止、紛争の終結・・・。

いろいろな平和があります。

その中でわたくしが特に感じることは、人々の心の平和ということであります。

自分自身の存在に不安を持っている人がいます。

自分が存在していることの意味が分からない。

自分は受け入れられているのだろうか。

自分のしたことについて、赦しを受けたい。

誰に赦しを頼むのか、どうしたら良いのかも分からない。

そういう気持ちを持っている人がいます。

イエス・キリストの福音の中心は「赦し」ということではないかと思う。

「あなたは赦されているのですよ」ということを、どのように伝えたら良いでしょうか。

人は「こんな自分はとても赦されていない」と感じる場合があります。

そのような人々に「あなたの存在は大切だ」ということを、どういうふうに伝えたら良いだろうか。

他方、わたくしたちは集まって主イエス・キリストの復活をお祝いし、そこから歓びと力をいただいております。

今日の第一朗読の「ネヘミヤ記」では、律法書の朗読を長時間行ったことが記されています。

「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主に喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘ810

(ネヘミヤ記は旧約時代の集会を伝えていますが)こんにち、わたくしたちはイエス・キリストの復活の時代を過ごしておりますので、復活を祝うということがわたくしたちの歓びであり力の源であるということを、もっとはっきりと思うべきであります。

 

第一朗読  ネヘミヤ記 8:1-4a5-67b-12
(
その日、)民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。
書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立(った。)エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
レビ人がその律法を民に説明したが、その間民は立っていた。彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」
民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。

 

 

福音朗読  ルカによる福音書 10:1-12
(そのとき、)主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

 

 

 

 

 

 

守護の天使

守護の天使記念日 ミサ説教

2019102()、本郷教会

今日102日は、「守護の天使の日」であります。

一人ひとりの人に、小さな者、幼い子供たちに、守護の天使がおられるという信仰を聖書が伝えております。

今日わたくしたちが学ぶべきことは何であろうかと考えてみますと、幼い子供一人ひとりを大切にするということはもちろんでありますが、わたくしたち大人も、子供のように自分を低くする者でなければならないということだと思います。

ご存じのように、繰り返し出てきますが弟子たちの関心は、誰が自分たちの中で一番偉い者であるのかということでした。弟子たちはこの思いをなかなか捨て去ることができなかったのでした。人は誰でもこの思いから解放されなければなりません。これは弟子たちだけでなくこれは、すべての人の課題ではないかと思います。

人間は、自分が誰であるのかということに重大な関心を持っていますが、自分がどれだけ重んじられるかということによって自分自身の存在を確認したいと思うところがあります。

神の前に最も小さい者が実は最も偉大であるというイエス様の教えを、人は、なかなか受け入れにくいと思います。

昨日の聖人、聖テレジアもその道、小さな者の道を歩んだのであります。

あさっては聖フランシスコの日になります。フランシスコは、小さな者として歩むよう教えた主イエスに最もよく倣って生きた聖人です。

小さい者になり、小さい者として歩むということの神秘を少しでも悟ることができますよう、祈りたいと思います。

 

 

 

 

 

 

2019年10月 1日 (火)

リジューのテレジア

聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士記念日 ミサ説教

2019101()、本郷教会

イエスの一行は、エルサレムへ向かって歩んでおりました。

その時、サマリア人の村を通過することになりましたが、村人はイエスを歓迎しませんでした。

サマリア人とユダヤ人の間にあった対立が影響していたのでしょうか。

その時に、弟子のヤコブとヨハネは、サマリア人のそのような態度に対し恐らく怒りを覚えて、彼らを滅ぼしてしまいたいと考えました。

「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ954)と言いましたが、イエスは二人を戒められたのであります。

自分たちに反対するものを打ち滅ぼしてしまう、あるいは徹底的にないものとしてしまうという気持ちが人間には起こるかもしれませんが、イエスはそのような心の動きに対して、非常に消極的な態度を示されました。

御承知の通り、「山上の説教」(マタ5312、ルカ62023)で敵を愛するように教え、自らもその教えを実行したのでありました。

さて、今日は聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士の記念日であります。

聖テレジアおとめは、教会博士にあげられました。

彼女の生き方が、すべての人の模範になると認められたからであります。

彼女の遺した自叙伝によると、彼女は自分が小さい者であり、病弱でもあったので、神様にお仕えすることについて、非常に困難を感じたことがあったと述べています。

自分の召命は何であろうかと黙想をしながら聖書を読んでいて、コリントの信徒への手紙一13章の中に見つけた言葉が、自分の召命を示しているということに気付き、大いに喜んだとあります。それは有名な「愛の賛歌」であります。

自分の召命は「愛」ということにあると彼女は確信しました。

ちなみにその言葉は次のようになっています。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(一コリ134

 

 

2019年9月30日 (月)

公開書簡:教皇庁の刷新について

公開書簡
教皇庁の刷新に関する非公式個人提言(日本語版)

 我が国の福音宣教は聖フランシスコ・ザビエルの到来によって始まり、既に470年の歴史を持っています。そのうちの200年以上は迫害と禁教の時代でありましたが、それにしても、依然この国のキリスト教信者は非常に少数者です。1億3千万人の総人口に対して、多くの外国人信者の滞在者を含めても、この国におけるキリスト教人口はおよそ100万人にすぎません。日本のカトリック教会は、世界の他の諸教会からの助けと導き、霊的支援を必要としています。特に、ローマ聖座からの支援を必要としています。

ところでおりしも、わたしたちローマ・カトリック教会の最高牧者であるフランシスコ教皇は、聖座の本部である教皇庁を刷新することを切望していると伝えられています。わたしはこの教皇の望みに心からの支援を表明します。この度教皇が来日されるに際し、わたしは教皇庁の刷新に関するわたし個人としての非公式な提言を、この公開書簡をもって公表したいと思います。

それは次の3点に関する提言です。

. インカルチュレーション
. 非中央集権化
. 霊的刷新

インカルチュレーション

日本のカトリック教会において最も重要な問題の一つは、福音の教えのインカルチュレーションと典礼に関するインカルチュレーションという課題です。

典礼については、わたしたちは、第2ヴァチカン公会議後にミサ式次第とミサの執行に関する特別な許可を頂いております。例えば、聖体の秘跡を受ける場合、わたしたちは日本の文化や習慣に従い、直接口で受けるのではなく、うやうやしく聖体を手で受ける許可を受けています。この許可は今後も有効であり維持されると思いますが、幾つかの他の事例において、この許可が取り消されるのではないかと危惧しました。『ローマ・ミサ典礼書の総則』の新版は、これまで日本カトリック司教協議会に対し許可されてきた適応の事例が取り消されかねないようにも読めるのです。現行のミサの祝い方を変えることは深刻な問題を来します。現在のミサの祝い方は信者たちに歓迎されてきたばかりでなく、既に日本のカトリック教会に深く根差しています。

また、わたしたち日本の司教協議会は、ラテン語から日本語に訳したミサの中の祈りの日本語文言の承認をお願いしてきました。すなわち、ラテン語原本から公式な日本語訳を決定する資格を司教協議会に委任するようお願いしています。

要するに、各地のカトリック教会が着手する文化の適応に対して、教皇庁がより寛大であるよう提案したいのです。

非中央集権化

わたしが危惧するもう一つの点は、教皇庁に権力が集中し過ぎているのではないか、ということです。上記の典礼式文・公式祈願文の日本語への翻訳の問題もその一例です。

各地の司教協議会に権限を委任することで権力の非中央集中化を図られるよう、わたしは教皇庁に提案します。カトリック教会にとって、各地の教会と責任を分かち合うことは大変好ましいことです。

世界人口の半分はアジア諸国に存在します。教皇庁は、アジア諸国の人材を登用すべきです。

霊的刷新

日本の社会は大変世俗化していますが、それでもなお日本人は善良な倫理観と強い良心を保持しています。ただし、この国に欠落しているものがあります。それは真生なるキリスト教的な価値観です。わたしたちはそれをローマにあるわたしたちの普遍の教会の中心地に見いだし得るだろうと期待しています。

わたしたちの願いは、教皇庁で奉仕する人々が、わたしたちにとってイエス・キリストに仕える僕であるという「しるし」となることです。その「しるし」とは、教皇庁の人々が、貧しく謙遜、清廉、貞潔であり、イエス・キリストに仕える主の忠実な聖なる僕である、というしるしです。

過去において、ヴァチカンという世界は、権力闘争やパワーゲームの場であるという悪い印象を与えていました。しかし今は、現教皇の発意と指導のもとに、聖座という名が示す通り、教皇庁が聖なる場として刷新されるだろうという希望を抱いています。

2019年9月29日

キリストにあって
ペトロ 岡田武夫
カトリック東京大司教区・前大司教
カトリック本郷教会小教区管理者

 

 

2019年9月29日 (日)

Pope

 フランシスコ教皇様のためのミサ

聖トマス西と15殉教者の祝日 ミサ説教

 2019928()、本郷教会

 わたしたちの教会、ローマカトリック教会の最高司牧者であるフランシスコ教皇様が、11月に日本に来られますので、教皇様の良きお働きのために、このミサを献げたいと思います。

 今日のミサは、聖トマス西と15殉教者の記念日となっております。

 日本は殉教者が多い国であります。

 「殉教者の血はキリスト者の種」という言葉がありますが、わたしたちのキリスト教という宗教は、この殉教という事実によって成立し、発展して来ました。

 今読んだ福音は、イエスが御自分の受難について予告している言葉だと思われます。

 「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」(ルカ944

 この言葉の意味を、弟子たちはよく理解できなかったが、朧気ながらも感じています。

 「彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」(ルカ945)とあります。

 実際のところ、福音書が多くのスペースを割いて述べているように、ナザレのイエスは、人々から見捨てられ惨めな恥ずべき犯罪人として処刑されたのでありました。

 磔の刑になった人を創始者と仰いでいる宗教というのは、ほかの宗教のことをよく知っているわけではありませんが、非常に珍しい。

 わたしたちは当たり前に受け入れておりますが、これは大変なことで、ナザレのイエスという人は、政治的にも宗教的にも恥ずべき犯罪者、異端者、反逆者と烙印を押されて、処刑されました。

 弟子たちは、そのイエスのことが最初は分かりませんでしたが、後にイエスの復活という出来事に遭遇し、生前のイエスの言葉と行動の意味を理解することができるようになりました。

 イエスの弟子の筆頭、12人の使徒のかしら(頭)とされた人がペトロという人ですが、ペトロの最期は、今の教皇庁の置かれているバチカンの丘で処刑されたと伝えられています。

 ペトロの後継者たちも次々と殉教しました。

 ローマカトリック教会は、その指導者が続けて次々と処刑されたのであります。

 そのような迫害と殉教の時代が約三百年続いて、その後多くの人がキリスト教に帰依するようになりました。

 ペトロをイエスの弟子の代表と考えるキリスト教は、ペトロの後継者をローマの司教と考え、その後継者たちが全世界の教会の最高の牧者であると仰いでいるのであります。

 二千年の間にいろいろなことがありましたが、歴代の教皇たちは主イエス・キリストと最初の弟子たちであるペトロたちに倣うように努力を重ね、教会の刷新に努めて来ました。

 現在の教皇フランシスコは、就任以来教会の刷新に努力する決意を表明し、貧しい人のための教会となるように、ご自身の教会の総本部であるローマ教皇庁を改革する決意を公にされたのであります。

 教皇フランシスコについては、いろいろな人がいろいろなことを言っておられるので、今日はわたくしがローマ滞在中に知った教皇様について少しお話ししたいと思います。

 わたくしは、わたくしの前任者である白柳誠一大司教(のちの枢機卿)の命令で、1975年にローマに留学しました。

 時の教皇はパウロ6世(在位19631978)という方でありました。

 大変立派な方で、のちに列聖されたヨハネ23世の開催した第二バチカン公会議(19621965)を引き継ぎ、成功裡に実り豊かな成果を得て終了させた方です。

 そ10年後の1975年には、「教会の使命は福音宣教である。良い便りを人々に宣べ伝えると共に、福音の教えを実行することである」ということを強調されました。

そのパウロ6世は、1978年の8月にお亡くなりになりました。

 そして、教皇選挙が行われて、イタリア人の司教でヴェネツィアの総大司教のアルビーノ・ルチアーニAlbino Lucianiという方が選出されたのであります。

 この方は、史上初めて教皇名にダブルネームというか二つの名前(複合名)を採用した、ヨハネ・パウロ1世(19121978)です。

 その後のヨハネ・パウロ2世は皆さんよく記憶していると思いますが、ヨハネ・パウロ1世を名乗ったのです。

 2世、3世が続くかどうか分からないのに、最初から1世を名乗るのは異例であり、1世とはつけないのが歴史上の慣例でしたが、彼はヨハネ23世教皇とパウロ6世前教皇二人の前任者たちへの尊敬を込め、彼らの路線を継承し、発展させる決意を示すために、二人の教皇名を受け継いだと言われております。

 しかし、就任僅か一か月余り、33日間の在位で亡くなってしまったのです。1978928日のことでした。

 非常に残念なことでありました。

 僅か一か月余りの在位でしたが、ヨハネ・パウロ1世は大きな働きをしました。

 さまざまな改革の方針を明確に打ち出し、具体的な改革の実行に取りかかりました。

 就任式を従来の豪華な戴冠式ではなく、牧者に就任する式としました。

 ローマの司教はローマ司教区だけでなく、全世界の教会を司牧する責任者であるので、従来は王や皇帝が就任する時に冠を受けるような教皇戴冠式をおこなっておりました。

 それを廃止して、最高の司牧者に就任する式としました。

 教皇冠は三重冠と言って、三重になっていて三つの権能を表していると言われている非常に豪華な美しい宝石をちりばめた冠ですけれども、その戴冠式をおこなわずに、最高の司牧者に就任する式、牧者の任務を開始する式というように命名をしました。

 さらに教皇は、お父さんという意味の英語ではポープPope、イタリア人はパーパ Papaと言いますが、それに大祭司という意味のポンティフィックスPontifex、ローマの大祭司の称号がローマの司教の称号と一緒になって、シュプリームポンティフィクスSupreme Pontifex最高位の大祭司と言うようになって、どんどん名称が栄誉ある名前になり、複雑になったのです。

 ポープ・ジョンポウル・ジ・ファーストPope john Paul the Firstになった訳であります。

 教皇が人々の前で公式に発言する時は、従来は一人称を特別な言い方(日本の戦前の天皇陛下のお言葉に思い起こすと「朕」という言い方でしたが「わたくし」という意味であります)、教皇も「朕」に相当する一人称複数である「我々」(「我々は今日風邪をひいた」というように使い、「我々」と言っても御自分一人の意味でありますが)を止めて、普通に「わたくし」という言い方にしました。

 彼は、飾らない柔和謙遜で率直な人柄で愛され、人々から「微笑の教皇」スマイリングポープSmiling Popeと呼ばれておりました。

 司牧者から教皇になった方でありまして、経歴から言って教皇庁の重要な職務に就いていた人ではなかった。

 何々省の長官とかそういう役職をしていて、それから教皇に選ばれた方ではないです。

 そして、就任する時は、大司教に就任する時に受けるパリウムPallium、これは世界中で教区大司教になる人は全部受けるものですけれども、そのパリウム、首輪のような物を受けて、冠は着けない、立派な輿に乗ることも止めまして、素朴な皆に仕える牧者であるということを身をもって表現しました。

 そして、教皇庁の改革を決意し、当時バチカン銀行(正式名称:宗教事業協会)のスキャンダルがいろいろ報道されていましたが、バチカン銀行の改革をすると宣言したりしたのですが、一か月で亡くなってしまわれました。

 本当に残念なことでした。

 このヨハネ・パウロ1世の次を選ぶために、僅か一か月でまた教皇選挙になって、帰ったばかりなのにまた呼び集められてもう一度選挙をして、ヨハネ・パウロ2世が選ばれたわけです。

 ヨハネ・パウロ2世は難病を持っていましたが、非常に長い年月を最期まで教皇を務められました。

 その後のベネディクト16世は、皆様覚えていらっしゃるでしょうが、6年ほど前に数百年ぶりに終身ではなくて在任中に退位を宣言し、そこで今のフランシスコ教皇が選出されたという歴史があるわけです。

 教皇という重責を担われる方々が、どんなに大きな負担を担っておられるかを想像しながら、日本に来てくださるフランシスコ教皇様のために、わたしたちの心からのお祈りを献げると共に、教会の改革が進むようにとお祈り申し上げたいと思います。

 

 

大きな隔ての淵

年間第26主日C年

2019年9月29日、本郷教会

 第一朗読 アモスの預言 6・1a,4-7

第二朗読 使徒パウロのテモテへの第一の手紙 6・11-16

福音朗読 ルカによる福音 16:19-31

(そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。)「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 

説教

 

ラザロという貧しい人と、ある金持ちの話でございます。
ラザロという名前は「神は助ける」という意味であります。
その言葉の通り、ラザロは死後、アブラハムのいる、神のところへと上げられたのでありました。
きょうの話から、わたしたちは何を学ぶことができるでしょうか。金持ちは、亡くなって陰府(よみ)に落とされました。
この金持ちと、そして、アブラハムとラザロのいるところの間には、「大きな淵」があったと、きょうの福音書は言っています。
淵というのは、お互いに行ったり来たりすることができない大きな隔てとなっているところです。

どうして、このような淵があるのだろうか、この話全体から考えてみますと、実は、この淵は金持ちが地上にいた時からできていたのではないだろうか。この金持ちとラザロの間には淵ができていた。この淵がはっきりしたのは死後の世界である、と言えないでしょうか。

この金持ちは毎日贅沢に、おもしろおかしく暮らしておりました。特に何か悪い事とか、ひどいことをしたわけではないようです。しかし、自分の家の門の前に、貧しい人が横たわっていることに、何の関心も払わなかった。食べるものにも事欠くありさまであり、全身ができものだらけで、非常に惨めな状態に置かれていた人であります。
金持ちは悪い事はしなかったかもしれないが、ラザロという人に関心を持たなかった。ラザロのために何もしなかったのであります。

この、しなかったというのは、「怠り」の罪が問われているのではないでしょうか。
金持ちは、自分の毎日の生活のことに、心がいっぱいで、自分のすぐそばにいる人、あるいは、自分の生きている世界の現実には関心を持たなかったようであります。
いつでも、貧しさに苦しんでいる人、病気、あるいは、様々な問題に、苦しみに出会っている人います。そういう人のために自分にできることは何かと考えて、いささかなりとも、何かのいつくしみの業を行わなければならなかったのではないでしょうか。

このたび、日本に来て下さるフランシスコ教皇は、「いつくしみの特別聖年」という、特別な一年を提唱され、神のいつくしみを実行するようにと、わたしたちに勧めてくださいました。
神のいつくしみは聖書の教えであります。それに、旧約聖書のモーセも預言者も教えている。旧約聖書の世界では、社会的に弱い立場に置かれている人々、親のない子ども、あるいは夫に死なれた女性、あるいは寄留者、国を追われた人達が、特に、困難な状況に置かれているので、そういう人々に心から同情し、必要な助けをするようにということが、モーセの教えであり、預言者の勧めでありました。
この金持ちは、そのモーセと預言者の教えには無頓着であったようであります。

わたしたちの主イエスは、人々のために、さまざまな「癒し」と「奇跡」を行いました。そして、多くの人は、イエスのみわざに感嘆したのでありましたが、他方、イエスを受け入れ、信じた人が多くはなかった。どんなしるしを見ても信じない人は信じないのであります。

この金持ちは、亡くなってから、せめて自分の兄弟が同じような苦しみに遭わないようにしてあげたいと考えたようであります。
生きているときに、そのような思いをもっと抱き、そして、兄弟だけでなく、多くの人に、いつくしみとあわれみの心を実行しなければなりませんでした。

マタイの福音書の25章で、わたしたちが「最後の審判」の時に、どういう基準で裁かれるかということが綴られております。
「飢えている人や、渇いている人、裸の人、寝る場所が無い人、居る場所が無い人のためにできる奉仕をしなさい」という教えであります。
「いつくしみの特別聖と教皇は教えました。
人間は身体と精神から成り立っておりますので、両方の苦しみはつながっております。

いまの日本の社会で、もっとも助けを必要とする人とはどんな人でありましょうか。
だれにも話を聴いてもらえないとか、だれにも相手にしてもらえないとか、自分のいる場所が見つからないとか、そういう思いを持っている人が少なくはないでありましょう。
もちろん、経済的に貧しい人もいないわけではありません。

「天の御父がいつくしみ深いようにあなたがたもいつくしみ深いものでありなさい」とイエスは言われました。

ややもすると、わたしたちは自分のことに追われて、人の必要を顧みることが後回しになってしまいますが、せめて、きょう、この「金持ちとラザロの福音」を聴いておりますので、既に、この地上において越えがたい淵を自分で作ってしまわないようにしたい。
この淵は、死後、明らかになったのでありますが、その淵を作ったのは、地上においてこの金持ちが自分で作り出したものではないだろうか。
わたしたちも、自分で、ほかの人との間に、貧しい人との間に「淵」、「越えがたい淵」をつくってしまっているのかも知れない。
神さまの呼びかけに応えるように、自分の心を静かに見つめたいと思います。
そして、日本に来て下さる教皇様の教えを、わたしたちも、心から良く学び、実行できるようにしたい。
生きているときに大金持ちであった人が、実は、不幸な人であったと言えることが明らかにされたのであります。
ルカによる福音では、「貧しい人は幸い」とイエスは言われました。
マタイによる福音では「心の貧しい人は幸い」となっております。
貧しい人に神さまは特別に関心を持ち、そして、ご自分の幸せに招いてくださるのであります。
わたしたち自身の日々のあり方を、心から反省したいと思います。

したいと思います。

2019年9月27日 (金)

イエスは誰か?

聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭記念日 ミサ説教

2019年9月27日(金)、本郷教会

第一朗読  ハガイ書 1:15b-2:9
ダレイオス王の第二年、七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。「ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者に告げなさい。お前たち、残った者のうち誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たときわたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度天と地を、海と陸地を揺り動かす。諸国の民をことごとく揺り動かし諸国のすべての民の財宝をもたらしこの神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。銀はわたしのもの、金もわたしのものと万軍の主は言われる。この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と万軍の主は言われる。

 福音朗読  ルカによる福音書 9:18-22
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者
ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 

 説教

イエスは弟子たちにお尋ねになりました。

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

(ルカ9:20)

立派な答えをしたのでありました。

しかしまだ、弟子たちはイエスの使命について、理解していなかったのであります。

受難の予告と呼ばれますが、今日の福音でイエスは自分が受けるべき苦しみについて宣べています。

 

アレルヤ唱でわたくしたちが唱えた、「人の子が来たのは仕えるため、多くの人のあがないとして自分のいのちを与えるため。」は主イエスの使命を示しています。

ご承知のように、ペトロはローマで殉教しました。

ペトロの後継者がローマの司教であり、こんにちローマ教皇と呼ばれる方々であります。

ローマの司教は、イエス・キリストの教えを最もよく実行し現すことが期待されており、わたしたちはミサの中で、常にローマの司教のために祈りを献げています。

最近、わたくしの心の中に浮かんでくる一人の教皇様がいます。

ヨハネパウロ1世という方です。

その方について、いつか一言お話ししたいと思います。

2019年9月26日 (木)

ペルソナ化

年間第二十五木曜日 ミサ説教

2019年9月26日(木)、本郷教会

 

今日の福音では、領主ヘロデが登場します。

最近のことですが、8月29日に洗礼者聖ヨハネの殉教を記念いたしました。

ヘロデによって、斬首されたのでありました。その時に、ヘロデという人がどんな人だったのかということを、ご一緒に考えてみたと思います。

ヘロデは、一方ではヨハネを尊敬していたようでありますが、自分の誕生日に(褒美にヨハネの首を所望されて)列席の人の前で大見得をきったこともあって、ヘロデはヨハネの首を刎ねるように命じなければならなかった。

そういう話でありました。

今日の福音では、ヘロデはイエスの噂を聞いて、「イエスに会ってみたいと思った。」(ルカ9:9)とあります。

実際にご受難の時に会うことになります。

 

人生は、人との出会いが非常に大切であります。

イエスの弟子たちは、ナザレのイエスという人に出会って、大きな影響を受けて、そしてそれぞれイエスの弟子としての生涯を送ることができた。欠点や問題のある人たちでありましたが、ペトロをはじめとする弟子たちは、イエスという人との出会いによって、人生が変えられた。

このヘロデは、そこまで至らなかった

人間は自分の立場や欲望、都合、いろいろのものに支配されていますので、そういうものを振り切って、まことの神、道であり真理であり命であるイエスに出会うということが、場合によっては難しい。

わたしたちの場合、さいわいイエスに出会っていると言えます。

しかし、地上のイエスはおられないので、いわば霊的にイエスと出会うのであります。

 

先日お会いした福田さんという方は、ヨハネ・ドンス・スコトゥス(1266?~1308)というフランシスコ会の偉い学者のことを勉強した方です。

名前のスコトゥスはスコットランドから由来していますが、1308年に亡くなっているので、

日本では鎌倉時代の終わり頃に当たると思います。

イエスのペルソナに限りなく近づくことが、キリスト者の道であるということでした。

これをペルソナ化と言います。

イエスのペルソナに触れて、イエスのペルソナに感化されるということなのでしょうか。

ペルソナ化ということを勉強したのだそうです。

わたしたちも甚だ不完全ではありますが、イエスに出会い、イエスのペルソナに触れ、イエスのペルソナに倣うものではないかと思います。

東京カリタスの家50周年

東京カリタスの家 創立50周年記念ミサ説教

9月20日(金)東京カテドラル

 

 今日の福音はルカの福音の15章に出てくる三つの譬話であります。

 第一の譬えは、失われた羊を羊飼いが探し出して喜んでその羊を担いで帰り、友達や近所の人々を呼び集めて「一緒に喜ぶ」という話です。

第二の譬えも、銀貨を一枚なくして女性が必死で探し出し、友達や近所の女たちを呼び集めて「一緒に喜ぶ」という話です。

三番目のたとえ話は有名ないわゆる放蕩息子のたとえであります。家を出て行った息子が帰ってきたので父親は祝宴を開いて喜び祝いました。

三つの話に共通している教えは失われた者、存在が、すなわち、失われた羊、銀貨、息子がともに、かけがえのない大切な存在であるという点にあります。見つけ出した人には大きな喜びがあり、その喜びはあまりにも大きいので、一人自分だけに留めておくことが出来ず、周りの人々を呼んで一緒に喜び祝うほどでありました。

放蕩息子の話を振り返ってみましょう。

二人の息子のなかで弟の方が父親から自分の財産の分け前を貰い受け父親の家を出て遠い国へ行って、放蕩して財産をすべて使い果たしてしまいました。折しも飢饉が起こり彼は食べる物にも困ってしまった。豚の世話をさせられる、というユダヤ人には屈辱的な状況に置かれて、やっと彼は「我に返った」のでした。

この「我に返った」ということは、どういうことでしょうか。大切な言葉です。

本来の自分に目覚めたということでしょう。「父の所に帰ろう」と思ったのであります。父のところに帰るということは、自分のいるべき場所は父の所であるということを深く悟ったのであります。

「底つき体験」というのでしょうか、どん底の状態におかれて、初めて自分の本来いるべきところは父の所であるということに気が付いたのでありました。この弟の体験は、人類全体の体験を象徴しているように思われます。父親の方は、出ていった弟の方を毎日心配しておりました。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけてあわれに思い、走り寄って首を抱き接吻した」とあります。弟の方は父親に詫びを入れて赦してもらおうと思いましたが、父親の方は最後まで言わせないですぐに彼を受け入れて、息子としての待遇を与えているのであります。

この話とよく似たたとえ話が仏教の方にもあります。「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬」と言いまして、長者は金持ち、窮子は窮乏状態で困り果てた状態にある息子という意味です。同じように家を出て放蕩三昧したが、困り果てて、やっとたどり着いた豪華な家で、彼は雑用係に採用されました。実はその家の主人は、息子を探そう思って家を出て、探し回り、とある所に新たに家をかまえた父親でありました。父親はすぐにその男が自分の息子であることに気が付いたが、あえてすぐには父親の名乗りをあげなかったのです。息子の方は、その家の主人が自分の父親であるとは夢にも思わなかった・・・。

そういう話でありました。父親の方はすぐに親子の名乗りをしたいと思ったが、そこは辛抱して、息子には掃除などのいわゆる汚い仕事をさせて息子がすっかり性根を叩き直されたところで初めて親子の名乗りをするようにした、という話でございます。

ルカの15章の譬話とは対象的で、父親は息子になんの罰も与えないし、質問もしないし、責めることもしない。無条件に受け入れているのであります。ただ自分のところに戻ってきたという事実だけで大喜びで宴会を催したという。

この話を私たちはどのように受け取ったらよいでしょうか。兄の方は、この父親の態度を理解することができなかった。わたしたちの場合はどうであろうか。

仏教の話の方が理にかなっているような気がしないでもない。福音書の父親のように、そんなに甘いことをしていたのでは息子のためにならないし、示しがきかないと、普通は思うでしょう。―――

兄の方の態度がわたしたちには分かりやすい。もしかして、この兄の態度はファリサイ派の人々や律法学者を指しているのかもしれません。しかし神がわたしたちに求めていることは、まず何よりも自分のところに戻ってくるということであります。

神のもとに立ち帰るというのはどういうことだろうか?

わたしたちの場合、どうすればよいのだろうか?

立派な人間にならないとわたしたちを神様は受け入れてくれないのだろうか、これこれ、の事をちゃんとできるようにならないと神様の前に立てないのではないだろうか、という思いがあるかもしれませんが、神が求めていることは信頼をもって自分の方に顔を向けるということであって、わたしたちがどんな状態にあろうとも、或いは、相変わらず罪びとであっても、過ちを犯していても、不完全であっても、そのことは問わない、ということではないだろうかと思うのであります。

 

東京カリタスの家の仕事とは神のカリタスを実行することですが、神のカリタスとは何より神の慈しみの実行です。ひとり一人の存在がかけがえのない大切な存在であるということを分かってもらえるように努めることです。ひとり一人をそのまま受け入れ、その人が、自分はかけがえのない大切な宝である、ということを分かるようになるよう、その人を助けることではないか、と思うのであります。

これは易しくはない仕事ではないだろうか。忍耐、努力、助け合い、たえざる研修と反省が必要でしょう。

―――

第一朗読  出エジプト記 32:7-11、13-14
(その日、)主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

 

 

福音朗読  ルカによる福音書 15:1-32
(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

 

2019年9月25日 (水)

神の国の福音

年間第二十五水曜日 ミサ説教

2019925()、本郷教会

 

旧約聖書の中に、エズラ記という書物がありまして、このところ続けてエズラ記の朗読をしております。

紀元前6世紀に、イスラエルとユダの国は滅ぼされ、ユダの民はバビロンに強制移住させられました。

そして約70年そこに滞在しましたが、その間に深刻な反省、回心、悔い改めの時を過ごしました。

そして、ペルシアの国が勃興した時にペルシア王は、イスラエルの民を帰国させ、神殿を建設することを許したのであります。

今日の箇所は、エズラという人が、自分たちが神の前に大きな罪を犯したことを告白し、そして赦しをいただいて、神殿を再建できることに感謝している、というくだりではないかと思います。

ルカの福音は、イエスが12人を派遣した時の話です。

たいへん簡素な宣教を命じています。

さて、今の時代の宣教は、どのようであるべきでしょうか。

イエスの宣教のメッセージは、神の国の福音ということが中心でありました。

わたしたちの場合、同じ神の国の福音ですけれど、イエス・キリストの復活という出来事が中心になると思います。

イエス・キリストが復活された、そして復活したイエスがわたしたちと共にいてくださるということを、わたしたちが単純素朴に信じて宣言し実行することが、わたしたちの宣教ではないだろうか。

その際、このエズラの告白のように、わたしたちも、神の前に罪の赦しを与えられているという感謝と喜びを表明しなければならないと思います。

 

 

 

2019年9月24日 (火)

わたしの母、わたしの兄弟とは誰か

年間第二十五火曜日 ミサ説教

2019924()、本郷教会

第一朗読  エズラ記 6:7-812b14-20

 

福音朗読  ルカによる福音書 8:19-21

(そのとき、)イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 

説教

わたしたちの教会は、聖霊降臨の時に誕生し、世界に広がる教会として発展してきました。

さまざまな困難や問題の中で、自分を新しくする自浄の努力をしてきたと思います。

同じ神を信じる者たち、同じキリストを信じる者たちとの間に、理解の違いや対立が生じましたが、それを克服するための努力が続けられています。それは、諸宗教対話、あるいはエキュメニズムEcumenismと呼ばれる運動であります。

ヨハネパウロ2世教皇は、紀元二千年を迎える時に、キリストの兄弟たちの間に生じた分裂は、お互いに自分たちの問題を見つめ直し、相互の理解と協力を進めなければならない。

そうしないと紀元二千年の敷居を跨ぐことはできないと言われました。

さて、日本のカトリック教会は、1987年に「福音宣教推進全国会議」を開いて、日本の社会にイエスの福音を宣べ伝えるための努力をすることを、さらに確認したのでありました。

それから6年後の1993年に「第二回福音宣教推進全国会議」を開いて、「家庭の現実から福音宣教のあり方を見直す」という課題を取り上げました。

家庭の現実に非常に厳しいものがありながら、共に神の言葉を聞いて行うということを、どのように実行することができるだろうか。

 

 

2019年9月23日 (月)

聖ピオ

聖ピオ(ピエトレルチーナ)司祭記念日ミサ説教

2019年9月23日(月)、本郷教会

第一朗読  エズラ記 1:1-6

 福音朗読  ルカによる福音書 8:16-18
(そのとき、イエスは人々に言われた。)「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」

 説教

今日の主イエスの御言葉から思うことを、少し申し上げたいと思います。

ともし火をともしたら、その光が入って来る人に見えるように、燭台の上の置くようにと言っていますが、どういう意味でしょうか。

アレルヤ唱で、わたしたちが唱えた「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたのよい行いを見て天の父をあがめるように。」(マタイ5:16)

アレルヤ唱の意味と、ルカによる福音の意味は、ほぼ重なっているのかもしれない。

 

第二バチカン公会議の教会憲章は、「諸国民の光」ラテン語でルーメン・ジェンティウム

Lumen Gentium という言葉で始まっています。

イエス・キリストは、諸国民を照らす光であります。

教会は、そのイエスから光を受けて、人々を照らしたいと望んでいる。

そういう出だしであります。

イエス・キリストという光を受けて、自身が光となって人々を照らした人で、模範とされるに足りる人が、教会では聖人として人々にその生涯を模範にするようにと示しています。

 何年か前に、聖ピオ(ピエトレルチーナ)司祭が生涯の大半を過ごした、サン・ジョバンニ・ロトンドというところに行きました。

確か2002年に列聖されまして、列聖式には大変な人数が集まったと聞きました。

 

 

 

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