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2019年6月16日 (日)

FIAT

 

聖母マリアの土曜日のミサ

2019615()、本郷教会

今日は「お告げの祈り」について、ご一緒に思いを深めたいと思います。

日に三度、鐘の音に合わせて「お告げの祈り」を唱えるという良い習慣がありました、というかあります、と言いたい。東京カテドラルの庭で,ちょうど司教館の前の南側の庭の隅の方に、「お告げの鐘」を納める小さな建物があります。そこにフランスから贈られた「お告げの鐘」が納められています。その鐘を教会に寄付した方は、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードという、法律の先生でありました。

明治の新しい政権が、急いで日本の法律を整備するために急遽ボアソナードを,先進国のフランスから呼び寄せて、日本の法律の制定に力を貸していただいたのでありまして、ボアソナードは日本近代法の父と呼ばれております。そのボアソナードは、非常に敬虔なカトリック信者でありました。

確かその妻の名前と一緒に,教会に一組の「お告げの鐘」を寄付し、その時は東京教区の司教座は築地教会でありまして、司教座が築地から関口に移る時に一つは築地に残り、一つは関口に移って来たのでありました。

「お告げの祈り」は、今読んだルカの福音の出来事を記念するとともに、わたしたち自身の日々の信仰を確かめ深め、そしてさらに神の救いの計画に思いを馳せるための、非常に大切な祈りであります。

わたしたちが毎日唱える「主の祈り」と共に、「アヴェ・マリアの祈り」も、この祈りと共に広められたのでありました。

天使ガブリエルがマリアというおとめに突然現れ、聖霊によってあなたは母となる、その子は神の子と呼ばれ、偉大な働きをすることになる、というお告げをマリアは受けたのでありました。その時に非常に戸惑ったマリアは、「どうして、そのようなことがありましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えています。

天使はマリアに「神にできないことは何一つない。」「神様の救いの計画の中にあなたは置かれている」と言ったので、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えて、神のお告げ、神からのメッセージを受諾したのであります。

「成りますように」という言葉は、ラテン語でフィアットFiatと言います。

この一人のおとめのフィアットによって、わたしたちの救いの計画が新しい段階に進んだのであります。

このマリアの信仰と従順は、最初の人間とよばれるアダムとエバの不信仰と不従順とに比較されるのであります。

最初の人間が置かれた園の中央に木が生えていて、その木の実だけは食べてはいけないと命じられていました。ところが蛇が女に、神への不信仰と不従順をそそのかすように誘惑したのでありました。

その木から果実を取って食べると神のように善悪を知るものになると蛇が言ったので、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。

女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も、食べた」と創世記が言っている。

マリアの場合、どうしてそのようなことが起こりえるのでしょうかと天使に反論したが、神様にはおできにならないことはないという返事を聞いて、一切の思いに封印したのでしょうか、受諾したわけであります。

ところが最初の人間アダムとエバは、あたかも神が、自分たちが神のようになることを恐れているというような思いに捉えられて、自分たちも善悪を知るものになりたいと思ったのでありました。

しかし、マリアの信仰と従順によって、救い主が人間となることができたのです。

「お告げの祈り」の祈願を思い出しましょう。

「神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架を通して復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。」

神様の救いの計画は、聖書全体を貫いて述べられていますが、非常に重要な段階は、救い主が人となられたということであって、そのために一人の貧しい少女の承諾を求められた。

このことは非常に大切であります。

そしてさらに、受難と十字架の道をイエスは歩まれて、復活の栄光に到達されました。

わたしたちもそのイエス・キリストの道に従う、その道を歩むことによって、同じように復活の栄光に与ることができます。

神の救いの計画は、非常に遠大というか壮大であります。

わたしたち人間の救いだけではなく、すべてのものの救いを神は計画されています。

考えてみれば、わたしたち人間だけが救われるということは有り得ない。

すべては繋がっていますので、一つのものが救われるということは、それに連なるすべてのものが救いに与るということに他ならない。

第一朗読で、すべての被造物の解放、滅びへの隷属からの解放ということが述べられています。

人間だけが自分の救いを考えるのではなくて、この世界全体が、すべての被造物が、神の救いの計画の完成に与る日が来るのだと、その時をわたしたちは待ち望んでいるのであります。

その神の遠大な壮大な計画の中に、わたしたちも招かれ組み込まれているのであります。

そして,わたしたち一人ひとりに聖霊が注がれ、わたしたちの中で神様がわたしたちを聖霊の神殿として住んで下さり、わたしたちを使って神様の救いの計画を実行してくださる。

その信仰を深め、そして感謝したいと思います。

 

 

FIAT

 

聖母マリアの土曜日のミサ

2019615()、本郷教会

今日は「お告げの祈り」について、ご一緒に思いを深めたいと思います。

日に三度、鐘の音に合わせて「お告げの祈り」を唱えるという良い習慣がありました、というかあります、と言いたい。東京カテドラルの庭で,ちょうど司教館の前の南側の庭の隅の方に、「お告げの鐘」を納める小さな建物があります。そこにフランスから贈られた「お告げの鐘」が納められています。その鐘を教会に寄付した方は、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードという、法律の先生でありました。

明治の新しい政権が、急いで日本の法律を整備するために急遽ボアソナードを,先進国のフランスから呼び寄せて、日本の法律の制定に力を貸していただいたのでありまして、ボアソナードは日本近代法の父と呼ばれております。そのボアソナードは、非常に敬虔なカトリック信者でありました。

確かその妻の名前と一緒に,教会に一組の「お告げの鐘」を寄付し、その時は東京教区の司教座は築地教会でありまして、司教座が築地から関口に移る時に一つは築地に残り、一つは関口に移って来たのでありました。

「お告げの祈り」は、今読んだルカの福音の出来事を記念するとともに、わたしたち自身の日々の信仰を確かめ深め、そしてさらに神の救いの計画に思いを馳せるための、非常に大切な祈りであります。

わたしたちが毎日唱える「主の祈り」と共に、「アヴェ・マリアの祈り」も、この祈りと共に広められたのでありました。

天使ガブリエルがマリアというおとめに突然現れ、聖霊によってあなたは母となる、その子は神の子と呼ばれ、偉大な働きをすることになる、というお告げをマリアは受けたのでありました。その時に非常に戸惑ったマリアは、「どうして、そのようなことがありましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えています。

天使はマリアに「神にできないことは何一つない。」「神様の救いの計画の中にあなたは置かれている」と言ったので、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えて、神のお告げ、神からのメッセージを受諾したのであります。

「成りますように」という言葉は、ラテン語でフィアットFiatと言います。

この一人のおとめのフィアットによって、わたしたちの救いの計画が新しい段階に進んだのであります。

このマリアの信仰と従順は、最初の人間とよばれるアダムとエバの不信仰と不従順とに比較されるのであります。

最初の人間が置かれた園の中央に木が生えていて、その木の実だけは食べてはいけないと命じられていました。ところが蛇が女に、神への不信仰と不従順をそそのかすように誘惑したのでありました。

その木から果実を取って食べると神のように善悪を知るものになると蛇が言ったので、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。

女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も、食べた」と創世記が言っている。

マリアの場合、どうしてそのようなことが起こりえるのでしょうかと天使に反論したが、神様にはおできにならないことはないという返事を聞いて、一切の思いに封印したのでしょうか、受諾したわけであります。

ところが最初の人間アダムとエバは、あたかも神が、自分たちが神のようになることを恐れているというような思いに捉えられて、自分たちも善悪を知るものになりたいと思ったのでありました。

しかし、マリアの信仰と従順によって、救い主が人間となることができたのです。

「お告げの祈り」の祈願を思い出しましょう。

「神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架を通して復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。」

神様の救いの計画は、聖書全体を貫いて述べられていますが、非常に重要な段階は、救い主が人となられたということであって、そのために一人の貧しい少女の承諾を求められた。

このことは非常に大切であります。

そしてさらに、受難と十字架の道をイエスは歩まれて、復活の栄光に到達されました。

わたしたちもそのイエス・キリストの道に従う、その道を歩むことによって、同じように復活の栄光に与ることができます。

神の救いの計画は、非常に遠大というか壮大であります。

わたしたち人間の救いだけではなく、すべてのものの救いを神は計画されています。

考えてみれば、わたしたち人間だけが救われるということは有り得ない。

すべては繋がっていますので、一つのものが救われるということは、それに連なるすべてのものが救いに与るということに他ならない。

第一朗読で、すべての被造物の解放、滅びへの隷属からの解放ということが述べられています。

人間だけが自分の救いを考えるのではなくて、この世界全体が、すべての被造物が、神の救いの計画の完成に与る日が来るのだと、その時をわたしたちは待ち望んでいるのであります。

その神の遠大な壮大な計画の中に、わたしたちも招かれ組み込まれているのであります。

そして,わたしたち一人ひとりに聖霊が注がれ、わたしたちの中で神様がわたしたちを聖霊の神殿として住んで下さり、わたしたちを使って神様の救いの計画を実行してくださる。

その信仰を深め、そして感謝したいと思います。

 

 

2019年6月14日 (金)

姦淫してはならない

年間第十金曜日

2019614()、本郷教会

 

 主イエスは山上の説教をわたしたちに残しました。

正直に言ってこの山上の説教は、わたしたちには実行が非常に難しいと思います。

山上の説教の解釈は様々でありますが、文字通りの実行は人間には非常に困難であると多くの人が感じております。

しかしそこで言われていることは、本当に人間がそうであるべきことであると、わたくしも多くの人々もそう受け取っている。

そこに隙間というか、そうであるべき状態と、そうであるべきであるがそうなっていない自分がいるという、この間の開きを人間は感じる、それが非常に大切ではないかと思う。

別な言葉で言えば、わたしたちは神様が望んでいる状態、あるいは主イエス・キリストを通して示された要求には届いていない。

地上にいる間は完全に届くことはないだろうと思われる。

それではそういう人はまったく救われないのかというと、そうではない。

自分がそのような、人間、つまり罪人であるということを知っている人こそ、神の憐みを受けるに価するものであります。

昨日の説教では、殺してはいけないということについて申し上げました。

刑法の殺人罪を犯す人はほとんどいないでしょう。

しかし他の人のことで恨みに思ったり、あるいは憎んだりしたことのない人はほとんどいないも言えます。

今日の説教も多くの人を悩ませましたし、今も悩ませている。姦淫するなという教えです

姦淫するという実行行為をする人はあまりいないでしょうが、思いで姦淫をしてはいけないと言われると、どういう風に思ったら姦淫をしたことになるだろうか、それだけで青年は悩んでしまう。

そして今日の翻訳をみると他人の妻となっていますが、妻でなければ良いのかというと、そうでもない。(フランシスコ会訳では「情欲を抱いて女を見る者は誰でもで、心の中ですでに姦淫の罪を犯したことになる」とあります。)

わたくしの考えですけれども、女性を自分の欲望の充足の対象としてだけしか見ないことは絶対に許されないという意味であると思います。

 

 

 

文字は殺し霊は生かす

 

年間第十木曜日 ミサ説教

2019613()、本郷教会

 

 昨日は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」という主イエスの御言葉について、ご一緒に考えてみました。

その際、使徒パウロの言葉、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」という言葉をご一緒に深く味わうようにしたのであります。

今日の福音と今日の第一朗読は、その昨日の教えの続きであります。

「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」とイエスは言われました。

このイエスの御言葉の意味は何でありましょうか。

殺してはならないという掟をすべての人が知っています。

どんな国にも刑法があって、殺人罪という重い罪が定められている。

実際、人を殺すということは大変重い犯罪であります。

犯罪ではないが人を憎み、人の存在を心の中で否定するならば、それは人を殺したことと同じことになる、と主イエスは言われました。

そう言われると、少しわたしたちは考えさせられる、たじろいでしまうかもしれない。

おそらく殺人という罪を犯した人はいない、非常に少ない。

しかし誰かのことを恨んだり、あるいはいない方がよい、死んでしまえばよいという思いが心をかすめたことのない人というのも、そんなに多くはないかもしれない。

イエスの言葉は非常に厳しいものであります。

聖書全体を通じて、どんな人も完全に神の前に問題のない人、義とされる人はいない、ということが宣言されている。

わたしたちの心は、いわば完全に清められたものではなくて、まだ汚れた部分が残っております。

そのことを深く自覚し、ただイエス・キリストを通して神様の憐みを願う以外にないのかもしれないと思う。

「主の霊のおられるところに自由があります。」と今日の第一朗読が言っています。

わたしたちはイエス・キリストへの信仰をさらに確かめ深め、そして主の霊、聖霊が来てくださるように日々願いましょう。

そのようにして栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていくのであります。

 

2019年6月13日 (木)

律法や預言者を完成するために来た

 

年間第十水曜日 ミサ説教

2019年6月12日(水)、本郷教会

 

今日の第一朗読で使徒パウロが言っています。

「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」

新しい契約に仕える資格と言っていますが、それは古い契約に対して言っている言葉であり、古い契約とは、モーセに与えられた石に刻まれた文字による契約でありました。

十戒(の戒め)によって示されたイスラエルの民が守るべき掟が与えられました。

人々は神様の前ですべてその掟を守り行いますと約束しましたが、彼らはその約束を実行することができませんでした。

そこで、神は預言者を通して新しい契約の締結を預言したのでありました。

エレミヤの預言で言われています。

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。(エレミヤ31・31-32)

これはモーセを仲介者としてシナイ山で締結した古い契約のことを言っています。

しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31・33)

新しい律法が授けられます。その新しい律法は、人々の心に記される律法であります。

同じことを預言者エゼキエルも告げました。

わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。(エゼキエル36・26-27)

新しい心、新しい霊は神の霊、聖霊によって与えられました。聖霊降臨の日にエゼキエルの預言が実現したのであります。

かつて与えられた契約の条項は石の板に刻まれていましたが、新しい契約はわたしたちの心の中に与えられています。

聖霊によってわたしたちに神の愛が与えられ告げられ、わたしたちは自分の心から神の愛に応えることができるようにとされています。

「文字は殺しますが、霊は生かします」とパウロは言っています。

文字自身はわたしたちに力を与えることはできない。何を為すべきかを教え、何をしてはいけないかを教えますが、それを守り行う力を与えることができませんでした。

霊はわたしたちに神の愛、神が主イエス・キリストを通してしめされた神の心を伝えます。

わたしたちは神の心を知り、神の心にこたえることができるものとされたのであります。

かくして今日の主イエスの言葉が実現しました。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5・17)

 

バルナバ

聖バルナバ使徒の祝日

2019611()、本郷教会

今日は聖バルナバ使徒の記念日であります。

バルナバという使徒は、使徒パウロにとって非常に重要な役割を果たした人でありました。今日の使徒言行録によりますと、バルナバはアンティオキアというところで活躍し、アンティオキアからサウロ(のちのパウロ)をタルソスへ行って見つけて、アンティオキアに連れ帰ったとなっています。

サウロはアンティオキアの出身です。

サウロが異邦人の使徒になれたのは、バルナバのおかげであると言っても良いのであります。

キリスト教徒を迫害していたサウロが、異邦人に福音を宣べ伝える使徒になることができたのは、バルナバがサウロを理解し、サウロを支持したからであります。

このアンティオキアというところで初めてキリスト者という名前が生まれたと今日の使徒言行録は伝えています。

そして、バルナバとサウロがアンティオキアから派遣されて、異邦人の世界へ福音を宣べ伝えるようになったのでありました。

今日の福音についての一言を申し上げたい。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」という言葉であります。

何をただで受けて、何をただで与えるという意味なのでしょうか。

イエスから派遣された使徒たちは、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う」という権能を授かりました。

イエス・キリストの行い、イエス・キリストが人々に伝えた恵みを、同じ恵みをあらわし伝えることができるようにされたのだと思います。

ですから、ただで受けたものというのは、主イエス・キリストから受けた賜物、権能のことではないかと思います。

さらに考えてみれば、わたしたちが受けているものはすべてどんなものでも、主なる神からいただいたものでありますので、それを神様の御心に従って活かさなければならない。

神様のみ旨に従って、それを神の栄光のために活かさなければならないと思います。

 

 

 

 

2019年6月 9日 (日)

病者のミサ

復活節第七土曜日 病者のためのミサ説教
2019年6月8日(土)、本郷教会

仏教で、「四苦八苦」ということを言っています。
生、病、老、死(しょう、びょう、ろう、し)。
怨憎会苦(おんぞうえく)、愛別離苦(あいべつりく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の八つだそうです。
この八つの中で、病ということが人生の大きな苦しみの一つになっています。
医学は非常に発達しましたが、健康上何の問題もないという人はおそらく非常に少ないでしょう。
何らかの問題を持っている。
そしてわたしたちの家族、あるいは友人知人、まわりの人の中に病気の方、あるいはいろいろな心身の問題を持っている人がおられます。
今日は特にそういう方々のことを思いながら、お祈りをしたいと思います。

イエスの周りには、貧しい人々、病気の人々、心身の問題に悩む人々がたくさん集まってきたのであります。
今読んだ山上の説教もそういう場面であります。
通常のわたしたちの考え、常識とはむしろ逆のことをイエスは言われました。
「心の貧しい人々は幸いである。」
「心の貧しい」とは、心というのが霊スピリッツ、霊において貧しいという意味で、
霊とは、人間に与えられている生きる力、生きるための力が弱い、少ない、乏しい、そういう人々のことを言っているので、心が貧しいのは、さもしいとか、みっともないとか、そういう意味ではない。
生き辛くされている人々のことであります。
何故そういう人が幸いなのでしょう。普通は反対ですね。
イエスはそういう人々は幸いだと言われた。なぜだろうか。
そこにわたしたちの信じる福音の秘密があると思う。
逆説的と言いましょうか、イエスの教えは常識には合わない教えであります。
幸いである理由はただ一つしかないと思う。
それはイエス・キリストという人自身にあり、神の、天の父の恵み、憐み、慈しみのうちにあると思います。
神はそのような人々と共におられ、そのような人々を慈しみ、ご自分の命に招いてくださる。
そしてそのような人々は、他の人々よりも容易に素直に神の憐みを受ける、神様の招きにこたえる人々である。
そうでない人、つまり力があって自分の考え、自分の計画で生きている人は、神様の招きに気がつかない、あるいは神様の招きを聞いても受け入れない。
そういう人は神の国になかなか入らない。
そういう意味ではないかとわたくしは思います。

わたしたちはイエス・キリストの生き方に倣うようにと招かれています。
イエス・キリストの生き方、それは受難、死を越えて、復活の命に入るということであり、過越の神秘と言いますが、死から命へと移る生き方である。
わたしたちの希望は復活ということにある。

今日、集会祈願で祈りました「心も体も主イエスの復活の恵みに与る者、となるよう導いてください。」
わたしたちの現状は貧しい、乏しい、弱い、あまり上手くいかない、いろいろなことがありますが、しかしその受難と死を越えた世界に復活の世界がある。
パウロの教える復活の世界、それは死を越えた世界であり、復活の体にわたしたちも変えていただける。
どういう身体なのか分かりませんが、地上の肉体には終わりがあるし、疲れるし、病におちいりますけれども、復活の身体というのは、神の栄光に与る身体でありますので、主と共にいつもでも神の栄光に感謝し、神を賛美することができる体であると思います。

これから共同祈願の中でいろいろな方のことを思い、感謝、そしてお願いを捧げながら
わたしたちが主イエス・キリストの復活への信仰と希望をより強く、より深く、持つことができますように祈りましょう。


四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦の分類。

根本的な苦を生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)の四苦とし
生…生まれること。
老…老いていくこと。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
病…様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる。
死…死ぬことへの恐怖、その先の不安。

根本的な四つの苦に加え、
愛別離苦(あいべつりく)  … 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく)  … 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく)   … 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) … 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。

聖霊降臨

 

聖霊降臨の主日

2019年6月9日(日)、本郷教会

第1朗読 使徒言行録2・1-11

第2朗読 ローマ 8・8-17

福音朗読 ヨハネ14・15-16、23b-26

 

説教

きょうは、聖霊降臨の日でございます。

二千年前に弟子たちの上に聖霊が与えられましたが、きょうはわたしたちは、その出来事を記念するとともに、きょう、わたしたちの上にさらに聖霊を与えてくださるようにお祈りします。

ナザレのイエスは神の国の福音を説き、ペトロをはじめとする弟子たちをつくりましたが、天の父のもとへとお帰りになりました。

その時に弟子たちに約束をされたのであります。

「わたしが去ると、わたしは天の父から聖霊を受けて、聖霊をあなたがたに与えるであろう。」

その約束が実現した日が「聖霊降臨の日」、ユダヤ人のお祭りでいえば「五旬祭」、「五十日祭」という意味であります。

さて、この出来事はわたしたちにとって、どういう意味を持っているのでしょうか。

わたしたち教会は主イエス・キリストからご命令を受けています。

「全世界に行って、わたしの弟子をつくりなさい」

そういう命令を受けているのであります。

イエス・キリストの弟子とは、イエス・キリストのように生きる人であります。

弟子たちは生前のナザレのイエスといわれる人と生活し、行動し、親しくイエス・キリストを知ることができましたが、しかし、それでも十分に知ることはできなくて、イエスが亡くなって、そして、復活されたあと、復活されたイエスと出会って、初めてイエス・キリストの生涯の意味を悟るようになったのでありました。

さらに、聖霊を受けて、弟子たちは知恵と勇気に満たされ、まるで生まれ変わった人のようになって、世界中で、いつでもイエス・キリストをあらわし、伝えることができるようになりました。

 

教会というのは、すなわち、わたしたちが教会ですが、ある意味で、イエス・キリストの身体であり、イエス・キリストをあらわし、延長し、継続させる団体であります。どうしてそういうことができるのかというと、それは、神の霊、「聖霊」を受けることによって可能になります。

パウロの手紙で今日読まれましたが、「神の霊によって導かれるものはみな、神の子なのです」と、パウロが言っています。神の霊によって導かれるならば、わたしたちは神の子であり、イエス・キリストの姿を現す、イエス・キリストの生き方を伝えることができるのであります。

そうは言われても、弱い、そして罪のあるわたしたちにそのようなことがどれくらい可能なのでしょうか。

イエスはわたしたちに、そうできるようにと、さまざまな道、さまざまな手段を残してくださいました。

その中で、おそらくもっとも大切と思われることは、「ミサ聖祭」であり、ミサということばで代表される「典礼」そして、種々の「秘跡」であります。

この「ミサ」、特に主日のミサは非常に大切であります。ミサにおいてわたしたちは復活された主イエス・キリストと出会い、イエス・キリストの声を聴き、そして、イエス・キリストの御体をいただいて、よりキリストに似たものとなることができるのであります。

きょうの福音で、イエスは「弁護者」という名前の「聖霊」を弟子たちに与えてくださると言っております。

わたしたちは地上のイエスに出会うことはできませんが、聖霊の導きを通して、より親しくイエス・キリストを知ることができるのであります。そして、聖霊は、一人一人のこころに働きかけるとともに、わたしたち、この団体、グループに語って下さいます。世界に広がる教会、日本の教会、そして、東京教区に、この本郷教会に聖霊が注がれ、わたしたちが何をなすべきかを教えてくださり、そして、そのための力を与えてくださると信じます。

そして、それが可能であるのは、実に、聖霊のはたらきによるのであります。

そして、その聖霊は確実に与えられるいろいろな機会の中に「典礼」があり、その典礼の中心が「ミサ聖祭」であります。

繰り返しになりましたが。

きょうの第二朗読で、少しわかりにくい表現があると思います。

「肉」という言葉と、「体」という言葉であります。何か、「体」を否定するようにとられると、それは大きな誤解になります。「肉」という言葉と、「体」という言葉は区別される。自分の弱さ、もろさ、自分の限界を知り、ただひたすら神の恵みに頼って生きる人の生き方が、神の霊に導かれる神の子の生き方であります。

自分の力、自分の判断、自分の思いを中心に生きる生き方のことを、「肉の支配にあるもの」と、パウロは呼んでいます。

人間は他の人に対して、いろいろな思いを抱きます。が、人を支配したいとか、思い通りに動かしたいとか、人よりも上に立って、見下したいとかいうような思いにとらわれることがある。そういう思いが「肉の思い」であります。

「霊の思い」に従っている人は、どういう実りをもたらすのかということをパウロは述べております。

それは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という聖霊の実りであります。

聖霊の実りを豊かに受けることができるようお祈りいたしましょう。

2019年6月 2日 (日)

主の昇天

主の昇天 C年 説教        

201962日(日)、本郷教会

 イエスは復活されて、40日間にわたって弟子たちにお現れになり、40日目に弟子たちの見ている前で、天にあげられました。その時に、イエスは言われました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。」 父が約束されたものとは、第一朗読、使徒言行録でもいわれておりますが、聖霊のことであり、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とイエスが約束されたのでありました。

イエスは、ご自身の血をもって、わたしたちの、すべての人の罪を負い、罪の赦しをもたらし、わたしたちはすべての人が天の父への道を歩くことができるように、新しい、生きた道をわたしたちのためにひらいてくださいました。

復活祭までの四旬節、聖週間、そして復活祭の後の復活節を歩んできたわたしたちはいよいよ来週の日曜日、聖霊降臨の日を迎えます。この救いの歴史の中で、主イエス・キリストがわたしたちにしてくださったことをあらためて今日思い起こし、分かち合い、感謝をし、喜びを新たにいたしましょう。

今日のアレルヤ唱をもう一度味わってみたいと思います。イエスは弟子たちに言われました。「全世界に行き、すべての人をわたしの弟子にしなさい。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。」地上を去るイエスが、いわば、別れの言葉として弟子たちに残されたこの言葉。別れに際して、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたともにいる」といわれた一見矛盾する言葉は何を意味しているのでありましょうか。地上のイエスの生涯はわずか30数年、そして弟子たちがイエスとともに過ごした期間は3年余りと思われます。その地上の生涯は、ある場所、ある期間に限定されておりました。そのイエスが地上を去ることによって、イエスは、いつでもどこにでも、ともにいることができるようになったのであります。イエスの創られた教会、その教会にイエスはいつもともにいてくださる。日本の教会、この東京教区、そして本郷教会のわたしたちとともにいつもいてくださると、わたしたちは信じております。そして、「すべての人をわたしの弟子にしなさい。」 そんなだいそれたことが、わたしたちにできるのだろうか。聖霊の力が降ると、わたしたちは力を受けるのであります。わたしたちはすでに力をいただいている。その力というのは、わたしたちにとって、皆さんにとって、どんな体験でありましょうか。今日の福音のメッセージの中に、わたくしの注意を引く言葉は「罪の赦しを得させる」という言葉であります。わたしたちは罪の赦しを受けたものである、すでに罪の赦しを与えられた。そのような思い、そのような実感をわたしたちはもっと深めなければならないと思います。

ちょっと話はそれるかもしれませんが、今、日本の社会でなにが一番問題になんだろうか。自分自身の価値を認められない、受け入れられない、と感じている人が多いのではないだろうか。自分がこの世に存在していることは素晴らしいことなんだ、ほんとに感謝しなければならない、心から感謝します、という思いで生きている人がどの位いるのだろうか。たぶんわたしたちはその中に入っているものだろうと思いますが、自分を赦せない、こんな自分をだれが受け入れてくれるだろうかという思いを持っている人もいる、あるいは少なくないのかもしれない。あなたがそこに存在していることは素晴らしいことなんだ、意味のあることなんだ、美しいことなんだ、というメッセージがいつもその人の心にこだましているならば、 わたしたちは、その人はその喜びを多くの人に伝えることができるのではないだろうか。そのような思いをいつも響かせてくださる方は、聖霊であるとわたくしは思います。聖霊はすでにわたしたちに与えられている。その聖霊が、自分の中に、わたしたちの間に与えられていることに、もっとわたしたちは気づき、注意をはらい、そしてその聖霊による喜びを他の人とともに分かち合うことが大切ではないかと思うのであります。 

わたしたちのこの本郷の教会から、聖霊によって与えられた罪の赦し、そして生きる喜びを、神から愛されているという喜びを、多くの人と分かち合うことができますよう、そのためにこのミサ聖祭が大きなめぐみであるということを、今日もより深く知ることができますよう、ご一緒にお祈りいたしましょう。

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第一朗読 使徒言行録 1.1-11

第二朗読 ヘブライ人への手紙 9.24-2810.19-23

福音朗読 ルカによる福音 ルカ24.46-53

 

 

 

2019年6月 1日 (土)

聖母のエリサベト訪問

 

聖母の訪問の祝日 ミサ説教

2019年5月31日(金)、本郷教会

 

天使ガブリエルのお告げを受け、「お言葉どおり、この身に成りますように」とお答えになったおとめマリアは、間もなく急いで山里に向かい、ユダの町にあるザカリアとエリサベトの家を訪問しました。

ナザレからこのザカリアの家までどの位の距離があるのかと思いましたが、100キロは優に超えると思われます。どうやって行ったのだろうということを、先週の土曜日のミサの時にお話ししました。このおとめマリアの決断と行動は、わたしたちが漠然と抱いている聖母マリアのイメージとかなり違うように思われます。

今日の場面はさらに、わたしたちが日常よく祈っている「アヴェ・マリアの祈り」の起こり、起源にもなっています。

今日の福音でもう一つ大切な祈りが登場します。それは「マリアの賛歌」であります。

カトリック教会がすべての聖職者、修道者に義務として課しているお祈り、教会あるいは聖務日課の晩の祈りで、必ず毎日唱える祈りであります。

この祈りをあらためて味わってみますと、少し意外な内容が含まれているように思います。

思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」と。

二千年前の社会の状況は、神様から見て望ましいものではなかった。

力ある者が弱い者を圧迫している社会であった。

富んでいる者が貧しい者を虐げている、そういう状況であった。

基本的に今の世界の状況も変わらないと思われる。

そういう状況は、神の国の求めるものではない。

二千年前、そして現在、支配的になっている社会の状況は神の御心には適わない、そういう在り方を転倒させる、ひっくり返すことが神様の御心であると、この「マリアの賛歌」は言っているように思われます。

 

ところで第一朗読は、使徒パウロのローマの教会への手紙であります。

この内容は本当に素晴らしい、本当にそうありたい、かくあるべしという内容を伝えている。

特にわたくしの心に強く響く言葉は、「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」この言葉でございます。

相手を尊敬すること、そして自分よりも優れた人であると思うこと、それはなかなかできることではありません。わたしたちは人の欠点を見つけることは得意ですけれど、人の良いところ、長所を見つけて評価することはあまり得意ではない。

フランシスコ教皇様は「いつくしみの特別聖年」の時に言われました。

「どのような人にも与えられている神様の似姿、神の美しさ、神様の恵みを認め、それを尊重するようにしなさい。」

聖母の月が終わる今日の福音聖書の朗読から、あらためてイエス・キリストの弟子に召されたわたしたちの生き方を心から反省し、新たにされるようにと聖母の祈りを祈りましょう。

 

2019年5月30日 (木)

ノヴェナの祈り

復活節第六木曜日 ミサ説教

2019年5月30日(木)、本郷教会

 

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」とイエスが言われたことについて、弟子たちはその言葉の意味がわかりませんでした。
さらにイエスは言われました。
「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
今日はちょうど聖霊降臨祭の10日前にあたります。
復活節を過ごしているわたしたちは、既に主の復活という信仰の中心を与えられています。
イエスは人々のために、わたしたちのために苦しみを受け、父のもとへと去っていかれましたが、そのイエスを天の父はよみがえらせ、そして弟子たちのもとへと復活したイエスを出現させてくださいました。そしてイエスは40日間にわたって弟子たちにお現れになり、そのあと40日目に天の父のもとへと帰っていかれたのでありました。
「わたしを見なくなる」というのは何を意味しているのでしょうか。
イエスが十字架の刑にかけられることを言っているのだと思われますが、「しばらくするとわたしを見るようになる」とも言われました。それはイエスの復活を意味していると思われます。わたしたちはイエスが復活し、そしてさらに弟子たちに聖霊を注いで教会を誕生させたことを知っています。
地上のイエスの生涯は終わりましたが、イエスは聖霊の派遣を通して、いつもそしていつまでも弟子たちとともにいてくださいます。わたしたち教会はこの救いの歴史の中に置かれています。
教会は聖霊の派遣をうけた神の民であり、わたしたちもその神の民に属しています。
地上の困難な現実の中で主の復活を信じ、そして地上において主の復活の恵みに与ることをさらに深く信じ、聖霊の恵みに感謝しながら、イエス・キリストの復活の証人とし共に歩んでまいりましょう。
ところで今日は「ノヴェナの祈り」というお祈りをしたいと思います。例文を用意いたしました。ミサの終わり拝領祈願のあと、ご一緒に唱えていただけるとありがたいと思います。

 

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ノヴェナの祈り2019年
慈しみ深い父よ、
聖霊降臨祭を前にして祈ります。
どうかわたしたちに聖霊を注ぎ、聖霊に従って日々歩む者にしてください。
「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の聖霊の実りを豊かに証しすることができますように。
主キリストによって。アーメン。

 

2019年5月27日 (月)

霊の実り

 

復活節第六月曜日 ミサ説教

2019年527()、本郷教会

 

わたしたちは昨日復活節第六主日を祝いました。今年の典礼歴によれば、復活祭は421日でした。従いましてそれから50日後の聖霊降臨祭は69日であります。

聖霊降臨の10日前が主のご昇天の日であります。日本の教会は昇天の日を聖霊降臨の一つ前の主日に移しております。

本来、昇天と聖霊降臨の間には10日間がありました。

そしてこの10日間、弟子たちはマリア様と一緒に聖霊が降ることを求めてお祈りしたと考えられますので、この10日間わたしたちも特に聖霊の賜物、聖霊の実りを祈り求めたいと思います。

 

昨日の典礼でわたしたちは最初の教会が直面した重大な問題、割礼について聖霊の導きによって彼らが決定したということを聞きました。

聖霊は教会の誕生以来わたしたちを教え導き、そして今もわたしたちの中で働いています。

聖霊がどのように働いているかどうかは、わたしたち自身が毎日どのように生きているかということによって明らかにされます。

「霊的生活」という言葉がありますが、「霊的生活」というのは霊に従う生活です。

霊とは神の霊で、聖霊であります。

聖霊に従って生活しているかどうかが、キリスト者にとって最も大切なことであります。

使徒パウロはガラテアへの教会の手紙の中で、霊の実りということを言っています。

「霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

霊に導かれていない生き方は「肉の業」と言われています。

「肉の業」がどういう結果をもたらしているかというと、沢山の項目があげられていますが、

わいせつとか敵意、争い、そねみ、怒り、不和、泥酔そういうことが肉の業であると言っています。

霊に従って生きている者は次のような霊の結ぶ実りが与えられていると述べています。

それは次の9項目であります。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であります。

 

わたしたちは毎日聖霊の導きを祈るべきですけれども、特に聖霊降臨前の期間、間が9日ありますので、昔からノベナNOVENA 9日間の祈りと言われてきました祈りを献げて聖霊の賜物が豊かに与えられるようお祈りいたしましょう。

そして自分にもっとも必要な聖霊の実りは何であるのか、この9項目、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、すべて必要であり大切でありますが、特に自分にとって何が必要であり大切であるかということをそれぞれ考えて祈り求めるようにしたいと思います。

 

2019年5月26日 (日)

現代の緊急課題は何か

復活節第6主日C年 説教

2019526日(日)、本郷教会

 聖霊降臨の祭日まであと、二週間となってきました。

イエスは世を去る前に、弟子たちに言われました。「弁護者すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

復活したイエスは、弟子たちに聖霊を注ぎ、聖霊を通して弟子たちを教え、導きました。聖霊の働きによって、ユダヤ人の世界からギリシャ人の世界、さらに、その外の世界へとイエスキリストの福音は述べ伝えられたのであります。

その教会が最初に直面した大きな問題が、「割礼」ということでありました。「割礼」というのは何かというと、 神がアブラハムと契約した時の印であって、男子の性器に傷をつけるという、ちょっと解りにくいことでありますが、それを、すべてのユダヤ人は実行しなければならなかったのであります。

そこで、ユダヤ人でない人が、つまり、異邦人が、イエス・キリストの福音を信じてキリスト教徒になるときに、割礼を受けなければならないのか、受けなくてもよいのかということが大問題となったのでありました。

激しい議論の末に出た結論が、その必要はない、ということでありました。使徒たちは各地に手紙を送りました。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切、あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に捧げられたものと、血と絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです」。

ここで、はっきりと使徒たちが自信を持って述べていることは、これは聖霊による結論であるということであります。その結果、使徒言行録が告げておりますように、イエスの福音は、ギリシャの世界から、さらに、その外の世界へと広がり、ついにはわたしたちの国にまで伝えられるようになったのでありました。 

さて、聖霊は、十二使徒、そして使徒言行録の弟子たちにだけ働いたのではなくて、それから後の教会、わたしたちにも、この日本の教会にも、この本郷教会の信者にも同じように働いてくださっているのであります。

最初の教会の大問題が「割礼」を受けなければならないかどうかということでありましたが、その問題は今は無い。それでは、今のわたしたちにとって何が問題であるのか。わたしたちは、様々な問題の中で、何を優先的に取り上げて、取り組まなければならないのでありましょうか。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」とイエスは言われました。そして、さらに、イエスは((次の日曜は主の昇天の祭日になりますが)天の父のもとに上るときに弟子たちに宣教の命令を残された。

「あなたがたは行って福音を述べ伝え、すべての人をわたしの弟子にしなさい。」

ですから、イエスがわたしたちに残されたご命令は、

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

そして、「全世界に言って福音を述べ伝え、すべての人を弟子にしなさい」、ということに集約されます。

考えてみれば、この二つのことは結局同じことになると思います。イエス・キリストの弟子とはどんな人であるかというと、それは、イエスが生きたように生きている人、少なくとも生きようと努めている人であり、イエスが弟子たちを愛して、命を捨てたように、互いに仕えあい、尊敬しあい、赦しあい、愛し合う人たちであるということでありまして、そうしているかどうかによって、イエスの弟子であるかどうかが判定されるということになるのであります。 

これは、先週申し上げたのですが、さて、二千年前の教会にとって最大の問題が「割礼」ということでありましたが、今のわたしたちにとって、何が問題であるのか…、わたしがずっと、感じてきたことは、今のこの、日本の社会において、人々が精神的に、非常に行き詰っている人が多い。自殺する人もいれば、行方不明になる人もいます。肉体的に病気になる人はもちろんいるし、何の問題もないという人はいないかもしれないが、精神的に孤独である、そういう人たちのためにわたしたちは何をすることができるだろうか。この本郷教会が暖かい、潤いのある、安らぎのある交わりになるようにと努めてきましたが、まだ、道は遠いように感じています。 

この広い世界の中で、たった一人でも自分のことを唯一無比の存在として、比べることのできない大切な存在として認めてくれる、受け入れてくれる人がありましたら、わたしたちはどんな困難があっても生きることができるし、ほかの人にも優しくすることができるのではないだろうか。わたしたちの中にそのようなイエス・キリストの生き方がどの程度実現しているのか、いや、実現していると思います。もっとその輪を広げることができますよう祈りたいと思います。

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1朗読 使徒言行録151-2,22-29

2朗読 黙示録 2110-14,22-23

福音朗読 ヨハネ1423-29

 

心と体の健康をお与えください

聖母マリアの土曜日のミサ

2019525()、本郷教会

 

 今日は5月中の土曜日であります。以前、土曜日にはたびたび聖母マリアのミサが献げられました。そして5月は聖母の月とも呼ばれています。531日最後の日は、マリアのエリサベト訪問の日となっています。(絵を示して)

これは、マリア様がエリサベトのところに山を越えて出かけていく場面であるそうです。

どうやって行ったのかと思っていたのですが、このようにして行ったという伝説があるようであります。

集会祈願でわたしたちは、「たえず心と体の健康をお与えください。」と祈りました。

先日も病者のためのミサを献ましたが、誰にも必要なことは心と体の健康であります。

心の健康というものは、どういうものであろうか。わたしたちの住んでいるこの社会、それからわたしたちの所属しているカトリック教会という団体の現状を見ますに、体の健康が必要なことは言うまでもないのですが、心の健康ということが大きな課題ではないだろうかと思います。

わたしたちの教会で、聖職者による性虐待事件というものが大きな問題として、世界中で報道されております。これもわたしたちの中にある不健康な、病んでいる部分の現れであると思います。

さらに、この人間と人間の関係におけるいろいろな問題、特に女性と男性 男性と女性の間に起こっている痛ましい非常に耐え難い問題・事件等があります。

教会の中にはないが、世間にあるというわけではなくて、教会の中にもあるのです。わたしたちは、本当に根底から癒しを受けなければならないのではないかと痛感しています。

カトリック教会は聖職者が男性に限定されており、夫権制・男性中心の組織ですが、かろうじて聖母マリアへのデボーションdevotion、崇敬・信心というのがあって、何とかバランスをとってきました。女性を尊敬し、女性に対して献身する、という気持ちを大切にするという伝統があり、それは聖母への崇敬と一つに結びついていたと思います。

現代それがどうなっているのか、本当に緊急の課題ではないかと思うのであります。

本当に(自分は)何も出来ないが、その問題を見つめながら、わたしたちが心と体の健康に恵まれますように、特に自分自身の中にある心の問題に気がつき、そしてそれを克服することができるように、聖母マリアのとりつぎを願って祈りたいと思います。

 

 

 

 

2019年5月24日 (金)

聖霊による決定

復活節第五金曜日 ミサ説教

2019年5月24日(金)、本郷教会

使徒言行録を続けて読んできております。

今日15章でエルサレムの使徒会議の結論が伝達されました。

割礼についての論議が為され、その結論が出たのでありましたが、結論はご承知の通り、割礼はもはや必要ではないということでありますが、使徒たちは結論を文章にして送付することにしたのでありました。

その文章の中で、次のように言われている事に注目したいと思います。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」

聖霊によって決定した、ということを言っております。

イエスが地上を去った後、聖霊が使徒たちの上に降り、聖霊の導きによって教会が発展してきました。

こんにちの教会もその延長の上にあります。

全ての人に聖霊の賜物が与えられており、何を為すべきかを聖霊が教えてくださるとわたしたちは信じているのであります。

 

まもなく聖霊降臨の祭日を迎えますが、聖霊が豊かにわたしたちに与えられるようにお祈りいたしましょう。

 

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第一朗読  使徒言行録 15:22-31

(その日、)使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:12-17

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

2019年5月23日 (木)

永遠のいのち

復活節第四木曜日 ミサ説教
2019年5月16日(木)、本郷教会

 

イエス・キリストは誰であるのか、ということが、わたしたちの信仰の重要な課題、問いかけ、となっています。わたしたちは、イエス・キリストは救い主であり、永遠の命を与えてくださる方である、と信じています。イエス・キリストがわたしたちに永遠の命を与えることができるのは、父である神から遣わされた方であるからであります。

 

今日の福音でイエスは、「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われました。
さらに、「わたしと父とは一つである。」(10・30)とも言われています。
ですからイエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストを遣わした天の父を信じる者であり、イエス・キリストを受け入れる者は、イエス・キリストを遣わした神を受け入れる者であるということになる。

ところでヨハネの福音は,たびたび永遠の命ということを言っています。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17・3)とあります。
この命という言葉ですが、「永遠の命」という時に、「ゾエー・アイオニオン」と言います。もう一つ命に当たる言葉があって、それは「プシュケー」という言葉であり、これは地上の生命、やがて終了する地上の生命を指しています。ヨハネの福音ではイエスを信じる者はすでに「永遠の生命」に移されている、と教えていますが、この場合は「プシュケー」ではなく「ゾエー・アイオニオン」を指しています。ただし、その永遠の生命が決定的になるのは地上を去ってからである。すでに永遠の命を受けているが、まだ永遠の命には不確定な部分があるという意味でしょうか。
イエスを信じる者は永遠の命を受けている。昔の言葉で言えば「超自然の命」を受けているのであります。

2019年5月22日 (水)

イエスに留まる

 

復活節第五水曜日 ミサ説教

2019年5月22日(水)、本郷教会

今日の二つの朗読は非常に重要な事を述べております。

第一朗読、使徒言行録15章は、エルサレムで使徒たちの会議が開かれたことを述べています。その議題は割礼をキリスト教に改宗したものにも受けさせなければならないかどうかということでありました。結果はご存知のように、その必要はないということになったのであります。

福音の朗読も非常に重要な箇所で、ヨハネ15章「ぶどうの木のたとえ話」であります。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

 

イエス・キリストの教え、そしてわたしたちキリスト者の生き方は、この聖書の言葉によって明確に示されています。

キリストにつながっている人はキリストの心を生きる人であり、たとえキリスト教徒と名乗っていてもキリストの心を実行しないならば、真にキリスト教徒であるとは言えないことになります。

少し古いことになりますが、教皇フランシスコが「いつくしみの特別聖年」を宣言し、人々に神の慈しみの業を行うように勧められました。

それは、次のような項目を実行することでありました。

・飢えている人に食べ物を与える。

・渇いている人に飲み物を与える。

・着る物のない人に衣服を与える。

・宿のない人に宿を与える。

・病者を訪問する。

・受刑者を訪問する。

疑いを抱いている人に助言をすること。

・無知な人に教えること。

・罪びとを戒めること。

・悲嘆に暮れている人を慰めること。

などであります。

 

さて、今のわたしたちの社会の中で最も必要で大切な慈しみの業とは何でありましょうか?

わたくしが個人的に心配していること、個人的に強く感じていることは、この大都会において、大都会でなくとも変わりないのかもしれませんが、少なからぬ人々が孤独であり生きる意欲を奪われているという現実があることであります。すなわち、自死者、あるいは行方不明になる人が多いということです。一人ひとりの人間の尊厳が認められ、尊重され、大切にされる社会を建設することが最も求められていることではないでしょうか。

何を為すべきか、はこのように明確に示されていますが、もう一つ大切なことは、ではわたしたちが日々どのように信者として生きたならば、そのような愛、慈しみを実行する信者に変えられるのか、実行できる信者に変えられるか、ということであります。

 

愛、喜び、平和

 

 

復活節第5火曜日ミサ説教

521日、本郷教会

 

 イエスは御自分がこの世から父のもとへ移される時が来たことを知り弟子たちに様々なことばで遺言を残されました。その中に今日の福音の言葉があります。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」

これは司祭がミサ中の交わりの儀、聖体拝領の前にいつも唱えている言葉です。「平和」はわたしたちにとってもっとも大切なことであると言えましょう。聖霊がわたしたちに与える賜物のなかに「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ1122)とが挙げられています。その中に「平和」が挙げられています。わたしたちは、いろいろな意味でいろいろな次元で「平和」を求めています。そのなかでも最も大切な「平和」は神との平和ではないでしょうか。もちろん、「隣人との平和」とか「自然との平和」が大切ですが、神との平和が非常に大切であると思います。それは神との関係における平和、神との関係が良い状態にあるという意味での平和であり、神から罪の赦しを頂いている状態であります。復活したイエスが弟子たちにあらわれて言われた第一声は「あなたがたに平和があるように」でありました。弟子たちは主を見、主の声を聞いて非常に喜びました。彼らは罪の赦しを受けたこと、イエスから受け入れられていることを知って喜び、心は平和で満たされたのであります。

どんな状況にあってもだれにも奪われない平和、この平和を大切にいたしましょう。

 

 

聖霊の時代

復活節第五月曜日 ミサ説教

2019520()、本郷教会 

今日は520日であり、聖霊降臨の日が69日でありますので、聖霊降臨まであと3週間となっております。今日の集会祈願で祈りましたが、わたしたちは約束された聖霊を待ち望みながら祈りを続けております。

聖霊が人々の上に降って、イエスの教えたことをすべて思い起こさせ、そしてさらにイエスの与えた新しい掟を実行することができるようにしてくださいました。

昨日の主日のミサの福音朗読でありましたが、イエスは教会に新しい掟を残されました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

ひとびとは、イエスの弟子たちが互いに愛し合っている様子を見れば、イエスの弟子であるということを知ることになる。

もしそうしていなければイエスの弟子であるということを認めないだろう、という意味でありました。

聖霊降臨の出来事からもう二千年経っており、いまわたしたちは聖霊の時代を歩んでいます。イエスは地上をさりましたが、その前に言われました。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

イエスは聖霊をわたしたちに授けられました。イエスは何時も聖霊を送り、この世にあるわたしたちがいつも聖霊によって歩むことができるよう導いてくださいます。いまわたしたちは聖霊の導きの時を過ごしているのです。

わたしたちが聖霊の導きに忠実に従うことによって、イエス・キリストの弟子であることをあらわすことができますように、お祈りいたしましょう。

 

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2019年5月19日 (日)

イエスの弟子であるかどうかは何でわかるか?

2019年5月19日(復活節第5主日)

岡田武夫大司教説教,カトリック本郷教会

第一朗読:使徒言行録 14:21b-27

第二朗読:ヨハネ黙示録 21:01-05a

福音朗読:ヨハネ 13:31-33a, 34-35

「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合いなさい.互いに愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,皆が知るようになる」と,イエスは言われました.

イエスは,天の父のもとに昇るときに,弟子たちに宣教の命令を残されたのであります.「あなたがたは,行って,福音を宣べ伝え,すべての人をわたしの弟子にしなさい」と言われました.「わたしの弟子をつくりなさい」と言われたのであります.

キリストの弟子とはどんな人であるのかと言いますと,今日のヨハネによる福音が言っておりますように,互いに愛し合う人,イエスが弟子たちを愛したように互いに愛し合う人が,キリストの弟子であります.人々が見て,互いに愛し合っている様子を見て,ああ,この人たちはキリストの弟子である,ということが知られるようになる,と言っております.ですから,愛し合っているかどうかということが,キリストの弟子であるかどうかを判断するための基準となっています.

教会の使命は,イエス・キリストが残された命令を実行することであり,それは,福音を宣べ伝えること,そして,イエス・キリストの弟子をつくることであります.わたしたち本郷教会も,そのような使命を受けているのであります.そして,イエス・キリストの教え,それは「福音」という言葉で要約できますが,福音を宣べ伝えるということと同時に,イエス・キリストの御命令,新しい掟を実行することであります.この新しい掟は,まず,わたしたちのなかで実行されなければなりませんが,さらに,このわたしたちの枠を超えて,外に向かって広がって行かなければならないのであります.そこで,皆様に問いかけたい.いっしょに考えたい.わたしたちを見て,「そこにイエス・キリストがおられる」,「イエス・キリストの愛がそこにある」,「彼らはまさに,本当に,イエス・キリストの弟子である」と認めていただけるためには,わたしたちがどうでなければならないのか,どういうことは避けなければならないのか,どういうことをもっと実行しなければならないのか,そういうことを御いっしょに考え,求めて,追求して行きたい.わたしたちは,どう変わらなければならないのか,どういうことはやめなければならないのか,ということを,御いっしょに考える.話し合い,そして,祈り求めて行こうと思い,そのように皆様にお願いし,提案いたします.ヨハネの黙示は,新しい天と新しい地が現れた,ということを言っている.「天と地」という言葉は,世界を表している,と思います.すべてが刷新され,新しくなったときに,神の御こころが完全に行われている状態が,実現します.今は,まだそこに向かっている途中であります.ですから,わたしたちの共同体も,わたしたちひとりひとりも,神の御こころにはかなわない部分があることを,わたしたちは,謙遜に,率直に認めなければならない.そして,お互いにそうであることを踏まえて,それでもどうしたらそういう問題を克服できるのか,ということを,祈りのうちに求めて行きたいと思います.

ここで聖ヨハネ・パウロ II 世教皇は紀元二千年を迎えるときにおっしゃったことを思い出すことは,たいへん有益ではないか,と思います.千年という単位で,教皇様は,教会の過去を振り返って,反省をするように促しました.この千年間に反省すべきことは多々あるが,特に,わたしたちの間に分裂が生じたということがひとつ;それから,真理への奉仕という名のもとに暴力を使ってしまったこと;それから,基本的人権が侵害されるのを見すごしたということ,それら三つを挙げているのであります.ちょっと話が大きすぎますけれども,そのようにおおげさなことを言わなくても,わたしたち本郷教会,東京教区,あるいは,せめて日本の教会として,どうしたらよいのか,ということを,これから御いっしょに祈り求めて行きたい,と思うのであります.

 

2019年5月17日 (金)

父の家には住むところがある

復活節第四金曜日 ミサ説教

2019年5月17日(金)、本郷教会

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とイエスは言われました。

イエスは天の父への道であります。イエスという案内人によって、わたしたちは天の御父の許へ行くことができます。

イエスはすでに、あなたがたのために父の家には住む所がたくさん用意されているのだと言われました。もしなければ用意しに行くと言ったでしょうが、もう用意されている、そう言われたのであります。

わたしたちはイエス・キリストを救い主として信じています。イエス・キリストによってわたしたちは「永遠の命」にいたることができる。

何度も申し上げますが、「永遠の命」ということばがヨハネの福音のキーワードとなっています。「永遠の命」とは、唯一のまことの神である父である神あなたと、わたしイエス・キリストを知ることである(17・3参照)とイエスは言われました。

わたしたちは今、案内人であるイエス・キリストに導かれて、天の御父の許へ赴く旅をしているのであります。

この父である神への旅に多くの人が加わっていただき、手を携えて「永遠の命」に入ることができますよう、お祈りいたしましょう。

 

 

2019年5月16日 (木)

至らない自分を愛する神

復活節第四水曜日 ミサ説教
2019年5月15日(水)、本郷教会

わたしたちは、ヨハネによる福音を続けて読んできました。
ヨハネの福音は、わたしたちに分かり難いと思われる表現もあります。
このヨハネの福音を、今わたしたちはこの日本という国でどういうように伝えたらよいだろうか。
わたしたちキリストの弟子の使命は、イエス・キリストの福音を宣べ伝えること、イエス・キリストの弟子をつくることであります。ヨハネの福音の「福音」というのはなんであるかということをわたしたちは日々深めて、そしてその「福音」を信じ、その信仰に従って毎日生きているし、ますますそうしなければならないと思います。

今日のアレルヤ唱で、「わたしは世の光。わたしに従う人はいのちの光をもっている。」と言われています。
光であるイエス・キリストを信じて、イエス・キリストを受け入れるという時に、具体的にわたしたちはどう変えられるのだろうか、あるいは変えられたのでしょうか。

光というものは、まわりを照らすものであり、わたしたちを照らす、わたしたちの心を照らします。
そうすると、わたしたちの心があからさまにされるわけでして、そのことに耐えられない、そうされたくないという思いが、人々の心の中に、わたしたちの心にあるのではないだろうか。
そうなっても構わない、あるいはそうなっても自分は受け入れられる、赦され、ますます大切に思っていただけると思うならば、光を受け入れることに困難がないどころかそこに大きな喜びがあると思います。

誰しも自分を振り返れば、自分の心を覗いてみれば、そこにはあまり人に知られたくない恥ずかしいこととか、嫌なこととか、惨めなことがある。
そういうものがあっても、変わりなくあるいはそれ以上に自分を大切に思ってもらえる、そういう信仰があれば、光を受け入れることに困難はない。

ヨハネの福音、それからヨハネの手紙を通して繰り返し言われていることは、「神は愛です」ということですね。
神は愛ですということは、罪びとである、不完全な人間である、不完全な存在である自分を、かけがえのない価値のあるものとして神が認めてくださる、受け入れてくださるということを意味していると思います。

 

2019年5月14日 (火)

なぜ神は人となったか?

 

復活節第四火曜日 ミサ説教

2019514日、本郷教会

 

 今日は使徒マチアの祝日であります。マチアはユダの後継者として選ばれました。

 

さて、今日のヨハネによる福音でイエスが言われたことをご一緒に黙想したいと思います。

「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と言われました。イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と言われました。

「わたしがあなたがたを愛したように」とは、どのように愛することでありましょうか。

昨日の福音で、「わたしはよい牧者、わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている。」というアレルヤ唱を黙想いたしました。よい牧者としてイエスは羊を愛した。羊を愛するということは、羊をよく知っている、羊のことに深い関心を持っている、ということだと思います。

旧約聖書にエゼキエルの預言という預言書があります。ここでよい牧者とはどういう牧者であるかということが述べられていて、自分の羊を養う牧者であると言われています。

逆に羊ではなく自分を養う牧者が非難されているのであります。よい羊飼いは自分の羊を養うのであります。そして、羊のことをよく知っており、その羊に名前をつけて、その羊をほかの羊とは違うかけがえのない存在として、大切にするのであると言われています。

確か聖アタナシオの日に申し上げたのですけれども、神の愛というのはどういう愛であるかというと、愛されている人が自分だけが愛されているように感じる愛、そのような愛ではないかということでした。これはどういう意味だろうかと皆さんに投げかけたのであります。

神は一人ひとりを愛する、しかしすべての人を愛する、この間に矛盾はないでしょうか?

話は飛びますけれども、聖イレネオという有名な聖人がいます。神が人となったのは、わたしたちすべての人を神の子とするためである、と言われました。

わたしたちはすでに神の似姿としてつくられていますが、罪のために神から離れている部分があります。わたしたちは神を求め、神を慕っているのです。神はわたしたち人間はご自分の子であるので、ご自分の子をもっと自分のところに引き寄せるためにおんひとり子を遣わされた。

宗教という言葉ですけれども、religioレリジオ、と言いますが、これは再び繫ぐという意味です。神が御子を遣わされたのは、神と人間との間にある距離、ギャップを埋めるため、人間を自分のところに引き寄せるためであります。

 

 

わたしはよい牧者

復活節第四月曜日ミサ説教
2019年5月13日(月)、本郷教会

本日のアレルヤ唱は、「わたしはよい牧者。わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている」であります。
昨日の復活節第四主日のアレルヤ唱も同じ言葉、「わたしはよい牧者。わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている」でありました。
イエスはご自分をよい牧者であると言われます。
羊を飼うという仕事について、わたしたちの環境では実感を持つことが難しいのではないかと思いますが、羊飼いの仕事と言うのは大変骨の折れる難しい仕事であるそうです。場合によっては、羊飼いは自分の羊のために命を賭けます。
羊飼いは羊の一匹一匹、羊を全部良く知っていて、羊に名をつけたりするのだそうです。
羊飼いは自分の羊を良く知っている。そして羊のほうも自分の羊飼いを信頼し、羊飼いの声に聞き従う。
羊飼いと羊の間には、そういう親しい深い信頼の関係があるのであります。

今日の福音ではさらに「わたしは羊の門である」と言われました。これはどういう意味なのでしょうか。
「わたしを通って入る者は救われる」と言われました。
そこで思い出されるイエスの教えは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしによらなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・5)というイエスの言葉であります。そこで「わたしは羊の門である」は、イエスという門を通らなければ救いに達することはできないという意味ではないかと思います。

イエスがよい牧者であるという教えを何度も聞きながら、牧者の仕事はなんであろうかと考えます。
旧約聖書では王という人たちが牧者に相当する者でありましたが、歴代の王たちのほとんど大部分は良い牧者であるかどうかという審査について、落第であるという点数をつけられているわけであります。(サムエル記上下、列王記上下、歴代誌上下を参照)
王で有名な人はダビデ、ソロモンなどでありますが、羊のために心を砕き病める者弱い者をいたわり助ける牧者の務めを忠実に果たした人は、あまりいなかった。
わたしたちの新約の教会における牧者はどうであろうか。
今日はこの課題を黙想したいと思います。

 

2019年5月12日 (日)

大安心である

復活節第4主日 世界召命祈願の日

                                                                                                                               2019512日、本郷教会

説教 

ヨハネの福音は永遠の命ということを強調しているように思われます。神は御子イエス・キリストをわたしたちのところお遣わしになりました。それは、御子イエス・キリストを信じる者が永遠の命に入るためであります。神のみ旨は、すべての人が救われること、すべての人が永遠の命を得ることでございます。

それでは今日の福音をご一緒に味わうように致しましょう。

今日の福音の中で「わたしは彼らに永遠の命を与える」と主イエスは言われます。そして、「彼らは決して滅びない。」「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」「だれも父の手から奪うことはできない」と、繰り返し言われている。天の父とイエス・キリストは一つであるとはっきりと言われています。父の望むことはイエスが望むこと、イエスの行うことは父がお望みになることであります。

そして、父も御子も、同じことを、すなわち、すべての人が救われることを望んでいる。すべての人の救いということが強調されていると思います。そして、イエスは、すべての人が救われるために遣わされた「良い牧者」であります。

すべての人が救われるために、牧者は自分の命すら惜しまない。事実、イエスはすべての人の救いのために命を捨てられ、十字架に架かってくださったのでありました。イエスは命がけでわたしたちの「命」を守ってくださるのであります。

この命を、ヨハネの福音は「永遠の命」と言っています。わたしたちの地上の生命には終わりがありますが、「永遠の命」とは、天の父のもとで永遠に安らぎ、すべての天使、聖人と一緒に神に感謝し、神を賛美することのできる、そういう状態に入ることではないでしょうか。今日のヨハネの黙示がその様子を伝えています。

使徒言行録における宣教はすべての人を永遠の命に導くという、そこを目指す宣教でありました。

さて、きょうの福音で、さらに「アレルヤ唱」でも言われておりますが、「わたしは良い牧者、わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている」。牧者と羊の間には、非常に親しい交わりがあるべきであります。イエスの羊になれば、イエスはその羊をだれにも奪われないように守り、導いてくださる。「わたしは良い牧者である。羊のために命を捨てる」、そう言われております。そして、「羊は牧者の声を聞き分け、牧者に従う」のであります。「聞き分ける」というように訳されていますが、これは良い日本語です。羊は牧者の言うことを「聞き分ける」のであります。牧者でない人のいうことは聞かないわけですね。この「聞き分ける」ことが求められているのです。そして、聞いて、従うことが求められている。

聞き従えさえすれば、どんなことがあっても牧者は命がけで羊を守ってくださるので、もう「大安心」であるというメッセージではないでしょうか。

わたしたちは牧者に導かれる羊であります。牧者が何を言ってくださるのか、毎日聞き分けながら、しかし、安心して、牧者に聞き従うようにしたいものである。

きょうは、「世界召命祈願の日」であります。「召命」とは、自分に向けられた神の呼びかけを聞いて従うことなのです。特に、若い人に自分の召命について考えていただきたいという日であります。

神の声に聞き従うということは、場合によっては「冒険」であり、「勇気が必要」である。しかし、人生にはリスクが伴うわけでありまして、自分のすべてを神様にお委ねする人生は本当に素晴らしい人生ではないかと思います。

もう、若くないわたしたちであっても、残された人生は貴重であります。与えられた年月をすべて神様に委ねて生きることができますよう、祈りましょう。

 

あなたをおいて誰のところに行きましょう!

 

復活節第三土曜日

2019年5月11日(土)、本郷教会

 

ヨハネの福音の6章を、毎日ミサの福音朗読として読み継いできました。

6章全体が、わたしたちがご聖体として信じているイエスの教えの説明であると、多くの人が理解しております。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」

昨日の福音でそういわれました。この言葉に多くの人たちは躓いた。

なんてひどい話だ、野蛮な話ではないかと、彼らは到底受け入れられないと思ったのであります。

この時までイエスに付き従ってきた多くの弟子たちも、この期に及んで多くの人がイエスから離れて行きました。

最後に十二人が残った。

あなたがたも離れていきたいか」とイエスが十二人に問いますと、ペトロが答えました。

「主よ、わたしたちは誰のところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

このペトロの言葉から、わたしたちのミサの聖体拝領の時に祈る言葉が採られています。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」とわたしたちは唱えているのであります。

ご聖体をいただくときに、わたしたちは毎回 信仰告白を迫られています。

司祭がご聖体を人々の前に示して、そしてこのご聖体に対する信仰を確認するように求めている。

毎回のことなので慣れてしまってあまり深く考えないかもしれませんが、今日このヨハネの福音の文言に出会ったわたしたちは、改めてご聖体をいただくというのはどういうことか、ということを考えなければならないと思います。

「あなたは神の子キリストです、わたしはいつまでもあなたに付き従います。」

そういうように宣言するわけです。

もっとも、そのように言ったペトロも、御承知のようにイエスの受難に際し、臆病風に吹かれて、ついイエスのことを三度も知らないと言ってしまいました。

そうではあっても、イエスの眼差しに涙を流し、そして最後には命を献げてイエスに従うという決心を全うしたのでありました。

わたしたちの場合どうだろうか。

わたしたちも洗礼を受け、堅信の秘跡を受け、あるいはその他の秘跡、司祭・司教であれば叙階の秘跡を受け、そのたびに固い決意を表明しているわけであります。

「わたしはあなたに従います。」

この「従います」という決意の背景には、わたしはあなたにこれこれの使命を授け、そしてその使命を遂行するに足る恵み・光・支え・力を与えますと、だからわたしについてきなさいと、そういわれたということがあるわけであります。

明日の主日は世界召命祈願の日であります。召命のために祈る日であります。

教皇様のメッセージを読みますと、特に若い人に向けての呼びかけがあります。

世界青年大会のパナマ大会という非常に大切な出来事が教皇様の念頭にあります。

日本からも青年が参加したわけであります。

この召命について、教皇様がいっていることでわたしの心に強く響くのは、青年に向かってですね、この《リスク》ですね、危険、リスクを恐れないでくださいと言われたことです。

人生にはリスクがあるわけです。人生は決断であります。選択であります。

こうしたらああなる、ああしたらこうなると、いつまでも決められない。

わたくしも若い時そうだったんですけれども。ああかな、こうかなと考えてばかりいて、まったく怖気づいてしまって。

人生はリスクなんですね、賭けるわけです。

そして何が起こっても誰のせいにもしない。

自分が選び取り、自分が生きた人生である。

それは素晴らしいことだと思う。

そうできる根拠は、「わたしはあなたと一緒にいます」という主イエス・キリストの約束なのです。

おとめマリアがお告げを受けた時に、大変躊躇した。

しかし神の言葉「あなたは救い主の母となる」、そして「あなたは聖霊によって覆われる」。

この神のご保護を信じ、それがどんなに危険なことであっても、わたしは仰せのようにいたします、お言葉の通りこの身になりますようにという、大変危険な賭けを引き受けたわけであります。

 

人生は危険な賭けである。

しかし、賭けをしないで終わる人生は大変不満足なものに終わると思います。

 

第一朗読  使徒言行録 9:31-42

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 6:60-69

(そのとき、イエスの弟子たちの多くの者は)言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 

2019年5月10日 (金)

パウロの回心

復活節第三金曜日 ミサ説教

2019年月5月10日(金)、本郷教会

 

ユダヤ人たちはイエスの言葉に躓きました。

「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのかと、互いに激しく議論し始めた」のでありました。

彼らはイエスの言葉の真意を理解することができなかったのであります。イエスの言葉を文字通り受け取ると、どうしても理解することができない。イエスが自分の肉を食べさせると言った時に何を意味していたのか、ということが大切であります。

わたしたちはご聖体への信仰をいただいております。イエスのこの言葉は、聖体のことを意味していると、わたしたちは知っている。

しかし今、ミサのたびにいただいているご聖体を、どういうようにわたしたちは信じているのか。イエスを信じるということと、ご聖体をいただくということの間に何があるのか。

イエスとご聖体。イエスご自身であるご聖体への信仰を深めて頂けるよう祈りましょう。

 

わたしたちは使徒言行録を読んできておりますが、今日は特に有名な「パウロの回心」の

次第を告げる箇所であります。「パウロの回心」の話は、同じ使徒言行録の中で三度も出てきます。しかし、パウロ自身はパウロの手紙の中では直接このダマスコ途上での出来事を述べていません。しかしルカによる使徒言行録は同じ出来事を三度も語ります。三度とも、復活したイエスから突然一方的にパウロに語りかけられ命じられたという出来事として描かれています。

そして、このサウロが回心するためには、一人の使徒アナニアという人が重要な役割を担っています。アナニアなくして使徒パウロの誕生はあり得ませんでした。アナニアがサウロの上に手を置いて祈りますと目からうろこのようなものが落ちてパウロは見えるようになりました。頭の上に手を置いて祈るという所作は、ミサの時司祭がおこなっている按手と同じ動作であります。按手すると聖霊が降り、サウロは目が見えるようになったのです。按手は聖霊が下ることを現しているのです。

唐突な回心のように描かれていますが、もしかしてサウロは、キリスト教徒を迫害するということをしながら、少しずつキリスト者の生き方によって心が動かされ、そしてこの時点で一挙にイエスキリストとの出逢いへと導かれたのかもしれない、とも考えられます。

、『彼らは皆、神によって教えられる』

復活節第三木曜日 ミサ説教
2019年5月9日(木)、本郷教会

今日の使徒言行録の朗読では、カンダケという、エチオピアの女王の全財産を管理している
宦官が、フィリポの導きで洗礼を受けるに至った次第が告げられています。
そのときカンダケという人は、イザヤの書を読んでいました。そのイザヤの書でいわれていることの意味をフィリポに尋ね、フィリポから説明を聞いて(それは「主の僕の歌」といわれている箇所でした。)洗礼を受ける決心したのでありました。
わたしたちは新約聖書だけでなく、旧約聖書を正典として認め、そして旧約聖書の教えを背景にして、新約聖書の意味を解き明かそうとしています。
今日のヨハネによる福音では、「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある」と、言われています。これはどういうことかと言えば、旧約聖書の中で既に、「神は預言者を通して人々が神を知ることができるように導いている」ということが告げられているのであります。
人間が神の招きに応えることができるよう、神はわたしたちに聖霊を注いでくださいます。
人は聖霊の導きに応えて信仰に入り、救いの恵みに与るのであります。その神からの呼びかけに答えることが出来るように与えられる神からの「先行的恵み」のことを旧約聖書は既に述べているのであります。
例えばそれは何所であるかと言えば、エレミヤの預言の31章33節、34節であります。
31:33来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤの預言によれば、新しい契約を結ぶ時には、一人ひとりの心に特別な聖霊の恵みが授けられて、主を知ることができるように導かれる,主を知ることができるようにしてくださる、と言っています。そこで、ヨハネの福音の17章3節の有名な言葉が思い出されます。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになった
イエス・キリストを知ることです。」
神を知るということが、永遠の命である、と言っているのです。
神を知るためには、神ご自身からの導きに応えなければ、主を知ることはできない。主を知るように心の目を開いて、そしてイエス・キリストを信じるようにという招きがあります。その招きがすべての人を永遠の命へと招く神様の計らいにほかなりません。

アウグスチヌスの言葉

復活節第三水曜日 ミサ説教
2019年5月8日(水)、本郷教会

 

ヨハネによる福音の6章を毎日読んできました。
今日の箇所で特に強調されていることは、父である神の「救済意志」ということ、
つまり父である神は、わたしたち人間を救おうと望んでおられるということであります。
そしてこの神の意志は、御子イエスキリストを通して伝えられ、そしてイエスキリストに
よって実行されます。
「わたしの父の意志は、子を見て信じる者が永遠のいのちを保ち、終わりの日に復活することである。」
アレルヤ唱の言葉です。
ちなみにアレルヤ唱は、すぐ後で読まれる福音の要点を述べる言葉となっています。

 

さて今日の福音では、わたくしの心に留まった言葉がございまして、それは
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」
というイエスの言葉です。
「わたしは決して追い出さない。」と言われました。来る人がいればその人を追い出さない、逆に言いますと、来なければ受け取ることができない、という意味になります。
それでわたくしが思い出す言葉が一つある。それは次の言葉です。
「あなたなしにあなたを造った神はあなたなしにあなたを救わない」
あなたは無から創造された、あなたは存在しなかった、存在しないあなたを神はお創りになった。そのあなたを救うためには、あなたの協力がなければ救いが実現しない。しかし、あなただけがあなたを救うことはできない。救うのは神ですけれども、神はあなた自身の承諾、あなた自身の協力を求めている。
そういう意味であります。聖アウグスチヌスの言葉と伝えられています。

 

2019年5月 7日 (火)

ヨハネの福音6章

復活節第三火曜日ミサ説教

2019年57()、本郷教会

 

ヨハネの福音書6章を読み継いできています。

昨日、56日月曜日の福音では、「神の業をおこなうためには何をしたら良いでしょうか」という問いに対して、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられました。

イエスと人々との問答は上手く噛み合っていないように感じます。

今日の30節から35節でも同じように話がうまく噛み合っていないように思われます。

マンナという言葉が出てきます。マンナはイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出して、荒れ野を40年間放浪した時に神から与えられた食べ物でありました。

 

こちらはマナとなっていますけれども、出エジプト記1631節ではこうなっています。

「イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。」

そういうものを神が天からお与えになった。このマナ、あるいはマンナは、わたしたちが今日もいただくご聖体をあらかじめ指し示すものだと考えられます。

6章の49節から51節では次のようにいわれています

「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。

しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」

イスラエルの民が荒れ野で命を養っていただいたパンはマンナと呼ばれていましたが、

そのマンナを食べて40年間生きたイスラエルの民もやがては死んでしまった。しかしイエスが与える命のパンは、人を永遠の命へと導くものであるとイエスは言われました。

このイエスの言葉を人々は理解することは出来なかったのでした。

ヨハネの福音6章全体が、このイエスを信じるということと、イエスが天から降った命のパンであるということを信じるということに全体がさかれています。全体がイエスを信じること、それからイエス自身が永遠の命を人々に与える者であると述べるために構成されているというように考えられます。

毎日少しずつですけれども、ヨハネ6章を読みながら、イエスキリストを信じるということ、それからご聖体をいただくということの意味を深めていきたいと思います。

 

2019年5月 6日 (月)

神の業を行うとは

復活節第三月曜日ミサ説教
2019年5月6日(月)、本郷教会

「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」という問いに対して、イエスはお答えになられました。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
今日の答唱詩編の答唱は、「神のみ旨を行うことは、わたしの心の喜び」であります。
神のみ旨、神のみこころを行うことができるようにと、わたしたちも日々祈っています。
「主の祈り」は「みこころが行われますように」と祈っていますが、わたしたちを通して、わたしたちにおいて、神のみこころ、主のみこころが行われますように、わたしたちが主のみこころを行う者となることができますように、という意味を込めての祈りであります。神の業、つまり神のみこころを行うためには、神がお遣わしになった者を信じる者でなければならない。
一昨日、聖フィリポ、聖ヤコブ使徒の祝日でイエスが言われましたのは、「わたしを見る者は、父を見るのである。」
さらに、「父がわたしにおり、わたしが父の内におられることを、どうして信じないのか」という言葉であります。
神のみこころを行う者となるためには、信じる者でなければならない。
「信じる」という最も単純なことですが、それがかえって難しい場合もあります。
イエスの弟子たちもなかなかイエスを信じ、生きることができなかった。
過越の神秘、死から命への過越の神秘を目の当たりにし、復活したイエスに出会って
彼らは少しずつ復活したイエスキリストを認め、受け入れるようになったのでありました。
わたしたちの場合は、復活したイエスに出会った人たちがつくった教会に加わっており、
復活を信じて復活を証しした人の信仰のいわば繋がりの中に置かれています。

先日3月21日、「福音の分かち合い・本郷集会」をここで開催させていただきましたが、
昨日その時の記録を受け取り、全部目を通しました。
多くの人が自分はどのようにしてイエスキリストに出会ったのか、どのようにして信じるようになったのか、今どのように生きているのか、ということについて感動的な証言をしております。
このような分かち合いを行うことが、わたしたち自身の信仰を深めることになり、そして信仰を多くの人に伝えることになるのだとわたくしは考えております。

 

 

2019年5月 5日 (日)

わたしを愛してるか?

 

 

復活節第3主日説教

 

201955日、本郷教会

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と、ペトロとほかの弟子たちは勇敢に宣言しました。何が、彼らをこのような確信に満ちた勇敢な福音宣教者にかえたのでありましょうか。それは復活したイエスと彼らの出会いによるのであります。復活したイエスはたびたび使徒たちにお現れになりました。今日の福音の後半の部分を一緒に深く味わってみたいと思います。

復活したイエスとペトロとの出会いの場面であります。ま、この教会はペトロの教会でありますし、ま、わたくしも霊名がペトロでありまして、ペトロという人はどんな人であったのか、どのようにしてペトロはイエスに従うことができるように変えられたのかということを、今日は特にご一緒にみていきたい。

ここには非常に印象的な場面が展開しています。イエスはシモン・ペトロに三度もお尋ねになりました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

三度も同じことを問われてペトロは悲しくなりました。三度も念をおされたのは、ペトロが三度も主イエスを「知らない」と言って、イエスを拒んでしまったことにつながっていると思われます。ペトロはそのことで深い心の傷を持っていました。今の言葉でいえば、トラウマというのでしょうか。

そのペトロが心からの思いを込めて答えました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

以前のペトロのように、なんといいましょうか、傲然とした態度ではない、この「愛しているか」と尋ねたときの「愛する」ですが 福音書でよく出てくる「愛する」という言葉のギリシャ語原文は、名詞が「アガペー」という言葉でありまして、動詞の「わたしが愛する」というときはアガパオーと言います。相手が二人称ですから、「あなたが愛する」はアガパスというのであります。もうひとつ、フィローという言葉があって、これも「愛する」という言葉ですね、「わたしは愛する」はフィロー、二人称ですとフィレイスとなりますが、このアガパスと「あなたは愛するか」、フィレイス、これも「あなたは愛するか」、この「愛する」という言葉が日本語では曖昧であります。どう訳すか難しい問題でありますが、イエスが尋ねたのは、アガパスですから、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」に対して、本来ならば「わたしは愛します」ですから、アガパオーと答えるべきですが、ペトロは、フィローと答えているのです。で、二度目の時も、フィローと答えている。同じ「愛する」ですけれども、意味合いが違う。そこでイエスのほうが、たまりかねたのでしょうか、質問の仕方を変えて、同じように「愛しているか」と訳されますが、フィレイスという言葉で「あなたはわたしを愛しているか」と尋ねました。

この二人のやりとりから、わたくしは、このイエスとペトロという人の間の、温かい、人間の血の通った愛の交わりを感じます。アガペーというのは神の愛を表しておりますけれども、人間同士の友情というか、心の交わりは、ほかにも言葉があるのですけれども、ここではフィローという言葉が、名詞だとフィリアですね、が使われているのであります。

「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

事実、ペトロはイエスの言葉に従って、良い牧者の務めを果たし、後にバチカンの丘で、逆さ十字架に掛けられて殉教した、と伝えられています。旧約聖書のエゼキエル預言書を読むと悪い牧者を糾弾する言葉が出ています。「禍(わざわい)だ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。 牧者とは群れを養うべきではないか。」(エゼキエル342)良い牧者とは群れを養う牧者であり、悪しき牧者とは自分自身を養う牧者であります。いわば羊を自分の食い物にする牧者であります。

牧者は病める者を癒し慰め、迷う者を導き、弱っている者を励まし、落胆している者に希望を示すべき者です。イエス・キリストの教会の牧者のなすべきことは、まず何よりも、力を落としている人、迷っている人々を、復活の主イエス・キリストとの出会いへと導き、キリストから力と光を得るよう導き教え励ます人でなければならないと思います。

わたしたちの教会の最高指導者はペトロの後継者、ローマの司教、フランシスコ教皇様であります。フランシスコ教皇様はこの良い牧者として、世界中の人々 特に打ちひしがれている人々、人々から見捨てられているような人々、弱りはてている人々を慰め励ますことをもって自分の最も大切な務めだとされております。すべての牧者は、良い牧者キリストに倣い、フランシスコ教皇様のように生涯を主キリスト・良い牧者に献げなければならないと思います。

 

 

 

 

わたしを見た者は、父を見たのだ。

聖フィリッポ、聖ヤコブ使徒
2019年5月3日(金)、本郷教会

聖フィリポ、聖ヤコブ、二人の使徒の祝日であります。
今日のアレルヤ唱は、ヨハネによる福音の内容を簡潔に要約しています。
「わたしは道、真理、いのち。フィリポよ、わたしを見る者は父を見る。」

ナザレのイエスという人は誰であるのかということが、わたしたちの信仰の最も大切な内容になっています。ヨハネの福音全体は、そのこと、イエスとは誰であるのか、をわたしたちに告げています。
四つの福音書がありますが、第四福音書と呼ばれるヨハネの福音は四番目に成立した福音書で、おそらく紀元90年から100年頃の成立だろうと言われています。
そのヨハネが教えているイエスは誰であるかというと、「道であり、真理であり、命である。」という言葉に集約できます。特にこの「道である」ということが特色ではないでしょうか。
イエスによらなければ、イエスを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできないと言っています。
そしてさらに、ヨハネの福音は、イエスが「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と言っている、と伝えています。
天の父は目に見えない方ですが、イエスのうちに父がおられるので、イエスを見る者は父を見るのであるといわれました。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」
昨日はアタナシオという聖人を記念しました。アタナシオはニケア公会議の時にイエスの神性を強く主張し、その彼のイエス理解が公会議で取り上げられその通りに決定されたわけです。ヨハネの福音はそれに先立つこと200年以上前の成立になりますが、イエスと天の父は一体であるということを、このように宣言しているのです。
さて、イエスの弟子たちであるわたしたちは、イエスは救い主である父と一体であるということを、自分自身の生き方によって、示していかなければならないのです。わたしたちは、はなはだ不完全なものでありますが、自分の生き方と自分の言葉によって、復活したイエスの姿を現し示していかなければなりません。イエスのように、「わたしを見た者は、父を見たことになる」とは到底言えませんが、しかしせめてそのしるしでありたい。復活したイエスはわたしたちと一緒にいてくださるということをあらわし、示すわたしたちでありたいと願っています。小さな事であっても、そこに復活の光が射しているということをわたしたちは互いに信じ、そしてその信仰を伝えていきたい。わたしたちはそうできるはずだと信じて祈りましょう。何故なら「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」とイエスは言われたからです。

2019年5月 2日 (木)

独り子を信じる者は永遠の命を得る

復活節第水曜日(勤労者聖ヨセフ)ミサ説教

2019年51()、本郷教会

昨日の福音でイエスはコデモという人に言われました。

「モーセが荒れ野で蛇が上げたように、人の子もあげられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ315)

今日の福音はその続き、最初の箇所は次のようになっています。、

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

これは非常に有名な聖句です。

 ここで、イエス・キリストの十字架の出来事は、イエスキリストを信じる者が誰でも永遠の命を得るためであったという、わたしたちの信仰の根本が告げられています。

今日の福音で強調されていることは、「信じる」ということで、「信じる者は救われる、信じない者は既に裁かれている」とヨハネの福音は述べているのです。

信じるということが、救われるか救われないかの分かれ目になる、と言っているようであります。

ところで、他方、人はどうして信じないのか、信じれば救われるのに、どうして信じないのか、という疑問が生じます。

それは「信じる」ということがどういうことなのかに、それはかかっているのです。ヨハネは、このことについて、

「自分の行いが悪いことが明るみに出るので、光の方に来ない、光に照らされれば、自分の行いが悪いということが明らかになる、それは嫌なので光の方に来ない」

と言っているようであります。そうすると、信じるということは、光を受けること、光の方に来てそして光に照らされて自分の行いが悪いということを認める、ということに他ならないということになります。信じないとは認めない、自分の悪が明らかになるのでそうならないようにするためにあえて信じない、光を拒むのだ、ということになります。

わたしたちが洗礼を受けた時に、すべての罪は赦されると信じました。過去においてどんなに悪い行いがあっても、それはすべて赦され、無かったことにされるというようにわたしたちは告げられ、そう信じました。ということは、いったんは、自分の過去を見なければならないです。しかしその過去が適切でなかったとしてもすべて洗い清められ、帳消しになるということを経験するのです。洗礼をうけるということは、古い人が死んで新しい人に生まれ変わるということだと復活徹夜祭で教えられているわけですね。

そうすると、自分の中に古い人があるということを認めないといけないですね。

古い人、それはキリストに従って生きることを拒んでいる人。霊の人ではなくて、肉の人という説明もあります。信じると言うことは、御子を信じるということは、自分の中にある悪い事、別の言葉で言うと罪を認めることであり、さらに罪の赦しを信じる、ということであります。自分に罪があっても神がわたしたちを赦してくださる、あるいは罪があるからこそ、神はわたしたちを赦し、大切に思ってくださる、ということを信じることであります。

非常に心惹かれる説明の一つが、

「神は、わたしたちひとり一人を、あたかもわたしたちただ一人を愛されるように愛し給う」

というアウグスチヌスの言葉です。

神はすべての人を愛してくださるが、ひとり一人の人をほかの人がいないかのように、その人を愛されるという意味です。自分を愛する神は他の人がいないかのように自分を愛する、という意味だと思います。自分しかいない。自分が自分であるから、愛してくれる、という意味。分かるような気がする。あなたがあなたであるから大切にしてくださる、欠点や罪があってもあなたがあなたでるという理由で愛してくださる、という意味だと思います。

 

イエスを仰ぎ見る

復活節第二火曜日ミサ説教
                                                                                                                                      2019年4月30日(火)

今日のヨハネによる福音の最後の部分を一緒に味わってみたいと思います。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
この言葉は、民数記が伝えている次の出来事に由来しています。
人々はモーセに率いられてエジプトを脱出し、長い試みの期間に入っていました。だんだん人々はモーセの指導による試練の連続に堪えがたくなってきました。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。 民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。(民数記21・6-9)これは、旗竿の先に掲げられた蛇の像を人々が仰ぐと命が助けられた、という話であります。この民数記の出来事が、イエスキリストの十字架上の死による救いを信ずることと結びつけられています。
「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
「青銅の蛇を仰ぐ」ということと、「十字架の上のイエスを仰ぐ」ということが結びつけられ、イエスを信じ、信仰をもって十字架を仰ぎ見る者は永遠の命を得ることができる、というわたしたちの信仰の中心が述べられています。そして、ヨハネの福音はこの直ぐ後の、非常に有名な聖句(聖なる言葉)につながっているのです。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)
十字架上のイエスを仰ぎ見てイエスを信じる者は永遠の命に与るのである、というヨハネの福音の教えを今日はさらに深く心に刻みたいと思います。
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2019年4月29日 (月)

上から生まれるとは

 

シエナの聖カタリナおとめ教会博士記念日

2019429()

 昨日、わたしたちは復活節第二主日を祝いました。昨日の福音で、主イエスはトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。わたしたちは復活したイエスの姿を見ていませんが、わたしたちは復活したイエスキリストを信じており、イエスキリストの復活の証人として日々歩むよう、努めております。

さて、今日はニコデモという人の話であります。

ニコデモはファリサイ派という、イエスに敵対する勢力に属していたが、イエスに好意を持っていたようであります。夜、イエスのところに来て、日頃から思っている事、考えている事をイエスに話したようであります。この時イエスが言った言葉をニコデモは、理解することが難しかったのです。

「人は、新たに生まれなければ、神の国をみることはできない。」とイエスが言われました。「新たに生まれる」という言葉は、「上から生まれる」とも訳すことが出来るそうです。

この時思いますことは、復活徹夜祭の典礼であります。

復活徹夜祭の時に洗礼式が行われ、わたしたち洗礼を受けている者は、洗礼の約束の更新をします。

水と霊によって新たに生まれた者であるわたしたちは、聖霊の注ぎを受けて神の子となり、復活のイエスの命に与る者となりました。

「風は思いのままに吹く」とも今日の福音で言われましたが、風とは「pneumaプネウマ」という言葉で、「pneumaプネウマ」とは霊のことであります。わたしたちは神から霊を受けて、神の命に与る者となっています。霊から生まれた者は聖霊の実りをもたらす者となります。とはいえ、わたしたちは聖霊の実りをどのように生きているだろうかと、この機会に反省することが有益ではないだろうかと思います。パウロによれば、ガラテア書で言われていますが、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であります。

それに対して肉の業(わざ)というときの「肉」という言葉は肉体という意味ではありません。聖霊の働きに従わない乱れた自己中心の生き方を指しています。人間が自己中心に陥り、自分の様々な欲望を制御できないで自分勝手に生きている状態が、肉の業と言われていて、姦淫とか偶像崇拝とか争い妬み、などが列挙されているのであります。

 

 

 

 

2019年4月28日 (日)

見ないで信じる人は幸い!

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

2019年4月28日(日) 本郷教会

第一朗読 使徒言行録5・12-16

第二朗読 黙示録1・9-11a,12-13,

福音朗読 ヨハネ20・19-31

 

説教

「トマよ、あなたはわたしを見たので信じた。見ないで信じる人は幸い」(本日のアレルヤ唱)とイエスは言われました。

復活したイエスが弟子たちのところにあらわられたとき、トマスは居合わせなかったのであります。

それはちょうど週の始めの日の夕方、と書かれていますので、イエスが復活したその日のことであります。それから八日目に再びイエスが弟子たちのところにお現れになりました。

典礼上、今日がその八日目にあたる日であります。イエスはご自分の体を弟子たちに示して、そして自分であるということを証明なさった。この、手の傷、わき腹の傷を弟子たちに示された。

今までなにげなく読み過ごしてきましたが、復活したイエスの体というのはどういう体なのでしょうか。もうすっかり傷もなくなってきれいな体になっていたのかと思うとそうではなくて、傷跡がなまなましく残っている体でありました。人々に、ご自分の十字架上の死をいつまでも思い起こしてもらいたいという気持ちがこめられているのからでしょうか。しかし復活したイエスの体は生きていたときの体とは全く違う体となっていて、もはや苦しむことも痛みを覚えることもない、しかし人々のために苦しみ傷んで亡くなられたということを、人々に思い起こしてもらいたいという気持ちがあったのではないかと思う。

トマスは、イエスが出現したときにそこに居なかったので、信じられない、といったわけですね。

非常に実証主義的な人だったのかもしれません。

しかし、そのあと八日目に再び同じイエスが現れたたときに、無条件でイエスを礼拝し、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。そういう物語であります。

「見ないで信じる者は幸いである」とイエスは言われた。復活祭が一週間前でしたが、そのあと毎日のミサの福音の朗読で復活したイエスが弟子たちに現れた次第を読んできました。それによりますと、弟子たちは必ずしもすぐに復活したイエスを認めたわけではないようであります。なかなか認めない。最初にイエスが現れた弟子は女性のマグダラのマリアであります。 マリアのほうは、すぐにイエスであるということを知った。そして男の弟子たちに、イエスと出会った、イエスを見たということを知らせました。それからもうひとつ有名な話は、エマオに向かう弟子たち、二人の弟子たちに旅人の姿をしたイエスが現れたという話であります。そちらのほうはもっと時間が必要でありました、イエスを認めるために。長い時間一緒に歩き、イエスの言葉を聞きながら、次第に心が熱くなってそして一緒に食事をする場面で、イエスがパンを割いたときにその人がイエスであることがわかった。かなり、イエスを認めるためには時間がかかっている。マグダラのマリアのほうは、もうすぐにわかった。もちろんイエスから「マリア」と呼びかけられたときに悟った、となっています。

全体的に、復活したイエスが現れてもすぐにそれを見たひとが、イエスであると、すぐに悟ったのではないようであります。

ところで、わたしたちの場合はどうであるか。もちろんわたしたちは地上のイエスに会ったことはない、ナザレのイエス、30何年の生涯をおくられた一人の男性であったイエスと会ったり、生活をともにしたりしたことはない。どうして信じるようになったのでしょうか。考えてみるとたいへん不思議なことではあります。でも他方、もう一回考えてみると、よく知っている人間であるイエスが復活し、その後、弟子たちと一緒にいてくださる、というメッセージは、かえって信じにくいのかもしれない。わたしたちは生前のイエスとは会ったことがないのですから、復活を霊的な世界の問題として最初から受け止めております。そして、イエスを信じて生きている人々の姿をみて、わたしもそうなりたいと願い、そして聖霊の働きに心を開いて、イエスを信じ、復活しているイエスがともにいてくださるということを信じて洗礼を受けました。信仰という貴重な賜物をいただいているわたしたちはこれからもっともっと信仰を深め信仰を強くしていただけるようにお祈りすることが大切ですが、さらに大切なことは、わたしたちお互いに励まし合うということだと思います。ひとりで信仰を守り育てるということは、たいへん難しいと思います。信仰というのは共同体の信仰であります。わたしたちは信じます、そしてわたしは信じます。この「わたしたち」と「わたし」の信仰の交わりの中で、信仰というものは生まれ、育み、そして伝えられていくのであります。

今の、この日本の社会で、キリストの復活を信じていけるということはどういうことなのでしょうか。いろいろな困難が起こっている今のこの社会、世界の状況を見ながら、でも復活したイエスが生きておられる、わたしたちと一緒にいてくださる、ということを信じて、手を携えて歩んでいくということは、本当に素晴らしいこと、貴重なことだと思います。これは、何もしないでできるわけではないですね。わたしたちは、このように今日もしておりますが、集まって祈り、イエス・キリストの御体をいただくことによって、その信仰が保たれるだけでなく、強められていくのだと思います。

どうぞよろしくお願いします。

 

2019年4月27日 (土)

福音を宣べ伝えなさい

復活の土曜日ミサ説教
2019年4月27日(土)、本郷教会

今読んだマルコの福音は最後の部分で、 学者の説明によると、この部分は後から付け加えられた部分であるとされています。マルコの福音は、イエスの墓が空であったと言う記述で一旦終わっているが、のちにこのマルコ16章9節~15節が付け加えられたということが大方の意見であります。しかしこの部分が正典であるということについては、教会として疑いを持っていないのであります。
さて、今日の福音朗読を読んで感じることは、イエスの復活を信じるというはそう易しい事ではなかったということです。繰り返し「信じなかった」、「信じなかった」、そしてイエスが人々の「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と出ております。
復活したイエスに出会った人はイエスを信じましたが、復活したイエスに出会ったこと、イエスが生きておられるということをマグダラのマリアなどが他の人々に告げ知らせても、聞いた人はすぐには信じなかったようです。
復活を信じるということはどういうことでしょうか。
昨日の福音でもそのことを取り上げたのですけれども、わたしたちは復活を信じた人の証言に基づいてイエスの復活を信じているのです。トマスに「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と復活したイエスは言われたのであります。
わたしたちは復活の証人となりました。復活の証人として生きるという事はどういう事なのだろうか。今日の福音の結びは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」『福音を宣べ伝えなさい』といわれました。わたしたちにとって、またわたしたち一人一人にとって、福音とは、何であるのか、福音を宣べ伝えるというのは何をすることなのか、そのことが重大な問題、重大な課題として問われていると思います。
明日は復活節第二主日、聖ヨハネパウロ二世によって「神のいつくしみの主日」とされました。神の慈しみを深く味わいながら、神の慈しみを証することが出来ますよう、祈りたいと思います。

 

2019年4月26日 (金)

ペトロの証し

復活の金曜日ミサ説教

2019426()、本郷教会

 復活祭の後の8日間は、特別に主イエスの復活とそのご出現を記念する8日間となっています。わたしたちは毎日、弟子たちが復活したイエスに出会った次第を読んできました。復活したイエスに出会った弟子たちは、その信仰を深め、堅め、そして勇敢にイエスキリストの復活の証人となったのでありました。

今日の使徒言行録は、そのような弟子の姿、特にこのペトロの勇敢な証言を伝えています。ペトロは、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と確信に満ちて証言しています。

そうではありますが、このペトロについて、あるいは他の弟子も同様ですけれども、このような勇敢な福音宣教者になるまでに、どこでどうしていたのだろうかと、という疑問を感じます。今日のヨハネによる福音ですと、ペトロは「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言ったとあります。ですから元の漁師に戻ったのでしょうか。彼らが漁をしている時に復活したイエスが現れたが、最初彼らはその人がイエスであるとは分からなかったのでした。昨日、一昨日の福音も、エマオへの弟子にイエスが現れた次第を読みましたが、その時もその旅人がイエスであるとは、エマオの弟子たちは、最初は分からなかった。少し経って、やっとその人がイエスであるということが分かった、となっておりました。

わたしたちの教会は、復活したイエスに出会った弟子たちによって設立されたわけでして、ナザレのイエスは十字架につけられたが、復活して今も生きておられ、いつもわたしたちと共にいてくださる、という信仰の上に教会が設立され、そして今日まで発展してきたのであります。弟子たちがそのような堅い信仰を持つに至った経緯を、復活祭後の教会の典礼は語っておりますが、四つの福音書によるイエスの出現の話は、首尾一貫していないように思われます。そしてさらに、弟子達は最初からは、イエスが現れたというように受け取ったわけではない事も、明らかであります。ですから、どのようにしてペトロ達がイエスの復活を確信するようになったのか、ちょっと不思議であるという気がしないでもありません。

それはともかく、きょうの福音ではイエスが弟子たちにパンを与え、そして取った魚も同じように裂いた、となっております。この時から、弟子たちはイエスの復活を確信するようになったのでありましょう。

 

2019年4月25日 (木)

イエスの弟子たちは素直に復活を信じたわけではない?

復活の木曜日ミサ説教

今日のルカによる福音は昨日のエマオの弟子の話の続きであります。
イエスは弟子たちに言われました。
「あなたがたはこれらのことの証人となる。」
「これらのこと」とは何でありましょうか。イエスが、聖書に書いてあるとおり苦しみを受け、十字架にかかり、人々の罪の赦しと救いのために復活するということ、さらに、あらゆる国の人々に救いの福音が宣べ伝えられる、ということを指していると思います。
イエスの受難と復活はすでに旧約聖書で預言されているとイエス自身が言っています。しかしこの復活という出来事を受け入れるためには弟子たちにはなお心の準備、信仰が必要でありました。復活したイエスに出会ってもすぐにはその人がイエスであるとは気がつかなかったとエマオの弟子の話が伝えています。イエスがかなり長い時間を使ってご自身について聖書が書いていることを説明し、さらにイエスがパンを裂いてくださったときになって初めて、エマオの弟子たちは、その人がイエスだと分かったのでありました。
またこの後すぐにイエスがエルサレムでお現われになり、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」のであります。そのときに弟子たちは多いに喜んだと思われますが、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と福音書は述べています。なぜ彼らは恐れおののいたのでしょうか。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」ともルカ福音書は述べています。
弟子たちは復活したイエスに出会っても直ぐに素直にイエスを信じたわけではありませんでした。イエスが復活したということを信じるためにはイエス自身からの呼びかけ、助け、恵が必要でありました。
ところで今日の第一朗読「使徒言行録」でペトロは確信をもって宣言しています。
「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。」
使徒たちは復活の証人として人々にイエスの復活を宣べ伝え、使徒の証言を聞いた人々はイエスを信じました。わたしたちも、復活してイエスに直接お会いしたことはないが、復活を信じて生きた人々と出会ってイエスの復活を信じることができたのです。
主イエスはトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ20・29)
復活節を過ごすわたしたちが、「見ないで信じる信仰」を深め強めていただけるよう、聖霊の助け、導きを祈りましょう。

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