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2020年4月 6日 (月)

ユダの裏切り

受難の火曜日ミサ説教

20204月7日、本郷教会

 

今日は受難の火曜日です。今日の福音朗読はヨハネによる福音で、イスカリオテのユダの裏切りという劇的な場面を伝えています。

イエスは、過越祭の前に弟子たちと食事をしましたが、その時言われました。

「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

弟子たちは非常に驚きました。福音書は述べています。

「イエスの愛しておられた者」がイエスに『主よ、それはだれのことですか』と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。・・ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」

イエスからパンを受け取った時にユダは裏切りを決意したのでしょうか。「夜であった」という表現が印象的です。闇に覆われる夜は罪の支配の時を現しているかのようです。

なぜ、ユダはイエスを裏切ったのでしょうか。ユダもイエスが選んだ12使徒のひとりです。イエスは、ユダへ期待したので、彼を選んだのではなかったでしょうか。彼が裏切ることを知っていたのに、それでも彼を選んだとは考えにくい。ユダの期待にイエスが応えなかったので、彼はイエスから離れていったのだろうと思われます。ユダはイエスに何を期待していたのでしょうか。この世における成功と権威に参加できるという期待があったのでしょうか。

イエスの裏切りの動機について種々に言われています。

ユダが他の弟子たちを嫉妬していたたからとか、イエスに失望したからとか、弟子たちの中で孤立していたから、という人もいます。

他方、ペトロの方は、イエスの身の上に異変が起こることを知って訊ねました。

「『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」」

イエスのためなら命を捨てるといったペトロの心には偽りはありませんでした。しかし、彼は自分の弱さを知りませんでした。結果はイエスの予言通りとなりました。

ユダもペトロも「裏切り」は同じです。しかし、その動機と結果は違っています。

 聖週間は、イエスをめぐる人々の心の動きを追体験するときです。その気まぐれな群集心理、臆病な弟子たち、自己保身を優先する指導者たち、人々の人間の心に住んでいる残酷さ。そのような状況でイエスは最後まで、平和で和な態度を保持しました。イエスはあくまでも、今日の第一朗読、イザヤの預言の言葉「わたしの神こそ、わたしの力(495)」という父への信頼を生きていたのです。このイエスの生き方を見つめながら、わたしたちが死と復活の過ぎ越しの神秘に深く与ることができますよう、祈りましょう。

 

第一朗読  イザヤ書 49:1-6
島々よ、わたしに聞け遠い国々よ、耳を傾けよ。
主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して、わたしに言われた
あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
わたしは思った、わたしはいたずらに骨折り
うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
働きに報いてくださるのもわたしの神である。
主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形づくられた主は、こう言われる。
わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

福音朗読  ヨハネによる福音書 13:21-3336-38
(そのとき、イエスは弟子たちとともに食事の席についておられたが、)心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

 

 

ベタニアのマリアとユダ

難の月曜日ミサ説教
2019年4月15日、本郷教会
第一朗読 イザヤ42.1-7
福音朗読 ヨハネ12.1-11

 

昨日から聖なる一週間が始まり、今日は受難の月曜日であります。今日の福音、ヨハネの12章は、過ぎ越し祭の6日前にベタニアで起こった出来事を告げています。イエスは、度々、ベタニアにある、マルタ、マリア、ラザロの家に赴かれたようであります。
さて、この時、マリアは、純粋で、非常に高価なナルドの香油を、一リトラというかなりの量を持ってきてイエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭いました。家は香油の香りでいっぱいになりました。このマリアのしたことは大いに人々を驚かせました。この時の情景が目に浮かんできます。
後でイエスを裏切るイスカリオテのユダは、このマリアの行為を非難して言いました。「なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
3百デナリオンというお金は相当な金額になります。1デナリオンが1日の労働者の賃金であると言われますので、1年分の給与近い金額に相当します。このような高価な香油を使ってマリアは何のためにこのようなことをしたのでしょうか。
マリアの心とユダの心の間には大きな隔たりがあったようであります。マリアはひたすらイエスのことを思い、そして、間もなくイエスがこの世から去ることを予感し、その葬りのための用意をしたのではないかと考えられています。更に、イエスこそまことの王であり、油注がれた者、メシアであるということを、予め、前もって、人々に指し示したのではないか、とも考えられます。
それに対して、イスカリオテのユダの考えていたことは何であったのでしょうか。ユダが本当に貧しい人のことを思って言ったのではなくて、彼はイエスから会計を預かっていて「その中身をごまかしていた」と書かれています。彼はそのお金を、貧しい人のために使うことを考えたのではなく、ごまかしているお金のことを思って、そう言ったのであると福音書は告げています。
昨日から始まった聖なる一週間、イエスがどのようにして十字架上の死に赴いていったのか、イエスを取り巻く人々の心はどのように揺れ動いていったのか、そして、その一週間の中で、2千年後のわたしたちは、自分自身の心を見つめながら、主イエスの受難の意味を黙想し、そして、死から命への過ぎ越しの神秘を思いながら、大きな復活の喜びにあずかることができますよう、心静かに過ごしたいと思います。

第一朗読  イザヤ書 42:1-7
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。
島々は彼の教えを待ち望む。
主である神はこう言われる。
神は天を創造して、これを広げ
地とそこに生ずるものを繰り広げ
その上に住む人々に息を与え
そこを歩く者に霊を与えられる。
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。
見ることのできない目を開き
捕らわれ人をその枷から
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 12:1-11
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

 

 

 

2020年4月 5日 (日)

イエスの苦しみ

受難の主日A年、2020年4月5日

 

 

今年の受難の主日は公私ともに、特別な思いで迎えました。

世界中がコロナウイルスの感染の不安と恐れに覆われています。コロナウイルスは神の怒りの現れだという言う人がいます。わたしはそうは思いませんが、しかし、これは人類にとってどんな意味があるのだろうかと考えさせられます。国境を越え体制・文化・言語を超えて同じ病気の問題で人類が苦しむ。人類の間の深いつながりを感じます。

2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。そのとき日本にいた子どものエレナさんが時の教皇ベネディクト16世に質問を送ったところ、驚いたことに、教皇はその質問に答えたのでした。質問は、

「教皇様、日本に住んでいるわたしたち子どもは非常に怖い目に合っています。どうしてですか?教皇様、神様に聞いてください」

という内容でした。教皇は答えました。

「どうしてか、わたしにもわかりません。しかし信じてください。神様は皆さんの苦しみをご存じです。世界中の人々が皆さんのために祈り心配しています。どうしてか、ということがわかる時がいつか来るでしょう。」

およそそのような内容でした。

さて、ただいまわたしたちは、マタイによる主イエス・キリストの受難の朗読を聞きました。二千年前に起こった、ナザレのイエスと呼ばれる、ひとりの男の最後の場面を、教会は大切な記憶として、今日まで伝えております。

イエスが受けた苦しみは、十字架につけられるという、肉体の苦しみだけでなく、弟子たちから裏切られ、見捨てられ、人々から侮られ、蔑まれるという、精神的な苦しみでした。
更に、今日の朗読が伝えている、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」というイエスの言葉から想いますに、それは、父である神から見捨てられるという心の苦しみではなかったかと思います。

イエスが十字架につけられて、そして、息を引き取るまでの様子を、聖書は詳しく伝えていますが、先ほどの朗読によると、12時頃から、暗闇が辺りを覆い、3時まで続いたとあります。3時頃、イエスは息を引き取りました。暗闇が、世界全体を覆っている。その状況を、わたしたちは想像しています。そして、この暗闇は、イエス自身の心をも襲った暗闇ではなかったでしょうか。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。イエスの口から発せられた、この言葉は人々の心に、強く、深く、刻み込まれました。それはマタイの福音が開設しているように、「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになるのか」という意味でした。そして、この言葉は、本日の答唱詩編22の冒頭の言葉と全く同じ文言です。

イエスのこの言葉は、何を意味しているのでしょうか。
わたくしは、このイエスの叫びは、イエスの心が罪の力、闇によって覆われていたことを表していると思います。「罪」とは人が神から離れている状態です。神の光が届かない暗闇を意味します。

 イエスは、全く罪のない人でしたが、「神は、このイエスを罪とした」とパウロは言っています。パウロの言い方では、「罪とは何の関わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって、『神の義』を得ることができたのです」(コリント二5・21)となります。

「神の義」という言葉が、わたしたちには、いまひとつわかりにくいのですが、「イエスが罪とされ苦しみを受けたのは、イエスの苦しみを通してわたしたちが罪の赦しを受けるためであった」という意味であると考えられます。イエスは、わたしたち罪人のために、罪人に代わって、罪の闇を引き受けてくださったのです。

イエスの死はすべての人のための死でした。この「ために」には二つの意味があると思います。まず「原因」です。わたしたちの罪が原因で、罪のゆえに苦しみを受け、死んでいった、という意味。もう一つは、「目的」。わたしたちを罪から解放するために、私たちの救いのために、という意味です。

父である神は、このイエスの苦しみを献げものとして受け入れ、その答えとして、イエスを復活させました。そして、すべての人のために、永遠の命への道を開いてくださったのです。

本日の第二朗読は言います。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公にのべて、父である神をたたえるのです。」(フィリッピ2・10-11)

 

一人の人ナザレのイエスの死がすべての人の救いとつながっているという深い神秘を黙想いたしましょう。

2020年4月 4日 (土)

一人の死が皆の救いになる

四旬節第5土曜日ミサの聖書朗読と福音朗読

 

エゼキエル。ダヴィデの王国は南北、ユダとイスラエルに分裂、やがて両国とも滅亡する。エゼキエルの言う一人の王に治められる王国はどのように実現するのか。

ヨハネの福音。カイアファの発言。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」彼は政治的な意味でそういった。図らずもイエスはすべての人の救いのために死ぬことになる。イエスの死がどのような意味ですべての人の救いにつながるのか。キリスト教信者はその信仰をどう説明しあるいはどう実証するのか。課題です。

 

第一朗読  エゼキエル書 37:21-28
主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に別れることはない。彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」

 

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 11:45-56
(そのとき、)マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」

 

 

 

 

 

 

2020年4月 3日 (金)

復讐

四旬節第5金曜日 

エレミヤ書。エレミヤの訴え。「わたしに見させてくださいあなたが彼らに復讐されるのを。」これは気になります。この気持ち、わからないではないが。しかし自分で復讐するのではなく主に復讐を任せる。ローマ書にも同じ趣旨が出ている。復讐は神に任せない。自分で復讐しないで敵のために祈り悪に対して善をもって報いなさい。

ヨハネの福音。イエスは冒涜の罪を問われる。イエスの主張。神は自分の中にいる。神の子なら神が宿っている。人は神の子。神である「神性」が神の子には与えられている。

それではわたしたちの場合はどうだろうか。自分が神の子であるとはどういうことだろうか。死にゆく人間が神の子とは死を超えた命を前提にしないでは考えられない。

 

第一朗読  エレミヤ書 20:10-13
わたしには聞こえています多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
しかし主は、恐るべき勇士としてわたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき勝つことを得ず、成功することなく甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのないとこしえの恥辱である。万軍の主よ正義をもって、人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。わたしに見させてくださいあなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。

福音朗読  ヨハネによる福音書 10:31-42
(そのとき、)ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。

 

 

2020年4月 2日 (木)

悪魔憑き

四旬節第5木曜日

 

聖週間がまじかとなった。今日の第一朗読、アブラハムの話。

わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。」

この託宣は何を意味するのか。武力でカナンの先住民を征服せよと解釈したのだろうか。モーセの後継者ヨシュアはヨルダン川の東西の民、王たちを皆殺しにしたのであった。イスラエルのパレスチナ占領は今日まで尾を引くパレスチナ紛争の原因になっているのではないだろうか。(「ヨシュア記」参照)

今日の福音、イエスは悪魔に憑かれている、と言われている。このことは心にとどめるべき。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」この男頭がおかしい。頭がおかしいのは悪霊の所為だ、と考えたのであろう。

聖書は難しい。

第一朗読  創世記 17:3-9
(その日、神は、ひれ伏しているアブラムに)語りかけて言われた。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」神はまた、アブラハムに言われた。
「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。」

福音朗読  ヨハネによる福音書 8:51-59
(そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 

 

 

 

 

 

2020年4月 1日 (水)

イエスはだれか。

イエスは『わたしはある』

四旬節第5水曜日ミサ説教
2019年4月10日

 

次の日曜日は受難の主日(枝の主日)であります。そしてその日からの一週間が聖なる一週間(聖週間)であり、4月21日が復活祭となります。わたしたちは毎日ヨハネの福音を読みながらイエスの最後の一週間の出来事、受難に向かって歩んでいます。
イエスとユダヤ人の間には、神とはどんな方であるのか、ということについての大きな理解の違いがありました。イエスは、自分は神から遣わされた者であり、神から聞いたことを人々に伝えていると主張していますが、彼らはそれを認めることが出来なかったのでした。
昨日の福音で、イエスは、自分は「わたしある」という者だと言われました。「わたしある」は、モーセにあらわれた神が、モーセから名前を聞かれて「わたしはある」であると答えたときの「わたしはある」であります。そこで、イエスがヨハネの福音で、自分を「わたしはある」ギリシャ語で「エゴーエイミイ」としたということは、は神に等しい者であるとした、ということになります。昨日の福音で「多くの人はイエスを信じた」と在りますので、問題は解決したのかと言えば、今日の福音によると、そうではありません。「信じた」と言いますが、何をどのように信じたのか、分からなくなってきます。「信仰」と言ってもその内容、程度にはいろいろであるということになります。彼らは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言ったイエスの「自由にする」という言葉に躓いたのでした。
「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
とユダヤ人は言っています。自分たちは誰の奴隷でもない、アブラハムの子である、と彼らは主張しました。それに対してイエスは、アブラハムの子ならアブラハムのように生きている筈なのに、あなたがたはわたしを殺そうとしているではないか、と言いました。あなたがたは血筋の上ではアブラハムの系図に属しているだろうがアブラハムの信仰を生きていないではないか、とイエスは言っているのです。それどころか「あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」とイエスは言われました。さらに言われました。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」
此処でイエスが言う「父」とは誰か。ヨハネの福音のこの先を読んでみると、この父とは「悪魔」である、ということになります。
此処で話は跳びますが、今日のこのヨハネの福音はわたしたちに何を語っているのでしょうか。わたしたちはイエスを信じてイエスの弟子となりましたが、わたしたちはイエスの弟子であるという信仰をどのように、どの程度生きているでしょうか。いまわたしたちは日々の生き方を深く反省する時を迎えています。

 

2020年3月30日 (月)

わたしはある

331日 四旬節第5火曜日

モーセに現れた神は「わたしはある」という名前だ、と啓示した。「わたしはある」は単に存在するという意味ではなく、力をもっていつでもどこでも働いている神である、神の力は何時も強く働いている、ということを意味する。イエスはこの神といつも一致していることを宣言したがそれを信じない人がいた。イエスはいつも父のみ旨を行う。イエスを見た者は父を見た、と宣言する。

イスラエルの人は荒れ野で神はどこにいるのかと疑い嘆き逆らう。この民の心は現代のわれわれに通じる。神はどこにいるのか?

神の不在、神の沈黙。イエスの叫び、十字架上での「エリ、エリ、サバクタニ」もその気持ちに通じる。イエスはそれでも最後を父にゆだねて死ぬ。

 

第一朗読  民数記 21:4-9
(その日、イスラエルの民は)ホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

福音朗読  ヨハネによる福音書 8:21-30
(そのとき、イエスは、ファリサイ派の人々に言われた。)「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

 

2020年3月29日 (日)

姦通を告発された女性

四旬節第5月曜日ミサ朗読――姦通の女

 

ダニエル書補遺.ダニエルの智慧によって一人の女性、二人の醜悪な長老の仕掛けたえん罪から救われる。

ヨハネの福音の姦通の女の救い。こちらの物語も補遺という説。こちらもユダヤ人の指導者である律法学者とファリサイ人の仕掛けた罠からイエスが姦通の女を救った次第。姦通の相手の男性はどうなったのか?律法学者とファリサイ人の目的はイエスを二律背反のジレンマに追い込むことにあった。女性はそのための道具でしかなかった。何という醜悪な悪だくみだろうか。両者に共通している点は何か。長老、律法学者、ファリサイ派の人々の身勝手で醜悪な在り方。人間の罪深さ。互いに罪深い者であることを知ることが救いへの道ではないか。

 

第一朗読  ダニエル書補遺 スザンナ 1-9.15-17.19-30.33-62
(その日、集まっていた人々は、スザンナを)死罪に定めた。すると、スザンナは、大声で叫んだ。「ああ、永遠の神、隠されたことを知り、あらゆることをその起こる前から知っておられる方よ。彼らがわたしについて偽証したことをあなたはご存じです。御覧ください。この人たちが悪意をもって作り上げたことをわたしは何一つしませんでした。それなのに死なねばなりません。」主は彼女の声を聞かれた。彼女が処刑のために引かれて行くとき、神はダニエルという若者の内にある、聖なる霊を呼び覚まされた。彼は大声で、「わたしは、この婦人の血について責任はない」と叫んだ。それで、人々は皆、ダニエルの方を向いて、「あなたが言ったことは、いったい、どういうことなのか」と言った。ダニエルは人々の真ん中に立って言った。「イスラエルの子らよ、あなたがたは、それほど愚かなのですか。究明もせず、真実も知らずに、イスラエルの娘を断罪するのですか。もう一度、裁きの場に戻りなさい。なぜならこの二人は彼女について偽証したからです。」そこで、人々は皆、急いで戻った。ほかの長老たちはダニエルに言った。「こちらへ来て我々の真ん中に座りなさい。そしてわたしたちにはっきり言いなさい。神があなたに長老の特権を与えられたのだから。」

ダニエルは彼らに言った。「あの二人を遠く引き離してください。わたしが審問いたします。」それで、二人が別々に引き離されると、ダニエルはそのうちの一人を呼んで言った。「悪の日々を重ねてきた老いぼれよ、今や、あなたが過去に犯した罪の報いがやってきた。主が、『罪なき人、正しい人を殺してはならない』と言っておられるにもかかわらず、あなたは不正な裁きを行い、罪なき人を断罪し、責めある者を見逃した。あなたが彼女を見たと言うのなら言っていただきましょう。二人が一緒にいたのはどんな木の下でしたか。」それで彼は、「乳香樹の下だ」と答えた。ダニエルは言った。「まさしくあなたは致命的な偽証をしたのだ。今や、神の使いが、神の判決を受け取り、あなたを二つに裂く。」次にダニエルは彼を去らせ、他の一人を連れて来るよう命じた。ダニエルは彼に言った。「カナンの末裔よ、あなたはユダ族の子孫である資格はない。あなたは美貎に目がくらみ、欲情に心を迷わせた。あなたたちはいつもこのように、イスラエルの娘たちにしていたのだ。彼女らは恐ろしさのあまりあなたたちに身を任せた。しかし、ユダの娘の中に一人、あなたたちのよこしまなふるまいに、屈服しなかった者がいる。さて、わたしに答えていただきましょう。二人が一緒のところをあなたが捕らえたのは、どんな木の下でしたか。」彼は、「かしわの木の下だ」と答えた。ダニエルは言った。「まさしくあなたも致命的な偽証をした。神の使いが剣を持ち、あなたを真っ二つに切り裂こうと待ち構え、あなたたちを討ち滅ぼす。」すると全会衆は大声で叫び、神を、すなわち御自分に望みを置く人々を救われる神を賛美した。人々は二人の長老に対して立ち上がった。なぜなら、彼らが偽証人であったことをダニエルが彼ら自身の証言によって明らかにしたからである。人々は二人がその隣人を陥れようとしたのと同じことを彼らに対して行った。すなわちモーセの律法に従って二人を死刑に処したのである。こうしてこの日、無実の人の血が流されずにすんだ。

福音朗読  ヨハネによる福音書 8:1-11
(そのとき、)イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女

が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。生きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 

 

 

2020年3月28日 (土)

ラザロの蘇りは復活の予告

四旬節第5主日

今日の主題は霊を受け霊に従って復活の命を生き、復活の世界へ過ぎ越す。

 

エゼキエル書。バビロン捕囚の民へ預言者は告げる。主の霊を受けると民は生きるものとなる。復活の前表。

福音朗読はイエスがラザロを蘇らせた感動的な場面。イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

人々が信じるために、イエスが神から遣わされたものであることを信じるためにイエスは父に祈ってラザロの命を地上に引き戻す。

ローマ書。キリスト者とは結局このパウロのことばを信じ生きるもの。イエスを死者の中から復活させた霊=聖霊を受けて聖霊に従っていき、聖霊によって復活の世界へ導かれるのである。

 

第一朗読  エゼキエル書 37:12-14
主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:8-11
(皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

福音朗読  ヨハネによる福音書 11:1-45
《ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。》
(ラザロの)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
《弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。》
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。《ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。》
マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
《マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、》
(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 

2020年3月26日 (木)

四旬節第4木曜日

答唱詩編 詩編130

「神よ、深いふちからあなたに叫び、嘆き祈るわたしの声を聞いてください。」

どのような状況で、どのような思いで、神への思いを注ぎ出しているのだろうか。

 

ヨハネの福音「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセはわたしについて書いているからである。」

モーセの言葉はイエスのことを述べているということは彼らには到底信じられないことだった。モーセの律法とイエスの福音の重なりをどう説明するか。

 

出エジプト記。モーセのとりなしを聞いて神はイスラエルの民に下さす災いを思いなおしたとある。

 

2020年3月25日 (水)

心を献げる

325日は「神のお告げ」の祭日

 

主の降誕は1225日、その9か月前にあたる。

お告げの内容の王を主にみるか、おとめマリアの信仰を主にみるか。

ルカの福音は非常に簡潔で一体どこでないが起こったのか、は分からない。

マリアが後年誰かに話しことが伝承として伝わったのだろうか。神お告げとはいえ理解しがたい困難、考えれば無体な話、それをただFIAT(なれかし)と言って引き受けたおとめマリ許嫁ヨセフはこの出来事を受けいれた。

第二朗読ヘブライ書。「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった。」神は動物などのいけにえではなく捧げる人の「心」を求める。人は純粋な無私の心を持てるだろうか。混じりけのない、エゴイズから完全に解放されている心を持てるか。正直に言えた、はなはだ難しい。

 

第一朗読  イザヤ書 7:10-148:10
(その日、)主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。
「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。
神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。」

第二朗読  ヘブライ人への手紙 10:4-10
(皆さん、)雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができ(ません。)それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や、罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。
『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」
ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

福音朗読  ルカによる福音書 1:26-38
(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

2020年3月24日 (火)

コロナウイルス騒ぎのなかで

四旬節第4火曜日

 

イエスは安息日に、38年間病気で苦しんでいた人を癒した。それは安息日の掟を破ることであるとユダヤ人たちは考えた。

イエスとユダヤ人、律法学者、ファリサイ人との対立は、イエスが安息日の掟を侵したことによって始まったと思われる。

ユダヤ人にとって安息日の遵守は非常に重要だった。しかるにイエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」「人の子は安息日の主でもある。」と宣言している。

さて、いま新型のコロナウイルス感染で世界中が大騒ぎ。この時を使って。安息日の意味を考えてみるのもよいと思う。

安息日に医療行為を行っていけないわけではない。他方、ミサも行われない特別な時、神の存在、神の創造のみわざ、イエスの復活、聖霊の働きなどを黙想しましょう。

 

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 5:1-3a、5-16
(ユダヤ人の祭りの日に、)イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

2020年3月23日 (月)

新しい天と新しい地

四旬節第4月曜日のミサ朗読・福音より

 

コロナウイルス感染拡大に怯える世界に向かって今日の福音朗読とイザヤ書65勝はまさに希望の便りであろう。

 

カファルナウムの役人の息子が瀕死の重態であったがイエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と言われたときにその息子は回復した。この癒しはイエスが行った二回目のしるしであった。しるしとは何のしるし。「神の国の到来」のしるし、と言われています。「神の国」とは・・・別項にしましょう。
さてイザヤ書の65章。すばらしい希望の預言。神は「新しい天と新しい地」を創造する、と言う。喜びと楽しみの世界。どんなことが過去にあってももう問題ではない。百歳であっても若者とされる。・・・悲惨な体験、紀元6世紀のバビロン捕囚からの帰還の時に神から受けた預言であると解説されている。
ところで創世記では「神がお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1・31-32)とあったではないか。極めて良かったものが堕落して今の世界、悲惨・悲劇が絶えない世界になったのか。
そもそも神にとって時間は「永遠の今」ではないか。全知・全能の神は堕落する世界を知っていたはずでは。極めて良かった世界はこのイザヤの「新しい天と新しい地」のことだろうか。ヨハネの黙示では「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」(黙示21・1)とあるではないか。創世記の初めから神はヨハネの黙示の「新しい天と新しい地」を見ていたのだろうか。
神の創造と神の時間、という神秘。

 

第一朗読 イザヤ書 65:17-21
(主は言われる。)見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとしわたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる。彼らは家を建てて住みぶどうを植えてその実を食べる。
福音朗読  ヨハネによる福音書 4:43-54
(そのとき、イエスはサマリア)を出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

 

2020年3月22日 (日)

コロナウイルスと今日の福音

四旬節第4主日を迎えて

今日の第2朗読に「光の子として歩みなさい」という言葉があります。洗礼を受けた者は神の子となるということであり、光を受けて、光を灯す者となります。光の子とは、イエス・キリストの光を受けて、その光を人々にあらわし、伝える者となるということです。

今、読まれたヨハネの福音。かなり長い福音でありました。生まれつき、目の見えない人がいた。どうして生まれつき目が見えないということがあるのだろうかという疑問があります。今も、時として、私たちは「どうして障害ということがあるのだろうか」という疑問を感じることがあります。

イエスの答えはどうであったか。なぜですか。なぜ、どうして生まれた時から目が見えないのでしょうか。それは、その人が罪を犯したからではない。本人ではないとすると、その人の親の罪のためですか。先祖の罪のためですか。
いまわたしたちはコロナウイルスで苦しんでいる。この病原菌はどこから来たのか。神の創造した世界にどうしてこのような病気を引き起こす原因があるのか。誰しも思うかもしれない。答えは難しい。
イエスの答えは、どちらでもありません。神のわざがこの人に現れるためである。神の技があらわれるというのは、どういうことでしょうか。イエスとこの盲人との出会いとやり取りの中で、まずイエスによって、この人は目が見えるようにしてもらえた。それが神の技があらわれたということだと思います。そしてさらに、イエスとこの盲人との対話の中で、次第に、この人の心の目が開かれていった。

 

わたしたちのこの肉体の目、これが見えないというのは大変なことですけれども、そればかりではなくて、心の目というものがあります。ところが、心の目が曇っていると見えるべきものが見えません。わかるべきことがわからない。そのつもりでないと、見ていても、本当のことがわからない。そういうことがありますね。心の目、あるいは霊的な目と申しましょうか。この盲人は、イエスとの出会いの中で、イエスという人に対する信仰の目が開かれました。この盲人はイエスに出会い、そしてイエスからの光をうけて、イエス・キリストを主と信じ、告白するようになりました。

ところがユダヤ人たち、ファリサイ派の人と言われている人たちは、頭から、この盲人は罪人である。なぜなら、生まれつき目が悪いということは罪の結果だ、とそう思っていたので、イエスのことをちゃんと目を開いて、イエスが誰であるかということを見ようとしない。彼らは、「自分はわかっている。神様の教えがわかっている。わかっている者であり、教える者である」と思っていますので、人から学ぶというつもりが全くない。人から学ぶということは非常に大切ですね。そして、復活なさったイエス・キリストがいろいろな人を通して、私たちに光を放ってくださっている。私たちにいろんな教えを伝えてくださるということを私たちは、この機会にもっと深く思うべきかもしれません。

今日の福音の終わりのところでイエスは言われた。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
ファリサイ派の人が「わたしは見ている。わたしはわかっている。だから教えます」と言っているところが問題だとイエスは言いました。わたしたちの教会というのはお互いに助け合い、教えあい、聞きあう、そういう神の民であると思います。すべての人に神が語り掛けている。聖霊が働いていると思います。

 

 

2020年3月21日 (土)

嘆く神

四旬節第三土曜日ミサ朗読より

 

「エフライムよわたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。」

この嘆き節はホセアの別の箇所を思い出させる。

「ああ、エフライムよ、

 お前を見捨てることができようか。

 イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。

 わたしは激しく心動かされ

 憐れみに胸を焼かれる。

 わたしは、もはや怒りに燃えることなく

 エフライムを再び滅ぼすことはしない。

 わたしは神であり、人間ではない。

 お前たちのうちにあって聖なる者

 怒りをもってのぞみはしない。

(ホセア11・8-9)

 ここにあらわれる神は非常に人間的であり、心の揺れ動く神である。全能、全知の神というイメージからはかなり遠い。聖書の神をギリシャの哲学で説明すると観念的になってしまう。

 

第一朗読  ホセア書 6:1-6
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」
エフライムよわたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを預言者たちによって切り倒しわたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。

福音朗読  ルカによる福音書 18:9-14
(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

信仰

聖ヨセフの祭日ミサ説教

 

2020320()、本郷教会

319日は聖ヨセフの祭日であります。

是非ともヨセフのミサを献げたいと望んできました。

今読んだ福音を少し黙想してみたい。

ヨセフはいいなずけであるマリアが妊娠したことを知って、たいへん悩み苦しんだに違いありません。

「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」

これはどうすることなのかよく分かりませんが、そうこうしているうちに夢の中で天使がヨセフに告げた。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

夢の中で神のお告げがあるという話は聖書の中で何度も出てきます。

旧約聖書の中でもあります。

その夢のお告げが神からのものであるかどうかを人はどうして確かめることが出来るでしょうか。

ヨセフは単純に信じ、実行したのであります。

ほかの場面でも同じようなことがありました。

エジプトに避難した時も、夢の中で主の天使のお告げに従って、すぐに起きて取るものもとりあえず妻と子供を連れてエジプトへ避難しているわけであります。

今の時代、夢によって夢を通して本当の声が聞こえるということを、どれだけの人が信じているだろうか。

ヨセフは信じた。

ちなみにヨセフという人の生涯は、地味な隠れた生涯でありました。

エジプトから帰国してナザレに居を定め、マリアとイエスを保護し、そして養育したのであります。

そしていつの間にかその姿が消えている。

今日の福音のもう一つの(選択)箇所は、十二歳の少年イエスが迷子になった時の話ですが、この時もマリアの言葉は伝えられているが、ヨセフの発言は何も出て来ない。

聖書全体を通して、ヨセフの発言というものは一言も出てこないのであります。

実に寡黙な人であった。

そして黙々と自分の為すべきことをし、聖書の救いの歴史から姿を消していったのでありました。

ヨセフを貫いていた、)彼を支えていた思いは、神への信仰であったと思います。

第二朗読でもアブラハムの信仰についてパウロは述べています。

信じ難い時に信じた。

「あなたの子孫を天の星のように増やそう」という神の言葉がありながら、「独り子イサクを献げ物としてささげなさい」という神の言葉があった。

同じ神からの相反する矛盾する二つの言葉の間で、彼は苦しんだに違いない。

どうして独り子を献げてしまって、その子孫が天の星のようになることが出来るのでしょうか。

非常に不可解な話であります。

それでもアブラハムは神にはできないことがないと信じました。

「主は備えてくださる(ヤーウェ・イルエ)」という言葉があります。

イサクの信仰も称賛されるという人もいるわけです。

イサクは「お父さん、いけにえを献げるための薪はここにありますが、いけにえはどこにいるのですか」と自分がいえにえにされるとは思っていたのかいなかったのか分かりませんが、その時のアブラハムの答えは「主は備えてくださる」でありました。

さて、今世界中でコロナウイルスの感染が広がっており、収束の目途がなかなか見えない。

神の造ったこの世界にどうしてそういうことがあるのだろうか。

病気一般の起源は医学者が研究しているのでしょうが、しかし神が造ったこの世界にどうしてそのようなことが有り得るのかということは、考えてみれば難しい問題であります。

しかしながら、火事が起こった時に手をこまねいて、この火事はどうして起こったのだろうかと会議を開いていても埒が明かないので、とにかく火を消すことが大事である。

消してしまった後、現場検証などをして、どうしてこの火事が起こったのかと調べて二度と起こらないようにするわけであります。

人類の歴史は何度もそういう災害に対して対応を考えてきた歴史でありますが、災害はなくならないどころか、むしろ増えているのかもしれない。

人間が起こす災害もさることながら、自然災害というものはどうして起こるのだろうか。

人間に原因がないとも言えない。

環境破壊、地球温暖化が原因になっているという考えもありますが、それだけでは説明がつかないいろいろなことがあるのではないだろうか。

こういう状況で、ヨセフのようにアブラハムのように神を信じるということは、そう易しいことではないと思うのであります。

信仰の恵みを祈りましょう・

 

第一朗読  サムエル記 下 7:4-5a12-14a16
その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次のとおりであった。「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。

あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、
あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」

第二朗読  ローマの信徒への手紙 4:1316-1822
(皆さん、)神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。

福音朗読  マタイによる福音書 1:1618-2124a
ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり(にした。)

 

 

 

3/15主日説教

四旬節第3主日 A

    3月15日

    本郷教会

 

第一朗読:出エジプト記 出エジプト17・3−7

第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙

福音朗読:ヨハネによる福音 ヨハネ4・5−15、19b–26、39a、40–42

 

説教

 

今年の四旬節第3主日は、世界的にコロナウィルスの感染が心配されている中で、ミサは原則として献げないようにということになっております。そういう状況の中で、今日聴いた聖書の言葉、福音の言葉はわたしたちにどのような意味をもたらしてくれるでしょうか。

 

わたくしは第一朗読に、特に身につまされるような響きを受け取っています。イスラエルの人々はモーセに率いられて、エジプトを脱出し、荒れ野に到り、シナイ山から神の掟、十戒を授かりました。喜び勇んで出発したけれども途中で困難を感じている。食べるものにも事欠く、喉が渇く。次第に彼らの心の中に疑いの心が生まれ、そして強くなっていったのだと思われます。彼らはモーセに向かって不平を言った。

「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも殺すためか。」モーセは非常に悩みます。そして神に訴えると、ホレブの岩から水を湧き出させることができました。モーセがホレブで岩を打つとそこから水が出て民が飲むことができるようになりました。その場所をマサとメリバと名付けた。マサとは「試し」という意味であり、メリバとは「争い」であります。

イスラエルの人々は、「果たして主はわたしたちの間におられるのかどうか」と言ってモーセと争い、主を試したからである、とあります。「主は我々の間におられるのか」というこの言葉の中にイスラエルの人々の神への信頼が揺らいでいることが表されている。

 

福音は有名な、サマリアの女がイエスから信仰をいただいたという話であります。ご承知のようにイエスとサマリアの女の間には大きな隔たり、というか障壁がありました。ユダヤ人とサマリア人の関係、それからさらに当時の世界で一般的であった、男性と女性という関係の中に大きな障害があったのであります。今日の話はその二つの障壁を乗り越えて、というか壊して、まことの神への礼拝に至ったという話であります。

サマリアの女は言った。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」この「サマリア人」「女」というこの言葉の中に二つの隔たりが示されている。しかしイエスはこの障害を乗り越えて、この女性をまことの神への信仰に導かれました。この二人の対話を振り返ると、女性のほうは、最初はまじめに受け取っていないようで、からかい気味のふざけたような言葉と感じられるような彼女の応答でありますが、次第に引き込まれて、そして、イエスを預言者、そしてメシアと信じるようになった次第が語られます。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」とイエスは言われました。第一朗読の岩から出てきた水、そしてこのサマリアの女に言われた、イエスが与える水に共通点があると思われる。イエスが与える水、それは永遠のいのちへと導く水であり、そしておそらく、第2朗読でいわれている、信じる者に注がれる神の愛、聖霊のことを言っていると思われます。

パウロは言っております。

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 

ここで今、わたしたちは自分自身のことを思わなければならない。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの人々、それから、イエスに出会ったサマリアの女性、その過去の出来事を振り返りながら、今、わたしたちはあらためてわたしたちの信仰を確かめる時が来ている、と。特別な時を迎えていると考えます。なにしろ、迫害のためにミサを献げられないということはあったが、教会が自分達の判断でミサを献げないことを原則とされた日はほんとうに珍しいことであります。そして多くの人が、いろいろなことで悩み苦しみ、或いは、迷っている。そういう中で、神の愛、聖霊がわたしたちに注がれている。このパウロの言葉をもう一度受け止め直し、神の愛、聖霊に導かれて歩むことができますよう、ご一緒に祈りを献げたいと思います。

2020年3月20日 (金)

なぜ悪があるのか。

四旬節金曜日ミサ福音と今日思うこと

 

「主である神を愛しなさい。」

神議論という議論があります。「神があるなら、なぜ悪があるのか」という疑問に説得力のある説明をすることです。なかなか難しい議論です。

神が在り、神が全能であり,全知、全善であるならどうして多くの人を不安に陥れているコロナウイルスが存在するのか、という疑問にどうこたえるか、です。

いやそんな議論をするより感染予防に努力するべき、が正解ですが、この疑問はそのまま残ります。

「神を愛する」前に「神を信じる」がなければならないでしょう。

 

福音朗読  マルコによる福音書 12:28b-34
(そのとき、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。)「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

 

 

 

 

 

2020年3月18日 (水)

ヨセフの信仰

319日は聖ヨセフの祭日。

 

ヨセフは寡黙な信仰者。福音書にはヨセフの言葉は一言も記されていない。ヨセフは夢になかで天使から受けた知らせを信じて実行した。またイエスの誕生後も夢の中のお告げを信じて即エジプトへ避難した。マリアとイエスはヨセフの保護のもとに無事で平穏は日々を過ごせた。ヨセフは教会の保護者とされる。

今の教会の危機に際してヨセフの保護が切に求められる。

 

第一朗読  サムエル記 下 7:4-5a12-14a16
その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次のとおりであった。「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。
あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、
あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」

 

第二朗読  ローマの信徒への手紙 4:1316-1822
(皆さん、)神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。

 

福音朗読  マタイによる福音書 1:1618-2124a
ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり(にした。)

 

 

 

 

 

 

今日の祈り

主よ知恵と勇気を与えたまえ!

2020年3月17日 (火)

天地創造の前から愛されていた

日本の信徒再発見の聖母、2020年3月17日の第一朗読より

 

神は天地が創造される前にわたしたちを愛した。存在しないものは愛せない。神の前に人はすでに存在していたことになる。神はわたしたちを選ばれた。聖なるもの、汚れのないものにするために。神の子にするために。神はわたしたちを「約束されたものの相続者」とされた。これはどういう意味か。
「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」キリストのもとに一つにまとめられるとはどういうことか。今はまだまとめられていない状態にあるがその時には一切がまとめられる。キリストの支配が完成するということだろう。

 

エフェソ書

01:01神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。 01:02わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 01:03わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。 01:04天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 01:05イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。 01:06神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。 01:07わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 01:08神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 01:09秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。 01:10こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。 01:11キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 01:12それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

 

2020年3月16日 (月)

預言者は故郷では入れられない

四旬節第三月曜日ミサの朗読より

「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。・・・」

そしてイエスは、エリヤとサレプタのやもめの受けた恵み、またアラム人の司令官ナアマンが重い皮膚病をいやされたという故事に言及する。

イエスは何を言おうとしたのか。子どものころから良く知っているイエスを神からの人と認めることはナザレに人々には難しかった。人々は平凡な日常の中に神の働きを認めることに目を開かない。今のわたしもそうではないか。

神が今此処にいてくださると真摯に受け止めているだろうか。

 

第一朗読  列王記 下 5:1-15a
(そのころ、)アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。
「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」

福音朗読  ルカによる福音書 4:24-30
(そのとき、イエスは、ナザレの会堂で人々に言われた。)「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 

2020年3月15日 (日)

サマリアの女性イエスと出会う

四旬節第三主日の朗読より

イエス、サマリアの女性を信じる。サマリアの女性、イエスを信じる。

第一朗読  出エジプト記 17:3-7

彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

モーセが率いるイスラエルの一行はすぐに音を上げた。主は一緒にいてくださるのか、疑わしい。モーセに向かって反抗し主の導きに疑問を持った。他人ごとではない。わたしたちは大丈夫か?困難に出会うと神の存在と主の導きを疑う。

(その日、)民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

 

第二朗読  ローマの信徒への手紙 5:1-25-8
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている

神の霊がわたしたちの心に注がれていることを知らないのか!神の導きに信頼せよ。

(皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 4:5-1519b-2639a40-42
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

サマリアの女とイエスの出会い。女性の態度の変化に注目。真昼間(まっぴるま)に水くみに来た女性。六人目の男と同棲している女性。イエスをからかうような言い方。

「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

しかしだんだん話が噛み合ってくる。イエスは正面から一人の女性の人生に向き合う。説教するわけではなく非難するわけでもない。霊と真理による礼拝を説く。女性はイエスを信じる。

Personal encounter によるイエスの福音宣教の模範例。

(そのとき、イエスは、)ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

2020年3月14日 (土)

父の家はどこにあるのか

四旬節第2土曜日、2020314日のミサ朗読より

 

おなじみの「放蕩息子」の話。仏教の「法華経」によく似た寓話「長者窮子の譬え」が述べられている。比較すると非常に興味深い考察ができる。

それはさておきルカ15章を読もう。

この譬えは何をわれらに語っているか。慈悲深い天の父の慈悲を語る。

弟は父の家を出てどこか遠くに居場所を求めた。そこに自分の幸せがあると思ったのだろうか。しかしどこにも見つからない。自分のいるべきところは父の家であると悟る。

今のわれらにとって父の家とは何か、どこで有るのか。

2020314日、コロナウイルスの感染の危険でミサもささげられないような状況。病気,障がい、飢餓、環境破壊、自然災害、国際紛争、宗教間対立、

種々の暴力と虐待、人権侵害と無関心などの蔓延しているこの世界。主よ、あなたはどこにおられるのか。父の家とはどこにあるのか。神の国とはどこに。

あそこにある、ここにあるというものではなくあなた方のただなかにあるとイエスは言う。あなたと隣人との交わりの中に?そうでなければどこにあるのか。

何より自分の心の中になければならない。

 

第一朗読  ミカ書 7:14-1518-20
(主よ、)あなたの杖をもって御自分の民を牧してください、あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森にただひとり守られて住み 遠い昔のように、バシャンとギレアドで草をはむことができるように。お前がエジプトの地を出たときのように、彼らに驚くべき業をわたしは示す。
あなたのような神がほかにあろうか咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ我らの咎を抑えすべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことをアブラハムに慈しみを示してください その昔、我らの父祖にお誓いになったように。

福音朗読  ルカによる福音書 15:1-311-32
(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

 

 

 

 

 

2020年3月13日 (金)

酸っぱいぶどう酒

四旬節第2金曜日、3月13日、聖職者の「性虐待被害者のための祈りと償いの日」

 

イザヤ書5章に「ぶどう畑の歌」が出ている。

 

5:1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。
5:2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
5:3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
5:4 わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
5:7 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)

 

今日の福音はこのイザヤ書を想起させる。
おりしも今日は
2020年「制虐待被害者のための祈りと償いの日」
となっている。性虐待という「酸っぱいぶどう酒」が実ったのであった。
どうしてそうなってしまったのか。人の性はそこまで悪に染まっているのか。

第一朗読  創世記 37:3-4、12-13a、17b-28
イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。
兄たちが出かけて行き、シケムで父の羊の群れを飼っていたとき、イスラエルはヨセフに言った。「兄さんたちはシケムで羊を飼っているはずだ。お前を彼らのところへやりたいのだが。」
ヨセフは兄たちの後を追って行き、ドタンで一行を見つけた。兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。「命まで取るのはよそう。」ルベンは続けて言った。「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。
彼らはそれから、腰を下ろして食事を始めたが、ふと目を上げると、イシュマエル人の隊商がギレアドの方からやって来るのが見えた。らくだに樹脂、乳香、没薬を積んで、エジプトに下って行こうとしているところであった。ユダは兄弟たちに言った。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」兄弟たちは、これを聞き入れた。
ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。

福音朗読  マタイによる福音書 21:33-43、45-46
(そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。)「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

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2020年3月12日 (木)

貧しいラザロと能天気な金持ち


四旬節第二木曜日ミサの福音から

今日の福音は有名な「貧しいラザロと能天気な金持ち」の話。
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』

...

この話、死者の中から復活したイエスが語ったのではないか。
一体何を告げているのか。金持ちは何も悪いことはしていない。日々呑気に楽しく遊び暮らしている。彼は自分から人を傷つけることはしなかったかもしれないが,すぐそばにいる人の苦しみには無頓着だった。多少とも誰にも心当たりのある話。

この金持ちはお前だ、と言われると、いや違うよ、と言いたくなる。しかしどうしても口ごもる部分が出てくる。面白おかしく遊び暮らしてはいない。しかし人のことをかまってはいられない、という気持ちがあることを否めない。人はどれだけ人に苦しみに共感できるか。ともかく関心を持たなければその人の苦しみへの共感はもち得ない。そういわれると、いや、関心が皆無ではない、という答えになるかも。どうもどっちつかずの煮え切らない生き方ではないか。
四旬節。人と人とのつながりにもっと目を向けるとき。一人の人とつながればすべての人とつながることになるのでは。ナザレのイエスの生き方。目の前の人との真摯なつながりがすべての人へと及ぶと信じる。悲惨の現実のなかで現在を生きるわれらの、過去と未来の人々とのつながりの神秘を思うとき。

2020年3月11日 (水)

身代金

四旬節第2水曜日、2020年3月11日のミサ福音朗読より

東日本大震災発生9周年。復興が「進んでいない」と考える人が約7割に上るとのこと。(時事通信の「東日本大震災」に関する世論調査)。

物事には原因があって結果がある、と考えられる。大震災の原因は科学的に究明されているのだろうか。 神の創ったこの世界になぜこのような自然災害が起こるのか。神が創った世界は「極めて良かった」(創世記131)はずである。

さてイエスは弟子たちに受難の予告をする。しかし弟子たちはイエスの言葉を理解しない。それどころか政権獲得後の自分たちの権益をめぐる思いを露骨に持ち出して仲間争いをしている。イエスの思いと弟子たちの思いの間には大きな隔たりがある。わたしたちにはむしろ弟子たちの思いのほうがわかりやすいのではなかろうか。

イエスは自分の十字架の死を「多くの人の身代金として自分の命を献げる」こととしている。これはどういう意味だろうか。イエスの死とわたしたち人類の救いとの間にはどのような関係があるのか。通常の「因果応報」の原理を適応できるのだろうか。ここに深い神秘が存在する。多くの人々の考察が残されている。

 

福音朗読  マタイによる福音書 20:17-28
イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 

 

 

2020年3月10日 (火)

父と呼ばれてはならない

四旬節第二火曜日の福音朗読から

 

コロナウイルス感染の恐怖の蔓延の中今日もわたしたちはイエスの「過激な」発言を聞く。あなた方は「先生」と呼ばれてはならない。地上の者を「父」と呼んではならない。

この教えをどう受け取ったらよいだろうか。かつてこの箇所につき仲間の司祭と議論をしたが結論に至らなかった。カトリック教会は位階制の教団、聖職者の敬称が定着している。いや教会に限らずどんな団体にも敬称は存在する。社会生活上不可欠な習慣であろう。プロテスタント教会では牧師の敬称はどうなっているのだろうか。カトリックでは,英語で言えば、The Reverend Father, Excellency, Grace, Eminence, Holinessなどの敬称が使われている。そうしないと社会生活上円滑を欠く。本人たちもそう呼ばれないと違和感、あるいは不快感を持つことがある。地上の父は天上の父の不完全な代理、地上の先生は本当の先生であるキリストの影のような写しである、という自覚をいつも持っていることが必要だ。そういえば、教皇は『僕たちの僕」という美しい名称をもっている。

 

福音朗読  マタイによる福音書 23:1-12
(そのとき、)イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

 

 

2020年3月 9日 (月)

人を裁くな

四旬節第2月曜日ミサ朗読より

 

「七度探して人を疑え」という諺があるが疑う心は人間につきもの。シェイクスピアの悲劇「オセロ」は人間の疑心を主題にした傑作である。

疑われるとは自分の人格の否定につながるからその打撃は大きい。しかし、自分の弱さ,脆さを思うとき疑われることもやむを得ないとも思う。他方人を疑いたくはないか、これだけ詐欺やペテンが横行する社会、「振り込め詐欺」が一般化している世の中、「人を見たら泥棒と思う」方が無難であろう。

しかし信頼しあう人間の交わりは本当に美しい。「管鮑の交わり」という模範がある。

思いは揺れ動く。

とはいえ、信仰の目で見れば、人は神の似姿、復活したイエスの兄弟、そこの神の美しさと栄光の輝きが宿っている。

今日の福音は「人を疑ってはならない」と言っているわけではなく「人を罪人だと決め受けるな」と言っている。人はみな罪人である.罪人には罪人を裁く権利はない。罪人同士が互いに裁き合うべきではない。裁きは神のものである。人は弱さと無明の中にある。互いに受け入れ赦し合わなければならない。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」が日々の心からの祈りでなければならない。

 

第一朗読  ダニエル書 9:4-10
主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。あなたの僕である預言者たちが、御名によってわたしたちの王、指導者、父祖、そして地の民のすべてに語ったのに、それに聞き従いませんでした。主よ、あなたは正しくいます。わたしたちユダの者、エルサレムの住民、すなわち、あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべてが、今日のように恥を被っているのは当然なのです。主よ、恥を被るのはわたしたちであり、その王、指導者、父祖なのです。あなたに対して罪を犯したのですから。憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。あなたの僕である預言者たちを通して与えられた、律法に従って歩むようにという主なる神の声に聞き従いませんでした。

福音朗読  ルカによる福音書 6:36-38
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

 

 

 

 

 

2020年3月 8日 (日)

キリストに聞く

四旬節第2主日A年、202038日のミサの福音と聖書朗読より

           本郷教会

 

コロナウイルス禍のため本日小教区公開ミサ中止という状況の中、本日の朗読を読んで何を思うか、次に述べる。

『主の御変容』。レオ教皇は言う。来るべき受難・十字架の出来事に遭遇する弟子たちの信仰の動揺に備えるために主イエスが配慮した出来事。イエスは旧約の完成であることをあらかじめ教えるため。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。

一か所選ぶとすればこの箇所。現在のわたしたちはどのようにしてイエスに聞くことが出来るか。今は復活―聖霊降臨後の教会の時代。聞くとしたら聖霊の声に聞くということになる。聖霊はどのように語るか。聖霊を聞く心の準備があるだろうか。心の清い人は幸い。わたしたちの心は執着・私心・エゴを去った醇な心になっているだろうか。聖書を分かち合うことが最善の方法だろうと思われる。聖書を通して聖霊はすべての人に語る。人の話を聞くことは聖霊に聞くことに通じる。

教会に聞くことに聖霊に聞くことになる。しかし、「教会子ら」が間違えないわけではない。聖ヨハネ・パウロ二世は《紀元二千年の到来》で第三の千年紀を迎えるに際し反省を促した。それは主として、キリスト者の分裂と抗争、他宗派・他宗教への不寛容と暴力、全体主義政権による人権侵害黙認という過ちであったと思われる。

今・キリストに聞く。キリストは何を語るのか。わたしは世の終わりまであなたがたと共にいると主キリストは言われた。

 

第一朗読  創世記 12:1-4a
(その日、)主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

第二朗読  テモテへの手紙 二 1:8b-10
(愛する者よ、)神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。

福音朗読  マタイによる福音書 17:1-9
(そのとき、)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 

2020年3月 6日 (金)

不寛容の過ち

四旬節第一土曜日、2020年の福音から3月7日の福音朗読から

 「敵を愛しなさい。」

聖ヨハネ・パウロ二世の「紀元二千年の到来」(使徒的書簡)の次のくだりを想起せざるを得ない。

「―――痛ましい歴史上の一章は、何世紀にもわたって、真理への奉仕に際しての不寛容、さらに暴力の行使を黙認したことです。」(35番)

異端審問、ユダヤ人迫害、十字軍などを指しているのだろうか?

「真理は、優しく、そして強く心にしみ込む真理そのものの力によらなければ義務を負わせない」(同35で引用の『信教の自由に関する教令』の教え)

 

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:43-48
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

腹を立てるな、と言われても

202036日、四旬節第1金曜日ミサの福音朗読より

 人を殺してはならない、という掟は普遍的、誰も反対しなし。殺人罪は刑法で罰せられる。しかし、「兄弟に腹を立て」だけで誰でも裁きを受けるというなら、合格する人はいないだろう。腹を立てる人を処罰していては社会の日常生活が成り立たない。自分に反感を持っている人がいるなら何をさておきその人と仲直りしなさいと言われても、実行は困難。

誰がこれらのイエスの要求に合格できようか。人は素直に、謙虚に、この福音の要求に応えていないことを認めなければならない。

福音の要求は実に高く厳しい。律法学者やファリサイ派の人々の義にまさるとはこの福音の要求に合格することだろうか。文脈ではそうなる。

他方、イエスの福音は「ゆるしの福音」ではなかったか?そこに救いを見出す。

互いに赦しを受けるべき者であることを認めるようにとのメッセージではないか。だからと言ってこのイエスの福音の要求を無視してよいとは言えない。日々高くそびえる峰のようなものだろう。

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:20-26

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 

2020年3月 5日 (木)

求めなさい,。そうすれば、与えられる。

四旬節第一木曜日の福音朗読から

 

「求めなさい、そうすれば与えられる」というが本当だろうかという疑問。

ヤコブの手紙によれば、間違った動機による祈りは聞き遂げられない。

動機が間違っているかどうかどうしてわかる?イエスは、わたしの名によって願うならば父は聞いてくださると言っている。「わたしの名によって」とはどういうことか?イエスが願う願いに相応しい願いでなければなるまい。

また次の問題。人は願い続けることが出来るだろうか?祈りの堅忍という問題。何時までも何時までも願い続けることができるか?

同じ内容をルカの福音が伝えている。ルカは付け加えている。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

はたしてわたしたちは辛抱強く何時までも聖霊を願い求めているだろうか?

聖霊を求めるためには、聖霊についてせめて何かを知っていなければならない。何も知らないものを求めることが出来ないのだから。聖霊は既に与えられている。自分の中の、心の中の聖霊に気づく必要があるのではないか。

 

  マタイによる福音書 7:7-12
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

2020年3月 4日 (水)

葬儀

パウロ 西 健美葬儀・告別式にあたり

2020年3月4日、本郷教会

 

ヨハネによる福音(14・1-6)が読まれました。
主イエスは言われます。「父の家には住むところがたくさんある。わたしはあなたがたが住むところを用意する。わたしは 道、真理,命である。わたしを信じる人は誰でも父のもとに行くことができる。」
今日のミサの叙唱で司祭は唱えます。
「信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています。」
この叙唱の言葉の中に教会の「死」の理解が端的に表現されています。

死は地上に生活の終わりである。滅びではない。同じ固有の人間が存続する。死は人が新しい状態へ移される入り口である。新しい状態とは天の父の家へ移行することである。天に備えられている家へ向かう新たな旅路の出発である。

その道案内は主・イエス・キリストである。父のもとへたどり着くための条件はイエス・キリストを信じるということである。

わたしたちは地上に教会に残っている。西健美さんは清めの教会へ入られた。浄めの教会へのつながりは「祈り」である。わたしたちは祈りをもって西さんの浄めの旅路を助けるのである。

2020年3月 2日 (月)

負い目を赦してください

 

33日 四旬節第1火曜日

 

雛祭りの日。旧暦では4月該当する。

主の祈り。後半の祈りは「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
文脈から行ってどう見ても「負い目を赦してください」に焦点が置かれている。

それではば第一朗読イザヤの「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」との関係はどうなるのか。人の祈りと神の言葉の実現の関係。

 

第一朗読  イザヤ書 55:10-11
(主は言われる。)雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。

福音朗読  マタイによる福音書 6:7-15
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。){あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

 

人生の総決算の基準

 

3月2日、四旬節第一月曜日のミサの朗読より

 

マタイ25章の最後の審判の場面。裁きの基準が四度も繰り返し述べられている。四度も。「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」かどうか、が裁きの基準。非常に明瞭な基準。

洗礼を受けているかどうか、忠実に教会の掟を守ったかどうか、の言及なし。もっともまだ教会はできていなかった。だからどうでもよいとは言えないが。

レビ記では「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と言っている。

 

第一朗読  レビ記 19:1-2、11-18
主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。
あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。
心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

福音朗読  マタイによる福音書 25:31-46
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 

 

2020年2月29日 (土)

イエス、誘惑に打ち克つ

四旬節第一主日A年のミサ説教

 2020年3月1日、本郷教会

 

四旬節第一主日の今年の福音朗読はマタイの福音の4章であります。

イエスは聖霊に満たされ、霊によって荒れ野に導かれ、40日間にわたり悪魔の誘惑を受けられました。

この物語から四旬節という典礼の季節が生まれました。

ところでこの四旬節の起源とされるの物語のなかに、悪霊と悪霊の両方が出て来るのはどういうことだろうか、ということです。イエスは荒れ野で悪魔から三つの誘惑を受けましたが、すべての誘惑に打ち克たれました。

これは確かにイエスの物語です。しかし、実はむしろ、わたしたちひとり一人の受ける誘惑について、わたしたちに向けて語られている物語ではないでしょうか。

わたしたちは信仰の恵みを受け、聖霊の賜物を受けています。しかし依然として同時に悪霊の誘惑にさらされている者でもあります。わたしたちもイエスに倣い、聖霊の助けによって悪魔の誘惑に打ち克つように、と今日の福音は励ましています。

 イエスは三つの誘惑を受けました。

一つ目の誘惑は、「石をパンにかえるように」という誘惑でした。それは、自分が持っている力を地上での自分の成功―-事業の成功、資産の活用という現世での成功のために用いたらどうか、という誘惑であります。イエスは「人はパンだけで生きるものではない」と答えてこの誘惑を退けました。

二つ目の誘惑は「神である主を試す」という誘惑です。

「神である主を試す」とはどういうことでしょうか。それは本当に主がともにいてくださり、守ってくださるだろうか、疑いを抱いて、不信仰に陥る、ということです。かつてイスラエルの民はモーセに率いられて、荒れ野でさまよい、水も食べ物もない状態に耐えかねて「果たして、主は我々の間におられるだろうか」と言って、モーセと争い、主を試みるに至ったのでした。(出エジプト17・1-7参照)

主がモーセを遣わして民を救おうとしていること、神は力ある神、いつくしみ深い神であることを疑ったのです。その結果イエスらエルは安息に入るためには40年間の償いのときを課せられるにいたったのでした。

悪魔は詩篇の言葉(本日の答唱詩編)を使ってイエスを誘惑しました。

「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

イエスは同じく申命記の言葉、「あなたの神である主を試してはならない」をもって悪魔の誘惑を退けました。

イエスは昇天に際して、「わたしは世の終わりまであなた方とともにいる」と言われました。もし、現代を生きるわたしたちが、「主はどこにいるのか」という思いを抱き、主が守ってくれるかどうか試すための試みをするならば、それはまさにイスラエルの民が荒れ野で侵した「あなたの神たる主を試みる」という不信仰に他ならないことになってしまいます。主を信じ、信頼しているなら試みるはずではないからです。

「主の祈り」の「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお守りください」という言葉は不信仰への誘惑からわたしたちを守ってください、という思いが込められた祈りでもあります。不信仰への誘惑は悪の霊から来るのであり、またわたしたちの欲望から生まれるのです。

三の誘惑とは、地上の権力と繁栄を自分のものとしたらどうか、という誘惑でした。それは、人を支配し、人を思うように動かし、栄誉と名声を自分のものにしたい、という欲望への誘惑です。この誘惑に対してイエスは、

「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」という申命記の言葉をもって、断固、悪魔の誘惑を退けたのです。

わたしたちは日々主の祈りを唱え、「自分の思いではなく神の思いが行われますように」と祈っています。しかし、誰かが自分の思いに反することを言ったらしたら、不快になり、怒りを覚えたり、失望したり、落ち込んだりすることが少なくはありません。自己の権力、名声、評判への欲望は実に根強いものです。「栄光は父と子と聖霊に」と唱えながら実は「自分の栄光」を求めている部分が心の中に在ることを認めなければならないと思います。その欲望に悪魔は付け込んできます。

「ベネディクト十六教皇は就任式のミサで「現代の荒れ野」ということを言われました。首都圏に生きるわたしたちはまさに「現代の荒れ野」のなかで生活しています。それは、快適で便利な生活かもしれませんが、精神的・霊的には生きづらい環境ではないでしょうか。寂しく空しく、悲しい思いを抱えている人の少なくはありません。そこに悪魔の誘惑が忍び込んできます。

そのような状況にあってわたしたちの本郷教会は東京における「現代の荒れ野のオアシであり心の泉でありたい」と願っています。

第二朗読でローマ書は、言っています。

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」

ただ一人の人イエス・キリストによってすべての人の及ぶという罪の連鎖は断ち切られました。わたしたちは、今生きてわたしたちと共にいてくださる復活したイエス・キリストのおかげで悪の力と戦い勝利することが出来ます。四旬節はまさに闘いの時、キリストの勝利という復活に与る準備の時であります。

 生きて共にいていくださるキリスト。キリストから悪との戦いに打ち勝つ恵みを日々いただいていることに感謝し、決意を新たにいたしましょう。

 ――

第一朗読  創世記 2:7-9、3:1-7
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

 第二朗読  ローマの信徒への手紙 5:12-19
(皆さん、)一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。《律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。》
一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

 福音朗読  マタイによる福音書 4:1-11
(そのとき、)イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエス
に仕えた。

 

2020年2月28日 (金)

彼は何かも捨てて立ち上がりイエスに従った。

灰の式後の土曜日の福音朗読  ルカによる福音書 5:27-32
(そのとき、イエスは、)レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 

日本への教皇大使でAmbrose de Paoli という人がいた。かれはイタリヤ系の名前だがアメリカ人だった。だいぶ前に亡くなった。ある時彼がわたしに言った言葉が耳朶を離れないDon’t think too much.

え?人生にはよく考えるべき時があるのではないか。しかし、あーでもない、こーでもないと考えるべきではない時もある。わたしは優柔不断の性格。

〈レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。〉

レビはあまり考えなかったようだ。考えたら止めてしまったかもしれない。

人生には考えるべき時あり、即断すべき時あり。

断食

四旬節。断食の時。「花婿が奪い取られる時」

わたしのささげものは「打ち砕かれた心」。ダビデはそう祈った。

わたしは打ち砕かれているだろうか。とてもそういう境地には遠い。底突き体験が必要なのかもしれない。

イザヤ書

58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。

58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。

58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。

58:9 あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら

58:10 飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。

2020年2月27日 (木)

死から命へ

灰の水曜日(大斎・小斎)・(四旬節)

2020年2月26日(水)、本郷教会

第一朗読 ヨエル書(ヨエル2・12-18)
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント5・20~6・2)
福音朗読 マタイによる福音 (マタイ6・1-6,16-18)

説教

2020年灰の水曜日を迎え、きょうから、わたしたちは四旬節に入ります。
「わたしに立ち返りなさい。衣ではなく、心を引き裂きなさい。」と、預言者ヨエルが言われました。
四旬節は回心の時であり、回心とは、心を裂いて、父である神のもとへ立ち返ることであります。

きょうの福音は、山上の説教の続きからとられています。
この中で、イエスは言われました。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」見てもらおうとして、善いことをすることのないようにしなさい。と、言われます。
善いことの代表、それは、施し、祈り、そして、断食などの犠牲であります。施しをする時は、人から褒められようとしてはなりません。
祈る時も、人に見てもらおうとして祈るようなことがあってはならない。
断食するときも、人に見てもらおうとして断食することのないようにしなさい。
偽善者は、神のためにすると言いながら、実は自分のために善行をしています。自分の満足のため、自分の評判を良くするため、人に自分のことを評価してもらうために善行をしているのであります。イエスは、そのような人々、まあ、多分、律法学者、ファリサイ派の人を指しているのでしょうが、偽善者を攻撃しています。

わたしたちは、その点、大丈夫でしょうか。
わたしたちの善い行いは、多少とも、やはり、人に認めてもらいたいという気持ちが混じってはいないだろうか。
それが少しでもあると、そんなことは善くないと言われますと、恥じ入るより仕方がないのですが…。
純粋に、神にささげる善行は、自分自身の評判、名誉、評価のためではないはずであります。

わたしたちは、生まれてから、両親などから教育されて、家庭でも、地域でも、学校でも、そのほかどこでも、人のために善いことをするように、と、しつけられていて、殊更、善いことをしようと考えなくても、自、自然に善いことをしていると思います。
意識しないで行われている善いことが、本当に善いことなのでありましょう。

わたしはあなたのために善いことをしてあげるよ、とか、してあげたよと言われると、言われた方は鼻白んでしまい、余計なお世話だと言いたくなるかもしれない。

わたしたちが身に着けている善行、それは非常にさりげないことで、その点、日本人は、素晴らしいしつけを受けているのではないだろうかと思うのであります。

きょうの第二朗読はパウロの言葉を伝えています。
「キリストに代わってお願いします、神と和解させていただきなさい。」
神に立ち返るということは、回心する、神と和解するということであります。
その、神への立ち返り、「回心」を促す、非常に強烈な出来事、それは、主イエス・キリストの
十字架という出来事であります。

神は、罪と何の関わりも無いかたを罪となさいました。わたしたちはそのかたによって、「神の義」を得ることができたのです。
この用語、この説明は、少し難しいかもしれませんが、何の罪科(つみとが)も無いイエス・キリストが十字架に架かってくださったという出来事を深く黙想する季節、それが四旬節であり、特に、復活祭の前の一週間「聖週間」、そしてさらに特別、その前の「聖なる三日間」(聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日)の典礼であります。

より深く、よりはっきりと、イエス・キリストによる救いの出来事への感謝を持つことができるよう、四旬節を過ごして参りましょう。

 

死から命へ

2月27日のミサの福音朗読  灰の木曜日の福音から

 

厳しいお言葉です。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

何度も聞いているお言葉です。その難しさを日々感じています。自分の思いがあってその思いに合わない現実にいらだったら落ち込んだりします。自分の心身の健康状態を始め、教会の諸課題、世界の現状、それにコロナウイルスの騒ぎ・・・

どうして平静でいられるだろうか。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

お前はいつも自分のことばかり考えているではないか。人は瞬間であっても忘れうることができる。キリストの生き方の中心である「死から命へ」の神秘を深く味わうことができますように。

――

2月27日のミサの福音朗読  ルカによる福音書 9:22-25

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」

 

 

2020年2月25日 (火)

欲望への囚われ

2月25日 年間第7火曜日のミサから 

ヤコブの手紙。連続朗読。願い求めても与えられないのは何故か。それは動機が間違っているから。自分お楽しみのために使おうと願っても神は聞き届けない。

わたしたちの祈りの動機は大丈夫か?

マルコの福音。

エルサレムに向かうイエスの一行。イエスは弟子たちに「自分が殺されるが三日目に復活する」と予言する。しかし弟子たちは理解しない。それどころか、「自分たちの中で誰が一番偉いか」という議論していた。イエスが【途中で何を議論していたのか】とお尋ねになった。彼らは黙っていた。」

さすがに弟子たちは後ろめたく感じていたのである。彼らの心は自分の欲望、名誉と権力への思いに囚われていた・

「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』

子どものように素直に、無欲に、先入観なしに、イエスを受け入れなければ神の国には入れない、とイエスは言われたと思う。

 

 

第一朗読  ヤコブの手紙 4:1-10
(愛する皆さん、)何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」
だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

福音朗読  マルコによる福音書 9:30-37
(そのとき、イエスと弟子たちは)ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

祈りのヒント

 

2020年2月24日 (月)

信じます、信仰のないわたしを助けてください。

2020年2月24日のミサより

 

幼い時からひきつけを起こす子供の父親がイエスに言った。

「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

イエスは答えた。

「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

イエスは言われた。「信じる者には何でもできる。」

父は答えた。

「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

父は「信じます」と答えた。しかし付け加えていった。「信仰のない私を助けてください。」

「信じる」ということと「信仰がない」ということが整合しない。どういう意味だろうか。イエスはそのことを問題にはしない。

子のわたしはどうだろうか。わたしの信仰な完全だ、100%大丈夫とは不遜にして言えない。

わたしの信仰は脆い、しかし信じている。正直なところそんなものだろう。

 

福音朗読  マルコによる福音書 9:14-29
(そのとき、イエスは三人の弟子とともに山を下りて)ほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

2020年2月23日 (日)

「敵を愛しなさい」という難しい教え

年間第7主日A年

2020年2月23日、本郷教会

 第一朗読 レビ記 レビ19・1-2、17-18

第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 一コリント3・16-23

福音朗読 マタイによる福音 マタイ5・38-48

 

きょうの福音も、先週の続き、山上の説教であります。
「敵を愛しなさい」とイエスは教えました。
このイエスの教えは、キリスト教徒でない人にも広く知られています。
一体、人間に敵を愛するということはできるのでしょうか…。

きょうの、福音朗読の結びの言葉の、
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい」という言葉も、非常にむずかしい教えであると感じないでしょうか。

既に、「隣人を愛しなさい」という教えは、旧約聖書の教えでありました。
この、隣人とはだれであるかということについての、理解の発展がありました。当初、イスラエルの人々は、自分の周りの人々、家族、親類、あるいは、同じ部族、同じ集団の人のことを「隣人」と考えていたようであります。

しかし、神の教えが次第に明らかにされるに従って、隣人というのは、自分たちの枠「イスラエル民族」という枠を超えた外にいる人々、そして、全ての人を指すというようになったと思います。

そして、隣人を愛するということについて、謂わば、このようなことはしないようにしなさいということと、このようにしなさいということと、二つに分けて考えられるようになったのではないでしょうか。

隣人を愛するというというのは、隣人に害を与えないだけでなく、心の中で人々に恨みを抱くことのないようにしなさいというように既にレビ記が教えています。

きょうの福音では、さらに、「敵」と思われる人に対して、つまり、「自分を迫害するもの」に対して、「その人々のために祈りなさい」、と教えています。

新約聖書では、一貫して敵のために良いことをするようにと教えております。

使徒パウロのローマの教会への手紙の中には次のように言われている、
「だれに対しても、悪に悪を返さず、すべての人の前で、善を行うように心掛けなさい。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
ですから、自分が自分の敵であると感じる人に対しても、悪く思わないだけでなく、進んで善を行うようにしなさいと教えているのであります。

きょうのイエスの教えでは、その動機と理由について、次のように述べられています。
「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせてくださる」
天の父は、善人に対しても、悪人に対しても、正しい者にも、正しくない者にも等しく恵みを注いでくださる、あなたがたもそのようにしなさい。そういう意味であります。

そして、自分に良くしてくれる人にそのお返しとして良くすることは易しいことであり、だれにもできるではないか、あなたがたは、その人間の通常の状態を超えるもの、天の父の子になるように努めなさいと言っているのであります。

そして、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
この完全な者になりなさいと言われると、ちょっとひるんでしまう。「わかりました。やります」と、言えるかたは幸いですけれども…。この言葉に悩みますね。わたくしも考えてみましたが、明快な解答は得られません。まあ、こういうことではないかと思うことを申し上げます。

「完全である」というのはどういう言葉を訳したのかなと思いまして調べましたら、やはり、「完全」なのです。英語で言うとパーフェクトなのですね。ギリシャ語の原文も、どれをみても、日本語で完全となっている。

「完全」というのは、人間にはあり得ないのではないかと思う。

『聖書と典礼』の脚注にありますが、ルカによる福音では、「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい。」(ルカ6・36)となっているのですね。こちらの方だと少しは分かりやすいかなという気がする。でも、憐み深いという訳語に、わたしは、ちょっと引っかかる。「いつくしみ深い」という言葉もあります。
フランシスコ教皇は慈しみの特別聖年を提唱されました。いかに天の父がいつくしみ深いかたであり、そのいつくしみはイエス・キリストにおいて完全に表され、実行されたということを言われたのであります。ですから、完全と言う言葉をいつくしみ深いという言葉に入れ替えると、もっと近づきやすい教えになるのではないかと思う。

わたしたちはいつくしみ深くされたので、神の愛を信じ、そして、人を通して、自分が大切にされているという体験を持つことができたのであります。

「主の祈り」を思い起こしますと、「わたしたちの罪をおゆるし下さい、わたしたちも人をゆるします」と祈っているのであります。実に、わたしたちはゆるしてもらわなければならない存在であります。単に、不完全であるというだけでなく、道を踏み外す、過ちを犯すものであります。それは、どんなに努力しても完全に神の掟、イエス・キリストの教えを実行することができる者には、完全には、なり得ないでしょう。

完全にはできないから、どうでも良いということにはならないわけで、できる限り努めます。
その際、自分がゆるされている者であり、ほかの人から受け入れられ、大切にされている者であるという自覚を持つならば、より、いつくしみ深くあれという教えを実行することができるのではないでしょうか。

自分にとって気に食わないことをする人を好きにはなれないのでありますが、「敵を愛しなさい」という場合に、どんな人のことも好きになりなさいといっているわけではない。愛するということと、好きになるということは、まあ、重なりますけれども同じではないわけであります。

わたしたちは、皆、罪びとであり、欠点を持っている者であります。お互いにゆるし合い受け入れ合わなければならないのであります。そして、その際、自分にとって受け入れることがむずかしいと感じる人であっても、その人が自分のためにしてくれていることを想い、その人の良さを認め、そして、更に、その人の中に神の美しさが輝いているということを認めることができるようになり得ると思います。

全ての人は神の似姿であり、イエス・キリストの十字架によって贖われたものであり、そこに、キリストの復活の光が射しているのであります。

ですから、「敵を愛する」ということは、人に対して恨みを抱かないということから始まって、全ての人の中に、神の美しさを見出すように努めること、どんな人も、その人にしかない良さが与えられていることを、フランシスコ教皇もたびたび言っておられますが、「その人の中にある良いこと、美しいことを見つけるように努めたい」と思う。

そして、天の父からの恵みを自分がどんなにたくさん受けているかということをいつも思い起こし、感謝を献げるようにいたしましょう。

 

使徒座

聖ペトロの使徒座のミサ説教

2020年2月22日、本郷教会

最初のローマの司教聖ペトロ

 

 2020年2月22日という日、間もなく「灰の水曜日」を迎えようとしている今日、わたしたちは使徒ペトロの使徒座の祝日を祝います。

  イエスはペトロをはじめとする12人を選び使徒とされ、そして使徒たちにご自分の任務を引き継ぐように命じました。ペトロは12人の代表とされており、今日の福音によりますと、彼は使徒を代表してイエスに対する信仰告白を行っております。

「あなたはメシア、生ける神の子です」。

このペトロの信仰告白の上に教会が成立し、そして存続してきました。

きょうの集会祈願で私たちは祈ります。

「全能の神よ、あなたは使徒の信仰をいわおとして、教会をゆるぎないものとしてくださいました」.

この使徒たちは、決して優秀なユダヤ教の信徒ではなかった。彼らは概ね漁師などの仕事をするものであり、特別に学問を修めた者でもなかった。率直に素朴にイエスを尊敬しイエスに従ったのであります。

とくにペトロのことを思い起こしてみますと、彼は、ほんとうに率直で、そして単純な人であったと思われます。

今日のこの信仰告白、「あなたはメシア、生ける神の子です」のすぐ後で、イエスはご自分の受難のことを打ち明けますと、つまり、

「わたしは、やがて、長老、祭司、そして律法学者たちに迫害されて、そして、やがて殺されてしまうが、三日目に復活することになっている」といわれたときに、ペトロは非常に正直に反応します。「いえ、先生、そんなこととんでもないことです。絶対にそんなことがあってはなりません」。

そのペトロに対して、イエスはなんと言われたか?

「サタンよ、退け!」

まっ、サタンというのは悪魔ということよりも、神のみ心に反対する者という意味であります。

さらに、思い起こせば、ペトロはイエスが十字架にかけられる直前、三度もイエスのことを「わたしは知らない。あの人はわたしに関係ない」と言って、しらを切ってしまった人であります。

復活したイエスがペトロに現れて「わたしの羊を僕しなさい」と三度も言われました。この三度というのは、ペトロが三度もイエスを否んだことを表していると思われるのであります。

 そのような、いわば頼りない人が、どうして教会の礎となり、そして、ローマの使徒座の最初の司教となることができたのでしょうか?

それはひとえに、神が共にいてくださる、復活したイエスが、ペトロと共に歩んでくださるという私たちの信仰によるのであります。

 ペトロが非常に立派な人であり、頼もしい人ではありますが、わたしたちにとっては(教会を信じることが)ちょっと難しいという気がする。

わたしたちと同じ弱い人間であり、臆病風に吹かれて、主イエスを否定してしまうような人間が教会の指導者になったということは、わたしたちに対する、まぁ、ある意味で慰めではないだろうかと。

 ペトロの手紙が、きょう第一朗読で読まれました。この中の言葉で、特に気を付けるべき言葉は次の言葉ではないかと思います。

「権威を振り回してもいけません」

教会の第一人者とされたという意識は、「自分は偉いんだ。自分には何もかも許されているんだ。わたしの言うことは全部正しくて間違いがない」.

という思い込みに陥りがちであり、自分に委ねられたと考える権威、それは権限に通じる。権限を行使して、自分の満足、自分の支配のために乱用するという危険が生じるのであります。

実際、教会の歴史を見れば、最初は、貧しい人々、迫害され、そして、片隅に追いやられている人々の集いに過ぎなかったイエス・キリストの教会が、やがて多くの人が信者になるにしたがって、ローマ帝国はキリスト教を公認いたしました。313年という年。それからほどなく、さらに、キリスト教をローマ帝国の宗教と定めたのでありました。

そのところから教会の深刻な問題がはじまったのではないでしょうか。「権威を振り回してはいけません!」というこの言葉を肝に銘じて、歴代のローマの司教は謙遜に神と人に仕えなければならなかったのであります。実際に多くのローマの司教はそうしましたが、そうしなかった、そうできなかった人もいたことをわたしたちは知っている。

そこで教会の歴史の中では様々な問題が生じた。宗教改革という出来事もあったのであります。

いま現在、ペトロの使徒座はローマ教皇庁といわれている。

この教皇庁の改革ということが真剣に望まれているのであります。

ローマの使徒座は、世界中にあるそれぞれの教会の連絡の中心となっていますし、もっとそうならなければならない。お互いによく知り合うための仲介者の役割が大切であります。

そして、それぞれの地方の教会が自分たちの考えで、自分たちのやり方でイエス・キリストを述べ伝えることができるよう励まさなければならない。自分のやり方を強制してはならないのであります。

そして、もともと貧しい者の教会であったので、権力、権威、財力、そういうものから離れたできるだけ小さな存在として貧しい僕、イエス・キリストの姿を現すものでなければならないのであります。

現在のローマの司教、フランシスコはその教会の原点に立ち返るべく大きな努力をしていると思います。

教皇様のためにお祈りいたしましょう。

 

2020年2月21日 (金)

死から命へ

年間第6金曜日のミサの朗読より

2020221日、本郷教会

「死から命へ」

月曜からの第一朗読はヤコブの手紙。行いの伴わない信仰は死んだ信仰であると言っている。

今日の福音。

《自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。》

救いたいと思う自分の命は地上の命、福音のために失って救う命は永遠の命、神の命である。失う命は偽りの命、救う命は真の命である。キリスト者の生涯は偽りの命を捨てて真の命へ至る旅,死から命への歩みである。

 

 

第一朗読  ヤコブの手紙 2:14-2426
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

福音朗読  マルコによる福音書 8:34-9:1
(そのとき、イエスは)群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 

 

2020年2月20日 (木)

勘違い、思い違いはないか?

年間第6木曜部ミサの福音朗読について

人には神の思いははるかに超えている》

2020年2月20日

 

イエスが弟子たちに、

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と訊ねるとペトロが答えました。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

マタイ福音書では、イエスは

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16・16-19)

と言われました。ペトロを称賛しさらに重要な任務を授けているのです。それにもかかわらず、ペトロがイエスを脇へお連れしてお諫めするとイエスは

ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

この落差をどう受け取ったらいいのでしょうか。最高に褒めておいてサタン呼ばわりをするとはどういうことでしょうか。それは、確かに人間には神の思いが分かりませんよ。だからと言ってもう少し言いようがあるのではないか、とも思いませんか・

わたしたちは主の祈りで

「み旨が行われますように」

と日々祈っています。自分がどうすることがみ旨を行うことに適うのか、真剣に願い求めているのではないでしょうか。問題は具体的に何が神のみ旨であるのか、すぐには明白にはならない、ということです。さらに明白の成っても、それを実行する力があるだろうか、という不安があります。

神の思いは人の思いをはるかに超えています。実にイザヤ書が言っています。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55・8-9)

 

人と人との思いのすれ違いとか勘違いとかよく起こります。まして人と神の間では思いが通じるということは難しんではないだろうか。人が勝手に自分の思いを神の思いと信じる場合もあります。

 

 

  マルコによる福音書 8:27-8:33
(そのとき、)イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 

2020年2月19日 (水)

心の目を開くには?

年間第6水曜日説教

2020219日、本郷教会

 

今日のマルコによる福音はイエスが一人の盲人をいやされたという話であります。

今日の話を読んで気の付いたことを少し申し上げます。

イエスは非常に丁寧に優しく盲人の目を開けてあげています。

「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し」とあります。どうして村の外に連れ出したのでしょうか。人の目に触れないところに連れて行ってお癒しになったのであります。

「その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった。」

イエスは段階的に盲人のいやしを行いました。

「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』

そして次の段階で

「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」

のであると記されています。

そしてイエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰されました。

「メシアの秘密」という言葉があります。イエスはたびたび、いやしを行った時に、この事を人に話してはならない、と告げています。何故であるのか、が論じられています。おそらくご自分の使命が誤解されるのを恐れたからであろうと言われています。

盲人の目を開けてあげたという話は他にも出ています。

ところで今思いますに、わたしたちは心の目をもっと開けるようにしなければならないのではないでしょうか。心が開いていないと見ても見えない、ということがあります。聞いていても聞いていない、ということがあります。

本当に事が見えるように、神の栄光、神の美しさが見えるように、わたしたちの心を清めていただけるよう祈りましょう。見える人にはこの世には神の美しさが現れているのです。

 

第一朗読  ヤコブの手紙 1:19-27
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現ないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

 

福音朗読  マルコによる福音書 8:22-26
(そのとき、イエスと弟子たちは)ベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された

 

 

2020年2月18日 (火)

ファリサイ派のパン種に気をつけなさい

年間第6火曜日ミサ説教

 2020年2月18日、本郷教会

第一朗読は使徒ヤコブの手紙です。

ヤコブは「神は決して人を誘惑することはない」とはっきりと言っています。誘惑することはありませんが試練に遭わせることはあります。人が罪をおかすのは「それぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥る」からです。

今日の福音ではイエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められました。このイエスの言葉を弟子たちは悟ることが出来ませんでした。パンを持ってくることを自分たちが忘れたことをイエスが言っているのだと考えたのです。これは、イエスがパンを増やす奇跡を二度も行った後のことでした。イエスは弟子たちの無理解に対して彼らをやさしく諭しています。わたしが何千二もの人を養うパンの奇跡をおこなったことをあなたがたは知っているでしょう。わたしが言っているのはパンのことではない。イエスは、パリサイ派の人々、そしてヘロデ王(その周りの人々)のこと、その生き方の事を言っています。この人々はしばしばイエスと敵対しました。パリサイ派の人々の偽善、ヘロデの権力欲と誤った支配についてイエスは言っています。少数の人が全体に悪い影響を与え腐敗させることがあります。わたしたちは神の国のパンだねとして全体を神の国に変えていく小さな存在であるのです。神はわたしたちを通して世界を神の御心が行われる民の共同体に変えてくださるののだと信じ希望しています。

 

第一朗読  ヤコブの手紙 1:12-18
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

 

福音朗読  マルコによる福音書 8:14-21
(そのとき、)弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

 

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