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2020年8月 8日 (土)

悪についてのささやかな考察 その二

創世記1・31 極めて良かった についてのささやかな考察(独り言)に続き、中高でならった東洋の思想、性善説と性悪説をあらためて勉強してみましょう。以下のファイルを参照ください。

 

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2020年8月 7日 (金)

主の変容

主の変容 ミサ説教

202086()、本郷教会

86日は毎年「主の変容」の祝日となっています。

主の変容という出来事が受難の四十日前に起こったという伝承に基づいて定められた日であると言われています。

イエスは三人の弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ、十二使徒ではなく三人だけを連れて高い山、タボル山といわれている山に登られて弟子たちの見ている中で非常に光輝く姿に変わられた。姿が非常に栄光に満ちた様子に変わられたと告げています。

その出来事に出会ってペトロは気が動転してしまったのでしょうか、何か訳の分からないことを言っています。

「わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。」

その時、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者、これに聞け」という声が聞こえてきた。

似たような出来事は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時も天から声がして、同じように「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ317、マルコ111、ルカ322)と言われたと出ています。

この出来事は、何を意味しているのでしょうか。

普通、次のように解釈されている。

受難を目前としていたイエスは、弟子たちがつまずいてしまうことを心配して、あらかじめ事が起こる前にこの例外的な特別な出来事を目撃させて、彼らの信仰を強くしたのではないかと言われています。

そうしたにも関わらず、ペトロもヤコブもヨハネもイエスの十字架の出来事に際しては、この事を思い出したのでしょうか、恐怖に襲われて為すすべもなく非常にだらしない状態になってしまったわけであります。

今日の叙唱を見ると出ていますが、こうしてキリストのからだである教会の十字架の道によって栄光に至ることが示されました。

わたしたちの教会の主イエス・キリストに倣って十字架の道を歩むことによって、栄光に入ることができるということを予め示してくださったという意味であると思われます。

わたしたちの宗教というのは、ナザレのイエスという人をキリストであり、救い主であると信じる宗教であります。

彼は通常まったく普通の人間としての風貌や生活、様子を示していて特別なことはなかったわけですが、例外的に今日のような変容というできごと、あるは目覚ましいしるし、奇跡などをおこなって、自分が誰であるかということを人びとに示されたのでありました。

そのキリストによって造られた教会が、この世の中でキリストの存在と働きを出来得る限り現わし、そして行っていかなければならないのであります。

二千年の歩みの中で、さまざまな出来事があり、困難に出会い、あるいは人々のつまずきになるようなこともありました。

今わたくしたちの教会はどんな状態にあるのか。

日本のカトリック教会、世界のカトリック教会、カトリック教会といわずキリストの弟子たちはどういう状態にあるのか。

たまたま信者と限らず世界中の人はコロナウイルスという問題に悩まされています。

そういう中で、イエス・キリストの本来の姿、神の御ひとり子であり、神と等しい方であるということを現された変容の出来事を、弟子たちはいつも思い起こし、自分たちの働きを通して時々は復活の栄光を人びとに垣間見させることができているだろうか。

教会はキリストの復活の証人であります。

復活という出来事が毎日起こったら、人びとは忙しくて普通の生活をすることが出来なくなるでしょうが、時々人間の弱さの中にそれを超える、遥かに超えていく永遠の世界、復活の世界、朽ちることのない復活の体を受けるという信仰と希望を示すことができるような、そういう働きが教会のわたくしたちの間にあって然るべきだし、実際によく見えていないけれどもおこなわれているのではないかと思います。

今日、非公式のミサを献げることになって、自分は最後にいつミサを挙げたのだろうかと、ミサを挙げることが当たり前だと思って四十何年過ごしてきたけど、ミサも挙げない、挙げられない、そういう自分というものに大変力を落としていたんですけれども、不思議なんですね、慣れればそういうものだと思って、今日もミサ挙げなくていいんだというようになってしまう。それが良い事か悪い事か分かりませんが。

今日はミサというのは一人で挙げるものではありませんので、皆さんのおかげでささやかな非公開の個人ミサ、ミサ・プリヴァータを献げることができています。

最後にミサを献げたのは、もう思い出せないくらい昔のような気がするが、調べてみると75日だったんですね。ほぼ一か月前。

ちょうど都知事の選挙の日で、あの日一生懸命ミサを挙げたあと、香部屋で一休みしてから

本郷通りを横切って、昭和小学校の投票所に行って投票して来て、ああ今日司祭として都民としてやることを一応やることができたという思いを持ったことが思い出されますが、まだ一か月前。でも何年も昔のような気がしているのはどういう訳でしょうか。

ちなみに直接関係ないんですけど、今日韓国のある司教様が亡くなったという知らせを受け取りました。

日本の教会と韓国の教会は、近いけれども遠い関係にある両国の在り方を少しでも良くしようということで、日韓司教交流会ということを始めたわけです。

それは濱尾司教様が司教協議会の会長であった時のことですが、マニラでアジア司教協議会連盟の集会があった時に、浜尾司教と韓国の司教協議会の会長イ・ムンヒという方でしたが、会って話し合って、それぞれの国の有志の司教が参加してともかく顔合わせをして、知り合いになろうということになったんです。

それで毎年開かれて、結果的にほぼ全員が参加する行事になりました。

その時に向こうで最初からずっと参加してこの集いを支え進めてくださった司教のチャン・イックという方がいたんですけれど、チュンチョンという教区、春の川と書くんですね、「春の小川」の春の川、ソウルの北側にある教区なんですが、そこの教区の司教チャン・イック司教さんが毎回参加していまして、その司教様が亡くなったとのことで寂しく思いますが、教会が現実の中でイエス・キリストの復活を証しすることができるようにささやかな努力を続けていきたいと思います。

 

第一朗読  ペトロの手紙 二 1:16-19
(愛する皆さん、)わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。福音朗読  マタイによる福音書 
17:1-9
(そのとき、)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 

 

 

2020年8月 2日 (日)

年間第18主日A年の聖書朗読、福音朗読を読んで

18主日の朗読の感想を以下に添付します。

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2020年7月31日 (金)

黙想会講話:心の大掃除(糾明)

昨年12月の待降節黙想会の講話が文字となって届けられました。本郷教会の信徒のためですが、ご参考に、添付します。

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2020年7月28日 (火)

神が造った世界に何故悪が存在するのか?悪についての小さな考察、その1

全能で善である神の造った世界に何故悪が存在するのか?悪の問題についてのささやかな考察の1

 

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2020年7月21日 (火)

天の父のみ心

721日 年間第16火曜日

 

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

確かにそうなのだが、問題は、何が天の父のみ心であるのか、ということである。神の名において正義を主張し,抗争してきた歴史がわが教会の歩みの中にみられないか。異端審問、十字軍などはその汚点ではないか。

 

第一朗読  ミカ書 7:14-1518-20

(主よ、)あなたの杖をもって 御自分の民を牧してください あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に ただひとり守られて住み 遠い昔のように、バシャンとギレアドで草をはむことができるように。お前がエジプトの地を出たときのように彼らに驚くべき業をわたしは示す。

あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことを アブラハムに慈しみを示してください その昔、我らの父祖にお誓いになったように。

福音朗読  マタイによる福音書 12:46-50

イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 

 

 

2020年7月20日 (月)

イエスの示したしるし

7月20日 年間第16月曜日

 ミカ書。「人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。」

神がイスラエルの民に求めていること、それは上記のように、「正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと。」

ナザレのイエスはこの言葉を地上に生活において実行した。数々のしるし、癒し、悪霊の追放もその実行の実例であった。しかしユダヤの指導者たちはイエスを受け入れない。それどころが、彼を悪魔付き扱いにさえしてしまう。

ヨナ書では、ヨナが三日間大きな魚の中に飲み込まれていたとある。これは三日目に復活したイエスの前表であろう。ヨナの説教を聞いて異邦人のニネベの人は悔い改めた。

ソロモン王に時、南の女王が遠路わざわざソロモンを訪ねてきてソロモンの知恵を確かめた。知恵は裁きのために知恵。その女王も裁きの時に彼らを罪に定めるだろう。

これは、イエスのしるしを見ても律法学者、ファリサイ派はイエスを信じなかった。彼らはニネベの人々や御の女王にも劣る不信仰者だ、という意味だろうか。

閑話休題、ともかく、神の慈しみを実行したイエスを「神からの人」であると認めない律法学者・ファリサイ派への非難の言葉であろう。

 

第一朗読  ミカ書 6:1-4、6-8

聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ。聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発しイスラエルと争われる。「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ。わたしはお前をエジプトの国から導き上り奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムをお前の前に遣わした。

何をもって、わたしは主の御前に出で いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を 自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。

 

福音朗読  マタイによる福音書 12:38-42

(そのとき、)何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 

2020年7月19日 (日)

悪の問題

毒麦の譬え。

神が造った善なる世界に何故悪が蔓延っているのか。この問題に聖書とキリスト教はどうこたえているのか。年間第16主日の福音はその回答の一つ、あるいは示唆ではないか、という事を言おうとしたのですが、伝わらなかったでしょうか。これが意味のない戯言でしょうか。決してそうは思わない。最も重要な問いかけです。

 

 

 

2020年7月18日 (土)

神の造ったこの世界に何故悪が存在するのか:毒麦の譬え

2020年7月19日 年間第16主日

 

今日の福音朗読は毒麦の譬えのである。

神が造ったこの世界に何故悪が存在するのか、という、有名か「神義論」の問題がある。

この譬えはこの問題への一つの回答と言えるだろう。

悪という毒麦は何処から入ったのか。それは「敵の仕業だ」という。敵とは誰か。毒麦を蒔いた敵は悪魔である。悪魔の所為だ。その悪魔は何所から来たのか。福音書には悪魔、悪霊、汚れた霊などの言い方で悪魔は頻繁に登場する。イエスのしたことで目立つのは悪霊の追放である。(悪魔の起源については明解な説明は得られていない。バビロン捕囚後に時代にペルシアの信仰が入ってきた、という説がある。)

それでは何故毒麦という悪を引き抜いて退治しないのか。それは、一緒に良い麦も引き抜いてしまうかもしれないからである。毒麦と麦は見ただけでは区別が難しい。それにお互いの根も絡み合っている。これはまさにわれわれ人間の実態を表わしている。人間の悪と善は表裏一体、全を日繰り返せば悪となる。善と悪は峻別できない。悪だけ除こうとすると善も一緒に除かれてしまうお恐れがある。病気の治療と似ている。病気を引き起こしている腫瘍を除去すると健康な組織も損傷を受ける。所謂副作用である。悪いところだけ取り出し、他の部分には損害を及ぼさないようにはする治療はできないという現実がある。

それは人間の心の現実でもある。人の心には善と悪が宿っている。同じ人の心に善と悪が住んである。悪だけ取り除こうとするとその人の心自体を壊してしまうことになりかねない。この不思議をどうしたらよいだろうか。毒麦の譬えはわたしたち自身の心の問題でもある。心の弱さ、限界の問題でもある。

主人の判断と結論は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」出る。現在の世界は、両方とも育っている状況にある。しかし、いつか終わりが来る。それは刈り入れの時である。この世の終わり、終末、天の国、神の国の完成の時でル。その時には悪は完全に除去される。終末を待つしか解決はないのだろうか。

 ーーー

 第一朗読  知恵の書 12:13、16-19

(主よ、)すべてに心を配る神はあなた以外におられない。だから、不正な裁きはしなかったと、証言なさる必要はない。

あなたの力は正義の源、あなたは万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方となられる。あなたの全き権能を信じない者にあなたは御力を示され、知りつつ挑む者の高慢をとがめられる。力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる。力を用いるのはいつでもお望みのまま。神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:26-27

(皆さん、”霊”は)弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

 福音朗読  マタイによる福音書 13:24-43

(そのとき、)イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

《イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」》

2020年7月17日 (金)

イエスを殺そうとした動機

2020年7月18日、年間第15土曜日の福音から

「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」

どうしてファリサイ派の人々はイエスを殺そうと相談したのか。

この直前の箇所を引用しよう。

 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。(マタイ12・9-13)

 そこでわかるが、それは、イエスが安息日に片手の萎えた人を癒したからであった。この事件が、ファリサイ派足しがイエスの存在を抹殺するように動く動機になっている。どうしてこれがイエスの抹殺の動機になるのか。実に分かりにくい動機である。それほど彼らにとってイエスの言葉と行動は冒涜的であり涜聖の罪に当たると考えたのであろう。

 以下、本日の福音に続く。

ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。 異邦人は彼の名に望みをかける。」

――

イザヤ書の主の僕の歌よりの引用。

彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。

曽野綾子の小説に『傷ついて葦』というのがあったと思う。最新の優しさをもって傷ついた人、苦しむ人、病む人、悩む人に接するイエスの在り方を彷彿とさせる。

安息日に麦の穂を摘んで食べること

7月17日 年間第15金曜日

 

麦の穂を摘んで食べる、という行為はあまり褒めたものではないだろう。時代と場所が違うから何とも言えないが、自分の経験では、普通そういうことはしない。公序良俗に反すると思う。他方、麦の穂を摘んで食べる弟子たちを見て、目くじらを立てて、安息日の掟破りだというのもいかがなものか。

イエスは弟子をかばって言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

ダビデとその一行、神殿に仕える祭司は安息日の規則に拘束されない。自分は彼らよりの偉大な者である、と言っているように聞こえる。

イエスとファリサイ人、律法学者との対立は、安息日論争に起因している部分が大きいように思われる。麦の穂のことなどどうでもよいではないかと思うが律法の専門家には揺るがせにできない重大事であった。何か別世界での出来事のようだ。結論は、「人の子は安息日の主である。」

 

 

第一朗読  イザヤ書 38:1-6、21-22、7-8

そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て、「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』」と言った。ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた。

主の言葉がイザヤに臨んだ。「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」

イザヤが、「干しいちじくを持って来るように」と言うので、人々がそれを患部につけると王は回復した。ヒゼキヤは言った。「わたしが主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか。」

ここに主によって与えられるしるしがあります。それによって、主は約束なさったことを実現されることが分かります。「見よ、私は日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を十度後戻りさせる。」太陽は、影の落ちた日時計の中で十度戻った。

 

福音朗読  マタイによる福音書 12:1-8

そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

 

2020年7月16日 (木)

自分の十字架とは何か?

2020年7月16日、年間第15木曜日

 福音朗読  マタイによる福音書 11:28-30

(そのとき、イエスは言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 ―――

今日もこのみ言葉に出会う。

今のわたしにとってどう意味があるのだろうか。思いは乱れる。

イエスは次のようにも言っている。

「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10・38,39)

自分の十字架とは何だろ。喜んで自分の十字架を担いイエスに従う者でありたい。

 

第一朗読  イザヤ書 26:7-9、12、16-19

神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは わたしたちの魂の願いです。わたしの魂は夜あなたを捜し わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。あなたの裁きが地に行われるとき 世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。

主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を 成し遂げてくださるのはあなたです。

主よ、苦難に襲われると 人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと 彼らはまじないを唱えます。妊婦に出産のときが近づくともだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前でこのようでした。わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず 地上に住む者を産み出すこともできませんでした。あなたの死者が命を得 わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。

 

2020年7月15日 (水)

幼子はイエスを信じ受け容れた

7月15日 聖ボナベントゥラ司教教会博士

 

福音朗読  マタイによる福音書 11:25-27

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

―――

「これらのこと」とは何を指しているのか、わからない。

知恵あるもの、賢い者とはだれを指しているのか。さしあたり律法の専門家、モーセの教えを詳しく勉強している者、ファリサイなどのことだろうか。

幼子はイエスの言葉を素直に単純にそのまま受け入れた。しかし、既にいろいろな知識と体験を持つ者はかえってそれが災いして、考えすぎて、信じるに難しくなっていた。「預言者は故郷では容れられない。」イエスの人間性に躓くということもあったかもしれない。

それでは、この自分の場合はどうだろうか。

 

第一朗読  イザヤ書 10:5-7、13-16

(主は言われる。)災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。神を無視する国に向かってわたしは、それを遣わしわたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ野の土のように彼を踏みにじれ」と。しかし、彼はそのように策を立てず その心はそのように計らおうとしなかった。その心にあるのはむしろ滅ぼし尽くすこと 多くの国を断ち尽くすこと。

なぜならアッシリアの王は言った。「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った。わたしは諸民族の境を取り払い 彼らの蓄えた物を略奪し 力ある者と共に住民たちを引きずり落とした。わたしの手は、鳥の巣を奪うように諸民族の富に伸びた。置き去られた卵をかき集めるように わたしは全世界をかき集めた。そのとき、翼を動かす者はなく くちばしを開いて鳴く者もなかった。」

斧がそれを振るう者に対して自分を誇り のこぎりがそれを使う者に向かって高ぶることができるだろうか。それは、鞭が自分を振り上げる者を動かし 杖が木でない者を持ち上げようとするに等しい。それゆえ、万軍の主なる神は、太った者の中に衰弱を送り主の栄光の下に炎を燃え上がらせ火のように燃えさせられる。

 

2020年7月14日 (火)

悔い改め

2020年7月14日、年間第15主日の福音朗読より

 

カファルナウムはイエスの主要な宣教活動の場所ではなかったか。イエスは数々のしるし、不思議、癒しをおこなったが人々はイエスを受け入れなかった。

ソドムはゴモラと並んで悪名高い悪徳の町。(創世記18章20節~19章29節にソドムが滅ぼされた話が出てくる。)

さて、現代のわたしたちの場合はどうだろうか。奇跡が行われているのにそれにそれにさえ気が付かないのかもしれない。悔い改めなければならないのにその必要さえ認めていないのかもしれない。現代世界で最も悔い改めるべきことはなんであるのか。

 

  マタイによる福音書 11:20-24
(そのとき、)イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、
天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

 

2020年7月13日 (月)

イエスのために命を失うとは?

7月13日 年間第15月曜日

今日の福音は特に厳しいおことばです。

「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

「自分の命を得ようとする者は」は、「自分の命を得ている者は」(聖書協会1955年訳)「自分の命を自分の物とした者」(新改訳)とも訳されている。

自分の命をこれから得るのか、既に得ているのか、の違いは足したことのないように思われる。

病院に行くと自分の命を守るために多くの人が集まっている。人事を尽くしても地上の命にはいつか終わりが来る。「わたしのために命を失う者」とは、端的に言えば、殉教することであろう。殉教しない場合はどうであろうか。イエスのために命をささげる事を意味しているのだろう。では、イエスのために命をさげるとは何を意味しているのか。・・・自分の場合、どうすることだろうか。

 第一朗読  イザヤ書 1:10-17
ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よわたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが誰が、お前たちにこれらのものを求めたか わたしの庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など災いを伴う集いにわたしは耐ええない。お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護せよ。

福音朗読  マタイによる福音書 10:34-11:1
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。

 

 

2020年7月12日 (日)

被造物の呻きとは何か

7月12日 年間第15主日

 

神の造った世界になぜコロナウイルスという人類を恐怖に陥れる問題が発生しているのでしょうか。

あるいは2011年3月11日の東日本大地震のような災害が何故起こるのでしょうか。

神が造った世界は「極めて良かった」(創世記1・31)のではなかったか。

使徒パウロの本日の第二朗読、ローマ書8章によれば、人間だけではなく、人間以外の被造物も救いを待っている、とあります。すなわち「滅びからの隷属から解放されて、神の子供のたちの栄光に輝く自由にあずかれる」日が来るのを待ちながら呻き、生みの苦しみを味わっているのです。

「被造物の呻き」とは、例えば、地震であったり、コロナウイルスであったりするのではないだろうか。

 

「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」

 

人間の解放と被造物の解放がつながっています。教皇フランシスコは「ラウダート・シ」において、人間の環境破壊、地球への利己的侵害行為を非難していますが、現在の自然環境の不秩序は人間の一方的・利己的な開発行為に原因があると思われます。

救いとは、人類だけの救いではなく、すべての被造物の救いです。すべての被造物が贖われて初めて「極めて良い」という創世記1・31の言葉が実現するのではないでしょうか。

今日の福音の種まきの譬えは、「良い土地」とは、他の被造物の解放と救いと一緒でなければ人間の救いはありえない事を悟ることのできる人間の心の状態であれ、と言っているのではないだろうか、と思います。

 

第一朗読  イザヤ書 55:10-11
(主は言われる。)雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:18-23
(皆さん、)現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

福音朗読  マタイによる福音書 13:1-23
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
《弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」》

 

2020年7月 9日 (木)

天の国の到来のしるし

79日 年間第14木曜日

ホセア書に現れた神の心の葛藤。「わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」

神は怒りと憐れみの間で心引き裂かれるほど苦しむが結局怒りに憐れみが勝つことになる。人間的な神と言ってよいか?

ーーー

第一朗読  ホセア書 11:1-48c-9
(主は言われる。)まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに彼らはわたしから去って行きバアルに犠牲をささげ偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き彼らの顎から軛を取り去り身をかがめて食べさせた。
イスラエルよお前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨てツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。

 

福音朗読  マタイによる福音書 10:7-15

「天の国」の到来は、使徒たちによって、病人の癒し、死者の蘇り、重い皮膚病の人の癒し、悪霊を追い出すこと、などによって示された。それは「平和の到来」と同じ趣旨ではないか。

現代世界を見るに、これらのしるしは見らないわけではないが、ほんの僅かな現象に過ぎない。天の国=神の国の完成の時にこのような現象が行き渡るのだろう。

ーーー(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

 

 

 

 

 

 

2020年7月 7日 (火)

あなたの軛は何ですか

あなたの軛(くびき)は何ですか

年間第14主日A年

 

2020年7月5日、本郷教会

 

第一朗読:ゼカリヤの預言(ゼカリヤ9・9-10)

第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・9、11-13)

福音朗読:マタイによる福音(マタイ11・25-30)

 

説教

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

 

イエスは今日の福音でこのように言われます。

ちょうど6月19日、金曜日、「イエスのみ心」の福音朗読も同じ福音の箇所でありました。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。」

 

わたしたちの、本郷教会の掲示板に、この言葉が掲げられていたと思います。

掲示が多いので、今ちょっと隠れているかもしれません。

 

わたしたちは、福音という「よい便り」を受け取り、そして福音を人々に告げ知らせるという役割を受けたものであります。

福音宣教は教会全員の使命であります。

毎回思うことですが、それでは今、わたしたちにとって、人々にとって、福音とは、何を指すのでありましょうか。

疲れている者、重荷を負う者に対しては、安らぎ、安心、憩い、或いは、癒し。

要するに 救いということを意味していると思われます。

もちろん救いは、罪からの赦しと結びついており、罪からの赦しなしに 救いはありませんが、

罪という言葉はなかなか馴染みにくい印象を与えております。

もう一度、わたしたち、或いは、現代の人々にとって、救いとは、一体何であるかをこの機会に考えてみることは意味のある大切なことではないだろうか。

 

わたしたち自身、その存在自体にある、何かの不安、まだ満たされていない部分がある。その中に、病気ということもあるし、孤独ということもあるでしょう。そういう現実を、「罪」という言葉で括って説明するとなると、信者にはよいかもしれないが、一般の人にはちょっと受け取りにくいかもしれない。

罪とは神から離れている状態、でありますので、

あるべきでない状態にあるわたしたちは、広い意味で、罪のなかに置かれている、といってもまちがいはないでしょう。

 

さて、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

この「軛」ですけれども、見たことがおありでしょうか。

今の時代、そして、この東京という場所では、軛を目にすることはほとんどないでしょう。

私個人の記憶によると、私は千葉県の山間部で生まれ育ちましたので、子どものころ、馬車というものを、日ごろ、見ておりました。

駅からですね、荷物を馬車に積んで、町まで運ぶということを仕事としている人がいた。馬車屋さんと呼んでいました。

その馬は、軛というものをつけられている。その軛は、馬車の両脇の轅(ながえ)という部分に繋がれていたわけで、

軛と轅の関係がピタッと合っていないと、軛を負わされている動物、馬、牛、きょうの福音だと、ロバも入るわけですが、痛くてしかたがない。

ピタッと合った軛だと、喜んで軛を負いながら役割を果たすことができる。

 

イエスは、「わたしの軛を負いなさい」と言われました。

ちなみに、ナザレのイエスは、父、ヨセフの仕事を継いで、大工であったと思われます。そして、軛作りの名人であったという伝説が残っている。

ピタッと、その馬、牛に合う軛を作ることができた、とのことであります。

 

それでは、今日のわたしたちにとって、「わたしの軛を負いなさい」というイエスの言葉は何を意味しているのでありましょうか。

きょうの福音を見て、ちょっとたじろいでしまいますが、元気な、張り切った牧者が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」というならいいかもしれませんが、本人が疲れている場合に、ちょっと言いにくいと、そう思います。

 

きょうのミサの朗読全体として、何を受け取ることができるでしょうか。

小さなこと、ひとつですが、第二朗読に注目いたしましょう。

パウロのローマの教会への手紙であります。

柔和で謙遜な者はキリストの軛を負って歩む。その際、神の霊、聖霊がわたしたちの心に注がれるのであります。

ローマ5章5節の言葉。

神の霊、聖霊は、主イエス・キリストと共に歩む者の心に注がれます。

 

実に、キリスト者の歩みというのは、キリストの霊に従って歩む日々のことであります。

肉に従って歩む場合は、自分中心に歩む、自己中心の生き方を意味しています。

「肉」というのは、肉体という意味ではありません。神の導きに反する自分の都合を中心とした生き方のことを言っています。

 

洗礼を受けたキリスト者は、本来、古い自分に死んだはずですが、しかし、洗礼後も、いつでもどこでも、霊に従って歩んでいるとは限らない。

知らずにそれてしまう場合もあります。

逆に、洗礼を受けていなくても神の霊に従って歩んでいる人も見かけるのであります。

聖霊の導きに反して生きること、それが肉に従って生きる、自己中心な生き方を意味しております。

 

聖霊に従順であるためには、柔和で謙遜なものでなければなりません。

至らぬわたしたちは、主イエス・キリストにならって、柔和・謙遜であることができますよう、祈り求めましょう。

 

使徒の派遣

202078()、年間第14水曜日

 イエスは12人を使徒とし、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすための権能を授けて、イスラエルの家に派遣した。異邦人への派遣は後日のことであった。

12人の中にはあとでイエスを裏切ったユダも含まれている。イエスは自分を裏切るものも選ばれたとは、ふかく考えさせらる。

  

福音朗読  マタイによる福音書 10:1-7
(そのとき、)イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

 

イエスは福音を宣べ伝え癒された。

202077() 年間第14火曜日

福音朗読  マタイによる福音書 9:32-38
(そのとき、)悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

――

主イエスのなさったことは、今日の福音によれば、

―悪霊を追い出し

―会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え

―あらゆる病気や煩いをいやされた。

福音宣教はイエスのみわざと結びついている。癒しと救いは重なり、救いとは人間全体の癒しであり、罪と弱さからの解放となる。

 

2020年7月 6日 (月)

癒しと救い

2020年7月6日、年間第14月曜日ミサ福音朗読

 

マルコ、ルカに平行個所のある二人の女性の癒しの話。とくに出血症の女性の癒しに注目したい。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と彼女は自分に言い聞かせる。「治してもらえる」の治すはギリシャ語原文は本来「救う」という意味らしい。病気の人がイエスに期待するのは「救う」ことより「癒す」ことだろうから「癒す」「治す」と訳しているらしい。ここで考えたいことは「癒し」と「救い」の関係である。「癒し」は「救い」の中に内包されるだろう。人が救われる場合、「癒し」がなければならない。しかし癒されれば救われるとは限らない。「癒し」と「救い」の関係をこの機会に考えてみたい。出血症の女性にとって「癒しはまさに救い」であったと推察される。イエスの神の国の福音のなかに「癒し」は大きな働きを占めていた。いまの福音宣教で考慮すべきはさらなる「癒し」ではないだろうか。

 

福音朗読  マタイによる福音書 9:18-26
(そのとき、)イエスが話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。

 

2020年7月 4日 (土)

新しいい革袋

74日 年間第13土曜日

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

イエスの福音は新しいぶどう酒。福音を入れる新しい革袋とは何か。

新しい革袋とは、イエスの福音を伝える教会のことだろう。その組織、制度、神学、典礼、霊性などすべて新しいぶどう酒にふさわしい新しい在り方、表現、方法をとっていなければならない。INCULTURATION インカルチュレーションという言葉がある。福音宣教する際、今の文化を通し、今の文化によって、人々に通じる新しい表現をとらなければならない。

 

ーー

第一朗読  アモス書 9:11-15
(主は言われる。)その日にはわたしはダビデの倒れた仮庵を復興しその破れを修復し、廃虚を復興して昔の日のように建て直す。こうして、エドムの生き残りの者とわが名をもって呼ばれるすべての国を 彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。
見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続きぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせすべての丘は溶けて流れる。わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み 園を造って、実りを食べる。わたしは彼らをその土地に植え付ける。わたしが与えた地から 再び彼らが引き抜かれることは決してないとあなたの神なる主は言われる。

 

福音朗読  マタイによる福音書 9:14-17
(そのとき、)ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 

 

 

 

 

 

2020年7月 3日 (金)

トマスはイエスの体に触れただろうか?

202073日、聖トマ使徒 祝日

使徒トマスは疑い深い使徒として知られている。イエスが復活して弟子たちの隠れ家に現れた時、たまたまトマスは不在であった。仲間の弟子たちからイエスの出現を聞いても信じようとはしなかった。

「トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』

その八日後、トマスが居合わせた時、復活したイエスが現れてトマスに言われた。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

有名な場面である。見るだけではなく触ってみて確かめないと信じないといったトマスは人生の重要な問題については非常に慎重であった。そのおかげでほかの臆病で疑い深い人たちもトマスの前例を信じて、復活を信じることができるようになった。

さて、ところで復活したイエスの体はどんな体であったのか。鍵のかかっている家の中に入ってきた、とある。地上の存在の条件に左右されない体、生身の人間を超える状態にある体であったと思われる。確かに弟子たちはイエスの姿を見た。しかしある時間、ある場所で弟子たちが出会ったわけで、イエスはいつまでも、どこにでも現れ続けたわけではない。いわば《復活体》という体である。

それではトマスは実際にイエスの体に触れ、受難の後の体の傷跡に触ったのだろうか。ヨハネの福音からは明確ではないがおそらく触ってはいない。

「(イエスは)トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。」

トマスは、イエスの体に触るまでもなく、すぐに恐れ入ってイエスを礼拝している。

トマスの信仰告白があったからこそ教会が誕生し、生前のイエスを知らないし、復活したイエスを見てもいないわたしたたちがキリスト信者になる事が出来ている。

―――

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:24-29
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

 

 

 

 

 

2020年7月 2日 (木)

罪の赦しと癒し

202072日、年間第13木曜日

福音朗読  マタイによる福音書 9:1-8
(そのとき、)イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

――

『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。言うだけならもちろん前者、罪の赦しである。

罪の赦しは目に見えない。中風の癒しは目に見える。「起きて歩け」と言ってその通りにならなければ、イエスは偽りもの、となる。罪の赦しの方は、赦されたかどうかを確かめる目に見えるしるしがわからない。罪の赦しを宣言しても起きて歩け、と言ってもその通りにならなければ、イエスの権威は疑わしいことになる。

人々は中風の癒しを見てイエスが罪の赦しを伝える権威を持つ者であることを信じた。

「癒し」と「罪の赦し」とどのような関係があるのか。

今日の福音の癒しはイエスが罪の赦しの権威をもことを証明するために行われたと思われる。

 

2020年6月28日 (日)

ペトロの信仰

聖ペトロ・聖パウロ使徒 祭日(629)

2020628日、本郷教会

 

第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録121-11

第二朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(テモテ46-8)

福音朗読:マタイによる福音(マタイ1613-19)

 聖ペトロ、聖パウロの二人の人は、教会の二つの礎、或いは、二本の柱というべき非常に重要な人物であります。
ペトロは、使徒の頭として、信仰を宣言し、イスラエルの小さな村から初代教会をつくり、パウロは、キリストの神秘を解き明かし、異邦人の使徒となりました。
本日のミサの叙唱が告げる通りであります。

きょうの福音で、ペトロは弟子たちを代表して、信仰告白しています。

「あなたはメシア、生ける神の子です」このペトロの信仰告白に対し、

イエスは言われました。

「バルヨナ・シモンあなたは幸いだ、あなたにこのことを表したのは人間ではなく私の父なのだ。」

イエスはペトロのこの言葉を、最大限に称賛していると思われます。
この言葉に続き、ペトロに向かって言われました。
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」

此処は、依然、わたしたちのローマカトリック教会がよく引用していた箇所であり、わたしたちの教会の成立の根拠、そして、最初のローマの司教であったペトロと、その後継者の役割、位置、特に、後日(第一バチカン公会議の時ですが)ペトロの首位権の根拠とされた箇所であります。
ペトロという名前ですが、彼のフルネームはバルヨナ・シモン

このシモンに、イエスはアラム語の「ケファ」という名前を与えられました。この「ケファ」というアラム語、彼らが話していたと思われる言葉ですが、「ケファ」をギリシャ語訳にすると「岩」という意味になります。そして、ギリシャ語では「ペトラ」となりますが、ペトラは女性名詞ですので、ペトロは男性であるから、「ペトロ」に替えたのではないかという説明があります。
「ペトラ」のままであるとすると、「ペトロの信仰」を意味していたのかもしれない。
しかし、いずれにせよ、ペトロの信仰、或いは、ペトロ自身をさすにしても、ペトロを教会成立の重要な礎にしたということに変わりはありません。

この後、さらにイエスは言われた。
「陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

「陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」この言葉によって、わたしたちはローマカトリック教会において、ペトロとその後継者は使徒の頭とされていると解釈してきました。

本日は、その問題はこれくらいにしておきまして、福音朗読の続きの部分を思い起こしたい。

この直後に、イエスは、いわゆる「受難の予告」を行っています。

イエスはご自分が「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから、多くの苦しみを受けて、殺され、三日目には復活することになっている、と、弟子達に打ち明け始められた」と、出ているのであります。

ペトロは大変正直な人で、直ぐにその言葉に反応しまして、イエスを脇にお連れして、いさめ始めた。

「主よ、とんでもないことです、そんなことがあってはなりません。」このペトロの言葉に対して、イエスは、「お前がそう言ってくれることはありがたいが、それは違うのだよ」という説明をしたかというと、そうではなかった。いきなり、ペトロを叱責して言いました。
「サタン、ひきさがれ、あなたは私の邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている」
と、なると、ペトロの信仰告白は、どれだけイエスの使命を理解した上でのことであったのか、非常に疑問になってきます。

人の思いと、神の思いの間には、天と地ほどの遊離、相違が存在していたと思われます。ペトロの言ったことは、いたって常識的なことでありました。わたしたちにもこのペトロの言葉になるほどと思う部分があります。しかし、わたしたちは既に知っています。イエスは、この後、ご自分の受難への道を歩み始めたのです。

受難とはなぜ起こったのか。イエスは自分の教えた言葉を実行しなければなりませんでした。

山上の説教、神殿での教え、これらの言葉は、すでに多くの人々、多くの宗教の指導者、祭司、ファリサイ人、律法学者、或いは長老達の反感、憎悪を引き起こしていたのであります。

わたしたちは、一年掛かって、イエスの生涯と受難を学んでいることになりますが、特に、四旬節、聖週間の典礼において、イエスの受難ということを学ぶことになっています。

わたしは、コロナ・ウイルスの問題で、今年はこの季節の典礼を充分に執行することができませんでしたが、ぜひ、次回は、イエスの受難についてもっと深くしっかりと学びたいと考えております。

 

2020年6月27日 (土)

イエス、癒し人

2020年6月27日、年間第12土曜日のミサ福音朗読より

ナザレのイエスは何をした人であったか?

「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

彼は実に「癒しの人」であった。今日の福音朗読では

百人隊長の僕

ペトロの姑

その他多数の癒しが報告されている。

「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

とはどういう意味だろうか。その苦しみを引き受けることによって人々を苦悩から解放した、という意味だろうか。どのようにしてそれが可能であるのか?

経験できない世界での出来事か?

 ーーー

マタイによる福音書 8:5-17
(そのとき、)イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 

2020年6月26日 (金)

重い皮膚病

2020年6月26日のミサより、「重い皮膚病」(ツァラト)

イエスという人は何をした人でしょうか。福音書から目立つイエスの行いは「癒し」であります。イエスは病気の人、患っている人、体の不自由な人を癒しました。今日の癒しは「重い皮膚病」の人の癒しです。

「重い皮膚病」と言う言葉は、従来は「らい」、あるいは「らい病」と訳されていました。しかし、「らい」という言葉は、人々に不快感を与え、差別を助長させます。 聖書には、この「らい」の人がたびたび出てきますが、「らい」はギリシャ語の原文では、「lepra(レプラ)」であります。旧約聖書にある「皮膚病の人」、「ツァラアト」という言葉なのですけれども、これが、ギリシャ語に訳すときに、「lepra(レプラ)」となりました。 医学が進歩して、この病気を引き起こす病原菌が発見されました。発見者の名前を取って、「ハンセン病」、あるいは「ハンセン氏病」というようにもなりました。  
聖書に出てくる「重い皮膚病」が「ハンセン病」と同じであるかどうか、ということは、今の医学では、確認できていないこともあって、「重い皮膚病」となっております。

さらに最近2018年に発表された「聖書 聖書協会共同訳」では「ツァラト」は「既定の病」と訳されています。ただし新共同訳聖書では「重い皮膚病」の訳を維持しております。(わたしは「ツァラト」でよいと思いますが。) 

自分自身の身体の変形、人に見られたくないような体の状態、それだけではなくて、人から忌み嫌われ、退けられる、一緒に暮らすことはできない、共同体の中には住めなくて、端の方に隔離されて、特に、旧約聖書の世界において、誰かに近づくときは、「わたしは汚れた者です」と叫ばなければならない、とされていました。どんなに屈辱的な思いをしたでありましょうか。  

この重い皮膚病の人はイエスの一言によって、清くされ、癒されました。司祭のところに行って、自分が癒されたことを証明し、そして、社会復帰をしても良いという許可をもらうようになったのでありました。

――

福音朗読  マタイによる福音書 8:1-4
(そのとき、)イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 

2020年6月25日 (木)

岩の上に家を建てる

2020625日、年間第十二木曜日 ミサ説教

 

山上の説教を学んできました。今日は「山上の説教」の結びにあたる部分で、

「『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ721)というイエスの言葉を聞きます。

「山上の説教」というのは、神の国の福音のあり方を述べておりますが、わたしたちにとっては、その実行がやさしくはないと思われます。

やさしくないから実行しなくてもよい、というわけではさらさらない。

しかし、実行できなくとも、実行するように努めなければならないのであると思います。

ヨハネの手紙のなかに次の様な言葉があります。

「もし自分に罪がないという者がいれば、その人は偽り者である。」(一ヨハネ18

神の前にわたしたちが正直に誠実に反省するならば、まったく自分に落ち度がないとか、過ちがないという人はいない。聖書のほかの箇所でもそのように言っています。そこでどうするのかと言うと、自分の問題を謙虚に認めて、赦しを願うということであります。

わたしたちが日々唱える「主の祈り」もそのような祈りになっています。

わたしたちは、「御心が行われますように」と祈り、それは自分のことはさておいて神様の御心が実行されますようにということよりも、自分において、自分が今日も神様の御心を行うことができますようにと、祈るのであります。

そして一日が終わって、自分がどのように自分は神の御心を実行したのかということを反省する時に、神の御心を完全に知ることもできませんし、神の御心に背くことをした、あるいは御心を行わなかったという反省をしないわけにはいかない。

そこで、「わたしたちの罪をおゆるしください」と祈るのであります。

ところで、今日の福音で言う「岩の上に家を建てる」とは、イエス・キリストという岩の上に家を建てるという意味ではないかと思います。

 

もし「わたしの天の父の御心を行う」という言葉の意味が「律法を行うこと」と同じであれば、イエスの言葉と使徒パウロの言葉が対立することになります。パウロは、人は律法を実行することによっては救われない、とはっきりと言っています。「岩の上に家を建てる」とはイエス・キリストに免じて神に受け入れていただくという意味であると考えます。

福音朗読  マタイによる福音書 7:21-29
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

 

2020年6月24日 (水)

洗礼者聖ヨハネの誕生とイエス

624日、洗礼者聖ヨハネの誕生

 624日は、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日であります。主イエス以外で、その誕生を祭日として祝う聖人は、聖母マリア以外には、本日祝う洗礼者聖ヨハネだけではないかと思います。

それほど洗礼者聖ヨハネの果たした役割が重要であると考えられています。

ヨハネの誕生とイエスの誕生の間に、ちょうど6ヶ月の期間があります。

ヨハネの果たした役割は、イエス・キリストの到来を準備するということでありまして、ちょうど旧約の時代から新約の時代に繋がる「つなぎ目」の役割をした人であります。

マタイの福音で1111節に、不思議な言葉がみられます。

「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」

この言葉は、何を言っているのだろうか。

前半は、大変ヨハネを評価する言葉である。ヨハネよりも偉大な者は、今までに現れたことはないとイエスは言われた。しかし、その直後に言われた言葉が少し分かり難い。天の国では、最も小さい者でさえ、ヨハネよりも偉大である。

ここに旧約の時代と新約の時代の比較があるのではないだろうか。

洗礼者ヨハネのイメージというのは、どういうものであるかと言うと、荒れ野で厳しい生活をし、らくだの毛衣を着て、イナゴと蜜を食物とし、とても普通の人にはできない難行苦行の生活をしながら、悔い改めを説いたわけであります。

イエスの方は神の国の福音を説きました。

イエスの周りには貧しい人が沢山集まっていました。イエスは貧しい人々と親しく交わりの時を持ち、また罪人として蔑まれていた人々ゆっくりとしたよく食べよく飲む生活をしていたようであります。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカ733)と悪口を言われています。

洗礼者ヨハネは、ヘロデによって斬首の刑を受けましたが、イエスは十字架の刑に処せられ、そして三日目に復活されました。

二人とも処刑されたわけですが、ヨハネを引きついイエスの死の後、教会が生まれました。イエスの死後生まれた教会は、神の救いの福音を宣べ伝え、今日の教会へと発展しました。

洗礼者ヨハネは、神の厳しい掟を説き 悔い改めを説いたのでありますが、イエスは愛の掟とともに、罪の赦しの福音を伝えたと思います。

キリストの聖体の説教で申し上げましたが、イエスが十字架の上で流した血は、罪の赦しのための新しい契約の血となったのであります。

 ーーー 

第一朗読  イザヤ書 49:1-6
島々よ、わたしに聞け遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠してわたしに言われた あなたはわたしの僕、イスラエル あなたによってわたしの輝きは現れる、と。わたしは思った わたしはいたずらに骨折り うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ イスラエルを集めるために母の胎にあったわたしを 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもましてわたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

第二朗読  使徒言行録 13:22-26
(その日、パウロは言った。「神は)サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』
兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られ(たのです。)」

福音朗読  ルカによる福音書 1:57-6680
さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 

 

2020年6月23日 (火)

狭き門

2020623日、年間第12火曜日

福音朗読  マタイによる福音書 7:612-14
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

――

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

有名なアンドレ・ジッドの小説『狭き門』の主題となる聖句はここからとられています。2017108日はカテドラルで子どものミサが献げられたが、「狭い戸口」の出てくる平行箇所、ルカ1322-30 が福音朗読の箇所として選ばれていました。)

「狭い門から入りなさい。―――」

というこのイエスは何を言っているのでしょうか。『狭き門』のヒロイン、アリサは、地上の人間の愛を犠牲にし断念することを説いていると受け取ったようです。彼女はジェロームへの愛を断念するめに苦しみ、悲劇的な最後を遂げます。しかし、果たしてこの箇所はそのような生き方を求めているのでしょか。

今日の福音はこの聖句の直前に

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

と述べています。これは掟の中の黄金律と呼ばれており、山上の説教のまとめであるとも考えられます。「狭い門」から入るとは、この黄金律を守ることである、とも考えられます。

ところで人はこの黄金律を守り切ることができるでしょか。誠実に反省すれば、誰でもそれは無理であると考えざるを得ません。ではどうするのか。罪の赦しを願って主イエス・キリストに自分の至らなさを告白して赦しを父である神に取り次いでいただくしかないと思います。イエス・キリストは「道、真理、命」ですから。(ヨハネ146参照)

自力で門を通ろうとすればそこは狭い門ですが、道であるイエス・キリストに依り頼むならば、通りやすい関所となるのではないでしょか。

 

 

2020年6月22日 (月)

裁いてはならない

2020622日のミサの福音朗読

福音朗読  マタイによる福音書 7:1-5
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

ーーー 

大変明解なたとえ話。子どもでも理解できる。人は他者の問題や欠点には敏感で注意深いが自分のことは棚に上げている。そもそも自分で直接自分の見ることはできない。鏡に映して見るのみ。

わわれは、日々こころのなかで人を裁いているが、決めつける前に、言葉にする前に、ひと呼吸して、公平な判断かどうか、反省すべきだろう。人は判断に偏りを避けられない。

 それでは、国家による裁判はどうあるべきか。いや教会によう裁判はどうだろうか。教会も反省すべき歴史をもっている。

 

二羽の雀の話

年間第12主日A年の説教

2020年6月21日、本郷教会

第一朗読 エレミヤの預言  エレミヤ20・10-13

第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ5・12-15

福音朗読 マタイによる福音 マタイ10・26-33

 

ほんとうに久しぶりに、この聖ペトロ聖堂で主日のミサを献げることができますことを、ご一緒に喜びましょう。

今日の福音朗読で、イエスは使徒たちを宣教に派遣するに際して言われました。

「恐れてはならない」

 三度も言われました。

「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

アサリオンという貨幣の単位はいくらぐらいの価値のある貨幣であるのか。

「聖書と典礼」の脚注に出ておりますが、1デナリオンの十分の一にあたる。デナリオンというのは一日の日当であります。1羽では売り物にならないということで、2羽1組で売っていたのでしょうか。いくらぐらいになるのか。300円とか、500円とか、2羽でまとめて売られていた。それほど価値の低い売り物でありました。ほんとうに取るに足りない安い売り物である。その雀さえも、神のご保護の中におかれている。まして、雀よりはるかに優れている人間は、髪の毛の数さえ、神に数えられているのだと。髪の毛の数。自分の髪の毛の数を数えた人はいないでしょうし、知っている人もいないでしょう。(ま、少なくなった人は別ですけど。)

これはたとえ話であります。神はわたしたちひとり一人の人間のことをすべて隅々までご存知である。当人が知らないことまで神はご存知で、わたしたちを守り、そして永遠のいのちへと導いてくださる。

たとえ体が滅びることがあっても、あなたという人間は永遠のいのちの世界へ移され、そしてイエス・キリストの復活の栄光に与るものとされるのだ。だから恐れることはない。そのように言っていると思います。

 

とはいえ、わたしたちは日々、自然の体の死、人間の日常の死、ということを体験しています。最初の人間とされるアダムの罪によって、この世に死というものが入ってきました。

第二朗読はローマ書の5章であります。一人の人によって死が人類に入ってきたが、一人の人、イエス・キリストによって、永遠のいのちがもたらされました。イエスの死と復活という出来事はすべての人に及ぶ永遠のいのちの恵みをもたらします。

ここにわたしたちの信じる信仰の神秘があるのであります。信仰の神秘はこのメッセージの中に込められています。そもそもわたしたち人類は、皆、つながりの中におかれている。同じ神によって創造された人間は、全て良いことについても悪いことについても、つながりの中に置かれています。最初の人、アダムに起こった悪いことは、不可避的に避けられないような仕方で、全ての人に影響を及ぼしました。わたしたちは、人類は、行い蓄積してきた悪のなかに生まれました。誰も自分の出生を選ぶことはできません。従って、この悪の連鎖の世界の中に生きることを免れないのであります。この悪の連鎖の中に生まれることを、「原罪」という言葉でいうことがあります。しかし、この悪の連鎖反応に比べて、善の、善いことの連鎖反応は、比べものにならないほど強く、そして、頼りになるものであります。善の連鎖とは、イエス・キリストの生涯、特に復活がもたらした恵みを指しています。復活したイエス・キリストは、聖霊を注ぎ、一人一人を内側から新しい人に生まれ変わらせてくださいます。

とはいえ、この善の連鎖反応は、いわば、自動販売機のように機能するものではありません。わたしたちの側の「信仰」という応答が必要であります。イエスによってもたらされる恵みを認め、受け入れる人間の側の応答が必要であります。教会は、人々がそのキリストの働きを受け入れるようにと、人々に呼びかけ働きかける使命を帯びています。

悪との闘いは、時には非常に大きな苦しみを伴います。今日の第一朗読、エレミヤ預言者は、その苦しみをエレミヤ書の中で告白しています。現代の教会も、悪との闘いの中で苦しんでいる部分があります。復活のキリストの再臨のときは、この闘いに終止符を打つとき、最終的な悪への勝利のときであります。そのときが来ることを待ち望みながら、希望のうちに歩んでまいりましょう。

 

2020年6月20日 (土)

十二歳のイエスの出来事

2020620日、マリアのみ心の記念日

今日の福音朗読は、ルカだけが伝える12歳の少年イエスの物語です。12歳と言えば当時のユダヤに社会では成人とみとめられていたようです。

大人として認められる年齢に達してイエスが何故両親に断りなく単独行動を取ったのだろうか。一言断れば済むことであるのに。当然、その軽率な行動を母マリアは咎めて言っている。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

母としてあってしかるべき注意の言葉である。それに対するイエスの応答が常識から外れている。普通はまず謝罪の言葉がある筈だ。その後で事情の説明ないし弁解があってしかるべきだ。学者との議論に夢中になって両親のことを失念してしまったのかもしれない。しかしイエスの言葉は意外な返事であった。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

どういう意味だろうか。両親には理解できなかった。しかし、マリアはこのイエスの言葉を心に治め、何度も思いめぐらしたことだろう。ヨセフの方はどうだったろうか。養父である自分の前で自分の真の父は神殿に住む神であると言われたとしたら、それをどんな気持ちで聞いたのだろうか。

イエスはこの後両親に、従順に過ごして、何事もなく平凡無事な日々を送ったらしい。イエスが宣教活動を開始するまでこのときからおよそ20年を要している。12歳のイエスが初めて自分の使命を自覚し、その準備のために20年を費やしたということだろうか。

 

第一朗読  イザヤ書 61:9-11
彼らの一族は国々に知られ、子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

福音朗読  ルカによる福音書 2:41-51
(イエスの)両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。

 

 

イエスのみ心

イエスのみ心のミサ説教

2020619()、本郷教会

 

纏まりのない二三のことを申し上げます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。

そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

この今日の福音の言葉を味わってみたい。

「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。」

イエスはそう言われた。

この本郷教会の掲示板に掲げられている言葉です。

何年か前のことですが、毎月一回土曜日、わたくしは(カテドラルから)不忍通りを歩いて本郷教会に通っておりましたが、その途中もうだいぶ本郷教会に近いところにあるルーテル教会にも同じ言葉が掲示されておりました。

福音というのはなんであるか。

人びとに安らぎ、あるいは憩い、あるいは癒しを与えることではないかと思う。

わたくしの印象では、従来罪からの赦しということを強調してきたけれども、わたくしたちが日々感じ、思っている救いというのはどういうことか。

わたくしたち自身の存在自体にある不安な、そして満たされていない状態ではないだろうか。その中に病気ということもあるし、孤独ということもある。そういう現実を罪という言葉で括ると分かり難くなってしまう。そういう現実は罪の結果かもしれない。神から離れている結果、わたくしたちはいつもこれではいけないという気持ちを抱かされているのかもしれない。

イエス・キリストの招きに応えて集まったわたくしたちは、求めるものがあって来たわけで、その求めることがどれだけ満たされているかは人によって違うでしょうけれど、求める側から与える側にもならないといけないので、教会としてはどんな人にも、疲れている者、重荷を負う者にどうぞ来てくださいと。

でも来てもらって、その人たちの思いにどれだけ応えられるかというと、また別な事になるのかもしれない。

この教の福音の箇所は何度も出会っているわけです。

 

「わたしの軛(くびき)を負いなさい」という言葉ですが、「軛」というものを見たことがありますか。

現在の東京の生活では「軛」を見ることはないと思う。

戦前なら見られたかもしれない。

わたくしの記憶では子供の頃、わたくしの家の近くに馬車屋さん、馬車を曳いて荷物を運ぶことを仕事としている家があって、駅から毎日荷物を運んでいました。

馬が繋がれて、馬についた車に荷物を載せて荷物を運ぶんですね。

そのために馬の首のところに「軛」というものを装着するわけです。

その「軛」は車の両脇の轅(ながえ)の部分に繋がっているわけです。

絵で見た方が分かり易いですね。

多分都会の人は見たことがないと思います。

東京でも戦前は埼玉辺りから馬車が来て、いろんな物を運んだかもしれないですが。

その軛ですが、「わたしの軛を負いなさい」とイエスは言うわけです。

それは何を意味しているのであろうか。

大工であったらしいナザレのイエスは軛作りの名人だったという伝説が残っているそうで、ピタッとその馬に合う軛を作ってくれたそうです。

もちろんこの今日の話はたとえです。

わたくしたちにも軛は課せられているのですね。

その軛とは何でしょうか。あなたの軛は何でしょうか。

これをちょっと今日は考えたら良いかもしれません。

 

ミサをあげることが難しい状況になって、いつから以前の状態に戻ることができるのか。

ちょうど四旬節の始まりと一緒にコロナウイルスの感染の問題が始まって、教会の活動が制限され、ほとんど停止といってもよい状態ですが、やっと少しずつ段階的に再開しようということで、次の日曜日、主日のミサは制限付きの公開ミサとなるということですね。

この一、二か月、どうやって過ごして来たかというと、わたくしは自分の問題、自分の病気のことで悩んできましたが、わたくしが大変お世話になった二人のイエズス会の神父様が亡くなりました。

アドルフォ・ニコラス神父様、520日、84歳。

わたくしが神学生の時に神学、わたくしたちの場合は終末論という神学を教えてくださいました。

日本管区長、そして世界全体の総長になり、終わって日本に戻り日本でお亡くなりになりました。

もうお一人、ペトロ・ネメシェギ神父様

つい最近、613日、97歳、老衰で帰天されました。ハンガリーのブタペスト。

日本で長く神学を教えてくださいました。

沢山の日本語の著書があります。

東ヨーロッパの社会主義、共産主義の政権が自由化されて教会の活動ができるようになったからでしょう、ハンガリー出身のネメシェギ神父様はハンガリーにお帰りになり、そこで約20年最後の司祭の奉仕をされました。

ニコラス神父、ネメシェギ神父、二人ともイエスの言葉に従って生きた人だと思います。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

わたくしたちの教会はイエスと同じようにはできないし、していませんが、できるかぎりこのイエスの言葉に見習って、安らぎ・癒しを与えるというよりも仲介し、伝えたい。

復活されたイエス・キリストの恵みを人びとに分かち合うことができるように準備し、与しなければならないと思います。

 

「み心」という言葉は、今は平仮名の「み」に「心」となっていますが、わたくしの時代は「聖心」と書いて、聖心という名前の修道会や学校施設がたくさんできたわけです。

ご存知の通り、東京にも聖心女子大等聖心の名がつく修道会や団体があるわけで、「聖心の信心」というものが普及して、今ちょっと下火になっているかもしれないけれど、一人の修道女聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れたイエスの言葉に基づいて始まった信心だと言われている。

イエスは人びとの忘恩、冒瀆、無関心を嘆かれたということがマルガリタ・マリア・アラコックを通して伝えられています。

特にご聖体に対する不敬、ご聖体を軽んじていることが悲しいと言われたと伝えられています。

人となられた神であるナザレのイエスの生き方、生涯全体をあらわす聖体の秘跡を大切し、訪問する、そしてイエスがその生涯に亘って命をかけて伝えてくださったことが何であるかということを日々心に深く刻みたいと思うのであります。

 

第一朗読  申命記 7:6-11
(モーセは民に言った。)あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。


あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。

第二朗読  ヨハネの手紙 一 4:7-16
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

福音朗読  マタイによる福音書 11:25-30
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 

 

 

 

 

2020年6月17日 (水)

主の祈り

618日 年間第11木曜日、「主の祈り」

福音朗読  マタイによる福音書 6:7-15
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

ーーー

有名な主の祈り、毎日唱えている。

前半は、わたしたちを通して神のみ旨が行われますようにと祈る。

後半は、自分たちの身に実現してほしい切なる願いをささげる。その願いの中に「わたしたちの負い目を赦してください。」とある。「負い目」という言葉は日本語としてわかりやすい。「負い目」は普通「罪」とされている。「罪」は現代の日本人には馴染みにくい。「負い目」で説明して後から「罪」という言葉を使うほうがいい。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」誰でも人に負い目がある。これを否定する人は少ない。問題は「赦します」か「赦しましたように」か、である。

原文の解釈には二説あり、どちらも可能であるらしい。自分が赦さないで自分だけ赦してもらう訳にはいかないだろう。人を赦して初めて神の赦しを受ける心の準備ができる。赦さない人は神からの赦しを受けられないと考えるほうがいいだろう。

もう一つの問題。「誘惑」か「試練」か。ギリシャ語原文から両方の訳が可能。

誘惑はどこから来るか。神からは来ない。試練なら神から来る。

ーーー

第一朗読  シラ書 48:1-14
火のような預言者エリヤが登場した。彼の言葉は松明のように燃えていた。彼は人々に飢饉をもたらし、その熱意をもって人々の数を減らした。彼は主の言葉によって天を閉ざし、三度、火を降らせた。エリヤよ、あなたはその驚くべき業のゆえに、どれほどほめたたえられたことだろうか。あなたと等しく誇りうる者があろうか。あなたはいと高き方の言葉によって死者を死から、陰府から立ち上がらせた。あなたは王たちを破滅に導き、名士たちを安眠の床から引きずり降ろした。あなたはシナイ山で非難の言葉を聞き、また、ホレブの山で裁きの宣告を聞いて、王たちに油を注いで報復させ、預言者たちに油を注いで後継者とした。あなたは火の旋風に包まれ、火の馬の引く車に乗せられ天に上げられた。あなたは、書き記されているとおり、定められた時に備える者。神の怒りが激しくなる前に、これを静め、父の心を子に向けさせ、ヤコブの諸部族を立て直す者。あなたを見る者、また、愛のうちに眠りについた者は幸いである。確かに、わたしたちも生きるであろう。
エリヤが旋風の中に姿を隠したとき、エリシャはエリヤの霊に満たされた。彼は生涯、どんな支配者にも動ずることなく、だれからも力で抑えつけられることはなかった。彼にとって手に余ることは何もなく、死後もその体は預言の力を失わなかった。彼は生きている間、不思議な業を行い、死後もなお驚くべき業を行った。

 

 

 

2020年6月16日 (火)

右の手のすることを左の手に知らせてはならない

2020617日、年間第十一水曜日のミサ福音朗読より

 

「山上の説教」を読んできました。

昨日の説教は、「敵を愛しない」という教えでありました。

イエスは自分の教えたことを、自分で実行しました。

今日の説教は、偽善者に向けて行われています。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」と今日の福音は言っています。この教えは今の日本に住む我々にも分かりやすく受け入れやすい常識的な教えではないでしょうか。

しかしイエスは今日の福音で自分の善行を見せびらかす人々を激しく批判しています。非常に痛烈な批判を偽善者に向けてしているのであります。

偽善者というと福音書においては、ファリサイ人、律法学者が代表者です。

人の前に良い人であると装いながら、心の中は醜い名誉欲、放縦、自分のことをほかの人よりも大切にする心でいっぱいである、そのようにイエスは批判しました。

当時の人々の考えで、良い行いの代表は、施し、祈り、断食でありました。

施しをする時には、人から褒められるような態度でしてはならない。                                                                                     

「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」と言われました。

また祈る時は、これ見よがしに私はどんな敬虔な人であるかということを見せたがるような祈りは、してはならないと言われました。

断食ということについても、いかにも人々にそれとわかるような断食の仕方をしないで、分からないように、頭に油をつけ顔を洗いなさい、と言われたのであります。

イエス・キリストとはどんな人であるかということを、わたしたちは毎日祈り求めています。

イエスは弱い人、病む人、迷う人に大変優しく、そして寛容でありました。

しかし自らを以って権威者とし、真理を保有していると自負する律法学者、ファリサイ派の人に対しては、非常に批判的な態度をとったのであります。

イエスはなぜ、どのようにして磔刑に架けられたのか?

律法学者、ファリサイ派の人々が画策してイエスを十字架に追い詰めました。そうならないように、もっと穏やかに妥協的に対処する選択肢もあったのに、イエスは断固とした態度を当時のユダヤ教の指導者たち(祭司たちも含めて)に対してとったのであります。

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福音朗読  マタイによる福音書 6:1-616-18
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 

 

 

敵を愛せるか?

敵を愛しなさい—―2020616日、年間第11火曜日

 

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

有名な教えである。キリスト教徒でない人でもイエスが「敵を愛しなさい」と命じたことを知っている。

「愛しなさい」の「愛」はアガペーである。アガペーはキリシタン時代には「ご大切」と訳したと聞く。現代の「愛する」という言葉は多義的で曖昧である。「愛する」は「好きになる」という意味ではない。相手に人間にとしての価値、尊厳を認め尊重し大切にすることである。相手のためになる事を行い、相手のために善を願って祈ることである。なぜなら「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」イエスは自分を迫害するもののために祈り、救いのために十字架に架けられた。自分を憎んでいる敵であっても同じ人間であり、神の似姿であり、同じ父である神の子である兄弟姉妹である。

ところで、この教え、弱く自己中心な人間であるわたしたちに実行可能だろうか。この教えは、神の国が完成した時のあるべき姿を述べているのであって、「神の国」では当然かもしれないが、現在の地上では実現困難ではないかという意見もある。しかし、困難であってもこの目標を撤回することはできないし、この旗印を引っ込める訳にはいかない。完全には実行できないから、この教えは間違っている、とは到底言えない。実行できなから、もう従わなくてもいいと、いうことも言えない。
わたしたちに生活と社会の中には、そのような緊張関係がいつもある。

聖ヨハネパウロ二世は紀元二千年という大聖年を迎えるに際し、書簡を発表し(『紀元2000年の到来』)、2000年という人類の歴史の大きな節目を迎えるにあたって、教会として反省すべきことがあるのだということを述べた。その中に、「教会の子ら」が暴力を使用した、ということを言っている。真理への奉仕に際し、暴力を使用したこと、暴力を使用することを黙認したことを、大いなる反省事項として挙げている。教会の教える正しい教えに反対する人、あるいは従わない人は、暴力を以って処罰してもよい、という考えが支配的であった時代があったことも否めない。

 

それはイエスの言葉に反することは明白ですが、当時の教会はそのようには考えなかったようであります。

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:43-48
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

 

 

2020年6月14日 (日)

一緒にニミリオン行きなさいとはどういう意味か?

2020年6月15日ミサ福音朗読より

 福音朗読  マタイによる福音書 5:38-42
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 今日の福音の教えも、一般に、実行が難しいと思われる内容ではないだろうか。

『目には目を、歯には歯を』はいわゆる「同害復讐法」であり、復讐心に歯止めをかけるための法である。自分の受けた被害と同じ程度の損害しか加害者に課してはいけないと命じている。言い換えれば受けた損害を上回る攻撃をして復讐することを禁じている。しかしイエスはこの法の精神を超える生き方を命じる。相手の要求を甘んじて受けるだけではなく、相手の要求以上の応答をするようにと言っている。悪人に抵抗しないという無抵抗主義ではなく、悪人のためになる何らかの善の行為をするようにと言っているのである。無抵抗主義を超えた神の愛の世界を述べている。イエスの生涯を見れば、イエスはこの自分の言葉を実行したことが分かる。福音書は、イエスが自分を裏切ったユダに対してとった態度、十字架上で自分を処刑する人々のために祈ったイエスの祈りを記している。

キリストの聖体

6月14日、キリストの聖体の祭日

 今日は、キリストの聖体の祭日です。主イエスは、
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を受ける」(ヨハネ6.54)
と言われました。このイエスの言葉にユダヤ人は躓きました。ユダヤ人は「どうして、この人の肉を食べたり、血を飲んだりすることができるのだろう。冗談じゃない」と考え、弟子たちさえも「一体、何をおっしゃっているのだろう。分からない」と思い、多くの弟子たちは、「もう、ついて行けない」と、イエスから離れて行ったのでした。
この前の日曜日の福音は、三位一体の主日の福音でした。
「神はこの世を愛し、わたしたち人間を愛し、ご自分の命に与るよう招いておられる。そのために愛する独り子、イエスをお遣わしになった。それはイエスを信じる者が、みな、永遠の命に至るためであった。」
そのような内容の福音でした。
今日は、その続きです。神様は、すべての人を、ご自分の「いのち」に招き、ご自分の幸せに与らせたいと望んでいます。
ただ、その神様のお気持ちを知り、そして、それを受け入れ、感謝しなければ、人は、神の「いのち」に与ることができません。神はこの神の愛を信じてもらうためにナザレのイエスという人を遣わし、人々に、神の国の福音を説き、更に、イエスがご自分の体を十字架につけられること、十字架の上で、御血を流すことさえ、拒まれませんでした。
弟子たちは、後になって、このイエスの言葉の意味を悟ります。今日、キリストの聖体の日です。ご聖体をわたしたちは信じ、ご聖体拝領をいたします。ご聖体は、ミサの中で、司祭によって聖別される。司祭の唱える聖体制定の言葉も、司祭は必ずこの言葉を唱え、みなさまは必ずその言葉を聞き、そして、その後、司祭が「信仰の神秘」と言います。

司祭ははっきりと、

「これは、あなたがたのために渡されるわたしのからだである。」

と言います。《イエスのからだ》、それは、あなたがた、つまり、わたしたちのために、十字架につけられる体です。

「皆、これを受けて飲みなさい。これは、わたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。」

この言葉の中に、わたしたちの信仰の中心が凝縮されています。
イエスが十字架にかかり、そして、血を流されたのは、わたしたちの罪の赦しのためです。わたしたちは、罪の赦しをいただきます。罪の赦しをいただくわたしたちは、心からの感謝を献げましょう。

神様は、わたしたちをご自分の「いのち」に招く。しかし、わたしたちは、どんなに頑張っても、神様のみ心に適う、満足していただけるような人間になることができません。そのような自分でも、神様は、赦し、受け入れてくださっている。そして、わたしたちに聖霊を注ぎ、永遠の「いのち」を与えてくださっています。この信仰を確かめ深めてまいりましょう。

 

第一朗読  申命記 8:2-3、14b-16a
(モーセは民に言った。)あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 10:16-17
(皆さん、)わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

福音朗読  ヨハネによる福音書 6:51-58
(そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 

 

 

2020年6月13日 (土)

一切誓いを立ててはならない

613日 聖アントニオ(パドバ)司祭教会博士

福音朗読  マタイによる福音書 5:33-37
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 

「一切誓いを立ててはならない。」とはどういう意味だろうか。教会の中では「誓願式」という式が行われ、自分も、何度も司式したり立ち会ったりした。この習慣はイエスの教えに反しているのだろうか。誓願式とは違うが「叙階式」という重要な式をたびたび司式している。式の中で助祭・司祭・司教になる予定の者には「約束」をしてもらう。助祭に叙階されるものは生涯にわたって独身を守ることを神と会衆の前で約束してもらう。叙階式を行わなければ司祭が生まれない。司祭がいないと教会は重大な困難に直面する。結婚式の司式もしている。結婚式では「誓約」をしてもらう。

 

一切の誓願をしてはならないという意味か、それとも偽証してはならない、誓ったことは必ず実行し果たしなさい、という意味だろうか。実際、誓願を立てても全うできない人が出てくる。その場合の手当ても決まっていて、必要な手続きをすれば誓願は免除される。司祭叙階の場合の、種々の事情で司祭職を全うできない場合が出てくる。

今日の福音によれば、イエスの時代、人々は頻繁に、いろいろなものにかけて誓いを立てていた。「天にかけて」「地にかけて」「エルサレムにかけて」「あなたの頭にかけて」という具合に。手軽に誓いをかけているので内容が空疎になっていたようだ。

そもそも私たちの生活は契約や約束で成り立っている。「誓い」など大げさなことをしなくとも、きちんと同意したことを実行しさえすればよいのである。自分の言葉に責任を持つ、ということで足りる。誓いを立てることがいかがわしい感じを与える。

 

第一朗読  列王記 上 19:19-21
(その日、エリヤは山を下り、)十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。
エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。

 

 

 

2020年6月11日 (木)

姦淫してはならない

612日、年間第十木曜日

 

一昨日、610日の福音朗読でイエスは言われた。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

この言葉は、十戒の第六戒「姦淫してはならない」(出エジプト記2014)の場合に特によくあてはめられる。実際に姦淫の行為に及ばなくとも、思いにおいて実行すれば、姦淫したことになるとイエスは言っている。

「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

このイエスの言葉は多くの青年(だけではなく多くの真面目男性を)を悩ました。この箇所を原文に忠実に訳すと「女を、その女を欲するために、見る」となる。「妻」とは限らない。女性一般を解することが可能である。

しかし、ここで自然な正常な性欲自体を禁止しているという意味ではない。姦淫しようとするはっきりとした意図をもって女性を見る場合を指していると考えられる。さらに次のように解釈する人もいる。

「他人の女房に目をつけて、何とかしてその女をわが物にしたいものだと渇望している輩は誰でも、心の中ですでに他人の女房を盗んでいるのだ。」(ケセン語新約聖書の著者山浦玄嗣の解釈)

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:27-32
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

第一朗読  列王記 上 19:9a11-16
(その日、エリヤは神の山ホレブに着き、)そこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。」

 

 

 

聖バルナバ使徒

聖バルナバ使徒の記念日

2020年6月11日(火)、本郷教会

 今日は聖バルナバ使徒の記念日であります。

バルナバという使徒は、使徒パウロにとって非常に重要な役割を果たした人でありました。今日の使徒言行録によりますと、バルナバはアンティオキアというところで活躍し、アンティオキアからサウロ(のちのパウロ)をタルソスへ行って見つけて、アンティオキアに連れ帰ったとなっています。

サウロはアンティオキアの出身です。サウロが異邦人の使徒になれたのは、バルナバのおかげであると言っても良いのであります。

キリスト教徒を迫害していたサウロが、異邦人に福音を宣べ伝える使徒になることができたのは、バルナバがサウロを理解し、サウロを支持したからであります。

このアンティオキアというところで初めてキリスト者という名前が生まれたと今日の使徒言行録は伝えています。

そして、バルナバとサウロがアンティオキアから派遣されて、異邦人の世界へ福音を宣べ伝えるようになったのでありました。

 

ところで今日の福音の言葉についての一言を申し上げたい。それは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」という言葉であります。

何をただで受けて、何をただで与えるという意味なのでしょうか。

イエスから派遣された使徒たちは、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う」という権能を授かりました。

イエス・キリストの行い、イエス・キリストが人々に伝えた恵みを、同じ恵みをあらわし伝えることができるようにされたのだと思います。

ですから、ただで受けたものというのは、主イエス・キリストから受けた賜物、権能のことではないかと思います。

さらに考えてみれば、わたしたちが受けているものはすべてどんなものでも、主なる神からいただいたものでありますので、それを神様の御心に従って活かさなければならない。神様のみ旨に従って、それを神の栄光のために活かさなければならないと思います。

 

ーーー

第一朗読  使徒言行録 11:21-11:26、12:1-12:3
主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
アンティオキアでは、そこの教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデの幼なじみマナエン、サウロなど、預言者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。

福音朗読  マタイによる福音書 10:7-13
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」

 

2020年6月10日 (水)

旧約を完成するイエス

610日 年間第10水曜日

 福音朗読  マタイによる福音書 5:17-19
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」

 今日の福音朗読でイエスは言われた。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

「律法や預言者」とは旧約聖書の教え全体を指すと思われる。イエスは旧約聖書の精神を展開させ純化し、預言として述べられていたことの意味を明らかにし、旧約聖書全体を完成するために来たのである。旅人の姿でエマオへの弟子に現れたイエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(ルカ2427)のだった。

64日 年間第9木曜日の説明で述べたように、旧約聖書には613の掟を数えることが出来るという説があるくらい掟の数は多い。しかしイエスはわたしたちに新しい掟を残したのである。それは「互いに愛し合いなさ。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ1334)という掟である。

使徒パウロもローマ書の中で言っています。

人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするのです。(ローマ138-10)

 さて、旧約聖書には祭儀の執行に関する詳しい規則が定められているが(レビ記など参照)、新約の記念の祭儀ミサが定められたのに伴い、そのような規則は必要でなくなった。また福音が異邦人に広まるに際しユダヤ人にだけ定められていた食物禁忌の規則も廃止された。(使徒言行録10章参照)

―――

第一朗読  列王記 上 18:20-39
(その日、)アハブはイスラエルのすべての人々に使いを送り、預言者たちをカルメル山に集めた。エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。エリヤは更に民に向かって言った。「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」民は皆、「それがいい」と答えた。
エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたたちは大勢だから、まずあなたたちが一頭の雄牛を選んで準備し、あなたたちの神の名を呼びなさい。火をつけてはならない。」彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。「大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。」彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。
エリヤはすべての民に向かって、「わたしの近くに来なさい」と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルである」と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りに種二セアを入れることのできるほどの溝を掘った。次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に載せ、「四つの瓶に水を満たして、いけにえと薪の上にその水を注げ」と命じた。彼が「もう一度」と言うと、彼らはもう一度そうした。彼が更に「三度目を」と言うと、彼らは三度同じようにした。水は祭壇の周りに流れ出し、溝にも満ちた。献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」
すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。

2020年6月 9日 (火)

「地の塩の箱」を知っていますか?

69日 年間第10火曜日

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:13-16
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

ーーー

昨日の福音朗読は

「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」

から始まる「幸い8か条」、それに加えて、

「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」

という「幸い」一か条を入れて「幸い9か条」の福音であった。

「幸いである」は「祝福されている」という意味である。その同じ群衆に向かって、祝福されている人々に向かって、イエスは、昨日の続きの今日の福音で

「あなたがたは地の塩である。・・・世の光である。」と言われたのである。「あなた方は努力して地の塩になりなさい。」「世の光になりなさい。」と言われたのではなかった。この点に注目したい。イエスの周りに集まって人々は貧し人、病者、障がい者、社会で後回しにされ蔑まれていた人、細かい律法の規定を守っていない人(そもそも律法の詳細を学ぶ機会にも恵まれていない人)であった。そのような人に「あなたがたはそのままで、地の塩、世の光である」と言われたとしたら、それは実に驚くべきことであった。イエス自身「わたしは世の光である。」(ヨハネ812)。と言っている。そのイエスから祝福された人々はすでに「イエスが光である」によってイエスの光を受けていると言えないだろうか。人はイエスから祝福されて小さな光を灯すものであるという自覚をもつことができる。それは「あなたがたの光を人々の前に輝かす」ことであり、それは「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

それは善行を人々に見せて自分の名誉を得ることを目的として行うのではない。それは、結果として、人々に天の父の存在、父である神の慈しみを知らせることになるのである。

かつて50年以上前のこと、「地の塩の箱」というものがあったと思う。街頭に取り付けられて人日の寄付を呼び掛けていた。また誰でもそこから必要な金額を取り出すことができた。高度経済成長以前の貧しい敗戦後の東京の風景である。あの「地の塩の箱」はどうなったのであろうか。この世知辛い世の中で社会を善意という塩味で味付けする役割を担っていたと思う。

「地の塩の箱」は消えてしまったが、「地の塩の箱」のように、善意と親切を実行する人は決して少なくはない。キリスト者はそのような人々に負けないで「地の塩」であり続けたいものである。

 

第一朗読  列王記 上 17:7-16
(その日、エリヤがとどまっていたところの近くにある)川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。また主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。
主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく瓶の油はなくならない。」
やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

 

 

 

2020年6月 8日 (月)

霊にて貧しい者

68日 年間第10月曜日

 

有名な山上の説教である。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(5:3)

有名な箇所であり解釈が難しい箇所でもある。
原文を忠実に訳すと次のようになる。

「幸い、霊にて貧しい者。天の国はその者たちのものである。」(田川建三訳)

フランシスコ会訳は「自分の貧しさを知る人々は幸いである。」と訳している。「心の貧しい人」という訳は、日本語では否定的な意味、「つまらないことしか考えられない」という意味にとられる。(『日本語大辞典』講談社より) 心は豊かでありたいと考える。「ああ、なんと幸いなことでしょう、心のへりくだっている人たち。」という訳もある。『聖書 現代訳』(尾山令仁訳)

原文に忠実な「霊にてまずしい者」が適切だと思われる。「霊」とは何か。神の霊を指すのか。神の霊とのかかわりにおいて弱く乏しく貧しい人のことを指すのだろう。神とのかかわりが弱い者を神は大事にしてくれる。自分をそのような者と自覚し、そのような自分を大切にする神の思いを知るならばその人たちは祝福されたものとなる。謙遜な者とは神の行為を信じ自分の力により頼まない者である。この意味で、第三の「幸いである」の「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」と意味が通じるように思われる。貧しさ自体でなく、神とのかかわりの中での貧しさを言っているのではないだろうか。

ーー

第一朗読 列王記上 17:1-6
(その日、)ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。

福音朗読  マタイによる福音書 5:1-12
(そのとき、)イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

 

 

 

 

 

2020年6月 7日 (日)

房総半島の山奥で(三位一体の主日説教修正短縮版)

三位一体の主日ミサ説教

202067()、本郷教会

聖霊降臨の次の主日は、三位一体の主日となっています。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように」。

この言葉は第二朗読の中にあるパウロの言葉でありまして、ミサの開祭のときに司祭が唱える招きの言葉となっています。

ミサの開祭のときに、わたくしたちは「父と子と聖霊」の三位一体の神への信仰を告白しているのであります。

今日のヨハネによる福音の三章ですが、非常に良く知られている箇所であります。

イエスとニコデモとの対話の続きの箇所で、キリストの教えの中心、真髄となる教えが告げられています。

わたくしの個人的な思い出ですが、第二次世界大戦の敗戦直後、アジア太平洋戦争の終わったすぐ後の頃だと思いますが、故郷の房総半島の山奥で福音宣教のラジオの番組が放送されておりました。

「ルーテルアワー」という名前の番組でありまして、その放送の時に繰り返し伝えられていた福音者の言葉、聖句が今日の福音の言葉であります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この言葉が繰り返し告げられていたのであります。

第一朗読におきましては、シナイ山でモーセにあらわれた神がご自分のことを啓示して言われました。

モーセにあらわれた神はいつくしみ深い神である。

「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者。」であると主なる神はご自身を啓示されました。

フランシスコ教皇が、即位されてまもなく『いつくしみの特別聖年』を制定されたことは、まだわたくしたちの記憶に新しいところです。

神のいつくしみは、御独り子イエス・キリストにおいて、イエス・キリストの派遣、その生涯によって完全にあらわされたのであります。

御父は、独り子主イエスを世にお遣わしになり、わたくしたちと同じ人間とされ、御子が十字架に架けられるという苦しみを耐え忍ばれました。

それは、すべての人が救われるため、すべての人がイエス・キリストを信じて永遠のいのちに至るためであります。

わたくしたちキリスト教信者の使命は、洗礼を受け堅信の秘跡を受けました時に告げられておりますが、「父と子と聖霊」の神さまへの信仰を、自分の言葉で自分の生活であらわし伝えていくということであります。

それは福音宣教、福音化という言葉であらわすことが出来るでしょう。

わたくしたちは、自分が信じていることを自分の言葉で言いあらわし、自分の生活の中で実行しなければなりません。

言葉と実行が一致しない人の言葉は力がなく、信じてもらうのは難しいと思います。

信じている「神の愛」を生活の中で実行するならば、多くの人はそこに本当に「神の愛」があることを信じ、そして自分も信じてみたいと考えるようになるかと思います。

聖霊の恵みを祈り求め、わたくしたちは生活の中で「神の愛」を生きることができますように祈りましょう。

 

第一朗読  出エジプト記 34:4b-68-9
(その日、)モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、(た者)」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 二 13:11-13
兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。


主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

福音朗読  ヨハネによる福音書 3:16-18
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである

 

 

 

 

 

 

2020年6月 6日 (土)

三位一体の神

6月7日 三位一体の主日

 聖霊降臨の次の主日が、今日、三位一体の主日です。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。
いま、読まれました、第二朗読の中にある、このパウロの言葉が、わたしたちのミサの開祭のときに、司祭が唱える招きの言葉となっており、この開祭の招きの言葉がそのまま、わたしたちの、「父と子と聖霊」の三位一体の神への信仰告白となっています。

本日の福音朗読、ヨハネ福音の3章はヨハネの福音の中でも、よく知られている箇所です。イエスとニコデモとの対話の延長の中で、イエス・キリストの教えの中心、真髄となる教えが告げられています。

個人的な思いでとなりますが、第二次大戦の敗戦直後のこと、故郷の房総半島の山奥でも、「ルーテルアワー」という福音宣教のラジオ番組が放送されておりました。その放送で毎回繰り返し伝えられていた聖句が

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

であったと記憶しています。福音のエッセンスを繰り返し伝えていたわけで、それなりのインパクトがありました。

第一朗読で述べられていますように、モーセにあらわれた神、父である神、イスラエルの神は、いつくしみ深い神です。
フランシスコ教皇が『いつくしみの特別聖年』を制定されたことはまだ記憶に新しいところです。神のいつくしみは、御独り子、イエス・キリストの派遣、その生涯によって、完全にあらわされました。

御父は、独り子、主イエスを世にお遣わしになり、そして、わたしたちと同じ人間とされ、御子が十字架に架けられる苦しみを耐え忍ばれました。

神が独り子をお遣わしになったのは、すべての人が救われるため、すべての人がイエス・キリストを信じて、永遠のいのちに至るためです。
御子、イエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちに移され、そして、神のいのち、救いにあずかる者とされます。ここに、わたしたちの信仰告白の中心がある、と思います。この信仰を宣べ伝え証しするためにわたしたちは信者となりました。そこで今日は改めて、今日ご一緒に三位一体の信仰について考えてみましょう。
わたしたちは、何を信じているのか。どのように信じているのか。わたしたちの信仰を、自分の言葉と自分の生活であらわし、伝えなければなりません。自分の心で受け止めた、神の言葉。それを、自分の言葉で、人々に分かる言葉であらわし、伝えなければならないと思います。

わたしたちは、信仰講座、入門講座などに出席し、入信の秘跡を受ける準備をして、洗礼を受けました。その際、いろいろな言葉で信仰の説明を受けたと思います。そのわたしたちの受けた信仰を説明する言葉を、更に、自分の心の中で咀嚼し、自分の血肉とし、そして、自分の言葉で、人々に伝えなければならない、と思います。

福音宣教ということは、司祭や奉献生活者だけの任務ではなくて、洗礼を受け、堅信を受けた人、全員の務めですので、自分であれば、このような言葉で自分の信仰をあらわし、伝えるということを、考え、用意していただきたい。
信仰をあらわし、伝えるということは、まず言葉により行われますが、行いによって、自分の信仰をあらわすのでなければなりません。

わたしたちの信仰の中心には、「神は愛である。」という信仰告白があります。この信仰はわたしたちの心に注がれている聖霊の働きによります。(ローマ5・5参照)、神の愛を信じているわたしたちが、自分の生活の中で、神の愛をあらわし、実行しなければ、神の愛が人々に伝わっていくことは難しいでしょう。

言葉と行いが一致しない人の信仰を、人々は、なかなか認めてくれないのではないかと思います。

これと関係して最近知った驚くべき事実、子どもについての、わたくしの心に訴えている事実に触れたいと思います。それは日本の子どもたちは、「自分に価値がある」という思いを持つことが少ないという報告です。自分を肯定する気持ちが弱い。「自分は大切な存在だ」、「自分は必要とされている」、「自分は人のために役に立つ人間だ」などという思いを、なかなか持つことができない子どもが増えている、というように報告されています。

神の愛、それは、すべての人に注がれる愛であり、「どのような人も、あなたは大切な存在であり、あなたは必要とされる存在なのですよ」ということをあらわし、伝えています。

わたしたちが、本当に信じている神の愛を、毎日の生活の中で実行するならば、一人ひとりの人が、価値のある、かけがえのない存在であるということを、言葉と行いであらわし、伝えていくならば、多くの人は、わたしたちの生き方を認め、そして、わたしたちと一緒に歩んでいただけるようになるのではないでしょうか。
そのように、言葉と行いにおいて、神の愛、イエス・キリストの教えを実行することこそ、日本の福音宣教、福音化の務めであると、わたくしは思うのです。皆さんは、「あなたの福音宣教は、どのようにすることなのか」という問いへの答えを子と具体的に考えていただきたいと思います。

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第一朗読  出エジプト記 34:4b-6、8-9
(その日、)モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、(た者)」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」

 第二朗読  コリントの信徒への手紙 二 13:11-13
兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

福音朗読  ヨハネによる福音書 3:16-18
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

 

 

2020年6月 5日 (金)

献金とは何か

66日 年間第9土曜日

 

今日の福音朗読は非常に対照的な二つの生き方を示しています。それは律法学者の生き方と貧しやもめの生き方です。

律法学者の日ごろの態度は虚栄と偽善の現れです。これ見よがしに自分の存在を誇示し、自分の偉大さを見せつけています。目立つ「長い衣」をまとい、広場で挨拶されることを望み、会堂では上席、宴会では上座に座ることを常とする。見せかけの長い祈りをささげて自己の敬虔さをアッピールする。そればかりではなく、「やもめの家を食い物にする。」これは具体的に何をすることだったのでしょうか。

おりしも今日の福音朗読の後半は貧しいやもめの話です。

やもめは、イスラエルの社会では、孤児、寄留の外国人とならんで社会的弱者の代表でした。今日もそうですが貧しい人程よく献金します。このやもめは生活費のすべてを賽銭箱に入れたのでした。

何もそこまでもしなくともよいのに、とわたしたちの常識は考えますが、彼女は持てるすべてを神にささげたのでした。これは受難に向かうイエスの生き方そのものを表しています。

かつて小教区で働いていた時、もう一人の司祭と「福音的な献金」について猛烈な議論をしたことがあります。牧者は献金についてどのように語るべきでしょうか。非常に微妙な問題です。今一度、教会の財政の在り方について皆で一緒に考えてみる必要があると思います。生活費のすべてを献金してもらうことは極端としても、献金とはそもそもなんであるのか。頂いた献金はどのように支出されるべきなのか。非常に大切な問題です。

―――

第一朗読  テモテへの手紙 二 4:1-8
(愛する者よ、)神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

福音朗読  マルコによる福音書 12:38-44
(そのとき、)イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

 

 

 

 

 

二人の「主」

65日 聖ボニファチオ司教殉教者

福音朗読  マルコによる福音書 12:35-37
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。
『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

 

今日の福音の論争点は

「メシアはダビデの子であるのかどうか」

という点です。

イエスの時代、詩編の作者はダビデ王であると信じられていました。ですからこの詩編110はダビデが聖霊を受けて言ったこととされています。ダビデ自身がメシアを「主」と呼んでいるのですから、メシアはダビデの子ではありえない、とイエスは言っているのです。むしろメシアはダビデよりも偉大な存在、ダビデの主であるとされます。

今日のマルコの福音に引用されている詩編は詩編110の『主は、わたしの主にお告げになった。」という節で「主」が二回出てきますが、それぞれの主は誰を指すのでしょうか。一見分かりにくいです。ある翻訳によればその点が明確にされています。(『聖書 現代訳』羊群社 発売、尾山令仁訳)

 主である神は、わたしの主である救い主に仰せられる。

 「わたしがあなたの敵を完全に征服してしまうまでは、

  わたしの王座に着いていなさい。」

 (詩編1101)

この翻訳によれば、「主は、わたしの主にお告げになった。」の「主は」は「主である神、モーセに現れた主なる神」であります。「わたしの主」の主は神から派遣さえる救い主=メシアを指しています。

イエスは明確にこの解釈をしています。そして自分自身を「救い主=メシア」に擬しています。あるいは、ここで言われている「主」は自分のことであると言っていると思われます。この主張は聖書の専門家である律法学者には受け入れ難いことでした。ここにもイエスと律法学者の間の確執の原因が胚胎しています。最も「メシア」とはだれか、どんな使命を受けている人であるのか、についての理解が大切であり、イエスの理解と民衆の理解の間には大きな隔たりがあったことが次第に明らかになります。

ーーー

第一朗読  テモテへの手紙 二 3:10-17
(愛する者よ、)あなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

 

 

 

2020年6月 4日 (木)

613の掟のなかで・・・

6月4日 年間第9木曜日

 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

 「あらゆる掟」と言いますが、旧約聖書にはいくつの掟が定められているでしょうか。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、613の掟が数えられるそうです。伝統によれば、これら613の戒律のうち、248は「積極的戒律」で行動を促す命令、365は「消極的戒律」で行動を慎む命令です。365は一の日数に対応し、248は古代ヘブライ人が人体の骨と重要な器官の数であると信じられています。

イエスはわたしたちに新しい掟を残しました。「互いに愛し合いなさ。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13・34)

ヨハネの手紙も「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(ヨハネ一4・20)と言っています。

使徒パウロもローマ書の中で言っています。

人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするのです。(ローマ13・8-10)

 神を愛するとは神のお望みを行うことであり、神の望まないことを行わないことであり、それは隣人愛を通して実現されます。神を愛しているのに隣人を蔑ろにするならば、神を愛しているとは言えないのです。

 第一朗読  テモテへの手紙 二 2:8-15
(愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」
これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。

福音朗読  マルコによる福音書 12:28b-34
(そのとき、一人の律法学者が進み出、イエスに尋ねた。)「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

 

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