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2018年12月14日 (金)

大酒飲みのイエス

今日は十字架の聖ヨハネの日。今日の福音はとみると

 

ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 

ちょっと困った。大飯喰らいの大酒のみのイエスと十字のヨハネ。どういう関係?

若いころ十字架のヨハネにあこがれ、「カルメル山登攀」「霊の賛歌」など読んだものだ。どれだけ理解しただろうか?今は、「お酒飲み」と悪口を言われたイエスにホッとする。ところで「知恵の正しさ」とは何だ?十字架は神の知恵ではないか。人には愚か、躓きだとパウロも言っている。イエスの生涯は十字架と復活。人々にはそれが見えなかった。自分を否定してイエスの十字架を担うようイエスは求める。その求めに従ったカルメル会の修道者。霊性の手本が十字架のヨハネ。自分を捨てるとは自分の栄光を求めない、自分の支配を放棄する、自分のものは一切持たない、という道。それがお前にできているのか?出来ていないね。

2018年10月26日 (金)

あなたに語りたい その4

ダビデの不思議、世間へのお詫びはないのか?

ミケランジェロの彫刻ダビデ像は誰でも知っている。敵の豪傑を石投げで仕留めたときの勇姿だろう。

そのダビデは王に推戴されたがととんでもない大罪を犯した。美しい部下の妻を奪いその夫を死に至らしめた。旧約聖書サムエル記はその次第を詳細に記している。だからイスラエルの民は皆彼の犯罪を知っている。そのダビデが残したという祈りが有名な痛悔の詩編51.ひたすら神へのお詫びを繰り返す。神よ、わたしはあなた向かって罪を犯しました。わたしを清めてください。・・・

神からの赦しは助言者を通して与えられたといういうが。

それでは関係者への謝罪はどうなったのだろうか?企業の幹部が記者会見でそろって頭を下げてお詫びします、という場面が日本では一般的。世間、社会への謝罪が第一とされる。この違いをどう考えたらよいだろうか?誰にもばれなければ知らぬふりをしていても心は痛まないのか?お天道様がみているという昔の教えはどうなったのか?

この辺にキリスト教の宣教の難しさがあるのでは?

2018年10月22日 (月)

あなたに語りたい その3

神は、ラテン語では、DEUSです。キリシタンの時代、DEUS(ラテン語)の日本語への翻訳に困ってしまったのです。日本に来た福音宣教者たちはよく日本語がわからないうちに、どういう日本語で説明したらよいか、きっと悩んだのでしょう。色々やってみたようですが、「神」という表現は誤解されるので、結局「デウス」という表記に落ちついたたようです。

日本では、神というと、いろいろな神を指しています。八百万(やよろず)の神がいるとも言います。人間が神になりえます。特別な力を持った人、そして、亡くなった人が生きているわたしたちの上に及ぼす、 良い力、悪い力、そういうものを持っている存在が神と呼んでいます。例えば、菅原道真が天神として祀られるようになったのですが、それは、政敵の藤原氏に貶められて、讒言されて、左遷されて、裏切られて亡くなったので、その怨みが残っているから、色んな災害が起こるのだ、という考えによるらしい。「どうぞ怨みを捨ててください、お鎮まりください」という願いを込めて神社を建てて、菅原道真の霊を宥める というように考えた結果であるとされています。 色んな神がいるので、わたくしは、神社に行ってときに、この神社はどういう神が祀っているかなと掲示で確かめてみるけれど、現代の人はほとんど誰が神として祀られているか、には関心がない。でも一応調べてみると、大宮の氷川神社の場合、祭神は、

須佐之男命(すさのおのみこと)

稲田姫命(いなだひめのみこと)

大己貴命(おおなむちのみこと)

となっています。注4

それなのに、なぜキリスト教の神を「神」と訳したのか。もう今更どうにもしょうがないのですが、「神」という言葉が、わたしたちの神理解に誤解を与えているのかもしれないのです。「神」という言葉は誤解されやすい言葉です。でも、どう誤解して言いるのか、をわたしたちは説明できるでしょうか。その理由も説明が難しい。 

 

2018年10月21日 (日)

あなたに語りたい その2

わたしにとっての神とは?

神は自分からあなたに語ってくださる神です。

 

 「神―わたしにとって神とは?」というテーマをいただきましたが、何を話したらよいか、かなり困っております。皆さんの学び合いの材料、あるいは何かの足しになればよいかなと思います。 わたしたちは神を知っていますが、この神はキリスト教の神、イエス・キリストが教えてくださった神であります。イエス・キリストの教えてくださった神は、すでにイスラエルの人々が信じていた神と同じ神様です。同じ神様ですけれども、そこに信仰の発展がある。そして、イエスが地上を去るときに、わたしたちの教会がつくられ、教会が残されました。教会は神を信じる民として、世界中に宣教しているわけであります。 ところで神様というのはどういう方か、人間にはわからない、よくはわからないわけです。人間には神は分かりません。分かるといえば、その人が神様になってしまいます。しかし、全くわからないというわけではない。神の働きは被造物の中に反映されているので、世界の中に在る信・善・美を通してある程度は神を知ることが出来るはずです。そして神を信じて生きている人々の中に神の姿が反映していると信じます。

しかしなと言っても、被造物である人間には神様は神秘です。人間には神のことがよくわからない。わからないから、あちら側から、神様のほうからわたしたちにご自分をお示しになる。こうだよ、ああだよと。それが長い歴史の中で少しずつ、小出しにというか、教えてくださっている。一度に教えても、とてもわからないだろう、受け入れられないだろう、ということで、何回も色んな機会に、色んな人 を通してお示しになったのだと思います。 わたしたちの神は信仰の神、人が信じている神、なんですけれども、その前に、頭で考える神という場合があります。それは、哲学者が頭で考えて、神とはこうだ、ああだと考えた神です。しかし、聖書の神は頭で考えた神ではなくて、神様のほうから人 間に語りかけて、御自身を示してくださった。そういう神様ですね。

あなたに語りたい、励ましの言葉 その1

あなたというよりまず自分自身への励まし、と考えて始めます。

世界中に福音をのべ伝えること、イエスの弟子を造ることは、復活した主イエス・キリストから弟子たちが受けた教会の使命であるります。

この日本にも1549年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられたことは、日本史上の重要な出来事でした。キリスト教は一時多くの人に受け入れられましたが、間もなく時に支配者によって禁止され、長い禁教時代が続きまた。明治時代になって再宣教が行われ、素手の100年以上が経過しています。多くの優れた、よく養成された福音宣教者が多数日本に派遣されました。それにも関わらず、キリスト教はごく一部の人日の心をとらえているにすぎません。他方、教育、福祉、医療の分野では評価されるべき実績を上げています。

日本は非常に治安のよい国です。しかし人々の心には何かの閉塞感が宿っているのではないでしょうか。

このような社会状況で、宗教者の果たすべき役割が期待されています。

 

2018年10月 8日 (月)

男と女

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

人はだれでも一人で生きていけません。助けてである相手、パートナーを必要としています。神は人を、互いに助け合い支えあうものとして、男と女に創造されました。

男にとって女は神の恵み、大きな喜びの源です。男がぐっすり眠っている間に女が造られ、目が覚めると傍に女が居ました。女の創造に男はなんの働きもしていません。女は男に与えられた純粋の大きな恵みの伴侶であります。もはや、男にとって女なしには自分というものが考えられない存在となりました。まさに自分の半身、骨の骨、肉の肉です。

イシュ、イシャーというヘブライ語の原文はそのことをよく示しています。二人は別な存在ですが同時に一体をなす存在です。以上述べたことはそのまま女にとっても同じことが言えます。

創世記によれば人はそのような存在として、男と女として創造されたのです。

しかし、現実の男女の関係は必ずしもそのような祝福された状態には置かれておりません。どうして人間の現実に問題が生じたのか、その理由と次第を、創世記3章誘惑と堕罪の物語が語ります。

最初の人間アダムとエバは蛇の誘惑に負けて、創造主である神への不信を抱き、不従順に陥ってしまいました。その結果、人と神との関係にひびが入りました。人と神との関係の不具合は、男と女、人と大地との関係に不具合に波及します。これがいわゆる原罪という考え方です。

結婚と家庭をめぐる問題と困難は、創世記の物語に起因しているといえるのかもしれません。

主イエスはこの人類の歴史に介入し、壊れた関係を修復し、さらにそれを超える素晴らしい状態に高めるために来られました。

人間の問題のかなりな部分は男女の問題、性に関するものではないでしょうか。

男女の関係を本来の神の定めた秩序に戻すだけでなく、さらにそれを清め、よりふさわしい聖なる関係に刷新するためにイエス・キリストは来られたのです。

今日のマルコによる福音でイエスは言われました。

「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

さて、この機会をお借りして、結婚に関する一つの良いお知らせをお伝えします。

教皇フランシスコは先日、9月8日に自発教令を発表して、婚姻の無効宣言手続きをより簡略に、より迅速にするよう、教会法典の改正を行いました。

これは結婚しているといっても実は結婚とは言えない、無効な結婚である場合があります。その場合、教会が結婚の無効を宣言することができます。今回はその無効を宣言する手続きについての改正です。詳細は別な機会に譲りますが、「離婚ではない無効な結婚」ということがある、ということを今日、心にとどめておいていただきたいと思います。

2018年9月24日 (月)

さいたま教区司教叙階式参加お祈り有難うございました・

マリオ山野内倫昭司教叙階式説教

2018924日、明の星学園講堂

 

 

本日は非常に多数の皆さんが、さいたま教区のマリオ山野内倫昭司教の司教叙階式にご参加くださりました。誠にありがとうございます。厚く御礼申し上げます。

今日は多くの方々がさいたま教区外から来てくださっているので、わたくしはこの場をお借りして、愛する「さいたま教区」について説明したいと思います。

 

さいたま教区は、

1939年 当時の横浜教区の8件のうちの北半分の4県をもって「使徒座知牧区」と分離・独立して発足致しました。

1958年 ラウレンチオ 長江 恵(さとし)司教が任命され教区に昇格しました。

1990年 フランシスコ・ザビエル 島本要司教が引き継ぎ、1991年、不肖わたくし岡田が浦和司教となり、2000年にマルセリーノ谷大二司教に引き継がれました。その後5年余りの司教不在の期間を経て本日2018924日 マリオ山野内倫昭司教の誕生の日を迎えることとなりました。皆さんから賜りましたお祈りとご支援に感謝申し上げます。

 

さいたま教区は北関東4県、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県より構成され 登録信者数21,505と報告されておりますが、その数倍の外国籍信徒が居住しております。

 

さいたま教区の特徴は、多文化・多国籍共生の教区であるということです。多数の海外からの移住者、フィリピン、ヴェトナム、韓国、中南米など多くの国々からの移住者・滞在者の皆さんから成り立っている教区であります。そのような教区に、8歳の時に日本の大分県から家族とともに南米のアルゼンチンへ移住された方をさいたま教区の司教をおむかえすることになったのはまさに神の計らいである、と感謝申し上げます。

 

さいたま教区全体が多文化・多民族共生の教区でありますが、司祭・助祭団も実に多文化・多国籍の集まりであり、そのなかの26名が教区司祭です。教区司祭26名のうち16名は2001年以降に叙階された司祭です。そしてまたさいたま教区には5人の終身助祭がおり、それぞれの役割を担って活躍しております。

このような司祭団と助祭団の相互の交流・理解・協働をすすめるためにさいたま教区は二つの集会を大切にしてきました。それは「司牧者大会」と「助祭・司祭の集い」であります。

司牧者大会は、司教を中心として、すべての司牧者、司祭・助祭、修道女、他の皆さんが二泊三日の合宿をし、ともに祈り、話し合い、教区としての重要な課題を一緒に学ぶ論議するようにしております。

また「司祭・助祭の集い」は司教・司祭・助祭の奉仕者に共通の、任務と生活上の課題を話し合い必要な決定を行っております。

この二つの集まりをこれからも大切に実行していただきたいと希望しております。

 

主イエスは言われました。

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21

山野内司教のモットーは

「キリストのうちにあって、一つの体、一つの心となりますように」

であります。

主イエス・キリストにおいて一つとなる、ということがわたしたちにとって目指すべき目標であります。

 

国籍、文化、言語、習慣、体験など大きな相違のある神の民は、ただ主イエス・キリストにおいてのみ一つとなることができるのであります。ですから、わたしたちはひたすらキリストに聞き、キリストを仰ぎ、キリストに従うようにいたしましょう

「自己中心」いう避けられない傾向を担うわたしたちはひたすら自分を捨ててキリストに従うようにと召されています。そのためには、祈ること、典礼を大切にすること、聖書を分かち合うことなどが非常に大切であります。

 

また、わたしたちは皆自分中心という欠点を逃れられません。そのことを骨にしみて自覚し、わたしたちの間で、互いに傾聴し、人を理解するように努めましょう。人の話を聞くということは実におおきなエネルギーを必要とする犠牲であります。同じ兄弟姉妹として、互いに安心して自分の思い考えることが言えるような教区でありたい。そのためにはひたすら相手の声に耳を傾ける決意が必要です。

 

さらにわたしたちは今の日本の社会のなかで苦しんでいる人々の声に耳を傾ける必要があります。困難な状況にある人、病気・障がい、孤独、差別、貧困などに苦しみ悩んでいる人、人生の意味を見つけたいと願っている人々‥実に多くの人々が神を捜し、主イエスとの出会いを求めています。わたしたちは弱い立場に置かれた人々、人生に行き暮れ迷っている人々に開かれた共同体でなければなりません。それこそ、主キリストが望んでおられることでありはその喪主の望みに答えて第二ヴァチカン公会議が開催されました。日本のカトリック教会の開催した福音宣教推進全国会議の開催の趣旨も「弱い立場に置かれている、苦しみ悩む人々に開かれた教会」をつくるためであります。

 

キリストに聞くということ、そして隣人に聞くということ、社会の声に聞くということ、この三つの「傾聴するということ」を日々大切にするようにいたしましょう。

この三つの傾聴を訴えて私の挨拶と説教にかえたいと思います。

 

 

 

 

2018年8月11日 (土)

平和を実現する為はまず反省を

(説教)

主イエスはこの世から父のもとへ昇られるに際し、弟子たちに言われました。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネ1427)

司祭は、ミサの交わりの儀の中で、このイエスの言葉を必ず唱えます。

「主イエス・キリスト、あなたは弟子に仰せになりました。

〈わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。〉

わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、おことばの通り教会に平和と一致をお与えください。」

キリストの言われた平和とは、復活されたキリストが教会にお与えになった聖霊の賜物に他なりません。平和は聖霊の賜物です。聖霊を受けなければわたしたちは平和の使徒として働くことができないのです。

平和の使徒として働くということは、聖霊の恵みを受けて、平和を脅かし平和を破壊する悪の力と戦い、悪と罪に打ち勝つということです。それゆえ主イエスは主の祈りをわたしたちに与え、主の祈りの結びで

「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお守りください」

と祈るようにお命じになりました。主の祈りの直後の副文で司祭はさらに祈ります。

「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。

  あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように。

  わたしたちの希望、救い主イエス・キリストがこられるのを待ち望んでいます。」

平和は聖霊の賜物でありますが、わたしたち人間の側の協力、働きの成果でもあります。 平和は、わたしたちの罪と悪との戦いの実りです。

教会はもちろん平和の建設のために努力してきました。しかし、歴史を振り返れば、現在では理解しがたく、受け入れがたい歴史上の事実、――過ちや暴行、侵害行為にキリスト信者が加担し、あるいは実行していた事実が明らかにされています。

教皇ヨハネ・パウロ二世は広島訪問の際に

「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。」

と宣言されました。その聖ヨハネ・パウロ二世教皇は紀元2000年の大聖年を迎えるにあたり、使徒的書簡『紀元2000年の到来』(1994)の中で、過去のキリスト者の侵した過ちを指摘し、強い反省を呼びかけています。教皇は言っています。

「教会の息子や娘たちが悔い改めの精神によって振り返らなければならない、もう一つの痛ましい歴史の一章は、何世紀にもわたって、真理への奉仕に際しての不寛容、さらに暴力の行使を黙認してきたことです。」(35項)

教皇がこのような告白で具体的に何を示しているのか、この文書自体は述べていませんが、「暴力の行使の黙認」の内容は、おそらく、十字軍、異端審問、ユダヤ人迫害、宗教戦争などを示唆していたと思われます。

また、他にも、問題として、

「キリスト者の間の分裂と対立」

「体主義政権による基本的人権の侵害を見過ごし、あるいは黙認したたこと」

「教会の社会教説の理解と実行を怠ったこと」

などを挙げています。

 

日本の司教団も聖ヨハネ・パウロ二世のこの呼びかけに励まされて、『平和への決意―戦後50周年にあたって』を発表し(1、次のように述べました。

「今の私たちは、当時の民族主義の流れのなかで、日本が国をあげてアジア・太平洋地域に兵を進めていこうとするとき、日本のカトリック教会が、そこに隠されていた非人間的、非福音的な流れに気がつかず、尊いいのちを守るために神のみ心にそって果たさなければならない預言者的な役割についての適切な認識に欠けていたことも認めなければなりません。」

 

20世紀は二度にわたる世界大戦の行われた世紀となりました。核兵器などの大量破壊兵器が登場し、数知れない非戦闘員である一般市民も命を奪われる、悲惨で不条理な現実が繰り返されてきました。

21世紀こそ、戦争のない世紀、大量破壊兵器の使用されない世紀、そしてすべての核兵器が廃棄される世紀にならなければなりません。

朝鮮半島を非核化するとの合意がアメリカ合衆国、韓国、北朝鮮の三国間で実現したと報道されていますが、これについては、納得しがたい、腑に落ちない思いをわたしは持っています。世界一、多量で強大な核兵器を所有しているアメリカ合衆国が、自国の核兵器縮小と廃棄には言及しないまま、東アジアの朝鮮半島を分割している二国における核兵器廃絶を強く求めているのは、全く一方的な身勝手な主張ではないでしょうか。他国に非核化を求めるなら、まず、同時にアメリカ合衆国自身が身をもって核の廃絶を実行すべきです。

 

さて、今年の広島平和祈願ミサの説教の結びにあたり、わたしはどうしても、有名なユネスコ憲章の前文を想起しないわけには行きません。

〈戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。〉

かつて、日本カトリック司教協議会諸宗教部門の主催で「平和のための宗教者の使命」というシンポジュームを開催しました時(2015426日、大宮教会)にお聞きした仏教の教えが強く心に響きました。

「平和を脅かす原因は人間の心の中に在る煩悩である。特に貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)という三つの毒が人間の心を狂わせる。貪とはむさぼりのこと、瞋(人)とは嫉み、恨み、怒りのこと。癡とは自分のことにしか関心が持てず、他者のことには無知であることである。」(天台宗の杉谷義純師の発言)

これはまさに使徒パウロの言う「肉の業」(ガラテヤ519-20)に該当するかと思います。聖霊の助けを受けて肉の業と戦いながら、聖霊の実り〈愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制〉が豊かに与えられますよう祈りましょう。

2018年6月14日 (木)

現行一致は難しい:聖アントニオの日に

パドバの聖アントニオはその優れた説教によって大きな影響を与えました。そのアントニオの残した説教の中で、彼は次のように言っています。
「行いが語る時、言葉は生きたものとなります。言葉を控え、行いに語らせなさい。」 どういうことであるかといいますと、言葉があっても、その言葉が行いとなって実現しない場合に、その言葉は力を失ってしまう。
説くこととその内容を実践することが一致しなければならないという意味であります。 そこで、この前の日曜日の主イエスの言葉を思い起こします。
「私の家族とは誰のことですか、神の御心を行う者こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」 神の御心、それは律法、そして預言者という旧約聖書の言葉によって示されました。 ですから、今日、イエスが言われていますように、 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではない。廃止するためではなく、完成するためである。」と明言しています。
完成するということはどういう意味でしょうか。ご承知のようにイエスは当時のユダヤの指導者であるファリサイ派の人々、律法学者、そして祭司たちと対立しました。その対立のきっかけになったことは、イエスが安息日に癒しを行ったという出来事であります。
形式的に、機械的に数知れない多くの律法を遵守するように教えることが大切であるということではなく、その律法によって示されている神の御心を良く知り、そしてその御心を行うことこそ、律法を完成することになるんだと言っておられるのではないでしょうか?
イエスは死に向かう最後の夜、弟子たちと食事を共にし、新しい契約の血となる、今行っているミサ聖祭を制定し、そして新しい掟をわたしたちに残されました。それは愛の掟、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛しあいなさい」 という掟であります。
愛すると言う言葉は非常に意味があいまいかもしれませんが、イエスが生きたように、イエスが人とかかわったようにキリストの弟子はすべての人に心を開き、すべての人のために働き、すべての人を大切にしなさい、そういう掟であると思います。それを実行することは並大抵のことではないと思います。そうしなければならないが、そうできていない自分を知り、そして日々、赦しを願いながら、少しでも聖霊の導きに従って、新約の教えを実行できますよう、今日のお祈りを献げたいと思います。

2018年6月13日 (水)

いつも新しくされねばならない教会組織・制度

「わたしたち教会はいつも新しくされなければならない。」――玉川通り宣教協力体合同堅信式、2018610日、年間第10主日、渋谷教会

 

(説教)

年間第10主日を迎え、今日、玉川通り宣教協力体合同堅信式が行われます。

ただいま読まれました、マルコによる福音から、わたくしが、心に強く感じました点を、いくつか申し上げたいと思います。

 

第一点.

わたしたちが、救い主として信じている、ナザレのイエスという人は、どのような人であったでしょうか。

イエス・キリストを知り、イエス・キリストのように生きることが、わたしたちキリスト教信者の、第1に心掛けるべき点です。

 

昨日でしたでしょうか、12歳のイエスが、エルサレム巡礼のときに行方不明になったという話を聞きましたが、イエスは、その後、平穏な日々を過ごして、おおよそ30歳になったときに、神の国を宣べ伝え始めました。しかし、そのイエスの言葉と行いは、必ずしも、周りの人にとって、理解できるものではなかったようです。

実際、今日の福音によると、身内の人たちは、イエスのこの言動を理解していなかったことが分かります。

「あの男は気が変になっている」と言われ、また、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言われていました。

頭が変だと思われ、イエスの家族も、かなり、そのように思っていたらしい。この事実は、わたしたちに、大変興味深い、考えるべき点を提供してくれていると思います。

イエスの言動は、決して常識的ではなかった。むしろ、当時の人々の標準通念から外れており、そして、さらに、当時の社会の支配者たちにとっては、反抗的な、不従順な態度であると思われました。

 

第二の点ですが、どのような罪も赦される。しかし、『聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』とイエスは言われた。

これは、どのような意味なのでしょうか。

わたしたちは、聖霊降臨祭を祝いました。三位一体の日、キリストの聖体の日、2つとも、非常に大切な祭日です。そして、この前の金曜日は、主イエス・キリストのみ心の祭日でした。

神は、いつくしみ深い方であるということを、わたしたちは、日々学びます。そして、聖霊を受けて、わたしたちは神の子とされ、罪の赦しを受け、そして、神の子にふさわしい者にされると信じています。

そういえば、ゆるしの秘跡のときに、司祭が唱える赦しの言葉の中に、「神が聖霊の働きを通して、あなたに赦しと平和を与えてくださいますように」とあります。

司祭は、みなさんと同じように罪人ですから、赦すのは司祭ではありません。

聖霊の働きを通して赦しが与えられます。聖霊を受けて、わたしたちは罪の赦しを受けます。

『聖霊を冒涜する』ということは、恐らく、聖霊の赦し、聖霊の恵みを拒むこと、自分が赦されなければならない罪人であるということを認めないこと、そして、赦しを受けなければならない罪人であるということを認めず、聖霊を受けて、神の子に戻るということが必要であるという意識を持っていない人であると思います。

何しろ、赦しが必要であるのに、自分が赦しを必要としていると思わないのですから、どうにも赦し自体を拒んでいるということになりますので、聖霊による赦しが与えられないという意味ではないかと思います。

 

三つ目ですが、『イエスの周りに母と兄弟たちが来た』。父は出てきません。父は聖ヨセフで、養い親ですが、既に地上を去っていたようです。

このときのイエスの言葉は、通常のわたしたちの受け止め方によると、木で鼻をくくったと申しますか、そのような言い方はないという感じがしないこともないです。

わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。そばに来ているのに、聞いているのに、聞こえよがしに、「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。神とは、父である神です。父である神を信じ、神のみ心を求め、神のみ心を一緒に行う人こそ、母であり、兄弟、姉妹である。

 

わたしたち教会は、そのような人々の集まりです。聖霊降臨によって出発しました。聖霊の導きを受け、罪の赦しを受け、決意を新たに、「主イエス・キリストに従い、イエス・キリストの霊である聖霊に従って生きます」と約束しました。

 

今日、堅信を受けるみなさんには、洗礼のときの約束を更新するとともに、さらに、聖霊の7つの賜物を受けて、「キリスト者の使命である、福音宣教の務めを、熱心に、忠実に、しっかりと果たします」という約束をしていただきます。

 

さて、みなさんも洗礼を受けられたときのことを思い起こしてください。

清々しく、心が晴れやかで、新しく生まれ変わって、これからしっかりとやっていこうという、そのような気持ちであったと思います。堅信のときも、そのような気持ちを、さらに強くしていただいたと思います。

 

教会も同じで、教会の誕生のとき、そこには、生き生きとした聖霊の働きがあった。

教会には、組織という面があって、組織というものは、何年も経つと、硬直化し、柔軟ではなくなり、いろいろな規則があり、そして、発足のときの気持ち、聖霊の導きに従って生きるということが、だんだんと弱くなる。疎かになっていく。そのような傾向があります。

教会の組織、教皇庁、教区、修道会、様々な団体。発足のときは、実に明るく元気です。

人間も同じであるかもしれません。洗礼を受けたとき、司祭に叙階されたとき、誓願を立てたとき、司教に叙階されたとき、晴れやかに、聖霊に満たされて、しっかりとやっていこうと、みなも勇気と熱意を受ける。しかし、何年も経つと、だんだんと気が枯れてしまうようになる。

 

教会、わたしたちは、いつも新しくされなければならない。刷新されなければならない。自分の問題をしっかりと見つめ、それを取り除き、そして、主イエスが望んでいるようなあり方に、常に立ち戻るようにしなければならない。天の父のみ心が何であるかを、いつも、しっかりと聞き、見つめなければならないと思います。

 

堅信を受けられるみなさんは、今日、聖霊降臨の体験と同じ体験をします。聖霊が、みなさんに望んでいるのは何であるかということを、いま一度、よく祈り、求め、日々実行するようにしてください。

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