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2019年2月22日 (金)

悪の攻撃に打ち勝つ

聖ペトロの使徒座  2019年2月22日7時25分、本郷教会説教

イエスはペトロに言われました。 「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」 陰府の力とは悪の力、悪魔の攻撃を意味しています。教会は絶え悪の攻撃を受け、悪からの誘惑を受けてきました。その度ごとに教会は聖霊の導きを受けて教会の刷新を図ってきました。 いまわたしたちの教会は大きな問題を抱えています。聖職者による性虐待・性暴力という問題が告発されています。21日からはヴァチカンで聖職者による性虐待・性暴力という事態に対応するためのVatican Summit が開催されており、全世界の司教協議会会長が招集されています。日本からは長崎の高見三明大司教が出席しています。
教会が受ける悪の攻撃は外からのものもありましたがむしろ中に在る悪の方が深刻です。今日の朗読で言われていますが、「卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」という戒めを牧者は守らなければなりません。権力の場にある聖職者が自分の欲望を満たすために弱い立場にある、保護されるべき青少年を性的に凌辱するとは、決してあってはならないことであります。まさにその聖職者は悪の攻撃に負け悪の誘惑に陥ってしまったのです。 「地獄の門もこれに勝つことができない」と言われた主イエスの言葉に信頼し、聖霊の助けを祈り求めて、この危機に適切に対応し教会を刷新することができますよう、切に祈ります。


ミサ 第一朗読  ペトロの手紙 一 5:1-4 (愛する皆さん、)わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。

福音朗読  マタイによる福音書 16:13-19 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

2019年2月20日 (水)

盲人は見えるようになる

 

年間第6水曜日ミサ

 

第一朗読  創世記 8:6-1320-22 

四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度、したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。」

福音朗読  マルコによる福音書 8:22-26 

(そのとき、イエスと弟子たちは)ベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。 

イエスは神の国の福音を説き、神の国既に来ていることを示すために数々の癒しのわざを行いました。 

今日の福音は、イエスが一人の盲人を見えるようにしてあげた次第が告げられています。 

イエスの神の国の福音を信じ受け入れた人は貧しい人々でした。今週の主日の福音はルカの6章です。

ーー

イエスは「幸い、貧しい者。神の国は汝らのものデアル」(ルカ620、田川健三訳)と言われ、「禍あれ、汝ら富む者に」と言われました。富む者は自分の力により頼み、神の恵みにより頼もうとはしません。彼らは自分自身の力、対面、所有に心が覆われ、神の呼びかけには耳を閉ざしています。彼らこそ盲人であります。今日の第一朗読で言われていますが、「禍人が心に思うことは、幼いときから悪い」のであります。神いがにないも頼るものない人に向かってイエスは「幸い」と言われたのです。

 

なぜ貧しい人は幸いか

年間第6主日説教

2019217日、本郷教会

第一朗読 エレミヤ175-8

第二朗読 一コリント1512,16-20

福音朗読 ルカ617,20-26

(説教)

きょうのイエスの言葉を、わたしたちはどのように受け止めることができるでしょうか。

しばしば、イエスの言葉は、わたしたちの通常考えていることとは異なっております。むしろ、反対であると言ってもよいかもしれません。

「貧しい人々は幸いであり、富んでいる人々は不幸である」と言われた。普通、わたしたちはそのような思いは持っているでしょうか。

「幸い」という言葉は、「祝福あれ」という意味であります。忠実に訳すと「祝福されている、貧しいあなたがたは。神の国はあなたがたのものである」となります。イエスの周りに集まった人々は、貧しい人々でありました。

大勢の群衆が、イエスの周りに押し寄せて来た。病気の人、体の不自由な人、あるいは、汚れた霊に取りつかれた人々などであります。

マタイによる福音では、いわゆる「山上の説教」の中で、「幸い、霊において貧しいあなたがたは」という言葉で始まる八箇条、昔の言い方で言えば「真福八端」が述べられている。ルカによる福音のほうは、「幸い、貧しいあなたがたは」で始まる四箇条の祝福、そして、「不幸であれ」で始まる四箇条が続きます。「不幸であれ」と訳されていますが、忠実に訳すと、「災いあれ」と訳すことができるそうであります。注

さて、どうして貧しい人々は祝福されているのでしょうか。貧しい人々とは、どんな人を指しているのでしょうか。旧約聖書から新約聖書を通して聖書の流れを見ますと、聖書の世界では、孤児、やもめ、寄留の外国人が、貧しい人の代表であります。さらに、マタイによる福音25章を思い出すとよいかもしれない。人間が生活する上で最も基本的に必要なものを欠く人々、あるいは、食べるものが無い、飢え渇き、そして着るものも無い、寝るところも無い、病気である、あるいは、自由を拘束されて牢につながれている人々、そういう人は、最も小さい人々だとイエスは言っています。

考えるに、社会の中で、小さい人々とは、自分を守りうる術は持たない人、自分を説明したり、自分の意見を述べて理解してもらう力が弱い人、ましてや、人を動かしたり、人を支配したりすることなど考えられない、人から無視され、軽んじられ、疎んじられ、蔑まれている、そういう人々が貧しい人、小さくされた人々ではないでしょうか。

フランシスコ教皇様が尊敬してご自分の教皇名にいただいている「聖フランシスコ」は、貧しい人を生きることによって、主イエス・キリストに最もよく倣った聖人であると言われています。

「貧しさ」の中に、もちろんまず経済的に貧しいということがありますが、社会の中で、人との関係の中での貧しさがあります。人がより小さい存在であるときその人は貧しい人であります。「Powerless」な人、力のない人です。そして、自分の生活を建て、守り、そして、より良くするためのいろいろな所有物が無い。何も自分のものが無い、最低の物も事欠く。さらに、社会の中で自分がだれであるかというものを認めてもらうための体面と言いましょうか、地位と言いましょうか、名誉と言いましょうか、そういうものが無い。

ところでそれでは「富んでいる人々、あなたがたに災いあれ」(ルカ621[聖書 聖書協会共同訳])とさえ言われていますがどういうことでしょうか。この際、ご一緒に考え、黙想したいと思います。

わたしたちが信じる福音は「神の国」の福音と言われています。「神の国」は神が王として支配すること。わたしたちは「神の国」の福音を受けた、神様の恵みを受け、神様に従い、そして、神にのみ、全てを委ねるべき生き方を選んだ。しかし、なかなかそうはできていない。自分の力で、自分の小さな面目を守り、そして、自分の周りを治めようとしているのではないか。

きょうの第一・第二朗読を振り返りますと、「貧しい人は幸い」を理解するために参考になるように思われます。

エレミヤの預言で言われています。

「祝福されよ、主を信頼する人は、主がその人のよりどころとなられる」

貧しい人々は祝福された人々です。神にのみ信頼し、神にだけより頼む人々です。お金の力とか、名誉とか、対面とか、持ち物とか、そのようなものを一生懸命求めて幸福であろうとする人は「災いだ」といわれてしまうのですね。

わたくしは自分自身、このイエスの教えから遠い自分であると思います。しかし、そのような自分のために、イエスは十字架にかかってくださった。そして、死者の中からの「初穂として」復活し、わたしたちに復活の命を与えてくださいます。わたしたちがどんなものであれ、イエスが説くあるべき姿からは遠いものであっても、それを自分で認めて、それでもイエスに寄り添って歩もうとする者には、無償で復活の恵みを与えてくださるのである、と信じます。

 

注 「聖書 聖書協会共同訳」では「災いあれ」田川健三訳では「禍あれ」となっている。

 

2019年1月17日 (木)

自己嫌悪になったときの祈り

待降節黙想会講話(要約)

2018122日、 飯能教会

 

今日は「主の祈り」をご一緒に味わって行きたいと思います。

主の祈りはイエスが弟子たちに教えて下さった祈り、最も大切な祈りであり、福音の要約と言われています。先ほど献げましたミサの中でも主の祈りの後、司祭は続けて

「慈しみ深い父よ、全ての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与え下さい。あなたの哀れみに支えられ罪から解放されてすべての困難に打ち勝つことが出来ますように。わたしたちの主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」

と祈ります。パウロの時代にはすぐに終末が来るという考えが強かったようで、パウロは「時は縮まっている、もうこの世のことは終わりになるのだから、もうこの世のことに執着しないように、いつでもキリストを迎えられるように準備していなさい」と言っています。

主の祈りの最後には、「わたしたちを悪からお救い下さい」とあります、司祭が「主の祈り」に続いて唱える副文では、「すべての悪からわたしたちを救い」「罪から解放されて」と、悪と罪と両方出て来ます。罪は勿論悪ですね、罪という言葉と悪という言葉は微妙に違うわけですね。罪とは何かについては難しい問題になりますが、信者になる時に罪についてのお話しは聞いたでしょう。わたしも洗礼を受けて、その時に罪の赦しを受けた、もうきれいな身になった、すっかり清められて真っさらな状態になると信じたんですけど、わたしの場合、今までの悩みとか問題とかは全く雲散霧消というか消えてしまったわけではなくて、あまり変わらないんですね、皆さんどうですか?「わたしは今までと違う全く新しい人になった」と、ものすごく感じる人もあるそうですが。

 今の洗礼は額に少し水を流すだけですから、あまり実感がないですけど、昔の洗礼は全身を水の中に漬けて引き上げられるというものだったそうです。その時の感触は忘れないでしょうね。水に漬けられるということは「死ぬ」ということなんですね。死んで引き上げられて新しい人として生まれ変わる、だから古い人は死んで新しい人になるということでこれだと体で覚えますね。皆さんは洗礼の時にどんな体験だったでしょうか?信者になった時の体験というのは重要ですね。洗礼を受けても人間には問題は残る、だからその問題と一生取り組んでいかなければいけない。それを罪というか、人間の弱さというか、カトリックはそれを「原罪」という言葉で説明しているわけです。人間というものは通常、しょうがないなという面が残るわけで、一人ひとりによって違いますけど、皆さんは自分にはどういう問題があると思いますか?

神様が自分をご覧になって喜んで下さっている、満足しておられると思うか、それとも神様はこんなわたしをお嫌いになっているのではないか、申しわけなく、でもどんなに頑張ってもまた同じ状態になってしまう、我々は別に犯罪者ではないと思う、だけど自分で自分を認め難いいろいろなこと、人のことが気になる、妬ましい、面白くない、心の中でいつもあの人はどうだこうだと思ってしまう、あるいはわたしにこんなことをした、恨みがましい、少なくとも恨むところまでは行かないにしても、いやな感じがあってその嫌な感じがなかなか消えない、トラウマというのは過去に受けた心の傷を引きずっている状態だそうですが、わたしもこの間77歳になったんですけど、「~のくせに………」と言われたことが消えないんですね。本来じゃない状態のことをののしる「~のくせに………」と、人にののしられる、人に恥ずかしめられる、そういうものは消えない。

それから自分と同じような立場にある人が、自分よりうまくやっていて評判がいいという時に、面白くないですね………、司祭同士でも評判は気になるんですね、「××神父さんはお話しが上手だ、よかった………」じゃオレはどうなんだ?「あなたのお話しもそれなりにいいけど………」この面白くない心というのは消えないんですね、自分が人からどう思われるかは非常に気になる、でもそれに捉われないで打ち勝って、負けないでやるべきことをやるべきなんですけれど、本当に気にすべきは神様がどう思われるかです。

特定の人にものすごく心が傾いてしまうと、その人の態度に影響を受けてしまうんですね。わかりやすい例でいうと例えば誰かを好きになったとしますと、その相手に自分にどう見えるということが気になる、その人がどうでもよければ、ほとんど気にならない、職場なんかでも、やっぱり回りの人とか上司が自分をどう見ているかは気になりますね、それから司祭同士、司祭と司教、これは結構難しい微妙なもので、あまりはっきり聞いたことはないですけど、司教は自分をどう評価しているか、それはきっと気にしているかどうかは分からないけれど、心に込めているわけですね。(逆に)司教は司祭が自分をどう思っているかということを気にしている。

もう一つさらにそれと結びついているんですが、自分の言うことが理解されているか、ちゃんと伝わっているか、実行されているかが気になる。分かっているのかな?分かっていてやらないのかな?………皆さんの間ではどうですか、ご家族の間で、親子、ご夫婦、いくら言っても分かってくれないと思っているかもしれない、聞いている方はまた同じことを言っていると思っているかもしれない、その辺は分りませんが、想像ですが………

親子、これは難しいですね、わたしのことですが、わたしは親のことが分からなかった、今も分からない、もう77歳にもなって今さらどうでもいいんですけど、はっきり言ってわたしは親に批判的でしたね。なんでこんな親の子になったんだ、と罰当たりな気持ちを持っていました。親がどれだけ自分のためにしてくれたかということをその時は思わない、自分がこうであってほしいということばかり思って、そうでない部分だけ取り上げて、ああだこうだと思うわけなんですね。だんだん年を経て、わたしの親を知っていた人から話を聞くと、わたしの父に、そんなに立派なところがあったのかな?なんて思ったりして………申しわけないですね、近い人にはいいところが見えない、こんなにしてもらって感謝していますと言われて………、わたしの親は教師だったんですけども、わたしの親から教わった人が年を経て、わたしがその父の息子であるということが分かった時、わざわざそういうことを言うということは、挨拶という面もあるんですが、こんなにしてくれたということをわざわざ口に出すということは嘘ではない、母親についても同じことが言えるんですけど。親子の関係で親も悩み、子も悩むということがありますが、これは永遠の問題かもしれませんけど、人間は人のことが分からない、特に近い人のことが分からない、自分中心に判断しますので、人間は自分から出ることが出来ない………逆に自分を誰かが客観的に見て、今の自分を置いてもう一人の自分を見る、それはなかなか出来ないですけど、黙想というのは自分のありのままの姿を見る機会ではないかと思います。

日本の社会は競争社会ですから、すぐに点数が付けられる、学校もそうですし、会社もそうですが、なんでも点数化して人間の価値を決める、人間の価値は点数ではない、理屈はそうなんですけど、現実によい成績を取らなければ入学出来ませんし、会社でも会社のために実績を上げないと昇進できないわけですね。それから生老病死(しょうろうびょうし)・四苦八苦と言いますけど人間、病気にもなりますし、障がいという人間にとって難しい問題にも出会う、そういうわけで自分の価値をなかなか認めにくい、そしてさらに僻みが生ずると、人は何とも思っていないのに自分は嫌われていると思ってしまう、ものすごくそういう傾向の強い人がいて、被害意識が固定してしまうと病気や障がいになってしまいます。

聖書の中にいろんな人が出て来ますが、わたしが一番心に響く言葉の一つは、「神様はご自分の造られたものを決して嫌われない。もし嫌われたり憎まれるのであれば決して作られない。神はすべてのものを慈しまれる」という知恵の書の言葉。(知恵1123-26参照)

自己評価が低い人、低い理由は他の人と比べてあれが出来ない、これが出来ない、あるいは身体的なこと、いつも健やかで元気で格好いい人としょぼくれている人とか元気がない人と、わたしなんかもものすごく気にする方で、言われたらどうもないように取り繕っていますけど実は気にしているわけです。気にしているんですよ。() その人の価値を相手が決めるとか思ってしまう……ほんとはそうじゃないですよね。

知恵の書で「神はあなたを愛している」「愛している」と言われてもピンと来ませんが「神はあなたのことを嫌っていない」と言われるとピンと来ますね。こんな失敗ばかりしている、いつも止めようとしているのにまたやってしまう、それは知っているけどそんなあなたを嫌いじゃなくて慈しんでいるんだ、そう言われるとほっとするというか立ち直れる、さらに誰かが言ってくれると有頂天になってしまうかもしれないけれど、あの人はお世辞をいうとか、よいしょして、日本人は特に礼儀正しいですから人を傷つけないような失礼のないような、そういう教育を受けていますが、腹の中は違うんだけど()………あまり腹の中はどうとか考えてはいけない、わたしみたいに疑り深い人間は、またそういう自分はいやな奴だなと思うわけなんですね。() 最近減って来たけど「大司教様………」言われ慣れてしまったので、言われないと不満というか()………ほんとに自分がどう思われているか、から離れられないこの執着………この間読んだ本でいいことを言っているなと思ったんですけど、人間のとらわれを3つの言葉に要約しているんですが、これはアシジのフランシスコの生き方に倣ってあるフランシスコ会の神父様が言っているんですけど、prestigeプレステージという言葉、何て訳すのかな? 要するに自分の権威というか、自分の勝手な解釈ですが、自分は偉いのだ、××長とか、権威とか………大司教とか()………口ではそうではないと言っているけど、やはり自分は偉いのだと思っているわけですよ、それにふさわしく相手が応じないと不満というか、不快に感じている。そこがいやらしいところで二重構造になっている、別にたてまつってもらわなくてもいいんですが、そうされたら逆に気持ちが悪いんですが、ではどういう態度が相応しいかは自分では分からないけれど、自分では感じてしまうんですね。次にpowerパワー、力ですね。自分がどれくらい人を動かせるかということなんですね。わたしがただの岡田だというのと大司教の岡田だというのでは、相手は「あ、大司教様………」() 無茶なことを言うなと思ってもそれなりに………わたし、大司教といっても名誉大司教ですけれど、今でもまだ余光が残っているわけですよ。()パワーがあるんですね。人をコントロールする力というか、何らかの形で人にお願いしたりあるいはうまく動いてくれるようにしていただくるわけですよ、どういう風にしたらうまく人を動かせるかとかね、コントロールする力、それからpossessionポゼッションつまり所有で、わたし最近何度も引越しせざるを得なくて、何でこんなにたくさんのものを持っているのか………同じものがぞろぞろと出てくるんですね()。いらないんだけど一旦手に入れたものは離しがたいんですね、目をつむって全部断捨離したいんですけど、ある程度はするんですけど、弾みがつかないとなかなか出来ない………だからいろいろなものを持っている……

貧しいということは力がない、物がない、名誉もない、何もない、神様しか頼るものがない、神様がわたしを生かし、そして与えてくれる、神様が他の人を通して助けてくれる、人間は貧しい、貧しいものはお互いに助け合いなさい、パウロの言葉ですが、「人を自分より優れた者と思いなさい」「エ、あんなヤツを優れた人と思え!冗談じゃない」これは古いわたしですね、新しい自分は、全ての人は神様が自分に与えて下さった、自分に出来ないことが出来る人であるし、そこに神様の姿があるんだと………そういわれてもなかなかそう思えないわけで、いつも比較してあいつはアーダコーダと言って、あいつの態度は自分を「バカにしている」とか………、この「バカにしている」というのはわたしが子供の頃から覚えた言葉ですが、かならずしも相手が「(自分を)バカにしている」わけではなくても本人がそう感じてしまうわけです。自分はどれだけ人に話を聞いてもらえるか、人を動かせるか、自分がどれだけ尊敬されているか、どれだけ自分が思い通りになるようなものを持っているか、ということに一生懸命で、人のためにどうするか、人を助けるためにどうするか、人を慰めるためにどうするかということには何分の一かの時間やエネルギーも使っていないかもしれない、表面上は「皆さんのために」なんですけど、そのやり方もちゃんと自分が報われないと機嫌が悪くなるという、そういう自分は古い人間だと思うわけですね。「敵を愛しなさい」とイエスは言われましたが、はっきりと敵対している人でなくても自分によくしてくれる人、態度が好意的な人にはこちらもおのずからそういうふうに出来るんですけれど、態度が悪い、顔を合わせると「何だその態度は………」と思ってしまうような人には、「勝手にしろ」と思ってしまう。相手を何も戦争している相手の敵と考えなくても自分が快く感じる人と不快に感じる人と、どちらでもない人とに分類すると不快に思わせる人というのがいるわけですね、わたしにはいました、皆さんにはどうなんでしょうか。

 

洗礼の時にわたしたちは古い人間から新しい人間に生まれ変わりますと決心をし、悪霊とその技を捨てますと宣言したんですけど、その洗礼の時の決心が大きな戦いをしないと完全には実現できない、はっきりとした罪、すべきことをしないとか、はっきり認識してこの人をいじめてやろうとかいうのは罪ですけど、そうはっきり認識しなくても態度や行動がその人を歓迎しないようになっていても、それが染みついてしまっている時には、それがはっきり言って罪かどうかは問題ですが、それは「原罪」なんですね。出来上がっている依存というかaddictionアディクションなんですね。人からホイホイされることに依存してしまっているんですね。ホイホイされてもされなくても人のために尽くすことが出来れば、そのアディクションから解放されているわけですね。ですから「わたしたちを悪からお救い下さい」と言うのは、それはアディクション、悪い傾き、これは正確に言うと悪というのは悪魔とも訳せるわけで、「悪魔のそそのかしにのらないで生きていけますように」というお祈りでもあります。そして前半で「御心が行われますように」というのはわたしの思いではなく神様の思いが行われますように、わたしにおいて神様の思いが行われますように、わたしがこうしてほしい、回りがそうなるようにということではなくて、神様の思いというのは、聖霊の働きなんですね。

 

主の祈りの冒頭は「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように」です。
神様が聖とされるということはすべての聖性の源、ミサの奉献文でそう言っていますけれど、わたしたちが何者をも超えて敬うべき神の本性といいますか、生身のそして罪を犯す人間は神様の前で生きていることは出来ないとさえ言われている神の聖性、例外的にモーセなどが神に顔を合わせて会うことが出来たと言われています。逆に神以外のものを崇めないということなんですが、わたしたちは知らず知らずのうちにいろいろな偶像を神としてしまっていると思います。

次の「み国がきますように」の「み国」とは神の支配、ですから神の国がこの地上で実現しますように、神の意思が実現している状態が「み国」です。「イエス様の国は神の国」と言われています。それは神のみ心が行われていること、天というのは神のみ心が行われている状態、それが天です。

 

続いて「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」

この祈りの後自分に必要な恵みをお願いするわけですね。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」
わたしたちが日ごとに必要とするもの、それはまず食物ですが、食物に代表されるいろいろなこと、ご聖体のことも指しているという考えもあります。日ごとの糧、イエス・キリストのお恵みを毎日いただいて生きること、そして赦しということですが、主人から莫大な債務を免除してもらった人が自分に対しての友達の債務を赦すことが出来なかったという例え話がありますが、わたしたちは赦してもらっても、自分が赦すことはなかなか難しい、そういう問題を持っている、どれだけ自分が赦してもらったか、赦されているかということを時々思うことが必要ではないかと、先ほど申し上げましたが、わたしも親不幸で親の問題ばかり見て、自分が親から何をしてもらったかということを考えずにそうしてしまった………子供のためにどんなに大変な思いをしてわたしを養育してくれたかということですね。お互いに相手が自分にしてくれたことを思うことが大切なのに、相手からの被害を最初に思ってしまうわけですね。

 

わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい

誘惑というと悪に誘うことですね、盗みとか暴力とか性的な罪に誘うことですね。もう一つ試練という言葉があって、前の文語の「主の祈り」では「われらを試みに引きたまわざれ」でした。どうしてこれが今日誘惑になったのか、試練というのは何であるかということですが、原文のギリシャ語は同じで、それをある時は試練と訳し、ある時は誘惑と訳すそうです。人が病気になったりすること、それは誘惑ではなくて試練で困難なことですね。その困難な時に誘惑に陥ることもあると思いますね。誘惑は自分の欲望が刺激されてその欲望を満たすようにすることですが、「神は決して人間を誘惑しない」とヤコブ書には書いてありますが、神が人間に罪を犯させるように働くことはあり得ない、ですが我々の人生には困難なことがあるわけですね。病気とか災害とかその他不条理なことがあるわけですね。それが誘惑の機会になり得るわけですね。人生を呪うとかがあり得る、順調な人はそういう気持ちにならないんですけど、生まれついて不幸なみじめな状態の人はなかなか健やかに成長出来ないですね、回りの人が自分に良くしてくれたという体験の中で成長した人は他の人に良くしてあげることが優しいですが、虐待された場合虐待が人生の本流になってしまいますので、人を恨むこと、憎むことが普通になってしまうわけです。困難に会っても困難に負けないでそれを越えて行く場合は、それは試練ですが、困難に負けて悪に陥ってしまえばそれは誘惑になるんでしょうか。よく「魔が射す」と言いますね、例えば自分で一時的に何とか出来る人のお金、あるいは会社のお金などを管理する役がありますね、教会でも起こったんですね。今日一日だけ借りて後で返せばいいと思ってお金を抜いてしまう、それが一日が二日になりどんどん延びて、気が付いたら大変な額になっていたという場合にそれは誘惑に負けたわけですね。金銭的に困難な状況に置かれた時は試練ですけど、その試練につけ込んで横領するように唆す声が誘惑でしょうか。

今度教皇様は『喜びに喜べ』という題のすべての人に向けた霊的な生活の指導書を出されました。教皇様の解説によると「わたしたちを悪からお救い下さい」という悪というのは悪魔のことだと言われます、悪魔とは擬人化して悪いことを表す印というか例えとして使っているという意見も多いかもしれませんが、それは間違いだ、この本には悪魔はいると盛んに書いてあります。イエスの時代は悪魔の存在は人々の間に普通に受け入れられていました、だからイエスがなさったことに悪魔を追放するという話が多いですね。悪魔は巧みに人を罪に誘い込むわけだから、悪魔に気を付けなさいと「喜びに喜べ」の中で言われています。

「わたしたちを誘惑に陥らせず」という場合は、おそらくあからさまな誘惑もあるけれど、もう一つは困難、自分にとって不本意、人が自分の思い通りにしてくれない、状況が自分にとって都合が悪い、そういう時に人間はどうするか?それを解決するためにしてはいけないことをしてしまって憂さ晴らしをすることもあるんですね。

イエスは絶えず言われています、「わたしに従いたい人は自分を捨て自分の十字架を背負ってついて来なさい」十字架という言葉は試練とは違うけれど痛み、困難ですね。苦しみを献げるわけですね、苦しいからそれを解消するために他の人をいじめたりその苦しみを他の人に押し付けたりすればそれは誘惑に負けたことになるのかなとも思いますが、ちょっとお考え下さい。

「わたしたちを誘惑に陥らせず悪からお救い下さい」 

これは「誘惑に負けないように、わたしたちを悪魔からお救い下さい」と言うと、あまりにもむき出しなので言いにくいから、悪とだけ言うとぼんやりするので、でも悪魔の誘惑から負けないように助けて下さいという意味だと思ったら、もっと真剣になれるかもしれません。

以前の「主の祈り」にあった「試みに」というのは、人間は自由を与えられているのでどうするかはその人の責任で決めるので、その「試み」が「誘惑、つまり悪に陥る機会にならないようにして下さい」という意味かもしれません。人生の困難はわたしたちに神様が与えられている十字架である、と受け取ってそれを犠牲としてお献げする。イエスが言われたのはそういう意味ではないかと思います。

 

最後にわたしが紹介した知恵の書の言葉を読んで結びとします。

「あなたには偉大な力がいつも備わっておられる。あなたの腕の力に誰が逆らえよう。あなたの前では全宇宙は秤を傾ける小さな塵、地上における朝露の一滴のようである。あなたはすべてがお出来になるのです。すべてのものをあわれまれ、人々が悔い改めるようその罪を見過ごされる。あなたは存在するすべてのものを愛し、造られたものは何一つ忌嫌われない。もし憎いものがあったとしたらあなたはそれを形作られなかったであろう。あなたが望まれなければどうして存在し続けることが出来よう。またあなたに呼び出されなかったものはどうして保たれ得たであろう。命を愛される主よ、あなたはすべてのものをいとおしまれる」(知恵1121-26

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年12月14日 (金)

大酒飲みのイエス

今日は十字架の聖ヨハネの日。今日の福音はとみると

 

ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 

ちょっと困った。大飯喰らいの大酒のみのイエスと十字のヨハネ。どういう関係?

若いころ十字架のヨハネにあこがれ、「カルメル山登攀」「霊の賛歌」など読んだものだ。どれだけ理解しただろうか?今は、「お酒飲み」と悪口を言われたイエスにホッとする。ところで「知恵の正しさ」とは何だ?十字架は神の知恵ではないか。人には愚か、躓きだとパウロも言っている。イエスの生涯は十字架と復活。人々にはそれが見えなかった。自分を否定してイエスの十字架を担うようイエスは求める。その求めに従ったカルメル会の修道者。霊性の手本が十字架のヨハネ。自分を捨てるとは自分の栄光を求めない、自分の支配を放棄する、自分のものは一切持たない、という道。それがお前にできているのか?出来ていないね。

2018年10月26日 (金)

あなたに語りたい その4

ダビデの不思議、世間へのお詫びはないのか?

ミケランジェロの彫刻ダビデ像は誰でも知っている。敵の豪傑を石投げで仕留めたときの勇姿だろう。

そのダビデは王に推戴されたがととんでもない大罪を犯した。美しい部下の妻を奪いその夫を死に至らしめた。旧約聖書サムエル記はその次第を詳細に記している。だからイスラエルの民は皆彼の犯罪を知っている。そのダビデが残したという祈りが有名な痛悔の詩編51.ひたすら神へのお詫びを繰り返す。神よ、わたしはあなた向かって罪を犯しました。わたしを清めてください。・・・

神からの赦しは助言者を通して与えられたといういうが。

それでは関係者への謝罪はどうなったのだろうか?企業の幹部が記者会見でそろって頭を下げてお詫びします、という場面が日本では一般的。世間、社会への謝罪が第一とされる。この違いをどう考えたらよいだろうか?誰にもばれなければ知らぬふりをしていても心は痛まないのか?お天道様がみているという昔の教えはどうなったのか?

この辺にキリスト教の宣教の難しさがあるのでは?

2018年10月22日 (月)

あなたに語りたい その3

神は、ラテン語では、DEUSです。キリシタンの時代、DEUS(ラテン語)の日本語への翻訳に困ってしまったのです。日本に来た福音宣教者たちはよく日本語がわからないうちに、どういう日本語で説明したらよいか、きっと悩んだのでしょう。色々やってみたようですが、「神」という表現は誤解されるので、結局「デウス」という表記に落ちついたたようです。

日本では、神というと、いろいろな神を指しています。八百万(やよろず)の神がいるとも言います。人間が神になりえます。特別な力を持った人、そして、亡くなった人が生きているわたしたちの上に及ぼす、 良い力、悪い力、そういうものを持っている存在が神と呼んでいます。例えば、菅原道真が天神として祀られるようになったのですが、それは、政敵の藤原氏に貶められて、讒言されて、左遷されて、裏切られて亡くなったので、その怨みが残っているから、色んな災害が起こるのだ、という考えによるらしい。「どうぞ怨みを捨ててください、お鎮まりください」という願いを込めて神社を建てて、菅原道真の霊を宥める というように考えた結果であるとされています。 色んな神がいるので、わたくしは、神社に行ってときに、この神社はどういう神が祀っているかなと掲示で確かめてみるけれど、現代の人はほとんど誰が神として祀られているか、には関心がない。でも一応調べてみると、大宮の氷川神社の場合、祭神は、

須佐之男命(すさのおのみこと)

稲田姫命(いなだひめのみこと)

大己貴命(おおなむちのみこと)

となっています。注4

それなのに、なぜキリスト教の神を「神」と訳したのか。もう今更どうにもしょうがないのですが、「神」という言葉が、わたしたちの神理解に誤解を与えているのかもしれないのです。「神」という言葉は誤解されやすい言葉です。でも、どう誤解して言いるのか、をわたしたちは説明できるでしょうか。その理由も説明が難しい。 

 

2018年10月21日 (日)

あなたに語りたい その2

わたしにとっての神とは?

神は自分からあなたに語ってくださる神です。

 

 「神―わたしにとって神とは?」というテーマをいただきましたが、何を話したらよいか、かなり困っております。皆さんの学び合いの材料、あるいは何かの足しになればよいかなと思います。 わたしたちは神を知っていますが、この神はキリスト教の神、イエス・キリストが教えてくださった神であります。イエス・キリストの教えてくださった神は、すでにイスラエルの人々が信じていた神と同じ神様です。同じ神様ですけれども、そこに信仰の発展がある。そして、イエスが地上を去るときに、わたしたちの教会がつくられ、教会が残されました。教会は神を信じる民として、世界中に宣教しているわけであります。 ところで神様というのはどういう方か、人間にはわからない、よくはわからないわけです。人間には神は分かりません。分かるといえば、その人が神様になってしまいます。しかし、全くわからないというわけではない。神の働きは被造物の中に反映されているので、世界の中に在る信・善・美を通してある程度は神を知ることが出来るはずです。そして神を信じて生きている人々の中に神の姿が反映していると信じます。

しかしなと言っても、被造物である人間には神様は神秘です。人間には神のことがよくわからない。わからないから、あちら側から、神様のほうからわたしたちにご自分をお示しになる。こうだよ、ああだよと。それが長い歴史の中で少しずつ、小出しにというか、教えてくださっている。一度に教えても、とてもわからないだろう、受け入れられないだろう、ということで、何回も色んな機会に、色んな人 を通してお示しになったのだと思います。 わたしたちの神は信仰の神、人が信じている神、なんですけれども、その前に、頭で考える神という場合があります。それは、哲学者が頭で考えて、神とはこうだ、ああだと考えた神です。しかし、聖書の神は頭で考えた神ではなくて、神様のほうから人 間に語りかけて、御自身を示してくださった。そういう神様ですね。

あなたに語りたい、励ましの言葉 その1

あなたというよりまず自分自身への励まし、と考えて始めます。

世界中に福音をのべ伝えること、イエスの弟子を造ることは、復活した主イエス・キリストから弟子たちが受けた教会の使命であるります。

この日本にも1549年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられたことは、日本史上の重要な出来事でした。キリスト教は一時多くの人に受け入れられましたが、間もなく時に支配者によって禁止され、長い禁教時代が続きまた。明治時代になって再宣教が行われ、素手の100年以上が経過しています。多くの優れた、よく養成された福音宣教者が多数日本に派遣されました。それにも関わらず、キリスト教はごく一部の人日の心をとらえているにすぎません。他方、教育、福祉、医療の分野では評価されるべき実績を上げています。

日本は非常に治安のよい国です。しかし人々の心には何かの閉塞感が宿っているのではないでしょうか。

このような社会状況で、宗教者の果たすべき役割が期待されています。

 

2018年10月 8日 (月)

男と女

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

人はだれでも一人で生きていけません。助けてである相手、パートナーを必要としています。神は人を、互いに助け合い支えあうものとして、男と女に創造されました。

男にとって女は神の恵み、大きな喜びの源です。男がぐっすり眠っている間に女が造られ、目が覚めると傍に女が居ました。女の創造に男はなんの働きもしていません。女は男に与えられた純粋の大きな恵みの伴侶であります。もはや、男にとって女なしには自分というものが考えられない存在となりました。まさに自分の半身、骨の骨、肉の肉です。

イシュ、イシャーというヘブライ語の原文はそのことをよく示しています。二人は別な存在ですが同時に一体をなす存在です。以上述べたことはそのまま女にとっても同じことが言えます。

創世記によれば人はそのような存在として、男と女として創造されたのです。

しかし、現実の男女の関係は必ずしもそのような祝福された状態には置かれておりません。どうして人間の現実に問題が生じたのか、その理由と次第を、創世記3章誘惑と堕罪の物語が語ります。

最初の人間アダムとエバは蛇の誘惑に負けて、創造主である神への不信を抱き、不従順に陥ってしまいました。その結果、人と神との関係にひびが入りました。人と神との関係の不具合は、男と女、人と大地との関係に不具合に波及します。これがいわゆる原罪という考え方です。

結婚と家庭をめぐる問題と困難は、創世記の物語に起因しているといえるのかもしれません。

主イエスはこの人類の歴史に介入し、壊れた関係を修復し、さらにそれを超える素晴らしい状態に高めるために来られました。

人間の問題のかなりな部分は男女の問題、性に関するものではないでしょうか。

男女の関係を本来の神の定めた秩序に戻すだけでなく、さらにそれを清め、よりふさわしい聖なる関係に刷新するためにイエス・キリストは来られたのです。

今日のマルコによる福音でイエスは言われました。

「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

さて、この機会をお借りして、結婚に関する一つの良いお知らせをお伝えします。

教皇フランシスコは先日、9月8日に自発教令を発表して、婚姻の無効宣言手続きをより簡略に、より迅速にするよう、教会法典の改正を行いました。

これは結婚しているといっても実は結婚とは言えない、無効な結婚である場合があります。その場合、教会が結婚の無効を宣言することができます。今回はその無効を宣言する手続きについての改正です。詳細は別な機会に譲りますが、「離婚ではない無効な結婚」ということがある、ということを今日、心にとどめておいていただきたいと思います。

«さいたま教区司教叙階式参加お祈り有難うございました・