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2019年7月22日 (月)

宣教・福音化のミサ

宣教・福音化のための土曜日のミサ 説教
2019年7月20日(土)、本郷教会

 

主イエスは、弟子たちのもとから離れて天に昇るに際し、弟子たちに命じて言われました。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28・19)
イエス・キリストの弟子をつくるということが、弟子たちに与えられた使命であり、そして弟子たちの後継者であるわたしたち教会の任務であります。

 

この教会の使命任務をミッションmissionという言葉で言い表してきまして、ラテン語ではミッシオmissioですけれども、もともと「派遣する」という意味であります。
あなたがたは「行って」と言われました。
イエスが弟子たちを派遣したのであります。
「行きなさい」ということはつまり「派遣する」という意味であり、「派遣:はラテン語でミッシオmissioです。そして「派遣する」ということは、使命を行わせるということであり、その使命はイエスの教えを宣べ伝え、イエスの弟子をつくるということ、つまり宣教であります。
そこで、ミッションmissionという言葉は、「派遣」「使命」そして「宣教」という三つのことを同時に意味する同じ言葉であります。
さらに,後になって福音宣教、あるいは福音化という言葉が頻繁に使われるようになりました。これはエヴァンジェライゼーションevangelization、ラテン語のエヴァンゲリザティオevangelizatioという言葉の翻訳であります。
福音化とは、人々を福音に与る者、福音を生きる者に変えていくということと同時に、この社会・文化を神の国の到来に相応しいものに変えていくために働くということであります。
ですから平和のために働く、平和を実現するために働く、あるいは一人ひとりの人が大切にされるため、別な言葉で言えば、差別や人権侵害をなくすために戦うということも、福音化であります。
今のこの日本において、イエスの命じた使命を行うということは何をすることだろうか。

 

日本のカトリック教会は、1987年11月23日の前後三日間に、「福音宣教推進全国会議」というたいへん大がかりな会議を開きました。この会議は「開かれた教会づくり」というスローガンを掲げたのです。
誰に開かれているかというと、教会にあまり縁がない人、教会には行きづらい人、苦しんでいる人、後回しにされている人、悩んでいる人、いろいろなことで生きることに力が足りない、生き辛さを感じている人、そういう人のために力となる、安らぎとなる、助けとなる、そういう教会共同体のあり方を目指そうということで開かれた会議であります。
その会議の結果を三十年以上経って、どのような効果があったのか、どのような変化がわれわれ教会の中に起こったのかということを振り返ると、わたくしの正直な感想では、確かに良くなった部分はあるが、総体としてあまり変わらなかった、どうしてだろうという気がしております。

 

若い皆さんにこの問題を是非考えていただきたい。
人を変えるためには、自分が変わらなければならない。
自分がそのままでいて、人に変われというのはまったくおこがましい話であります。
わたしたちは福音というものを、どういうように受け取っているのか、どういうように生きているのか、どのような生きる喜びを、生きる動機づけをもって生きているのか、それをどういう表現で、どういう行動で、人々に表わし伝えていくのかということが、わたしたちに問われていると思うのであります。

 

 

2019年7月21日 (日)

いけにえではなく慈しみを

年間第十五金曜日 ミサ説教

2019719()、本郷教会

イエスは、律法学者やファリサイ派の人々とたびたび論争し、そして遂に彼らから抹殺されるに至る道を、自分から作ってしまったというようにも思われます。

その中に、「安息日の論争」というものがあります。

今日の福音は、その中の一つであります。

イエスの弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで食べたということについて、ファリサイ派の人から咎められたのでありました。

イエスは弟子たちを擁護して、旧約聖書の事例を引用しています。

ダビデとその兵士たちのことをまず言われましたが、さらにホセア書の言葉を引用しました。

このホセア書66節の「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえ ではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセ66)という言葉であります。

皆様覚えていると思いますが、教皇フランシスコが「いつくしみの特別聖年」を設けまして、わたしたちは約一年間、神のいつくしみについて学んだのであります。

いろいろな掟や定めがありますが、最も大切な掟 定めは、神のいつくしみに倣うということであります。

イエスが神のいつくしみをどのように実行したかという事例を教皇は述べながら、わたしたちもいつくしみ深い者であるように諭されました。

 

「神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセ66

 

イスラエルの人々は、神様にいけにえ を献げていました。

 

前の言い方では燔祭(はんさい)と言いましたが、いけにえ を全部焼き尽くしてしまうという献げ方でありました。それはいわゆる「ホロコースト」といういけにえ でありました。

 

しかし預言者が言われたのは、神は自分に献げられる動物のいけにえ ではなくて、自分を知ること、神のいつくしみを実行することを求めているということでありました。

 

 

 

昨日の福音は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ1128)というイエスの言葉でありました。

 

今、2019年という年、この東京という場所で、イエス・キリストの言葉をどのように受け止め、どのように実行したらよいかということが、わたしたち一人ひとりに、そしてわたしたちの教会 共同体に課せられた非常に大切な課題であります。

 

 

 

 

2019年7月18日 (木)

「わたしはある」という神

年間第十五木曜日 ミサ説教

2019年7月18日(木)、本郷教会

 「出エジプト記」で神はモーセに自らを現わされ、御自分の名を問われて、「わたしはあるという者だ。」(出3・14)と言われました。

たいへん不思議な言い方であります。

「わたしはある。」という神は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を、モーセを通してカナンの地へ導く神でありました。

 さて、その同じ神、「わたしはある。」という神は、御子イエスを遣わされ、そして今日の福音でイエスは言われました。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)

わたしたちは、毎朝のミサの入祭の歌でこの言葉を聖歌として歌っており、またこのカトリック本郷教会の掲示板の標語として、この聖句をつかっております。

 実に人生には苦労が多い。

エジプトにおいて奴隷であったイスラエルの民は、エジプトからは解放されましたが、しかしその後、イスラエル民族は苦難の連続を経験しました。

イエスの時代にも多くの民は、病み衰え苦しみ悩んでいました。

そのような人々のところに遣わされたイエスは、すべての人を御自分のもとに招き、そして共に重荷を担う者となってくださいました。

 さて、今日の聖書福音書のメッセージは、わたしたちにとってどういう意味があるだろうか。

わたしたち自身、「疲れた者、重荷を負う者」(マタイ11・28)でありますが、わたしたちの周りには本当に多くの人が、人生に疲れて迷っているのであります。

そういう方々のために、わたしたちはいわばオアシスのようになって、休ませることができるように、安らぎ 希望そして力を回復することができるようにして差し上げたい。

本郷教会は、そのようなわたしたちの使命を、微力ではあっても主イエスが共にいてくださるという信仰に基づき、日々ささやかな努力を続けていかなければならないと思います。

 ―――

第一朗読  出エジプト記 3:13-20

(その日、柴の間から語りかける神の声を聞いた)モーセは神に尋ねた。

「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。

「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。

これこそ、とこしえにわたしの名,これこそ、世々にわたしの呼び名。さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。」

 福音朗読  マタイによる福音書 11:28-30

(そのとき、イエスは言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

幼子のような者

年間第十五水曜日 ミサ説教

2019年7月17日(水)、本郷教会

 第一朗読は出エジプト記であります。

いよいよ主なる神がモーセに御自分を現わされる次第が告げられています。

モーセに現れた神は、ナザレのイエスを通して人々に、さらに天の父をお示しになりました。

イエスはその生涯を通し、その言葉と行い、しるし、様々な秘跡などを通して、人々に天の父を示されました。

イエスに出会ってイエスを信じた人もいますが、イエスの数々の行い、奇跡をみても悔い改めない人々もいたのであります。

昨日の福音は、数多くの奇跡を行われた街々をイエスがお叱りになった、ということが出ております。

 今日の箇所は、それとは調子が変わって、それでもと言うべきでしょうか。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11・25)

「これらのこと」というのは何でしょうか。

イエスを信じ受け入れた人は、幼子のような者、あるいは小さな人々、あるいは心の貧しい人々、そういう表現で言われている人々であります。

「知恵ある者や賢い者」(マタイ11・25)はイエスを認めなかった。

認めないどころか、イエスに敵対するにさえ至ったのでありました。

ナザレのイエスという大工の子、御自身も大工をしていたらしい、そういう人が説く神の国の福音は、当時のユダヤの社会の指導者たち、政治的な宗教的な社会的な指導者たちにとっては、とても受け入れ難いことであったようです。

貧しい人、苦しみ悩む人、何も自分を支え自分を表わし伝える術を持たない人にとっては、それは神様からの恵みであり、そのような人を通して神様は慈しみ深い神、すべての人の救いを望まれる神であるということをお示しになったのだと思います。 

二千年前にガリラヤで起こった出来事を福音書は伝えていますが、それでは今ここで、つまり2019年この東京というところで、福音とは何であるのか、福音を宣べ伝えるということはどういうことであるのかという、大変重要な課題をわたしたちはいわば突き付けられていると思います。

 

2019年7月16日 (火)

悪の力

年間第十五火曜日 ミサ説教

2019年7月16日(火)、本郷教会

「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」(マタイ11・20)という言葉で、今日のマタイによる福音が始まっております。

どのような奇跡を行われたのか聖書は告げておりませんが、ご承知のようにイエスは数々の奇跡を行い、人々はイエスを信じるようになりましたが、イエスを信じない人々、それどころかイエスを排斥する人々もいたのであります。

さて、わたしたちの使命は、宣教あるいは福音化という言葉で表されています。

イエス・キリストを宣べ伝えること、イエス・キリストを信じて、そして神の国がすでにこの世界に来ているということを信じてもらえるように努力することであります。

人々に神の存在、あるいはイエス・キリストを救い主として信じるためには、いろいろな困難があるでしょう。

もちろん信じない人間の側に問題があるでしょうが、神の造ったこの世界にいろいろな問題があることも、神を信じることを妨げているのではないだろうか。

今日の集会祈願では、

「全能の神よ、あなたの支配に逆らう悪の力を滅ぼしてください。罪から解放されたわたしたちがあなたの国を待ち望み、正義を行う者となることができますように。」と祈っています。

この「悪の力」というものが働いていることを、わたしたちは知っています。

フランシスコ教皇様が出された教え、使徒的勧告「喜びに喜べ」という本の中で(今夜その箇所をやると思いますけれども)、

「この世界には悪の力が働いている。しかしわたしたちはその悪と日々たたかって打ち勝たなくてはならない」と言っております

その「悪の力」を別の名前で言うと、「悪霊」とか「悪魔」という言葉になります。

現代の人はそういう存在を単なる例えとか、あるいはおとぎ話のように思うかもしれないが、それは悪魔のつけ込むところであって、実際に悪魔は存在し、働いているのだということをフランシスコ教皇、そしてさらにパウロ6世教皇も強調しています。

そういうことが、今日学ぶ箇所に出ているのであります。

それはともかく、わたしたちが日々の生活で出会うさまざまな困難、さまざまな悪の力に対し、わたしたちは霊的な力によって、つまり神の力によって対抗し、そして打ち勝つことが出来ますように

2019年7月15日 (月)

隣人を愛せよ

年間第十五月曜日 聖ボナベントゥラ司教教会博士 ミサ説教

2019年7月15日(月)、本郷教会昨日の主日の福音は、いわゆる「良いサマリア人」の話でありました。
誰が隣人であるのかという発想よりも、誰が隣人になったのかということの方が、神の愛を実行するために大切ではないだろうか、という話であったとわたくしは思います。

ところで、それでは改めて、隣人になる前に既に隣人になっている人との関係はどうなっているのだろうか、と考えさせられます。

わたしたちの生活は隣人との生活であり、隣人と言えばまず家族です。

同居している家族、あるいは同居していない家族、そして毎日顔を合わせる近所の人々、あるいは勤め先で一緒に働いている人です。

その時にしか会わない人のために出来ることをすることよりも、毎日一緒にいる人のために犠牲を献げるということの方が、かえって難しいのではないだろうか、という気がしますがどうでしょうか。

わたくし、自分の事を言うのはちょっと躊躇いたしますが、司祭になろうと思った時に今日のイエスの言葉を黙想しました。

イエスに従う者は、何もかも捨てなければならない。

しかし、自分にとって大切な家族がいて、その家族のことよりも、イエスの招きに応えることの方が大切だというならば、本当の意味で神の呼びかけに従うということになるでしょうが、家族のことは面倒だから、そっちは止めて司祭になろう、修道者になろうという動機であれば、イエスの教えに従うことにはならないだろうと思います。

日本のカトリック教会は家庭、家族という現実の中で、キリスト者がどう生きるべきか、ということについて話し合ったことがあります。それは1993年、第二回福音宣教推進全国会議でありました。

 

 

 

チェレと神林両司祭命日ミサ

命日記念ミサ案内

1.意向:元東京教区事務局長チェレスチーノ・カヴァーニャ
 神父とカトリック中央協議会事務局次長神林宏和神父へ 
 感謝と追悼

2.日時:2019年7月22日(月)午後4時

3.場所:カトリック本郷教会(文京区本駒込5-4-3)

4.司式者:岡田武夫(元宣教研究所所長、前東京大司教、
 現本郷教会司祭)

5.主催:小池俊子ステラ・コポレーション社長と岡田

6.参加自由

追記
ミサ後両師を偲んで食事をします。参加希望の方は岡田までご連絡ください。
  ad-okada@nifty.com
09069364998

 

 

2019年7月14日 (日)

「だれが隣人か」と「だれが隣人になったのか」

年間第15主日C年

2019年7月14日、本郷教会

第一朗読 イザヤ 66:10-14c

第二朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙 6:14-18

福音朗読 ルカ10:1-12,17-20

 

説教

ただいま読みましたルカによる福音10章は「善いサマリア人」の話を伝えています。

この話は、イエスと律法の専門家の対話から成り立っています。

聖書を読み解くときに、わたしたちは、いつも、この対話がユダヤ人の世界で行われ、言われたことだということを念頭に置かなければならないと思います。そのために多くの場合、主日のミサの朗読で、第一朗読では旧約聖書が読まれます。

イエスはユダヤ人でありまして、ユダヤ人の宗教であるユダヤ教の伝統の中におりました。律法の専門家はもちろん、モーセに授けられた 律法、いましめ、定め を専門的に勉強し、そして人々に教えることを自分の仕事としていたのであります。

さて、イエスと律法の専門家の間で行われた議論は、「永遠の命を受け継ぐためにはどうしたらよいのか」ということが主題でありました。律法の専門家は旧約聖書から引用して答えております。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」また、「隣人を自分のように愛しなさい」このおきてを実行することである。

イエスはその答えに対し、「それは、正しい答えである、それを実行しなさい」と、言われました。

話はそこで終われば、二人の間には合意が成立し、対立や緊張が生じないわけですけれども、話は続きます。後半のほうが、きょうの福音で もっとも大切な点であるのであります。

二人の間の議論が、よくかみ合っていないのです。「隣人を愛しなさい」ということについては合意しています。しかし、それから先の議論が うまくかみ合わない。「隣人を愛しなさい」といえば通常は、それでは、「隣人とはだれですか」という議論になります。

ところが、イエスは、隣人とはだれであるかということについてのご自分の考えではなくて、「隣人になる」ということをお話になる。

隣人であるかどうかをまず考えるのであれば、隣人であればその人を大切にする、隣人でなければ、すみませんが、そこまではできません、ということになる。この話を、わたしたちは何度も聞いているのでありますが、わたしたちが、もし、この話を自分の生活の中で実行するとなると、どうなるのでしょうか。

わたしたちは、いろんな人に対する責任を担っております。自分の仕事もあるし、家族の間の務めもあるし、近隣の人にしなければならないことも多々ある。「その人が自分にとってだれであるか」ということによってわたしたちの判断と行動が決められてしまっている。それが正直なところではないでしょうか。

この祭司、レビ人も、そこに半殺しの目にあっている人が倒れていても、その人に対して、自分が何かをなすべきだとは思わなかった、あるいは、思ったかもしれないが、いまほかにすることもあるし、あるいは、そういうことに関わると自分の仕事にさしつかえると思ったのか、結局何にもしなかったのであります。

おおむね、わたしたちも、この話を他人事のように聞いているときは平安でありますが、自分のことになると、もしかしたら、むずかしいかな。その人が自分にとってだれであるかによって、わたしたちの判断と行動が決められてしまっている。

そこで、このサマリア人のように行動するためには、いま一歩、自分の都合、自分の立場、自分の判断の、いま一歩、外に出ないといけないわけであります。ほんのちょっとでも外に出るということは、かなりの努力を必要とします。かなりのエネルギーを必要とします。

それを際限なくするわけにいかないのですね。このサマリア人のしたことは、その人にとってできる妥当な援助をしたと思われます。

わたしたちの場合も、いろいろな人の問題を全部背負い込んで自分の生活や仕事を放り出すというのとは良いことではない。自分の生活、仕事に支障をきたさない範囲でしょうか、とにかく、できることは何であるかを考えて、具体的に人を助けることになるのではないかとも、考えるわけであります。

イエスと、律法学者、ファリサイ人はしばしば対立しました。

律法を守るという点において、彼らの間に対立はなかった。ただ、「律法を守るとはどういうことか」、そして、神はそもそも、このような律法を授けられた「神はどのようなかたであるか」ということについて、大きな見解の違いがあったのではないだろうか。

神とは、どんなかたであるかについて、彼らの間には大きな隔たりがあったのではないかと思われます。

「安息日」の論争*を思い出しても、そのような気がします。

イエスは言われました、「わたしは律法を廃止するために来たのではない、完成するために来たのだ」。ですから、この「隣人を愛しなさい」という律法に対して、こちらから「隣人になる」という発想の転換を提示したのがイエスでありました。わたしたちの場合、具体的にどうすることがイエスの教えに叶う、教えを実行することになるのでありましょうか。

 

*安息日の論争

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書はすべて安息日をめぐるイエスとユダヤ人、律法学者、ファリサイ派との対立を述べている。以下に代表的な事例を一つ引用します。

ルカによる福音書

6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。

6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。

6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。

6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。

6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

2019年7月12日 (金)

聖霊の時代

年間第十四金曜日 ミサ説教

2019712()、本郷教会

わたしたちは、イエス・キリストを信じています。

イエスという人は、二千年前にナザレというところで成長し、そして三十年余りの生涯を終えました。

そのイエスは復活して弟子たちに聖霊を注ぎ、弟子たちはイエスの復活という出来事を人々に告げ知らせることになりました。

今わたしたちは、その弟子たちの宣教の結果、教会として存在しています。

イエスが登場するまでには、イスラエルの長い歴史がありました。

イスラエルの民の先祖はアブラハムという人であります。

そこで、イエス・キリストをよく理解するためには、イエスが登場する前のイスラエルの民の歴史と、そしてイスラエルの民の信仰を学ぶ必要があるのであります。

今、わたしたちは聖霊の時代を歩んでいます。

聖霊はわたしたちに何を教えてくださるのかということを一緒に学び、聞き、そして知る必要があるのであります。

―――

第一朗読  創世記 46:1-728-30

(その日、)イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。その夜、幻の中で神がイスラエルに、「ヤコブ、ヤコブ」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」

ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ファラオが遣わした馬車に父ヤコブと子供や妻たちを乗せた。ヤコブとその子孫は皆、カナン地方で得た家畜や財産を携えてエジプトへ向かった。こうしてヤコブは、息子や孫、娘や孫娘など、子孫を皆連れてエジプトへ行った。

ヤコブは、ヨセフをゴシェンに連れて来るために、ユダを一足先にヨセフのところへ遣わした。そして一行はゴシェンの地に到着した。ヨセフは車を用意させると、父イスラエルに会いにゴシェンへやって来た。ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」

 

福音朗読  マタイによる福音書 10:16-23

(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」

 

 

2019年7月11日 (木)

ヤボクの渡し

年間第十四木曜日 聖ベネディクト修道院長記念日 ミサ説教

2019年7月11日(木)、本郷教会

 今読みました「マタイによる福音」(マタイ10・7-15)の箇所は、7月7日の日曜日に読まれた「ルカによる福音」(ルカ10・1-12、、17-20または10・1-9)とほぼ同じ内容であります。

イエスが弟子たちを宣教に派遣した時の話でありました。

イエスの宣教は、生前の宣教と復活後の宣教とに分けて考えることができます。

復活したイエスの御命令に従って、世界中で福音を宣べ伝えた弟子たちの働きのおかげで、今日のわたしたちの教会があります。

 ところで、今日はこのところ毎日読まれている「創世記」にわたしたちの注意を向けたいと

思います。

今日の「創世記」(創世記44・18-21a、23b-29、45・1-5)ヨセフとその兄弟の物語であります。

ヤコブには十二人の息子がいました。

ヨセフは兄弟から妬まれて、エジプトに奴隷として売られてしまうという展開でありました。

さらに話を遡らせると、彼らの父はヤコブであり、アブラハムの息子イサクの子、ヤコブという人の物語をわたしたちは何回か読んできたわけであります。

 7月9日の朗読(創世記32・23-333)は、ヤコブがイスラエルという名前に変えられた次第が語られています。

この話が分かり難い。どういう意味だろうか。

聖書の解釈は、聖書全体、特にその個所の文脈の中で読み取るべきであります。

そうすると、この時ヤコブはどういう心境にあったのかということが、解釈の上で重要であり鍵になります。

ヤコブは非常に苦しい心境にあった。

ヤコブには二人の妻がいましたが、お母さんの故郷の家、つまり伯父さんの家でその二人の娘を妻とし、そのラバンという伯父さんに仕えて大変良好な関係を保ったのであります。

しかし次第に彼が栄えると伯父家の人達、いとこにあたる人やその使用人との間に摩擦が生じる。

そして、ラバンのところに居づらくなり、神のお告げに従い、二人の妻と相談して、故郷カナンの地に帰ることにしましたが、その帰り方があまり良くなかった。

こっそり逃げ出すというやり方で、自分の子供たち、妻たちと家畜等の財産を伴って逃げ出したわけでありますが、そこで当然逃げられた方は面白くない、追跡するという状況になったわけでありました。

幸い話がついたのですけれど、今度は行先で兄のエサウが待っているわけで、エサウの許には事前に召使を派遣して、膨大な贈り物を事前にもって行かせ、それを差し出して兄の怒りを鎮めようとした。

御承知のようにエサウはヤコブのことを非常に憎んでいた。

長子権と祝福を奪われた、その次第が創世記で展開しています。

兄エサウは弟ヤコブを殺そうとしたので、母はヤコブの方を愛していたので、ヤコブを自分の実家に逃がしてやったという物語です。

 今やヤコブは伯父ラバンのもとには帰れない。後には引けない、前に行くのも怖い、進退窮まったという状況になった。ヤコブはともかく「ヤボクの渡し」というところまで来るわけです。

そこはヨルダン川の「ヤボクの渡し」を渡る時に、彼はものすごい心の葛藤を覚えた。

ともかく、一行は一緒に川を渡りますが、ヤコブだけ引き返して一人でテントを張った。

なぜか?そこに何者かがやって来て、夜明けまで格闘したが、それがどういう人なのか分からない。

「イスラエル」という名前をその時からつけられたというのですが、ヤコブの心の葛藤を表す物語ではないかというように解釈されています。

どういう心の葛藤かというと、兄の怒りをどういう風に鎮めたら良いか、それから川を渡って行くしか選択肢が残されていないので、どうしたら兄の怒りを解くことができるかということを彼は終夜悩み、神に祈ったのであろう。

そして、神の怒りよりも神の優しさ 神の赦し 神の慈しみに信頼し、神様の助けを願って一晩過ごしたのだろうと思われるのであります。

 神に勝ったとなっていますが、人が神に勝つわけがないわけですけれども、ヤコブは神の怒りよりも神の憐みにより頼み、そして神の怒りよりも神の憐みを選び、そして神の怒りに打ち勝ったという体験をしたのだろう。

心の中で起こった出来事をこのような物語で書き記しているのではないだろうか。

 怒りの神と憐みの神。処罰する神と赦す神の間の葛藤を表わしていて、怒る神に赦す神の方が勝ったのだという意味ではないかという解釈が、わたくしには納得できる解釈であります。

なお、この機会に創世記をよく読んでください。

 

2019年7月 9日 (火)

悪魔の親分と言われた男イエス

年間第十四火曜日 ミサ説教

201979()、本郷教会

イエス・キリストは神の国の福音を宣べ伝え、そして人々の病気や患いを癒され、また悪霊に取りつかれている人から悪霊を追放するということをなさいました。

そのようなイエスと対立し、イエスを攻撃した人々がおりました。

それは、意外だと言えるかもしれないが、ファリサイ派の人、あるいは律法学者と呼ばれる人々で、この人達は非常に熱心に聖書を勉強し、そして聖書の掟を実行している人でありました。

福音書はいろいろな場面でイエスと律法学者やファリサイ派の人々が論争し、そして対立した場面を伝えています

今日の福音でファリサイ派の人々が、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」

と言った。(マタイ934)ということが伝えられています。

さまざまな悪口の中でも、この悪口は最も酷い悪口に属するのではないでしょうか。

イエスは彼らに「神を冒涜する者」と言われましたが、さらに「あの男は悪霊の頭に等しい者」とさえ言われたのであります。

そのようにイエスに敵対した人々に対してイエスはどのような態度をとったでしょうか。イエスは彼らの問題点は指摘しています。しかし、彼らの迫害を甘んじてその身に受けたのでした。イエスは「敵を愛するように」と教え、また「悪に対して悪を以って対抗してはならない」とも言われ、自分の教えを実行したのであります。

悪に対して善を以って悪に打ち勝ちなさいと教えました。

暴力を受けたら暴力で対抗し、相手をやっつけるとか壊滅するというやり方がありますけれども、悪に対して悪を以って報いてはならないというのが、イエス・キリストそして聖書の教えであります。

 

 

2019年7月 8日 (月)

あなたの信仰があなたを救った

年間第十四月曜日 ミサ説教

2019年7月8日(月)、本郷教会

12年間も出血が続いて、非常に苦しんでいた女性を、イエスがお癒しになりました。
「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」とイエスが言われた時、
その女性は癒されたのであります。出血症の女性の話はほかの福音書、マルコとルカも伝えております。
マルコの方がより詳しく述べております。どんなにかこの女性は苦しんできたことでしょうか。
あらゆる手段を尽くし、財産もすべて使い果たしておりました。
イスラエルの世界で、女性の出血ということは、非常に穢れたことだと思われていたので、
彼女に触ると自分も穢れた者になるというように、思われていたようであります。
そのような状況で、イエスに触れるということは、非常な危険を冒すことにもなると考えられました。
イエスは謂わば、その女性の穢れを自分で引き受けて、自分のものにして、その女性をお癒しになったのであります。
そして、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。
イエスはほかの人にも、この言葉「あなたの信仰があなたを救った。」と言っておられます。

現代の日本の社会で、この出来事をどのように受け取ったらよいでしょうか。
「あなたの信仰があなたを救った。」とイエスに言っていただけるような、強い深い信仰をもって人々に信仰を伝えることができますようにと、祈りたいと思います。

2019年7月 7日 (日)

平和のために働く

年間第14主日

201977日,本郷教会

 第一朗読 イザヤの預言 イザヤ661014

第二朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙

福音朗読 ルカ 101121720

 今日のごミサでわたしたちは、特に何を学んだらよいでしょうか。3つの朗読、そして集会祈願を通して、わたくしは、「平和」ということをご一緒に考え、学び、そしてそのために祈りたいと思います

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)と、イエスは言われました。

今日の第一朗読では、「主は言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう 平和を大河のように、国々の栄を洪水の流れのように。」(イザヤ6612)と言われています。

 また第二朗読では、「大切なのは、新しく創造されることです。神のイスラエルの上に平和と憐みがありますように」とあります。

 福音は、イエスが72人を遣わされたという話であります。

このときに、イエスが言われたのは、「財布も袋も履物も持っていくな。途中で誰にも挨拶するな。どこかの家に入ったらまず『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの平和はその人にとどまる。もしいなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」という言葉でありました。

 何も持たずに出かけるようにと、自分の必要のために、いろいろなこと、いろんなものが考えられるけれども、そういうものは持っていくな、という、なんと軽装備というのか、無防備というのか、今のわたしたちの考え方とはまるで反対のことをイエスは言われました。

 そのように言われてもなかなか実行できないなぁとまぁ感じます。そして、「この家に平和があるように」といいなさいと。その言葉をしっかりと受け止めていただければ良いのですが、必ずしもいつもそうなるわけではない。その場合、それから押し問答するとか、議論するとかいうわけじゃなくて、それはそれで終わり。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまるが、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。そう言われた。これはどういう意味であろうかと、考えさせられるのであります。しかしイエスはそう言われたのですから、単純にこの言葉を信じ、そのように実行するべきでありましょう。

 平和はすべての人にとって最も大切な、神様からの賜物、霊の、聖霊の実りであります。平和というのは争いがないということだけではなく、神様の恵みに満たされた状態、欠けることのない、神とのふさわしい関係にあるということだと思います。そのためには、わたしたちは神との平和のうちにいなければならない、それはほかの言葉でいえば、罪の赦しを受けているということをわたしたちがいつも確信していることではないだろうか。

 わたしたちは罪の赦しを受けているものであります。復活したイエスが弟子たちに現れて、最初に言われた言葉はなんであったかと思い出しますと、「あなたがたに平和があるように」という言葉でありました。

「あなたがたに平和があるように。」弟子たちはこのイエスの言葉を聞き、イエスの姿をみて、非常に喜んだのであります。

平和とは、神の御心が浸透しているという秩序であります。平和の君、キリストの恵みによって初めてもたらされます。

平和の願いはすべての人の願いであるはずです。しかし、神の平和、神の祝福を、受け入れられるとは限りません。それでもわたしたちは、ただひたすら平和を述べ伝え、そして平和を実現するために努力し、その結果は神の計らいにおゆだねしなければならないと思います。

 平和、それはわたしたち自身の心の平和であり、また神との平和であり、さらに、わたしたち人間とこの自然環境との平和でもあります。そしてこの世界、この社会の中に築きあげられるべき平和であります。

ヨハネ23世教皇は「地上の平和」という回勅を出されました。そして平和について述べています。

「それは、一つの秩序であり、真理を土台とし、正義によって築かれ、愛によって生かされ、そして自由によって実践されるものであります。」すなわち、イエス・キリストを土台にし、真理・正義・愛・自由という柱の上に建てられる家であると、ヨハネ23世は説明しました。

 日本の教会は毎年86日から15日、平和旬間を行っております。わたしたち本郷教会は、カテドラルに近い教会であり、今年もいろいろな企画が予定されておりますので、ぜひカテドラルで行われる行事、ミサにご一緒に参加したいと考えております。

 

命日

「命日祭のミサ」説教

2019年7月6日(土)、本郷教会

 死者のためのミサを「命日祭のミサ」と呼ぶことにいたします。

日本語で命日といえば、ある人の亡くなった日であり、祥月命日と言えば、亡くなった月のその日を指しているのであります。

わたしたちの場合、《命日》とはいのちの日です。どういういのちかというと、新しいいのちに生まれる日という意味であります。

死者のためのミサ、あるいは追悼のミサで、司祭が唱える叙唱の中に、次のような言葉があります。

「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています。」

いのちへの門に入った日が、命日であります。

わたしたちのもとから、天の父の家へと旅立った方々、今日はその方々をしのぶ日といたしましょう。

亡くなった人のいない家はないわけです。わたしたちのために生きた人達、友人・知人、そのほかいろいろな方、教会の中では司祭、亡くなられた方を思い起こし、その永遠(とわ)の安息のためにお祈りいたしましょう。

 イエスは言われました。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」

イエスが地上にこられたのは、わたしたちを天の父のもとへと連れて行くためであり、その道をイエスは準備されました。

「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。

わたしたちと一緒に、わたしたちを天の父のもとへと連れて行ってくださるのが、イエス・キリストであります。

そして、わたしたちの地上の体はなくなってしまいますが、わたしたちの慈しみ深い神は

わたしたちの体を栄光ある体、主イエス・キリストの復活の体と同じような体に変えてくださるのであります。 

もちろん地上の体は、火葬にすれば灰になってしまいますが、わたしたちのあたらしい命の体、それは霊的な体であり、わたしたちの目には見えませんが、イエス・キリストの復活の体と同じような体に変えてくださるとわたしたちは信じているのであります。 

本郷教会は、毎月第四主日のミサの共同祈願で、その月に亡くなられた方のお名前を呼んでお祈りしておりますが、それに加えてわたくしは、毎月の第一土曜日に故人、亡くなられた方のためにミサをお献げし、そのミサを「命日祭のミサ」としたいと思っております。

 

2019年7月 6日 (土)

神理解の相違

年間第十三金曜日 ミサ説教

2019年7月5日(金)、本郷教会

 昨日の福音は、イエスが中風の人を癒した話でありましたが、その際「あなたの罪は赦される」(マタイ9・2)とイエスが言われたことについて、律法学者がイエスを「神を冒瀆する者」であると考えたということを伝えています。

今日の箇所は、昨日の話とよく似ている話ではないかと思われます。

 イエスは、マタイという徴税人をご自分の弟子になさいました。

徴税人は、当時のユダヤの世界で罪人の代表とされ、非常に忌み嫌われていた人々でありました。

イエスはしばしば徴税人と一緒に食事をしたようであります。

今日の場面でも、「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」(マタイ9・10)とあります。

今日はファリサイ派の人々ですけれども、これを見てやはり律法学者のようにイエスにつまずいた。

「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。(マタイ9・11)

イエスは彼らにこたえて言われました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9・12)

 イエスが言われた「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」という言葉は、

旧約聖書の預言書 ホセア書の言葉でありました。

ちなみに新共同訳からその個所を引用しますと、こうなっております。

「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく、神を知ることであって 焼け尽くす献げ物ではない。」(ホセア6・8)

 イエスはしばしば当時の宗教的な指導書、宗教上の権威者と対立し、ついに十字架の刑に追い詰められるようになりました。

その理由、原因について、福音書がたびたび告げている場面から考えますと、神とはどんな方であるかという最も大切なこと「神理解」について、大きな相違があったからだと思います。

彼ら律法学者、ファリサイ派の人々が考える神と、イエスが人々に教えた神との間には大きな隔たりがあった。

イエスは、神とは人々の罪を赦し、そして人々の病を癒す方であると考えていたのであります。

 

2019年7月 5日 (金)

癒しと赦し

年間第十三木曜日 ミサ説教

2019年7月4日(木)、本郷教会

 中風(ちゅうぶ)の人を床に寝かせたまま、人々がイエスのところへ連れて来ました。

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。」(マタイ9・2)

イエスは、「あなたの病気は赦される」と言われたのではなくて、「あなたの罪は赦される」と言われた。それを聞いた律法学者はつまずいた。それは、罪を赦すことのできる方は神だけであるからです。イエスが、「あなたの病気は癒される」と言われたのであれば、「癒される」のかどうかは明白であります。もし失敗すれば、言ったことが実現しなかったわけですから、イエスは人々の前に恥を掻くということになります。しかし、イエスは、「罪は赦される」と言われたのです。なぜそう言われたのでしょうか。 

そこで、律法学者はこの言葉について、当然かもしれない疑問を持った。

イエスは言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(マタイ8・4)

どちらが易しいでしょうか。

なにしろ目の前に病人がいて、「あなたの病気は癒される、さあ起きて立ちなさい」と言ってその通りにならなければ大変ですけれども、「赦される」というのは、言うだけは簡単ですからね。赦されているかどうか、誰がどうして証明できるでしょうか。 

「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(マタイ9・4)

この答えは明白です。言うだけなら簡単だからです。

しかし、「起きて歩け」と言って、その通りにならなかったなら、大変なことになる。

その通りになったかどうかは直ぐに分かるわけです。

「罪を赦す」と言って、赦されているかどうかは、どうやって判定するのか。

イエスは、両方を言ったのです。

「あなたの罪は赦される。」赦されているという意味だと思う。赦されているのです。いたのです。しかし、律法学者はそれを認めない、信じない。その結果、イエスは冒涜の罪に問われることになります。

「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」(マタイ9・6)

これはその通りになるかどうかは明白なので、イエスがそう言われるとその通りになった。

「その人は起き上がり、家に帰って行った。」(マタイ9・7)

 ここで、わたしたちは改めて考えるべきことがある。

わたしたちは、「罪の赦し」を信じている。自分の罪が赦されているということを、どういう風に考えているか。

交通違反をしたとして、罰金を科せられたら、罰金を払わないと落ち着かない、わたくしの場合できるだけ早く払ってせいせいしたい。払ったらもう追及されることもないと安心する。

神様が赦しているということを、どうやって知るのか、知るかではなくて信じるかどうかなのですね。それが一つの重要な課題です。 

それから、それからもう一つ。「癒す」ということと、「赦す」ということの間に、関係があるのだろうか。

信仰のない人間なら、正直な気持ち、罪よりも病気を治してもらいたいという気持ちが勝っていないだろうか。多くの人は、あなたの言う罪の問題はどうでもいいのだ、この病気を治してくれと、そう思っているのではないだろうか。

しかし、人間にとって、わたしたちにとってどちらが大事なのでしょうか。「罪を赦してもらうこと」、「病気を癒していただくこと」、両方とも大事です。しかし、でも病気は癒していただいても、罪が赦されていないなら、その方が我々には大変なことであるはずなのです。

わたしたちは、本当に罪が赦されているということを、そしてそれがどんなに嬉しいことであるかということを、どれだけ日々感謝しているのであろうか、と思うのであります。

 今日の第一朗読は大変重要なところです。次の機会にお話ししたいと思います。

 

 

2019年7月 4日 (木)

見ないで信じる者は幸い

聖トマ使徒の祝日 ミサ説教
2019年7月3日(水)、本郷教会

 

今日は使徒聖トマスの祝日です。
トマスという人は、何といっても疑い深い使徒として知られています。
復活したイエスが弟子たちのところに現れた時に、トマスはその場に居合わせなかった。
それから一週間後に再びイエスが現れて、トマスに言われました。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20・29)

 

わたしたちの教会の成立は、イエス・キリストの復活という出来事を体験した人々の上に成り立ちました。
そして、復活を信じた使徒は見ないで信じたのではなくて、復活したイエスを見て、復活したイエスに出会って、イエスの復活を信じたのであります。
それ以後、わたしたちを含めて多くの人は、復活したイエスに直接肉眼で見るという体験はしていないが、イエスが復活したということを信じています。
わたしたちもイエスの復活を信じて、キリスト教徒になりました。
どうして信じることができたのかというと、イエスを見て信じた使徒たちがいたからであり、その使徒たちの証しを信じたからであります。

 

7月1日は「福者ペトロ岐部司祭と一八七殉教者」を記念する日でありましたが、日本には多くの殉教者がおり、殉教者というのは、「命を賭けて信仰を証しした人」という意味であります。
今、難しい時代を生きているわたしたちは、復活したイエスを見ないで信じる者として歩んでいます。
イエスは復活された、そして復活したイエスがわたしたちと共にいてくださる、と信じています。
しかし、復活したイエスがわたしたちと一緒にいてくださるということはどういうことだろうか。復活したイエスは何処におられるのか?
様々な困難や問題の中で、この信仰を日々新たにして歩んでまいりましょう。

 

どの時代もそうですけれども、根拠の無いいい加減な噂や、人を騙す話などが横行している時代であります。
そういう社会の、時代の、動きの中で、自分の人生を賭けても良いという真実に基づいて、日々歩んでいるわたしたちの信仰を、聖霊がさらに強めてくださいますように祈りましょう。

2019年7月 3日 (水)

イエスは誰か?

年間第十三火曜日 ミサ説教

2019年7月2日(火)、本郷教会

 「人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った。」(マタイ8・27)と今日のマタイによる福音が告げています。 

ナザレのイエスという人は、どういう人であるのか。

このことは、わたしたちキリスト者にとってだけではなく、人類の歴史の中で大きな問題であり、課題となっています。

 今日のマタイの福音(マタイ8・23‐27)は、何を告げているのでしょうか。

船というのは多くの場合、わたしたち教会の事をあらわしているという考え方があります。

教会が激しい嵐に襲われても、イエスは少しも慌てることなく、船に乗ったまま眠っておられた、そういう場面であります。わたしたちが慌てて右往左往しても、イエスは落ち着いて何事もないかのように眠っておられる、そういう場面であります。(教会という船にはイエスが乗っているので転覆することはない。) 

昨日今日と創世記の朗読でありました。

ソドムとゴモラの罪が非常に大きくなったので、神はソドムとゴモラを滅ぼそうとなさった。

アブラハムが取りなして、正しい人がいれば罰を下すことを止めていただけないでしょうかとお願いしたら、それでは何人の正しい人がいたら止めるか、そういう話が展開して,結局人数がどんどん減って、十人いれば滅ぼさないということになったのですが、十人もいなかったという話なのですね。

そして今日の箇所(創世記19・15‐29)では、ロトとその娘の3人だけが救われた。

ソドムとゴモラの罪というのは、どういう罪なのだろうか。創世記を読んで改めて人類の罪とは何かということを考えてみたいと思います。

人間が持っている罪、人類が直面している罪、人間自身が引き起こしている罪、そして人間が直接の原因ではないが、この宇宙の中で起こるさまざまな災害という問題があります。

神がお造りになったこの世界に、どうしてそういうことが起こるのだろうかという考えと、

しかし、神がお造りになった世界は、すべて神の栄光を現わしているのです。この信仰と世の罪・悪の存在との間の調和をどう考えたらいいでしょうか?

 

2019年6月30日 (日)

ローマ帝国とキリスト教

聖ペトロ・パウロ使徒

2019年6月30日、本郷教会

第一朗読 使徒言行録 12・1-11

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙  二テモテ4・6-8、17-18

福音朗読 マタイ 16・13-19

皆さん、わたしたちは本日、本郷教会として、聖ペトロ、聖パウロ両使徒のお祝いをいたします。この二人の使徒は、わたしたちキリスト教会の二人の重要な、偉大な礎となった方々であり、ともに紀元60年代半ば、ローマで殉教いたしました。ミサの叙唱で司祭が唱えることばの中に、二人の使徒の果たした役割が、簡潔、正確に表現されております。

ペトロは使徒の頭として信仰を宣言し、イスラエルの小さな群れから初代教会をつくり、パウロはキリストの神秘を解き明かし、異邦の民の使徒となりました。

使徒ペトロ、使徒パウロも共にその信仰をあかしして命を献げ、殉教者となったのであります。

殉教とは、自分が信じる信仰の真理、あるいは、道徳を守るために命を献げる行為を意味しております。そもそも「殉教」という言葉は、「証し」を意味し、「殉教者」とは「信仰の証人」でありました。

ナザレのイエスという人によって始まった、小さな、イエスを信じる人々の群れは次第に大きな集団となり、そしてローマ帝国の中で大きな存在となっていったのであります。そのキリスト教徒の存在は、時の国家権力にとって無視できない大きな勢力となりましたので、ローマ帝国はキリスト教を公認し、且つ、そのあとローマ帝国の宗教、国教とさえするに至りました。

このローマ帝国での国教化という時点が、わたしたちの教会の大きな分かれ目になったのではないかという考え方があります。どういう意味かと申しますと、それまでは、キリスト教徒は、反体制、時の国家権力に迫害され、或いは、否定されていた存在ですが、今度は逆に体制の中に組み込まれ、小さな存在から大きな存在へと、繰り上げられたのであります。そこで新しい問題が生じた。小さな弱い存在であったときには、人々の前でナザレのイエスという、処刑された一人の男を証しする人々の群れでありました。多くの殉教者が生まれました。しかし、国家から公認され、そして国家を支える宗教となった時から、キリスト教は、いわば体制を支える宗教、そして小さな存在から大きな存在へと変えられたのであります。

今日の福音で、イエスはペトロに言われました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。」キリスト教徒は迫害されましたが、その迫害にめげず、どんどんと仲間を増やすことはできた。そのときの状況ではこの「陰府(よみ)の力」というのは何を意味していたのか。ま、おそらく外からキリスト教徒を迫害する、或いは虐待する悪の力を表していたかもしれない。しかし、キリスト教が体制の宗教となった時点から、「陰府(よみ)の力」というのは、外にある悪の力だけではなく、むしろ“教会の中にある悪の力”となっていったのではないだろうか。わたしたちは、小さく弱い時には、その弱さの中で神様のめぐみに感謝して生きておりますが、大きくなり力を持つと、今度はその力、その大きさに頼むようになり、次第、次第にイエス・キリストの生き方からそれていってしまうという問題があるのであります。

わたしたちの教会はそのことを自覚し、絶えず刷新と改革をはかってきました。何度も公会議を開きました。最後に開かれた公会議は第二バチカン公会議であります。日本の教会、小さな群れですけれども、公会議の開催と歴代の教皇の指導を受けて、「福音宣教推進全国会議」という刷新のための会議を開きました。1987年、もうだいぶ昔になってしまいました。それでもなお、わたしたちの教会は、内部にさまざまな問題を抱えております。聖職者の性虐待、性暴力の問題など、すでに世界中が知るに至っているのであります。

わたしたちの教皇フランシスコは、この教会の刷新、そして改革のために非常なる努力をしておられます。わたしたちもこの教皇様のご意向に心から賛成し、協力を惜しまないようにしたいと思います。

最後にひとこと、わたくしが感じておりますことを付け加えます。

教皇様は、「フランシスコ」という名前をとられたんですね。このフランシスコの精神に従うようにと努力され、そして、すすめているのではないかと思います。

フランシスコの精神は、3つの事柄からの解放を目指すことだと言われています。

3つのことというのは、英語で恐縮ですけれど、P で始まる3つでありまして、まず第一は

POWER、「権力」ですね、二番目は PRESTIGE、 これは「名声」という意味ですね。名声。

三番目は POSSESSION これは「所有」という意味です。この3つから遠ざかることがイエス・キリストの生き方に倣うことだと言われています。自ら顧みるに、とてもこの目標から遠い自分をみいだすのであります。皆様のご指導を得て、そのようになりたいと考えております。

聖ペトロ聖パウロ

聖ペトロ聖パウロの祭日前晩のミサ説教

                                                   2019629()、本郷教会

629日は使徒ペトロ、使徒パウロの祭日であります。

本郷教会はペトロの教会でありますので、ペトロ、パウロのミサは明日630日の主日に移し、本日は前晩のミサを献げることになりました。

ペトロ、パウロは、すべてのキリスト教会にとって非常に重要な人物であり、教会の礎となった使徒であります。

今日のミサの叙唱で、司祭は次のように唱えます。

「ペトロは使徒の頭として信仰を宣言し、イスラエルの小さな群れから初代教会を造り、パウロはキリストの神秘を説きあかし、異邦の民の使徒となりました。」

この簡潔な言葉によって、ペトロ、パウロの二人の使徒の果たした役割がはっきりと示されています。

ペトロはイエスの選んだ使徒たちの頭であり、勇敢に信仰を宣言し、そしてイエスの弟子たちからなる最初の教会を造った使徒であります。

パウロはユダヤ教徒でありましたが、復活したイエスの呼びかけに応えて、異邦人に福音を伝える使徒(使徒とは遣わされた人という意味でありますが)となりました。

今日のヨハネの福音も非常によく知られた物語であります。

復活したイエスはペトロに現れて、三度も同じ質問をしました。

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

三度も聞いたのでありまして、三度も聞かれてペトロの方は悲しくなったと今日の福音に出ております。

言うまでもなく、この三度というのは、イエスの受難の時にペトロが三度もイエスを否んだ、知らないと言ってしまったことに対応しているということが明らかになっています。

このようにペトロという人は、訳アリと言っていいのか、わたしたちと同じように人間としての欠点を持った人でありました。

しかし、福音書、あるいは使徒言行録を通して浮かび上がってくるペトロの姿というものは、非常に人間的な、愛すべき直情径行の人であったと思われます。

ペトロのような使徒が、わたしたちの教会の最初の礎として選ばれたということは、わたしたちにとっても大きな慰めではないだろうか。

人間として非常に親しみやすい人でありますが、なにしろ一番大切なところで主人を裏切ってしまった張本人であります。それなのにイエスは、ご自分の大切な任務をこのペトロに託した。この事実は、わたしたちにとってよく考えてみれば大きな驚きでありますが、また慰めでもある。

ペトロに託したイエスは、わたしたちにもそれぞれ任務を与えてくださっているのであります。

そんなことはとてもできませんと言う気持ちがあるかもしれないが、ペトロに託した。

卑怯で臆病と思われた男が、イエスの復活によって、勇敢で信仰深い人間に変えられたのでありますから、わたしたちにもまだ十分可能性がある。そういう信仰を今日確かめたのであります。

パウロの方は言うまでもありませんが、非常に熱心なユダヤ教徒であった。キリスト教徒を

迫害し、神の教会を滅ぼそうとした人です。そのような人が異邦人に福音を宣べ伝え、信仰の証しをし、殉教しました。

わたしたちに教会はそのような二人の使徒を礎に成立した教会です。

教会の使命は宣教・福音化です。二人の使徒に倣い、勇気をもって宣教・福音化しようではありませんか。

そうできますよう聖霊の助け導きを願いましょう。

 

 

 

 

 

 

2019年6月28日 (金)

イエスの聖心

イエスのみ心 ミサ説教

2019年6月28日(金)、本郷教会

キリストの聖体の祭日の後の金曜日は、「イエスのみ心」の祭日となっております。

「イエスのみ心」は、槍で貫かれたイエスの心臓によって表わされるイエスの愛、人間であったイエスの愛を表しています。

17世紀の後半、フランスの聖母訪問会の修道女、聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647~1690)にイエスが現れて、彼女に次のように告げたと言われています。

「この心を見なさい。これは、人間を非常に愛し、人々にその愛を示すために涸れ果てるまで何一つ惜しまなかったものなのに、多くの人々から、その報いに、特に聖体の秘跡において、忘恩、不敬、さらに冒瀆、冷淡、無関心しか受けていない。最も辛いのは、わたしに献身した人々もそうした態度をとっていることである。したがってわたしの望みは、聖体の祭日後の翌週の金曜日に、わたしが聖体において受けたすべての辱めを償うための祝日を設け、その日には償いの心を持って聖体拝領することである。」

そう言われたと伝えられています。実際、それほどまでに人間を愛してくださる神に対して、人間は無関心であり、冷淡であり、そのような神の愛に無知でありました。

今日の朗読を振り返ってみましょう。

ルカ福音書の15章。見失った一匹の羊を求めて探し回り、見つけると喜んでその羊を担いで家に帰る羊飼いの姿が述べられています。神にとって、一人の人間はそれほど大切な存在であるということを語っております。

第一朗読はエゼキエルの預言でした。

「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」(エゼキエル34・16)ことが、良い牧者のつとめであります。

第二朗読はローマ書。

罪人であるわたしたちのために命を献げてくださったキリストの愛が告げられています。

神の愛がわたしたちの心に、聖霊がわたしたちの心の中に注がれました。

その神の愛を受け、神の愛をより深く知り、そしてその神の愛へ応答することが求められているのであります。

わたしたちは、イエス・キリストを通して示された神の愛を、より深くより強く知り、そして生活の中で、神の愛を実行しなければならないのであります。

日々の生活の中で、特に隣人との関わりの中で、わたしたちはどのようにこの神の愛を実行しているでありましょうか。

神の愛に生きるということは、日々新しい人に生まれ変わるということであり、自分中心の生き方から日々出ていくということに他なりません。

エフェソ書の中に次のような言葉が見つかります。

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、償いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり、などすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦しあいなさい。」(エフェソ4・30‐32)

 

 

2019年6月27日 (木)

岩の上に家を建てる

年間第十二木曜日 ミサ説教

2019627()、本郷教会

昨日は、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」(マタイ717)という主イエスの言葉を聞きました。

今日は引き続き、「山上の説教」の結びにあたる部分で、

「『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ721)というイエスの言葉を聞きます。

「山上の説教」をずっと聞いてきました。

「山上の説教」というのは、神の国の福音のあり方を述べておりますが、わたしたちにとっては、その実行がやさしくはないと思われます。

やさしくないから実行しなくてもよい、というわけではさらさらない。

しかし、実行できなくとも、実行するように努めなければならないのであると思います。

昨夜、聖書通読会があって、ヨハネの手紙を読みました。

いろいろな大切な言葉を取り上げたのでありますが、こういう言葉が出ています。

「もし自分に罪がないという者がいれば、その人は偽り者である。」

神の前にわたしたちが正直に誠実に反省するならば、まったく自分に落ち度がないとか、過ちがないという人はいない。

聖書のほかの箇所でもそのように言っています。

そこでどうするのかと言うと、自分の問題を謙虚に認めて、赦しを願うということであります。

わたしたちが日々唱える「主の祈り」もそのような祈りになっています。

わたしたちは、「御心が行われますように」と祈り、それは自分のことはさておいて神様の御心が実行されますようにということよりも、自分において、自分が今日も神様の御心を行うことができますようにと、祈るのであります。

そして一日が終わって、自分がどのように自分は神の御心を実行したのかということを反省する時に、神の御心を完全に知ることもできませんし、神の御心に背くことをした、あるいは御心を行わなかったという反省をしないわけにはいかない。

そこで、「わたしたちの罪をおゆるしください」と祈るのであります。

ところで、今日の福音で言う「岩の上に家を建てる」とは、イエス・キリストという岩の上に家を建てるという意味ではないかと思います。

 

 

2019年6月26日 (水)

良い木と悪い木

年間第十二水曜日 ミサ説教

2019626()、本郷教会

昨日の福音は、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。

これこそ律法と預言者である。」(マタイ712)と述べ、

さらに、「狭い門から入りなさい。」(マタイ713)というよく知られた言葉(黄金律)も述べられています。

ずっと読み続けてきた「山上の説教」のほぼ結びにあたる部分でありました。

今日の福音もその続きであります。読んで分かりやすい教えです。

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」(マタイ717

良い木とは、何を言っているのだろうか。

悪い木とは、何を意味しているのだろうか。

明らかに、これはたとえでありますので、わたしたち一人ひとりのことを言っていると思います。

それでは、イエス・キリストの弟子は良い木であるのか、悪い木であるのか。

当然、良い木であるはずだということになります。

聖霊降臨を迎えるにあたり、九日間の祈りということを皆さんに提案しました。

「聖霊の実り」についての祈りでした。

「聖霊の実り」というのは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」のことであると、使徒パウロがガラテヤの信徒への手紙で言っています。

このような「聖霊の実り」をもたらす人は良い木である、ということになるでしょうが、

わたしたちは正直に言って、基本的には良い木かもしれないけれども、そうでない部分、パウロのガラテヤ書の言葉によると、「肉の業」という部分もないわけではないです。人には怒りとか妬み、あるいはよく制御コントロールされていない欲望などがあります。

そこで、人間は完全に良い木であるわけでなく、完全に悪い木でもない。

しかし、基本的に人は神の似姿であり、神に似た者として作られており、さらにイエス・キリストの十字架によって、救いの恵みに与っているのであります。

その救いが完成するのは、この地上の旅を終わる時であります。

わたしたちは聖母に、いつも臨終の時も祈ってください

その時まで日々、良い実を結ばせていただけるよう、聖霊の導きを祈ります。

聖霊のもたらす実り、それはわたしたちの心に聖霊が注がれた結果である。

ですから、日々聖霊に従うことができるよう、すでに与えられている聖霊の働きにもっとよく応えることができるように、心を込めて祈りを新たにしなければならないと思います。

 

2019年6月24日 (月)

イエスとヨハネ

洗礼者聖ヨハネの誕生

                                                                        2019624()、本郷教会

今日624日は、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日であります。

カトリック教会の典礼歴の中で、最も重要な日は主日と祭日であります。

その誕生を祭日として祝う日というのは、聖母マリア以外には、本日祝う洗礼者聖ヨハネの日だけではないかと思います。

それほど洗礼者聖ヨハネの果たした役割が重要であると考えられています。

ヨハネの誕生とイエスの誕生の間に、ちょうど6ヶ月の期間があります。

そして両方には似ている点と異なる点があります。

ヨハネの誕生とイエスの誕生には、天使ガブリエルが深く関わっています。

ヨハネの誕生の時には、父親のザカリアが天使のお告げを信じませんでしたので、口がきけなくなったと聖書は告げている。

他方、おとめマリアは天使ガブリエルのお告げを受けて、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と問いましたが、「神にはできないことは何一つない。」と言われて、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と答え、神のお告げを受諾したのでありました。

ヨハネの果たした役割は、イエス・キリストの到来を準備するということでありまして、ちょうど旧約の時代から新約の時代に繋がる「つなぎ目」の役割をした人であります。

マタイの福音で1111節に、不思議な言葉がみられます。

「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」

この言葉は、何を言っているのだろうか。

前半は、大変ヨハネを評価する言葉である。

ヨハネよりも偉大な者は、今までに現れたことはないとイエスは言われた。

しかし、その直後に言われた言葉が少し分かり難い。

天の国では、最も小さい者でさえ、ヨハネよりも偉大である。

ちょっと頭の中で整理しても整理がつかないですけれども、これはどういう意味だろうか。

ここに旧約の時代と新約の時代の比較があるのではないだろうか。

洗礼者ヨハネのイメージというのは、どういうものであるかと言うと、荒れ野で厳しい生活をし、らくだの毛衣を着て、イナゴと蜜を食物とし、とても普通の人にはできない難行苦行の生活をしながら、悔い改めを説いたわけであります。

イエスの方は神の国の福音を説きました。

イエスの周りには貧しい人が沢山集まっていました。

昨日の「キリストの聖体の祭日」の福音を思い出しましょう。

そして通常イエスは、弟子たちとゆっくりとしたよく食べよく飲む生活をしていたようであります。

そのイエスは十字架の刑に処せられ、そして三日目に復活されました。

洗礼者ヨハネの方も、ヘロデによって斬首の刑を受けたのであります。

二人とも処刑されたわけですが、イエスの死後生まれた教会は、神の救いの福音を宣べ伝え、今日の教会へと発展しました。

洗礼者ヨハネは、神の厳しい掟を説き 悔い改めを説いたのでありますが、イエスは罪の赦しの福音を伝えたと思います。

昨日のキリストの聖体の説教で申し上げましたが、イエスが十字架の上で流した血は、罪の赦しのための新しい契約の血でありました。

 

2019年6月23日 (日)

聖体

キリストの聖体・説教

2019年6月23日、本郷教会

第一朗読:創世記 14:18-20

第二朗読:第一コリント書簡 11:23-26

福音朗読:ルカ 9:11b-17

 

キリストの聖体の祭日を、本日、記念いたします。

イエスは、聖体の秘跡をお定めになりました。

「聖体」と日本語で言いますが、本来、「感謝」(Εχαριστα, Eucharistia) という意味であります。そして、「聖体」と言うと、「聖なるからだ」と書きますので、「からだ」は、パンの方をもっぱら連想してしまいますが、キリストのからだは、パンと葡萄酒の両方で表されているのであることを、今日、特に注意したいと思います。 

今日の第二朗読、コリントの教会への手紙で、使徒パウロは、「わたしの記念としてこのように行いなさい」という主の言葉を伝えています。司祭は、ミサのなかで奉献文を唱えるときに、「これをわたしの記念として行いなさい」といつも必ず唱えております。

「記念」という言葉は、非常に大切であります。わたしたちは、普通、「記念」と言うと、「昔起こった出来事を今思い起こし、そして祝う」という意味をおもに連想しますが、ミサの場合、この「記念」という言葉は、νάμνησιςアナムネーシス]という言葉の翻訳でありまして、確かに、昔起こった出来事があったが、その出来事が今ここで再現される、その出来事の意味が今ここで実現している、ということを表しています。単に昔のことを懐かしく思い起こすということではない。今ここにその出来事が起こっているのであり、その結果である恵みをわたしたちは受けているのである 「記念」は、そういうことを思わせる言葉であります。 

司祭の唱える聖別の言葉は、よく御存知のとおり、パンの聖別の言葉と、葡萄酒の聖別の言葉と、ふたつあります。

「皆、これを取って食べなさい。これは、あなたがたのために渡されるわたしのからだである」 司祭がそう唱えると、このパンが復活したイエス・キリストのからだになる、とわたしたちは信じている。

「皆、これを受けて飲みなさい。これは、わたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪の赦しとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい」 この言葉を教会の外の人が初めて聞くと、ちょっと驚くかもしれない。「血の杯」とか「契約の血」という言葉が含まれていますので、わたしたちの日常生活のなかでは、あまり親しみやすい言葉ではない 「なごやかな、おだやかな」とは言えない言葉ではないでしょうか。わたしたちは、ミサのたびに、その言葉を聞いており、唱えているので、もう特に違和感がないかもしれないが、改めてこの言葉に注目すると、「ああ、そういう言葉を使っているんだ」と、少し、今さらながら、驚きを感じるかもしれない。

この「血による契約」という言葉は、イスラエルの民の歴史と深く結びついております。わたしたち、日本列島で何年も暮らしてきた人間にとって、この表現はあまりなじみやすい言葉とは言えないでしょう。しかし、わたしたちは、そういう言葉で表されるイエス・キリストの宗教を受け取っているのであります。 

わたくしが思いますに、この葡萄酒の聖別の言葉のなかで大切なのは すべて大切ですけれども 「罪の赦しとなる新しい永遠の契約の血である」という、

罪の赦しを伝えるイエス・キリストの十字架を、わたしたちは、今ここで目の当たりにする。ですから、何よりもまず、わたしたちは罪の赦しを受けた者であるということを、思うべきであります。わたしたちはイエス・キリストの十字架によって罪の赦しを与えられており、わたしたちは赦しを受けなければならない者であり、その赦しを受けている、ということを思うときであります。

そして、日々唱える主の祈りのなかで「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します」と言っているのでありますから、罪の赦しを受けた者として、人の罪も赦すことができますように、と祈るときであります。

「記念」という言葉は、昔のことと思い起こし、懐かしいと思うだけでなく、今ここでイエス・キリストの恵みを受け、その恵みにふさわしく生きる決意を新たにすることであります。 

五つのパンと二匹の魚の奇跡の話が、今日の福音であります。イエスの周りに集まった人は皆、貧しい人でありました。彼らのなかでは、たった五つのパンと二匹の魚しかなかった。しかし、その乏しい食物を喜んで分かち合うことによって、その恵みはどんどん広がり、多くの人々に伝わって行ったのであります。

わたしたちも、ここに集って、この日本という国で 一億人以上の人が住んでおりますが 人々の間に、イエス・キリストの恵み 罪の赦し を受けた者の感謝を伝えて行くことができるし、そうしなければならない、と考えております。

 

宣教・福音化

宣教・福音化のための土曜日のミサ
2019年6月22日(土)、本郷教会

宣教・福音化のためのミサを捧げております。
イエスは昇天に際して、弟子たちに言われました。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」
このイエスの言葉に、わたしたち教会の使命がはっきりと示されています。
「あなたがたは行って」と言われました。
イエスは弟子たちを派遣したのであります。
宣教という言葉は、ラテン語のミッシオmissio、英語のミッションmissionにあたる日本語でありまして、わたしたちは派遣されているのであります。
ちなみにミサmissaという言葉も、派遣という言葉に由来しています。
わたしたちはここに派遣されている。
「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」
イエス・キリストの弟子をつくることが、わたしたちの使命であります。
そのような困難な仕事を、わたしたちはどうして実行できるであろうかと考えますに、
イエスは続けて言われたのであります。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
イエスが弟子たちと共に、わたしたちと共に、いつでも一緒にいてくださるので、この使命、
すべての民をイエス・キリストの弟子にするという使命を、実行することができるようにしていただけるのであります。
イエス・キリストの弟子というのは、キリストのように生きる人であります。
キリストのように生きるというのは、イエス・キリストの精神・心を、自分の精神・心として生きる人であります。そこで、「福音化」という言葉が良く使われるようになりました。
1975年、聖パウロ6世の「福音宣教」エヴァンジェリ ヌンティアンディEVANGELII NUNTIANDIと言いますが、パウロ6世の教え以来、「福音化」という言葉が一般化しました。
この「福音化」はラテン語のエヴァンゲリザティオevangelizatio、英語のエヴァンジェリゼーションevangelizationを日本語化したものであります。
人と世界を福音の精神にかなったものに変えることを、「福音化」と言うのであります。ところで、第一朗読で言われていることを合わせて思い起こしましょう。
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」
神はすべての人が救われることをお望みになっているので、そう出来るように、すべての人が救われるように取り計らってくださるのであります。
その神の計画に、わたしたちは協力するようにと召されている、協力をするように求められているのであります。
他方、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」と言われています。
ここでわたしたちは、救いということは、イエス・キリストを通してなければ与えられないというもう一つの命題、テーシスthesisを深く心に刻む。
全ての人が救われることを望む神、そして救いというのは、ナザレのイエスという人によらなければ与えられないというもう一つのテーシスthesisとどのように調和させることができるであろうか
そういう大切な問いかけにわたしたちは直面している。イエス・キリストによる救いをすべての人に及ぼすために、わたしたちは呼ばれています。
わたしたちが送られているこの時代この場所で、わたしたちはイエス・キリストという人を、あるいは仲介者を、人々に告げ知らせなければならない。
イエス・キリストを知らなければ、どうしてイエス・キリストを他の人に告げ知らせることができるでしょうか。ミサを通し、聖書の学習を通し、あるいはわたしたちの分かち合いを通し、祈りを通し、わたしたちは主イエス・キリストをもっとよく知ることができますよう祈りましょう。今日もミサもそのためのミサであります。
宣教と福音化という使命をよく果たすことができますように、聖霊の助け導きを、切に願いましょう。

 

体のともし火は目である

年間第十一金曜日

2019年6月21日(金)、本郷教会

 

今日の福音の後半の部分、

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

という言葉を考えてみたいと思います。

 

目というものは、光を受ける器官であります。

目を通って、光が入って来る。

ここで言われている光というのは、何のことだろうか。

 

答唱詩編で、「主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。」とあります。

光と言えば、わたくしの心に浮かんでくることは、復活祭の前の晩の典礼であります。

光の祭儀というのがあります。

光を受けるためには、光を受けるのにふさわしい状態になければならないと思う。

光を受けるつもりがなければ、初めから問題になりませんが、光が射してきても、その光をさえぎってしまう何かの妨げがあるならば、光はわたしたちの心の中に届かないことになります。

光がなければ、そこには闇しかない。

その光、神様から、あるいはイエス・キリストから来る光は、わたしたちのところに届きますが、そこでわたしたちがその光をどのように認め、どのように受け入れるかということが、大切ではないだろうか。

 

あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」とも言われました。

わたしたちが何を求めているかという心の状態によって、光が心の中にどのくらい入ってくるのかということが決まるのかな、とも思う。

ほかのことに関心があったり、執着したりしていると、光は心の中に入ってこないのかもしれない、とも思う。

 

人間の物事を知る認識の仕方は、その人が持っている枠組みに応じて行う。(昔、神学生のときに「認識論」という科目を履修したときの命題であった。)

その枠組みというのが、なんであるのか。

広い、深い、あるいは囚われのない清らかな心であれば、神様の恵みに対し敏感である、よく答えることができるのだろう、と思います。

主は言われた。「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」(マタイ5・8)

 

2019年6月21日 (金)

誘惑に負けないように

年間第十一木曜日 朝ミサ説教

2019620()、本郷教会

山上の説教を学んでおります。

主イエスは、敵を愛するようにと教え、自らもその教えを実行し、十字架の上で自分を十字架につけた者のために、天の父に赦しを願って祈りました。

今日の福音は、わたしたちが日々唱える「主の祈り」であります。

「主の祈り」において、わたしたちは「負い目を赦してください」と祈ります。

教会の教えている「主の祈り」では、「罪をおゆるしください。」でありますが、「負い目」という言葉の方が、わたしたちには分かりやすいかもしれない。

負い目を赦していただくために、わたしたちは、自分に負い目のある人を赦さなければならないのであります。今日のマタイの福音では、「赦しましたように。」となっております。

「赦した」という心の状態で初めてわたしたちは、自分の罪を天の父に赦していただけると教えております。

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

この最後の願いは、解釈が難しい。

わたしたちが日々祈る祈りは、「誘惑におちいらせず」と言っているのであります。

誘惑に遭わせないでくださいといっても、誘惑に遭わないわけにはいかない。

誘惑に遭っても、誘惑におちいらないようにしてください、と祈っているわけであります。

「悪い者から救ってください。」ですが、わたしたちの「主の祈り」は、「悪からお救いください」です。

「悪い者」というのは、悪を人格化している言い方で、悪魔・悪霊に相当する悪魔の事を言っているわけであります。

「悪い者」というのは、創世記3章に出てくる蛇で代表される悪魔のことであると言われます。

今日の第一朗読でも、「エバが蛇の悪だくみによって欺かれた」と書いております。

わたしたちは日々悪魔の誘惑を受けている、その誘惑に負けないようにしてくださいと祈るのであります。

昨晩、聖書通読会がありましたが、ペトロの手紙でも「悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っていますから、信仰にしっかり踏みとどまって悪魔に抵抗しなさい」(一ペトロ58-9)十分に気をつけなさい。」という言葉がありました。

 

2019年6月20日 (木)

イエス偽善を非難する

年間第十一水曜日 朝ミサ説教

2019619日、本郷教会

「山上の説教」を読んできました。

昨日の説教は、「敵を愛しない」という教えでありました。

イエスは自分の教えたことを、自分で実行しました。

今日の説教は、偽善者に向けて行われています。

イエスは自ら、「わたしは柔和で謙遜な者である。」と言われましたが、時に非常に痛烈な批判を偽善者に向けてしているのであります。

偽善者というと福音書においては、ファリサイ人、律法学者が代表者です。

人の前に良い人であると装いながら、心の中は醜い名誉欲、放縦、自分のことをほかの人よりも大切にする心でいっぱいである、そのようにイエスは批判しました。

当時の人々の考えで、良い行いの代表は、施し、祈り、断食でありました。

施しをする時には、人から褒められるような態度でしてはならない。                                                                                     

「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」と言われました。

また祈る時は、これ見よがしに私はどんな敬虔な人であるかということを見せたがるような祈りは、してはならないと言われました。

断食ということについても、いかにも人々にそれとわかるような断食の仕方をしないで、分からないように、頭に油をつけ顔を洗いなさい、と言われたのであります。

イエス・キリストとはどんな人であるかということを、わたしたちは毎日祈り求めています。

イエスは弱い人、病む人、迷う人に大変優しく、そして寛容でありました。

しかし自らを以って権威者とし、真理を保有していると自負する律法学者、ファリサイ派の人に対しては、非常に批判的な態度をとったのであります。

 

 

2019年6月18日 (火)

暴力の行使

敵を愛しなさい

 

マタイの福音書の「山上の説教」を、わたしたちは読み続けております。
今日の教えは、「敵を愛しなさい」という教えであります。
敵を愛することができるだろうか、という思いがわたしたちの心の中にあることを否定できるでしょうか。そもそも「山上の説教」が、(昔は「山上の垂訓」と言いましたが)、実行可能な説教だろうか、昔からそのことが論議されてきました。
神の国が完成した時のあるべき姿を述べているのであって、地上では実現は不可能ではないかという意見もあります。
不可能であっても、この目標を否定したり、あるいはこの旗印を引っ込める訳にはいかない。
今日のアレルヤ唱でも述べています。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように。」
これはもう百も承知の教えでありますが、どれだけ実行できるだろうかという問題があるのであります。
実行できないから、この教えは間違っている、とは言えない。
実行できなから、もう従わなくてもいいと、いうことも言えない。
そのような緊張関係がいつもあるのであります。
聖ヨハネパウロ2世という、たいへん立派な偉大な教皇様がおりましたが、紀元二千年という大聖年を迎える時に、書簡を発表しました。
そして教会が、二千年という人類歴史の大きな節目を迎えるにあたって、反省すべきことがあるのだということを述べました。
教会」というよりも、「教会の子ら」という表現を使っています。
その中に、「教会の子ら」が暴力を使用した、ということを言っているのであります。
真理への奉仕に際し、暴力を使用したこと暴力を使用することを黙認したことを、大いなる反省事項として挙げております。具体的に何を指しているのでしょうか
恐らく異端審問ということを、念頭に置いていたのかもしれない。
教会の教える正しい教えに反対する人、あるいは従わない人は、暴力を以って処罰してもよい、という考えが支配的であったのであります。
それはイエスの言葉に反することは明白ですが、当時の教会はそのようには考えなかったようであります。

死刑

年間第十一月曜日 ミサ説教

2019617()、本郷教会

山上の説教をずっと読んできております。

山上の説教は人間に実行可能な教えであろうか、ということが論議されてきました。

今日の箇所について、特にそのような思いがあると思います。

今日の箇所を読んで、わたくしの心にある一言、二言だけを申し上げます。

人類の歴史は、戦争と争いの歴史でもあると言えましょう。

戦争を行う時に多くの場合、正当な理由がないと行うことができないので、戦争を開始する理由を述べるわけであります。

その際、正当防衛という理由がよく使われるのであります。

正当防衛も、攻撃されてから自分を守るという場合だけでなく、攻撃されそうなので攻撃されない前に先手を打つという理由にもされました。

戦争は集団と集団、国家と国家の対立でありますが、もう一つ死刑ということについて、カトリック教会は、死刑は公共の善のために許容されると教えてきました。

しかし最近、正式にその教えの変更を発表いたしました。

もはや世界の状況から、死刑・極刑を課さなければ市民の安全が保障されないという状況はなくなった、という理由が一つ。

それから、死刑という刑は、人間の尊厳を冒す許し難い行為であるという理解が広がっている、またさらに、一人の人の回心の機会を奪うことになる、そういう理由が述べられております。

 

 

2019年6月17日 (月)

三位一体の神

位一体の主日・説教

2019年6月16日、本郷教会

第一朗読:箴言 8:22-31

第二朗読:ローマ書簡 5:1-5

福音朗読:ヨハネ 16:12-15

 

本日は、三位一体の主日であります。

わたしたちは、父と子と聖霊の三位一体の神を信じております。ミサのときに唱えるニケア・コンスタンティノープル信条は、わたしたちの信仰理解を簡潔に表現し、告白しております。

イスラエルの人々は、唯一の神、アブラハム・モーセに現れた神を信じていました。イエスが示した神も、同じ神、アブラハムとモーセに現れた神でありますが、その神を、イエスは「父である神」と呼んだのであります。

そこで、あるとき、弟子のフィリポが、イエスに言いました。「あなたはたびたび天の父についておっしゃいますが、わたしたちにその天の父を示してください、見せてください そう言ったのであります そうすれば、満足します。」

弟子たちの間には、まだ、なにか、しっくりしない気持ちがあったのでありましょう。

その弟子たちに、イエスは言われた。「なぜそんなことを言うのか?こんなに長くあなたがたといっしょにいるのに。わたしを見た者は父を見たのである。わたしと父とはひとつである。」

見えない神は、見える人間となって、人々のところに来られ、神はどのようなかたであるかということを、肉体をもって示したのであります。

さて、イエスは、地上を去ってしまいました。そうすると、どうなるのでしょうか?そこで重要な役割を果たす存在が、聖霊であります。

「わたしが去るのは、あなたがたにとってよいことだ。あなたがたのうえに、真理の霊、聖霊が与えられるであろう」とイエスは預言されました。

 

ニケア・コンスタンティノープル信条は、イエスが誰であるかということについてかなりな部分を割いています。そして、その後で、聖霊について述べています。

今日、確認いたしましょう。「わたしは信じます、主であり、命の与え主である聖霊を。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また、預言者をとおして語られました」。

教会が到達した聖霊への信仰は、この短い言葉によって要約されています。

聖霊は、御子イエス・キリストが父と一体であるように、主である神である。そして、聖霊は、父と子から発出する。そして、父が礼拝され、子が礼拝されるように、聖霊も、同じように礼拝される。

聖霊の神性 神である性格 を強く主張しているのであります。

聖霊は、預言者をとおして語られました。

 

イエスは、地上を去ったあと、聖霊を注いで、教会を設立しました。イエスは、絶えず聖霊を教会に注ぎ、いつでも、どこでも、聖霊をとおして、わたしたちを導いておられます。

 

今日、わたしたちが特に注意を払いたい聖書の箇所は、第二朗読のローマ書の5章5節です。「聖霊がわたしたちのこころに注がれたので、神の愛がわたしたちのなかに宿っている 」とパウロは宣言しています。

わたしたちは、聖霊を受け、神の愛を行うことができる者とされました。

 

そう言うと、その割にはあまり実りが無いね、という感じになりますが・・・。

わたしたちの教会は、二千年の間、歩んできた。いろいろな困難、いろいろな試練を経て、歩んできました。現在も、試練のなかにある。

わたしたちの存在、わたしたちのおこなっていることすべてが、聖霊の働きによるわけではない。 すべてではないのです。すべてが聖霊の働きであるならば、そのような不祥事とか、嘆かわしいことは、あり得ないのでありますが、聖霊への協力の度合いが、まだ、はなはだ不十分であります。

 

聖霊降臨を迎える前に、ノヴェナの祈り 九日間の祈り という伝統的な祈りを、皆さんにお願いしましたが、そのときに祈った祈りは、「聖霊の実りを豊かに実行する者となれますように」という祈りでございました。

 

「聖霊の実り」の最初に挙げられているものは、愛であります。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」 それら九項目が、聖霊の働き、聖霊の実りであります。

 ナザレのイエスという、わたしたちと同じ人間になってくださった神様は、今、地上にはおりませんが、その代わりに、御自身の霊をわたしたちに送り、すべての人に送り、そして、イエス・キリストの生き方を実行することができるように、してくださっているのであります。 

そのために、いつも、わたしたちは、地上のさまざまなことから心を離し、そして、天上に心を上げて、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を実行することができるよう、切にお祈りをしなければならない。 

そして、それを個人で行うだけでなく、わたしたちは、互いに教え合い、励ましあって、確かに聖霊が教会のなかに働いているということを、外の人にも認めていただけるような教会であるようにしたいと思い、今日も、そのために聖霊の助けと導きをお祈りいたしましょう。

2019年6月16日 (日)

FIAT

 

聖母マリアの土曜日のミサ

2019615()、本郷教会

今日は「お告げの祈り」について、ご一緒に思いを深めたいと思います。

日に三度、鐘の音に合わせて「お告げの祈り」を唱えるという良い習慣がありました、というかあります、と言いたい。東京カテドラルの庭で,ちょうど司教館の前の南側の庭の隅の方に、「お告げの鐘」を納める小さな建物があります。そこにフランスから贈られた「お告げの鐘」が納められています。その鐘を教会に寄付した方は、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードという、法律の先生でありました。

明治の新しい政権が、急いで日本の法律を整備するために急遽ボアソナードを,先進国のフランスから呼び寄せて、日本の法律の制定に力を貸していただいたのでありまして、ボアソナードは日本近代法の父と呼ばれております。そのボアソナードは、非常に敬虔なカトリック信者でありました。

確かその妻の名前と一緒に,教会に一組の「お告げの鐘」を寄付し、その時は東京教区の司教座は築地教会でありまして、司教座が築地から関口に移る時に一つは築地に残り、一つは関口に移って来たのでありました。

「お告げの祈り」は、今読んだルカの福音の出来事を記念するとともに、わたしたち自身の日々の信仰を確かめ深め、そしてさらに神の救いの計画に思いを馳せるための、非常に大切な祈りであります。

わたしたちが毎日唱える「主の祈り」と共に、「アヴェ・マリアの祈り」も、この祈りと共に広められたのでありました。

天使ガブリエルがマリアというおとめに突然現れ、聖霊によってあなたは母となる、その子は神の子と呼ばれ、偉大な働きをすることになる、というお告げをマリアは受けたのでありました。その時に非常に戸惑ったマリアは、「どうして、そのようなことがありましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えています。

天使はマリアに「神にできないことは何一つない。」「神様の救いの計画の中にあなたは置かれている」と言ったので、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えて、神のお告げ、神からのメッセージを受諾したのであります。

「成りますように」という言葉は、ラテン語でフィアットFiatと言います。

この一人のおとめのフィアットによって、わたしたちの救いの計画が新しい段階に進んだのであります。

このマリアの信仰と従順は、最初の人間とよばれるアダムとエバの不信仰と不従順とに比較されるのであります。

最初の人間が置かれた園の中央に木が生えていて、その木の実だけは食べてはいけないと命じられていました。ところが蛇が女に、神への不信仰と不従順をそそのかすように誘惑したのでありました。

その木から果実を取って食べると神のように善悪を知るものになると蛇が言ったので、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。

女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も、食べた」と創世記が言っている。

マリアの場合、どうしてそのようなことが起こりえるのでしょうかと天使に反論したが、神様にはおできにならないことはないという返事を聞いて、一切の思いに封印したのでしょうか、受諾したわけであります。

ところが最初の人間アダムとエバは、あたかも神が、自分たちが神のようになることを恐れているというような思いに捉えられて、自分たちも善悪を知るものになりたいと思ったのでありました。

しかし、マリアの信仰と従順によって、救い主が人間となることができたのです。

「お告げの祈り」の祈願を思い出しましょう。

「神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架を通して復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。」

神様の救いの計画は、聖書全体を貫いて述べられていますが、非常に重要な段階は、救い主が人となられたということであって、そのために一人の貧しい少女の承諾を求められた。

このことは非常に大切であります。

そしてさらに、受難と十字架の道をイエスは歩まれて、復活の栄光に到達されました。

わたしたちもそのイエス・キリストの道に従う、その道を歩むことによって、同じように復活の栄光に与ることができます。

神の救いの計画は、非常に遠大というか壮大であります。

わたしたち人間の救いだけではなく、すべてのものの救いを神は計画されています。

考えてみれば、わたしたち人間だけが救われるということは有り得ない。

すべては繋がっていますので、一つのものが救われるということは、それに連なるすべてのものが救いに与るということに他ならない。

第一朗読で、すべての被造物の解放、滅びへの隷属からの解放ということが述べられています。

人間だけが自分の救いを考えるのではなくて、この世界全体が、すべての被造物が、神の救いの計画の完成に与る日が来るのだと、その時をわたしたちは待ち望んでいるのであります。

その神の遠大な壮大な計画の中に、わたしたちも招かれ組み込まれているのであります。

そして,わたしたち一人ひとりに聖霊が注がれ、わたしたちの中で神様がわたしたちを聖霊の神殿として住んで下さり、わたしたちを使って神様の救いの計画を実行してくださる。

その信仰を深め、そして感謝したいと思います。

 

 

2019年6月14日 (金)

姦淫してはならない

年間第十金曜日

2019614()、本郷教会

 

 主イエスは山上の説教をわたしたちに残しました。

正直に言ってこの山上の説教は、わたしたちには実行が非常に難しいと思います。

山上の説教の解釈は様々でありますが、文字通りの実行は人間には非常に困難であると多くの人が感じております。

しかしそこで言われていることは、本当に人間がそうであるべきことであると、わたくしも多くの人々もそう受け取っている。

そこに隙間というか、そうであるべき状態と、そうであるべきであるがそうなっていない自分がいるという、この間の開きを人間は感じる、それが非常に大切ではないかと思う。

別な言葉で言えば、わたしたちは神様が望んでいる状態、あるいは主イエス・キリストを通して示された要求には届いていない。

地上にいる間は完全に届くことはないだろうと思われる。

それではそういう人はまったく救われないのかというと、そうではない。

自分がそのような、人間、つまり罪人であるということを知っている人こそ、神の憐みを受けるに価するものであります。

昨日の説教では、殺してはいけないということについて申し上げました。

刑法の殺人罪を犯す人はほとんどいないでしょう。

しかし他の人のことで恨みに思ったり、あるいは憎んだりしたことのない人はほとんどいないも言えます。

今日の説教も多くの人を悩ませましたし、今も悩ませている。姦淫するなという教えです

姦淫するという実行行為をする人はあまりいないでしょうが、思いで姦淫をしてはいけないと言われると、どういう風に思ったら姦淫をしたことになるだろうか、それだけで青年は悩んでしまう。

そして今日の翻訳をみると他人の妻となっていますが、妻でなければ良いのかというと、そうでもない。(フランシスコ会訳では「情欲を抱いて女を見る者は誰でもで、心の中ですでに姦淫の罪を犯したことになる」とあります。)

わたくしの考えですけれども、女性を自分の欲望の充足の対象としてだけしか見ないことは絶対に許されないという意味であると思います。

 

 

 

文字は殺し霊は生かす

 

年間第十木曜日 ミサ説教

2019613()、本郷教会

 

 昨日は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」という主イエスの御言葉について、ご一緒に考えてみました。

その際、使徒パウロの言葉、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」という言葉をご一緒に深く味わうようにしたのであります。

今日の福音と今日の第一朗読は、その昨日の教えの続きであります。

「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」とイエスは言われました。

このイエスの御言葉の意味は何でありましょうか。

殺してはならないという掟をすべての人が知っています。

どんな国にも刑法があって、殺人罪という重い罪が定められている。

実際、人を殺すということは大変重い犯罪であります。

犯罪ではないが人を憎み、人の存在を心の中で否定するならば、それは人を殺したことと同じことになる、と主イエスは言われました。

そう言われると、少しわたしたちは考えさせられる、たじろいでしまうかもしれない。

おそらく殺人という罪を犯した人はいない、非常に少ない。

しかし誰かのことを恨んだり、あるいはいない方がよい、死んでしまえばよいという思いが心をかすめたことのない人というのも、そんなに多くはないかもしれない。

イエスの言葉は非常に厳しいものであります。

聖書全体を通じて、どんな人も完全に神の前に問題のない人、義とされる人はいない、ということが宣言されている。

わたしたちの心は、いわば完全に清められたものではなくて、まだ汚れた部分が残っております。

そのことを深く自覚し、ただイエス・キリストを通して神様の憐みを願う以外にないのかもしれないと思う。

「主の霊のおられるところに自由があります。」と今日の第一朗読が言っています。

わたしたちはイエス・キリストへの信仰をさらに確かめ深め、そして主の霊、聖霊が来てくださるように日々願いましょう。

そのようにして栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていくのであります。

 

2019年6月13日 (木)

律法や預言者を完成するために来た

 

年間第十水曜日 ミサ説教

2019年6月12日(水)、本郷教会

 

今日の第一朗読で使徒パウロが言っています。

「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」

新しい契約に仕える資格と言っていますが、それは古い契約に対して言っている言葉であり、古い契約とは、モーセに与えられた石に刻まれた文字による契約でありました。

十戒(の戒め)によって示されたイスラエルの民が守るべき掟が与えられました。

人々は神様の前ですべてその掟を守り行いますと約束しましたが、彼らはその約束を実行することができませんでした。

そこで、神は預言者を通して新しい契約の締結を預言したのでありました。

エレミヤの預言で言われています。

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。(エレミヤ31・31-32)

これはモーセを仲介者としてシナイ山で締結した古い契約のことを言っています。

しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31・33)

新しい律法が授けられます。その新しい律法は、人々の心に記される律法であります。

同じことを預言者エゼキエルも告げました。

わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。(エゼキエル36・26-27)

新しい心、新しい霊は神の霊、聖霊によって与えられました。聖霊降臨の日にエゼキエルの預言が実現したのであります。

かつて与えられた契約の条項は石の板に刻まれていましたが、新しい契約はわたしたちの心の中に与えられています。

聖霊によってわたしたちに神の愛が与えられ告げられ、わたしたちは自分の心から神の愛に応えることができるようにとされています。

「文字は殺しますが、霊は生かします」とパウロは言っています。

文字自身はわたしたちに力を与えることはできない。何を為すべきかを教え、何をしてはいけないかを教えますが、それを守り行う力を与えることができませんでした。

霊はわたしたちに神の愛、神が主イエス・キリストを通してしめされた神の心を伝えます。

わたしたちは神の心を知り、神の心にこたえることができるものとされたのであります。

かくして今日の主イエスの言葉が実現しました。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5・17)

 

バルナバ

聖バルナバ使徒の祝日

2019611()、本郷教会

今日は聖バルナバ使徒の記念日であります。

バルナバという使徒は、使徒パウロにとって非常に重要な役割を果たした人でありました。今日の使徒言行録によりますと、バルナバはアンティオキアというところで活躍し、アンティオキアからサウロ(のちのパウロ)をタルソスへ行って見つけて、アンティオキアに連れ帰ったとなっています。

サウロはアンティオキアの出身です。

サウロが異邦人の使徒になれたのは、バルナバのおかげであると言っても良いのであります。

キリスト教徒を迫害していたサウロが、異邦人に福音を宣べ伝える使徒になることができたのは、バルナバがサウロを理解し、サウロを支持したからであります。

このアンティオキアというところで初めてキリスト者という名前が生まれたと今日の使徒言行録は伝えています。

そして、バルナバとサウロがアンティオキアから派遣されて、異邦人の世界へ福音を宣べ伝えるようになったのでありました。

今日の福音についての一言を申し上げたい。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」という言葉であります。

何をただで受けて、何をただで与えるという意味なのでしょうか。

イエスから派遣された使徒たちは、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う」という権能を授かりました。

イエス・キリストの行い、イエス・キリストが人々に伝えた恵みを、同じ恵みをあらわし伝えることができるようにされたのだと思います。

ですから、ただで受けたものというのは、主イエス・キリストから受けた賜物、権能のことではないかと思います。

さらに考えてみれば、わたしたちが受けているものはすべてどんなものでも、主なる神からいただいたものでありますので、それを神様の御心に従って活かさなければならない。

神様のみ旨に従って、それを神の栄光のために活かさなければならないと思います。

 

 

 

 

2019年6月 9日 (日)

病者のミサ

復活節第七土曜日 病者のためのミサ説教
2019年6月8日(土)、本郷教会

仏教で、「四苦八苦」ということを言っています。
生、病、老、死(しょう、びょう、ろう、し)。
怨憎会苦(おんぞうえく)、愛別離苦(あいべつりく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の八つだそうです。
この八つの中で、病ということが人生の大きな苦しみの一つになっています。
医学は非常に発達しましたが、健康上何の問題もないという人はおそらく非常に少ないでしょう。
何らかの問題を持っている。
そしてわたしたちの家族、あるいは友人知人、まわりの人の中に病気の方、あるいはいろいろな心身の問題を持っている人がおられます。
今日は特にそういう方々のことを思いながら、お祈りをしたいと思います。

イエスの周りには、貧しい人々、病気の人々、心身の問題に悩む人々がたくさん集まってきたのであります。
今読んだ山上の説教もそういう場面であります。
通常のわたしたちの考え、常識とはむしろ逆のことをイエスは言われました。
「心の貧しい人々は幸いである。」
「心の貧しい」とは、心というのが霊スピリッツ、霊において貧しいという意味で、
霊とは、人間に与えられている生きる力、生きるための力が弱い、少ない、乏しい、そういう人々のことを言っているので、心が貧しいのは、さもしいとか、みっともないとか、そういう意味ではない。
生き辛くされている人々のことであります。
何故そういう人が幸いなのでしょう。普通は反対ですね。
イエスはそういう人々は幸いだと言われた。なぜだろうか。
そこにわたしたちの信じる福音の秘密があると思う。
逆説的と言いましょうか、イエスの教えは常識には合わない教えであります。
幸いである理由はただ一つしかないと思う。
それはイエス・キリストという人自身にあり、神の、天の父の恵み、憐み、慈しみのうちにあると思います。
神はそのような人々と共におられ、そのような人々を慈しみ、ご自分の命に招いてくださる。
そしてそのような人々は、他の人々よりも容易に素直に神の憐みを受ける、神様の招きにこたえる人々である。
そうでない人、つまり力があって自分の考え、自分の計画で生きている人は、神様の招きに気がつかない、あるいは神様の招きを聞いても受け入れない。
そういう人は神の国になかなか入らない。
そういう意味ではないかとわたくしは思います。

わたしたちはイエス・キリストの生き方に倣うようにと招かれています。
イエス・キリストの生き方、それは受難、死を越えて、復活の命に入るということであり、過越の神秘と言いますが、死から命へと移る生き方である。
わたしたちの希望は復活ということにある。

今日、集会祈願で祈りました「心も体も主イエスの復活の恵みに与る者、となるよう導いてください。」
わたしたちの現状は貧しい、乏しい、弱い、あまり上手くいかない、いろいろなことがありますが、しかしその受難と死を越えた世界に復活の世界がある。
パウロの教える復活の世界、それは死を越えた世界であり、復活の体にわたしたちも変えていただける。
どういう身体なのか分かりませんが、地上の肉体には終わりがあるし、疲れるし、病におちいりますけれども、復活の身体というのは、神の栄光に与る身体でありますので、主と共にいつもでも神の栄光に感謝し、神を賛美することができる体であると思います。

これから共同祈願の中でいろいろな方のことを思い、感謝、そしてお願いを捧げながら
わたしたちが主イエス・キリストの復活への信仰と希望をより強く、より深く、持つことができますように祈りましょう。


四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦の分類。

根本的な苦を生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)の四苦とし
生…生まれること。
老…老いていくこと。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
病…様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる。
死…死ぬことへの恐怖、その先の不安。

根本的な四つの苦に加え、
愛別離苦(あいべつりく)  … 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく)  … 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく)   … 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) … 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。

聖霊降臨

 

聖霊降臨の主日

2019年6月9日(日)、本郷教会

第1朗読 使徒言行録2・1-11

第2朗読 ローマ 8・8-17

福音朗読 ヨハネ14・15-16、23b-26

 

説教

きょうは、聖霊降臨の日でございます。

二千年前に弟子たちの上に聖霊が与えられましたが、きょうはわたしたちは、その出来事を記念するとともに、きょう、わたしたちの上にさらに聖霊を与えてくださるようにお祈りします。

ナザレのイエスは神の国の福音を説き、ペトロをはじめとする弟子たちをつくりましたが、天の父のもとへとお帰りになりました。

その時に弟子たちに約束をされたのであります。

「わたしが去ると、わたしは天の父から聖霊を受けて、聖霊をあなたがたに与えるであろう。」

その約束が実現した日が「聖霊降臨の日」、ユダヤ人のお祭りでいえば「五旬祭」、「五十日祭」という意味であります。

さて、この出来事はわたしたちにとって、どういう意味を持っているのでしょうか。

わたしたち教会は主イエス・キリストからご命令を受けています。

「全世界に行って、わたしの弟子をつくりなさい」

そういう命令を受けているのであります。

イエス・キリストの弟子とは、イエス・キリストのように生きる人であります。

弟子たちは生前のナザレのイエスといわれる人と生活し、行動し、親しくイエス・キリストを知ることができましたが、しかし、それでも十分に知ることはできなくて、イエスが亡くなって、そして、復活されたあと、復活されたイエスと出会って、初めてイエス・キリストの生涯の意味を悟るようになったのでありました。

さらに、聖霊を受けて、弟子たちは知恵と勇気に満たされ、まるで生まれ変わった人のようになって、世界中で、いつでもイエス・キリストをあらわし、伝えることができるようになりました。

 

教会というのは、すなわち、わたしたちが教会ですが、ある意味で、イエス・キリストの身体であり、イエス・キリストをあらわし、延長し、継続させる団体であります。どうしてそういうことができるのかというと、それは、神の霊、「聖霊」を受けることによって可能になります。

パウロの手紙で今日読まれましたが、「神の霊によって導かれるものはみな、神の子なのです」と、パウロが言っています。神の霊によって導かれるならば、わたしたちは神の子であり、イエス・キリストの姿を現す、イエス・キリストの生き方を伝えることができるのであります。

そうは言われても、弱い、そして罪のあるわたしたちにそのようなことがどれくらい可能なのでしょうか。

イエスはわたしたちに、そうできるようにと、さまざまな道、さまざまな手段を残してくださいました。

その中で、おそらくもっとも大切と思われることは、「ミサ聖祭」であり、ミサということばで代表される「典礼」そして、種々の「秘跡」であります。

この「ミサ」、特に主日のミサは非常に大切であります。ミサにおいてわたしたちは復活された主イエス・キリストと出会い、イエス・キリストの声を聴き、そして、イエス・キリストの御体をいただいて、よりキリストに似たものとなることができるのであります。

きょうの福音で、イエスは「弁護者」という名前の「聖霊」を弟子たちに与えてくださると言っております。

わたしたちは地上のイエスに出会うことはできませんが、聖霊の導きを通して、より親しくイエス・キリストを知ることができるのであります。そして、聖霊は、一人一人のこころに働きかけるとともに、わたしたち、この団体、グループに語って下さいます。世界に広がる教会、日本の教会、そして、東京教区に、この本郷教会に聖霊が注がれ、わたしたちが何をなすべきかを教えてくださり、そして、そのための力を与えてくださると信じます。

そして、それが可能であるのは、実に、聖霊のはたらきによるのであります。

そして、その聖霊は確実に与えられるいろいろな機会の中に「典礼」があり、その典礼の中心が「ミサ聖祭」であります。

繰り返しになりましたが。

きょうの第二朗読で、少しわかりにくい表現があると思います。

「肉」という言葉と、「体」という言葉であります。何か、「体」を否定するようにとられると、それは大きな誤解になります。「肉」という言葉と、「体」という言葉は区別される。自分の弱さ、もろさ、自分の限界を知り、ただひたすら神の恵みに頼って生きる人の生き方が、神の霊に導かれる神の子の生き方であります。

自分の力、自分の判断、自分の思いを中心に生きる生き方のことを、「肉の支配にあるもの」と、パウロは呼んでいます。

人間は他の人に対して、いろいろな思いを抱きます。が、人を支配したいとか、思い通りに動かしたいとか、人よりも上に立って、見下したいとかいうような思いにとらわれることがある。そういう思いが「肉の思い」であります。

「霊の思い」に従っている人は、どういう実りをもたらすのかということをパウロは述べております。

それは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という聖霊の実りであります。

聖霊の実りを豊かに受けることができるようお祈りいたしましょう。

2019年6月 2日 (日)

主の昇天

主の昇天 C年 説教        

201962日(日)、本郷教会

 イエスは復活されて、40日間にわたって弟子たちにお現れになり、40日目に弟子たちの見ている前で、天にあげられました。その時に、イエスは言われました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。」 父が約束されたものとは、第一朗読、使徒言行録でもいわれておりますが、聖霊のことであり、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とイエスが約束されたのでありました。

イエスは、ご自身の血をもって、わたしたちの、すべての人の罪を負い、罪の赦しをもたらし、わたしたちはすべての人が天の父への道を歩くことができるように、新しい、生きた道をわたしたちのためにひらいてくださいました。

復活祭までの四旬節、聖週間、そして復活祭の後の復活節を歩んできたわたしたちはいよいよ来週の日曜日、聖霊降臨の日を迎えます。この救いの歴史の中で、主イエス・キリストがわたしたちにしてくださったことをあらためて今日思い起こし、分かち合い、感謝をし、喜びを新たにいたしましょう。

今日のアレルヤ唱をもう一度味わってみたいと思います。イエスは弟子たちに言われました。「全世界に行き、すべての人をわたしの弟子にしなさい。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。」地上を去るイエスが、いわば、別れの言葉として弟子たちに残されたこの言葉。別れに際して、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたともにいる」といわれた一見矛盾する言葉は何を意味しているのでありましょうか。地上のイエスの生涯はわずか30数年、そして弟子たちがイエスとともに過ごした期間は3年余りと思われます。その地上の生涯は、ある場所、ある期間に限定されておりました。そのイエスが地上を去ることによって、イエスは、いつでもどこにでも、ともにいることができるようになったのであります。イエスの創られた教会、その教会にイエスはいつもともにいてくださる。日本の教会、この東京教区、そして本郷教会のわたしたちとともにいつもいてくださると、わたしたちは信じております。そして、「すべての人をわたしの弟子にしなさい。」 そんなだいそれたことが、わたしたちにできるのだろうか。聖霊の力が降ると、わたしたちは力を受けるのであります。わたしたちはすでに力をいただいている。その力というのは、わたしたちにとって、皆さんにとって、どんな体験でありましょうか。今日の福音のメッセージの中に、わたくしの注意を引く言葉は「罪の赦しを得させる」という言葉であります。わたしたちは罪の赦しを受けたものである、すでに罪の赦しを与えられた。そのような思い、そのような実感をわたしたちはもっと深めなければならないと思います。

ちょっと話はそれるかもしれませんが、今、日本の社会でなにが一番問題になんだろうか。自分自身の価値を認められない、受け入れられない、と感じている人が多いのではないだろうか。自分がこの世に存在していることは素晴らしいことなんだ、ほんとに感謝しなければならない、心から感謝します、という思いで生きている人がどの位いるのだろうか。たぶんわたしたちはその中に入っているものだろうと思いますが、自分を赦せない、こんな自分をだれが受け入れてくれるだろうかという思いを持っている人もいる、あるいは少なくないのかもしれない。あなたがそこに存在していることは素晴らしいことなんだ、意味のあることなんだ、美しいことなんだ、というメッセージがいつもその人の心にこだましているならば、 わたしたちは、その人はその喜びを多くの人に伝えることができるのではないだろうか。そのような思いをいつも響かせてくださる方は、聖霊であるとわたくしは思います。聖霊はすでにわたしたちに与えられている。その聖霊が、自分の中に、わたしたちの間に与えられていることに、もっとわたしたちは気づき、注意をはらい、そしてその聖霊による喜びを他の人とともに分かち合うことが大切ではないかと思うのであります。 

わたしたちのこの本郷の教会から、聖霊によって与えられた罪の赦し、そして生きる喜びを、神から愛されているという喜びを、多くの人と分かち合うことができますよう、そのためにこのミサ聖祭が大きなめぐみであるということを、今日もより深く知ることができますよう、ご一緒にお祈りいたしましょう。

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第一朗読 使徒言行録 1.1-11

第二朗読 ヘブライ人への手紙 9.24-2810.19-23

福音朗読 ルカによる福音 ルカ24.46-53

 

 

 

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