無料ブログはココログ

2018年10月 8日 (月)

男と女

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

人はだれでも一人で生きていけません。助けてである相手、パートナーを必要としています。神は人を、互いに助け合い支えあうものとして、男と女に創造されました。

男にとって女は神の恵み、大きな喜びの源です。男がぐっすり眠っている間に女が造られ、目が覚めると傍に女が居ました。女の創造に男はなんの働きもしていません。女は男に与えられた純粋の大きな恵みの伴侶であります。もはや、男にとって女なしには自分というものが考えられない存在となりました。まさに自分の半身、骨の骨、肉の肉です。

イシュ、イシャーというヘブライ語の原文はそのことをよく示しています。二人は別な存在ですが同時に一体をなす存在です。以上述べたことはそのまま女にとっても同じことが言えます。

創世記によれば人はそのような存在として、男と女として創造されたのです。

しかし、現実の男女の関係は必ずしもそのような祝福された状態には置かれておりません。どうして人間の現実に問題が生じたのか、その理由と次第を、創世記3章誘惑と堕罪の物語が語ります。

最初の人間アダムとエバは蛇の誘惑に負けて、創造主である神への不信を抱き、不従順に陥ってしまいました。その結果、人と神との関係にひびが入りました。人と神との関係の不具合は、男と女、人と大地との関係に不具合に波及します。これがいわゆる原罪という考え方です。

結婚と家庭をめぐる問題と困難は、創世記の物語に起因しているといえるのかもしれません。

主イエスはこの人類の歴史に介入し、壊れた関係を修復し、さらにそれを超える素晴らしい状態に高めるために来られました。

人間の問題のかなりな部分は男女の問題、性に関するものではないでしょうか。

男女の関係を本来の神の定めた秩序に戻すだけでなく、さらにそれを清め、よりふさわしい聖なる関係に刷新するためにイエス・キリストは来られたのです。

今日のマルコによる福音でイエスは言われました。

「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

さて、この機会をお借りして、結婚に関する一つの良いお知らせをお伝えします。

教皇フランシスコは先日、9月8日に自発教令を発表して、婚姻の無効宣言手続きをより簡略に、より迅速にするよう、教会法典の改正を行いました。

これは結婚しているといっても実は結婚とは言えない、無効な結婚である場合があります。その場合、教会が結婚の無効を宣言することができます。今回はその無効を宣言する手続きについての改正です。詳細は別な機会に譲りますが、「離婚ではない無効な結婚」ということがある、ということを今日、心にとどめておいていただきたいと思います。

2018年9月24日 (月)

さいたま教区司教叙階式参加お祈り有難うございました・

マリオ山野内倫昭司教叙階式説教

2018924日、明の星学園講堂

 

 

本日は非常に多数の皆さんが、さいたま教区のマリオ山野内倫昭司教の司教叙階式にご参加くださりました。誠にありがとうございます。厚く御礼申し上げます。

今日は多くの方々がさいたま教区外から来てくださっているので、わたくしはこの場をお借りして、愛する「さいたま教区」について説明したいと思います。

 

さいたま教区は、

1939年 当時の横浜教区の8件のうちの北半分の4県をもって「使徒座知牧区」と分離・独立して発足致しました。

1958年 ラウレンチオ 長江 恵(さとし)司教が任命され教区に昇格しました。

1990年 フランシスコ・ザビエル 島本要司教が引き継ぎ、1991年、不肖わたくし岡田が浦和司教となり、2000年にマルセリーノ谷大二司教に引き継がれました。その後5年余りの司教不在の期間を経て本日2018924日 マリオ山野内倫昭司教の誕生の日を迎えることとなりました。皆さんから賜りましたお祈りとご支援に感謝申し上げます。

 

さいたま教区は北関東4県、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県より構成され 登録信者数21,505と報告されておりますが、その数倍の外国籍信徒が居住しております。

 

さいたま教区の特徴は、多文化・多国籍共生の教区であるということです。多数の海外からの移住者、フィリピン、ヴェトナム、韓国、中南米など多くの国々からの移住者・滞在者の皆さんから成り立っている教区であります。そのような教区に、8歳の時に日本の大分県から家族とともに南米のアルゼンチンへ移住された方をさいたま教区の司教をおむかえすることになったのはまさに神の計らいである、と感謝申し上げます。

 

さいたま教区全体が多文化・多民族共生の教区でありますが、司祭・助祭団も実に多文化・多国籍の集まりであり、そのなかの26名が教区司祭です。教区司祭26名のうち16名は2001年以降に叙階された司祭です。そしてまたさいたま教区には5人の終身助祭がおり、それぞれの役割を担って活躍しております。

このような司祭団と助祭団の相互の交流・理解・協働をすすめるためにさいたま教区は二つの集会を大切にしてきました。それは「司牧者大会」と「助祭・司祭の集い」であります。

司牧者大会は、司教を中心として、すべての司牧者、司祭・助祭、修道女、他の皆さんが二泊三日の合宿をし、ともに祈り、話し合い、教区としての重要な課題を一緒に学ぶ論議するようにしております。

また「司祭・助祭の集い」は司教・司祭・助祭の奉仕者に共通の、任務と生活上の課題を話し合い必要な決定を行っております。

この二つの集まりをこれからも大切に実行していただきたいと希望しております。

 

主イエスは言われました。

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21

山野内司教のモットーは

「キリストのうちにあって、一つの体、一つの心となりますように」

であります。

主イエス・キリストにおいて一つとなる、ということがわたしたちにとって目指すべき目標であります。

 

国籍、文化、言語、習慣、体験など大きな相違のある神の民は、ただ主イエス・キリストにおいてのみ一つとなることができるのであります。ですから、わたしたちはひたすらキリストに聞き、キリストを仰ぎ、キリストに従うようにいたしましょう

「自己中心」いう避けられない傾向を担うわたしたちはひたすら自分を捨ててキリストに従うようにと召されています。そのためには、祈ること、典礼を大切にすること、聖書を分かち合うことなどが非常に大切であります。

 

また、わたしたちは皆自分中心という欠点を逃れられません。そのことを骨にしみて自覚し、わたしたちの間で、互いに傾聴し、人を理解するように努めましょう。人の話を聞くということは実におおきなエネルギーを必要とする犠牲であります。同じ兄弟姉妹として、互いに安心して自分の思い考えることが言えるような教区でありたい。そのためにはひたすら相手の声に耳を傾ける決意が必要です。

 

さらにわたしたちは今の日本の社会のなかで苦しんでいる人々の声に耳を傾ける必要があります。困難な状況にある人、病気・障がい、孤独、差別、貧困などに苦しみ悩んでいる人、人生の意味を見つけたいと願っている人々‥実に多くの人々が神を捜し、主イエスとの出会いを求めています。わたしたちは弱い立場に置かれた人々、人生に行き暮れ迷っている人々に開かれた共同体でなければなりません。それこそ、主キリストが望んでおられることでありはその喪主の望みに答えて第二ヴァチカン公会議が開催されました。日本のカトリック教会の開催した福音宣教推進全国会議の開催の趣旨も「弱い立場に置かれている、苦しみ悩む人々に開かれた教会」をつくるためであります。

 

キリストに聞くということ、そして隣人に聞くということ、社会の声に聞くということ、この三つの「傾聴するということ」を日々大切にするようにいたしましょう。

この三つの傾聴を訴えて私の挨拶と説教にかえたいと思います。

 

 

 

 

2018年8月11日 (土)

平和を実現する為はまず反省を

(説教)

主イエスはこの世から父のもとへ昇られるに際し、弟子たちに言われました。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネ1427)

司祭は、ミサの交わりの儀の中で、このイエスの言葉を必ず唱えます。

「主イエス・キリスト、あなたは弟子に仰せになりました。

〈わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。〉

わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、おことばの通り教会に平和と一致をお与えください。」

キリストの言われた平和とは、復活されたキリストが教会にお与えになった聖霊の賜物に他なりません。平和は聖霊の賜物です。聖霊を受けなければわたしたちは平和の使徒として働くことができないのです。

平和の使徒として働くということは、聖霊の恵みを受けて、平和を脅かし平和を破壊する悪の力と戦い、悪と罪に打ち勝つということです。それゆえ主イエスは主の祈りをわたしたちに与え、主の祈りの結びで

「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお守りください」

と祈るようにお命じになりました。主の祈りの直後の副文で司祭はさらに祈ります。

「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。

  あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように。

  わたしたちの希望、救い主イエス・キリストがこられるのを待ち望んでいます。」

平和は聖霊の賜物でありますが、わたしたち人間の側の協力、働きの成果でもあります。 平和は、わたしたちの罪と悪との戦いの実りです。

教会はもちろん平和の建設のために努力してきました。しかし、歴史を振り返れば、現在では理解しがたく、受け入れがたい歴史上の事実、――過ちや暴行、侵害行為にキリスト信者が加担し、あるいは実行していた事実が明らかにされています。

教皇ヨハネ・パウロ二世は広島訪問の際に

「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。」

と宣言されました。その聖ヨハネ・パウロ二世教皇は紀元2000年の大聖年を迎えるにあたり、使徒的書簡『紀元2000年の到来』(1994)の中で、過去のキリスト者の侵した過ちを指摘し、強い反省を呼びかけています。教皇は言っています。

「教会の息子や娘たちが悔い改めの精神によって振り返らなければならない、もう一つの痛ましい歴史の一章は、何世紀にもわたって、真理への奉仕に際しての不寛容、さらに暴力の行使を黙認してきたことです。」(35項)

教皇がこのような告白で具体的に何を示しているのか、この文書自体は述べていませんが、「暴力の行使の黙認」の内容は、おそらく、十字軍、異端審問、ユダヤ人迫害、宗教戦争などを示唆していたと思われます。

また、他にも、問題として、

「キリスト者の間の分裂と対立」

「体主義政権による基本的人権の侵害を見過ごし、あるいは黙認したたこと」

「教会の社会教説の理解と実行を怠ったこと」

などを挙げています。

 

日本の司教団も聖ヨハネ・パウロ二世のこの呼びかけに励まされて、『平和への決意―戦後50周年にあたって』を発表し(1、次のように述べました。

「今の私たちは、当時の民族主義の流れのなかで、日本が国をあげてアジア・太平洋地域に兵を進めていこうとするとき、日本のカトリック教会が、そこに隠されていた非人間的、非福音的な流れに気がつかず、尊いいのちを守るために神のみ心にそって果たさなければならない預言者的な役割についての適切な認識に欠けていたことも認めなければなりません。」

 

20世紀は二度にわたる世界大戦の行われた世紀となりました。核兵器などの大量破壊兵器が登場し、数知れない非戦闘員である一般市民も命を奪われる、悲惨で不条理な現実が繰り返されてきました。

21世紀こそ、戦争のない世紀、大量破壊兵器の使用されない世紀、そしてすべての核兵器が廃棄される世紀にならなければなりません。

朝鮮半島を非核化するとの合意がアメリカ合衆国、韓国、北朝鮮の三国間で実現したと報道されていますが、これについては、納得しがたい、腑に落ちない思いをわたしは持っています。世界一、多量で強大な核兵器を所有しているアメリカ合衆国が、自国の核兵器縮小と廃棄には言及しないまま、東アジアの朝鮮半島を分割している二国における核兵器廃絶を強く求めているのは、全く一方的な身勝手な主張ではないでしょうか。他国に非核化を求めるなら、まず、同時にアメリカ合衆国自身が身をもって核の廃絶を実行すべきです。

 

さて、今年の広島平和祈願ミサの説教の結びにあたり、わたしはどうしても、有名なユネスコ憲章の前文を想起しないわけには行きません。

〈戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。〉

かつて、日本カトリック司教協議会諸宗教部門の主催で「平和のための宗教者の使命」というシンポジュームを開催しました時(2015426日、大宮教会)にお聞きした仏教の教えが強く心に響きました。

「平和を脅かす原因は人間の心の中に在る煩悩である。特に貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)という三つの毒が人間の心を狂わせる。貪とはむさぼりのこと、瞋(人)とは嫉み、恨み、怒りのこと。癡とは自分のことにしか関心が持てず、他者のことには無知であることである。」(天台宗の杉谷義純師の発言)

これはまさに使徒パウロの言う「肉の業」(ガラテヤ519-20)に該当するかと思います。聖霊の助けを受けて肉の業と戦いながら、聖霊の実り〈愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制〉が豊かに与えられますよう祈りましょう。

2018年6月14日 (木)

現行一致は難しい:聖アントニオの日に

パドバの聖アントニオはその優れた説教によって大きな影響を与えました。そのアントニオの残した説教の中で、彼は次のように言っています。
「行いが語る時、言葉は生きたものとなります。言葉を控え、行いに語らせなさい。」 どういうことであるかといいますと、言葉があっても、その言葉が行いとなって実現しない場合に、その言葉は力を失ってしまう。
説くこととその内容を実践することが一致しなければならないという意味であります。 そこで、この前の日曜日の主イエスの言葉を思い起こします。
「私の家族とは誰のことですか、神の御心を行う者こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」 神の御心、それは律法、そして預言者という旧約聖書の言葉によって示されました。 ですから、今日、イエスが言われていますように、 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではない。廃止するためではなく、完成するためである。」と明言しています。
完成するということはどういう意味でしょうか。ご承知のようにイエスは当時のユダヤの指導者であるファリサイ派の人々、律法学者、そして祭司たちと対立しました。その対立のきっかけになったことは、イエスが安息日に癒しを行ったという出来事であります。
形式的に、機械的に数知れない多くの律法を遵守するように教えることが大切であるということではなく、その律法によって示されている神の御心を良く知り、そしてその御心を行うことこそ、律法を完成することになるんだと言っておられるのではないでしょうか?
イエスは死に向かう最後の夜、弟子たちと食事を共にし、新しい契約の血となる、今行っているミサ聖祭を制定し、そして新しい掟をわたしたちに残されました。それは愛の掟、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛しあいなさい」 という掟であります。
愛すると言う言葉は非常に意味があいまいかもしれませんが、イエスが生きたように、イエスが人とかかわったようにキリストの弟子はすべての人に心を開き、すべての人のために働き、すべての人を大切にしなさい、そういう掟であると思います。それを実行することは並大抵のことではないと思います。そうしなければならないが、そうできていない自分を知り、そして日々、赦しを願いながら、少しでも聖霊の導きに従って、新約の教えを実行できますよう、今日のお祈りを献げたいと思います。

2018年6月13日 (水)

いつも新しくされねばならない教会組織・制度

「わたしたち教会はいつも新しくされなければならない。」――玉川通り宣教協力体合同堅信式、2018610日、年間第10主日、渋谷教会

 

(説教)

年間第10主日を迎え、今日、玉川通り宣教協力体合同堅信式が行われます。

ただいま読まれました、マルコによる福音から、わたくしが、心に強く感じました点を、いくつか申し上げたいと思います。

 

第一点.

わたしたちが、救い主として信じている、ナザレのイエスという人は、どのような人であったでしょうか。

イエス・キリストを知り、イエス・キリストのように生きることが、わたしたちキリスト教信者の、第1に心掛けるべき点です。

 

昨日でしたでしょうか、12歳のイエスが、エルサレム巡礼のときに行方不明になったという話を聞きましたが、イエスは、その後、平穏な日々を過ごして、おおよそ30歳になったときに、神の国を宣べ伝え始めました。しかし、そのイエスの言葉と行いは、必ずしも、周りの人にとって、理解できるものではなかったようです。

実際、今日の福音によると、身内の人たちは、イエスのこの言動を理解していなかったことが分かります。

「あの男は気が変になっている」と言われ、また、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言われていました。

頭が変だと思われ、イエスの家族も、かなり、そのように思っていたらしい。この事実は、わたしたちに、大変興味深い、考えるべき点を提供してくれていると思います。

イエスの言動は、決して常識的ではなかった。むしろ、当時の人々の標準通念から外れており、そして、さらに、当時の社会の支配者たちにとっては、反抗的な、不従順な態度であると思われました。

 

第二の点ですが、どのような罪も赦される。しかし、『聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』とイエスは言われた。

これは、どのような意味なのでしょうか。

わたしたちは、聖霊降臨祭を祝いました。三位一体の日、キリストの聖体の日、2つとも、非常に大切な祭日です。そして、この前の金曜日は、主イエス・キリストのみ心の祭日でした。

神は、いつくしみ深い方であるということを、わたしたちは、日々学びます。そして、聖霊を受けて、わたしたちは神の子とされ、罪の赦しを受け、そして、神の子にふさわしい者にされると信じています。

そういえば、ゆるしの秘跡のときに、司祭が唱える赦しの言葉の中に、「神が聖霊の働きを通して、あなたに赦しと平和を与えてくださいますように」とあります。

司祭は、みなさんと同じように罪人ですから、赦すのは司祭ではありません。

聖霊の働きを通して赦しが与えられます。聖霊を受けて、わたしたちは罪の赦しを受けます。

『聖霊を冒涜する』ということは、恐らく、聖霊の赦し、聖霊の恵みを拒むこと、自分が赦されなければならない罪人であるということを認めないこと、そして、赦しを受けなければならない罪人であるということを認めず、聖霊を受けて、神の子に戻るということが必要であるという意識を持っていない人であると思います。

何しろ、赦しが必要であるのに、自分が赦しを必要としていると思わないのですから、どうにも赦し自体を拒んでいるということになりますので、聖霊による赦しが与えられないという意味ではないかと思います。

 

三つ目ですが、『イエスの周りに母と兄弟たちが来た』。父は出てきません。父は聖ヨセフで、養い親ですが、既に地上を去っていたようです。

このときのイエスの言葉は、通常のわたしたちの受け止め方によると、木で鼻をくくったと申しますか、そのような言い方はないという感じがしないこともないです。

わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。そばに来ているのに、聞いているのに、聞こえよがしに、「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。神とは、父である神です。父である神を信じ、神のみ心を求め、神のみ心を一緒に行う人こそ、母であり、兄弟、姉妹である。

 

わたしたち教会は、そのような人々の集まりです。聖霊降臨によって出発しました。聖霊の導きを受け、罪の赦しを受け、決意を新たに、「主イエス・キリストに従い、イエス・キリストの霊である聖霊に従って生きます」と約束しました。

 

今日、堅信を受けるみなさんには、洗礼のときの約束を更新するとともに、さらに、聖霊の7つの賜物を受けて、「キリスト者の使命である、福音宣教の務めを、熱心に、忠実に、しっかりと果たします」という約束をしていただきます。

 

さて、みなさんも洗礼を受けられたときのことを思い起こしてください。

清々しく、心が晴れやかで、新しく生まれ変わって、これからしっかりとやっていこうという、そのような気持ちであったと思います。堅信のときも、そのような気持ちを、さらに強くしていただいたと思います。

 

教会も同じで、教会の誕生のとき、そこには、生き生きとした聖霊の働きがあった。

教会には、組織という面があって、組織というものは、何年も経つと、硬直化し、柔軟ではなくなり、いろいろな規則があり、そして、発足のときの気持ち、聖霊の導きに従って生きるということが、だんだんと弱くなる。疎かになっていく。そのような傾向があります。

教会の組織、教皇庁、教区、修道会、様々な団体。発足のときは、実に明るく元気です。

人間も同じであるかもしれません。洗礼を受けたとき、司祭に叙階されたとき、誓願を立てたとき、司教に叙階されたとき、晴れやかに、聖霊に満たされて、しっかりとやっていこうと、みなも勇気と熱意を受ける。しかし、何年も経つと、だんだんと気が枯れてしまうようになる。

 

教会、わたしたちは、いつも新しくされなければならない。刷新されなければならない。自分の問題をしっかりと見つめ、それを取り除き、そして、主イエスが望んでいるようなあり方に、常に立ち戻るようにしなければならない。天の父のみ心が何であるかを、いつも、しっかりと聞き、見つめなければならないと思います。

 

堅信を受けられるみなさんは、今日、聖霊降臨の体験と同じ体験をします。聖霊が、みなさんに望んでいるのは何であるかということを、いま一度、よく祈り、求め、日々実行するようにしてください。

2018年5月13日 (日)

愛する

「愛する」について(2018年5月6日)

今日は、復活節第六主日という日です。

今読んだ「ヨハネによる福音」でイエスは言われました。

「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。」《互いに愛し合いなさい》というご命令は、「新しい掟」といわれており、イエスが最後の晩餐、つまり十字架につけられる直前に最後に弟子たちと行った夕食の時に弟子たちに残した遺言でありました。

この「愛する」という言葉は誰でも知っていますが、「愛する」とはどういうことかということは、場合によって分かりにくいし、あいまいであるし、そして実行することが難しいとも思います。

キリスト教が日本に伝えられた時、日本に来た福音宣教者フランシスコ・ザビエルたちは、日本という遠く離れた異なる言語、異なる文化、習慣の中に生きている人々に、キリスト教の教え、特に「愛」ということをどういうような言葉に置き換えたらよいかということで大変苦労したそうであります。この「愛」という言葉は、当時あまり良い意味をもっていなかったのです。非常に誤解される恐れがあると彼らは思いました。そこで苦労のすえ「大切」、御をつけまして「御大切」という言葉にしたそうであります。

キリスト教は短い期間に多くの人に受け入れられましたが、間もなく禁止され、多くの信者は殉教しました。

それから長い年月が過ぎ、明治時代になって信教の自由が認められ、キリスト教が解禁されて、キリスト教の宣教が再開されましたが、その時は「愛」という言葉が採用されたようであります。

「愛」という言葉は、どうしてキリスタンの時代には退けられたかというと、仏教では「愛欲」の「愛」というように使われていて、つまり人間の性的な欲望を意味していると思われたからでありました。

イエスが弟子たちに対して示した「愛」、それは、その生涯、全てを捨てて弟子たちを大切にし、命すらささげるという意味であったのであります。そしてイエスは、「あなた方もそのようにしなさい」と言われた。そう言われてもなかなか実行できるものではありません。そこで、イエスは復活した後で、弟子たちの上に聖霊、神の霊である聖霊を注ぎ、そして弟子たちがいわばもう一人のキリストになるように取り計らい、霊の導きによって少しでも神の愛(原語ではアガペー、ラテン語ではカリタス、英語ではチャリティー)そのアガペーの「愛」を生きられるように取り計らってくださるようになったのであります。神の霊である聖霊は、わたしたちに神の「愛」を促すよう、いつでもどこでも働いていてくださるとわたしたちは信じるわけであります。

地上の生涯を生きた人、ナザレのイエスという人は三十年あまりの生涯で終わりましたが、死後、聖霊というご自分の霊を人々に注ぐことによっていつでもどこでも人々と共にいることができるようにしてくださった。こういう信仰がキリスト教の信仰の根本にあると思います。

しかしイエスが愛したように愛し合うということは、なかなかできることではない。むしろ、できていないという自分を自覚し、そしてゆるしを願うことがキリスト者の毎日のあるべき生き方であると思います。

なお、イエスの復活の後、教会が成立したわけですが、いろいろな問題がおこった。ユダヤ人が長い年月1000年、いや2000年ぐらい大切にしてきた彼らの掟がどうなるか、という問題です。

信仰の父と呼ばれるアブラハムに神様が命じたことは割礼という習慣です。割礼はすべての男子が生後8日目に受ける式で、神に献げられた人になるということを表すしるしでした。

それからさらに、シナイ山でモーセを通して与えられた神の掟、十戒があります。十戒とその十戒の解釈が数えきれないくらいの多くの掟、規則、戒めになりました。それを守るということは到底できないことでしたが、イエスはその割礼習慣、それから数知れない掟に代わってただ一つの掟に言い換えた、全ての掟を一つの掟に集約させた。それでやさしくなった、分かりやすくなったとも言えますが、考えようによってはもっと難しくなったかもしれない。なにしろ人間というのは、自分のことが第一です。自分の満足、自分の欲望、自分の都合を超えて人のことを大切にするということは、どんな人にも難しいことなのです。それはつくづく思います。それでも、「神様のお望みになっていることを基にして毎日互いに助け合いって生きなさい」という掟を残し、それを実行して亡くなられた人がナザレのイエスという人であり、そのナザレのイエスが後にキリストであるという信仰が生まれた。そういうようにしてキリスト教は成立し、そして教会がつくられて今日に至っているのであります。ですから今わたし達のところに神の霊、聖霊が働いているとわたし達は信じます。

神の導きに従って生きることができるようわたし達の心を聖霊の働きに委ねるようにいたしましょう。

  

2018年3月29日 (木)

聖香油のミサ2018

桜の花が美しく咲いている、この前橋の教会に集まって、今年の聖香油のミサをお献げ致します。思い出してみると、4年前もこの前橋で聖香油のミサを献げました。それは416日でした。その前に、321日、山口一彦さん、高橋史人さんのお二人が司祭に叙階されています。そこで、司祭の叙階の時にしていただいた約束について話しました。そして次のように言ったのであります。

「司祭は自分の務めを実行するに際して、試練に出会い、また誘惑を受けることが少なくありませんが、主イエスに倣い、試練に打ち勝ち、誘惑を退け、互いに赦し合い、励まし合い、互いのために祈るようにしなければなりません。」 

その翌年は、浦和教会で聖香油のミサを献げました。

聖香油のミサというのは、司祭のためのミサのようなミサなので、どうしても司祭についての話が多い。やはり同じように、司祭に叙階される時の約束の更新について述べています。そして、その年はわたしども日本の司教がローマの使徒座(バチカン)訪問の年で、帰国して間もなくの時でありました。そこで聖香油のミサの日の時に、日本の司教団が教皇庁を訪問し、教皇様にお会いました、ということを一言付け加えております。

 その翌年は、水戸教会、323日でした。

聖香油のミサは司祭職制定の記念のミサですのでこの時も、司祭の務めについて述べています。このときはさらに、司教の務めについても述べました。そして、さいたま教区の司教と司祭は、次のようなことを心掛けましょう、と述べています。

1. 霊的生活を大切にし、祈りに熱心であること。

2. 多国籍教区として国籍、言語、文化、習慣等の違いを尊重しながら、キリストにおける交わりと一致を推進すること。

3. 司祭の生涯養成と霊的生活の指導と配慮に特に注意を払うこと。

4. 精神的に不安定な人々の保護、指導、援助に配慮する。

 そして昨年は宇都宮の松が峰教会でした。

去年は聖香油のミサにおいては、三種類の油が祝福され、聖別される、という話をしました。

信者はみんな油を塗っていただいています。それが「塗油」ですが、塗油とは聖霊の力、聖霊の助けを表しています。塗油を受けた人がキリス者です。みんなイエス・キリストのようになっている。ですからキリストになっているのですから、キリストの働きをしましょう、できます、という話をしたわけです。

 

そして今日を迎えました。

去年の続きになりますが、この聖香油、クリスマといいます。そこからキリスト者という言葉が生まれているわけです。油を注がれた人がメシア、キリストです。ですからイエス・キリストはお一人しかいないわけですけれども、わたしたちはそのキリストにつながる者、キリストの弟子として、油を注いでいただき、油を塗っていただいた者です。

いつ油を塗ってもらったでしょうか。洗礼、堅信の時です。司祭、司教はさらにその上でまた叙階の時に塗油を受けています。

 そこでこの一年、さいたま教区は宣教・福音化年として、教区あげてみんなでイエス・キリストからいただいた教会の使命を一生懸命やって行こうと努めてきました。そのための準備として、四県で、それぞれ自分の信仰を、自分の言葉で、自分のやり方で述べ伝得る準備の研修会をしてきました。自分が信じていること、自分がこの世界の中で信者として生きているということを、他の人に言い表すとしたらどういうように言うのでしょうか。そのための準備の勉強会をしましょうということで、四県で色々な企画があり、その研修プログラムが今終わろうとしています。復活祭の後宣教・福音化年の第二年目に入ります。二年目はもっとしっかりやりましょうと話し合っております。

今日は、「二年目に向かって、よろしくお願いします」という、このお願いのプリントを各教会にお渡しします。ポスターも作っていただきました。

 信仰を分かち合う集い、わたしの信仰体験の集いを開いていただけないでしょうか。そんなに度々開催は難しいので、今年度2回くらい、春と秋とか適当な時、適当なところで、それぞれ集まって、今年一年はどのように過ごしたか、そしてどういうことで自分の信仰の目覚め、活性化というのか、そういうことがあったのか、ということを話し合っていただきたい。あるいはそもそも、わたしはどうして信者になったのか。そして他の人に説明するとしたら、どういうような言葉で説明できますか。あるいは自分の人生の色々な場面で、自分は信仰があったので、支えられたとか、あるいは他の人との関係で、こういうような素晴らしい、嬉しいことがあったのですとか、いうことを話していただけないだろうかと思います。

どっかの本に書いてあることをテキストにして勉強するということも大切で、いいのですけれども、それは脇に置いておいて、自分の言葉で、自分の体験を話し、分かち合うという集いをしていただけないでしょうか、というお願いを、今日いたします。新福音化委員会とわたくしとでこのような文章を作りました。あとは開催予定を記入するフォーマット、いつどこでどういうふうにやるかということを書いていただくための用紙も、用意していただきました。

 この機会にわたしも一信者として、わたしはなぜ信じたのか、どう信じているのか、ということをもう一度見直しをしております。

人それぞれ色々な時、色々な動機で信者になっていると思います。日本においてキリスト者は非常に少ないです。諸教会諸教派全部合わせても人口の1%くらいと言われているわけです。人数は少なくとも、あの人達はイエス・キリストを信じ、イエス・キリストとともに、イエス・キリストに支えられて歩んでいる人なのだと思っていただけるような教会でありたい。よく見ると色々な問題があるのかもしれないが、でもしっかりと歩んでいるねと、わたしもそういう人々の仲間になりたいな、と思っていただけいるような、わたしたちでありたいと。

 聖香油のミサは、司祭、助祭が集まってあげるミサということなのですけれども、今日こんなに多くの信徒の方が集まってくださって、本当にありがたく嬉しく思います。司祭の数も減ってきましたし、病気の方もいますし、充分な働きができないのですけれども、全員で教会の使命をよりよく果たそうと考えます。

司祭の皆さんには、信徒の方が働きやすいように、やりやすいように、元気を出して、勇気を出して、働けるように励まし、導くように、よろしくご配慮の程をお願いする次第であります。

この宣教・福音化年二年目に向けて、信仰分かち合う集い開催のお願いをご覧いただき、わたしたちの教会の務め、福音宣教を全員で行うようにしたい。聖霊の助けを願って祈りましょう。

2018年3月 2日 (金)

カトリック教会の性虐待被害者へのお詫び

 

 今日、四旬節第二金曜日、日本のカトリック教会は「性虐待被害者のための祈りと償いの日」といたしました。性虐待を受けた被害者の方々、そのご家族の悲しみ、苦しみを思い、癒しと回復の恵みを与えてくださいますように。いつくしみ深い神に祈りましょう。そして、この難しい状況を教会がきちんと認め、そしてその解決、克服のために努力することができますように、神の助けを願いましょう。

 性虐待の問題は、当初アメリカの教会で報告されましたが、日本の教会でも同じ問題があったし、今もあることをわたしたちはしっかりと受け止め、そしてその被害者の皆様に心からお詫び申し上げるとともに、日本の教会あげて、その問題の克服のために祈りと努力、そして償いをするように努力することを、日本のカトリック司教団は心から願っておりそのために努力しております。

さて、今日読まれました福音のことです。聖書はよく葡萄園の話をしています。葡萄園はイスラエルの国や地中海沿岸では非常に馴染み深い風景です。その葡萄園が良い実を結ぶことを願って、主人の神様は人を雇い、そしてそのための様々な手立てを与え、さらに預言者の使者を送って、葡萄畑の農夫を指導されました。最後には自分の一人息子を送り、葡萄園で良い実が実るようにと、最後まで努力をされましたが、その神様の御心は彼らには通じなかった。わたしたちはこのような、おおよその救いの歴史を知っています。

 今、四旬節、そして41日は復活祭となりますが、復活祭の前の晩は復活徹夜祭。復活徹夜祭では聖書の長い朗読があります。その朗読では、非常に長い聖書の中から、救いの歴史を伝える非常に大切な箇所が読まれています。

さて、そのような神の救いの計画の中で、主イエス・キリストの登場、そして宣教、受難、十字架、復活という出来事があり、わたしたち教会が設立されました。教会は神の民であり、神の霊を受けた神の神殿であります。

 しかしながら、それであってもわたしたち人間の弱さと罪が全部無くなったわけではない。弱さの中でわたしたちは過ちを犯しますし、罪の汚れをまだ完全に拭い去ることができない。そして人々に仕え、イエス・キリストの福音をのべ伝えるために選ばれ、そして任命された人たちが神様の御心に背く、性虐待という忌まわしい行いをしたことが明らかになった。本当に残念なことであります。どうしたら良いだろうかと、教皇様、特にヨハネ・パウロ二世、ベネディクト十六世、そしてフランシスコ教皇様は全世界の教会に向けて、この問題の重大さをしっかりと受け止め、この問題をよく見て、そして解決と克服のために努力するように、そして神様の恵みを願うようにと願っておられます。

 今までに教会の行ったことの中で大きな問題であったのに、この問題をちゃんと見なかったということです。隠したり、うやむやにしたりしたということであります。さらに、この問題について、わたしたちの理解が足りない。随分微妙なことなので、話しにくいことがあるでしょう。被害者はこの問題に触れてほしくない。加害者は、自分は加害者であるとはあまり思っていない。両者の間には大きなずれがある。どんなにか、性虐待、性暴力によって人は傷つき、苦しむかということについて、加害者は理解していない。それしかし、わたしたちも同様で、きちんと理解していないのではないかと思うのです。

 人間にとって、性ということは非常に大切なことであり、ふさわしく、正しくこの問題を見つめ、そして一人ひとりの人が本当に人間として、人間の尊厳を認識し、お互いに大切にするようにしなければならない。そのための教会の努力は必要であると。全世界の司教協議会はそのための部署が作られ、かつ各教区にも委員会、担当司祭等が任命されております。これからの一層の努力とお祈りをしなければなりませんので、皆さんのご理解ご協力お祈りを切にお願いする次第あります。

2018年2月21日 (水)

弱さの中で

説教:弱さの中にいる神

今日、217日にさいたま教区では「世界病者の日」のミサを献げることになりました。本来は211日のルルドの聖母の日が世界病者の日と定められましたので、211日に献げられるべきですがことしは11日が主日なので、12日にしようということになったのです。しかしその12日が那覇教区の司教叙階式となったので、更に延ばされて今日という日になったという次第であります。

世界病者の日、病者、あるいは障がい者のために祈るミサ、病者、心身の不自由な方のために働いておられる医療従事者を励まし、支える、そのためにお祈りする日でもあります。   

わたしたち人間は誰しも病気になったり、あるいは身体が衰えていったりするわけであります。この病気というものはどうしてあるのだろうか、と考えさせられますが、考えても病気が治るわけではありませんので、この病気ということをどういうように受け取ったらよいのだろうかということを考えてみたいのです。

今日の第一朗読をお聞きになりましたが、パウロという人のことです。この人は非常に頑健な、丈夫な人だった思われます。あれだけのことをしたんですから、身体も精神も非常に健康で、そして元気であったに違いない。でも意外にもそのパウロがぽろりと漏らしていることの中に今日の箇所がある。このとげというのがあったというのですね。このとげというのはなんであるかわからないんですよね。いろいろ想像されているのですが、学者はいろんな説を唱えているようですが、わからない。いやなこと、困ったこと、何かそういうものであったに違いないわけでして、なんだったんでしょうか。それで三度も主にお願いした。どうかこれを取り去ってください。サタンから送られたと書いてありますね。良くないことに決まっていますけれども、しかし、聞き入れてもらえなかったわけです。そして、主からの返事は何であったかといいますと、

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」

そう言われた。この言葉をわたしたちはどういうように考えたらよいでしょうか。病気になったり、あるいはいろいろな障がいの状態になったりした時に、もしそうでなければこういうこともできるし、ああいうこともできるのに、どうか直してください、癒してくださいと願うわけですけども、必ずしも神様はその願いを聞いてくださるわけではない。あなたは弱くとも、その弱いあなたを通して、わたしは力、神様の力が働くのですよ。そういうように言われたのだろうと思います。

世界病者の日を制定された教皇様はヨハネ・パウロ2世。ご記憶にありますように、ヨハネ・パウロ2世も就任された時は物凄くお元気な方だったのですけれども、難しい病気パーキンソン病)になられ、でも最後まで勤めを果たされて現役のまま帰天されたわけですね。

わたしたちは弱い者です。その弱さの中にイエス・キリストの力が働くというその信仰をわたしたちは本当に自分のものとすることができるだろうか。

福音はヨハネの15章、ブドウの木のたとえですね。

「わたしにつながっていなさい。」

どうやってつながっていることができるんだろうか。このパウロの言葉と合わせて考えてみると、あなたはこういう問題を持っているが、でもわたしはそういうあなたといつも一緒にいるんだよとあなたと一緒にわたしはいますよ。そしてあなたを通して、わたしは神様の恵みをあらわし、伝えるものである。神の栄光を表す。人間の弱さを通して、神の栄光があらわれるのですよ、と言ってくださっているのかもしれない。人間の弱さ、ひしひしと感じますね。自分自身について、それから他の人についても感じるわけです。しかしそういう人間の中に神様の力が宿る。この教えを今日もっと深く味わうようにしたい。

そうはいっても、今日はこうだから、こういう風に信じなさいというつもりはありません。わたくしの自問自答でありますが、非常に難しい病気というのがあります。あるいは障がいというものがあります。聖書に出てくる病気の中で、この前の日曜日の福音にでてきましたのが、「重い皮膚病」と訳されている病気ですね。昔は「らい」と訳されていた、あるいは「ハンセン病」と言われるようにもなった。しかし「が重い皮膚病」という訳語が適当であるかがどうか、ということを今も議論している。非常に忌み嫌われ、排斥され、そして排除された病気ですね 。

ちょっと昔のことですけれども、『砂の器』という小説と映画がありました。その主人公はらい患者の子どもだったんです。みんなからいじめられ、隔離されて、全国放浪したんですが、そういう境遇から抜け出して、名前をあげようとしていた時に、昔の自分を知っている、自分を助けてくれた人に出会ったという話で、都合悪いから、自分の前身を知られたくないからその人を殺してしまうという悲劇なんですが、どんなに嫌悪された病気であるかということをあらわしている。イエスが何人もの病人を癒したという話がありますが、特に目立つのは、いわゆる「重い皮膚病」の人、この人たちの苦しみは、身体的な苦しみだけでなくて人々から排除される、隔離される、人々が近づかないんですね。でも近くに人がいる時には、「わたしは汚れたものです。汚れたものです」と叫んで、そしてそれとわかるような服装を普段からさせられるということが旧約聖書のレビ記に出てくる。なんというひどいことでありましょうか。今日世界中で、この問題は徐々に解決に向かい、日本でも「らい予防法」という法律が廃止されたわけでありますが、しかし人々から忌嫌われる病気とか障がいということが存在したし、今もある。そういう人々の苦しみに対し、イエスは深く同情し、そしてご自身もそのような苦しみ、悲しみを共にしてくださったのであります。もちろん病気というものが癒されることが何よりも大切でありますが、必ずしもすべての人の病気、障がいがなくなるわけでも無い。

イエスの生涯、人々の病をご自分の身に負ってくださった主の僕であるイエス・キリストの生涯を思います。明日が四旬節第一主日、それで一ヶ月半後ぐらいに復活祭になります。聖週間の一週間をすごす、本当に過ぎ越しの神秘を深く味わうことができますように、今年は特に良い四旬節、聖週間をすごし、復活の喜びを深く味わうことができますようご一緒に祈り、支え合うようにしたいと思います。

(ミサ説教による信仰入門講座 その7)

2018年2月 8日 (木)

忙しさの中の祈り

福音朗読  マルコによる福音書 1:29-39
(そのとき、イエスは)会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 

説教:忙しさの中で祈るイエス。

わたしたちの信じている主イエス・キリストとはどんな人でしょうか。何をなさった方でしょうか。わたしたちはミサの度に福音の朗読を聞き、更に第一朗読、第二朗読含めて、聖書を学びながら、イエスキリストをより良く知るようにと努めております。

間もなく四旬節に入りますが、今日、年間第五主日はイエスがシモンの姑をお癒しになったという話を伝えており、更にイエスは多くの病人を癒し、また多くの悪霊を追い出したと伝えております。

イエスが何をしたのかと問われると、まずわたしたちの心に浮かんでくるイエスの行われた事柄は、神の国の福音を述べ伝えられたということと共に、多くの病人を癒し、体の不自由な人を癒し、そして悪霊を追放されたということであります。 

イエスの福音は神の国の福音と呼ばれています。神の国というのは神様が支配される国、神の力がいきわたっている所、神のみ心が行われている状態が神の国であります。わたしたちも日ごとの祈り、その中で最も大切な祈りと思われる祈りは言うまでもなく主の祈りであります。み心が行われますように。この地上に神の国が実現しますように。神様のお望みがこの地上でそして更にこのわたしを通して実現しますようにと祈っているのであります。そして神の国が来ていることは既にイエスの到来によって示されました。イエスは神の国の福音を述べ伝えるとともに病人を癒し、悪霊を追放された。この病人の癒しということと悪霊の追放ということが神の国が来ていることを人々に現し、伝える印となっていました。

先週も悪霊の追放のことを取り上げたわけですけれども、悪霊というのは今日のわたしたちにはわかりにくいかもしれませんが、悪の力、悪の存在を現していると思います。この世界に悪という現実があることをわたしたちは否定できないのであります。わたしたち自身の中にも神のみ心にかなわない罪がありますが、この世界自体が、まだまだ神様のみ心の実現からはかなり遠い状態にあると言わなければならないと思います。平和を実現する人は幸いであるとイエスは山上の垂訓で言われました。わたしたちは平和のために働くものと召されています。人と人との間の平和、国と国との間の平和、更に、もしかしてこの環境、自然との平和も更に考えていかなければならない。あるべき状態の実現のためにわたしたちは与えられているお恵みを使わなければならないのであります。

今日の第一朗読はヨブ記でありました。ヨブ記というのはヨブという正しい人が何のいわれもなく苦しみに出会うという話ですね。ヨブは自分が神様から罰を受けるに値する当然の罪を犯しているならば仕方がないが、自分でつくづく反省してもそれが自分にはない、わからない。どうしてこのようなつらい苦しい目に合わなければならないのかということを神に訴えている、そういう話がヨブ記という長い物語となっているのであります。

ヨブの訴えは特別なものであるかもしれないけれども、この地上には不条理な苦しみというのがあるわけでありまして、どうしてこのような目に合わなければならないのか自分にはわからない、そういう思いを抱く人が決して少ないわけではない。イエスは不条理な悪の満ちているこの世界に来られ、人間としてその悪と戦い、そして人々の苦しみを自分の苦しみとされたのであります。

第二朗読は使徒パウロのコリント書であります。パウロは、イエス・キリストの福音のために、命を捧げた人でありますが、今日の箇所では次のように言っている。

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。」

自分から出て行って、その人のそばに行き、その人と一緒に生き、一緒に生きながら、神の国の福音、イエス・キリストの救いを述べ伝えたのであります。その生き方はイエス・キリストの生き方に倣うものだったと思います。

ところで今日のマルコによる福音の中でわたくしの心に強く記されるイエスの言動があります。

「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。」

イエスは人々の現実の真っ只中に入って、人々と一緒に苦しみを共にされ、苦しむ人の病気を癒し、悪を取り除くということをなさったが、他方、天の父との深い交わりの中におりました。1人になって、現実のいろいろな問題から離れて、静かに天の父との親しい時間を過ごしておられた。このイエスの生き方こそ、わたしたちが特に見習うべき点ではないかと思います。

わたしたちの毎日の生活もいろいろな課題、問題から成り立っているかと思いますが、その中で時間と場所をとって祈りのひと時を過ごさなければならないと思うのであります。今実は、そのような時をわたしたちはすごしているわけでありますが、できれば毎日、少しの時間でもとって、いろいろな問題から自分の心を天の御父のほうに向ける、そして一緒に歩んでくださる復活されたイエス・キリストに心をあげるという努力をするようにいたしましょう。

(ミサ説教による信仰入門講座 その4)

«言葉の力について