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2019年5月22日 (水)

イエスに留まる

 

復活節第五水曜日 ミサ説教

2019年5月22日(水)、本郷教会

今日の二つの朗読は非常に重要な事を述べております。

第一朗読、使徒言行録15章は、エルサレムで使徒たちの会議が開かれたことを述べています。その議題は割礼をキリスト教に改宗したものにも受けさせなければならないかどうかということでありました。結果はご存知のように、その必要はないということになったのであります。

福音の朗読も非常に重要な箇所で、ヨハネ15章「ぶどうの木のたとえ話」であります。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

 

イエス・キリストの教え、そしてわたしたちキリスト者の生き方は、この聖書の言葉によって明確に示されています。

キリストにつながっている人はキリストの心を生きる人であり、たとえキリスト教徒と名乗っていてもキリストの心を実行しないならば、真にキリスト教徒であるとは言えないことになります。

少し古いことになりますが、教皇フランシスコが「いつくしみの特別聖年」を宣言し、人々に神の慈しみの業を行うように勧められました。

それは、次のような項目を実行することでありました。

・飢えている人に食べ物を与える。

・渇いている人に飲み物を与える。

・着る物のない人に衣服を与える。

・宿のない人に宿を与える。

・病者を訪問する。

・受刑者を訪問する。

疑いを抱いている人に助言をすること。

・無知な人に教えること。

・罪びとを戒めること。

・悲嘆に暮れている人を慰めること。

などであります。

 

さて、今のわたしたちの社会の中で最も必要で大切な慈しみの業とは何でありましょうか?

わたくしが個人的に心配していること、個人的に強く感じていることは、この大都会において、大都会でなくとも変わりないのかもしれませんが、少なからぬ人々が孤独であり生きる意欲を奪われているという現実があることであります。すなわち、自死者、あるいは行方不明になる人が多いということです。一人ひとりの人間の尊厳が認められ、尊重され、大切にされる社会を建設することが最も求められていることではないでしょうか。

何を為すべきか、はこのように明確に示されていますが、もう一つ大切なことは、ではわたしたちが日々どのように信者として生きたならば、そのような愛、慈しみを実行する信者に変えられるのか、実行できる信者に変えられるか、ということであります。

 

相、喜び、平和

 

 

復活節第5火曜日ミサ説教

521日、本郷教会

 

 イエスは御自分がこの世から父のもとへ移される時が来たことを知り弟子たちに様々なことばで遺言を残されました。その中に今日の福音の言葉があります。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」

これは司祭がミサ中の交わりの儀、聖体拝領の前にいつも唱えている言葉です。「平和」はわたしたちにとってもっとも大切なことであると言えましょう。聖霊がわたしたちに与える賜物のなかに「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ1122)とが挙げられています。その中に「平和」が挙げられています。わたしたちは、いろいろな意味でいろいろな次元で「平和」を求めています。そのなかでも最も大切な「平和」は神との平和ではないでしょうか。もちろん、「隣人との平和」とか「自然との平和」が大切ですが、神との平和が非常に大切であると思います。それは神との関係における平和、神との関係が良い状態にあるという意味での平和であり、神から罪の赦しを頂いている状態であります。復活したイエスが弟子たちにあらわれて言われた第一声は「あなたがたに平和があるように」でありました。弟子たちは主を見、主の声を聞いて非常に喜びました。彼らは罪の赦しを受けたこと、イエスから受け入れられていることを知って喜び、心は平和で満たされたのであります。

どんな状況にあってもだれにも奪われない平和、この平和を大切にいたしましょう。

 

 

聖霊の時代

復活節第五月曜日 ミサ説教

2019520()、本郷教会 

今日は520日であり、聖霊降臨の日が69日でありますので、聖霊降臨まであと3週間となっております。今日の集会祈願で祈りましたが、わたしたちは約束された聖霊を待ち望みながら祈りを続けております。

聖霊が人々の上に降って、イエスの教えたことをすべて思い起こさせ、そしてさらにイエスの与えた新しい掟を実行することができるようにしてくださいました。

昨日の主日のミサの福音朗読でありましたが、イエスは教会に新しい掟を残されました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

ひとびとは、イエスの弟子たちが互いに愛し合っている様子を見れば、イエスの弟子であるということを知ることになる。

もしそうしていなければイエスの弟子であるということを認めないだろう、という意味でありました。

聖霊降臨の出来事からもう二千年経っており、いまわたしたちは聖霊の時代を歩んでいます。イエスは地上をさりましたが、その前に言われました。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

イエスは聖霊をわたしたちに授けられました。イエスは何時も聖霊を送り、この世にあるわたしたちがいつも聖霊によって歩むことができるよう導いてくださいます。いまわたしたちは聖霊の導きの時を過ごしているのです。

わたしたちが聖霊の導きに忠実に従うことによって、イエス・キリストの弟子であることをあらわすことができますように、お祈りいたしましょう。

 

――

2019年5月19日 (日)

イエスの弟子であるかどうかは何でわかるか?

2019年5月19日(復活節第5主日)

岡田武夫大司教説教,カトリック本郷教会

第一朗読:使徒言行録 14:21b-27

第二朗読:ヨハネ黙示録 21:01-05a

福音朗読:ヨハネ 13:31-33a, 34-35

「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合いなさい.互いに愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,皆が知るようになる」と,イエスは言われました.

イエスは,天の父のもとに昇るときに,弟子たちに宣教の命令を残されたのであります.「あなたがたは,行って,福音を宣べ伝え,すべての人をわたしの弟子にしなさい」と言われました.「わたしの弟子をつくりなさい」と言われたのであります.

キリストの弟子とはどんな人であるのかと言いますと,今日のヨハネによる福音が言っておりますように,互いに愛し合う人,イエスが弟子たちを愛したように互いに愛し合う人が,キリストの弟子であります.人々が見て,互いに愛し合っている様子を見て,ああ,この人たちはキリストの弟子である,ということが知られるようになる,と言っております.ですから,愛し合っているかどうかということが,キリストの弟子であるかどうかを判断するための基準となっています.

教会の使命は,イエス・キリストが残された命令を実行することであり,それは,福音を宣べ伝えること,そして,イエス・キリストの弟子をつくることであります.わたしたち本郷教会も,そのような使命を受けているのであります.そして,イエス・キリストの教え,それは「福音」という言葉で要約できますが,福音を宣べ伝えるということと同時に,イエス・キリストの御命令,新しい掟を実行することであります.この新しい掟は,まず,わたしたちのなかで実行されなければなりませんが,さらに,このわたしたちの枠を超えて,外に向かって広がって行かなければならないのであります.そこで,皆様に問いかけたい.いっしょに考えたい.わたしたちを見て,「そこにイエス・キリストがおられる」,「イエス・キリストの愛がそこにある」,「彼らはまさに,本当に,イエス・キリストの弟子である」と認めていただけるためには,わたしたちがどうでなければならないのか,どういうことは避けなければならないのか,どういうことをもっと実行しなければならないのか,そういうことを御いっしょに考え,求めて,追求して行きたい.わたしたちは,どう変わらなければならないのか,どういうことはやめなければならないのか,ということを,御いっしょに考える.話し合い,そして,祈り求めて行こうと思い,そのように皆様にお願いし,提案いたします.ヨハネの黙示は,新しい天と新しい地が現れた,ということを言っている.「天と地」という言葉は,世界を表している,と思います.すべてが刷新され,新しくなったときに,神の御こころが完全に行われている状態が,実現します.今は,まだそこに向かっている途中であります.ですから,わたしたちの共同体も,わたしたちひとりひとりも,神の御こころにはかなわない部分があることを,わたしたちは,謙遜に,率直に認めなければならない.そして,お互いにそうであることを踏まえて,それでもどうしたらそういう問題を克服できるのか,ということを,祈りのうちに求めて行きたいと思います.

ここで聖ヨハネ・パウロ II 世教皇は紀元二千年を迎えるときにおっしゃったことを思い出すことは,たいへん有益ではないか,と思います.千年という単位で,教皇様は,教会の過去を振り返って,反省をするように促しました.この千年間に反省すべきことは多々あるが,特に,わたしたちの間に分裂が生じたということがひとつ;それから,真理への奉仕という名のもとに暴力を使ってしまったこと;それから,基本的人権が侵害されるのを見すごしたということ,それら三つを挙げているのであります.ちょっと話が大きすぎますけれども,そのようにおおげさなことを言わなくても,わたしたち本郷教会,東京教区,あるいは,せめて日本の教会として,どうしたらよいのか,ということを,これから御いっしょに祈り求めて行きたい,と思うのであります.

 

2019年5月17日 (金)

父の家には住むところがある

復活節第四金曜日 ミサ説教

2019年5月17日(金)、本郷教会

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とイエスは言われました。

イエスは天の父への道であります。イエスという案内人によって、わたしたちは天の御父の許へ行くことができます。

イエスはすでに、あなたがたのために父の家には住む所がたくさん用意されているのだと言われました。もしなければ用意しに行くと言ったでしょうが、もう用意されている、そう言われたのであります。

わたしたちはイエス・キリストを救い主として信じています。イエス・キリストによってわたしたちは「永遠の命」にいたることができる。

何度も申し上げますが、「永遠の命」ということばがヨハネの福音のキーワードとなっています。「永遠の命」とは、唯一のまことの神である父である神あなたと、わたしイエス・キリストを知ることである(17・3参照)とイエスは言われました。

わたしたちは今、案内人であるイエス・キリストに導かれて、天の御父の許へ赴く旅をしているのであります。

この父である神への旅に多くの人が加わっていただき、手を携えて「永遠の命」に入ることができますよう、お祈りいたしましょう。

 

 

2019年5月16日 (木)

至らない自分を愛する神

復活節第四水曜日 ミサ説教
2019年5月15日(水)、本郷教会

わたしたちは、ヨハネによる福音を続けて読んできました。
ヨハネの福音は、わたしたちに分かり難いと思われる表現もあります。
このヨハネの福音を、今わたしたちはこの日本という国でどういうように伝えたらよいだろうか。
わたしたちキリストの弟子の使命は、イエス・キリストの福音を宣べ伝えること、イエス・キリストの弟子をつくることであります。ヨハネの福音の「福音」というのはなんであるかということをわたしたちは日々深めて、そしてその「福音」を信じ、その信仰に従って毎日生きているし、ますますそうしなければならないと思います。

今日のアレルヤ唱で、「わたしは世の光。わたしに従う人はいのちの光をもっている。」と言われています。
光であるイエス・キリストを信じて、イエス・キリストを受け入れるという時に、具体的にわたしたちはどう変えられるのだろうか、あるいは変えられたのでしょうか。

光というものは、まわりを照らすものであり、わたしたちを照らす、わたしたちの心を照らします。
そうすると、わたしたちの心があからさまにされるわけでして、そのことに耐えられない、そうされたくないという思いが、人々の心の中に、わたしたちの心にあるのではないだろうか。
そうなっても構わない、あるいはそうなっても自分は受け入れられる、赦され、ますます大切に思っていただけると思うならば、光を受け入れることに困難がないどころかそこに大きな喜びがあると思います。

誰しも自分を振り返れば、自分の心を覗いてみれば、そこにはあまり人に知られたくない恥ずかしいこととか、嫌なこととか、惨めなことがある。
そういうものがあっても、変わりなくあるいはそれ以上に自分を大切に思ってもらえる、そういう信仰があれば、光を受け入れることに困難はない。

ヨハネの福音、それからヨハネの手紙を通して繰り返し言われていることは、「神は愛です」ということですね。
神は愛ですということは、罪びとである、不完全な人間である、不完全な存在である自分を、かけがえのない価値のあるものとして神が認めてくださる、受け入れてくださるということを意味していると思います。

 

2019年5月14日 (火)

なぜ神は人となったか?

 

復活節第四火曜日 ミサ説教

2019514日、本郷教会

 

 今日は使徒マチアの祝日であります。マチアはユダの後継者として選ばれました。

 

さて、今日のヨハネによる福音でイエスが言われたことをご一緒に黙想したいと思います。

「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と言われました。イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と言われました。

「わたしがあなたがたを愛したように」とは、どのように愛することでありましょうか。

昨日の福音で、「わたしはよい牧者、わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている。」というアレルヤ唱を黙想いたしました。よい牧者としてイエスは羊を愛した。羊を愛するということは、羊をよく知っている、羊のことに深い関心を持っている、ということだと思います。

旧約聖書にエゼキエルの預言という預言書があります。ここでよい牧者とはどういう牧者であるかということが述べられていて、自分の羊を養う牧者であると言われています。

逆に羊ではなく自分を養う牧者が非難されているのであります。よい羊飼いは自分の羊を養うのであります。そして、羊のことをよく知っており、その羊に名前をつけて、その羊をほかの羊とは違うかけがえのない存在として、大切にするのであると言われています。

確か聖アタナシオの日に申し上げたのですけれども、神の愛というのはどういう愛であるかというと、愛されている人が自分だけが愛されているように感じる愛、そのような愛ではないかということでした。これはどういう意味だろうかと皆さんに投げかけたのであります。

神は一人ひとりを愛する、しかしすべての人を愛する、この間に矛盾はないでしょうか?

話は飛びますけれども、聖イレネオという有名な聖人がいます。神が人となったのは、わたしたちすべての人を神の子とするためである、と言われました。

わたしたちはすでに神の似姿としてつくられていますが、罪のために神から離れている部分があります。わたしたちは神を求め、神を慕っているのです。神はわたしたち人間はご自分の子であるので、ご自分の子をもっと自分のところに引き寄せるためにおんひとり子を遣わされた。

宗教という言葉ですけれども、religioレリジオ、と言いますが、これは再び繫ぐという意味です。神が御子を遣わされたのは、神と人間との間にある距離、ギャップを埋めるため、人間を自分のところに引き寄せるためであります。

 

 

わたしはよい牧者

復活節第四月曜日ミサ説教
2019年5月13日(月)、本郷教会

本日のアレルヤ唱は、「わたしはよい牧者。わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている」であります。
昨日の復活節第四主日のアレルヤ唱も同じ言葉、「わたしはよい牧者。わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている」でありました。
イエスはご自分をよい牧者であると言われます。
羊を飼うという仕事について、わたしたちの環境では実感を持つことが難しいのではないかと思いますが、羊飼いの仕事と言うのは大変骨の折れる難しい仕事であるそうです。場合によっては、羊飼いは自分の羊のために命を賭けます。
羊飼いは羊の一匹一匹、羊を全部良く知っていて、羊に名をつけたりするのだそうです。
羊飼いは自分の羊を良く知っている。そして羊のほうも自分の羊飼いを信頼し、羊飼いの声に聞き従う。
羊飼いと羊の間には、そういう親しい深い信頼の関係があるのであります。

今日の福音ではさらに「わたしは羊の門である」と言われました。これはどういう意味なのでしょうか。
「わたしを通って入る者は救われる」と言われました。
そこで思い出されるイエスの教えは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしによらなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・5)というイエスの言葉であります。そこで「わたしは羊の門である」は、イエスという門を通らなければ救いに達することはできないという意味ではないかと思います。

イエスがよい牧者であるという教えを何度も聞きながら、牧者の仕事はなんであろうかと考えます。
旧約聖書では王という人たちが牧者に相当する者でありましたが、歴代の王たちのほとんど大部分は良い牧者であるかどうかという審査について、落第であるという点数をつけられているわけであります。(サムエル記上下、列王記上下、歴代誌上下を参照)
王で有名な人はダビデ、ソロモンなどでありますが、羊のために心を砕き病める者弱い者をいたわり助ける牧者の務めを忠実に果たした人は、あまりいなかった。
わたしたちの新約の教会における牧者はどうであろうか。
今日はこの課題を黙想したいと思います。

 

2019年5月12日 (日)

大安心である

復活節第4主日 世界召命祈願の日

                                                                                                                               2019512日、本郷教会

説教 

ヨハネの福音は永遠の命ということを強調しているように思われます。神は御子イエス・キリストをわたしたちのところお遣わしになりました。それは、御子イエス・キリストを信じる者が永遠の命に入るためであります。神のみ旨は、すべての人が救われること、すべての人が永遠の命を得ることでございます。

それでは今日の福音をご一緒に味わうように致しましょう。

今日の福音の中で「わたしは彼らに永遠の命を与える」と主イエスは言われます。そして、「彼らは決して滅びない。」「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」「だれも父の手から奪うことはできない」と、繰り返し言われている。天の父とイエス・キリストは一つであるとはっきりと言われています。父の望むことはイエスが望むこと、イエスの行うことは父がお望みになることであります。

そして、父も御子も、同じことを、すなわち、すべての人が救われることを望んでいる。すべての人の救いということが強調されていると思います。そして、イエスは、すべての人が救われるために遣わされた「良い牧者」であります。

すべての人が救われるために、牧者は自分の命すら惜しまない。事実、イエスはすべての人の救いのために命を捨てられ、十字架に架かってくださったのでありました。イエスは命がけでわたしたちの「命」を守ってくださるのであります。

この命を、ヨハネの福音は「永遠の命」と言っています。わたしたちの地上の生命には終わりがありますが、「永遠の命」とは、天の父のもとで永遠に安らぎ、すべての天使、聖人と一緒に神に感謝し、神を賛美することのできる、そういう状態に入ることではないでしょうか。今日のヨハネの黙示がその様子を伝えています。

使徒言行録における宣教はすべての人を永遠の命に導くという、そこを目指す宣教でありました。

さて、きょうの福音で、さらに「アレルヤ唱」でも言われておりますが、「わたしは良い牧者、わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている」。牧者と羊の間には、非常に親しい交わりがあるべきであります。イエスの羊になれば、イエスはその羊をだれにも奪われないように守り、導いてくださる。「わたしは良い牧者である。羊のために命を捨てる」、そう言われております。そして、「羊は牧者の声を聞き分け、牧者に従う」のであります。「聞き分ける」というように訳されていますが、これは良い日本語です。羊は牧者の言うことを「聞き分ける」のであります。牧者でない人のいうことは聞かないわけですね。この「聞き分ける」ことが求められているのです。そして、聞いて、従うことが求められている。

聞き従えさえすれば、どんなことがあっても牧者は命がけで羊を守ってくださるので、もう「大安心」であるというメッセージではないでしょうか。

わたしたちは牧者に導かれる羊であります。牧者が何を言ってくださるのか、毎日聞き分けながら、しかし、安心して、牧者に聞き従うようにしたいものである。

きょうは、「世界召命祈願の日」であります。「召命」とは、自分に向けられた神の呼びかけを聞いて従うことなのです。特に、若い人に自分の召命について考えていただきたいという日であります。

神の声に聞き従うということは、場合によっては「冒険」であり、「勇気が必要」である。しかし、人生にはリスクが伴うわけでありまして、自分のすべてを神様にお委ねする人生は本当に素晴らしい人生ではないかと思います。

もう、若くないわたしたちであっても、残された人生は貴重であります。与えられた年月をすべて神様に委ねて生きることができますよう、祈りましょう。

 

あなたをおいて誰のところに行きましょう!

 

復活節第三土曜日

2019年5月11日(土)、本郷教会

 

ヨハネの福音の6章を、毎日ミサの福音朗読として読み継いできました。

6章全体が、わたしたちがご聖体として信じているイエスの教えの説明であると、多くの人が理解しております。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」

昨日の福音でそういわれました。この言葉に多くの人たちは躓いた。

なんてひどい話だ、野蛮な話ではないかと、彼らは到底受け入れられないと思ったのであります。

この時までイエスに付き従ってきた多くの弟子たちも、この期に及んで多くの人がイエスから離れて行きました。

最後に十二人が残った。

あなたがたも離れていきたいか」とイエスが十二人に問いますと、ペトロが答えました。

「主よ、わたしたちは誰のところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

このペトロの言葉から、わたしたちのミサの聖体拝領の時に祈る言葉が採られています。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」とわたしたちは唱えているのであります。

ご聖体をいただくときに、わたしたちは毎回 信仰告白を迫られています。

司祭がご聖体を人々の前に示して、そしてこのご聖体に対する信仰を確認するように求めている。

毎回のことなので慣れてしまってあまり深く考えないかもしれませんが、今日このヨハネの福音の文言に出会ったわたしたちは、改めてご聖体をいただくというのはどういうことか、ということを考えなければならないと思います。

「あなたは神の子キリストです、わたしはいつまでもあなたに付き従います。」

そういうように宣言するわけです。

もっとも、そのように言ったペトロも、御承知のようにイエスの受難に際し、臆病風に吹かれて、ついイエスのことを三度も知らないと言ってしまいました。

そうではあっても、イエスの眼差しに涙を流し、そして最後には命を献げてイエスに従うという決心を全うしたのでありました。

わたしたちの場合どうだろうか。

わたしたちも洗礼を受け、堅信の秘跡を受け、あるいはその他の秘跡、司祭・司教であれば叙階の秘跡を受け、そのたびに固い決意を表明しているわけであります。

「わたしはあなたに従います。」

この「従います」という決意の背景には、わたしはあなたにこれこれの使命を授け、そしてその使命を遂行するに足る恵み・光・支え・力を与えますと、だからわたしについてきなさいと、そういわれたということがあるわけであります。

明日の主日は世界召命祈願の日であります。召命のために祈る日であります。

教皇様のメッセージを読みますと、特に若い人に向けての呼びかけがあります。

世界青年大会のパナマ大会という非常に大切な出来事が教皇様の念頭にあります。

日本からも青年が参加したわけであります。

この召命について、教皇様がいっていることでわたしの心に強く響くのは、青年に向かってですね、この《リスク》ですね、危険、リスクを恐れないでくださいと言われたことです。

人生にはリスクがあるわけです。人生は決断であります。選択であります。

こうしたらああなる、ああしたらこうなると、いつまでも決められない。

わたくしも若い時そうだったんですけれども。ああかな、こうかなと考えてばかりいて、まったく怖気づいてしまって。

人生はリスクなんですね、賭けるわけです。

そして何が起こっても誰のせいにもしない。

自分が選び取り、自分が生きた人生である。

それは素晴らしいことだと思う。

そうできる根拠は、「わたしはあなたと一緒にいます」という主イエス・キリストの約束なのです。

おとめマリアがお告げを受けた時に、大変躊躇した。

しかし神の言葉「あなたは救い主の母となる」、そして「あなたは聖霊によって覆われる」。

この神のご保護を信じ、それがどんなに危険なことであっても、わたしは仰せのようにいたします、お言葉の通りこの身になりますようにという、大変危険な賭けを引き受けたわけであります。

 

人生は危険な賭けである。

しかし、賭けをしないで終わる人生は大変不満足なものに終わると思います。

 

第一朗読  使徒言行録 9:31-42

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 6:60-69

(そのとき、イエスの弟子たちの多くの者は)言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 

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