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2017年9月 8日 (金)

光と闇のはざまで

2017年9月8日(金) 聖マリアの誕生(祝日) 命日記念ミサ
浦和教会 第一朗読(ミカ5・1-4a) 福音朗読(マタイ1・18-23)
 今日わたしたちは、4人の司教・司祭の命日を記念して、ミサを捧げます。島本要大司教様、ちょうど1980年から90年まで10年間、浦和教区の司教を務められました。長崎の大司教になられて、そして8月31日という日に帰天されたんですね。一人の司教、三人の司祭の生涯を思い起こし、それぞれの方々の霊に感謝を捧げ、安息をお祈りいたしましょう。
 今日の福音は、マタイの1章であります。マタイの冒頭の部分は、ご承知のようにカタカナの名前が羅列されている、系図の様な記述であります。この中に何人かの女性が登場しています。 まずタマルという人。ユダの息子の嫁にあたる人です。ユダとの間に子どもを作っているという。 ラハブというのは、イスラエルがエリコに侵入したときに手引きをした遊女。それからルツ記のルツ。モアブ人でダビデの三代前、祖父のまた父、ボアツという人と結婚した女性。 そしてダビデの姦通の相手とされているウリヤの妻バテ・シェバ。 それから今日記念する聖母マリアであります。 これらの女性はわたしたちの教会にとって非常に重要な意味を持っている。  旧約聖書のおもしろいところは、人々のありのままの姿、罪とされることも正直に伝えているということではないでしょうか。ダビデは、ウリヤの妻バテ・シェバという人を、結果的に自分の妻にしたわけですが、姦通と殺人の罪を犯した人であります。そして、そのあと自分の罪に気付いて、有名な痛悔の祈りを残している。詩編51ですね。このように旧約聖書の歴史を振り返ると、マタイの冒頭の部分が大変興味深いものとなっていきます。
 人類の歴史は罪の歴史でもある。その罪で織りなされている歴史の中に、神様の恵みが働いている。そしておとめマリアが登場する。でも、そのマリアからイエスが生まれたことは疑いないんですけれども、イエスの父親はヨセフという人ですね。ヨセフまで系図が来て、そしてそこでヨセフと結婚したマリアからイエスが生まれたというように述べられているので、あまり系図の意味がないように思うんですね。おそらくイエスは旧約の歴史の中で、預言者がすでに預言した救い主であるということを言うために、長い系図を記述したのかもしれない。イエスの誕生のためには、二人の人が重要な役割を果たし、言うまでもなくおとめマリア、そしてその許婚であったヨセフという人であります。この二人の信仰がなければ、人間イエスは誕生することができなかった。  この信仰という暗闇の中に輝いている灯のようなもの、薄い糸のようなものでしょうか。聖霊によって妊娠したということを、誰が信じるでしょうか。そのような非常に微妙な出来事を、この秘密をマリアとヨセフは共有しながらイエスを生み、育てたということは想像されるのであります。  話をここで一足飛びに終わらせるのですけれども、わたしたちの教会は本当に様々な、微妙な問題を抱えながら、歩んでいる。その中に、人間の弱さ、人間の罪が織りなされている教会の中に、神の恵み、復活の光、イエス・キリストの導きがあることを信じ、そして聖霊の導きを願って祈りたいと思います。

2017年8月 7日 (月)

正戦と聖戦

正戦と聖戦
わたしたちは平和旬間にあたり、平和について学び、そして平和を実現するものとなることができるよう努め、そのための恵みを求めております。どうしたら平和を実現するものになれるのか。それは主イエス・キリストに聞き従うことであります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と主なる神様が言われました。
イエス・キリストは旧約聖書の教えの延長として現れ、そして律法を完成するものとして登場しました。旧約聖書の代表的な指導者であるモーセとエリヤが登場しています。モーセ、そしてエリヤたちによって伝えられた神の教え、神のみ心はイスラエルの人々にとって、どういうように理解されたのか。わたしたち人間は神様のおっしゃることを充分に、まして完全に理解することはできないのであります。神様はその時、その人々が理解できる限りにおいてお話になったのかもしれない。今日のわたしたちから見ると理解に苦しむ、あるいは躓きになるような教えが旧約聖書に出てきます。
その代表的なものは、カナンの征服に際しての、神の言葉ではないでしょうか。「聖絶」とされているのですけれども、聖というのは聖書の聖に、絶滅の、絶対の絶ですね。聖絶という恐ろしい言葉があります。  サムエル記上では、もっとはっきりと恐ろしいことが言われている。「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」(サムエル上15・3)この言葉をどう解釈したらよいか、困難を感じています。
 さて、今日は二つの“せいせん”ということについて考えたい。正しい戦いの「正戦」、聖なる戦いの「聖戦」です。多くの場合、戦争を始める指導者は「正しい戦争」であるということ、そして更に「聖なる戦争」であるということを主張し、それを開戦の理由と動機にしています。聖なるとは神様のみ心に適っているということです。
 しかし、戦争の動機、理由に神様を持ち出すのかいかがなものでしょうか。わたしたち日本の国が行った戦争も、正しく聖なる戦争であると説明され、国民はそう思わされ、協力させられたのであります。教会の歴史の中で、正しく聖なる戦争とされて、多くの人が戦争に参加した。本当にイエス・キリストはそう思い、そういうように命じられたのでしょうか。
 イエス・キリストは、わたしたちが平和のために働くようにと命じられ、そういう人は神の子と言われると言われました。そして、わたしたちを理解しない、わたしたちを排斥する、わたしたちを憎む人々を、いわば敵である人々を赦し、受け入れるようにと言われました。そして、自分の言葉を実行した。なかなかできないことではありますが、新約聖書の教えは使徒パウロも言っているように、「悪に対して悪をもってせず、悪に対して善をもって打ち勝ちなさ」(ローマ12・17-21参照)ということであります。
 正直に言って、そういう教えは何度も聞いているし、承知しているのでありますが、実行は難しいことであります。でも、実行できるように神様が、主イエス・キリストがわたしたちを支え、導き、助けてくださると思います。平和旬間、まずわたしたちの中で、わたしたちの間で平和が確立されていなければならない。わたしたちの間で、互いに赦し合い、受け入れあうという神の愛が実現していなければならないと思うのであります。

2017年7月29日 (土)

精神科医の謝罪

017年7月29日、麹町聖イグナチオ教会でのシンポジューム『いのちへのまなざし』のけるシンポジスト、精神科医の香山リカ氏の発言のなかに非常に衝撃的な内容が含まれていた。

2010年、ドイツの精神科医の学会の会長が70年の沈黙を破って謝罪の談話を発表した。謝罪の内容は、精神障害者に対して行った数々の人権侵害、犯罪行為についてである。ナチス政権下で、精神科医は、精神障がい者のなかから「生きている価値のないもの」を選別し20万人の生命を虐殺するという挙に出た、という。その際、その行為を「問題のない、よい行為だ」と考えていた。

この香山氏に発言はにわかに信じがたかったが、インターネットの記事によって確認することができた。この思想は、先日日本で起こった「津久井やまゆり園」での職員におる殺人事件の犯人に通じる思想である。

2017年7月25日 (火)

父母を敬え

2017年7月17日  宣教・福音化年「合宿研修」派遣のミサ

第一朗読 出エジプト記1.8~14,22

福音朗読 マタイ10.34~11.1   

昨日の夕方6時過ぎにやっと到着して、夕食にあずかり、今のこの時まで皆さんと一緒に過ごしてきました。昨日、そして一昨日はいなかったので、皆様のお話しを伺うことができず、残念でございました。それから夕べと今日も皆さんのお話しを聞いたのですけども、正直よくわからないところがありまして、もっと更に伺いたいという気持ちが残っております。

今日のマタイによる福音を読んで、わたくしが今思いますことをお伝えし、皆さんの参考に供したいと思います。 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。 自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 イエズス様の大変厳しいお言葉であります。

わたくしも若い時、この言葉を黙想し、できたら司祭になろうと思い、ある時決心をして、神学校に入れてくださいと頼んで、そのあと司祭への道を歩み司祭になりました。その時は、司祭になろうと思った時は、このイエスの言葉に自分は応えるのだと思って、決心をしたのであります。まあしかし、司祭になり、司教にまでなってしまった後で振り返ってみると、自分の動機は本当に純粋なものであったであろうかと思うのであります。今更言ってもしかたがないんですけども、皆さんのお話しを聞いて刺激されて、自分のことを少しだけ話そうかな、打ち明けようかなと思いました。

わたくしは、千葉県の房総半島の山奥にある市原市鶴舞というところで、生まれ育ちました。わたくしの家庭はいろんなことがあって、あまり恵まれていなかったんですね。わたくしは長子、長男であります。父や母は一生懸命生き、わたしたちを育ててくれましたが、わたくしどもはその父母の心をよく受け止めず、よくわからず、どちらかというと恨みがましく思っていたのであります。本当に申し訳ありませんでした。皆さんに謝ってっても仕方がないのですけども。・・・父や母の苦しみや痛み、悲しみを理解しなかったですね。大きくなって何十年もたってわかってきた。

わたくしが千葉県の教会に行きましてミサをあげました後、一人の方がこうおっしゃいました。「私はあなたのお父さんをよく知ってますよ。」「え、知ってたんですか?」「あなたのお父さんは立派な教育者、学校の先生でした。」その方も教育者で、父は先輩にあたる。息子の目にはそうは見えなかった。「あなたのお父さんのおかげを被って感謝している人がいます」と。間もなくその感謝している方からの手紙がきました。「あなたの父上は私の恩人であります。」とこう縷々と書いてある。おれの親はこんなに偉い人だったのか!

母につきましても、・・・母のことをよく知っている方が、教会におりましてですね、別の教会ですけど訪問した時に、その方のお話しを聞くことができた。「あなたのお母さまは大変立派な方で、みんなのことをよくお世話をし、そして尊敬されていた」と。わたしは母のことは断片的にしか憶えておりません。幼い時に母とは離された状態になりました。わたくしが大学生になったときに、突如母親に会うことになったわけなんです。わたくしと下の「きょうだい」の心には父や母のことをあまり思い出したくないという思いがあったんですね。・・・わたくしは本当に申し訳ないが、大変後になって、父や母のことをもっと知りたいと思うようになった。わたくしが司祭になってから、二人とも帰天しております。臨終洗礼を受けて東京のカテドラルに葬られております。すぐそばなんで毎日でも墓参りできるのですけど、これがまたしないんですね。なんて親不幸な息子であるかと思いますが。

ですから本当にイエズス様の呼びかけに応えて父や母のもとを出る人もいるけれども、かなり不純な動機で、やなことをしたくないからイエスに従うという理由を見つけるという、そういう人もいるのではないかと。このイエスの言葉は大変難しい要求だと思います。 わたしたちは父や母から生まれますが、生まれた時から健全な家庭があるわけではない、家庭を知らない人もいる。両親がそろっていない方もいる。それから親がわからないという人もいる。人は家庭で生まれ育ち、両親の愛に育まれると、それは理想ですが、そうはいかない現実の中で、わたしたちはまず自分の家庭のことを思いますが、多くの方々の家庭のことも思い、本当にあなたは大切な存在、かけがえのない、なくてはならない人なんですということをどうやって伝えられるだろうか。親は自分を捨てて逃げちゃった、という場合に、自分は大切にされたとなかなか思えないわけであります。わたしの父、母は大切に思って一生懸命育ててくれたわけなんですけども、子供からみたら、ああだ、こうだと思うのですが、どんなに一生懸命生きたかということがわかる。実際、生きるということは大変なことであって、子供を産んで育てるということが、今、更に難しくなっているわけで、子供の貧困ということが言われておりますが、親が子供のお世話をよくすることが難しい環境にある。経済的のみならず精神的にも余裕がない、そういう状況で、子供が愛に包まれて育つということは難しい。そういう中で、わたしたち教会はどうしたらいいだろうか。

話は飛びますが1993年、ずいぶん昔ですが、日本のカトリック教会は福音宣教のための全国会議を開いた。そして家庭の問題をとりあげた。そして、それぞれの教区で、家庭について何ができるかということを考え実行しようということになりました。当時の浦和教区では、わたくしが浦和司教でありましたが、宣教司牧評議会を立ち上げて、そして青年、女性の皆様の協力をお願いしました。昨日その話をしたんですけども、女性をもっと励ますと。そしたら、もう励ます必要ないんだそうですね。「男性を励まさないといけないんですよ、司教さん。」ああそうですか。青年はどうなんですかね。青年はあまり元気がないように思うのですけども、子供ですよね。子供は今本当にかわいそうな状況にある。子供を暖かく受け入れ励ます。親が自分の子供のお世話もできない。お世話をすることを学んでいない親もいるという状況で、教会はそういう方々のためにきめ細かくできることをしていかなければならないんだろうと思います。 自分の言葉で、自分にできることを真心こめてお献げする、ということが福音宣教であると思います。この三日間、教会の働きを見事にあらわしている良い試みであると思い、このような集いは更に発展することを願っております。

2017年7月15日 (土)

私にとっての《神》 その1

2017年7月8日(土) 太田教会 テーマ「神―わたしにとって神とは?」

 「神―わたしにとって神とは?」というテーマをいただきましたが、何を話したらよいか、かなり困っております。皆さんの学び合いの材料、或いは何かの足しになればよいかなと思います。 わたしたちは神を知っていますが、この神はキリスト教の神。イエス・キリストが教えてくださった神であります。イエス・キリストの教えてくださった神は、すでにイスラエルの人々が信じていた神、同じ神様です。同じ神様ですけれども、そこに信仰の発展がある。そして、イエスが地上を去るときに、わたしたち教会がつくられ、残されました。神を信じる民として、世界中に宣教しているわけであります。 神様というのはどういう方か、人間にはわからない、よくはわからないわけです。わかれば、わたしたちも神様になってしまします。神様がわからない。わからないから、あちら側からわたしたちにご自分をお示しになる。こうだよ、ああだよと。それが長い歴史の中で少しずつ、小出しにというか、教えてくださっている。一度に教えても、とてもわからないだろう、受け入れられないだろう、ということで、何回も色んな機会に、色んな人を通してお話になったのだと思います。 わたしたちの神は信仰の神、信じている神、なんですけれども、その前に頭で考える神様という場合があります。それは哲学者とかいう人は頭で考えて、神様とはこうだ、ああだと考えた神です。しかし、聖書の神は頭で考えた神ではなくて、神様のほうから人間に語りかけて、御自身を示してくださった。そういう神様ですね。  それで、「神」という言葉ですが、キリシタンの時代、翻訳に困ってしまったんです。よく日本語がわからないうちに、どういう日本語で説明したらよいか、きっと悩んだのでしょ。色々やってみたようですが、良い言葉が見つからなかったので、デウスという言葉にしたらしいんです。デウスはラテン語の神ですが、他にもどういう日本語にしたらよいかわからないというので、そのままラテン語の発音を日本人が言いやすいような発音にしたというか、自然にそうなってきたんでしょうか。 当時は「神父」という言葉もなかった。「パードレ」と言いました。「神父」とか、あるいは現代で我々が使っている用語は、明治時代になって、宣教が再開された時に導入された言葉で、多分中国から来たんじゃないかと思われます。前のほうがよかったかもしれないですね。色々な言葉がほぼ原文というか、当時の宣教者が自分の国の言葉、あるいはラテン語の言葉を、そのまま日本人に言いやすいようにしたのであります。  神という言葉も、第二ヴァチカン公会議以前、日本では、わたしたちも以前、「天主」と言っていたわけで、昔の痛悔の祈り、“ああ天主、われ、主の限りなくきらい給う罪をもつて”というように祈っていました。・・・ともかく神ではなく、「天主」であった。 日本では神というと、天神様の神、八百万の神といいますが、誰でも神様になりえます。特別な力を持った人、そして亡くなった人が生きているわたしたちの上に及ぼす、良い力、悪い力、そういうものを持っている存在が神なのでしょうか。 菅原道真が天神様になったでしょうけれども、政敵の藤原氏に貶められて、讒言されて、左遷されて、裏切りの中で亡くなった。その怨みが残っているので、色んな災害が起こるから、どうぞ怨みを捨ててください、お鎮まりください、といって神社を建てて、宥めるという考えだった。 色んな神様がいて、神社に行って、この神社はどういう神様が祀っているかなと思うけれども、ほとんど関心がない。でも一応聞いてみると、なんとかの命とかになっているのですけれども、わたしたちはそれくらいの神理解なのです。それなのに、なぜキリスト教の神を神と訳したのか。もう今更どうにもしょうがないのすけれども。 「神」という言葉が、わたしたちの神理解に誤解を与えているのかもしれないのです。「神、こんなに誤解された言葉はない」と言う人もいます。でも、どう誤解してるか、わたしたちにはわからないんですね。  

2017年5月 2日 (火)

4月29日司祭叙階式説教、大宮教会

受階者:ペトロ 髙瀬 典之
第一朗読 出エジプト記3:1-12
福音朗読 ヨハネ15:9-17

これから司祭に叙階される髙瀬典之さん。そして叙階式に参加している全ての皆さん。この大変喜ばしい、大切な叙階式にあたり、ご一緒に司祭の務めについて分かち合いをしたいと思います。

今日の第一朗読は出エジプト記。モーセの召命を語る箇所であります。神はホレブの山でモーセをお呼びになりました。「モーセ、モーセ」と、モーセをお呼びになったのであります。そしてモーセに使命を授けました。イスラエルの民の叫び、苦しみを神は心に留めて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放することを決意し、その解放する指導者としてモーセを選んだのであります。このエジプトから人々を解放して、新しい土地へ導くという仕事は本当に難しい仕事であると思われます。モーセの心の中に躊躇い、そして苦しみが生じたことは想像するに難くないと思います。主なる神はそのモーセに言われました。わたしは必ずあなたと共にいる。いつも一緒にいるから、あなたを教え導くから大丈夫、やりなさい、そういう神の声があったのであります。
召命とは、神がわたしたちをお呼びになり、そしてその呼びかけにわたくしたちが応えるということであります。
今日の福音として選ばれた箇所は、ヨハネの福音の15章であります。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
わたしたちは神の呼びかけに応えた者ですが、さらに神様の呼びかけがあった。神様が選んで、わたしたちに声をかけてくださった。イエスの時代になると、イエスを通して、神は人々を呼び出しになり、そしてイエスの最初の弟子たちが十二使徒たちであります。わたしが選んだ。そしてわたしがあなたがたを遣わす。そして、
「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
と言われました。
今、司祭に叙階される髙瀬さんも、神の呼びかけに応える者でありますが、同時に主イエスから選ばれ、呼び出されたのであります。人間というのは何か問題にぶつかったり、困難に出会う時に、自分はなぜ此処にいるのか、何のために此処にいるのか、ということを思い起こすことがある。自分の出発点をもう一度確かめなければならないと感じることがある。神から呼びかけを受け、そしてそのために必要な力を、恵みを、光を、支えを、導きを、いただいた者がわたしたちであり、特に司祭であります。
さて、叙階される司祭は司祭団という団体に加入し、そして司教の協力者となります。
今日の叙階式の式文で、度々言われておりますが、司祭というのは司教の協力者であります。司教は司祭の存在、そして協力によって司教の任務を果たすことができるのであります。この司祭と司教との親密な交わりということが、非常に大切であります。自分の司教がどんな人であるかは、選ぶことができない。しかし、それぞれの役割を同じイエズス様からいただいておりますので、司教の話はよく聞いて、わたしの後継者の司教の話もよく聞いていただく。そればかりではないですね。自分の希望、自分の問題、自分の本当の思いというものを率直に司教に話していただきたいと思います。
そして、今日の福音朗読で言われておりますが、互いに愛し合うこと。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」という主イエスの言葉を、司祭の交わりの中で具体的な姿をとって、実現するように努めましょう。あなたの先輩の司祭、年長の司祭、色々な方がおります。あなたも色々な方の一人になろうとしてるわけですけれども。互いに赦し合い、助け合い、そして人々がわたしたちの様子を見て、僕も司祭になりたいなと思ってくれるようでありたいです。素晴らしいからそういう風になりたいなと思う場合もありますが、ああじゃいけないので自分がなろうという場合もあると思います。
第三点。司祭と信徒の繋がりについてであります。司祭は信徒のために、司祭になります。司祭は信徒の声によく耳を傾け、信徒の要望に応えるように努めなければなりません。そして、信徒の皆さんが自由に、自発的に教会の宣教・司牧活動を行い、あるいは協力するように励まし、導かなければならない。司祭は一方的に指示し、命令するものではありません。
さて、来る5月7日は世界召命祈願の日であります。全ての人が自分の召命を知り召命に生きるよう、励まさなければなりません。もちろん司祭、奉献生活者への召命を呼びかけ、励ますことは大切でありますが、全ての人、全ての信徒は福音宣教者となるという召命をうけております。それぞれの方が自分の場所で、自分の立場で、主イエスの御心に従い、信仰を証しし、福音をのべ伝えることができるように教え、導き、励ますことこそ、特に司祭の役割であると思います。さいたま教区は宣教・福音化年を掲げて、そして祈りとともに、皆さんの協力をお願いしております。聖霊があなたを守り導いてくださいますように。アーメン。

2017年1月24日 (火)

ご挨拶

寒さが厳しい毎日を過ごしています。 皆様お元気にお過ごしの事とおよろこび申し上げます。 すっかりご無沙汰をしておりますことをどうかおゆるしください。

今日は、ふと昔学んだ漢文を思い出しました。
日日新たに 荀日新、日日新、又日新。
(荀に日に新たに、日々に新たに、又た日に新たなり)  これは中国の古典「大学」の一節で、「きょうの行ないはきのうよりも新しくよくなり、明日の行ないはきょうよりも新しくよくなるように修養に心がけねばならない」ということを意味しています(諸橋轍次「中国古典名言事典」)
今日というこの日は、今までにない何かの新しさを持っているのであり、今年という年は今までにない何かの新しさを持っているのです。わたしたちは日々何かの新しさを体験することができるのです。 よく考えてみれば、「新しい」ということは実に不思議なことです。
新しさは、今までに存在したことのない何かである。この新しさはどこから来るのでしょうか。  

聖書の教えによれば、神はたえず聖霊を送り地上を新たにしています。((詩篇04・30)  
 新しくなるということ、それは創造されるということであり、創造は神の霊の働きによります。神は全救済史を通じて日々地上のすべてのものを新たにされ、「新しい天と地」(黙示21・1他)を完成されます。わたしたち人間も日々新たにされ、古い人を脱ぎすて新しい人を着、キリストに似た者にかえられて行くのです(Ⅱコリント4・16・5・17他)。
3わたしたち生身の人間は、生活しているうちに活力が衰え、息切れして生き生きとした、創造的・建設的な活動ができないようになってしまいます。そこで、時の流れの節目に休息と回復の機会を設けなければならないのです。今自分は、それは神の気=聖霊によって、わたしたちのケガレ(気枯れ)を回復するときを迎えているように感じています。

わたしも文京区に住んで17年目を迎えました。思えば生涯のなかで、故郷を除けば一番長い居住地です。 「見よ、わたしは新しい天と新しい池を創造する。」(イザヤ65・17) この言葉を頼りに、身辺の整理をし、さらに自分の心境を整理し、心身の「断捨離」を実行しながら,残余の年月、「日々生まれ変わる新しい自分」として生きたいと願っています。

2017年1月20日                          岡田武夫

2016年12月18日 (日)

お告げの祈り

今日は待降節第4主日、毎年集会祈願は、お告げの祈りの祈願を同じです。「主よ、われら天使の告げを以て、御子キリストの御托身を知りたれば、願わくはその御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄に達するを得んため、われらの心に聖寵を注ぎ給え。

2016年1月 4日 (月)

世界平和の日・神の母マリア

(説教)
 皆さん、明けましておめでとうございます。
 本日は主のご降誕の日12月25日から八日目にあたり、神の母聖マリアの祭日となっています。本日の第二朗読で、  「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」  とありますように、イエスは律法のもとにあるユダヤ人として生まれ、八日目に割礼を受け、イエス(主は救う)と名付けられました。今日の福音はその次第を告げています。
 さて本日は同時に「世界平和の日」でもあります。  2015年は、胸の痛くなるような悲しく酷い出来事の続く年でした。シリヤなどの中東から多くの避難民が生まれました。今朝聞いたばかりですが、ドイツのメルケル首相はドイツ国民に向かって、100万人の避難民を受け入れる決意を告げて、理解と協力を求めています。教皇様も、困り果て苦しみの最中にいる難民・移住者の家族を受け入れるようと呼びかけました。
 今年の「世界平和の日」教皇メッセージは「無関心に打ち勝ち、平和を獲得する」です。様は傷つき苦しみ途方にくれている人々の心を向けるよう、わたしたちに教えわたしたちを励ましています。
 今年のメッセージの冒頭のことばは非常に印象的です。
 「神は、無関心ではありません。神は、人類を大切にしてくださいます。」  いきなりこのような言葉で始まっています。無関心であってはならない、と強く戒めています。 (ぜひ「世界平和の日」教皇メッセージをお読みになってください。なお本日の聖書と典礼にはその要約といえる適切な記事が出ています。参考にしてください。)
 実際、わたしたちは、自分のこと、自分の健康や生活のこと、自分たちの課題で心が覆われています。他の人のためにどのくらいの心の場所を用意しているでしょうか。自分の仕事にためには心を用います、しかし、ほかのこと、ほかの国で起こっている世界の現実は自分には関係ない、と思い、関わろうとはしません。自分の、自分たちの問題で心も頭の一杯です。わたしたちは、世界の悲惨な現実へ向かって、人類共通の課題へ向かって、貧しい人々の状況について、心を開かなければなりません。
 神はいつくしみ深い神です。聖書は、旧約聖書、新約聖書はすべて、神が人々の苦しみの叫びに応えている次第を告げています。 いつくしの神の目に見える顔が主イエス・キリストです。 いまわたしたちは《いつくしみの特別聖年》を過ごしています。神がいつくしみ深いようにわたしたちもいつくしみ深い者でなければなりません。神のいつくしみをさらに深く知るように祈りましょう。「無関心」から抜け出し、神のいつくしみを実行できるよう、祈りましょう。

主の公現

主の公現の説教
2016年1月3日、鴨川教会
第一朗読 イザヤ60・1-6
第二朗読 エフェソ3・2,3b、5-6
福音朗読 マタイ2・1-12 (本文)

「主の公現」とは主なる神が御子イエス・キリストを諸国の民に示された、という神のみわざを表すことばです。
 今日のマタイの福音は、占星術の学者がベツレヘムに来て幼子イエスを拝み、黄金,乳香、没薬を贈り物として献げた、と述べています。
 「占星術の学者」は博士とも賢人とも呼ばれています。原語は「マゴイ」で、ここからmagic(手品)という言葉で出てきたと言われています。  ふつう、「三博士」と言われていますが、それは、「黄金,乳香、没薬」の三つの贈り物から来てくる数字です。福音書には博士の人数は出ていません。 後に三人の名前も伝えられるようになりました。 三人は、伝説によれが、 メルキオール、バルタザール、カスパールと言い、メルキオールはメシアの王権を表す黄金を献げました。バルタザールは神性を表す乳香を、カスパールは埋葬を表す没薬を献げました。確かにヨハネの福音では、イエスの埋葬のために没薬と沈香が用意された、とあります。(ヨハネ19・39-40参照) ちなみに、東京教区が大変お世話になっているケルン教区の大聖堂にはこの「東方三博士(賢王)」の聖遺物が祀られています。 なお、3月4日には、ケルン教区のヴェルキ大司教(枢機卿)がこの聖遺物とともに、わたしたちの東京教区を訪問してくださいます。
さて、三博士は東方から来たのですが、さらに東にあるこの日本にもメシア=キリストの光が届きました。わたしたちは御子キリストの光を受けて、その輝きを人々に表し伝えるという使命を受けています。 今日の奉納祈願でわたしたちは祈ります。
 「いのちの源である神よ、教会の供えものを顧みてください。黄金、乳香、没薬ではなく、主イエス・キリストご自身をあらわすこの供えものによって、いのちの糧を受けることができますように。」
 わたしたちは黄金、乳香、没薬は持っていません。その代りに日々の生活すべてを、ミサにおいて、主イエスを表すパンと葡萄酒とともに父である神に献げるのです。
  先ほど皆さんは「教皇フランシスコ いつくしもの特別聖年のための祈り」を唱えました。その中で次にように祈ったのです。
 主イエス、・・・・
  あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。
何よりもゆるしといつくしみによって、自らの力を示される神のみ顔です。
  教会がこの世において、復活し栄光に満ちておられる主のみ顔となりますように。
 あなたは、ご自分に仕える者が弱さを身にまとい、 無知と過ちの闇の中を歩む人々を、 心から思いやることができるようお望みになりました。
 これらに仕える者に出会うすべての人が、 神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じるこことができますように。
 実はわたしたち自身が罪深くまた弱い人間です。だからこそこの世の中で「無知と過ちの闇の中を歩む人々を、 心から思いやることができる」はずなのです。「ご自分に仕える者」とは、わたしたち教会です。わたしたち一人ひとりのことです。わたしたちを通して神のいつくしみが現れ伝えられるのです。わたしたちと出会う人々が、自分は「神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じる」ようでありたいものです。
 主イエスに倣い、弱い人間、それて知らずに過ちに陥っている人々にお仕えすることによって、自分の献げものをささげるのです。 わたしたちによって、キリストの復活の光が現れ伝えられますように。罪人である弱い人間を通して主キリストのみ顔が示されますように。わたしたちが神のいつくしも目に見えるしるしとなることができますように、祈りましょう。

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