無料ブログはココログ

2020年12月12日 (土)

主にあっていつも喜べ

待降節第3主日A年

2020年12月13日

 

今日は待降節第三主日です。待降節第三主日は昔から「喜びの主日」と呼ばれます。(司式司祭は喜びを表す薔薇色の祭服を使用することができます。)

本日の入祭唱は今日のミサの趣旨をよく示しています。

「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)という言葉が述べられているからです。

さらに第二朗読でパウロは同じ趣旨を簡潔に述べています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(一テサロニケ5・16-18)

これこそ究極の福音とでも言うべき言葉ではないでしょうか。

パウロの生涯は困難の連続でした。それにもかかわらずそのパウロがこのように言っているとは、実に驚きであります。まさに復活されたキリストと共に生きたパウロの体験から滲みでてきたことばではないかと思われます。

本日の第一朗読では預言者イザヤが言っています。

「わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍(おど)る。」(イザヤ61・10)  

また本日の答唱詩編は有名な「マリアの賛歌」(マグニフィカート)です。

「わたしの心は神の救いに喜びおどる。」(ルカ1・47)

このように本日の聖書朗読は「喜び」をテーマにしています。

「喜び」とは非常に幸福であるという感情、良いことに出会い非常に満足し、嬉しいという感情であると言われます。喜びは人生の中で味わう幸福の感情ですが、happyという英語が示しているように、偶然与えられる儚(はかな)い喜び、という意味も込められています。

わたしたちは人生において度々喜びの体験をしますが、それは多くの場合、やがて儚く消え去る不確かな喜びにすぎません。人生にはむしろ悲しみの方が多いのではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい。」(1テサロニケ5・16)といわれても、「冗談ではない、なかなかそうは行かないよ」という気持ちになります。

この世界は過酷であり、人生は困難であります。この世界は、生きるのが難しい「荒れ野」ではないでしょうか。この世界は大きな闇で覆われているように感じることがしばしばです。

それでも例外的な人がいます。その人はいつも機嫌が良く、朗らかで楽しい人です。本当に羨ましい人柄ですが、そのような人は、「極楽とんぼ」と言われて、揶揄われることがあります。この言葉には、人生の真実は厳しいのだ、暢気にしてはいられないよ、という意味が込められているように感じます。

しかし、今日聖書が告げる「喜び」は人間としての自然の喜びではなく、信仰の喜び、厳しい現実があっても与えられる喜びです。イエス・キリストにおいて示された神の愛、無限の神の愛と出会い、愛の泉から受ける信仰の喜びです。(『福音の喜び』7)

 わたしたちの救い主イエス・キリストは激しい苦しもの中で悶えながら、天の父へ向かって「わたしの神、わたしの神、何故わたしをお見捨  てになられたのですか」という、断末魔の叫びをあげて息を引き取られたのでした。仏教の開祖釈迦牟尼ブッダのそれと比べて何という違いでしょう。ブッダは泰然自若、涅槃の境地のうちに最期を迎えたと伝えられています。ところでキリスト教は殉教者の宗教ですが、殉教者のなかには大いなる喜びのうちに処刑されたと言われている者が少なくはありません。主イエスはすべての人の人生の苦悩をいわば吸い取ってくださった方であると言えましょう。キリスト教は復活の宗教です。復活とは弱い人間性が不死の喜びの状態に挙がられることです。主の降誕を準備するこの季節、主の復活にも思いを馳せることは意義深いことです。

荒れ野に泉が湧いているように、この世界には永遠のいのちに至る泉が湧いています。夜の空に星が見えるように、世界の闇のなかに復活のキリストの光が輝いています。イエス・キリストは荒れ野の泉、闇の中に輝く光であります。

洗礼者ヨハネは、キリストを証しするために来ました。キリストによって建てられたわたしたち教会は、このキリストの復活のいのち、復活の光を表し伝えるための証人であり、人となられた神イエス・キリストによってもたらされた永遠のいのち、復活のいのちを証しするために派遣されているのです。

わたしたちは現代の荒れ野である大都会において、神を信じ神に祈る教会の姿を示し、また孤独な人,寄る辺のない人、病気や障害に悩む人の同行者、慰め励ます者、復活の希望の光を灯す者として歩んでまいりましょう。

 

―――

第一朗読  イザヤ書 61:1-2a、10-11
主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知(させるために)
わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ 園が蒔かれた種を芽生えさせるように 主なる神はすべての民の前で 恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 5:16-24
(皆さん、)いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

福音朗読  ヨハネによる福音書 1:6-8、19-28
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 

2020年12月 9日 (水)

神の選びと予定

原稿 18 神議論3

 

神はすべての人の救いを望んでいる。―――神の選びと予定

 

二重予定説

多くの信者を悩ませた神学理論に「二重予定説」があります。これは、神はある人々を救いに予定しある人々を滅びに予定しているという説です。もしや自分は「滅び」の方に予定されているのではないかとかんがえる信者を恐怖と不安に陥れた恐ろしい思想でした。

二重予定説はアウグスチヌスに遡るとされます。宗教改革者カルヴァンが引き継ぎ、その後継者がさらに明確に普及させた、と言われています。筆者の若い時にこの教えに出会い、運命論と宿命論と相俟って多いに悩まされたものでした。

アウグスチヌスの予定説は、ペラギュウスとの論争と彼個人の体験によって形成されたようです。およそ次のように説きました。

人間は誰しも生来罪深い。人が救われるのはただ神のあわれみの恩恵によ る。人には神から恩恵の賜物を受ける資格は何も持っていない。神はただ憐れみによって人間を救う。神が誰に恵みを与えるのかということは全く神の自由に帰する。神は自由に、人を選んで、憐れむべきものだけを憐れむ。誰を選ぶかは神の専権事項であり、人間の関与するべきことではない。

その結果、選ばれて恵みに与る者だけが救われるという結論になります。「アウグスチヌスが、これはある人々が地獄へと予定されているという意味ではないということを強調しているのに注目することが重要である。」(マグダラスの同書、636㌻)と弁護されています。ある人々だけは救いに予定されている、ということは、ある人は救われないという論理に結び付きます。ここから「二重予定説」へと論理が展開することになりました。

アウグスチヌスの予定説の特徴は予定に無条件性とて徹底した恩恵論にあり、神の絶対的な主導性と塗動性、恩恵の非撤回性、そして限定性であった(限定性とは限定された選ばれた人々の身が救われ、残りの人は原罪の状態のまま取り残されるという考えのことである。)(『新カトリック大事典』よてい 予定の項、J.アリエタ、石井祥裕担当)

ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』で次のよう人述べています。

 「われわれが予定はと呼ぶものは神の永遠の定めであって、それによって神は各人が何をなすことを自ら望むかを決定した。というのも神はすべての人間を同じ条件に造ったのではなく、ある者は永遠の生命へ、他の者は永遠の断罪へと定めたからである。」(『新カトリック大事典』予定)

 

わたしたちは神の予定についてどう考えるべきでしょうか。

まず確認すべき事項は、神の普遍的救済意志であります。

 

神の普遍救済意志

 

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。(一テモテ24-

 

神は例外なくすべての人の救いを望んでいる。これは絶対にゆるぎないキリスト教と聖書の基本的なメッセージです。この命題を否定すれば、キリスト級の土台が崩壊することになります。

それでは、すべての人は例外なく救われるのでしょうか。どんな罪人も、どんな不信仰なものも救われるのでしょうか。この点に関して聖書は沈黙しています。神は人を救いへと強制することはしません。神は救いへの呼びかけ(先行的恩恵)への応答を促しています。しかし、すべての人の救いを望む神はすべての人の救いの道を開いたはずであり、すべての人が救われる機会と可能性を提供しているはずであります。人間には、誰が救われ、誰が滅びるか、を地上で知ることはできません。それは神のみが知る神秘です。

ところで有名な新学者カール・バルトは次のような興味深い説を唱えています。

  カール・バルトによれば、「神の予定はイエス・キリストの選びである」という主張から成り立っている。

  そして「選び」とは二つの選びであり、それは「選ぶ者と選ばれた者」から成り立っている。

  1. 神は人間の友また仲間となる事を選んだ。
  2. 神は人間の贖いのためにキリストを与えた。
  3. 神は人類を贖うために自らを低くし、恥を受けるという道を選んだ。
  4. 神は我々から裁きの否定的側面(棄却、断罪、死)を取り去ることを選んだ。
  5. そこで、神による棄却は二度と人間の分け前・事柄となることはない。それは、罪ある人間の負うべきであったものをキリストが代わりに負ったからでる。
  6. 従って人間は弾劾されることはあり得ない。恩恵は不信仰にも勝利する。

このバルトの見解は人を驚かせまず。これは、救われない人はいない、という意味だろうか。不信仰の罪にさえ、イエスは打ち勝ち、万人を救済する、と言っているのだろうか。※

神の選び

 

聖書は「選び」の書であります。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル・・・彼らは実に「選ばれた人」であった。彼らが選ばれたのは自分自身のため、彼ら自身の繁栄、名誉、栄光のためではなかった。むしろ彼らの受ける迫害、攻撃、恥辱、不名誉、苦難のためであった。彼らを通して神の愛、神の光、神の恵みが伝えられるためであったのです。

そして誰よりも、ナザレのイエスとその母であるおとめマリアは神が選んだ器でありました。

おりしもいま典礼は、待降節である、128日は無原罪の聖マリアの祭日であります。

この日の第二朗読はエフェソ書です。

 

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 1:3-611-12
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

 

実に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ14)

(この箇所を神の二重予定説の教理の聖書上の根拠とするのは実に本末転倒であり、筋違いであります。)

天地創造の前から、神はわたしたちをすでに知っていて、わたしたちをお選びになった、と言っています。人間は、誰しも、「わたしは、どうして、この世に来たのか。何のために生きているのか。そして、どこに行くのか」という、非常に大切な問いを持ちます。

天地万物を造られる前に、神はわたしたちを、すでにお選びになったという言葉は、驚くべきみことばなのですが、わたしたちは、そのような驚くべき信仰をしっかりと持っているでしょうか。神はわたしたちを聖なる者、汚れのない者にしようと、お望みになったのであります。

自分の今の状態はどうでしょうか。聖なる者、汚れのない者と言うことができるでしょうか。わたしたちは日々「主の祈り」を唱え、「わたしたちを誘惑におちいらせず 悪からお救いください」と祈っています。

悪、あるいは罪から免れますように、罪に染まらないようにと、わたしたちは願い、祈っています。

神の創った人間とこの世界はすべてはなはだよい世界であるはずなのに、どうして、罪、あるいは悪というものが、人間と世界のなかにあるのか。あるいは、この世界にあるのでしょうか。それは、深い謎であり神秘であると思います。

神がわたしたちをお選びになったのは、わたしたちを通して神の救いの恵みを広く人々に指し示すためでした。わたしたたちが無原罪の聖マリアに倣う者とし、罪の汚れに染まらない者となり、神の救いの地上におけるしるしとなり希望となるためでありました。

 

 「無原罪の聖マリア」の祭日A年の第一朗読は、創世記39-15,20、でありまして、大変大切であり興味深い教えです。

創世記は、いつごろ、どのようにして、編さんされたのでしょうか。すでに、イスラエルの民は、さまざまな現実、胸を引き裂くような、辛い、悲しい、酷い悪の現実を、十分に見聞きしていたのでしょう。創世記の中ですでに人が人を殺したり、人を傷つけたりします。

男性と女性の関係も、必ずしも、うまくいかない。男性と女性を造られたときに、お互いの存在を、大変大きな喜びであり恵みであると思った。しかし、途中で関係が捩れてしまう。

この世界、この自然も同じで、神の恵み、人間を養い、育てるために、本当に、優しく、温かい環境であったはずなのに、人間を苦しめ、痛めつける環境となってしまった。どうしてだろうか。彼らはこの謎を解こうと考えたのかもしれません。

そこで、今日、改めて、耳に入った言葉、創世記314節の「呪われるものとなった」という言葉に注目したいと思います。

何が、誰が呪われる者となったかというと、蛇です。そして、呪われた蛇と関連して、わたしたち、人間も、その子孫も、そして、この大自然も、調和が失われた状態になってしまった、と創世記は述べています。

あわれみ深い、主なる神は、この自然と人間を購い、元の状態(楽園)以上に善い、聖なる状態、神の幸福に与る状態にしようと、お望みになり、主イエス・キリストをお遣わしになりました。そこに、わたしたちの信仰の中心があります。

その、主イエス・キリストに、最もよく協力した女性として、聖母マリア、今日の福音では、ナザレに住んでいた、ひとりのおとめ、マリアという人であったと、ルカの福音が告げています。

ガブリエルという天使から、「救い主の母となる」というお告げを受けて、「そのようなことがありえるだろうか。それは、とんでもないことではないか」と思ったが、「神にできないことは何一つない」と言われて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ138)とお答えになった。

最初の女性、エバの不信仰を帳消しにし、神と人間とのふさわしい関係を再構築し、もっと素晴らしいものにするために、イエス・キリストは来られましたが、イエスの誕生に協力したおとめが、マリアであったと、聖書は告げています。

神がわたしたちを大切に思い、わたしたちをご自分のもとに招いておられるということを、信じるということは、どのようなことだろうか。わたしたちも心のどこかで、疑いと不安が忍び寄ってこないだろうか。「どうして、このようなことがあるのだろうか。わたしたちを、どうして、このようなひどい目に合わせるのか」というような思いが兆すことはないだろうか。

現在、この世界には、さまざまな矛盾、不条理が存在し、暴力がまん延しております。今日、無原罪の聖マリアの日を迎え、神が、すべての人を救い、すべての人を聖なる者、汚れのない者にしようと望んでおられるという、聖書の言葉を、改めて、深く心に刻みましょう。

わたしたちは現代の荒れ野のような状態にあるこの大都市とその周囲に住んでいます。信仰、希望のうちに、神からの愛を深く受け止めることで、神への愛、隣人への愛を育み、強めていただけますよう、聖母に祈りをお献げいたしましょう。

 

※(注1)

このカール・バルト理解に対してバルトの専門の研究者はどう答えるのでしょうか。微力で浅学にて、今の筆者にはこれ以上研究する余裕がありませんが、どなたかご教示いただけないでしょうか。カール・バルトは万人救済を唱えたのでしょうか。それともそれは誤解でありましょうか。

 

(注2)無原罪の聖マリアの祭日のミサの第一朗読ならびに福音朗読の本文は以下の通りです。

―――

第一朗読  創世記 3:9-1520
(アダムが木の実を食べた後に、)主なる神は(彼)を呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。

 

 福音朗読  ルカによる福音書 1:26-38
(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

2020年12月 8日 (火)

無原罪の聖マリア

128日 無原罪の聖マリア

説教

今日の第一朗読と第二朗読、及び、福音から、ご一緒に、神様のみことばと主の福音のみことばを味わってみたいと思います。

第二朗読は、エフェソ書です。この中で、わたくしが、改めて、強く心に感じました言葉は、次の箇所です。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ14)

天地創造の前から、神はわたしたちをすでに知っていて、わたしたちをお選びになった、と言っています。人間は、誰しも、「わたしは、どうして、この世に来たのか。何のために生きているのか。そして、どこに行くのか」という、非常に大切な問いを持ちます。

天地万物を造られる前に、神はわたしたちを、すでにお選びになったという言葉は、驚くべきみことばなのですが、わたしたちは、そのような驚くべき信仰をしっかりと持っているでしょうか。神はわたしたちを聖なる者、汚れのない者にしようと、お望みになったのであります。

自分の今の状態はどうでしょうか。聖なる者、汚れのない者と言うことができるでしょうか。わたしたちは日々「主の祈り」を唱え、「わたしたちを誘惑におちいらせず 悪からお救いください」と祈っています。

悪、あるいは罪から免れますように、罪に染まらないようにと、わたしたちは願い、祈っています。

神の創った人間とこの世界はすべてはなはだよい世界であるはずなのに、どうして、罪、あるいは悪というものが、人間と世界のなかにあるのか。あるいは、この世界にあるのでしょうか。それは、深い謎であり神秘であると思います。

神がわたしたちをお選びになったのは、わたしたちを通して神の救いの恵みを広く人々に指し示すためでした。わたしたたちが無原罪の聖マリアに倣う者とし、罪の汚れに染まらない者となり、神の救いの地上におけるしるしとなり希望となるためでありました。

 

創世記は、大変大切な教えであり、興味深い教えです。

創世記は、いつごろ、どのようにして、編さんされたのでしょうか。すでに、イスラエルの民は、さまざまな現実、胸を引き裂くような、辛い、悲しい、酷い悪の現実を、十分に見聞きしていたのでしょう。創世記の中ですでに人が人を殺したり、人を傷つけたりします。

男性と女性の関係も、必ずしも、うまくいかない。男性と女性を造られたときに、お互いの存在を、大変大きな喜びであり恵みであると思った。しかし、途中で関係が捩れてしまう。

この世界、この自然も同じで、神の恵み、人間を養い、育てるために、本当に、優しく、温かい環境であったはずなのに、人間を苦しめ、痛めつける環境となってしまった。どうしてだろうか。彼らはこの謎を解こうと考えたのかもしれません。

そこで、今日、改めて、耳に入った言葉、創世記314節の「呪われるものとなった」という言葉に注目したいと思います。

何が、誰が呪われる者となったかというと、蛇です。そして、呪われた蛇と関連して、わたしたち、人間も、その子孫も、そして、この大自然も、調和が失われた状態になってしまった、と創世記は述べています。

あわれみ深い、主なる神は、この自然と人間をあがない、元のような状態以上に善い、聖なる状態、神の幸福に与る状態にしようと、お望みになり、主イエス・キリストをお遣わしになりました。そこに、わたしたちの信仰の中心があります。

その、主イエス・キリストに、最もよく協力した女性として、聖母マリア、今日の福音では、ナザレに住んでいた、ひとりのおとめ、マリアという人であったと、ルカの福音が告げています。

ガブリエルという天使から、「救い主の母となる」というお告げを受けて、「そのようなことがありえるだろうか。それは、とんでもないことではないか」と思ったが、「神にできないことは何一つない」と言われて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ138)とお答えになった。

最初の女性、エバの不信仰を帳消しにし、神と人間とのふさわしい関係を再構築し、もっと素晴らしいものにするために、イエス・キリストは来られましたが、イエスの誕生に協力したおとめが、マリアであったと、聖書は告げています。

神がわたしたちを大切に思い、わたしたちをご自分のもとに招いておられるということを、信じるということは、どのようなことだろうか。わたしたちも心のどこかで、疑いと不安が忍び寄ってこないだろうか。「どうして、このようなことがあるのだろうか。わたしたちを、どうして、このようなひどい目に合わせるのか」というような思いが兆すことはないだろうか。

現在、この世界には、さまざまな矛盾、不条理が存在し、暴力がまん延しております。今日、無原罪の聖マリアの日を迎え、神が、すべての人を救い、すべての人を聖なる者、けがれのない者にしようと望んでおられるという、聖書の言葉を、改めて、深く心に刻みましょう。

わたしたちは現代の荒れ野のような状態にあるこの大都市とその周囲に住んでいます。信仰、希望のうちに、神からの愛を深く受け止めることで、神への愛、隣人への愛を育み、強めていただけますよう、聖母に祈りをお献げいたしましょう。

第一朗読  創世記 3:9-1520
(アダムが木の実を食べた後に、)主なる神は(彼)を呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。

 

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 1:3-611-12
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

 

福音朗読  ルカによる福音書 1:26-38
(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

2020年12月 7日 (月)

神は全能で全知であるのか

原稿 17 悪の問題 神義論の2

 

「神議論」とは

神が居るならどうして悪があるのか

という問題です。

  1. 神が居ないならこの問題は起こらない。
  2. 神は完全に善であるのか。善でなければこの問題は起こらない。
  3. 神は全能であるのか。全能でなければこの問題は起こらない。
  4. 神は全知であるのか。全知でなければこの問題は起こらない。

ここでは、神が居ない場合は想定しない。

神は居る。しかし悪がある。神が善であるなら悪があるはずはない。

この論理は正しいだろうか。

一つに解決は善と悪の二元論の神をみとめること。マニ教やグノーシスがこの立場である。善の神とともに悪の神が居る。両者は対等に争っている。善の神が勝つと善が現れるが悪の神が勝つと悪が地上を支配する。

この二元論はキリスト教の立場ではない。キリスト教では「悪魔」の存在を認めており、悪魔の働きを認容している。イエスはしばしば聖霊の働きによって悪霊を追放している。今でも悪霊が働いていると考えられるが、しかし、悪霊は聖霊と対等な勢力を持つ悪の力であるとキリスト教は考えてはいない。

善である神

神は居る、そしてその神は善なる存在ではない、と考えれば、この問題は解決します。神の中に善である部分と悪である部分がある。旧約聖書の神のなかには悪である神も含まれているが、新約聖書の神には悪の神は含まれていない、と考えたマルキオンという人がいました。マルキオンは旧約聖書を否定し、悪の問題を解決しようとしましたが、教会は彼の教説を排斥しました。旧約聖書の神は新約聖書の神なのであり、旧約の神には悪が含まれているが新約のイエスの神は完全に善である、という考えは正統ではないとされたのです。それでは悪魔の存在をどう考えたらいいのでしょうか。悪魔の神の被造物であると考えられ、悪魔は堕落した天使であるとされています。天使は神の使い、その中に悪魔も含まれていたのです。ヨブ記の冒頭では、神の前で開かれた会議にサタンが出席しており、神から、義人であるヨブを試練に遭わせる許可を得ています。神が悪魔の存在を許し、ある程度の悪の働きをすることを認容していることには疑いありません。他方主イエスは、主の祈りで、「私たちを誘惑に陥らせず悪からお救いください」と祈るように命じています。この場合の「悪」とは「悪魔」を指していると考えられます。

神が悪魔の存在を認めていることは否定できません。悪魔の存在は神が善であることを否定するでしょうか。

神はイエス・キリストを人間として遣わし、悪魔との戦いに勝利させ、さらに復活させて、キリストの弟子たちが日々悪魔と戦うことを望み、その戦いの担い手として聖霊を各自に派遣しています。神は人々が悪と戦い悪に打ち勝つことを望み、その模範としてナザレのイエスを人としてこの世に遣わされ、さらに十字架と復活の後は聖霊を遣わして、人々が悪と戦い悪に打ち勝つよう導き助け励ましているのです。したがって悪魔の存在は神が善であることと矛盾しないと考えられます。

それでは、神が善であるというときの善と人間が善であると考えるときの善とは同じであるのか、あるいは、異なるのでしょうか。神はアブラハムに息子イサクを燔祭としてささげるように命じました。これは父が息子を殺すことですから、人間には不可解な命令であり、悪であると映ります。神はイスラエルの民に、カナン人殲滅命令を出しました。カナン人にとっては到底受け入れがたい命令です。モーセに自らからを顕わした神は、イスラエルの神であり、イスラエル人が生き、栄えることを望んでも、他民族が虐殺されても意に介さない狭い心で偏屈な神であるのでしょうか。ナザレのイエスは、神はすべての者の父であると教え、敵を愛するようにと戒めたのでした。

主はイザヤ書で言われました。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

わたしの道はあなたたちの道と異なると

主は言われる。

天が地を高く超えているように

わたしの道は、あなたたちの道を

わたしの思いは

あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55・8-9)

他方ホセア預言書は言っています。

  ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

アドマのようにお前を見捨て

ツェボイムのようにすることができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。

   (ホセア11・8-9)

神はあたかも怒りと慈しみの間で心が引き裂かれるような思いをしていますが、ついには、怒りに対して慈しみのほうが勝利をおさめます。この神の心はナザレのイエスの十字架に引き継がれていったのでした。

神とはだれか。イスラエルの民はその歩みの中で、とくにバビロン捕囚という苦悩の体験を通して次第に、神は罰する神ではなく赦し慈しむ神であることを学んでいき、福音書のイエスの教えにつなげて行ったのではないかと思われます。

 

全能の神

神が全能であるとはどういう意味でしょうか。

全能の神とは単に何でも出来る神という意味ではありません。それは人を救うためには出来ないことはない、という意味でありましょう。神は自分の善に反することはできません。当然、神は悪をなすことはできません。神は善ですから、自己の本性に矛盾することはできないのです。そこで出てくる問題が神義論であります。

有名なアウシュヴィッツの大虐殺をはじめ、

1755年11月1日諸聖人の祭日にリスボンで起こった、市民三分の一を犠牲にした大地震と津波、

1975年から79年にかけてクメール・ルージュの指導者ポル・ポトによる、150万から200万人と推定される大虐殺、

1994年にキリスト教徒が9割を占めるルワンダで起こった10万人から100万人といわれる大量虐殺、

などが想起されるのです。

「善なる神の存在する」という信仰と「大虐殺あるいは大地震」という事実をどのようして両者を調和させることができるでしょうか。

 

このような悲惨な事実を前に、ある人々は、神は全能であるとは考えられない、とするようになりました。神が全能でないのなら、このような悲惨な出来事が起こっても、神に責任を帰することはできないということになります。実は、全能の神であっても、神は大虐殺が起こらないようにすることは出来なかった、という説もあります。例えばヒットラーやポル・ポトに神が働きかけて、彼らを指導し、彼らに干渉することが出来なかったのだ、と説く人も出てきました。(クラウス・フォン・シュトッシュ著、加納和寛訳、『神が居るなら、なぜ悪があるのか』、関西学院大学出版会、66-67㌻参照)

この際自然災害のリスボンの大地震は脇に置きましょう。これは人間の責任ではない自然災害であると考えられます。

それでは、アウシュヴィッツの大虐殺、ポル・ポトによる大虐殺はどうであろうか。伝えられるところによると、虐殺の理由は思想的な理由です。ホロコーストは、ヒットラーが、ユダヤ人の存在自体が赦しがたいと考えたことに起因していると言われています。どうして他の人々もその信念に飲み込まれてしまったのでしょうか。ヒトラーはどんな神を信じていたのでしょうか。あるいは信じていなかったのか。極少数の人々がそのような偏狭な精神に汚染されるのは在りがちですが、実はヒトラーは一応、合法的に政権を獲得しているのです。

ポル・ポトの場合はどうでしょうか。彼らはどのような信条・主義・主張をもっていたのか。非常に素朴な原始共産制の生活を理想としたのでしょうか。自分と一致しない生き方をする人を暴力的に抹殺するとは恐ろしいことです。「聖絶」の思想を連想させます。それは一部、異端審問、十字軍の思想に通じるように感じるのはわたくしだけでしょうか。

ルワンダの大虐殺の原因はどこにあるのか。カトリック国であるベルギーの植民地支配の仕方に分断と抗争の原因があるという指摘がありますが、それはともかく同じ神、愛なる神を信じる人々が相互の殺戮に巻き込まれるとはなんという悲劇でしょうか。

神は自分の愛する子どもたちが殺し合っているのをどう見ていたのか。なぜ止めさせなかったのでしょうか。もっともヨーロッパの歴史を見れば所謂「宗教戦争」は珍しくはなかったわけです。

人間の親の場合、子どもが成長すれば子どもが行うことには干渉しないのが原則です。心配したり不安になったりするでしょうが、子どものする重要なことについて、助言はするかもしれないが,止めさせたり変更させたりはしないでしょう。神もそうかもしれません。人類に独立の道を歩むことを認めた以上、途中で人類の紛争に介入しないと決めてその姿勢を貫いているのかもしれません。しかしそれにしても、何百万もの人間が虐殺されるのを見殺しにするのということは神の善には適いません。見殺しにしたくないがそうせざるをえない、ということなら、神は万能ではないということになります。

神の万能とは、どう考えても、人間が悪を犯さないようにする、という意味での万能ではない、ということが明らかになります。それではどういう意味で万能なのか。神はあらゆる悪を滅ぼすことが出来るという意味か。アウシュヴィッツの犠牲者はあの世において有り余る償いを受け、喜びに浸ることが出来る、来世で有り余るほど報われるから、問題はない、と意味だろうか。この世の問題はこの世では決着が使いないと人は感じます。結局、この世での理不尽・不条理の現実はあの世を想定しなければ解決はないということになるのでしょうか。地上の虐殺は天上の報償で補填される、だから神は善であり全能であると言えるのでしょうか。困難な問題の解決を死後の解決に託するという信仰は非常に信仰深いと言えるでしょうが、神を信じない人には納得の行かない説明になります。それなら、神の全能とは、限られた条件においてのみ発揮されるという意味に解するほうが論理的ではないでしょうか。おとめマリアは、大天使ガブリエルが「神にできないことは何一つない。」(ルカ1・37)といわれて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・38)と答えたのでした。この場合、全然不可能であるが信じるという意味ではなく、神のなさることなら充分可能であるとマリアは信じたことでしょう。処女懐胎とは生物的に不可能でしょうか。神が望めば十分に可能でしょう。処女懐胎とは大いに異なり、

虐殺、戦争でなんと多くの無辜の命が失われていることでしょうか。同じ神の子なのにどうして殺し合わなければならないのでしょうか。

 

全能の定義

このような疑問にどうこたえるか。

神の全能とは論理的に不可能なことが出来るという意味ではないことは言うまでもありません。

さらに神の本性に矛盾することもできません。神は嘘をつくことが出来ないし正義をゆがめることもできないはずです。トマス・アクィナスは述べています。

  神が全能であるという信仰告白は万人共通である。ただ困難なことは、その全能ということの意味をどこに置くか、であると考えられる。・・・・「神が全能であるのは、その出来るところのすべてのことができるからである」というなら、循環論法に過ぎない。・・・・・全能である神は罪を犯すことはできないのである。(『神学大全』  より)

 

神の二つの力

ここで神義論の問題の解決のために提出されている考え方として「神の二つの力」がある。ウイリアム・オッカムは次のように説明する。神が全能であると言うことは、現在において神が何でも出来るという意味ではない。神はかつてはそのように行動する自由を持っていた。神はある行動や世界の秩序に関与する以前には神の絶対的選択肢potentia absoluta を持っていたが、現在は「神の限定された力」potentia ordinatta しかもっていない。それは事物が現在あって、その造り主である

神によって打ち立てられた秩序を反映している仕方である。神は絶対的選択肢potentia solutaを持っていたときは、世界に関して,創造するかしまいか、どのように創造するか、について選択肢をもっていた。しかし、神が在る選択をした場合、神は他の選択をしないことになる。神は今や限定された力」potentia ordinattaしか持っていないので、何でも出来る状態にはないのである。

 

神の自己限定

フィリッピ書で次のように言われている。

  キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

   (フィリッピ2・6-8)

神はキリストにおいて受肉することによって自己限定の道を選びました。神のロゴスはみ

ずからの属性である全能・全知・偏在を無にし、その一方で「道徳的属性」である神の愛、

義、聖を維持したのでした。ディートリッヒ・ボンヘッファーはその獄中書簡『抵抗と信従』

において、劇的に神の自己限定を述べている。

  神は、われわれが神なしに生活を処理できる者として生きなければならないということを、われわれに知らせる。われわれとともにいる神とは、われわれを見捨てる神なのだ(マルコ15・34)神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と,共に、われわれは神なしに生きる。神は御自身をこの世から十字架へと追いやられるにまかせる。神はこの世において無力で弱い。そしてまさにこのようにして、ただこのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、われわれを助けるのである。キリストの助けは彼の全能によってではなく、彼の弱さと苦難による。このことはマタイ8・17に全く明らかだ。(『ボンヘッファー獄中書簡集「抵抗と信従」増補新版 E・ベートゲ編 村上伸訳、新教出版社、417-418㌻』

理神論――自然法則をとして働く神、という考え方

神は合理的で秩序ある仕方で世界を創造した。自然法則は神によって据えられたも

のです。この世界の中で神は何もすることがありません。時計職人のように、神は宇宙に

規則性を与え、その機械装置を始動させました。神は完全に自律的・自己充足的な巨

大な時計と見做されます。神は何もする必要がないのです。

ニュートン的世界観は、神は世界を創造したが、神はさらに世界に関与する必要を認め

なかったとうものです。

この考え方では、神が生きている神である、絶えず世界を新たにしているという信仰と相

容れない。また。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。

門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、

門をたたく者には開かれる。」(マタイ7・7-8)という主イエスのことばとも矛盾するのです。

 

神は第一原因であるが、第二原因を通して行動する、という考え方があります。

人間の苦難の痛みは第二原因に起因し、第一原因である神の直接の行為に帰せられ

ない、という。

しかし、神が直接原因ではないとしても間接的に責任はないだろうか。

 

プロセス神学

アメリカの哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトによれば、実在を過程(プロセス)として考

える。神は自然を神の意志や神の目的に従うよう強いることはできない。神にできるのは、

説得と吸引力によって実在の動的な過程に内部から影響を与えようとすることである。

それぞれの存在がある程度の自由と創造性を持つのであって、神はこれを踏み躙れない。

この考え方によれば神の超越性という考え方は放棄される。

 

ピエール・ティヤール・ド・シャルダンのオメガ・ポイント

シャルダンはイエス・キリストによる世界の完成という主題を重視している。この考え方は、

コロサイ書1・15-20、エフェソ書1・9-10,;22-23などに基づく。万物はこの完成点に

かって進化しつつあるのであり、その完成する目的となる最終目標がキリストである

オメガ点に他ならない。シャルダンは、宇宙は進化の過程にあると考える。宇宙は前方

おおび上方へ向かっての運動を通じてゆっくりと成就へと進化する巨大な有機体である。

神はこの過程の内部において働いている。神は内部から方向付け、また過程の前方にあ

って働き、宇宙を神の目的と最終的な成就へ向かって引き寄せるのである。(マクダラ

スの同書398-400参照)

現代人の思惟構造にアッピールする魅力的な説明と言えましょう。

 

リヨンのエイレナイオスの神義論

神が人間を悪や苦難に合わせるのは人間を教育し訓練して、霊的成長と成熟に導くた

めであるという、古典的な理論です。しかし、アウシュヴィッツや広島の悲惨な経験が人

類の霊的成熟のために必要であるとは考え難い。

 

アウグスチヌスの説明

悪は人間の自由意志の乱用から来た。それでは人間はどうして悪を選択したのか。では

その悪はどこから来たのか。悪の起源はサタンの誘惑にある。ではサタンはどこから来た

のか。サタンは堕落した天使である。天使は神に仕えるために善い霊として造られた。し

かし、神のようになりたいという傲慢の罪を天使は犯したので悪魔に落とされた。ではなぜ

善い天使が神に逆らう心を抱いたのか。

結局この節ではどうしての説明できない部分がのこってしまいます。

 

カール・バルトの立場

彼は次のように考えました。

「バルトは不信仰・悪・苦難に対する神の恵みの究極的勝利への信仰の側に立って、全

能に関する先験的な概念を拒否する。神の恵みの究極的な勝利への確信によって、信

仰者は見たところ悪に支配されている世界に直面して士気と希望を保つことができる。

(マクダラスの同書、404㌻)しかし、バルトは悪を「虚無的なもの」としているがその聖書的

根拠に問題があるとされている。

また、「全能に関する先駆的な概念を拒否する」とはどういう意味でしょうか。神が全能で

あるという信仰の前提を棚上げするという意味でしょうか。

 

創造者である神の教理

創造は混沌に秩序を与えることである。(創世記2・7;イザヤ29・16;44・8;エレミヤ18・1-6参照。)

創造とは一連の混沌との戦いにかかわる。混沌の力はしばしば竜や他の怪物として描かれる。これらは服従させられなければならないものとされる。(ヨブ3・8;7・12;9・13;40・15-32;詩74・13-15;139・10-11;イザヤ27・1;41・9-19;ゼカリヤ10・11 参照。)

では「無からの創造」をどう考えるか。

紀元1世紀、2世紀のキリスト教が確立された時代はギリシャ哲学が地中海を支配していました。ギリシャ人は、神が世界を創造したとは考えなかったのです。物質はすでに世界に存在していたのであり、神は既存の物質から世界を形成したと考えました。創造は無からの作業ではなかったのです。すでに手元にある物質に基づいてなされる構築が神の創造であると考えた。世界に悪、あるいは欠陥が存在するのは、潜在する物質の貧弱さ、不完全さによるのであった、神の責任ではない、とされました。

しかしながらグノーシス主義との戦いの中で、2世紀、3世紀の教会は、先在する物質は存在しない、すべては無から造られなければならないと考えるようになったのです。エレナイオスの主張によれば、善である神の創造した被造物は善であり、物質に悪が存在するという考えは認められなかったのでした。グノーシス主義は、例えば次のように主張しました。

ニ人の神が存在する。それは、不可視の世界の源である最高神と物質的事物の世界を創造した低次の神の二人の神である。霊的領域は善であり、物的領域は悪である。この二つの世界は緊張関係にあるという。

これは善と悪の二元論であり、キリスト教の創造論と相いれないものでした。キリスト教で

は、物質の世界も神の被造物であり、後から罪によって汚されて悪を帯びるようになった

と考えるからです。しかし、霊的世界の物質的世界も共に神の被造物であり、元来は善

であると考えました。中世になって、カタリ派、アルビ派という善悪二元論を唱える異端

が現れましたが、教会は、「神は無から善い被造物を創造した」と宣言しました。(1215年、

第四ラテラノ公会議と1442年、フィレンツェ公会議)

マクダラスは創造の教理について以下の点を留意すべきと指摘しています。(同書410-

-412㌻)

1)世界は神の創造の作品であるから尊重され肯定されなければならないが、他方、堕落した被造物であるので贖われなければならない。

2)創造は世界に対して神が権威を持っていることを示す。人間は神によって被造物の管理者に任じられた。

3)神は世界を善いものとして創造した。(創世記1章、10,18,21,25,31節)グノーシスの言う、世界が本質的に悪である、あるいは善と悪が対等に存在するという主張は聖書の教えに反している。確かに現在の世界は神の本来の創造の意図から外れてしまっている。「贖い」とは被造物の本来の完全さへのある種の復興を意味している。

4)人間の本性は神の似姿である。アウグスチヌスは言っている。「あなたはわたしたちをご自身に向けて造られました。私たちの心はあなたのうちに憩うまで、休めないのです。」(同書、412㌻)

ついでマクダラスは創造者なる神の類型を挙げて問題点を指摘しています。

  1. 流出
  2. これは無意識の創造を思わせ非人格的な行為を連想させる。
  3. 建築
  4. 「無からの創造」の教えに対立する。
  5. 芸術的表現
  6. 先在する物質からの創造を思わせる、という欠点がある。

 

次に重要な問題は創造と時間という課題である。

アウグスチヌスは、神が時間を創造したと考えた。

現代の科学は時間と創造をどう考えるのか。

1982年、ビレンキン博士は、「わたしたちの宇宙は空間も時間もない『無』から生まれたという仮説『無からの宇宙誕生』を発表しました。(別冊Newton 無とは何か、136㌻)しかし1930年代から、宇宙には始まりはなく、誕生と終焉(膨張と収縮)を繰り返している、と考える物理学者も現れた。この理論(サイクリック宇宙論)によれば、宇宙は無から生まれたわけではない。ずっと前から存在していて、「輪廻転生」していたということになる。(同書156㌻)

 

科学と神学の関係をどう考えたらよいだろうか。

かつて進化論は神学の外にあった。しかし、シャルダンが言うように、進化論を神学と融合させることは十分に可能である。天動説と地動説の関係についても現在は科学と神学の矛盾を考える人は僅少であろう。

 

神の創造について

既述の説明と一部重複するが、現時点で、個人としての試論を以下のように整理します。

 

  1. 神が世界を創造し完成する。
  2. 神がいったん一時に完全な世界を創造したが人間に自由意思を与えたために人間が傲慢の罪を犯して世界に悪を導入したと考える必要はない。
  3. 神の創造とは神の意思の実現である。神の意思は一時に完全に実行されるわけではない。神にとっての時間は人間には神秘である。神は創造の初めアルファの終わりオメガである。神にとっての時間を人間の時間とは全く異なる。
  4. 創造の完成は「新しい天と新しい地」(黙示21・1他)である。「新しい天と新しい地」はすでにその前表(まえにあらわれるしるし)とし地上に現出している。創造とは神が日々地の面を新しくすることである。(詩編104・30参照)
  5. イエスは言われた。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ5・17)
  6. 「無からの創造」とは素材が無である世界から神が何かを創造することというよりも、神の支配の及んでいない闇の世界に神の光、愛、力を浸透させることであると理解するほうが理に適っている。科学的にも「無」は何もないことではなく、種々の働きが行われている状態であると科学者は言っている。
  7. 東洋の「無」と西洋の「無」を比較研究して今後の福音化を考察することが日本の福音化の鍵であると考えます。
  8. 「贖い」と「創造」は同じことの両面である。「救い」をかつて存在した楽園の原始的理想郷への復帰と考えるよりも、完全に新しくされる喜びへの希望と結びつけてともに祈りを深めたほうが善いと思われる。
  9. 神によって創造された完全な世界がまずあり、これが人祖の始原罪によって混乱に陥れられたが、救い主はこれを再び原初の完全状態に回復させる、という復元的・回帰的救済思想が支配している。だが聖書は本来完全な救いは未来のものとしてこれを待ち望むという直線的救済思想をとっている。救いは過去の完全状態の復興ではなく、未来において実現を約束されている全く新しいものとして、希望の対象である。(「原罪」について述べた記述からの引用である。)

 

神の全知について

神が全知の神であるとはどのような意味でしょうか。神には予定ということがあるのでしょうか。神が全知であるとしたら人間の自由意思は存在しないということになるのでしょうか。

以上のような疑問が想定されます。

神の全知とは、あらゆる事項、自然と人間、宇宙を含めて、あらゆる事柄の過去、現在、未来について、神の認識に入っていないことはない、という意味でしょうか。

例えば、入学試験。神は誰が合格し誰が失敗するかを事前に知っているのだろうか。あるいはポル・ポトの大虐殺。神は事前にそれが起こることを知っていたのだろうか。試験の合否の結果は受験生の責任にかかっているし、虐殺の事項はポル・ポトらの考え方に原因がある。神は第一原因であるかもしれないが、その結果を直接ひき起こしたのは人間である。神は虐殺が起こることを事前に知っていた。しかし起こらないようにはしなかった。それでも神は虐殺に責任があるだろうか。

記述の「神の自己限定」の考え方によれば、神はいったん自分の力を限定した以上、委託した事柄については責任を負わないことになる。しかし地上の論理では、任命し委託した者にはその責任があると考えられます。そう考えれば、ポル・ポトの大虐殺に神が責任なしとは言い難いということになります。

しかし他方神は人間をはじめとする被造物にある程度の自主性と判断力を与えましたので、被造物の在り方に干渉しないという考え方も成りたちます。日常の些細なことには神は干渉しないでしょう。しかし戦争とか虐殺とか、あるいは個人のかけがえのない価値については当然、神は何かをすると考えても不思議ではないでしょう。

しかし、神は本当にこれから起こることはすべて知っていると言えるのでしょうか。ナザレのイエスは「神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神』でしたが、まことの人間であり、人間としての限界を持っていました。イエスは12人を選び使徒としましたが、その中の一人ユダは後でイエスを裏切ります。イエスは彼が裏切ることを知っていても彼を使徒に任命したのでしょうか。

他方次の詩編を思います。

主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。

座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。

歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。

わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。

前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。

その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。

どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。

天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。

曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも

あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。

わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」

闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。

あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。

わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。

秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。

胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。

あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。

数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。

   (詩編1・1-18)

ここで作者は、神はすべてを知っていること、神は何処にでもいるという信仰を告

白しています。

既述のことですが、神が後悔したという言い方が出てきます。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」

  (創世記6・5-6)

なお、同じような例は、神がサウルを王に立てたことを後悔する、という記述です。

  主の言葉がサムエルに臨んだ。

「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。

   (サムエル上15・10-11)[他に関連個所として、出32・12-14;民数記23・19;エレミヤ18・7-10;26・3;アモス7・3;ヨナ4・2]

神が全知・全能であるならば、なぜ後悔するようなことをしたのでしょうか。自分の

作った人間が地上で悪ばかりするという結果になるということを全知・全能の神が

あらかじめ知らなかったのでしょうか。神はやがては退けることになるサウルをなぜ

王に立てたのでしょうか。全知の王なら、サウロの将来の不従順を知っていたので

はないだろうか。或いは、歴代の王たちの大部分は、神の目に悪とされることを行

ったものですが、それでも神は王たちが選ばれることを阻止しなかったわけです。

もし神が時間を造ったとしたらその時から神は自分の時間の中に深くかかわった

はずです。何が起こるか、詳しくあらかじめ知っていて、世界を自分の思い通りに

しようと考えたとは思えない。ただし最終結果は最初から知っていたと考えてよいと

思われる。最終結果は「新しい天と新しい地」であります。

2020年12月 6日 (日)

待降節第2主日B年

待降節第2主日を迎え、今日の聖書朗読、福音朗読を共に味わいながら、これからの日本の福音宣教についてご一緒に思いを深めてまいりましょう。

 

第一朗読は、イザヤ書、40章です。イザヤ書は、わたくしにとりましても、大変大切な、心に深く響く、聖書の巻物であると、心から、ずっと、そのように思っておりました。

今日の箇所の中で、わたくしの心に強く迫ってくる言葉は、どれであるかと言いますと、

「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ」という箇所です。イザヤの40章は、バビロン捕囚という、イスラエルの民にとって、味わった、痛切な仰体験から生まれた預言書であります。ユダヤの民は滅ぼされ、ユダヤの指導者たちは強制移住させられ、そこで、毎日、辛い経験をしておりました。そのときに、彼らの信仰は、清められ、強められ、そして、メシア、キリストへの信仰・希望が、強く、彼らの心に刻まれてきたと言われております。「どうして、わたしたちは、このような目にあっているのだろうか」という、彼らの日々の反省の中で、主なる神への信仰が清められ、希望が強められていきました。

わたくしが司教になりましたときに、日々の心構えとして、イザヤの40章の終わりの部分を選びました。今日の朗読箇所の後の部分ですが、その言葉は、「主に望みをおく人」という部分の言葉です。その前後を、もう一度読み上げて、みなさまに、最後の言葉として、お伝えしたいと思います。

「ヤコブよ、なぜ言うのか

イスラエルよ、なぜ断言するのか

わたしの道は主に隠されている、と

わたしの裁きは神に忘れられた、と。

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。

主は、とこしえにいます神

地の果てに及ぶすべてのものの造り主。

倦(う)むことなく、疲れることなく

その英知は究めがたい。

疲れた者に力を与え

勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが

主に望みをおく人は新たな力を得

鷲(わし)のように翼を張って上る。

走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザタ4028-31)

「主に望みをおく人は新たな力を得る。」(イザヤ4031)

わたしたちは、厳しい現実の中で、力を落とし、失望するという経験を持つことがありますが、どのようなことがあっても、神への信頼、信仰、希望を新たにし、あくまでも、いつも「主に望みをおく人」として、神様からの力をお願いする。そのような者として歩みたいと、望みました。

今日は、待降節第2主日であり、主イエス・キリストのご降誕を、喜び、祝う準備のときですが、同時に、わたしたちは、主の再臨、「主イエス・キリストが、世の終わりに、ご自分の計画を、完全に成就し、父なる神の創造の働きが完成するために再びわたしたちの所に来てくださる」という、わたしたちの信仰を新たにし、希望を強めていただき、日々、愛の務めに励むことを、改めて確認する、大切なときです。

第二朗読を、ご一緒に見てまいりたいと思います。

わたしたちが生きている、この世界の現実の中には、混乱、不条理、矛盾という現実があります。そして、人間と自然界との関係も、うまくいっていない。

教皇フランシスコの「ラウダート・シ」という教えを、みなさん、ご存知ですね。神様のお造りになった、この世界、自然が、本来の姿を傷つけられ、自然界と人間との関係に破たんが生じているということを、教皇様は指摘しております。

神の救いの働き、贖(あがな)いの働きは、人間はもちろんのことですが、この世界の、神様がお造りになったすべてのものを、神のお望みになる、新しい天と、新しい地に、造り変えてくださる。そのような、神様の計画を、わたしたちは、改めて信じ、神様のみ心に希望を持って、日々を歩んでいかなければならないと、今日の福音朗読が告げていると思います。

「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ニペトロ312-13)

わたしたちは、毎日、いろいろなことをしなければならない。いろいろなものに囲まれ、捉われて、そして、神様のみ心を見失いがちです。

本当に大切なことを第一にして、生きていくことから、逸れてしまっている日々を、わたしたちは送っているのではないか。いろいろなことがあり、いろいろなものがあるが、そのようなものは、すべて、いつかはなくなる。過ぎ去ってしまう。神のみ心に従って生きる。わたしたちの、愛の行いだけが、永遠のいのちを持っているのであると、聖書は謳っているのではないかと思います。

さて、日本の教会の、これからの歩みを、改めてご一緒に考えてみたいと思います。

ご承知のように、1549年、聖フランシスコ・ザビエルが、日本に福音を伝えてくださいました。それから、400年、500年が経過しています。

日本のカトリック教会は、第二ヴァチカン公会議の教えを受けて、主イエス・キリストの福音をのべ伝え、日本の社会の福音に適ったものに変えていくために、力を尽くしたいと考え、日本の司教協議会が主催して、福音宣教推進全国会議という、画期的な会議を開催しました。今から30年前、1987年のことです。わたくしは、それから13年後、大聖年の年ですが、200093日、こちらで、東京大司教に就任し、着座式が行われました。いま、そのときみなさまにお伝えしたことを、もう一度、思い起こし、そのときに、みなさまにお願いしたことを、改めて、お伝えしたいと思います。

1回福音宣教推進全国会議、NICE1では、「開かれた教会づくり」を目標に掲げました。誰に開かれた教会であるかというと、もちろん、すべての人に開かれているという意味ですが、わたしたちの教会は、非常に近づきにくい、苦しんでいる人、悩んでいる人、あるいは、自分のような者は、とても、キリスト教の教えには縁がないと思う人、病気の人、体だけではなく、心に問題を感じている人、周りの人からも変わっていると思われている人、そのような人が温かく受け入れられ、大切な人として扱われ、自分の居場所がある、安らぎがある、慰めがある、生きる意味を見いだすことができる、そのような教会になりたい。もちろん、そのようになっている部分もありますから、みなさまは、教会に来られているのだと思いますが、多くの人にとって、わたしたちの教会は、自分にとって、安らぐことができる、そういうものになっていないというのが、現実です。

わたしたち自身の間にも、なかなかうまくいかない、いろいろなことがあると思います。どうか、聖なる助けによって、そのような現実の中で、互いに受け入れ合い、ゆるし合い、そして、不完全な人間、弱い人間、道から外れてしまう人間同士が、支え合い、助け合う、そのような教会が、成長し、広がって行きますよう、心から願い、祈ります。弱い人間が、そのようにできるためには、神の助け、聖霊の導きが必要です。わたしたちは、父と子と聖霊を信じています。特に、人間としてのナザレのイエスが去ったときに、わたしたちに聖霊を注いでくださった。聖霊は、いまも、いつも、わたしたちとともにいてくださいます。聖霊の導きを信じ、そして、このような自分も、神から赦され、受け入れられている者であるという信仰を、より強くしていただき、お互いに、ゆるし合い、助け合う、そのような、キリスト教会の姿を、人々に表し、伝えていきたい。教会に行ったけれども、冷たかった。だれも、わたしのことを認めてくれない。もう、そのようなところには行きたくない。そのような言葉を、聞かないわけではない。わたしたちには、そのようなつもりはありませんが、外から見ると、わたしたちの教会は、そのように見えることがあるようです。

わたしのような者でも、そちらに行けば、ほっとする。そのような交わりを、わたしたちの教会は、もっとしっかりとしたものに押し広げていきたい。

教皇ベネディクトは、即位されたときに、「現代の荒れ野」ということを言われました。本当に、生きることが難しい、この社会、この時代、わたしたちのつながりのなかで、生きる力、生きる希望を、日々見出すことができるよう、そのような教会でありたいと思います。

洗礼者ヨハネにならい、主の降誕を祝う準備をするとともに、これからの日本の宣教と福音化を皆さんとご一緒に考えそのために祈りたいと切に望み、以上のように申し上げました。

長くなりましたが、ヨハネの福音の次のみ言葉をもって、結びといたします。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ1334)

 

2020年11月29日 (日)

目を覚ましていなさい--神義論の1

悪について、その16 ――全能で善である神が居るならどうして悪が生じるのか。

 神義論-1

 

今年も待降節を迎えました。待降節は神が御子イエス・キリストを人間としてわたしたちのもとにお遣わしになったというご降誕(クリスマス)を祝う準備の期間であります。準備とは主イエス・キリストを迎える準備であります。主イエス・キリストを迎えるとは、罪の赦しを信じ、神の愛を信じて、神の恵みに自分を委ねるための準備であります。読まれました福音で、繰り返し、「目を覚ましていなさい」と主イエスはわたしたちに告げています。わたしたちは、良い心の準備をして、主イエス・キリストのご誕生を喜び祝うのでありますが、もう一つ大切なことがあります。もっと大切な、あるいは一番大切であると思われることがあります。それは、わたしたちがこの地上の生涯を終える時の準備をするということです。(注において三年前に筆者が行った説教を引用します。)

神は愛であり、この世界と人間を造りました。神が造った世界は極めて善い世界です。それなのにこの世界にはどうしてこれほどの悪と罪があるのでしょうか。この問題を考察するのが「悪について考える」の一連の考察であります。今回は

カトリック教会の代表的な説明である聖トマス・アクイナスから学びたいと思います。

 

  1. 神は悪の原因ではありえない。

「神は悪の原因であるのか」という問題をめぐる聖トマス・アクイナスの主な主張は、

すべて存在するものは神によって存在し

すべて善きものは神から来るのであるから

神は決して悪を意図的に生ぜしめないことをわれわれは知っている

という所にあります。

そこで「すべて存在するものは神によって存在する」という命題は正しいかどうかを検討しましょう。といってもそれでは「存在する」とはどういうことか、を検討しなければならないということになります。「悪」の事実は否定できません。

悪の事実から「悪が存在する」とすれば、どうなるのか。「すべて存在するものは神によって存在する」という命題を正しいとするなら、「悪」も神によって存在することになる。悪は神によって存在しないなら、「悪」自体が存在しないことにしなければならない。「悪」存在しないから、神が善であるという命題に矛盾しないことになります。この論理は、悪が存在するのもかかわらず存在しないとして論理の一貫性を取ろうとした、と思わないわけには行かない。「悪」が存在しないことをどう説明するか。そこで「悪は善の欠如である」として説明します。善だけが存在する。悪は存在ではない。それでは存在とは何か。

どうしても以下のようになる。これは堂々巡りの議論、循環論法のように思えていきます。

「存在」とは何か。哲学の中に「存在論」等分野があります。

 唐突ですが、「存在」とは神の支配の充満であると考えるべきではないだろうか、と思います。つまり神の「存在する」とはその者に意向が十分に行き渡っている状態を指すのだとしてみます。「罪」とは神の意思が行われないこと、あるいは十分に行われていない状態である。病気はどうか。病気とは神の力が浸透していない状態である。そう考えなければ「悪」の存在を説明できないのではないでしょうか。こう考えてみると、神以外のもの(被造物)はすべて、神の意向によって存在しているが、完全には神の意向の反映ではない。かけたところがあるわけです。何故なら神は神を造ることはできないからです。被造物は神ではないので何か欠けた部分があるわけです。イエス・キリストも、神から生まれたのであり、神が造った作品ではありません。

唯イエス・キリストだけが神と完全に一致している、神の望みを完全に知る完全に実行でき来た、ということになる。

はたして人は神の思いを知ることが出来るか。

イザヤ書は言います。

  わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

  わたしの道はあなたたちと異なると

          主は言われる。

  天が地を高く超えているように

  わたしの道は、あなたたちの道を

  わたしの思いは

         あなたたちの思いを、高く超えている。

  雨も雪も、ひとたび天から降れば

   むなしく天に戻ることはない。

  それは天地を潤し、目を出させ、生い茂らせ

  種蒔く人には種を与え

       食べる人には糧を与える。

  そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も

     むなしくは、わたしのもとに戻らない。

  それはわたしの望むことを成し遂げ

  わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55・8-11)

 

人は神の思いに全く違えずには生きることは出来ない。それでは、人は正しく神の思いを知ることが出来るか。

果たして神は聖書で述べているように思い、人にそのように伝えたであろうか。

旧約聖書の啓示を人は正しく受け取ったであろうか。啓示の発展ということを考えなければならないのであります。 

出エジプト記で分かりにくい表現がたびたび出て来ます。それは、神はファラオの心を頑なにするのでモーセの申し入れを承知しないだろうという表現です。(出エジプト4・21;7・3;14・7) まるで神が自作自演しているようであり、マッチポンプのように、自分で原因をつくって自分で原因を抹消させているかのようである。

また、カナン先住民の殲滅命令というのがあります。これは「ヘレム」と呼ばれる神の命令で「聖絶」とも訳され、「ささげられたもの、奉納、奉納物、奉納物として滅ぼされる者、滅び、滅びに定める、滅ぼす、全き滅び」などと訳され、「神のさばきによる判決を人間の手を通して行う死刑執行」と定義することが出来る。(H・クルーゼ『神言』南窓社、16㌻)

現代人にとって非常に不可解な神の命令です。「聖絶」と合わせて、イスラエルの神がカナンの占領拠するように命じたという記述の解釈に苦しむ箇所であります。(以上、「聖絶」「カナンの占領に関する倫理的問題」については拙著『電台の荒れ野で』オリエンス宗教研究所、を参照ください。)

さらにまた、既述のことですが、神がアブラハムに独り子イサクを燔祭として献げるように命じたということですが、アブラハムが誤ってそう解釈したのか、あるいは、神が本当にそのような不可解で残酷な命令を下したのでしょうか。そのどちららかが正しいということになります。

 

2.人がいつも正しく神の思いを知ることが出来るか。

 

次に神の命令は何時でも、何処ででも、正当な命令であるのかが問題です。

カナン占領と殲滅命令は正当な命令でしょうか。神が言うことを人間がその成否を問うべきでないというなら論議はそこで終わりです。神は間違った決定や命令をくださないのか。神でも後悔することがあります。

  主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔 

  し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も

  這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」 (創世記6・5-7)

「神が後悔した」という事例は聖書の中ではさらに、神がサウルを王に選んだことを悔やむ、とあります。(サムエル上15・11,35)また、ザヤ書では「神は闇を創造した」ともある。

    光を造り、闇を創造し

     平和をもたらし、災いを創造する者。わたし が主、これらのことをするものである。(イザヤ45・7)

文字通り神は闇を創造したのだろうか。闇が存在することをゆるしているという意味だろうか。(トマス・アクイナスによれば「闇」とは神の下す罰のことを意味している。『神学大全』第48問題、第2項参照。)

 

人は神の創造の結果であります。その人が生まれながらに、先天的に障がいを負い、あるいは病気の遺伝子を持っているのです。今の医学では、出生前に胎児の検査を行い、障がい者として生まれるかどうかが判定できるという。存在のなかでの極め付きの善である人間が障がいという問題を先天的に担わされた場合でも、その人間の存在は善であると言えるのか。それでも善であると思う人とそうでないと思う人に分かれているのが現状です。人間は悪への傾き・可能性を持った存在であることを『原罪』は教えている。すると生来原罪の状態にある人間は、その存在自体が、完全に100㌫善である、とは言えない。人は光と闇の双方に属していると言える。基本的に光が闇にまさる存在である。人は堕罪によって闇へ堕ちたが100㌫の闇ではない。人は主イエスのあがないを受けて、復活の光を受けている。キリストを信じる者はすでの死から命へと移されている。(ヨハネ5・24;6・47;11・25;17・3;一ヨハネ3・14を参照。)

この地球と自然とはどうであろうか。神の創造の作品であり、極めて善である。しかしその善であることは影、歪み、闇を帯びた善であるとしか言えない。自然災害をどう考えるのか。自然法則に従って必然的に惹き起こされるものか。例えば地震と津波についてはどうだろうか。地震と津波は神が引き起こしているのか。被造物には闇の部分があるのは否定できない。闇が消えるのは「新しい天子新しい地」が出現する時である。その時まで被造物は贖われるのを待って呻いていると言えるだろう。

「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ8・21-22)

従って存在する被造物も、それが何であれ、善であるが善でない部分もある、と言わねばならない。「悪とは善の欠如」という言い方をするならば、悪とは闇、光がまだ及んでいない部分がある、ということになる。

東日本大震災はなぜ起こったのか。自然法則に従って起こったとしたら、その自然法則は神の支配する法則だから善であると言えます。しかし、神は災害を起こさないような自然法則を造らなかったのか、あるいは造れなかったのか。神といえどもそのような自然を創造できなかったのか。数知れない人が命を落とし行方不明になったこの自然災害を神はあらかじめ知っていたのであれば、それでも神は善である、と言えるだろうか。知っていたが地震と津波がおこらないようにはできなかったのか。もしそうなら神は全能ではないということになる。

 

3.「悪とは善の欠如である。」

 

「悪」について聖トマス・アクイナスはどう教えているでしょうか。トマスは

「悪とは善の欠如である」

と言っています。如何に、トマス・アクイナス『神学大全』第48問題ならびに第49問題、そしてその解説書(稲垣良典「トマス・アクイナス『神学大全』」)から多少とも学んだ事項を以下に整理します。

トマスの説明は決して理解し易くはありません。何度も読み考えて、理解のキーワーズがあることに気が付きました。それは「宇宙的秩序」(ordo universi)と「付帯的」(per accidens)という言葉です。

  トマスはこの世界に悪が存在することを決して否定していません。それでは「善の欠如」とはどう意味か。「欠如」とは 

  あるべきであるのにない、という場合を指し、ラテン語でprivatio といいます。病気とはあるべき健康が欠如しているこ

  とです。能力の不足は欠如とは言いません。生物の間には能力の差異があります。人はライオンのような獲物を捕る強さ

  を持っていませんが、その弱さを欠如とは言わない。人間にとって他の動物を襲って殺害しそれを自己の餌とする能力は

  人間本来の在り方の中に含まれていないと考えられるからです。

物事が生起するのは原因があります。原因の中に、目的印と能動因があります。物を動かす力が能動因です。電車は電気のエネルギーで動きます。物事を動かす場合に何のためにするのかという目的があります。電車は人間を移動させるためにエネルギーを使います。

さて神は人間に善を与え、人間を幸福にするために人間を造りました。良いことを目指して行われている働き自体は善です。しかし結果として付帯的にper accidens (偶有的に、とも訳す)悪が生じることが避けられない場合があります。たとえば、癌の治療のために抗癌剤を使いますが、どうしても副作用が生じます。現在の医学では副作用のない抗癌剤はないようです。

あるいは二重結果の原理を想起します。例えばそれは、胎児を救うために手術するが結果的に母体の生命が失われる場合です。母体と胎児の両方が救われればよいのですが胎児の生命が救済されて母親の生命が結果的に喪失することが起こるのです。

世界と宇宙では、一方に善ければ他方には悪であることが起こります。多くの出来事はそうかもしれません。ある出来事は、善であるとともに悪でもあります。ライオンが獲物を食い殺すという場合、ライオンには善ですが犠牲になる獲物にとって食い殺されることは決して善ではありません。ライオンの餌食はシマウマには悪ですが、宇宙全体の秩序から見れば調和していると言えます。物事を宇宙という全体の秩序から見れば、ここの悪は解消されて調和と秩序が生まれています。トマスは以下のように言っています。

  もし神がいかなる悪のあることを許さないとしたら、幾多の善が失われたに違いない。たとえば驢馬が餌食になること

  なしに獅子の生命が保たれることはないだろう。さらに不正というものがなくしては、それの償いを求める正義や、それ

  に耐える忍耐が賞賛されることもないに違いない。(第48問題第2項より引用)

また言う。

  人間には自由意志がある。しかし物事の原因の中の第一原因は神である。人は行為の原因でありうるが第一原因にはなり

  えない。能動因として人間は行為の主体であるが、その行為自体がかならずしも善の欠如であるわけではない。単純に神

  の意志不在のままの行動であるのでその行動自体は悪ではない。そこから悪が生じるのは、人が神の掟への注意を怠った

  場合である。注意を神の定めに向けるべき時に怠り、自由意志を乱用するために悪が生じるのである。悪は人間の意志に

  付帯的に生じるのであり、決して神が人間に悪をなさしめるのではない。

 

この説明はまだ筆者には納得できない部分が残っています。

さて、トマスによる「悪」についての説明が十分に納得のできるものでしょうか。残念ながら説得力のある説明ではないと言わざるを得ません。

さて、冒頭にのべたように、待降節第一主日B年の福音朗読は、繰り返し「目を覚ましていなさい」と述べて、神を迎える心の準備をするようにさとしています。しかし、聖トマスがのべているように、何時も目を覚まして神の呼びかけに事得るように準備していることは、人間には無理なことでしょうか。「心の準備」は無理ではないでしょう。「心の準備」のできないような状態、心が全面的に深く、付帯的per accidens なことに捉われないように日ごろから心がけなければなりません。使徒パウロは「絶えず祈りなさい」(一テサ5・17)といっています。何をしているときも心は神に向かっているように生活を整えることこそキリスト者の霊的生活です。

 

===

待降節第一主日B年のミサ説教

第一朗読  イザヤの預言(イザヤ63・16a-17、19b、64・2b-7)
第二朗読  使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリ1・3-9)
福音朗読  マルコによる福音(マルコ13・33-37)

 今日は、待降節の第一主日です。待降節とは、主イエス・キリストのご誕生を迎える準備をするときです。読まれました福音で、繰り返し、「目を覚ましていなさい」と主イエスはわたしたちに告げています。わたしたちは、良い心の準備をして、主イエス・キリストのご誕生を喜び祝うのでありますが、もう一つ大切なことがあります。もっと大切な、あるいは一番大切であると思われることがあります。それは、わたしたちがこの地上の生涯を終える時の準備をするということです。わたしたちは、いつであるかはわかりませんが、必ず、死という時、この世を去る時を迎えるのであります。そのために良い準備をしなければならないです。その時に、わたしたちは神様とお会いする、主イエス・キリストとお会いする時でありますので、キチンとお会いできるように準備しなければならない。誰かとお会いするときには、色々な準備が必要です。誰かがいらっしゃる時には、お会いする場所を綺麗に掃除したり、色々な余計なものは片づけたりするわけです。それと同じように、わたしたちも色々な準備をしなければならない。人は死ぬとき、何も持っていくことはできない。全部置いていかなければならない。そして、一番大切なことは心の準備ということですよ。色々大事なことをするときに、わたしたちは準備をします。試験を受ける時には、合格するように準備しています。ですから、神様にお会いするときには、神様と平和のうちにお会いできるように心の準備をいたしましょう。

2017年はルーテルの宗教改革500周年という年であり、いろいろな記念行事が行われました。このルーテルという人が大変真面目な修道者でした。毎日定期的にお祈りをし、勉強し、それから色々な苦行に励んでいた。しかし、どんなに頑張っても、神様が自分をゆるし、そして受け入れてくださっているという確信が得られなかった。自分は罪人だ、とてもゆるされない、という自分を責める気持ちがどうしても彼の心から抜けていかなかったのです。彼の大切な仕事は、講義、教えることであって、聖書の講義をしていました。ある時に、詩編の31章2編という言葉のところに来たのです。どういう内容であるかというと、当時彼はラテン語で講義していたそうですが、ラテン語文を直接日本語で言うとこうなるのです。「主よ、あなたの義によって、わたしを解放してください。」彼はこの神の義という言葉が恐ろしかった。憎んでいたとさえ言っています。神様はご自分の正しさに従って、罪人を罰するのだ、自分は罰せられるのだ、神様は恐ろしい方だ、そういうように彼は思っていた。ですから、この義という言葉に、彼は嫌悪を感じていたそうです。しかし、ある時、一つのひらめきが彼の心に起こったのであります。それはどういうことかというと、神様はご自分の正しさをわたしたちに与えてくださって、わたしたちを神様の御心にかなう者と認めてくれる、そういう神様であるという意味であると。そういうように、彼は悟るようになったのであります。
 今日の第二朗読で、パウロが次のように言っています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と。ですから、神様がわたしたちに恵みをくださる。その恵みを認めて、受け取りさえすれば、わたしたちは救われるのだと。自分で自分を救うことはできません。わたしたちは、罪深いものです。神様のお望みに叶う、完全な人間というのはこの世の中に一人もいない。しかし、神様はそのようなわたしたちを憐れんで、いつくしみ深く、わたしたちに恵みをくださる。そして、その恵みは主イエス・キリストによって、与えられました。詩編というのは旧約聖書ですから、イエス・キリストが現れる前のことですけれども、すでに詩編の中で、イエス・キリストが来られることを預言しているのであるとさえルーテルは考えたのであります。 聖書の翻訳というのは、難しい仕事であって、専門家でないわたしたちには分からないことが多いのですけれども、勉強した人から学べば、色んなことが分かります。今日では、この聖書の研究も大変進歩していまして、こういうように訳されているのです。
「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 恵みの御業によってわたしを助けてください。」と日本語で訳されている。神の義という言葉は、実は、もともとのヘブライ語を調べると、神の助け、神の贖い、神の恵みという意味が込められているのであるということが分かりました。
皆さん、今日は、神様がイエス・キリストをわたしたちにお遣わしになって、イエス・キリストがわたしたちの救い、贖いとなってくださったという信仰を新たにし、そして、人々に、その信仰をのべ伝えなければなりません。わたしたちの代わりに、主イエス・キリストが、わたしたちの贖いとなってくださいました。そのために人間となってくださったのであります。イエス・キリストこそ、わたしたちの救い主である。わたしたちがその信仰を受けて、その信仰を人々に言い表すことによって、わたしたちは神の子キリストとの交わりに招き入れられた者となるのであります。わたしたちにはできないと思わないでください。自分の信仰を、自分の言葉で言い表すようにいたしましょう。そういう機会が必ず与えられると思います。ですから、わたしは何をどういうふうに信じているかなということを、もう一度心の中で確かめるようにしてください。

 

===

第一朗読  イザヤ書 63:16b-17、19b、64:2b-7

主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ わたしたちの心をかたくなにして あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのためにあなたの嗣業である部族のために。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。

(あなたが)降られればあなたの御前に山々は揺れ動く。あなたを待つ者に計らってくださる方は神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も目に見た者もありません。喜んで正しいことを行いあなたの道に従って、あなたを心に留める者をあなたは迎えてくださいます。あなたは憤られましたわたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によってわたしたちはとこしえに救われます。わたしたちは皆、汚れた者となり正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになりわたしたちの悪は風のようにわたしたちを運び去った。あなたの御名を呼ぶ者はなくなり奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠しわたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工わたしたちは皆、あなたの御手の業。

 

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 1:3-9

(皆さん、)わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

 

福音朗読  マルコによる福音書 13:33-37

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 

 

2020年11月24日 (火)

悪の問題、その15:子どもは嘘をつかないか?(わたしの創造論)

悪について、その15

わたしの創造論――この世は本来的に善であるのか、悪であるのか。

 

アメリカの有名な精神療法の指導者ペック氏は著書のなかで次のように述べています。

 

この世は本来的に悪の世界であって、それが何らかの原因によって神秘的に善に「汚染」されていると考えるほうが、その逆の考え方をするより意味をないかもしれない。善の不可解性は、悪の不可解性よりもはるかに大きなものである。」(M・スコット・ペック、『平気でうそをつく人たち』、55㌻)

 

彼は言います。子どもは嘘をつかない、というが、子どもでも嘘をつくことはよく体験するとこところである。また物が腐敗することも至って常識的な体験である。(同書54-55㌻より。)

 

この世は本来的に善であるのか、悪であるのか?

キリスト教思想ではどちらが正しいのか?

「本来的に」とはどういう意味か。元来は、もともとは、という意味か。初めは、という意味か。

キリスト教では、神は天と地、すべてのものの造り主であり、その神は全能、全知で善であると信じられています。存在するものはすべて神の被造物であり、したがって善である神から出たものだから善でなければならない。それでは悪はどこか来たのか。

 

創世記の冒頭を引用します。

初めに、神は天地を創造された。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

(1・1-5)

 

 

従来の考え方

神は「極めて良い」世界を創造した。人間は神の似姿、神に似たものとして造られた。(創世記1・26、27

 

我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

 

神は人間に自由意志を与えた。最初の人間アダムとイブは自由意志を濫用し、神の命令にそむいて善悪を知る木から実をとって食べたために楽園から追放された。人と神との関係の破綻は男と女の関係の破綻、人間と自然との関係の破綻を招いた。

神の創造した世界は極めて良かったにも拘らず、人祖の不従順のゆえにこの世界に悪が侵入して来たのである。元来よかった世界が人間によって秩序の乱れた混乱の世界に堕落してしまったのである。神はこの世界を立て直し復旧するすためにおん子イエス・キリストを派遣した。キリストは十字架刑によって人間の罪の贖いを成し遂げ、さらに再臨によってすべての悪を滅ぼして創造を完成する。

 

しかし以下のように考えることも可能である。

 

すでにコラム「原罪」で次のように述べた。

神によって創造された完全な世界がまずあり、これが人祖の始原罪によって混乱に陥れられたが、救い主はこれを再び原初の完全状態に回復させる、という復元的・回帰的救済思想が支配している。だが聖書は本来完全な救いは未来のものとしてこれを待ち望むという直線的救済思想をとっている。救いは過去の完全状態の復興ではなく、未来において実現を約束されている全く新しいものとして、希望の対象である。この観点から「原罪の本質」をどう把握し提示し直すかも今後の「原罪神学」の重要な課題であろう。

(新カトリック大事典、原罪、宮川俊行)

 

人類の歴史は神の救済の歴史であり、救済の歴史は創造の歴史である。神は絶えず世界を新たに創造しつつある。創造とは悪を消滅させ、神の支配を浸透することである。悪の消滅と神の支配の浸透は主イエス・キリストの十字架と復活によって決定的な勝利が樹立されている。現在は教会とキリスト者がキリストの勝利を告げ知らせ行き渡らせる為の期間である。この勝利の結果が完全に浸透するためには聖霊の働きが必要である。聖霊は教会の内外で神の支配を行き渡らせるべく今もいつも働いており、主イエス・キリストの再臨の時に最終的な勝利が完成する。

 

創世記の冒頭を想起しよう。

 

神は闇と混沌の世界に光を灯す。この神の働きが創造である。創造とは闇に光を掲げることである。闇とは神の支配のまだ及んでいない世界である。

主イエスの働きを告げる福音書はすべて癒しを語る。癒しとは闇に光を灯すことである。罪とは闇である。神の秩序がまだ及んでいない世界を意味している。闇である罪の結果が死である。イエスは復活によって闇を打ち破り、死を滅ぼして神の命である永遠の命、復活の命をもたらした。聖書最後の巻物『ヨハネの黙示』25章の「新しい天と新しい地』とは神の創造の計画の完成図である。このときすべての被造物は新しい天と新しい地として刷新されるのである。(注2)

使徒パウロは言っている。

  現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れる 

  のを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるもので

  あり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる

  からです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでな

  く、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでい

  ます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを

  だれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ローマ818-25

 

 

(注1)子育て/子供の嘘については以下の「福田 由紀子の記事などを参照。)

間は嘘をつく生き物

嘘をついたり、秘密を持ったりするのは、子どもの正常な発達過程です

「うそつきは泥棒のはじまり」ということわざがあります。平然とうそをつくようになると、盗みも平気でするようになる。うそをつくことは悪の道への第一歩であるといった意味です。子どもの頃、「うそをつくと閻魔さまに舌を抜かれるぞ!」と脅された人も多いのではないかと思います。
このような戒めが定着しているのは「人間(子ども)は、よくうそをつく生き物」だからだ、と捉えることもできます。子どもにうそをつかれると、親はショックです。わが子に裏切られたように感じて腹が立つかもしれません。でも、見方を変えてみると、うそは子どもが順調に発達していることのあかしなのです。
嘘は成長のあかし

子どもがうそをつきはじめるのは、早い子で3歳くらいと言われています。多くは「自分を守るためのうそ」です。かっこ悪さをごまかしたり、叱られないためのうそ。また「大人の関心を引くためのうそ」もありますね。もっと自分を見てほしい、さみしい、甘えたい、という気持ちから出るうそです。こうしたうそをつくためには、自分の行動や状況を客観的に見て、善悪を判断し、うそが相手に与える影響を予測できなければなりません。
ただ、小さい頃の子どものうそはその場しのぎのものが多く、うしろめたさが仕草や行動に出やすいため、大人にはすぐにバレてしまいます。辻褄の合ったうそを一貫してつけるようになるのは、小学校の34年生くらいでしょうか。うそを巧みにつけるようになる前に、うそについて子どもと話し合っておくことが大切だと思います。
嘘の種類について考えてみましょう

私たちの生活を見回すと、たくさんのうそにあふれています。意図的なうそから、無意識なうそ、思い違いが結果的にうそになってしまうこともあります。「言わない」「隠す」といった、うそのつき方もあります。どこからどこまでを「うそ」とするかにもよりますが、全てのうそが悪いわけではないですよね。
「うそも方便」ということわざもありますし、作曲家のドビュッシーは「芸術とは、最も美しいうそのことである」という言葉を残しています。「うそから出たまこと」といったこともありますよね。ハッタリをかまし続けているうちに、自分の実力が追いついてきて、うそではなくなるといったことも多いものです。
「うそをつくのは悪いこと」だと問答無用で叱るのはおすすめできません。「お前はうそつきだ」とレッテルを貼ったり、厳しく叱りすぎるのも、うそを重ねさせることにつながるので厳禁です。うそをついたことの良し悪しは後回しにして、どのような結果を予測してついたうそなのか?という切り口で、まずは子どもと一緒に「うそをカテゴリー分け」してみるのはどうでしょうか。
嘘の種類を分析してみよう

どのような結果(メリット/デメリット)をもたらすと予測してついたうそなのかを、相手と自分を軸にした座標に当てはめるとどのようになるでしょうか。

どのような結果をもたらすと予測してうそをついたのかを考えてみよう

A)自分にも、うそをつく相手にもメリットをもたらすうそ(相手+自分+)
誰も傷つけないうそです。芸術やドラマ、お笑いのコントなど、この領域に入るものは多そうです。お互いにうそ(フィクション)だと分かっているからこそ、楽しめるといったものもありますよね。しかし、そのうそが結果的に第三者を傷つけることがなかったかという点には注意する必要がありますね。 相手を喜ばせたいと思ってつくうそもあります。相手のことを思って、見て見ぬフリをする、といったことも入るかもしれません。気が向かない誘いを、理由をこじつけて断ったりするのは、大人にもよくあることです。「うそも方便」と言われる種類のうそですね。子どもの場合、空想を語って大人の気を引いたりするうそや、大人をびっくりさせるための、たわいもないうそがこれにあたります。

B)相手のために、自分を犠牲にするうそ(相手+自分
相手が怖いために自分の気持ちを偽るうそ、相手の罪をかぶる、といったうそです。本当はNOを言いたいのに、言えずに相手に合わせて言う通りにする、というのも、このカテゴリーです。
子どもの場合は、友だちを守ろうとして「自分がやった」と言ううそや、虐待を受けている子どもが、親をかばおうとして「叩かれていない」とうその証言をしたりといったことがあてはまります。親に心配をかけまいとしてつくうそも、ここですね。
C
)相手も自分も傷つけるうそ(相手自分
自暴自棄になったときのうそです。相手も自分も傷つくと分かっていて「死んでやる!」と言ったり、子どもに「あんたなんか生まれてこなければよかったのに!」と言ったりするのはここに入りますね。子どもの場合は、お友だちに「○○ちゃんなんかキライ!」と言うようなことが入るでしょうか。後悔やうしろめたさを抱えるうそです。
自分を傷つけるB)C)のうそには、自分を大切に思えない、低い自己評価が根っこにありますので、うそをついたとガンガン責め立てるのは逆効果。うそをつかざるを得なかった気持ちに寄り添い、うそをつかなくて済む自分になることを援助しましょう。
D
)相手を傷つけて、自分を守るうそ(相手自分+)
自分の利益のために相手を利用したり、相手を陥れたりするうそです。ここに入るものが「うそつきは泥棒のはじまり」と戒められるうそではないでしょうか。合意だったと言い張るセクハラの加害者や、公約を守らない政治家、事実をねじまげて伝えるメディアなども、ここに入りますね。子どもの場合は「○○ちゃんのせいでこうなった」などと、自分の失敗を友だちになすりつけるといったうそなどが当てはまると思います。
こうしたうそが発覚したときは、保身のためのうそはダメだという一貫した態度を取ることが大切です。親の方はついカーッとなってしまいがちですが、冷静に伝える方が効果があります。

しかし、子どもが自分のミスを認められない背景には、強すぎる親の期待や、親に叱られることへの恐怖があることも少なくありませんので、親子関係を見直してみましょう。うそを認めた勇気を認めつつ、だれかを傷つけるうそはダメだと教えることが大切です。 

正直でいるためには勇気が必要です

「だますより、だまされる方がいい」と言う人がいます。しかし「正直者が馬鹿をみる」とも言われます。でも、本当は(だます/だまされる)の二者択一というのは極端で、「だましたくないし、だまされたくない」というのが、多くの人の本音だと思います。
人を信じるというのは尊いことです。「信じてくれている」ということが、勇気を与え、人を強くします。しかし、人からの信用を悪用する人は「だまされる方が悪い」と主張するのが常。また、私たち大人は人を信じることの大切さを教えながら、「悪い大人にだまされないように」と、見知らぬ大人を疑うことを子どもに教えています。子どもは混乱するでしょうね。
しかし、現実問題として、世の中にはうそがあふれています。自分や相手に正直であることはとても大切ですが、相手のうそを見抜くためには、うそをついた経験がないと難しいのではないでしょうか。
子どもは誰でも成長の過程で、秘密を持つことを覚え、うそをつきます。ですから「うそをついて、叱られる」ことにより、うそがどんな結果をもたらしたのかを振り返り、うそが自分や相手に与える影響について子ども自身が考える機会にしたいものです。うそをついてばかりいると肝心なときに信じてもらえなくなることや、うそをついたときの嫌な気持ちなどに気付けるよう手助けできるといいですね。
うそをつかない(つけない)子どもに育てようとするより、うそをつこうとした時に「うしろめたさ」や「罪悪感」を感じて、うそをつかない勇気を持てる子どもに育てていきましょう。そのためには、親自身が自分の気持ちをごまかしたりせず、うそのない誠実な態度を見せることも必要ですね。子どもはよく見ていますから。
うそをつくことはできる。でも、自分にも他人にもうそをつかない人生の方がシンプルで快適なものだということを、うそをつく経験を通して学んでいけるよう、関わっていきましょう。
(注2)

神は光です。

わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。

わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。

しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

(一ヨハネ15-10

光の子として歩みなさい。

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ58) あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。(一テサロ55)

わたしの「創造論」

ダウンロード - e682aae381abe381a4e38184e381a6e38080e3828fe3819fe38197e381aee3808ce589b5e980a0e8ab96e3808d.docx

 

病気について(再)

悪について、その12、「病気」について

 

人が免れない問題の中に「病気」ということがあります。仏教では四苦八苦ということを言いまして、四苦の中に、生病老死があげられ、病気がすべて生きとし生ける者の苦しみであると言われているわけです。

カトリック教会は毎年211日を「世界病者の日」と定め、病者とその家族、医療関係者のためミサと祈りをささげております。いまあらためてその時の説教を読み直してみると、結局、自分が病気について思うことで大切なことは、この中で述べられていることに尽きるように思います。説教二点を添付しますのでどうか閲覧ください。(1)

なお、病気について『カトリック教会の教え』は次のように述べています。

 

一般的に、「病気」とは各人が主観的に異常や違和感を覚えることや、それによる本人の痛みや苦しみの経験を表現します。そして、医師による診断の結果、病名がつけられて客観的に疾患が確認されます。・・・)(337㌻)

 

ここでは以下に、説教で述べられている内容の神学的な解説を試みます。

まず論点を挙げます。

1)イエスを「癒しの人」と言ってよいのか。(キリスト論から)

2)病気は何処から来たのか。(原罪論から)

3)「癒し」はどのように完成するか。(終末論から)

 

1)イエス、「癒しの人」

イエスは「癒しの人」であるのか。

四福音書を読んですぐに気の付くことは、イエスが多くの人を癒し、悪霊を追放しているということです。イエスはその生涯で何をしたかと言えば、人を救うという使命を遂行した、と言えるでしょう。人を救うということの中にはもちろん、罪の赦しと贖い、罪からの解放ということが最も重要ですが、どうじに病気・障がい、疾患で苦しむ死を癒し、悪霊から人々を解放したということが非常に大切なこととして含まれています。救いと解放とは、心身の人間の贖いであります。霊魂だけを救うということないし、肉体だけをすくうということもなかったはずです。

とりあえずマルコ福音書を見ていきましょう。

イエスは40日間の誘惑に打ち勝ってガリラヤで神の国の福音を宣べ伝え始められました。

―まずイエスは、カファナウムで汚れた霊に憑りつかれた男を癒しました。(マルコ121-28)

―イエスはシモンの姑の熱を鎮め、多くの病人を癒し多くの悪霊を追放しました。(マルコ129-34)29-34)

―イエスはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出しました。(マルコ139)

イエスは重い皮膚病を患っている人を癒します。(マルコ140-45)

―イエス、中風の人を癒す。(マルコ21-12)

(イエスは中風の人を癒したがその前に「子よ、あなたの罪は赦される」と言ったので律法学者を躓かせ、冒瀆罪に問われる原因をつくった。)

―手の萎えた人を癒す。(アルコ31-6)

(その日は安息日であったのでファリサイ派トヘロデ派はイエスを殺す相談を始めている。)

―悪霊に憑りつかれたゲラサの人を癒す。(マルコ51-20)

―ヤイロの娘と出血症の女を癒す。(マルコ521-43)

―ゲネサレトで病人を癒す。(マルコ650-56)

―シリヤ・フェニキアの女の娘から悪霊を追い出す。(マルコ724-30)

―耳が聞こえず舌が回らない人を癒す。(マルコ731-37)

―ベトサイダで盲人を癒す。(マルコ822-22)

―汚れた霊に憑りつかれた子を癒す。(マウコ914-29)

―盲人バルテマイを癒す。(マルコ10・46-52)

如何に以上で見たように多くの部分が癒しの記述に使われているかが分かります。マルコだけではなくマタイ、マルコについても同様のことが言えるでしょう。

病気や障害とは本来あるべきでないのです。神の国が到来すれば一切の病苦は消滅します。イエスが癒されたのは地上のごく少数の人々でした。彼らはやがって死を迎えたことでしょう。イエスの癒しは神の国がある、ということを示すしるしでありました。このしるしが永遠の命として結実するためには、主の復活と主の再臨を待たなければなりません。

イエスは癒す人であり、永遠の命を齎す人、であり、復活の命に人々を与らせる人であります。(2)

 

2)病気は何処から来たのか。(原罪論)

創世記1章によれば、神は人間を神にかたどり神に似た者として創造され、それを「極めて良い」とご覧になられました。しかし現実にこの世界には種々の悪が存在します。病気も悪の人です。病気は何処から入ってきたのでしょうか。教会はどのように説明しているでしょうか。

カトリック教会によれば、その原因は人間の「原罪」にあるとしています。悪の原因は神には在りません。人間の不信仰と不従順が病気を含む悪の原因であるとしています。創世記第3章によれば、最初の人間アダムとエバは神への信頼を失い、禁じられた、善悪を知る木の実を食べ、不信仰と不従順に陥り、神との親しさを失いました。この神との親しさを失っている状態が後に「原罪」と呼ばれるようになりました。

『カトリック教会のカテキズム』では次のように述べられています。

 

原罪とは原初の義と聖性の欠如です。最初の人間アダムとエバは神との正しい関係にあり、神の本性である聖性に参与していました。しかし神に背いたためにその義と聖性を失い、人間の本性は大きな傷を受け、無知と苦と死と罪への傾き(欲望)の支配を受けるようになり、この本性の傷はすべての人間に生殖とともに伝えられています。

(『カトリック教会のカテキズム』122-121㌻参照。原罪については後程あらためて取り上げます。)

 

それでは他の教会では「病気」をどう説明しているでしょうか。東方正教会の見解を最近が出版された『病の神学』(ジョン=クロード・ラルシュ著、二階宗人訳、教友社)によって分かち合いましょう。

 

神が「見えるものと見えないものすべての創造主(コロ116参照)です。しかしもろもろの病気や苦痛、そして死の造り主であると考えることはできない。教父たちはそのことを明言している。聖バシレイオスは、その説教「神は災いの原因ではない」のなかで述べている。「神がわれわれの災いの造り主だと信じるのは正気の沙汰ではありません。こうした冒瀆は〔……〕神の善性を損なうものです。・・・・(15㌻)

ニュッサの聖グレゴリオスは次のように答えている。「人間の命の現状がもつ不条理な性格は、〔神の像と結びついた〕善き事柄を人間が一度ももちあわせなかったことを立証するものではありません。〔・・・・・〕われわれの現在の条件と、そしてもっとうらやむに足る状態を奪った喪失には、他に原因があるのです。」(15-16)

『創世記』は、神の創造はその始原において完全に善きものであったことを明らかにしています。(創・31)

聖マクシモスは言っています。「神からその存在を与えられた最初の人間は、罪と腐敗を免れて生まれました。〔…・・〕。なぜなら罪も腐敗も、彼とともに創造されることはなかったからです。」(17)

多くの教父は、神は死を創造しなかったこと、始原における人間の本性は腐敗を免れていた、ということ、したがって人間の本性は不死であった、と教えています。しかし教父たち間にはこの点について微妙な相違が見いだされます。聖アウグスチヌスは、人間はその身体の本性において死すべきものであった、と述べ、アレクサンドリアのアタナシスも、原初の人間の本性は腐敗すべきものであった、と言明しています。

この不整合をどう説明できるか。

原初の人間は不死で腐敗しない存在であったのか、あるいは死すべきもの、腐敗すべきものであったのか。

そこで結論はどうなるのか。次のように説明されます。原初の人間とはどの段階の人間か。

   主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記27)

 

神が地の塵から神は土の塵(アダマ)から人(アダム)を形づくったとき、その最初の状態では、人間は死すべきものでした。神は人の鼻に命の息を吹き込みました。その時点で人は生きるものとなり、不死の命を生きるものとなったのです。聖アタナシオスは言っています。「人間は腐敗する本性を持っていたのですが、言への参画という恵〔によって〕「その本性をしばる条件を免れる」ことができ、「現存する言のゆえに、本性の腐敗が彼らに及ぶことがなかったのです。」

この恵みによってアダムは、いまわたしたちが置かれている人間的条件とは大幅に異なる状態に置かれていたのであり、この状態を聖書は「楽園」と呼んでいるのです。楽園における人間は天使の状態に近く、アダムは物質性や有形性を持つ者でなかった、と聖マクシモスは考えます。アダムの体はパウロが述べているような復活した体のようだったと考えるようです。

腐敗することなく死ぬことのない状態に想像された人間は神の恵みの中にとどまる限り死ぬこともなく腐敗することもありませんでした。神の恵みのうちに留まるためには、人間は与えられた自由意志を用いて、自分から神の掟を守らなければなりませんでした。

しかし神の命令に背いたために神の命という恵を喪失したのです。ではどういうべきでしょうか。

罪の落ちる前の原初の人間は、実のところ、死すべきものではなく、不死でもなかったのです。どちらになるかは、人間の自由な判断と選択にかかっている状態に置かれていたのでした。

したがって教父によれば、人間の個人意思のうちに、自由意志の誤った使い方により、あるいは楽園で犯した罪によって、人類に、病気、心身の障がい、苦痛、腐敗、死が入ってきたのです。病気などの悪淵源は父祖の罪によるのです。自ら神のようになろうとしたことによってアダムとエバは神の特別な恵みを失い、塵から造られたもともとの人間の状態に戻されたのでした。

「アダムが人類の本性の「根源」をなし、その原型であって、また第一に全人類を包摂するゆえに、彼はその状態を子孫全体に移転する。こうして死や腐敗、病気、苦痛が人類全体の定めとなる。」(同書、28ページ)

人と人とのつながりの乱れ、男女関係の葛藤、そしてアダムと自然との親和性は失われ、土は人間にとって呪われたものなり、土は茨とあざみの生える不毛の地となり、さらに、自然と人間との調和も失われました。

  神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなっ 

  た。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔 

  に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記317-18)

 

アダムとイブの罪の結果はすべての人類に及ぶだけでなく、すべての被造物に及びました。全被造物は腐敗へ隷属するとされてしまったのです。パウロはローマ書で言っています。

 

  被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持ってい 

  ます。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今

  日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ローマ8・20-22)

 

さて、それでは人間は自分たちの病気に責任があるのだろうか。

人間が原初の恵みを失ったのは、アダムの罪によるのであり、自分の罪によるのではありません。アダムの違反により人間の本性は弱くも脆いものに変えられました。といっても個人の罪はアダムが犯した罪ではありません。人は自分で自分の罪を犯します。

 

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。(512-14)

 

病気にかかるとはいわば「免疫」がないので病原菌を撃退できないからです。アダムの違反は人類に、病気にかかりやすい弱さを伝えました。同時に罪への抵抗力も弱くなるというマイナス効果をもたらしました。だからと言って人は自分の罪の責任をアダムの押し付けることはできません。人は自分の罪の結果を負わなければならないのです。キュロスのテオドレトスは「各人がみな死の支配に服するのは、祖先の罪によってではなく、各人自身の罪によるのです。」(同書、31) こうして、テオドレトスは、アダムの根源的な責任と人間への堕落した人間本性の継承性を否定

せずに、継承性に冒された罪あるすべての人間の共同責任を主張しています。

それではいかにしてアダムによってもたらされた人間本性の恵みの喪失の回復と治癒は可能になるのでしょうか。それは受肉した神の言(ことば)によってできるのです。

  一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一

 人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、 

    一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです一

人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたよう に、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が  増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わ  たしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(ローマ517-21)

 

アダムによって変質した人間の本性は、キリストにおいて復元され、楽園で享受するすべての特権を取り戻します。キリストは贖い=罪からの解放を通して、悪と悪魔の支配から人間を解放し、死と腐敗に打ち勝ちました。キリストは復活によって悪と罪を打ち滅ぼし、人間の本性を癒し、宇宙万物を治癒し、刷新します。

 

そのために神は人間がキリストに自由に同意し協力するよう求めています。

キリストは人間本性を再生しいわば神化してくださいます。そのためには人間の側の信仰と自己放棄、悪との闘い、自己獣化のためも努力が必要なのです。キリストは不死と非腐敗性を勝ち取ったがその成果を人が自由に受け取るように望んでいます。そのために地上においては、いまだ罪、悪霊の仕業、肉体の死をキリストは取り除いてはいないのです。すべての悪が消滅するのはキリストの再臨の時です。その時こそ、「義の宿る新しい天と新しい地」(ニペトロ313)が出現するのです。

聖人自身もまた、身体の痛みや病魔、そして最終的には、生物としての死を免れません。この事実は、身体の健康と霊魂の健康には必然的な関係がないこと、また病気・苦痛がその人の罪に起因するものではないことを示しています。

 

時に聖人は他の誰よりも病気の苦しみに出会います。

それは聖人本人だけでなく周りの人々の霊的成長を望む神の摂理の表れであり、聖人自身の聖徳への試練のためである、などの理由が挙げられます。

さらに考えられるのは、悪霊の働きで有ります。ヨブ記が示していますが、神は悪魔が人を試練に合わせることをおゆるしになります。しかし神は人が絶えられない以上の試練を課すことはないのです。(一コリ1013)

 

健康は健康な人に善をもたらさなければ健康が良いとは言えない。また病気から得られる善きことを喜んでいる多くの霊的な人もいることは事実である。

病気のおかげで人間は自分の脆弱性、欠陥、依存性、限界を自覚する。自分が塵であることを思い起こさせ、思い上がりを正し、人を謙虚に導く。病気は現世に対する執着を無くさせ、地上の虚しさを悟らせ、天井の世界への思いを強くさせ、心を神へと向けさせる。

病気は神が人間を罪から清めるために送ってくださる、霊的浄化の機会である。

病気とその苦しみは人間が神の国に入るために通らなければならない試練の一部であり、キリストの弟子として負うべき十字架である。

聖ヨハネ・クリュソストムスは言っている。「神は我々を苦しめれば苦しめるほど、われわれを完璧にするのです。」(同書、60㌻)

病気は忍耐という徳を学ぶ機会となる。病気は謙虚に源泉となる。

使徒パウロは言っている。「わたしは弱いときこそ強い。」(ニコリ1210

「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(ニコリ51)

病魔に直面するものは何よりも忍耐を示さなければならない。悪魔の誘惑は、落胆、悲嘆、無力感、怒り、苛立ち、失望、反抗といった思いを魂に滑り込ませる。

(ルカ2119、へブ1036、詩392、マタイ1022、ロマ1212

 

病者にとって祈りは特に大切です。祈りによって必要な助けと自分を豊かにする霊的な贈り物を頂くことができる。

病床における祈りは願い事にとどまらず、感謝の祈りでなければならない。病気は神の栄光をたたえる機会となり、神の子が人類を癒し救うために遣わされたことを感謝する機会となる。

 

病気の時にとるべき心構えで最高位に置かれるのは忍耐すること、そして感謝することである。

 

治癒の方途

次いで第三章でキリスト教的な治癒の方途を述べています。ここでは項目を挙げるに留めます。

―キリストは真の医者である。

―聖人は神の名によって癒しを行いました。

―治癒のために最も重要な手段は祈りです。

   あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

   (ヤコブ513-16)

   出血症の女へ向かってイエスが言ったことば。「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ922、他に、マタイ1528、マルコ534、マルコ1052、ルカ75084817191842

院人のための祈りが推奨される。

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ1819-20)

 

聖母や聖人の執り成しの祈りが大切である。

さらに以下の項目が東方正教会では行われています。

塗油と祈り

聖水の注ぎ

十字架のしるし

祓魔式(ふつましき)(悪魔祓い)

通常の世俗医療

最大主義

  キリストが唯一の医者であることを理由に世俗の医術に頼ることを拒否する立場。

神に帰することで正当化される世俗的医療の霊的な理解

治癒は神がもたらすという信仰

医学には限界があるということ

魂の治療に意を用いるべきこと

身体の治癒は人間全体の霊的治癒を象徴し告げる

魂の病気は身体より重大である

肉体の健康は相対的な価値しか持たない

将来の非腐敗性と不死性の約束

 これは《3)「癒し」はどのようにして完成するか》で改めて論じることにします。

 

3)「癒し」はどのように完成するのか。(終末論)

 

実際、わたしたちの身体が全面的に霊的な存在、いわば復活の体に変えられるのは地上の旅を終わる時であります。パウロは次のように教えている通りです。

 

     しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いもので

    も、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体も あるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。わたした ちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死 よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利 を賜る神に、感謝しよう。

(一コリント15・351542,1549-5015/52-57)

  

パウロは何を言っているのか。

まず、これは終末の出来事で個人の死の時の出来事ではないようです。しかし、死というものは時間と空間の支配の外にでることでしょうから、このパウロの記述が準用されてもよいと考えます。「体の復活を信じます」と使徒信条で唱えます。体の復活はいつ起こるのか。人は死んでから眠りにつき、世の終わりに眠りから覚めて、体を頂いて、復活するのでしょうか。それても時間・空間のない世界で受け入れられすぐに体の復活を体験するのでしょうか。

さて死んだらわたしたちの体はどうなるのか。地上の体は火葬場では骨と灰になってしまします。わたしたちは遺骨を骨壺に入れて恭しく持ち帰り、何日か警戒してから遺骨を埋葬します。人間の目に見えるのはそのような現象です。しかしパウロは言っています。

 

地上では朽ちる体ですが、復活の体は朽ちない体です。

地上では卑しい体ですが、復活の体は輝かしい体です。

地上では弱い体ですが、復活の体は力強い体です。

地上では自然の命の体ですが、復活の体は霊の体です。

最初の人アダムは神から命を受けましたが最後のアダムであるキリストは命を与える霊となりました。

人は土から出来た人の似姿ですが、復活の時には天に属する人キリストの似姿となるのです。

血と肉は朽ちるものであり、朽ちないものを受け継ぐことはできません。最後の時死者は復活して朽ちないものとされます。

わたしたちは変えられ、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着ることになります。

かくてこの時死は克服されます。死は罪の欠陥、罪は律法によります。かくてわたしたちは、律法の力の支配に打ち勝ち、罪を克服し、罪の結果である死への勝利に招き入れられます。

 

ここで言われていることを整理しましょう。

人は死を経て復活の体に変えられます。復活の体は同じ自分の体ですが、不死の体、非腐敗の体、病気から解放された完全に健康な体、復活したキリストの体のように霊的な体です。キリスト教の救いは霊魂と肉体の贖いであり救いであります。体だけの救いん、あるいは霊魂のだけの救いを前提としてはいません。人間全体の救いです。

 

この項目を閉じるにわたり筆者岡田の見解を短く述べることにします。すでに述べたように、『世界病者の日』の説教で牧者としての見解を注においてお伝えしました。そしてさらに、説教で述べられている内容の神学的な解説を試みました。論点を次の一点に絞りました。

 

病気は何処から来たのか。(原罪論から)

 

ここで自分自身の意見を簡単に添付します。

イエスが実に癒しの人であったという点においてカトリックと東方正教会の教えの違いには大きいものはありません。

病気の起源についてです。カトリック教会の場合は、人は自分の罪の有無に関係なく死を経験しますが、東方正教会の場合はアダムの罪の影響はあるにせよ、自分の罪によって死ぬことになるのです。

カトリック教会と東方正教会の教えのどこが違うのでしょうか。カトリックは「原罪」という教義で死と病気を説明しています。不死性と非腐敗性の喪失は、アダムの罪が生殖によって子孫に伝えられることによるのだ、と言っています。東方正教会では、アダムの罪の影響を否定しないまま、人は自分の罪によって不死性と非腐敗性を失った、と言っています。(この点をさらに確認する必要があり。)両者とも創世記の1章、2章の教えを根拠に論じています。問題は現代において創世記をどう読み解くのかであります。進化論がとビッグバンという仮説がほぼ一般化しつつある現代、創世記の解釈も「非神話化」する必要があります。とくに二章は重要です。神が息を吹き入れた時に人は生きるものとなったわけですが、それが文字通り起こったと考えなくともよいと思います。ここでわたくしは「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物学の仮説を想起します。(3) 創世記三章に出ている物語は一種の寓話です。神話的な物語に託して人類の各人に普遍的に起こる神からの働きかけを述べていると考えます。人間の肉体は塵にすぎません。しかし人間は「万物の霊長」です。神の霊を受けています。人は生をうけたときに神の霊を受けるべき状態に置かれています。カトリック教会は幼児洗礼という慣行を維持していますが、それは、目に見えない神の霊が生まれたばかりの幼児に働いており、幼児は神の霊をなんらかの形で受け取ることができる、と信じています。それは科学的には証明できないでしょう。レントゲン写真、あるいはCTで検査しても何のデーターの得られないことでしょう。しかし、人は誰でも神の霊の働きにもとにあります。地上の現実は神の霊を受け入れるには困難な状況にあります。「世の罪」が蔓延しており、人はなかなかの声に耳を傾けません。もし出生の最初に神の霊に満たされれば、悪の力を撃退する可能性に恵まれます。多くの人はいわば悪の病原菌への免疫がない状態に置かれています。それがカトリック教会が言うところに「原初の聖と義」のない状態である原罪であります。西方教会では、原罪という言葉が聖アウグスチヌスにはじまるようですが、東方教会では人祖が神の背いた結果、死ぬことも、死なないこともできる状態に陥ったと考えます。堕罪の前は死ぬこともなく病むこともない楽園にいたが、堕罪の後は楽園から追放されて、死ぬことも腐敗に落ちることもある状態になりました。しかし現実に人が死にあるいは腐敗するのはその人の罪の結果です。「人は自分の罪によって死ぬのです」がが東方正教会の立場です。カトリック教会では、聖母マリアだけは原罪の汚れから免れたと考えます。人は世の罪の攻撃に対して無防備であり撃退する体力がなく免疫もできていないと考えます。キリスト教信者の霊的生活とは、霊の導きに従うことにほかなりません。『病の神学』はその視点から非常に有益な勧めを与えてくれます。

 

(注1)

2015年世界病者の日・説教

2015年211

 

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ531-5,10-11

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。

主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように

この人は主の前に育った。見るべき面影はなく

輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって

わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見

それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

彼らの罪を自ら負った。

第二朗読 ヤコブ513-16

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。

だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

福音朗読 マルコ129-34

そのとき イエスは会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 

===

説教

 

今日は「世界病者の日」です。カトリック教会ではルルドの聖母の日であり、聖ヨハネ・パウロ二世はこの日を「世界病者の日」と定められました。

病気は誰にとっても大きな苦悩の原因です。

わたしたちの救い主イエス・キリストは実に「癒すかた」でした。きょうの福音はイエスが宣教活動の初めの頃のある一日、カファルナウムで行った、神の国の到来を告げ知らせる働きを、簡潔に述べています。

イエスの宣教には病人の癒しと悪霊の追放を伴うのが常でした。会堂で悪霊を追い出したイエスは、その後シモンとアンデレの家に行き、シモンの姑が熱を出していると告げられと、すぐに姑のところに行って彼女を癒しました。

彼女の手を取り、彼女を起こします。ここに、イエスの悪に打ち勝つ力があらわれています。

「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(マルコ134)とマルコは述べます。

イエスは病気の苦しみを担う人や体の不自由な人に深い関心を寄せ、深い共感を持っていました。イエスは言われました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ217

イエスが罪人に対して取った態度は、病人や体の不自由な人に対して取った態度に重なります。病人や体の不自由な人を優先させることがイエスの基本的な生き方でした。イエスは安息日のおきてを破るという非難を覚悟した上で、手の萎えた人を癒し、律法学者やファリサイ派の人々を敵に回してしまいました。(マルコ31-6) 

教会はこのイエスの癒しの働きと使命を受け継いでいます。復活したイエスは弟子たちに言われました。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ1616-18)

7つの秘跡の一つの病者の塗油も、教会がキリストから受け継いだ癒しの働きです。今日の第二朗読は病者の塗油の、秘跡の制定の根拠とされる箇所です。

「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ514-15

イエス・キリストが宣教活動で何をしたかといえば次の事柄にまとめられます。

「神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出し、

ご受難において人々の苦しみ悲しむ病を背負い、

人々の贖いを成し遂げ、死を滅ぼして復活の世界に入られた。」

今日の第一朗読は、イザヤ53章の主の僕の歌です。ここで「彼が担ったのはわたしたちの病」といわれています。

この主の僕は主イエスの前触れです。イエスはわたしたちの病と罪を背負って十字架にかかられたのでした。わたしたちも兄弟姉妹の苦しみと病に寄り添い担うよう招かれています。わたしたちは自分自身から出て、病気で苦しむ兄弟姉妹のもとに赴き、寄り添いながらともに苦しみを担うようでありたいと思います。

わたしたちは、忙しさに追われているために、・・・自分自身を無償で差し出すこと、人の世話をすること、自分は他者に対して責任があることを忘れがちです。(これは今年の「世界病者の日」の教皇メッセージで教皇様が言っておられることです。(教皇メッセージ、4を参照)

神はすべての人の健康を望んでおられます。健康は神の救いの恵みであり、神の霊の賜物です。聖書の言う「平和(シャローム)」は完全な健康を意味していると思います。

人間が平和で満たされる時、それは創造の完成の状態です。それは神の霊=聖霊による癒しと贖いを受けた状態です。

わたしたちはキリストの再臨により、わたしたちは完全にすべての悪から(罪、病気などから)解放され、キリストの復活の体に与ります。そのときが、霊的にも聖霊による平和に満たされた健康に与るときであると考えます。  

すべての人の救いと健康のために祈りましょう。

 

世界病者の日ミサ説教

2017年211

第一朗読  創世記31-19
福音朗読  ヨハネ91-12

(福音本文)

[そのとき]エスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。
本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 

===

説教

 

みなさん、今日は211日、ルルドの聖母の祝日となっています。  
1858
211日、スペインとフランスの国境に近い、フランス側のルルドという所で、少女ベルナデッタに、聖母マリアがお現れになった日であると、カトリック教会が認めております。  
ベルナデッタという少女、良い教育を受けることができなかったので、ラテン語はおろか、フランス語もきちんと話すことのできない少女であったそうです。  
そのベルナデッタに、「わたしは無原罪の御宿りである」と、現れた貴婦人が名乗ったという出来事を、カトリック教会は公式に認めて、ルルドは、世界で最も有名で大切な聖所となりました。  

さて、この211日を、聖ヨハネ・パウロ二世は、「世界病者の日」と定めました。  
ヨハネ・パウロ2世ご自身は、即位されたときは、まだ50代と、大変健康で元気な方であったと思いますが、その後、パーキンソン病という難病にかかられ、晩年は、大変お苦しみになりました。  
そのヨハネ・パウロ二世が、「世界病者の日」を定めたということは、大変意味深いことではないかと思います。  

いま、読まれました福音は、ヨハネの9章、生まれながらに目の見えない人の話です。  
イエスは、その人の目を開いてあげました。問題は、どうしてその人は、生まれながらに目の見えないという、難しい問題を負わされていたのかということです。わたしたちは、ほとんど誰しも、生まれつき決められている、いろいろな、「欲しくない、思わしくない条件」というものがあります。少なくとも、本人は、「このようなことは嫌だ」と思うことがある。  
今日の福音の箇所では、どうして生まれながらに目の見えないのかということが話しの中心になっています。  
当時、「その人本人が罪を犯したのか」、「生まれる前に罪を犯すということは、よくわからない」、あるいは、「両親が罪を犯して、その報いが子どもに伝わったのか」等々といった具合にいろいろな考えや議論がありました。  
しかし、イエスの答えは、いまお聞きになった通り、「神の業がこの人に現れるためである」と述べるだけです。どうして、そのようになったのか。原因や理由は言われませんでした。「神の業が現れる」。別の言い方をすれば、「神の栄光が現れるため」ということではないでしょうか。  
生まれつき目が見えないということは、「視覚障害」という言葉で言い表すことができるでしょう。しかし、障害とは別に、わたしたちには、さまざまな「疾病」という問題があります。「健康とは何か」というと、大変難しい議論になるようです。  
考えてみれば、全く問題なく、健康な人というのは、そういるものではない。同じ人でも、長い生涯の間に、何かの困難や問題を背負うことになります。  
仏教では、人生の困難を「生病老死(しょうびょうろうし)」と、4つの言葉にまとめているようですが、病気の「病(びょう)」です。  
「生きる」ということは、誰しも、「病気にかかる」、あるいは、「心身の不自由を耐え忍ばなければならない状態になる」ということを、意味しております。人間は、どうしてそのようになるのか。  

「神様がこの世界を造り、人間をお造りになったこと」について、創世記が伝えておりますが、神がお造りになった世界は良かった。極めて良かった。まさに、極めつきで良いと、創世記1章が告げている。  
それなのに、どうしてこのような、さまざまな問題があるのか。この問いは、多くの人を悩ませてきました。戦争は、殺戮、そのような社会的な問題だけではなく、ひとりひとりの人間にとっても、多くの困難をもたらします。そのような状況の中で、カトリック教会は、原罪という言葉で、いろいろな問題を説明しようとしてきました。  

12月8日は、「無原罪の聖マリアの日」、昔、「無原罪の御宿りの日」といったように思いますが、「聖母は原罪を免れていた」という教えを、深く味わう日です。そして、今日は、無原罪の聖母が、ルルドにお現れになったことを記念する日です。  

さて、人間には、「弱さ、もろさ」という問題とともに、「罪」という問題があります。「罪」と「弱さ」は別のことで、弱いこと自体が罪ではありませんが、逆に、元気で健康であっても、分かっていて、「神のみ心に背く」、あるいは、「神のみ心を行わない」ということがあります。そちらの方が、「罪」といわれます。  
わたしたちは、多少とも、罪を犯すものでありますが、更に考えてみれば、人間の「もろさ、弱さ」というものを、痛切に感じないわけにはいきません。この人間の問題は、どのような言葉で言い表したらよいのでしょうか。  

今日の第一朗読は、創世記の3章でしたが、こちらから、いろいろな教会の先人が、原罪の教えを展開しております。「神と人間の間に生じた不調和」、平和が失われた状態は、更に、「人と人との間の不調和」、そして、「人と被造物、この自然界との不調和」へと発展し、更に、ひとりひとりの人が自分自身の中に、「調和が失われている」、あるいは、「調和にひびが入っている」と感じるようになる原因となったと、カトリック教会は説明しています。  

今日、211日、ここに集うわたしたちは、主イエス・キリストによって、わたしたちが贖われていることを、その贖いの恵みが、わたしたちの生涯の中に働いていることを、そして、生涯の旅路の終わりに、その贖いの完成に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
わたしたちは、「罪」からの贖いだけではなく、わたしたち自身の、生まれながらに背負わされている、そのいろいろな問題からの解放、そして、完全な解放に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
それは、言い換えれば、イエス・キリストが、わたしたちの罪を背負って、十字架にかかってくださり、そして、復活された。その、イエスの復活の恵みに与ることを意味している訳です。  
わたしたちが背負っている、人間としての「弱さ、罪」、神の完全な解放への「信仰と希望」。それは、主イエス・キリストの復活の恵みに与ることができるという「信仰と希望」と結びついていると言えるのです。  

弱い私たち、そして、同じ罪を繰り返してしまうわたしたちでありますが、そのようなわたしたちを、温かく包み、癒し、贖ってくださる、主イエス・キリストへの信頼を深めて、今日のミサをお献げいたしましょう。

 

(注2) 「健康」の定義と言えば、世界保健機構の定義がよく知られています。

従来、WHO(世界保健機関)はその憲章前文のなかで、「健康」を「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」

"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."

と定義してきた。(昭和26年官報掲載の訳)

平成10年のWHO執行理事会(総会の下部機関)において、

"Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."

と改める(下線部追加)ことが議論された。最終的に投票となり、その結果、賛成22、反対0、棄権8で総会の議題とすることが採択された。しかしその後改正案は最終的に採択されるには至っていません。

 

(注3)生物学用語。受精卵または単為発生卵、あるいは無性的に生じた芽体、芽や胞子など未分化な細胞もしくは細胞集団から、種の一員としての生殖可能な個体が生ずることをいう。一方、これと対(つい)をなす概念に系統発生があり、生物の進化の道筋で、ある生物種が生じ系統として確立する過程をさす。個体発生は、細胞分裂により一定の数に達した細胞集団が、一定の秩序と広がりをもって配置され、同時にそれぞれの位置に応じた機能を果たすように分化することにより、独立した1個の生物体となる過程をいう。受精卵から出発した場合、この過程は胚(はい)発生の過程と、これが成長・成熟して生殖能力をもつに至る過程とに分けられる。無脊椎(むせきつい)動物では、後者は後胚発生とよばれ、1回以上の変態を経たのち成体となる。多くの脊椎動物では身体の成長と諸機能の成熟をまって成体となる。「個体発生は系統発生を繰り返す」というドイツの動物学者EH・ヘッケルの考え方は大筋において正しく、胚発生のある時期に、その種より系統的に古い種の形態的特徴が認められる。

2020年11月22日 (日)

裁きを受ける

王であるキリスト20201122

 

今日は、「王であるキリスト」の祭日です。主イエス・キリストは、その人類の歴史の最後の日、王として、わたしたちに対して最後の審判を行う、という教えが、今日語られています。
わたしたちは、それぞれ、自分の生涯の行いについて、王であるキリストから、裁きを受けなければなりません。その裁きの基準というのは何であるかと言いますと、4度も同じことが繰り返し言われています。「困っている人を助けたかどうか」という、愛の行い、慈しみの業が裁きの基準になっています。
「飢えている人に食べものを与える」、「渇いている人に飲みものを与える」、「着るものがない人に衣服を与える」、「病者を訪問する」、「寝るところがない人に宿をお貸しする」、「牢(ろう)につながれている人を訪問する」。この6つの善い行いをしたかどうかということが、最後の審判のときの裁きの基準になります。

フランシスコ教皇様は、いつくしみの特別聖年という特別な期間を設けられて、「わたしたちの神様は、いつくしみ深いかたですから、「たしたちも、主イエス・キリストに倣い、いつくしみ深い者でありなさい」とお教えになりました。そして、「いつくしみ深い行いとは何であるか」ということを、具体的にお話しになりました。
そのいつくしみのみわざには、7カ条ありました。もっとも、正確に言うと、14カ条になりますが、14をふたつに分けて7つずつ、身体で行う善いわざ、精神で行う善いわざとに分けました。身体で行う善いわざは、いま申し上げた6カ条と、7つ目に「死者を埋葬する」ことが加えられています。

そして、精神的ないつくしみのわざは、次の7カ条です。
「疑いを抱いている人に助言すること。」
「無知な人に教えること。」
「罪人を戒めること。」
「悲しんでいる人を慰めること。」
「人から侮辱されたときにゆるすこと。」
「煩わしい人を忍耐強く耐え忍ぶこと。」
「生者と死者のために祈ること。」 このようになっています。

「この14カ条を実行してください」と教皇様が言われたのです。

神様が、わたしたちにお望みになっていること、それは、いつくしみ深い者であるということです。そして、いつくしみ深い者であるかどうかということは、人間、心と体から成り立っているものでして、心と体は、はっきりと分けることができませんが、「心と体の両方を使って、毎日、いつくしみ深い者であるように努めなさい」という教えです。

最後の日、人類の歴史で言えば、主イエス・キリストの再臨の日、個人の歴史で言えば、人生の最後のとき、死ぬとき、わたしたちは審判をうけなければならない。「どれだけ、神様のいつくしみを実行したか」ということが、基準になります。そして、「飢えている人に食物を与えるということは、主イエス・キリストにして差し上げることと同じですよ」と言われました。神様自身は、飢えたり、渇いたりすることはありません。着るものがないから困るということはない。しかし、わたしたち人間は、世界中の現実を見れば、多くの人が、毎日、食べるものをきちんと与えられていない。着るものもない。今夜、寝るところもない。
そのような方がたくさんいらっしゃる。そのような人のためにするということは、主イエス・キリストにして差し上げることと同じですよ、と言われた。実に、胸に迫るようなお言葉です。

わたくしは、200093日に、東京大司教に就任いたしました。17年後の1216日に、次の大司教と交代いたします。
就任したときに、決意表明を行いました。それは、どのようなことであったかと申しますと、この東京教区という信者の共同体は、人々に開かれた、温かい、潤いのある、そのような教会になりたい。困っている人、苦しんでいる人、悩んでいる人、迷っている人、傷ついている人、落ち込んでいる人、人生の意味に戸惑っている人、寂しい人などが、自分の場所を見いだす、ほっとする、安らぎを与えられる、慰め、喜びを見いだす、そのような教会、そのような人々の交わりとなるように努めたいという内容です。
もちろん、既にそうなっているから、みなさんは信者になった。しかし、多くの人は、心の飢えを持っています。そのような人々に応える、そのような教会になりたい。そのために、わたしたち自身の間で、お互いに受け入れ合い、愛し合い、助け合う、そのような交わりが出来ていなければならない。もちろん、出来ていますが、非常に足りないと思う。
あのような人々のようになりたい。あちらに行けば、わたしは何か助けられる。そのように思っていただけるような教会になりたい。そのために、力を尽くしますから、みなさまも、どうぞ、助けてください。神様、この願いを実行できるように、わたしに力をお与えください。そのような祈りを献げました。

われわれは、すべて、いつか神様の前に出て、裁きを受けなければならない。お前はよくやったと言っていただけるような、自分でありたい。
大変微力であり、罪深い者でありますが、それでも、神様のいつくしみに信頼し、少しでも神様のいつくしみを実行する者として、歩んで行きたいし、皆さまも、そうしていただきたいと、心から願っています。

日本の教会は、400年、500年と長い歴史を持っています。なかなか、わたしたちの信仰が、人々に伝わっていかない。他方、自分がキリスト信者であると自覚していない人であっても、主イエスが教えているような善いこと、困っている人を助けるということを、多くの人々が実行しています。教会に来ない人の方が、かえって、よくそのようなことをしているかもしれない。人間の価値はどこにあるのかというと、どれだけ、神のいつくしみを実行したかどうかというところにあります。
ですから、わたしたちは、もっと心して、神のいつくしみを実行する者となりますよう、聖霊の助けを願いましょう。

イエス・キリストという名前を使わなくても、イエス・キリストがおっしゃっているいつくしみのわざを、どうか、日々実行するように心掛けていただきたいと思います。

 

2020年11月20日 (金)

「病気」について 最終版

ダウンロード - e79785e6b097e383bbe694b9e8a882e69c80e7b582e7898820201120.docx

 

2020年11月19日 (木)

原罪について考える

コラム(挿入欄) 「原罪」

 

「悪について、その12、『病気』について」のなかで次のように述べました。

 

『カトリック教会のカテキズム』では「原罪」について次のように述べられています。

原罪とは原初の義と聖性の欠如です。最初の人間アダムとエバは神との正しい関係にあり、神の本性である聖性に参与していました。しかし神に背いたためにその義と聖性を失い、人間の本性は大きな傷を受け、無知と苦と死と罪への傾き(欲望)の支配を受けるようになり、この本性の傷はすべての人間に生殖とともに伝えられています。(『カトリック教会のカテキズム』122-121㌻参照。原罪については後程あらためて取り上げます。)

 

そこで、今回は『カトリック教会のカテキズム』の説明をさらに敷延して、改めて「原罪」についての教会の公式見解を復習します。

原罪(ラテン語でpeccatum originale)は二つの意味に大別されます。

まず、現在は人類のもとの罪、最初の罪です。それは創世記第3章が述べる、人祖アダムとエバが犯した罪を指しています。創世記三章の堕罪物語、つまりアダムとエバが神の命令に背いて禁断の木の実を食べた罪を指しています。これを始原罪(ラテン語で、peccatum originale originanns)と呼び、人祖が自分の意志で犯した罪である自罪です。

次に、すべての人類が被っている罪の状態を指す「原罪」があります。これは自罪ではなく状態としての罪であり、普通「原罪」と言えばこちらを指しています。

人は誰でも神の祝福のない罪人の状態に生まれてきます。初めから神の命を持たず、永久の幸せに与る可能性のない状態に置かれています。自罪を犯すことが避けられないし、悪や不条理に苦しめられ、生まれながらに神との不和に状態にあります。このような状態は自罪でない状態の罪,始原罪によって生じた原罪状態(peccatum originale originatum)です。これは、親から子へと生殖行為によって人間性とともに引き継がれる世襲罪ないし遺伝罪(peccatum hereditorium)とされます。

このような、人類がみな陥っている罪の状態は神が創造の時に意図した結果ではありません。それは一組の男女人祖アダムとイブの神への不従順によって引き起こされたとされています。人祖は成聖の恩恵により超本性の賜物(dona superunauralia)に恵まれ、罪の汚れなく、神の命に永遠に与る幸せな存在に置かれていました。また人祖はさらに、人間本性を補い、より完全にする外本性的賜物(dona praeternauralia)と呼ばれる特別な賜物である原初の義、すなわち不死の肉体、無苦、本性的欲求の完全な統御を与えられていたのです。これらの賜物は人祖から子孫に伝達されるはずであったが、神への不従順の罪の結果、超本性的恩恵と外本性的賜物である原初の義を失い、神との不和の状態となり、肉体の死などの苦しみを体験するようになりました。本性の欲求を制御することが困難となり、理性と悟性は鈍り、意志は弱くなり、罪への強い傾きを持つようになったのです。しかもこの状態は人類の生殖行為を通してすべての子孫に伝わることとなった。とはいえ、人間は善と真理への能力を完全に喪失したわけではなく、真の善を選ぶ自由は不完全ながら残されている。そして、主イエスと聖母マリアだけがすべての原罪の汚れから解放され存在であり、すべての人類の救いの希望の源となったのでした。

人はイエス・キリストの救いのみ業によってこの原罪状態から解放されます。それは通常、洗礼(血の洗礼との望みの洗礼を含む)を受けることによって人は神との和解の恵みに与ることによります。洗礼を受けた者は、罪と罰が赦され、神の子として生まれ変わり、成聖の恩恵である超本性的恵みを受ける。しかし、かつて享受していた外本性的恩恵を取り戻すことはできなかった。自罪を犯す傾きと弱さ、本性の欲求の無秩序さ、死・病気をはじめとする種々の苦悩を免れることはできない。とはいえ、苦悩はもはや罪の罰ではなく、神の向かうための試練、功徳を積む機会、自己を浄める機会、キリストの学びimitatio Christiの機会となる。

原罪の根拠となる聖書の箇所は主として以下の通りである。

ロマ書 2-3

創世記3

詩編51

トリエント公会議は第5会期(1546)において、原罪についての教理決定が行われましたが、その内容は、実質的には、カルタゴ公会議(418)、オランジュ公会議(529)の原罪論を確認したものに過ぎませんでした。これらの古代の公会議は聖アウグスチヌスのペラギュース派との論争の過程で形成されたものであったのです。

この公式見解は第二バチカン公会議後も維持されているが、種々の批判と疑問を受けています。

 

そこで以上の公式見解を踏まえながら、「原罪」についての小生の個人的見解・感想を記します。(注1)

 

1.教理の決定と表現

教理の決定と表現は、その必要が生じたときの状況、その場所の文化と言語、その時代の世界観、通念などから多大の影響を受けます。「原罪」の教理はアウグスチヌスの強い影響下に形成されました。当時の西ローマ帝国衰亡の状況とアウグスチヌス個人の信仰歴を考慮に入れなければ、当時の「原罪論」を理解することは困難であると思います。アウグスチヌスは自己の個人的性体験の問題に苦悩したと伝えられています。彼は自分の情欲concupiscentiaの問題を強く意識するあまり、あたかも情欲concupiscentia が原罪状態の本質であると考えたようであります。(2)

もちろん現在においても「性欲」の問題は重要です。「情欲」という言葉をキーワーズにするのではなく、現代における性の在り方から原罪を考察する必要を感じます。

 

2.創世記第1,2,3章の解釈の問題。

第1章は祭司伝承に属し、第2,3章は主(ヤーウェ)伝承にぞくすることが最近の聖書学者の通説になっています。問題は二つの伝承の関係です。現在何となく考えられている解釈は、神の救いの歴史を、創世記1書、2章、3章の順に展開したという枠組みの考え方です。そうではなく、第2章、3章の主(ヤーウェ)伝承のほうが先に形成されたのであり、2、3層は人類創造の経過を述べています。第1章は神の救いの歴史の総括と結果を聖書の初めに述べていると考えらます。神は自分の創造の働きの結果を見て「極めて良い」(131)とされました。この箇所は、あたかも神はまず創造をいったん全部し終えたかのような印象を与え、そのあと第23章の堕罪物語が始まったような印象を与えていますが、実はそうではありません。神は自分の創造の完成を見て、「極めて良い」とされたのであると思います。ところが通常、神は救い歴史の初めにすべてを創造したが、自由意志を濫用したが神に背いたために、この世界に悪が入り、悪が今なお支配している部分がある、と考えられています。そうなると、どうしても「神義論」の問題にぶつかってしまうのです。神が創った完璧な世界になぜ悪が存在するのか、という疑問が生じるのです。そこで、創世記で神が行った創造の御業は完璧に善だったがそれを悪くしたのは神ご自身ではなく、神の作品である人間である、と解釈せざるを得なくなったのです。しかしそうではありません。神の創造の技が完璧に善であるのはその完成した状態野ことであり、そこの至る途中はin fieri 未完成な状態にあります。1章は人間の創造、すなわち124-28節は人間の創造の結果だけを非常に簡潔に述べたものです。第1章の祭司伝承はアダムとイブの物語を省略しているのであり、124831の中に第2章、3章のアダムとイブの物語がはめ込まれてしかるべきですが、最初に結論だけをのべたために、第2章は入りませんでした。本来、第2、3章の堕罪物語はこの12428のなかにはめ込まれるべきです。

創世記第2、第3章の物語の歴史性を問題にする必要はありません。これは歴史的事実でなく、いわば神学的真実の物語であり寓話であります。

楽園の中央に一本の木があったと言われています。(「いのちの木」とも「善悪の 木」とも呼ばれているが、同一のことと思われる。)「善悪の知識の木から決して食べてはならない、食べると必ず死んでしまう」(創世記216-17)と神は言われた。この園の中央に生えている木は神の意志そのものを象徴しています。人は自由を与えられましたがその自由は神のもとに置かれた自由であり、神こそが善悪を決める最終の基準です。楽園は大昔どこかに存在した地上の理想郷ではなく、いわば人間各自のあこがれと希望の存在する心の原風景であると言えるでしょう。(『カトリック教会の教え』51㌻参照)

 

しかしバビロン捕囚の悲惨な体験をした創世記の作者は、信仰を奮い立たせ、希望をもって、神の救いの歴史の到達点を、聖書全体の冒頭において、明確に展開していると考えられます。

もちろん旧約の民はイエスの十字架による贖いと復活を知りませんでした。しかし祭司伝承の記者は霊感を受けて、世のわりに現出する世界を聖書の巻頭において記述し、わずか一章のスペースで、救いの歴史全体を述べました。「極めて良い」という結論の出る前に実は長い救いの歴史が展開しているのです。今現在も神は救い御業を行っています。神は時間の支配を受けません。神にとって既に結果は見えているというか、実現しているのでしょうが、わたしたち人間の目には、神の創造の結果は隠されています。しかし、創造の完成はすでに黙示録が言っている通りです。

   

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。(黙示211-6)

 

「新しい天と新しい地」ということばが重要です。ペトロの手紙で次のように言われています。

  

愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

(一ペトロ38-13)

 

同じく、イザヤ書も見なければなりません。

  

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。

     (イザヤ6617-22)

イザヤ預言者と黙示録の作者が言っている「新しい天と新しい地」とは、創世記131が述べている「きわめてよい」世界のことであります。

 

主はペルシャ王キュロスについて次のように言われました。

  

主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし/青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる/わたしは主、あなたの名を呼ぶ者/イスラエルの神である、と。わたしの僕ヤコブのために/わたしの選んだイスラエルのために/わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが/あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが/あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで/人々は知るようになる/わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それを創造する。

(イザヤ451-8)

 

創世記の冒頭を想起しましょう。

初めに、神は天地を創造された。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

(イザヤ11-5)

神が光を創造して光と闇を分けられた前にすでに闇が深淵の面にあって、神の霊が働いていました。神は霊を通して闇を消滅させ、神の望む秩序を実現します。実は神は今も闇を滅ぼして光をもたらすという創造の働きを行っているのです。

 

主よ、御業はいかにおびただしいことか。

あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。

地はお造りになったものに満ちている。

同じように、海も大きく豊かで

その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。

舟がそこを行き交い

お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。

彼らはすべて、あなたに望みをおき

ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。

あなたがお与えになるものを彼らは集め

御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。

御顔を隠されれば彼らは恐れ

息吹を取り上げられれば彼らは息絶え

元の塵に返る。

あなたは御自分の息を送って彼らを創造し

地の面を新たにされる。

    (詩編10424-30)

 

実に神は、自分は「光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」と(イザヤ457)神の創造の結果であると言いうのは驚くべきことです。

宮原氏の次のことは傾聴すべき重要な指摘です。

公式教説においては神によって創造された完全な世界がまずあり、これが人祖の始原罪によって混乱に陥れられたが、救い主はこれを再び原初の完全状態に回復させる、という復元的・回帰的救済思想が支配している。だが聖書は本来完全な救いは未来のものとしてこれを待ち望むという直線的救済思想をとっている。救いは過去の完全状態の復興ではなく、未来において実現を約束されている全く新しいものとして、希望の対象である。この観点から「原罪の本質」をどう把握し提示し直すかも今後の「原罪神学」の重要な課題であろう。

(新カトリック大事典、原罪、宮川俊行)

 

3.公式教説についての問題・疑問点

  1. 聖書の歴史的・批判的研究の成果にかんがみ、ローマ書5章、創世記23章によって以上の公式見解――原罪の遺伝的本質、原初の義、外本性的賜物、アダムの堕罪の物語の歴史性を基礎づけることに無理がある。
  2. 人類一元説は科学的に証明できない。
  3. 原罪はアウグスチヌスの個人体験と幼児洗礼という当時,一般化していた習慣を背景に議論され決定されたことを今日配慮しなければならない。
  4. 遺伝罪なる考えは今日の通念から受け入れがたい。
  5. 外祖アダムとイブに、外本性的賜物や始原罪を犯すに足るペウソナ的成熟が考えられない。
  6. 人祖の罪の罰を万代の子孫に及ぼすという神は、イエス・キリストに依って啓示された愛とゆるし、慈しみの神の像と矛盾する。

 

「原罪の神学」は教会の普遍の真理を維持しながら、現代人に理解されるような表現と説明をしなければならない。

 

4.原罪論の本質は何か。

 

!)神はすべての人が救われて真意を知るようになることを望んでおられます。(一テモテ24) 自罪を犯さない幼児はもちろんですが、幼児を含めて人は例外なく誰でも救いを必要としています。ところが、すべての人類は、罪に向かわせ、自己を破壊する決断へと向かわせる非常に強い悪の力のもとに置かれているのです。それは、人類が犯した自罪の蓄積が『世の罪』としてすべての人類にのしかかって来ているからです。人は自分の意志によらずにそのような悪の世界に呼び出されます。誰もこの世に生まれることを自分では拒否できません。その悪とは、種々の要素の総和として、例えば、遺伝・雰囲気・環境・圧力・刺激・誘惑・伝統・社会構造・文化などの総和としての『世の罪』としてこの世を支配しています。

人間は外からそのような攻撃にさらされているだけでなく、人間の内側からも攻撃されています。人間の心は悪に傾き、たがいに悪を誘いあい、苦しめ合い、不幸に陥れ合っているのが現状であいます。このような現状、『世の罪』と「悪への傾き」は、人類が、個人としても全体としても神から離れた状態にあり、神からの救いを必要としていることを意味しています。

2)このような人類の現実を神はどう見ているでしょうか。神は決してこのような現状が起こることを意図して人類を創造したのではなく、現状を肯定しているわけではありません。神は非常に不満ながら一時的に現状を耐え忍んでいるに過ぎないのです。この神の苦しみは十字架のイエスによって現わされたのでした。

3)神は最終的に歴史に介入して完全に悪を滅ぼします。この御業はイエス・キリストを通して、そして、キリストに依って実行され、すでに決定的実現過程が進行していますが、その完成は終末時の新しい世界の創造の完成の時においてであります。この時人類は完全に悪の支配から解放されます。現在その完成へ向かうべく、聖霊がその働きを進めています。聖母マリアはその完成の先駆けであり、その生涯のはじめから原罪の汚れを免れていたのです。

 

5.生殖による遺伝と『世の罪』

 

原罪論の問題点は、「親から子へと生殖行為によって人間性とともに引き継がれる世襲罪ないし遺伝罪(peccatum hereditorium)である」という点にあります。

原罪は生殖geneationによって次の世代に伝えられるという教えは多くの人にとって受け入れがたいのではないでしょうか。問題ないという意見もあります。「生殖」とうことばを単に生物学的な意味にだけにとらなければ問題はない、と論者は言います。

説明の要約は以下の通り。

人間は単に両親の生物学的生殖行為によってだけ生まれるのではない。人はペルソナとして成熟する過程で、両親から、愛と配慮、教育、家庭環境など既存の諸条件・要素を受け入れる。生殖はより人間的な意味で理解されるべきである。・・・原罪は複合的な過程――生物的成長は単にその一部に過ぎないーーで、両親から子どもたちに伝えられる。この過程によって、子どもたちは、人間生命に対して準備されたものとなる。・・・・・人間は不可避的に罪ある環境に産まれる。また、人間は、罪から深刻に影響されないでは、また、自分自身罪人とならないでは、成長し、責任を引き受けるーーこれが「生殖」ということであるーーが出来ない。このことを強調することが原罪の死絵にかなっている。((既述の石脇論文より) 

この説明の趣旨にはあながち全面的に否定はできない。しかしどうかんがえても、「生殖」という行為を中心に据えていることに違和感を持たないわけにはいかない。どうしても生殖自体への否定的な先入観が背後に支配しているように感じてしまう。人間の問題は自分の性を正しく相応しく制御することが難しくなっているということにある。この状況を原罪と言っても過言ではない。犯罪の多くは性に起因しているのも事実である。カトリック教会も現在聖職者による性虐待事件に直面し対応に苦慮していることは否定できない。問題は誘惑、困難、ストレス、課題への対応を求められる人間と社会が、そのための適応能力において欠損状態・不足状態にあることである。いわば人間には『世の罪』という悪に対する免疫が出来ていないこと、無防備であること、無力であり、そのような状態を「原罪」と呼ぶことが出来る。換言すれば、原罪とはすべての人間性が不可避的に負わされている弱さと脆さであり、その弱さと脆さとは、人類が蓄積してきた世の悪である『世の罪』に対する弱さ・脆さであり、『世の罪』と戦う力の弱さ、脆さであり、『世の罪』に対して無力であり、容易にその悪の力に屈してしまう現状をさしているのである。

原罪を説明する鍵の言葉は、〈生殖〉あるいは〈情欲〉ではなく、悪への抵抗力の不足と弱さでなければならないと思う。注3

 

 

注1

以下の記事に大いに啓発されたのでここで謝意を表したい。

宮川俊行 げんざい 原罪 『新カトリック大事典』の項

石脇慶總 「『現在論』についての一考察、南山宗教文化研究所・研究所報 第4号 1994年」)

2 注1の石脇論文参照ください。

3 恩師ペトロ・ネメシェギの説明参照。(出典は現在の時点では不明。後日明確にしたいが、筆者が神学生として原罪論の講義を受けた際の配布されたプリントである。)

2020年11月16日 (月)

「死」について考える

悪について、その13 「死」について

 

人は必ず死ななければなりません。今だかって死を経験しなかった人はありません。人は死んだらどうなるのでしょうか。死後の世界はあるのでしょうか。死とは何でしょうか。
この問題を正面から大学の公開講義の教材として取りあげられ、その膨大な記録が大作として出版されました。イェール大学教授シェリー・ケーガンの「『死』とは何か」(柴田祐之[しばたやすし]訳、完全翻訳版、文響社)であります。大変大分な内容であり、「死』の問題を哲学者として幅広く詳細に論じています。
ケーガン教授は、死後の世界を信じていないし魂の存在を認めていません。大変多くのスペースを使ってプラトンの哲学を論じ、ソクラテスやプラトンが説いた魂の存在と不滅を否定しています。人生は身体の破滅により終了しました。身体の死がすべて終わりです。死後の世界は存在しません。身体の復活はありません。人の生涯は地上の生涯がすべてです。だから与えられて時間を自分の人格の満足と自分の幸福のために活用しなければなりません。死自体は悪ではありません。もし人が死ぬことなく不死でなければならないとしたらその方が不幸です。死が悪であるのは地上の生涯で得べき善を剥奪されるからです。20歳で亡くなる人は20歳以後受けられたはずの人生の喜びを剥奪されると思うから死は悪と感じられます。しかし、人生から何等の喜びや楽しみを受ける可能性が封じられている場合、自殺でも選択肢として考えることは理にかなったことです。
このようにケーガンは死後の世界を前提としていないのでその人生観も地上の生涯だけが人生の価値、喜びの対象であり、その後のことは、なにしろ、人は死によって存在しなくなるなだから。考える必要はない、という結論になります。ケーガンの主張の要約は次のようになります。
「大半の人は、生と死の本質に関する、ある一連の信念のすべてを、あるいはほとんどすべてを受け容れる。すなわち、わたしたちには魂がある。何か身体を超越するものがあると信じている。そして、その魂の存在を前提として、私たちには永遠に生き続ける可能性があると信じている。言うまでもなく,死は究極の謎であることに変わりはないが、不死はそれでもなお正真正銘の可能性であり、その可能性を私たちは望み、ぜひ手に入れたいと思う。というのも、死は一巻の終わりであるという考えにはどうしても耐えられないからだ。・・・人生は信じがたいほど素晴らしいから、どんな状況に置かれても命が果てるのを心待ちにするのは筋が通らない。死なずに済めばどんなによいか。だから、自殺はけっして理にかなった判断にはなりえないと考えるわけだ。わたしはこれらをすべて否定する。この一連の信念は広く受け入れられているかもしれないが(ほぼ始めから終わりまで)間違っていると主張してきた。
 魂など存在しない。わたしたちは機械に過ぎない。もちろん、ただのありきたりの機械ではない。私たちは驚くべき機械だ。愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、計画を立ててそれを他者と共有できる機械だ。わたしたちは人格(・・・)を(・)持った(・・・)人間(・・)だ(・)。だが、それでも機械に過ぎない。
そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。つまるところ死は、電灯やコンピューターが壊れうるとか、どの機械もいつかは動かなくなるということと比べて、特別に不思議であるわけではない。」(726-727㌻)

 

800㌻近くの及ぶ大著の要点はこの引用の内容に尽きるように思います。人間は機械に過ぎないのです。人格という主体の活動である精神的な種々の活動を行いますが、身体の機能が停止すれば存在も消滅します。まことに唯物的な人生観です。
キリスト者はそれに対してどう考えたらよいのでしょうか。

 

カトリック教会における「死」は次の葬儀ミサ説教に、端的に表れています。
      
ヨハネによる福音(14・1-6)が読まれました。主イエスは言われます。「父の家には住むところがたくさんある。わたしはあなたがたが住むところを用意する。わたしは 道、真理,命である。わたしを信じる人は誰でも父のもとに行くことができる。」
今日のミサの叙唱で司祭は唱えます。
「信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています。」
この叙唱の言葉の中に教会の「死」の理解が端的に表現されています。
死は地上における生活の終わりであって亡くなった人の滅びではない。同じ固有の人間が存続する。死は人が新しい状態へ移される入り口である。新しい状態とは天の父の家へ移行することである。天に備えられている家へ向かう新たな旅路の出発である。その道案内は主・イエス・キリストである。父のもとへたどり着くための第一の条件はイエス・キリストを信じるということである。わたしたちは地上に教会に残っている。故人は今、浄めの教会へ入られた。浄めの教会へのつながりは「祈り」である。わたしたちは祈りをもって西さんの浄めの旅路を助けるのである。

 

「死」によって死者の生涯が完結したのではありません。「死」は新しい状態、新しい命へ入る門であります。「死」によって死者は神への道の新しい段階に入ります。神のもとへ旅立ちます。地上に残された者どもは祈りと犠牲をもって死者の旅路を助けます。神の前に立つためには死者は相応しい浄めを受けなければなりません。浄めは既に地上で始まっています。天の父のもとで浄めは完成します。罪人が受けるべき浄めを「煉獄」ということができます。
イエス・キリストはすべての人の救いのために天の父への道を開いてくれました。イエスはすべての人と父である神の間に立っている、仲介者、道、真理、命です。誰もイエスによらなければ父のもとに行くことはできません。そのイエスに取り次いでくれる信仰の先人が沢山いると信じています。その代表は聖母マリアです。カトリック教会では毎日聖母へ祈り、「今の、死を迎えるときも神に祈ってください」と唱えています天の父のもとへたどり着いた先人は、今度は天上で、地上の罪人であるわたしたちのために祈ってくださいます。
およそカトリック信者はこのように信じています。

 

カトリックの司祭・司教は亡くなった方々のために毎日祈っていますが、とくに葬儀においては、個人を忍び、個人と遺族のために特別に意を用いる説教を行います。注として以下にその一例を引用します。

 

カトリック教会の「死」についての教えは『カトリック教会のカテキズム』に於いておよそ次のように述べられています。

 

1. 死者は復活されたキリストとともに永遠に生き、世の終わりに体の復活に与る。「世の終わり」とは何時か、ということは地上の人間には分からないが、死を過ぎ越す人間はその時に「世の終わり」の世界に入るとも考えられる。
2. 前回述べたようにキリスト者は体の復活に与り、キリストの復活の体のように変えられる。
3. 使徒たちはキリストの復活の証人であったので、使徒の建設した教会の信者はみなキリストの復活の証人である。
4. キリストの復活を信じる者はすでの地上において既に復活の恵みの与って合っているのである。
「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。(コロサイ2・11-15)

 

従って、キリストともに天の父の家へ歩む者はつぎのようにしなければなりません。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ3・1-17)

 

さて、非常に曖昧なことばに「霊魂」があります。
『カトリック教会のカテキズム』では、
「世を去る時つまり死ぬときに霊魂はからだを離れ、死者の復活の日に、自分の体に再び合わされるでしょう。(1005)とあり、また「死によって霊魂は体を離れますガ、・・・」(1015)とあり、死とは霊魂が体から分離すること、とされています。そしてこの「「霊魂」は、英語ではsoul,
ラテン語原文では anima (Catechismus Catholica Ecclesiae)です。Anima は普通、魂、と訳されます。霊魂という言葉はあいまいです。霊と魂の両方をさすのでしょうか。
ちなみに一般の辞書ではどのように解釈されているでしょうか。
【霊魂】 その人が生きている間はその体内にあって、その人の精神を支配し、死後のいろいろな働きをすると考えられるもの。<『新明解国語辞典』)
 【霊魂】(soul;spirit)➀肉体のほかに別の精神的実体として存在すると考えられているもの。たましい。②人間の身体内にあって、その精神・身体を支配すると考えられている人格的・非肉体的な存在。病気や死は霊魂が身体から遊離した状態であるとみなされる場合が多く、また霊媒によって他人にも憑依しうるものと考えられている。性格のことなる複数の霊魂を認めたり、動植物にも霊魂が存在するとみなしたりする民族もある。
それでは、聖書では「霊魂」をどう考えているだろうか。
まず、「霊」と「魂」を分けて考えなければならない。

 

「霊」 多様な意味で受け取られている。言語は、ヘブライ語ではr( )uah ルアッフ
ギリシャ語ではpneuma プネウマ、で、風、息、人間の霊、神の霊など種々の異なった意味を持っている。霊とは常に、一つの存在のなかにある本質的なものであるが、つかみことのできない要素を表している。それはある実体を生かすものであり、欲せずともその実態から自然に発散してくる物であり、けっきょく、実体そのものであるが、自らは制御することのできない何ものかである。
旧約では、ヘブライ語の霊は、「風」であり「息」であります。人間の息は神から来て(創世記2・7;ヨブ33・4;)、死とともに神のもとへ返っていく。(ヨブ34・14-15;コヘレットの書12・7;知恵の書15・11)人間の霊は人間の肉体を動くもの、生きたものとし(創世記2・7)、人間の意識、精神を表現する。また、人間には、神からの霊以外の忌まわしい霊が影響を与えることがある。
新約時代になって、イエス・キリストによって神の霊によって悪霊を追放さえることになった。
新約聖書は、旧約聖書を受け継ぎ、人間は体・魂・霊からなる複雑な存在であると考える。(一テサ5・23)。そしてこの霊は、息や命と不可分であるある力であり(ルカ8・55、23・46)、たびたび肉と戦っている(マタイ26・41;ガラテヤ5・17)。新約における信仰者のもっとも重要な体験は、人間の霊のなかには、これを新たにし(エフェソ4・23)、これと一つになって(ロマ8・16)、子としての祈りと叫びをあげさせ(8・26)、これを主と交わらせて主と一つに霊にする(一コリン6・17)神の霊が宿っていうということである。(聖書思想辞典、三省堂、霊の項より。)
一方、魂の項を見てみましょう。
魂は人間存在全体を構成する一つの”部分“ではなく、命の霊によって生かされている人間全体を指す言葉である。
ヘブライ語の原文はnephes ネフェシュ、ギリシャ語ではpsuche プシュケです。ギリシャ人は、息を,物質的な体とは対照的なほとんど非物質的なものと考える唯心論的な見方を持っている。しかしセム人は息を、そえを生かしている体とは不可分なものと考える。魂は生きている人間そのものを指す言葉である。ここから息は”命”と同一視される。魂はまず地上における有限の命を指す。次に永遠の命を意味するようになる。「自分の魂を救おうと望むものはそれを失い、わたしのために魂を失うものはそれを得る。」(タイ16・25;マルコ6・35;ルカ9・24.マタイ10・30;ルカ14・28;17・33;ヨハネ12・25参照。)
命は人間にとって最も大切なものであるので、人間そのものを指す。さらに魂は人間の自我を表す。愚かな金持ちのたとえ話で言う、「魂よ、おまえは長い歳月を過ごせるだけのよい物をたくさんたくわえている。さわ、休んで食べたり飲んだりして楽しめ」というときの魂がこの自我である。
魂は命の徴で春が命の源ではない。ここにセム人とギリシャ人の間にある大きな相違点がある。ギリシャ人は、魂を霊の世界と同一視しエイルが、セム人にとって命の源は”神の霊“そのものである。神が命の息をその鼻に吹き込むと人は生きたもの(創世記2・7)となったのでる。すべての生き物の中には「命の息」(7・22)があり、これがなければ生きてはいられない。「あなたがその息を取り去れば、彼らは死んでちりに返る。あなたが息(霊)を遣わすと彼らは造られる。」(詩104・29-30) 命の徴であるnephesと命の源であるruah は人間のなかでは互いに区別されている。したがって、洗礼によって得た”霊的な状態”から、”地上的な状態”に逆戻りした信仰者をさす”魂だけの者”(一コリ2・14, 15・44;ヤコブ3・15) という表現がみられることになる。
霊は「死ぬ」のではなく神に”返る”と言われる。(ヨブ34・14-15;詩31・6;コヘレット12・7)しかし魂は、骨や肉のように死んだり(エゼキエル37・1-14; 詩63・2;16・9-10; 民数記23・10: 士師記16・30;エゼキエル13・19;詩78・50) 魂は陰府(よみ)に降り、影のような死者の国の生活をする。要するに魂は「もういない」(ヨブ7・8,21;詩39・14) のである。ところでよみに下った魂が体を持たずに生きているわけではない。魂は体なしには自己表現できないものであり、それ自体では独立した存在ではないからである。(『聖書思想辞典』魂の項より。)
聖書思想辞典の「霊」と「魂」を読んでも、人の死後の状態は明らかにはなりません。

 

人の死後の在り方についてどのように考えたらよいでしょうか。如何に、『カトリック教会の教え』(カトリック中央協議会、第一部 キリスト者の信仰、上智大学教授 岩島忠彦著、より)をもとに、わたくし個人の考えを述べてみます。

 

私審判
人は誰でも人格として、そして身体として、その生涯を、責任の問われる時間として過ごします。人は単なる精神ではなくまた肉体だけでもありません。人格として、自分の責任において判断、決断し、実行し、あるいは実行しないという人生を送ります。生すべての作為と不作為にたいしてわたしたちは神の前に責任を問われます。各人が受けるとされる「私審判」は各自が死後神に対して自己の生涯の総決算をすることを意味しています。各自はその身体を通して、どのように、意味ある年数と時間を過ごしたか、神の教えである愛をどのように実行したのか、しなかったのかが明らかにされ、その結果に対してそれにふさわしい報いを受けることになるのです。

 

体の復活
人が体の機能を果たせなくなった時が地上の生涯の終わりであり、その時が人間の「死」であります。人は死後どうなるのかということについて、大別して二つの考え方があます。一つは素手の述べた唯物的な考えです。人は体の消滅と共にその存在も精神も消滅します。死はすべてにとって、人のすべての終わりを意味しています。
もう一つに考え方は、人は体が滅びてもその人自身は死後も存在する、という考え方です。この考え方はさらにいくつかに分かれます。人間の霊魂は不滅であるので、誰でも、霊魂として永遠に存続するという考え方です。ヘブライ思想は、体なしの人間の存在の存続という考え方を持っていません。それではキリスト教になってこの点はどうなったのでしょうか。今一つ不明な点が残ります。
死者は最後の審判、つまり公審判まで、魂だけで存在するのでしょうか。それとも、ぼんやりしていてもなんらかの肉体を備えた魂としてどこかで眠りにつくのでしょうか。あるいは神から頂いたその人の霊だけが残り、その霊は何等かの体、幽体のような状態として,最後の審判に時まで、古聖所(のようなところ)にとどまるのでしょうか。
わたしたちは地上の時間と空間の中でしか思考できません。死はわたしたちを、時空を超えた世界に招きます。死の時わたしたちはいわば同時に、私審判と公審判を受け、すぐにキリストの復活に与ることになるのです。私審判と公審判は同じ出来事の二つの面、個人に完成と世界の完成とを意味しているのです。ですから人は死とともに復活の世界にあげられ、復活の体を受けることも可能であると考えます。

 

天国と地獄
わたしたちは天の父のもとにたどり着き、顔と顔とを合わせて神を直観できるようになる(一コリント13・12)のであり、その時「神がすべてにおいてすべてとなられるのです。」(一コリ15・28) その時、人は真の自分となり、他の人とは違う自分独自の存在を確認し享受します。
ところで「地獄」は本当にあるのでしょうか。神は愛であり、すべての人が救われて神を知ることと望んでいます。(一テモテ2・4) ですから、地獄は存在しない、と考える人もいますが、神は各自に、神の愛を受け入れるか拒むかを選択できる自由を与えましたので、教会は地獄の存在を否定はしておりません。
それでは「煉獄」についてはどうでしょうか。既に述べましたが、人は自分の人生に責任を持たなければなりません。果たすべき役割を十分に果たせなかった場合、そのお詫びの償いをしなければならないと考えます。そのお詫びと償いはあらかじめ地上で行うことができるし、他の人が変わって行うことも可能であると教会は考えてきました。秘跡を受けること、免償を受けることもその赦しと償いになると考えられるのです。

 

 

(注)野坂恵子(野坂操壽)葬儀説教、2019年9月3日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

わたしは神に一つのことを願い求めている。
生涯、神の家をすまいとし、
あかつきとともに目ざめ、
神の美しさを仰ぎ見ることを。

 

わたくしは野坂恵子さんの生涯を思うときにこの詩編27の祈りの言葉を深く想いま す。野坂さんは「美しさ」を探し求め「美しさ」を表わし伝えようとされたと思います。その美しさとは筝曲によって表し伝える美しさです。
すべての美しさの源は天地万物を創造された神にあります。神の美しさは種々の形で、いろいろな道を通して現れています。芸術家は自分の専門分野で神の美しさを表現します。美術家は自分の作品である絵画、彫刻等を通して、音楽家は、作曲、演奏等を通して神の美しさを再現します。野坂さんは音楽を通して、演奏を通して、そして筝曲演奏を通して神の美しさを再現し伝達されたとわたしは考えます。
野坂さんはその生涯の間にキリストの福音に触れる機械がありました。野坂さんはヨーロッパの文化に根を下ろしたキリスト教の信仰表現を通してイエス・キリストとの出会いを経験したのであります。カトリック教会の信仰告白の代表が「クレド」であります。そのクレドと筝曲の間にある深いつながりに注目された方が皆川達夫先生でした。
ある日曜日わたくしは千葉県の教会でミサをあげるためラジオを聞きながら自動車を運転しておりました。たまたま自動車での移動時間が皆川先生のNHKの音楽の泉の放送の時間と重なりました。そのときの皆川先生のお話はとても興味深いものでした。その内容はすでの皆さんごぞんじでしょうが、筝曲の「六段」とカトリックの典礼の信仰宣言「クレド」はそのメロディーが基本的にはつながっている、という趣旨であったと思います。
さて2012年4月8日のこと、その日はその年の復活祭でしたが、野坂恵子さんはわたくし岡田大司教の立ち合いのもと、カトリック麻布教会において、カトリックの信仰を告白され、カトリック教会の一員となられました。
その翌年の2013年11月4日、野坂さんは東京カテドラル聖マリア大聖堂で、チャリティコンサートに出演してくださいました。その日はわたくしの司祭叙階40周年の記念の日であり、わたくしが理事長をしていた二つの公益法人のために野坂さんは喜んで奉仕の演奏をしてくださったのであります。この日の献金はすべて二つの団体、『公益財団法人・東京カリタスの家』と『社会福祉法人ぶどうの木・ロゴス点字図書館』に贈与されたのであります。
さて、神は御自分の住まいへすべての人を招いておられます。神の住まいとは復活したイエス・キリストのおられる世界であります。イエスは十字架の死を通して、罪と死に打ち勝ち、神のいのち、神の麗しさ、神の輝きの世界に入りました。そしてご自分の霊である聖霊を送り、復活の恵みに与るよう、わたしたちを招いています。わたしたちに求められていることはただ、イエスの招きに「はい」と答えること、そして日々神の美しさ、輝きに与りながら歩むということに他なりません。
わたしはいつも野坂操壽さんの演奏に神のうるわしさ、輝きを感じました。野坂さんに続くお弟子の皆さん、演奏を賭して神の麗しさ、美しさ、輝き、そして安らぎの世界を多くの皆さんに伝えて頂きたいと願いながら、次の祈りをもってわたしの話の結びといたします。
 いつくしみ深い主なる神が、悲しみのうちにある遺族の方々に慰めと希望を与えください。ご遺族が故人の遺志を継ぎ、故人の目指した目標に向かって心を合わせて、力強く歩ことが出来ますように
また、世を去ってわたしたちの父母、兄弟、姉妹、恩人、友人、支援してくださったすべての方々に永遠の安らぎと喜びを与えてくださいますように。
                    アーメン。

 

「死」について

 

ダウンロード - e58e9fe7a8bfe3808113e38081e3808ee6adbbe3808f.docx

 

 

2020年11月15日 (日)

年間第33主日A年

年間第33主日A年説教

第一朗読  箴言 31:10-1319-2030-31

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 5:1-6

福音朗読  マタイによる福音書 25:14-30 △2514-1519-21

 本日は年間第33主日です。来週の主日は「王であるキリスト」の祭日であり、待降節がもうすぐとなってきました。待降節が近づくと主イエスの再臨を告げる福音書の個所が朗読されます。先週の福音は花婿を待つ10人のおとめのたとえ話でした。今日の福音はタラントンのたとえ話です。

 一タラントンとは20年分の給与に当たる金額であるとのことであり、大変な金額ですが、これは譬えです。人それぞれ、神様から与えられている能力、財貨、宝物があります。人によってその内容や分量は違いますが、だれでも与えられた才能を生かして神様にお仕えし、神様のお望みを行わなければなりません。わたしたちキリスト者の日々は、与えられた善きものを使って神のみ心を行うことにあります。

 それでは、神のみ心を行うとは何を意味しているでしょうか。

 わたしはここで、「平和を実現する人々は幸い」という主の言葉、そして、20159月にカトリックさいたま教区の大宮教会で行われた、平和についての勉強会を思い出します。カトリック司教協議会諸宗教部門主催によるシンポジューム「平和のための宗教者の使命」が行われました。非常によい集いでした。この時、仏教の先生が話された内容が強くわたしの心に残っています。

それは「三毒」という話でした。

 ご存知のように、有名なユネスコ憲章で言われていますように、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」のです。しかし、人間の心の中には平和を妨げる毒がある、仏教では、この毒には三つあり、それぞれ「貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)」と言います。

(とん)とは、むさぼるということ、瞋(じん)とは、嫉み、妬み、怨み、瞋り(いかり)を言います。癡(ち)とは、無知であること。無明と言います。真実を知ろうとしないこと。相手の立場に立って相手のことを知ろうとしないこと。自分の本当の姿を知らないことです。人はみな、この三毒に侵されています。この三毒をなくすためには修業が必要です。

そして、この修業とは、結局、「自分のことを忘れて人のために尽くす」修業のことであり、それは慈悲の行いであると思います。

 そこで思い出すのは、「いつくしみの特別聖年」の教えです。教皇フランシスコは、「天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深いものでありなさい」と教えています。そして、いつくしの行いを実行するように勧めました。 いつくしみの業には、身体的な行いと精神的な行いがあります。身体的ないつくしみの業とは次の7か条です。

1.飢えている人に食べ物を与える。

2.渇いている人に飲み物を与える。

3.着る者のない人に衣服を与える。

4.宿のない人に宿を与える。

5.病者を訪問する。

6.受刑者を訪問する。

7.死者を埋葬する。

精神的ないつくしみの技とは次の7か条です。

1.疑いを抱いている人に助言すること。

2.無知な人に教えること。

3.罪びとを戒めること。

4.悲嘆に暮れている人を慰めること。

5.人の侮辱を赦すこと。

6.煩わしい人を忍耐強く耐え忍ぶこと。

7.生者と死者のために祈ること。

この精神的ないつくしみの業は決して易しいことではありません。そうできるためには準備が必要です。神の助けが必要です。よく祈り、神の助けを願って人を助け励まし導く善い行いに励むようにしましょう。聖霊の助けを願って、「貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)」の三毒に負けないように励んでください。

 聖霊の導き、聖母の助けがありますよう祈ります。

 

 

 

 

 

 

2020年11月 8日 (日)

年間第32主日A年説教

年間第32主日A年説教

 説教

待降節が近づくと主日の福音朗読は主の再臨を告げる箇所が読まれます。今日の福音朗読はマタイの福音の25章の、「十人のおとめ」のたとえです。このたとえ話は、主イエスの再臨について述べ「目を覚ましていなさい」との警告を伝えています。この譬えの背景はパレスチナ地方の結婚式の習慣です。(花嫁さんを近所の人々が喜び迎えという習慣はおそらく多くの国で行われてきました。子どもたちまで道に出て花嫁が来るのを待ち受ける言う場面が千葉県の房総半島でもごく最近まで行われていたと記憶します。)

花婿は花嫁の家に来て花嫁を迎えて自分の家に連れて行くのですが、その時が何時であるのか分からないのです。十人のおとめはいつも目を覚まして、いつ花婿が来てもお迎えできるように準備していなければならないおのです。そのためにその時が夜なかであっても灯をともすための油が必要でした。五人のおとめは油を準備していましたが五人のおとめは油を切らしてしまい、油を持っているおとめに分けてくれるように頼みますが断られてしまします。意地悪をしたのでしょうか。いや、そうではありません。主の再臨の時に用意すべき油とは、他の人が変わってしてあげることのできないものです。各自がそれぞれ負っている責任を意味しています。誰でも他人に代わってもらえない人生の役割・義務・任務があります。代替性の効かない責務が与えられているのです。いつでもその時が来たら報告し釈明できるように準備していなければなりません。

この譬えは主の再臨の話ですが、個人の終末にも当てはめられるべき、譬え話です。人の最後はいつ来るでしょうか。思いがけない時に来るかもしれないのです。人は厳しい裁きをどう迎えることができるでしょうか。この点についてパウロはわたしたちに希望を与えてくれます。第二朗読テサロニケの信徒への手紙は、おそらくパウロが残した最初の新約聖書であり、紀元50年ころの作成と推定されています。つまり福音書の成立から20年以上前、イエスの処刑からわずか20年しか経っていないときであると考えられるのです。

パウロはこの手紙で復活への希望を述べています。主の来臨の時、キリストへの信仰のうちに亡くなった人は復活の恵みに与り、そのとき地上に留まっている者は雲に包まれて引き上げられ、いつまでも主とともにいることになります。これは主の復活の恵みに与ることを意味していると思います。

 

《主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。》

 

初代教会の人々は主の再臨はま近いと信じていましたが再臨はありませんでした。今日のわたしたちは、この教えをどう受け取ったらよいでしょうか。わたしたち個人は必ず地上を去る時を迎えます。そのときに救い主であり最後の審判者であるイエス・キリストの前に立つとになるのです。その時が何時かわかりませんが必ずその時が来ます。その時に備え、復活への信仰を新たにし希望をもって主を迎えるようにしたいものです。

第一朗読の知恵の書は言っています。

 

知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、知恵を思って目を覚ましていれば、心配もすぐに消える。

「知恵」は聖霊の恵みを思わせます。いつも信仰を保って目覚めていることができますように聖霊の恵みを祈り求めましょう。

 

 

第一朗読  知恵の書 6:12-16
知恵は輝かしく、朽ちることがない。知恵を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。求める人には自分の方から姿を見せる。
知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに自宅の門前で待っている知恵に出会う。
知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、知恵を思って目を覚ましていれば、心配もすぐに消える。
知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う。

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 4:13-18
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
《主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。》

福音朗読  マタイによる福音書 25:1-13
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 

 

2020年10月31日 (土)

病気について考える

悪について、その12、「病気」について

 

人が免れない問題の中に「病気」ということがあります。仏教では四苦八苦ということを言いまして、四苦の中に、生病老死があげられ、病気がすべて生きとし生ける者の苦しみであると言われているわけです。

カトリック教会は毎年211日を「世界病者の日」と定め、病者とその家族、医療関係者のためミサと祈りをささげております。いまあらためてその時の説教を読み直してみると、結局、自分が病気について思うことで大切なことは、この中で述べられていることに尽きるように思います。説教二点を添付しますのでどうか閲覧ください。(1)

なお、病気について『カトリック教会の教え』は次のように述べています。

 

一般的に、「病気」とは各人が主観的に異常や違和感を覚えることや、それによる本人の痛みや苦しみの経験を表現します。そして、医師による診断の結果、病名がつけられて客観的に疾患が確認されます。・・・)(337㌻)

 

ここでは以下に、説教で述べられている内容の神学的な解説を試みます。

まず論点を挙げます。

1)イエスを「癒しの人」と言ってよいのか。(キリスト論から)

2)病気は何処から来たのか。(原罪論から)

3)「癒し」はどのように完成するか。(終末論から)

 

1)イエス、「癒しの人」

イエスは「癒しの人」であるのか。

四福音書を読んですぐに気の付くことは、イエスが多くの人を癒し、悪霊を追放しているということです。イエスはその生涯で何をしたかと言えば、人を救うという使命を遂行した、と言えるでしょう。人を救うということの中にはもちろん、罪の赦しと贖い、罪からの解放ということが最も重要ですが、どうじに病気・障がい、疾患で苦しむ死を癒し、悪霊から人々を解放したということが非常に大切なこととして含まれています。救いと解放とは、心身の人間の贖いであります。霊魂だけを救うということないし、肉体だけをすくうということもなかったはずです。

とりあえずマルコ福音書を見ていきましょう。

イエスは40日間の誘惑に打ち勝ってガリラヤで神の国の福音を宣べ伝え始められました。

―まずイエスは、カファナウムで汚れた霊に憑りつかれた男を癒しました。(マルコ121-28)

―イエスはシモンの姑の熱を鎮め、多くの病人を癒し多くの悪霊を追放しました。(マルコ129-34)29-34)

―イエスはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出しました。(マルコ139)

イエスは重い皮膚病を患っている人を癒します。(マルコ140-45)

―イエス、中風の人を癒す。(マルコ21-12)

(イエスは中風の人を癒したがその前に「子よ、あなたの罪は赦される」と言ったので律法学者を躓かせ、冒瀆罪に問われる原因をつくった。)

―手の萎えた人を癒す。(アルコ31-6)

(その日は安息日であったのでファリサイ派トヘロデ派はイエスを殺す相談を始めている。)

―悪霊に憑りつかれたゲラサの人を癒す。(マルコ51-20)

―ヤイロの娘と出血症の女を癒す。(マルコ521-43)

―ゲネサレトで病人を癒す。(マルコ650-56)

―シリヤ・フェニキアの女の娘から悪霊を追い出す。(マルコ724-30)

―耳が聞こえず舌が回らない人を癒す。(マルコ731-37)

―ベトサイダで盲人を癒す。(マルコ822-22)

―汚れた霊に憑りつかれた子を癒す。(マウコ914-29)

―盲人バルテマイを癒す。(マルコ10・46-52)

如何に以上で見たように多くの部分が癒しの記述に使われているかが分かります。マルコだけではなくマタイ、マルコについても同様のことが言えるでしょう。

病気や障害とは本来あるべきでないのです。神の国が到来すれば一切の病苦は消滅します。イエスが癒されたのは地上のごく少数の人々でした。彼らはやがって死を迎えたことでしょう。イエスの癒しは神の国がある、ということを示すしるしでありました。このしるしが永遠の命として結実するためには、主の復活と主の再臨を待たなければなりません。

イエスは癒す人であり、永遠の命を齎す人、であり、復活の命に人々を与らせる人であります。(2)

 

2)病気は何処から来たのか。(原罪論)

創世記1章によれば、神は人間を神にかたどり神に似た者として創造され、それを「極めて良い」とご覧になられました。しかし現実にこの世界には種々の悪が存在します。病気も悪の人です。病気は何処から入ってきたのでしょうか。教会はどのように説明しているでしょうか。

カトリック教会によれば、その原因は人間の「原罪」にあるとしています。悪の原因は神には在りません。人間の不信仰と不従順が病気を含む悪の原因であるとしています。創世記第3章によれば、最初の人間アダムとエバは神への信頼を失い、禁じられた、善悪を知る木の実を食べ、不信仰と不従順に陥り、神との親しさを失いました。この神との親しさを失っている状態が後に「原罪」と呼ばれるようになりました。

『カトリック教会のカテキズム』では次のように述べられています。

 

原罪とは原初の義と聖性の欠如です。最初の人間アダムとエバは神との正しい関係にあり、神の本性である聖性に参与していました。しかし神に背いたためにその義と聖性を失い、人間の本性は大きな傷を受け、無知と苦と死と罪への傾き(欲望)の支配を受けるようになり、この本性の傷はすべての人間に生殖とともに伝えられています。

(『カトリック教会のカテキズム』122-121㌻参照。原罪については後程あらためて取り上げます。)

 

それでは他の教会では「病気」をどう説明しているでしょうか。東方正教会の見解を最近が出版された『病の神学』(ジョン=クロード・ラルシュ著、二階宗人訳、教友社)によって分かち合いましょう。

 

神が「見えるものと見えないものすべての創造主(コロ116参照)です。しかしもろもろの病気や苦痛、そして死の造り主であると考えることはできない。教父たちはそのことを明言している。聖バシレイオスは、その説教「神は災いの原因ではない」のなかで述べている。「神がわれわれの災いの造り主だと信じるのは正気の沙汰ではありません。こうした冒瀆は〔……〕神の善性を損なうものです。・・・・(15)

ニュッサの聖グレゴリオスは次のように答えている。「人間の命の現状がもつ不条理な性格は、〔神の像と結びついた〕善き事柄を人間が一度ももちあわせなかったことを立証するものではありません。〔・・・・・〕われわれの現在の条件と、そしてもっとうらやむに足る状態を奪った喪失には、他に原因があるのです。」(15-16)

『創世記』は、神の創造はその始原において完全に善きものであったことを明らかにしています。(創・31)

聖マクシモスは言っています。「神からその存在を与えられた最初の人間は、罪と腐敗を免れて生まれました。〔…・・〕。なぜなら罪も腐敗も、彼とともに創造されることはなかったからです。」(17)

多くの教父は、神は死を創造しなかったこと、始原における人間の本性は腐敗を免れていた、ということ、したがって人間の本性は不死であった、と教えています。しかし教父たち間にはこの点について微妙な相違が見いだされます。聖アウグスチヌスは、人間はその身体の本性において死すべきものであった、と述べ、アレクサンドリアのアタナシスも、原初の人間の本性は腐敗すべきものであった、と言明しています。

この不整合をどう説明できるか。

原初の人間は不死で腐敗しない存在であったのか、あるいは死すべきもの、腐敗すべきものであったのか。

そこで結論はどうなるのか。次のように説明されます。原初の人間とはどの段階の人間か。

   主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記27)

 

神が地の塵から神は土の塵(アダマ)から人(アダム)を形づくったとき、その最初の状態では、人間は死すべきものでした。神は人の鼻に命の息を吹き込みました。その時点で人は生きるものとなり、不死の命を生きるものとなったのです。聖アタナシオスは言っています。「人間は腐敗する本性を持っていたのですが、言への参画という恵〔によって〕「その本性をしばる条件を免れる」ことができ、「現存する言のゆえに、本性の腐敗が彼らに及ぶことがなかったのです。」

この恵みによってアダムは、いまわたしたちが置かれている人間的条件とは大幅に異なる状態に置かれていたのであり、この状態を聖書は「楽園」と呼んでいるのです。楽園における人間は天使の状態に近く、アダムは物質性や有形性を持つ者でなかった、と聖マクシモスは考えます。アダムの体はパウロが述べているような復活した体のようだったと考えるようです。

腐敗することなく死ぬことのない状態に想像された人間は神の恵みの中にとどまる限り死ぬこともなく腐敗することもありませんでした。神の恵みのうちに留まるためには、人間は与えられた自由意志を用いて、自分から神の掟を守らなければなりませんでした。

しかし神の命令に背いたために神の命という恵を喪失したのです。ではどういうべきでしょうか。

罪の落ちる前の原初の人間は、実のところ、死すべきものではなく、不死でもなかったのです。どちらになるかは、人間の自由な判断と選択にかかっている状態に置かれていたのでした。

したがって教父によれば、人間の個人意思のうちに、自由意志の誤った使い方により、あるいは楽園で犯した罪によって、人類に、病気、心身の障がい、苦痛、腐敗、死が入ってきたのです。病気などの悪淵源は父祖の罪によるのです。自ら神のようになろうとしたことによってアダムとエバは神の特別な恵みを失い、塵から造られたもともとの人間の状態に戻されたのでした。

「アダムが人類の本性の「根源」をなし、その原型であって、また第一に全人類を包摂するゆえに、彼はその状態を子孫全体に移転する。こうして死や腐敗、病気、苦痛が人類全体の定めとなる。」(同書、28ページ)

人と人とのつながりの乱れ、男女関係の葛藤、そしてアダムと自然との親和性は失われ、土は人間にとって呪われたものなり、土は茨とあざみの生える不毛の地となり、さらに、自然と人間との調和も失われました。

  神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなっ 

  た。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔 

  に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記317-18)

 

アダムとイブの罪の結果はすべての人類に及ぶだけでなく、すべての被造物に及びました。全被造物は腐敗へ隷属するとされてしまったのです。パウロはローマ書で言っています。

 

  被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持ってい 

  ます。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今

  日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ローマ8・20-22)

 

さて、それでは人間は自分たちの病気に責任があるのだろうか。

人間が原初の恵みを失ったのは、アダムの罪によるのであり、自分の罪によるのではありません。アダムの違反により人間の本性は弱くも脆いものに変えられました。といっても個人の罪はアダムが犯した罪ではありません。人は自分で自分の罪を犯します。

 

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。(512-14)

 

病気にかかるとはいわば「免疫」がないので病原菌を撃退できないからです。アダムの違反は人類に、病気にかかりやすい弱さを伝えました。同時に罪への抵抗力も弱くなるというマイナス効果をもたらしました。だからと言って人は自分の罪の責任をアダムの押し付けることはできません。人は自分の罪の結果を負わなければならないのです。キュロスのテオドレトスは「各人がみな死の支配に服するのは、祖先の罪によってではなく、各人自身の罪によるのです。」(同書、31) こうして、テオドレトスは、アダムの根源的な責任と人間への堕落した人間本性の継承性を否定

せずに、継承性に冒された罪あるすべての人間の共同責任を主張しています。

それではいかにしてアダムによってもたらされた人間本性の恵みの喪失の回復と治癒は可能になるのでしょうか。それは受肉した神の言(ことば)によってできるのです。

  一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一

 人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、 

    一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたよう

   に、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が

  増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わ

  たしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(ローマ517-21)

 

アダムによって変質した人間の本性は、キリストにおいて復元され、楽園で享受するすべての特権を取り戻します。キリストは贖い=罪からの解放を通して、悪と悪魔の支配から人間を解放し、死と腐敗に打ち勝ちました。キリストは復活によって悪と罪を打ち滅ぼし、人間の本性を癒し、宇宙万物を治癒し、刷新します。

 

そのために神は人間がキリストに自由に同意し協力するよう求めています。

キリストは人間本性を再生しいわば神化してくださいます。そのためには人間の側の信仰と自己放棄、悪との闘い、自己獣化のためも努力が必要なのです。キリストは不死と非腐敗性を勝ち取ったがその成果を人が自由に受け取るように望んでいます。そのために地上においては、いまだ罪、悪霊の仕業、肉体の死をキリストは取り除いてはいないのです。すべての悪が消滅するのはキリストの再臨の時です。その時こそ、「義の宿る新しい天と新しい地」(ニペトロ313)が出現するのです。

聖人自身もまた、身体の痛みや病魔、そして最終的には、生物としての死を免れません。この事実は、身体の健康と霊魂の健康には必然的な関係がないこと、また病気・苦痛がその人の罪に起因するものではないことを示しています。

 

時に聖人は他の誰よりも病気の苦しみに出会います。

それは聖人本人だけでなく周りの人々の霊的成長を望む神の摂理の表れであり、聖人自身の聖徳への試練のためである、などの理由が挙げられます。

さらに考えられるのは、悪霊の働きで有ります。ヨブ記が示していますが、神は悪魔が人を試練に合わせることをおゆるしになります。しかし神は人が絶えられない以上の試練を課すことはないのです。(一コリ1013)

 

健康は健康な人に善をもたらさなければ健康が良いとは言えない。また病気から得られる善きことを喜んでいる多くの霊的な人もいることは事実である。

病気のおかげで人間は自分の脆弱性、欠陥、依存性、限界を自覚する。自分が塵であることを思い起こさせ、思い上がりを正し、人を謙虚に導く。病気は現世に対する執着を無くさせ、地上の虚しさを悟らせ、天井の世界への思いを強くさせ、心を神へと向けさせる。

病気は神が人間を罪から清めるために送ってくださる、霊的浄化の機会である。

病気とその苦しみは人間が神の国に入るために通らなければならない試練の一部であり、キリストの弟子として負うべき十字架である。

聖ヨハネ・クリュソストムスは言っている。「神は我々を苦しめれば苦しめるほど、われわれを完璧にするのです。」(同書、60㌻)

病気は忍耐という徳を学ぶ機会となる。病気は謙虚に源泉となる。

使徒パウロは言っている。「わたしは弱いときこそ強い。」(ニコリ1210

「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(ニコリ51)

病魔に直面するものは何よりも忍耐を示さなければならない。悪魔の誘惑は、落胆、悲嘆、無力感、怒り、苛立ち、失望、反抗といった思いを魂に滑り込ませる。

(ルカ2119、へブ1036、詩392、マタイ1022、ロマ1212

 

病者にとって祈りは特に大切です。祈りによって必要な助けと自分を豊かにする霊的な贈り物を頂くことができる。

病床における祈りは願い事にとどまらず、感謝の祈りでなければならない。病気は神の栄光をたたえる機会となり、神の子が人類を癒し救うために遣わされたことを感謝する機会となる。

 

病気の時にとるべき心構えで最高位に置かれるのは忍耐すること、そして感謝することである。

 

次いで第三章でキリスト教的な治癒の方途を述べています。ここでは項目を挙げるに留めます。

―キリストは真の医者である。

―聖人は神の名によって癒しを行いました。

―治癒のために最も重要な手段は祈りです。

   あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

   (ヤコブ513-16)

   出血症の女へ向かってイエスが言ったことば。「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ922、他に、マタイ1528、マルコ534、マルコ1052、ルカ75084817191842

院人のための祈りが推奨される。

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ1819-20)

 

聖母や聖人の執り成しの祈りが大切である。

さらに以下の項目が東方正教会では行われています。

塗油と祈り

聖水の注ぎ

十字架のしるし

祓魔式(ふつましき)(悪魔祓い)

通常の世俗医療

最大主義

  キリストが唯一の医者であることを理由に世俗の医術に頼ることを拒否する立場。

神に帰することで正当化される世俗的医療の霊的な理解

治癒は神がもたらすという信仰

医学には限界があるということ

魂の治療に意を用いるべきこと

身体の治癒は人間全体の霊的治癒を象徴し告げる

魂の病気は身体より重大である

肉体の健康は相対的な価値しか持たない

将来の非腐敗性と不死性の約束

 これは《3)「癒し」はどのようにして完成するか》で改めて論じることにします。

 

3)「癒し」はどのように完成するのか。(終末論)

 

実際、わたしたちの身体が全面的に霊的な存在、いわば復活の体に変えられるのは地上の旅を終わる時であります。パウロは次のように教えている通りです。

 

     しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。死者の復活もこれと同じです。蒔かれ 

    るときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いもので

    も、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体も

    あるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。わたした

   ちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。

   肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。最後のラッパが鳴るとともに、たちま

   ち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないも

   のを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なな

   いものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死

   よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利

   を賜る神に、感謝しよう。

(一コリント15・351542,1549-5015/52-57)

  

パウロは何を言っているのか。

まず、これは終末の出来事で個人の死の時の出来事ではないようです。しかし、死というものは時間と空間の支配の外にでることでしょうから、このパウロの記述が準用されてもよいと考えます。「体の復活を信じます」と使徒信条で唱えます。体の復活はいつ起こるのか。人は死んでから眠りにつき、世の終わりに眠りから覚めて、体を頂いて、復活するのでしょうか。それても時間・空間のない世界で受け入れられすぐに体の復活を体験するのでしょうか。(死んだら確かめます。)

さて死んだらわたしたちの体はどうなるのか。地上の体は火葬場では骨と灰になってしまします。わたしたちは遺骨を骨壺に入れて恭しく持ち帰り、何日か警戒してから遺骨を埋葬します。人間の目に見えるのはそのような現象です。しかしパウロは言っています。

 

地上では朽ちる体ですが、復活の体は朽ちない体です。

地上では卑しい体ですが、復活の体は輝かしい体です。

地上では弱い体ですが、復活の体は力強い体です。

地上では自然の命の体ですが、復活の体は霊の体です。

最初の人アダムは神から命を受けましたが最後のアダムであるキリストは命を与える霊となりました。

人は土から出来た人の似姿ですが、復活の時には天に属する人キリストの似姿となるのです。

血と肉は朽ちるものであり、朽ちないものを受け継ぐことはできません。最後の時死者は復活して朽ちないものとされます。

わたしたちは変えられ、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着ることになります。

かくてこの時死は克服されます。死は罪の欠陥、罪は律法によります。かくてわたしたちは、律法の力の支配に打ち勝ち、罪を克服し、罪の結果である死への勝利に招き入れられます。

 

ここで言われていることを整理しましょう。

人は死を経て復活の体に変えられます。復活の体は同じ自分の体ですが、不死の体、非腐敗の体、病気から解放された完全に健康な体、復活したキリストの体のように霊的な体です。キリスト教の救いは霊魂と肉体の贖いであり救いであります。体だけの救いん、あるいは霊魂のだけの救いを前提としてはいません。人間全体の救いです。

 

この項目を閉じるにわたり筆者岡田の見解を短く述べることにします。すでに述べたように、『世界病者の日』の説教で牧者としての見解を注においてお伝えしました。そしてさらに、説教で述べられている内容の神学的な解説を試みました。論点を次に三点に絞りました。

  1. イエスを「癒しの人」と言ってよいのか。(キリスト論から)
  2. 病気は何処から来たのか。(原罪論から)

3)「癒し」はどのように完成するか。(終末論から)

ここで自分自身の意見を簡単に添付します。

1)についてはここで述べられている通りで異論はありません。

  1. についてです。ローマ・カトリック教会と東方正教会の教えのどこが違うのでしょうか。カトリックは「原罪」という教義で説明しております。不死性と非腐敗性の喪失は、アダムの罪が生殖によって子孫に伝えられることによるのだ、と言っています。東方正教会では、アダムの罪の影響を否定しないまま、人は自分の罪によって不死性と非腐敗性を失った、と言っています。(この点をさらに確認する必要があり。)両者とも創世記の1章、2章の教えを根拠に論じています。問題は現代において創世記をどう読み解くのかであります。進化論がとビッグバンという仮説がほぼ一般化しつつある現代、創世記の解釈も「非神話化」する必要があります。とくに二章は重要です。神が息を吹き入れた時に人は生きるものとなったわけですが、それが文字通り起こったと考えなくともよいと思います。ここでわたくしは「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物学の仮説を想起します。(3) 創世記三章に出ている物語は一種の寓話です。神話的な物語に託して人類の各人に普遍的に起こる神からの働きかけを述べていると考えます。人間の肉体は塵にすぎません。しかし人間は「万物の霊長」です。神の霊を受けています。人は生をうけたときに神の霊を受けるべき状態に置かれています。カトリック教会は幼児洗礼という慣行を維持していますが、それは、目に見えない神の霊が生まれたばかりの幼児に働いており、幼児は神の霊をなんらかの形で受け取ることができる、と信じています。それは科学的には証明できないでしょう。レントゲン写真、あるいはCTで検査しても何のデーターの得られないことでしょう。しかし、人は誰でも神の霊の働きにもとにあります。地上の現実は神の霊を受け入れるには困難な状況にあります。「世の罪」が蔓延しており、人はなかなかの声に耳を傾けません。もし出生の最初に神の霊に満たされれば、悪の力を撃退する可能性に恵まれます。多くの人はいわば悪の病原菌への免疫がない状態に置かれています。それがカトリック教会が言うところに「原初の聖と義」のない状態である原罪であります。原罪という言葉は聖アウグスチヌスにはじまるのでしょうか。(要確認) 東方教会では人祖が神の背いた結果、死ぬことも、死なないこともできる状態に陥ったと考えます。堕罪の前は死ぬこともなく病むこともない楽園にいたが、堕罪の後は楽園から追放されて、死ぬことも腐敗に落ちることもある状態になりました。しかし現実に人が死にあるいは腐敗するのはその人の罪の結果です。「人は自分の罪によって死ぬのです」がが東方正教会の立場です。カトリック教会では、聖母マリアだけは原罪の汚れから免れたと考えます。人は世の罪の攻撃に対して無防備であり撃退する体力がなく免疫もできていないと考えます。キリスト教信者の霊的生活とは、霊の導きに従うことにほかなりません。『病の神学』はその視点から非常に有益な勧めを与えてくれます。
  2. カトリックと東方正教会の教えの違いには大きいものはありません。カトリックの場合は、人は自分の罪の有無に関係なく死を経験しますが、東方正教会の場合はアダムの罪の影響はあるにせよ、自分の罪によって死ぬことになるのです。

(注1)

2015年世界病者の日・説教

2015年211

 

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ531-5,10-11

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。

主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように

この人は主の前に育った。見るべき面影はなく

輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって

わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見

それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

彼らの罪を自ら負った。

第二朗読 ヤコブ513-16

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。

だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

福音朗読 マルコ129-34

そのとき イエスは会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 

===

説教

 

今日は「世界病者の日」です。カトリック教会ではルルドの聖母の日であり、聖ヨハネ・パウロ二世はこの日を「世界病者の日」と定められました。

病気は誰にとっても大きな苦悩の原因です。

わたしたちの救い主イエス・キリストは実に「癒すかた」でした。きょうの福音はイエスが宣教活動の初めの頃のある一日、カファルナウムで行った、神の国の到来を告げ知らせる働きを、簡潔に述べています。

イエスの宣教には病人の癒しと悪霊の追放を伴うのが常でした。会堂で悪霊を追い出したイエスは、その後シモンとアンデレの家に行き、シモンの姑が熱を出していると告げられと、すぐに姑のところに行って彼女を癒しました。

彼女の手を取り、彼女を起こします。ここに、イエスの悪に打ち勝つ力があらわれています。

「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(マルコ134)とマルコは述べます。

イエスは病気の苦しみを担う人や体の不自由な人に深い関心を寄せ、深い共感を持っていました。イエスは言われました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ217

イエスが罪人に対して取った態度は、病人や体の不自由な人に対して取った態度に重なります。病人や体の不自由な人を優先させることがイエスの基本的な生き方でした。イエスは安息日のおきてを破るという非難を覚悟した上で、手の萎えた人を癒し、律法学者やファリサイ派の人々を敵に回してしまいました。(マルコ31-6) 

教会はこのイエスの癒しの働きと使命を受け継いでいます。復活したイエスは弟子たちに言われました。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ1616-18)

7つの秘跡の一つの病者の塗油も、教会がキリストから受け継いだ癒しの働きです。今日の第二朗読は病者の塗油の、秘跡の制定の根拠とされる箇所です。

「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ514-15

イエス・キリストが宣教活動で何をしたかといえば次の事柄にまとめられます。

「神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出し、

ご受難において人々の苦しみ悲しむ病を背負い、

人々の贖いを成し遂げ、死を滅ぼして復活の世界に入られた。」

今日の第一朗読は、イザヤ53章の主の僕の歌です。ここで「彼が担ったのはわたしたちの病」といわれています。

この主の僕は主イエスの前触れです。イエスはわたしたちの病と罪を背負って十字架にかかられたのでした。わたしたちも兄弟姉妹の苦しみと病に寄り添い担うよう招かれています。わたしたちは自分自身から出て、病気で苦しむ兄弟姉妹のもとに赴き、寄り添いながらともに苦しみを担うようでありたいと思います。

わたしたちは、忙しさに追われているために、・・・自分自身を無償で差し出すこと、人の世話をすること、自分は他者に対して責任があることを忘れがちです。(これは今年の「世界病者の日」の教皇メッセージで教皇様が言っておられることです。(教皇メッセージ、4を参照)

神はすべての人の健康を望んでおられます。健康は神の救いの恵みであり、神の霊の賜物です。聖書の言う「平和(シャローム)」は完全な健康を意味していると思います。

人間が平和で満たされる時、それは創造の完成の状態です。それは神の霊=聖霊による癒しと贖いを受けた状態です。

わたしたちはキリストの再臨により、わたしたちは完全にすべての悪から(罪、病気などから)解放され、キリストの復活の体に与ります。そのときが、霊的にも聖霊による平和に満たされた健康に与るときであると考えます。  

すべての人の救いと健康のために祈りましょう。

 

世界病者の日ミサ説教

2017年211

第一朗読  創世記31-19
福音朗読  ヨハネ91-12

(福音本文)

[そのとき]エスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。
本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
 
人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 

===

説教

 

みなさん、今日は211日、ルルドの聖母の祝日となっています。  
1858
211日、スペインとフランスの国境に近い、フランス側のルルドという所で、少女ベルナデッタに、聖母マリアがお現れになった日であると、カトリック教会が認めております。  
ベルナデッタという少女、良い教育を受けることができなかったので、ラテン語はおろか、フランス語もきちんと話すことのできない少女であったそうです。  
そのベルナデッタに、「わたしは無原罪の御宿りである」と、現れた貴婦人が名乗ったという出来事を、カトリック教会は公式に認めて、ルルドは、世界で最も有名で大切な聖所となりました。  

さて、この211日を、聖ヨハネ・パウロ二世は、「世界病者の日」と定めました。  
ヨハネ・パウロ2世ご自身は、即位されたときは、まだ50代と、大変健康で元気な方であったと思いますが、その後、パーキンソン病という難病にかかられ、晩年は、大変お苦しみになりました。  
そのヨハネ・パウロ二世が、「世界病者の日」を定めたということは、大変意味深いことではないかと思います。  

いま、読まれました福音は、ヨハネの9章、生まれながらに目の見えない人の話です。  
イエスは、その人の目を開いてあげました。問題は、どうしてその人は、生まれながらに目の見えないという、難しい問題を負わされていたのかということです。わたしたちは、ほとんど誰しも、生まれつき決められている、いろいろな、「欲しくない、思わしくない条件」というものがあります。少なくとも、本人は、「このようなことは嫌だ」と思うことがある。  
今日の福音の箇所では、どうして生まれながらに目の見えないのかということが話しの中心になっています。  
当時、「その人本人が罪を犯したのか」、「生まれる前に罪を犯すということは、よくわからない」、あるいは、「両親が罪を犯して、その報いが子どもに伝わったのか」等々といった具合にいろいろな考えや議論がありました。  
しかし、イエスの答えは、いまお聞きになった通り、「神の業がこの人に現れるためである」と述べるだけです。どうして、そのようになったのか。原因や理由は言われませんでした。「神の業が現れる」。別の言い方をすれば、「神の栄光が現れるため」ということではないでしょうか。  
生まれつき目が見えないということは、「視覚障害」という言葉で言い表すことができるでしょう。しかし、障害とは別に、わたしたちには、さまざまな「疾病」という問題があります。「健康とは何か」というと、大変難しい議論になるようです。  
考えてみれば、全く問題なく、健康な人というのは、そういるものではない。同じ人でも、長い生涯の間に、何かの困難や問題を背負うことになります。  
仏教では、人生の困難を「生病老死(しょうびょうろうし)」と、4つの言葉にまとめているようですが、病気の「病(びょう)」です。  
「生きる」ということは、誰しも、「病気にかかる」、あるいは、「心身の不自由を耐え忍ばなければならない状態になる」ということを、意味しております。人間は、どうしてそのようになるのか。  

「神様がこの世界を造り、人間をお造りになったこと」について、創世記が伝えておりますが、神がお造りになった世界は良かった。極めて良かった。まさに、極めつきで良いと、創世記1章が告げている。  
それなのに、どうしてこのような、さまざまな問題があるのか。この問いは、多くの人を悩ませてきました。戦争は、殺戮、そのような社会的な問題だけではなく、ひとりひとりの人間にとっても、多くの困難をもたらします。そのような状況の中で、カトリック教会は、原罪という言葉で、いろいろな問題を説明しようとしてきました。  

12月8日は、「無原罪の聖マリアの日」、昔、「無原罪の御宿りの日」といったように思いますが、「聖母は原罪を免れていた」という教えを、深く味わう日です。そして、今日は、無原罪の聖母が、ルルドにお現れになったことを記念する日です。  

さて、人間には、「弱さ、もろさ」という問題とともに、「罪」という問題があります。「罪」と「弱さ」は別のことで、弱いこと自体が罪ではありませんが、逆に、元気で健康であっても、分かっていて、「神のみ心に背く」、あるいは、「神のみ心を行わない」ということがあります。そちらの方が、「罪」といわれます。  
わたしたちは、多少とも、罪を犯すものでありますが、更に考えてみれば、人間の「もろさ、弱さ」というものを、痛切に感じないわけにはいきません。この人間の問題は、どのような言葉で言い表したらよいのでしょうか。  

今日の第一朗読は、創世記の3章でしたが、こちらから、いろいろな教会の先人が、原罪の教えを展開しております。「神と人間の間に生じた不調和」、平和が失われた状態は、更に、「人と人との間の不調和」、そして、「人と被造物、この自然界との不調和」へと発展し、更に、ひとりひとりの人が自分自身の中に、「調和が失われている」、あるいは、「調和にひびが入っている」と感じるようになる原因となったと、カトリック教会は説明しています。  

今日、211日、ここに集うわたしたちは、主イエス・キリストによって、わたしたちが贖われていることを、その贖いの恵みが、わたしたちの生涯の中に働いていることを、そして、生涯の旅路の終わりに、その贖いの完成に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
わたしたちは、「罪」からの贖いだけではなく、わたしたち自身の、生まれながらに背負わされている、そのいろいろな問題からの解放、そして、完全な解放に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
それは、言い換えれば、イエス・キリストが、わたしたちの罪を背負って、十字架にかかってくださり、そして、復活された。その、イエスの復活の恵みに与ることを意味している訳です。  
わたしたちが背負っている、人間としての「弱さ、罪」、神の完全な解放への「信仰と希望」。それは、主イエス・キリストの復活の恵みに与ることができるという「信仰と希望」と結びついていると言えるのです。  

弱い私たち、そして、同じ罪を繰り返してしまうわたしたちでありますが、そのようなわたしたちを、温かく包み、癒し、贖ってくださる、主イエス・キリストへの信頼を深めて、今日のミサをお献げいたしましょう。

 

(注2) 「健康」の定義と言えば、世界保健機構の定義がよく知られています。

従来、WHO(世界保健機関)はその憲章前文のなかで、「健康」を「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」

"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."

と定義してきた。(昭和26年官報掲載の訳)

平成10年のWHO執行理事会(総会の下部機関)において、

"Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."

と改める(下線部追加)ことが議論された。最終的に投票となり、その結果、賛成22、反対0、棄権8で総会の議題とすることが採択された。しかしその後改正案は最終的に採択されるには至っていません。

 

(注3)生物学用語。受精卵または単為発生卵、あるいは無性的に生じた芽体、芽や胞子など未分化な細胞もしくは細胞集団から、種の一員としての生殖可能な個体が生ずることをいう。一方、これと対(つい)をなす概念に系統発生があり、生物の進化の道筋で、ある生物種が生じ系統として確立する過程をさす。個体発生は、細胞分裂により一定の数に達した細胞集団が、一定の秩序と広がりをもって配置され、同時にそれぞれの位置に応じた機能を果たすように分化することにより、独立した1個の生物体となる過程をいう。受精卵から出発した場合、この過程は胚(はい)発生の過程と、これが成長・成熟して生殖能力をもつに至る過程とに分けられる。無脊椎(むせきつい)動物では、後者は後胚発生とよばれ、1回以上の変態を経たのち成体となる。多くの脊椎動物では身体の成長と諸機能の成熟をまって成体となる。「個体発生は系統発生を繰り返す」というドイツの動物学者EH・ヘッケルの考え方は大筋において正しく、胚発生のある時期に、その種より系統的に古い種の形態的特徴が認められる。

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) [竹内重夫]

 

2020年10月26日 (月)

あなた罪人と言われてもね、何も悪いことしてないよ!

悪についてその11

――「罪」ということが分かり難いのではーー

 

キリスト教が受け入れ難いとしたらそれは何故かと言えば、いろいろあるでしょうが、「罪」という概念があげられるのではないでしょうか。「人は誰でも罪(つみ)人(びと)です。」などと言われると鼻白んで「自分は至らない欠点のある者だが罪人と言われたくはない。」と思う人のほうが多いと思います。「罪人(つみびと)」は「罪人(ざいにん)」とは違います。罪人(ざいにん)は犯罪者です。法律に違反したと裁判で判決された者が犯罪者です。犯罪者が「つみびと」とは限らないし罪人が「はんざいしゃ」とも限らない。両者は重なる部分があるが異なった範疇にあります。普通通常「罪人(つみびと)」とはどう解釈されるでしょうか。国語辞典を開くと次のように出ています。

デジタル大辞泉

1 道徳・法律などの社会規範に反する行為。「罪を犯す」

2 罰。1を犯したために受ける制裁。「罪に服する」「罪に問われる」

3 よくない結果に対する責任。「罪を他人にかぶせる」

4 宗教上の教義に背く行為。

        ㋐仏教で、仏法や戒律に背く行為。罪業 (ざいごう) 。

        ㋑キリスト教で、神の意志や愛に対する背反。

       [形動]無慈悲なさま。残酷なさま。「罪なことをする」「罪な人」

 

新明解国語辞典

      道徳(宗教・法律)上してはならない行為。「-罪深い人間の子」

      道徳(宗教・法律)にそむいた不正行為に対する処罰

 

「デジタル大辞泉」の4 宗教上の教義に背く行為。――㋑キリスト教で、神の意志や愛に対する背反。

はキリスト教の立場から言えば妥当な定義だと言えるでしょう。

「罪」とはまず神に背くことです。

カトリック教会で権威のある教理書は次のように定義しています。

 

罪とは、「永遠の法に背くことばや行い、あるいは望み」です。神に対する侮辱です。キリストの従順とは反対に、不従順によって神に逆らい、高慢になることです。(『カトリック教会のカテキズム』557㌻)

 

「永遠の法」とは神の定めと考えられます。罪とは神に背くことです。ミサの開祭にあたり信者は『告白の祈り』をしますが、その中で言います。

「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。・・・・」

罪とは神に対する違反であります。そして同時に罪は神に対する侮辱であります。

 

紀元前1000年ころのイスラエルの英雄であるダビデは大きな罪を犯しました。それは姦通と殺人という重大な罪です。殺人はもちろん犯罪です。ダビデは預言者ナタンの叱責を受けて神への謝罪の祈りをささげました。その祈りが詩編51です。その中で彼は言っています。(1)

 

あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し

御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく

あなたの裁きに誤りはありません。(詩編51・6)

 

ダビデは神である主に向かって「あなたに、あなたのみに罪を犯した」と言っているのです。この「あなたのみ」という言い方に注意したいです。

日本人の感覚から言えば、ダビデは、殺された姦通の相手の夫ウリヤの家族、親族、そして戦場の部下や兵士に対して謝罪すべきではないでしょうか。彼らは戦場で王の命令によって野宿しながら食うや食わずの悲惨な状態で、安心してやすむことのできない危険な日々を送っているのです。それなのに、当の命令を下した王の方はのんびりと昼寝をし、戦場の部下の妻を寝取り、さらに姦計を弄してその夫ある部下ウリヤをも殺害したのですから、到底許さるべき行為ではないのです。王は辞任どころが、殺人罪の刑罰を受けるべきです。しかしその王を裁く権威は神しかいないのが当時のイスラエルの社会の通念でした。あるいは場合によっては民が反乱を起こすことも在り得たでしょう。後にダビデの息子アブサロムが父王に謀反を起こしていますが、しかしその理由、原因はババト・シェバの事件には関係がないようです。

 

『カトリック教会のカテキズム』では、罪とは神に対する侮辱であると言っています。

そして神に対する侮辱が「冒瀆罪」と呼ばれます。イスラム教では特に厳しく罰せられている罪です。ところで、皮肉なことに神の御子、神に等しい方イエス自身が、冒瀆罪に問われて処刑されました。(マタイ2665、マルコ164、レビ2416参照) イエスの処刑の理由は冒瀆罪でした。

神に対する冒瀆罪という、この感覚をわたしたちは持っているだろうか。人間関係では、侮辱、その償い慰藉料、という感覚はあります。侮辱されると言う体験があり、また侮辱するということもしていることは理解します。ナザレのイエスは侮辱される受難に際して侮辱されると苦しみをつぶさに体験しています。しかし見えない神である父に向かってわたしたちは侮辱するという意識を持つことが難しいと言えましょう。ですから自分が神に加えた侮辱を償うという意識は持ちにくいわけです。聖アンセルムスの贖罪論の受け入れ難い理由もそのあたりにあると思います。(2)

 

わたしたちの罪責感は人と社会に対する意識です。それは人に対して「申し訳ない」とか「悪いことをした」という意識であるさらに「恥ずべきことをした」「するべきことをしなかった」という気持ちです。また世間に対して「お騒がしました」「ご心配をかけました」「迷惑をかけました」という意識であり、会社の責任者たちが記者会見でそろって頭を下げる場面がたびたび報道されています。日本の社会では、人からどう見られるかが問題であり、人に知られなければ話は別なのです。

 

2020年1025日、年間第30主日の福音朗読はマタイによる福音書(2234-40節)でした。

 

(そのとき、)ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

この福音は教えています。

目に見える兄弟を愛さない人がどうして目に見えない神を愛することができるか。神を愛するとは兄弟・隣人を愛するということであり、神の戒めを守ることであります。

 

旧約聖書には、神様が、イスラエルの民に与えた掟が記されております。神の掟は、いろいろな律法に、細かく分かれていました。

そこで律法の専門家がイエスに、「どの掟がもっとも大切か」という質問をしたところ、イエスはお答えになりました。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。

さらにイエスは続けて言われました。

「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。

「神を愛すること」、そして、「隣人を愛すること」。このふたつには、切っても切れないつながりがあります。

そこで、わたくしの心に浮かんでくる、新約聖書の教えがあります。

「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」。

「目に見える兄弟を愛さない、憎む者がいれば、それは、偽り者である」と、ヨハネの手紙が述べています。

「神を愛すること」と「隣人を愛すること」、「兄弟を愛する」ということは、ひとつに結びついています。神様のお望み、それは、わたしたちが、互いに愛し合うということです。

主イエスは、弟子たちにお命じになりました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

 

「愛」という言葉は、非常に多義的であり、その意味は曖昧ですがとりあえず、師とパウロの教えが想起されます。

それは、「愛の賛歌」と呼ばれています、コリントの教会への手紙、第一の手紙の13章、大変有名な教えです。「愛は忍耐強く」という言葉から始まっています。

数えてみると、15カ条が述べられています。

「愛」という言葉のギリシャ語のもとの言葉は「アガペー」という言葉です。この「アガペー」には15の項目が含まれていると、使徒パウロが教えています。この15のことを見てみますと、「忍耐」ということに関する教えが、非常に目立つ。最初に出てくる教えが、「愛は忍耐強く」という言葉です。

さらに、見ていきますと、「(愛は)いらだたず、恨みを抱かない。すべてを忍び、すべてに耐える」とあります。

愛という言葉は、忍耐という言葉に深く関わっているようです。言い換えれば、恨んだり、怒ったり、憎んだりするという、人間の心の状態から解放されていることではないだろうか、と思います。

自分のことを振り返ってみますと、いろいろなことで、苛々したり、不快に感じたり、場合によっては、人を攻撃する、ということになります。あるいはそこまでは行かないまでも、陰で人の悪口を言う。そのようなわたしたちではないだろうか。

生きるということは大変なことで、人生とは、困難なものであります。「ストレスが多い。」

仏教では「四苦八苦」と言います。4つの苦しみ、8つの苦しみ、非常に、生きるということは大変なことです。苦しみが伴う。現代の言葉で言えば、ストレスが多い。この「ストレス」に、どのように立ち向かうか、あるいは、どのように発散するか、が課題です。ストレスを発散するために、近くにいる人に矛先を向けて、自分の不満や怒りを向けてしまうということが、ありはしないだろうか。

みな、欠点のある人間です。こちらが望むように、相手がしてくれるわけではない。「こうして欲しい。こうであるはずだ」と思っても、ほとんどの場合、そうは行きません。

家族関係、あるいは、仕事関係、あるいは、われわれの教会の中でもそうです。お互いに、多少とも、傷つけてしまう。あるいは、相手のことがよく分からない。分からないから、その人を温かく、赦し、受け入れるということが、なかなかできない現実が、あるのではないでしょうか。

分からなくとも、自分が望むようなことをしてくれなくとも、その人を大切にするということが、聖書の教える「愛」、「アガペー」です。

「(愛は)すべてに耐える」。

 

隣人を愛するとは、社会的に弱い立場に置かれている人々、寡婦と孤児、寄留の外国人を大切にするということであり、年間第30主日の第一朗読、出エジプト記がそのことを明確に述べています。2220-26節です。(注3

 

ところでわたしたちは神の愛に応えるためには神の愛を経験しなければなりません。このことについて、非常に心に響いて、良い言葉だと思う聖書の言葉はたくさんありますが、その中のひとつが、旧約聖書の続編にある、「知恵の書」にあります。

 

「あなたは存在するものすべてを愛し、

お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。

あなたがお望みにならないのに存続し

あなたが呼び出されないのに存在するものが

果たしてあるだろうか。

命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

あなたはすべてをいとおしまれる」。(知恵1124-26

 

「わたしがこの世に存在するのは、神様のお望みによるのである。自分が、人と比べて、どんなに劣っていても、どんなに問題があっても、神様は、このわたしという存在を、愛おしく思ってくださる」。この信仰が大切ではないでしょうか。

 

日本は、非常に自殺者の多い国です。カトリック教会では、最近、自死という言葉を使っておりますが、自死する人が多い。毎年、年間3万人を超える人が自殺していましたが、最近、3万人を下回った。政府も一生懸命対策を立てて、努力した結果、自殺者は減っている。

しかし、青年の自殺は、相変わらず多い。若い世代の人の死因の第1位は自殺です。

(注4

 

自分の存在の意味が見いだせない、あるいは、よく分からない。現実の困難の中で、生きていくための動機が、非常に弱くなってしまう。そのような現実があるのではないでしょうか。

 

神は、あなたを大切な存在として造り、そして、いまも恵みをくださっています。それは、人間関係の中で培われます。まずは、家庭で、そして、友達の中で、大切であるということを、お互いに教え合い、そして、そのように行動することによって、人は、自分が大切な存在であると実感することができる。

「愛する」ということは、「神を愛すること」、「隣人を愛すること」、そして、「自分を大切にすること」と結びついていないといけない。世界中に独りしかいない、このわたしを、神様は造ってくださった。そして、わたしに使命を与えてくださっている。失敗したり、嫌なことがあったりしても、自分自身をもう一度見て、そして、自分は大切な存在なのだという信仰を、新たにしたいものです。

そのためにも「神の愛」の再解釈と文化の福音化が必須です。前回第10回の「イサクの犠牲」の再解釈はそのために非常に大切であります。

 

日本の社会の無言の圧力と通念があります。人はその基準に合わないと感じると生きづらいと感じるのではないでしょうか。圧力とは世間の目のようなものです。無言で人を追い詰める全体主義支配・管理の力です。人はその圧力の中で自分の場を見いだせないと感じるのではないかと思う。その思いが自殺に通じる。自分自身に自信を持つこと、自分の価値信じることです。

 

あなたの価値を保証するものはあなたをこの世に送った存在です。

 

 

(注1) 詩編51

51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。

51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】

51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。

51:4 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。

51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。

51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。

51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。

51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。

51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。

51:10 喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。

51:11 わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。

51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。

51:13 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。

51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。

51:15 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。

51:16 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。

51:17 主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。

51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。

51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。

51:20 御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。

51:21 そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。

サムエル記下

12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。

12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。

12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。

12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」

12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。

12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」

12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、

12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。

12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。

12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』

12:11 主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。

12:12 あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」

12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。

12:14 しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」

12:15 ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。

12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。

12:17 王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。

12:18 七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」

12:19 ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」

12:20 ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。

12:21 家臣は尋ねた。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。」

12:22 彼は言った。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。

12:23 だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」

 

(注2) 『神はなぜ人間になられたか」で以下のように彼は説明している。

アンセルムスの前には次のように説明されていた。

人間は罪を犯した結果、魂を悪魔に売り渡したことになった。神は御子キリストの命を賠償として支払うことによって人間を神から買い戻した。これを悪魔の権利説という。

アンセルムスはこの説を否定した。この説によれば、神と悪魔との関係は対等になるので神の絶対性に反する。そこで以下のように説明する。罪は神に対する無限の侮辱、栄誉の侵害である。神は慈愛によって一方的に人間を赦すことはできない。なぜならそれでは正義が回復しない。他方人間には負債を神に返す義務があるが有限の人間には無限の負債を神に返済することができない。そこで無限の神が人となって有限な人間となり、人間として無限の侮辱の罪を償うことにしたのである。無限の負債は無限の神であり同時に人間であるイエス・キリストによってしか償うことができない。人類の罪を償いために神は人となったのである。

『新カトリック大事典、アンセルムスの項より。』

 

(注3

(主は言われる。)寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。

寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。

もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。

(主は言われる。)寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。

寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。

もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。

 

(注4)以下の記事等が参考になります。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66433

2020年10月25日 (日)

人は正しく神のみ心を知ることが出来るか

人は正しく神のみ心を知ることが出来るか。

 

10月25日 年間第30主日の福音は次の通りです。

福音朗読  マタイによる福音書 22:34-40
(そのとき、)ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

キリスト教をどのように宣べ伝えたらよいでしょうか。キリスト教の掟は何でしょうか。

旧約聖書は613の掟を伝えているそうです。その中でどの掟が重要であるか、律法の専門家はイエスに訊ねました。

 

   「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

隣人を自分のように愛する、とはどれにでも分かりやすい教えです。信者でない人の一応納得するでしょう。もっとも実行するのは難しいとは思うでしょうが。

問題は

   「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

 

「主を愛する」とはどうすることですか。どうしてはいけないのでしょうか。これは俄かには分かりません。神は人と同じように何かを必要としている、「欠乏を抱えている」ものではないでしょう。それとみ神は何を望んでいるのでしょうか。聖書によれば神は確かに人間に種々のことを望んでいます。それが掟であります。単純に言って神の命じることを行うことが神を愛することでしょう。(前回第10回、で述べたとおりです。)アブラハムの苦悩は如何ばかりだったでしょうか。信仰の父と呼ばれるアブラハムは、やっとさずかったいとし子イサクを燔祭(焼き尽くすいけにえ)として献げる用に神から命じられたのです。彼は誰にも神の命令をあかさず黙々として実行しようとしました。そのアブラハムの心中を想像して記述した論文が有名なキエルケゴールの「おそれとおののき」であります。

さて、ここで問題です。神は本当にそのような非道な無慈悲で非常理で無体は命令をアブラハムにくださたのでしょうか。わたしには理解できません。しかし、信仰とは理解できないことを受け入れるという理解があります。キルケゴールは、神の絶対性を人間の思いに優先します。

これは創世記に出て来る物語ですが、福音書ルカでは、おとめマリアがやみくもに救い主の母になることを求められます。こちらはアブラハムとイサクの物語とかなり、あるいは全然違う物語でしょうが、天使は命令ではなくお告げを伝えるのです。マリアは承諾します。理解できないまま神の計らいを信じて従いました。

マリアのように信じて受諾できればいいのですがわたしたちの場合はどうでしょうか。

まず、本当に神からの命令あるいはお告げであるのかが、問題です。次にその言葉が何を意味しているのかが問題です。第10回で申し上げたように、寓意的意味に解釈することが出来ます。アブラハムが命じられたのは、文字通りイサクをいけにえにして殺すということではなかったのだと思います。わたしたちは「み心が行われますように」と「主の祈り」で嘆願しますが、神のみ心とは何であるのかが問題です。「隣人を自分自身のように愛する」とは具体的に何を意味するのかが問題です。

イエスの復活の後教会が設立されました。教会は地上のイエスに替わってイエスの事業を継続し発展させます。教会はイエスの心に替わって日々どこにおいてもイエスのみ心を実行すべく期待されています。とはいえ、神のみ心あるいは主イエスのみ心はそう容易にはわかりません。かつて教会は神の名によって決定し命令しました、いわゆる異端審問、十字軍結成はそのような事例ではないでしょうか。後の時代になると非常に不可解な行動でありました。聖ヨハネ・パウロ二世は『紀元二千年の到来』という文書でそのことを示唆しています。教皇フランシスコは神の名による戦争・暴力を断固否定していると思います。裁くということは非常に難しいことです。わたしたち罪人が罪人を裁くということは非常に困難です。しかし、見て見ぬふりをして悪をはびこらせて良いでしょうか。そうではない。謙虚と寛容、併せて賢慮と正義が求められます。

2020年10月22日 (木)

神はアブラハムに何を命じたか?

悪についての小考察その10

――神はアブラハムに何を命じたか。「イサクの犠牲」という躓きについて

 

キリスト教がなぜ日本の地でなかなか受け入れられないのは何故か?教会の宣教の仕方に問題があるからか?教会自体の在り方に問題があるからか?あるいはキリスト教の内容、教理、教えが、人々にとって理解を阻んでいるのか?

聖書の教えが難しいからか?

 

今回は「躓きの石」かもしれない創世記で述べられている「イサクの犠牲」の物語を取り上げます。この個所はカトリック教会で最も大切にしている典礼の復活徹夜祭の朗読の選択肢に挙がられています。まず以下に本文を引用します。

 

アブラハム、イサクをささげる

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、

アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。

そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。

御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、

あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。

地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

(創世記221-18

 

アブラハムは多くの人々から信仰の模範とされています。ユダヤ教はもちろんですが、キリスト教、イスラム教でも信仰の父として尊敬されています。

アブラハムは生涯にわたり数々の試練を受けました。特に本日朗読されたイサクの犠牲の話は非常に深刻で辛い試練でありました。神はアブラハムに独り子イサクを与えたにもかかわらず、イサクを焼き尽くすいけにえ(かつては燔祭と訳されていた。)として神にささげるよう命じました。すでに神は、アブラハムの子孫が増えて、空の星のようになるだろうといわれたのです。イサクをささげるとは文字通り息子を殺す、ということです。なんと残酷な命令でしょうか。でもアブラハムは黙々と神の命に従い、早速出発して、いけにえをささげるべき山へ向かいます。途中の会話は何も記されておりません。息子イサクは何歳だったのでしょうか。13歳という説があります。イサクは自分を燃やすための薪を背負わされたのです。アブラハムがまさに刃物を取って息子イサクを屠ろうとしたときに、天の見使いのこえがしました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」主はイサクの替わりにお羊を用意し、お羊をささげるように準備してくださったので、危うくイサクの命は助かったのでした。

それではわたしたちはこの話をどのように受け止めることができるでしょうか?
従順に父の従うイサクの姿は、十字架にかけられたイエスを想起させます。愛する独り子を神にささげる苦悩を体験しタアブラハムは、愛する独り子イエスが十字架の上で惨殺されるに任せた天の父を思い起こさせます。アブラハムも苦しみ、イサクも苦しんだに違いないのです。

父である神はご自分のもっとも大切な人イエスを犠牲にしました。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである、』(ヨハネ316)

復活徹夜祭で行われる洗礼は、人々をイエス・キリストの死と復活の神秘に与らせ、永遠の命へと導くための恵みを与える秘跡であります。(ローマ63-11参照)

 

「焼き尽くす献げ物」とは「燔祭」の犠牲のことです。息子を燔祭の犠牲にするということは、はっきり言えば、焼き殺しなさい、という意味です。神は本当にそう命じたのでしょうか。

かつて聖書の分かち合いにこの個所を取り上げて、この神の命令をどう思うかと訊ねたところ、「とんでもない、正気の沙汰ではない」という感想が返ってきました。そうです、正に、父親が罪もない子供を焼き殺すとは、あってはならない以上な出来事なのです。この時イサク何歳だったのか、はっきりしませんが、唯々諾々と父親がなすがままに任せていたのでしょうか。それても暴れて抵抗したのでしょうか。100歳を超えた高齢者のアブラハムと少年あるいは青年だったかもしれないイサクが肉体で争えば、イサクの方が勝つでしょう。これは本当にあった出来事でしょうか。何等かに似たような出来事がこのように内用が変えられたのでしょうか。当時は確かに子どもを犠牲として神に献げて神の怒りを宥めるという悪しき習慣が行われていたとも考えられます。聖書自体はこの創世記の記述をどう解釈しているかといえば、ヘブライ書がこの出来事を取り上げています。

 

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

   (ヘブライ1117-19)

ヘブライ書によれば、アブラハムは自分の子を殺すことに疑念を抱いていないようです。たとえイエスを殺しても神はイサクを生き返らせてくださると信じていたからでした。

使徒ヤコブもイサクの犠牲に言及して言っています。

神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。

(ヤコブ221-24)

ヤコブによれば、アブラハムがイサクを屠った行為は何ら非難すべきことではなく、むしろ称賛されるべきことである、と言っているように見えます。

人間社会の法律・道徳から言えば犯罪であり非道な残虐行為ですが、神の目から言えば、称賛に値する従順な信仰の行為である、ということになり、ここに、倫理と信仰の対立という現象が生じるのです。(この点については、キエルケゴールの『おそれとおののき』を取り上げて一緒に論じることにします。(注1)

 

一体、わたしたちはこの創世記の記述をどう解釈したらいいのでしょうか。旧約聖書は新約聖書の光ももとに解釈しなければなりません。イエス・キリストの復活の光のもとにイサクのいけにえを読み直す必要があります。今日訳聖書の解釈については第二バチカン公会議の啓示憲章を見なければなりません。(2)

 

ここで考えてみるに、神は本当にアブラハムにイサクを殺すように命じたのか、という疑問があります。「イサクを神に献げなさい」という命令ならわかります。「献げる」=「殺す」と解釈されるところが問題です。「殺してはならない」と命じられた神がアブラハムには息子を殺すようにと命じられたのでしょうか。人間は神の命令に服するが、神自身はその義務はないということだろうか。法の制定者自身が法を遵守しなければその方は向こうではないだろうか。

アブラハムは「神が息子を燔祭にするように命じた」と理解しました。それは間違いないと思われます。しかしその理解は間違っていたと考えるべきです。

人間の啓示の理解は徐々に発展してきました。神は六日間にわたって天地を創造したと創世記一章が伝えていますが、六日間という時間は、人間の考える時間ではない、ということは、今日、多くの人が諒解しています。

旧約聖書に出て来る記述で今日受け取りにくいことは他にも縷々あります。例えば「聖絶」(ヘレム)という問題です。

紀元前十三世紀、モーセに率いられたイスラエル群はエジプトからカナンの地に移住しましたがその際起こった理解しがたい現象が聖絶(ヘレム)と呼ばれる、カナン先住民殲滅事件でした。旧約聖書の専門家H・クルーゼ師によれば「神の裁きによる判決を人間の手を通して行う死刑執行」と定義されています。申命記によればこの死刑は神の意思に基づいて行われます。(4)

あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離してわたしに背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである。あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである。

   (申命記71-5)

この聖絶の思想は今に続くパレスチナ紛争の原因の一つになっています。この思想に「一神教」の危うさを指摘する者がいたとしたらそれは無理もないことだと思います。「聖絶」は形を変えて十字軍となり、さらにナチスの虐殺へとつながってきたと考えるのは行き過ぎでしょうか。

さて、神はアブラハムにイサクを殺すようにとへ命じなかったとして(仮説ですが)もう一つの問題があります。それは神がアブラハムを「試された」、ということです。

 

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 

つまり、アグラハムが神に忠実であるか、神を真に信じているかを知るためにテストした、という意味です。この「試された」という動詞の名詞は、「試み」となりこれは「試練」とも訳されています。「試練」はヘブライ書が

 

「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。」(1117)

 

でいうところに「試練」であります。そして「試練」のギリシャ語原文はペイラスモスpeirasumosρειρασμο(′)ςです。そしてpeirasumosは「主の祈り」出て来る「誘惑」なのです。おなじことばpeirasmosが「試練」となり「誘惑」となります。

日本語で試練と誘惑は明白に意味が違います。試練は人が人生で出会う、克服すべき困難。辞典によれば「心も強さや力の程度を試すために苦難」(新明解国語辞典)「信仰・決心など強さをきびしく試すこと。またその時に受ける苦難」(広辞林)となっています。どうも「試す」という要素が入っているようです。「誘惑」はどうかと言えば「相手を、その本来の意図に反する方向に(置かるべき状況とは異なった状況に)誘い込むこと。」

(新明解国語辞典)「人を迷わせて、悪い道に誘い込むこと。相手の心をひきつけて、自分の思い通りにすること。」(広辞苑第七版)とあり、誘惑者が自分の求める方向に人の心を引き寄せることを言うようです。(注3

さて、「主の祈り」では、現在の口語訳では「わたしたちを誘惑におちいらせず悪からお救いください」となっていますが、かつての文語の文言では「われらを試みに引き給わざれ」となっていました。明らかに,peirasmosの解釈が「試み」から「誘惑」並行しています。

人は誘惑に遭います。誘惑に遭っても誘惑に負けて罪に陥らせないように助けてください、がこの祈りの意味であります。試みに遭わせないようにとは祈ってはいないのです。神は人を決して誘惑はしませんが試みには遭わせるわけです。「神は人を誘惑しない」ということは神の神性(神の本来の在り方)から行って必然であります。ヤコブは言います。

 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。(ヤコブ113

神が人を罪・悪に誘うなら、それは神ではないということになります。

それでは誘惑は何処から来るのか。ヤコブは、誘惑は人間の欲望から来ると言います。

  むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブ114-15)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(一ペトロ5・7)

そして、誘惑は「悪いもの」つまり悪魔から来るのです。主の祈りの出典であるマタイによる福音で次のように祈っています。

わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。(マタイ6・13)

 

またペトロの手紙は言っています。

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。

(一ペトロ5・8-9)

(「悪魔」については稿をあらためて考察したい。)

そこで「ペイラスモス」である「誘惑」は、悪魔ないし人の欲望から来るということになります。それでは「ペイラスモス」である「試練」=「試み」は何処から来るのでしょうか。アブラハムの受けた試みは神からの直接のものでした。アブラハムは息子イサクを燔祭にすると解釈しましたが、果たしてそうなのか、という疑問を筆者は提出しています。使徒パウロの次の言葉は有名です。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(一コリント1013)

人は試練に遭います。「試練に遭わせる」という言い方は何を意味しているのでしょうか。試練は神から来る、神の意向である、神が原因である、という意味でしょうか。

 使徒パウロの受けた試練は数えきれないものでした。その中に「とげ」があります。

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(二コリント127-10

「とげ」はパウロにとって非常に辛いものでした。それが何であったか明らかではありません。人間パウロの弱さ、疾病にかかわる重大な欠陥であったようです。

の弟子たちは必然的に「多くの苦しみを経なければならない」のです。師イエスが苦しみを受けたのなら、その弟子が同じく苦しみを受けるのは必然であります。弟子たちの受ける苦しみは、神から来るのではなく「世」から、神の支配を拒否するこの世の罪から来るのであります。

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚なさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。(ヨハネ1518-25)

「あなたがたには世で苦難がある。」(ヨハネ1633)

二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。(使徒言行録1421-22

主イエスも人間として誘惑を受けられました。その誘惑はもちろん神から来たのではなく、またイエスご自身の欲望か来たのでもなく、それは、悪霊から来たのであり、イエスは人間の有限性をもって、悪霊の誘惑をその身に受け、そして退けたのでした。神がイエスを試みに遭わせたとは思えません。イエスは自ら苦しみを見に受け、父である神はイエスが試みと誘惑に遭うのを忍び、ゆるし、そして一緒に戦ったのだと考えます。

 

「試みる」というとき、主語が神である場合と主語が民である場合があります。

Theoligical Dictioanry of the New Testament,peiraoなどの項を参照してください。)

神は人を心に合わせます。アブラハムの受けた「試み」ですが、神がアブラハムにイサクをいけにえにするように命じた、とは考え難いです。聖書解釈について(2)で説明していますように、寓意的解釈という方法があります。神がアブラハムに命じたのでは、イサクを文字通り燔祭の生贄にするようにという意味でなく、愛する息子であった執着せずに、神の計らいにゆだねるように、老い意味であると思われます。神はアブラハムが自分に従うかどうか、忠実であるかどうか知るために、イサクの生贄を命じたとは考え難いのです。神は人に試験をして、合格するどうか探り、合格したたらその人を祝福する、というような神でしょうか。そのようには思えません。神が人に試練をゆるすのは、おのれを捨て己が十字架を担うという人の生き方を教え導き助ける為であります。人をイエスの十字架の神父に与らせ過ぎ越しの神秘の恵みに与らせるためであります。決して、人の品定めをするという意地悪い意図をもって人を苦しめるわけではありません。

イサクはイエスの前表と考えられます。あらかじめイエスを指し示すしるしとしての役割を担いました。イサクの信仰も多いに評価されるべきです。旧約の生贄、血を流す動物の生贄はイエスの十字架によって廃止され、今は、パントぶどう酒による献げものがミサで献げられているのです。

ところで神が人を試練に遭わせることがあるとして、その逆、つまり、人が神を試みることは信仰者としてあってはならないことです。『教会の祈り』で毎日次のように唱えています。

  今日、神の声を聞くなら、

   メリバのあの日のように、

  マッサの荒れ野の時のように、

   神に心を閉じてはならない。

  「あのとき、あなたがたの先祖たちは、

  わたしのわざを見ていながら、

   わたしをためし、試みた。」

主なる神を試し試みる、とは、不信仰の態度であり、神の愛と力を疑い、神の命令に不従順中であることを示しています。旧約聖書はイスラルの民が荒れ野で神に不平を言った神の愛を疑ったことを告げています。(出173、明20132024,2714、申3251,338、詩818,958,10632

 

―――

(注1) 『おそれとおののき』はデンマークの哲学者セーレン・キルケゴールが1943年発表した作品で、婚約者レギーネ・オルセンとの婚約破棄という劇的事件を背景にして、キルケゴールがその苦悩を綴った論文であります。婚約破棄は一方的にキルケゴールの方から行われ、その理由は誰にも説明されませんでした。等の相手のレギーネにとっても全く意外な納得の行かない出来事であったと思われます。この事件がイサクの犠牲の物語とどのような関係あるのか、必ずしも、読者には明確ではないのです。イサクの犠牲の話はイサクの信仰を主題にしています。婚約破棄の原因はキルケゴールの信仰の問題にあるようであります。「信仰」ということが重要な主題であり、「神を信じるとはどういうことか」が論じられているのが『おそれとおののき』であります。

アブラハムは愛する息子、たった一人の息子を燔祭の生贄とするように神から求められました。アブラハムは即座に応諾し、朝早く発ってモリヤの山に向かいました。その際、彼は当のイサク、そしてその母であり自分の妻であるサラに、神のお告げの説明は一切しないのです。父子の間には何の会話もなかったようですが、ただ一回の会話、つまり次のような言葉が記録されています。

22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

真に涙なしには語れない物語です。アブラハムは息子をささげるようにと命令されたのですが、息子の方はそれを知りません。何か気付いていたかもしれませんが、あえて確かめる事態には至りませんでした。アブラハムの答えは、ヘブライ書にあるように、実際に息子を手にかけることは起こらないだろうという意味か、あるいは、たとえ燔祭にささげられても神はイサクを蘇らせてくれると信じていた、という意味か、判然とはしません。実際のところ、アブラハムは刃物を手にして息子を屠ろうとしたのです。ここで問題は、果たしてアブラハムの判断と行動は正しかったのかどうか、ということです。彼は神の命令にしたがったのですから、彼には何ら誤りはない、と言うべきでしょうか。神の命令は絶対です。地上のいかなる倫理・道徳も、法律も、神の命令の下に置かれているのですから、たとえ、道徳や法律に反しても、神の命令は絶対であり、神の命令で行ったことはすべて義とされるのです。「殺すなかれ」は神の十戒の一つですが、神が命令する場合はその限りではありません。実際、国家による死刑、あるいは戦争は「十戒の適用外」とされてきました。(やっと最近問題とされるに至ったのですが。) 愛するわが子、その子孫は空の星のように増えるという祝福を受けたイサクをわが手にかけなければならない父アブラハムの苦悩は如何ばかりであったでしょうか。問題は神の命令であれば神の掟に反する重罪を起こしてもよいのか、あるいは例外として、その責任は問われないのか、ということです。キルケゴールはその論点を詳細に論じています。信仰の世界、超自然の世界では、地上の論理、道徳は無効である、というのが彼の見解です。ここに信仰の逆説があります。「信仰の逆説は、(信仰者である)個別者が普遍的なものよりも高くあるということであり、いまではかなり稀になっている教義上の差別を思い起こしてもらえば、個別者が絶対的なもの()に対する彼の関係によって、普遍的なもの(例えば、殺す勿れという掟)に対する彼の関係を規定するということであって、普遍的なものに対する彼の関係によって、絶対的なものに対する彼の関係を規定するということではない。この逆接は、神に対する絶対的義務が存在する、というふうに言い表すことが出来る。なぜなら、この義務関係においては、個別者は個別者として、絶対者に対し絶対的に関係するからである。」(世界の大思想24、キエルケゴール、『おそれとおののき』、63㌻。カッコ内の説明は筆者の解釈による。)

アブラハムが神の命令を誰にも打ち明けなかったのも、アブラハムの沈黙は信仰者の行為として是認されるだけでなく、称賛に値します。誰かに話しての到底理解してもらえないだろう、いや説明すべき言葉を彼は持たなかったのだ、とキルケオールは言います。言葉にはならない信仰の世界の出来事なのです。またキルケゴールはイエスの言葉を引用してアブラハムを弁護し称賛します。

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

貴方がたのうち、等を立てようとするとき、作り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

     (ルカ1425-33)

14章25節の「これを憎むmiseou」ですが、当時のデンマークではこの言葉を文字通りには受け取らないで、弱めて解釈し、「あまり愛さない」「ないがしろにする」「気にかけない」「無視する」などの意味にとっていたそうです。それは誤りだとキルケゴールは断言します。(しかし、アブラハムがイサクを憎むと言っても、燔祭にして殺すという意味だったかは、多いに問題です。)ともかく、イエスの従う者は一切を投げうって従わなければならない、同様に、主なる神の呼びかけには無条件に従わなければならないわけで、アブラハムはその模範であります。

 

 

(注2

啓示については第二バチカン公会議の『啓示憲章』に学ばなければなりません。(以下、『カトリック教会のカテキズム』34㌻―38㌻によって説明します。)

神は愛によってご自分を人類に掲示しました。啓示の源泉は聖伝と聖書です。聖書の作者は神です。何故なら聖書は神の霊感によって書かれたからです。神は人間である聖書記者に霊感を授けました。聖書記者は人間的な表現で神の言葉を伝えています。ですから聖書を正しく理解するためには、当時の状況と文化、当時使われていた「文学類型」、当時の人々のものの感じ方、話し方、物語の方法を考慮する必要があります。そして、霊感を与えた聖霊に忠実に解釈するために荷は次の三つの基準に従わなければなりません。

① 聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払うこと。受難の後の復活の光に照らして解釈すること。

② 教会全体の生きた伝承にしたがって聖書を読むこと。教父の教え方に従い、霊が教会に与えた霊的意味に従って聖書を霊的に解釈しなければなりません。

③ 信仰の類比に留意しなければなりません。「信仰の類比」とは、信仰の諸真理が、それら相互においても、啓示の教え全体においても一貫している、という意味です。

聖書の意味には文字通りの意味と霊的な意味との二つの意味があります。後者は寓意的な意味、道徳的な意味、天上的な意味とに分けられます。これらの四つの意味は根本的には一致し、聖書の解釈をより豊かにしてくれます。

霊的な意味。 

1)寓意的意味。寓意に託して表現される啓示の真理。例えば紅海を渡るのはキリストの勝利と洗礼を意味する。

 寓意とは、「他の物事に託して、それとなく真意をほのめかすこと。また、その裏に隠れた意味。(広辞林)。 「アレゴリー(英: Allegory)とは、抽象的なことがらを具体化する表現技法の一つで、おもに絵画、詩文などの表現芸術の分野で駆使される。意味としては比喩(ひゆ)に近いが日本語では寓意、もしくは寓意像と訳される。詩歌においては「諷喩」とほぼ同等の意味を持つ。また、イソップ寓話に代表される置き換えられた象徴である。」(ウイキペディア)

2) 道徳的意味。正しい行動に導くための表現

3) 天上的意味。永遠の意味を示す。例えば地上の境界は天上のエルサレムのしるしです。

 

(3) ちなみに英英辞典では次のように説明しています。

Temptation/tempting or being tempted tempt/(try to)persuade (sb)to do sth wrong or foolish/ Attract (sb) to have or do sth./(old use,biblical) test

Temptation とtestとの区別は必ずしも明確ではないような印象です。

 

(注4) 岡田武夫『現代の荒れ野で』オリエンス宗教研究所、III-4、ねたむ神と聖絶、を参照。)ならびに『神言』H.クルーゼ、南窓社、16㌻、参照。

以下、「クリスチャントゥデイ」(2019214日付け)より引用。

羽生選手が引用した「試練は乗り越えられる者にしか与えられない」や、池江選手の「神様は乗り越えられない試練は与えない」は、新約聖書の言葉「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント一10章13節)に基づくものだとみられる。

(中略) 一方、ここで言われている「試練」という言葉は、日本語では「逆境」や「苦難」といったニュアンスで捉えられる場合が多いが、原語のギリシャ語「ペイラスモス」は「試み」や「誘惑」とも訳せる言葉だ。またこの箇所は、主に偶像礼拝に対する警告が書かれているところで、13節の後には「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」(14節)と続く。そのため、13節で触れられている「試練」は、一般的にイメージされる「逆境」や「苦難」よりも、偶像礼拝やみだらなこと、神を試みること、不平を言うこと(8〜10節)との戦いという、信仰上の「試練」と捉えた方がよいのかもしれない。ちなみに、イエス・キリストが荒野で40日間断食し、悪魔から誘惑を受けたとされる新約聖書の別の箇所(マタイ4章1〜11節)で、「誘惑」と訳されている言葉も、ペイラスモスの語源となる言葉だ。また「主の祈り」の「われらを試みに会わせず」の「試み」もペイラスモスが使われている。

 

2020年10月18日 (日)

年間第29主日A年、神のものは神に

年間第29主日A年説教「神のものは神に」

第一朗読  イザヤ書 45:1、4-6

主が油を注がれた人キュロスについて主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り 国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ どの城門も閉ざされることはない。

わたしの僕ヤコブのためにわたしの選んだイスラエルのために わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたがあなたは知らなかった。

わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが あなたは知らなかった。

 日の昇るところから日の沈むところまで人々は知るようになる わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。

 

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 1:1-5b

パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。

わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。

 

福音朗読  マタイによる福音書 22:15-21

(そのとき、)ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」説教―殉教者に学びながら」

2020年10月18日、本郷教会司祭館にて

 

今日の第一朗読はイザヤ書45章です。ここで繰り返し述べられていることがあります。

「わたしが主、ほかにはいない。」という言葉です。

すなわち、

「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。」

「日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる

わたしのほかは、むなしいものだ、と。

わたしが主、ほかにはいない。」

と繰り返し主張されているのです。

イスラエルの歴史は、この信仰の歴史です。イスラエルは何度もほかの神を神とし、バールを礼拝したりして神を怒らせます。

主なる神だけを礼拝するということは、他のもの、他の価値、存在を神として礼拝しない、ということです。

信仰を捨てるよう、日本の殉教者たちは強要されたが、「ほかのことならともかく、それだけは捨てることはできない、いのちにかけても」といってそれを拒否し、信仰を守り宣言した人たちです。

今日のイザヤの預言で繰り替えし強調されている「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない」という、この信仰を守った人々が殉教者です。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」はよく引用されるイエスのことばです。政教分離をめぐる議論のときに使われ、政治と宗教は別な次元に属するから、政治問題を宗教に持ち込んではならない、という主張の根拠とされます。地上の権力者への服従の根拠とされるのです。

殉教者は信仰を捨てるようにとの時の権力の命令に従わなかったので処刑されました。信仰の自由は基本的人権であり、皇帝の任務の範囲の問題ではありません。信仰の問題はまさに神の問題、領域なのです。それなのに400年前の為政者は信仰を理由にキリシタンを処刑しました。信仰は皇帝の管轄でないのに皇帝のものとしたのです。

デナリオン銀貨には皇帝の肖像と銘が刻まれていました。ですから皇帝のものは皇帝に返しなさい、とイエスは言われました。

確かに神は地上に権威者を立て、人が権威者に従うよう定められました。権威者は神によって建てられるのですから、権威者は神の御心によって民を治めなければなりません。弱い人、貧しい人を守り保護しなければならないのです。正しく治める限る人は権威者に従わなければなりません。もし為政者がそうしないのなら人は服従する義務はないのです。

それでは人には何が刻まれているのでしょうか。人は神の似姿として創造されています。(創世記1・27参照) だれにでも神の像が刻まれているのです。ですから人は神のものであり、神のものは神へ返さなければなりません。殉教者は神のものを皇帝に返すことに反対して殉教者となりました。殉教とは神のものを神のものとすることだと思います。

いまわたしたちは、いのちにかえても守るべきものをもっているでしょうか。それを知っているでしょうか?

神の愛を知り信じた人はもはや神を否定することはできません。それは自分自身を否定することになるからです。

400年前、数々の困難のなかで不屈の勇気をもって司祭の職を全うし殉教したペトロ岐部神父、障害者となり病者と共に生きて、神の贖いの愛をより信じ、処刑に際して信仰を告白して神の愛の証人となったヨハネ原 主水。この二人の東京教区の殉教者に学びながら、「神のものは神に」とは、現代のこの状況において何を意味するのか、考えてみなければなりません。

現代はある意味で非人間化の時代ではないでしょうか。

わたしは、「神のものは神に」とは、現代において、神が一人ひとりを掛け替えのない存在としてくださるという神の愛への信仰を生きること、その信仰を強くしていただくことだと思います。

わたしたちがそのあかしをたてることができるように、殉教者の取次ぎによって祈りましょう。

 

2020年10月17日 (土)

悪についての小考察その9 「さびしさ」と「かなしさ」の中で

ダウンロード - e682aae381abe381a4e38184e381a6e3819de381aeefbc99.docx

 

2020年10月15日 (木)

「はかなさ」と「さびしさ」 悪についてその7

悪についての小考察その8

――「はかなさ」と「さびしさ」ついて

 

はかなさ

「悪」であるかどうかは別にして、人間がであう重要な問題の中に、人生の「はかなさと「さびしさ」という問題があります。仏教の深い洞察は「人生の諸行無常」という真理でした。キリスト教ではその点は何でしょうか。聖アウグスチヌスが言っています。

「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』:Confessiones I, 1, 1〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、59頁〕)。(注1)

「はかない」とはどういうことでしょうか。キリスト教では、人は神の被造物です。神によって造られ神によって導かれ神のもとに招かれ神に向かって旅をしている「旅人」であります。「旅人である被造物性」。これは「はかなさ」に通うものがあるにせよ、同じではないでしょう。むしら「偶有性」のほうが人間存在を言い表すには適しているかもしれません、「偶有性」については小考察その6の注1で触れています。偶有性はラテン語ではcontingensという。論理的には「その存在が必然ではないが、それが存在するとしても、そのゆえに、いかなる不可能も生じて来ないもの」と定義されています。なんともはかない感じの存在です。存在することは必然ではないがあってもよい、そういう存在なのでしょうか。いわば偶然の存在です。

キリスト者にとって「偶然」ということをどう考えたらよいのでしょうか。「偶然」は信仰と深くかかわります。この世界の存在、そして自分という者の存在。これらは偶然でしょうか。無ければならないものではないがあってもよい、というものでしょうか。

信仰者にとって自分の存在は神の意思によるのです。自分はあってもなくてもよいものではない。神の御心に従ってこの世に生まれてきたのです。たとえ悲惨な状況の中に生まれてきたとしても、それは神の御手の中にあるのです。しかし、極端な話、強姦によって身籠って生を受けて者があったとして、そのような生は神の祝福のうちに置かれているのでしょうか。あるいはいったん受胎しても堕胎によって抹殺された胎児も神の御心によって受胎されたのでしょうか。まさか、強姦、あるいは堕胎は神の御心にかなっているとは言わないでしょう。強姦、あるいは堕胎は「偶然」の出来事であり、神のあずかり知らないことなのか。

エレミヤ書で言われています。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から

あなたを知っていた。

母の胎から生まれる前に

わたしはあなたを聖別し

諸国民の預言者として立てた。」(15)

また詩編作者は言います。

わたしはあなたに感謝をささげる。

わたしは恐ろしい力によって

驚くべきものに造り上げられている。

御業がどんなに驚くべきものか

わたしの魂はよく知っている。

秘められたところでわたしは造られ

深い地の底で織りなされた。

あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。

 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。

わたしの日々はあなたの書にすべて記されている

まだその一日も造られないうちから。(13914-16

聖書においては誰一人「あってもなくてもよいもの」ではありません。誰にも替わってもらえない唯一の存在、かけがえのない存在、ユニークな価値のある存在です。

但し、哲学の考察によってこの真理を論証できるでしょうか。いうまでもなく哲学は啓示を援用できない、啓示を論拠にはできないのです。あくまでも人間理性の考察により結論でなければならないのです。かけがえのない価値の根拠に神を持ち出すことは哲学者の禁じ手ではないでしょうか。

 

偶然性

さて、この偶然性ということを哲学の重要な課題として取り上げた人が『いきの構造』の作者である九鬼周造でした。(『偶然性の問題』(1935年、岩波書店)。彼は偶然とは何か、について非常に緻密な考察を展開しています。彼は「偶然性」に、ラテン語のcontingentiaを当てています。つまり「偶然性」は「偶有性」であります。

それでは、九鬼周造による「偶然性」とはいかなる意味かを、九鬼周造研究者の説明に従って学んで行きます。

九鬼周造は本書の序説で次のように述べています。

偶然性とは必然性の否定である。必然とは必ず然(し)か有ることを意味している。即ち、存在が何らかの意味で自己のうちに根拠を有(も)っていることである。偶然とは偶々(たまたま)然(し)か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を持っていないことである。即ち、否定を含んだ存在、無いことのできる存在である。換言すれば、偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無との接触面に介在する極限的存在である。有が無に根差している状態、無が有を侵している形象である。(同書、13㌻。)

 

冒頭のことことばは本書のまとめであり結論でもあります。九鬼周造の研究者、田中文久氏は次のように言っています。

「九鬼周造によれば、人間は本質的に「偶然性」というものに貫かれた存在であるという。」そして、九鬼は「偶然性」の本質は「無」であるとしています。九鬼にとって「無」とは「同一性」の裂け目としての「無」において成立する、という。「同一性」の裂け目とは、分裂や対立を意味しています。(同書119-120㌻。)

九鬼周三の著書『偶然性の問題』は、人生とは如何に偶然性に満ちたものであるかを説きます。人間は自ら選び取れない状況の中で生まれ日々その中で生きて行かなければならない。人生で遭遇する出来事は不条理で無意味なものに満ちている。偶然性が人生の営みを無化する。九鬼周造は『偶然性の問題』の中で言っています。

「偶然は無概念的である。無関連的である。無法的、無秩序、無頓着、無関心である。偶然には目的がない。意図が無い。ゆかりが無い。偶然はあてにならない。」

このように「無い、無い尽くし」を並べており、田中文久『日本の「哲学」を読み解く』によれば、九鬼周造の哲学はまさに「無」の哲学であります。

さて、さらに筆者は、〈「個物」の抱える「偶然性」〉という見出しのもとで論議を展開しています。(同書134㌻以下。)

ライプニッツが言っているそうですが、宇宙には完全に同じものは存在しない。同じ雨粒はない。すべての事物は何らかの意味で孤立性や例外性を持っている、と言います。そしてこの孤立性や例外性を最も切実に自覚するのが人間である、と言います。

 

しかしここで筆者(岡田)が理解しがたいと思うのは、どうして、人間の個物性(個人性)を自覚することがマイナスになるのか、ということです。これは、同じ人間でありながら、一人ひとりの人間が負わされている「偶然性」を否定的に解釈するが故の評価ではないでしょうか。人間には個人差があります。健康な人、病気の人、富んだ人、貧しい人、賢い人、愚かな人、頭のよい人、悪い人、美しい人、醜い人、明るい人、暗い人、敬虔な人、冒瀆的な人、親切な人、勝手な人…など(切りがありませんが)、この個人差は場合によっては個性と呼べるものであり、その人をその人たらしめている特徴であります。四葉のクローバーが例外であるように、人間にも例外がある、という論議でしょうか。障がい者の存在はこの例外に該当するのでしょうか。障がい者は人間の一般概念から漏れる「偶然性」をもった例外であるのでしょうか。第7章で紹介した「世界に一つだけの花」というSMAPのうたで言っている「ただ一つしかない存在」の価値を貶めることにはならないでしょうか。

「くせに」という言葉があります。「女のくせに」などという表現に使われ、差別を意味する言い方になっています。「くせ毛」などと言いますが、本来の有るべき毛があって、くせ毛はその基準に該当しなし毛であるという言い方ではないでしょうか。

「偶然性」という言葉の意味が「個別性」「例外性」と結びき、それが否定的差別的な意味に結び付くことに大きな懸念をおぼえます。

人間はそれぞれ個別な存在であり、これ以上分解できない個人であり、そこに不可譲かつ不代替の価値を認めるのです。

この問題を鋭く意識して論じている哲学者がいます。(注2) それは宮野真生子氏で、宮野氏は、「である」と「「がある」の違いと意味を通してこの問題を論じています。「である」は普遍性・一般概念を表わし、「がある」は「個別性・偶然性」を表していると宮野氏は分析します。人は誰でも「〇〇××さん」であり、「人」さんという人はいません。まず人間であって次に具体的に誰それという在り方を取るわけです。もし「わたしは教師である」として、教師である自分が、他の教師でもよい存在になってしまうということを感じることがあります。つまり「別にこれはわたしでなくともよいのではないか」という交換可能性の問題です。実際多くの職務は、たぶんすべて職務というべきでしょうか、交代が可能です。AさんのしていたことはAさんにしかできない、ということはありません。もしそうなら組織は継続しないし社会が成り立たなくなります。首相が辞任すれば後継者が任命されます。司教が辞めれば次の人が司教に任命されます。組織は何の支障なく存続します。大切なのは普遍性を維持しながら唯一性を尊重することです。これは個人の間でも団体の間でも国家の間でも適用される法則ではないでしょうか。

 

三つの偶然性

さて、九鬼周造は偶然の諸相として「定言的偶然」「仮説的偶然」「隣接的偶然」の三つの

様態に分けています。(以下、『偶然性の問題』の解説(小浜善信)によるところが多い。)

「定言的偶然」とは、定言的必然性の外に枠にある偶然の場合を言います。例えば「人間は理性的動物である」という命題のように、主語概念と述語概念との間に同一性の関係、必然的な関係があります。しかし、「人間は黄色である」という命題の場合、人間は必ずしも黄色であるわけではないので、黄色であるという属性は偶然であります。しかし皮膚の色の違いの場合、その違いを説明できる原因があって説明できる場合は皮膚の色の違いは偶然ではない、ということになります。

「仮現的偶然」とはどういう場合の偶然か。

「クローバーのなかには四葉がある。」「ある人々は黄色である。」と言った場合、クローバーにとって四葉であること、人類にとって黄色であることは、その概念から必然的ではありませんので、「四つ葉」「黄色」は偶然となります。しかし個物を、「この」という限定の言葉が着く「この四葉のクローバー」や「この黄色の人間」、つまり「具体的個物そのものとして見れば、個のクローバーにとって四葉であること、この人間にとって黄色であることは、無くても良いもの、切り離して考えられる属性ではなく、むしろそれらは不可分の関係を持って結びついています。論理的次元では偶然的な関係しか持たないと見做される属性も、具体的・経験的次元では不可分の関係を持って主体(個物)に属しているのです。これらの偶有が個物をその個物たらしめているのです。

それでは「隣接的偶然」とは何か。

隣接とは隣り合って存在すること。XYZ、・・・などが隣り合って存在している場合に,偶々Xとなっていて、Yでもなく、Zでもない場合に言われる偶然です。敷衍すれば、物事には原因と理由があると考えます。有限の存在である人間には分からないが、全能の存在が見れば、そのような結果が生じている原因あるいは理由が見通しであるとします。例えば、なぜこの「私」が地上に生を受けたか。それは父・母がいるからである。その父母はどのようにして知り合い結婚したのか。聞いてみればわかることでしょう。それではそれぞれの父母のそのまた父母はどうして結婚したのか。これもある程度わかるかもしれません。しかしそれ以前のそれぞれの両親のことになると事情を知ることは難しくなります。それはともかく、どんどん先祖に遡及していくとその最初はどうであったか、という問題に遭遇します。それは生命の始まりということになるのでしょうか。どのようにして生命が発生したのか。科学はその点を実証しようとしています。この議論は無限遡及に陥ります。九鬼周造はその、因果律の始まりを「原始偶然」となずけました。「はじめに原始遡及があった。」ということです。この原始遡及の主体は自らのうちにその存在の根拠を持つものでなければなりません。それは絶対者であり、自因性の存在であり不動の動者と言われる神であります。九鬼周造は「神」という言い方は避けています。原始偶然は因果律の届かない世界にいます。次のように言われています。

「原始偶然は絶対者の中にある他在である。絶対的形而上的必然を心的実在と考え、原始偶然を世界の端初または墜落(Zufall=abfall)と考えることの可能性もここに起因している。絶対的必然は絶対者の静的側面であり、原始偶然は動的側面であると考えて差し支えない。(本書261262㌻より。)

 

わたしという存在は結局原始偶然に遡り、原始偶然は絶対者の動的側面であり、それは絶対者の働きであります。九鬼周造は晩年次のように述懐したと伝えられています。

「…やがて私の父も死に、母も死んだ。(中略) 思い出のすべては美しい。明かりも美しい。陰も美しい。誰も悪いのではない。すべてが死のように美しい。」(『偶然性の問題』の解説(小浜善信)441㌻よりの引用。)

 

「九鬼が言いたいのは、偶然した実存としてのわれわれと他者・世界との出会いの中で、無意味に過ぎ去るものは何一つないのだということだろう。・・・すべてが意味あるものとして立ち現れるか、それとも無意味なものとして過ぎ去るか、それはひとえに偶然した実存としての主体の意志に懸かっているということであろう。」(小浜善信、同書440㌻。)

 

ここで再確認したいことは、本原稿執筆の動機と目的です。それは日本における福福音を宣べ伝え証し実践するか、ということです。

 

「いき」とは

『「いき」の構造』の「いき」とは何か。『広辞苑』第七版によると次のようになります。

いき【粋】(「意気」から転じた語)①気持ちや身なりがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気をもっていること。②人情の表裏に通じ、特に遊里・遊興に関して精通していること。また、遊里・遊興のこと。

他の辞典も大同小異の説明です。『「いき」の構造』は、この辞典の説明とは矛盾しないが、日本民族としての「いき」の理解をさらに哲学的に深く分析し、さらに「いき」に周辺にある関係の深い概念である上品と下品、派手と地味、甘味と渋味、意気と野暮などの分析を行っています。さらに言葉遣い、姿勢、身振り、表情、着付け、髪形、着物の色彩や模様、建物の造作等、人々の生活と文化全般に及ぶ課題として詳しい言及をしており、その薀蓄の深さに驚かされます。

九鬼は「いき」の三つの徴表として、「媚態」「意気地」「諦め」を挙げ、「いき」」とは「垢ぬけして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」と定義しています。(『いき』の構造)講談社学術文庫、51㌻) この定義は分かりやすい説明です。九鬼はこの内容をさらに深く説明します。

三つの徴表のなかで「媚態」が原本的な存在を形成しています。これは要するに異性との関係にかかわる特徴です。色っぽさとは「なまめかしさ」「つやぽっさ「「色気」などの言葉と重なる内容であり、九鬼はこのことを哲学的に次のように表現しています。

「一元的な自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。」(同書、39㌻)

この場合、「上品」とは両立しない。上品には敢えて異性に働きかける態度が欠落しているはずです。また一元的な自己が実現した時、つまり相手へのアプローチが功を征してお身を遂げた時には、この「媚態」は消滅する運命にあります。故に「媚態」とは異性間の二元的動的可能性が可能性のまま絶対的に維持されていなければならないのです。

次いで第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」です。「意気地」には江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている、と言います。(同書、41-42㌻。)「いき」には「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な犯すべからざる気品気格が無ければならないと言います。「意気」の対極にあるのが「野暮」であり、江戸っ子が軽蔑して生き方でした。(同書、41-41㌻参照。)

第三の徴表が「諦め」。執着を離脱した、垢抜けして、あっさち、すっきる、瀟洒たる心持ちをいう。「『いき』のうちの『諦め』したがって「無関心」は、世知辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡(てんたん)無碍(むげ)の心である。」(同書、45㌻) この「諦め」はおそらく仏教の人生観、無常と解脱の教えを背景にしているだろうと思われます。

「媚態」と「意気地」と「諦め」の三者のバランスの上に「いき」が成立しています。これは非常に危ういバランスです。「媚態」は異性を求めるといういわば本能的な欲求に基づいています。人は特定の異性を自分の方へ向かわせるために秘術を尽くす。その際、自分の自主性と誇りを忘れてはならない。自分を失うほど夢中になってはならないのです。さらに相手の自由を尊重しなければならないのです。人は他者を自由にはできないものです。「媚態」と言わずとも、他者を自分の思い通りにしたいという思いの集合が仏教のいうとことの煩悩であります。「諦め」は煩悩にストップをかけるストッパーの機能を果たします。

人が異性を想うこと自体を否定しないどころかむしろ評価します。その際、「意気地」と「諦め」という付帯条件が付きます。

恋と媚態はその始まりにおいて異性を慕いもとめるという点において共通しています。ですから、「いき」はたやすく「恋」に転ぶことができます。「いき」の場所である吉原でさえ、遊女がひそかに恋人をつくり、心中に追いつめられるという事件が起きています。そのような危険をさけるための「意気地」と「諦め」でした。それは繰り返しになりますが、「『いき』のうちの『諦め』したがって「無関心」は、世知辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡(てんたん)無碍(むげ)の心である。」(同書、45㌻)のであります。しかし、宮野真生子氏が指摘していることですが、問題は残ります。それは、なかなか人はいったん心に入れた異性の相手を諦めきれないものであり、またそれでもなお人を想い求める心はなくなるものではないだろう、それは何故だろうか、という問題です。

なお、「いき」は遊里を背景にして発達した人間関係の在り方です。遊離は「苦界」と呼ばれます。だましたりだまされたりする世界で在り「傾城に誠なし」と言います。「遊女が客に誠意をもって接するはずがない。遊女の言うことを信頼できない。」という意味ですが、それではあまりに寂しい。人間の真実の美しさへのあこがれが人にはいつも残っています。この問題に関して参考になるかもしれない例話、苦界である吉原を舞台にした落語の例が残っていますので参考までに紹介します。落語のなかには遊里を背景にしたものがいくつかあり、醜い欲望の世界が垣間見られますが、そのなかに、いわば泥沼の蓮の花のような清々しい落語が伝えられています。(注3)

 

「エロース」について

カトリック教会では求める愛「エロース」についてどう考えているのでしょうか。ここでは優れた神学者であった先の教皇ベネディクト十六世の考え方の一端を紹介します。(以下、教皇ベネディクト十六世、回勅『神は愛』、8-40㌻による。)

「愛」ということばは様々な意味を持っています。愛国心、友への愛、両親と子ども愛、隣人愛、神への愛などと言いますが、一つの意味が際立って使われます。それは男女の間の愛です。

これらの愛は基本的には一つであって、それぞれの場面で様々な現れ方をしているのであり、愛は究極的にはただ一つであると言えないでしょうか。あるいはそれぞれ質的に根本的な相違をもっているのでしょうか。神の愛アガペーと男女に愛エロースはどんな関係にあるのでしょうか。

確かに新約聖書ではアガペーという言葉が使われており、エロースという言葉の使用は皆無です。キリスト教は「エロース」に対して否定的であると思われていました。フリードリヒ・ニーチェは厳しくキリスト教を批判し、キリスト教は「エロース」に毒を飲ませ、教会は掟と禁令を通して、人生におけるもっとも貴重な事柄を台無しにした、と言って今師。しかしキリスト教は本当に「エロース」を破壊したのでしょうか。ベネディクト十六世はそうではない、と言っています。

キリスト教以前の世界のギリシャにおいては、「エロース」は人間を有限な人生の現実から引き離し、陶酔状態に引き上げ、エクスタシーの幸福を与えてくれる神的な力であると考えられました。旧約聖書では、神殿娼婦などに見られた歪んだ破壊的な形の「エロース」には反対していますが、「エロース。」そのものを拒絶することはありませんでした。

「エロース」という愛は人を永遠で無限の幸福へ、現実を超えた光と喜びの世界へと招いています。ただし、その目的地に到達するためには自己抑制、自己放棄、浄めと成熟が必要です。それは「エロース」自体を否定することではありません。それは人間が身体と精神からなる存在であることに基づいています。人間が真の意味で自分自身となることが出来るのは、自分の身体と精神が緊密に一致しているときです。人間は、精神だけを愛するのでもないし、身体だけをあいするのでもありません。身体と精神の結合した被造物である人間、人格を愛するのです。身体と精神が本当に意味で一致した時人は初めて完全に自分自身となり、その時「エロース」は成熟し、真の意味で偉大なものとなります。そうなるために、「エロース」は上昇と自己放棄、浄めと癒しの道を必要としています。

そのための示唆を旧約聖書に雅歌に見出します。雅歌は本来恋愛の歌だったと考えられます。なぜ聖書の正典として認められているのでしょうか。

雅歌では「愛」をあらわすために二つのヘブライ語がつかわれています。一つは「ドディム」です。これは、まだ不確かな、はっきりしない状態で求める愛を意味します。つで「アハバー」ということばが用いられています。「アハバー」がギリシャ語に訳される時に「アガペー」となりました。「アハバー」は他者への関心と配慮を意味しています。自分の幸福に酔いしれるのではなく、自分が愛する者の善を求めています。愛は自己放棄となり犠牲を厭いません。この愛は特定の人を排他的に愛するとともに、神へと向かう永遠の愛を目指すようになります。愛は自己を献げることを通して真の自己の発見へ、神との出会いへと導かれます。「自分のいのちを生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。(ルカ1733)(マタイ10391625、マルコ835、ルカ924、ヨハネ1225参照。) ここに十字架を経て復活に至る過ぎ越しの神秘が示されています。

世俗的な愛である「エロース」と信仰による愛を表す「アガペー」はしばしば「求める愛」と「与える愛」というように対立的に考えられました。「エロース」を欲望の愛、非キリスト教的な愛であり、「アガペー」を与える愛、キリスト教的愛であるとして、この両者を極端に対立させると、キリスト教は人間の生活と現実に無縁なものに成りかねません。実際のところ、人はこの二つの愛を全く別な愛として分離することは出来ません。人は他者の幸福を求めるとき次第に自分自身を相手に与え、相手と共にいたいと望み、相手に自己のすべを献げたいと強く望みます。求める愛は与える愛に変えられます。しかし他方、相手に与えるためには、与えられなければ与える力が萎えてしまいます。求めることと与えることの間の境界は非常に流動的です。

人を愛する力は神から来ます。聖グレゴリオが言っているように、牧者たるものは人を愛するためには自分が愛されていることを知り確かめなければならないのです。それは観想の道であります。

イスラエルの民に自らをあらわした神は存在するもの全ても者の創造主であり唯一の神です。この神はイスラルに愛することを求める神です。この愛は「エロース」の愛でであります。しかし同時に「アガペー」の愛です。神はイスラエルの幸福を望み、真の意味で人として正しい道を歩むように導き、そのためにイスラエルに掟を与え、イスラエルと契約を結びます。この神とイスラエルとの関係は男女の愛の関係にたとえられます。しかしイスラエルはしばしば神との契約を破ります。それでも神はイスラエルを愛することをやめません。神は背信のイスラエルを愛し裏切りを赦します。神の愛「アガペ―」は赦す愛として示されます。預言者ホセアはこの神の愛をいわば絶叫のような表現で伝えているのです。

ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

アドマのようにお前を見捨て

ツェボイムのようにすることができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。

(ホセア118-9)

ここには激しく葛藤する神の心が如実に表現されています。神はギリシャ哲学では「不動の動者」と呼ばれており、神が人間の態度のゆえに心を動かし苦しみ葛藤することは、「絶対者」という概念の中には含まれてはいないのです。しかしここでは非常に人間的な神の姿が描かれています。神は悲しみ怒りますが赦します。神が人間の罪ゆえに心に痛みを抱くという啓示に基づいて日本人の神学者北森喜蔵は『神の痛みの神学』を創出したのでした。(注4)

 

神になかに「エロース」の愛と「アガペ―」の愛があり、両者は一つに融合しています。「エロース」と「アガペ―」は愛のそれぞれの面を示している、といえます。あるいは「アガペー」ということばのなかに「エロース」の面が含まれているといえないでしょうか。雅歌が聖書正典に加えられたのはこのような根拠があったからでした。愛は一致を目指します。神と人間は、それぞれ自分自身でありながら完全に一つとなる事ができると聖書は教えます。

神は人間を男と女に創造しました。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記224) 男女が互いに惹かれ合い求めあうのは神の創造に結果であり、人間の本性に基づいています。そのような人間の本性は絶えずエゴイズムの危険に瀕しています。互いに求めあう愛は自らすすんで与える愛とならなければならないのです。本性上惹かれ合う相手にだけではなく、人間の偶有的属性を超え、自分を必要とするすべての人の隣人となるよう招かれています。その道は受肉した神の愛であるナザレのイエスが生涯をかけて自ら実行してその基準をしめしました。「アガペ―」の愛は、飢えている人、乾いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に拘束されている人に及びます。(マタイ福音2531-41参照) 飢え渇き裸であるなどの偶有的状態にある人々のなかにかけがえのなさという価値が隠されています。そのような人にしたのはイエス・キリストにしたのであり、しなかったのはイエス・キリストにしなかったことになるとイエスは言っているのです。一人ひとりの偶有性に絶対的な意味と価値を与えるのは、キリスト者にとって、受肉した愛であり神であるナザレのイエスにほかなりません。このに「エロース」と「アガペ―」の融合と一致をみることができるのではないでしょうか。

 

  1. 聖アウグスチヌスについては教皇ベネディクト十六世の126回目の一般謁見演説 聖アウグスチヌス(三)が非常に有益ですので以下に長い引用をします。

親愛なる友人の皆様。

 キリスト教一致祈祷週間の後、今日わたしたちは偉大な人物である聖アウグスチヌスに戻ります。わたしの敬愛する前任者であるヨハネ・パウロ二世は、アウグスチヌスの回心1600周年である1986年に、使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』という、アウグスチヌスに関する長く詳細な文書を発布しました。教皇自身、この文書が「神への感謝」だと述べます。この感謝は「神がアウグスチヌスのすばらしい回心をもって、教会に向けてまた教会を通して、全人類に与えられた恵み」(使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』序文)のゆえにささげられます。わたしは回心というテーマに別の謁見で戻ります。回心は、アウグスチヌス個人の生涯にとってだけでなく、わたしたちの生涯にとっても根本的なテーマです。先日の主日の福音の中で、主ご自身がご自分の宣教を「悔い改めよ」(マタイ417)ということばでまとめました。わたしたちは聖アウグスチヌスの歩みをたどることによって、回心とはいかなることであるかを考察することができます。回心ははっきりとした決定的なことがらです。しかし、わたしたちはこの根本的な決断を成長させなければなりません。すなわち、わたしたちの生涯全体を通してそれを実現しなければなりません。

 しかし、今日の講話は信仰と理性というテーマを扱います。これは聖アウグスチヌスの生涯を決定づけるテーマの一つです。さらにいえば、これこそが聖アウグスチヌスの生涯を決定づけるテーマだといえます。アウグスチヌスは幼いときから母モニカからカトリック信仰を学びました。しかし彼は青年時代になるとこの信仰から離れました。彼はこの信仰を理性にかなったものと認めることができなかったからです。また彼は、自分にとって理性すなわち真理を表現していないと思われる宗教を望まなかったからです。アウグスチヌスの真理への渇望は徹底的なものでした。それゆえ、この渇望がアウグスチヌスをカトリック信仰から遠ざけることになりました。けれどもアウグスチヌスはその徹底的な性格により、真理そのものに到達しておらず、したがって神に到達していないさまざまな哲学を受け入れることもできませんでした。神は、たんなる宇宙の究極的な理念ではなく、真の神でなければなりません。いのちを与え、わたしたちの人生の中に入ってくる神でなければなりません。それゆえ聖アウグスチヌスの知的・霊的な歩みの全体は、現代にも通用する、信仰と理性の関係における模範となります。このテーマは信仰者のものだけでなく、真理を求めるすべての人のテーマです。それはすべての人の判断と運命にとって中心的なテーマなのです。わたしたちはこの信仰と理性という2つの領域を、分離させても、対立させてもいけません。むしろ両者を常に同時に歩ませなければなりません。回心の後にアウグスチヌス自身が述べているように、信仰と理性は「わたしたちを認識へと導く二つの強い力」(『アカデミア派駁論』:Contra Academicos III, 20, 43)です。そのためアウグスチヌスの有名な二つの定式(『説教集』:Sermones 43, 9)はこの信仰と理性の不可分の統合を表現します。すなわち、「理解するために信じなさい(crede ut intelligas)」――信仰は真理への扉を通る道を開くからです――。しかし同時に、これと切り離すことができないのがこれです。「信じるために理解しなさい(intellige ut credas)」。すなわち、神を見いだし、信じることができるようになるために真理を究めなさい。

 アウグスチヌスの二つのことばは、2つの問題の統合をきわめて直接に、またこの上なく深いしかたで表現しています。カトリック教会はこの統合のうちに自らの道を見いだしてきました。歴史的にいえば、このような統合は、すでにキリストの到来以前から、ヘレニズム化したユダヤ教におけるユダヤ教信仰とギリシア思想の出会いによって行われました。その後、歴史の中で、この統合は多くのキリスト教思想家によって受け入れられ、発展させられました。信仰と理性の一致は、何よりも神が遠くにおられるかたではないことを意味します。神はわたしたちの理性、わたしたちの生活から離れたところにいるかたではありません。神は人間の近くにおられます。わたしたちの心の近くにおられます。わたしたちの理性の近くにおられます。しかしそのためにわたしたちは真実に道を歩まなければなりません。

 アウグスチヌスは、まさにこのように神が人間の近くにおられるということをきわめて強烈に体験しました。神は深く神秘的なしかたで人間のうちにおられます。しかしわたしたちはこのことを自らの内面においてあらためて認識し、見いださなければなりません。回心者アウグスチヌスはいいます。「外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内的人間に住んでいる。そして、あなたの本性が可変的であることを見いだすなら、あなた自身をも超えなさい。しかし、記憶しなさい、あなたが超えてゆくときには理性的魂をもあなたが超えてゆくことを。それゆえ、理性の光そのものが点火されるそのところへと、向かって行きなさい」(『真の宗教』:De vera religione 39, 72〔茂泉昭男訳、『アウグスチヌス著作集2』教文館、1979年、359360頁〕)。アウグスチヌス自身、このことを『告白』冒頭の有名なことばで強調しています。『告白』は神への賛美のために書かれたアウグスチヌスの霊的自伝です。「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』:Confessiones I, 1, 1〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、59頁〕)。

 ですから、神から離れているとは、自分自身から離れていることにほかなりません。アウグスチヌスは直接神に向かっていいます(『告白』:Confessiones III, 6, 11)。「あなたは、わたしのもっとも内なるところよりももっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました(interior intimo meo et superior summo meo)」(前掲山田晶訳、116117頁)。別の箇所で、アウグスチヌスは回心前の時期を思い起こしながらさらにいいます。「たしかに御身はわたしの眼前にましました。しかるにわたしは、自分自身からはなれさり、自分を見いだしていなかった。まして御身を見いだすことなどは、思いもよらなかった・・・・」(『告白』:Confessiones V, 2, 2〔前掲山田晶訳、160頁〕)。アウグスチヌスは自らこの知的・霊的旅路を歩んだからこそ、自らの著作の中で、直接に、深く、知恵をもってそれを表現することができました。アウグスチヌスは『告白』の別の2つの有名な箇所で(『告白』:Confessiones IV, 4, 9; 14, 22)、人間が「大きな謎(magna quaestio)」(前掲山田晶訳、138頁)であり、「大きな深淵(grande profundum)」(同150頁)であることを認めます。すなわち人間は、キリストのみが照らし、救うことのできる謎であり、深淵です。このことは重要です。神から離れた人間は、自分自身からも離れ、自分自身から疎外されています。だから彼は、神と出会うことによって初めて自分を見いだすことができます。このようにして彼は自分自身に、すなわち真の自分、真の自分のあり方へと導かれます。

 アウグスチヌスが後に『神の国』(De civitate Dei XII, 28)の中で強調するように、人間は本性的に社会的な存在ですが、悪徳によって反社会的なものとなっています。人間を救うことができるのはキリストだけです。キリストは神と人類の間の唯一の仲介者であり、「自由と救いをもたらす普遍的な道」(『ヒッポのアウグスチヌス』21)です。わたしの前任者であるヨハネ・パウロ二世が繰り返して述べたとおりです。同じ著作の中でアウグスチヌスはまたいいます。人類に与えられたこの普遍的な道を通ることなしに「誰も救われたことはなく、誰も救われることはなく、誰も救われるだろうこともないのである」(『神の国』:De civitate Dei X, 32, 2〔茂泉昭男・野町啓訳、『アウグスチヌス著作集12』教文館、1982年、382頁〕)。救いのための唯一の仲介者であるキリストは、教会の頭(かしら)であり、教会と神秘的なしかたで結ばれています。だからアウグスチヌスはいいます。「わたしたちはキリストとなったのである。彼が頭であれば、わたしたちは肢体であり、彼とわたしたちとは『全き一人の人』なのである」(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis Evangelium tractatus 21, 8〔泉治典・水落健治訳、『アウグスチヌス著作集23』教文館、1993年、381頁〕)。

 神の民は神の家です。それゆえ、アウグスチヌスの考えでは、教会は「キリストのからだ」という思想と密接に関連づけられます。この「キリストのからだ」という思想は、キリストの観点から見た旧約聖書の新たな読み方と、聖体を中心とした秘跡の生活に基づきます。主は聖体によってわたしたちにご自身のからだを与え、わたしたちをご自身のからだへと造り変えてくださるからです。ですから根本的なことはこれです。社会的な意味ではなくキリスト的な意味で神の民である教会は、まことにキリストと一つに結ばれています。アウグスチヌスがきわめて美しいことばで述べるように、「キリストはわたしたちのために祈り、わたしたちの内で祈っておられるとともに、わたしたちもわたしたちの神であるキリストに祈っている。キリストはわたしたちの祭司としてわたしたちのために祈り、わたしたちの頭としてわたしたちの内で祈り、わたしたちはわたしたちの神であるこのかたに祈っている。それゆえわたしたちはキリストの内にわたしたちの声を認め、わたしたちの内にキリストの声を認めるのである」(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos 85, 1)。

 使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』の終わりに、ヨハネ・パウロ二世は聖アウグスチヌスに対して、現代の人々に何を語っているかを尋ねます。そしてヨハネ・パウロ二世は、何よりもアウグスチヌスが回心の直後に書いた手紙の中で述べたことばでこたえます。「人間は真理を見いだすことへの希望へと導かれなければならないと、わたしは思います」(『書簡集』:Epistulae 1, 1)。この真理とは、まことの神であるキリスト自身です。『告白』のもっとも美しく、またもっとも有名な祈りの一つは(『告白』:Confessiones X, 27, 38)、このキリストにささげられます。

 「古くして新しき美よ、おそかりしかな、

 御身を愛することのあまりにもおそかりし。

 御身は内にありしにわれ外にあり、

 むなしく御身を外に追いもとめいたり。

 御身に造られしみめよきものにいざなわれ、

 堕(お)ちゆきつつわが姿醜くなれり。

 御身はわれとともにいたまいし、

 されどわれ、御身とともにいず。 

 御身によらざれば虚無なるものにとらえられ、

 わが心御身を遠くはなれたり。

 御身は呼ばわりさらに声高くさけびたまいて、

 わが聾(ろう)せし耳をつらぬけり。

 ほのかに光りさらにまぶしく輝きて、

 わが盲目の闇をはらいたり。

 御身のよき香りをすいたれば、

 わが心は御身をもとめてあえぐ。

 御身のよき味を味わいたれば、

 わが心は御身をもとめて飢え渇く。

 御身はわれにふれたまいたれば、

 御身の平和をもとめてわが心は燃ゆるなり」(前掲山田晶訳、365366頁)。

 ご覧のように、アウグスチヌスは神と出会い、その全生涯を通じてこの出会いを体験し続けました。こうしてこの現実――それは何よりもまずイエスという人格との出会いでした――はアウグスチヌスの人生を変えました。イエスと出会う恵みを与えられたあらゆる時代の人々の人生を変えたのと同じように。祈りたいと思います。主がこの恵みをわたしたちにも与え、そこから、わたしたちが主の平和を見いだすことができますように。

 

(注2) 宮野真生子氏は、『日常・間柄・偶然』(九鬼周造と和辻哲郎)、現代思想、『九鬼周造』(青土社)所載、でこの問題を詳細に論じており、非常に的確な分析を行っています。是非参照ください。以下にはこの論文からほんの一部を引用します。

九鬼によれば、「実存の意味を明確にするためには、一方に普遍的抽象を対し、他方に生命に対して、実存の限界を立てることが肝要」である。普遍的抽象とは、「人間とは理性的存在「である」というような一般化を指す。これにたいし、実存は、意志を持って「わたしは~である」と行為することで、「私がある」ことの意味を作り出したところに成立する。いわば九鬼の考える実存は、「がある」を起点として、その手前には人間を一般化する抽象的な「である」があり、その先には、人間の行為を規定する和辻的な間柄の「である」が控える所で可能となるものである。(宮野真生子『日常・間柄・偶然』、97㌻より引用。)

(注3)

「紺屋高尾」という落語があります。YouTubeで鑑賞可能です。あらすじは以下の通り。

神田にある紺屋に勤めている染物職人、久蔵の物語です。11歳の子どものときから奉公して、遊び一つ知らず、まじめ一途に働く。何時の元気なその久蔵が、なぜか患って寝込んでしまっている。心配になった親方が竹内蘭石という医師に診てもらったところ、「恋患い」であることが判明した。いやいやながら吉原に行った時高尾太夫の「花魁道中」を初めて目にして以来、高尾太夫のこの世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、何も手が使い病人になり、高尾太夫の錦絵を布団の下に敷いて寝込んでいました。そこで親方は久蔵が何とかして高尾太夫に会えるようにしてあげようと考える。高尾を座敷に呼ぶのにはどう少なく見積もっても十両はかかる。久蔵の給金の三年分でも足りない。不足分は自分が足してやるから三年間しっかり働いていためるようにと励ます。三年たったところで九両がたまった。親方は自分が一両足してあげて、医師の竹内蘭石という医者を案内役に仕立てる。いくらお金を積んでも、紺屋職人では高尾が相手にしてくれない。そこで、久蔵さんを流山のお大尽に仕立てて、医師はその取り巻きということで一芝居打ちましょうということになる。竹内医師は「下手なことを口走ると紺屋がバレるから、何を言われても『あいよ、あいよ』で通してください」と久蔵さんを指導。帯や羽織もみな親方にそろえてもらい、すっかりにわか大尽ができあがった。先生のおかげで無事に吉原に到着し、高尾に会いたいと申し出るとなんと偶然その日に限って予約がキャンセル、高尾に空きができた。

やがて夢のようなご対面が実現した。高尾太夫が煙管で煙草を一服つけると「お大尽、一服のみなんし」と言ってくれる。花魁が型通り「今度はいつ来てくんなます」と訊ねると、感極まった久蔵は泣き出してしまった。

「ここに来るのに三年、必死になってお金を貯めました。今度といったらまた三年後。その間に、あなたが身請けでもされたら二度と会うことができません。ですから、これが今生の別れです…」。

大泣きした挙句、自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまった。純真な久蔵に高尾は多いに感動して言った。

「源・平・藤・橘の四姓の人と、お金で枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人だろう。自分は来年の二月十五日に年季が明けるから、その時女房にしてくんなますか」言われ、久蔵、感激のあまり泣きだした。

金をそっくり返され、夢うつつのまま神田に帰ってきた久蔵は、それから前にも増して物凄いペースで働き出した。

「来年の二月十五日…あの高尾がお嫁さんにやってくる」、それだけを信じて。

「花魁の言葉なんか信じるな」なんていう仲間の苦言も何のその、執念で働き通していよいよ二月十五日が到来。お籠に載った高尾がやってきたのでした。親方が仲人になって久蔵と高尾太夫は夫婦となったという物語です。

 

(注4) 北森喜蔵師は有名な著書『神の痛みの神学』を著しました。神が痛みを覚えたり、悲しんだりということはギリシャ人の考える神では考えられません。神にはありえないことです。神は完全な存在であり、悲しんだり、怒ったりするというのは、足りない点とか、満たされないことがあるからそうなるので、神はいつも満たされておりますので、怒ったり、悲しんだりするはずないと考えるわけですが、聖書の神はそうではない。わたしたちのために、怒ったり、悲しんだりする、心に強い、激しい痛みを覚える、そういう神様であるということをわたしたちに告げております。カトリックの聖心の信心は、そのような聖書の神理解を更に具体化したものであると言えましょう。一時、大変多くの人に受け入れられ、聖心という名前を付けた修道会や学校などが多数造られたのであります。

 

喜びなさい!

悪についての小考察その7

――「主において常に喜びなさい」と言われてもね・・・

 

カトリック教会の2020104日のミサの朗読は使徒パウロのフィリピへの手紙です。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 4:6-9

(皆さん、)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

 

この時パウロは獄中におり、またフィリピの教会には深刻な抗争が進行中であったと推測されています。そのような困難な状況にあってもパウロは「主において常に喜びなさい」(フィリッピ44)と言っています。これは実に驚くべきことではないでしょうか。

人間的には心配しあるいは煩悶して当然です。しかしパウロは「主において喜びなさい」と言っているのです。喜びの動機と理由は主イエス・キリストにあります。十字架の苦しみに打ち勝ったキリストがパウロとともにて、パウロと言わば一致して生きているのです。キリスト教という宗教は十字架と復活という過ぎ越しの神秘を生きる宗教です。

 

ヒンドゥー教の偉大な聖者シャンカラの教えを学んでいます。

人は本来の自己、真の自己であるアートマンに出会い知り、自分がアートマンであることを悟るならばそこに無明からの解脱があり、吉祥(喜び)がある、という教えだと思われます。たとえ身体に苦痛があっても真の自己であるアートマンは命と光の喜びに満たされているのです。何か上述の使徒パウロの述べている喜びの体験に似ているような気がします。

パウロは言っています。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテア220)

 

さて、悪についての考察を行ってきました。アートマンによれば、「私」という意識が悪の根源であるとされています。「私」という意識が無明の所産であるとシャンカラは述べています。「これがわたしである。」「これがわたしのものである。」という思い込みが無明であり、輪廻、迷いの原因です。(『シャンカラ』島岩著、清水書院、113㌻より。)

この点について原始仏教はどのように教えているのでしょうか。ズバリ結論を言えば、

「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもありません。」

ということと思われます。(『真理のことば ブッダ』佐々木閑著、NHK出版、76㌻より引用。)

人間とは色々な要素の集合体に過ぎない。ブッダの『真理の言葉』(ダンマパダ)で次のように言われています。

見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろなものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住しない。(147、ブッダの真理の言葉 感興のことば 中村 元訳、岩波文庫、30㌻より引用。)

以下にこの結論へ至る説明を要約して敷衍します。

この状態は車輪にたとえられます。車輪は回転して物を運ぶという独自の働きをしているが、種々の部品、外枠、スポーク、軸受けなどから構成されており、仮の存在として「車輪」と呼ばれているに過ぎません。もし部品の結合が解けてバラバラになってしまえば、もはや「車輪」は存在せず、回転して物を運ぶという機能も消滅します。人間も車輪と同じで、肉体をつくる種々の物質的要素と精神を担当する種々の心的要素が集まって「私」という仮の存在を形成しています。これらの構成要素が分解されるならば、「私」という存在は消滅し、私の世界も消え失せてしまいます。これが「私」の正体です。自分とは種々の要素が組み合わさって出来た「自己認識機能」「意思機能」であります。しかし人には「意思機能」があるので、自分の意思で輪廻の世界から脱出して涅槃に入る可能性は残されています。ブッダは輪廻思想を信じていたが、ブッダにとって輪廻とは、何か「絶対的な自己」というものがあって、それが永遠の命をもって生まれ変わり、死に変わりを繰り返すというものではありません。ブッダにとって「不滅の霊魂」は存在しません。すべては要素の集合体です。

「あらゆる生き物は要素の集合体として存在している」のであり、わたしという存在も要素の集合体であり、自分にとって愛しい人々も要素の集合体であります。そして私という集合体と他の人々の集合体とは因果の法則によって相互に影響し合っています。お互いに影響し合っているのです。それは人間同士に限らずあらゆる生き物に間に成り立つ関係です。ですから、たとえ「霊魂不滅」を信じていなくとも、人が亡くなった場合でも、その人が生きていた時に周りの人々に与えた影響はそのまま人々の集合要素の中に残ります。子を亡くした親は悲しみに心が引き裂かれる思いをします。

親は子がどこかに生き続けているのではないかと考えるのは親の情として当然ですが、子は親の存在そのものの中に生き続けているのです。このように考えれば、死んだ子は今の生きている、といえるでしょう。このように考えれば、亡くなった人の残す遺物や遺骨はさほど重要ではない、ということになります。

「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもありません。」

究極の自己という存在はない、というのがブッダの考えです。「すべてのものにおいて「私」とか「私のもの」という実体は存在しない。すべてのものはその関係性において存在している」と考えます。この考え方を「諸法無我」といいます。)

さらにブッダは、世界で最も古いと言われているスッタニバータというお教で《空》という教えを説いています。すなわち、「自分というものがある」という思いを取り除きなさい、と言っています。つまり自分というものが永遠に存在するのではない、ということです。「私」はいろいろな要素の集合体に過ぎない。そこにある「私」は《空》であり、形はあっても実体のない仮の姿にすぎない、というのです。そのことを悟ってそのような自分に執著しなければ苦しみから解放される、と教えます。実にすべては諸行無常であり、「私」はたえず移り変わっています。人は記憶によって同じ自分が存続していると錯覚しているが、不変の自分は存在しないのです。本当の自分あり方を心が誤って認識しているにすぎません。

「すべてのものごとに永遠の実体はない」ことを教える「諸行無常」が永遠の真理であり、この真理を自分について当てはめれば、それは「諸法無我」であり、「私」という認識も幻に過ぎないと教えています。

 

いまわたしは、シャンカラからブッダに遡るという逆のコースを辿っています。

ブッダは紀元前500年頃に人(生・没年は不詳)です。イエスより500年も前に人です。ヒマラヤ山脈の南麓にあってカピラヴァットゥ国の王子として生まれ29歳で出家し、苦行の修行を経て只管の瞑想に入り、菩提樹のもとで涅槃の悟りを開いたと伝えられています。

ブッダをして現世を捨てさせ、修行に道に入らせるよう駆り立てた者は人生の苦悩でした。ブッダは、人生とは「一切皆苦」であると悟ります。「一切皆苦」は輪廻と結びついています。当時の人々は、人は生まれ変わり死に変わり「天」「人」「畜生」「餓鬼」「地獄」「阿修羅」の六つの世界を経めぐりながら果てしなく苦しまなければならないと信じていました。(既述のように、シャンカラは、輪廻は無明の結果であり、無明からの解放されるためにはアートマンを知ることが必要であると説きました。)

ブッダは、輪廻の世界からの脱出は人の心の悪、つまり煩悩を完全に断ち切ることであると考えたのです。一切皆苦は自分自身の煩悩が作り出している。煩悩を断ち切ることが真の幸福への道であるとブッダは悟ったのでした。

ブッダが悟ったこの真理の道を「四諦」と言います。(以下に、佐々木閑『真理のことば』32㌻以下によって説明します。)

苦諦:この世はひたすら苦しみの世である。

集諦:この苦しみの原因は心の中の煩悩である。

減諦:煩悩を消滅させれば苦悩が消える。

道諦:煩悩を消滅させるためには具体的に八つの道がある。 

 これは八正道(はちしょうどうしょうどう)と言います。八は以下の通り。

一 正見(しょうけん)  正しいものの見方

二 正思惟(しょうしゆいい) 正見にもとづいた正しい考えを持つ。

三 正語(しょうご)  正見にもとづいた正しい言葉を語る。

四 正業(しょうごう)  正見にもとづいた正しい行いをする。

五 正命(しょうみょう)  正見にもとづいた正しい生活を送る。

六 正精進(しょうしょうじん) 正見にもとづいた正しい努力をする。

七 正念(しょうねん)  正見にもとづいた正しい自覚をする。

八 正定(しょうじょう)  正見にもとづいた正しい瞑想をする。

『ダンマパダ』では、四諦八正道について次のように言っています。

さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、

正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。――すなわち、(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(しゅうめつ)におもむく八つの尊い道(八正道)とを見る。(以上の訳文は,『ブッダの真理の言葉 感興のことば』 中村 元訳、岩波文庫、36㌻より引用。)

「仏と法と僧」は仏教の三つの重要な要素であわせて「仏法僧」と呼び、聖徳太子が「十七条憲法」で、「厚く三宝を敬え」といっている、あの三宝をさしています。

 

このように、ブッダは八正道という修行を通して、自分の努力により、悟りに達する生き方を貫きました。(構成の大乗仏教はこのブッダの生き方とはかなり離れてきたそうです。) 

キリスト教徒仏教の違いはどこにあるかと言えば、イエスとブッダの違い,それも、そもそもの両者の現れ方の違いにあると言います。(以下、佐々木閑『真理のことば』39-41㌻参照。)

イエスは神の国の福音を宣べ伝え人々を福音へ導くために登場しましたが、ブッダは自分の問題の解決のために修行したのであり、人を助けるためではありませんでした。ブッダは、よりどころはあくまでも自分であると遺言しています。

このブッダの生き方は従来のバラモンの教えに真っ向から背くことになったそうです。

シャンカラの教えでのべたように、ヒンドゥー教の教えでは、自己の本性はアートマンであり、そのアートマンはブラフマンに他ならないということを悟ることが幸福への道でありました。この梵我一如という伝統的なバラモン教の教えをブッダは取り上げなかったようです。

仏教はどのようにして成立したのか。ブッダはバラモン教とヒンドゥー教をどう考えていたのか。本当にアートマンの存在を否定したのか。

この難しい問題に正確に答えることは困難です。ここでは仏教学・インド学の日本での権威野中村 元博士の入門書「中村 元の仏教入門」(春秋社、2014年第一刷、2020年第7,59-70㌻より。)に基づいてささやかに考察をしてみたいと思います。(注1)をご覧ください。

 

さて、ここ、第8章でわたしたちは立ち止まり問題点の整理をする必要を感じます。

わたしたちは悪についての小考察を行ってきました。

善とは真の自己を知ること、から、ヒンドゥー教の有名な教師シャンカラの教え、――「私」という意識が悪の根源、「私」という意識が無明の所産であるので、本来の自己出るアートマン手の出会いにより無明を克服せよ――から原始仏教の教えに遡りました。この点について原始仏教はどのように教えているのでしょうか。釈迦の教えでは、「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもない。この世界も自己という存在も実在ではない、見えるのは仮の姿に過ぎない。」だったと理解します。

しかし他方、「人間の真の自己というものは人間があるべき姿、法に従って、法を実現するように行動する中にあらわれている。」とも言っています。(注1参照)

アートマン=ブラフマンについての複雑な議論はここで棚上げにします。両者とも「私」を否定することが真の自己との出会いないし解脱であると言っているように理解しました。

 

「自分探し」という課題の設定は、その課題の措定そのものが問題であるのかもしれません。間違った問題の立て方をすれば、いくら頑張ってもその問題の解決には至らないのです。例えばカントが挙げている例ですが、

世界は空間・時間的に有限であるのか、無限であるのか

という問題はアンチノミーと呼ばれる二律背反の問題です。時間・空間という次元が有効な世界で初めて意味のある問題ですが、時間・空間という次元が無い世界では無意味な質問になるというのです。(『カント入門』石川文康、ちくま新書参照)

そもそも自分とは存在しないという世界では自分探しは意味がありません。あるいは、わたしたちが「自分」と考える自分は本当の自分ではないというなら、本当の自分と偽物の自分がいることになります。

話は振り出しに戻ったような気がします。

 

他の誰でもない自分、世界中に一人しかいない人間、かつていなかったしこれからも現れない人間である自分(あるいは太郎さん、花子さん)を如何に認識するのか、という問題です。この世の中では種々の機会に「自己証明」を要求されます。例えば本人限定郵便を受け取る場合、運転免許証などの自己証明の書類の提示が求められます。日本ではマイナバーという制度が導入され、国民は誰でもその人だけの番号が付けられます。このような自己証明は、もっぱら事務的・機械的に、行政的・経済的・金融的…な必要から、つまり管理的な意図をもって実行されているわけです。交通違反をして拘束された者が免許証の提示を求められるのは、その人固有の人格的な価値に関係なく行われることです。

人がその人として尊重されるということは何を意味しているでしょうか。人はそれぞれ違いを持っています。違うからこそ個性があり、人格の価値があります。もし能力が数量化されて評価され数値によって個別化が行われるとしたらその個人のかけがえのなさは何処で、何によって評価されるのでしょうか。もし人の価値が、「どれだけ社会で役に立つかどうか」によって決められるとしたら、役に立たないどころか負担をかける人は、存在の価値がないものとして抹殺されるということになりかねません。ナチスの優性思想は実際、障害者を抹殺する挙に走らせたのでした。

この世でまことに不完全ながら、一時的にせよ、そのようなかけがえのなさという価値が実感されるのは、親子の間、そして異性間の恋愛であります。(まことに脆弱な関係ではありますが、それでも人はそこに自他のかけがえのなさを感じます。) 人は「自部はこの瞬間のために生まれ生きてきたのだ」という体験をすることがあります。もちろん宗教の世界でそれは起こっています。いわゆる神秘家と呼ばれる人々の体験はそうしたものでしょう。(後日取り上げたい。) ヒンドゥー教の聖者(例えばシャンカラ)、仏教の徹底した信奉者(例えば妙己人たち)の中にそのような体験があるのだろうと思います。とはいえ、それは特別な場合であり、一般的ではありません。

わたくしはこの「善と悪の問題」を取り上げているのは福音宣教の視点からなのです。誰でも経験しうる体験の中に、神の愛への接点がないだろうか、と考えます。実際あるのですが、それが神体験と結びついて受け取られることは少ないのではないでしょうか。

 

ところで「恋愛」と言いますが、「恋」と「愛」とは違います。関係はあり、それもかなり深いものですが、恋は愛ではない。もちろん「恋」とは何か、「愛」とは何か、を論じればきりのない議論になります。キリスト教でも、アガペーとエロースとの比較が行われてきました。最近では教皇ベネディクト十六世が回勅『神は愛』を著わしています。これは両者を厳格に峻別する手法を取っていない点、大いに裨益されます。

(注2)

西田幾多郎と同時代のカトリック信徒で九鬼周造という有名な哲学者がいて、『いきの構造』という有名な論文で、人間の異性への欲求とその自制、この求める愛,エロスと神の愛、アガペーの関係を論じているように見えます。

この九鬼周三の思想を取り上げて学問的かつ詳細に、そして興味深く論じたのは、夭折した若き哲学者、宮野真生子氏でした。そこで次回、第8回は宮野真生子『なぜ、わたしたちは恋をして生きるのか』を軸に、『神は愛』を参照しつつ、恋と愛、エロースとアガペーという課題を見ていきたいと思います。

 

 

(注1) インド哲学では自己をアートマンと言います。もとは呼吸を意味する言葉で、ドイツ語のアートメンにあたります。もとは呼吸を意味し、息をしている人間は生きており、生きている人間にはその基本にアートマンという自己がいる、という素朴な考えに基づいているように思われます。

ところで仏教では次のように考えます。

「およそ自分の所有とみなされているものは常に滅するから、永久に自己に属しているものではない。またわれわれは何ものかをわれわれと考えてはならない。」

「われわれ人間を構成している精神的または物質的要素ないし機能は、いつでも自己であると解することはできない。」

ウパニシャッド哲学では認識主体としてのアートマンというものがあり、それを霊魂であり実態であると考えています。しかし仏教では実体としてのアートマンを否定しました。無我説とはこういう意味でした。

人間には霊魂が宿っており、霊魂は不死であるなら、人間が殺されても霊魂は死なないわけだから、人を殺しても問題ない、と考えることができる。(そうなるべきではない。)だから霊魂という実体があって不死であるという考えは倫理上不都合である、と仏教は考えました。霊魂が存在しなければ、人間の生命ははかなく消滅する、だからこそ生命を大事にしなければならない、と考えたのです。

但し後代になると無我説は、人間はいかなる実体も持っていない、という意味であると解せられるようになりました。「我という実体はない」だから我欲、我執を捨てなさい、という方便としての勧めのために無我説が説かれたのでした。当時のバラモン教やジャイナ教は何らかの意味での普遍で恒久的な自我、あるいは実態である霊魂の存在を想定していました。その霊魂が輪廻によって六つの世界を生まれ変わり死に変わって廻ると信じていました。ところが仏教は実体としてのアートマンを認めませんでした。その代わりに、人間を「五蘊」という五つの構成要素で成り立っている集合体と考えました。五つ(五蘊)とは、

(しき)・受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)・(・)識(しき) です。

「色」とは感覚的・物質的なもの一般を意味します。

「受」とは意識のうちほぼ感覚と感情とを含めた作用

「想」とはこころの内部を構成する知覚や表象を含めた作用

「行」とは能動性または潜在的形成力

「識」とは対象それぞれを区別して認識する作用

であり、個人はこのこれらの五蘊から構成されていると考えます。この五つはわれわれの存在の特殊な在り方を示しており、それをダンマと呼びます。あれわれの存在はこれらの五蘊、すなわち五種類の法の領域において保持され成立しています。このすべてものものの集まりを世俗的に仮に「われ」「自己」と呼んでいるが、われわれに中心主体はそのいずれの法の領域のうちにも認めることが出来ない、と教えています。

例えば、物質的な構成要素は色である。色は無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは非我、われならざるものである。非我はわがものではない。これはわがアートマンではない。このように説明します。色色(しき)受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)・(・)識(しき)のうちのどれ一つもアートマン、本当に自己であるとは言えない、となります。

さらに、六根、六境という説明もあります。

視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、と思考器官のために六つの器官があります。すなわち

(げん)・耳(じ)鼻(び)・(・)舌(ぜつ)・(・)身(しん)・(・)意(い)

の六つの場があります。この六つに対応している領域が六境で、次のようになります。

(しき)・声(しょう)香(こう)味(み)・(・)触(そく)法(ほう)

触は身体で触れられるもののこと、法は考えられるもの、思考器官で考えられるもの、思考器官の相手となるものです。

仏教はこれらの六根、六境のうちのどこにも真の自己は認められないとし、形而上学的原理としてのアートマンを否定しました。そのためこの思想的立場は無我説と呼ばれていますが、アートマンそのものを否定したわけではありません。もし自己を否定しただけなら「我がない」「自己がない」とそれだけを言えばよかったわけです。ところが説いていることは、客観世界に見出されるいかなる実体もアートマンではない、自己ではない、と言っている。一方で「アートマンが実在するかどうか」という問いについては、仏教は沈黙しています。「むしろ仏教は人間の行為のよりどころとしてのアートマンである自己を承認していました。」ブッダの臨終の説法は「自己(アートマン)に頼れ、法に頼れ、自己を灯明とせよ、法を灯明とせよ」という者でした。「自己の頼るということがどういうことかというと、人間の真の自己というものは人間があるべき姿、法に従って、法を実現するように行動する中にあらわれている、自己の頼るということは法に頼ることとおなじであるということです。」(同書、中村、66㌻からの引用。)

中村 元師のこのような説明を聞くと混乱します。仏教はアートマンを否定したのか、しなかったのか。形而上学の実在としてのアートマンは認めなかったが、法としてのアートンを認めていた、という意味になります。では実在としてのアートマンと法としてのアートマンはどう違うのでしょうか。

「仏教では実体的な我、アートマンを想定することはありませんでしたが、ダンマというものは認めています。これは、法と訳されますが、われわれを現にかくのごとくあらしめている、現実に成り立たせて決まりとか規範のことです。」(同書、69㌻)

 

(注2) 回勅『神は愛』は「エロース」と「アガペー」の関係に言及しています。(特に9㌻以降。次回にとりあげたい。

個々の人間の唯一性という価値を述べている福音は数々あるが特にルカによる福音書が重要です。読者の労を省くためにも、煩を厭わず以下に本文を引用します。

◆「見失った羊」のたとえ

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

◆「無くした銀貨」のたとえ

15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

◆「放蕩息子」のたとえ

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。

15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

三つのたとえ話のなかで、見失った羊のたとえ、と無くした銀貨のたとえは、なくてはならない固有の価値、代替の利かない価値ある存在について語ります。有名な「放蕩息子のたとえ」は、

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。…』

とあり、「我に返った」とあります。「本来の自分に帰った」という意味でしょうか。普通は「回心」という意味に解釈されています。本来いるべきところへ向かって生きる方向を転換する、という意味です。

「世界に一つだけの花」というSMAPのうたあります。その歌詞はいくらか、個の唯一性の価値を述べていると思います。

歌詞

No.1にならなくてもいい
もともと特別な only one

花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争うこともしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?
そうさ 僕らは

世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

困ったように笑いながら
ずっと迷っている人がいる
頑張って咲いた花はどれも
きれいだから仕方ないね
やっと店から出てきた
その人が抱えていた
色とりどりの花束と
うれしそうな横顔
名前も知らなかったけれど
あの日僕に笑顔をくれた
誰も気づかないような場所で
咲いてた花のように
そうさ 僕らも

世界に一つだけの花
一人一人違う種をもつ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
No.1
にならなくてもいい
もともと特別な only one

ラララララ

提供元LyricFind

ソングライター: 敬之 槇原

世界に一つだけの花 歌詞 © O/B/O Jasrac

 

 

2020年10月11日 (日)

年間第28主日A年聖書朗読

20201011日、年間第28主日A年の説教

 

主イエスは、神の国の福音を、いろいろなたとえ話によって、説明されました。

最近の主日の福音は、3回ほど続けて、『ぶどう園』に関するたとえ話です。

『ぶどう園の主人と農夫のたとえ話』が先週(年間第27主日)、その前は、『ぶどう園に招かれたふたりの息子のたとえ話』(年間第26主日)、さらに、3週間前は、『ぶどう園で働く労働者のたとえ話』(年間第25主日)でした。

ぶどう園というのは、神様が、わたしたちを派遣して、働く場所、人々を招いて、神様のみ心を行わせるための世界を表していると思われます。

わたしたちは、この世界、ぶどう園に遣わされ、そちらで、神様のみ旨に従って、良い実を結ぶようにと、期待されています。

今日は、「王が王子のために催す婚宴のたとえ話」です。

今日の話に出てくる王は、父である神様、御子イエス・キリストのために、婚宴を催すということを伝えている話であると思われます。

『婚宴』、あるいは、『宴会』という主題は、聖書を通して、たびたび登場します。

今日の第一朗読、イザヤ書では、万軍の主が、すべての民を招く祝宴が述べられています。

「万軍の主はこの山で祝宴を開き

すべての民に良い肉と古い酒を供される。

それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

主はこの山で・・・(省略)・・・

死を永久に滅ぼしてくださる。

主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい

御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる」(イザヤ256-8)。

神様が、わたしたちを、その喜びの宴会に、招いてくださるという、喜ばしい福音が、すでにイザヤ書で、述べられています。

さらに、黙示録の中では、次のように言われています。

「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」(黙示199)。

神の国が完成したときのイメージを持って、神様は、すべての人を、ご自分の宴会に招いてくださるという、喜びの便りを告げています。この言葉をわたしたちは、聖体拝領の前に唱える祈り、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」として唱えています。

さて、今日のたとえ話の後半です。

礼服を着ていない者は、外の闇に放り出されてしまう、と言うのです。

王は、家来を遣わして、いろいろな人を王子の婚宴に招きましたが、人々はいろいろな理由をつけて、招きを断ります。

そこで、王は、良い人であっても、悪い人であっても、誰でも良いから、呼んできなさいと命じます。そして、部屋がいっぱいになるほどの人が、婚宴の席に連なることになった。急に呼ばれて、身なりを整える余裕もないままに連れてこられた人に対して、礼服を着けていないことをとがめられるということであるならば、それは、よく分からない話であるということになりはしないでしょうか。

人生には、いろいろと重要な場面、例えば「死」という場面がありますが、いつ、どのようにして、その場面が自分に訪れるのかということを、わたしたちは知ることはできない。たぶん、そのことを教えているのかもしれない。いつでも準備していなければならない。いつでも、そのときが来たら、そのときを、よく迎えることができるように、心を整え、生活を整えていなければならない。わたしたちは、そのようにしなければならないのだと思います。

恐らく、この礼服というのは、文字通りの、立派な、婚宴のときに着ていく服というよりも、王の招きに、いつでも応えることができるような、準備のことを指しているのではないかと思います。準備とは、心の準備、生活の準備のことではないかと思います。

ふさわしい心、それは、神の招きに、いつでも応えようとする信仰、そして、自分が至らないものであるということを、よくわきまえる、謙遜さ、神の恵みへの感謝、そして、神の国の完成へと、自分が連なることができるという希望を表しており、そして、そのような心構えで、日々誠実に生きる、日々の愛の実行ではないかと思います。

今日、ご一緒に献げている、このミサは、神の国の完成の宴会の前触れ、かたどりであると言われます。

ミサというのは、主として、『ことば』の食卓と、父である神との親しい交わりを示す『感謝』の食卓から成り立っていますが、ご聖体をいただくときに、ふさわしい準備をして、主の御からだをいただきます。

それは、ちょうど、神の国に最終的に入るときのことを、あらかじめ、表していると考えることができます。

今日の主日の朗読を聞かれた皆さん、みなさんは、『福音を宣教する』という使命を授かります。福音宣教とは、すべての人を、神の国の宴会へ招くということであると、言い換えることができます。

「神様は、すべての人を、ご自分の幸せ、ご自分の喜びの集いに招いてくださっています。ですから、いつもふさわしい心で準備していなさい。生活も整えなさい。」

そのようなことを、人々に教え、伝えることが、福音宣教ではないかと思います。

 

 

 

 

2020年10月 4日 (日)

喜んでいなさい、と言われてもね---

年間第27主日A年の説教

第一朗読 イザヤ5・1-7

第二朗読 フィリピ4・6-9

福音朗読 マタイ21・33-43

本日の第二朗読で使徒パウロはやむにやまれない思いを抱いて次のように述べています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます。」「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

この時パウロは獄中におり、またフィリピの教会には深刻な抗争が進行中であったと推測されています。そのような困難な状況にあってもパウロは「主にあって喜びなさい」と言っています。これは実に驚くべきことではないでしょうか。

人間的には心配しあるいは煩悶して当然です。しかしパウロは「主において喜びなさい」と言っているのです。喜びの動機と理由は主イエス・キリストにあります。十字架の苦しみに打ち勝ったキリストがパウロとともにて、パウロと言わば一致して生きているのです。キリスト教という宗教は十字架と復活という過ぎ越しの神秘を生きる宗教です。

先週、先々週の主日の福音に引き続き、今日、年間第27主日の福音も、ぶどう園のたとえ話です。

ぶどう園の主人は農夫たちにぶどう園を貸し与え、収穫を受け取るために農夫たちのところに僕たちを遣わしました。しかし農夫たちは僕たちを拒否します。そこで主人は最後に跡取り息子を派遣しますが、農夫たちは息子をぶどう園の外に放り出して殺してしまいます。その結果、主人はぶどう園をほかの農夫たちに貸すことになります。

主人は、主なる神、農夫たちはイスラエルの指導者たち、僕たちは 預言者たち、息子はイエス・キリストを指しています。

主なる神はイスラエルの民をエジプトにおける隷属から解放し、カナンの地に導きそこに定住させました。本日の答唱詩篇はそのことを次のように言っています。

   あなたはぶどうの木をエジプトから移し、

    ほかの民を退けてそこに飢えられた。

   まわりが耕され、その木は根を張り、おい茂った。

しかし、第一朗読イザヤ書ではまた次のように言っています。

   わたしがぶどう畑のためになすべきことで

   何か、しなかったことがまだあるというのか。

   わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに

   なぜ、酸いぶどうが実ったのか。(イザヤ54)

 

ユダヤ人はイエスの招きを拒みイエスを十字架につけて殺させてしまいました。その結果、神の国の福音は異邦人にのべ伝えられました。使徒パウロは異邦人の使徒でした。パウロはローマ書において、異邦人がイスラエル人より先に救いにあずかる次第を語ります。そのパウロがフィリピの教会宛に手紙を出しています。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ46)

人生は心配の連続です。思い煩わないように、といわれても実行は難しいと感じます。しかし、思い煩いではなく、冷静、賢明、勇気、そして神への信頼が何より大切なのだと思います。パウロはいかなる場合であっても神への信頼を説いています。しかも、この手紙を出したときパウロ自身は牢獄につながれていました。そのような状況でフィリピの教会の人々へこのような勧めを与えることができたとは実にすばらしいことです。

パウロはまた次のようにも言っています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ44-5

毎年、待降節第3主日の入祭唱で唱えられるパウロのことばです。パウロは牢獄でこの言葉を述べたと言われています。

牢獄の中でパウロがこのような勧めを送ったとは実に驚くべきことではないでしょうか。

ところでこのようにパウロが書き送ったフィリピの教会に実は問題があったようです。信徒の間に深刻な抗争があったという考えがあるのです。

パウロはフィリピの教会を特に愛していました。フィリピの教会はパウロが創設した教会でした。(創設の次第は、使徒言行録16章に記されています。)

****

第一朗読  イザヤ書 5:1-7

わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。

よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。

しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よわたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのになぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず耕されることもなく茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに見よ、叫喚(ツェアカ)。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 4:6-9

(皆さん、)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

福音朗読  マタイによる福音書 21:33-43

(そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。)「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。

『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』

だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

2020年10月 1日 (木)

悪についての小考察、その6、(アートマン)

悪についての小考察、その6

――「如何にして真の自己を知るか」の続き

 

人は如何にして真の自己と出会うことが出来るでしょうか。真の自己とは何でしょうか。難しい問題です。

西田幾多郎の『善の研究』は、「善とは真の自己を知ることである」としています。「悪」を考察するには「善」を考察しなければなりません。その「善」の探求は自己の探求と結びついています。人の生涯は自己の探求であり、人類の歴史も自己の探求と切り離せないと思われます。東西の哲学・宗教の歴史も「自己の探求」の歴史ではないでしょうか。

ここの一冊の哲学の入門書があります。それは『ソフィーの世界』と言って、その帯では「世界で一番やさしい哲学の本」と銘打ってあり、14歳の少女ソフィーに「あなたは誰でしょうか」と問いかける、という内容となっています。(1995年、ヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子訳、日本放送出版会発行)。

著者はノルウエー人の作家で、本書は世界中でベスタ―セラーになりました。著者はファンタジーを折ませながら、デモクリトスからはじめて、主要な哲学者の口を通して「あなたは誰か。」という問題の解説を展開しているのです。結論はどうかと言えば、あまり明確ではないと思われますが、分かりやすい言葉でこの命題を説明している点が魅力です。

 

「自己を知る」というときの「自己」とは何でしょうか。人には種々の顔があります。どの顔もその人のすべてではないし、その人の真の姿であるとはいえないでしょう。そもそも「真の自己とは存在するのか」が問題です。自己の探求は東洋においても重要な課題です。それでは、「自己の探求」について、西洋と東洋の違いはどこにあるのか。ある見解によれば、東洋の哲学・宗教では、自分の内側から自己とは何か、を考えたが、西洋では人間の外側から「人間とは何か、世界とは何か」を追求した、と言われています。(『史上最強の哲学入門、東洋の哲人たち』飲茶(yamcha)著、マガジン・マガジン発行、26㌻以下、より。)

 

さて、哲学の課題のなかに「認識」の問題があります。人はこの世界と自分の外にある対象を、自分をどれだけ正確に知ることが出来るかー認識できるか、という問題です。

18世紀のこと、英国にヒュームという哲学者が居ました。(1711-1776)

(以下、『史上最強の哲学入門』、飲茶、河出文庫,デカルトとヒュームの項を参考にしている。) 彼の哲学は「経験論」と呼ばれます。デカルトという哲学者(1569-1650)はすべてを疑ってついに辿り着いた結論が「どんなに疑っても疑っている自分が存在することは疑いない」という命題でした。そこから始まって、人間には理性によって認識する能力は確実である、と考結論したそうです。しかしヒュームは違います。人間の認識は物事を知覚することによるが、人間が知覚によって得る経験は現実と一致しているという保証はない。「わたし」という存在はさまざまな知覚の集まりの体験にすぎない。デカルトまでの哲学者が当然の前提と考えた神の存在についてまでもデカルトは疑いの目を向けます。人間は不完全な存在であるから完全は存在である神を知ることはできない。神は人間の有限な経験の組み合わせによって造られた創造の産物にすぎない、と考えました。

そのような状況で登場した偉大な哲学者がエマヌエル・カント(1724-1804)です。彼はデカルトの合理主義とヒュームの経験主義を統合した哲学者であると言われています。カントは合理主と経験主義のそれぞれの長所を取り入れ、新たな哲学を樹立したとされています。

確かに人間の経験は相対的であり、人によってかなりの相違がある。しかし、人間として、時間と空間の中で生きる人間は、同じ結論を得ることが出来るような認識能力を人は生得的(アプリオーリ)に与えられている、とカントは考えました。人類共通の経験の受け取り方の形式があり、その範囲内でなら、人は普遍的な真理に達することが出来ると、カントは考えたのです。しかし同時にカントは、人間は「物自体」は認識できない、と言います。ここが分かりにくいところです。人間にとっての真理とは人間にとっての「現象」であり、そのもの自体ではない、と考えます。人間は時間と空間の中で普遍的な認識をすることが出来る。しかし、時間と空間を超えた世界においては人間の認識の力は及ばないと考えます。例えば「神は存在するかしないか」という問題は人間の通常の認識の枠を超えた問題、いわゆるアンチノミー(二律背反)であります。(『カント入門』石川文雄、ちくま新書、第一章 純粋理性のアイデンティティー、参照。)

難解なカントの思想を正しく理解したかどうか自信がありませんが、カントの思想は「真の自己を知る」という目的にどのように貢献しているのか、正直に言って理解できていないのです。「他の誰でもないこのわたしは誰であり、何のために生まれ、何のために生きているのか」という問題にどのようにカントの思想が関わっているのでしょうか。

人は人生の体験上、他者を理解することがいかに困難であるかを知っています。他者を理解できない、他方、自分も理解してもらえない。この事実をどう受け止めるか。ヒュームのいう経験論の中に、このわたしたち人類の体験が入っているのではないだろうか。理解とは共感であります。それはほとんど不可能だという気がしますが、しかし、ある程度可能です。分かって頂けた喜びを人は経験します。

理解されるより理解することを求める者であることが出来るように日々祈るのが人の道でありましょう。(フランシスコの平和を求める祈りを思い起こす。)

カント哲学の範疇での認識で人は救われるでしょうか。他の誰でもない自分として理解されることを人は求めているのです。人間とは何か、人は如何に認識できるか、という高度で抽象的な議論に人はどれほど関心を持つでしょうか。

このような問いかけ自体がカントの哲学の枠にははまらないのかもしれません。

(しかし、膨大で深遠はカントの哲学をさらに読み込んでいけばこの疑問への回答に出会うのかもしれません。今の自分には困難な道ですが。)

 

さて、此の点、東洋の哲学・思想ではどうでしょうか。「山川草木悉皆成仏」ということを申し上げましたがが。インドのヒンドゥー教では「真実の自己の探求」は「わが内なる本来の自己アートマンが宇宙の根本原理であるブラフマンと同一である、という真理を悟ることが輪廻から脱出して真の自己を知ることである」と説かれています。稿をあらためて、ヒンドゥー教と仏教の考え方を学んでみたいと思います。

 

インド最大の哲学者と呼ばれるシャンカラ(700-750)の教えは次のように要約されます。

「人が輪廻から解脱する道は、本来の自己であるアートマンと宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であるという真理(梵我一如)を悟ることである。悟りを妨げているのは「無明」であるので無明を克服する修行がしなければならない。」(『ウパデーシャ・サーハスリー』(真実の自己の探求),前田専学訳、岩波文庫、の訳者前書き、による。)

何となく西田幾多郎の『善の研究』に似通った内容ですが、ここに四つの理解困難な概念があります。

輪廻

アートマン

ブラフマン

無明

 

そこでできうる限りにおいてこの四つの考え方を追求してみたいと思います。

 

アートマンとブラフマンは宇宙の根本原理であるといわれています。宇宙の根本原理とは何でしょうか。

宇宙には秩序があることを認めるには吝かではありません。宇宙は規則正しく運行しています。その規則は基本的な原理で統括されている。それをヒンドゥー教ではブラフマンと言います。

このように理解すればいいのでしょうか。

しかし、あまりにも抽象的で内容が判然とはしません。宇宙の根本原理と言えば、天体の運行、時間の推移、生物の消滅,気候の変動などを指しているのでしょうか。アートマンとブラフマンとは同一であると言いますが、本来の自己というなら、本来でない自己があるのでしょうか。本来でない自己と本来の自己とはどう違うのでしょうか。

「本来」と「本来でない」という概念の分け方はスコラ哲学の本質essentiaと偶有accidentiaという区別distinctioを想起させます。スコラでは、本質と偶有とを分けて考え、物には、そのモノをそのモノたらしめている、本質、あるいは本性があると考え、それ以外の属性はたまたまそのモノに付属してものにすぎないと考えます。例えば、ここにパソコンがあるとして、そのパソコンがどこの会社の製品であるのかは偶有にすぎないと考えます。同じように、人間にも本来の要素と偶有的な要素があるのでしょうか。

 

ちなみに「偶有性」と「偶有」について、以下のような説明があります。一方は偶有性のラテン語がcontingens である場合、他方がaccidensである場合です。参考までに注として要旨を引用しておきます。(注1)

 

何が人を人としているのでしょうか。その本来の自己と宇宙の原理とは同じものであると言われてもにわかには納得できません。人間を人間としている原理は宇宙の原理である、という意味でしょうか。それならある程度は理解可能です。人間には尊厳があります。人間の尊厳は神に由来します。創世記にあるように、人間は神の似姿であり神に似たもの,写しです。その点において、人間は、人間の起源であり創造主である神と共通の特色を持ち、その限りにおいて人間は尊厳を持ち、かけがえのない存在であると言えましょう。

宇宙の根本原理であるブラフマンがアートマンと同一であると言っても、いかにして、個々の人間の本質であるアートマンを認識できるでしょうか。人間の肉体は時間と空間の中に置かれ、食べ、排泄し、疲れ病み、身体は朽ちてしまいます。アートマンと身体の関係はどんなものでしょうか。

以下、シャンカラの教説集『ウパデーシャ・サーハスリー』(真実の自己の探求)により理解できた、あるいは関心を引いた内容をメモとして(注2)で紹介しますので確かめてください。ここでは、複雑で難解なシャンカラの見解をまとめてみたいとおもいます。

(以下に、島岩師の『シャンカラ』で述べられている同師による結論を、多少言い換えながら、引用してみます。)

シャンカラが一貫して目指したものは、自己の本質であるアートマンと絶対者ブラフマンのとの同一を知るということだった。自己という小宇宙の本質と大宇宙の本質であるブラフマンとの同一性の認識である。それは異なる二つのものの合一という形の合一性でなかった。自己の本質と宇宙の本質は本来的に同一だと考えられるということである。つまり、自己の本質に目覚めた時がすなわち、宇宙の本質に目覚めた時なのである。そして、両者の同一性は、我々が気付いていないだけで、本当はすでに実現されているのである。それにもかかわらず我々はなぜそれに気づかないのかといえば、無明がその妨げの原因となっているからである。

無明とは、主客の対立に基づいた言語や概念によって世界を分節化して捉えてしまうという、我々の生得的な認識の在り方のことを指している。したがって無明を滅することが必要である。しかし人間にとって先天的といえるこの人間の傾向を滅することは非常に困難である。

シャンカラの提示する方法は瞑想である。瞑想によって、意識を内なる自己の本質に向け、身体・感覚器官・内菅の働きをすべて停止させることによってそれは可能となる。すなわち、身体的・言語的・心的行為をすべて消滅させるのである。すると世界は消滅し、身体は消滅し、最後に「私」という意識も消滅する。そして、そのときの輝きであるものこそ自己の本質であるアートマンであり、すなわちブラフマンである。これが悟りであり解脱である。そのとき我々は存在そのものであり、精神その者であって、至福に包まれるのである。

とはいえ、この状態は人間にとっての「死」である。それは生存活動そのものの停止に他ならないからである。(『シャンカラ』、島岩著、清水書院、206-207㌻)

 

このまとめに対して、自分としていかなる意見を持つことが出来るでしょうか。以下に自分としては十分には受容しがたい留意点、あるいは疑問点を列挙します・

1、自己の本質と自己の本性とは同じ意味でしょうか。自己の本質を意義が強調されていますが、自己に固有の部分の認識・評価はどうなるのでしょうか。いわば偶有的な自己の特色を評価しないのでしょうか。真の自己とはアートマンであり、アートマンは宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であると気づくことがどんな意味があるのでしょうか。そうなると、自分というものがブラフマンの中に吸収されて消滅されてしまいます。そのことが無明を克服ことになる、と言っているようですが。そうなると各自の固有の存在の意味、価値はどうなるのでしょうか。各自の自己同一性identityはどうなるのでしょうか。そもそもそのような考え方が無明であると言っているようです。そうだとすればとてもついてはいけないという気がします。

2.シャンカラによれば、「私」という意識や存在は、無明すなわち誤った認識が生み出したものです。そればかりでなく、この世界は実は実在しないと言います。アートマン=ブラフマン以外のものは虚無にすぎない、見えるのは仮象、仮の姿、幻に過ぎないと言っているようです。シャンカラによれば、無明こそ人間にとって根源的・先天的な悪のであります。(島岩『シャンカラ』161-162㌻参照。)

3.無明の目に映る世界は仮象であり、真の実在ではない、というのでしょうか。これはこの世界に対して著しく否定的な態度です。我々は幻の世界に置かれているのであり、すべては仮の姿であるというのでしょうか。「行為」ということに対する否定的な態度は、この世で生きることに対する否定、あるいは無意味さに通じます。現代人が求めているのは、自己の存在の意味、価値ではないでしょうか。しかし他方、すべての存在にアートマンが充満しているというような言い方を散見します。無明の世界とアートマンの世界との対比がわれわれを混乱させます。

4.身体に対する否定的な見方に当惑します。島氏がいうように、「身体・感覚器官・内菅の働きをすべて停止させる」ということは、人間にとっての「死」の状態であると言えないこともありません。このような考え方はキリスト教の十字架の教えにかようものがあると感じます。キリスト教は過ぎ越しの神秘の宗教です。死を過ぎ越して復活へ至る道を教えています。アートマンの悟り、自分の本性がアートマンであるという悟りは、自分は復活のキリストの兄弟・姉妹であるという神学と同じ底辺を持つ思想でしょうか。この辺をもっと深く追求してみたいと思います。しかし、アートマンという「共通項」の発見は真の自己、他の誰でもない自分の発見とはどうしても思えないのです。この辺が東洋と西洋の思想の対立点でしょうか。あるは実は底辺は同じ考え方であると言えるのでしょうか。

 

5.シャンカラの思想を理解するカギは「無明」です。無明とは「付託」であります。付託とは次のように説明されます。

例えば真珠貝を見て、依然見た銀を想起し、真珠貝を銀であると誤認することです。アートンと非アートマンの間にも相互に付託が起こる、と言います。アートマンに人間の経験を付託してそれをアートマンの見做す、あるいはその逆に、人間の身体にアートマンを付託して、身体をもってアートマンとみなすことが起こります。アートマンを人間の肉体で表現し、それをアートマンとして礼拝する、あるいは特定の人間を生き仏にように考えて神格化することなどがそれにあたると思われます。

6.仏教では三毒という思想があり、その中に、無知すなわち無明が入っています。無明とは真理を知らない、知ろうとしない人間の愚かさを指しています。杉谷義純師によれば、無明とは人間の心を犯している三毒の一つです。三毒とは、貪・瞋/・癡(とんじんち)の三つで、癡が無明にあたります。「無知であること、相手や相手に関することに対して知識を持とうとしない、目を開こうとしない、相手の立場に立てものを考えようとしない、自分がよければそれですんでしまう」ということです。(『平和のための宗教者の使命』-2015年シンポジューム記録、日本カトリック司教協議会 諸宗教部門 編集、カトリック中央協議会発行、35㌻より。)

7.なお「付託」については以下のように説明されています。

 「付託とは以前に知覚されたXが、想起の姿で別の場所Yに顕現することである。」(島岩著『シャンカラ』127㌻)

人間とは思いこみの動物です。わたしたちの認識は、既に獲得している経験と知識、認識の枠組みによって成立します。スコラ哲学がいうように「認識されるものはすべて認識する側の認識の様式によって認識されるのです。」(注3)

「付託」もこの格言の解釈に含めることが出来るかもしれません。人間には「思い込み」があります。縄をみて蛇と思い込むのが「付託」の例ですが、人は先入観をもっているので、その判断に惑わされてしまいます。「人を見たら泥棒と思え」ということわざがありますが。人間とは信用できない存在だという思い込みがある。他方、「渡る世間に鬼はない」とみい、人間とは親切で正直だ、という人間観があります。経験則の上で、どちらのも真実が含まれており、どちらだけに断定出来ないように思います。人は純粋に、間違いのない認識と判断をすることが出来るでしょうか。人の心は欲と歪みで汚されているので、それを拭い去らなければ正しく公正な判断はできないでしょう。それは地上の人間にはほとんど不可能なことです。

8.真の自己との出会いはアートマンとの出会い、あるイアートマンの発見であるとして、あるいは、自分がアートマンであることを悟ることだとして、それではすべての人間が同じアートマンであるのでしょうか。無数のアートマンが存在するのでしょうか。いやアートマン=ブラフマンで、唯一であると言われる。そうなると、人間の唯一性の存在価値はどうなるのでしょうか。そのような概念自体が無明の結果であり、幻に過ぎないのでしょうか。アートマンと個人の唯一性の価値。このパラドックスをどう解けばいいのでしょうか。

9.「輪廻」についてですが、「輪廻」とは無明のことです。すなわち、無明から解脱できない状態のことだと思われます。なぜなら以下のように言われているからです。

「ブラフマン=アートマン以外の一切の現象的物質的世界は、我々の載身体・感覚器官はもちろんのこと、一般に精神活動の中枢をなしていると考えられている統覚機能(心)に至るまで、真実のアートマン、すなわちブラフマンに対して誤って付託されたものにすぎない。したがって人間をブラフマンとは全く異なる存在であるかのように見せている非アートマン的要素はすべて、無明の産物であり、あたかもマーヤー(幻影)のように実在しない。したがってブラフマンとアートマンとは全く同一である、とシャンクラは説いている。彼の立場は不二一元論(Advaita)と呼ばれている。一般の人間は、無明のために、真実を知らず、アートマンと、統覚機能などのような非アートマンとを明確に識別していないために、輪廻しているのである。輪廻とは、結局この無明のことであり、この無明を滅することが解脱である、とシャンカラは教えている。(『ウパーデーシャ・サーハスリー』―-真実の自己の探求、シャンカラ著、の訳者、前田専学による、前書きより。7㌻。)

 

(注1)     偶有性 contingens

アリストテレスの用語で、endekomenonの訳語。存在することもしないこともありうるものの在り方をいう。ラテン語ではcontingensという。論理的には「その存在が必然ではないが、それが存在するとしても、そのゆえに、いかなる不可能も生じてこないもの」と定義される。必然性に対する。必然的なものについては論証と理論的知識が成り立つが、偶有的なものについてはこれが成り立たない。

偶有性は、形相と質料から合成される存在事物(感覚的個物)の在り方である。質料は偶有性を本性とするからである。この偶有なる個物にかかわることによって、行為とすべての実践的知識が成り立つ。行為は、存在することもしないこともありうる存在事物のうちに、或()る目的を実現することであり、実践的知識はこの行為を導くものだからである。中世の形而上(けいじじょう)学は、創造者である神を必然存在とし、すべての被造物を偶有存在とする存在把握を根幹とする。偶有存在の現存の事実から、その存在の原因として必然存在である神の現存を推論する道は、トマス・アクィナスの神の現存証明の第三の道である。(加藤信朗]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 

 

――

偶有性

ラテン語ではaccidens.

【一般概念と定義】アリストテレスが列挙した10個のカテゴリー(範疇、ラテン語のpraedicamenta)のうち、第一実体(ギリシャ語のousia、「ものが何であるか」)以外の9個のカテゴリーを中世のスコラ学者は偶有性(ラテン語でaccidentia[複数]と呼んだ。この言葉はギリシャ語のシュンベベーコスsynbebekos を訳したものであるが、アリストテレス自身は「付帯性」ないし「偶然性」の意味で用いた。スコラ学者はこの言葉をaccidentiaと訳し、主要な「有」(ens)である実体(substantia)に対して、第二次的な有を意味する語として用いた。これは、「どれほど」「どのようにして」「どこにあるのか」などの存在する様相(modus)を説明する概念であり、第一次的有である実体に依存する有である。

実体は「それ自体において在るもの」(ens per se)であり、偶有性はそのような実体において、つまり「他者において在るもの」(ens in alio)と解される。「有」は「類」に属さないから、厳密な「偶有性」の定義は次のようになる。

「他者において在ることがそれの本質に適合するところのもの」となる。

これと関連して『偶性』という用語がある。これも同じaccidens の訳語であるが、これはある存在の本質に属さない属性(偶有的)を述べるときに用いられる。たとえば、人間について述べるときにその人が「肥っている」「痩せている」がどうかという特徴は人間の本質に属さない特色であるので、それは遇性である、と言われる。(新カトリック大事典、稲垣良典 より。)

 

注2 韻文篇

第一章 純粋精神

・アートマンは純粋精神であり、一切に偏在し、一切の存在物の心臓のうちに宿っており、一切の認識を超えている。(同書、第一章、一、17㌻より。)

・人間の善悪の行為の結果は業として身体に結び付き、貪欲と嫌悪による行為の原因となる。(同書、第一章、三、18㌻より。)

・善行と悪業により無知な人は再び同じように身体と結合して輪廻として繰り返す。(同書、第一章、四、18㌻。)

・輪廻の根源は無知にある。無知をすてるためには宇宙の根本原理であるブラフマンを知らなければならない。(同書、第一章、五、18㌻より。)

・知識のみが無知を滅することが出来る。行為は〔無知と〕矛盾しないから、〔無知を滅することが〕できない。無知を滅しなければ、貪欲と嫌悪を滅することは出来ないであろう。(同書、第一章、六、18㌻。)

・貪欲と嫌悪が滅していなければ、かならず行為が〔貪欲と嫌悪という〕欠点から生ずる。それゆえ至福のために〔ウパニシャッドにおいてブラフマンの〕知識のみが述べられている。(同書、第一章、七、18㌻より。)

・行為はブラフマンの知識と両立しない。行為はアートマンに関する誤った理解を伴っているからである。ブラフマンの知識とはアートマンは不変であるという知識である。

・ブラフマンの知識は行為の要因を破壊する。(同書、第一章、十四、18㌻より。)

・人々は、生来、身体に包まれたアートマンを身体などと区別のないものと理解しているが、この理解は無明に由来している。この理解がある限り、行為を行えという聖典の命令は有効である。(第一章、一六,20㌻より。)

・無明をいったん除去すれば、「わたしは有(ブラフマン)である」という認識があるのに「(私)は行為主体である」「〔私は〕経験主体である」という観念を持たないはずである。

第四章 「私」という観念

・身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの知識を持ち、かつ、その知識が、身体はアートマンであると考える一般の人の観念と同じように強固な人は、望まなくとも解脱する。(同書、第四章、五、27㌻より。)

第六章 切断

・認識対象を捨て、つねにアートマンを[あらゆる限定を]離れた認識主体であると理解すべきである。「私」と呼ばれるものもすでに捨てられた[身体]の一部であると理解すべきである。(同書、第六章、四、30㌻より。)

第七章 統覚機能にのぼったもの

・アートマンは変化することなく,不浄性もなく、物質的なものでもない。そしてすべての統覚機能の目撃者であるから、その認識は限定されたものではない。一切万物はアートマンの統覚機能の中で見えるようになる。(同書、第七章、三、四、32㌻より。)。だ

第八章 純粋精神の本質

・アートマンは純粋精神を本性としている。虚空のように、一切に遍満し、不壊であり、吉祥、中断することなく、分割されず、行為しない最高(ブラフマン)である。(同書、第八章、一、三、3334㌻より。)

第一〇章 見(=純粋精神)

・アートマンは虚空であり、常に輝き、生まれず、唯一者であり、不滅であり、無垢,不二である最高者[ブラフマン]、本性上不変、いかなる対象もなく、不老・不死、原因でもなく結果でもなく、常に満足しており、ゆえに解脱している。(同書、第一〇章、一、二、三、37㌻より))

・身体・感覚器官から起こる一連の苦痛は、アートマンのものではなく、アートマンでもない。不変であるから苦痛は実在しない。(同書、第一〇章、五、38㌻より。)

・アートマンには始めも属性もない。行為も結果もない。(同書、第一〇章、七、38㌻より。)

第一二章 光に照らされて

・身体をアートマンと同一視するものは苦しむ。身体を持たないもの(=アートマン)は熟睡状態にあるときと同じく、覚醒状態において本来苦しむことはない。(同書、第一二章、五、47㌻より。)

・「アートマンは行為の主体である」「経験の主体である」という認識は誤りである。(同書、第一二章,一七、50㌻より、)

・「自分自身は」とか、「自分自身の」という観念は、じつに、無明によって想定されて者である。アートマンが唯一である、という知識がある場合には、この観念は存在しない。(同書、第一四章、一九、61㌻。)

・アートマンを、「私」という観念の主体であり、かつ認識主体である、と知る者は、まさしく[真実に]アートマンを知っているものではない。それとは別用に知っている者が、[真実に]アートマンを知っている者である。(同書、第一四章、二四、62㌻より。)

・「私」、すなわち「自分自身」という観念も、「私の」、すなわち「自分自身の」という観念も、無意味となるとき、その人はアートマンを知っていることになる。(同書、一四章、二九、63㌻より。)

・自己の本性は、何の原因の持たないものであるが、その他のものは原因を有するものである。自分自身によっても〔あるいは他のものによっても〕取られることも、捨てられることもない。(同書、第一六章、四一、83㌻より。)

・〔アートマンは〕一切万有の本性であるから、捨てることも、取ることもできない。なぜなら〔アートマンは、一切万有とは〕別のものではないからである。それゆえ永遠の存在である。(同書、一六章、四二、93㌻より。)

・〔アートマンとブラフマンとは〕別のものであるとする見解は、無明である。無明からの途絶が解脱である。この止息は、知識によってのみ得られる。(同書、一七章、七、104㌻)

・一切のものは無明から生じる。それゆえ、この世界は非存在である。世界は無明を持っている人に見られるが、熟睡状態において知覚されないから。(同書、一七章、二十、108㌻より。)

・実に心が、鏡のように、清らかとなるとき、明智が輝き出るから、心は清められるべきで

 

・身体などの非アートマンに対する、「私のもの」「私」という観念は、無明である。〔無明は〕アートマンの知識によって捨てられるべき出る。(同書,17勝、45114㌻より。)

・無明のために、〔アートマンは〕身体の中にあり、身体と同じ大きさであり、水に〔映る〕月などのように、身体の属性をもつもののように見られる。(同書、一七章、五五,117㌻より。)

・「私は不生であり、不滅であり、不死であり、不畏であり、一切智者であり、一切見者であり、清浄である」と悟った者は、〔再び〕生まれることはない。(同書、一七章、五八、118㌻。)

・天啓聖典を無視する人々は、アートマンと[その映像]について、ありのまま十分に知らないために、迷わされており、「私」という観念の主体をアートマンであると考えている。(同書、一八章、四八、138㌻。)

・人々は鏡の中の顔が「顔」と同一であると考える。それは顔の映像が顔の形相をもっているからである。同じように、人はアートマンに自分の影像を映して、統覚機能による認識をアートマンとし、逆に自己の統覚機能に純粋精神性を付託して、統覚機能が認識の主体であるとする。しかし、認識はアートマンの本性であり、永遠の光であるから、統覚機能によっても、アートマンによっても、他のものによっても、決して造られることはない。しかるに、一般の人々は身体に関して「私」という観念を持ち、身体が認識の主体であると考える。(一八章、64-67142㌻より。)

・心(=統覚機能)が精神的なものである、ということは、聖典によっても理論によっても支持されていない。もしそうなら、身体や目なども同じく精神的なものであるという欠陥が付随するであろう。(一八章、八八、148頁。)

・天啓聖句を聞いたときに、「私は有である」と理解されるか、それとも「私は別のものである」と理解されるであろうか。もし「私は有そのものである」と理解されるならば、「私」という言葉の意味は「有」であると承認されるべきである。(一八章、一〇五、152㌻。)

・「(私は)苦しい」という観念は身体などを「私」であると誤って考えることから確実に生じる。「私は内我である」と考える、識別智によって、識別智を持たない観念が否認される。(一八章、一六〇、一六一,166㌻より。)

・私(=アートマン)は触覚も身体もないから、決して焼かれることはない。それゆえ、「私は苦しみを受けている、という観念は、自分の息子が〕が死んだときに、〔私は〕死んだという〔観念が起こる〕ように、〔アートマンに関する〕誤った理解から生じる。(一八章、一六三,167㌻より。)

 

散文篇 第一章 弟子を悟らせる方法

アートマンは虚空と呼ばれ、・・・身体を持たず、粗大でない、などの特徴を持ち、悪を離れていることを特色とし、一切の輪廻の性質に触れることがない。・・・他に見られることなくして、自ら見るものである。他に聞かれることなくして、自ら聞くものである。他に思考されることなくして、自ら思考するものである。他に認識されることなく、自ら認識するものである。(第一章 一八 206-208㌻)

もし弟子が「先生、私は身体が焼かれたり、切られたりするときには、はっきりと苦痛を知覚します。また、飢餓などによって起こる苦しみをはっきりと知覚します。しかし最高のアートマンは、すべての天啓聖典および古伝書の中で『悪なく、老いることなく、不死であり、憂いなく、飢餓から自由である。』と言って一切の輪廻の属性を持たないと述べられています。わたしは最高のアートマンと本質を異にし、多数の輪廻の属性を備えているのにかかわらず、どうして最高のアートマン自身と理解することが出来るでしょうか。」というなら、師は次のように答えるべきである。「君が…苦痛をはっきりと知覚します」と言ったのは正しくない。何故なら、確かに焼かれたり、切られたりしている木と同様に、身体は知覚主体によって知覚される対象である。その対象である身体において焼かれたり、切られたりする苦痛が知覚されるのであるから、その苦痛は焼かれ、切られたりしている場所と同じ場所にある。人が苦痛を知覚するのは苦痛の原因となっている場所であり、苦痛の主体に苦痛があるとは指摘しない。「どこが痛いか」と訊ねられたら、『頭が痛い』『胸が痛い』などと答え、知覚主体を苦痛の場所と指摘することはない。もし苦痛の原因が知覚主体にあるならば人は苦痛の場所を知覚主体として指摘するだろう。しかし苦痛そのものは目の色・形がそうであるように、知覚されない。

苦痛及び苦痛の原因に対する嫌悪もまた苦痛の印象と同じよりどころをもっている。

貪欲と嫌悪は色・形の印象と共通のよりどころ(=統覚機能)を持っている。また知覚される恐怖も統覚機能をよりどころとしている。それゆえ認識主体は常に清浄であり恐怖を持たない。

では一体,色・形などの印象は何をよりどころにしているのか。

(師は答える。) 欲望のある場所である。

欲望は何処にあるのか。欲望・思惟・疑惑〔信仰・不信仰・堅固・不堅固・恥・思慮・恐怖、これら一切は意に他ならない〕は統覚機能にある。色・形は心にある。欲望は心に宿る。欲望・憎悪は対象である身体の属性であり、アートマンの属性ではない。

アートマンは一切であり部分を持たない。内も外も含み、不生である。叡智の名称である。一切万有の中に隠されている。身体の中にあって身体を持たない。生まれることも死ぬこともない。

一切万有の中に平等に住む。

一切の種類の形態を離れ、虚空のように等質であるのに、行為の目的・行為の手段・行為の主体が実際に経験され、あるいは天啓聖典で述べられており、見解の相違を引き起こすのは何故か。

それは無明の結果である。変化物はただ言葉による把捉であり名称にすぎない。

無明を持っているものは身体などの差別を得てアートマンが望ましいものと望ましくないものと結合していると考える。この差別こそ輪廻の性質である。

最高の真理の認識を得たい者は、自分の階級・生活期などがアートマンに属するという誤った見解を捨てて、息子・財富・三界などに対する願望を捨て去るべきである。

それゆえ一切の祭式および聖紐などの祭式の手段は無明の結果であるから、最高の真理の直観に安住している者によって捨て去られるべきである。

散文遍第二章 理解

弟子:どうすれば輪廻から解脱できますか。わたしは身体と感覚器官とその対象を意識します。覚醒状態で苦しみ、夢眠状態で苦しみます。熟睡状態に入れば中断するが、その後再び苦しみを感じます。これがわたしの本性でしょうか。別のものが本性でしょうか。別に本性があるなら何が原因で苦しむのでしょうか。自分の本性なら本性から逃れられないので解脱の望みはありません。何かの原因があるならその原因を取り除けるならば解脱できると思うがどうすればいいでしょうか。

:それはあなたの本性ではない。あなたの苦しみはある原因によるのです。

弟子:その原因とは何ですか。その原因を取り除くにはどうしたらいいですか。病人はその原因が取り除かれるならわたしは健康になるでしょう。

師の答え:その原因は無明であり、それを取り除くのは明智です。無明が亡くなれば輪廻から解放され苦しみを感じなくなります。

弟子:無明とは何ですか。

:君は最高我であり輪廻しないのです。しかし君は正反対に理解しています。また行為主体でないのに「わたしは経験の主体である」「私は永遠には存在しない」と考えています。これが無明です。

弟子:そういわれても、私は最高我ではありません。わたしの本性は行為したり経験したりする輪廻です。このことは直接知覚などの知識根拠によって認識されるからです。また無明を原因としてはいません。無明は自分のアートマンを対象とすることができないからです。無明とはAの性質をBに付託することです。例えばよく知られている銀をよく知られている真珠貝に付託し、あるいはよく知られている人間を木の幹に付託し、あるいはよく知られている木の幹を人間に付託することです。しかしよく知られていないものをよく知っているものに、またよく知られているものをよく知られていないものに、付託することはありません。アートマンは良く知られていないので、アートマンでないものをアートマンに付託することはありません。またアートマンをアートマンでないものに付託することもないと思います。

:それは正しくない。例外があります。必ずしも良く知られているものがよく知られているものにだけ付託されるとは限らない。「わたしは色が白い」「わたしは色が黒い」という場合は、身体の性質が「わたし」という観念の対象であるアートマンに付託されているし、「私はこれです」という場合は、「私」という観念の対象であるアートマンが身体に付託されているのです。

弟子:その場合、アートマンは「私」という観念の対象としてよく知られているものです。身体もまた「これ」としてよく知られているものです。よく知られている身体とアートマンとの相互委託にすぎません。何故「両者ともよく知られているものだけが相互に委託されるとは限らない」と先生は仰るのですか。

:聞きなさい。確かに身体とアートマンとはよく知られている。しかし、樹の幹と人間の場合互いによく知られている場合とは異なって、すべての人にはっきりと区別される観念の対象としてよく知られているわけではありません。

弟子:ではどのように知られているのでしょうか。

:常に全く区別のない観念の対象として知られているのです。誰も「これは身体、これはアートマン」というように、はっきりと区別された観念の対象として、身体とアートマンとを把握していないから、人々は、「アートマンとはこのようなものである」「アートマンとはこのようなものではない」と考えて、アートマンとアートマンでない者に関して、非常な混迷に陥っている。

弟子の反論:無明によって、A に付託されたBAには実在しません。縄に付託された蛇は縄には実在しないように。虚空に付託された地上の塵埃は虚空には実在しないように。それと同様に、身体とアートマンもまた、お互いに区別のない観念として相互に付託されるなら、身体はアートマンに実在しないし、アートマンは身体に実在しないということになります。身体もアートマンも無明によって相互に付託されるなら、身体もアートマンも実在しないという結論に至ります。(しかし、それは仏教徒の主張だから承認できない。) 身体だけが無明によってアートマンに付託されるというのであれば、アートマンは実在するが身体はアートマンに実在しないという結果になります。しかしそれは直接知覚などの知識根拠に矛盾するので承認できません。従って身体とアートマンとは相互に付託されるということはありません。

 

:では身体とアートマンとはいかなる関係にあるのか。

弟子:身体とアートマンは、家屋の竹と柱のように、つねに結合しています。

師:それは正しくない。もしそうなら、アートマンは無常であって、他のために存在するということになる。アートマンは身体とは結合しない。身体とは別なものである。

弟子の反論:アートマンは結合しないとしても、身体にすぎないとされ、身体に付託されてしまうので、アートマンは実在せず、無常であるということになります。その場合、身体はアートマンを持たないとする教務論者(仏教徒)の主張に帰着します。

:それは正しくない。アートマンは虚空のように本性上何ものとも結合しない。だからと言って身体など一切のものがアートマンをもたいないとは言えない。虚空が一切のものと結合していなくとも、一切のものが虚空を持たないということにはならないと同様です。また身体にアートマンが実在するということは直接感覚で認識されることではない。

弟子:知覚されないアートマンがどのようにして身体に付託され、アートマンに身体が付託されるのでしょうか。

:それは問題ない。

弟子:身体とアートマンとの相互付託は身体の集まりによってなされるのでしょうか。それともアートマンによってですか。

師:そのときにはどういうことになりますか。

弟子:もし私が身体などの集まりにすぎないのならわたしは非精神的なものであるということになり、他のために存在していることになります。したがってわたしが身体とアートマンを相互に付託することはありません。もしわたしが最高我であり、身体の集まりとは異なるものであれば、わたしは精神的なものですから、自己を目的とします。従って精神的な私がアートマンに対して付託を行います。

:もし君が、誤った付託が禍の種子であると知っているならば、それをしてはなりません。

弟子:私は他のものによって付託させられるのです。

師:そのとき君は非精神的なものですから、自己を目的とするのではありません。非独立的な君に誤った付託をさせるのは自己を目的とする精神的なものです。君は身体の集まりにすぎないのです。

弟子:もし私が非精神的なものであるならば、苦楽の感覚や先生の仰ったことをわたしはどのように認識するのでしょうか。

 

:君は、苦楽の感覚と私の言った事とは別のものですか、同一のものですか。

弟子:同一ではありません。

:何故か。

弟子:わたしは両者を壺のように認識の対象とします。もしわたしが両者と同一なら両者を認識できません。わたしが両者と同一なら苦楽の感覚の変化が自己を目的とするものとなり、先生の仰ったこともそのようになるでしょう。しかし両者が自己を目的とするものであることは合理的ではありません。

:その場合君は精神的なものであるから、自己を目的とするものであり、他の物によって誤った付託をさせられることはない。精神的なものが他のものに依存し、あるいは他のものによって付託させられることはない。

弟子:召使と主人は精神的なものであるのに、両者は互いのために存在するということが経験されるのではないですか。

師:そうではない。

弟子:観念は外界の対象の形相を持つものとして確立されます。わたしは外界の形相を持った諸観念を知覚する主体です。この主体は変化します。それゆえ私が不変であるということには疑問があります。

師:君の疑問は理に会わない。君はこれらの観念を必ず残りなく知覚するのであるから君は変化しない。それゆえ君は不変である。

弟子:知覚とは変化にほかなりません。

師:知覚と知覚主体の間に区別があれば君のいうことが正しい。しかし知覚と知覚主体は別のものではない。統覚機能の観念はアートマンの知覚が知覚主体であるかのように現れるとわたしは言った。

弟子:私が不変であるならば、わたしは私の対象である統覚機能の働きを余すことなく知覚する主体である、と何故仰ったのですか。

師:私は真理だけを話した。まさしく君は統覚機能を余すことなく知覚する主体であるという真理に基づいて君が不変であると言ったのです。

弟子:わたしは不変・恒常的な知覚を本性としており、音声など外界の形相を持った統覚機能の観念が生じ、かつそれは私の本性である知覚が知覚主体であるかのように現れるという結果で終わります。その場合、一体私にはどんな誤りがあるのでしょうか。

師:君のいうことは正しい。何の誤りもない。しかし私は無明だけが誤りであると言ったのだ。夢眠状態と覚醒状態は君の本性ではない。衣服のように離れ去る。偶然的であり、可滅性と非存在性を持っている。

弟子:もしそうなら、熟睡状態においてわたしは何も知覚しませんから、私の本性は精神性の無い、偶然的なものになってしまうのではありませんか。

 

師:熟睡状態においても、君は見ている。君は見られる対象の存在を否定しているだけであって、君が見ていることを否定しているのではない。君が見ること、それが精神性です。

もし君が、「知識主体に関する理解が生じない場合には、知識主体が理解されることはないでしょう」というならばそれは正しくない。理解する主体の対象が理解されるべき対象であるなら、無限遡及に陥る。しかしアートマンにある理解は、普遍で恒常的な光であり、太陽の光のように、他の物に依存しないで確立されている。そして、アートマンにある理解すなわち精神性の光は無常ではない。

質問者:理解が知識根拠の結果であり、かつ、不変・恒常であって、アートマンの光を本性としているということは矛盾しています。

師:矛盾していない。

質問者:どのように、矛盾していないのでしょうか。

師:理解は不変・恒常であっても、直接理解などの知識根拠に基づく観念形成過程の終わりに現れる。観念形成過程はそれを目的としているからである。直接知覚による観念が無常である場合は、理解は知識根拠の結果であると言われる。

弟子:もしそうであれば、理解は不変・恒常であり、アートマンの光を本性として確立しております。アートマンでないものは本性上、苦・楽・混迷を起こす観念によって理解されるので、他のためにのみ存在しています。従ってアートマンでないものは絶対真理の立場から見れば実在していません。覚醒状態と夢眠状態において経験される二元性もまた、その理解を離れては存在しないというのが合理的です。ちょうど夢眠状態において、青・黄などという種々の形相を有する諸観念はその理解から離れ去るので、本性上実在しないはずです。そして、この理解を理解する別の主体は存在しません。それゆえ、〔理解〕は、自己の本性上、自ら取ったり捨てたりすることは出来ません。他の何ものも存在しないからです。

師:「まさしくその通りである。覚醒状態と夢眠状態とを特徴とする輪廻の原因、それが無明である。その無明を取り除くものが明智である。このようにして君は無畏に達したのです。君は今後、覚醒状態と夢眠状態において、苦しみを知覚することはない。君は輪廻の苦しみから解脱したのです。」

 

注3.ラテン語の格言:Quidquid recipitur ad modum recipientis recipitur which means, whatever is received is received in the manner of the

2020年9月30日 (水)

大天使の祝日

聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使 祝日ミサ説教

2020年929()、本郷教会

 

9月29日は聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエルの三位の大天使の祝日であります。

ミカエルの洗礼名の方、塚本さん、おめでとうございます。

ミカエルという名前の方は沢山いらっしゃると思います。

ミケランジェロ(1475-1564)という有名な画家がいましたが、ミカエルですね。

ラファエロ(1483-1520)という同じ頃の素晴らしい画家もラファエルの名前をとっていると思います。

教会の祈りの中に「毎日の読書」という読書課がありまして、聖書以外の貴重な教えを毎日司祭、修道者は読むことになっております。

今日の箇所をここにコピーしてきました。

聖グレゴリオ一世教皇という方の遺された「福音講話」が29日の第二読書課です。

第一読書課は聖書です。

毎年この箇所を読むわけですが、たいへん印象的な内容なのでご紹介したい。

天使アンゲルスというのは、「告げる使い」という意味です。

ラテン語ではアンゲルス、英語ではエンジェルでしょうか。

天使には大天使と大のつかない天使、大天使はアルカンゲルスと呼ばれます。

天使は人間じゃないので何人とは言わないで、昔の言い方ですと何位(なんい)、位(くらい)といっていましたが、最近は聞かないですね。

ちなみにこの天使の存在のことを最近はあまり意識しなくなっている。

霊的な世界というものについての感覚が非常に鈍くなっているように思う。

以前は行き過ぎとでも言われるような、神さまをそっちのけにして、天使とか聖人の方に関心がいっていたのかもしれないが、その反動でこの霊的な世界というものに対する敏感な感性というものが大変弱くなっているように思う。

目に見えない世界に対するわたくしたちの態度、感覚が非常に弱くなっている。

同じ天使でも堕落した天使が悪霊、悪魔であります。

 

今の教皇様、教皇フランシスコの出した使徒的勧告『喜びに喜べ』という本を一緒に勉強してきて、一応終わったわけですが、その時に強く教皇様がおっしゃっていたことを思い出します。

現代の人はあまり悪魔の存在に注意を払っていない、それは大変危険なことです。

悪魔というのは譬えに過ぎないとか、単なるおとぎ話とか、悪を人格化したものであるとか、そういうように考えてあまり大切なことと考えていないのは重大な問題である。

実際に悪魔は存在し、わたくしたちをいつも悪に誘っているのです。

その悪魔に対抗するためには、絶えざる祈りなどが必要ですというようなことを、この本の終わりの方で言っていて、同じことをパウロ6世教皇、列聖された聖パウロ6世教皇も教会公文書の中で言っていますよということを註で言っています。

 

霊的な世界に対するわたくしたちの感覚が鈍化していることは否めない事実です。

昔のことですが、わたくしは函館の男子のトラピストに行きまして、確か一か月程そこで過ごしました。

さっそくゆるしの秘跡を受けましたが、その時に受けた訓戒の言葉を一生忘れることができません。

人間は罪を犯しても何回も赦しを受けることができる。

しかし、完全に霊的な存在は一度でも、そして「思い」だけでも神に反すると、もう引き返すことができない。

天使の中で自分も神のようになろうと思っただけで、悪魔になってしまったということが言われている。

人間は何度でも痛悔し、回心して赦しを受けることが出来るが、純粋に霊的な存在は純粋ですので、思っただけでその結果が現れて、それは覆すことができない。

そういう意味であったと思います。

わたくしたちは身体、肉体を持っているので、自分たちの思うことや為すことは、悪いことについても不完全、不徹底なのですね。

しかし霊というのは、霊の世界に鈍いからよく分かりませんが、非常に純粋でありますから、それゆえ思っただけで神に反する存在になってしまうという意味であるようです。

(わたくしたちは)体を持っているのでその点良かったですね。

地上にいる間は大丈夫ですね。

大丈夫だからって、いい加減なことをして良いわけではないですけれども。

ちょっとそういうことを思ったりいたします。

天使にはそれぞれ役割がある。

天使の名前はその使命、役割に因んでつけられている。

ミカエルは「神のようなものがだれであるか」という意味であると先程読んだ朗読のヨハネの黙示に出てきますが、ミカエルは悪魔とたたかって悪魔のはたらきを封じ込めるという役割を与えられている。

昔のお祈りで、昔はよく「大天使ミカエルに向う祈」というのをしていたようです。

さっき慌てて探して見つけた祈りの本、懐かしいですね。

今読んでみます。

「大天使聖ミカエルに向う祈

大天使聖ミカエル、戦においてわれらを守り、悪魔の凶悪なる謀に勝たしめ給え。

天主のかれに命を下し給わんことを伏して願い奉る。

ああ天軍の総帥、霊魂をそこなわんとてこの世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、

天主の御力によりて地獄に閉じ込め給え。アーメン。」

格調高い祈りですね。

それからガブリエル。

主のお告げの時に現れた天使です。

おとめマリアに主のお告げをした大天使です。

ガブリエルという名前は「神の力」という意味だそうで、一人の貧しい少女マリアを通して神の力が現れましたという救いの歴史があります。

 

ラファエルも良く使われる名前ですが、ラファエルという言葉の意味は「神の医薬」という

意味です。

聖書の第二正典トビト記に出てきます。

今日は大天使の日ですが、確か第二バチカン公会議(1962-1965)の前は別々の日に祝われていましたが、整理されて三位の天使が同じ日に祝うことになったと記憶しています。

 

ちょっと話は飛びますが、司祭は生身の人間、弱い人間でありながら主イエス・キリストの使命を地上で実行するために選ばれ、そして地上の生活においてさまざまな誘惑を受けながら生涯を神のみ旨をおこなう者として神と使徒に仕えました。

先日(924日)帰天されたフランシスコ・ザベリオ岸忠雄神父様。

わたくしが個人的に親しくさせていただいた方ですけれども、長い生涯を終えて帰天されました。

主のもとで安息に入られますよう、お祈りいたしましょう。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 1:47-51
(そのとき、)イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

2020年9月27日 (日)

相手を自分より優れた者と思いなさい

年間第26主日説教

2020927

今日の福音は2人の息子についての、たとえ話です。

先週の日曜日の話もたとえ話で、ぶどう園で働く労働者のことでした。今日も、ぶどう園で働きなさいという話です。

この話は、わたしたちに、何を告げてくださっているのでしょうか。わたくしの心に強く残る、イエズス様のお言葉は、次の箇所です。

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。(マタイ2131

徴税人、あるいは、娼婦と呼ばれる人たちは、代表的な罪人とされていました。罪人というのは、神様のおきてを守らない、あるいは、守ることができない人々です。蔑(さげす)まれ、嫌われ、見たくもないとされるような、汚れた人々とされていました。

この、徴税人や娼婦に対して、立派に神様のおきてを守り、そして、教えている人々、聖書では、しばしば、ファリサイ人、あるいは、律法の専門家と呼ばれている人々を指しているようですが、今日は、祭司長、民の長老という人たちに向かって、イエスは言われております。

いずれにせよ、この人たちは、洗礼者ヨハネの言葉を受け入れなかった。受け入れる必要を認めなかった。自分たちは、きちんと、神様の言葉を守り、人々に教え、そして、立派に民の指導をしていると、指導を受け入れない、哀れな困った人たちが、徴税人や娼婦と呼ばれる人たちでした。

祭司長、民の長老、あるいは、たぶん、律法学士、ファリサイ派の人々は、自分たちは、立派に神様のおきてを守っているし、神様のみ心に適う者であるという自覚を持っていた。自負していたと思います。

それに対して、徴税人、娼婦の方は、日頃から、自分たちのしていることは良くないことだと思い、さらに、自分たちが、人々からどのように思われているかということも分かっていました。

ここに、対照的な2つのグループがある。「自分は神様のみ心を行っている者である」という人たちと、「神様の定めから大きく外れている者である」というように自覚する人たち。わたしたちは、どちらでしょうか。あるいは、両方でしょうか。

さて、このイエスの言葉、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」というお言葉は、どのような意味でしょうか。

『徴税人、娼婦たちは、自分たちが罪人であり、そして、罪の赦しを受けなければならない者であるという自覚を持っていた』ということに注目したいと思います。

また、この2人の息子の話ですが、「ぶどう園に行って働きなさい」という呼びかけは、どのような意味でしょうか。

わたくしは、次のように考えています。『ぶどう園に行って働く』ということは、イエス・キリストによって示された、神の愛、神のいつくしみ、罪深い人間を受け入れ、赦してくださる、神の愛を信じ、その神の愛に応えて生きる決意を新たにすることだろうと思います。

わたしたちは、洗礼を受けたとき、「信じます。悪霊とそのわざを捨てます」というような約束をしました。まして、修道誓願を立て、あるいは、司祭の叙階を受けた者は、もっと、何重にも、そのような決意を新たにしました。

では、その通りにしているか、100パーセント大丈夫かと言いますと、他のかたは存じませんが、わたくしは、本当に恥ずかしい。内面、「忸怩(じくじ)たる思いがする」のであります。きちんと、約束したことを守り切ってはいない。

でも、そうしなければならないと思い、いつも祈ります。「あなたは、わたしのことをすべてご存知です。わたしが、どのような状態にあるか、わたしの心がどのようなものであるかをご存知です。どうか、それを承知の上でも、このわたしを赦し、務めを果たすことができるよう、励まし、導いてください」。そのように祈ります。

この祭司長、あるいは、民の長老、律法学士、ファイサイ派の人の心の中に、そのような思いがあったかどうかは、知ることができませんが、イエスが、別の箇所で、彼らに向かって、

「あなたがたは、白く塗った墓のようなものである。外側は綺麗だけれども、中は醜い。人間の死骸で一杯だ」

というような、大変な強い非難の声をぶつけているところからしますと、自分たちは、外側だけではなく、内側も問題なく綺麗だと思っていたのかもしれない。

しかし、いかに立派な人間であっても、わたしたちは、100パーセント、すべて神様に満足いただけるような人間にはなり切れないと思います。

さて、そのように思いながら、今日の朗読で、大変心に響く、あるいは、気になる言葉を、お伝えしたいと思います。

それは、第二朗読にある言葉です。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

わたしたちは、毎日、いろいろな人と一緒に生活し、いろいろな人のおかげで生きています。考えてみれば、ひとりで何もすることはできない。本当に、いろいろな人に、教えられ、助けられ、そして、許されて、自分の生活をし、自分の務めを果たしている。

そうなのですが、相手を自分より優れた者と考えなさいと言われても、優れている点はあるけれども、この点については、この人は自分よりできると思っても、この言葉が、『その人を自分よりも優れた者と、心の底からそのように考えて、尊敬するということ』を意味しているとすれば、できていない。これは、どのような意味なのだろうか。どうして、今日の第二朗読に、今日の箇所が取り上げられているのだろうか。こじつけかもしれませんが、立派に神様のおきてを守っていると思っている人にとって、罪人である、徴税人、取税人は、とんでもない人たちです。

わたしたちは、そこまでは思わないとしても、自分はこうしているのに、相手はこうではないか、という思いを持つことがないだろうか。そのことについても、わたくしの個人の心の問題ですが、極端なことを言いますと、毎日、これはこうではないかと思うが、こうしてくれない、という思いが湧いてきます。

まして、こちらで言われている通り、「利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、ひとりひとりの人を、自分を助けてくれる、大切な人と考えなさい」というパウロの言葉を、もっと、しっかりと心に留めて、実行していきたいと思います。

「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」という十分意味のある大切な言葉です。毎日、この言葉をどれだけ実行できたかを反省するだけで、素晴らしい進歩ができるのではないでしょうか。わたくしも、人に言うからには、もっと自分で、実行するようにしたいと思います。

 

 

 

 

2020年9月22日 (火)

如何にして真の自己を知るのか

悪についての小考察その5 如何にして真の自己を知るのか

 

人は如何にして真の自己を知ることが出来るのでしょうか。真の自己とは何でしょうか。

難しい、しかし非常に重要な難しい問題です。

西田幾多郎の『善の研究』は、「善とは真の自己を知ることである」としています。「悪」を考察するには「善」を考察しなければなりません。その「善」の探求は自己の探求と結びついています。人の生涯は自己の探求であり、人類の歴史も自己の探求と切り離せないと思われます。東西の哲学・宗教の歴史も「自己の探求」の歴史ではないでしょうか。

ここの一冊の哲学の入門書があります。

(『ソフィーの世界』と言って、その帯では「世界で一番やさしい哲学の本」と銘打ってあり、14歳の少女ソフィーに「あなたは誰でしょうか」と問いかける、という内容となっています。1995年、ヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子訳、日本放送出版会発行著者はノルウエー人の作家で、本書は世界中でベスタ―セラーになりました。)

著者はファンタジーを折ませながら、デモクリトスからはじめて、主要な哲学者の口を通して「あなたは誰か。」という問題の解説を展開しているのです。結論はどうかと言えば、わたくしにはあまり明確ではないと思われますが、分かりやすい言葉でこの命題を説明している点が魅力です。

「自己を知る」と言うときの「自己」とは何でしょうか。人には種々の顔があります。どの顔もその人のすべてではないし、その人の真の姿であるとはいえないでしょう。そもそも「真の自己とは存在するのか」が問題です。自己の探求は東洋においても重要な課題です。それでは、「自己の探求」について、西洋と東洋の違いはどこにあるのか。ある見解によれば、東洋の哲学・宗教では、自分の内側から自己とは何か、を考えたが、西洋では人間の外側から「人間とは何か、世界とは何か」を追求した、と言われています。(『史上最強の哲学入門、東洋の哲人たち』飲茶(yamucha)著、マガジン・マガジン発行、26㌻以下、より。)

 さて、哲学の課題のなかに「認識」の問題があります。人はこの世界と自分の外にある対象を、自分をどれだけ正確に知ることが出来るか(認識できるか)という問題です。

18世紀のこと、英国にヒュームと言う哲学者が居ました。(デイビット・ヒューム、1711-1776)

(以下、主として『史上最強の哲学入門』、飲茶、河出文庫,デカルトとヒュームの項を参考にしている。) 彼の哲学は「経験論」と呼ばれます。デカルトと言う哲学者(ルネ・デカルト、1569-1650)はすべてを疑ってついに辿り着いた結論が「どんなに疑っても疑っている自分が存在することは疑いない。」と言う命題でした。そこから始まって、人間には理性によって認識する能力は確実である、と結論したそうです。しかしヒュームは違います。人間の認識は物事を知覚することによるが、人間が知覚によって得る経験は現実と一致しているという保証はない。「わたし」と言う存在はさまざまな知覚の集まりの体験にすぎない。デカルトまでの哲学者が当然の前提と考えた神の存在についてまでもデカルトは疑いの目を向けます。人間は不完全な存在であるから完全は存在である神を知ることはできない。神は人間の有限な経験の組み合わせによって造られた創造の産物にすぎない、と考えました。

そのような状況で登場した偉大な哲学者がカント (エマヌエル・カント1724-1804)です。彼はデカルトの合理主義とヒュームの経験主義を統合し、合理主と経験主義のそれぞれの長所を取り入れ、新たな哲学を樹立したとされています。

確かに人間の経験は相対的であり、人によってかなりの相違がある。しかし、人間として、時間と空間の中で生きるという同じ条件のもとにある人間は、同じ結論を得ることが出来るような認識能力を人は生得的(アプリオーリ)に与えられている、とカントは考えました。人類共通の経験の受け取り方の形式があり、その範囲内でなら、人は普遍的な真理に達することが出来ると、カントは考えたのです。しかし同時にカントは、人間は「物自体」は認識できない、と言います。彼は、人間にとっての真理とは人間にとっての「現象」であり、そのもの自体ではない、と考えます。人間は時間と空間の中で普遍的な認識をすることが出来る。しかし、時間と空間を超えた世界においては人間の認識の力は及ばないと考えます。例えば「神は存在するかしないか」という問題は人間の通常の認識の枠を超えた問題、いわゆるアンチノミー(二律背反)であります。(『カント入門』石川文雄、ちくま新書、第一章 純粋理性のアイデンティティー、参照。

 難解なカントの思想を正しく理解したかどうか自信がありませんが、カントの思想は「真の自己を知る」というわれわれの目的にどのように貢献してくれるのか、正直に言って理解できていないのです。

我々の課題は、繰り返しますが、「他の誰でもないこのわたしは誰であり、何のために生まれ、何のために生きているのか。」ということであります。カントの世界はこの発想とは少し違うように感じます。

 人は人生の体験上、他者を理解することがいかに困難であるかを知っています。他者を理解できない、他方、自分も理解してもらえない。この事実を受け止めるか。ヒュームの言う経験論の中に、この人類の体験が入っているのではないだろうか。理解とは共感であります。それはほとんど不可能だという気がします。しかし、ある程度可能です。分かって頂けた喜びを人は経験します。

理解されるより理解することを求める者であることが出来るように日々祈るのが人の道でありましょう。(フランシスコの平和を求める祈りの精神) カント哲学の範疇での認識で人は救われるでしょうか。人間とは何か、人は如何に認識できるか、という高度で抽象的な議論に人はどれほど関心を本でしょうか。他の誰でもない自分として理解されることを人は求めているのです。

 

このような問いかけ自体がカントの哲学の枠にははまらないのかもしれません。

しかし、膨大で深遠はカントの哲学をさらに読み込んでいけばこの疑問への回答に出会うのかもしれません。今の自分には困難な道ですが。)

 

さて、此の点、東洋の哲学・思想ではどうでしょうか。既に「山川草木悉皆成仏」ということを申し上げましたがが。インドのヒンドゥー教では「真実の自己の探求」は「わが内なる本来の自己アートマンが宇宙の根本原理であるブラフマンと同一である、という真理を悟ることが輪廻から脱出して真の自己を知ることである」と説かれています。以後、稿をあらためて、ヒンドゥー教―仏教の考え方を学んでみたいと思います。

  

西田幾多郎は最初の著作、『善の研究』において「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。西田幾多郎の生涯はそのために真摯な努力と思索の生涯でした。

「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

果たして自分で自分を知ることができるのでしょうか。

自己とは何か。自己とは誰か。自分は何処から来て何処へ行くのか。

このような問いは誰しも抱く重要な問いかけであり、人は誰しも、人生のどこかの機会に抱く問題ではないでしょうか。このような問いは極めて宗教的な問題であります。西田幾多郎自身極めて宗教へ傾倒した人でしたが、この問題を宗教の信奉者つぃてではなく、一哲学者として解き明かそうと努めました。彼の思索は、『善の研究』依頼終始、この問題への取り組みであったと言えましょう。

人は直接自分自身を見ることが出来ません。これは自明の理です。目は目以外の物を見ますが目自身を見ることが出来ません。目という存在は見るためにあるのであり、見られることを予想していないのです。それは、火が、他の物を燃やし破壊するためにあるのであり、火が火自身を燃やすことはない、という事と同じです。

自分自身を見ることのできない人間は、他の人に自分自身を見てもらいます。

中国の歴史書、「史記」の中に次のような言葉が残っています。

『士はおのれを知る者のために死し、女はおのれを喜ぶ者のために容(かたち)づくる(化粧をする)。』

人の強い願望の中に、「自分を知ってもらいたい」という欲求があります。人は自分を知ってくれる人のためなら、自分のすべてを知っても自分を自分として評価してくれる人に出会ったなら、命すらいらないと思うものです。

自分で自分を直接知ることが出来なければ、自分を知る者に出会うことによってそれが可能になります。

しかし人生の体験によれば、それはなかなか難しい、珍しい事例ではないでしょうか。しかし、西田幾多郎の考察によれば、「自分の中に自分を映す鏡のような場所がある」と言っているようです。

その「自己の中に自分を映す鏡」のことを西田幾多郎は「絶対無の場所」と呼んでいます。それでは「絶対無の場所」とは何であるのか。

本稿はこの問題を考察するために書かれています。

人は自分をどう位置付けるでしょうか。生物としての自分は、他の生物と同じように、段階別に分類されます。その位階は

種・族・科・目・綱・門・界(しゅぞくかもくこうもんかい

です。

 

さて、わたし岡田武夫は、

動物界、脊椎動物門、哺乳綱、サル目、ヒト科、ヒト属、ヒト種

に属する存在であるという事になります。

ヒト種の下には各個別の階層が存在します。例えば

ヒト→日本人→男性→東京都民→文京区民→本駒込5丁目4番地3号の住民。

ここまでくるとこれ以下には細分できません。

例えば、

岡田武夫は日本人です。

岡田武夫は男性です、都民です、文京区の区民です、本駒込5-4-3の住民です。

目下のところ本駒込5-4-3の住民は岡田武夫一人です。すると文京区本駒込5-4-3の岡田武夫で特定されます。これ以下に細分化されない個人となります。

考えてみれば、地球上に生きている何十億の人類は、このような方法で特定の個人に収束されます。

人に限りません。いまわたくしはマグカップでコーヒーを飲んでいます。同じ製品は他にも存在するでしょうか、これは唯一です。もう30年くらい愛用しており、取っ手が取れたのをある人が修復してくれました。世界中に、頃と全く同じものは他には存在しないのです。

ヒト種に属する岡田武夫は動物界に属しています。

岡田武夫は動物です。

こういう命題は成り立ちます。

しかし、

「動物は岡田武夫です。」「都民は岡田武夫です。」

とは言えません。

主語と述語からなる文章では

主語は述語の中に含まれています。動物は岡田武夫を包摂する、より広く高い概念です。岡田武夫は述語になりえても主語になりえません。最終的に「岡田武夫は岡田武夫です。」としか言いようがないのです。岡田武夫という存在は、個別化・特殊化の究極の到達点です。真の自己を知る、というときには、この個別化の岡田を知ることであるはずです。

それでは包摂する概念である述語の上限はどうなるでしょうか。

「岡田は動物である。」その命題は、

 

「動物は被造物である。」となります。それでは被造物の上位の範疇は何か。見つかりません。キリスト教では被造物は神によって造られたと考えています。そうなると、被造物の上は神しかいないことになります。

しかし全被造物を包摂する被造物は無いのです。それは、全被造物を創造した存在は神としか考えられません。しかし神は被造物ではありえません。

ここで存在するものの位階(ヒエラルキア)は終結し、存在させた存在である創造主へと論議がつながれます。これがユダヤ―キリスト教―西洋哲学の論理でありましょう。

これはいわば「有」の世界です。「有」の世界に対して東洋では「無」の世界を考えます。「有」の世界では一般と特殊、主語と述語の関係を追及すると神という存在に到達しますが、「無」の世界ではどうなるのでしょうか。

西田哲学によればそれは「絶対無」という「場所」になるというのです。

 

「有」の世界で自分を知るとは、他者との関係で自分を知るという事になります。他者との関係といえば聖書は「愛する」という論理を展開します。2

聖書では明白にキリスト信者は「敵を愛しなさい」と命じられています。真の自分を知るとは、人との係わりに於いてであり、他者との係わりの中に自分の姿が現れます。そして、この掟を命令している神を信じる者は、神とその御独り子イエス・キリストの前で、その出会いと交わりの中で、自分を映し、真の自分の姿を知るのです。

それでは「無」の世界ではこの点はどうなるのでしょうか。ここで出て来る自己認識の道は「自己において自己を知る」ということです。これはどういうことでしょうか。自分で自分を知ることが出来るのでしょうか。

真の自己と出会うために自分という個人から出発し、個人→人間→創造主、という順番で自己を探求する方法が従来の西洋の「有」の哲学・神学の方法でした。そのために、司祭志望者は、神学を学ぶための前提として哲学を、認識論や存在論を学びました。そのうえで神の啓示であるに人間とその救いを教える神学を学んだのです。しかし「絶対無の場所」からの考察とはどうなるのか。

まず「無」の思想を考えてみます。

「無」とは何か。文字通り存在しないという事なのか。何もないという事なのか。

「有と無とか言うのは、存在するとか、存在しないとか言う意味ではない」、といいます。(以下の記述は、主として、小坂国継『西田幾多郎の思想』、第四回 西田哲学の性格(2)-無の思想、55㌻以下 による。)

「この点に関して言えば、有の無も、どちらも真の意味で存在するもの、すなわち真実在を表わす言葉である。」

「なぜ真実在を無といったりするのであろうか。真に実在するものは有であるのが当然で、真実在が無であるというのは矛盾ではなかろうか。このように考えるのは、ある意味でもっともなことである。しかし、ここで有というは、具体的に、『形がある』ということであり、反対に無というのは『形がない』ということである。したがって、正確に言えば、真実在を『形のあるもの』と考えるのが有の思想で、反対にそれを『形のないもの』と考えるのが無の思想という事になる。」

しかし、これは真に聖書の思想だろうか。神は「わたしはあるという者」(出エジプト記314)であり、存在そのもので形のないものです。イエスもサマリアの女に向かって「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ424)と言っています。神は靈であるので、偶像その存在を表現することを厳しく禁じています。

あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。出エジプト記204-6、他を参照

聖書の神は実に「形のない霊」である神であります。

 

聖書の創世記の一章は、天地万物の創造を語っています。

 1:1 初めに、神は天地を創造された。

1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

・・・

1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

2:1 天地万物は完成された。

2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

2:4 これが天地創造の由来である。

 

神が創造される前は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の神の霊が水の面を動いていた。」という状態であったのでした。この説明を通常、「無からの創造」といっていますが、それは何もないという意味の「無」からの創造と解釈しなくともよいのではないでしょうか。ここでは「すべての物が神を原因としており、神によって造られないものは何ひとつないということを説いたものであり、一切の有の根源としての純粋形相である神(絶対有)の存在が想定されている」(同書57)のであると思われます。(もちろん、形のない無自体、神の創造によると考えられます。)それに対して東洋では伝統的に、あらゆる形のあるものの根源には形のないものを考えてきた。すべて形のあるものは形のないもの、すなわち無から生ずるというのである。いいかえれば、一切の有は無のあらわれであるというのである。したがって、ここでは、恒常不変な実体は否定される傾向にある。永遠に変化しないようなものは何一つとしてない、という東洋の伝統的な考え方であった。」(同書57-58)

わたしたちが引き継いだキリスト教思想は多分にギリシャ化したものです。本来のヘブライ思想がギリシャ社会へ伝えられる過程でギリシャ哲学の影響を受けています。わたしが受けた哲学の教育もスコラ哲学であり、存在は形相と質量、すなわちformamateriaによって説明されました。小坂氏は言います。

「ギリシャにおいては、無は形の欠如したもののことであり、また形をもたないもののことであった。しかし、東洋においては、それはあらゆる形の根源であり、あらゆる形を生み出す原動力のことであった。・・・ギリシャにあったのは有の反対概念としての無であり、有の欠如としての無であった。有とは、形相すなわち形をもったもののことであったから、それと反対に無とは、形のないもの、形を欠いたもののことであった。したがって、それは正確に言えば、無ではなく『非有』であったのである。」

世界の始まりをどう考えるか。大きく二つに分けられます。世界の始まり、根源を「形のあるもの」と考えるか、あるいは「形のないもの」と考えるか、です。有にはその存在の根拠・原因がなければならない。その原因を追究していくと無限の連鎖に陥ってしまいます。そこで第一原因、すべての存在の根源となる原因として創造主を想定するわけです。この創造主は果たして「形ある存在」の有であるのか。形のない有であるところの「無」である、と考えることが可能ではないかと思うのです。

世界の根源は最も普遍的なものであり、一切を含むものであります。それが「形あるもの」と考えれば、それを包むより大きな形あるものが想定されなければならなくなります。それが「形のない有」と考えれば、一切のものを含むことが可能となります。

 

既に述べたように西田の哲学の動機と出発点は自己の人生の悲哀でありました。家族を襲った数々の不条理な悲劇に直面して彼は徹底的に自己の内面に沈潜し、「自己の内なる根源に向かうことで、もはや、人生の悲痛や苦悩を楽しみに一喜一憂している自己や自我なんどというものを消し去ってしまおうとしたのです。その先に彼が見出したものは『無』としか呼びようのないものだった。根源にあるものは、すべての現象の彼岸であり、またそこからすべてを生じさせる『無』に他なりません。・・・」

これは経済学の学者である佐伯啓思の言葉です。(佐伯啓思「西田幾多郎」無私の思想と日本人、43)

 

『善の研究』において、善とは真の自己を知ることであるという結論に達し、そこへ到達するために西田幾多郎は哲学者としての真摯な歩みを開始しました。そのために最初の概念が「純粋経験」(直接経験)でした。純粋経験はさらに『場所』の論理、そして『絶対無の場所』、そして最後に、晩年に至り『絶対矛盾的同一性』という論理に到達しました。その次第は『西田幾多郎哲学論集I,II,III』(岩波文庫)により追跡することが出来ます。特に、『西田幾多郎哲学論集III』に所載の二つの論文、『絶対矛盾的自己同一』と『場所的論理と宗教的世界観』は繰り返し西田哲学の論理の展開を語っています。しかし、その用語と説明は極めて難解であり、その叙述は、あたかも他者に説明するより自問自答しているような印象を与えます。自分で自分に言い聞かせているような言い方を理解するのには困難を来たします。しかしこのなかに日本の福音宣教のために非常に重要な課題が含まれています。熟慮の結果、今回は筆者に心に強く響いた事項あるいはよく理解できた事項に限ってその考察の結果を記すことにしました。

――

まず驚くことは、「悪魔」と言う表現が登場することです。『絶対矛盾的自己同一』の世界には悪魔が潜んでいるというのです。これはどういう意味だろうか。直観には我々を唆し、魂を殺してしまう悪の力が潜んでいると言っているようです。(以下に引用する。)

絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのではない、また相互に媒介するのでもない。生か死かの戦いである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するものではない。われわれの魂を否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それはわれわれを生かしながら我々を奴隷化するのである。我々の魂を殺すのである。・・・環境が自己否定的に自分自身を主体化するということは、自分自身をメフィスト化することである。直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。・・・作用が我々に逆に向かい来る所に、真の直観というものがあるのである。故に真の直観の世界は、我々が個別的であればあるほど、苦悩の世界であるのである。・・・本能的動物は悪魔に囚われるということはない。直観とは、我々の行為を惹起するもの、我々の魂の底までも唆すものである。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、62-63㌻)

 

判断と意志の主体である個別的自己である我々は、日々世界の中で能動的創造的に生きるように招かれています。創造の立場から見れば、過去と未来は対立する。その際「歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根底から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。行為的直観的に、我々の個人的自己に与えられるものは、単に質料的ではなく、単に否定的ではなく、悪魔的に我々の迫りくるものでなければならない。」(同書、66-67)とも述べているのです。

 

西田幾多郎の哲学によれば、この世界は「絶対無盾的自己同一」の世界で在ります。この世界に置かれている人間はもちろんその『絶対矛盾的自己同一』を免れないのです。彼はドストエフスキーに言及しながら言う。

  われわれの自己というものは、考えれば考えるほど、自己矛盾的存在であるのである。ドストエフスキーの小説という者は、極めて深刻に、かかる問題を取り扱ったものであるということができる。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、344㌻)

わたしたち人間は、それぞれこの世界に存在する無数の個別的存在として、矛盾的自己同一的世界の個物としてわれわれは自己成立の根底において自己矛盾的である。(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、77-78㌻参照)

西田はさらにキリスト教の原罪にも言及して次のように言っています。

「人間はその成立の根源において自己矛盾的である。知的に成ればなるほど、意的に成ればなるほど、爾(しか)いうことができる。人間は原罪的である。道徳的には、親の罪が子に伝わるとは、不合理であろう。しかしそこに人間そのものの存在があるのである。原罪を脱することは、人間を脱することである。それは人間からは不可能である。唯、神の愛の啓示としてのキリストの事実を信じることによってのみ救われるという。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、364㌻)

 

わたしたちは真の自己を知る、という目的に向かって歩んでいます。この歩みの中で宗教とは何でしょうか。宗教とは「我々の自己自身の存在が問われる時、自己自身が問題となる時、初めて意識される」(同論文、322㌻)と言います。宗教とは「我々が自己の根底に深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己存在そのものが問題となるのである。人生の悲哀、その自己矛盾ということは、古来言古された常套句である。」(同論文、323㌻。下線は筆者による。)

そして「我々の自自存在の根本的な矛盾の事実は、死の自覚にあると考える。」(同論文、324)と言います・

これはどういう意味だろうか。根本的な矛盾とは何か。

人は死という絶対的事実を自覚します。死という厳粛なる事実の前に、自己の存在自体に思いを馳せざるを得なくなります。肉体的な死は誰しも自覚します。では精神的死あるいは霊魂の存続についてはどうなのでしょうか。人は死後の存在をどう考えているのでしょうか。

人は不可逆的な人生の終局,つまり死を意識する時に、永遠の世界、つまり絶対に無限である世界、あるいは絶対者を意識する。意識するということは永遠への思いが人間には宿っているということである。地上の人生に終局があるということには疑いがない。人は自分で地上の存在を永続できない。その思うときに、人生の唯一性、一回限りの時間を意識する。しかし永遠への思いを無くすことはできない。死は終わりであるが終わりではない。(終わりではないのではないか、という考えも含める。) 

人の生涯は死への道程であります。生と生、終わりと始まり(死を新しい出発と考える立場、例えばカトリック教会の教え。)。相対立する二項目が同時に存在する。はたして死と生とは矛盾するのか。死は生であり生は死であると言えないか。生とは本来死を孕むものであるので、その生を矛盾と考えなくともよいのではないか、とも思われます。

 

さて、相対的なものが絶対的なものに対するということが死である、と西田は言う。(同論文326㌻)確かに預言者イザヤが神を見たときに彼は言った。災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」イザヤ65

相対的なものが絶対者に対するとは言えない。相対に対する絶対は絶対ではない。

それではいかなる意味で絶対が真に絶対であるのか。絶対は無に対することによって真の絶対である。自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるならば、その自己は絶対ではない。「絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無になることでなければならない。自己が絶対的無とならざる限り、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むというは言えない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立するということは、無が無自身に対して立つということである。真の絶対とは、此(かく)の如き意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、斯く言うほかはない。そこで神は自己自身の中に絶対的自己否定を含むものである。絶対とは無対立であるだけではなく絶対否定を含むものである。絶対はどこまでも自己否定において自己を有(も)つ。「神は愛から世界を創造したというが、神の絶対愛とは、神の絶対的自己否定として神の本質的なものでなければならない。」(この論理は同論文326-328㌻などで展開しているので参照してください。)

 

神が自己否定するとはどういう意味でしょうか。確かに「愛」は自己否定に深くかかわります。神はその独り子を賜る人この世を愛して下さった。愛する御子イエスが十字架に架けられることを敢えて妨げなかったのでありました。(ヨハネ316参照) 神が御子を派遣したこと、御子が十字架に架けられたことなど、はたして「神の自己否定」と言えるだろうか。神の愛とは言えるでしょうが。

これと関連してホセアの預言言葉が想起されます。

 

 ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。 (118-9)

 

ここでは、神は激しく身悶えし、怒りと憐みに心が引き裂かれています。結局神は怒りに打ち勝って憐れみの方を選びます。このホセアの預言は「神の自己否定」を表わしているのでしょうか。

また次のような例が挙げられます。

全能の神なのに自分の決定を悔い決定を覆すというようなことがありえるのでしょうか。創世記にはそのように読める記述があります。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧に

なって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記65-6)

 

さて、先に「神自身が絶対矛盾的自己同一である」と言う考え方を取り上げ、その際、悪魔的と言う表現さえ使われました。西田、幾多郎は同じ論文、「場所的論理と宗教的世界観」の中の別の箇所でも「悪魔的」と言う表現を使っています。

 

「神が自己自身において自己の絶対的自己否定を含み、絶対の自己否定に対するということは、単に神のない世界、いわゆる自然の世界に対するということではない。単なる自然の世界は無神論的世界である。あるいはまた無神論者的に、自然の秩序に神の創造を見るということができる。真に神の絶対的自己否定の世界とは、悪魔的な世界でなければならない。・・・極めて背理のようではあるが、真に絶対的なる神は一面に悪魔的でなければならない。」「絶対の神は自己自身の中に絶対の否定を含む神でなければならない。悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神であるのである。」「絶対のアガペは、絶対の悪人にまで及ばなければならない。神は逆対応的に極悪の人の心にも潜むのである。単に鞫(さば)く神は、絶対の神ではない。斯く言うのは、善悪を無差別視するというのではない。」「わたしの神と言うのは、…自己自身において絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるからである。」(「場所的論理と宗教的世界観」、334-335㌻より引用。)

 

このような西田哲学の論理をどのように理解することが出来るでしょうか。神とは絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるという主張をどう受け止めることが出来るでしょうか。

わたしたちは自分自身が矛盾と言う問題を抱えた存在であるということは直観的に理解します。キリスト教ではそれを「原罪」と言います。キリスト教徒でなくとも人間は有限な存在であり、不完全であり、人生の種々の困難に直面するものであると理解していると思われます。生・病・老・死の四苦、それに会者定離、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を加えた八苦は人々が人生の当然の苦悩と理解しています。そのような人間存在を自己矛盾と言うのは理解できます。(最も絶対矛盾とは分かりにくい言い方ですが。)またこの世界の中に矛盾することが多々あることも何となく直観的に理解しています。しかし、神・仏を「絶対矛盾的自己同一である」と理解することは困難です。ともかく「絶対矛盾的自己同一」という用語が理解を難しくしています。全知・全能の神とは、そのうちに矛盾を含まない、均質・均一の存在ではないだろうか。神が迷ったり悩んだり考え込んだりするということは考えられない。神の中に矛盾があるとは夢にも考えない。(もっとも既述のように、聖書はホセア預言書において、あるいは、創世記の中で、葛藤し煩悶する神の心を伝えています。)「神とは不動の動者である」という理解が伝えら、この神理解を前提としたカテキズムが行われてきました。

不動の動者とは、それこそ誰かによって、何かによって動かされることはありえない存在です、自らは動くことなく被造物を動かすのが創造主である神です。これはギリシャ哲学の考えた神であります。聖書の神ではありません。聖書の神、イエスの神は人々の悲しみ苦しみに深く共感する神、スプラングニゾマイ(ギリシャ語表記はσπλαγχνίζομαι。イエスが人々の苦しみに深く同情した時使われたギリシャ語の動詞。巻末の説教を参照。)の神です。

絶対の神は被造物になることはできません。しかし敢えて永遠のみ言葉が人となった。これは西田哲学の言う「神の自己否定」にあたるのかもしれません。このような「神理解」は西田哲学の理解に通じます。愛である神は超然として上から支配することは良しとはしないで、自ら民に預言者を遣わし最後には御独り子イエスを派遣し、イエスが磔刑に処せられるのを敢えて妨げなかったのだ、とキリスト教は理解しています。このような神は上述の西田幾多郎の神とほぼ同じではないでしょうか。

 

――

1

生物とは、生きた物のこと。バクテリア(菌類)も植物も動物も生物です。

たくさんの生物は、類縁関係が近い種ごとにグループ分けされています。地球上には、バクテリアから植物から動物まで発見されているだけで約100万~170万種の生物がいるとされています。類縁関係が近い種類をまとめて1つの「種(しゅ)」、

種同士で類縁関係が近い「種」をまとめて「属(ぞく)」、

属同士で類縁関係が近い「属」をまとめて「科(か)」、

科同士で類縁関係が近い「科」をまとめて「目(もく)」、というふうに、階層として分けられています。

分類の区切りは階層と呼ばれ、大きな階層から、

「界(かい)」、「門(もん)」、「綱(こう)」、「目(もく)」、「科(か)」、「属(ぞく)」、「種(しゅ)」

に分けられています。

人間はヒトという種類の生物なので、動物界 脊索動物門 哺乳綱 サル目 ヒト科 ヒト属 ヒト種

 普通、グループとか仲間という意味で「類」も使われます。「哺乳綱」とか「鳥綱」と表すよりも、哺乳類とか鳥類と表現するほうが、一般的でおなじみ。

  哺乳類 サル類 ヒト科 ヒト

2.

2020910日のミサで読まれる福音書は以下の通りです。

福音朗読 ルカ627-38

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。627「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

3.

2016.7.10 ()、鹿沼教会司牧訪問に際しての、岡田大司教による年間第15主日の説教。

第一朗読 申命記3010-14

第二朗読 コロサイ115-20

福音朗読 ルカ1025-37

皆さん、おはようございます。

わたくしは24年前の11月、92年の11月にこの教会を訪問したようです。したという記録と写真が残っております。それからいろいろなことがあって、今皆さんを拝見すると、フィリピンから来た方やヴェトナムから来た方もたくさんおられます。わたしたちの教会は非常に国際的な多国籍の教会となっています。お互いにそれぞれの違いを認めて大切にしながら、イエズス様のお望みになる教会、いつくしみ深い人々の教会として、成長するようご一緒にお祈りをし、そして努力をいたしましょう。

今日読まれた福音と聖書について少し分かち合いをしたいと思います。今、矢吹助祭が読んだ福音は、有名な「よいサマリア人」の話であります。追剥に襲われて、半殺しの目にあっていた人を見た、通りがかりのサマリア人。サマリア人というのは、ユダヤ人と仲が悪かった。そのサマリア人が「その人を見て、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行った介抱した。」(1033-34)とあります。ほかの人、その半殺しにあった人を見ても、他の人は知らぬふりをして通り過ぎてしまったが、このサマリア人は憐れに思って、このような人を助ける行為をしたのであります。

この《憐れに思い》という言葉が、今日の福音の教えの中心にあります。そして皆さんご存知のように、フランシスコ教皇様のご意向によって、世界中でいつくしみの特別聖年をわたしたちは祝っています。「天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い、あわれみ深いものでありなさい」と主イエスが言われました。いつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということをわたしたちは特にこの一年よく学び、そして実行するようにいたしましょう。

今日の福音に出てくる《憐れに思い》という言葉ですけれども、福音書はギリシャ語で書かれています。そのギリシャ語の原文は最近有名になりつつある言葉ですけれども、「スプラングニゾマイ」というのですね。「スプラングニゾマイ」。これは内臓、はらわたとかからきている言葉を動詞にしたもので、はらわたがゆさぶられる。日本語でははらわたがゆさぶられるという言い方はあまりない。はらわたが煮えくり返るというのは言うが、それは怒ってる時の表現です。胸がつぶれる思いとか言いますね、日本語の大和言葉の表現では。ここでは人の苦しみ、悲しみを見て体で感じてしまう。頭の問題ではなくて、心、体で人の苦しみ、悲しみに深く共感する、一緒に悲しみ、苦しみを覚えるという意味だそうです。いつくしみの特別聖年にあたって、このいつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということを学ぶようにと教皇様は言っておられる。そもそも人は人の苦しみや悲しみに対して、共感し、そしてその人たちを助けよう、何かできることをしようという心を持っているのであります。そういう心があるけれども、何かの事情でその心の声が鈍くなったり、あるいは聞こえなくなったりしているのかもしれない。

昔、高校生の時ですけれども、中国の偉い人で孟子という人がいたそうで、孔子、孟子、荀子という偉い人がいたんだけれども、孟子さんが言った教え、それは人には人の苦しみを見過ごしにはできない、人のために思わず良いことをしようとする、そういう心が備わっているんですという教えでした。「惻隠の情」。

惻隠というとちょっとわからないかもしれないけれど、惻隠の情という、あるいは惻隠の心があると、そういう教えでありました。

今日の聖書の福音の教え、良いサマリア人が強盗に襲われ、追剥に襲われた人を見て、憐れに思ったということと良く似ている教えだと思います。人間の本性は本来良いものか、悪いものか、この問題はずっと論じられてきた。人間は本来良いものだという人もいれば、悪いものだという人もいる。あるいは本来どちらでもないのだという人もいる。性善説とか、性悪説とか、わたしたちは聞きましたよね。キリスト教ではどうなんだろうか。難しいですけれども、旧約聖書の最初にある創世記の1章では、神様が全てのものをお造りになった次第が述べられていて、最後に人間を造った。そして人間を見て、極めて良いとおっしゃったのですね。我々は極めて良いものなんですよ。その割にはですね、いろいろ人間は悪いことをしていますね。どう説明したら良いのだろうか。これは悩むわけです。わたしが悩むのは勝手ですけども、世界中の人、偉い人がどう説明したらよいか、という問題にぶつかりました。難しいことは置いておいて、聖書によれば、神は人間を良いもの、極めてと付いているのですが、極めて良いものとしてお造りになった。その極めて良いものが、その良さを発揮できていない。元々良い、良いけれどもどうしてか、その良さが出てこない場合がある。でも、だいたいにおいて我々は良いことを知り、良いことを行っているんですね。悪いことばかり見たらキリがないですけれども、人間は本来良いものである。人の苦しみに同情する、人を助けるものなんですね。ただ自分のことも大事なので、ついしそびれてしまう。あるいは自分自身の強い思い、こうしたい、あるいはあの人が邪魔だとかいう思いも出てくる。良い思いと悪い思いの両方が、わたしたちの心の中にはあるのではないでしょうか。

今日の第一朗読を思い出すと、神様の戒めと掟を守ることは難しくないと言っている。いや、難しいとわたしは感じますけれども、難しくないんだよと。神様の教えはどっか遠い所にある、外にあるものではない。あなたの心の中にあるんだよと、自分の中にあるんだよと、そう教えていますね。自分の中にあることに気がつきさえすれば大丈夫ですと、簡単に言うとそういうことを言っているのかなと思います。

また第二朗読のコロサイ書という聖書の朗読でありました。どういう教えであったかと言うと、イエス・キリストは見えない神の見える姿。万物は御子によって、御子のために造られた。神様は目に見えません。しかしイエス・キリストは目に見える人間でした。そこでいつくしみの特別聖年のお祈りというものをもう一度思い出す。「主イエス・キリスト。あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。」と教皇フランシスコが言っている。イエス・キリストは見えない神の見えるみ顔であります。そのイエス・キリストは地上を去る時に、弟子たちに聖霊を注いで、そして聖霊の働きでご自分のように生きられるようにしてくださった。わたしたちは弱い人間です。罪深い人間と言ってもよい。しかしイエス・キリストはご自分の霊、聖霊を送って、聖霊の働きで、イエス・キリストと同じ働き、人々を助ける、自分のことを後回しにして人の苦しみのために働く、その人のところに走り寄ることができる、本来良い人間の働きをすることができるようにしてくださった。そういうように教えています。「あなたがたは神御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(1:22)と書いてある。

今日、皆さんどうしてここに来ましたか。ここに来て何か良いことがあるんですよね。ここに来て別に一銭の得にもならないが、もっと良いこと、神様の恵みを受けることができる。皆さんの心の中に、神様から恵みを受けたい、ミサに与りたい、イエス・キリストのお話しを聞きたい、そういう良い心があるのでここに来ていらっしゃる。ですから、皆さんはすでに聖なる者とされているのであります。

 

2020年9月20日 (日)

あなたは「あなたであるだけで大切です」という世界

人がただその人であることだけで大切にされる「神の国」

920日 年間第25主日の福音朗読は「ぶどう園で働く労働者」の譬えです。この話は何を言っているでしょうか。自分にとってこの話は何を言っているでしょうか。最初から「模範解答」を出すのではなく、人間である自分がどう感じるか、ということから出発することが大切だと思うのです。

 誰しも思うのは、この主人は不公平だということです。このような賃金の支払いの仕方は今の社会ではありえないことです。

「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」という文句は当然のことでしょう。自分が朝早くから働いた人の立場にある人はそう思うのは当たり前です。

他方、5時ころ雇われた人は、「なんと有難いことだ」と思うでしょう。しかし、朝から働いた人には、「申し訳ない」と引け目に感じるかもしれません。

ぶどう園で働いた労働者の雇用された事情は様々です。労働時間と働き具合に応じて報酬が与えられるはずだと我々は考えます。それが資本主義と貨幣経済の中で生きている者の一般的な意識です。しかしぶどう園の主人の考えからは違います。朝から働き始めた者も、日暮れに仕事にありついたた者も、同じように一デナリオンが支払われるのです。5時から働き始めた人は、5時まで誰も雇ってもらえなかった人です。

ここで思うのは、人生の不公平さということです。人生は不公平です。人は自分の出生を選ぶことが出来ません。何時何処でどのような親の基で生まれるのか、ということを自分で決定できません。もしかして、生得の人間の条件――能力、環境、容姿等もその時から決定されているのかもしれません。遺伝子という考え方があった、人は遺伝子によって自分の在り方がかなりの範囲、程度で決められてしまうそうです。そもそも「人間にはどのくらいの自由があるのか」と言う重大な問題があります。障がいと言う条件をもって生を受ける者もいるのです。

人は生涯にわたって何等かも「評価」を受けています。今の社会でその評価の基準値は何でしょうか。人は評価されたいのです。今の時代、評価の基準は何か。入学試験の合否の基準は通常学力です。会社では何でしょうか。多分、総合的な意味での「仕事での実績を挙げる能力」でしょう。それでは能力のないものは救われないのです。イエスは「貧しい人々は幸いである。」と言われました。貧しい人々とは能力、健康、財力などに恵まれないものです。

それでは、この世での評価に値する何物も持たない者が、その人であるという一点で評価され大切にされ、なくてはならない存在とされる世界はないでしょうか。

今日のぶどう園の労働者の譬えは、そのような世界、「人がその人であるというだけで評価され大切のされる世界」を語っていると思うのです。イエスは「神の国の福音」を説きました。現実の社会は利益社会、いわゆるゲゼルシャフトですが、ぶどう園はいわゆる一つのいわゆるゲマインシャフトです。その代表は家庭です。しかしその家庭が本来の在り方をかなり喪失しているのが現状です。その家庭の替わるべき共同体として想定されるのが教会共同体です。イエスは「神の国の福音」を説きました。神の国とは神の思いが行き渡っていることです。第一朗読でイザヤは言います。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」

教会は限りなく『主のぶどう園』に近づかなければなりません。

人はあなたがあなたであることを嬉しく思う」と言う他の存在、人の交わりが必要です。

そのような人は、あなたにとって誰でしょうか???

 

 

 

福音朗読  マタイによる福音書 20:1-16

(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 

第一朗読  イザヤ書 55:6-9

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。

 

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 1:20c-1:2427a

(皆さん、)生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。

 

2020年9月14日 (月)

悪について その5 真の自分を知る

悪についての小考察その5 真の自己を知る

 

西田幾多郎は最初の著作、『善の研究』において「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。西田幾多郎の生涯はそのために真摯な努力と思索の生涯でした。

「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

果たして自分で自分をしることができるのでしょうか。

自己とは何か。自己とは誰か。自分は何処から来て何処へ行くのか。

このような問いは誰しも抱く重要な問いかけであり、人は誰しも、人生のどこかの機会に抱く問題ではないでしょうか。このような問いは極めて宗教的な問題であります。西田幾多郎自身極めて宗教へ傾倒した人でしたが、この問題を宗教の信奉者つぃてではなく、一哲学者として解き明かそうと努めました。彼の思索は、『善の研究』依頼終始、この問題への取り組みであったと言えましょう。

人は直接自分自身を見ることが出来ません。これは自明の理です。目は目以外の物を見ますが目自身を見ることが出来ません。目という存在は見るためにあるのであり、見られることを予想していないのです。それは、火が、他の物を燃やし破壊するためにあるのであり、火が火自身を燃やすことはない、という事と同じです。

自分自身を見ることのできない人間は、他の人に自分自身を見てもらいます。

中国の歴史書、「史記」の中に次のような言葉が残っています。

『士はおのれを知る者のために死し、女はおのれを喜ぶ者のために容(かたち)づくる(化粧をする)。』

人の強い願望の中に、「自分を知ってもらいたい」という欲求があります。人は自分を知ってくれる人のためなら、自分のすべてを知っても自分を自分として評価してくれる人に出会ったなら。命すらいらないと思うものです。

自分で自分を直接知ることが出来なければ、自分を知る者に出会うことによってそれが可能になります。

しかし人生の体験によれば、それはなかなか難しい、珍しい事例ではないでしょうか。しかし、西田幾多郎の考察によれば、「自分の中に自分を映す鏡のような場所がある」と言っているようです。

その「自己の中に自分を映す鏡」のことを西田幾多郎は「絶対無の場所」と呼んでいます。それでは「絶対無の場所」とは何であるのか。

本稿はこの問題を考察するために書かれています。

人は自分をどう位置付けるでしょうか。生物としての自分は、他の生物と同じように、段階別に分類されます。その位階は

種・族・科・目・綱・門・界(しゅぞくかもくこうもんかい

です。

 

さて、わたし岡田武夫は、

動物界、脊椎動物門、哺乳綱、サル目、ヒト科、ヒト属、ヒト種

に属する存在であるという事になります。

ヒト種の下には各個別の階層が存在します。例えば

ヒト→日本人→男性→東京都民→文京区民→本駒込5丁目4番地3号の住民。

ここまでくるとこれ以下には細分できません。

例えば、

岡田武夫は日本人です。

岡田武夫は男性です、都民です、文京区の区民です、本駒込5-4-3の住民です。

目下のところ本駒込5-4-3の住民は岡田武夫一人です。すると文京区本駒込5-4-3の岡田武夫で特定されます。これ以下に細分化されない個人となります。

考えてみれば、地球上に生きている何十億の人類は、このような方法で特定の個人に収束されます。

人に限りません。いまわたくしはマグカップでコーヒーを飲んでいます。同じ製品は他にも存在するでしょうか、これは唯一です。もう30年くらい愛用しており、取っ手が取れたのをある人が修復してくれました。世界中に、頃と全く同じものは他には存在しないのです。

ヒト種に属する岡田武夫は動物界に属しています。

岡田武夫は動物です。

こういう命題は成り立ちます。

しかし、

「動物は岡田武夫です。」「都民は岡田武夫です。」

とは言えません。

主語と述語からなる文章では

主語は述語の中に含まれています。動物は岡田武夫を包摂する、より広く高い概念です。岡田武夫は述語になりえても主語になりえません。最終的に「岡田武夫は岡田武夫です。」としか言いようがないのです。岡田武夫という存在は、個別化・特殊化の究極の到達点です。真の自己を知る、というときには、この個別化の岡田を知ることであるはずです。

それでは包摂する概念である述語の上限はどうなるでしょうか。

「岡田は動物である。」その命題は、

 

「動物は被造物である。」となります。それでは被造物の上位の範疇は何か。見つかりません。キリスト教では被造物は神によって造られたと考えています。そうなると、被造物の上は神しかいないことになります。

しかし全被造物を包摂する被造物は無いのです。それは、全被造物を創造した存在は神としか考えられません。しかし神は被造物ではありえません。

ここで存在するものの位階は終結し、存在させた存在である創造主へと論議がつながれます。これがユダヤ―キリスト教―西洋哲学の論理でありましょう。

これはいわば「有」の世界です。「有」の世界に対して東洋では「無」の世界を考えます。「有」の世界では一般と特殊、主語と述語の関係を追及すると神という存在に到達しますが、「無」の世界ではどうなるのでしょうか。

西田哲学によればそれは「絶対無」という「場所」になるというのです。

 

「有」の世界で自分を知るとは、他者との関係で自分を知るという事になります。他者との関係といえば聖書は「愛する」という論理を展開します。2

聖書では明白にキリスト信者は「敵を愛しなさい」と命じられています。真の自分を知るとは、人との係わりに於いてであり、他者との係わりの中に自分の姿が現れます。そして、この掟を命令している神を信じる者は、神とその御独り子イエス・キリストの前で、その出会いと交わりの中で、自分を映し、真の自分の姿を知るのです。

それでは「無」の世界ではこの点はどうなるのでしょうか。ここで出て来る自己認識の道は「自己において自己を知る」ということです。これはどういうことでしょうか。自分で自分を知ることが出来るのでしょうか。

真の自己と出会うために自分という個人から出発し、個人→人間→創造主、という順番で自己を探求する方法が従来の西洋の「有」の哲学・神学の方法でした。そのために、司祭志望者は、神学を学ぶための前提として哲学を、認識論や存在論を学びました。そのうえで神の啓示であるに人間とその救いを教える神学を学んだのです。しかし「絶対無の場所」からの考察とはどうなるのか。

まず「無」の思想を考えてみます。

「無」とは何か。文字通り存在しないという事なのか。何もないという事なのか。

「有と無とか言うのは、存在するとか、存在しないとか言う意味ではない」、といいます。(以下の記述は、主として、小坂国継『西田幾多郎の思想』、第四回 西田哲学の性格(2)-無の思想、55㌻以下 による。)

「この点に関して言えば、有の無も、どちらも真の意味で存在するもの、すなわち真実在を表わす言葉である。」

「なぜ真実在を無といったりするのであろうか。真に実在するものは有であるのが当然で、真実在が無であるというのは矛盾ではなかろうか。このように考えるのは、ある意味でもっともなことである。しかし、ここで有というは、具体的に、『形がある』ということであり、反対に無というのは『形がない』ということである。したがって、正確に言えば、真実在を『形のあるもの』と考えるのが有の思想で、反対にそれを『形のないもの』と考えるのが無の思想という事になる。」

しかし、これは真に聖書の思想だろうか。神は「わたしはあるという者」(出エジプト記314)であり、存在そのもので形のないものです。イエスもサマリアの女に向かって「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ424)と言っています。神は靈であるので、偶像その存在を表現することを厳しく禁じています。

あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。出エジプト記204-5、他を参照

聖書の神は実に「形のない霊」である神であります。

 

聖書の創世記の一章は、天地万物の創造を語っています。

 

1:1 初めに、神は天地を創造された。

1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

・・・

1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

2:1 天地万物は完成された。

2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

2:4 これが天地創造の由来である。

 

神が創造される前は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の神の霊が水の面を動いていた。」という状態であったのでした。この説明を通常、「無からの創造」といっていますが、それは何もないという意味の「無」からの創造と解釈しなくともよいのではないでしょうか。ここでは「すべての物が神を原因としており、神によって造られないものは何ひとつないということを説いたものであり、一切の有の根源としての純粋形相である神(絶対有)の存在が想定されている」(同書57)のであると思われます。(もちろん、形のない無自体、神の創造によると考えられます。)それに対して東洋では伝統的に、あらゆる形のあるものの根源には形のないものを考えてきた。すべて形のあるものは形のないもの、すなわち無から生ずるというのである。いいかえれば、一切の有は無のあらわれであるというのである。したがって、ここでは、恒常不変な実体は否定される傾向にある。永遠に変化しないようなものは何一つとしてない、という東洋の伝統的な考え方であった。」(同書57-58)

わたしたちが引き継いだキリスト教思想は多分にギリシャ化したものです。本来のヘブライ思想がギリシャ社会へ伝えられる過程でギリシャ哲学の影響を受けています。わたしが受けた哲学の教育もスコラ哲学であり、存在は形相と質量、すなわちformamateriaによって説明されました。小坂氏は言います。

「ギリシャにおいては、無は形の欠如したもののことであり、また形をもたないもののことであった。しかし、東洋においては、それはあらゆる形の根源であり、あらゆる形を生み出す原動力のことであった。・・・ギリシャにあったのは有の反対概念としての無であり、有の欠如としての無であった。有とは、形相すなわち形をもったもののことであったから、それと反対に無とは、形のないもの、形を欠いたもののことであった。したがって、それは正確に言えば、無ではなく『非有』であったのである。」

世界の始まりをどう考えるか。大きく二つに分けられます。世界の始まり・根源を「形のあるもの」と考えるか、あるいは「形のないもの」と考えるか、です。有にはその存在の根拠・原因がなければならない。その原因を追究していくと無限の連鎖に陥ってしまいます。そこで第一原因、すべての存在の根源となる原因として創造主を分けです。この創造主は果たして「形ある存在」の有であるのか。形のない有である「無」であると考えることが可能ではないかと思われます。

世界の根源は最も普遍的なものであり、一切を含むものであります。それが「形あるもの」と考えれば、それを包むより大きな形あるものが想定されなければならなくなります。それが「形のない有」と考えれば、一切のものを含むことが可能となります。

 

既に述べたように西田の哲学の動機と出発点は自己の人生の悲哀でありました。家族を襲った数々の不条理の不幸に直面して彼は徹底的に自己の内面に沈潜し、「自己の内なる根源に向かうことで、もはや、人生の悲痛や苦悩を楽しみに一喜一憂している自己や自我なんどというものを消し去ってしまおうとしたのです。その先に彼が見出したものは「無」としか呼びようのないものだった。根源にあるものは、すべての現象の彼岸であり、またそこからすべてを生じさせる『無』に他なりません。・・・」

これは経済学の学者である佐伯啓思の言葉です。(佐伯啓思「西田幾多郎」無私の思想と日本人、43)

 

『善の研究』において、善とは真の自己を知ることであるという結論に達し、そこへ到達するために西田幾多郎は哲学者としての真摯な歩みを開始しました。そのために最初の概念が「純粋経験」(直接経験)でした。純粋経験はさらに『場所』の論理、そして『絶対無の場所』、そして最後に、晩年に至り『絶対矛盾的同一性』という論理に到達しました。その次第は『西田幾多郎哲学論集I,II,III』(岩波文庫)により追跡することが出来ます。特に、『西田幾多郎哲学論集III』に所載の二つの論文、『絶対矛盾的自己同一』と『場所的論理と宗教的世界観』は繰り返し西田哲学の論理の展開を語っています。しかし、その用語と説明は極めて難解であり、その叙述は、あたかも他者に説明するより自問自答しているような印象を与えます。自分で自分に言い聞かせているような言い方を理解するのには困難を来たします。しかしこのなかに日本の福音宣教のために非常に重要な課題が含まれています。熟慮の結果、今回は筆者に心に強く響いた事項あるいはよく理解できた事項に限ってその内容を紹介し感想を記すことにしました。

――

まず驚くことは、「悪魔」と言う表現です。『絶対矛盾的自己同一』の世界には悪魔が潜んでいるというのです。これはどういう意味だろうか。直観には我々を唆し魂を殺してしまう悪の力が潜んでいると言っているようである。(以下に引用する。)

絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのではない、また相互に媒介するのでもない。生か死かの戦いである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するものではない。われわれの魂を否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それはわれわれを生かしながら我々を奴隷化するのである。我々の魂を殺すのである。・・・環境が自己否定的に自分自身を主体化するということは、自分自身をメフィスト化することである。直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。・・・作用が我々に逆に向かい来る所に、真の直観というものがあるのである。故に真の直観の世界は、我々が個別的であればあるほど、苦悩の世界であるのである。・・・本能的動物は悪魔に囚われるということはない。直観とは、我々の行為を惹起するもの、我々の魂の底までも唆すものである。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、62-63㌻)

 

判断と意志の主体である個別的自己である我々は、日々世界の中で能動的創造的に生きるように招かれています。創造の立場から見れば、過去と未来は対立する。その際「歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根底から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。行為的直観的に、我々の個人的自己に与えられるものは、単に質料的ではなく、単に否定的ではなく、悪魔的に我々の迫りくるものでなければならない。」(同書、66-67)とも述べているのです。

 

西田幾多郎の哲学によれば、この世界は「絶対無盾的自己同一」の世界で在ります。この世界に置かれている人間はもちろんその『絶対矛盾的自己同一』を免れないのです。彼はドストエフスキーに言及しながら言う。

  われわれの自己というものは、考えれば考えるほど、自己矛盾的存在であるのである。ドストエフスキーの小説という者は、極めて深刻に、かかる問題を取り扱ったものであるということができる。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、344㌻)

わたしたち人間は、それぞれこの世界に存在する無数の個別的存在として、矛盾的自己同一的世界の個物としてわれわれは自己成立の根底において自己矛盾的である。(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、77-78㌻参照)

西田はさらにキリスト教の原罪にも言及して次のように言っています。

「人間はその成立の根源において自己矛盾的である。知的に成ればなるほど、意的に成ればなるほど、爾(しか)いうことができる。人間は原罪的である。道徳的には、親の罪が子に伝わるとは、不合理であろう。しかしそこに人間そのものの存在があるのである。原罪を脱することは、人間を脱することである。それは人間からは不可能である。唯、神の愛の啓示としてのキリストの事実を信じることによってのみ救われるという。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、364㌻)

 

わたしたちは真の自己を知る、という目的に向かって歩んでいます。この歩みの中で宗教とは何でしょうか。宗教とは「我々の自己自身の存在が問われる時、自己自身が問題となる時、初めて意識される」(同論文、322㌻)と言います。宗教とは「我々が自己の根底に深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己存在そのものが問題となるのである。人生の悲哀、その自己矛盾ということは、古来言古された常套句である。」(同論文、323㌻)

そして「我々の自自存在の根本的な矛盾の事実は、死の自覚にあると考える。」(同論文、324)と言います・

これはどういう意味だろうか。根本的な矛盾とは何か。

人は死という絶対的事実を自覚します。死という厳粛なる事実の前に、自己の存在自体に思いを馳せざるを得なくなります。肉体的な死は誰しも自覚します。では精神的死あるいは霊魂の存続についてはどうなのでしょうか。人は死後の存在をどう考えているのでしょうか。

人は不可逆的な人生の終局,つまり死を意識する時に、永遠の世界、つまり絶対に無限である世界、あるいは絶対者を意識する。意識するということは永遠への思いが人間には宿っているということである。地上の人生に終局があるということには疑いがない。人は自分で地上の存在を永続できない。その思うときに、人生の唯一性、一回限りの時間を意識する。しかし永遠への思いを無くすことはできない。死は終わりであるが終わりではない。(終わりではないのではないか、という考えも含める。) 

人の生涯は死への道程であります。生と生、終わりと始まり(死を新しい出発と考える立場、例えばカトリック教会の教え。)。相対立する二項目が同時に存在する。はたして死と生とは矛盾するのか。死は生であり生は死であると言えないか。生とは本来死を孕むものであるので、その生を矛盾と考えなくともよいのではないか、とも思われます。

 

さて、相対的なものが絶対的なものに対するということが死である、と西田は言う。(同論文326㌻)確かに預言者イザヤが神を見たときに彼は言った。(災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」イザヤ65

相対的なものが絶対者に対するとは言えない。相対に対する絶対は絶対ではない。

それではいかなる意味で絶対が真に絶対であるのか。絶対は無に対することによって真の絶対である。自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるならば、その自己は絶対ではない。「絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無になることでなければならない。自己が絶対的無とならざる限り、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むというは言えない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立するということは、無が無自身に対して立つということである。真の絶対とは、此(かく)の如き意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、斯く言うほかはない。そこで神は自己自身の中に絶対的自己否定を含むものである。絶対とは無対立であるだけではなく絶対否定を含むものである。絶対はどこまでも自己否定において自己を有(も)つ。「神は愛から世界を創造したというが、神の絶対愛とは、神の絶対的自己否定として神の本質的なものでなければならない。」(この論理は同論文326-328㌻などで展開しているので参照してください。)

 

神が自己否定するとはどういう意味でしょうか。確かに「愛」は自己否定に深くかかわります。神はその独り子を賜る人この世を愛して下さった。愛する御子イエスが十字架に架けられることを敢えて妨げなかったのでありました。(ヨハネ316参照) 神が御子を派遣したこと、御子が十字架に架けられたことなど、はたして「神の自己否定」と言えるだろうか。神の愛とは言えるでしょうが。

これと関連してホセアの預言言葉が想起されます。

 

 ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。 (118-9)

 

ここでは、神は激しく身悶えし、怒りと憐みに心が引き裂かれています。結局神は怒りに打ち勝って憐れみの方を選びます。このホセアの預言は「神の自己否定」を表わしているのでしょうか。

また次のような例が挙げられます。

全能の神なのに自分の決定を悔い決定を覆すというようなことがありえるのでしょうか。創世記にはそのように読める記述があります。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧に

なって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記65-6)

 

さて、先に「神自身が絶対矛盾的自己同一である」と言う考え方を取り上げ、その際、悪魔的と言う表現さえ使われました。西田、幾多郎は同じ論文、「場所的論理と宗教的世界観」の中の別の箇所でも「悪魔的」と言う表現を使っています。

 

「神が自己自身において自己の絶対的自己否定を含み、絶対の自己否定に対するということは、単に神のない世界、いわゆる自然の世界に対するということではない。単なる自然の世界は無神論的世界である。あるいはまた無神論者的に、自然の秩序に神の創造を見るということができる。真に神の絶対的自己否定の世界とは、悪魔的な世界でなければならない。・・・極めて背理のようではあるが、真に絶対的なる神は一面に悪魔的でなければならない。」「絶対の神は自己自身の中に絶対の否定を含む神でなければならない。悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神であるのである。」「絶対のアガペは、絶対の悪人にまで及ばなければならない。神は逆対応的に極悪の人の心にも潜むのである。単に鞫(さば)く神は、絶対の神ではない。斯く言うのは、善悪を無差別視するというのではない。」「わたしの神と言うのは、…自己自身において絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるからである。」(場所的論理と宗教的世界観、334-335㌻より引用。)

 

このような西田哲学の論理をどのように理解することが出来るでしょうか。神とは絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるという主張をどう受け止めることが出来るでしょうか。

わたしたちは自分自身が矛盾と言う問題を抱えた存在であるということは直観的に理解します。キリスト教ではそれを「原罪」と言います。キリスト教徒でなくとも人間は有限な存在であり、不完全であり、人生の種々の困難に直面するものであると理解していると思われます。生・病・老・死の四苦、それに会者定離、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を加えた八苦は人々が人生の当然の苦悩と理解しています。そのような人間存在を自己矛盾と言うのは理解できます。(最も絶対矛盾とは分かりにくい言い方ですが。)またこの世界の中に矛盾することが多々あることも何となく直観的に理解しています。しかし、神・仏を「絶対矛盾的自己同一である」と理解することは困難です。ともかく「絶対矛盾的自己同一」という用語が理解を難しくしています。全知・全能の神とは、そのうちに矛盾を含まない、均質・均一の存在ではないだろうか。神が迷ったり悩んだり考え込んだりするということは考えられない。神の中に矛盾があるとは夢にも考えない。(もっとも既述のように、聖書はホセア預言書において、あるいは、創世記の中で、葛藤し煩悶する神の心を伝えています。)「神とは不動の動者である」という理解が伝えら、この神理解を前提としたカテキズムが行われてきました。

不動の動者とは、それこそ誰かによって、何かによって動かされることはありえない存在です、自らは動くことなく被造物を動かすのが創造主である神です。これはギリシャ哲学の考えた神であります。聖書の神ではありません。聖書の神、イエスの神は人々の悲しみ苦しみに深く共感する神、スプラングニゾマイ(ギリシャ語表記はσπλαγχνίζομαι。イエスが人々の苦しみに深く同情した時使われたギリシャ語の動詞。巻末の説教を参照。)の神です。

絶対の神は被造物になることはできません。しかし敢えて永遠のみ言葉が人となった。これは西田哲学の言う「神の自己否定」にあたるのかもしれません。このような「神理解」は西田哲学の理解に通じます。愛である神は超然として上から支配することは良しとはしないで、自ら民に預言者を遣わし最後には御独り子イエスを派遣し、イエスが磔刑に処せられるのを敢えて妨げなかったのだ、とキリスト教は理解しています。このような神は上述の西田幾多郎の神とほぼ同じではないでしょうか。

 

――

1

生物とは、生きた物のこと。バクテリア(菌類)も植物も動物も生物です。

たくさんの生物は、類縁関係が近い種ごとにグループ分けされています。地球上には、バクテリアから植物から動物まで発見されているだけで約100万~170万種の生物がいるとされています。類縁関係が近い種類をまとめて1つの「種(しゅ)」、

種同士で類縁関係が近い「種」をまとめて「属(ぞく)」、

属同士で類縁関係が近い「属」をまとめて「科(か)」、

科同士で類縁関係が近い「科」をまとめて「目(もく)」、というふうに、階層として分けられています。

分類の区切りは階層と呼ばれ、大きな階層から、

「界(かい)」、「門(もん)」、「綱(こう)」、「目(もく)」、「科(か)」、「属(ぞく)」、「種(しゅ)」

に分けられています。

人間はヒトという種類の生物なので、動物界 脊索動物門 哺乳綱 サル目 ヒト科 ヒト属 ヒト種

 普通、グループとか仲間という意味で「類」も使われます。「哺乳綱」とか「鳥綱」と表すよりも、哺乳類とか鳥類と表現するほうが、一般的でおなじみ。

  哺乳類 サル類 ヒト科 ヒト

2.

2020910日のミサで読まれる福音書は以下の通りです。

福音朗読 ルカ627-38

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。627「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

3.

2016.7.10 ()、鹿沼教会司牧訪問に際しての、岡田大司教による年間第15主日の説教。

第一朗読 申命記3010-14

第二朗読 コロサイ115-20

福音朗読 ルカ1025-37

皆さん、おはようございます。

わたくしは24年前の11月、92年の11月にこの教会を訪問したようです。したという記録と写真が残っております。それからいろいろなことがあって、今皆さんを拝見すると、フィリピンから来た方やヴェトナムから来た方もたくさんおられます。わたしたちの教会は非常に国際的な多国籍の教会となっています。お互いにそれぞれの違いを認めて大切にしながら、イエズス様のお望みになる教会、いつくしみ深い人々の教会として、成長するようご一緒にお祈りをし、そして努力をいたしましょう。

今日読まれた福音と聖書について少し分かち合いをしたいと思います。今、矢吹助祭が読んだ福音は、有名な「よいサマリア人」の話であります。追剥に襲われて、半殺しの目にあっていた人を見た、通りがかりのサマリア人。サマリア人というのは、ユダヤ人と仲が悪かった。そのサマリア人が「その人を見て、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行った介抱した。」(1033-34)とあります。ほかの人、その半殺しにあった人を見ても、他の人は知らぬふりをして通り過ぎてしまったが、このサマリア人は憐れに思って、このような人を助ける行為をしたのであります。

この《憐れに思い》という言葉が、今日の福音の教えの中心にあります。そして皆さんご存知のように、フランシスコ教皇様のご意向によって、世界中でいつくしみの特別聖年をわたしたちは祝っています。「天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い、あわれみ深いものでありなさい」と主イエスが言われました。いつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということをわたしたちは特にこの一年よく学び、そして実行するようにいたしましょう。

今日の福音に出てくる《憐れに思い》という言葉ですけれども、福音書はギリシャ語で書かれています。そのギリシャ語の原文は最近有名になりつつある言葉ですけれども、「スプラングニゾマイ」というのですね。「スプラングニゾマイ」。これは内臓、はらわたとかからきている言葉を動詞にしたもので、はらわたがゆさぶられる。日本語でははらわたがゆさぶられるという言い方はあまりない。はらわたが煮えくり返るというのは言うが、それは怒ってる時の表現です。胸がつぶれる思いとか言いますね、日本語の大和言葉の表現では。ここでは人の苦しみ、悲しみを見て体で感じてしまう。頭の問題ではなくて、心、体で人の苦しみ、悲しみに深く共感する、一緒に悲しみ、苦しみを覚えるという意味だそうです。いつくしみの特別聖年にあたって、このいつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということを学ぶようにと教皇様は言っておられる。そもそも人は人の苦しみや悲しみに対して、共感し、そしてその人たちを助けよう、何かできることをしようという心を持っているのであります。そういう心があるけれども、何かの事情でその心の声が鈍くなったり、あるいは聞こえなくなったりしているのかもしれない。

昔、高校生の時ですけれども、中国の偉い人で孟子という人がいたそうで、孔子、孟子、荀子という偉い人がいたんだけれども、孟子さんが言った教え、それは人には人の苦しみを見過ごしにはできない、人のために思わず良いことをしようとする、そういう心が備わっているんですという教えでした。「惻隠の情」。

惻隠というとちょっとわからないかもしれないけれど、惻隠の情という、あるいは惻隠の心があると、そういう教えでありました。

今日の聖書の福音の教え、良いサマリア人が強盗に襲われ、追剥に襲われた人を見て、憐れに思ったということと良く似ている教えだと思います。人間の本性は本来良いものか、悪いものか、この問題はずっと論じられてきた。人間は本来良いものだという人もいれば、悪いものだという人もいる。あるいは本来どちらでもないのだという人もいる。性善説とか、性悪説とか、わたしたちは聞きましたよね。キリスト教ではどうなんだろうか。難しいですけれども、旧約聖書の最初にある創世記の1章では、神様が全てのものをお造りになった次第が述べられていて、最後に人間を造った。そして人間を見て、極めて良いとおっしゃったのですね。我々は極めて良いものなんですよ。その割にはですね、いろいろ人間は悪いことをしていますね。どう説明したら良いのだろうか。これは悩むわけです。わたしが悩むのは勝手ですけども、世界中の人、偉い人がどう説明したらよいか、という問題にぶつかりました。難しいことは置いておいて、聖書によれば、神は人間を良いもの、極めてと付いているのですが、極めて良いものとしてお造りになった。その極めて良いものが、その良さを発揮できていない。元々良い、良いけれどもどうしてか、その良さが出てこない場合がある。でも、だいたいにおいて我々は良いことを知り、良いことを行っているんですね。悪いことばかり見たらキリがないですけれども、人間は本来良いものである。人の苦しみに同情する、人を助けるものなんですね。ただ自分のことも大事なので、ついしそびれてしまう。あるいは自分自身の強い思い、こうしたい、あるいはあの人が邪魔だとかいう思いも出てくる。良い思いと悪い思いの両方が、わたしたちの心の中にはあるのではないでしょうか。

今日の第一朗読を思い出すと、神様の戒めと掟を守ることは難しくないと言っている。いや、難しいとわたしは感じますけれども、難しくないんだよと。神様の教えはどっか遠い所にある、外にあるものではない。あなたの心の中にあるんだよと、自分の中にあるんだよと、そう教えていますね。自分の中にあることに気がつきさえすれば大丈夫ですと、簡単に言うとそういうことを言っているのかなと思います。

また第二朗読のコロサイ書という聖書の朗読でありました。どういう教えであったかと言うと、イエス・キリストは見えない神の見える姿。万物は御子によって、御子のために造られた。神様は目に見えません。しかしイエス・キリストは目に見える人間でした。そこでいつくしみの特別聖年のお祈りというものをもう一度思い出す。「主イエス・キリスト。あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。」と教皇フランシスコが言っている。イエス・キリストは見えない神の見えるみ顔であります。そのイエス・キリストは地上を去る時に、弟子たちに聖霊を注いで、そして聖霊の働きでご自分のように生きられるようにしてくださった。わたしたちは弱い人間です。罪深い人間と言ってもよい。しかしイエス・キリストはご自分の霊、聖霊を送って、聖霊の働きで、イエス・キリストと同じ働き、人々を助ける、自分のことを後回しにして人の苦しみのために働く、その人のところに走り寄ることができる、本来良い人間の働きをすることができるようにしてくださった。そういうように教えています。「あなたがたは神御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(1:22)と書いてある。

今日、皆さんどうしてここに来ましたか。ここに来て何か良いことがあるんですよね。ここに来て別に一銭の得にもならないが、もっと良いこと、神様の恵みを受けることができる。皆さんの心の中に、神様から恵みを受けたい、ミサに与りたい、イエス・キリストのお話しを聞きたい、そういう良い心があるのでここに来ていらっしゃる。ですから、皆さんはすでに聖なる者とされているのであります。

2020年9月11日 (金)

チェノット大使追悼ミサ説教

日本二百五福者殉教者記念日 ミサ説教

2020910()、本郷教会

一昨日の深夜午前129分のこと、駐日教皇大使ジョゼフ・チェノットゥ大司教様がお亡くなりになりました。

享年76歳でした。

チェノットゥ大司教様は、2011年の1020日に日本に着任されました。

2011年といえば、311日に東日本大震災の起こった年です。

日本の司教団は、東日本大震災についてのメッセージを準備して、全会一致で全員の共同の意見としての文書を採択し発表したのでありますが、そのための臨時の会議をしているところに新任の大使として来られたのです。

あれからそろそろ10年になります。

昨年の11月に教皇フランシスコが日本を訪問してくださったので、そのことで大変お忙しかったと思いますが、無事にその責務を果たされました。

インドの人で、ケララ州というキリスト教徒の多いところでお生まれになりました。

インドはヒンドゥー教の国ですけれど、キリスト教徒はどのくらいいるのでしょうか。

なにしろ人口が多いですから、キリスト教徒だけでも大変な数でしょうね。

いろいろなキリスト教の宗派があるようですが、ローマカトリック典礼ではないようで、ほかの典礼の教会だったようです。

それはともかく、昨年11月の教皇フランシスコの来日行事の一連を無事に終えられ、75歳の定年を迎えて故郷への里帰りを楽しみにされていましたが、コロナウイルスの問題で帰国が伸びている最中の58日に倒れた。

58日に倒れて、帰国がかなわないまま、98日にお亡くなりになりました。

58日というと私事で恐縮ですが、ちょうどわたくしも自分の病気で入院している時のことでした。

この訃報をくれた浦野神父様がまだ公式発表前に、「チェノットゥ大使が倒れちゃったけれど、あなたは大丈夫?」と連絡をくださいました。

倒れたのは58日で、亡くなったのは98日ですから、ぴったり4か月。

感慨深いものがあります。

葬儀の日程はまだ発表されていませんが、ある情報によるとインドでおこなうようです。

日本でもおこなうとは思いますが、大使館と司教団が相談中かもしれないですね。

彼が在任中、わたくしは非常に頻繫にチェノットゥ大使とお会いしました。

そうしなければならない、いろいろな用があったのです。

さまざまな場面が思い出されます。

難しい問題もありました。

迷った末、やはりお知らせしないといけないと思い、重い腰を上げて大使館に赴いたこともありました。

あの大使館(駐日ローマ教皇庁大使館)に何度通ったことでしょうか。

そのチェノットゥさんがこんなに早く帰天されるとは思いませんでした。

心から永遠の安息をお祈りいたします。

 

今日は二百五福者殉教者の記念日であります。

日本は殉教者の多い国です。

日本二十六聖人をはじめとして、多くの福者、殉教者がいます。

最近ではペトロ岐部と八十七殉教者が列福されましたね。

二百五人の列福は1867年、まだ禁教令が廃止(1873年)される前ですので、日本の教会を励ますためのピオ九世教皇のご決断だったと思います。

それから百数十年経って、今の日本はどうであろうか。

 

今日の福音はわたくしたちがよく知っている教えであります。

よく知っていて、だから毎日よく実行しているかというと、そうでもない。

いかにキリスト弟子として生きることが難しいかということを思い知らされる教えであります。

しかしこの中のほんの一部でも、わたくしたちはおこなっているとは思うのですね。

各自が胸に手をあてて、このイエスの言葉をどう受け取っているのだろうか。

このような教えを人びとに伝えることがわたくしたちの使命ですが、実行していないことを言葉で伝えてもあまり効果がない。

おこなっていることを言葉で伝えないと、聞く人には響かないわけであります。

 

話はちょっと飛びますが、このところ時間をいただいているので、日本の福音宣教のためになることについて、わたくしの感想を原稿にして、できれば一冊の本にしたいと思って準備中でおります。

いろいろな経緯があって、仏教の教えに今かなり入り込んでしまっています。

そして最近のブログに出しましたが(peterokadatakeoのブロブ 202097日「 山川草木悉皆成仏」)、日本では「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」という言葉があります。

どこかで見たか聞いたかしたことがあるかもしれません。

「山川草木(さんせんそうもく)」、つまり山川(やまかわ)、草木(くさき)「悉皆(しっかい)」というのはすべて、「成仏(じょうぶつ)」は、仏になる。

仏になるのか、なっているのかそこは解釈が分かれますけれど、これは仏教の涅槃経(ねはんきょう)というお経から来たそうで、日本ではかなり発展したというか変えられて、そもそも、すべての生きとし生ける人間には仏性=仏の性質がある、仏の種が蒔かれているという意味だったそうです。

可能性がある、可能性があっても仏になっているわけではない。

我々がそうですけれども、すべてキリストの種が蒔かれている。

でもこういう教えを実行して輝いているというわけではない。

そういう人もいますが、非常に稀である。

まだ仏にはなっていないが、仏になれますよという、それは生きとし生ける人間のことだけれども、人間から広がって命あるすべてのもの、命があるかないか分からないけれど

山川草木ですから、存在するすべてのものが仏様の現れであるという、雄大な思想になっているわけです。

これは誰が言い出したのか、誰なのかを調べたけれど、日本の中で段々そうなってきたと

いうことであります。

時々ですけれども、嫌なやつだなあと思う時がある。

どうしてこんな人がいるのだろうと思ってしまうことがある。

それでもイエス様の言葉は、あなたが嫌だと思う人も、敵と思うような人も愛しなさい、大切にしなさい。

人間性に反することですけれども。

日本では、どんな人も仏さまだという考えが何となくある。

戦争でも、戦う時はやりますけれど死んでしまえば皆仏さまだ、敵も味方もないというような考え方もある。

そうすると今のわたくしたちとしては具体的にどうするのかと思いながら、話はいくつにも分かれてしまい纏まりがないのですけれども、

そもそも仏教では、存在するもの自体が本当に存在するのかという問題から出発している訳なので、そこを非常に楽天的にとらえて、仏さまはどこにでもいるのだというふうに捉え直したのが日本人であるというふうに考えられるのです。

だからキリスト教徒もそれに負けないように、教会の現実をみると、わたくしなどを見ると元気が出ないかもしれませんが、「山川草木悉皆成仏」、キリスト教ではどういうことになるのか、その辺を黙想していただけると良いかなあと思います。

ーーー

第一朗読  コリントの信徒への手紙 一 8:1b-711-13
(皆さん、)知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げ(ます)。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。


しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

福音朗読  ルカによる福音書 6:27-38
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

 

 

 

 

 

2020年9月 7日 (月)

山川草木悉皆成仏

    その4 悪についての小考察のその4 

「自己証明」から「山川(さんせん)草木(そうもく)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」の考え方へ

 

毎年、815日はカトリック教会では聖母マリアの被昇天の祭日です。教皇ピオ十二世は、聖母の被昇天をすべての信者が信ずべき教義であると宣言しました。マリアは無原罪に宿った方であり、その身体は死後腐敗する事なく天に挙がられた、と教えています。

さて、このところ偉大な日本の哲学者、西田幾多郎の思想に悪戦苦闘しています。難しいです。とても西田の著書を解読するには至りません。いまぼんやりと思うことを以下に記してみます。

西田幾多郎は1945年、終戦の815日を前にして67日に亡くなっています。75歳でした。明治・大正・昭和の激動の時代を生きました。八人の子供に恵まれましたがそのうち五人に先立たれていますし、最初の妻にも五年間の病床を経て先立たれています。家族についてだけでも、悲しみの体験の多い日々を過ごしています。

昔、司祭になるための勉強で、哲学を学びましたが、今思い出すのは、次の命題です。

「哲学の初めは驚きである。」

驚きはadmiratio という言葉でした。むしろ感嘆というべきかもしれません。この世界には驚くべき素晴らしいことで満ちている、という内容ではなかったかと思います。しかし、西田にとって哲学の動機は悲哀という事でした。人生の途上で遭遇する数々の哀しい出来事が彼をして人生の意味への思索へと駆り立てたのでした。彼は座禅をする人であり、また浄土真宗に深く帰依する人でしたが、あくまでも哲学者として、人生の困難な問題に取り組みました。彼の哲学論文はその悪戦苦闘の記録であります。もちろん宗教を信じる者にとって信仰は人生の苦難を克服するための慰めであり支えであります。そこに自分を託しさえすれば、思索によって苦闘する必要はないでしょうに、彼は人間として極限までこの問題、人生の真実を見つめ理論化しようと努めたようであります。

 

さて、『善の研究』で西田は、「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

人は自分を直接見ることが出来ません。鏡に映して自分の顔を見ます。鏡に映る自分はその時の自分の姿です。しかし、左右が反対になっていたりして、歪んで写ったりして、完全にそのままの自分を正確に映しているわけではありません。

そもそも自分とは何でしょうか。生まれたばかりの幼児には自分と他の人間との区別はありません。母と一体の存在です。次第に自分と自分の外との関係を知るようになりママス。自分を母との関係を知り、家族、そして、外界との関係を漠然と知るようになります。人は自分と自分以外の人とのかかわりの中で自分を位置づけしています。

仮にここに一人の男性がいるとします。彼が結婚していれば、妻に対して「夫」という立場になります。彼のことを妻は何と呼ぶでしょうか。もし子どもができれば、いつの間には妻は夫を「お父さん」と呼ぶようになります。夫が自分の父ではないことは十分に承知しているのですが、それでも自分の立場を子どもに置き替えて「お父さん」と呼ぶ場合が多いのです。もちろん夫は自分の子供に向かっては自分を、「お父さん」と呼びようになることが多いです。それは子どもにとって自分が何であるかを無意識にでも考慮しての言い方でしょう。

もし彼が教師をしているとすれば、彼は教室では自分のことを「先生は、昨日は都合によって授業を休みました。」というかもしれません。

もし彼が会社員であれば、上司に向かって自分のことを「わたしは」というでしょうか。そうかもしれないが、そういわないで、主語を書略して、直接相手の肩書を呼ぶことが多いと思います。「わたし・岡田は」ということも出来ますし、相手の上司に向かっては、その人の肩書をつけて呼び掛け、例えば「田中課長」とか「渡邊社長」とかという事ができます。日本語では、相手がだれであって何時も不変の独立した「わたくし」という言い方は通常していないのです。しばしば主語は省略されますので、人は前後の文脈から、主語が誰であるのか、を察しなければならないのです。誰が誰に何故何を言うのか、というような論理的な話し方は敬遠されます。角が立って聞き難いのです。

 

人は自分を直接見ることが出来ない。直接知ることが出来ない。他者に映った自分を通して自分を知るのです。家庭で子どもが見る父の姿と、社員が会社で見る、社長である父親の姿はかなり異なった物でありましょう。

人は他者を何時も、その立場から、肩書のある人として見ているのです。人を紹介する時も、某大学文学部哲学科准教授、という肩書で紹介すると、何となく、その人のイメージが浮かんできます。人はすでの、その肩書への理解を持っていて、その理解の枠の中でその人を理解するようにするのです。

 

人は同じ人でもその役割・立場の違いにより、いろいろな顔を持っているという事が分かったとして、それでも、いつでも、どんな場合でも変わらない自分とは何でしょうか。そもそも人はその身体からして刻々新陳代謝して変化しつつある存在ではないでしょうか。それは昨日の自分と今日の自分とは同じ自分であるのか。同じであるが違う、違うが同じ、という事になるのでないか。

例えば人は他者と契約します。買い物がそうです。何々を幾らで売り買うという約束をするとして、日にちが経ってしまうと、その約束はそのまま有効でしょうか。普通は有効期間を定めています。もし違う人間となるのでしたら何も約束出来ないことになります。人の状態は日々変わることを互いに諒解しながら、特段のことについては、期間を区切って、有効な契約として、信頼をもって実行することを互いに前提としているのです。

 

人は自分が変わらない自分であるという自己証明をどうするのか。最近、証明するための書類(ないしそのコピー)の提出を求められることが増えました。マイナンバー、運転免許証、パスポート、健康保険証などをもって、自分は東京文京区に居住する岡田武夫という住民であることを証明しなければならないのです。住民であることはそのようにして証明できますが、人は、住所、所属、肩書などを離れて存在する自分をどう証明するのでしょうか。

 

人は自分で自分を証明できないのです。電話をかけて、「あの、わたしですが何々さんいますか。」と訊ねても、電話で応対する人が電話してきた人を知らなければ、「どちら様ですか。」と誰何することになります。自分は自分であることを知っていて、それ以上当然のことはないのですが、それは相手には通じないのです。自分は岡田武夫という国民であることは国家に証明したもらうほかありません。

日本国籍を持つ者は一億二千万人はいるでしょう。自分はその中の一人に過ぎないのです。唯一無二の自分であることをどう自覚できるでしょうか。理論的に言って、自分という人間は、かつてなかったしこれからも現れないはずの存在です。唯一無二の自分を唯一無二としてくれるのは何か。自分で自分を証明しても、その証明している自分を誰が証明するのか。

例えば、岡田武夫-1という人がいます。その同じ岡田が岡田-2を証明します。するとその岡田を証明した岡田―2は誰が証明するのか。そこで岡田―3が必要になります。するとその岡田―3を証明する岡田―4が必要になります。かくて無限に自己証明の連鎖が遡ることになるのです。かくして、同じ岡田が同じ岡田を証明できないということになります。ではどうしたらよいのでしょうか。

結局、人を証明するのは人を超越した存在である超越者(例えば神)でなければならないでしょう。キリスト教の場合は、イエス・キリストという存在が、父である神へ取り次いでくださる仲介者であると考えられています。先日、聖クララの手紙を読みましたが、聖クララは主イエスをわたしたちの聖なる鏡と呼んでいます。

西田幾多郎はこの問題をどう解決したのでしょうか。彼は、真の自分を映す鏡を想定いします。その鏡を「場所」と呼んでいます。ではこの場所とは何か。場所とは、自分を空しくして映し出す場所です。その「場所」の理解は難解です。あらためて次の機会に考察してみましょう。

 

さて自己同一の証明です。同じ自己でありながら自己の中には、対立と葛藤があります。人は自分が秩序正しく統一された存在ではないと感じます。第一に病気ということがあります。病気は身体の秩序に乱れです。心の問題があります。人の心は、憎しみ、恨み、妬み、不安、乱れた欲情で揺れ動いています。人はしばしば平和に収まることから遠ざけられているのです。同じ自己でありながら自己の中に矛盾があり、調和がない。西田の有名な「絶対自己矛盾的自己同一」という難しい用語はこの人間の矛盾をも含む状態を指しているのでしょうか。

 

この問題に関して仏教では何と考えるのでしょうか。自己の解脱、悟りによって苦悩からの解放を説くブッダの教えから出発した仏教は、大乗仏教に発展し、さらに自分自身と如来の一致を説く教えに変容していったように思われます。軽率な結論は現に慎むべきですが、非常に魅力的な考え方だと思いますので、以下にその一端を紹介します。

 

 

「小考察その3」で引用しましたが、西田は以下のように述べています。

「真の自己を知るとは人類一般の善と一つになることであり、神の意志と一致することとなる。しかし、真の自己を知り神と合一するには、主客合一の力を得なければならない。そのためには、自分の偽我を殺し尽くし、この世の欲に死んで蘇(よみがえ)るのでなければならない。」(第十三章 完全なる善行 四 より)

 

この結論は、西田幾多郎個人の宗教体験と宗教理解を背景にしています。西さ個人は熱心な座禅の実践者でありまた浄土真宗に深く傾倒した人でもあります。そこで日本における仏教について今できうる限りのささやかな考察をしてみたいと考えました。(以下は主として、佐々木閑「集中講義『大乗仏教』、別冊100de 名著」NHK出版によりますが適宜他の資料も参考にしています。)

 

仏教は今から二千五百年前にインド北部(現・ネパール)の釈迦族の王子として生まれたゴータマ・シッダルタを開祖とする宗教です。(以下、釈迦という。)釈迦は人生の苦悩を克服するために修行し35歳の時に菩提樹のもとで悟りを開きました。釈迦は80歳で亡くなるまで各地を遍歴し自分の悟りを教えました。この教えが仏教 の基本であります。仏教は中国を経て日本に伝えられ、中国と日本での新たな変貌を遂げました。それはもはや釈迦の最初の教えとは似ても似つかない『大乗仏教』の教えとなっています。佐々木閑『大乗仏教』は繰り返し、『大乗仏教は本来の釈迦の教えとは異なる別個の宗教である」といっています。(p)浄土教については「ここまで変貌してしまうと、『釈迦の仏教』とは似ても似つかないものです。」(128)

しかしだからといって著者は大乗仏教の価値を否定しないでむしろ評しているのです。例えば次のように言っています。

「浄土教の教えは、お釈迦様の教えとはかけ離れたものになっているのは事実ですし、仏教で最も重要であるはずのお釈迦さまもどこかに吹っ飛んでしまっています。『釈迦の仏教』からは、『法華経』よりもさらに遠くに行ってしまった印象は否めません。でも、それはそれで価値を認めるべきです。宗教に正しいも間違っているもありません。大事なのは、「それを信じた人が幸せでいられるかどうか」、この一点です。」(132)

大乗仏教はそれぞれ自分たちのよって立つ基準となる経典を定めました。そのなかでも『般若経』『法華経』『華厳経』『涅槃経』などがよく知られています。それぞれ大変魅力的な内容を持った経典です。それぞれ民衆の救いという観点を重視しています。そしてそのために道をそれぞれ誰でも歩めるような具体的な道筋を提供するようになっています。

今日日本の仏教宗派のほとんどは、人はすでに生まれながらに「仏性」、ブッダとしての本性・性質を持っている、と説いています。自らの中に在る仏性に気づき、人として正しく生きていれば誰もがブッダに成れる、と説いています。『涅槃経』という経典は、ブッダはこの世に常に存在しており、さらに「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじゅうしつうぶっしょう)」という思想を唱えています。「一切衆生」とはすべての生き物、「悉」とは「ことごとく」という意味ですので、涅槃経は、すべて生きとし生けるものは仏性、仏の本性を持っていると説いているのです。「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじゅうしつうぶっしょう)」という思想はさらに発展して日本では「山川(さんせん)草木(そうもく)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」となりました。この言い方については以下の興味深い記事を参照ください。

 

 宮沢賢治の詩の世界、伝記的事項、「山川草木悉皆成仏」の由来(1)より、2031 

  もともとインドの大乗仏教では、成仏できるのは「有情」あるいは「衆生」と呼ばれる「心を持った生き物」、すなわち人間と動物に限るとされていました。それが中国の三論宗や華厳宗において、「草木成仏」という思想が生まれて、植物も成仏できると考えられるようになったのだそうです。

 これがさらに日本に入ると、「草木国土悉皆成仏」という形で、無機物である「国土」までもが成仏できるのだと説かれるようになったということで、このあたりの事情は、岡田真美子氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という論文に記されています。「草木国土悉皆成仏」という言葉は、能の謡曲には経文の一節としてしばしば登場するそうですが、現実の経典中にはこの言葉は見当たらず、末木文美士氏によれば、最初に登場するのは、平安時代の天台僧安然が著した『斟定草木成仏私記』においてだということです。

 一方、現代において、この「草木国土悉皆成仏」よりもはるかに親しまれているのは、「山川草木悉皆成仏」という言葉です。しかし、上記の岡田氏の論文によれば、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、仏教関係の文献を歴史的にいくら調査しても見つからず、むしろごく最近になってから、主に仏教者以外の人々によって使用されているというのです。

 「山川草木」という言葉も、仏典に限らず一般の漢文ではあまり用いられないもので、同じ意味の「山河草木」であれば、『大乗玄論巻第三』に登場するということです。すなわち、「古文、漢文の世界では、むしろ「山川草木」より「山河草木」ということばのほうが伝統的である」というのが、岡田氏の見立てです。

  また、宮本正尊氏は1961年に「「草木國土悉皆成佛」の佛性論的意義とその作者」という論文において、「草木国土悉皆成仏」という言葉の由来について綿密な調査を行ない、この言葉も現存する大蔵経中のどの仏教文献にも見出せないことを明らかにしています。そして、驚くべきことにこの論文では、現代でははるかに普及している「山川草木悉皆成仏」という言葉は、一切触れられていないのです。

 これらの所見から岡田氏は、「「山川草木悉皆成仏」は伝統的な仏教用語ではなく、少なくとも1961年以降、現代になってから人口に膾炙するようになった仏教用語らしい」という仮説を立てます。

 これに関連して袴谷憲昭氏によると、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、哲学者の梅原猛氏がさかんに用いて有名になり、さらに1986年に中曽根康弘首相(当時)が施政方針演説中に用いたことがきっかけで、広く世間に知られるようになったのだということです。梅原氏が委員をしていた臨教審の答申が中曽根の演説の前に出されていることから、袴谷氏がその答申内容を調べてみると、予想通りこの思想が盛り込まれていたことを確かめた上で、中曽根は梅原委員から「山川草木悉皆成仏」ということばを教えられたのであろうと推測しています。

  このような流れから岡田真美子氏は、「山川草木悉皆成仏」という言葉は梅原猛氏による造語ではないかと考え、梅原氏に質問の手紙を出したということですが、返事が得られずにいました。そんな時、岡田氏の夫君の岡田行弘氏が、たまたま新幹線で梅原氏に遭遇し、「山川草木悉皆成仏」は氏の造語ですかと尋ねたところ、氏はそれを肯定し、「山川草木悉皆成仏 梅原猛」と紙に書いてくれたのだということです。

 以上、ちょっとしたミステリーのようなお話で、一見すると歴史的由緒のありそうな有り難い言葉が、実はごく最近になって作られたものだったという結論は驚きですし、とりわけ「たまたま新幹線で遭遇して・・・」という展開は、いかにも現代的で面白いです。この謎解きをコンパクトにまとめ、現代の環境問題にもつながる岡田氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」は、知的刺激にもあふれた魅力的な論文です。

 ということで、この論文を読んだ時には「一件落着」と思って頭の片隅にしまい込んでいたのですが、ふと賢治の書簡を見ると、「山川草木悉皆成仏」に非常に似た言葉が、二度も登場するではありませんか。

ねがはくはこの功徳をあまねく一切に及ぼして十界百界もろともに仝じく仏道成就せん。 一人成仏すれば三千大千世界山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ。(保阪嘉内あて書簡631918519日)

わが成仏の日は山川草木みな成仏する。山川草木すでに絶対の姿ならば我が対なく不可思儀ならばそれでよささうなものですがそうではありません。(保阪嘉内あて書簡761918627日)

前者には「虫魚禽獣」という語句が余分に入っていますが、それでも意味としては同じですし、後者の「山川草木みな成仏」に至っては、「山川草木悉皆成仏」と、実質的にほぼ同じとも言えるでしょう。岡田真美子氏が指摘するところの「山河草木」ではなく「山川草木」になっている語法も、これが伝統的ではなく新しいものである可能性を示唆しています。

一方で、これが当時の賢治によるオリジナルな造語であるとも思えず、また「山川草木・・・成仏」という型は二つの書簡に共通していることから、やはり賢治の使用の元となる何らかの出典が、当時存在したのではないかと考えるのが、自然な感じがします。

 賢治が上記の書簡を書いた1918年(大正7年)は、彼が田中智学の思想に入れ込み始めた時期ですから、ひょっとして智学の著書に由来しているのではないかとも思い、『本化摂折論』や『日蓮聖人の教義』や『妙宗式目講義録』の一部をざっと見てみたのですが、見つけることはできませんでした。

 ということで、岡田真美子氏による調査をさらに推し進めるために、賢治の「山川草木みな成仏」の元となる出典があるのならば、それをぜひ知りたいと思っている次第です。

 また、もしも「出典」なるものは存在せず、これが賢治によって初めて使用された言いまわしだったとすると、宮澤賢治にも造詣が深かった梅原猛氏のことですから、当然ながらこれらの賢治の書簡を読んでいて、その潜在的な記憶を意識しないまま、1970年代になって「山川草木悉皆成仏」という言葉を作り出したということになるのでしょう。

 

本来釈迦の仏教では、各自が修行して苦悩から解脱することを教える自力救済の宗教でしたが、中国から日本へ伝達される過程で著しく実質的変貌を遂げ、成仏の主体も、人間から他の生き物へ拡大され、されに生物以外の被造物である山川草木にまで拡張されたのでした。

ここでキリスト教の立場から想起すべきことがあります。人間は創造主から自然等の被造物を治める務めを受けたと考え、その役割を濫用し、今日の環境破壊という問題を引き起こしています。それは教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』の指摘するところです。人間は被造物の一部であり、その生存は自然に依存しており、大地とのつながりの中で存立できて来たことを失念して思い上がった暴挙に出て、自らの足元を危殆に瀕ししてしまっています。創世記二章によれば、最初の人間アダムとイブが創造主への従順と信頼をゆるがせにするという過ちを犯したために、人間と自然との関係に罅(ひび)が入ってしまい、人間と自然とのあるべき良好な関係が壊れてしまったのでした。この状態は修復されなければなりません。聖書は、神の救いの御業の結果「新しい天と新しい地」が完成すると言っています。(ヨハネの黙示211、二ペトロ313、イザヤ6517など) さらに使徒パウロは被造物のあがないに言及しています。(以下参照)

  ローマ書813-25

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(813-25)

人間は自分たちだけの救いを考えてきましたが、他の被造物との切っても切れない関係にある人間は、自然・宇宙のあがないと救いの中に自分の救いを位置付けなければならないとおもいます。

 

ところで自分の中に在る仏性に気づくとは「主観と客観、自己と世界が分かれる以前の存在そのものに立ち戻る」ことではないかと考えられます。西田幾多郎が目指した境地はこれかもしれません。そのために雑念を取り払い心に無にすることが必要となります。座禅はこの「無心」の境地を目指す修行ではないでしょうか。道元が創始者の曹洞宗では「只管打座」を唱えています。道元はその際、座禅は「人は本来仏性を有している。座禅は自分の力で煩悩を消して悟りに至る修行ではなく、自分がすでにブッダになっていることを確認する作業である」と考えました。(『大乗仏教』174-175㌻より)

しかしこの考え方は誤解されやすいです。自分はすでにブッダになっているから何も努力の修行も不要になったと考えるとしたら、それは危険な考え方です。すでにブッダになったとはどういう意味か。煩悩を抱えたままであってもすでにブッダが宿っていて、共に、煩悩と戦ってくれると考えたほうが良いと思います。ブッダになる可能性を与えられている、ブッダになる種、あるいは胎児が宿っていると考えてもよいでしょう。(高崎直道『仏性とは何か』法蔵館文庫、参照)

さて、「仏性」「山川草木悉皆成仏」について現在の曹洞宗はどう考えているのでしょうか。これに応えることは甚だ僭越ですが以下の記事を参考に引用することをお許しください。

   この問題について現在の曹洞宗は例えば次にように説明しているようである。

以下は曹洞宗東海管区教化センター、道元さまのお言葉、正法眼蔵諸弁道話の巻より

 

「佛家には教の殊劣を対論することなく、法の深浅をえらばず、ただし修行の真偽をし

るべし。草華山水にひかれて、仏道に流入することありき。いはんや広大の文字は萬象

にあまりてなほゆたかなり。転大法輪また一塵にをさまれり。しかあればすなはち即心

即佛のことば、なほこれ水中の月なり、即座成仏のむね、さらにまたかがみのうちのか

げなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直証菩提の修行をすすむるに、佛祖

単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。」

真言宗では「即心是佛 即心作佛といふて、多劫の修行をふることなく、一座に五佛の正覚をとなふ」つまり是の心がそのまま佛であるから、あらためて修行しなくても即座に佛の位につけるという教えがあります。但しここにいう心とは「得道妙心」の心であり、欲望や煩悩妄想に侵されている自己中心的な心ではありません。否そのような心もある意味からはそれに含まれるのかもしれません。しかし「心」というのはやはり、いわゆる心の奥の奥にあるところの宇宙をあらしめているところの純粋な「心」でなければならないのであります。つまり心理学的に言うところの心ではなく、佛の真心という時の「心」なのであります。これを佛性とか法性とか真如とか言いますが、これを究明することが出来た人を悟りを得た人、つまり「覚者」というのであります。そしてそのような心の世界を悟りの世界、浄土ともいうことができると思います。この世界を日常体現し、この佛の真心で日常の行動の価値基準を決め規定するならば、この人は悟りを成就した人といい、「是心作佛」ということになります。この「心」を調整すれば宇宙の真理の世界が現れ、毘廬遮那佛の世界に住することが出来るという教えがあります。この「心」の調整の最上無為の方法を道元さまは「坐禅」であると説かれるのであります。仏法にはお釈迦さまの教えを法華経を中心とか華厳経を中心とか般若経を中心とかさまざまな中心のおきかたがありますが、もともと宗教とは思想・観念だけにとどまるものではありません。むしろその教えによって日常生活が豊かになり、限られた生命を全うできるかということが大切であります。したがって教の殊劣を対論し、法の深浅を論ずることは、無意味なことと言わなければなりません。いずれの教えもお釈迦さまの説かれた教えであり、どの教えから仏法に入っても悟りの世界は開けるのであります。要は実践こそ最も大切なことであります。正しい実践修行をするなかで、例えば草華山水を観ることの機縁によって悟りの境地に到ることもあるのであります。渓川のせせらぎの音を聴くことの機縁によって開悟することもありましょう。「草華山水にひかれて、仏道に流入することありき。」とはこのことであります。また天地自然宇宙万物のあるがままの姿こそ真理そのものであり、広大な文字であります。この生きた文字を観ることなく、教義の深浅を論じ、観念の世界にのみとどまるなど無意味なことであります。一片の塵にも宇宙の真理が宿り、それを観じ実践するならば「いはんや広大の文字は萬象にあまりてなほゆたかなり。転大法輪また一塵におさまれり」となるのであります。あらゆる存在のあるがままの相こそ転大法輪であり、生きた経巻であります。身心一如、修証一等という教えがありますが、これらの教えは仏法は観念ではなく実践であるということを説いたものであります。このことを道元さまは「しかあればすなはち即心即佛のことば、なほこれ水中の月なり、即座成仏のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべか

らず。いま直証菩提の修行をすすむるに、佛祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。」と説かれるのであります。

 

正法眼蔵仏性の巻、より。

釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易。これわれらが大師釈尊の獅

子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏、一切祖師の頂寧眼晴なり。」

この「仏性の巻」は先の「正法眼蔵弁道話」の巻、「正法眼蔵現成公案の巻」と併せて正法眼蔵の中では特に大切な巻とされています。この三巻の中で道元さまは「真理」を説き、「悟り」について説いておられます。この巻でいう「仏性」ということにつきまして道元さまが比叡山でのご修行中よりいだき続けられた疑問でありました。しかし、当時日本では道元さまのいだく疑問を満足に解きあかしてくれる人がいませんでした。それで道元さまはこの疑問を解くべく中国に渡られたのであります。この巻は仁治二年十月興聖宝林寺において弟子たちに説かれた巻であります。仏性ということは大乗仏教の成立とともに取り上げられた大きな問題であり、特に「大般涅槃経」ではこれを深く掘り下げられています。道元さまは中国に渡っても、すぐにはこの仏性について納得できる答を得ることが出来ませんでした。それで道元さまは諸々の経典、諸説を学び、多くの祖師に参じたのであります。ここにあります「釈迦牟尼仏言一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」というくだりは「大般涅槃経」の中にある一句であります。この意味は普通に読みますと「お釈迦様が言われるには一切衆生にはことごとく仏性がある。それは常住で、変わることが無い。」ということになるのでありますが、実は道元さまはそのようには捉えていなかったのであります。仏性とは「仏であることの本質」であります。ここでいう仏というのは「ものごと」が真理に従って、あるべきようにあることでありまして、執着を離れることであります。先の現成公案の巻や弁道話の巻においてお話しいたしました「あるがままにする」「空」の道理に従って「因縁所生」にあるということをいうのであります。 それを覚られたのがお釈迦さまであり、諸仏諸祖であります。曹洞宗では道元さまの師匠天童山の如浄禅師までにお釈迦さまから数えて五十人の祖師方がいます。その方々は仏性の道理を正しく捉えて悟られたのであります。そして道元さまは一切衆生、悉有仏性を「一切衆生はことごとく仏性がある」とは捉えず、涅槃経にありますように「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」と読み、ことごとくあるその全存在が衆であり、その内も外も全て仏性であるというのであります。お釈迦さまの全存在、全行動が仏性であります。諸仏、諸祖の皮肉骨髄、頂寧眼晴全存在、全行動が仏性であるということになります。さらに申せば森羅万象全てが仏性ということになります。また「仏性は成仏以後の荘厳なり」と説いておられます。一切は衆生であり、全存在が仏性であるというのでありますが、しかし、この仏性は弁道話のところでもお話しいたしましたように「修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」であります。発心し、修行し、菩提し、涅槃してはじめて現成するのであります。つめて言えば、正しい発心、修行、菩提、涅槃がそのまま仏性ということになります。

自己のあるべき姿とは「自己をわするるなり」であります。つまり無我になりきることであります。それは自己と他己との対立を捨て去ることであり、執着を離れることであります。そうすることにより「萬法がすすみて自己を修証する」境地が開けるのであります。

道元さまのことばに修証一如というのがありましたが実践の中に悟りがある、あるがままの実践が本来の衆生であり、全存在であり、悟りであります。

正しい体験の世界に没入するとき、融通無礙の自己を会得しうるのであります。仏性は常住不滅でありまして、悟りを開かれた祖師方は不断の仏作仏行により煩悩の火が二度と起こらないのであります。したがって開悟された祖師方でもその後もたゆまぬ修行をつづけられるのであります。行持道環であります。道元さまはこのことを次のように詠じておられます。

 峰の色 渓のひびきも

みなながら

我釈迦牟尼の声と姿と 

 

それはキリスト者の場合と同じです。すでにイエス・キリストと出会い、聖霊を受けて者はキリスト者です。キリスト者の体は聖霊の神殿となっています。しかし、悪の誘惑から完全に開放されているわけではありません。日々聖霊の導きを受けて浄められ新たにされより聖なる者となるべき存在です。使徒パウロが言っているように、キリスト者は肉の業を避け、礼の導きに従って歩むべきものです。ガラテヤ書は教えています。

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しまししょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。(ガラテヤ516-26)

 

 

2020年8月15日 (土)

自己証明について

悪についてのささやかな考察 その四 に替えて「自己証明について」という随想を掲載します。

 

自己証明について―――被昇天祭に想う(悪についてのささやかな考察、その四に替えて)

 

今日2020年8月15日はカトリック教会では聖母マリアの被昇天の祭日です。教皇ピオ十二世は、聖母の被昇天をすべての信者が信ずべき教義であると宣言しました。マリアは無原罪に宿った方であり、その身体は死後腐敗する事なく天に挙がられた、と教えています。

さて、このところ偉大な日本の哲学者、西田幾多郎の思想に悪戦苦闘しています。難しいです。とても西田の著書を解読するには至りません。いまぼんやりと思うことを以下に記してみます。

西田幾多郎は1945年、終戦の8月15日を前にして6月7日に亡くなっています。75歳でした。明治・大正・昭和の激動の時代を生きました。八人の子供に恵まれましたがそのうち五人に先立たれていますし、最初の妻にも五年間の病床を経て先立たれています。家族についてだけでも、悲しみの体験の多い日々を過ごしています。

昔、司祭になるための勉強で、哲学を学びましたが、今思い出すのは、次の命題です。

「哲学の初めは驚きである。」

驚きはadmiratio という言葉でした。むしろ感嘆というべきかもしれません。この世界には驚くべき素晴らしいことで満ちている、という内容ではなかったかと思います。しかし、西田にとって哲学の動機は悲哀という事でした。人生の途上で遭遇する数々の哀しい出来事が彼をして人生の意味への思索へと駆り立てたのでした。彼は座禅をする人であり、また浄土真宗に深く帰依する人でしたが、あくまでも哲学者として、人生の困難な問題に取り組みました。彼の哲学論文はその悪戦苦闘の記録であります。もちろん宗教を信じる者にとって信仰は人生の苦難を克服するための慰めであり支えであります。そこに自分を託しさえすれば、思索によって苦闘する必要はないでしょうに、彼は人間として極限までこの問題、人生の真実を見つめ理論化しようと努めたようであります。

 

さて、『善の研究』で西田は、「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

人は自分を直接見ることが出来ません。鏡に映して自分の顔を見ます。鏡に映る自分はその時の自分の姿です。しかし、左右が反対になっていたりして、歪んで写ったりして、完全にそのままの自分を正確に映しているわけではありません。

そもそも自分とは何でしょうか。生まれたばかりの幼児には自分と他の人間との区別はありません。母と一体の存在です。次第に自分と自分の外との関係を知るようになりママス。自分を母との関係を知り、家族、そして、外界との関係を漠然と知るようになります。人は自分と自分以外の人とのかかわりの中で自分を位置づけしています。

仮にここに一人の男性がいるとします。彼が結婚していれば、妻に対して「夫」という立場になります。彼のことを妻は何と呼ぶでしょうか。もし子どもができれば、いつの間には妻は夫を「お父さん」と呼ぶようになります。夫が自分の父ではないことは十分に承知しているのですが、それでも自分の立場を子どもに置き替えて「お父さん」と呼ぶ場合が多いのです。もちろん夫は自分の子供に向かっては自分を、「お父さん」と呼びようになることが多いです。それは子どもにとって自分が何であるかを無意識にでも考慮しての言い方でしょう。

もし彼が教師をしているとすれば、彼は教室では自分のことを「先生は、昨日は都合によって授業を休みました。」というかもしれません。

もし彼が会社員であれば、上司に向かって自分のことを「わたしは」というでしょうか。そうかもしれないが、そういわないで、主語を書略して、直接相手の肩書を呼ぶことが多いと思います。「わたし・岡田は」ということも出来ますし、相手の上司に向かっては、その人の肩書をつけて呼び掛け、例えば「田中課長」とか「渡邊社長」とかという事ができます。日本語では、相手がだれであって何時も不変の独立した「わたくし」という言い方は通常していないのです。しばしば主語は省略されますので、人は前後の文脈から、主語が誰であるのか、を察しなければならないのです。誰が誰に何故何を言うのか、というような論理的な話し方は敬遠されます。角が立って聞き難いのです。

 

人は自分を直接見ることが出来ない。直接知ることが出来ない。他者に映った自分を通して自分を知るのです。家庭で子どもが見る父の姿と、社員が会社で見る、社長である父親の姿はかなり異なった物でありましょう。

人は他者を何時も、その立場から、肩書のある人として見ているのです。人を紹介する時も、某大学文学部哲学科准教授、という肩書で紹介すると、何となく、その人のイメージが浮かんできます。人はすでの、その肩書への理解を持っていて、その理解の枠の中でその人を理解するようにするのです。

 

人は同じ人でもその役割・立場の違いにより、いろいろな顔を持っているという事が分かったとして、それでも、いつでも、どんな場合でも変わらない自分とは何でしょうか。そもそも人はその身体からして刻々新陳代謝して変化しつつある存在ではないでしょうか。それは昨日の自分と今日の自分とは同じ自分であるのか。同じであるが違う、違うが同じ、という事になるのでないか。

例えば人は他者と契約します。買い物がそうです。何々を幾らで売り買うという約束をするとして、日にちが経ってしまうと、その約束はそのまま有効でしょうか。普通は有効期間を定めています。もし違う人間となるのでしたら何も約束出来ないことになります。人の状態は日々変わることを互いに諒解しながら、特段のことについては、期間を区切って、有効な契約として、信頼をもって実行することを互いに前提としているのです。

 

人は自分が変わらない自分であるという自己証明をどうするのか。最近、証明するための書類(ないしそのコピー)の提出を求められることが増えました。マイナンバー、運転免許証、パスポート、健康保険証などをもって、自分は東京文京区に居住する岡田武夫という住民であることを証明しなければならないのです。住民であることはそのようにして証明できますが、人は、住所、所属、肩書などを離れて存在する自分をどう証明するのでしょうか。

 

人は自分で自分を証明できないのです。電話をかけて、「あの、わたしですが何々さんいますか。」と訊ねても、電話で応対する人が電話してきた人を知らなければ、「どちら様ですか。」と誰何することになります。自分は自分であることを知っていて、それ以上当然のことはないのですが、それは相手には通じないのです。自分は岡田武夫という国民であることは国家に証明したもらうほかありません。

日本国籍を持つ者は一億二千万人はいるでしょう。自分はその中の一人に過ぎないのです。唯一無二の自分であることをどう自覚できるでしょうか。理論的に言って、自分という人間は、かつてなかったしこれからも現れないはずの存在です。唯一無二の自分を唯一無二としてくれるのは何か。自分で自分を証明しても、その証明している自分を誰が証明するのか。

例えば、岡田武夫-1という人がいます。その同じ岡田が岡田-2を証明します。するとその岡田を証明した岡田―2は誰が証明するのか。そこで岡田―3が必要になります。するとその岡田―3を証明する岡田―4が必要になります。かくて無限に自己証明の連鎖が遡ることになるのです。かくして、同じ岡田が同じ岡田を証明できないということになります。ではどうしたらよいのでしょうか。

結局、人を証明するのは人を超越した存在である超越者(例えば神)でなければならないでしょう。キリスト教の場合は、イエス・キリストという存在が、父である神へ取り次いでくださる仲介者であると考えられています。先日、聖クララの手紙を読みましたが、聖クララは主イエスをわたしたちの聖なる鏡と呼んでいます。

西田幾多郎はこの問題をどう解決したのでしょうか。彼は、真の自分を映す鏡を想定いします。その鏡を「場所」と呼んでいます。ではこの場所とは何か。場所とは、自分を空しくして映し出す場所です。その「場所」の理解は難解です。あらためて次の機会に考察してみましょう。

 

さて自己同一の証明です。同じ自己でありながら自己の中には、対立と葛藤があります。人は自分が秩序正しく統一された存在ではないと感じます。第一に病気ということがあります。病気は身体の秩序に乱れです。心の問題があります。人の心は、憎しみ、恨み、妬み、不安、乱れた欲情で揺れ動いています。人はしばしば平和に収まることから遠ざけられているのです。同じ自己でありながら自己の中に矛盾があり、調和がない。西田の有名な「絶対自己矛盾的自己同一」という難しい用語はこの人間の矛盾をも含む状態を指しているのでしょうか。

2020年8月 9日 (日)

西田幾多郎の『善の研究』について

悪について考えるからには有名な西田幾多郎の『善の研究』を取り上げざるを得ない。ああ、難しい!良くは分からない。さらに続編の勉強しなければならない。今やらないと一生しないだろうから今日明日と頑張ります。以下、悪について・・・その三です。

『善の研究』について

ダウンロード - e682aae381abe381a4e38184e381a6e381aee38195e38195e38284e3818be381aae88083e5af9fe38080e3819de381aee4b889e38080e8a5bfe794b0e5b9bee5a49ae9838ee381aee3808ee7b79ae381aee7a094e7a9b6e3808fe381abe381a4e38184e381a6.docx

 

 

 

 

 

2020年8月 8日 (土)

悪についてのささやかな考察 その二

創世記1・31 極めて良かった についてのささやかな考察(独り言)に続き、中高でならった東洋の思想、性善説と性悪説をあらためて勉強してみましょう。以下のファイルを参照ください。

 

ダウンロード - e682aae381abe381a4e38184e381a6e381aee38195e38195e38284e3818be381aae88083e5af9fe3819de381aee4ba8ce680a7e59684e8aaace381a8e680a7e682aae8aaace381abe381a4e38184e381a6.docx

 

2020年8月 7日 (金)

主の変容

主の変容 ミサ説教

202086()、本郷教会

86日は毎年「主の変容」の祝日となっています。

主の変容という出来事が受難の四十日前に起こったという伝承に基づいて定められた日であると言われています。

イエスは三人の弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ、十二使徒ではなく三人だけを連れて高い山、タボル山といわれている山に登られて弟子たちの見ている中で非常に光輝く姿に変わられた。姿が非常に栄光に満ちた様子に変わられたと告げています。

その出来事に出会ってペトロは気が動転してしまったのでしょうか、何か訳の分からないことを言っています。

「わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。」

その時、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者、これに聞け」という声が聞こえてきた。

似たような出来事は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時も天から声がして、同じように「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ317、マルコ111、ルカ322)と言われたと出ています。

この出来事は、何を意味しているのでしょうか。

普通、次のように解釈されている。

受難を目前としていたイエスは、弟子たちがつまずいてしまうことを心配して、あらかじめ事が起こる前にこの例外的な特別な出来事を目撃させて、彼らの信仰を強くしたのではないかと言われています。

そうしたにも関わらず、ペトロもヤコブもヨハネもイエスの十字架の出来事に際しては、この事を思い出したのでしょうか、恐怖に襲われて為すすべもなく非常にだらしない状態になってしまったわけであります。

今日の叙唱を見ると出ていますが、こうしてキリストのからだである教会の十字架の道によって栄光に至ることが示されました。

わたしたちの教会の主イエス・キリストに倣って十字架の道を歩むことによって、栄光に入ることができるということを予め示してくださったという意味であると思われます。

わたしたちの宗教というのは、ナザレのイエスという人をキリストであり、救い主であると信じる宗教であります。

彼は通常まったく普通の人間としての風貌や生活、様子を示していて特別なことはなかったわけですが、例外的に今日のような変容というできごと、あるは目覚ましいしるし、奇跡などをおこなって、自分が誰であるかということを人びとに示されたのでありました。

そのキリストによって造られた教会が、この世の中でキリストの存在と働きを出来得る限り現わし、そして行っていかなければならないのであります。

二千年の歩みの中で、さまざまな出来事があり、困難に出会い、あるいは人々のつまずきになるようなこともありました。

今わたくしたちの教会はどんな状態にあるのか。

日本のカトリック教会、世界のカトリック教会、カトリック教会といわずキリストの弟子たちはどういう状態にあるのか。

たまたま信者と限らず世界中の人はコロナウイルスという問題に悩まされています。

そういう中で、イエス・キリストの本来の姿、神の御ひとり子であり、神と等しい方であるということを現された変容の出来事を、弟子たちはいつも思い起こし、自分たちの働きを通して時々は復活の栄光を人びとに垣間見させることができているだろうか。

教会はキリストの復活の証人であります。

復活という出来事が毎日起こったら、人びとは忙しくて普通の生活をすることが出来なくなるでしょうが、時々人間の弱さの中にそれを超える、遥かに超えていく永遠の世界、復活の世界、朽ちることのない復活の体を受けるという信仰と希望を示すことができるような、そういう働きが教会のわたくしたちの間にあって然るべきだし、実際によく見えていないけれどもおこなわれているのではないかと思います。

今日、非公式のミサを献げることになって、自分は最後にいつミサを挙げたのだろうかと、ミサを挙げることが当たり前だと思って四十何年過ごしてきたけど、ミサも挙げない、挙げられない、そういう自分というものに大変力を落としていたんですけれども、不思議なんですね、慣れればそういうものだと思って、今日もミサ挙げなくていいんだというようになってしまう。それが良い事か悪い事か分かりませんが。

今日はミサというのは一人で挙げるものではありませんので、皆さんのおかげでささやかな非公開の個人ミサ、ミサ・プリヴァータを献げることができています。

最後にミサを献げたのは、もう思い出せないくらい昔のような気がするが、調べてみると75日だったんですね。ほぼ一か月前。

ちょうど都知事の選挙の日で、あの日一生懸命ミサを挙げたあと、香部屋で一休みしてから

本郷通りを横切って、昭和小学校の投票所に行って投票して来て、ああ今日司祭として都民としてやることを一応やることができたという思いを持ったことが思い出されますが、まだ一か月前。でも何年も昔のような気がしているのはどういう訳でしょうか。

ちなみに直接関係ないんですけど、今日韓国のある司教様が亡くなったという知らせを受け取りました。

日本の教会と韓国の教会は、近いけれども遠い関係にある両国の在り方を少しでも良くしようということで、日韓司教交流会ということを始めたわけです。

それは濱尾司教様が司教協議会の会長であった時のことですが、マニラでアジア司教協議会連盟の集会があった時に、浜尾司教と韓国の司教協議会の会長イ・ムンヒという方でしたが、会って話し合って、それぞれの国の有志の司教が参加してともかく顔合わせをして、知り合いになろうということになったんです。

それで毎年開かれて、結果的にほぼ全員が参加する行事になりました。

その時に向こうで最初からずっと参加してこの集いを支え進めてくださった司教のチャン・イックという方がいたんですけれど、チュンチョンという教区、春の川と書くんですね、「春の小川」の春の川、ソウルの北側にある教区なんですが、そこの教区の司教チャン・イック司教さんが毎回参加していまして、その司教様が亡くなったとのことで寂しく思いますが、教会が現実の中でイエス・キリストの復活を証しすることができるようにささやかな努力を続けていきたいと思います。

 

第一朗読  ペトロの手紙 二 1:16-19
(愛する皆さん、)わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。福音朗読  マタイによる福音書 
17:1-9
(そのとき、)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 

 

 

2020年8月 2日 (日)

年間第18主日A年の聖書朗読、福音朗読を読んで

18主日の朗読の感想を以下に添付します。

ダウンロード - ae5b9b4e99693e7acac18e4b8bbe697a5.docx

 

 

2020年7月31日 (金)

黙想会講話:心の大掃除(糾明)

昨年12月の待降節黙想会の講話が文字となって届けられました。本郷教会の信徒のためですが、ご参考に、添付します。

ダウンロード - efbc92efbc90efbc91efbc99e5b9b4e5be85e9998de7af80e9bb99e683b3e4bc9a.docx

 

2020年7月28日 (火)

神が造った世界に何故悪が存在するのか?悪についての小さな考察、その1

全能で善である神の造った世界に何故悪が存在するのか?悪の問題についてのささやかな考察の1

 

ダウンロード - bloge58e9fe7a8bf.efbc91.docx

 

 

 

 

 

2020年7月21日 (火)

天の父のみ心

721日 年間第16火曜日

 

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

確かにそうなのだが、問題は、何が天の父のみ心であるのか、ということである。神の名において正義を主張し,抗争してきた歴史がわが教会の歩みの中にみられないか。異端審問、十字軍などはその汚点ではないか。

 

第一朗読  ミカ書 7:14-1518-20

(主よ、)あなたの杖をもって 御自分の民を牧してください あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に ただひとり守られて住み 遠い昔のように、バシャンとギレアドで草をはむことができるように。お前がエジプトの地を出たときのように彼らに驚くべき業をわたしは示す。

あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことを アブラハムに慈しみを示してください その昔、我らの父祖にお誓いになったように。

福音朗読  マタイによる福音書 12:46-50

イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 

 

 

2020年7月20日 (月)

イエスの示したしるし

7月20日 年間第16月曜日

 ミカ書。「人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。」

神がイスラエルの民に求めていること、それは上記のように、「正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと。」

ナザレのイエスはこの言葉を地上に生活において実行した。数々のしるし、癒し、悪霊の追放もその実行の実例であった。しかしユダヤの指導者たちはイエスを受け入れない。それどころが、彼を悪魔付き扱いにさえしてしまう。

ヨナ書では、ヨナが三日間大きな魚の中に飲み込まれていたとある。これは三日目に復活したイエスの前表であろう。ヨナの説教を聞いて異邦人のニネベの人は悔い改めた。

ソロモン王に時、南の女王が遠路わざわざソロモンを訪ねてきてソロモンの知恵を確かめた。知恵は裁きのために知恵。その女王も裁きの時に彼らを罪に定めるだろう。

これは、イエスのしるしを見ても律法学者、ファリサイ派はイエスを信じなかった。彼らはニネベの人々や御の女王にも劣る不信仰者だ、という意味だろうか。

閑話休題、ともかく、神の慈しみを実行したイエスを「神からの人」であると認めない律法学者・ファリサイ派への非難の言葉であろう。

 

第一朗読  ミカ書 6:1-4、6-8

聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ。聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発しイスラエルと争われる。「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ。わたしはお前をエジプトの国から導き上り奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムをお前の前に遣わした。

何をもって、わたしは主の御前に出で いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を 自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。

 

福音朗読  マタイによる福音書 12:38-42

(そのとき、)何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 

2020年7月19日 (日)

悪の問題

毒麦の譬え。

神が造った善なる世界に何故悪が蔓延っているのか。この問題に聖書とキリスト教はどうこたえているのか。年間第16主日の福音はその回答の一つ、あるいは示唆ではないか、という事を言おうとしたのですが、伝わらなかったでしょうか。これが意味のない戯言でしょうか。決してそうは思わない。最も重要な問いかけです。

 

 

 

2020年7月18日 (土)

神の造ったこの世界に何故悪が存在するのか:毒麦の譬え

2020年7月19日 年間第16主日

 

今日の福音朗読は毒麦の譬えのである。

神が造ったこの世界に何故悪が存在するのか、という、有名か「神義論」の問題がある。

この譬えはこの問題への一つの回答と言えるだろう。

悪という毒麦は何処から入ったのか。それは「敵の仕業だ」という。敵とは誰か。毒麦を蒔いた敵は悪魔である。悪魔の所為だ。その悪魔は何所から来たのか。福音書には悪魔、悪霊、汚れた霊などの言い方で悪魔は頻繁に登場する。イエスのしたことで目立つのは悪霊の追放である。(悪魔の起源については明解な説明は得られていない。バビロン捕囚後に時代にペルシアの信仰が入ってきた、という説がある。)

それでは何故毒麦という悪を引き抜いて退治しないのか。それは、一緒に良い麦も引き抜いてしまうかもしれないからである。毒麦と麦は見ただけでは区別が難しい。それにお互いの根も絡み合っている。これはまさにわれわれ人間の実態を表わしている。人間の悪と善は表裏一体、全を日繰り返せば悪となる。善と悪は峻別できない。悪だけ除こうとすると善も一緒に除かれてしまうお恐れがある。病気の治療と似ている。病気を引き起こしている腫瘍を除去すると健康な組織も損傷を受ける。所謂副作用である。悪いところだけ取り出し、他の部分には損害を及ぼさないようにはする治療はできないという現実がある。

それは人間の心の現実でもある。人の心には善と悪が宿っている。同じ人の心に善と悪が住んである。悪だけ取り除こうとするとその人の心自体を壊してしまうことになりかねない。この不思議をどうしたらよいだろうか。毒麦の譬えはわたしたち自身の心の問題でもある。心の弱さ、限界の問題でもある。

主人の判断と結論は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」出る。現在の世界は、両方とも育っている状況にある。しかし、いつか終わりが来る。それは刈り入れの時である。この世の終わり、終末、天の国、神の国の完成の時でル。その時には悪は完全に除去される。終末を待つしか解決はないのだろうか。

 ーーー

 第一朗読  知恵の書 12:13、16-19

(主よ、)すべてに心を配る神はあなた以外におられない。だから、不正な裁きはしなかったと、証言なさる必要はない。

あなたの力は正義の源、あなたは万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方となられる。あなたの全き権能を信じない者にあなたは御力を示され、知りつつ挑む者の高慢をとがめられる。力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる。力を用いるのはいつでもお望みのまま。神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:26-27

(皆さん、”霊”は)弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

 福音朗読  マタイによる福音書 13:24-43

(そのとき、)イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

《イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」》

2020年7月17日 (金)

イエスを殺そうとした動機

2020年7月18日、年間第15土曜日の福音から

「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」

どうしてファリサイ派の人々はイエスを殺そうと相談したのか。

この直前の箇所を引用しよう。

 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。(マタイ12・9-13)

 そこでわかるが、それは、イエスが安息日に片手の萎えた人を癒したからであった。この事件が、ファリサイ派足しがイエスの存在を抹殺するように動く動機になっている。どうしてこれがイエスの抹殺の動機になるのか。実に分かりにくい動機である。それほど彼らにとってイエスの言葉と行動は冒涜的であり涜聖の罪に当たると考えたのであろう。

 以下、本日の福音に続く。

ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。 異邦人は彼の名に望みをかける。」

――

イザヤ書の主の僕の歌よりの引用。

彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。

曽野綾子の小説に『傷ついて葦』というのがあったと思う。最新の優しさをもって傷ついた人、苦しむ人、病む人、悩む人に接するイエスの在り方を彷彿とさせる。

安息日に麦の穂を摘んで食べること

7月17日 年間第15金曜日

 

麦の穂を摘んで食べる、という行為はあまり褒めたものではないだろう。時代と場所が違うから何とも言えないが、自分の経験では、普通そういうことはしない。公序良俗に反すると思う。他方、麦の穂を摘んで食べる弟子たちを見て、目くじらを立てて、安息日の掟破りだというのもいかがなものか。

イエスは弟子をかばって言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

ダビデとその一行、神殿に仕える祭司は安息日の規則に拘束されない。自分は彼らよりの偉大な者である、と言っているように聞こえる。

イエスとファリサイ人、律法学者との対立は、安息日論争に起因している部分が大きいように思われる。麦の穂のことなどどうでもよいではないかと思うが律法の専門家には揺るがせにできない重大事であった。何か別世界での出来事のようだ。結論は、「人の子は安息日の主である。」

 

 

第一朗読  イザヤ書 38:1-6、21-22、7-8

そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て、「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』」と言った。ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた。

主の言葉がイザヤに臨んだ。「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」

イザヤが、「干しいちじくを持って来るように」と言うので、人々がそれを患部につけると王は回復した。ヒゼキヤは言った。「わたしが主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか。」

ここに主によって与えられるしるしがあります。それによって、主は約束なさったことを実現されることが分かります。「見よ、私は日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を十度後戻りさせる。」太陽は、影の落ちた日時計の中で十度戻った。

 

福音朗読  マタイによる福音書 12:1-8

そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

 

2020年7月16日 (木)

自分の十字架とは何か?

2020年7月16日、年間第15木曜日

 福音朗読  マタイによる福音書 11:28-30

(そのとき、イエスは言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 ―――

今日もこのみ言葉に出会う。

今のわたしにとってどう意味があるのだろうか。思いは乱れる。

イエスは次のようにも言っている。

「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10・38,39)

自分の十字架とは何だろ。喜んで自分の十字架を担いイエスに従う者でありたい。

 

第一朗読  イザヤ書 26:7-9、12、16-19

神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは わたしたちの魂の願いです。わたしの魂は夜あなたを捜し わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。あなたの裁きが地に行われるとき 世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。

主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を 成し遂げてくださるのはあなたです。

主よ、苦難に襲われると 人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと 彼らはまじないを唱えます。妊婦に出産のときが近づくともだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前でこのようでした。わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず 地上に住む者を産み出すこともできませんでした。あなたの死者が命を得 わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。

 

2020年7月15日 (水)

幼子はイエスを信じ受け容れた

7月15日 聖ボナベントゥラ司教教会博士

 

福音朗読  マタイによる福音書 11:25-27

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

―――

「これらのこと」とは何を指しているのか、わからない。

知恵あるもの、賢い者とはだれを指しているのか。さしあたり律法の専門家、モーセの教えを詳しく勉強している者、ファリサイなどのことだろうか。

幼子はイエスの言葉を素直に単純にそのまま受け入れた。しかし、既にいろいろな知識と体験を持つ者はかえってそれが災いして、考えすぎて、信じるに難しくなっていた。「預言者は故郷では容れられない。」イエスの人間性に躓くということもあったかもしれない。

それでは、この自分の場合はどうだろうか。

 

第一朗読  イザヤ書 10:5-7、13-16

(主は言われる。)災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。神を無視する国に向かってわたしは、それを遣わしわたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ野の土のように彼を踏みにじれ」と。しかし、彼はそのように策を立てず その心はそのように計らおうとしなかった。その心にあるのはむしろ滅ぼし尽くすこと 多くの国を断ち尽くすこと。

なぜならアッシリアの王は言った。「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った。わたしは諸民族の境を取り払い 彼らの蓄えた物を略奪し 力ある者と共に住民たちを引きずり落とした。わたしの手は、鳥の巣を奪うように諸民族の富に伸びた。置き去られた卵をかき集めるように わたしは全世界をかき集めた。そのとき、翼を動かす者はなく くちばしを開いて鳴く者もなかった。」

斧がそれを振るう者に対して自分を誇り のこぎりがそれを使う者に向かって高ぶることができるだろうか。それは、鞭が自分を振り上げる者を動かし 杖が木でない者を持ち上げようとするに等しい。それゆえ、万軍の主なる神は、太った者の中に衰弱を送り主の栄光の下に炎を燃え上がらせ火のように燃えさせられる。

 

2020年7月14日 (火)

悔い改め

2020年7月14日、年間第15主日の福音朗読より

 

カファルナウムはイエスの主要な宣教活動の場所ではなかったか。イエスは数々のしるし、不思議、癒しをおこなったが人々はイエスを受け入れなかった。

ソドムはゴモラと並んで悪名高い悪徳の町。(創世記18章20節~19章29節にソドムが滅ぼされた話が出てくる。)

さて、現代のわたしたちの場合はどうだろうか。奇跡が行われているのにそれにそれにさえ気が付かないのかもしれない。悔い改めなければならないのにその必要さえ認めていないのかもしれない。現代世界で最も悔い改めるべきことはなんであるのか。

 

  マタイによる福音書 11:20-24
(そのとき、)イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、
天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

 

«イエスのために命を失うとは?