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2017年7月15日 (土)

私にとっての《神》 その1

2017年7月8日(土) 太田教会 テーマ「神―わたしにとって神とは?」

 「神―わたしにとって神とは?」というテーマをいただきましたが、何を話したらよいか、かなり困っております。皆さんの学び合いの材料、或いは何かの足しになればよいかなと思います。 わたしたちは神を知っていますが、この神はキリスト教の神。イエス・キリストが教えてくださった神であります。イエス・キリストの教えてくださった神は、すでにイスラエルの人々が信じていた神、同じ神様です。同じ神様ですけれども、そこに信仰の発展がある。そして、イエスが地上を去るときに、わたしたち教会がつくられ、残されました。神を信じる民として、世界中に宣教しているわけであります。 神様というのはどういう方か、人間にはわからない、よくはわからないわけです。わかれば、わたしたちも神様になってしまします。神様がわからない。わからないから、あちら側からわたしたちにご自分をお示しになる。こうだよ、ああだよと。それが長い歴史の中で少しずつ、小出しにというか、教えてくださっている。一度に教えても、とてもわからないだろう、受け入れられないだろう、ということで、何回も色んな機会に、色んな人を通してお話になったのだと思います。 わたしたちの神は信仰の神、信じている神、なんですけれども、その前に頭で考える神様という場合があります。それは哲学者とかいう人は頭で考えて、神様とはこうだ、ああだと考えた神です。しかし、聖書の神は頭で考えた神ではなくて、神様のほうから人間に語りかけて、御自身を示してくださった。そういう神様ですね。  それで、「神」という言葉ですが、キリシタンの時代、翻訳に困ってしまったんです。よく日本語がわからないうちに、どういう日本語で説明したらよいか、きっと悩んだのでしょ。色々やってみたようですが、良い言葉が見つからなかったので、デウスという言葉にしたらしいんです。デウスはラテン語の神ですが、他にもどういう日本語にしたらよいかわからないというので、そのままラテン語の発音を日本人が言いやすいような発音にしたというか、自然にそうなってきたんでしょうか。 当時は「神父」という言葉もなかった。「パードレ」と言いました。「神父」とか、あるいは現代で我々が使っている用語は、明治時代になって、宣教が再開された時に導入された言葉で、多分中国から来たんじゃないかと思われます。前のほうがよかったかもしれないですね。色々な言葉がほぼ原文というか、当時の宣教者が自分の国の言葉、あるいはラテン語の言葉を、そのまま日本人に言いやすいようにしたのであります。  神という言葉も、第二ヴァチカン公会議以前、日本では、わたしたちも以前、「天主」と言っていたわけで、昔の痛悔の祈り、“ああ天主、われ、主の限りなくきらい給う罪をもつて”というように祈っていました。・・・ともかく神ではなく、「天主」であった。 日本では神というと、天神様の神、八百万の神といいますが、誰でも神様になりえます。特別な力を持った人、そして亡くなった人が生きているわたしたちの上に及ぼす、良い力、悪い力、そういうものを持っている存在が神なのでしょうか。 菅原道真が天神様になったでしょうけれども、政敵の藤原氏に貶められて、讒言されて、左遷されて、裏切りの中で亡くなった。その怨みが残っているので、色んな災害が起こるから、どうぞ怨みを捨ててください、お鎮まりください、といって神社を建てて、宥めるという考えだった。 色んな神様がいて、神社に行って、この神社はどういう神様が祀っているかなと思うけれども、ほとんど関心がない。でも一応聞いてみると、なんとかの命とかになっているのですけれども、わたしたちはそれくらいの神理解なのです。それなのに、なぜキリスト教の神を神と訳したのか。もう今更どうにもしょうがないのすけれども。 「神」という言葉が、わたしたちの神理解に誤解を与えているのかもしれないのです。「神、こんなに誤解された言葉はない」と言う人もいます。でも、どう誤解してるか、わたしたちにはわからないんですね。  

2017年5月 2日 (火)

4月29日司祭叙階式説教、大宮教会

受階者:ペトロ 髙瀬 典之
第一朗読 出エジプト記3:1-12
福音朗読 ヨハネ15:9-17

これから司祭に叙階される髙瀬典之さん。そして叙階式に参加している全ての皆さん。この大変喜ばしい、大切な叙階式にあたり、ご一緒に司祭の務めについて分かち合いをしたいと思います。

今日の第一朗読は出エジプト記。モーセの召命を語る箇所であります。神はホレブの山でモーセをお呼びになりました。「モーセ、モーセ」と、モーセをお呼びになったのであります。そしてモーセに使命を授けました。イスラエルの民の叫び、苦しみを神は心に留めて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放することを決意し、その解放する指導者としてモーセを選んだのであります。このエジプトから人々を解放して、新しい土地へ導くという仕事は本当に難しい仕事であると思われます。モーセの心の中に躊躇い、そして苦しみが生じたことは想像するに難くないと思います。主なる神はそのモーセに言われました。わたしは必ずあなたと共にいる。いつも一緒にいるから、あなたを教え導くから大丈夫、やりなさい、そういう神の声があったのであります。
召命とは、神がわたしたちをお呼びになり、そしてその呼びかけにわたくしたちが応えるということであります。
今日の福音として選ばれた箇所は、ヨハネの福音の15章であります。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
わたしたちは神の呼びかけに応えた者ですが、さらに神様の呼びかけがあった。神様が選んで、わたしたちに声をかけてくださった。イエスの時代になると、イエスを通して、神は人々を呼び出しになり、そしてイエスの最初の弟子たちが十二使徒たちであります。わたしが選んだ。そしてわたしがあなたがたを遣わす。そして、
「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
と言われました。
今、司祭に叙階される髙瀬さんも、神の呼びかけに応える者でありますが、同時に主イエスから選ばれ、呼び出されたのであります。人間というのは何か問題にぶつかったり、困難に出会う時に、自分はなぜ此処にいるのか、何のために此処にいるのか、ということを思い起こすことがある。自分の出発点をもう一度確かめなければならないと感じることがある。神から呼びかけを受け、そしてそのために必要な力を、恵みを、光を、支えを、導きを、いただいた者がわたしたちであり、特に司祭であります。
さて、叙階される司祭は司祭団という団体に加入し、そして司教の協力者となります。
今日の叙階式の式文で、度々言われておりますが、司祭というのは司教の協力者であります。司教は司祭の存在、そして協力によって司教の任務を果たすことができるのであります。この司祭と司教との親密な交わりということが、非常に大切であります。自分の司教がどんな人であるかは、選ぶことができない。しかし、それぞれの役割を同じイエズス様からいただいておりますので、司教の話はよく聞いて、わたしの後継者の司教の話もよく聞いていただく。そればかりではないですね。自分の希望、自分の問題、自分の本当の思いというものを率直に司教に話していただきたいと思います。
そして、今日の福音朗読で言われておりますが、互いに愛し合うこと。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」という主イエスの言葉を、司祭の交わりの中で具体的な姿をとって、実現するように努めましょう。あなたの先輩の司祭、年長の司祭、色々な方がおります。あなたも色々な方の一人になろうとしてるわけですけれども。互いに赦し合い、助け合い、そして人々がわたしたちの様子を見て、僕も司祭になりたいなと思ってくれるようでありたいです。素晴らしいからそういう風になりたいなと思う場合もありますが、ああじゃいけないので自分がなろうという場合もあると思います。
第三点。司祭と信徒の繋がりについてであります。司祭は信徒のために、司祭になります。司祭は信徒の声によく耳を傾け、信徒の要望に応えるように努めなければなりません。そして、信徒の皆さんが自由に、自発的に教会の宣教・司牧活動を行い、あるいは協力するように励まし、導かなければならない。司祭は一方的に指示し、命令するものではありません。
さて、来る5月7日は世界召命祈願の日であります。全ての人が自分の召命を知り召命に生きるよう、励まさなければなりません。もちろん司祭、奉献生活者への召命を呼びかけ、励ますことは大切でありますが、全ての人、全ての信徒は福音宣教者となるという召命をうけております。それぞれの方が自分の場所で、自分の立場で、主イエスの御心に従い、信仰を証しし、福音をのべ伝えることができるように教え、導き、励ますことこそ、特に司祭の役割であると思います。さいたま教区は宣教・福音化年を掲げて、そして祈りとともに、皆さんの協力をお願いしております。聖霊があなたを守り導いてくださいますように。アーメン。

2017年1月24日 (火)

ご挨拶

寒さが厳しい毎日を過ごしています。 皆様お元気にお過ごしの事とおよろこび申し上げます。 すっかりご無沙汰をしておりますことをどうかおゆるしください。

今日は、ふと昔学んだ漢文を思い出しました。
日日新たに 荀日新、日日新、又日新。
(荀に日に新たに、日々に新たに、又た日に新たなり)  これは中国の古典「大学」の一節で、「きょうの行ないはきのうよりも新しくよくなり、明日の行ないはきょうよりも新しくよくなるように修養に心がけねばならない」ということを意味しています(諸橋轍次「中国古典名言事典」)
今日というこの日は、今までにない何かの新しさを持っているのであり、今年という年は今までにない何かの新しさを持っているのです。わたしたちは日々何かの新しさを体験することができるのです。 よく考えてみれば、「新しい」ということは実に不思議なことです。
新しさは、今までに存在したことのない何かである。この新しさはどこから来るのでしょうか。  

聖書の教えによれば、神はたえず聖霊を送り地上を新たにしています。((詩篇04・30)  
 新しくなるということ、それは創造されるということであり、創造は神の霊の働きによります。神は全救済史を通じて日々地上のすべてのものを新たにされ、「新しい天と地」(黙示21・1他)を完成されます。わたしたち人間も日々新たにされ、古い人を脱ぎすて新しい人を着、キリストに似た者にかえられて行くのです(Ⅱコリント4・16・5・17他)。
3わたしたち生身の人間は、生活しているうちに活力が衰え、息切れして生き生きとした、創造的・建設的な活動ができないようになってしまいます。そこで、時の流れの節目に休息と回復の機会を設けなければならないのです。今自分は、それは神の気=聖霊によって、わたしたちのケガレ(気枯れ)を回復するときを迎えているように感じています。

わたしも文京区に住んで17年目を迎えました。思えば生涯のなかで、故郷を除けば一番長い居住地です。 「見よ、わたしは新しい天と新しい池を創造する。」(イザヤ65・17) この言葉を頼りに、身辺の整理をし、さらに自分の心境を整理し、心身の「断捨離」を実行しながら,残余の年月、「日々生まれ変わる新しい自分」として生きたいと願っています。

2017年1月20日                          岡田武夫

2016年12月18日 (日)

お告げの祈り

今日は待降節第4主日、毎年集会祈願は、お告げの祈りの祈願を同じです。「主よ、われら天使の告げを以て、御子キリストの御托身を知りたれば、願わくはその御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄に達するを得んため、われらの心に聖寵を注ぎ給え。

2016年1月 4日 (月)

世界平和の日・神の母マリア

(説教)
 皆さん、明けましておめでとうございます。
 本日は主のご降誕の日12月25日から八日目にあたり、神の母聖マリアの祭日となっています。本日の第二朗読で、  「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」  とありますように、イエスは律法のもとにあるユダヤ人として生まれ、八日目に割礼を受け、イエス(主は救う)と名付けられました。今日の福音はその次第を告げています。
 さて本日は同時に「世界平和の日」でもあります。  2015年は、胸の痛くなるような悲しく酷い出来事の続く年でした。シリヤなどの中東から多くの避難民が生まれました。今朝聞いたばかりですが、ドイツのメルケル首相はドイツ国民に向かって、100万人の避難民を受け入れる決意を告げて、理解と協力を求めています。教皇様も、困り果て苦しみの最中にいる難民・移住者の家族を受け入れるようと呼びかけました。
 今年の「世界平和の日」教皇メッセージは「無関心に打ち勝ち、平和を獲得する」です。様は傷つき苦しみ途方にくれている人々の心を向けるよう、わたしたちに教えわたしたちを励ましています。
 今年のメッセージの冒頭のことばは非常に印象的です。
 「神は、無関心ではありません。神は、人類を大切にしてくださいます。」  いきなりこのような言葉で始まっています。無関心であってはならない、と強く戒めています。 (ぜひ「世界平和の日」教皇メッセージをお読みになってください。なお本日の聖書と典礼にはその要約といえる適切な記事が出ています。参考にしてください。)
 実際、わたしたちは、自分のこと、自分の健康や生活のこと、自分たちの課題で心が覆われています。他の人のためにどのくらいの心の場所を用意しているでしょうか。自分の仕事にためには心を用います、しかし、ほかのこと、ほかの国で起こっている世界の現実は自分には関係ない、と思い、関わろうとはしません。自分の、自分たちの問題で心も頭の一杯です。わたしたちは、世界の悲惨な現実へ向かって、人類共通の課題へ向かって、貧しい人々の状況について、心を開かなければなりません。
 神はいつくしみ深い神です。聖書は、旧約聖書、新約聖書はすべて、神が人々の苦しみの叫びに応えている次第を告げています。 いつくしの神の目に見える顔が主イエス・キリストです。 いまわたしたちは《いつくしみの特別聖年》を過ごしています。神がいつくしみ深いようにわたしたちもいつくしみ深い者でなければなりません。神のいつくしみをさらに深く知るように祈りましょう。「無関心」から抜け出し、神のいつくしみを実行できるよう、祈りましょう。

主の公現

主の公現の説教
2016年1月3日、鴨川教会
第一朗読 イザヤ60・1-6
第二朗読 エフェソ3・2,3b、5-6
福音朗読 マタイ2・1-12 (本文)

「主の公現」とは主なる神が御子イエス・キリストを諸国の民に示された、という神のみわざを表すことばです。
 今日のマタイの福音は、占星術の学者がベツレヘムに来て幼子イエスを拝み、黄金,乳香、没薬を贈り物として献げた、と述べています。
 「占星術の学者」は博士とも賢人とも呼ばれています。原語は「マゴイ」で、ここからmagic(手品)という言葉で出てきたと言われています。  ふつう、「三博士」と言われていますが、それは、「黄金,乳香、没薬」の三つの贈り物から来てくる数字です。福音書には博士の人数は出ていません。 後に三人の名前も伝えられるようになりました。 三人は、伝説によれが、 メルキオール、バルタザール、カスパールと言い、メルキオールはメシアの王権を表す黄金を献げました。バルタザールは神性を表す乳香を、カスパールは埋葬を表す没薬を献げました。確かにヨハネの福音では、イエスの埋葬のために没薬と沈香が用意された、とあります。(ヨハネ19・39-40参照) ちなみに、東京教区が大変お世話になっているケルン教区の大聖堂にはこの「東方三博士(賢王)」の聖遺物が祀られています。 なお、3月4日には、ケルン教区のヴェルキ大司教(枢機卿)がこの聖遺物とともに、わたしたちの東京教区を訪問してくださいます。
さて、三博士は東方から来たのですが、さらに東にあるこの日本にもメシア=キリストの光が届きました。わたしたちは御子キリストの光を受けて、その輝きを人々に表し伝えるという使命を受けています。 今日の奉納祈願でわたしたちは祈ります。
 「いのちの源である神よ、教会の供えものを顧みてください。黄金、乳香、没薬ではなく、主イエス・キリストご自身をあらわすこの供えものによって、いのちの糧を受けることができますように。」
 わたしたちは黄金、乳香、没薬は持っていません。その代りに日々の生活すべてを、ミサにおいて、主イエスを表すパンと葡萄酒とともに父である神に献げるのです。
  先ほど皆さんは「教皇フランシスコ いつくしもの特別聖年のための祈り」を唱えました。その中で次にように祈ったのです。
 主イエス、・・・・
  あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。
何よりもゆるしといつくしみによって、自らの力を示される神のみ顔です。
  教会がこの世において、復活し栄光に満ちておられる主のみ顔となりますように。
 あなたは、ご自分に仕える者が弱さを身にまとい、 無知と過ちの闇の中を歩む人々を、 心から思いやることができるようお望みになりました。
 これらに仕える者に出会うすべての人が、 神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じるこことができますように。
 実はわたしたち自身が罪深くまた弱い人間です。だからこそこの世の中で「無知と過ちの闇の中を歩む人々を、 心から思いやることができる」はずなのです。「ご自分に仕える者」とは、わたしたち教会です。わたしたち一人ひとりのことです。わたしたちを通して神のいつくしみが現れ伝えられるのです。わたしたちと出会う人々が、自分は「神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じる」ようでありたいものです。
 主イエスに倣い、弱い人間、それて知らずに過ちに陥っている人々にお仕えすることによって、自分の献げものをささげるのです。 わたしたちによって、キリストの復活の光が現れ伝えられますように。罪人である弱い人間を通して主キリストのみ顔が示されますように。わたしたちが神のいつくしも目に見えるしるしとなることができますように、祈りましょう。

2015年9月 8日 (火)

エッファタ

  大司教着座15周年記念ミサ説教 2025年9月6日 年間第23主日、関口教会
 いま読まれた福音は、イエスが、耳が聞こえず口も聞けない人を癒された話です。このときイエスは「エッファタ」というアラマイ語の言葉を使っています。「これは『開け』という意味である」(マルコ7・34)とギリシャ語で説明しています。実際にイエスが話したアラマイ語でした。  しかし現代に伝わるマルコ福音はギリシャ語で書かれています。ただし「エッファタ」の例のように、何箇所かで、イエスが実際に口に上らせたアラマイ語が表記されています。
 イエスがこの言葉を発するとすぐに、この言葉が意味する結果が実現し、その人は癒されたのでした。このイエスの癒しの場面を目撃した人々の心にイエスのこの言葉の音声が深く印象付けられたに違いありません。(このような例は他にも「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)(マルコ5・41)や十字架上のイエスの言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15・34)という言葉が、アラマイ語だと思います。福音書はギリシャ語で書かれていますが、これらの部分にはアラマイ語の表記のまま残されたのでした。
 イエスの言葉には力がありました。その言葉は必ずその指し示す意味を実現します。  本日の第一朗読のイザヤ書はあらかじめこのイエスの癒しのみ業を、メシアの到来のしるしとして告げている、と福音書作者は理解したと考えられます。
 主日の福音はイエスの生涯、イエスの言葉、イエスの生き方を伝えています。
 人の話を聞き、人に話すということは人間が人間らしく生きるために欠かせない、基本的な、他の人との交わりの手段です。イエスはこの働きを奪われていた人に深く同情し、その働きを回復させ、人間らしく生きる道を整えたのでした。
 わたしたちキリストの弟子たちは、病気・障がいのために他者とのコムニケーションの手段を奪われている人が存在しています。また言語の違い、差別、排斥、除外の状態に置かれて、通常の交わりの手段を否定されている人々が存在しています。人々の間に心の交わりの手段を回復し、人々の間のコミュニケーションを発展させるということは、キリストの弟子たちの大切な務めです。
 きょうはさらに、言葉の大切さ、ということにあらためて思いを深めたいと思います。とくに次の二点に留意したいと思います。
1.自分の言葉に責任を持つ。言葉は、人を励まし、慰め、導くために言葉を使う。誠実の誠とは、言葉が成る、実現する、という意味ではないでしょうか。
2.言葉で人を傷つけたり欺いたりしないよう、厳に気を付ける。  どんな宗教も言葉の大切さを教えていると思います。*
 エフェソ書の教えを肝に銘じましょう。 「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。・・・ 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。)」 * 仏教の教え十善回の中の4つは言葉についてのお教えです。(不妄語、不綺語、不悪口、不両舌。)

2015年8月12日 (水)

ともに平和のために戦いましょう

聖公会・カトリック教会合同祈りの集い 2015年8月3日、川越教会にて
第一朗読 エゼキエル36・24-28
福音朗読 ヨハネ17・1a,20-26
(説教)
日本聖公会の皆さん、きょうはカトリック川越教会までようこそお越しくださいました。御礼申し上げます。
きょう読まれました福音、ヨハネの福音17章は、イエスが世を去る直ぐ前に弟子たちに残した「祈り」を伝えています。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17・21)
きょうわたしたちは、ここカトリック川越教会に集まって共に祈っています。それはこのイエスの祈りに応えるためです。「みなが一つになるように」というイエスの願いに少しでも適うようにと、共に祈り、共に力を合わせるためであります。 わたしたちが一つになるためには、同じイエス・キリストにおいて一つになるのでなければなりません。いやそうする以外にわたしたが一致する道はないと思います。
勿論わたしの間にはいろいろな違いがあります。一つになるということは、違いがないようになる、ということではありません。むしろその違いを認め互いに互いに相手を敬い、相手を大切にし、互いに助け合い、世の悪と一緒に戦うためである、と思います。
イエスはこの同じ祈りのなかで次にように祈っています。
「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」(ヨハネ17・14-15)
イエスは、わたしたちが悪から守られるように、と祈りました。わたしたちは日々主の祈りを唱え、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお守りください」と祈っています。わたしたち自身、このイエスの祈りに応えて悪との戦いを闘っていかなければなりません。
このわたしはこの闘いにか中に、差別との戦いが含まれていると思います。あらゆる差別をなくすように努めることがイエスの弟子たちの務めです。
また暴力という悪と闘うことはもっとも大切な努めであると思います。暴力のなかで特に大きな悪は戦争であります。 イエスは言われました。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)
この主イエスの言葉は世界の中で告げられ、すべての人によって平和を築くための励ましの言葉です。
日本のカトリックの司教たちは戦後70周年に当たり、メッセージ「平和を実現する人は幸い―いまこそ武力によらない平和を」を発表しています。(2015年2月25日) 第二次世界大戦の悲惨な体験から、二度と戦争を起こさないという堅い決心をし、わたしたちは戦争を放棄し、紛争解決のためには武力を行使しないという決意を全世界に向かって表明してこの70年を歩んできたのです。 戦争放棄という理想はキリストの福音そのものがすべての人に求めている、総ての人がめざし守るべき目標であります。
イザヤの預言で次のように言われています。 「彼らは剣を打ち直して鋤とし  槍を打ち直して鎌とする。  国は国に向かって剣を上げず  もはや戦うことを学ばない」(2・4)
戦争、軍備、武器のためにどんなにか多くの軍事費が使われていることでしょう。剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すということは、武装を解除し、武器を平和と幸福のために道具に添加するということです。これが人類の理想です。現実はこの理想から程遠いのですが、この理想に向かって歩んでいかなければなりません。
武器を放棄するということには心の武装解除が伴わなければなりません。心の武装解除とはわたしたちの間での信頼と友情を生み出し育てること、醸成するということであります。イエス・キリストの十字架は民族の間の隔ての壁を打ち壊しました。わたしたちは同じ神の子として、ともに祈り、ともにイエスの十字架に学ぼうではありませんか。 平和のために働くことは日常の祈りと行為の積み重ねです。キリストの十字架に倣い、互いに痛みと苦しみを担い合い、喜びと希望を分かち合って歩んでまいりましょう。それがキリスト者の平和への道であると信じます。  

the Ten Days Appeal for Peace

H1omily for the Mass celebrating the Ten Days Appeal for Peace

August 8, 2015 at St. Mary‘s Cathedral, Tokyo

First Reading: The book of Isaiah 48:17-18

Second Reading: letter to the Ephesians 2/16-22

Gospel: Mathew 51-10

In the sermon the mount, Lord Jesus said, “Blessed are the peace makers, for they will be called children of God.”(Am. Bible Mathew 59) Being a peace maker is not only the responsibility of every Christian, but also of all the people on earth.

There are two phrases that always come to my mind whenever I think of peace.

The first is the “defences of peace”.  This is a famous phrase that appears in the introductory paragraph of the UNESCO constitution: “Since wars begin in the minds of men, it is in the minds of men that the defences of peace must be constructed; That ignorance of each other‘s ways and lives has been a common cause, throughout the history of mankind, of that suspicion and mistrust between the peoples of the world through which their differences have all too often broken into war.”(1949)

What are the causes of war? Poverty, discrimination, and disparity can be thought of as the cause of anxiety, fear, hatred, and hostility. These may have tendency to cause deep wounds in people‘s hearts and trigger war. It is an absolute necessity to work towards eliminating these negative tendencies that cause war.

In this connection, the introductory paragraph of the Japanese constitution left a deep impression on me.

“We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.”

We have to realize this “determination” at all cost. For this reason, Japan has forever renounced the use of force. This is indeed the important testimony that we have realized the “defence of peace” in our hearts.

The second phrase that I recall is “disarmament of heart”. This phrase appears in the proclamation of the Japanese Catholic Bishops celebrating the 50th anniversary of the end of World War II, “The Resolution for Peace”.

“The peace we seek is based on the reconciliation between man and God, which in turn is based on Jesus‘ cross and resurrection. As believers, our approach to peace must have Christ in the center. Only by being one with Christ, and with His support and leadership, would we obtain peace. In the occasion of the last supper, Christ established the celebration of the Mass by wishing that “all of us become one”. Through the Mass, Christ shines upon those of us who march towards the realization of peace, and gives us strength to reach the goal. ・・・ To us humans, who are disunited with hatred caused by our sin - Christ brings fire of love and leads us to the ‘disarmament of heart’. He heals our wounded hearts, brings oneness among peoples, and creates inner foundation for the everlasting peace.“ (cited from “The Resolution for Peace”)

It is important to cherish the phrase the “disarmament of heart”.

Today‘s second reading is from the Letter to the Ephesians. “For he is our peace, he who made both one and broke down the dividing wall of enmity, through his flesh, ・・・through the cross, putting that enmity to death by it. He came and preached peace to you who were far off and peace to those who were near.”(Ephesians214-17)

Christians are taught not to combat evil with evil, but to defeat evil with good. The article 9 of the Japanese Constitution is exactly in accord with this teaching. Japanese people are determined to renounce war as a method to settle any international dispute, and also not to retain any fighting power. Because of the article 9 of the Constitution, the Japanese people have not killed anyone nor gotten killed, in any war during the past 70 years.

We are all children of same God – and should learn together and pray together. To accomplish these, we have to: “commune with each other; help each other; and understand each other”.(from“The Resolution for Peace”)

To build up the “defence of peace” and cause the “disarmament of heart”, some preparation is necessary. It is important to prepare a right atmosphere. Not just by prayer, but we must act in accordance with our prayers, we have to ferment the right atmosphere.

This year‘s “Prayer for Peace 2015” shows us Christian daily goals that point toward the world peace. We must rely on God’s help, and work diligently to attain these daily goals, as children of God.

Peter OKADA,Archbishop of Tokyo

2015年7月23日 (木)

安全保障法制の問題点

日本弁護士連合会 シンポジウム「安全保障法制の問題点を考える」

リレートークでの岡田武夫大司教によるスピーチ

 

日時:2015715日(水)18時~20

会場:弁護士会館2階 講堂「クレオ」

 

司会:日本カトリック司教協議会会長、東京教区大司教の岡田武夫さんにお話しいただきます。お聞きしましたところ、日本のカトリック教会は戦前、戦中の戦争への協力を痛切に反省し、戦後50年、60年に平和を守るためのメッセージを出されました。今年は戦後70年にあたり、2月には護憲と平和を守るためのメッセージをあらためて出されたとのことです。岡田さんには日本のカトリック教会の護憲と平和を守るための基本姿勢と今までの活動をお話しいただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

 

岡田大司教のスピーチ

岡田でございます。今日、このような機会を与えてくださったことを心から感謝申し上げます。

今日、強行採決が行われた。大変残念に思い、また強い不安を感じております。日本国民として、またキリスト者としてわたくしは日本国憲法、その平和主義、9条、そして前文を大変、誇りとして今まで歩んで参りました。カトリック教会は全世界ネットワーク、いろいろな機会に他の国のかたがたとお会いします。もちろん、アジアの隣国、韓国、フィリピン、中国、そして遠い国々の人たち、そしていろいろな機会に「日本の平和主義、日本は戦争をしない国、戦争をしないことを憲法でうたっている。素晴らしい」。それが今、戦争をする国、戦争をしてもいい国になってよいでしょうか。絶対、それはいけないことであります。

憲法9条を改悪して戦争ができるようにしようとしていくのかなと思ったら、今度は集団的自衛権行使という解釈、そしてその解釈に基づいた、戦争ができる法案を通す。多くの国民が理解できない不安を感じている。そして憲法学者も99%の人が反対しているのに、どうしてこの法案を通すのか、まったく理解できないのであります。日本国民として大変残念に思う。

今日はカトリック教会として一言、言うようにということでございます。戦争しない、と、そして隣人を愛する、敵を敵としてではなくて、同じ人間として大切に思うように、それがわたしたちの信じるイエス・キリストの教えであり、聖書全体を貫いている考え方であります。そして、教会の教えの中に、50年前に開かれた第二バチカン公会議という大切な会議がございましたが、このときにわたしたちは自分たちだけのこと、教会の中のこと、あるいはお祈りとか教えとかいうことだけでなく、現代の世界の状態に深い関心を寄せ、そして人々の幸福と平和のために献身しなければならないということを確認したのであります。

戦争をしないということは福音、つまりイエス・キリストの教えから直接出て来る、いたって当然の考え方であります。ところが、残念なことですが、わたしたちキリスト教徒はこの教えをいろいろ、それこそ解釈をして、場合によっては戦争をできる、戦争をしてもよいというようにしてきた歴史があることも思います。ヨハネ・パウロ2世という法王がおりました。大変、偉大なかたであります。このかたが紀元2000年を迎えるに際して、世界中の信者、そして世界中の善意の人びとに書簡を送りました。ご存知でしょうか、ヨハネ・パウロ2世というかたはポーランド人です。若いとき、戦争の中で苦しい毎日を過ごしたかたです。そして、教会は2000年という記念すべき年を迎えるためには、しなければならない大切なことがある。それは反省するということだ。とくに、反省する範囲が非常に長いというか広いのですけれども、この千年間、過去千年を振り返って、どういう点が一番問題であったかということを述べましたが、その中にこの戦争のことが大切なこととして出て来ます。「わたしたちは戦争はいけない、戦争を止めなければならないのにそうしなかった。あるいは、そうなることにはっきり気づかなかった。あるいは、心配なのに何も言わなかった。そして、このような悲惨な結果を招いてしまった。あるいは、招いたというのは言いすぎかもしれないが、協力してしまった。このことを心から悔い改めなければならない」、そう言われたのです。

ちょっと個人的なことで恐縮ですが、1995年、もう20年も前ですけれども、わたくしはヨハネ・パウロ2世とお会いする機会があった。そこでついお尋ねしたのです。「教皇(法王)様が今度おっしゃっている、全体主義政権が基本的人権を蹂躙したことについて、教会は深く反省しなければならないと言っておられますが、もちろん、ドイツ、イタリアのことがまず第一番でしょうが、日本のことも入っていますか」と聞いたら、「え、日本」と一瞬、息をのんでおられましたが、日本という国のことが視野に入っていたかははっきりしませんけれども、わたしたち日本のキリスト教、わたくしはカトリック信者でありますが、自分たちがアジア・太平洋戦争のときにどういう態度をとったのかということを反省いたしました。そして、戦争が終わってちょうど50年目に反省の意を込めた平和のメッセージというものを出しました。60年後の機会にも出しました。そして、今年は70年、普通は8月に発表するのですけれども、今、非常に雲行きが怪しいということで2月に発表いたしました。そして、その中で日本国の憲法の精神は本当に福音的なもので、イエス・キリストの教えそのものである、ということを率直に表明いたしました。

日本の中でキリスト教徒は非常に少ないです。ところが、憲法が非常にキリスト教的であるというのは不思議な感じがいたします。それはともかく、この憲法の基主である平和についての規定を守る、広めていくことがわたしたちの使命であると思います。

70年間、日本は戦争をしない国だということで、他の国からも信頼を勝ち得ていた。そこがだんだん危なくなってきていると思います。聖書の中に預言者という人が出て来るのであります。預言者というのは勇気を出して神様のことば、神様のみ心を人々に語る人のことなのです。預言者は迫害され、そして殺されたりしました。教会はこの預言者の任務を持っている。ですから、「これはどうしてもいけないことですよ。神様のみ心に背くことですよ」と思ったら、自分の身を守るために黙っているのではなくて、はっきりと言わなければならないと思うのであります。

集団的自衛権という言葉が何を指しているのか、国民の理解が得られていないのに、どんどん前に進めようとしているこの状況は大変、危ない、そしてよくないことであると思います。わたくしは一人の日本国民として、そして一人のキリスト教徒として、この日本国憲法の理念、理想をしっかり守り、そして多くの人に伝えていかなければならないと思っています。わたくしはカトリック教会に属していますので、全世界ネットワーク、その中で今いただいている評価、これをしっかり守る、そしてさらなる、この日本国外の仲間と手を握り、力を合わせて、ぜひとも日本国憲法の平和の理想をしっかり守り、そして推進していきたいと考えております。いろいろな主義、主張、宗教の違いを超え、人類共通の目標、生命の尊重、そして人間の尊厳を守り、進めるために、皆さん、力を合わせて歩んで参りませんか。よろしくお願いいたします。

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