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2018年3月29日 (木)

聖香油のミサ2018

桜の花が美しく咲いている、この前橋の教会に集まって、今年の聖香油のミサをお献げ致します。思い出してみると、4年前もこの前橋で聖香油のミサを献げました。それは416日でした。その前に、321日、山口一彦さん、高橋史人さんのお二人が司祭に叙階されています。そこで、司祭の叙階の時にしていただいた約束について話しました。そして次のように言ったのであります。

「司祭は自分の務めを実行するに際して、試練に出会い、また誘惑を受けることが少なくありませんが、主イエスに倣い、試練に打ち勝ち、誘惑を退け、互いに赦し合い、励まし合い、互いのために祈るようにしなければなりません。」 

その翌年は、浦和教会で聖香油のミサを献げました。

聖香油のミサというのは、司祭のためのミサのようなミサなので、どうしても司祭についての話が多い。やはり同じように、司祭に叙階される時の約束の更新について述べています。そして、その年はわたしども日本の司教がローマの使徒座(バチカン)訪問の年で、帰国して間もなくの時でありました。そこで聖香油のミサの日の時に、日本の司教団が教皇庁を訪問し、教皇様にお会いました、ということを一言付け加えております。

 その翌年は、水戸教会、323日でした。

聖香油のミサは司祭職制定の記念のミサですのでこの時も、司祭の務めについて述べています。このときはさらに、司教の務めについても述べました。そして、さいたま教区の司教と司祭は、次のようなことを心掛けましょう、と述べています。

1. 霊的生活を大切にし、祈りに熱心であること。

2. 多国籍教区として国籍、言語、文化、習慣等の違いを尊重しながら、キリストにおける交わりと一致を推進すること。

3. 司祭の生涯養成と霊的生活の指導と配慮に特に注意を払うこと。

4. 精神的に不安定な人々の保護、指導、援助に配慮する。

 そして昨年は宇都宮の松が峰教会でした。

去年は聖香油のミサにおいては、三種類の油が祝福され、聖別される、という話をしました。

信者はみんな油を塗っていただいています。それが「塗油」ですが、塗油とは聖霊の力、聖霊の助けを表しています。塗油を受けた人がキリス者です。みんなイエス・キリストのようになっている。ですからキリストになっているのですから、キリストの働きをしましょう、できます、という話をしたわけです。

 

そして今日を迎えました。

去年の続きになりますが、この聖香油、クリスマといいます。そこからキリスト者という言葉が生まれているわけです。油を注がれた人がメシア、キリストです。ですからイエス・キリストはお一人しかいないわけですけれども、わたしたちはそのキリストにつながる者、キリストの弟子として、油を注いでいただき、油を塗っていただいた者です。

いつ油を塗ってもらったでしょうか。洗礼、堅信の時です。司祭、司教はさらにその上でまた叙階の時に塗油を受けています。

 そこでこの一年、さいたま教区は宣教・福音化年として、教区あげてみんなでイエス・キリストからいただいた教会の使命を一生懸命やって行こうと努めてきました。そのための準備として、四県で、それぞれ自分の信仰を、自分の言葉で、自分のやり方で述べ伝得る準備の研修会をしてきました。自分が信じていること、自分がこの世界の中で信者として生きているということを、他の人に言い表すとしたらどういうように言うのでしょうか。そのための準備の勉強会をしましょうということで、四県で色々な企画があり、その研修プログラムが今終わろうとしています。復活祭の後宣教・福音化年の第二年目に入ります。二年目はもっとしっかりやりましょうと話し合っております。

今日は、「二年目に向かって、よろしくお願いします」という、このお願いのプリントを各教会にお渡しします。ポスターも作っていただきました。

 信仰を分かち合う集い、わたしの信仰体験の集いを開いていただけないでしょうか。そんなに度々開催は難しいので、今年度2回くらい、春と秋とか適当な時、適当なところで、それぞれ集まって、今年一年はどのように過ごしたか、そしてどういうことで自分の信仰の目覚め、活性化というのか、そういうことがあったのか、ということを話し合っていただきたい。あるいはそもそも、わたしはどうして信者になったのか。そして他の人に説明するとしたら、どういうような言葉で説明できますか。あるいは自分の人生の色々な場面で、自分は信仰があったので、支えられたとか、あるいは他の人との関係で、こういうような素晴らしい、嬉しいことがあったのですとか、いうことを話していただけないだろうかと思います。

どっかの本に書いてあることをテキストにして勉強するということも大切で、いいのですけれども、それは脇に置いておいて、自分の言葉で、自分の体験を話し、分かち合うという集いをしていただけないでしょうか、というお願いを、今日いたします。新福音化委員会とわたくしとでこのような文章を作りました。あとは開催予定を記入するフォーマット、いつどこでどういうふうにやるかということを書いていただくための用紙も、用意していただきました。

 この機会にわたしも一信者として、わたしはなぜ信じたのか、どう信じているのか、ということをもう一度見直しをしております。

人それぞれ色々な時、色々な動機で信者になっていると思います。日本においてキリスト者は非常に少ないです。諸教会諸教派全部合わせても人口の1%くらいと言われているわけです。人数は少なくとも、あの人達はイエス・キリストを信じ、イエス・キリストとともに、イエス・キリストに支えられて歩んでいる人なのだと思っていただけるような教会でありたい。よく見ると色々な問題があるのかもしれないが、でもしっかりと歩んでいるねと、わたしもそういう人々の仲間になりたいな、と思っていただけいるような、わたしたちでありたいと。

 聖香油のミサは、司祭、助祭が集まってあげるミサということなのですけれども、今日こんなに多くの信徒の方が集まってくださって、本当にありがたく嬉しく思います。司祭の数も減ってきましたし、病気の方もいますし、充分な働きができないのですけれども、全員で教会の使命をよりよく果たそうと考えます。

司祭の皆さんには、信徒の方が働きやすいように、やりやすいように、元気を出して、勇気を出して、働けるように励まし、導くように、よろしくご配慮の程をお願いする次第であります。

この宣教・福音化年二年目に向けて、信仰分かち合う集い開催のお願いをご覧いただき、わたしたちの教会の務め、福音宣教を全員で行うようにしたい。聖霊の助けを願って祈りましょう。

2018年3月 2日 (金)

カトリック教会の性虐待被害者へのお詫び

 

 今日、四旬節第二金曜日、日本のカトリック教会は「性虐待被害者のための祈りと償いの日」といたしました。性虐待を受けた被害者の方々、そのご家族の悲しみ、苦しみを思い、癒しと回復の恵みを与えてくださいますように。いつくしみ深い神に祈りましょう。そして、この難しい状況を教会がきちんと認め、そしてその解決、克服のために努力することができますように、神の助けを願いましょう。

 性虐待の問題は、当初アメリカの教会で報告されましたが、日本の教会でも同じ問題があったし、今もあることをわたしたちはしっかりと受け止め、そしてその被害者の皆様に心からお詫び申し上げるとともに、日本の教会あげて、その問題の克服のために祈りと努力、そして償いをするように努力することを、日本のカトリック司教団は心から願っておりそのために努力しております。

さて、今日読まれました福音のことです。聖書はよく葡萄園の話をしています。葡萄園はイスラエルの国や地中海沿岸では非常に馴染み深い風景です。その葡萄園が良い実を結ぶことを願って、主人の神様は人を雇い、そしてそのための様々な手立てを与え、さらに預言者の使者を送って、葡萄畑の農夫を指導されました。最後には自分の一人息子を送り、葡萄園で良い実が実るようにと、最後まで努力をされましたが、その神様の御心は彼らには通じなかった。わたしたちはこのような、おおよその救いの歴史を知っています。

 今、四旬節、そして41日は復活祭となりますが、復活祭の前の晩は復活徹夜祭。復活徹夜祭では聖書の長い朗読があります。その朗読では、非常に長い聖書の中から、救いの歴史を伝える非常に大切な箇所が読まれています。

さて、そのような神の救いの計画の中で、主イエス・キリストの登場、そして宣教、受難、十字架、復活という出来事があり、わたしたち教会が設立されました。教会は神の民であり、神の霊を受けた神の神殿であります。

 しかしながら、それであってもわたしたち人間の弱さと罪が全部無くなったわけではない。弱さの中でわたしたちは過ちを犯しますし、罪の汚れをまだ完全に拭い去ることができない。そして人々に仕え、イエス・キリストの福音をのべ伝えるために選ばれ、そして任命された人たちが神様の御心に背く、性虐待という忌まわしい行いをしたことが明らかになった。本当に残念なことであります。どうしたら良いだろうかと、教皇様、特にヨハネ・パウロ二世、ベネディクト十六世、そしてフランシスコ教皇様は全世界の教会に向けて、この問題の重大さをしっかりと受け止め、この問題をよく見て、そして解決と克服のために努力するように、そして神様の恵みを願うようにと願っておられます。

 今までに教会の行ったことの中で大きな問題であったのに、この問題をちゃんと見なかったということです。隠したり、うやむやにしたりしたということであります。さらに、この問題について、わたしたちの理解が足りない。随分微妙なことなので、話しにくいことがあるでしょう。被害者はこの問題に触れてほしくない。加害者は、自分は加害者であるとはあまり思っていない。両者の間には大きなずれがある。どんなにか、性虐待、性暴力によって人は傷つき、苦しむかということについて、加害者は理解していない。それしかし、わたしたちも同様で、きちんと理解していないのではないかと思うのです。

 人間にとって、性ということは非常に大切なことであり、ふさわしく、正しくこの問題を見つめ、そして一人ひとりの人が本当に人間として、人間の尊厳を認識し、お互いに大切にするようにしなければならない。そのための教会の努力は必要であると。全世界の司教協議会はそのための部署が作られ、かつ各教区にも委員会、担当司祭等が任命されております。これからの一層の努力とお祈りをしなければなりませんので、皆さんのご理解ご協力お祈りを切にお願いする次第あります。

2018年2月21日 (水)

弱さの中で

説教:弱さの中にいる神

今日、217日にさいたま教区では「世界病者の日」のミサを献げることになりました。本来は211日のルルドの聖母の日が世界病者の日と定められましたので、211日に献げられるべきですがことしは11日が主日なので、12日にしようということになったのです。しかしその12日が那覇教区の司教叙階式となったので、更に延ばされて今日という日になったという次第であります。

世界病者の日、病者、あるいは障がい者のために祈るミサ、病者、心身の不自由な方のために働いておられる医療従事者を励まし、支える、そのためにお祈りする日でもあります。   

わたしたち人間は誰しも病気になったり、あるいは身体が衰えていったりするわけであります。この病気というものはどうしてあるのだろうか、と考えさせられますが、考えても病気が治るわけではありませんので、この病気ということをどういうように受け取ったらよいのだろうかということを考えてみたいのです。

今日の第一朗読をお聞きになりましたが、パウロという人のことです。この人は非常に頑健な、丈夫な人だった思われます。あれだけのことをしたんですから、身体も精神も非常に健康で、そして元気であったに違いない。でも意外にもそのパウロがぽろりと漏らしていることの中に今日の箇所がある。このとげというのがあったというのですね。このとげというのはなんであるかわからないんですよね。いろいろ想像されているのですが、学者はいろんな説を唱えているようですが、わからない。いやなこと、困ったこと、何かそういうものであったに違いないわけでして、なんだったんでしょうか。それで三度も主にお願いした。どうかこれを取り去ってください。サタンから送られたと書いてありますね。良くないことに決まっていますけれども、しかし、聞き入れてもらえなかったわけです。そして、主からの返事は何であったかといいますと、

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」

そう言われた。この言葉をわたしたちはどういうように考えたらよいでしょうか。病気になったり、あるいはいろいろな障がいの状態になったりした時に、もしそうでなければこういうこともできるし、ああいうこともできるのに、どうか直してください、癒してくださいと願うわけですけども、必ずしも神様はその願いを聞いてくださるわけではない。あなたは弱くとも、その弱いあなたを通して、わたしは力、神様の力が働くのですよ。そういうように言われたのだろうと思います。

世界病者の日を制定された教皇様はヨハネ・パウロ2世。ご記憶にありますように、ヨハネ・パウロ2世も就任された時は物凄くお元気な方だったのですけれども、難しい病気パーキンソン病)になられ、でも最後まで勤めを果たされて現役のまま帰天されたわけですね。

わたしたちは弱い者です。その弱さの中にイエス・キリストの力が働くというその信仰をわたしたちは本当に自分のものとすることができるだろうか。

福音はヨハネの15章、ブドウの木のたとえですね。

「わたしにつながっていなさい。」

どうやってつながっていることができるんだろうか。このパウロの言葉と合わせて考えてみると、あなたはこういう問題を持っているが、でもわたしはそういうあなたといつも一緒にいるんだよとあなたと一緒にわたしはいますよ。そしてあなたを通して、わたしは神様の恵みをあらわし、伝えるものである。神の栄光を表す。人間の弱さを通して、神の栄光があらわれるのですよ、と言ってくださっているのかもしれない。人間の弱さ、ひしひしと感じますね。自分自身について、それから他の人についても感じるわけです。しかしそういう人間の中に神様の力が宿る。この教えを今日もっと深く味わうようにしたい。

そうはいっても、今日はこうだから、こういう風に信じなさいというつもりはありません。わたくしの自問自答でありますが、非常に難しい病気というのがあります。あるいは障がいというものがあります。聖書に出てくる病気の中で、この前の日曜日の福音にでてきましたのが、「重い皮膚病」と訳されている病気ですね。昔は「らい」と訳されていた、あるいは「ハンセン病」と言われるようにもなった。しかし「が重い皮膚病」という訳語が適当であるかがどうか、ということを今も議論している。非常に忌み嫌われ、排斥され、そして排除された病気ですね 。

ちょっと昔のことですけれども、『砂の器』という小説と映画がありました。その主人公はらい患者の子どもだったんです。みんなからいじめられ、隔離されて、全国放浪したんですが、そういう境遇から抜け出して、名前をあげようとしていた時に、昔の自分を知っている、自分を助けてくれた人に出会ったという話で、都合悪いから、自分の前身を知られたくないからその人を殺してしまうという悲劇なんですが、どんなに嫌悪された病気であるかということをあらわしている。イエスが何人もの病人を癒したという話がありますが、特に目立つのは、いわゆる「重い皮膚病」の人、この人たちの苦しみは、身体的な苦しみだけでなくて人々から排除される、隔離される、人々が近づかないんですね。でも近くに人がいる時には、「わたしは汚れたものです。汚れたものです」と叫んで、そしてそれとわかるような服装を普段からさせられるということが旧約聖書のレビ記に出てくる。なんというひどいことでありましょうか。今日世界中で、この問題は徐々に解決に向かい、日本でも「らい予防法」という法律が廃止されたわけでありますが、しかし人々から忌嫌われる病気とか障がいということが存在したし、今もある。そういう人々の苦しみに対し、イエスは深く同情し、そしてご自身もそのような苦しみ、悲しみを共にしてくださったのであります。もちろん病気というものが癒されることが何よりも大切でありますが、必ずしもすべての人の病気、障がいがなくなるわけでも無い。

イエスの生涯、人々の病をご自分の身に負ってくださった主の僕であるイエス・キリストの生涯を思います。明日が四旬節第一主日、それで一ヶ月半後ぐらいに復活祭になります。聖週間の一週間をすごす、本当に過ぎ越しの神秘を深く味わうことができますように、今年は特に良い四旬節、聖週間をすごし、復活の喜びを深く味わうことができますようご一緒に祈り、支え合うようにしたいと思います。

(ミサ説教による信仰入門講座 その7)

2018年2月 8日 (木)

忙しさの中の祈り

福音朗読  マルコによる福音書 1:29-39
(そのとき、イエスは)会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 

説教:忙しさの中で祈るイエス。

わたしたちの信じている主イエス・キリストとはどんな人でしょうか。何をなさった方でしょうか。わたしたちはミサの度に福音の朗読を聞き、更に第一朗読、第二朗読含めて、聖書を学びながら、イエスキリストをより良く知るようにと努めております。

間もなく四旬節に入りますが、今日、年間第五主日はイエスがシモンの姑をお癒しになったという話を伝えており、更にイエスは多くの病人を癒し、また多くの悪霊を追い出したと伝えております。

イエスが何をしたのかと問われると、まずわたしたちの心に浮かんでくるイエスの行われた事柄は、神の国の福音を述べ伝えられたということと共に、多くの病人を癒し、体の不自由な人を癒し、そして悪霊を追放されたということであります。 

イエスの福音は神の国の福音と呼ばれています。神の国というのは神様が支配される国、神の力がいきわたっている所、神のみ心が行われている状態が神の国であります。わたしたちも日ごとの祈り、その中で最も大切な祈りと思われる祈りは言うまでもなく主の祈りであります。み心が行われますように。この地上に神の国が実現しますように。神様のお望みがこの地上でそして更にこのわたしを通して実現しますようにと祈っているのであります。そして神の国が来ていることは既にイエスの到来によって示されました。イエスは神の国の福音を述べ伝えるとともに病人を癒し、悪霊を追放された。この病人の癒しということと悪霊の追放ということが神の国が来ていることを人々に現し、伝える印となっていました。

先週も悪霊の追放のことを取り上げたわけですけれども、悪霊というのは今日のわたしたちにはわかりにくいかもしれませんが、悪の力、悪の存在を現していると思います。この世界に悪という現実があることをわたしたちは否定できないのであります。わたしたち自身の中にも神のみ心にかなわない罪がありますが、この世界自体が、まだまだ神様のみ心の実現からはかなり遠い状態にあると言わなければならないと思います。平和を実現する人は幸いであるとイエスは山上の垂訓で言われました。わたしたちは平和のために働くものと召されています。人と人との間の平和、国と国との間の平和、更に、もしかしてこの環境、自然との平和も更に考えていかなければならない。あるべき状態の実現のためにわたしたちは与えられているお恵みを使わなければならないのであります。

今日の第一朗読はヨブ記でありました。ヨブ記というのはヨブという正しい人が何のいわれもなく苦しみに出会うという話ですね。ヨブは自分が神様から罰を受けるに値する当然の罪を犯しているならば仕方がないが、自分でつくづく反省してもそれが自分にはない、わからない。どうしてこのようなつらい苦しい目に合わなければならないのかということを神に訴えている、そういう話がヨブ記という長い物語となっているのであります。

ヨブの訴えは特別なものであるかもしれないけれども、この地上には不条理な苦しみというのがあるわけでありまして、どうしてこのような目に合わなければならないのか自分にはわからない、そういう思いを抱く人が決して少ないわけではない。イエスは不条理な悪の満ちているこの世界に来られ、人間としてその悪と戦い、そして人々の苦しみを自分の苦しみとされたのであります。

第二朗読は使徒パウロのコリント書であります。パウロは、イエス・キリストの福音のために、命を捧げた人でありますが、今日の箇所では次のように言っている。

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。」

自分から出て行って、その人のそばに行き、その人と一緒に生き、一緒に生きながら、神の国の福音、イエス・キリストの救いを述べ伝えたのであります。その生き方はイエス・キリストの生き方に倣うものだったと思います。

ところで今日のマルコによる福音の中でわたくしの心に強く記されるイエスの言動があります。

「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。」

イエスは人々の現実の真っ只中に入って、人々と一緒に苦しみを共にされ、苦しむ人の病気を癒し、悪を取り除くということをなさったが、他方、天の父との深い交わりの中におりました。1人になって、現実のいろいろな問題から離れて、静かに天の父との親しい時間を過ごしておられた。このイエスの生き方こそ、わたしたちが特に見習うべき点ではないかと思います。

わたしたちの毎日の生活もいろいろな課題、問題から成り立っているかと思いますが、その中で時間と場所をとって祈りのひと時を過ごさなければならないと思うのであります。今実は、そのような時をわたしたちはすごしているわけでありますが、できれば毎日、少しの時間でもとって、いろいろな問題から自分の心を天の御父のほうに向ける、そして一緒に歩んでくださる復活されたイエス・キリストに心をあげるという努力をするようにいたしましょう。

(ミサ説教による信仰入門講座 その4)

言葉の力について

福音朗読  マルコによる福音書 1:21-28
 イエスは、安息日に(カファルナウムの)会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

説教:言葉の力について

わたしたちの主イエス・キリストはどんな人であるのか。何をされた人なのか。どうしてわたしたちはイエスを救い主として信じているのでしょうか。

さいたま教区は宣教・福音化年を宣言し、信者、信徒全員が誰でも自分の信仰を宣言し、実行するようにと求められているのであります。

ミサの中で必ず福音書が朗読されますが、特に主日の福音の朗読は非常に大切であります。今日は年間第四主日でありまして、年間という季節は主イエスが行われた宣教活動を宣べ伝える時であります。

先週の日曜日 主日ではイエスが4人の弟子を召し出されたという話が伝えられました。最初の弟子たち、ペトロ、アンドレア、ヨハネ、ヤコブこの4人に声をかけて弟子になさったという話が伝えられたのであります。

今日の福音はイエスがなさったこと、その中で聖書と典礼の表紙にありますように穢れた霊に取りつかれた人を癒されたという話が伝えられています。

イエスは何をした人でしょうか。神の国の福音を述べ伝えられました。そして多くの病人やあるいは心身の問題に苦しむ人々を癒されたと福音書は伝えています。今日の福音では穢れた霊を追い出されたと言っています。

穢れた霊というのは何であるのか。おそらく悪霊と同じ霊を指していて、当時の人々は、人間の肉体的、精神的な問題、疾患は穢れた霊の引き起こす問題であるという考え方をしていた。イエスはこの穢れた霊に命じて、そしてこの人を癒されたということが今日の福音で述べられている。

今日の福音の話をもう一度振り返ってみますと、イエスは会堂カファルナウムというところの会堂でお話しになりました。その話し方が人々を驚かせるものであった。権威ある者としてお教えになった。「律法学者のようにではなく」とあります。律法学者というのは律法、主なる神がモーセを通してイスラエルの民にお授けになった神の掟が律法であります。そしてその律法を学び説明する専門家が律法学者でありました。

律法という言葉は広い意味で言えば、モーセ5書、旧約聖書の最初の五つの書物です、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記など詳しく述べられている、神が人々に授けられた戒め、律法、教えを指しています。この膨大な難しい教えを学び、そして人々に教えていた人々がいて、律法学者と呼ばれていました。後にイエスはこの律法学者と対立し、律法学者たちの恨みを買い、十字架につけられることになるのであります。

イエスは律法学者のようにではなく話した。律法学者は律法にはこう書いてあります、これはこういう意味です、と詳しく説明したのでありますが、そして律法を授けた人、律法を仲介した、神様から律法を受けて人々に教えた人がモーセです。イエスはモーセに優る人として人々に教えられました。神はこういう方である。神はこう言っておられる。あたかも自分が父である神と同じ人であるかのように話した。わたしたちは信仰宣言で宣言しておりますが、「イエスは神からの神、光からの光 まことの神からのまことの神」と信じております。言わば父と一体である人として話された。

 もう一つの点がある。それはイエスがおっしゃった言葉がすぐその場で実現した。イエスの言われた言葉を指し示す内容がその時その場で実現したのであります。それが今日の奇跡の話、つまり穢れた霊を追い出されたという話であります。

言葉、日本語の言葉というのは「言の葉」でちょっと弱々しい感じがしますが、聖書、旧約聖書では言葉というものは非常に大切な考え方であり、言葉自身に力が込められている。その言葉が発せられるとその言葉が示している現実がすぐに出現すると信じていたのであります。神が「光あれ」と言われると光があった。と創世記で述べられていますね。言葉が発せられるとその言葉の指し示している内容が実現する、それが言葉だとそういうように人々は考えた。しかし人間の言葉はそのような力強い言葉であるとは限らず、更に人間は言葉と心を一致させないという問題をもっている。「嘘をつく」ということもその一つですね。心の中で思っていることと言葉で出して言っていることとが離れている。わたしたちの場合は、多かれ少なかれそういう問題を抱えています。お世辞を言ったり、心ならずも心にもないことを言ったりすることもあるかもしれない。イエスの言葉はすぐに言葉通りの現実を引き起こしました。

「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。

とあるのであります。

さて、わたしたちはキリスト者としてイエス・キリストを信じております。信じていることを自分の言葉で、信じているその信仰を自分の言葉で、自分の生きている場所で宣言し、そしてその言葉を実行しなければならないのであります。そうできるためには更なる信仰を神様にお願いし、聖霊の助けを祈り求めましょう。聖霊が私たちの心に降り、そしてわたしたちの心の中から人々にイエス・キリストへの信仰、父である神への信仰を宣言することができますよう、どうぞ助けてください。そのように祈りましょう。

(ミサ説教による信仰入門講座 その3)

2018年1月30日 (火)

イエスの呼びかけ

福音朗読 マルコ11420(本文)ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

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説教:イエスの呼びかけ

年間第三主日B年のミサをお献げしております。ミサの時には必ず福音が朗読されます。

今日の福音はマルコによる福音一章からとられています。わたくしたちはイエス・キリストの弟子となり、また日々、イエス・キリストの弟子としてよりよく生きることが期待されています。イエスはどんな人であったのか、イエスは何を教えたのか、どのように生きたのかということを福音書から学ぶことが大切であります。ですからミサの時、必ず福音が読まれることになっています。更に主日、祭日ですと第一朗読、第二朗読が読まれます。第一朗読、第二朗読も福音の朗読をよく理解するために、有益な関係の深い箇所が選ばれているのであります。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、聖霊をお受けになって宣教活動を開始されました。イエスの宣教は神の国の福音と呼ばれています。そしてそのイエスの呼びかけに応えて弟子になる人がでてきた。イエスの活動は神の国の福音の宣言とそれからご自分の弟子をつくることであったと思います。

先週の主日の福音を覚えておられるでしょうか。先週もイエスが弟子をつくったという話でありましたが、ヨハネの福音からとられていて、おそらく使徒ヨハネご自身だろうと思いますが、イエスに出会った時のことを思い出してちょうどその時、4時ごろであったろうと書いてあります。ヨハネの福音ではアンドレアとヨハネがイエスの泊まっている所に行って、多分一晩イエスと共に過ごしたのでしょう。そのあとアンドレアは兄弟のシモンペテロに会って、イエスのことを告げた。ですから今日の福音の内容とかなり違うんですね。今日の福音だと二人一緒にですね、シモンとシモンの兄弟アンドレアが一緒にイエスの招きに応じたとなっているんですね。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」そう言われて躊躇なく従ったのでしょうか。そういうことはあるでしょうかね。更に二人の弟子、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネもイエスの招きに応じました。この二人も父ゼベダイと雇人たちを船に残してイエスの後についていった。ちょっと声をかけられただけで何もかも捨てて、後にして、家族のこと、仕事のことそのほかいろんなことの中に置かれているんですけれど、それを全部やめて、全く新しい生活に入る、あるいは特定の人についていくということは大変なことでありまして、弟子たちはその後、イエスに従って何年くらい過ごしたんでしょうね。3年くらいと言われているけれども、イエスの弟子としての生活をし、イエスの生涯をつぶさに体験し、一緒に過ごしたわけであります。これはイエスが直接呼びかけてつくった弟子たちのことでありますが、今私たちは教会として歩んでいますが、イエスの時代とは2千年という年月のへだたりがある。場所も日本という国であります。皆さんもイエスの呼びかけを何らかの形で、イエスに出会い、イエスの呼びかけを受けた人々ですね。どういうような呼びかけでしたか?どういう風にしてイエスと出会ったでしょうか。そのことを思い起こし、そして更にイエスは今私たちに何を望んでいるのかということを更に考えてみるのは大切なことではないだろうか。

今日のミサの集会祈願を見てください。このお祈りは今日のミサの趣旨をよく表していると思います。

「いのちの源である神よ、移り変わるものごとに心を奪われがちなわたしたちに、あなたは変わることのない救いの喜びを与えてくださいます。ここに集うわたしたちの心を新たにし、キリストに従って歩む者としてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」

洗礼を受けた時、いろいろな約束をしたわけです。堅信の秘跡もあります。更に司祭は叙階という神聖な秘跡を受けて神様から特別な恵み、力、祝福を頂いて、使命を生きる者となっております。皆さんもひとり一人、自分はいつどのようにしてキリストの弟子になりますと手を挙げたのか、そしてその時の決意をどのように生きているのか。振り返る良い時ではないかと思います。

(ミサ説教による入門講座 その2

ミサによる入門講座 その1

2018年1月、司祭命日記念ミサ説教
2018年1月19日(金)、浦和教会
第一朗読:サムエル上24・3-21
福音朗読:マルコ3・13-19(そのとき、)イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

――― 説教:イエス、12使徒を選ぶ
 今日記念する3人の神父様方、 パウロ 内野作蔵神父 パウロ 小倉三郎神父 オードリック・フィッシェル神父 は、さいたま教区(旧浦和使徒座知牧区・浦和教区)において司祭として、長い年月奉仕されました。司祭は、司教と共に働く者であります。今日司教と呼ばれる人たちは、主イエス・キリストによって選ばれた使徒の後継者であるとされています。
使徒という言葉は、派遣された者という意味であります。今日の福音は、イエスが12人を選んだという重要な出来事、12使徒任命の由来を述べております。12人を選んだ理由は、彼らを自分のそばに置くため、派遣して宣教させるため、悪霊を追い出す権能を持たせるため、であると述べられています。
 イエスの弟子たちは、まずイエスのそばにいる者、イエスと共にいる者であり、イエスの生き方を学んでいる者であります。そしてさらにそのイエスから派遣されて、イエスから託された使命を果たす者であります。派遣された者は、派遣した方から命じられた、委託されたことを行う者であって、自分のこと、自分勝手なことを行う者ではありません。派遣された者は、派遣した方の御心を行う者であるということであります。司教、司祭について言われておりますが、さらに洗礼を受け、堅信を受けた全ての信者は同じように派遣されておりますので、派遣された方の御心をよく知り、そして行わなければならないのであります。
 悪霊を追い出すということが言われております。これは何を意味しているのでしょうか。福音書を読むと、イエスは度々悪霊の追放ということを行っております。今日のわたしたちの環境では、この言葉を理解するのは戸惑いがあるかもしれませんが、悪の力と考えると分かりやすいでしょう。悪が存在すること、悪が力を持っているということに間違いはない。わたしたちは、悪と戦うために、悪を克服するために遣わされていると言わなければならないと思います。
 イエスは12人を選んだ。ルカによる福音の平行箇所で同じことを述べている。平行している箇所を見ると、イエスは山に登って一晩お祈りをしてから12人を選んだのでした。よく祈ってから12人を選んだのです。たくさんの弟子が集まっていました。その中で選りすぐって、12人を選んだ。そのよく祈った上に決断して選ばれた12人でありますが、その中の一人ユダがイエスを裏切ることになった。これは大変不思議なというか、神秘なことであります。どうしてユダは、イエスを裏切ることになったのでしょうか。使徒の使命から外れてしまったのでしょうか。でも考えてみると、裏切ったのはユダだけではないのです。イエスの弟子は全員、イエスを見捨て、そして逃亡してしまった。五十歩百歩同じようなものです。でもさらに考えてみると、ユダは後悔して、そして自殺してしまいました。ペトロもイエスを裏切りましたが、涙を流して痛悔し、イエスに従う決意を新たにしたわけであります。 今の教会の中にある様々な問題をわたしたちはそれを直接にあるいは間接的に、見たり聞いたりしております。教会は罪びとの集まりでもあります。 イエスが選ばれた弟子たち、その人たちも弱い人であり、踏み外すこともある人であり、そして罪を犯す人々でありました。わたしたち自身もそういう者でないとは言えない。聖霊の導きを謙虚に願いながら、日々自分の歩みを主イエス・キリストがいつも導いてくださるように祈り求めて、歩んでいきたいと思います。

(ミサ説教による入門講座、その1)

2017年12月17日 (日)

菊地大司教着座式聖書朗読と説教の英語版

Scripture Readings and Homily for the Mass of Accession

of Most Reverend TARCISIUS KIKUCHI ISAO as Archbishop of Tokyo

St Mary’s Cathedral, Tokyo, December 16, 2017

 

The Epistle of St Paul to the Romans (12:2-10)

(1 I appeal to you therefore, brothers and sisters, by the mercies of God, to present your bodies as a living sacrifice, holy and acceptable to God, which is your spiritual worship.) 2 Do not be conformed to this world, but be transformed by the renewing of your minds, so that you may discern what is the will of God—what good and acceptable and perfect.

3 For by the grace given to me I say to everyone among you not to think of yourself more highly than you ought to think, but to think with sober judgement, each according to the measure of faith that God has assigned. 4 For as in one body we have many members, and not all the members have the same function, 5 so we, who are many, are one body in Christ, and individually we are members one of another. 6 We have gifts that differ according to the grace give to us; prophecy, in proportion to faith; 7 ministry, in ministering; the teacher, in teaching; 8 the exhorter, in exhortation; the giver, in generosity; the leader, in diligence; the compassionate, in cheerfulness.

 9 Let love be genuine; hate what is evil, hold fast to what is good; 10 love one another with mutual affection; outdo one another in showing honor.

 

The Holy Gospel according to John (1:1-18)

1 In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. 2 He was in the beginning with God. 3 All things came into being through him, and without him not one thing came into being. What has come into being 4 in him was life, and the life was the light of all people. 5 The light shines in the darkness, and the darkness did not overcome it.

 6 There was a man sent from God, whose name was John. 7 He came as a witness to testify to the light, so that all might believe through him. 8 He himself was not the light, but he came to testify to the light. 9 The true light, which enlightens everyone, was coming into the world.

 10 He was in the world, and the world came into being through him; yet the world did not know him. 11 He came to what was his own, and his own people did not accept him. 12 But to all who received him, who believed in his name, he gave power to become children of God, 13 who were born, not of blood or of the will of the flesh or of all the will of man, but of God.

 14 And the Word became flesh and lived among us, and we have seen his glory, the glory as of a father’s only son, full of grace and truth. 15 John testified to him and cried out, “This was he of whom I said, ‘He who comes after me ranks ahead of me because he was before me.’” 16 From his fullness we have all received, grace upon grace. 17 The law indeed was given through Moses; grace and truth came through Jesus Christ. 18 No one has ever seen God. It is God the only Son, who is close to the Father’s heart, who has made him known.

 

Homily

These words from the beginning of John’s Gospel have just been read: “There was a man sent from God, whose name was John. He himself was not the light, but he came to testify to the light” (Jn 1:6,8). John the Baptist himself was not the light, but was a witness to the light. This is also the mission of our Church in Japan today. I feel that it is our mission to carry on the mission of John the Baptist. We ourselves are not the light. We receive the light and we should witness to the light.

 Let us reflect again what the evangelizing mission of the Church in Japan should be.

It has been 468 years since St Francis Xavier brought the Gospel to Japan in 1549. Many excellent and outstanding missionaries of the Gospel have dedicated themselves to the mission of evangelizing Japan. However, I feel that the present situation of Japan still has a long way to go. I think we are still at the stage where the Old Testament becomes the New Testament. Surely, at this present time, don’t we need to carry on the role of John the Baptist and give careful and sincere witness to the Gospel of joy which is Jesus?

 In 1987 the Catholic Church of Japan held what was called The National Incentive Convention for Evangelization (NICE-1) and adopted as its aim: “building an open Church.” “To whom should the Church be open?” you may ask. It is to the poor and the powerless in society.

 The Lord Jesus became the friend and companion of people who were regarded as sinners, people who were despised, people suffering from illnesses and handicaps, people who were discriminated against. We want to learn from Jesus how to be a Church which is friendly to those who are aware of their weakness and sinfulness. We want to be a community which welcomes and offers solace to the physically and psychically ill and those who suffer from various disabilities. We want to befriend and encourage people who wander about in darkness and have lost sight of any purpose in life. Many people are so lonesome they can no longer see any reason for living. Everyone would like to enjoy human relations in which they are respected and treated as meaningful.

 It is painful to hear people say that they hesitate to set foot in a church, or that they went once but no one paid any attention to them. We want to be a church community that can be seen as open for anyone to enter and feel welcome.

 People are truly looking for salvation, which can be seen in actual statistics, in the statistics of those who take their own life. The actual cause of death among young people in Japanese society today is something we must take to heart. Statistics show that suicide is the major cause of death among people from 15 to 39 years of age. This is a very sad and regrettable situation. How should we religious people respond to this problem? In order to improve the situation, the Catholic Church in Japan must exert all its effort and offer its prayers for this purpose.

 So our mission as Church, is to show forth the light of Christ that we have received and become the body of Christ enlivened by the Holy Spirit. There are many members in the body of Christ, each with a different function. All of these are brought together into the one work of Christ. In today’s first reading, the Apostle Paul gave us a surprising admonition: “Love one another with mutual affection; outdo one another in showing honor.” (Rom 12:10) How is this admonition carried out among us? Don’t we rather point out failings and belittle one another? I hope we shall rather esteem one another’s strengths and merits, acknowledge each person’s role and ministry, and respect one another.

 In fact, it is not easy to put these words of St Paul into practice. As he had previously declared in his first letter to the Corinthians, there were divisions and confrontations in the church of Corinth (1 Cor 1:10-17). The gospels, too, tell us that even the 12 disciples were quite concerned about who was the greatest among them (Mk 9:33-37, Mt 13:1-5, Lk 9:45-48). On the other hand, we are also told that people outside the church, on seeing the first generations of Christians, said in admiration, “See how they love one another!” This surely shows that the following words from the Gospel of John were put into practice: “Just as I have loved you, you should also love one another. By this everyone will know that you are my disciples” (Jn 13:34-35). The Church grew and expanded thanks to the witness given by Christians through their love.

 If people who suffer and find it difficult to live in this tempestuous society of present-day Japan can see us living in close companionship, helping and loving and forgiving one another, perhaps that could be called our greatest evangelizing mission.

 Most merciful Jesus, pour out your Holy Spirit on us gathered here today, and grant us the grace to learn from you how to show forth the mercy of God in our daily life. Amen.

菊地大司教着座式説教

 

説教

ヨハネの福音の冒頭の部分が読み上げられました。

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は光ではなく、光について証しするために来た。」(ヨハネ16-7)

洗礼はヨハネ自身は、光ではなく、光を証しする人でした。いまのわたしたち日本の教会の使命も。この洗礼者ヨハネの使命を遂行することではないか、と思います。わたしたち自身は光ではありません。光を受けて光をあかしすべきものなのです。

 

今あらためてこれからの日本の教会の宣教mission・福音化evangelizationの使命に思いを馳せます。

1549年、聖フランシスコ・ザビエルが日本に福音を伝えてから今年で468年が経過しました。多くの立派な優れた福音宣教者が日本の宣教mission・福音化evangelizationのために献身してきました。

しかしながら今の日本の状況はまだまだ遠い道のりを歩んで行かなければならないと感じています。まだ旧約聖書から新訳聖書に移行する期間に留まっているように感じます。まさに今こそ、丁寧に、誠実に、洗礼者ヨハネの役割を果たしながら、喜びの福音であるイエスの姿を現し伝えていかなければならないのではないでしょうか。

 

1987年、日本のカトリック教会は、第一回福音宣教推進全国会議(The National Incentive Convention for Evangelization)いわゆる「NICE-1」を開催し、「開かれた教会づくり」を目標に掲げました。

誰に対して開かれなければならないのか、と言えば、それは、貧しい人々、弱い立場の人人々へ開かれていなければならない、ということです。

 

主イエスは罪人とされて、蔑まれている人々、病気・障害に苦しむ人々、差別されている人々の友となりその仲間となりました。わたしたちは主イエスにならい、自分の弱さ、罪深さを知る者に優しい教会でありたいと願います。心身の病気、不自由に苦しみ悩む人々のよりどころ、安らぎとなる共同体でありたいと願います。行き暮れ迷い、生きがいを失っている人々の友となり励ましとなりたいと願います。

多くの人が孤独であり生きる意味を見失っています。誰でもその人として大切にされ尊敬される交わりを築き広げていきたいと願っています。

教会は敷居が高い、行きづらい、入りにくい、行ってみたがだれも相手にしてくれなかった、などの声を聞くのは辛いことです。どなたもどうか来てください、歓迎します、という様子と態度が見える、そういう教会共同体になりたいものです。

実にいろいろな人が救いを求めています。それは具体的な統計、自殺者の統計に現れています。ここにわたしたちが心して受け取るべき日本の社会の事実があります。それは若い人の死因に付いてです。なんとその第一位が自死(自殺)であるということです。15歳から39歳の世代の死因の第一は自殺という統計があるのです。

これは非常に残念で悲しい報告です。わたしたち宗教者はこの問題にどう答えたらよいでしょうか。この事実を改善するために日本のカトリック教会は全力を尽くし、そのために祈りをささげなければなりません。

 

さてわたしたち教会の使命は、キリストの光を受けたキリストを指し示すしるし、また聖霊を受けたキリストの体となる、ということです。キリストの体にはいろいろな部分がありいろいろは働きがあります。すべてはキリストおいて一つの働きにまとめられるのです。今日の聖書朗読で使徒パウロは驚くべき言葉をわたしたちに残しました。

12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

(ローマ1210)

わたしたちの間でこのパウロのことばはどのように実行されているでしょか。お互いに仲間の欠点を指摘し、貶しあっている、ということはないでしょうか。もっと互いに相手の長所・美点を評価し合い、その人の役割と使命を認め、互いに尊敬し合うようにしたいものです。

 

実際、この言葉の実行は容易ではありません。既に新約聖書のコリントの信徒の手紙一が告げているように、コリントの教会の中に、分裂と対立がありました。(一コリント110-17)

また福音書が告げているように12人の弟子たちすら、自分たちの中で誰が一番偉いのか、ということが彼らの大きな関心事でした。(マルコ933-37、マタイ131-5、ルカ945-48参照)

他方、教会の外の人が、初代教会の信者たちを見て「なんと彼らは互いに愛し合っていることか」と感嘆の声を上げていた、とも伝えられているのです。まさにこれは次の使徒ヨハネの言葉が実行されていたことをも想起させます。

 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ1334-359

教会はキリスト信者の愛の証しによって成長し発展してきました。

 

いわば現代の荒れのような現代の日本の社会の中で、生きづらさに苦しむ人々の目に、わたしたちが互いに助け合い愛し合い赦しあって仲良く生きている様子が伝わるならば、これにまさる宣教・福音化はない、とも言えるでしょう。

 

慈しみ主イエスよ、聖霊の注ぎを通して、あなたにならって神の慈しみを日々実行する恵みを、どうかここに集うわたしたちにお与えください。アーメン。

 

 

カトリック東京教区大司教を辞するにあたりぜひ伝えたいこと

岡田武夫大司教送別ミサ 2017年12月10日、関口教会

待降節第2主日を迎え、今日の聖書朗読、福音朗読を共に味わいながら、わたくしが、東京大司教として、このカテドラルで主司式する、最後のミサをお献げします。
第一朗読は、イザヤ書、40章です。イザヤ書は、わたくしにとりましても、大変大切な、心に深く響く、聖書の巻物であると、心から、ずっと、そのように思っておりました。
今日の箇所の中で、わたくしの心に強く迫ってくる言葉は、どれであるかと言いますと、 「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ」という箇所です。
イザヤの40章は、バビロン捕囚という、イスラエルの民にとって、非常に、信仰から経験をしていたときに、告げられた言葉であると言われております。イスラエルの民に、ユダヤの民が滅ぼされ、そして、ユダヤの指導者たちは強制移住させられ、そこで、毎日、辛い経験をしておりました。そのときに、彼らの信仰は、清められ、強められ、そして、メシア、キリストへの信仰癡希望が、強く、彼らの心に刻まれてきたと言われております。
「どうして、わたしたちは、このような目にあっているのだろうか」という、彼らの日々の反省の中で、主なる神への信仰が清められ、希望が強められていきました。
わたくしが司教になりましたときに、日々の心構えとして、イザヤの40章の終わりの部分を選びました。今日の朗読箇所の後の部分ですが、その言葉は、「主に望みをおく人」という部分の言葉です。その前後を、もう一度読み上げて、みなさまに、最後の言葉として、お伝えしたいと思います。
「ヤコブよ、なぜ言うのか
イスラエルよ、なぜ断言するのか
わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と。
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦(う)むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲(わし)のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザタ40・28-31)

「主に望みをおく人は新たな力を得る。」(イザヤ40・31)。
わたしたちは、厳しい現実の中で、力を落とし、失望するという経験を持つことがありますが、どのようなことがあっても、神への信頼、信仰、希望を新たにし、あくまでも、いつも「主に望みをおく人」として、神様からの力をお願いする。そのような者として歩みたいと、望みました。
今日は、待降節第2主日であり、主イエス・キリストのご降誕を、喜び、祝う準備のときですが、同時に、わたしたちは、主の再臨、「主イエス・キリストが、世の終わりに、ご自分の計画を、完全に成就し、父なる神の創造の働きが完成するために再びわたしたちの所に来てくださる」という、わたしたちの信仰を新たにし、希望を強めていただき、日々、愛の務めに励むことを、改めて確認する、大切なときです。

第二朗読を、ご一緒に見てまいりたいと思います。
わたしたちが生きている、この世界の現実の中には、混乱、不条理、矛盾という現実があります。そして、人間と自然界との関係も、うまくいっていない。 教皇フランシスコの「ラウダート・シ」という教えを、みなさん、ご存知ですね。
神様のお造りになった、この世界、自然が、本来の姿を傷つけられ、自然界と人間との関係に破たんが生じているということを、教皇様は指摘しております。
神の救いの働き、贖(あがな)いの働きは、人間はもちろんのことですが、この世界の、神様がお造りになったすべてのものを、神のお望みになる、新しい天と、新しい地に、造り変えてくださる。そのような、神様の計画を、わたしたちは、改めて信じ、神様のみ心に希望を持って、日々を歩んでいかなければならないと、今日の福音朗読が告げていると思います。
「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ニペトロ3・12-13)
わたしたちは、毎日、いろいろなことをしなければならない。いろいろなものに囲まれ、捉われて、そして、神様のみ心を見失いがちです。 本当に大切なことを第一にして、生きていくことから、逸れてしまっている日々を、わたしたちは送っているのではないか。いろいろなことがあり、いろいろなものがあるが、そのようなものは、すべて、いつかはなくなる。過ぎ去ってしまう。神のみ心に従って生きる。わたしたちの、愛の行いだけが、永遠のいのちを持っているのであると、聖書は謳っているのではないかと思います。

さて、日本の教会の、これからの歩みを、改めてご一緒に考えてみたいと思います。 ご承知のように、1549年、聖フランシスコ・ザビエルが、日本に福音を伝えてくださいました。それから、400年、500年が経過しています。 日本のカトリック教会は、第二ヴァチカン公会議の教えを受けて、主イエス・キリストの福音をのべ伝え、日本の社会の福音に適ったものに変えていくために、力を尽くしたいと考え、日本の司教協議会が主催して、福音宣教推進全国会議という、画期的な会議を開催しました。今から30年前、1987年のことです。
わたくしは、それから13年後、大聖年の年ですが、2000年9月3日、こちらで、東京大司教に就任し、着座式が行われました。いま、東京大司教の任務を終了するにあたり、17年前の9月3日に、みなさまにお伝えしたことを、もう一度、思い起こし、そのときに、みなさまにお願いしたことを、改めて、お伝えしたいと思います。
第1回福音宣教推進全国会議、NICE-1では、「開かれた教会づくり」を目標に掲げました。誰に開かれた教会であるかというと、もちろん、すべての人に開かれているという意味ですが、わたしたちの教会は、非常に近づきにくい、苦しんでいる人、悩んでいる人、あるいは、自分のような者は、とても、キリスト教の教えには縁がないと思う人、病気の人、体だけではなく、心に問題を感じている人、周りの人からも変わっていると思われている人、そのような人が温かく受け入れられ、大切な人として扱われ、自分の居場所がある、安らぎがある、慰めがある、生きる意味を見いだすことができる、そのような教会になりたい。もちろん、そのようになっている部分もありますから、みなさまは、教会に来られているのだと思いますが、多くの人にとって、わたしたちの教会は、自分にとって、安らぐことができる、そういうものになっていないというのが、現実です。 わたしたち自身の間にも、なかなかうまくいかない、いろいろなことがあると思います。どうか、聖なる助けによって、そのような現実の中で、互いに受け入れ合い、ゆるし合い、そして、不完全な人間、弱い人間、道から外れてしまう人間同士が、支え合い、助け合う、そのような教会が、成長し、広がって行きますよう、心から願い、祈ります。
弱い人間が、そのようにできるためには、神の助け、聖霊の導きが必要です。わたしたちは、父と子と聖霊を信じています。特に、人間としてのナザレのイエスが去ったときに、わたしたちに聖霊を注いでくださった。聖霊は、いまも、いつも、わたしたちとともにいてくださいます。聖霊の導きを信じ、そして、このような自分も、神から赦され、受け入れられている者であるという信仰を、より強くしていただき、お互いに、ゆるし合い、助け合う、そのような、キリスト教会の姿を、人々に表し、伝えていきたい。
教会に行ったけれども、冷たかった。だれも、わたしのことを認めてくれない。もう、そのようなところには行きたくない。そのような言葉を、聞かないわけではない。わたしたちには、そのようなつもりはありませんが、外から見ると、わたしたちの教会は、そのように見えることがあるようです。 わたしのような者でも、そちらに行けば、ほっとする。そのような交わりを、わたしたちの教会は、もっとしっかりとしたものに押し広げていきたい。
教皇ベネディクトは、即位されたときに、「現代の荒れ野」ということを言われました。本当に、生きることが難しい、この社会、この時代、わたしたちのつながりのなかで、生きる力、生きる希望を、日々見出すことができるよう、そのような教会でありたいと思います。

ヨハネの言葉を、最後にお伝えします。 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13・34)

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