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2010年12月

2010年12月28日 (火)

無縁社会で

アレルヤ会 「クリスマスの集い」ミサ説教 ―聖家族の日にー
2010年12月26日、ケルン・ホールで
第1朗読 シラ書(シラ3・2-6,12-14)
第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ3・12-21)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ2・13-15,19-23)
 今日26日は、聖家族の日となりました。今日の新聞に目を通しておりましたところ、歌人の河野裕子さんの歌人のご主人で、永田和宏さんが記事を書いているのに目が留まりました。 最近、河野裕子さんについての記事がよく出てきているようです。 永田さんは河野裕子さん、自分の妻を看取っておられますが、最期まで歌を作っていたそうです。亡くなる少し前に残された歌を自分で書く力がないので口述筆記されたそうです。
 「ご飯を炊く 誰かのために死ぬ日までご飯を炊けるわたしでいたい」「ご飯を炊く 誰かのために死ぬ日までご飯を炊けるわたしでいたい。」 こういう歌だそうです。夫と妻のつながりを大切にして、最後まで妻の役割を果たすようにされたし、母の役割を大切にした方だそうです。二人のお子さんも歌人になっているそうです。
 最近、私は、いろいろな機会に「無縁社会」ということにふれております。昨晩のその前の24日のクリスマスの主のご降誕の夜半の説教で「無縁死」ということを申し上げました。「無縁仏」という言葉がありますけれども、「無縁死」、NHKで、評判になった。その番組が本になったそうです。実は時間ができたらゆっくり読んでみたいと思っております。本の一部を覗いただけにすぎませんが従来の日本の社会は三つの縁でつながっている。地縁、土地の縁ですね。血縁、血の繋がりです。あまり聞かない言葉ですけれど社縁、会社の社であります。これらこの三つの縁がゆるくなり壊れてしまっているのが今の社会です。社縁というのは、わたしの印象では、日本人にとって会社は自分の家のようなもので、会社は大きな家族で、終身雇用がふつうでありまして、死ぬまで面倒をみてもらう、つまり最小限会社が生活をみてくれるという印象をもっていたわけですが、でも今はそういうことは言えない。
 地縁というのも地方と都市では違うと思いますが、地方でも隣近所と付き合い方が変わってきているのではないでしょうか。昔なら近所に住んでいる人々の様子がお互い分かっていました。かえって煩わしいそういう時代、そういう環境もあったのかもしれません。今は隣にどんな人が住んでいて、どんな気持ちで生きているのかも分からない。分かろうとするといろいろ煩わしいことになるということです。そして言うまでもなく血縁、これは大変難しい状況にある。1人で亡くなっていく方が多い。『無縁社会-無縁死三万二千人の衝撃』という本があります。身元不明の自殺や行き倒れ、餓死や凍死、全国の市町村での調査の結果こうした無縁死が年間32000人に上ることが明らかになって、ごく当たり前の生活をしていた人がひとつ、またひとつと社会の戸のつながりを失い一人孤独に生きて、亡くなっていく。こういうことが言われております。 聖家族の日、マリア様が天使のお告げを受けてみ言葉の通り、そのようになりますようにと仰ったのでイエズス様が私たちのところに来て人間となられたという信仰、「そうなりますように」ラテン語で“FIATフィアット”イタリアの車の名前はFIATフィアット、さすがイタリア人は信心深いなあと思ったのですが、これは関係ないですね。イタリアの車の名前は同じ「フィアット」です。このマリア様を受け入れて夫婦になった方がヨセフという人です。自分の許婚が妊娠したという紛れもない事実に対して大きな不安と戸惑いを覚えたわけですが、夢の中で、天使のお告げを受けてマリア様に宿っている子は、聖霊によるものだと言われてこれを信じて受け入れた。聖霊によって妊娠したというのは、考えようによっては、全員が聖霊によって妊娠したともいえますが、神様の御旨によって、でもこの場合は、男を知らないのに妊娠したということでありますので、何も疾しいことがありませんと弁解しても誰が信じてくれるだろう、そういう非常に難しい危険な状況だったわけです。そのマリアを受け入れて、ヨセフは家庭を作りイエスという子どもを育てました。 今日のマタイの福音では、エジプトに逃げて行く日が綴られていますが、やはりこの時も、主の天使が夢でヨセフにあらわれてそして今度は、ヘロデが死ぬとまた天使がヨセフに夢であらわれて、イスラエルに帰りなさい。またその次も夢でお告げがあって、ナザレの町に行く。夢で言われてそれを信じてその通りにするということ。重要なことについて人の生死について夢の中のお告げを根拠にするというのはどんなんでしょうかね。ヨセフは神様の導きと信じマリアとイエスを見守って育てて、その役割が終わりますと静かに退場しました。福音書でヨセフが最後に登場するのはイエスが12歳の時のエルサレム詣野話です。「どうしてあなたはこんなことしたのですか。わたしもお父様もあなたのことをこんなに心配しているのに」とマリア様がイエス様に仰ったときのことです。今、この三つの縁、地縁・血縁・社縁というものが脆くなった時に、わたしたちは教会としてどうしたらいいのだろうか、どうしなければならないんだろうか。
 1993年のことですが、17年前になりますが、日本の司教たちは、第二回の国民宣教推進全国会議をやって、家庭が非常に危ないんだ、家庭をもっとしっかりするためにどうしたらよいかを話し合いましょうということで、全国集会を開きました。教会はキリスト者が所属している家庭それは必ずしも全員が信者でないのですけれども、むしろ全員が信者である家庭が非常に少ないのです。一人ひとりが孤立している状況の中で、もう一回教会という大きな家族を作りなおして、信仰においてつながりながら毎日のいろいろな問題に対応してゆこうということを目指しました。わたしたしの毎日は本当にいろいろなことでおりなされているわけです。 父や母を敬いなさいということ。わたしは個人としてやっと最近になって、自分は父や母を敬いなさいという戒めを疎かにしてしまったなあと思っております。もう遅いのでありますが、わたしの置かれている立場、教会の中でわたしに先に司祭としてお年を召されて、力を発揮できなくなっていらっしゃる方のお世話をさせていただく。それも自分で直接できないので、どうしたらいいかみんなで相談しながらいろいろなことをし始めたにすぎない。皆様はもっと切実にこの問題を感じていらっしゃることと思います。老々介護なんて言葉は、珍しくなくなったことのようです。そして「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく夫につかえなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらくあたってはならない。」こういう表現には抵抗があるかもしれませんが、妻がいませんので、かえって司祭になると、夫と妻の在り方についてお互いに話を聞くことがあります。永い生涯を共に喜びとご苦労を傍でみさせていただいている。どんなにか大変なことか、やりきることは大変な事業だと思います。皆さん頑張って下さい。 それでは親子の関係ですが、「子どもたちどんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。」コロサイ人への手紙は、もっと勉強しなければいけないんですけれど。親子の関係も大切で、また難しいと思いますね。わたしも自分の親のことが分からなかった。もう今頃になっては遅いんですけれど、人間関係の基本は親子であります。自分の親、そして子どもとの関わりを自分はどうしたらよいか考える時期があると思います。「聖家族の日」この無縁社会に教会が大きな家族としてお互いに支え合い助け合う、そのためにもっと具体的にきめ細かくわたしたちのつながりを作っていく、強くしていく必要があると感じる今日この頃です。孤独に死んでゆく人、あるいは自死ですね、最近自殺というよりも自死を遂げる人が毎年30000人もいるということです。この社会の中で人間は、ちょっとした周りに人とのつながり、これは言葉であったりあるいは笑顔であったり明日はこれ一緒にやるというようなささやかなことであっても、それによって明日への力を受け、そして勇気をいただいて歩んでいくことができると思うんです。大きなことをいっぺんにやろうとしてもできませんが、自分ができる小さなことをやってゆきたい。ラインホールド・ニーバーという人が残した有名な言葉があります。これは今年何十回も言っているんです。
 「神さま、わたしにお与えください。変えられないものを受け入れる心の静けさを、変えられるものを変える勇気を、そしてその二つを見分ける知恵を。」 世の終わりまで、今、自分ができること、自分しかできないこと他の人には、代わっていただけない事もあります、それぞれの人によって違うわけであります。皆さんにとって何でしょうかね。他の人には代わっていただけないこと、それをつなげていくと、神の国の到来の印になっていくのかなあ、という気がします。

2010年12月25日 (土)

早朝のミサ

主の降誕(早朝)のミサ説教 ―-ペトロの家でー
2010年12月25日午前7時、、ペトロの家聖堂にて
今日の福音で「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とあります。マリア様はイエズス様の誕生の出来事の意味を黙想しておられたのでしょうか。同じような場面が12歳の少年イエスの出来事のときにも出てきます。そのときのイエスの言葉は「どうしてわたしを捜したのですが。わたしが自分の父の家にいるのは当たりまえだということを、知らなかったのですか」です。「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。・・・母はこれらのことをすべて心に納めていた」とルカ福音は伝えています。
マリア様の生涯は神様のみ心を求め、み心に従うという生涯でした。
待降節第4主日のマタイの福音は、ヨセフが夢で天使の告げを受け、マリアを信じて受け入れた次第を語ります。この日の各年共通用の公式祈願の集会祈願は次のとおりでした。(聖書と典礼8ページ参照)
「恵み豊かな父よ、わたしたちの心にいつくしみを注いでください。みことばが人となられたことを信仰によって知ったわたしたちが、御子の苦しみと死を通して復活の栄光にあずかることができますように。」(聖霊の交わりに中で・・・は省略)
この祈りはお告げの祈りの祈願と同じです。文語での祈りは次のようでした。
祈願 主よ、われたら天使の告げを以って、御子キリストの御託身を知りたれば、願わくはその御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄えに達するを得んため、われらの心に聖寵を注ぎ給え。われらの主キリストによって願い奉る。アーメン。
わたくしの神学生時代はまだお告げの祈りはラテン語で唱えていました。幸い、この習慣はわたし個人には残っており、今でもひとりでラテン語の祈りをしています。
Oremus Gratiam tuam, quaesumusu, Domine、mentibus nostoris infunde: Ut qui Angelo nuntiante,Christi Filii tui incarnationem cognovimus, Per passionem eius et resurrectionis gloriam peruducamur. Per eumdem Chirstum Dominum nostrum.
天使のお告げをうけいれてFiat とお答えになったマリア様の信仰に倣いながら新しい年を迎えたいものです。多くの人が病気、障害、そして孤独に苦しんでいます。どんな状況にあっても人々と苦しみを分かち合、賢明に勇気を持って希望のうちに歩んでいくことができますよう、マリア様の取次ぎによって聖霊の導きを祈りましょう

2010年12月20日 (月)

お告げの祈り

待降節第4主日説教要旨 ―お告げの祈りー

2010年12月19日、午前10時、鴨川教会にて
2010年12月19日、午後2時、館山教会にて
第1朗読 イザヤの預言(7・10-14)
第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(1・1-7)
福音朗読 マタイによる福音(1・18-24)
 本日の、各年共通用の公式祈願の集会祈願は次のとおりでした。(聖書と典礼8ページ参照)「恵み豊かな父よ、わたしたちの心にいつくしみを注いでください。みことばが人となられたことを信仰によって知ったわたしたちが、御子の苦しみと死を通して復活の栄光にあずかることができますように。」(聖霊の交わりに中で・・・は省略)
 お告げの祈りでは朝昼晩と一日三度にわたり、わたしたちはマリア様に祈ります。かつての文語でのお告げの祈りは、次の「祈願」で結ばれておりました。
 祈願 主よ、われたら天使の告げを以って、御子キリストの御託身を知りたれば、願わくはその御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄えに達するを得んため、われらの心に聖寵を注ぎ給え。われらの主キリストによって願い奉る。アーメン。
 この祈りは本日の集会祈願と同じです。大分前のことですがあるときわたくしは、口語と文語の違いがあっても内容は同じであることに気がつきました。念のためラテン語のお告げの祈りの結びの祈りと比べてみました。やはり、実はお告げの祈りの結びの祈願は待降節第4主日の集会祈願と同じです。 お告げの祈りは、マリア様が天使にお告げを受けて、
 「おことばどおりになりますように」とお答えになられた、このマリア様の深い信仰を黙想する祈りです。聖霊によって救い主の母になる、というお告げを信じて受け入れることは大変なことです。誰が聖霊によって懐胎したと信じるでしょうか?当時は、夫でない人の子を宿せば、石殺しに刑にあわなければならないという厳しい掟がありました。聖霊によって救い主の母となるという神秘をどうして婚約者のヨセフに理解してもらえるだろうか、とマリア様思ったことでしょう。でも神様にはできないことはない、と告げられてマリア様は、「おことばどおりになりますように」と答えられたのです。まさに命がけの応答でした。
 この「なりますように」(ラテン語でフィアット)というマリア様のおことばは皆さんよくご存知です。今日は聖ヨセフの信仰をご一緒に黙想したいと思います。
 婚約者のヨセフはさぞ苦しみ悩んだことでしょう。聖ヨセフは夢の中でお告げを受けました。 「ダビデの子ヨセフ、恐れずに妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。・・・」ヨセフはこのお告げを信じてマリア様を受け入れました。夢の中でのお告げを信じることも大変なことだと思います。
 マリア様の信仰、ヨセフ様の信仰、そしてお二人の間の信頼により、イエズス様がお生まれになり、聖家族が誕生しました。 現代の日本社会の大きな問題は家庭・家族の問題であるとわたくしは思います。家族の間の結びが弱く、信頼関係も余弱い・・・家族で助け合い支えあうことが難しくなっています。今こそ聖家族の模範に倣うべきときではないでしょうか。
 この機会に、地味な存在である夫、父としての聖ヨセフの存在に皆さんの目を向けてください。ヨセフはベネディクト16世教皇様のお名前です。
 聖ヨセフのように誠実に信仰深く、家庭を大切にして生きていくことができますよう、祈りましょう。なおご存知のように日本カトリック司教団は「聖母への祈り」(かつての天使祝詞)を改定して、「アヴェ・マリアの祈り」とすることになりました。12月8日、無原罪の聖マリアの日に文案を発表しました。この文案をどう思いますか?特に「罪深いわたしたちのために」のところですが、読み方が「つみふかい」がいいのか、「つみぶかい」のほうがいいでしょうか?ご意見を伺いたいと思います。
 (同じ日に安房・上総宣教協力体の二つの教会、鴨川教会と館山教会でミサをささげました。説教の内容は大体同じです。要旨を掲載します。)

2010年12月12日 (日)

部落差別とわたくし

 さいたま教区部落差別人権委員会2010年待降節講演会講演要旨
 -部落差別とわたくし―                                     
               さいたま教区本部事務所にて、2010年12月11日
 1991年復活祭の日に東京教区で部落問題委員会が設立され、岡田が初代担当司祭に任命されました。しかしまもなく浦和教区の司教に任命されたため、浦和教区に移ることとなりました。
 1987年に行なわれたNICE=1の提案に取り組むプロジェクトチームの一つ、濱尾司教を委員長とするチームでは『ともにだれと』(上下)という冊子を編集し、日本におけるマイノリティーの問題を取り上げました。 マイノリティーの筆頭に上げられているのが被差別部落の人々でした。 橋本瑠璃子シスターは被差別部落の人であり、自ら自分の出身を告白し、部落差別克服のために生涯をささげて いる人です。そのシスターは言っています。 「一般社会と同じく教会のなかでも、差別性に満ちた言葉と態度に接するとき、差別を受けることを知りながら、どうして本名を名乗り、部落宣言することができるでしょうか。」
 教会のなかでも、部落の人であることがわかればどの様な蔑み、辱め、どのような虐めを受けるか分からない。どうして、部落民であることを名乗れるでしょうか、というのです。自分の出身を隠さなければならないとは何と悲しいことでしょうか!
 人はだれでも知られたくないことがある。結婚、就職・・・などに際して知られたくない事情があります。家族にハンセン病者、精神障害者がいる場合も、あまり知られたくない場合でしょう。家族のなかに犯罪者がいる場合もそうかもしれません。しかし自分自身には何の問題でもないのに自分の出身を隠さなければならないとはなんと不条理なことでしょうか!
 しかし他方、自分が告白するのは自分の責任であるとしても、その結果は家族などの関係者に及んでいくことに なります。自分だけかっこうよく告白しても、その結果、累が家族に及んでは、家族はやりきれない、ということがあります。
 司教団の部落問題委員会委員長をしていたといに、『昌男の日記』という啓発ヴィデオに出会いました。 大阪の小さな商事会社の部長、前田とその弟、昌夫の話です。昌夫は交通事故で死亡し、妻かずえさんと二人 の子どもが残されました。かずえさんは被差別部落出身、調理師の資格を取り給食センターに就職、そこでいじめと差別をうけることになりました。
 兄はかずえさんをかばい助けますが、気がつくと自分の差別者になっていることに気がつき愕然とする。前田の子どもとかずえさんの子どもはいとこ同士であるので一緒に近所で遊んだりします。近所の人がその辺のことでうわさをする。前田は興奮して、「うちは違う」といってしまいました。それはかずえさんの子は部落の人だが自分の子は違うのだ、という意味に他ならないのです。  東京教区の部落問題委員会は司祭のために啓発ヴィデオ『絹の道の宣教』を編集し製作しました。司祭は結婚などの問題で信者から被差別別部落について相談を受けることがあります。そこであらかじめ被差別部落にいて学習しておく必要がある、そのために教材として長い年月、多分10年くらい、をかけ、多くのエネルギーを使って製作しました。ヴィデオはまず社会福音化部門担当司祭に公開され、ついで、司祭月例集会のときに、ヴィデオの前半が上映さ れ、解説が行なわれた。
 今回DVDに編集するにあたらイ、その一部を一般公開することとし、すでに、先日、麹町、町田、松戸の3教会で試写会が行なわれた。
 1873年(明治6年)、キリシタン禁制の高札が撤去され、キリシタン宣教が黙認されるようになりました。 横浜でキリストの福音に出会った三好(せんぞう)という青年が友人の山上卓樹にその喜びを伝えた。山上青年は横浜に出てきてパリ外国宣教会のテストヴィド神父から福音を聞き、洗礼を受けました。山上は多摩の故郷に神父を招き、人々への教えを請い、自らも福音宣教者となって宣教しました。福音は「燎原の火」の火のように広がり、多くの人がキリスト者となりました。ちなみに山上は被差別部落の人でありました。すべての人は神の前に平等であり、神はすべての人を愛しすべて人を救ってくださる、という福音のメッセージが被差別部落の人々の心をとらえたのであります。
 わたしはDVDの一部を公開するにあたり、八王子教会の司祭、信徒代表に見てもらって意見を聴取した。教会の反応はどちらかといえば否定的でした。
 「『部落、部落』といわないでもらいたい。一人の青年が福音に出会って信者になり、そこから八王子の教会が始まった。それで充分ではないか。それは歴史上の事実である。しかし、そこが部落であったこという必要はないではないか」、 という感想でした。その問題に触れないで、そっとしておいてもらいたい、ということだろうと思われます。これはいわゆる「寝た子を起こすな」という議論になると思います。分からないでもない、意見です。 他の差別でも同じだが、被害者としては、そっとしておいてもらいたい。そのうちに世間は忘れてくれる。わざわざ思い出させることはない、と思う。言われるとかえって傷つく、ということがあります。でも差別は黙っていればなくなるのでしょうか? わたしたちは犯罪者として磔刑にかけられたナザレのイエスを教祖と仰いでいる宗教団体です。十字架という事実が信仰の根拠です。 わたしたちはミサで毎日イエスの死と復活を記念しています。
 個々の信仰共同体にもその起源があり、それは当時の人々の大切な信仰体験です。  イエスは当時罪人とみなされていた徴税人と食事をし、娼婦を受け入れ、ハンセン病者を癒し、サマリヤ人の女性に話しかけた。当時蔑まれ嫌われ避けられていた人々と接しともに過ごすということは彼らの仲間になることを意味すします。彼らと同じように差別されは排斥されることになります。ここの差別の難しさがあると思います。自分だけ安全なところにいて、弱者に救いの手を差し伸べるのでは、差別の解決にはならないのではないでしょうか。自分も同じように苦しまなければならないのではないか。被差別者の被害を自分のものとすることにならなければならないでしょう。
 イエスは弟子たちに、自分の十字架をもってついて来るのでなければ自分の弟子ではありえない、といわれました。イエスの弟子になるとは、差別された人々の苦しみを共にすることになります。自分が部落の人だと名乗るならば、親兄弟も部落の人だということを知らせることにつながります。勝手に自分の生き方を家族に押し付けていいだろうか、という問題が生じます。確かに、一緒に苦しんでくれるという諒解があることが望ましいでしょう。 教会とは、イエスの十字架を一緒に担うという諒解をしている共同体ではないだろうか。差別の苦しみをともに担う仲間の間には差別はありえません。教会はともに苦しむ仲間つくりの団体ではないだろうか。皆が差別のことで一緒に苦しめば差別は結果的には解消するのではないか。「皆で渡れば怖くない」とよく言いますが・・・。
 この機会に差別と区別の違いについて考えてみましょう。
 「くせに」ということばがあります。「女のくせに」『男のくせに」の「くせ」です。男ではあるが実は男としてなっていない、いわば男の「奇形」「できそこない」だという意味ではないか。ここに差別性が感じられます。違いをはっきり認めないこと、個々の価値を大切にしないところから差別が生まれるのではないだろうか。同じ人間であるということと、ここの人間は固有の存在である、ということの両方が認められなければならないと思うのです。

2010年12月11日 (土)

部落差別

今日はさいたま教区で部落差別についてお話をしますが、問題の難しさを感じています。
差別とは何か?
「寝た子を起こすな」にどう答えるか?
イエスから何を学ぶか?
よい発見がありますように!

エリヤ

待降節第2土曜日、ミサの朗読。

今日の聖書朗読ではエリヤが出てきます。エリヤは代表的な預言者、今週の主日の洗礼者ヨハネはエリヤを髣髴とさせます。今日のマタイではイエスは「エリヤは既に来たのだ」と言っています。今日のシラ書によればエリヤは「火の人」ですが「神に怒りが激しくなる前に、これを静め、父の心を子に向けさせ、ヤコビの諸部族を立て直す者」とあります。エリヤは神の慈しみに訴える預言でもあったのでしょう。洗礼者ヨハネは回心を説きました。回心は心を神に向け直すことと言われます。神を向かえる心の準備が今求められます。

2010年12月 9日 (木)

待降節第2木曜日

イザヤの預言41・13-20
「わたしは不毛の高原に大河を開き 谷あいの野に泉を涌き出させる。荒れ野を湖とし 乾いた地を水の源とする。荒れ野に杉やアカシヤを ミルトスやオリーブの木を植え 荒地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる」砂漠のような東京がこのような緑の豊かな憩いの地になって欲しい。
マタイ11・11-15 洗礼者ヨハネは現れるはずのエリヤである。エリヤのは激しさ、厳しさをヨハネは再現する。イエスは激しくファリサイ人、律法学者を非難する点でエリヤと似ているが、磔刑にかかる点がエリヤとまったく異なる。

石川 倉次

2010年12月9日

点字図書館の役員会。議事進行早く、会議終了時に日本点字の考案者石川 倉次は自分と同じ鶴舞小学校の卒業生だあることを披露、一堂笑顔でうなづく。
帰宅後門間師と、東京医科大学病院にネラン師と佐久間師を見舞う。二人とも気分良好でお話伺いよかった。

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