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2011年2月

2011年2月12日 (土)

世界病者の日

    2011年世界病者の日ミサ説教
                                       2011年2月11日、東京カテドラル関口教会聖マリア大聖堂にて
第一朗読 イザヤの預言(イザヤ53・一-4)
第二朗読 ローマの教会への手紙(ローマ8・18-26)
福音朗読 マタイによる福音(8・14-17)

雪の降る悪い天候の中、世界病者の日のミサにご参加くださいまして有難うございます。
2月11日は聖母のルルドの日であり、聖母が始めてルルドで御出現になられた日です。教皇ヨハネ・パウロ2世はこの日を世界病者の日と定めました。東京教区では2006年よりこのカテドラルで病者のためにミサをささげております。担当は福祉委員会です。
1月11日の年始の集いで申し上げましが、今年は「いのち」の尊さを学び「こころ」を大切にすることを学ぶ年にしたいと思います。そのために日本カトリック司教協議会が発行しているふたつの文書をお読みになるよう勧めます。一つは『いのちへのまなざし―二十一世紀への司教団メッセージ』です。もう一つはカリタスジャパン啓発部会発行の『自死の現実をもつめて―教会が生きる支えとなるために―』です。
人は他の人のとのつながりに支えられ助けられて生きるものです。ところが現代社会はそのつながりが難しく、弱く、薄くなっています。無縁社会ということが言われています。日本の社会では従来、「血縁、地縁、社縁』の三つの縁(えにし)によって人々がつながっていました。しかし現代社会ではこの縁が危機に瀕し、あるいは崩壊している、といわれています。新たに人と人をつなぐ縁を造り広げていくことが求められています。
人生は苦しみであります。四苦八苦のくるしみのなかに病気の苦しみがあります。病気は不条理な苦しみであります。病者は苦しみを訴えています。病者の家族も苦しみます。宗教へ入信する動機は「貧・病・争」だという説があります。わたしも、信者になる頃、病気・障害はなぜあるのだろうか、という問題に悩みました。苦しみの人生のなかで人は互いに助け合い支えあい、そして痛みを分かち合わなければならないのです。この無縁社会では他者の苦しみを分かち合うことが減少しているのではないでしょうか?
本日の第1朗読、イザヤの預言では他者の病を負う主の僕の姿が告げられています。
   彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
   多くの痛みを負い、病を知っている。
       彼はわたしたちに顔を隠し
       わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
      彼が担ったのはわたしたちの病
      彼が追ったのはわたしたちの痛みであったのに
      わたしたちは思っていた
      神の手にかかり、打たれたから 
       彼は苦しんでいるのだ、と。
主の僕はほかの人たちの病を背負い、ほかの人たちの痛みを負いました。ここにイエスの受難の姿があらかじめ前触れとして示されているような気がします。
教皇ベネディクト16世は《第19回世界病者の日教皇メッセージ》で言っています。
 「人間であることの真の基準は、苦しみと、苦しむ人との関係において根本的に定められます。これは個人にも社会にも言えます。苦しむ人を受け入れられない社会、苦しみを分かち合い、こころから共感して苦しみを担うことのできない社会は、残酷で非人間的な社会です。(教皇ベネディクト16世回勅『希望による救い』38)」
本日の福音では、このイザヤの主の僕はイエスにおいて実現したとされています。
 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
 「彼はわたしたちの患いを負い、 わたしたちの病を担った。」
イエスの3年間の宣教を見ますと、癒しの働きと悪魔祓いが目立ちます。実にイエスは人々を病・障がいから癒す人であり、汚れた霊や悪靈を追放する人でありました。
「イエスは言葉で悪靈を追い出し」とありますが、これはどういうことでしょうか?
言葉には神の力が宿ります。わたしたちは日々ことばを使っていますが、どのようにつかっているか、この機会に反省したいものです。言葉は人を癒し励ますために使いたいものです。
東京教区の優先課題の一つに「心の問題」があります。言葉はこころを運びます。場合によって人に注意したり忠告したりしなければならないことがあります。結果的に人を傷つけたり怒らせたりしてしまうことは避けられません。しかし誠意を持って、自分の感情の満足のためではなく、その人自身が善くなるよう願って行なわなければならないのです。
心の問題というとわかりにくく、また難しいですが、人の話を傾聴すること、そして、どのような言葉を使うのか、日々反省することから始めたいと思います。
イエスによって建てられ、イエスのみ業を継承する教会は、病者を癒し助け労わる仕事を大切にしてきました。病者のために修道会も多数設立されました。今日でも多くの人がキリスト教の医療機関で奉仕しています。教皇は本日のメッセージでこれらの人々への深甚なる感謝を込めて祝福を送っておられます。
医療関係者、ボランティアの皆様、そして病院や養護施設や家庭であらゆる病める兄弟姉妹の傷を治療し、癒すために愛をもって尽くしている皆様にわたくしからもこの機会に、心からの感謝とねぎらいをお伝えしたいともいます。
人生は不条理です。この不条理のなかにわたしたちは信仰の光を見ています。病気、障がい,死という人生の現実は誰も否定できません。しかしわたしたちはイエスの死と復活の信仰を与えられています。
復活によって主はすべての悪と苦しみをすべて取り去ったわけではありませんが、悪と罪に対する決定的な勝利をもたらされました。不条理の世界に神の支配の光を灯してくださいました。神の支配はそのときが来れば完成します。今は不条理の闇の中にキリストの光を見つめその光を掲げるときであります。
本日の第二朗読、ローマ書が言うようにこの世界では人間だけでなく全被造物が虚無に服しています。しかしいつか被造物も滅びへの隷属から解放され、神の栄光に与る、真の自由を享受すると気がくる、とパウロは教えています。わたしたち人間だけでなく全被造物は完全に贖われる日が来ます。わたしたちはこのような希望によって救われています。
今日は共に信仰の火を分かち合い、希望をつよめ頂けるよう共に祈る日です。
聖霊来て下さい。この願いに応えてください。
ルルドの聖母、この願いを取り次いでください。アーメン。

2011年2月 6日 (日)

世の光ー北原怜子さん

年間第5主日ミサ説教 ―世の光、北原 怜子さんー
                                                         2011年2月6日、潮見教会
第一朗読 イザヤの預言(イザヤ58・7-10)
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント二・1-5)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ5・13-16)
  今日の福音は、有名な「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」が出てくるマタイ5章の山上に垂訓の箇所です。
 「あなたがたは世の光である。」「あなたがたは世の光でありなさい」といわれたのではなく、「あなたがたは世の光である」といわれた。実にキリスト者は世を照らす世の光であります。
 イエズス様は、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず,命の光を持つ」(ヨハネ8・12)といわれました。キリストを信じキリストに従うものがキリスト者です。イエズス様ご自身が世の光です。
 ニケア・コンスタンチノープル信条では、イエス・キリストは「光よりの光」と呼ばれています。父である神は光の源であり、イエス・キリストは光である父から生まれた「神よりの神、光よりの光」です。わたしたち教会はイエス・キリストから光を受けてこの世を照らします。
 第2ヴァチカン公会議の『教会憲章』は教えています。
 キリストは諸国民の光であり、教会はキリストから光を受けてすべての民をキリストの光で照らすことを望んでいる。(第1項)
 教会は世の光です。しかしその光の明るさは時代と場所によりさまざまです。教会の歴史のなかで、多くの聖人が出てきて非常に輝かしい明かりを灯しました。しかし今にも消えそうな、風前の灯のような暗い光であることもあったかもしれません。それでも、光が消えてしまうことはありませんでしたし、これからもないでしょう。教会は世の光です。
 ところで世の光であるとは具体的にどんなことでしょうか?今日の第一朗読から学ぶことができます。
 (わたしの選び断食とは)
 飢えた人にあなたのパンを裂き与え
 さまよう貧しい人を家に招きいれ
 裸の人に会えば衣を着せかけ
 同胞に助けを惜しまないこと。
 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で
 あなたの傷は速やかにいやされる。
 あなたの正義があなたを先導し
 主の栄光があなたのしんがりを守る。
 (中略)
 飢えている人に心を配り、
 苦しめられている人の願いを満たすなら
 あなたの光は、闇の中に輝き出て
 あなたを包む闇は、真昼のようになる。
 食べること,寝ること、着ること、という、誰にとっても大切な基本的な必要が満たされていない人がいます。この人たちの願いに応えることこそ、わたしたちが世の光であることを示すことではないでしょうか。
 使徒パウロはキリストから光を受けて世を光で照らした人人です。本日の第二朗読によれば、彼はわたしたちと同じ弱い人間として、衰弱し、不安、恐れに襲われたことがありました。その彼の弱い人間性を通して神の力が働いたのでした。
 蟻の町のマリア、エリザベット・マリア 北原 怜子さんの命日は1月23日です。潮見教会では毎年そのころミサのなかで北原怜子さんを記念していると思います。3年前の2008年1月は帰天50周年で、わたくしも招かれてミサをささげました。そのとき以来、毎日、
「主のはしたメ。エリザベット・マリア北原 怜子の取次ぎを求める祈り」
をささげてきました。本日は後ほどこの祈りをご一緒にささげたいと思います。
 北原 怜子さんは敗戦後の貧しい日本でキリストの光を掲げた人でした。貧しい人と共に生き、貧しい人のために生きた人でした。
 それから50年がたち、現代はまったく異なる状況にあります。現代も貧困の問題があります。しかし、それだけではく、現代の貧しさはいわば無縁社会の貧しさです。血縁、地縁、社縁の縁が弱くなり、薄れ、あるいは崩壊してしまいました。孤立した人が増えています。人とのつながりがないまま、自死を遂げる人がここ13年間、毎年3万人です。
 同じ神様の下で人と人とがつながり、互いに支えあい助け合う社会の建設ということがわたしたち教会の使命ではないでしょうか。
 1月9日にカテドラルで行なわれた「年始の集い」で申し上げましたように、今年は命の尊厳を学び、命を大切にし、心と心をつなぐことを目指してに目指したいと思います。そのために是非、司教協議会発行の二つの文書をお読みいただきたいと思います。できれば、集まって輪読などしながら、一緒に勉強していただけると嬉しいです。
 一つはちょうど10年前に出されました、この本、『いのちへのまなざし』です。もう一つは今冊子、『自死に現実を見つめてー教会が生きる支えとなるため意―』です。カリタス・ジャパンの啓発部会発行です。是非お読みください。

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