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2012年5月

2012年5月17日 (木)

変えられることと変えられないことと

 人生とはなかなか思うようには行かないものです。  世の中、なかなか思うようにはなってくれない。家族について考えてみれば、家族同士お互い、相手が自分の思うようにはしてくれないと思っています。夫も妻のことを、妻も夫のことを、自分の期待通りにはしてくれていない、と思っています。親子もそうです。子供はなかなか親の思うようには育ってくれません。子供からみても親は自分が望むような姿をもっていない。どうしてこんな親のもとに生まれてきたのか、と罰当たりな思いを抱く人の少なくはないでしょう。今「親孝行」という言葉を耳にするのはまれになりました。親の嘆きを聞いたこともあります。どうして自分の子はこうなってしまったのでしょうか?わたしの育て方が悪かったのでしょうか?なんと言って慰めたらいいのか、当惑しました。
 人はなかなか自分の思うようには考えてくれないし動いてもくれません。人を変える努力をするよりも自分を変える努力をするほうがましです。 ところで自分を変えるということも大変です。 人生について、隣人について、自分について、変えることのできることもあれば、できないこともあります。
 わたしに机の上にどなたからかいただいた祈りのスタンドがあります。

 Serenity Prayer
 God, grant me the serenity to accept the things I cannot change,
 courage to change the things I can;
and wisdom to know the difference

 神よ、 わたしに与えてください、変えることのできないものを受け入れ心の静けさを 変えることのできることを行う勇気を そしてどちらであるのかを知る知恵を。(試訳)
 よい祈りですね!

2012年5月14日 (月)

説明責任

 説明責任
 先日、わたくしは長野県の路上で転倒し左手首を骨折しました、かけつけた病院で手あてをうけ、左手は白い三角巾でつるされることになりました。翌日より、会う人みな三角巾を見て「どうなさったのですか」という質問をされます。わたくしは「説明責任」という言葉を思い出しました。わたくしは説明を求められています。白い三角巾は説明責任をうながすしるしとなっています。
 さて、初代教会の時代、キリスト者は「なぜ、あなたがたはそんなにたがいに愛し合うのですか」と説明を求められたと読んだことがあります。現在はどうでしょうか?現代の日本で人々は「なぜ、あなたがたはそんなにおたがい大切にしあっているのですか。どうしてそうできるのですか」と聞かれることがあるでしょうか?あるかもしれません、余り聞こえてきませんが。「 愛する」「大切する」ということははっきり目に見えることではないかもしれません。」しかし、愛は行いで示されることです。わたしたちは自分たちの愛をこれ見さがしに行う必要はないし、まだそうすべきではありません。それでも、真に愛を実行していれば、それはしるしとしてあらわれる答です。まして、キリスト者が信者でない隣人に愛を実行すれば、「あなたはなぜそこまでわたくしを大切にしてくれるのですか」という問いが生れるはずです。愛の説明責任を求められる程の愛を実行したいと思います。
 ちなみにキリシタンの時代、「愛」は「ご大切」と言っていたそうです。

2012年5月 9日 (水)

信仰度調査

 信仰度調査
  「神を信じる」とはどういうことでしょうか?世界中の国々で、どのくらいの人々が神を信じているでしょうか?
  ある調査によれば、「神を信じますか」という質問に対して考えられる解答として6つの場合があげられています。*
 1、 わたしは神を信じない。
 2、わたしは、神が存在するかわからない、神に出会うことができるとは信じない。
 3、わたしは人格としての神は信じないが、何かの超越した存在を信じる。
 4、神を信じる時もあるがそうでない時もある。
 5、わたしは疑いをもってはいるが神の存在を信じている。
 6、わたしは本当に神が存在すると信じ、一点の疑いも持たない。
この調査によると、フィリピンでは84パーセントの人々が神の存在を堅く信じており、調査の行われた国のなかで最高点を獲得しています。それに対して最底点を取った国が、何とわが日本であり、神の存在に疑いをもたない人はわずか4.3パーセントしかいない、とのことです。 
この調査は不完全なものであり、「神を信じる」ということの意味も曖昧です。しかしこのデータは、非常に注目すべき何かを示しています。
 わたくしはフィリピン人のカトリック信者をたくさん知っていますが、フィリピンのかたがたは強いしっかりした信仰をもっている、と感じます。
 日本人の4.3パーセントが、「神の存在を疑わな」とのことですが、これには意外な気がします。そんなに多いのか、という気持です。
 「神を信じる」とはどういう意味で受け取ったのでしょうか?
 そもそも「神は存在する」とはどういうことでしょうか?多くの日本人は漠然と神の存在を信じているように思います。その神はキリスト教の神、唯一の神ではありません。人間の善悪の基準となる、何かの超越した存在のことでしょう。日本には実に多くの宗教が存在し、多くの人々がそれぞれ神様、仏様あるいは何かの尊い存在、あるいは教えを信じています。人間には良心がありますが、神は良心に働きかけている、とも考えられます。
 人間は「悪を行ってはならない」という良心の声を聞きます。その声は神から来る、と考えられます。
 ドストエフスキーという作家はすぐれたキリスト教的作品を残しましたが、『罪と罰』の中で、「もし神が存在しないのなら一切の犯罪もゆるされているのではないか」と論じていたように記憶しています。人を殺してはならないのはなぜか、といえば、神がそのように命じているからです。
 神の存在の問題は、悪の存在の問題と深くかかわっています。
 カトリックの作家遠藤周作は『沈黙』という小説を残しました。理不尽な迫害を受けるキリシタンたちの苦悩に対して神は沈黙を守ったままでした。「助けを求める無垢の人々の叫びになぜ神は沈黙しているのか」という問いがテーマになっていると思います。
  聖書に現れた神はどんな神でしょうか?まず心にうかんでくるのはモーセに自らをあらわした神のことです。神はモーセに言われました。
 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ、彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。」(出3.7)
 神は、奴隷にされて苦しむイスラエル人の叫びにこたえて言われました。
 「わたしはかならずあなたと共にいる。」(出3.12)
 神はいつも民と共にいて助け導く神なのです。
 神は、その名を問われて答えました。
 「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出3.14)
 聖書の神は「わたしはある」という名前です。
 それでは「わたしはある」という神はどのようにしてわたしたちと共にいてくださるのでしょうか?一緒に考えてみませんか。

*神の存在についてのアンケート調査はUCANEWS2012年5月2日号の記事にもとづいています。 参加国30、そのなかにはイスラム教と仏教とヒンズー教が多数を占める国は除外しているという注が出ております。

2012年5月 8日 (火)

エレナさんの問い

 2011年3月11日、東日本大震災が起った時、日本の7歳の少女エレナさんが教皇ベネディクト十六世に質問を送ったという話はよく知られています。質問は、
「どうしてわたしはこんな怖い思いをしなければならないのでしょうか。なぜ日本の子どもたちが深く悲しまなければならないのでしょうか」でした。
 教皇の答えの要旨は次の通りです。
 「どうして皆さんがこれほど苦しまなければならないのか、わたしには答えることができません。でも神様は皆さんの側にいてくださります。神様は皆さんを助けてくださいます。いつかこの苦しみがなぜ起ったのか、わかる時がくるでしょう。」 
 非常に感動的なエピソードです。
 人は幸せな時、楽しい時、「なぜ、自分はしあわせなのか」と問うことはあまりありません。しかし苦しい時、悲しい時、つらい時、「なぜ、自分はこのような目に会わなければならないのか」と思い、自分に問い、他者にも問い、神にも問うことになるのです。
 このエレナさんの問いは実は非常に重大な神学上の問題を含んでいると思います。神が創造したこの世界になぜ災害という恐ろしいことが起こるのでしょうか?創世記一章によれば、神は六日間にわたって天と地、一切の被造物を創造されました。
 神は第一日目に光をつくられ、光をみて「良し」とされました。
 第二日目には天と地、海をつくられ、これを見て「良し」とされました。
 以下第三日目、第四日目、第五日目とつづき、第六日目にはわたしたち人間を御自分にかたどり、御自分に似せてつくられ、これを「良し」とされました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創1.31)
 「良し」とされ、「極めて良かった」とされているこの世界。しかしこの世界には災害がおこり、また犯罪も絶えません。なぜでしょうか?この世界の現実と神の創造の関係をどう説明できるでしょうか?
 わたくしは、東日本大震災が起こった時、ローマ書の8章のパウロの言葉を思い出し、何度もその意味を考え黙想しました。次のような言葉です。
 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは自分の意志によるのではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光と輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ローマ8・19-23)
 実に不思議な言葉です。被造物も解放され贖われる時を待ち望みながらうめいている、というのです。この「うめき」とは何でしょうか?わたくしはどうしても自然災害を想ってしまいます。全能の神の造ったこの世界になぜ災害犯罪などの悪が存在するのか?この問題を一緒に考えてみませんか。

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