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2012年5月 8日 (火)

エレナさんの問い

 2011年3月11日、東日本大震災が起った時、日本の7歳の少女エレナさんが教皇ベネディクト十六世に質問を送ったという話はよく知られています。質問は、
「どうしてわたしはこんな怖い思いをしなければならないのでしょうか。なぜ日本の子どもたちが深く悲しまなければならないのでしょうか」でした。
 教皇の答えの要旨は次の通りです。
 「どうして皆さんがこれほど苦しまなければならないのか、わたしには答えることができません。でも神様は皆さんの側にいてくださります。神様は皆さんを助けてくださいます。いつかこの苦しみがなぜ起ったのか、わかる時がくるでしょう。」 
 非常に感動的なエピソードです。
 人は幸せな時、楽しい時、「なぜ、自分はしあわせなのか」と問うことはあまりありません。しかし苦しい時、悲しい時、つらい時、「なぜ、自分はこのような目に会わなければならないのか」と思い、自分に問い、他者にも問い、神にも問うことになるのです。
 このエレナさんの問いは実は非常に重大な神学上の問題を含んでいると思います。神が創造したこの世界になぜ災害という恐ろしいことが起こるのでしょうか?創世記一章によれば、神は六日間にわたって天と地、一切の被造物を創造されました。
 神は第一日目に光をつくられ、光をみて「良し」とされました。
 第二日目には天と地、海をつくられ、これを見て「良し」とされました。
 以下第三日目、第四日目、第五日目とつづき、第六日目にはわたしたち人間を御自分にかたどり、御自分に似せてつくられ、これを「良し」とされました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創1.31)
 「良し」とされ、「極めて良かった」とされているこの世界。しかしこの世界には災害がおこり、また犯罪も絶えません。なぜでしょうか?この世界の現実と神の創造の関係をどう説明できるでしょうか?
 わたくしは、東日本大震災が起こった時、ローマ書の8章のパウロの言葉を思い出し、何度もその意味を考え黙想しました。次のような言葉です。
 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは自分の意志によるのではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光と輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ローマ8・19-23)
 実に不思議な言葉です。被造物も解放され贖われる時を待ち望みながらうめいている、というのです。この「うめき」とは何でしょうか?わたくしはどうしても自然災害を想ってしまいます。全能の神の造ったこの世界になぜ災害犯罪などの悪が存在するのか?この問題を一緒に考えてみませんか。

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コメント

ある自然現象を見て、それを「これは災害だ」と捉えるのは、人間の主観だと思います。
実際に起きたのは「その自然現象」以上でも以下でもないと思います。
神は「災害」を創造してはいないと思います。

犯罪は、人間が神に与えられた自由意志を悪用することから起きるのだと思います。

全能の神が造った世界に悪があるのは不思議ですか?
善しか存在させられないなら、全能ではないことになると思います。
善も悪も存在させられるから全能なのでは…。

そもそも人間が「善い」とか「悪い」とか考えるのは、人間の主観なので、
神の考えとは違っていてもおかしくありません。

何か変なこと書いていたら指摘してくださいm(__)m

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