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2012年9月

2012年9月19日 (水)

受難の意味

 年間第24主日説教―受難の予告―
                         2012年9月16日、町田教会
 第一朗読 イザヤ50・5-9a
 第二朗読 ヤコブ2・14-18
 福音朗読 マルコ8・27-35
 (福音本文) イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マルコ8・29)というイエスの問いに対してペトロは答えました。「あなたは、メシアです。」(マルコ8・29)
 ところがその後すぐにイエスは言いました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」(マルコ8・31) 意外な言葉でした。この言葉にペトロは躓き、イエスをわきへお連れして、いさめ始めました。イエスはペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8・33)
主人を戒めたつもりのペトロはサタンと呼ばれてしまいました。子れはなんということでしょう。ペトロとイエスの間には「メシア」の使命についての考え方に大きなずれがあったのです。イエスが述べた、メシアであるイエスの受難と復活の予告は弟子たちには到底受け入れがたいことでした。
 サタンは神から人を引き離し、神の思いではなく人間の思いに人を引き込みます。人間の思いのほうが神の思いよりわかりやすいので、ペトロのとった態度には無理からぬところがあります。しかし、神の思いは人間の理解を超えているのです。それはイザヤの預言で言われている通りです。
 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道はあなたがたの道と異なる。」(イザヤ55・8) 
 今日の第一朗読、イザヤ書の50章では、嘲りと辱めを受けながら、「わたしの正しさを認める方は近くにいます」(イザヤ50・8) 「主なる神が助けてくださる」(イザヤ50・9)と述べて、忍耐強く神の助けに信頼する主の僕の姿を伝えています。同じイザヤの53章では、「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(イザヤ53・41)と述べて、罪なき者が罪ある者のあがないの犠牲となる、という考えを示しています。
 わたしたちは旧約聖書のイザヤ書で述べられている「主の僕」の歌から、イエスの受難の意味を学ぶことができます。
 キリスト教は十字架の宗教です。十字架の信仰がわたしたちの信仰の中心にあります。十字架の意味はすでに旧約聖書においてあらかじめ示されています。
エレミヤ書の中には次のような箇所があります。
 「エフライムはわたしのかけがえのない息子
 喜びを与えてくれる子ではないか。
 彼を退けるたびに
 わたしは更に、彼を深く心に留める。
 彼のゆえに、胸は高鳴り
 わたしは彼を憐れまずにはいられないと
 主は言われる。」(エレミヤ31・20) 以前の文語訳では、20節後半の部分は次にようになっていました。
「我彼に向かいて語るごとに彼を念わざるを得ず。是をもてわが腸(はらわた)かれのために痛む、我必ず彼を恤むべし。」(下線は岡田による)
 「胸は高鳴り」は、「わが腸かれのために痛む」と訳されています。すなわち神はエフライムのために痛みを覚える、というのです。神自身が痛みを負うのです。それは罪人であるエフライムをゆるすが故の神の痛みです。棘のあるものを包めば棘に刺されて痛みを感じないわけにはいきません。神は痛みを抱きながらイスラエルの民を赦そうとします。このような神の思いは次のホセアの箇所からも知ることができます。
 「ああ、エフライムよ
 お前を見捨てることができようか。
 イスラエルよ
 お前を引き渡すことができようか。
 アドマのようにお前を見捨て
 ツェボイムのようにすることができようか。
 わたしは激しく心を動かされ
 憐れみに胸を焼かれる。
 わたしは、もはや怒りに燃えることなく
 エフライムを再び滅ぼすことはしない。
 わたしは神であり、人間ではない。
 お前たちのうちにあって聖なる者。
 怒りをもって臨みはしない。」(ホセア11・8-9参照)
 ここでは、あたかも神自身が自問自答し身悶えしているかのようです。神はイスラエルの背信と裏切りに傷つき、憤っています。他方、イスラエルを思う憐れみの心で胸がいっぱいです。罪は罪です。しかし愛する民をゆるしたい。神の心には怒りと憐れみの葛藤があります。このような神の姿をわたしたちはしっかりと受け止めなければなりません。結局、神の怒りは憐れみに負けてしまいます。神のゆるす愛が罰する神の正義に勝利します。
 十字架のイエスが「エロイ、エロイレマ、サバクタニ」(マルコ16・34)と叫んで息を引き取ったとき、天の父はいかなる思いで愛する独り子の最後を見守ったのでしょうか。それは、ヨハネが言っている通りです。
「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ4・16) 創世記22章のイサクの犠牲の話は十字架のイエスの前表であると考えられます。(この後の講話のときにこの箇所をとりあげます。)
さて、今日の福音でイエスは言っています。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 イエスの十字架は神の痛みです。復活は神の愛の勝利です。わたしたちも神の痛みに参加して愛の勝利へ到達するよう、招かれています。

2012年9月14日 (金)

エフッファタ

北町教会堅信式説教

201299日、北町教会

第一朗読 イザヤ354-7a

第二朗読 ヤコブ21-5

福音朗読 マルコ731-37

(福音本文)

イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。

そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。

すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。

イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。

そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

今日は9人のかたがミサの中で堅信の秘跡をお受けになります。おりしもことしの1011日より「信仰年」が始まります。聖霊の賜物により強く深い信仰を授けていただけるよう祈りましょう。

いま読まれた福音は、イエスが耳が聞こえず口も聞けない人を癒された話です。このときイエスは「エフッファタ」というアラマイ語の言葉を使っています。「これは『開け』という意味である」(マルコ734)とギリシャ語で説明しています。実際にイエスが話したアラマイ語でした。

しかし現代に伝わるマルコ福音はギリシャ語で書かれています。ただし「エフッファタ」の例のように、何箇所かで、イエスが実際に口の上らせたアラマイ語が表記されています。*

イエスがこの言葉を発するとすぐに、この言葉が意味する結果が実現し、その人は癒されたのでした。このイエスの癒しの場面を目撃した人々の心にイエスのこの言葉の音声が深く印象付けられたに違いありません。

ですから、福音書がギリシャで書かれてもこのエフッファタ」はそのままもとのアラマイ語の音声の表記のまま残されました。

イエスの言葉には力がありました。その言葉は必ずその指し示す意味を実現します。本日の第一朗読のイザヤ書はあらかじめこのイエスの癒しのみ業を、メシアの到来のしるしとして予言していると考えられます。

「信仰年」を迎えるに際してわたしたちは改めて、イエス・キリストとは誰であるのか、が問われています。この問いはわたしたちの信仰にとって最も重要な問いです。

主日の福音はイエスの生涯、イエスの言葉、イエスの生き方を伝えています。

第一朗読は通常、旧約聖書から取られ、イエス・キリストの福音を理解するためにあらかじめ準備となる旧約聖書の箇所を提供します。第二朗読は当日の福音朗読との関係の中で、イエスの弟子たちが信じ受け入れたイエスの言葉と生涯の意味をわたしたちに解き明かしています。 

人の話を聞き、人に話すということは人間が人間らしく生きるために欠かせない、基本的な、他の人との交わりの手段です。イエスはこの働きを奪われていた人に話す働きを回復させ、人間らしく生きる道整えたのです。

わたしたちキリストの弟子たちは、自分とは異なる文化の人、異なる言語の人、異質な世界の人、通常に交わりの手段を奪われ差別されている人々との交わりを持ち、コミュニケーションを発展させなければならないと思います。

イエスは貧しい人、後回しにされ排斥された人、差別された人、病気の人、体の不自由な人の仲間となり、人々の痛みと苦しみを一緒に担ったのでした。

ヤコブの手紙は、教会の中で貧しい人が差別されてはならないこと、人を偏見で見てはいけないことを強調しています。この教えはいま大きな課題としてわたしたちの中に存在しています。

「信仰年」に際してまず行うべきことは、自分の信仰を確かめ、深め、そして信仰を人々に表し伝えるよう、努めることだと思います。そしてそのためには、イエス・キリストをより深く知るように務めなければなりません。

イエスは「信仰の創始者また完成者」(ヘブライ122)です。「創始者」という言い方より「導き手」という訳し方のほうがわかりやすいです。

イエスをよく知るためにすぐに実行すべきは、主日の福音をよく味わうことです。それは先ほど申し上げた通りです。またそのための黙想会を企画することも有益です。

また、開催五十周年を迎える第二ヴァチカン公会議の教えを学びことが勧められます。まず公会議開催の趣旨を確認すると共に、公会議文書を学ぶよう、努めてください。

主日・祭日のミサで必ず唱えられる『信条』の意味を学び直すようお勧めします。この機会に、わたしたちは『信条』によって、何を、誰を、そのように信じているのか、確認し、その信仰を深めるようにいたしましょう。

カトリック生活1000号記念

「カトリック生活」1000号記念感謝ミサ説教
                  2012年9月8日(土)、碑文谷教会
第一朗読 イザヤ55・8-11
福音朗読 マタイ28・16-20
(福音本文) 十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 「カトリック生活」1000号発行、まことにおめでとうございます。
 「カトリック生活」1000号記念感謝ミサのために選ばれた福音の箇所はマタイによる福音の結びの部分です。復活したイエスは山の上で十一人の弟子たちに現れ、すべての民をイエスの弟子にすること、彼らに洗礼を授けること、イエスが命じておいたことをすべて守るように教えること、を十一人に命じたのでした。わたくしはきょう、次の箇所に注目したいと思います。「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(マタイ28・17)。「疑うもの」は「迷うもの」とも訳されます。復活したイエスの出現に接した十一人の信仰は最初から確固とした強い信仰であったわけではないようです。彼らの信仰は次第に強められ深められていきました。使徒言行録の伝える使徒たちの働きは、イエスに躓いた弱い人間と同じ弟子たちである、とは信じがたい確信に満ちた働きです。彼らが聖霊を受けて新しく生まれ変わり、ゆるぎない信仰の証しを行いました。まさにそれは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエスの言葉の実現でした。
 預言者イザヤはすでに次のように述べています。「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を果たす。」(イザヤ55・11) イエスはいまも、弟子たちをすべての民に派遣し、弟子たちの働きを通してご自分の使命を遂行しておられます。
 わたしたちの教会はことしの10月11日に「信仰年」を迎えます。そして日本のカトリック教会はことし、日本26聖人殉教者列聖150周年と日本再宣教150周年を迎えました。
 今年はこれからの日本の宣教のために祈り宣教のために学ぶべき大切な節目の年です。端的に言って福音宣教とはまず信仰を伝えることです。わたしたちは自分が信じたことを宣言し伝達します。宣教するためにはまず信仰がなければなりません。しかし、それでは、わたしたちは確固とした信仰を持っているでしょうか?汚れた霊にとりつかれた子をいやしていただいた父親の言葉を思い起こします。彼はイエスに言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9・24) わたしたちもこの同じ言葉で祈りましょう。「主イエスよ、あなたを信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
 ヘブライ書には「信仰の創始者であり完成者であるイエス」(ヘブライ12・2)という表現があります。教皇ベネディクト十六世の「信仰年」を告げる教令『信仰の門』でこの言葉を引用しています。「創始者」という表現はむしろ「導き手」とした方がわかりやすいでしょう。「信仰とは何か」は、イエスの生涯がわたしたちに教えています。イエスは十字架にかけられ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27・46)と叫ばれました。ご存知のようにこれは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)という意味です。そして、ルカ福音書によれば、イエスは大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・46) 人間は試練の中で動揺し苦悩します。そして信仰を持って自分のすべてを主なる神にゆだねます。信仰とは、疑いや不安、恐れ、迷いの襲われるときに、神への信頼を貫き通すことです。今日は聖マリア誕生の祝日です。天使の告げを受けたマリアは「どうしてそのようなことがありえましょうか」(ルカ1・34)と言いましたが、「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1・38)と神の言葉を受け入れました。婚約者のヨセフはマリアが妊娠したことで心を騒がせたに違いありません。しかしヨセフは信仰のうちにマリアを受け入れたのでした。信仰とは試練における神への応答です。信仰は試練を通して育てられ清められ成長します。わたしたちは信仰の弱い者ですが、「信仰年」を迎えるにあたり、この父親とともに、自分の信仰をより確かで強い信仰にしていただけるよう祈りたいと思います。
 信仰を深めていただくために祈りが大切です。そして祈りを込めて、福音書のイエスをもっとよく知るようにいたしましょう。主日の福音朗読、そして福音との関係の中で、第一朗読、第二朗読をよく味わうようお勧めします。またミサのときに唱える「信条」の意味を復習しましょう。信条は最初の教会が信じた信仰の理解を簡潔にまとめた祈りであります。
 最後になりましたが、「カトリック生活」1000号発行を心からお祝い申し上げます。カトリック生活には信仰を養い育て、信仰をあらわし伝えるために有益な記事が多く掲載されています。わたくしも愛読者の一人です。日本の福音宣教・福音化のために「カトリック生活」がこれからのますます充実し発展することを願っております。今日は本当におめでとうございます。

2012年9月 2日 (日)

悪い思い

     2012年大司教着座記念ミサ説教                                                                             2012年9月2日、東京カテドラル関口教会
   イエスは言われました。「人の中から出て来るものこそ、人を汚すのである。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」(マルコ7・15,21)「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」イエスはファリサイ派の人々と律法学者の偽善を痛烈に批判しました。「あなた方は、外側はきれいだが内側は強欲と放縦に満ちている。あなたがたは、白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れに満ちている。」(マタイ25―27要旨)
 人の心には悪い思いが住んでいます。ノアの洪水の後神は言われました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」(創世記8・21)エレミヤ書でも次のように言われています。「人の心は何にもまして、とらえがたく病んでいる。」(エレミヤ17・9)  わたしたちは、真摯に反省するならば、自分の心には悪い思いがあることを、乱れた病んだ心が宿っていることを認めざるを得ません。人間の悪い行いは悪い心からでてくる、とイエスは言われます。「外側より内側、こころを清めなさい。」 悪い心から悪い行いがでてきます。
 大聖年を迎えるに際し、教皇ヨハネ・パウロ二世は特別書簡を出し、「過去千年の教会の歩みを真摯に反省しなで紀元2000年の敷居をまたぐことはできない。」先の一千年の間、まことに悲惨で残酷は出来事が起こりました。二度の世界大戦が行われ、多くの人命が失われ、大量虐殺の悲劇が起こっています。神を信じている人がどうしてこのような残虐なことをすることができたのか、理解に苦しみますが、悪い行いは、悪い心の結果です。悪い思いは普段は眠っていますが、何かがあれば出てきて、人を悪い行いへ駆り立てるのです。
 人のこころのすべてをご存知の神の前に出て悪い思いを認め、心を清めてくださるよう祈らなければなりません。そのためには、日々の祈りと黙想、聖書などの霊的読書が大切です。 本年10月11日より『信仰年』が始まります。 『信仰年』になすべきことは、まず主イエスをよく知ること、その言葉に学びその生涯に倣うことであります。そのためには主日の福音が大切です。主日の福音をよく味わいましょう。福音の予習、分かち合いなど大いに勧められます。説教する司祭は福音のメッセージが人々の日々の生活と社会の現実にどのような接点をもちどのような意味を持つのか、ということに留意しながら説教を準備するはずです。その準備に信徒の皆さんは大いに貢献できると思います。 主日には清書朗読が二つあります。二つの清書朗読をイエスの言葉に照らして学んでください。旧約聖書は、イエスへいたる準備の教えです。使徒の手紙などは、使徒たちがイエスの言葉と生涯をどのように受け止めたかを、わたしたちに伝えます。
 『信仰年』は第二ヴァチカン公会議開催五十周年を記念して設けられました。この機会に第二ヴァチカン公会議の教えを学ぶことは極めて有益です。公会議文書は教会がその時代のニーズにどのように応えたか、を示す貴重な記録であります。公会議入門のような適切な学びの機会を設けることが望まれます。
 『カトリック教会のカテキズム』は信仰の遺産を第二ヴァチカン公会議の教えに従って新しく編纂した教えの書です。教会が現代の問題にどのように答えているかを学ぶために活用してください。大司教着座十二周年を向かえ、ミサに参加くださった皆さんに御礼とお願いを申し上げます。12年の歩みを支えたすけて頂き、ありがとうございました。これからもどうかよろしくお願いします。

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