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2017年7月15日 (土)

私にとっての《神》 その1

2017年7月8日(土) 太田教会 テーマ「神―わたしにとって神とは?」

 「神―わたしにとって神とは?」というテーマをいただきましたが、何を話したらよいか、かなり困っております。皆さんの学び合いの材料、或いは何かの足しになればよいかなと思います。 わたしたちは神を知っていますが、この神はキリスト教の神。イエス・キリストが教えてくださった神であります。イエス・キリストの教えてくださった神は、すでにイスラエルの人々が信じていた神、同じ神様です。同じ神様ですけれども、そこに信仰の発展がある。そして、イエスが地上を去るときに、わたしたち教会がつくられ、残されました。神を信じる民として、世界中に宣教しているわけであります。 神様というのはどういう方か、人間にはわからない、よくはわからないわけです。わかれば、わたしたちも神様になってしまします。神様がわからない。わからないから、あちら側からわたしたちにご自分をお示しになる。こうだよ、ああだよと。それが長い歴史の中で少しずつ、小出しにというか、教えてくださっている。一度に教えても、とてもわからないだろう、受け入れられないだろう、ということで、何回も色んな機会に、色んな人を通してお話になったのだと思います。 わたしたちの神は信仰の神、信じている神、なんですけれども、その前に頭で考える神様という場合があります。それは哲学者とかいう人は頭で考えて、神様とはこうだ、ああだと考えた神です。しかし、聖書の神は頭で考えた神ではなくて、神様のほうから人間に語りかけて、御自身を示してくださった。そういう神様ですね。  それで、「神」という言葉ですが、キリシタンの時代、翻訳に困ってしまったんです。よく日本語がわからないうちに、どういう日本語で説明したらよいか、きっと悩んだのでしょ。色々やってみたようですが、良い言葉が見つからなかったので、デウスという言葉にしたらしいんです。デウスはラテン語の神ですが、他にもどういう日本語にしたらよいかわからないというので、そのままラテン語の発音を日本人が言いやすいような発音にしたというか、自然にそうなってきたんでしょうか。 当時は「神父」という言葉もなかった。「パードレ」と言いました。「神父」とか、あるいは現代で我々が使っている用語は、明治時代になって、宣教が再開された時に導入された言葉で、多分中国から来たんじゃないかと思われます。前のほうがよかったかもしれないですね。色々な言葉がほぼ原文というか、当時の宣教者が自分の国の言葉、あるいはラテン語の言葉を、そのまま日本人に言いやすいようにしたのであります。  神という言葉も、第二ヴァチカン公会議以前、日本では、わたしたちも以前、「天主」と言っていたわけで、昔の痛悔の祈り、“ああ天主、われ、主の限りなくきらい給う罪をもつて”というように祈っていました。・・・ともかく神ではなく、「天主」であった。 日本では神というと、天神様の神、八百万の神といいますが、誰でも神様になりえます。特別な力を持った人、そして亡くなった人が生きているわたしたちの上に及ぼす、良い力、悪い力、そういうものを持っている存在が神なのでしょうか。 菅原道真が天神様になったでしょうけれども、政敵の藤原氏に貶められて、讒言されて、左遷されて、裏切りの中で亡くなった。その怨みが残っているので、色んな災害が起こるから、どうぞ怨みを捨ててください、お鎮まりください、といって神社を建てて、宥めるという考えだった。 色んな神様がいて、神社に行って、この神社はどういう神様が祀っているかなと思うけれども、ほとんど関心がない。でも一応聞いてみると、なんとかの命とかになっているのですけれども、わたしたちはそれくらいの神理解なのです。それなのに、なぜキリスト教の神を神と訳したのか。もう今更どうにもしょうがないのすけれども。 「神」という言葉が、わたしたちの神理解に誤解を与えているのかもしれないのです。「神、こんなに誤解された言葉はない」と言う人もいます。でも、どう誤解してるか、わたしたちにはわからないんですね。  

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