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2018年2月21日 (水)

弱さの中で

説教:弱さの中にいる神

今日、217日にさいたま教区では「世界病者の日」のミサを献げることになりました。本来は211日のルルドの聖母の日が世界病者の日と定められましたので、211日に献げられるべきですがことしは11日が主日なので、12日にしようということになったのです。しかしその12日が那覇教区の司教叙階式となったので、更に延ばされて今日という日になったという次第であります。

世界病者の日、病者、あるいは障がい者のために祈るミサ、病者、心身の不自由な方のために働いておられる医療従事者を励まし、支える、そのためにお祈りする日でもあります。   

わたしたち人間は誰しも病気になったり、あるいは身体が衰えていったりするわけであります。この病気というものはどうしてあるのだろうか、と考えさせられますが、考えても病気が治るわけではありませんので、この病気ということをどういうように受け取ったらよいのだろうかということを考えてみたいのです。

今日の第一朗読をお聞きになりましたが、パウロという人のことです。この人は非常に頑健な、丈夫な人だった思われます。あれだけのことをしたんですから、身体も精神も非常に健康で、そして元気であったに違いない。でも意外にもそのパウロがぽろりと漏らしていることの中に今日の箇所がある。このとげというのがあったというのですね。このとげというのはなんであるかわからないんですよね。いろいろ想像されているのですが、学者はいろんな説を唱えているようですが、わからない。いやなこと、困ったこと、何かそういうものであったに違いないわけでして、なんだったんでしょうか。それで三度も主にお願いした。どうかこれを取り去ってください。サタンから送られたと書いてありますね。良くないことに決まっていますけれども、しかし、聞き入れてもらえなかったわけです。そして、主からの返事は何であったかといいますと、

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」

そう言われた。この言葉をわたしたちはどういうように考えたらよいでしょうか。病気になったり、あるいはいろいろな障がいの状態になったりした時に、もしそうでなければこういうこともできるし、ああいうこともできるのに、どうか直してください、癒してくださいと願うわけですけども、必ずしも神様はその願いを聞いてくださるわけではない。あなたは弱くとも、その弱いあなたを通して、わたしは力、神様の力が働くのですよ。そういうように言われたのだろうと思います。

世界病者の日を制定された教皇様はヨハネ・パウロ2世。ご記憶にありますように、ヨハネ・パウロ2世も就任された時は物凄くお元気な方だったのですけれども、難しい病気パーキンソン病)になられ、でも最後まで勤めを果たされて現役のまま帰天されたわけですね。

わたしたちは弱い者です。その弱さの中にイエス・キリストの力が働くというその信仰をわたしたちは本当に自分のものとすることができるだろうか。

福音はヨハネの15章、ブドウの木のたとえですね。

「わたしにつながっていなさい。」

どうやってつながっていることができるんだろうか。このパウロの言葉と合わせて考えてみると、あなたはこういう問題を持っているが、でもわたしはそういうあなたといつも一緒にいるんだよとあなたと一緒にわたしはいますよ。そしてあなたを通して、わたしは神様の恵みをあらわし、伝えるものである。神の栄光を表す。人間の弱さを通して、神の栄光があらわれるのですよ、と言ってくださっているのかもしれない。人間の弱さ、ひしひしと感じますね。自分自身について、それから他の人についても感じるわけです。しかしそういう人間の中に神様の力が宿る。この教えを今日もっと深く味わうようにしたい。

そうはいっても、今日はこうだから、こういう風に信じなさいというつもりはありません。わたくしの自問自答でありますが、非常に難しい病気というのがあります。あるいは障がいというものがあります。聖書に出てくる病気の中で、この前の日曜日の福音にでてきましたのが、「重い皮膚病」と訳されている病気ですね。昔は「らい」と訳されていた、あるいは「ハンセン病」と言われるようにもなった。しかし「が重い皮膚病」という訳語が適当であるかがどうか、ということを今も議論している。非常に忌み嫌われ、排斥され、そして排除された病気ですね 。

ちょっと昔のことですけれども、『砂の器』という小説と映画がありました。その主人公はらい患者の子どもだったんです。みんなからいじめられ、隔離されて、全国放浪したんですが、そういう境遇から抜け出して、名前をあげようとしていた時に、昔の自分を知っている、自分を助けてくれた人に出会ったという話で、都合悪いから、自分の前身を知られたくないからその人を殺してしまうという悲劇なんですが、どんなに嫌悪された病気であるかということをあらわしている。イエスが何人もの病人を癒したという話がありますが、特に目立つのは、いわゆる「重い皮膚病」の人、この人たちの苦しみは、身体的な苦しみだけでなくて人々から排除される、隔離される、人々が近づかないんですね。でも近くに人がいる時には、「わたしは汚れたものです。汚れたものです」と叫んで、そしてそれとわかるような服装を普段からさせられるということが旧約聖書のレビ記に出てくる。なんというひどいことでありましょうか。今日世界中で、この問題は徐々に解決に向かい、日本でも「らい予防法」という法律が廃止されたわけでありますが、しかし人々から忌嫌われる病気とか障がいということが存在したし、今もある。そういう人々の苦しみに対し、イエスは深く同情し、そしてご自身もそのような苦しみ、悲しみを共にしてくださったのであります。もちろん病気というものが癒されることが何よりも大切でありますが、必ずしもすべての人の病気、障がいがなくなるわけでも無い。

イエスの生涯、人々の病をご自分の身に負ってくださった主の僕であるイエス・キリストの生涯を思います。明日が四旬節第一主日、それで一ヶ月半後ぐらいに復活祭になります。聖週間の一週間をすごす、本当に過ぎ越しの神秘を深く味わうことができますように、今年は特に良い四旬節、聖週間をすごし、復活の喜びを深く味わうことができますようご一緒に祈り、支え合うようにしたいと思います。

(ミサ説教による信仰入門講座 その7)

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