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2019年1月

2019年1月17日 (木)

自己嫌悪になったときの祈り

待降節黙想会講話(要約)

2018122日、 飯能教会

 

今日は「主の祈り」をご一緒に味わって行きたいと思います。

主の祈りはイエスが弟子たちに教えて下さった祈り、最も大切な祈りであり、福音の要約と言われています。先ほど献げましたミサの中でも主の祈りの後、司祭は続けて

「慈しみ深い父よ、全ての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与え下さい。あなたの哀れみに支えられ罪から解放されてすべての困難に打ち勝つことが出来ますように。わたしたちの主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」

と祈ります。パウロの時代にはすぐに終末が来るという考えが強かったようで、パウロは「時は縮まっている、もうこの世のことは終わりになるのだから、もうこの世のことに執着しないように、いつでもキリストを迎えられるように準備していなさい」と言っています。

主の祈りの最後には、「わたしたちを悪からお救い下さい」とあります、司祭が「主の祈り」に続いて唱える副文では、「すべての悪からわたしたちを救い」「罪から解放されて」と、悪と罪と両方出て来ます。罪は勿論悪ですね、罪という言葉と悪という言葉は微妙に違うわけですね。罪とは何かについては難しい問題になりますが、信者になる時に罪についてのお話しは聞いたでしょう。わたしも洗礼を受けて、その時に罪の赦しを受けた、もうきれいな身になった、すっかり清められて真っさらな状態になると信じたんですけど、わたしの場合、今までの悩みとか問題とかは全く雲散霧消というか消えてしまったわけではなくて、あまり変わらないんですね、皆さんどうですか?「わたしは今までと違う全く新しい人になった」と、ものすごく感じる人もあるそうですが。

 今の洗礼は額に少し水を流すだけですから、あまり実感がないですけど、昔の洗礼は全身を水の中に漬けて引き上げられるというものだったそうです。その時の感触は忘れないでしょうね。水に漬けられるということは「死ぬ」ということなんですね。死んで引き上げられて新しい人として生まれ変わる、だから古い人は死んで新しい人になるということでこれだと体で覚えますね。皆さんは洗礼の時にどんな体験だったでしょうか?信者になった時の体験というのは重要ですね。洗礼を受けても人間には問題は残る、だからその問題と一生取り組んでいかなければいけない。それを罪というか、人間の弱さというか、カトリックはそれを「原罪」という言葉で説明しているわけです。人間というものは通常、しょうがないなという面が残るわけで、一人ひとりによって違いますけど、皆さんは自分にはどういう問題があると思いますか?

神様が自分をご覧になって喜んで下さっている、満足しておられると思うか、それとも神様はこんなわたしをお嫌いになっているのではないか、申しわけなく、でもどんなに頑張ってもまた同じ状態になってしまう、我々は別に犯罪者ではないと思う、だけど自分で自分を認め難いいろいろなこと、人のことが気になる、妬ましい、面白くない、心の中でいつもあの人はどうだこうだと思ってしまう、あるいはわたしにこんなことをした、恨みがましい、少なくとも恨むところまでは行かないにしても、いやな感じがあってその嫌な感じがなかなか消えない、トラウマというのは過去に受けた心の傷を引きずっている状態だそうですが、わたしもこの間77歳になったんですけど、「~のくせに………」と言われたことが消えないんですね。本来じゃない状態のことをののしる「~のくせに………」と、人にののしられる、人に恥ずかしめられる、そういうものは消えない。

それから自分と同じような立場にある人が、自分よりうまくやっていて評判がいいという時に、面白くないですね………、司祭同士でも評判は気になるんですね、「××神父さんはお話しが上手だ、よかった………」じゃオレはどうなんだ?「あなたのお話しもそれなりにいいけど………」この面白くない心というのは消えないんですね、自分が人からどう思われるかは非常に気になる、でもそれに捉われないで打ち勝って、負けないでやるべきことをやるべきなんですけれど、本当に気にすべきは神様がどう思われるかです。

特定の人にものすごく心が傾いてしまうと、その人の態度に影響を受けてしまうんですね。わかりやすい例でいうと例えば誰かを好きになったとしますと、その相手に自分にどう見えるということが気になる、その人がどうでもよければ、ほとんど気にならない、職場なんかでも、やっぱり回りの人とか上司が自分をどう見ているかは気になりますね、それから司祭同士、司祭と司教、これは結構難しい微妙なもので、あまりはっきり聞いたことはないですけど、司教は自分をどう評価しているか、それはきっと気にしているかどうかは分からないけれど、心に込めているわけですね。(逆に)司教は司祭が自分をどう思っているかということを気にしている。

もう一つさらにそれと結びついているんですが、自分の言うことが理解されているか、ちゃんと伝わっているか、実行されているかが気になる。分かっているのかな?分かっていてやらないのかな?………皆さんの間ではどうですか、ご家族の間で、親子、ご夫婦、いくら言っても分かってくれないと思っているかもしれない、聞いている方はまた同じことを言っていると思っているかもしれない、その辺は分りませんが、想像ですが………

親子、これは難しいですね、わたしのことですが、わたしは親のことが分からなかった、今も分からない、もう77歳にもなって今さらどうでもいいんですけど、はっきり言ってわたしは親に批判的でしたね。なんでこんな親の子になったんだ、と罰当たりな気持ちを持っていました。親がどれだけ自分のためにしてくれたかということをその時は思わない、自分がこうであってほしいということばかり思って、そうでない部分だけ取り上げて、ああだこうだと思うわけなんですね。だんだん年を経て、わたしの親を知っていた人から話を聞くと、わたしの父に、そんなに立派なところがあったのかな?なんて思ったりして………申しわけないですね、近い人にはいいところが見えない、こんなにしてもらって感謝していますと言われて………、わたしの親は教師だったんですけども、わたしの親から教わった人が年を経て、わたしがその父の息子であるということが分かった時、わざわざそういうことを言うということは、挨拶という面もあるんですが、こんなにしてくれたということをわざわざ口に出すということは嘘ではない、母親についても同じことが言えるんですけど。親子の関係で親も悩み、子も悩むということがありますが、これは永遠の問題かもしれませんけど、人間は人のことが分からない、特に近い人のことが分からない、自分中心に判断しますので、人間は自分から出ることが出来ない………逆に自分を誰かが客観的に見て、今の自分を置いてもう一人の自分を見る、それはなかなか出来ないですけど、黙想というのは自分のありのままの姿を見る機会ではないかと思います。

日本の社会は競争社会ですから、すぐに点数が付けられる、学校もそうですし、会社もそうですが、なんでも点数化して人間の価値を決める、人間の価値は点数ではない、理屈はそうなんですけど、現実によい成績を取らなければ入学出来ませんし、会社でも会社のために実績を上げないと昇進できないわけですね。それから生老病死(しょうろうびょうし)・四苦八苦と言いますけど人間、病気にもなりますし、障がいという人間にとって難しい問題にも出会う、そういうわけで自分の価値をなかなか認めにくい、そしてさらに僻みが生ずると、人は何とも思っていないのに自分は嫌われていると思ってしまう、ものすごくそういう傾向の強い人がいて、被害意識が固定してしまうと病気や障がいになってしまいます。

聖書の中にいろんな人が出て来ますが、わたしが一番心に響く言葉の一つは、「神様はご自分の造られたものを決して嫌われない。もし嫌われたり憎まれるのであれば決して作られない。神はすべてのものを慈しまれる」という知恵の書の言葉。(知恵1123-26参照)

自己評価が低い人、低い理由は他の人と比べてあれが出来ない、これが出来ない、あるいは身体的なこと、いつも健やかで元気で格好いい人としょぼくれている人とか元気がない人と、わたしなんかもものすごく気にする方で、言われたらどうもないように取り繕っていますけど実は気にしているわけです。気にしているんですよ。() その人の価値を相手が決めるとか思ってしまう……ほんとはそうじゃないですよね。

知恵の書で「神はあなたを愛している」「愛している」と言われてもピンと来ませんが「神はあなたのことを嫌っていない」と言われるとピンと来ますね。こんな失敗ばかりしている、いつも止めようとしているのにまたやってしまう、それは知っているけどそんなあなたを嫌いじゃなくて慈しんでいるんだ、そう言われるとほっとするというか立ち直れる、さらに誰かが言ってくれると有頂天になってしまうかもしれないけれど、あの人はお世辞をいうとか、よいしょして、日本人は特に礼儀正しいですから人を傷つけないような失礼のないような、そういう教育を受けていますが、腹の中は違うんだけど()………あまり腹の中はどうとか考えてはいけない、わたしみたいに疑り深い人間は、またそういう自分はいやな奴だなと思うわけなんですね。() 最近減って来たけど「大司教様………」言われ慣れてしまったので、言われないと不満というか()………ほんとに自分がどう思われているか、から離れられないこの執着………この間読んだ本でいいことを言っているなと思ったんですけど、人間のとらわれを3つの言葉に要約しているんですが、これはアシジのフランシスコの生き方に倣ってあるフランシスコ会の神父様が言っているんですけど、prestigeプレステージという言葉、何て訳すのかな? 要するに自分の権威というか、自分の勝手な解釈ですが、自分は偉いのだ、××長とか、権威とか………大司教とか()………口ではそうではないと言っているけど、やはり自分は偉いのだと思っているわけですよ、それにふさわしく相手が応じないと不満というか、不快に感じている。そこがいやらしいところで二重構造になっている、別にたてまつってもらわなくてもいいんですが、そうされたら逆に気持ちが悪いんですが、ではどういう態度が相応しいかは自分では分からないけれど、自分では感じてしまうんですね。次にpowerパワー、力ですね。自分がどれくらい人を動かせるかということなんですね。わたしがただの岡田だというのと大司教の岡田だというのでは、相手は「あ、大司教様………」() 無茶なことを言うなと思ってもそれなりに………わたし、大司教といっても名誉大司教ですけれど、今でもまだ余光が残っているわけですよ。()パワーがあるんですね。人をコントロールする力というか、何らかの形で人にお願いしたりあるいはうまく動いてくれるようにしていただくるわけですよ、どういう風にしたらうまく人を動かせるかとかね、コントロールする力、それからpossessionポゼッションつまり所有で、わたし最近何度も引越しせざるを得なくて、何でこんなにたくさんのものを持っているのか………同じものがぞろぞろと出てくるんですね()。いらないんだけど一旦手に入れたものは離しがたいんですね、目をつむって全部断捨離したいんですけど、ある程度はするんですけど、弾みがつかないとなかなか出来ない………だからいろいろなものを持っている……

貧しいということは力がない、物がない、名誉もない、何もない、神様しか頼るものがない、神様がわたしを生かし、そして与えてくれる、神様が他の人を通して助けてくれる、人間は貧しい、貧しいものはお互いに助け合いなさい、パウロの言葉ですが、「人を自分より優れた者と思いなさい」「エ、あんなヤツを優れた人と思え!冗談じゃない」これは古いわたしですね、新しい自分は、全ての人は神様が自分に与えて下さった、自分に出来ないことが出来る人であるし、そこに神様の姿があるんだと………そういわれてもなかなかそう思えないわけで、いつも比較してあいつはアーダコーダと言って、あいつの態度は自分を「バカにしている」とか………、この「バカにしている」というのはわたしが子供の頃から覚えた言葉ですが、かならずしも相手が「(自分を)バカにしている」わけではなくても本人がそう感じてしまうわけです。自分はどれだけ人に話を聞いてもらえるか、人を動かせるか、自分がどれだけ尊敬されているか、どれだけ自分が思い通りになるようなものを持っているか、ということに一生懸命で、人のためにどうするか、人を助けるためにどうするか、人を慰めるためにどうするかということには何分の一かの時間やエネルギーも使っていないかもしれない、表面上は「皆さんのために」なんですけど、そのやり方もちゃんと自分が報われないと機嫌が悪くなるという、そういう自分は古い人間だと思うわけですね。「敵を愛しなさい」とイエスは言われましたが、はっきりと敵対している人でなくても自分によくしてくれる人、態度が好意的な人にはこちらもおのずからそういうふうに出来るんですけれど、態度が悪い、顔を合わせると「何だその態度は………」と思ってしまうような人には、「勝手にしろ」と思ってしまう。相手を何も戦争している相手の敵と考えなくても自分が快く感じる人と不快に感じる人と、どちらでもない人とに分類すると不快に思わせる人というのがいるわけですね、わたしにはいました、皆さんにはどうなんでしょうか。

 

洗礼の時にわたしたちは古い人間から新しい人間に生まれ変わりますと決心をし、悪霊とその技を捨てますと宣言したんですけど、その洗礼の時の決心が大きな戦いをしないと完全には実現できない、はっきりとした罪、すべきことをしないとか、はっきり認識してこの人をいじめてやろうとかいうのは罪ですけど、そうはっきり認識しなくても態度や行動がその人を歓迎しないようになっていても、それが染みついてしまっている時には、それがはっきり言って罪かどうかは問題ですが、それは「原罪」なんですね。出来上がっている依存というかaddictionアディクションなんですね。人からホイホイされることに依存してしまっているんですね。ホイホイされてもされなくても人のために尽くすことが出来れば、そのアディクションから解放されているわけですね。ですから「わたしたちを悪からお救い下さい」と言うのは、それはアディクション、悪い傾き、これは正確に言うと悪というのは悪魔とも訳せるわけで、「悪魔のそそのかしにのらないで生きていけますように」というお祈りでもあります。そして前半で「御心が行われますように」というのはわたしの思いではなく神様の思いが行われますように、わたしにおいて神様の思いが行われますように、わたしがこうしてほしい、回りがそうなるようにということではなくて、神様の思いというのは、聖霊の働きなんですね。

 

主の祈りの冒頭は「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように」です。
神様が聖とされるということはすべての聖性の源、ミサの奉献文でそう言っていますけれど、わたしたちが何者をも超えて敬うべき神の本性といいますか、生身のそして罪を犯す人間は神様の前で生きていることは出来ないとさえ言われている神の聖性、例外的にモーセなどが神に顔を合わせて会うことが出来たと言われています。逆に神以外のものを崇めないということなんですが、わたしたちは知らず知らずのうちにいろいろな偶像を神としてしまっていると思います。

次の「み国がきますように」の「み国」とは神の支配、ですから神の国がこの地上で実現しますように、神の意思が実現している状態が「み国」です。「イエス様の国は神の国」と言われています。それは神のみ心が行われていること、天というのは神のみ心が行われている状態、それが天です。

 

続いて「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」

この祈りの後自分に必要な恵みをお願いするわけですね。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」
わたしたちが日ごとに必要とするもの、それはまず食物ですが、食物に代表されるいろいろなこと、ご聖体のことも指しているという考えもあります。日ごとの糧、イエス・キリストのお恵みを毎日いただいて生きること、そして赦しということですが、主人から莫大な債務を免除してもらった人が自分に対しての友達の債務を赦すことが出来なかったという例え話がありますが、わたしたちは赦してもらっても、自分が赦すことはなかなか難しい、そういう問題を持っている、どれだけ自分が赦してもらったか、赦されているかということを時々思うことが必要ではないかと、先ほど申し上げましたが、わたしも親不幸で親の問題ばかり見て、自分が親から何をしてもらったかということを考えずにそうしてしまった………子供のためにどんなに大変な思いをしてわたしを養育してくれたかということですね。お互いに相手が自分にしてくれたことを思うことが大切なのに、相手からの被害を最初に思ってしまうわけですね。

 

わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい

誘惑というと悪に誘うことですね、盗みとか暴力とか性的な罪に誘うことですね。もう一つ試練という言葉があって、前の文語の「主の祈り」では「われらを試みに引きたまわざれ」でした。どうしてこれが今日誘惑になったのか、試練というのは何であるかということですが、原文のギリシャ語は同じで、それをある時は試練と訳し、ある時は誘惑と訳すそうです。人が病気になったりすること、それは誘惑ではなくて試練で困難なことですね。その困難な時に誘惑に陥ることもあると思いますね。誘惑は自分の欲望が刺激されてその欲望を満たすようにすることですが、「神は決して人間を誘惑しない」とヤコブ書には書いてありますが、神が人間に罪を犯させるように働くことはあり得ない、ですが我々の人生には困難なことがあるわけですね。病気とか災害とかその他不条理なことがあるわけですね。それが誘惑の機会になり得るわけですね。人生を呪うとかがあり得る、順調な人はそういう気持ちにならないんですけど、生まれついて不幸なみじめな状態の人はなかなか健やかに成長出来ないですね、回りの人が自分に良くしてくれたという体験の中で成長した人は他の人に良くしてあげることが優しいですが、虐待された場合虐待が人生の本流になってしまいますので、人を恨むこと、憎むことが普通になってしまうわけです。困難に会っても困難に負けないでそれを越えて行く場合は、それは試練ですが、困難に負けて悪に陥ってしまえばそれは誘惑になるんでしょうか。よく「魔が射す」と言いますね、例えば自分で一時的に何とか出来る人のお金、あるいは会社のお金などを管理する役がありますね、教会でも起こったんですね。今日一日だけ借りて後で返せばいいと思ってお金を抜いてしまう、それが一日が二日になりどんどん延びて、気が付いたら大変な額になっていたという場合にそれは誘惑に負けたわけですね。金銭的に困難な状況に置かれた時は試練ですけど、その試練につけ込んで横領するように唆す声が誘惑でしょうか。

今度教皇様は『喜びに喜べ』という題のすべての人に向けた霊的な生活の指導書を出されました。教皇様の解説によると「わたしたちを悪からお救い下さい」という悪というのは悪魔のことだと言われます、悪魔とは擬人化して悪いことを表す印というか例えとして使っているという意見も多いかもしれませんが、それは間違いだ、この本には悪魔はいると盛んに書いてあります。イエスの時代は悪魔の存在は人々の間に普通に受け入れられていました、だからイエスがなさったことに悪魔を追放するという話が多いですね。悪魔は巧みに人を罪に誘い込むわけだから、悪魔に気を付けなさいと「喜びに喜べ」の中で言われています。

「わたしたちを誘惑に陥らせず」という場合は、おそらくあからさまな誘惑もあるけれど、もう一つは困難、自分にとって不本意、人が自分の思い通りにしてくれない、状況が自分にとって都合が悪い、そういう時に人間はどうするか?それを解決するためにしてはいけないことをしてしまって憂さ晴らしをすることもあるんですね。

イエスは絶えず言われています、「わたしに従いたい人は自分を捨て自分の十字架を背負ってついて来なさい」十字架という言葉は試練とは違うけれど痛み、困難ですね。苦しみを献げるわけですね、苦しいからそれを解消するために他の人をいじめたりその苦しみを他の人に押し付けたりすればそれは誘惑に負けたことになるのかなとも思いますが、ちょっとお考え下さい。

「わたしたちを誘惑に陥らせず悪からお救い下さい」 

これは「誘惑に負けないように、わたしたちを悪魔からお救い下さい」と言うと、あまりにもむき出しなので言いにくいから、悪とだけ言うとぼんやりするので、でも悪魔の誘惑から負けないように助けて下さいという意味だと思ったら、もっと真剣になれるかもしれません。

以前の「主の祈り」にあった「試みに」というのは、人間は自由を与えられているのでどうするかはその人の責任で決めるので、その「試み」が「誘惑、つまり悪に陥る機会にならないようにして下さい」という意味かもしれません。人生の困難はわたしたちに神様が与えられている十字架である、と受け取ってそれを犠牲としてお献げする。イエスが言われたのはそういう意味ではないかと思います。

 

最後にわたしが紹介した知恵の書の言葉を読んで結びとします。

「あなたには偉大な力がいつも備わっておられる。あなたの腕の力に誰が逆らえよう。あなたの前では全宇宙は秤を傾ける小さな塵、地上における朝露の一滴のようである。あなたはすべてがお出来になるのです。すべてのものをあわれまれ、人々が悔い改めるようその罪を見過ごされる。あなたは存在するすべてのものを愛し、造られたものは何一つ忌嫌われない。もし憎いものがあったとしたらあなたはそれを形作られなかったであろう。あなたが望まれなければどうして存在し続けることが出来よう。またあなたに呼び出されなかったものはどうして保たれ得たであろう。命を愛される主よ、あなたはすべてのものをいとおしまれる」(知恵1121-26

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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