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2019年2月

2019年2月27日 (水)

反対しない者は味方ーー寛容であれ

2019年2月27日年間第7水曜日説教
                                           7時25分、本郷教会

イエスは言われた。 「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」
どう言う意味だろうか。ヨハネは自分たちのグループに属していない者がイエスの名によって悪霊を追い出すという善いことをおこなっていることに躓いたのでした。悪霊を追い出すならまず自分たちのグループに入り許可を得てからでなければしてはいけない、と考えたのでしょう。非常に不寛容な狭い心の「縄張り主義」がここに現れています。 聖霊は思うところで働きます。教会の外でも聖霊は働いています。最後の審判の時にさばきの基準になったのは、飢えている人に食物を与えたか、渇いている人に水を与えたか、裸の人に着せたか、などのこと、人の必要に応えたかどうか、という愛の行いのことであります。このような最も小さな人にしたのは主イエスにしたのであり、しなかったのは主イエスにしなかったことになるのです。(マタイ福音25章参照)。
問題は聖霊の働きに答えて愛の実践をしたかどうか、ということであり、その人がどの団体、どのグループに属しているかは二の次の問題です。

このイエスの言葉に微妙によく似たイエスのおしえがあります。
「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」(マタイ12・30)
これは今日の教えと一見逆のように見えます。 どのような文脈でイエスはこの言葉を言ったのでしょうか。
これは悪霊との戦いについてのイエスの言葉です。マルコの場合は、他の人の善い行いについての言葉ですが、このマタイの場合は、各自が問われている、悪との戦いについてのイエスの厳しい言葉です。悪との戦いついては中立はゆるされません。中立の態度を取るということは悪の働きをはびこらせることになります。人は悪に対しては断固、「否」の態度を取らなければなりません。中途半端な態度はゆるされないのです。「わたしたちを誘惑に陥らせず悪からお救いください。」

悪と戦うための聖霊の恵を祈り求めましょう。


福音の本文

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

2019年2月26日 (火)

奇しき導き

ペトロ 河合信義さん葬儀説教
                      1919年2月25日12時、本郷教会


ペトロ 河合信義は2019年2月21日の午前4時半ころ点の父のもとへ召されました。1943年8月7日生まれですので享年75歳でした。 河合さんは1986年3月27日、柏教会で、妻、道子さん、ご子息良太郎さんとご一緒に受洗されました。不思議な種の導きでしたが、洗礼を授けた司祭は柏教会の主任司祭であった、わたくし・主任司祭の岡田でありました。 受洗の動機は信義さんの妻道子さんの母上が安らかに死を迎えられことに深く感動されたことにあります。母上はカトリック教会のシシターのお見舞いを受けたことによって、安らかな最期に導かれたのでした。自分たちのカトリック信者になりたいと思われ、しかも、洗礼を受けるときは一家そろって受けたいと考えられたそうです。
そもそも「信義」というお名前は非常に福音的です。人は主イエスを信じて義とされる、つまり救いに与るのであります。 ヨハネによる福音(14・1-6)が読まれました。 主イエスは言われます。「父の家には住むところがたくさんある。わたしはあなたがたが住むところを用意する。わたしは 道、真理,命である。わたしを信じる人は誰でも癡のもとに行くことができる。」 今日のミサの叙唱で司祭は唱えます。 「叙唱 信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています。」

人は誰でも地上の生活の最後を迎えます。わたしたちのいずれ父の家への門を通ることになります。わたしたちは父の家でまたお会いすることができます。 わたしたちが聖母の取次により良き最期を遂げることができますよう祈りましょう。

2019年2月25日 (月)

敵を愛する

年間第7主日説教
                                 2019年2月24日午後5時、目黒教会

今日の福音で、主イエスは言われました。 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」
「自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵があろうか。…返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵があろうか。」
ルカ福音と並行箇所のマタイ福音5章では 「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5・15)  と言っています。
今日のルカ福音はさらに 「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)と言っています。
このようなイエスの言葉を現代の日本で生きているわたしたちはどのように受け取ることができるのでしょうか。
正直に言ってその実行は難しいとわたしは感じています。
しかしできないわけではありません。神の恵みを受ければ実行することができます。数知れ相殉教者や聖人はこのイエスの
今日の第一朗読サムエル記はその模範を示しています。ダヴィデは、自分の手に落ちた王サウル、自分を殺そうとてしている王サウルに対して「主が油注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした」と言って、敵となっているサウロ王を手に掛けることはしなかったのです。
何よりの模範はわたしたちの主イエス・キリストです。主は十字架の上で言いました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです。」(ルカ23・34)

この教えは、国家と国家、民族と民族、集団と集団の間でも当てはめられなければなりません。人類の歴史は戦乱と殺戮の歴史です。少なくないキリスト者が戦争に関与しています。もしすべてのキリスト者が主イエスのこの教え「敵を愛せよ」を真剣に受け止め実行していれば世界の歴史はもっと変わったものになっていたことでしょう。しかし、キリスト者は何かと理由を付けて、「正当防衛」とか言って、この教えの例外をつくり、現実の戦闘行為を肯定してきました。

人間とは罪深いものです。 創世記に出て来る最初の殺人はカインが兄弟アベルを殺してことでした。

「主はアベルとその供え物には目を留められたか、カインとその供え物には目を留められなかった。カインは激しく怒った顔を伏せた」(創世記1・5)のであります。 カインは兄弟アベルに激しい嫉妬と怒りを感じ、その衝動に負けて殺人という挙に出てしまったのでした。
人間の心には、恨み、憎しみ、妬み、怒り、憤り、自己中心などの悪いは思いが宿っているのです、 わたしは「三毒」という仏教の教えを思い出します。
三毒は貪瞋癡(トンジンシ) のことです。
貪とは貪り(むさぼり)
瞋とは憤り、怒り
癡とは無知ということで、相手の心、立場を知ろうとしない自己中心 を意味しています。
キリスト教で言う「原罪」にあたる、ゆがめられ毒されている人間の悪への傾きをを言うのでしょうか。
人間の本性は本来よいものです。神は人間をご自分に似せて、ご自分の似姿として創造し、これを見て「極めて良かった」(創世記1・31)とされたのです。
誰かが自分を憎む人であってもその人は神の作品であり、その人にうちには神の似姿が隠れているのです。
わたしたちはまだ地上で生きている、自然の体の状態の人間であり、贖いを受けつつある人間です。どうしても、争い、嫉妬、欲望などの問題に悩まされることになります。
第二朗読で言う「霊の体」でない自然のいのちの体である人間にはまだ争い、嫉妬、欲望などのマイナス要因が影を落としています。しかしキリストの復活に与るとき、わたしたちは「霊の体」に変えられます。そのときにはわたしたちはお互いに相手の中に神の似姿、復活の体に変えられたダイヤモンドのような輝きのある相手を見ることになる、と希望しています。
いや、キリストを信じたときに既に聖霊の恵みを受け、いわば復活の状態への道を歩み始めています。ヨハネの福音によれば、既に死からいのちへと移されているのです。(ヨハネ5・24参照)
自分を憎み、自分に悪口をつく者のうちにも復活のキリストが隠されていると信じるとき、敵への愛を実行する道に入ることになるのではないでしょうか。


ミサの 第一朗読 サムエル上26・2,7-9,12-13,22-23
第二朗読 一コリント15・45-49
福音朗読 ルカ6・27-38
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。6・27「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。37人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

2019年2月22日 (金)

悪の攻撃に打ち勝つ

聖ペトロの使徒座  2019年2月22日7時25分、本郷教会説教

イエスはペトロに言われました。 「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」 陰府の力とは悪の力、悪魔の攻撃を意味しています。教会は絶え悪の攻撃を受け、悪からの誘惑を受けてきました。その度ごとに教会は聖霊の導きを受けて教会の刷新を図ってきました。 いまわたしたちの教会は大きな問題を抱えています。聖職者による性虐待・性暴力という問題が告発されています。21日からはヴァチカンで聖職者による性虐待・性暴力という事態に対応するためのVatican Summit が開催されており、全世界の司教協議会会長が招集されています。日本からは長崎の高見三明大司教が出席しています。
教会が受ける悪の攻撃は外からのものもありましたがむしろ中に在る悪の方が深刻です。今日の朗読で言われていますが、「卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」という戒めを牧者は守らなければなりません。権力の場にある聖職者が自分の欲望を満たすために弱い立場にある、保護されるべき青少年を性的に凌辱するとは、決してあってはならないことであります。まさにその聖職者は悪の攻撃に負け悪の誘惑に陥ってしまったのです。 「地獄の門もこれに勝つことができない」と言われた主イエスの言葉に信頼し、聖霊の助けを祈り求めて、この危機に適切に対応し教会を刷新することができますよう、切に祈ります。


ミサ 第一朗読  ペトロの手紙 一 5:1-4 (愛する皆さん、)わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。

福音朗読  マタイによる福音書 16:13-19 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

2019年2月20日 (水)

盲人は見えるようになる

 

年間第6水曜日ミサ

 

第一朗読  創世記 8:6-1320-22 

四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度、したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。」

福音朗読  マルコによる福音書 8:22-26 

(そのとき、イエスと弟子たちは)ベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。 

イエスは神の国の福音を説き、神の国既に来ていることを示すために数々の癒しのわざを行いました。 

今日の福音は、イエスが一人の盲人を見えるようにしてあげた次第が告げられています。 

イエスの神の国の福音を信じ受け入れた人は貧しい人々でした。今週の主日の福音はルカの6章です。

ーー

イエスは「幸い、貧しい者。神の国は汝らのものデアル」(ルカ620、田川健三訳)と言われ、「禍あれ、汝ら富む者に」と言われました。富む者は自分の力により頼み、神の恵みにより頼もうとはしません。彼らは自分自身の力、対面、所有に心が覆われ、神の呼びかけには耳を閉ざしています。彼らこそ盲人であります。今日の第一朗読で言われていますが、「禍人が心に思うことは、幼いときから悪い」のであります。神いがにないも頼るものない人に向かってイエスは「幸い」と言われたのです。

 

なぜ貧しい人は幸いか

年間第6主日説教

2019217日、本郷教会

第一朗読 エレミヤ175-8

第二朗読 一コリント1512,16-20

福音朗読 ルカ617,20-26

(説教)

きょうのイエスの言葉を、わたしたちはどのように受け止めることができるでしょうか。

しばしば、イエスの言葉は、わたしたちの通常考えていることとは異なっております。むしろ、反対であると言ってもよいかもしれません。

「貧しい人々は幸いであり、富んでいる人々は不幸である」と言われた。普通、わたしたちはそのような思いは持っているでしょうか。

「幸い」という言葉は、「祝福あれ」という意味であります。忠実に訳すと「祝福されている、貧しいあなたがたは。神の国はあなたがたのものである」となります。イエスの周りに集まった人々は、貧しい人々でありました。

大勢の群衆が、イエスの周りに押し寄せて来た。病気の人、体の不自由な人、あるいは、汚れた霊に取りつかれた人々などであります

マタイによる福音では、いわゆる「山上の説教」の中で、「幸い、霊において貧しいあなたがたは」という言葉で始まる八箇条、昔の言い方で言えば「真福八端」が述べられている。ルカによる福音のほうは、「幸い、貧しいあなたがたは」で始まる四箇条の祝福、そして、「不幸であれ」で始まる四箇条が続きます。「不幸であれ」と訳されていますが、忠実に訳すと、「災いあれ」と訳すことができるそうであります。注

さて、どうして貧しい人々は祝福されているのでしょうか。貧しい人々とは、どんな人を指しているのでしょうか。旧約聖書から新約聖書を通して聖書の流れを見ますと、聖書の世界では、孤児、やもめ、寄留の外国人が、貧しい人の代表であります。さらに、マタイによる福音25章を思い出すとよいかもしれない。人間が生活する上で最も基本的に必要なものを欠く人々、あるいは、食べるものが無い、飢え渇き、そして着るものも無い、寝るところも無い、病気である、あるいは、自由を拘束されて牢につながれている人々、そういう人は、最も小さい人々だとイエスは言っています。

考えるに、社会の中で、小さい人々とは、自分を守りうる術は持たない人、自分を説明したり、自分の意見を述べて理解してもらう力が弱い人、ましてや、人を動かしたり、人を支配したりすることなど考えられない、人から無視され、軽んじられ、疎んじられ、蔑まれている、そういう人々が貧しい人、小さくされた人々ではないでしょうか。

フランシスコ教皇様が尊敬してご自分の教皇名にいただいている「聖フランシスコ」は、貧しい人を生きることによって、主イエス・キリストに最もよく倣った聖人であると言われています。

貧しさ」の中に、もちろんまず経済的に貧しいということがありますが、社会の中で、人との関係の中での貧しさがあります。人がより小さい存在であるときその人は貧しい人であります。「Powerless」な人、力のない人です。そして、自分の生活を建て、守り、そして、より良くするためのいろいろな所有物が無い。何も自分のものが無い、最低の物も事欠く。さらに、社会の中で自分がだれであるかというものを認めてもらうための体面と言いましょうか、地位と言いましょうか、名誉と言いましょうか、そういうものが無い。

ところでそれでは「富んでいる人々、あなたがたに災いあれ」(ルカ621[聖書 聖書協会共同訳])とさえ言われていますがどういうことでしょうか。この際、ご一緒に考え、黙想したいと思います。

わたしたちが信じる福音は「神の国」の福音と言われています。「神の国」は神が王として支配すること。わたしたちは「神の国」の福音を受けた、神様の恵みを受け、神様に従い、そして、神にのみ、全てを委ねるべき生き方を選んだ。しかし、なかなかそうはできていない。自分の力で、自分の小さな面目を守り、そして、自分の周りを治めようとしているのではないか。

きょうの第一・第二朗読を振り返りますと、「貧しい人は幸い」を理解するために参考になるように思われます。

エレミヤの預言で言われています。

「祝福されよ、主を信頼する人は、主がその人のよりどころとなられる」

貧しい人々は祝福された人々です。神にのみ信頼し、神にだけより頼む人々です。お金の力とか、名誉とか、対面とか、持ち物とか、そのようなものを一生懸命求めて幸福であろうとする人は「災いだ」といわれてしまうのですね。

わたくしは自分自身、このイエスの教えから遠い自分であると思います。しかし、そのような自分のために、イエスは十字架にかかってくださった。そして、死者の中からの「初穂として」復活し、わたしたちに復活の命を与えてくださいます。わたしたちがどんなものであれ、イエスが説くあるべき姿からは遠いものであっても、それを自分で認めて、それでもイエスに寄り添って歩もうとする者には、無償で復活の恵みを与えてくださるのである、と信じます。

注 「聖書 聖書協会共同訳」では「災いあれ」田川健三訳では「禍あれ」となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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