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2019年3月

2019年3月30日 (土)

罪人のわたしを憐れんでください

四旬節第三土曜日ミサ説教

2019年3月30日、本郷教会

昨日の福音では、「多くの掟の中でどの掟が第一の掟であるか」、ということについての、イエスと律法学者の対話が告げられています。
イエスは言われました。第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
また、イエスは最後の晩餐の時に弟子たちに、「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい掟を残されました。
いまわたしたちは四旬節で、悔い改めと回心の時を過ごしています。赦しの秘跡を受けるときに、どのような罪をどのように告白したらよいか、と戸惑われるかもしれません。普段自分には、これと言った罪咎は犯していないが、だからと言って自分には全く罪がないとは思わない。どうしたらよいだろうか、というお気持ちになられるかもしれません。旧約聖書の掟は細かく具体的に述べられているので、それを守ったか守らなかったか、は明白ですが、「愛する」という掟については、問題なく守っていると言える人は、たぶん誰もいないでしょう。愛の掟の実行には限りがありません。「赦しなさい」という教えについても、「なかなか人を赦せない」という気持ちに苦しむことがあります。人を憎み、恨むという気持ちを感じることは、自分でも止められないと感じます。
さらに個人の罪についてだけでなく、社会の構造的な罪について考えますとさらに、非常な困難を感じます。世界の構造悪の改善と改革について自分はどう考え何をしているだろうか?難しい課題です。
人は皆神の前に罪人です。使徒パウロはローマの教会への手紙で、「人は皆罪をおかして神の栄光を受けられなくなっている。ただ主イエスへの信仰によってのみ罪の赦しを受けることが出来るのだ」と説いています。(特に3章) わたしたちはただ、神の前に自分の罪を認め、赦しを願うしかないのであります。*
今日の福音でファリサイ派の人は自分の善行を数え上げ、隣にいる徴税人を蔑んで、自分を正しい者として、神に感謝の祈りをささげています。この態度は「自己義認」、自分で自分を正しい者とする、という傲慢な態度です。この人には罪の自覚が全くないようです。徴税人の方はただ自分の罪の赦しを願うしかありませんでした。わたしたちはどうでしょうか?

*詩編130を「教会の祈り」(水曜日、寝る前の祈り)では次にように祈ります。

 神よ、深いふちからあなたに叫び、

 嘆き祈るわたしの声を聞いてください。

 あなたが悪に目を留められるなら、

 主よ、誰があなたの前に立てよう。

 しかし、あなたのゆるしのために、

 人はあなたをとうとぶ。

 神はわたしの希望、わたしの望み、

 わたしはそのことばに寄り頼む。

 夜明けを待ちわびる夜回りにもまして、

わたしの心は主を待ち望む。

イスラエルよ、神に寄り頼め、

神は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。

神はすべての罪から、

イスラエルを救われる。

第一朗読 ホセア6・1-6

6・1「さあ、我々は主のもとに帰ろう。

主は我々を引き裂かれたが、いやし

我々を打たれたが、傷を包んでくださる。

2二日の後、主は我々を生かし

三日目に、立ち上がらせてくださる。

我々は御前に生きる。

3我々は主を知ろう。

主を知ることを追い求めよう。

主は曙の光のように必ず現れ

降り注ぐ雨のように

大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」

4エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか。

ユダよ、お前をどうしたらよいのか。

お前たちの愛は朝の霧すぐに消えうせる露のようだ。

5それゆえ、わたしは彼らを預言者たちによって切り倒し

わたしの口の言葉をもって滅ぼす。

わたしの行う裁きは光のように現れる。

6わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく

神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。

福音朗読 ルカ18・9-14

そのとき、18・9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

2019年3月29日 (金)

わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」

四旬節第三金曜日ミサ説教
2019年3月29日、本郷教会

イエスは、「わたしが来たのは律法を廃止するためではなく完成するためである」と言われました。
律法とは、モーセに授けられた十戒など掟めを意味し、さらに後には広い意味で、モーセ五書全体を指すようになり、非常に複雑で数多い律法を学ぶ必要が生じました。そのために律法についての専門家が必要となり、律法学者という律法の専門家が登場しました。彼らの間では、数多くの律法の中でどの掟が大切かという議論が行われていたようです。
イエスと律法学者の間では律法の解釈をめぐって激しい対立が生じていました。今日の福音では、イエスは言われました。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
「イスラエルよ、聞け、・・・」という掟は「シェマー」と呼ばれる非常に重要な掟です。この教えを子どもたちに繰り返し教え、家の戸口の柱にも門にも書き記さなければなりませんでした。((申命記6・4-6) 
イスラエの人は「神を愛する」とはまず神にいけにえを献げることだと考えたようです。いけにえとは彼らの大切な財産である牛や羊を神に献げることです。しかし預言者を通して主は言われました。
「お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。」(イザヤ1・11)
「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア6・6)
いけにえを献げるよりも神の慈しみを実行することこそ神を愛することなのです。

 

『隣人を自分のように愛しなさい。』という教えについても、有名な「善いサマリア人」の譬えから学ぶ必要があります。(ルカ10・25-37参照)
さらに「人を赦しなさい」という教えに深く学ぶ必要があります。(3月26日のマタイによる福音18・21-35参照)

 

――
第一朗読  ホセア書 14:2-10
(主は言われる。)イスラエルよ、立ち帰れあなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。誓いの言葉を携え主に立ち帰って言え。「すべての悪を取り去り恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを再びわたしたちの神とは呼びません。親を失った者はあなたにこそ憐れみを見いだします。」わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。露のようにわたしはイスラエルに臨み彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がりオリーブのように美しく、レバノンの杉のように香る。その陰に宿る人々は再び麦のように育ちぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。ああエフライム、なおもわたしを偶像と比べるのか。彼の求めにこたえ彼を見守るのはわたしではないか。わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み、神に背く者はその道につまずく。

 

福音朗読  マルコによる福音書 12:28b-34
(そのとき、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。)「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

神の指

四旬節第三木曜日ミサ説教
2019年3月28日、本郷教会

昨日の福音でイエスは「わたしが来たのは律法を廃止するためではなく完成するためである」と言われました。このイエスの言葉はイエスの反対者には理解されませんでした。イエスは律法を破る者として攻撃されたのです。
今日の福音ではイエスは悪霊を追い出す者として登場しています。悪霊の追放ということは、福音書のなかで非常に目立つイエスの働きでした。イエスは悪霊の追放をもって、神の国の到来を告げ知らせたのです。今日の福音でイエスは言われました。
「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
神の指とは聖霊を意味しています。イエスは聖霊の働きによって悪霊を追放していました。しかしイエスの反対する者はイエスがベルゼブル、つまり悪霊の頭と結託して悪霊を追い出している、と中傷する者がいました。イエス自自身が悪霊に憑かれた者、悪霊の仲間であるという、酷い悪口を言われたのです。
イエスは、律法の破壊者、神を冒涜する者、そして悪魔付き、とされて、非難され中傷され、排除されるべきものとされたのです。
イスラエルの民は心を頑なにし、主なる神の声に聞き従いませんでした。イエスの時代の反対者、祭司、律法学者、ファリサイ派の人々も、イエスの声に心を開いて神の声に耳を傾けようとはしませんでした。彼らはイエスを信じることが出来ませ何故でしょうか?

2019年3月27日 (水)

赦し

主イエスは言われました。
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
わたしたちは毎日主の祈りで「わたしたちの罪をおゆるしください、わたしたちも人をゆるします」と祈っております。イエスが「赦しなさい」と教えているということは非常に明確あるといえましょう。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7・1)と言われ、「自分の目の中の丸太を取ってから人の目の中のおが屑くずを取りなさい」(マタイ7・3-5参照)とも言われました。
ここである人が言っていたことを思い出します。「わたしは主の祈りを祈れない。何故かといえば、《わたしの罪をお赦しください、わたしも人を赦します》、の《わたしも赦します》というところがどうしても言えない」と言われました。人をどうしても赦せない、と感じる人はいると思います。人を赦し難く思い、ずっと憎しみを持ち、恨みを持ち続ける人もいると思います。「赦しなさい」、という教えは知っている、しかし赦せない。この人の苦しみは二重になります。赦せないという苦しみと赦しなさいと言われ入るのは赦せない自分に対する苦しみ。非常に深刻です。赦せないと思い、そんな悪いことをしたのだから赦すなんてとんでもない、と開き直っている人なら、赦せない自分へ後ろめたさはないわけです。しかし、イエズスが赦しなさいと言っている、自分は信者だから赦さなければならない。しかし赦せないと思っている人の場合は苦しみが深刻です。こんなわたしを神様は赦してくれないのでしょうか、と問われると、返事に困ります。
「赦し」は非常に重要な教えです。今日の譬えはわかりやすい。100デナリと1万タラントンという金額の間にはものすごい差がある。一デナリは一日の労働者の賃金ですので一万円くらい。一タラントンは6000デナリです。一万デナリはその一万倍ということになります。とても払いきれない金額であるということを表している。
それから7の70倍赦しなさい、とは要するに、無限に赦しなさい、ということです。そうなるとこれは実行が難しい教えになります。しかし家来が「赦してください」と願ったので王は憐れに思い借金を帳消しにしてあげたわけです。しかし自分に100デナリの借金をしている人が「待ってくれ」と懇願したのに赦さなかったわけです。
この借金の話と罪の話が全く同じことだろうか、とも思いますが、主の祈りでは罪は「負い目」と翻訳されます。
わたしたちは互いに負い目を持っています。そして、神様への負い目は計算できません、何しろすべてを神様から頂いてくるわけですから。神様から頂いたもの全部神様に帰すことはできないので、神様から頂いたものから神様の御心に従って仲間にお返しすることにしなさい、と教えられているということだと思います。
ところで相手の方が自分に対して負い目を持っていないと思っている場合はどうなるでしょうか。人が自分に負い目を持っている場合、それを自覚して、すみません、頑張りますから待ってください、というならば、赦すことが出来るのだろうと思うが、しかし、相手が、負い目があるとは思っていない場合は赦すことは難しいでしょう。
話が跳んですみませんが、今教会で起こった聖職者による性虐待事件にも同じような問題があります。多くの場合、加害者が被害者に対して、加害意識、悪いことをしたと思っていない、あるいは加害意識が弱い、薄いのであります。それが大きな問題なのです。悪いことをしたと思っていない人をどう赦せるか、ということが問題になります。

旧約と新約

四旬節第三水曜日ミサ説

                                                                                                                                                 2019年3月27日、本郷教会

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と主イエスは言われました。律法はモーセを通してイスラエルの民に与えられました。イスラエルの民はこの掟を守ることが出来ませんでした。そこで預言者を度々遣わされた主は、エレミヤという預言者を通して「新しい契約」を結ぶことを予言されたのであります。*「新しい契約」は、石の板にではなく心に刻まれると言われ、また主イエスはわたしたちに「新しい掟」をお与えになりました。それは「愛の掟」、「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」という掟であります。この掟の中にすべての掟が含まれており、この掟を実行すればすべての掟を実行したことになります。しかし古い律法の場合は、何をするべきか、何をしてはならないか、ということが文字によって示されましたが、新たしい掟の場合は、その都度、聖霊の導きによって示されます。人はその都度聖霊を通して主がお望みになっていることを知り実行しなければなりません。使徒パウロは、人は律法を実行によっては救われない。ただ信仰によって救われるのである」と強調しています。信仰によってわたしたちの心に聖霊が注がれ(ローマ5・5)、神のいのちが与えられます。わたしたちは聖霊の助け、聖霊の恵みによって愛の掟を実行することが出来るようになるのです。神と人が旧約を結んだ時には動物の血が流されました(出20章参照)が新約の締結の時には主イエス・キリストご自身の血が流されたのであります。(マタイ26・26-28、ルカ22・15-20,一コリ11・23-25参照)わたしたちは四旬節の典礼を行いながら復活祭に向かって歩んでおります。この歩みの中で、旧約から新約への道を学ぶようにいたしましょう。旧約とは何だったのか、新約とは何であるのか、旧約と新約の間にはどんな発展があったのか。新約の掟は聖霊の導きであり、聖霊によってわたしたちの心に刻まれていることを学びましょう。特に聖週間の典礼を通して、主イエスの過ぎ越しの神秘に与り、洗礼の恵みを思い起こし、豊かな聖霊の恵みを受け、復活の喜びを共に祝うことが出来ますよう、ともに歩んで参りましょう。

*見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31・31-34)

 第一朗読 申命記 4:1、5-9

(モーセは民に言った。)イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。 見よ、わたしがわたしの神、主から命じられたとおり、あなたたちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである。あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい。

福音朗読  マタイによる福音書 5:17-19

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

 

2019年3月26日 (火)

お告げの祈り

待降節第四主日のミサの集会祈願(各年共通公式祈願)は次のような祈りでした。


 「恵み豊かな父よ、わたしたちの心にいつくしみを注いでください。みことばが人となられたことを信仰によって知ったわたしたちが、御子の苦しみと死を通して復活の栄光にあずかることができますように。」※1
 実は『お告げの祈り』の祈願文と同じ祈りです。表現が少し違う部分がありますが、ラテン語の原文は同じあり、まったく同じ祈願文であります。カトリック教会は日に三回、『お告げの祈り』を唱え、聖母マリアの信仰を黙想する、よい習慣を持っています。


 この祈りは今日の福音に基づいています。天使ガブリエルがおとめマリアに現れて、マリアは聖霊によって救い主の母となる、と告げられます。そのときマリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えましたが、「神にはできないことは何一つない」と言われてマリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」
この「なりますように」はラテン語でFIAT(フィアット)です。
 FIATというイタリアの車があります。さすがイタリアの国は信心深いなあ、と思っておりましたが、よく聞いてみると、FIATとは、Fabbrica Italiana Automobili Torino 頭文字だそうです。車の名前あるいは車の製造会社の名前らしいです。 偶然なのかそれともマリア様のフィアットになるように名前も付けたのかな、と思いますが、多分語呂合わせのようにして命名したのでしょう。 天使がおとめマリアに現れて「神の母となる」というお告げをして、マリア様は「お言葉通りこの身になりますように。」「なりますように」、これがフィアットです。
 聖霊によって救い主の母となる、ということは実に大変なことです。誰がそれを信じてくれるでしょうか?許婚(いいなずけ)のヨセフになんと説明したらいいでしょうか? 婚外の婚前妊娠は姦通とみなされ、石ころしの刑を受けなければなりませんでした。「はい」と答えることは大変なリスクが伴います。恐ろしい危険が予想されます。それでもおとめマリアは「フィアット」と答えたのでした。
   神はご自分の救いの計画を実行するに際して一人のおとめの承諾をもとめました。彼女は神を信じ神に従いました。彼女の信仰と従順の結果、神は人となられたのです。 神様はマリア様だけでなく、わたしたちにも同意と協力を求められます。神様は人間の協力を求めています。信仰による同意、従順、服従を求めています。わたしたちの自分の意思、自分の心を神様にささげることができます。これは実に光栄なことです。 あなたは神様から何を求められているでしょうか?マリア様にならってわたしたちも「はい、お言葉通りこの身になりますように」とお答えするようでありたいです。 


1 文語の祈り文は次の通りです。


 主よ、われら天使の告げを以て(もって)、御子キリストの御託身を知り足れば、願わくはその御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄えに達するを得んため、われらの心に聖寵を注ぎ給え。われらの主キリストによって願い奉る。


 


 


 

2019年3月24日 (日)

性虐待被害者のために

四旬節第三主日「性虐待被害者のための祈りと償い」のミサ説教
                                                 2019年3月24日、本郷教会

第一朗読 出エジプト記3・1-8a、13-15
第二朗読 一コリント10・1-6,10-12
福音朗読 ルカ13・1-9

 燃える柴の中でモーセにご自分をあらわされた主なる神は、モーセを通して民に戒めと掟と法、命令を、たびたび預言者を遣わして、民を教え諭し導きました。しかし民は心をかたくなにしたびたび神に背き、神の愛を信じようとはしませんでした。やがて時満ちて神はおん独り子イエスを遣わし、わたしたちの救いのためにおん子が十字架にかけられることさえおゆるしになったのでした。死から命への過ぎ越しの神秘を生きたイエスはわたしたちに聖霊を注ぎ、同じ過ぎ越しの神秘に生きるよう教え、復活の栄光へとわたしたちを招いています。
 今日の福音はいちじくの木の譬えであります。この いちじくの木の譬えから何を学ぶことが出来るでしょうか。
主の霊は今もわたしたちに注がれています。聖霊の神殿となったわたしたちは相応しい実りをもたらすよう期待されています。いちじくの木がおいしい実をむすぶように、わたしたちも聖霊のもたらす美しく清らかな実を実らせなければならないのです。三年たっても実を結ばないいちじくの木は切り倒されてしますかもしれない。園丁は肥やしをやってもう一年猶予してあげようと言ってくれました。
このいちじくの木は誰を指しているのでしょうか。このわたくし・岡田を言っているような気がします。それともわたしたち本郷教会を意味しているのでしょうか?皆さん、どう思いますか?
本郷教会はどのような実を結ぶように期待されているのでしょうか。本郷に相応しい成果が期待されています。
 
 さてこの本日は菊地大司教からの要請にこたえて、現在のわたしたちの教会が直面している緊急で深刻な問題を取り上げ皆さんと一緒に考え、祈りたいと思います。
日本のカトリック司教協議会は四旬節第二金曜を「性虐待被害者のための祈りと償いの日」といたしました。今年は3月22日がその日にあたります。この日のミサは被害者のためのミサとしてお献げ致しましたが、本日もミサも同じ意向でお献げしております。
 性虐待を受けた被害者の方々、そのご家族の悲しみ、苦しみを思い、癒しと回復の恵みを与えてくださいますように、いつくしみ深い神に祈りましょう。この難しい状況にわたしたち教会が誠実に向き合い、その解決、克服のために努力することができますように、神の助けを願いましょう。
 性虐待の問題は、今や全世界の深刻な問題です。日本の教会でも同じ問題があったし、今もあることをわたしたちはしっかりと受け止め、そして、その被害者の皆様に心からお詫び申し上げるとともに、日本の教会をあげて、その問題の克服のために、祈りと努力、そして償いをするように努力することを、日本のカトリック司教団は心から願っており、そのために努力しております。
 教会は神の民であり、神の霊を受けた神の神殿であります。
 しかしながら、そうであっても、わたしたち人間の弱さと罪を免れているわけではありません。罪の汚れをまだ完全に拭い去ることができない状態にあります。そして、嘆かわしいことですが、人々に仕え、イエス・キリストの福音をのべ伝えるために選ばれ、叙階の秘跡を受けた人たちが神様の御心に背く、性虐待という忌まわしい行いをしたことが明らかになりました。本当に残念なことであります。ヨハネ・パウロ二世教皇、ベネディクト十六世教皇、そしてフランシスコ教皇は全世界の教会に向けて、この問題の重大さをしっかりと受け止め、この問題をよく見て、そして解決と克服のために努力するように、そして神様の恵みを願うようにと訴えてきました。
 まずわたしたちは、この問題についての対応の仕方について真摯に反省しなければなりません。この問題を誠実に、正直に、真剣に見詰めなければならないのです。隠したり、うやむやにしたりすべきではありません。さらに、さらに、この問題についてのわたしたち自身の理解、事の重大さについての理解が足りない、ということも率直に認めなければなりません。
わたしの体験では、加害者と被害者の間には、この問題絵受け止め方、理解の仕方について、大きな溝がある、と感じています。加害者は自分が加害者であるとはあまり意識していないのです。どんなにか、性虐待、性暴力によって、人は傷つき、苦しむかということについて、加害者は理解していない。しかし、この点についてわたしたちも同罪かもしれない。わたしたちも問題をきちんと理解していないのではないかと思うのです。
 
人間にとって、『性』ということは非常に大切なことであり、相応しく、正しく、この問題を見つめ、そして一人ひとりの人が本当に人間として、人間の尊厳を認識し、お互いに大切にするようにしなければならないと思います。そのための教会の努力は必要であることは論を待ちません。全世界の司教協議会にはそのための部署が作られ、かつ各教区にも委員会ができ、担当司祭等が任命されております。
わたしたち自身もこの問題を自分の問題をして真摯に受け止め、祈り、考え、克服のための努力を続けて行かなければならないと考えます。
 ――
第一朗読  出エジプト記 3:1-8a、13-15
(そのころ、)モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、へ彼らを導き上る。」
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。
「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名これこそ、世々にわたしの呼び名。」
第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 10:1-6、10-12
兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけ(なさい。)
福音朗読  ルカによる福音書 13:1-9
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してくださ

2019年3月23日 (土)

依然として若い人の自死・自殺者が多い。

2019年3月21日(春分の日)、本郷教会
金持ちとラザロという貧しい人の物語であります。金持ちの家の前にラザロという、できものだらけの貧しい人が横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。しかし金持ちはそのラザロの存在に何の注意も払わなかったのです。この金持ちはとくに悪いことをしたわけではありませんでした。しかしすぐそばに居る貧しいラザロのことを気にも留めなかった。この金持ちとラザロの話は、もしかして、わたしたち自身の問題、この日本という国の問題、あるいは世界の現状が直面している問題を言っているのかもしれない、と思います。
わたしたちは信者ですが、「怠りの罪」ということを自覚するように求められています。してはいけないことはあまりしていないかもしれないが、するべきことをしていないのではないでしょうか。なぜしていないのか。しなければならない、そうせざるを得ないという心に迫る思いを持っていないのかもしれない。この世界には、非常に惨めな状態、困っている状態に置かれている人が沢山います。そのことをわたしたちは頭では理解しているが、どれだけその人たちのことを心でしっかりと受けとめているだろうか。この日本でも日々の食べ物に事欠く人がいないわけではありません。「子どもの貧困」ということが言われています。それは事実ですが、わたしたちの社会の問題はもっと精神的問題ではないか、と思います。人々の中には、生きる喜び、生きる力、生きる目標を失い、何のために生きているのかわからないと嘆き、孤独と空しさに苦しんでいる人がいます。
日本は自殺者の多い国です。以前は年間三万人を超えていたのですが、多くの方々の努力でこの問題は改善されています。しかし依然として若い人の自死・自殺者が多い。自分自身を大切な存在と認めることのできない人がいるのです。自死する人は、自分自身のうちに、かけがえのない価値を見つけることが難しいと感じているのではないでしょうか。
神を信じるわたしたちは、神がわたしたちひとり一人にいのちをくださり、かけがえのない大切な存在としてくださったことを信じています。
わたしたちは、誰でも、とくに人生の孤独と無意味に苦しむ人々が、自分の存在の価値を見つけられるように、助けなければならないのではないだろうか。そうしないなら怠りの罪をおかしていることになります。
他の人を助けられるためにはまず自分自身が神から愛されているということもっと強く自覚する必要があります、その信仰のうちに、言葉と行いで人々に、その方々の掛け替えのない存在の価値と意味を示していかなければならない。それがわたしたち自自身の一番大切な務めであると思います。よい便り、福音、わたしたちが誰でも神から愛されている大切な存在であるということを、多くの人々に言葉と行いで表し示すことです。そうできるために、聖霊の助け、導きを受けなければなりません。
今日の「福音の証し・本郷集会」の上に聖霊の恵みが豊かに与えられますよう、祈ってください。
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第一朗読  エレミヤ書 17:5-10
福音朗読  ルカによる福音書 16:19-31

2019年3月20日 (水)

聖ヨセフ

聖ヨセフの祭日説教
2019年3月19日、本郷教会
教皇ベネディクト16世は、退位する少し前に、聖ヨセフの名前をすべてのミサ奉献文にするようにという指示を出されました。
今読まれましたマタイの福音の中で、ヨセフは、夢の中の天使からお告げを受けて、マリアを受け入れ、そしてマリアの夫となり、さらにイエスの父となると言う決意をしたのであります。身に覚えがないにもかかわらず、許婚の乙女マリアが妊娠したことを知ったヨセフは、どんなに苦しい思いをしたことでしょうか。ヨセフは正しい人であったと言われております。非常に苦しんだに違いない。しかし神様の導きを信じ、マリアと一緒に家庭を築き、家族を保護し、イエスを養育いたしました。
 夢のお告げと言えば、もう一つ、イエスが生まれた直後、ヘロデが、その頃その地方に生まれた全ての男の子を虐殺するという、ひどい事態が起こった時に、夢の中で避難するようにと言う指示を受けて、まだ夜が明けないうちに、すぐにそこを発って、ベツレヘムからエジプトに向かった。夜中、夜が明ける前に、妻と子供を連れて、すぐに出発したのでした。大変信仰深いだけでなく、決断力と実行力のある人であったと思われます。ナザレでの静かな日々を過ごし、そしておそらく、ヨセフは自分の仕事をイエスに教えたことでしょう。
ナザレにおける聖家族の生活の30年は、それはわたしたちに、この家庭というものが、人間にとって非常に大切である、ということを想い起こさせます。今、日本だけでなく、世界中で、家庭、家族という、人間にとって最も大切な人と人とのつながりが危機に貧している、困難な状態にあることをわたしたちは知っているのであります。そういうこともあったからでしょうか、教皇様は、ヨセフを、大変重要な聖人として、もっと多くの人がヨセフの召命を知るようにと望みになり、ミサ、典礼の中に名前を入れるようにと、お決めになったのではないだろうかと思います。
 ヨセフの生涯は、妻マリアを通し、イエスを育てるために献げられました。このヨセフを導いたのは、何であったのでしょうか。それは、夢の中で彼に告げられた主の言葉、神の導きであります。夢で神様のお告げを受けるというのは、よほど特別な、神に対する深い信仰があったからでありましょうか。ヨセフの言葉というのは、聖書には出てこない。もちろん、言葉は使ったに違いないけれども、記されていない。不言実行の人。神のみ言葉に従って誠実に生き、自分の役割を忠実に果たし、静かに地上の生涯を終えた人でした。イエスは30歳を過ぎてから公生活を始めました。それまでに、イエスがまだナザレにいた時だったのでしょうか、ヨセフは地上の生涯を終えています。
ヨセフは、自分の役割、父親としての役割、夫としての役割を果たし、妻を守り、子どもを養育して、やがて静かにナザレの聖家族のから去っていったのでした。イエスはヨセフが去ってから、おそらく、家族の生活を支えるという役割を果たしたと思われます。そして、30歳を過ぎてから、ご存知のように、神の国を述べ伝える活動を始めたのであります。
現代の家族の一人ひとりの困難をご存知の神よ、わたしたちを守り、導き、支え、知恵と勇気をお与えくださるよう、聖ヨセフの取次によって祈りましょう。

息子の出世を先取りする母親

四旬節第2水曜日ミサ説教
2019年3月20日、本郷教会
今日は四旬節の第二水曜日です。今日の福音朗読は、イエスの一行はエルサレムへ向かう旅をしているときの出来事を伝えています。わたしたちも四旬節の典礼に参加し、主イエスの生涯に学びながら、今年の4月21日の復活祭に向かう信仰の旅をしております。
イエスは今日の福音で三度目になる受難の予告をしています。
「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。」
弟子たちはこのイエスの言葉が理解できませんでした。それどころが、彼らはイエスがエルサレムで政権を奪取し王になることを期待していたようです。ゼベダイの子ヨハネとヤコブの母はイエスに願って言いました。
「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
他の弟子たちを出し抜いて、息子たちがイエスの政権で大きな権力を与えられるという約束を事前に取り付けておきたいという利己的な思いが、この言葉には込められています。当然、他の弟子たちはこの言葉を聞いて憤慨しました。おそらく弟子たちも皆同じような思いを抱いていたことでしょう。弟子たちの間の権力をめぐる欲望の確執は次の場面にも表れています。


イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9・33-35)

イエスがエルサレムに向かうのはこの世の権力を獲得するためではなく、むしろその逆のことを覚悟しての旅、つまり、侮辱され、辱められ、惨たらしい十字架の刑に架けられるためのエルサレムへの道でありました。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
わたしたちはこのイエスの言葉をどのように受け取り実行しているでしょうか。「仕えられるためではなく仕えるために来た」とイエスは言われました。叙階式の時によく使われる言葉です。いまは叙階式が行われる時です。司祭に叙階される者はこのイエスの言葉を心に刻み実行することを約束します。
人間の欲望の中で権力への欲望は根深いものです。「福音の人を支配したい」という思いから解放されますように、清められますように、聖霊の導き、助けを祈りましょう。

2019年3月18日 (月)

あなたがたは自分の量る秤で量り返される

四旬節第2月曜日ミサ説教

2019318日、本郷教会

今日の答唱詩編は詩篇130です。

神よ、深いふちから

  あなたに叫び、

嘆き祈るわたしの声を

  聞いてください。

あなたが悪に目を留められるなら、

  だれがみ前にたてよう。

しかし、あなたのゆるしのために、

  人はあなたをおそれとうとぶ。

 

この答唱詩編130は七つの痛悔の詩編の一つであります。人は誰でも神の前に立つとき、自分には罪はない、と言える者はいません。ただ神の憐みと慈しみにより頼み、赦しを願い

求めることしかできないのです。

今日の第一朗読ダニエル書は繰り返し、イスラエルの民は主である神に背き、神の戒めを破り、神の声に聞き従わなかった、と述べています。

わたしたちも皆、罪人であります。罪を赦していただくためには、わたしたちはただ神の憐みに寄りすがることしかできません。神は憐れみ深い方ですからわたしたちの罪をお赦しになります。

今日の福音でイエスは言われました。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

わたしたちは罪の赦しを頂くしかない者ですから、人を罪に定めたり、人を裁いたりするべきではありません。主の祈りでもわたしたちは「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します」と祈っているのであります。

わたしたちは人に負い目を持つ者でありますので、人の負い目を赦さなければなりません。わたしたちは誰しも人からお蔭をこうむっており、人の助けによって生きていますので、人にも寛大に人の必要に応えなければなりません。

今日の福音で人を評価するときに用いる「量り」は「升」とも訳されます。升は米等の穀物や液体を量るための容器です。升の中に穀物を入れて揺すれば隙間ができるので同じ升により多くの穀物を入れて、一升の量を増やすことが出来ます。同じように、人に寛大であるならば人からもより寛大な評価を頂くことが出来ます。神から赦され憐みを受けているのですからわたしたちも人を赦し人に対して憐れみ深い者にならなければならない、と主イエスは言われます。

―――

第一朗読  ダニエル書 9:4b-10
主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。あなたの僕である預言者たちが、御名によってわたしたちの王、指導者、父祖、そして地の民のすべてに語ったのに、それに聞き従いませんでした。主よ、あなたは正しくいます。わたしたちユダの者、エルサレムの住民、すなわち、あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべてが、今日のように恥を被っているのは当然なのです。主よ、恥を被るのはわたしたちであり、その王、指導者、父祖なのです。あなたに対して罪を犯したのですから。憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。あなたの僕である預言者たちを通して与えられた、律法に従って歩むようにという主なる神の声に聞き従いませんでした。

福音朗読  ルカによる福音書 6:36-38
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
 
人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

2019年3月17日 (日)

主の変容

 赤羽教会四旬節黙想会ミサ説教

四旬節第二主日、2019317 

  ただいま読み上げました福音は「主のご変容」の場面でございます。 イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登りました。それは「受難の予告」をしてから八日目のことであります。エルサレムの出発する前に、静寂な環境で、父である神と親しい交わりのひと時を過ごしたいとイエスがお望になられたからでしょう。たぶん深夜のことでした。祈っているイエスの様子が変わり、イエスの顔と姿は神の栄光に包まれました。そこにモーセとエリヤが現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしている最後について話していました。モーセはシナイ山で神から十戒を授かった人、エリヤは代表的な預言者で神の言葉を告げるために奮闘しました。 イエスはモーセとエリヤで代表される旧約聖書の教えと預言を成就するためにエルサレムにのぼろうとしていました。そこでイエスを待ち受けていたのは十字架という悲惨な出来事であります。そのことをイエスは十分に意識して、受難へ向けて、その前に、父である神との語らいが必要でありました。

イエスは普段はわたしたちと同じ人間と同じ人間の姿を取り、罪という点を除いては、喜びも悲しみも、苦しみ、辛さも私たちと同じように体験されました。イエスが神の子であるということは、色々な機会に奇跡というしるしで示され、特に、このご変容の場面で弟子たちに示されたのでした。それは、弟子たちの前で、あらかじめ受難の前に、ご自分の栄光を垣間見させ、弟子たちの躓きと失望を防ぎ、彼らの信仰を堅くする必要を感じたのではないか、と思われます。さらにまた、イエスは御受難の前に復活の栄光を弟子たちに示し、弟子たちもその栄光にあずかる道を示したのだと思います。弟子たちは主の復活の後で、ご変容の出来事を明確に思い出し、後世のわたしたちに、栄光の瞬間の様子を伝えたのだと思います。

  しかし主の栄光にあずかるという信仰と希望は弟子たちだけに与えられたのではありません。今ここに集うわたしたちは誰でも、キリストの復活の栄光にあずかるという信仰と希望を与えてくださいました。わたしたちは地上に置いて弱く罪深いものであるという自覚を持っています。

 今日の第二朗読は、次のように述べています。 「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエスキリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリッピ320-21) わたしたちの「本籍」は天にあります。わたしたち人間は本来「神の似姿」である神の子です。本来のわたしたちは神の栄光の輝きに包まれる神の子であるのです。 ところで現実には、自分をはじめ、多くの人々は、罪という悪に侵され、闇の中に置かれ、聖霊の導きと肉の欲望の間で葛藤を経験しています。また病気、心身の不自由、肉体の弱さに苦しんでいます。これは本来の人間の状態ではありません。人は神の子であり、神の栄光にあずかる者であり、神はこの「卑しい体」をキリストの「栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです(フィリッピ321) わたしたちの行き着くべき目標は、主イエスの再臨の時にキリストの復活の体に変容していただく、その時なのです。わたしたちはすでに洗礼によってキリストの復活にあずかりました。今わたしたちは、まだ地上の旅の途上にあります。地上の生涯を終える時、そして主の再臨のときが、キリストの復活のいのちに完全に、決定的に与ることができるとわたしたちは信じ希望しています。

第一朗読 創世記155-12,17-18

 第二朗読 フィリッピ127-41

 福音朗読 ルカ9.28b-36 

 

 

敵を愛しなさい

四旬節第1土曜日説教

2019316日、本郷教会

 

 

わたしたちはこのところ、ミサの福音朗読でイエスの山上の説教を続けて読んでおります。

 

イエスは、「目には目を、歯には歯を」というように復讐する「同害復讐法」を否定し、「悪人には逆らってはならない」(マタイ538-39参照)と教え、さらに今日の福音で言われました。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

もっとも、「敵を憎め」という教えは旧約聖書の中には見当たらないそうです。レビ記では次のように言われています。

「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を繰り返し戒めなさい。…復讐してはならない。…隣人を自分のように愛しなさい。」(レビ1917-18)

「敵」とはどんな人を指しているのでしょうか。そして「愛する」とはどういうことなのでしょうか。

教会は2000年の歩みの中でこの教え「敵を愛しなさい」をどのように実行してきたのでしょうか。教会の歴史を振り返れば、このイエスの教えに忠実ではなかった事実があったことは否めません。

紀元2000年の「大聖年」を迎えるときに時の教皇聖ヨハネ・パウロ二世は『紀元二千年の到来』という文書を発表して言われました。

「過去1000年間に教会の子らが侵した過ちを真摯に反省しなければ紀元2000年の敷居を越えることはできない。」

その反省すべき点の中には、イエスの弟子たちが分裂し対立し、相手を否定するようになってしまったことがあります。また真理への奉仕において不寛容な態度をとり、暴力の行使を黙認してしまったこともあったことが挙げられています。これは具体的に何を指しているのでしょうか。カトリック教会ではほかの教会の人々、あるいはカトリック教会の教えに従わない人々を異端審問し処刑さえしてしまったこと、あるいは他の宗教の人々を排斥し、ユダヤ教徒を迫害したことなどを指していると思われます。

 

「愛する」とはどういうことでしょうか。わたしたちは毎日学び実行している筈です。

「愛しなさい」とは「好きになりなさい」ということではありません。それは無理なことです。しかし、相手のために祈り、相手を理解しようと努め、その人のためになる善いことを行い、その人を人間として尊重することはできます。それは極めて大切なことです。

わたしたちは皆過ちを侵し、人から赦していただかなければならない者なのです。わたしたちも人を赦さなければなりません。イエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と言われました。

ところで、すべての人は神の子であり、人は神の似姿としてつくられ、イエスの復活の恵みに与っているのです。その人のなかに神の素晴らしさ、美しさが隠されているのです。その素晴らしさ、美しさを見つけることができるならば,わたしたちはその人の良さを評価することができ、その人を好きになることにもなると思います。こうして「愛する」と「好きになる」は一致することになるのです。

 

「わたしはあなたのことは嫌いだけれど、『敵を愛しなさい』と命じられているのであなたを愛しています」、と言われても、わたしなら少しもうれしくはないと思います。

 

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福音朗読  マタイによる福音書 5:43-48

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

 

2019年3月15日 (金)

怒るということ

旬節第一金曜日ミサ説教

2019315日、本郷教会

 

四旬節は回心と悔い改めの時です。今日の答唱詩編でわたしたちは祈りました。

 主よ、深いふちからあなたに叫び、

  嘆き祈るわたしの声を聞いてください

これは「デ・プロフンディス」と呼ばれる祈りで、昔から痛悔の祈りとされてきました。

 あなたが悪に目を留められるなら、

  誰がみ前に立てよう。

神の前に立って誰一人罪、咎のない、と言える人はおりません。

しかしわたしたちは神の憐みとゆるしに信頼します。

   主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。

 

今日の福音は山上の説教でイエスは言われました。

「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

厳しいお言葉です。どういう意味でしょうか。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」

 

此処にいる誰一人殺人という重大な罪を犯した者はいないでしょう。体を殺す殺人はどの国でも重大な犯罪です。しかし、兄弟に腹を立てることも殺人と同じことになると言われると、それは大変なことです。おそらく兄弟に腹を立てたことのない人はいないかもしれません。わたしたちはいろいろな時に腹を立てます。兄弟に何か間違いを見つけたときに注意したり忠告したりします。その時に腹を立てているかもしれないが、それは兄弟が善くなってもらいたいと願うからです。しかし、それはその兄弟がいなければよい、と思って怒るなら問題です。その兄弟の存在を否定するような態度を取ってはならないのです。その人が死んでしまえばよいのに、と考えたり、居なくなればよいと思ったりして、その人を罵ったり怒ったり憎んだりするならば、心の中でその人を殺すことになります。

主イエスは自分を十字架につけた人々のために祈りました。「父よ、彼らを御赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ2334)

イエスはすべての人の救いのためにいのちをささげました。人に怒りを抱きその人が生きていること心のなかで否定するならば、それはその人を愛する神の愛を否定することになります。

兄弟を赦し、大切にし、尊敬することが出来ますよう、祈りましょう。

 

 

2019年3月14日 (木)

求めなさい

四旬節第一木曜日ミサ説教

2019314日、本郷教会

 

「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とイエスは言われます。天の父は良い方でありわたしたちに必要な者、わたしたちにとって良いものをよく知っておられ、求める者に良いものを与えてくださいます。

わたしたちに必要な良い物とは何でしょうか。

主の祈りは、わたしたちが、何を願ったらよいか、教えてくださいます。

わたしたちは自分の罪の赦しを願わなければなりません。そして人の罪を赦すことができるように願わなければなりません。また罪に陥ることがないように、聖霊の助けを願わなければなりません。ルカの福音では、「まして天の父はもとめる者に聖霊を与えてくださる」(ルカ1113)と言ってくださいました。

ヨハネの福音で葉、「わたしの名前で願うならば父は何でも与えてくださる」と言っています。(ヨハネ1516,1623参照)

イエスの取り次ぎを願って祈る場合には、イエスが父である神に取り次ぐのにふさわしい内容の祈りでなければなりません。神に願うときには、何を願うべきが、よく考えるべきです。

もし願いがかなえられなかったとしたら、それは失望しないで熱心に願い求め続けなかったからです。それでも与えられなかったとしたら動機に問題があります。神の喜ばれない利己的な動機による祈りに神は答えられません。(ヤコブ42-3参照)

 

福音朗読  マタイによる福音書 7:7-12

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

2019年3月13日 (水)

ヨナにまさるもの

四旬節第一水曜日説教

2019313日、本郷教会

 

「ここにヨナにまさるものがある」とイエスは言われました。ヨナにまさるものとはイエスご自身のことを指しています。人々はこのように言われたイエスを受けいれず、神から遣わされた者とは認めず、それどころか悪霊の仲間、悪霊の頭ベルゼブルの仲間である、という者さえいたのです。*

 

今日の福音はわたしたちに何を告げているのでしょうか。

今日の第一朗読はヨナ書です。ニネベの人々の悪が神のもとに届いたので神はヨナに命じて、ニネベに行って神の言葉を告げ、回心を呼びかけるように命じました。ヨナはその命令を実行するのは非常に辛いと考え、神からの逃亡を図りますが、逃げ切れませんでした。結局ヨナは神の言葉に従いニネベに赴き、ニネベの人々に「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と呼び掛けました。人々はヨナが告げる神の呼びかけを信じ受け入れ、王をはじめとして皆が、悔い改めて断食し、悪の道を離れました。神はそれを見て罰を下すのを思い直した、・・・という次第を旧約聖書のヨナ書が告げています。(旧約聖書・ヨナ書)

「南の国の女王」の話も旧約聖書の列王記に出て来る物語です。ソロモンの知恵を確かめようとしてシェバの女王は非常に遠い南の国からエルサレムまでソロモンを訪ねてきたのでした。(列王上101-13参照) 

 

ところがイエスの時の人々は、「天からのしるし」をもとめ、イエス自身が天から遣わされた者の「しるし」であることを認めることができませんでした。それどころか、ファリサイ派の人々、律法学者たちの中には、イエスを悪霊の仲間であるとさえ考えた人がいたのです。

イエスは「貧しい人々は幸いである。彼らは神の国に入る」と言われた。貧しい人は自分を守り、また誇るべき何物も持っていません。貧しい人々は素直にイエスを受け入れ神の恵みを受け入れます。しかし、ファリサイ派、律法学者たちは、自分たちこそ神の教えを良く知っており、それを人々に教える者であり、また自分たちは神の掟を守っている者である、と自負していました。安息日の掟を破るイエスを彼らは決して受け入れることができなかったのです。それどころがイエスは彼らの権威、存在を否定する危険な存在であると考え、やがてイエスを抹殺しようとするに至ったのであります。

 

さてわたしたちはこの東京で四旬節を過ごしています.いまどのように生きたら、イエスに倣って生きることになるのか、ということをよく考え祈り求めるようにいたしましょう。

 

*昨日の福音はルカの11章で、主の祈りについてでしたがその続きがベルゼブル論争と言われる箇所です。「『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』という者や、イエスを試そうして、天からのしるしを求める者がいた」(ルカ1115-16)と伝えています。

 

第一朗読  ヨナ書 3:1-10

主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」

ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。

 「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」

すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。

 「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」

 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

 

福音朗読  ルカによる福音書 11:29-32

(そのとき、)群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

2019年3月12日 (火)

誘惑と試練

四旬節第一火曜日ミサ説教

 

今日の福音は「主の祈り」です。「主の祈り」はわたしたち信者が毎日唱えている、最も大切な祈りであります。

祈りは前半と後半に分けられます。後半の最後の祈願は、今日のマタイの福音では、

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」

となっていまして、日々わたしたちが唱えている文言と少し違います。

「誘惑に遭わせず」のところをわたしたちは「誘惑に陥らせず」と唱えています。誘惑に出会っても誘惑に負けないようお守りください、と祈っているのです。

「誘惑」は「試練」とも翻訳できます。試練は誘惑とは違います。神は決してわたしたちを誘惑することはありません。(ヤコブの手紙113)  神はわたしたちを試練に遭わせてわたしたちを教育することはありますが罪に誘うことはありえません。誘惑は乱れた欲望の動きに同意するようそそのかす悪霊から来るのです。悪魔がわたしたちの欲望に働きかけて悪を行うよう誘惑します。その誘惑に同意すると罪に陥ることになります。

またわたしたちは「悪からお救いください」と祈っていますが、「悪:」は「悪い者」つまり悪魔、悪霊と訳すことも可能であります。神は悪魔が人を誘惑することをゆるしていますが、誘惑に陥らないように、聖霊をわたしたちに与えてくださっています。このことを四旬節第一主日の福音がよく教えていると思います。

 

 

 

福音朗読  マタイによる福音書 6:7-15

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

 『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

2019年3月11日 (月)

三つの誘惑

四旬節第一主日ミサ・洗礼志願式の説教

                                                           2019310日、本郷教会

 第一朗読 申命記264-10

第二朗読 ローマ108-13

福音朗読 ルカ41-13

 

洗礼志願者 佐々木俊平

今日は四旬節第一主日、説教の後、佐々木俊平さんの洗礼志願式を行います。

四旬節第一主日の今年の福音朗読はルカの4章であります。

イエスは聖霊に満たされ、霊によって荒れ野に導かれ、40日間にわたり悪魔の誘惑を受けられました。この物語から四旬節という典礼の季節が生まれました。

ところでこの四旬節の起源の物語を聞いてふと思うことがあります。それは、この物語に、聖霊と悪霊の両方が出て来るのはどういうことだろうか、ということです。

イエスは荒れ野で悪魔から三つの誘惑を受けましたが、すべての誘惑に打ち克たれました。これは確かにイエスの物語です。しかし、実はむしろ、わたしたちひとり一人の受ける誘惑について、わたしたちに向けて語られている物語なのです。

わたしたちは信仰の恵みを受け、聖霊の賜物を受けています。しかし依然として同時に悪霊の誘惑にさらされている者でもあります。わたしたちもイエスに倣い、聖霊の助けによって悪魔の誘惑に打ち克つように、と今日の福音は励ましています。

イエスは三つの誘惑を受けました。

一つ目の誘惑は、「石をパンにかえるように」という誘惑でした。それは、自分が持っている力を地上での自分の成功のために、現世的な成功のために用いたらどうか、という誘惑であります。イエスは「人はパンだけで生きるものではない」と答えてこの誘惑を退けました。

二つ目の誘惑は、地上の権力と繁栄を自分のものとしたらどうか、という誘惑でした。それは、人を支配し、人を思うように動かし、栄誉と名声を自分のものにしたい、という欲望への誘惑です。この誘惑に対してイエスは、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」という申命記の言葉をもって、断固、悪魔の誘惑を退けたのです。わたしたちは日々主の祈りを唱え、「自分の思いではなく神の思いが行われますように」と祈っています。しかし、誰かが自分の思いに反することを言ったりしたら、不快になり、怒りを覚えたり、失望したり、落ち込んだりすることが少なくはありません。自己の権力、名声、評判への欲望は実に根強いものです。「栄光は父と子と聖霊に」と唱えながら実は「自分の栄光」を求めている部分が心の中に在ることを認めなければならないと思います。その欲望に悪魔は付け込んできます。

三つめの誘惑は、「神である主を試す」という誘惑です。

「神である主を試す」とはどういうことでしょうか。それは本当に主がともにいてくださり、守ってくださるだろうか、疑いを抱いて、不信仰に陥る、ということです。かつてイスラエルの民はモーセに率いられて、荒れ野でさまよい、水も食べ物もない状態に耐えかねて「果たして、主は我々の間におられるだろうか」と言って、モーセと争い、主を試みるに至ったのでした。(出エジプト171-7参照) 主がモーセを遣わして民を救おうとしていること、神は力ある神、いつくしみ深い神であることを疑ったのです。その結果イエスらエルは安息に入るためには40年間の償いのときを課せられるにいたったのでした。

悪魔は詩篇の言葉(本日の答唱詩編)を使ってイエスを誘惑しました。

「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

イエスは同じく申命記の言葉、「あなたの神である主を試してはならない」をもって悪魔の誘惑を退けました。

イエスは昇天に際して、「わたしは世の終わりまであなた方とともにいる」と言われました。もし、現代を生きるわたしたちが、「主はどこにいるのか」という思いを抱き、主が守ってくれるかどうか試すための試みをするならば、それはまさにイスラエルの民が荒れ野で侵した「あなたの神たる主を試みる」という不信仰に他ならないことになってしまいます。主を信じ、信頼しているなら試みるはずではありません。

「主の祈り」の「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお守りください」という言葉は不信仰への誘惑からわたしたちを守ってください、という思いが込められた祈りでもあります。不信仰への誘惑は悪の霊から来るのであり、またわたしたちの欲望から生まれるのです。

「ベネディクト十六世教皇は就任式のミサで「現代の荒れ野」ということを言われました。首都圏に生きるわたしたちはまさに「現代の荒れ野」のなかで生活しています。それは、快適で便利な生活かもしれませんが、精神的・霊的には生きづらい環境ではないでしょうか。寂しく空しく、悲しい思いを抱えている人の少なくはありません。そこに悪魔の誘惑が忍び込んできます。

そのような状況にあってわたしたちの本郷教会は東京における「現代の荒れ野のオアシであり心の泉でありたい」と願っています。

第二朗読、ローマ書は、「口でイエスは主であると公に言い表し、こころで神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです」(ローマ109)と述べ、信仰告白の重要さを強調されています。今日、洗礼志願式をうける佐々木俊平さん、あなたはいま「信条」を唱えて信仰告白をしようとしています。生涯にわたり、この信仰告白を固く保ち守り強め、そしてその信仰を多くの人に宣べ伝え証ししてください。

最後の審判

四旬節第一月曜日ミサ説教

 

2019311日、本郷教会

第一朗読  レビ記 19:1-211-18

福音朗読  マタイによる福音書 25:31-46

 

 

今日は311日、東日本大震災発生8周年の日です。命を落とされた方々のために永遠の安息を祈り、すべての被災者のために慰めと助けを祈り、また被災者を支援してくださっている方々へ感謝し、励ましがありますよう、祈りましょう。

 

今日の二つの朗読は実に重要で意味深い箇所だと思います。

第一朗読レビ記では、「あなたたちは聖なる者になりなさい」という主の言葉が告げられ、その後、数々の「~してはならない」という禁止の掟が告げられ、その後で、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟で結ばれています。「~しなさい」という二つの掟の間に多くの禁止の掟が置かれているという構成になっています。

 

福音朗読はマタイの福音の25章の最後の審判の場面です。実に4回の繰り返し、同じ教えが繰り返し述べられています。それはキリストの兄弟であるこの最も小さい者の一人に対して行い、あるいは行わなかったことについてです。そのような行為であるかと言えば、繰り返し、4回にもわたって述べている行為です。

 

すなわち「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」がどうか、ということです。人生の最後にわたしたちは審判を受けますがその基準はこの行為、最も小さな兄弟たちの、このような必要にどう答えたか、ということであります。

 

わたしたちひとり一人、そして東京教区も、本郷教会も、このイエスの教えをしっかりと胸に刻まなければなりません。

 

(福音本文)

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

2019年3月 9日 (土)

病人とは誰か?

灰の式後の土曜日ミサ説教

201939日、本郷教会

今日の福音は徴税人のレビの召命を告げています。

徴税人は娼婦と並んで罪人の代表とされていました。徴税人は異邦人である外国の支配者から委託されて税金を取り立てていただけでなく、規定以上の税を徴収して私腹を肥やしているという理由で、ユダヤの人々から憎まれ嫌われていました。その徴税人であったレビにイエスは「わたしに従いなさい」と言われた。レビは非常に喜んで盛大な宴会を催しました。おそらく彼は日ごろから後ろめたい気持ちを持っていたと思われます。イエスが徴税人と一緒に食事をしたということは同じ罪人の仲間となり、罪人が被った悪評、差別、蔑視、嫌悪を自分のものとして受ける、ということを意味していました。

 

使徒パウロが言っているように、神の前に罪のない人はいません。イエス自身は罪を犯しませんでしたが、わたしたちと同じ罪人となって、罪の結果を引き受けてくださいました。わたしたちは罪人であり、罪という病気を持っている病人です。イエスはわたしたちを罪から解放して健康な者にするために来てくださったのです。(ローマ35-26参照)

ここで言う健康とは、罪とその結果からの解放、そして永遠の命を受けることに他なりません。

 

―――

福音朗読  ルカによる福音書 5:27-32

(そのとき、イエスは、)出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

「イエスの福音への招き」書評

書評 岡田武夫著『イエスの福音への招き』フリープレス、2019年、195頁。

 

 長年、日本のカトリック教会全体を導いてきた岡田武夫大司教の新著が刊行された。聖書をとおしてイエス・キリストと出会い、そのよろこびを常に身におぼえて、忠実に歩もうと努めてきた一人の愚直なる信仰者の感慨がまとめられている。普通の日本人がキリストに魅力を感じて、予想外の人生に入ったのはなぜか。その謎は、本書全体を読めば、解ける。

しかし岡田は神の不在に打ちのめされてもいる。十字架上のキリストが叫びをあげたときのように。もがきながら、他者の痛みを一緒に担いながらも、それでも天を仰いで神にすべての想いを正直に吐露する。神不在の闇は同時に全幅の信頼に満たされてもいる。闇が深ければ深いほど、そこに射し込む一条の光は明るさを増す。矛盾を、ありのままに生きる、その激しい心の叫びは案外と市井の人びとの現実とも重なる。岡田の新著は、もちろん信仰者にとっても励ましとなるが、特定の信仰をもつ必要性を感じない人にとっても稀有な助言となる。自分が生きている理由は何なのか、真摯に問うことに価値がある、ということを本書が教えてくれる。老師の味わい深い智慧の書として。

 岡田は『宴への招き――福音宣教と日本文化』(あかし書房、1983年)という最初の作品から、実に36年の歳月をかけて考え続けてきた「福音宣教」(イエス・キリストとの出会いのよろこびを全世界に向けて伝えること)という主題を今回の新著でも深めている。その意味で、彼の思考と実践とは若いころから一貫している。決してぶれることがない。イエス・キリストを発見することで自分が身に受けたよろこびを深めて伝えるという単純明快な筋道を、これほどまでに突き詰めて考察した日本人は、近年、他にいないのではあるまいか。

 『宴への招き』から『イエスの福音への招き』へ。その長い道のりは、昭和から平成を経て新天皇の時代へと時代が移り変わる、まさに激動の日々を反映している。しかし、「宴=イエスの福音」という確信をいだきつつも「キリストから自分も招きを受け・キリストのもとへ相手をも招く」という想いを結晶化させた二冊の著作のあいだには一貫した不変の志が潜んでおり、数限りない奉仕活動と論考の公表という尊い努力の熱量が詰まっている。

二つの書物に共通している主題は「復活」である。二千年前のイエスが人類に救いをもたらす者[キリスト]として、いまも生き続けている、見えない姿として私たちの人生を支え、責任をもって導いてくれる、という確信をいだいて、困難な状況から立ち上がって前進することが「復活」と呼ばれている事態である。岡田はキリストとともに歩むことに、得も言えぬほどの安堵感をいだき、そのよろこびを他者にも伝えようとしているのである(福音宣教)。

 まるで一途な職人のように地道な基礎作業に没頭する岡田の聖書熟読と現場での語りの努力とが循環して、らせん状に深まってゆく。教皇パウロ六世が発布した『福音宣教』という公文書の解釈と現場での適応の可能性を探る研究をローマで果たしてから帰国した岡田の本音が『宴への招き』には記されていたが、今回の『イエスの福音への招き』は自身の長年の工夫の苦労話と総括となっている。一度始めたことを決して投げ出すことなく、粘り強く考え抜いて再度問う手法は、まるで五世紀に活躍した聖アウグスティヌスのようである。彼は『告白録』(397年頃)を公表してから約三十年後に『再考録』(427年頃)を書き上げて最初の問いを改めて洗練させた。答えはない。ただ、ひたすら問い続けるのみ。それが人生である。普段、学校教育において答えのある課題だけを解きつづけてきた日本人には衝撃的な思考方式を採用するのがキリスト教信仰の極意なのかもしれない。身を以て呻吟しつづけることそのものが誠実な応え方なのであり、その不屈の信念の表明の仕方に対して人は魅力を感じ、キリストの同志となるのかもしれない。

 

          評者;阿部仲麻呂(神学者、日本カトリック神学会理事)

 

 

 

 

2019226日(火)記

2019年3月 8日 (金)

断食

灰の式後の金曜日

201938725分、本郷教会

 

今日の二つの朗読は「断食」について語ります。

イザヤの預言は述べています。神に受け入れられる断食とは、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ裸の人に会えば衣を着せかけ同胞に助けを惜しまないことである。

断食しても人を虐げ人の必要に応えないなら、その人の断食は神が喜んで受け入れることのない苦行とされます。

また今日の福音でイエスは言われました。

「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」

やがてイエスが排斥され十字架にかけられることになります。そのときこそわたしたちは苦しみ嘆くときを迎えます。主の受難の意味を深く悟ることができるよう、この四旬節を特別な時、祈りと節制、施しに励む時として過ごすよう心がけましょう。

 

――

第一朗読  イザヤ書 58:1-9a

(主は言われる。)喉をからして叫べ、黙すな 声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きをヤコブの家に、その罪を告げよ。彼らが日々わたしを尋ね求め、わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として、彼らがわたしの正しい裁きを尋ね、神に近くあることを望むように。何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし、お前たちのために労する人々を追い使う。見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によってはお前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食、苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくことそれを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ裸の人に会えば衣を着せかけ同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば、主は答えあなたが叫べば「わたしはここにいる」と言われる。

 

福音朗読  マタイによる福音書 9:14-15

(そのとき、)ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」

2019年3月 7日 (木)

本当の自分を見つける

灰の式後の木曜日

201937725分、本郷教会

イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

「自分を捨て」というときの「自分」とは古い自分、古い自我、という意味です。わたしたちは日々、古い自分に死んで新しい命に生まれ変わらなければなりません。洗礼を受けたときにわたしたちはキリストとともに死に、キリストとともに新しい命に生まれ変わる、という生き方を受け入れ、選び、この生き方を歩み始めました。自分の十字架を背負うとは、日々の苦しみを受け入れることを通して、古い自分を後にし、古い自分から出て、新しい自分、本当の自分を見つけるように生きるということです。キリスト者の生活は日々古い自分に死に日々新しい自分に生まれ変わるという生き方です。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」古い自我から出るならばかえって本当の自分を見つけることができるとイエスは教えています。

そうできるために、聖霊の導き、助けを祈りましょう。

――

福音朗読 ルカ922-25

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。922「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」

2019年3月 6日 (水)

灰の水曜日

灰の水曜日・説教

 

201936725分、本郷教会

 

第一朗読、ヨエルの預言で主は言われます。  

「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」

四旬節は回心のとき、回心とは心を主なる神へ向けなおすことです。神はうわべの見せかけではなく、心からの悔い改めを求めています。  

聖書を読むとたびたび「衣を裂く」という表現に出会います。強い心の動きを表す動作を示しているようです。  ヨエル書の言う「心を引き裂け」という表現は、見せかけではない心からの回心、心から悲痛な思いで神に立ち帰ることを意味していると思います。  

 

今日の第二朗読からは次の言葉が強く響きます。

「神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」

わたしたちは主キリストによって贖いの恵みを受けています。神との和解は、自分の力、自分の行いによってはできません。ただ主キリストに心を開き、キリストを通して与えられる神のいつくしみを受けることによってのみ可能となるのです。  

 

今日の福音は毎年同じ個所、マタイ6章、「見てもらおうとして、人の前で善行しないように注意しなさい」というイエスの教えです。  

イエスは、人の「偽善」を咎めています。わたしたちは偽善という問題をもっていないでしょうか。心と動作の間にブレとか不一致はないでしょか。  

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とイエスは教えています。  

今日、灰を頭に受けながら此の点を反省したいと思います。  

 

さて四旬節は特に「施し」ということが勧められます。施しという善い行いには、身体による善い行いと精神的な(spiritual)な善い行いがありますが、本来両者は一体となるべきものです。  

身体的な慈善のわざとは、飢えている人に食べさせること、渇いている人に飲み物を与えること、着る物をもたない人に衣服を与えること、宿のない人に宿を提供すること、病者を訪問すること、受刑者を訪問すること、死者を埋葬すること、これです。  

精神的(spiritual)な慈善のわざも忘れてはなりません。疑いを抱いている人に助言すること、無知な人を教えること、罪人を戒めること、悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること、もろもろの侮辱をゆるすこと、煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと、生者と死者のために神に祈ることです。

 

四旬節、回心、祈りと黙想、節制、施しに励むことができるよう、聖霊の助けを願いましょう。

2019年3月 4日 (月)

自分のことは棚に上げる

年間第8主日ミサ説教

今日のイエスのことばは厳しくわたしたちひとり一人にに迫ってきます。
【あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

わたしたちは他人の問題、欠点には敏感ですが、自分の問題、欠点には鈍感です。良く「自分のことは棚に上げて…」と言いますが、他人の問題に辛辣な意見を持ちますが自分の問題、欠点にあは寛大すぎるのが常であると思います。
先週の主日のルカの福音でイエスは言われました。 「7・37人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

自分の問題を無視して人の問題を取り上げ罪に定める人に対してのイエスの言葉です。自分の「丸太」を見ないで人の『おが屑』を見るとは、人の中に在る欠点を指摘するのに熱心で人が持っている美点、長所を無視するという、慈しみに欠ける態度を指しているのです。人は自分の善さを認められて喜びを感じ、さらに人のために尽くす心を強くします。逆に貶されれば、持っている良さも委縮してしまいます。逆に人は自分の良さ、努力を評価してくれる人には喜んで協力し、場合によっては命すら献げます。イエスの弟子たちは結局殉教の最後を遂げたのでした。

人の問題を見て良さを認めない生き方が「丸太」という言葉で表現されているのかもしれません。丸太とは自己中心の原罪的な生き方を指しています。人は自分の問題を見るのが怖いからあえて目をそらしているのかもしれません。
神は寛大で慈悲深い方です。人に問題があってもその人への好意を取り消すことはありません。神は人が自分の問題に気がつき、その問題と戦うことを望み、そのために恵みを惜しみなく注ぎます。神の慈しみは絶えることなく、変わることもないのです。
わたしたちは自分の限界を見詰め、その自分を労わり、神の慈しみ感謝し、そして同じ神が兄弟姉妹を愛して下さることに思いを馳せ、お互いに赦し合い受け入れあうように、神の恵みを祈りましょう。

ーー
3月3日年間第8主日の福音本文 福音朗読  ルカによる福音書 6:39-45 (そのとき、イエスは弟子たちに)たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

2019年3月 2日 (土)

神の国を受け入れる者

年間第7土曜日ミサ説教

2019321215分、本郷教会

 

主イエスは言われました。「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決して神の国に入ることが出できない。」

子どもは無力な存在です。親や大人に頼らなければ生きていくことができません。自分自身を守る力、自分の権力、名誉、権威というものからは程遠い存在。自分で自由に使用し管理するべき財産も物品も何も持っていません。

217日、年間第6主日の福音でイエスは「貧しい人々は幸いであり、富んでいる人々は不幸である」と言われました。無力な子どもはまさにここで言われている貧しい人であります。子どもはpowerless な存在です。成長するに従い、パワーを身に着け、自分のパワーを使って人を支配しようとするようになります。そして神の国から遠ざかることになる。神の国とは神の支配、神が王として支配することです。自分の力に訴えるのではなくて、神の恵みを受け、神の恵みに与る人は神の国に入ります。

明日の主日の福音で主は言われました。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」丸太とは何でしょうか?丸太があるので真実が見えない。自分の問題に気がつかないのです。丸太とは、おそらく、自分の権力、名誉、権威、支配欲などを意味しているのかもしれない。丸太という枠組みを通して兄弟を見、社会を見ている。自分の真実の姿を見ようとしない状態です。*

パウロは肉の業ではなく霊の働きに従って歩むよう勧めています。霊的生活とは聖霊の導きに従う生活であります。

*「丸太」と新共同訳は訳しているこれは「梁」と訳すことができる。

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福音朗読  マルコによる福音書 10:13-16

(そのとき、)イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

2019年3月 1日 (金)

誠実なパートナー

3月1日年間第7金曜日ミサ説教
                                   7時25分、本郷教会
誠実な友は何物にも代えがたい人生の宝です。誠実な友は人生の喜びも苦しみも安心して分かち合うことができます。病めるとき、悲しみの時、失意の時に友はわたしたちの心を理解し、わたしたちを慰め、励ましてくれます。
今日の第一朗読シラ書で言っています。
「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。誠実な友は、何ものにも代え難く、そのすばらしい値打ちは計り難い。」
人生にはそのようなパートナーが必要です。そのような友に恵まれた人は本当に幸いです。結婚している人にとって配偶者がそのような友でありパートナーで在る筈です。
イエスは言われました。
「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
夫と妻は互いに相手を尊敬し、忠実を尽くし、健康な時も、病気の時の、順境にあっても逆境にあっても、誠実に相手を支え助け慰めなければなりません。 困難が来るときにパートナーの誠実さが試されます。互いに誠実を尽くすことができるよう聖霊の助けを祈りましょう。


―― 第一朗読  シラ書(集会の書) 6:5-17 のどの麗しい声は、友人を増やし、舌のさわやかな語りかけは、愛想のよい返事を増やす。多くの人々と親しく挨拶を交わせ。だが、相談相手は千人のうち一人だけに限れ。友をつくるときは、試してからにせよ。すぐに彼を信頼してはいけない。都合のよいときだけ友となり、苦難のときには、離れてしまう者がいる。また、心変わりして敵となる友もいて、争いでお前が吐いた悪口を暴露する。食事のときだけ友であり、苦難のときには、離れてしまう者がいる。お前のはぶりがよいと、お前のようにふるまい、お前の召し使いたちになれなれしくする。しかし、お前が落ちぶれると、背を向け、お前の目から身を隠す。敵からは遠ざかれ。友達には気をつけよ。誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。誠実な友は、何ものにも代え難く、そのすばらしい値打ちは計り難い。誠実な友は、生命を保つ妙薬。主を畏れる者は、そのような友を見いだす。主を畏れる者は、真の友情を保つ。友もまた、彼と同じようにふるまうから。 福音朗読  マルコによる福音書 10:1-12 (そのとき、)イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

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