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2019年3月24日 (日)

性虐待被害者のために

四旬節第三主日「性虐待被害者のための祈りと償い」のミサ説教
                                                 2019年3月24日、本郷教会

第一朗読 出エジプト記3・1-8a、13-15
第二朗読 一コリント10・1-6,10-12
福音朗読 ルカ13・1-9

 燃える柴の中でモーセにご自分をあらわされた主なる神は、モーセを通して民に戒めと掟と法、命令を、たびたび預言者を遣わして、民を教え諭し導きました。しかし民は心をかたくなにしたびたび神に背き、神の愛を信じようとはしませんでした。やがて時満ちて神はおん独り子イエスを遣わし、わたしたちの救いのためにおん子が十字架にかけられることさえおゆるしになったのでした。死から命への過ぎ越しの神秘を生きたイエスはわたしたちに聖霊を注ぎ、同じ過ぎ越しの神秘に生きるよう教え、復活の栄光へとわたしたちを招いています。
 今日の福音はいちじくの木の譬えであります。この いちじくの木の譬えから何を学ぶことが出来るでしょうか。
主の霊は今もわたしたちに注がれています。聖霊の神殿となったわたしたちは相応しい実りをもたらすよう期待されています。いちじくの木がおいしい実をむすぶように、わたしたちも聖霊のもたらす美しく清らかな実を実らせなければならないのです。三年たっても実を結ばないいちじくの木は切り倒されてしますかもしれない。園丁は肥やしをやってもう一年猶予してあげようと言ってくれました。
このいちじくの木は誰を指しているのでしょうか。このわたくし・岡田を言っているような気がします。それともわたしたち本郷教会を意味しているのでしょうか?皆さん、どう思いますか?
本郷教会はどのような実を結ぶように期待されているのでしょうか。本郷に相応しい成果が期待されています。
 
 さてこの本日は菊地大司教からの要請にこたえて、現在のわたしたちの教会が直面している緊急で深刻な問題を取り上げ皆さんと一緒に考え、祈りたいと思います。
日本のカトリック司教協議会は四旬節第二金曜を「性虐待被害者のための祈りと償いの日」といたしました。今年は3月22日がその日にあたります。この日のミサは被害者のためのミサとしてお献げ致しましたが、本日もミサも同じ意向でお献げしております。
 性虐待を受けた被害者の方々、そのご家族の悲しみ、苦しみを思い、癒しと回復の恵みを与えてくださいますように、いつくしみ深い神に祈りましょう。この難しい状況にわたしたち教会が誠実に向き合い、その解決、克服のために努力することができますように、神の助けを願いましょう。
 性虐待の問題は、今や全世界の深刻な問題です。日本の教会でも同じ問題があったし、今もあることをわたしたちはしっかりと受け止め、そして、その被害者の皆様に心からお詫び申し上げるとともに、日本の教会をあげて、その問題の克服のために、祈りと努力、そして償いをするように努力することを、日本のカトリック司教団は心から願っており、そのために努力しております。
 教会は神の民であり、神の霊を受けた神の神殿であります。
 しかしながら、そうであっても、わたしたち人間の弱さと罪を免れているわけではありません。罪の汚れをまだ完全に拭い去ることができない状態にあります。そして、嘆かわしいことですが、人々に仕え、イエス・キリストの福音をのべ伝えるために選ばれ、叙階の秘跡を受けた人たちが神様の御心に背く、性虐待という忌まわしい行いをしたことが明らかになりました。本当に残念なことであります。ヨハネ・パウロ二世教皇、ベネディクト十六世教皇、そしてフランシスコ教皇は全世界の教会に向けて、この問題の重大さをしっかりと受け止め、この問題をよく見て、そして解決と克服のために努力するように、そして神様の恵みを願うようにと訴えてきました。
 まずわたしたちは、この問題についての対応の仕方について真摯に反省しなければなりません。この問題を誠実に、正直に、真剣に見詰めなければならないのです。隠したり、うやむやにしたりすべきではありません。さらに、さらに、この問題についてのわたしたち自身の理解、事の重大さについての理解が足りない、ということも率直に認めなければなりません。
わたしの体験では、加害者と被害者の間には、この問題絵受け止め方、理解の仕方について、大きな溝がある、と感じています。加害者は自分が加害者であるとはあまり意識していないのです。どんなにか、性虐待、性暴力によって、人は傷つき、苦しむかということについて、加害者は理解していない。しかし、この点についてわたしたちも同罪かもしれない。わたしたちも問題をきちんと理解していないのではないかと思うのです。
 
人間にとって、『性』ということは非常に大切なことであり、相応しく、正しく、この問題を見つめ、そして一人ひとりの人が本当に人間として、人間の尊厳を認識し、お互いに大切にするようにしなければならないと思います。そのための教会の努力は必要であることは論を待ちません。全世界の司教協議会にはそのための部署が作られ、かつ各教区にも委員会ができ、担当司祭等が任命されております。
わたしたち自身もこの問題を自分の問題をして真摯に受け止め、祈り、考え、克服のための努力を続けて行かなければならないと考えます。
 ――
第一朗読  出エジプト記 3:1-8a、13-15
(そのころ、)モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、へ彼らを導き上る。」
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。
「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名これこそ、世々にわたしの呼び名。」
第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 10:1-6、10-12
兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけ(なさい。)
福音朗読  ルカによる福音書 13:1-9
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してくださ

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コメント

性虐待被害者が一番傷つくことは、神さまを信頼し、勇気を出して訴えても信じてもらえないどころか、その勇気を封じ込める教会(信徒の共同体も含む)の姿勢にあると思います。
それは、残念ながら、日本では、本当に残念ながら変わっていません。いえ、長崎ではと言ってもいいです。封じ込めるどころか、精神的な石打ちの刑すらあるのです。
なぜ、祈っても変わらないのでしょうか?
なぜ、被害者が苦しむのでしょうか?
神さまはこの地獄からどのような善をお引き出しになるおつもりなのでしょうか?

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