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2019年4月

2019年4月29日 (月)

上から生まれるとは

 

シエナの聖カタリナおとめ教会博士記念日

2019429()

 昨日、わたしたちは復活節第二主日を祝いました。昨日の福音で、主イエスはトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。わたしたちは復活したイエスの姿を見ていませんが、わたしたちは復活したイエスキリストを信じており、イエスキリストの復活の証人として日々歩むよう、努めております。

さて、今日はニコデモという人の話であります。

ニコデモはファリサイ派という、イエスに敵対する勢力に属していたが、イエスに好意を持っていたようであります。夜、イエスのところに来て、日頃から思っている事、考えている事をイエスに話したようであります。この時イエスが言った言葉をニコデモは、理解することが難しかったのです。

「人は、新たに生まれなければ、神の国をみることはできない。」とイエスが言われました。「新たに生まれる」という言葉は、「上から生まれる」とも訳すことが出来るそうです。

この時思いますことは、復活徹夜祭の典礼であります。

復活徹夜祭の時に洗礼式が行われ、わたしたち洗礼を受けている者は、洗礼の約束の更新をします。

水と霊によって新たに生まれた者であるわたしたちは、聖霊の注ぎを受けて神の子となり、復活のイエスの命に与る者となりました。

「風は思いのままに吹く」とも今日の福音で言われましたが、風とは「pneumaプネウマ」という言葉で、「pneumaプネウマ」とは霊のことであります。わたしたちは神から霊を受けて、神の命に与る者となっています。霊から生まれた者は聖霊の実りをもたらす者となります。とはいえ、わたしたちは聖霊の実りをどのように生きているだろうかと、この機会に反省することが有益ではないだろうかと思います。パウロによれば、ガラテア書で言われていますが、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であります。

それに対して肉の業(わざ)というときの「肉」という言葉は肉体という意味ではありません。聖霊の働きに従わない乱れた自己中心の生き方を指しています。人間が自己中心に陥り、自分の様々な欲望を制御できないで自分勝手に生きている状態が、肉の業と言われていて、姦淫とか偶像崇拝とか争い妬み、などが列挙されているのであります。

 

 

 

 

2019年4月28日 (日)

見ないで信じる人は幸い!

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

2019年4月28日(日) 本郷教会

第一朗読 使徒言行録5・12-16

第二朗読 黙示録1・9-11a,12-13,

福音朗読 ヨハネ20・19-31

 

説教

「トマよ、あなたはわたしを見たので信じた。見ないで信じる人は幸い」(本日のアレルヤ唱)とイエスは言われました。

復活したイエスが弟子たちのところにあらわられたとき、トマスは居合わせなかったのであります。

それはちょうど週の始めの日の夕方、と書かれていますので、イエスが復活したその日のことであります。それから八日目に再びイエスが弟子たちのところにお現れになりました。

典礼上、今日がその八日目にあたる日であります。イエスはご自分の体を弟子たちに示して、そして自分であるということを証明なさった。この、手の傷、わき腹の傷を弟子たちに示された。

今までなにげなく読み過ごしてきましたが、復活したイエスの体というのはどういう体なのでしょうか。もうすっかり傷もなくなってきれいな体になっていたのかと思うとそうではなくて、傷跡がなまなましく残っている体でありました。人々に、ご自分の十字架上の死をいつまでも思い起こしてもらいたいという気持ちがこめられているのからでしょうか。しかし復活したイエスの体は生きていたときの体とは全く違う体となっていて、もはや苦しむことも痛みを覚えることもない、しかし人々のために苦しみ傷んで亡くなられたということを、人々に思い起こしてもらいたいという気持ちがあったのではないかと思う。

トマスは、イエスが出現したときにそこに居なかったので、信じられない、といったわけですね。

非常に実証主義的な人だったのかもしれません。

しかし、そのあと八日目に再び同じイエスが現れたたときに、無条件でイエスを礼拝し、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。そういう物語であります。

「見ないで信じる者は幸いである」とイエスは言われた。復活祭が一週間前でしたが、そのあと毎日のミサの福音の朗読で復活したイエスが弟子たちに現れた次第を読んできました。それによりますと、弟子たちは必ずしもすぐに復活したイエスを認めたわけではないようであります。なかなか認めない。最初にイエスが現れた弟子は女性のマグダラのマリアであります。 マリアのほうは、すぐにイエスであるということを知った。そして男の弟子たちに、イエスと出会った、イエスを見たということを知らせました。それからもうひとつ有名な話は、エマオに向かう弟子たち、二人の弟子たちに旅人の姿をしたイエスが現れたという話であります。そちらのほうはもっと時間が必要でありました、イエスを認めるために。長い時間一緒に歩き、イエスの言葉を聞きながら、次第に心が熱くなってそして一緒に食事をする場面で、イエスがパンを割いたときにその人がイエスであることがわかった。かなり、イエスを認めるためには時間がかかっている。マグダラのマリアのほうは、もうすぐにわかった。もちろんイエスから「マリア」と呼びかけられたときに悟った、となっています。

全体的に、復活したイエスが現れてもすぐにそれを見たひとが、イエスであると、すぐに悟ったのではないようであります。

ところで、わたしたちの場合はどうであるか。もちろんわたしたちは地上のイエスに会ったことはない、ナザレのイエス、30何年の生涯をおくられた一人の男性であったイエスと会ったり、生活をともにしたりしたことはない。どうして信じるようになったのでしょうか。考えてみるとたいへん不思議なことではあります。でも他方、もう一回考えてみると、よく知っている人間であるイエスが復活し、その後、弟子たちと一緒にいてくださる、というメッセージは、かえって信じにくいのかもしれない。わたしたちは生前のイエスとは会ったことがないのですから、復活を霊的な世界の問題として最初から受け止めております。そして、イエスを信じて生きている人々の姿をみて、わたしもそうなりたいと願い、そして聖霊の働きに心を開いて、イエスを信じ、復活しているイエスがともにいてくださるということを信じて洗礼を受けました。信仰という貴重な賜物をいただいているわたしたちはこれからもっともっと信仰を深め信仰を強くしていただけるようにお祈りすることが大切ですが、さらに大切なことは、わたしたちお互いに励まし合うということだと思います。ひとりで信仰を守り育てるということは、たいへん難しいと思います。信仰というのは共同体の信仰であります。わたしたちは信じます、そしてわたしは信じます。この「わたしたち」と「わたし」の信仰の交わりの中で、信仰というものは生まれ、育み、そして伝えられていくのであります。

今の、この日本の社会で、キリストの復活を信じていけるということはどういうことなのでしょうか。いろいろな困難が起こっている今のこの社会、世界の状況を見ながら、でも復活したイエスが生きておられる、わたしたちと一緒にいてくださる、ということを信じて、手を携えて歩んでいくということは、本当に素晴らしいこと、貴重なことだと思います。これは、何もしないでできるわけではないですね。わたしたちは、このように今日もしておりますが、集まって祈り、イエス・キリストの御体をいただくことによって、その信仰が保たれるだけでなく、強められていくのだと思います。

どうぞよろしくお願いします。

 

2019年4月27日 (土)

福音を宣べ伝えなさい

復活の土曜日ミサ説教
2019年4月27日(土)、本郷教会

今読んだマルコの福音は最後の部分で、 学者の説明によると、この部分は後から付け加えられた部分であるとされています。マルコの福音は、イエスの墓が空であったと言う記述で一旦終わっているが、のちにこのマルコ16章9節~15節が付け加えられたということが大方の意見であります。しかしこの部分が正典であるということについては、教会として疑いを持っていないのであります。
さて、今日の福音朗読を読んで感じることは、イエスの復活を信じるというはそう易しい事ではなかったということです。繰り返し「信じなかった」、「信じなかった」、そしてイエスが人々の「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と出ております。
復活したイエスに出会った人はイエスを信じましたが、復活したイエスに出会ったこと、イエスが生きておられるということをマグダラのマリアなどが他の人々に告げ知らせても、聞いた人はすぐには信じなかったようです。
復活を信じるということはどういうことでしょうか。
昨日の福音でもそのことを取り上げたのですけれども、わたしたちは復活を信じた人の証言に基づいてイエスの復活を信じているのです。トマスに「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と復活したイエスは言われたのであります。
わたしたちは復活の証人となりました。復活の証人として生きるという事はどういう事なのだろうか。今日の福音の結びは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」『福音を宣べ伝えなさい』といわれました。わたしたちにとって、またわたしたち一人一人にとって、福音とは、何であるのか、福音を宣べ伝えるというのは何をすることなのか、そのことが重大な問題、重大な課題として問われていると思います。
明日は復活節第二主日、聖ヨハネパウロ二世によって「神のいつくしみの主日」とされました。神の慈しみを深く味わいながら、神の慈しみを証することが出来ますよう、祈りたいと思います。

 

2019年4月26日 (金)

ペトロの証し

復活の金曜日ミサ説教

2019426()、本郷教会

 復活祭の後の8日間は、特別に主イエスの復活とそのご出現を記念する8日間となっています。わたしたちは毎日、弟子たちが復活したイエスに出会った次第を読んできました。復活したイエスに出会った弟子たちは、その信仰を深め、堅め、そして勇敢にイエスキリストの復活の証人となったのでありました。

今日の使徒言行録は、そのような弟子の姿、特にこのペトロの勇敢な証言を伝えています。ペトロは、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と確信に満ちて証言しています。

そうではありますが、このペトロについて、あるいは他の弟子も同様ですけれども、このような勇敢な福音宣教者になるまでに、どこでどうしていたのだろうかと、という疑問を感じます。今日のヨハネによる福音ですと、ペトロは「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言ったとあります。ですから元の漁師に戻ったのでしょうか。彼らが漁をしている時に復活したイエスが現れたが、最初彼らはその人がイエスであるとは分からなかったのでした。昨日、一昨日の福音も、エマオへの弟子にイエスが現れた次第を読みましたが、その時もその旅人がイエスであるとは、エマオの弟子たちは、最初は分からなかった。少し経って、やっとその人がイエスであるということが分かった、となっておりました。

わたしたちの教会は、復活したイエスに出会った弟子たちによって設立されたわけでして、ナザレのイエスは十字架につけられたが、復活して今も生きておられ、いつもわたしたちと共にいてくださる、という信仰の上に教会が設立され、そして今日まで発展してきたのであります。弟子たちがそのような堅い信仰を持つに至った経緯を、復活祭後の教会の典礼は語っておりますが、四つの福音書によるイエスの出現の話は、首尾一貫していないように思われます。そしてさらに、弟子達は最初からは、イエスが現れたというように受け取ったわけではない事も、明らかであります。ですから、どのようにしてペトロ達がイエスの復活を確信するようになったのか、ちょっと不思議であるという気がしないでもありません。

それはともかく、きょうの福音ではイエスが弟子たちにパンを与え、そして取った魚も同じように裂いた、となっております。この時から、弟子たちはイエスの復活を確信するようになったのでありましょう。

 

2019年4月25日 (木)

イエスの弟子たちは素直に復活を信じたわけではない?

復活の木曜日ミサ説教

今日のルカによる福音は昨日のエマオの弟子の話の続きであります。
イエスは弟子たちに言われました。
「あなたがたはこれらのことの証人となる。」
「これらのこと」とは何でありましょうか。イエスが、聖書に書いてあるとおり苦しみを受け、十字架にかかり、人々の罪の赦しと救いのために復活するということ、さらに、あらゆる国の人々に救いの福音が宣べ伝えられる、ということを指していると思います。
イエスの受難と復活はすでに旧約聖書で預言されているとイエス自身が言っています。しかしこの復活という出来事を受け入れるためには弟子たちにはなお心の準備、信仰が必要でありました。復活したイエスに出会ってもすぐにはその人がイエスであるとは気がつかなかったとエマオの弟子の話が伝えています。イエスがかなり長い時間を使ってご自身について聖書が書いていることを説明し、さらにイエスがパンを裂いてくださったときになって初めて、エマオの弟子たちは、その人がイエスだと分かったのでありました。
またこの後すぐにイエスがエルサレムでお現われになり、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」のであります。そのときに弟子たちは多いに喜んだと思われますが、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と福音書は述べています。なぜ彼らは恐れおののいたのでしょうか。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」ともルカ福音書は述べています。
弟子たちは復活したイエスに出会っても直ぐに素直にイエスを信じたわけではありませんでした。イエスが復活したということを信じるためにはイエス自身からの呼びかけ、助け、恵が必要でありました。
ところで今日の第一朗読「使徒言行録」でペトロは確信をもって宣言しています。
「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。」
使徒たちは復活の証人として人々にイエスの復活を宣べ伝え、使徒の証言を聞いた人々はイエスを信じました。わたしたちも、復活してイエスに直接お会いしたことはないが、復活を信じて生きた人々と出会ってイエスの復活を信じることができたのです。
主イエスはトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ20・29)
復活節を過ごすわたしたちが、「見ないで信じる信仰」を深め強めていただけるよう、聖霊の助け、導きを祈りましょう。

2019年4月24日 (水)

エマオの弟子

復活の水曜日ミサ説教

2019424()、本郷教会

昨日はヨハネの福音でマグダラのマリアへイエスが現れた次第を聞きました。今日のルカによる福音はエマオの弟子へ復活したイエスが現れた次第を語っています。

エマオいう所はどこなのかよく分かりませんが、エルサレムから近い、多分北西の方向にある村であるようであります。

ちょうどこの日というのはイエスの復活した日、たぶん午後でしょうか、二人の弟子がエマオという村へ向かって歩いていた。その二人に一人の旅人が近づいて来て、一緒に歩き始められた。その旅人はイエスご自身でありましたが、二人の目は遮られていてイエスだとは分からなかったのです。

昨日のマグダラのマリアへ出現したイエスの場合も、マリアの方は、最初はイエスであるとは分からなかったとあります。今日の話もその点共通しています。

道々三人が話し合って歩いて行ったわけですが、この旅人は二人に向かって、モーセと全ての預言者から始めて聖書全体に亘り、ご自分について書かれている事を説明された。聖書といえば、この時は我々が旧約聖書と呼んでいる聖書の事であります。わたしたちは旧約聖書を正典と認めて旧約聖書の勉強もしております。旧約聖書の中にイエスの事が説明されている、預言されているというように考えているから、旧約聖書が大切であるということになります。

さて、一行は目指す村に近づいた。この村がエマオというところらしいです。

二人が「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言ってイエスを無理に引き留め、そして共に泊まる家に招き入れた。

そして夕食になり、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

この場面はわたしたちが献げ、祝っているミサ聖祭とほぼ同じ場面となっています。

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

「パンを裂いてお渡しなる」とあります。実はミサは「パンを裂く式」とも呼ばれているのです。

その場面を見て、二人はこの人はイエスだと分かった。分かった途端にこの旅人の姿が見えなくなったのでした。二人はもう夜おそくになっていたのでしょうが、すぐに取って返してエルサレムに戻って11人とその仲間にその出来事を報告した。

今日のルカの福音はそういう物語であります。

そこで、この個所は「ミサ」を表しているといわれているわけですね。

「ミサ」の構造がこのエマオの弟子の物語に出て来ているというように言われています。

わたしたちのミサは「ことばの典礼」、それから「感謝の典礼」と大きく二つに分かれます。

神の言葉、それから主イエスの言葉を聴き、分かち合うところが前半で、そのあとパンとぶどう酒をお献げし、そしてパンとぶどう酒を分かち合う交わりの儀となっています。

ミサ全体がイエスキリストと深く交わるための式となっているのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年4月23日 (火)

Noli me tangere

復活の火曜日ミサ説教

2019423()、本郷教会

 

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。わたしたちの教会はこの復活したイエスに出会った人々の信仰の体験によって成立し、そして発展してきました。わたしたちも人生のどこかで、いわば霊的に主イエスキリストに出会っているのであります

マグダラのマリアの場合は、イエスの生前どこかでイエスと出会い、7つの悪霊を追い出していただいたことがある、と福音書が告げています。それはどういう事であったのか、様々に解釈されていますが、彼女の人生においてそれは大きな意味を持っていたのであります。癒しといいますか、救いということを経験したのでしょう。当然、マグダラのマリアはその時からイエスに従い、イエスを慕って人生を歩んできました。

そのイエスが、十字架につけられて処刑されました。その場面にも彼女は居合わせております。イエスが葬られた時も朝早く墓に詣でています。ヨハネの福音の今日の場面はその後でのマリアの体験を伝えています。

今日の福音では不思議な記述があります。それは、マリアが、イエスが立っておられるのを見たのに、それがイエスだとは分からなかった、となっていることです。どうして分からなかったのでしょうか?

マグダラのマリアの方は、イエスがそこにいるということはまったく予想していなかったのでイエスを認める心の準備がなかったから、そのために分からなかったのでしょうか?

イエスの方が、マリアに話しかけて、そして「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われると、マリアはその人を園丁だと思ったとあります。そしてなお、イエスの方が彼女の名前を呼びました。「マリア」と言われたこの時にマリアはその人がイエスであると分かったのでした。彼女は

すぐに「ラボニ」と答えました。「ラボニ」はわたしの先生という意味であります。

その後の場面、非常に有名な場面ですが、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とイエスがたしなめます。この個所はいろいろに訳されています

調べると「わたしに触れていてはならない」「わたしに触れてはならない」「わたしに触ってはならない」などと訳されています。ヨーロッパの名画によくある場面です。ラテン語で「Noli me tangere、ノリ・メ・タンゲレ」の場面と言われています。

この場面は、「マリアはイエスに触ろうとしたので触ってはならない」と言われたという意味なのか、

もう触っていて、「もうこれ以上触り続けるのは止めなさい」という意味なのでしょうか?原語から考えると、触っているマリアに「もう止めなさい」と言ったらしいです。

ところで、この時のマリアの気持ち、それは大きな喜びであったと思われます。その喜びに浸っているマリアの様子が窺えます。でもイエスの方は「もう喜びに浸っているのはよしなさい、今はするべき事はほかにある。あなたがわたしに出会ったことを他の弟子たちに伝えなさい」と言われたのでありましょう。

 

わたしたちにはマグダラのマリアほどの大きな喜びの体験は無いかもしれませんが、何らかの意味でイエスと出会ったという喜びや安心を持っているわけであります。わたしたちイエスの弟子の使命は、この喜びの体験を他の人々に、特にわたしたちが出会う他の人々に何らかの形で、何らかの表現で伝えていくことではないだろうかと思います。それが教会の使命ではないでしょうか。

 

復活

復活の主日のミサ  

                             4月21日、茂原教会 

わたしたちの教会は、ナザレのイエスという人の復活という出来事への信仰によって成立しました。「イエスの死と復活に出会った」人が深い喜びを体験し、その喜びを多くの人に伝えることによって教会が発展してきました。マグダラのマリアという女性は、そのような体験をした人の代表です。

今日の福音は、マグダラのマリアのお墓参りから始まります。

マグダラのマリアという女性が福音書に出てきます。彼女はイエスから七つの悪霊を追い出していただいた人(ルカ82)でした。今日の第一朗読「使徒たちの宣教」でペトロは「イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのです」(1038)と言っていますが、彼女はイエスによっていやしていただいた一人でした。

また、イエスに最後まで従い、十字架のもとに佇んでイエスの死を見届けた人でした。そして、何よりも、復活したイエスに最初に出会った人である、という恵に与った人であります。(ヨハネ2011-18参照)

「週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」

今日の福音の冒頭に書かれている部分です。マリアはイエスを愛し慕っていました。イエスの十字架上の惨たらしい死を目の当たりにして彼女はどんなにか悲しみ苦しんだことでしょう。ペトロたち男の弟子たちにとって、イエスの死はすべての終わりと思われたのでしょうが、彼女にとってはそうではありませんでした。生前のイエスの面影を求めて彼女はイエスの葬られた墓に詣でます。すると、墓は空でイエスの遺体は見当たりませんでした。しかし、この後、マリアは復活したイエスと出会うことになります。そのときのマリアの喜びはどんなにか大きかったことでしょう。

イエスの復活と言う出来事は、弟子たちの予想しない出来事でした。マグダラのマリアも生前のイエスの十字架と復活の預言を理解していなかったと思われます。それだけに、彼らの驚きは大きく、喜びも大きかったのです。

聖週間を通じてわたしたちはイエスの受難を黙想してきました。イエスの受難とは人間の罪と悪によって引き起こされた悲劇です。神はイエスの死をすべての人の贖いと救いのために受け入れイエスを復活させました。復活は罪と死、悪に対する勝利を意味しています。

イエスは復活し、弟子たちに聖霊を注ぎ、聖霊の働きを通してご自分の使命を遂行させ発展させます。そのような教会の使命は「福音宣教」と言うことばでまとめることができるでしょう。

その福音宣教の中に、「平和を実現するために働く」という使命が含まれています。わたしたち日本国民は戦争の悲惨な体験から戦争を放棄するという固い決心を致しました。また、日本のカトリック教会は戦争責任を自覚し告白しています。すべての人は、立場、宗教、国家、民族の違いなどを越えて、人類の平和のために協力しなければならないのです。わたしたちが「平和の使徒」としてよく働くことができますよう聖霊の導きを祈りましょう。

復活徹夜祭

復活徹夜祭説教

2019420日、茂原教会

 

復活徹夜祭の典礼は一年中で最も豊かな内容を示しています。今年は本日読まれる聖書から神の救いの計画を深く味わいたいと思います。

まず創世記22章のアブラハムの犠牲の物語です。

聖書によれば、アブラハムは信仰の模範とされています。アブラハムの生涯は数々の試練の連続でした。なかでも本日朗読されたイサクの犠牲の話は非常に辛く苦しい信仰の試練の物語であります。

神は、長い間子どもに恵まれなかったアブラハムに、イサクというかけがえのない一人息子をお与えになりました。さらに神は、イサクから生まれるアブラハムの子孫は空の星のように増えるだろうと、約束されたのです。

それにもかかわらず、そのイサクを焼き尽くすいけにえとして神にささげるよう命じたのでした。その命令は、要するに独り息子を殺しなさい、ということです。なんと残酷な命令でしょうか。

それでもアブラハムは黙々と神の命に従い、翌朝早く、いけにえをささげる場所として指定されたモリヤの山へ向かいます。三日目までの道中、父と子の会話は何も記されておりません。息子イサクは何歳だったのでしょうか。イサクは自分を燃やすための薪を背負わされたのです。アブラハムがまさに刃物を取って息子イサクを屠ろうとしたときに、天のみ使いの声がしました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記2212)

このような展開となり、危うくイサクの命は助かったのでした。非常に分かりにくい話です。この話をわたしたちはどのように受け止めることができるでしょうか?

従順に父に従うイサクの姿は、十字架にかけられたイエスを想起させます。愛する独り子を神にささげる苦悩を体験したアブラハムは、愛する独り子イエスが十字架の上で殺されるにまかせた天の父を思い起こさせます。アブラハムも苦しみ、イサクも苦しんだのに違いないのです。

わたくしは、この物語は、父である神と十字架のイエスの死をあらかじめ指し示すものではないか、と考えます。父である神はご自分のもっとも大切な子であるイエスを犠牲にしてまでわたしたち人間の救いを望まれました。おん子の苦しみは父である神の苦しみであります。そして父の苦しみは同時にそれでも人類を救おうとされる神の強い意志、神の愛の表明であります。

実に、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネの福音316)のです。

神はイエスの死の犠牲によってわたしたちを永遠の命へ導きます。

復活徹夜祭で行われる洗礼は、わたしたちイエス・キリストの死と復活の神秘に与らせ、永遠の命へと導く神の恵みを示しています。それは、本日の朗読ローマの教会への手紙(63-11参照)が説明しているとおりです。

洗礼の秘跡の教えはすでに本日の朗読、旧約聖書のエゼキエルの預言において述べられておりました。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(エゼキエル3626-27)

「新しい心」とは「悔い改め罪の赦しを受け清められた心」であり、「新しい霊」とはイエスが弟子たちに注ぐ神の霊・聖霊を指しています。「石の心」とは神の言葉を受け入れないで自分の判断に固執する頑な心です。「肉の心」とは、神の霊の勧めに素直に従う柔軟で従順な心であります。

モーセが受けた十戒は石の板に刻まれていたました。新しい契約の掟は聖霊によって心の中に刻まれます。それは預言者エレミヤが言っている通りです。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。」(エレミヤ3133) 

 洗礼をうけたときわたしたちは白衣を授かりました。それはわたしたちが「新しい人となり、キリストを着る者となり、神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩む」ためでありました。

 洗礼の時にはローソクの授与という式もあります。この復活のローソクから光を受けて、キリストの復活の光を人々に示す人となるのであります。

 すでに、洗礼を受け、さらに堅信の秘跡を受けたわたしたちは、今日の復活徹夜祭の典礼、本当に美しい、豊かな内容を与えてくださる教えをもう一度味わいながら、わたしたち自身、新しい人、白い衣を着せられた、キリストにおいて新しく生まれた人として、キリストの霊に従って日々歩む人として、これからも歩んでいきますという決意を新たにいたしましょう。

 

聖金曜日・主の受難

聖金曜日、主の受難

2019419日、茂原教会

説教

 今日は主イエス・キリストのご受難を特別に深く黙想するべき日です。

 四つの福音書はいずれもイエスの受難を詳しく述べています。4つの福音書のなかでマルコの福音が最も古く成立した福音書であると考えられます。イエスの受難の様子は目撃者に深い印象を残しました。マルコは目撃者の証言をできるだけ忠実に書き残したと思われます。今日聖金曜日には毎年、ヨハネの福音が読まれます。四つの福音書で最後に成立したヨハネの福音では、受難に際しての毅然としたイエスの姿がうかがえます。イエスは言いました。

 「わたしの国は、この世には属していない」「成し遂げられた」。

 このようなイエスのことばには父である神の御心を行おうとする強い意志が感じられます。

 イエスを取り巻く人々、弟子たち、総督ピラト、祭司、兵士と群集は、騒然とした状況の中で、憎悪、懐疑、嫉妬などの狂気のような感情に支配されています。イエスだけが冷静に心の均衡を保っています。この情景をみるだけでも、イエスはまことに神の子である、という印象を持つことができたことでしょう。

 総督ピラトはイエスに出会って深い印象を持ったようです。ピラトはイエスに何の罪も見出せませんでした。ピラトはイエスを釈放しようとしますが群集の脅迫に屈してしまいます。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。」

 ピラトはこの言葉を受け、保身のためにイエスをユダヤ人の手に渡してしまいます。

 イエスの死はどのような意味があったのでしょうか。教会は旧約聖書のイザヤ書にその理由を見出します。イザヤは、主の僕の歌を残しました。「主の僕はわたしたちの病を担い、わたしたちの背きのために苦しみ、懲らしめをうけ、わたしたちの罪の償いを背負わされた」とイザヤは述べています。(本日の第1朗読イザヤ5213-5312)

 第二朗読のヘブライ人への手紙では、「キリストは・・・多くの苦しみによって従順を学び、完全な者となられたので、自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となった」(ヘブライ58-9)と述べています。イエスの受難はすべての人々の救いのためでした。

 使徒パウロはさらに、イエスの受難は信じる者のために罪の償いの供え物であると述べています。(ローマ324)

 イエスの受難は罪人であるわたしたちの救いのための苦しみであり、その死は償いと贖いのための死でした。

 

 さて今日の盛式共同祈願のなかに、「神を信じない人々のための祈り」があります。日本では神を信じる人は多くはありません。できるだけ多くの人にわたしたちの信仰を伝えたいと願っています。そのためにはわたしたち自身の改心と刷新が必要です。

 わたしたちは今日、つぎのように祈ります。

 「人々が多くの困難の中にもあなたの慈しみを知り、神を信じる人々のよい行いを見て、唯一のまことの神、人類の父であるあなたを信じる喜びに達することができますように。」

 この証しを立てることができますように祈りましょう。

主の晩餐のミサ

聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサ

2019418日、茂原教会

 説教

 聖木曜、主の晩餐の夕べのミサを献げています。わたしたちが最も大切にしている祭儀、ミサ聖祭の由来、起源をわたしたちに伝える、いわば、最初のミサの次第を、今日、わたしたちは記念しております。わたしは、今日のヨハネの福音を読んで、感じること、強く思うことを申し上げて、皆様にもご一緒に考えていただきたいと思います。 

 イエスは、ご自分の最後の時が来たことを知って、弟子たちと夕食をともにされました。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。どんなにイエスが弟子たちを愛したかということを示すために、みずから、模範をお示しになり、弟子たちの足を洗われました。今日、この後、洗足式が行われます。足を洗うということは、下僕が行うべき、いわば、卑しい仕事とされていた。

 人々は足を洗うということを大切にしていたのだそうですが、その足を洗う役を持っている人がいたそうであります。イエスは、みずから弟子たちの足を洗って、模範を示し、あなたがたも互いに足を洗い合いなさいと言われた。他の箇所でイエスが言われたことは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということでありました。その言葉を、身をもって実行し、一つの模範例を示したのだと思われます。 

 わたくしは、今日、このイスカリオテのシモンの子ユダという人のことを考えてみたい。非常に悪名高いイエスの弟子ですね。イエスを裏切った人。裏切ったという点では、弟子たち全員が同罪なのです。どう違うのでしょうか。ペトロの方は、裏切るというつもりは全然なかった。「わたしはあなたのためなら命を捨てます」と大見得をきったわけです。でも、実際はそうはいかなかった。そこは人間の弱さのためであると、我々には理解できる。このユダの方は、どうだったのでしょうか。なぜ、イエスを裏切ったのでしょうか。もう裏切ろうという気持ちを持っていた。最初からそうだったのでしょうか。途中からそうなったのでしょうね。

 イエス自らが言っているわけです。弟子を選んだのはわたしである。弟子の方がイエスを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。選ばれた人の中に、ユダもいた。ユダはイエスから選ばれた人なのですね。イエスから使命を受け、期待をかけられていた。どうして途中でイエスから離れようと思ったのか。離れるだけでなく、裏切る、敵の手に渡す、手引きをして売り渡すことをしようとし、そして実行したわけであります。そして、あとで後悔した。ペトロもあとで後悔した。後悔したという点では同じですが、ユダの方は自ら申し訳ないと思ったからか、自殺してしまった。ペトロの方は、痛悔の涙を流し、そして、以後、イエスに従い、殉教の最後を遂げた。

 皆さん、この2人の違いについて、今週の聖週間の典礼の朗読で弟子たちの心の動きを伝えていまして、ユダのことが非常に頻繁に出てくる。あなたがた12人はわたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。これはイスカリオテのシモンのユダのことを言われたのであると、ヨハネの福音書が言っている。そして、マタイの福音ですけれども、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかったほうがその者のために良かったと言われた、とあるわけなのですね。この言葉が難しいですね。生まれなかった方が良かった。でも、生まれなかった方が良かった者をイエスは選んでいるわけですね。選んだ時に、まさかこの人が自分を裏切ることになる、裏切るという役を彼にやらせようと思って選んだわけではないでしょう。このユダという人は、多くの人の関心を引いています。どうして裏切ったのだろうか?

 いろいろな見方があるようですが、ユダはイエスに期待をかけたが、その期待がかなえられなかったのでしょうね。どんなことを期待したのでしょうか。他の人たちもそうですけども、力強い王、イスラエルの人たちが待ち望んでいたメシア、外国の支配、ローマ帝国の支配から自分たちを解放し、ダビデ、ソロモンの栄華を回復してくれる政治的、軍事的指導者になるという期待をしていたが、一向そうなるような様子はないし、むしろ、そういうことを否定しているような成り行きでした。その様子に失望したからだろうか。あるいは、この弟子の間のこの争い、確執があって、ユダは孤立していたのかもしれない。イエスがどの弟子を重んじているかということは、十二人の間で大きな関心だったとあるわけです。そういう弟子たちの間の争い、確執というものが、ユダを裏切りへと導いたのでしょうか。 他の弟子に対する嫉妬、妬みが彼を裏切りに駆り立てたのでしょうか。あるいは、何であったのでしょうか。わかりません。色んな人が色々想像して、でも、ともかく裏切った。イエスはユダが自分を裏切るだろうということは、途中からか、途中からだと思いますが、わかっていた。それで今日の場面ですが、十二人の弟子の足を洗ったのですから、その中にユダもいたわけですよね。そして、ユダのことを、友よと呼んでいます。そして、わかりにくいのですが、「あなたのすべきことをしなさい」とも言われた。

 難しい問題です。ユダは特別悪い奴だったので、わたしたちに関係ないとは思えない。わたしたちの人生の中に、人と人との関わりの中で、裏切る、あるいは、信頼に応えない、応えられないという問題が起こるわけですね。ペトロの方は、もう分かりやすいですね。ペトロの方は、単純にイエスについて行こうとし、どんな事があっても、あなたのことを知らないとは言わないし、見捨てることはしないと言ったけれども、ものの見事に三度も知らないと言ってしまった。これは分かりやすい。

 ユダいう人の方は複雑で、どういう人なのか分かりにくい。世俗的な能力があったのでしょう。会計係を仰せつかっていた。それで、財布の中身を誤魔化していたということであります。このようなイエスと弟子の集団の中で起こった出来事と、ユダヤの社会の指導者、祭司、律法学者、そして、ローマ帝国の支配。このような様々な要素の中で、ナザレのイエスという人が自分の生き方を貫いて、苦しみのうちにもぶれることなく、と申しましょうか、まっすぐに父のもとへ向かって、苦しみの道を歩んでいく。わたしたちの宗教は、そのイエスを父である神が復活させたという信仰に基づいているのであります。

 

マグダラのマリア

復活の月曜日のミサ説教

2019年4月22日、本郷教会

第一朗読 使徒言行録2・14,22-32

福音朗読 マタイ28・8-15

 

わたしたちの信仰はナザレのイエスという人の復活という出来事によって成立しました。「使徒たちの宣教」でペトロが人々の前で話しているように、キリストの教会はこのイエスという人の復活という信仰によって成立し発展してきました。

このイエスの復活を宣べ伝えた人が復活の証人であります。「わたしたちは皆、そのことの証人です」とペトロが言っています。

その「わたしたち」の中には女性たちが含まれています。いや、そういうよりもまず、男性の弟子よりも女性の方が先に証人となったのでした。

イエスの墓が空になっていることを最初に発見した人はマグダラのマリアという人でありました。昨日の復活祭の福音が告げている通りです。男性ではなく女性の弟子であるマグダラのマリアという人が朝早くイエスの墓に詣でて、墓から石が取り除けてあるのを見ました。墓の中にはイエスの身体が見当たらなかったのです。そこでマグダラのマリアは、シモン・ペトロとイエスの愛しておられた弟子のところに行って、主の身体が見当たらないということを報告したのです。

お墓にイエスの身体がないと最初に発見した人はマグダラのマリア、そしてさらに、マグダラのマリアは、復活したイエスにお会いした最初の人であります。明日の福音は、マグダラのマリアが復活したイエスに出会うという場面であります。

 

ですから、お墓に詣でて、お墓にイエスの身体がないことを発見した最初の人がマグダラのマリア、そして復活したイエスに会った最初の人もマグダラのマリアでした。マグダラのマリアはペトロたちにそのことを報告しました。このマグダラのマリアの証言からわたしたちの教会が始まったのです。

 

そこで、マグダラのマリアは「使徒たちの使徒」(意味は、使徒へ遣わされた使徒)とさえ呼ばれています。

 

Homily for Easter

Easter Day – The Resurrection of the Lord

Our Church was established on our faith in the resurrection of Jesus of Nazareth. People who ‘have encountered Jesus’ death and resurrection’, experienced the deep joy. And by expressing this joy to many people, the Church has been developed. Mary Magdalene represents the people who had such experiences.
Today’s Gospel starts with Mary Magdalene’s visit to the tomb.
Mary Magdalene was a woman mentioned in the Gospel. She was the one from whom Jesus cast out seven demons. (Luke 8:2)
Peter says in today’s first reading, ‘Acts’, : “He went about doing good and healing all who were oppressed by the devil.” (10:38)
She was the one who was healed by Jesus. And she was the person who followed Jesus to the end, stood under the cross and watched Jesus took His last breath. Above all, she got the blessing to be the first person to meet the resurrected Jesus. (cf. John 20:11-18)
“Early on the first day of the week, while it was still dark, Mary Magdalene came to the tomb and saw that the stone had been removed from the tomb.” (John 20:1)
It is written at the beginning of today’s Gospel. Mary had loved and adored Jesus. When she saw Jesus’ tragic death with her own eyes, how did she grieve and suffer! It seemed to the male disciples such as Peter that Jesus’ death was the end of everything. However, it was not so for her. She visited the tomb where Jesus was buried, longing to see traces of Jesus in her memory. But then she found the tomb was empty and Jesus’ body wasn’t there. Yet after this she met Jesus. How great was Mary’s joy at that time!
The resurrection of Jesus was an incident that the disciples didn’t expect. Also it seemed that Mary Magdalene didn’t understand Jesus’ prophecy in His lifetime about His crucifixion and resurrection. Therefore their surprise and joy was so great.
During the holy week, we have meditated on Jesus’ Passion. Jesus’ Passion is a tragedy caused by the sins and evils of human beings. God accepted Jesus’ death for the redemption and salvation of all people, and resurrected Jesus. Resurrection means victory over sins, death and evils. Jesus was resurrected and the Holly Spirit was poured into the disciples. Through the work of the Holy Spirit, Jesus has fulfilled and expanded His mission. We can call such mission of the Church, ‘Evangelization’. Evangelization includes the mission ‘to work to realize peace’. We, Japanese firmly determined to renounce war based on our miserable experience of the war.
Also the Church of Japan realizes and confesses responsibility for the war. All people should cooperate for peace of the human race beyond the difference of a position, religious, nation and the ethnic group.
Let us pray for the guidance of the Holy Spirit that we can work well as “the Apostle of peace”.


2019年4月22日 (月)

マグダラのマリア

復活の月曜日のミサ説教

わたしたちの信仰はナザレのイエスという人の復活という出来事によって成立しました。「使徒たちの宣教」でペトロが人々の前で話しているように、キリストの教会はこのイエスという人の復活という信仰によって成立し発展してきました。

このイエスの復活を宣べ伝えた人が復活の証人であります。「わたしたちは皆、そのことの証人です」とペトロが言っています。

その「わたしたち」の中には女性たちが含まれています。いや、そういうよりもまず、男性の弟子よりも女性の方が先に証人となったのでした。

イエスの墓が空になっていることを最初に発見した人はマグダラのマリアという人でありました。昨日の復活祭の福音が告げている通りです。男性ではなく女性の弟子であるマグダラのマリアという人が朝早くイエスの墓に詣でて、墓から石が取り除けてあるのを見ました。墓の中にはイエスの身体が見当たらなかったのです。そこでマグダラのマリアは、シモン・ペトロとイエスの愛しておられた弟子のところに行って、主の身体が見当たらないということを報告したのです。

お墓にイエスの身体がないと最初に発見した人はマグダラのマリア、そしてさらに、マグダラのマリアは、復活したイエスにお会いした最初の人であります。明日の福音は、マグダラのマリアが復活したイエスに出会うという場面であります。

ですから、お墓に詣でて、お墓にイエスの身体がないことを発見した最初の人がマグダラのマリア、そして復活したイエスに会った最初の人もマグダラのマリアでした。マグダラのマリアはペトロたちにそのことを報告しました。このマグダラのマリアの証言からわたしたちの教会が始まったのです。

 

そこで、マグダラのマリアは「使徒たちの使徒」(意味は、使徒へ遣わされた使徒)とさえ呼ばれています。

 

2019年4月17日 (水)

続ユダの裏切り

受難の水曜日ミサ説教

2019年4月17日、本郷教会

昨日はヨハネの福音ではユダとペトロの裏切りについての箇所が読まれましたが、今日はマタイの福音がユダの裏切りについて述べています。今日イエスが言われた言葉、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉は衝撃的です。このことばをどう受け取ったらよいか、が議論されています。そもそも生まれなかった方がよい、という者がありえるのだろうか、イエスの口からそのような言葉が本当に出たのだろうか、という疑問が生じています。ルカの福音ではこの言葉が省かれています。他方マルコの福音でも同じ言葉が記されています。どういう意味だろうか。イエスは12人をご自分でお選びになったのでした。ユダはイエスが選んだ人です。非常に才能のあった人で、イエスの集団の会計係をしていて、実務的な分野で才能を発揮していたと思われます。他方他の弟子たちとの間で折り合いが良くなかったのではないかと考える人もいます。

昨日も申し上げたのですが、ユダはどうしてイエスを裏切ったのであろうか。他の弟子たちもイエスの受難に際して恐怖のあまりイエスを見捨て、裏切ってしまいました。ペトロの裏切りの場合は理由が分かりやすい。他方、ユダの方は分かりにくいと思います。「生まれなかった方が、その者のためによかった」とイエスに言われてしまった。イエスは苦しいユダの心中を察し同情して、「あなたが生まれなかったらこのような苦しみに出会わなくてすんだでしょうに」という意味でそういったのでしょうか。決してユダの存在自体を否定してそう言ったのではない、と考えられる。あるいは、「まだ遅くない、あなたのその計画を辞めなさい」と言おうとしたのか。イエスは、他の弟子たちに、「裏切り者がユダである」とは言わなかった。いつの時点で裏切りが成立したのか、ということも微妙な問題です。すでにユダは祭司長たちの所に行き、銀30枚でイエスを引き渡す約束をしているので、裏切りは始まっていた、と言えます。昨日のヨハネの福音では、ユダがイエスかからパン切れを受けたときにサタンが彼の中に入った、となっています。どいう風に考えたらよいのか、・・・難しい問題です。

「ユダの裏切りは神の計画に入っていた。ユダに裏切らせることによって、イエスは十字架の刑が成立し、その結果陥イエスは全ての人の救いを成し遂げた。ユダの裏切りは神の計画のシナリオに入っていたのである。」そういう見方もあります。しかしそれはユダにとってあまりにも気の毒な見方です。またさらに、ユダの裏切りをむしろ良いこととして評価しユダに感謝すべきである、という極論さえもあるようです。

このように、ユダという人について様々な意見、見解がありえます。わたしたちはどう考えるか。一つわたしが昨日からなるほどと思ったことがあります。

イエスが、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言った時、弟子たちは非常に心を痛めました。そして

「『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」

とあるのです。『主よ、まさかわたしのことでは』と言った時の弟子たちの気持ちはどのようなものであったでしょうか。もしかしてそれぞれの弟子は、多少とも自分にもイエスを裏切る可能性がある、という自覚を持っていたのかもしれない、と思うのです。人は何かのきっかけで、重大な背信行為に走ってしまうこともありうる、と考えてしまいます。そのような可能性、ユダになるという可能性が自分の中にもある、ということをしみじみ考え思う必要があるのではないか、と思います。

 

2019年4月16日 (火)

ユダの裏切り

難の火曜日ミサ説教

2019年4月16日、本郷教会

 

今日は受難の火曜日です。今日の福音朗読はヨハネによる福音で、イスカリオテのユダの裏切りという劇的な場面を伝えています。

 

イエスは、過越祭の前に弟子たちと食事をしましたが、その時言われました。

「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

弟子たちは非常に驚きました。福音書は述べています。

「イエスの愛しておられた者」がイエスに『主よ、それはだれのことですか』と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。・・ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」

わかりにくい言い方です。イエスからパンを受け取った時にユダは裏切りを決意したのでしょうか。「夜であった」という表現が印象的です。闇に覆われる夜は罪の支配の時を現しているかのようです。

なぜ、ユダはイエスを裏切ったのでしょうか。ユダもイエスが選んだ12使徒のひとりです。イエスは、ユダへ期待したので、彼を選んだのではなかったでしょうか。彼が裏切ることを知っていたのに、それでも彼を選んだとは考えにくい。ユダの期待にイエスが応えなかったので、彼はイエスから離れていったのだろうと思われます。ユダはイエスに何を期待していたのでしょうか。この世における成功と権威に参加できるという期待があったのでしょうか。

イエスの裏切りの動機について種々に言われています。

ユダが他の弟子たちを嫉妬していたたからとか、イエスに失望したからとか、弟子たちの中で孤立していたから、という人もいます。

 他方、ペトロの方は、イエスの身の上に異変が起こることを知って訊ねました。

「『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」」

イエスのためなら命を捨てるといったペトロの心には偽りはありませんでした。しかし、彼は自分の弱さを知りませんでした。結果はイエスの予言通りとなりました。

ユダもペトロも「裏切り」は同じです。しかし、その動機と結果は違っています。

 聖週間は、イエスをめぐる人々の心の動きを追体験するときです。その気まぐれな群集心理、臆病な弟子たち、自己保身を優先する指導者たち、人々の人間の心に住んいる残酷さ。そのような状況でイエスは最後まで、平和で和な態度を保持しました。イエスはあくまでも、今日の第一朗読、イザヤの預言の言葉「わたしの神こそ、わたしの力(49・5)」という父への信頼を生きていたのです。このイエスの生き方を見つめながら、わたしたちが死と復活の過ぎ越しの神秘に深く与ることができますよう、祈りましょう。

 

2019年4月15日 (月)

マリアとユダ

受難の月曜日ミサ説教
2019年4月15日、本郷教会
第一朗読 イザヤ42.1-7
福音朗読 ヨハネ12.1-11

 

昨日から聖なる一週間が始まり、今日は受難の月曜日であります。今日の福音、ヨハネの12章は、過ぎ越し祭の6日前にベタニアで起こった出来事を告げています。イエスは、度々、ベタニアにある、マルタ、マリア、ラザロの家に赴かれたようであります。
さて、この時、マリアは、純粋で、非常に高価なナルドの香油を、一リトラ*というかなりの量を持ってきてイエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭いました。家は香油の香りでいっぱいになりました。このマリアのしたことは大いに人々を驚かせました。この時の情景が目に浮かんできます。
後でイエスを裏切るイスカリオテのユダは、このマリアの行為を非難して言いました。「なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
3百デナリオンというお金は相当な金額になります。1デナリオンが1日の労働者の賃金であると言われますので、1年分の給与近い金額に相当します。このような高価な香油を使ってマリアは何のためにこのようなことをしたのでしょうか。
マリアの心とユダの心の間には大きな隔たりがあったようであります。マリアはひたすらイエスのことを思い、そして、間もなくイエスがこの世から去ることを予感し、その葬りのための用意をしたのではないかと考えられています。更に、イエスこそまことの王であり、油注がれた者、メシアであるということを、予め、前もって、人々に指し示したのではないか、とも考えられます。
それに対して、イスカリオテのユダの考えていたことは何であったのでしょうか。ユダが本当に貧しい人のことを思って言ったのではなくて、彼はイエスから会計を預かっていて「その中身をごまかしていた」と書かれています。彼はそのお金を、貧しい人のために使うことを考えたのではなく、ごまかしているお金のことを思って、そう言ったのであると福音書は告げています。
昨日から始まった聖なる一週間、イエスがどのようにして十字架上の死に赴いていったのか、イエスを取り巻く人々の心はどのように揺れ動いていったのか、そして、その一週間の中で、2千年後のわたしたちは、自分自身の心を見つめながら、主イエスの受難の意味を黙想し、そして、死から命への過ぎ越しの神秘を思いながら、大きな復活の喜びにあずかることができますよう、心静かに過ごしたいと思います。
*リトラは約326g

 

敵を愛する

受難の主日説教
2019年4月14日、茂原教会

 

第一朗読 イザヤ50・4-7
第二朗読 フィリピ2・6-11
福音朗読 ルカ23・1-49

 

わたしたちが信じるナザレのイエスとはどんな人でしょうか?
ある人がどんな人であるのかを知るためには、その人がどのような最後を迎えたのかを知ることが大切だと思います。イエスの受難と死は「イエスが誰であったのか」をわたしたちに語ります。
イエスは敵への愛を説きました。これは非常に実行困難と思われる教えです。教えた人が実行しなければその教えは説得力を欠きます。しかし、イエスは十字架の上でこの教えを実行したのです。イエスは自分を処刑する人のために祈って言いました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)
イエスはなぜ殺されなければならなかったのでしょうか?
イエスは自分を神に等しいものとしたとされ、冒涜の罪に問われました。彼は嘲られ侮られ貶められ笑い者にされ、見るも惨めな状態で人生の最後を迎えました。人々はイエスを愚弄し、囃し立てました。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(ルカ23・35)
かし、イエスは自分のために自分の力を使いませんでした。神の子として栄光は完全に隠されたままでした。多くの人を癒し奇跡を行い、多くの人にメシアの栄光を現したイエスですが、十字架の上でその力を行使することはなかったのです。
パウロは言っています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2・6-7)
イエスの死の様子を一部始終目撃していた異邦人の百人隊長は非常に強く心を打たれて、言いました。
「本当に、この人は正しい人だった。」(ルカ23・47) 平行箇所のマタイの福音、マルコの福音では「本当に、この人は神の子だった」とあります。(マタイ27・54、マルコ15・39)、
わたしたちの宗教はこのような最後を遂げた方を開祖とし、救い主として仰いでいます。それならわたしたちはどのようにイエスの教えを実行しているでしょうか?
自分を理解しないもの、自分を排斥し、自分に敵対する者のために祈っているでしょうか?
些細な侮辱、失礼な言動に対して自分はどんな態度をとっているでしょうか?忍耐しているでしょうか?
聖週間の始まる今日、イエスに倣う謙虚で忍耐強い教会の姿を人々に示すことができますよう、祈りましょう。

 

2019年4月14日 (日)

カイアファの発言

四旬節第5土曜日ミサ説教
2019年4月13日

 

明日は受難の主日であります。わたしたちはヨハネの福音を聞きながらイエスの受難への道を辿ってきました。イエスは何故人々から排斥され十字架に刑にかけられるに至ったのかという次第をわたしたちはいわば追跡してきたのであります。昨日の福音では、イエスが「神の子である」と語ったことについての論争がユダヤ人との間に在ったことが告げられていました。今日の福音では、大祭司カイアファという人の語った言葉が伝えられています。イエスが死ぬ方が、国民全体が滅ぼされないために好都合である、と彼は言いました。これは非常に政治的な発言です。彼は宗教家というよりも非常に政治的な人でした。最高峰院は祭司とファリサイ派の人で占められていました。そしてユダヤの国はローマ帝国の支配下にあったのです。間接統治という形態だったのでしょうか。ある範囲の自治をユダヤの指導者の自治に委ねていたようです。そういう状況でイエスの人気はますます高まっていった。今日の福音の前の箇所はべタニアで起こった出来事を伝えています。イエスはしばしばベタニヤのマルタ、マリア、ラザロの家に赴いて、しばしの安息、休憩の時を過ごしていたようであります。そしてマルタ、マリアの弟のラザロが亡くなった。イエスは、三日も四日もベタニヤにはいかないで、死体が腐敗するまでとどまってから、ラザロの墓に行き、ラザロを生き返らせました。イエスが、「ラザロ、起きなさい」というと、ラザロは布にくるまれた状態で出てきた、とヨハネの福音は伝えています。この出来事は大変な評判になった。そして、ラザロ本人を見たいという人がたくさん押し寄せて来た。そのような動きの中でイエスの存在は政治的にも危険なものになってきたとユダヤ人の指導者たちは考えた。もしかして、民衆がイエスを指導者に押し立ててローマに反乱を起こすかもしれないと解釈したのかもしれない。大祭司カイアファが「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか」と言ったのは全く政治的な立場からの発言でした。カイアファは多分、イエスが死ねば、一時的にせよ、ユダヤとローマ帝国との間の不穏な空気は収まるとカイアファは考えたのでしょう。
しかし、ヨハネの福音は、カイアファが「イエスが国民のために死ぬ」と言った言葉の意味を、イエスの死はすべての人の贖い、救いのための死になると考えています。カイアファは、自分ではそうとは知らずに、イエスの死の意味を預言した、ことになったのでした。

 

 

第一朗読  エゼキエル書 37:21-28

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 11:45-56
(そのとき、)マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか

 

放蕩息子

四旬節第2土曜日ミサ説教
2019年3月23日、本郷教会

今日の福音は有名な、ルカの15章の「放蕩息子」のたとえです。
この話には、分かりにくいところ、納得できない部分があると思います。腑に落ちない部分があります。それはこの父親の弟に対する態度ではないかと思います。
弟に甘いのではないか?兄が怒るものもっともではないか?父は、このようなわがままな息子にはもっと厳しくしなければならないのではないか?甘やかしては他の人に示しがつかない、などと思いませんか?
仏教の法華経に「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」という、よく似た話があります。およそ次のような話です。

放蕩息子の話のように、ある人に、家を出て行った息子がいました。父は自分も家を出て息子を捜しまわり、あるところに、新たに立派な家を構えました。そこへみすぼらしい男が来て食べ物を乞いました。それは変わり果てた息子であることに気が付きます。しかし父はすぐには親子の名乗りはせず、彼に卑しい業をさせて性根をたたき直し、修行がすんで、彼を自分の息子に相応しい人間に更正させてから、やっと自分が父であることを名乗り、彼を自分の跡継ぎであると認め、関係者に紹介します。

どちらかというと、仏教の話のほうが納得できます。ルカ15章の放蕩息子はしっくり行きません。しかしここで「父はおかしい、しっくり行かない」と感じる自分の心を見つめることが大切だと思います。

「イエスは徴税人や罪人と一緒に食事をしている」とファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスを非難しました。そこでイエスは彼らに向かってこのたとえ話をしたのです。怒って家に入ろうとしなかった兄はファリサイ派の人々や律法学者たちを指し、この寛大な父は天の父を指していると思われます。
イエスにとって天の父とはこの父親のような心の寛い(ひろい)、慈しみ深い方でした。
ところで、旧約聖書を読むと、どちらかといえば、神が怒りをあらわしている場面が目立ちます。神は、イスラエルが神との約束を破り、他の神を拝むなどしますと、激しく怒り、憤りを発しています。神が怒りのあまり、イスラエルを滅ぼし尽くそうとするが、モーセになだめられて思いとどまるという場面が出てきます。(出エジプト記32・7-14)
しかし旧約聖書を通してよく読んでみれば、この主なる神は同時にあわれみの神、赦す神でもあります。イスラエルの民は、次第に、神はゆるしとあわれみの神であるというメッセージを受け取るようになりました。イエスは、人を赦し受け入れる、慈しみ深い神を示しています。
本日の第一朗読で言われています。
「あなたのような神がほかにあろうか咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない、神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」
ルカ15章に出てくる三つのたとえ(「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえ)は、すべて、一人ひとりの人間のかけがえのなさを述べています。どんな人でもその命はかけがえがないのです。すべての人は神の子です。誰でも人はかけがえのない存在として神に受け入れられています。
この「放蕩息子」の話は、自分を誰の立場に置くかによって読み方が変わってきます。自分が弟である場合、この話は本当に福音になります。
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」(ルカ15・32)
父には強い喪失感、「息子がいないという気持」があったのでした。父にとって「弟である息子がいない」ことは、実に寂しく辛いことだったのです。神はわたしたちのことをそのように思ってくださるのです。どんなにでたらめで勝手な人間であっても、その人のことをかけがえのない大切な存在と思ってくださるのです。このメッセージが福音であると思います。
どんな人の中にも神の美しさ、神の輝きが与えられています。人は神の似姿です。それはくれているかもしれません。しかし、愛する人にとってその人の価値はゆるぎなく、かけがえがないのです。
神の愛は罪のある人間、問題のある人間を受け入れ包む愛です。神は、罪を悪として退けますが、同時に、わたしたちの罪の問題を自ら引き受けたのでした。イエス・キリストの十字架がその父の心を示しています。
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第一朗読  ミカ書 7:14-15、18-20
福音朗読  ルカによる福音書 15:1-3、11-32

2019年4月12日 (金)

わたしたちも神の子です!

四旬節第5金曜日
2019年4月12日

 

イエスという人は誰であるのか、ということが、イエスとユダヤ人の間で論争されています。
「父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」とイエスは言われました。イエスは、自分は父から聖なる者とされて世に遣わされた者であると自覚していました。そしてイエスは「わたしは神の子である」と言っています。
「神の子である」とはどういう意味でしょうか。イエスが言ったのは「わたしは神である」ではなくて「わたしは神の子である」です。わたしたちキリスト教徒は「父と子と聖霊」の神を信じています。天の父である神が居てその御子イエス・キリストが居る。そしてその父と子は、日本語の翻訳では、「一体である」と(ニケア・コンスタンチノープル信条では)わたしたちは信じています。「一体」は「同一本質」とも訳されます。父は子ではないし、子は父ではない。御父と御子は「父と子という関係にある別な位格である」と説明しています。「本質」とか「位格」とかいう難しい概念を使って、イエスと御父との関係、御父とイエスとの関係を説明しようとしているのです。この説明では理解が難しいかもしれません。
今日の箇所では、イエスは「神の子である」と言っています。実はわたしたちも「神の子」とされているのです。「イエスが神の子である」ということの意味と「わたしたちが神の子である」ということの意味が同じであるかと言えば、もちろんそうではない。わたしたちは神の命に与る者とされています。ヨハネの福音では、イエスを信じる者は死から命へ移っていると言われています。わたしたちは「神の子」なんです。イエスは「神からの神、光からの光」です。わたしたちはそのような意味での完全な神の子ではありません。しかしわたしたちはイエスによって神の命に与る恵みを受けていますので、イエスのような者に変えられている、と信じています。わたしたちのなかに神の命が宿っています。そのような意味でわたしたちの神の子であるのです。
そしてさらにイエスが言われるのは、もしわたしが神の子であると言ってもそれを信じることが出来ないならば、せめて、わたしの行っている業によってわたしを信じなさい、わたしは天の父の御心を完全に行っている。イエスが日々どう生きているか、を見れば、「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」とイエスは言いました。
わたしたちは、神の御心を完全には行うことはできません。それでも日々神の御心を行うように努めているものである、と思います。

 

 

第一朗読  エレミヤ書 20:10-13
わたしには聞こえています 多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆、わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。しかし主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき、勝つことを得ず、成功することなく甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのないとこしえの恥辱である。万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を、悪事を謀る者の手から助け出される。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 10:31-42
(そのとき、)ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。

 

2019年4月11日 (木)

三つの誘惑

四旬節第一主日ミサ・洗礼志願式の説教

 

2019310日、本郷教会

 洗礼志願者 佐々木俊平

 

四旬節第一主日の今年の福音朗読はルカの4章であります。

イエスは聖霊に満たされ、霊によって荒れ野に導かれ、40日間にわたり悪魔の誘惑を受けられました。

この物語から四旬節という典礼の季節が生まれました。

ところでこの四旬節の起源の物語を聞いてふと思うことがあります。それは、この物語に、聖霊と悪霊の両方が出て来るのはどういうことだろうか、ということです。

イエスは荒れ野で悪魔から三つの誘惑を受けましたが、すべての誘惑に打ち克たれました。

これは確かにイエスの物語です。しかし、実はむしろ、わたしたちひとり一人の受ける誘惑について、わたしたちに向けて語られている物語なのです。

わたしたちは信仰の恵みを受け、聖霊の賜物を受けています。しかし依然として同時に悪霊の誘惑にさらされている者でもあります。わたしたちもイエスに倣い、聖霊の助けによって悪魔の誘惑に打ち克つように、と今日の福音は励ましています。

 

イエスは三つの誘惑を受けました。

一つ目の誘惑は、「石をパンにかえるように」という誘惑でした。それは、自分が持っている力を地上での自分の成功にために、現世的な成功のために用いたらどうか、という誘惑であります。イエスは「人はパンだけで生きるものではない」と答えてこの誘惑を退けました。

 

二つ目の誘惑は、地上の権力と繁栄を自分のものとしたらどうか、という誘惑でした。それは、人を支配し、人を思うように動かし、栄誉と名声を自分のものにしたい、という欲望への誘惑です。この誘惑に対してイエスは、

「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」という申命記の言葉をもって、断固、悪魔の誘惑を退けたのです。

わたしたちは日々主の祈りを唱え、「自分の思いではなく神の思いが行われますように」と祈っています。しかし、誰かが自分の思いに反することを言ったらしたら、不快になり、怒りを覚えたり、失望したり、落ち込んだりすることが少なくはありません。自己の権力、名声、評判への欲望は実に根強いものです。「栄光は父と子と聖霊に」と唱えながら実は「自分の栄光」を求めている部分が心の中に在ることを認めなければならないと思います。その欲望に悪魔は付け込んできます。

 

三つめの誘惑は、「神である主を試す」という誘惑です。

「神である主を試す」とはどういうことでしょうか。それは本当に主がともにいてくださり、守ってくださるだろうか、疑いを抱いて、不信仰に陥る、ということです。かつてイスラエルの民はモーセに率いられて、荒れ野でさまよい、水も食べ物もない状態に耐えかねて「果たして、主は我々の間におられるだろうか」と言って、モーセと争い、主を試みるに至ったのでした。(出エジプト171-7参照) 主がモーセを遣わして民を救おうとしていること、神は力ある神、いつくしみ深い神であることを疑ったのです。その結果イエスらエルは安息に入るためには40年間の償いのときを課せられるにいたったのでした。

悪魔は詩篇の言葉(本日の答唱詩編)を使ってイエスを誘惑しました。

「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

イエスは同じく申命記の言葉、「あなたの神である主を試してはならない」をもって悪魔の誘惑を退けました。

 

イエスは昇天に際して、「わたしは世の終わりまであなた方とともにいる」と言われました。もし、現代を生きるわたしたちが、「主はどこにいるのか」という思いを抱き、主が守ってくれるかどうか試すための試みをするならば、それはまさにイスラエルの民が荒れ野で侵した「あなたの神たる主を試みる」という不信仰に他ならないことになってしまいます。主を信じ、信頼しているなら試みるはずではありません。

「主の祈り」の「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお守りください」という言葉は不信仰への誘惑からわたしたちを守ってください、という思いが込められた祈りでもあります。不信仰への誘惑は悪の霊から来るのであり、またわたしたちの欲望から生まれるのです。

 

「ベネディクト十六教皇は就任式のミサで「現代の荒れ野」ということを言われました。首都圏に生きるわたしたちはまさに「現代の荒れ野」のなかで生活しています。それは、快適で便利な生活かもしれませんが、精神的・霊的には生きづらい環境ではないでしょうか。寂しく空しく、悲しい思いを抱えている人の少なくはありません。そこに悪魔の誘惑が忍び込んできます。

そのような状況にあってわたしたちの本郷教会は東京における「現代の荒れ野のオアシであり心の泉でありたい」と願っています。

 

第二朗読、ローマ書は、「口でイエスは主であると公に言い表し、こころで神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです」(ローマ109)と述べ、信仰告白の重要さを強調されています。今日、洗礼志願式をうける佐々木俊平さん、あなたはいま「信条」を唱えて信仰告白をしようとしています。生涯にわたり、この信仰告白を固く保ち守り強め、そしてその信仰を多くの人に宣べ伝え証ししてください。

 

――

(福音本文)

 

[そのとき]イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」

イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。

悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

 

 

2019年4月10日 (水)

イエスは『わたしはある』

四旬節第5水曜日ミサ説教
2019年4月10日

 

次の日曜日は受難の主日(枝の主日)であります。そしてその日からの一週間が聖なる一週間(聖週間)であり、4月21日が復活祭となります。わたしたちは毎日ヨハネの福音を読みながらイエスの最後の一週間の出来事、受難に向かって歩んでいます。
イエスとユダヤ人の間には、神とはどんな方であるのか、ということについての大きな理解の違いがありました。イエスは、自分は神から遣わされた者であり、神から聞いたことを人々に伝えていると主張していますが、彼らはそれを認めることが出来なかったのでした。
昨日の福音で、イエスは、自分は「わたしある」という者だと言われました。「わたしある」は、モーセにあらわれた神が、モーセから名前を聞かれて「わたしはある」であると答えたときの「わたしはある」であります。そこで、イエスがヨハネの福音で、自分を「わたしはある」ギリシャ語で「エゴーエイミイ」としたということは、は神に等しい者であるとした、ということになります。昨日の福音で「多くの人はイエスを信じた」と在りますので、問題は解決したのかと言えば、今日の福音によると、そうではありません。「信じた」と言いますが、何をどのように信じたのか、分からなくなってきます。「信仰」と言ってもその内容、程度にはいろいろであるということになります。彼らは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言ったイエスの「自由にする」という言葉に躓いたのでした。
「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
とユダヤ人は言っています。自分たちは誰の奴隷でもない、アブラハムの子である、と彼らは主張しました。それに対してイエスは、アブラハムの子ならアブラハムのように生きている筈なのに、あなたがたはわたしを殺そうとしているではないか、と言いました。あなたがたは血筋の上ではアブラハムの系図に属しているだろうがアブラハムの信仰を生きていないではないか、とイエスは言っているのです。それどころか「あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」とイエスは言われました。さらに言われました。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」
此処でイエスが言う「父」とは誰か。ヨハネの福音のこの先を読んでみると、この父とは「悪魔」である、ということになります。
此処で話は跳びますが、今日のこのヨハネの福音はわたしたちに何を語っているのでしょうか。わたしたちはイエスを信じてイエスの弟子となりましたが、わたしたちはイエスの弟子であるという信仰をどのように、どの程度生きているでしょうか。いまわたしたちは日々の生き方を深く反省する時を迎えています。

 

慈しみ深い父の譬え(放蕩息子の譬え)

四旬節第4主日ミサ説教
2019年3月31日、宇都宮・松が峰教会

皆様、しばらくでございます。お招きいただきまして、ありがとうございます。
今読まれましたルカの福音の話を、ご一緒に味わってまいりましょう。
いわゆる放蕩息子の譬えばなしでございます。
3人の人が登場しています。それぞれの人の気持ちというものを、今ご一緒に想像してみたいと思う。
この3人というのは、お父さんがいて、お兄さんがいて、弟さんがいるわけです。
この弟の方は、大変だらしない勝手な息子でありまして、お父さんに、まだ生きているお父さんに「お父さんが死んだ場合に、自分に分けてくれるはずの財産をください。」
まあ生前贈与というのでしょうか、もうそれだけで大変親不孝ですけれども、どこかに行って財産を使い果たしてしまった。
飢饉にあって、もう食べるものにも事欠くようになった。豚の世話をさせられた。
豚というのはユダヤ人にとっては、まあ非常に不浄な動物でありました。
この弟の体験は、まあ底付き体験というのでしょうか、もう底の底まで落ちちゃった。もうどうしようもない、そういう体験であります。
そうなって、やっと彼は我に返ったのですね。
そうなってから気がついた。「ああ、自分がいるべき場所は、お父さんのところなんだ。お父さんのところに行って、お詫びしよう。」
まあ虫がいいといえば、虫がいいのですけれども、お父さんのところに帰ろう、お父さんのところに行って、まあお詫びをするということになったわけです。これが弟の方ですね。
で、お父さんの方はどういう人でしょうか。
弟から「自分に財産を分けてくれ。」と言われたと、どんな気持ちだったでしょうか。
弟の要求に応えて分けてあげた。そして弟はどこか遠くに行ってしまった。
父親は弟のことをけして忘れなかった。忘れないどころか、毎日毎日、彼のことを思っていた。どこでどうしているだろうか。
この弟がいないという気持ち、そばにいて欲しい、そばにいて欲しいが今はいないんだという気持ちをずっと持っていた。
一人の人がいない。その人がそばにいて欲しい。或いは自分がその人のそばにいたい。しかし今いないという、そういう気持ち。これは非常に尊い気持ちだと思う。
その人が大切なんですね。いてもいなくても関係ないという場合もあるかもしれないけれど、或いはいて欲しくないという気持ちを持つ場合もあるかもしれないが、いて欲しいのです。いないと思う気持ちはまあ喪失感といいましょうかね。自分にとって大切な者がいないと、ないという気持ちですね。
おそらく父親は、いつ帰ってくるだろうかと思って、毎日息子の帰りを待っておりました。
こう書いてありますね。「ところがまだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、あわれに思い、走り寄って、首を抱いて接吻した。」
ですから、まだ遠く離れていたのにとありますので、もしかして、毎日毎日遠くの方を見ながら、「いつかえってくるのかなあ。」と思って、待ちわびていたのではないでしょうか。
そして大喜びで息子を受け入れる。もう有無を言わさず、息子として良い服を履かせ、手に指輪を嵌めてやり、足に履物を履かせてやり、肥えた仔牛を屠って、喜びの宴会を開くと、こんな歓迎の仕方はいいのだろうかと、「お前はどこで何をしていたんだ。こんなことじゃだめだよ。」って、こうお説教したり、何かお灸を据えて、それから息子として認めてやるというようにしないのだろうか。
実は、同じような話は仏教のお経にあります。「長者窮子の譬え」という話ですが、これは同じような話なのですが、この場合は、お父さんは帰ってきた息子に卑しい仕事などをさせ、十分に性根を叩き直した後で、実は私はお前の父であるという名乗りをするという筋書きとなっています。
さて、弟、お父さん、それから兄ですね。
この兄の気持ち、大変憤慨している。お父さんに対して、特に怒りを覚えている。そして弟に対しても、けしてよい気持ちは持っていない。
まあわからないでもない。皆さんはどのように感じますか。
兄は怒って家に入ろうとせず、父親が出てきて宥めた。
もうあんな勝手なことをして、放蕩三昧をして、あなたの身上を食い潰して帰ってきた。
弟とは言わないで、あなたの息子、あの息子と、実は自分の弟だけれどあなたの息子という言い方をしているところに、この兄の気持ちが表れていると思います。
この話は、パリサイ派の人々や律法学者たちに対して、向けて話された話であります。
このパリサイ派の人や律法学者は、もうまあ超、超真面目な人たちです。律法、神様がイスラエルの民に授けた教え、掟をよく勉強し、それを実行し、実行するように教えていた人々であります。
さて、私たちはこの話をどのように受け取ったらよいだろうか。
明らかに、この話に出てくるお父さんは天の父、イエスが父と呼んだ神様、慈しみ深い天の父を示しています。
私たちの神様は慈しみ深い。罪人を愛し、受け入れてくださる。そして自分のところにいて欲しいと強く願っている。
しかし、力づくで自分のそばにいるようにはさせない。出て行きたい者は出て行かせる。しかし、帰ってくるのを待っている。そして、帰ってきたら、小言を言ったり、罰を与えたりしない。そういう神様ですよ、ということを言っているのではないかと思われます。

悪いことを善いとすることではない。悪いこと、欠点或いは罪があっても、その人をその人として受け入れ、その人と一緒にいることを喜んでくださる。そういう神様であるということを教えているのではないでしょうか。
弟が徴税人、罪人に該当するのでしょうかね。
兄の方は真面目なパリサイ派や律法学者。
このパリサイ派、律法学者は、そのような神様、イエスが説いたそのような神様の心を理解しようとはしなかった。
このイエスの説いた神様と、パリサイ派や律法学者たちが考えていた神様の理解の間に、大きな違いがあり、彼らとイエスは決定的に対立することになったのであります。


2019年4月 8日 (月)

世の光

四旬節第5月曜日ミサ説教より

 

復活祭まであと二週間となりました。

今日のヨハネの福音でイエスは言われました。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

イエスは光から来た光です。しかしファリサイの人や律法学者はイエスを光として受け入れませんでした。ヨハネの福音の冒頭で次のように言われています。

 

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

・・・

1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。

1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。

1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。

1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

 

キリスト者とはイエスに出会い、イエスから光を受け、イエスの光の中を歩む者です。

わたしたちもかつて闇の中にいた者であります。イエスと出会い、今は光の中を歩んでいます。

復活徹夜祭の光の祭儀を思い起こしましょう。

イエスは復活し、光としてわたしたちを照らします。わたしたちはそれぞれ復活の光を受けて、その光をもって周りの人を照らします。キリストの弟子の使命は、キリストから光を受けて人々に光を伝えていくことです。

 

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第一朗読  ダニエル書補遺 スザンナ 1:41c-62

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 8:12-20

(そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。)それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

イエスは今も生きている!

四旬節第4土曜日ミサ説教
2019年4月6日、本郷教会

わたしたちは毎朝のミサでヨハネによる福音を読んできました。ナザレのイエスという人は誰であるのか、について、人々の様々な意見、見方があったことが今日の福音で述べられています。イエスという人は預言者であるのかどうか。あるいはメシアであるのかどうか、ということがユダヤ人の重要な関心の的となっていました。
ヨハネによる福音書は、イエスの出来事、イエスの十字架刑のあったとき,おそらくおそらく西暦30年ころ、そのときからからかなり後になって、使徒ヨハネを中心といたグループに伝えられていた信仰が記録され編集され、さらにその後、聖書として正典化された文書である、と考えられています。今日のわたしたちはナザレのイエスという人に直接お会いすることはないわけですが、イエス・キリストを信じた人々の建てた教会のメンバーになり、イエスの2千後の教会として、毎日信仰生活を送っています。
イエス・キリストという人は、2千前に生きて死んだ偉大な一人の宗教者あるいは歴史上の人物であったかもしれないが、今日のわたしたちには、単なる記憶上の人物にすぎないのでしょうか。一千年、二千年の人類の歴史の経過した今現在、イエスという人は今のわたしたちにとって誰であるのか、ということを今一度確かめる必要があります。
わたしたたちは、過去の人物であるナザレのイエスという人の思い出、記憶を分かち合うのではなく、今、ここに、イエスがともにいてくださり、わたしたちとともに歩んでくださるという信仰を持っています。いまこの信仰を新たしなければならないと思います。
イエスは今も生きていてわたしたちとともにいます。イエスの霊である聖霊が日々わたしたちの心に注がれています。
フランシスコ教皇は最近全世界の若者たちに向かって手紙を出され、様々な困難、問題に直面している青年を励まして言われました。
神は愛です。
イエス・キリストは神の愛を完全に表わし行きました。
イエスはただの過去の人ではありません。今も生きています。イエスは今、あなたがたともにいます。
キリストの霊があなたがたに注がれています。
失望し、失敗し、挫折することもあるでしょう。そのようなあなたのそばにイエスは一緒にいます。信仰を強くし、希望のうちに歩んでください。

いまわたしたちの教会は聖職者の性虐待という重大な問題の中にいます。
それでも、教会の中に、わたしたちの中にキリストはおられます
キリストとともに、日々の小さなことを、神様のみ心に適おう善い行いを、真心こめて実行し、信仰の証しとして、神様へお献げ致しましょう。


ヨハネ福音書は何故書かれたか?

わたしたちは毎朝ミサでヨハネによる福音書を読み続けています。
ヨハネ福音書の著者は使徒ヨハネであると考えられてきましたが最近の研究によるとヨハネの弟子たちがヨハネの名を借りて編集したものだとも言われています。弟子が師の名前を借りて師の教えを伝えるということは当時良く行われていたことだそうです。成立の時期は90-110年ころ、イエスの死から70年は経過しています。書かれた場所はおそらくエフェソであろうと思われます。
ヨハネ福音書はこの本が書かれた目的を次のように言っています。
「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20・30-31)
人々が信じて永遠の命に入るためにヨハネ福音書は書かれました。ヨハネは「信じる」ということが大切であると強調しています。イエスは、自分は父である神から遣わされた者であると主張しています。今日の福音でもイエスは言われました。
「わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
このイエスの言葉をユダヤ人たちは信じませんでした。イエスを神からの人と信じた人はすでに永遠の命へ移されているのです。わたしたちはすでに神の命に与っているものであります。神への感謝を新たにしましょう。そしてお互いの心に聖霊が注がれて神の命が宿っていることを憶えて、互いに敬意を払ようにいたしましょう。使徒パウロは言っています。わたしたちの体は聖霊の神殿であるのです。

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第一朗読  知恵の書 2:1a、12-22

福音朗読  ヨハネによる福音書 7:1-2、10、25-30
(そのとき、) イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。
さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。

2019年4月 5日 (金)

聖職者の性虐待事件

四旬節第4木曜日ミサ説教
2019年4月4日、本郷教会

 

わたしたちは毎朝のミサでヨハネの福音を毎日読んできました。そして今わたくしは、「信じる」ということが本当に大切であると痛感しております。イエスの弟子たちもイエスをなかなか信じることが出来なかったようであります。フィリッポという弟子がいて、イエスに向かって、「どうか父をわたしたちに示してください。そうすれば満足します」(ホハネ14・8参照)と言ったとヨハネの福音は示しています。イエスは弟子たちに、「もしわたしを信じられないとしても、わたしの行っていること、わざによって信じなさい」(ヨハネ14・11参照)と言われました。イエスの行ったことが福音書となってわたしたちに伝えられています。
人は、その人が言うことよりも、その人の行ったこと、その人が何を行ったか、によって、その人への信頼――その人が信頼できるかどうか、を決めるものではないでしょうか。言っても実行していなければその人は信頼に値しないのです。
ヨハネの福音書は4つの福音書の中で最後に成立したものですが、弟子たちがイエスの生涯を振り返って、心からイエスを信じ、イエスはどのように自分の言葉を実行したかを伝えよう、あかししようと願って書かれのでした。
やはり人は自分の言っていることを実行しなければならない。イエスは自分の教えを自分で実行して人生を全うしました。わたしたちの教会はそのイエスが設立した神の民であり、わたしたちの中にイエスの霊、神の霊である聖霊が注がれています。わたしたちが聖霊の導きに忠実である限り、わたしたちは復活したイエスの姿を現すことができますが、霊の導きから逸れて、自分の思い、自分の欲望に捕らえられてしまうと、わたしたちの状態はイエスの姿を歪めた状態になり、わたしたちはイエスの姿を正しく伝えることが出来なくなってしまいます。
昨日、練馬で東京カトリック神学院開校式のミサミサが献げられ、わたしも参加しました。ミサの説教で菊地大司教は、いまわたしたちの教会は非常に危機的が状況にあると強調されました。それはいうまでもなく。聖職者によって引き起こされた性虐待事件のことを言っております。「わたしたちは本当に謙遜に反省し、真摯に罪を見詰め、心から悔い改めなければなりません。司祭の養成は生涯にわたって行われるべき課題です。・・・」と言っておられたと思います。
「神よ、深いふちからあなたに叫び、嘆き祈るわたしの声を聞いてください。」」本日の答唱詩編です。わたしたちは深いふちにおかれているのかもしれないのです。神のあがない、慈しみに信頼して、わたしたちを清め新たにしてくださるよう、祈りましょう。

 

 

信じる者はすでに永遠の命に入っている

四旬節第4水曜日ミサ説教

ヨハネの福音をわたしたちは読み継いでいます。
今日のみ言葉の中から次の箇所を選んでご一緒に味わいましょう。
イエスは言われました。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5・24)
信じる者は死から命へと移っているイエスは言います。何を信じる者かと言えば、「わたしをお遣わしになった方」つまり、天の父なる神です。

ヨハネの福音全体から言えば、「おん子を信じる者は永遠の命を得る」ということができます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14・6) とイエスは言われ、また
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしはその人を終わりの日に復活させることである」(ヨハネ6・40)「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6・47)
とイエスは言われました。
またさらにヨハネ福音書は述べています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・169
ヨハネの福音において「信じる」という言葉がキーワーズになっています。神を信じイエスを信じるということが実に大切であり、永遠の命に入るための鍵となっているのです。
さらに次の言葉の合わせて深く心に留めましょう。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17・3)
神を信じ、またイエスを信じることなくして、どうして神を知り、イエスを信じることが出来るでしょうか。

主イエスを信じる者はすでに神の命、永遠の命を受けている、とヨハネ福音は言っています。わたしたちは主イエス・キリストを信じています。したがってわたしたちの中には聖霊が注がれ、地上において既に、永遠の命が与えられ永遠の命が宿っているのです。わたしたちはお互いに、永遠の命を受けた者として互いに尊敬し、永遠の命への畏敬の念、畏れ敬う心を深くするように致しましょう。

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2019年4月 2日 (火)

イエスは何故抹殺されたのか?

四旬節第4火曜日ミサ説教
2019年4月2日、本郷教会


四旬節も半ばを過ぎました。わたしたちは主の受難と死、復活を記念する聖週間、復活祭への道を歩んでいます。
わたしたちは十字架に付けられて殺されたイエス・キリストを救い主と信じています。
何故イエスは殺されるようになったのでしょうか。四つの福音書はそれぞれ、その理由、経緯を告げています。
明日読まれる、今日の福音朗読の続きの箇所は次のように述べています。
「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」(ヨハネ5・17-18)
イエスは安息日を破る者であり、その上自分を神に等しい者にした、という理由で、ユダヤ人はイエスを迫害し、亡き者にしようとしたのです。イエスに敵対するユダヤ人の勢力と、当時ユダヤの国を支配していたローマ帝国の権力が結びついたことにより、イエスは処刑されて抹殺されました。
今日の福音は、38年間病気でベトサダの池の回廊に横たわっていた病人が、イエスに癒してもらった次第を告げています。彼が、床を担いであるいていたのは安息日を破ることにあたるとされていました。そのことをとがめられた彼は、
「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」
と答えて、そうしているのはイエスの言葉によるのであり自分のせいではなく、イエスのせいなのだ、と言っているように聞こえます。
「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。」
イエスへの感謝の言葉は見当たりませんし、イエスへの信仰告白の場面も見当たりません。
ともかくイエスは安息日を破る者とされて迫害されるようになりました。

ところで、次のイエスの言葉は不可解です。
「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」(5・14)
この言葉は果たしてイエス自身の言葉でしょうか。福音書編纂の過程で校正挿入された一文であると考える学者もいます。あるいは、もしかして、イエスが癒された病人の、感謝のない態度をとがめていることばでしょうか。
38年らいの病気を癒されたこの人は、さらに、「立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである」(5・15-16)とヨハネは述べているのです。
同じヨハネの福音の9章では生まれつき目の見えなかった人がイエスによって目が見えるようになった次第が告げられています。この話の中で盲人はイエスへの信仰を告白しています。
(ヨハネ9・38)参照)ヨハネの9章では明白に、イエスは「罪と病気・障がいとの因果関係」を否定しているからです。
「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」(9・3)

安息日を破ったイエスが迫害され処刑されたという受難の次第を深く黙想する時が来ています。
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第一朗読  エゼキエル書 47:1-9、12

福音朗読  ヨハネによる福音書 5:1-3a、5-16
(ユダヤ人の祭りの日に、)イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

2019年4月 1日 (月)

新しい天と新しい地

四旬節第4月曜日ミサ説教

2019年4月1日、月曜日、本郷教会

 

イエスがガリラヤのカナへ行かれた時のこと、王の役人の息子が死にかかっていました。役人はイエスのもとに来て、カファルナウムに来て息子を癒してくださるようにとイエスに願いました。イエスは「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われると、その人はイエスの言葉を信じて帰って行きました。帰る途中、迎えに来た僕から、「息子は回復した」という知らせを受けます。そして、その回復に向かった時刻が、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われた時刻と同じである午後一時であったと知るのです。

この挿話はわたしたちに何を語っているでしょうか。わたしにとって心に響く点は、役人がイエスの言葉を聞いてイエスの言葉が実現すると信じたということ、そして信じた時刻に息子が癒された、ということです。

復活祭があと三週間後となり、今日は四旬節も半ばを過ぎました。昨日は四旬節第4主日、喜びの主日と呼ばれ、喜びの色であるバラ色の祭服をつけることができます。昨日の入祭唱は

「神の民よ、喜べ。神の家を愛するすべての者よ、共に集え。悲しみに沈んでいる者よ、喜べ。・・・」

でした。これは復活祭の喜びをあらかじめ指し示す前触れと言えましょう。

今日の、息子の癒しの挿話は、復活への信仰と希望を深めるようにとわたしたちを招いていると思います。

 

今日の第一朗読、旧約のイザヤの預言の中で「新しい天と新しい地」という言葉が告げられていることに注目しましょう。

「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。」

預言者は、バビロン捕囚という厳しい体験を経たイスラルの民に、やがて大いなる喜びの時が訪れる、ということを預言しているのです。

新しい天と新しい地」という表現は、普通、黙示録が告げる終末の状態、神の創造の完成を示す言葉であると考えられ、葬儀の典礼の時にしばしば引用される言い方となっています。しかしすでに旧約聖書の時代、イザヤ書の預言において、このように重要な言葉として使われているのです。(黙示録21・21、のほかに、イザヤ65・22、二ペトロ3・13を参照) 

わたしたちの信仰と希望の中心は実に、主の復活にあります。わたしたちは主の復活の状態に挙げられ、復活の栄光に与る者とされると信じ希望しています。

 

わたしは昨日、宇都宮の松が峰教会で黙想会の講話を致しましたが、その際、「体の復活」ということをどう説明したらいいでしょうか、という質問がありました。

「体の復活」は再び地上の体に戻るということではありません。同じわたしの体が主の復活のようになる、ということです。

わたしたちは主の復活に与る者となり、病むことも疲れることもない、霊の体、復活の体に変えられる、と「体の復活」は教えています。

 

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第一朗読  イザヤ書 65:17-21

(主は言われる。)

 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ百歳に達しない者は呪われた者とされる。彼らは家を建てて住みぶどうを植えてその実を食べる。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 4:43-54

(そのとき、イエスはサマリア)を出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。

イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

 

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