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2019年5月

2019年5月30日 (木)

ノヴェナの祈り

復活節第六木曜日 ミサ説教

2019年5月30日(木)、本郷教会

 

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」とイエスが言われたことについて、弟子たちはその言葉の意味がわかりませんでした。
さらにイエスは言われました。
「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
今日はちょうど聖霊降臨祭の10日前にあたります。
復活節を過ごしているわたしたちは、既に主の復活という信仰の中心を与えられています。
イエスは人々のために、わたしたちのために苦しみを受け、父のもとへと去っていかれましたが、そのイエスを天の父はよみがえらせ、そして弟子たちのもとへと復活したイエスを出現させてくださいました。そしてイエスは40日間にわたって弟子たちにお現れになり、そのあと40日目に天の父のもとへと帰っていかれたのでありました。
「わたしを見なくなる」というのは何を意味しているのでしょうか。
イエスが十字架の刑にかけられることを言っているのだと思われますが、「しばらくするとわたしを見るようになる」とも言われました。それはイエスの復活を意味していると思われます。わたしたちはイエスが復活し、そしてさらに弟子たちに聖霊を注いで教会を誕生させたことを知っています。
地上のイエスの生涯は終わりましたが、イエスは聖霊の派遣を通して、いつもそしていつまでも弟子たちとともにいてくださいます。わたしたち教会はこの救いの歴史の中に置かれています。
教会は聖霊の派遣をうけた神の民であり、わたしたちもその神の民に属しています。
地上の困難な現実の中で主の復活を信じ、そして地上において主の復活の恵みに与ることをさらに深く信じ、聖霊の恵みに感謝しながら、イエス・キリストの復活の証人とし共に歩んでまいりましょう。
ところで今日は「ノヴェナの祈り」というお祈りをしたいと思います。例文を用意いたしました。ミサの終わり拝領祈願のあと、ご一緒に唱えていただけるとありがたいと思います。

 

――
ノヴェナの祈り2019年
慈しみ深い父よ、
聖霊降臨祭を前にして祈ります。
どうかわたしたちに聖霊を注ぎ、聖霊に従って日々歩む者にしてください。
「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の聖霊の実りを豊かに証しすることができますように。
主キリストによって。アーメン。

 

2019年5月27日 (月)

霊の実り

 

復活節第六月曜日 ミサ説教

2019年527()、本郷教会

 

わたしたちは昨日復活節第六主日を祝いました。今年の典礼歴によれば、復活祭は421日でした。従いましてそれから50日後の聖霊降臨祭は69日であります。

聖霊降臨の10日前が主のご昇天の日であります。日本の教会は昇天の日を聖霊降臨の一つ前の主日に移しております。

本来、昇天と聖霊降臨の間には10日間がありました。

そしてこの10日間、弟子たちはマリア様と一緒に聖霊が降ることを求めてお祈りしたと考えられますので、この10日間わたしたちも特に聖霊の賜物、聖霊の実りを祈り求めたいと思います。

 

昨日の典礼でわたしたちは最初の教会が直面した重大な問題、割礼について聖霊の導きによって彼らが決定したということを聞きました。

聖霊は教会の誕生以来わたしたちを教え導き、そして今もわたしたちの中で働いています。

聖霊がどのように働いているかどうかは、わたしたち自身が毎日どのように生きているかということによって明らかにされます。

「霊的生活」という言葉がありますが、「霊的生活」というのは霊に従う生活です。

霊とは神の霊で、聖霊であります。

聖霊に従って生活しているかどうかが、キリスト者にとって最も大切なことであります。

使徒パウロはガラテアへの教会の手紙の中で、霊の実りということを言っています。

「霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

霊に導かれていない生き方は「肉の業」と言われています。

「肉の業」がどういう結果をもたらしているかというと、沢山の項目があげられていますが、

わいせつとか敵意、争い、そねみ、怒り、不和、泥酔そういうことが肉の業であると言っています。

霊に従って生きている者は次のような霊の結ぶ実りが与えられていると述べています。

それは次の9項目であります。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であります。

 

わたしたちは毎日聖霊の導きを祈るべきですけれども、特に聖霊降臨前の期間、間が9日ありますので、昔からノベナNOVENA 9日間の祈りと言われてきました祈りを献げて聖霊の賜物が豊かに与えられるようお祈りいたしましょう。

そして自分にもっとも必要な聖霊の実りは何であるのか、この9項目、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、すべて必要であり大切でありますが、特に自分にとって何が必要であり大切であるかということをそれぞれ考えて祈り求めるようにしたいと思います。

 

2019年5月26日 (日)

現代の緊急課題は何か

復活節第6主日C年 説教

2019526日(日)、本郷教会

 聖霊降臨の祭日まであと、二週間となってきました。

イエスは世を去る前に、弟子たちに言われました。「弁護者すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

復活したイエスは、弟子たちに聖霊を注ぎ、聖霊を通して弟子たちを教え、導きました。聖霊の働きによって、ユダヤ人の世界からギリシャ人の世界、さらに、その外の世界へとイエスキリストの福音は述べ伝えられたのであります。

その教会が最初に直面した大きな問題が、「割礼」ということでありました。「割礼」というのは何かというと、 神がアブラハムと契約した時の印であって、男子の性器に傷をつけるという、ちょっと解りにくいことでありますが、それを、すべてのユダヤ人は実行しなければならなかったのであります。

そこで、ユダヤ人でない人が、つまり、異邦人が、イエス・キリストの福音を信じてキリスト教徒になるときに、割礼を受けなければならないのか、受けなくてもよいのかということが大問題となったのでありました。

激しい議論の末に出た結論が、その必要はない、ということでありました。使徒たちは各地に手紙を送りました。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切、あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に捧げられたものと、血と絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです」。

ここで、はっきりと使徒たちが自信を持って述べていることは、これは聖霊による結論であるということであります。その結果、使徒言行録が告げておりますように、イエスの福音は、ギリシャの世界から、さらに、その外の世界へと広がり、ついにはわたしたちの国にまで伝えられるようになったのでありました。 

さて、聖霊は、十二使徒、そして使徒言行録の弟子たちにだけ働いたのではなくて、それから後の教会、わたしたちにも、この日本の教会にも、この本郷教会の信者にも同じように働いてくださっているのであります。

最初の教会の大問題が「割礼」を受けなければならないかどうかということでありましたが、その問題は今は無い。それでは、今のわたしたちにとって何が問題であるのか。わたしたちは、様々な問題の中で、何を優先的に取り上げて、取り組まなければならないのでありましょうか。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」とイエスは言われました。そして、さらに、イエスは((次の日曜は主の昇天の祭日になりますが)天の父のもとに上るときに弟子たちに宣教の命令を残された。

「あなたがたは行って福音を述べ伝え、すべての人をわたしの弟子にしなさい。」

ですから、イエスがわたしたちに残されたご命令は、

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

そして、「全世界に言って福音を述べ伝え、すべての人を弟子にしなさい」、ということに集約されます。

考えてみれば、この二つのことは結局同じことになると思います。イエス・キリストの弟子とはどんな人であるかというと、それは、イエスが生きたように生きている人、少なくとも生きようと努めている人であり、イエスが弟子たちを愛して、命を捨てたように、互いに仕えあい、尊敬しあい、赦しあい、愛し合う人たちであるということでありまして、そうしているかどうかによって、イエスの弟子であるかどうかが判定されるということになるのであります。 

これは、先週申し上げたのですが、さて、二千年前の教会にとって最大の問題が「割礼」ということでありましたが、今のわたしたちにとって、何が問題であるのか…、わたしがずっと、感じてきたことは、今のこの、日本の社会において、人々が精神的に、非常に行き詰っている人が多い。自殺する人もいれば、行方不明になる人もいます。肉体的に病気になる人はもちろんいるし、何の問題もないという人はいないかもしれないが、精神的に孤独である、そういう人たちのためにわたしたちは何をすることができるだろうか。この本郷教会が暖かい、潤いのある、安らぎのある交わりになるようにと努めてきましたが、まだ、道は遠いように感じています。 

この広い世界の中で、たった一人でも自分のことを唯一無比の存在として、比べることのできない大切な存在として認めてくれる、受け入れてくれる人がありましたら、わたしたちはどんな困難があっても生きることができるし、ほかの人にも優しくすることができるのではないだろうか。わたしたちの中にそのようなイエス・キリストの生き方がどの程度実現しているのか、いや、実現していると思います。もっとその輪を広げることができますよう祈りたいと思います。

―――

1朗読 使徒言行録151-2,22-29

2朗読 黙示録 2110-14,22-23

福音朗読 ヨハネ1423-29

 

心と体の健康をお与えください

聖母マリアの土曜日のミサ

2019525()、本郷教会

 

 今日は5月中の土曜日であります。以前、土曜日にはたびたび聖母マリアのミサが献げられました。そして5月は聖母の月とも呼ばれています。531日最後の日は、マリアのエリサベト訪問の日となっています。(絵を示して)

これは、マリア様がエリサベトのところに山を越えて出かけていく場面であるそうです。

どうやって行ったのかと思っていたのですが、このようにして行ったという伝説があるようであります。

集会祈願でわたしたちは、「たえず心と体の健康をお与えください。」と祈りました。

先日も病者のためのミサを献ましたが、誰にも必要なことは心と体の健康であります。

心の健康というものは、どういうものであろうか。わたしたちの住んでいるこの社会、それからわたしたちの所属しているカトリック教会という団体の現状を見ますに、体の健康が必要なことは言うまでもないのですが、心の健康ということが大きな課題ではないだろうかと思います。

わたしたちの教会で、聖職者による性虐待事件というものが大きな問題として、世界中で報道されております。これもわたしたちの中にある不健康な、病んでいる部分の現れであると思います。

さらに、この人間と人間の関係におけるいろいろな問題、特に女性と男性 男性と女性の間に起こっている痛ましい非常に耐え難い問題・事件等があります。

教会の中にはないが、世間にあるというわけではなくて、教会の中にもあるのです。わたしたちは、本当に根底から癒しを受けなければならないのではないかと痛感しています。

カトリック教会は聖職者が男性に限定されており、夫権制・男性中心の組織ですが、かろうじて聖母マリアへのデボーションdevotion、崇敬・信心というのがあって、何とかバランスをとってきました。女性を尊敬し、女性に対して献身する、という気持ちを大切にするという伝統があり、それは聖母への崇敬と一つに結びついていたと思います。

現代それがどうなっているのか、本当に緊急の課題ではないかと思うのであります。

本当に(自分は)何も出来ないが、その問題を見つめながら、わたしたちが心と体の健康に恵まれますように、特に自分自身の中にある心の問題に気がつき、そしてそれを克服することができるように、聖母マリアのとりつぎを願って祈りたいと思います。

 

 

 

 

2019年5月24日 (金)

聖霊による決定

復活節第五金曜日 ミサ説教

2019年5月24日(金)、本郷教会

使徒言行録を続けて読んできております。

今日15章でエルサレムの使徒会議の結論が伝達されました。

割礼についての論議が為され、その結論が出たのでありましたが、結論はご承知の通り、割礼はもはや必要ではないということでありますが、使徒たちは結論を文章にして送付することにしたのでありました。

その文章の中で、次のように言われている事に注目したいと思います。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」

聖霊によって決定した、ということを言っております。

イエスが地上を去った後、聖霊が使徒たちの上に降り、聖霊の導きによって教会が発展してきました。

こんにちの教会もその延長の上にあります。

全ての人に聖霊の賜物が与えられており、何を為すべきかを聖霊が教えてくださるとわたしたちは信じているのであります。

 

まもなく聖霊降臨の祭日を迎えますが、聖霊が豊かにわたしたちに与えられるようにお祈りいたしましょう。

 

――

第一朗読  使徒言行録 15:22-31

(その日、)使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:12-17

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

2019年5月23日 (木)

永遠のいのち

復活節第四木曜日 ミサ説教
2019年5月16日(木)、本郷教会

 

イエス・キリストは誰であるのか、ということが、わたしたちの信仰の重要な課題、問いかけ、となっています。わたしたちは、イエス・キリストは救い主であり、永遠の命を与えてくださる方である、と信じています。イエス・キリストがわたしたちに永遠の命を与えることができるのは、父である神から遣わされた方であるからであります。

 

今日の福音でイエスは、「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われました。
さらに、「わたしと父とは一つである。」(10・30)とも言われています。
ですからイエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストを遣わした天の父を信じる者であり、イエス・キリストを受け入れる者は、イエス・キリストを遣わした神を受け入れる者であるということになる。

ところでヨハネの福音は,たびたび永遠の命ということを言っています。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17・3)とあります。
この命という言葉ですが、「永遠の命」という時に、「ゾエー・アイオニオン」と言います。もう一つ命に当たる言葉があって、それは「プシュケー」という言葉であり、これは地上の生命、やがて終了する地上の生命を指しています。ヨハネの福音ではイエスを信じる者はすでに「永遠の生命」に移されている、と教えていますが、この場合は「プシュケー」ではなく「ゾエー・アイオニオン」を指しています。ただし、その永遠の生命が決定的になるのは地上を去ってからである。すでに永遠の命を受けているが、まだ永遠の命には不確定な部分があるという意味でしょうか。
イエスを信じる者は永遠の命を受けている。昔の言葉で言えば「超自然の命」を受けているのであります。

2019年5月22日 (水)

イエスに留まる

 

復活節第五水曜日 ミサ説教

2019年5月22日(水)、本郷教会

今日の二つの朗読は非常に重要な事を述べております。

第一朗読、使徒言行録15章は、エルサレムで使徒たちの会議が開かれたことを述べています。その議題は割礼をキリスト教に改宗したものにも受けさせなければならないかどうかということでありました。結果はご存知のように、その必要はないということになったのであります。

福音の朗読も非常に重要な箇所で、ヨハネ15章「ぶどうの木のたとえ話」であります。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

 

イエス・キリストの教え、そしてわたしたちキリスト者の生き方は、この聖書の言葉によって明確に示されています。

キリストにつながっている人はキリストの心を生きる人であり、たとえキリスト教徒と名乗っていてもキリストの心を実行しないならば、真にキリスト教徒であるとは言えないことになります。

少し古いことになりますが、教皇フランシスコが「いつくしみの特別聖年」を宣言し、人々に神の慈しみの業を行うように勧められました。

それは、次のような項目を実行することでありました。

・飢えている人に食べ物を与える。

・渇いている人に飲み物を与える。

・着る物のない人に衣服を与える。

・宿のない人に宿を与える。

・病者を訪問する。

・受刑者を訪問する。

疑いを抱いている人に助言をすること。

・無知な人に教えること。

・罪びとを戒めること。

・悲嘆に暮れている人を慰めること。

などであります。

 

さて、今のわたしたちの社会の中で最も必要で大切な慈しみの業とは何でありましょうか?

わたくしが個人的に心配していること、個人的に強く感じていることは、この大都会において、大都会でなくとも変わりないのかもしれませんが、少なからぬ人々が孤独であり生きる意欲を奪われているという現実があることであります。すなわち、自死者、あるいは行方不明になる人が多いということです。一人ひとりの人間の尊厳が認められ、尊重され、大切にされる社会を建設することが最も求められていることではないでしょうか。

何を為すべきか、はこのように明確に示されていますが、もう一つ大切なことは、ではわたしたちが日々どのように信者として生きたならば、そのような愛、慈しみを実行する信者に変えられるのか、実行できる信者に変えられるか、ということであります。

 

愛、喜び、平和

 

 

復活節第5火曜日ミサ説教

521日、本郷教会

 

 イエスは御自分がこの世から父のもとへ移される時が来たことを知り弟子たちに様々なことばで遺言を残されました。その中に今日の福音の言葉があります。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」

これは司祭がミサ中の交わりの儀、聖体拝領の前にいつも唱えている言葉です。「平和」はわたしたちにとってもっとも大切なことであると言えましょう。聖霊がわたしたちに与える賜物のなかに「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ1122)とが挙げられています。その中に「平和」が挙げられています。わたしたちは、いろいろな意味でいろいろな次元で「平和」を求めています。そのなかでも最も大切な「平和」は神との平和ではないでしょうか。もちろん、「隣人との平和」とか「自然との平和」が大切ですが、神との平和が非常に大切であると思います。それは神との関係における平和、神との関係が良い状態にあるという意味での平和であり、神から罪の赦しを頂いている状態であります。復活したイエスが弟子たちにあらわれて言われた第一声は「あなたがたに平和があるように」でありました。弟子たちは主を見、主の声を聞いて非常に喜びました。彼らは罪の赦しを受けたこと、イエスから受け入れられていることを知って喜び、心は平和で満たされたのであります。

どんな状況にあってもだれにも奪われない平和、この平和を大切にいたしましょう。

 

 

聖霊の時代

復活節第五月曜日 ミサ説教

2019520()、本郷教会 

今日は520日であり、聖霊降臨の日が69日でありますので、聖霊降臨まであと3週間となっております。今日の集会祈願で祈りましたが、わたしたちは約束された聖霊を待ち望みながら祈りを続けております。

聖霊が人々の上に降って、イエスの教えたことをすべて思い起こさせ、そしてさらにイエスの与えた新しい掟を実行することができるようにしてくださいました。

昨日の主日のミサの福音朗読でありましたが、イエスは教会に新しい掟を残されました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

ひとびとは、イエスの弟子たちが互いに愛し合っている様子を見れば、イエスの弟子であるということを知ることになる。

もしそうしていなければイエスの弟子であるということを認めないだろう、という意味でありました。

聖霊降臨の出来事からもう二千年経っており、いまわたしたちは聖霊の時代を歩んでいます。イエスは地上をさりましたが、その前に言われました。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

イエスは聖霊をわたしたちに授けられました。イエスは何時も聖霊を送り、この世にあるわたしたちがいつも聖霊によって歩むことができるよう導いてくださいます。いまわたしたちは聖霊の導きの時を過ごしているのです。

わたしたちが聖霊の導きに忠実に従うことによって、イエス・キリストの弟子であることをあらわすことができますように、お祈りいたしましょう。

 

――

2019年5月19日 (日)

イエスの弟子であるかどうかは何でわかるか?

2019年5月19日(復活節第5主日)

岡田武夫大司教説教,カトリック本郷教会

第一朗読:使徒言行録 14:21b-27

第二朗読:ヨハネ黙示録 21:01-05a

福音朗読:ヨハネ 13:31-33a, 34-35

「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合いなさい.互いに愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,皆が知るようになる」と,イエスは言われました.

イエスは,天の父のもとに昇るときに,弟子たちに宣教の命令を残されたのであります.「あなたがたは,行って,福音を宣べ伝え,すべての人をわたしの弟子にしなさい」と言われました.「わたしの弟子をつくりなさい」と言われたのであります.

キリストの弟子とはどんな人であるのかと言いますと,今日のヨハネによる福音が言っておりますように,互いに愛し合う人,イエスが弟子たちを愛したように互いに愛し合う人が,キリストの弟子であります.人々が見て,互いに愛し合っている様子を見て,ああ,この人たちはキリストの弟子である,ということが知られるようになる,と言っております.ですから,愛し合っているかどうかということが,キリストの弟子であるかどうかを判断するための基準となっています.

教会の使命は,イエス・キリストが残された命令を実行することであり,それは,福音を宣べ伝えること,そして,イエス・キリストの弟子をつくることであります.わたしたち本郷教会も,そのような使命を受けているのであります.そして,イエス・キリストの教え,それは「福音」という言葉で要約できますが,福音を宣べ伝えるということと同時に,イエス・キリストの御命令,新しい掟を実行することであります.この新しい掟は,まず,わたしたちのなかで実行されなければなりませんが,さらに,このわたしたちの枠を超えて,外に向かって広がって行かなければならないのであります.そこで,皆様に問いかけたい.いっしょに考えたい.わたしたちを見て,「そこにイエス・キリストがおられる」,「イエス・キリストの愛がそこにある」,「彼らはまさに,本当に,イエス・キリストの弟子である」と認めていただけるためには,わたしたちがどうでなければならないのか,どういうことは避けなければならないのか,どういうことをもっと実行しなければならないのか,そういうことを御いっしょに考え,求めて,追求して行きたい.わたしたちは,どう変わらなければならないのか,どういうことはやめなければならないのか,ということを,御いっしょに考える.話し合い,そして,祈り求めて行こうと思い,そのように皆様にお願いし,提案いたします.ヨハネの黙示は,新しい天と新しい地が現れた,ということを言っている.「天と地」という言葉は,世界を表している,と思います.すべてが刷新され,新しくなったときに,神の御こころが完全に行われている状態が,実現します.今は,まだそこに向かっている途中であります.ですから,わたしたちの共同体も,わたしたちひとりひとりも,神の御こころにはかなわない部分があることを,わたしたちは,謙遜に,率直に認めなければならない.そして,お互いにそうであることを踏まえて,それでもどうしたらそういう問題を克服できるのか,ということを,祈りのうちに求めて行きたいと思います.

ここで聖ヨハネ・パウロ II 世教皇は紀元二千年を迎えるときにおっしゃったことを思い出すことは,たいへん有益ではないか,と思います.千年という単位で,教皇様は,教会の過去を振り返って,反省をするように促しました.この千年間に反省すべきことは多々あるが,特に,わたしたちの間に分裂が生じたということがひとつ;それから,真理への奉仕という名のもとに暴力を使ってしまったこと;それから,基本的人権が侵害されるのを見すごしたということ,それら三つを挙げているのであります.ちょっと話が大きすぎますけれども,そのようにおおげさなことを言わなくても,わたしたち本郷教会,東京教区,あるいは,せめて日本の教会として,どうしたらよいのか,ということを,これから御いっしょに祈り求めて行きたい,と思うのであります.

 

2019年5月17日 (金)

父の家には住むところがある

復活節第四金曜日 ミサ説教

2019年5月17日(金)、本郷教会

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とイエスは言われました。

イエスは天の父への道であります。イエスという案内人によって、わたしたちは天の御父の許へ行くことができます。

イエスはすでに、あなたがたのために父の家には住む所がたくさん用意されているのだと言われました。もしなければ用意しに行くと言ったでしょうが、もう用意されている、そう言われたのであります。

わたしたちはイエス・キリストを救い主として信じています。イエス・キリストによってわたしたちは「永遠の命」にいたることができる。

何度も申し上げますが、「永遠の命」ということばがヨハネの福音のキーワードとなっています。「永遠の命」とは、唯一のまことの神である父である神あなたと、わたしイエス・キリストを知ることである(17・3参照)とイエスは言われました。

わたしたちは今、案内人であるイエス・キリストに導かれて、天の御父の許へ赴く旅をしているのであります。

この父である神への旅に多くの人が加わっていただき、手を携えて「永遠の命」に入ることができますよう、お祈りいたしましょう。

 

 

2019年5月16日 (木)

至らない自分を愛する神

復活節第四水曜日 ミサ説教
2019年5月15日(水)、本郷教会

わたしたちは、ヨハネによる福音を続けて読んできました。
ヨハネの福音は、わたしたちに分かり難いと思われる表現もあります。
このヨハネの福音を、今わたしたちはこの日本という国でどういうように伝えたらよいだろうか。
わたしたちキリストの弟子の使命は、イエス・キリストの福音を宣べ伝えること、イエス・キリストの弟子をつくることであります。ヨハネの福音の「福音」というのはなんであるかということをわたしたちは日々深めて、そしてその「福音」を信じ、その信仰に従って毎日生きているし、ますますそうしなければならないと思います。

今日のアレルヤ唱で、「わたしは世の光。わたしに従う人はいのちの光をもっている。」と言われています。
光であるイエス・キリストを信じて、イエス・キリストを受け入れるという時に、具体的にわたしたちはどう変えられるのだろうか、あるいは変えられたのでしょうか。

光というものは、まわりを照らすものであり、わたしたちを照らす、わたしたちの心を照らします。
そうすると、わたしたちの心があからさまにされるわけでして、そのことに耐えられない、そうされたくないという思いが、人々の心の中に、わたしたちの心にあるのではないだろうか。
そうなっても構わない、あるいはそうなっても自分は受け入れられる、赦され、ますます大切に思っていただけると思うならば、光を受け入れることに困難がないどころかそこに大きな喜びがあると思います。

誰しも自分を振り返れば、自分の心を覗いてみれば、そこにはあまり人に知られたくない恥ずかしいこととか、嫌なこととか、惨めなことがある。
そういうものがあっても、変わりなくあるいはそれ以上に自分を大切に思ってもらえる、そういう信仰があれば、光を受け入れることに困難はない。

ヨハネの福音、それからヨハネの手紙を通して繰り返し言われていることは、「神は愛です」ということですね。
神は愛ですということは、罪びとである、不完全な人間である、不完全な存在である自分を、かけがえのない価値のあるものとして神が認めてくださる、受け入れてくださるということを意味していると思います。

 

2019年5月14日 (火)

なぜ神は人となったか?

 

復活節第四火曜日 ミサ説教

2019514日、本郷教会

 

 今日は使徒マチアの祝日であります。マチアはユダの後継者として選ばれました。

 

さて、今日のヨハネによる福音でイエスが言われたことをご一緒に黙想したいと思います。

「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と言われました。イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と言われました。

「わたしがあなたがたを愛したように」とは、どのように愛することでありましょうか。

昨日の福音で、「わたしはよい牧者、わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている。」というアレルヤ唱を黙想いたしました。よい牧者としてイエスは羊を愛した。羊を愛するということは、羊をよく知っている、羊のことに深い関心を持っている、ということだと思います。

旧約聖書にエゼキエルの預言という預言書があります。ここでよい牧者とはどういう牧者であるかということが述べられていて、自分の羊を養う牧者であると言われています。

逆に羊ではなく自分を養う牧者が非難されているのであります。よい羊飼いは自分の羊を養うのであります。そして、羊のことをよく知っており、その羊に名前をつけて、その羊をほかの羊とは違うかけがえのない存在として、大切にするのであると言われています。

確か聖アタナシオの日に申し上げたのですけれども、神の愛というのはどういう愛であるかというと、愛されている人が自分だけが愛されているように感じる愛、そのような愛ではないかということでした。これはどういう意味だろうかと皆さんに投げかけたのであります。

神は一人ひとりを愛する、しかしすべての人を愛する、この間に矛盾はないでしょうか?

話は飛びますけれども、聖イレネオという有名な聖人がいます。神が人となったのは、わたしたちすべての人を神の子とするためである、と言われました。

わたしたちはすでに神の似姿としてつくられていますが、罪のために神から離れている部分があります。わたしたちは神を求め、神を慕っているのです。神はわたしたち人間はご自分の子であるので、ご自分の子をもっと自分のところに引き寄せるためにおんひとり子を遣わされた。

宗教という言葉ですけれども、religioレリジオ、と言いますが、これは再び繫ぐという意味です。神が御子を遣わされたのは、神と人間との間にある距離、ギャップを埋めるため、人間を自分のところに引き寄せるためであります。

 

 

わたしはよい牧者

復活節第四月曜日ミサ説教
2019年5月13日(月)、本郷教会

本日のアレルヤ唱は、「わたしはよい牧者。わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている」であります。
昨日の復活節第四主日のアレルヤ唱も同じ言葉、「わたしはよい牧者。わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている」でありました。
イエスはご自分をよい牧者であると言われます。
羊を飼うという仕事について、わたしたちの環境では実感を持つことが難しいのではないかと思いますが、羊飼いの仕事と言うのは大変骨の折れる難しい仕事であるそうです。場合によっては、羊飼いは自分の羊のために命を賭けます。
羊飼いは羊の一匹一匹、羊を全部良く知っていて、羊に名をつけたりするのだそうです。
羊飼いは自分の羊を良く知っている。そして羊のほうも自分の羊飼いを信頼し、羊飼いの声に聞き従う。
羊飼いと羊の間には、そういう親しい深い信頼の関係があるのであります。

今日の福音ではさらに「わたしは羊の門である」と言われました。これはどういう意味なのでしょうか。
「わたしを通って入る者は救われる」と言われました。
そこで思い出されるイエスの教えは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしによらなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・5)というイエスの言葉であります。そこで「わたしは羊の門である」は、イエスという門を通らなければ救いに達することはできないという意味ではないかと思います。

イエスがよい牧者であるという教えを何度も聞きながら、牧者の仕事はなんであろうかと考えます。
旧約聖書では王という人たちが牧者に相当する者でありましたが、歴代の王たちのほとんど大部分は良い牧者であるかどうかという審査について、落第であるという点数をつけられているわけであります。(サムエル記上下、列王記上下、歴代誌上下を参照)
王で有名な人はダビデ、ソロモンなどでありますが、羊のために心を砕き病める者弱い者をいたわり助ける牧者の務めを忠実に果たした人は、あまりいなかった。
わたしたちの新約の教会における牧者はどうであろうか。
今日はこの課題を黙想したいと思います。

 

2019年5月12日 (日)

大安心である

復活節第4主日 世界召命祈願の日

                                                                                                                               2019512日、本郷教会

説教 

ヨハネの福音は永遠の命ということを強調しているように思われます。神は御子イエス・キリストをわたしたちのところお遣わしになりました。それは、御子イエス・キリストを信じる者が永遠の命に入るためであります。神のみ旨は、すべての人が救われること、すべての人が永遠の命を得ることでございます。

それでは今日の福音をご一緒に味わうように致しましょう。

今日の福音の中で「わたしは彼らに永遠の命を与える」と主イエスは言われます。そして、「彼らは決して滅びない。」「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」「だれも父の手から奪うことはできない」と、繰り返し言われている。天の父とイエス・キリストは一つであるとはっきりと言われています。父の望むことはイエスが望むこと、イエスの行うことは父がお望みになることであります。

そして、父も御子も、同じことを、すなわち、すべての人が救われることを望んでいる。すべての人の救いということが強調されていると思います。そして、イエスは、すべての人が救われるために遣わされた「良い牧者」であります。

すべての人が救われるために、牧者は自分の命すら惜しまない。事実、イエスはすべての人の救いのために命を捨てられ、十字架に架かってくださったのでありました。イエスは命がけでわたしたちの「命」を守ってくださるのであります。

この命を、ヨハネの福音は「永遠の命」と言っています。わたしたちの地上の生命には終わりがありますが、「永遠の命」とは、天の父のもとで永遠に安らぎ、すべての天使、聖人と一緒に神に感謝し、神を賛美することのできる、そういう状態に入ることではないでしょうか。今日のヨハネの黙示がその様子を伝えています。

使徒言行録における宣教はすべての人を永遠の命に導くという、そこを目指す宣教でありました。

さて、きょうの福音で、さらに「アレルヤ唱」でも言われておりますが、「わたしは良い牧者、わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている」。牧者と羊の間には、非常に親しい交わりがあるべきであります。イエスの羊になれば、イエスはその羊をだれにも奪われないように守り、導いてくださる。「わたしは良い牧者である。羊のために命を捨てる」、そう言われております。そして、「羊は牧者の声を聞き分け、牧者に従う」のであります。「聞き分ける」というように訳されていますが、これは良い日本語です。羊は牧者の言うことを「聞き分ける」のであります。牧者でない人のいうことは聞かないわけですね。この「聞き分ける」ことが求められているのです。そして、聞いて、従うことが求められている。

聞き従えさえすれば、どんなことがあっても牧者は命がけで羊を守ってくださるので、もう「大安心」であるというメッセージではないでしょうか。

わたしたちは牧者に導かれる羊であります。牧者が何を言ってくださるのか、毎日聞き分けながら、しかし、安心して、牧者に聞き従うようにしたいものである。

きょうは、「世界召命祈願の日」であります。「召命」とは、自分に向けられた神の呼びかけを聞いて従うことなのです。特に、若い人に自分の召命について考えていただきたいという日であります。

神の声に聞き従うということは、場合によっては「冒険」であり、「勇気が必要」である。しかし、人生にはリスクが伴うわけでありまして、自分のすべてを神様にお委ねする人生は本当に素晴らしい人生ではないかと思います。

もう、若くないわたしたちであっても、残された人生は貴重であります。与えられた年月をすべて神様に委ねて生きることができますよう、祈りましょう。

 

あなたをおいて誰のところに行きましょう!

 

復活節第三土曜日

2019年5月11日(土)、本郷教会

 

ヨハネの福音の6章を、毎日ミサの福音朗読として読み継いできました。

6章全体が、わたしたちがご聖体として信じているイエスの教えの説明であると、多くの人が理解しております。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」

昨日の福音でそういわれました。この言葉に多くの人たちは躓いた。

なんてひどい話だ、野蛮な話ではないかと、彼らは到底受け入れられないと思ったのであります。

この時までイエスに付き従ってきた多くの弟子たちも、この期に及んで多くの人がイエスから離れて行きました。

最後に十二人が残った。

あなたがたも離れていきたいか」とイエスが十二人に問いますと、ペトロが答えました。

「主よ、わたしたちは誰のところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

このペトロの言葉から、わたしたちのミサの聖体拝領の時に祈る言葉が採られています。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」とわたしたちは唱えているのであります。

ご聖体をいただくときに、わたしたちは毎回 信仰告白を迫られています。

司祭がご聖体を人々の前に示して、そしてこのご聖体に対する信仰を確認するように求めている。

毎回のことなので慣れてしまってあまり深く考えないかもしれませんが、今日このヨハネの福音の文言に出会ったわたしたちは、改めてご聖体をいただくというのはどういうことか、ということを考えなければならないと思います。

「あなたは神の子キリストです、わたしはいつまでもあなたに付き従います。」

そういうように宣言するわけです。

もっとも、そのように言ったペトロも、御承知のようにイエスの受難に際し、臆病風に吹かれて、ついイエスのことを三度も知らないと言ってしまいました。

そうではあっても、イエスの眼差しに涙を流し、そして最後には命を献げてイエスに従うという決心を全うしたのでありました。

わたしたちの場合どうだろうか。

わたしたちも洗礼を受け、堅信の秘跡を受け、あるいはその他の秘跡、司祭・司教であれば叙階の秘跡を受け、そのたびに固い決意を表明しているわけであります。

「わたしはあなたに従います。」

この「従います」という決意の背景には、わたしはあなたにこれこれの使命を授け、そしてその使命を遂行するに足る恵み・光・支え・力を与えますと、だからわたしについてきなさいと、そういわれたということがあるわけであります。

明日の主日は世界召命祈願の日であります。召命のために祈る日であります。

教皇様のメッセージを読みますと、特に若い人に向けての呼びかけがあります。

世界青年大会のパナマ大会という非常に大切な出来事が教皇様の念頭にあります。

日本からも青年が参加したわけであります。

この召命について、教皇様がいっていることでわたしの心に強く響くのは、青年に向かってですね、この《リスク》ですね、危険、リスクを恐れないでくださいと言われたことです。

人生にはリスクがあるわけです。人生は決断であります。選択であります。

こうしたらああなる、ああしたらこうなると、いつまでも決められない。

わたくしも若い時そうだったんですけれども。ああかな、こうかなと考えてばかりいて、まったく怖気づいてしまって。

人生はリスクなんですね、賭けるわけです。

そして何が起こっても誰のせいにもしない。

自分が選び取り、自分が生きた人生である。

それは素晴らしいことだと思う。

そうできる根拠は、「わたしはあなたと一緒にいます」という主イエス・キリストの約束なのです。

おとめマリアがお告げを受けた時に、大変躊躇した。

しかし神の言葉「あなたは救い主の母となる」、そして「あなたは聖霊によって覆われる」。

この神のご保護を信じ、それがどんなに危険なことであっても、わたしは仰せのようにいたします、お言葉の通りこの身になりますようにという、大変危険な賭けを引き受けたわけであります。

 

人生は危険な賭けである。

しかし、賭けをしないで終わる人生は大変不満足なものに終わると思います。

 

第一朗読  使徒言行録 9:31-42

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 6:60-69

(そのとき、イエスの弟子たちの多くの者は)言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 

2019年5月10日 (金)

パウロの回心

復活節第三金曜日 ミサ説教

2019年月5月10日(金)、本郷教会

 

ユダヤ人たちはイエスの言葉に躓きました。

「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのかと、互いに激しく議論し始めた」のでありました。

彼らはイエスの言葉の真意を理解することができなかったのであります。イエスの言葉を文字通り受け取ると、どうしても理解することができない。イエスが自分の肉を食べさせると言った時に何を意味していたのか、ということが大切であります。

わたしたちはご聖体への信仰をいただいております。イエスのこの言葉は、聖体のことを意味していると、わたしたちは知っている。

しかし今、ミサのたびにいただいているご聖体を、どういうようにわたしたちは信じているのか。イエスを信じるということと、ご聖体をいただくということの間に何があるのか。

イエスとご聖体。イエスご自身であるご聖体への信仰を深めて頂けるよう祈りましょう。

 

わたしたちは使徒言行録を読んできておりますが、今日は特に有名な「パウロの回心」の

次第を告げる箇所であります。「パウロの回心」の話は、同じ使徒言行録の中で三度も出てきます。しかし、パウロ自身はパウロの手紙の中では直接このダマスコ途上での出来事を述べていません。しかしルカによる使徒言行録は同じ出来事を三度も語ります。三度とも、復活したイエスから突然一方的にパウロに語りかけられ命じられたという出来事として描かれています。

そして、このサウロが回心するためには、一人の使徒アナニアという人が重要な役割を担っています。アナニアなくして使徒パウロの誕生はあり得ませんでした。アナニアがサウロの上に手を置いて祈りますと目からうろこのようなものが落ちてパウロは見えるようになりました。頭の上に手を置いて祈るという所作は、ミサの時司祭がおこなっている按手と同じ動作であります。按手すると聖霊が降り、サウロは目が見えるようになったのです。按手は聖霊が下ることを現しているのです。

唐突な回心のように描かれていますが、もしかしてサウロは、キリスト教徒を迫害するということをしながら、少しずつキリスト者の生き方によって心が動かされ、そしてこの時点で一挙にイエスキリストとの出逢いへと導かれたのかもしれない、とも考えられます。

、『彼らは皆、神によって教えられる』

復活節第三木曜日 ミサ説教
2019年5月9日(木)、本郷教会

今日の使徒言行録の朗読では、カンダケという、エチオピアの女王の全財産を管理している
宦官が、フィリポの導きで洗礼を受けるに至った次第が告げられています。
そのときカンダケという人は、イザヤの書を読んでいました。そのイザヤの書でいわれていることの意味をフィリポに尋ね、フィリポから説明を聞いて(それは「主の僕の歌」といわれている箇所でした。)洗礼を受ける決心したのでありました。
わたしたちは新約聖書だけでなく、旧約聖書を正典として認め、そして旧約聖書の教えを背景にして、新約聖書の意味を解き明かそうとしています。
今日のヨハネによる福音では、「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある」と、言われています。これはどういうことかと言えば、旧約聖書の中で既に、「神は預言者を通して人々が神を知ることができるように導いている」ということが告げられているのであります。
人間が神の招きに応えることができるよう、神はわたしたちに聖霊を注いでくださいます。
人は聖霊の導きに応えて信仰に入り、救いの恵みに与るのであります。その神からの呼びかけに答えることが出来るように与えられる神からの「先行的恵み」のことを旧約聖書は既に述べているのであります。
例えばそれは何所であるかと言えば、エレミヤの預言の31章33節、34節であります。
31:33来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤの預言によれば、新しい契約を結ぶ時には、一人ひとりの心に特別な聖霊の恵みが授けられて、主を知ることができるように導かれる,主を知ることができるようにしてくださる、と言っています。そこで、ヨハネの福音の17章3節の有名な言葉が思い出されます。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになった
イエス・キリストを知ることです。」
神を知るということが、永遠の命である、と言っているのです。
神を知るためには、神ご自身からの導きに応えなければ、主を知ることはできない。主を知るように心の目を開いて、そしてイエス・キリストを信じるようにという招きがあります。その招きがすべての人を永遠の命へと招く神様の計らいにほかなりません。

アウグスチヌスの言葉

復活節第三水曜日 ミサ説教
2019年5月8日(水)、本郷教会

 

ヨハネによる福音の6章を毎日読んできました。
今日の箇所で特に強調されていることは、父である神の「救済意志」ということ、
つまり父である神は、わたしたち人間を救おうと望んでおられるということであります。
そしてこの神の意志は、御子イエスキリストを通して伝えられ、そしてイエスキリストに
よって実行されます。
「わたしの父の意志は、子を見て信じる者が永遠のいのちを保ち、終わりの日に復活することである。」
アレルヤ唱の言葉です。
ちなみにアレルヤ唱は、すぐ後で読まれる福音の要点を述べる言葉となっています。

 

さて今日の福音では、わたくしの心に留まった言葉がございまして、それは
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」
というイエスの言葉です。
「わたしは決して追い出さない。」と言われました。来る人がいればその人を追い出さない、逆に言いますと、来なければ受け取ることができない、という意味になります。
それでわたくしが思い出す言葉が一つある。それは次の言葉です。
「あなたなしにあなたを造った神はあなたなしにあなたを救わない」
あなたは無から創造された、あなたは存在しなかった、存在しないあなたを神はお創りになった。そのあなたを救うためには、あなたの協力がなければ救いが実現しない。しかし、あなただけがあなたを救うことはできない。救うのは神ですけれども、神はあなた自身の承諾、あなた自身の協力を求めている。
そういう意味であります。聖アウグスチヌスの言葉と伝えられています。

 

2019年5月 7日 (火)

ヨハネの福音6章

復活節第三火曜日ミサ説教

2019年57()、本郷教会

 

ヨハネの福音書6章を読み継いできています。

昨日、56日月曜日の福音では、「神の業をおこなうためには何をしたら良いでしょうか」という問いに対して、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられました。

イエスと人々との問答は上手く噛み合っていないように感じます。

今日の30節から35節でも同じように話がうまく噛み合っていないように思われます。

マンナという言葉が出てきます。マンナはイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出して、荒れ野を40年間放浪した時に神から与えられた食べ物でありました。

 

こちらはマナとなっていますけれども、出エジプト記1631節ではこうなっています。

「イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。」

そういうものを神が天からお与えになった。このマナ、あるいはマンナは、わたしたちが今日もいただくご聖体をあらかじめ指し示すものだと考えられます。

6章の49節から51節では次のようにいわれています

「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。

しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」

イスラエルの民が荒れ野で命を養っていただいたパンはマンナと呼ばれていましたが、

そのマンナを食べて40年間生きたイスラエルの民もやがては死んでしまった。しかしイエスが与える命のパンは、人を永遠の命へと導くものであるとイエスは言われました。

このイエスの言葉を人々は理解することは出来なかったのでした。

ヨハネの福音6章全体が、このイエスを信じるということと、イエスが天から降った命のパンであるということを信じるということに全体がさかれています。全体がイエスを信じること、それからイエス自身が永遠の命を人々に与える者であると述べるために構成されているというように考えられます。

毎日少しずつですけれども、ヨハネ6章を読みながら、イエスキリストを信じるということ、それからご聖体をいただくということの意味を深めていきたいと思います。

 

2019年5月 6日 (月)

神の業を行うとは

復活節第三月曜日ミサ説教
2019年5月6日(月)、本郷教会

「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」という問いに対して、イエスはお答えになられました。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
今日の答唱詩編の答唱は、「神のみ旨を行うことは、わたしの心の喜び」であります。
神のみ旨、神のみこころを行うことができるようにと、わたしたちも日々祈っています。
「主の祈り」は「みこころが行われますように」と祈っていますが、わたしたちを通して、わたしたちにおいて、神のみこころ、主のみこころが行われますように、わたしたちが主のみこころを行う者となることができますように、という意味を込めての祈りであります。神の業、つまり神のみこころを行うためには、神がお遣わしになった者を信じる者でなければならない。
一昨日、聖フィリポ、聖ヤコブ使徒の祝日でイエスが言われましたのは、「わたしを見る者は、父を見るのである。」
さらに、「父がわたしにおり、わたしが父の内におられることを、どうして信じないのか」という言葉であります。
神のみこころを行う者となるためには、信じる者でなければならない。
「信じる」という最も単純なことですが、それがかえって難しい場合もあります。
イエスの弟子たちもなかなかイエスを信じ、生きることができなかった。
過越の神秘、死から命への過越の神秘を目の当たりにし、復活したイエスに出会って
彼らは少しずつ復活したイエスキリストを認め、受け入れるようになったのでありました。
わたしたちの場合は、復活したイエスに出会った人たちがつくった教会に加わっており、
復活を信じて復活を証しした人の信仰のいわば繋がりの中に置かれています。

先日3月21日、「福音の分かち合い・本郷集会」をここで開催させていただきましたが、
昨日その時の記録を受け取り、全部目を通しました。
多くの人が自分はどのようにしてイエスキリストに出会ったのか、どのようにして信じるようになったのか、今どのように生きているのか、ということについて感動的な証言をしております。
このような分かち合いを行うことが、わたしたち自身の信仰を深めることになり、そして信仰を多くの人に伝えることになるのだとわたくしは考えております。

 

 

2019年5月 5日 (日)

わたしを愛してるか?

 

 

復活節第3主日説教

 

201955日、本郷教会

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と、ペトロとほかの弟子たちは勇敢に宣言しました。何が、彼らをこのような確信に満ちた勇敢な福音宣教者にかえたのでありましょうか。それは復活したイエスと彼らの出会いによるのであります。復活したイエスはたびたび使徒たちにお現れになりました。今日の福音の後半の部分を一緒に深く味わってみたいと思います。

復活したイエスとペトロとの出会いの場面であります。ま、この教会はペトロの教会でありますし、ま、わたくしも霊名がペトロでありまして、ペトロという人はどんな人であったのか、どのようにしてペトロはイエスに従うことができるように変えられたのかということを、今日は特にご一緒にみていきたい。

ここには非常に印象的な場面が展開しています。イエスはシモン・ペトロに三度もお尋ねになりました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

三度も同じことを問われてペトロは悲しくなりました。三度も念をおされたのは、ペトロが三度も主イエスを「知らない」と言って、イエスを拒んでしまったことにつながっていると思われます。ペトロはそのことで深い心の傷を持っていました。今の言葉でいえば、トラウマというのでしょうか。

そのペトロが心からの思いを込めて答えました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

以前のペトロのように、なんといいましょうか、傲然とした態度ではない、この「愛しているか」と尋ねたときの「愛する」ですが 福音書でよく出てくる「愛する」という言葉のギリシャ語原文は、名詞が「アガペー」という言葉でありまして、動詞の「わたしが愛する」というときはアガパオーと言います。相手が二人称ですから、「あなたが愛する」はアガパスというのであります。もうひとつ、フィローという言葉があって、これも「愛する」という言葉ですね、「わたしは愛する」はフィロー、二人称ですとフィレイスとなりますが、このアガパスと「あなたは愛するか」、フィレイス、これも「あなたは愛するか」、この「愛する」という言葉が日本語では曖昧であります。どう訳すか難しい問題でありますが、イエスが尋ねたのは、アガパスですから、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」に対して、本来ならば「わたしは愛します」ですから、アガパオーと答えるべきですが、ペトロは、フィローと答えているのです。で、二度目の時も、フィローと答えている。同じ「愛する」ですけれども、意味合いが違う。そこでイエスのほうが、たまりかねたのでしょうか、質問の仕方を変えて、同じように「愛しているか」と訳されますが、フィレイスという言葉で「あなたはわたしを愛しているか」と尋ねました。

この二人のやりとりから、わたくしは、このイエスとペトロという人の間の、温かい、人間の血の通った愛の交わりを感じます。アガペーというのは神の愛を表しておりますけれども、人間同士の友情というか、心の交わりは、ほかにも言葉があるのですけれども、ここではフィローという言葉が、名詞だとフィリアですね、が使われているのであります。

「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

事実、ペトロはイエスの言葉に従って、良い牧者の務めを果たし、後にバチカンの丘で、逆さ十字架に掛けられて殉教した、と伝えられています。旧約聖書のエゼキエル預言書を読むと悪い牧者を糾弾する言葉が出ています。「禍(わざわい)だ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。 牧者とは群れを養うべきではないか。」(エゼキエル342)良い牧者とは群れを養う牧者であり、悪しき牧者とは自分自身を養う牧者であります。いわば羊を自分の食い物にする牧者であります。

牧者は病める者を癒し慰め、迷う者を導き、弱っている者を励まし、落胆している者に希望を示すべき者です。イエス・キリストの教会の牧者のなすべきことは、まず何よりも、力を落としている人、迷っている人々を、復活の主イエス・キリストとの出会いへと導き、キリストから力と光を得るよう導き教え励ます人でなければならないと思います。

わたしたちの教会の最高指導者はペトロの後継者、ローマの司教、フランシスコ教皇様であります。フランシスコ教皇様はこの良い牧者として、世界中の人々 特に打ちひしがれている人々、人々から見捨てられているような人々、弱りはてている人々を慰め励ますことをもって自分の最も大切な務めだとされております。すべての牧者は、良い牧者キリストに倣い、フランシスコ教皇様のように生涯を主キリスト・良い牧者に献げなければならないと思います。

 

 

 

 

わたしを見た者は、父を見たのだ。

聖フィリッポ、聖ヤコブ使徒
2019年5月3日(金)、本郷教会

聖フィリポ、聖ヤコブ、二人の使徒の祝日であります。
今日のアレルヤ唱は、ヨハネによる福音の内容を簡潔に要約しています。
「わたしは道、真理、いのち。フィリポよ、わたしを見る者は父を見る。」

ナザレのイエスという人は誰であるのかということが、わたしたちの信仰の最も大切な内容になっています。ヨハネの福音全体は、そのこと、イエスとは誰であるのか、をわたしたちに告げています。
四つの福音書がありますが、第四福音書と呼ばれるヨハネの福音は四番目に成立した福音書で、おそらく紀元90年から100年頃の成立だろうと言われています。
そのヨハネが教えているイエスは誰であるかというと、「道であり、真理であり、命である。」という言葉に集約できます。特にこの「道である」ということが特色ではないでしょうか。
イエスによらなければ、イエスを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできないと言っています。
そしてさらに、ヨハネの福音は、イエスが「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と言っている、と伝えています。
天の父は目に見えない方ですが、イエスのうちに父がおられるので、イエスを見る者は父を見るのであるといわれました。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」
昨日はアタナシオという聖人を記念しました。アタナシオはニケア公会議の時にイエスの神性を強く主張し、その彼のイエス理解が公会議で取り上げられその通りに決定されたわけです。ヨハネの福音はそれに先立つこと200年以上前の成立になりますが、イエスと天の父は一体であるということを、このように宣言しているのです。
さて、イエスの弟子たちであるわたしたちは、イエスは救い主である父と一体であるということを、自分自身の生き方によって、示していかなければならないのです。わたしたちは、はなはだ不完全なものでありますが、自分の生き方と自分の言葉によって、復活したイエスの姿を現し示していかなければなりません。イエスのように、「わたしを見た者は、父を見たことになる」とは到底言えませんが、しかしせめてそのしるしでありたい。復活したイエスはわたしたちと一緒にいてくださるということをあらわし、示すわたしたちでありたいと願っています。小さな事であっても、そこに復活の光が射しているということをわたしたちは互いに信じ、そしてその信仰を伝えていきたい。わたしたちはそうできるはずだと信じて祈りましょう。何故なら「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」とイエスは言われたからです。

2019年5月 2日 (木)

独り子を信じる者は永遠の命を得る

復活節第水曜日(勤労者聖ヨセフ)ミサ説教

2019年51()、本郷教会

昨日の福音でイエスはコデモという人に言われました。

「モーセが荒れ野で蛇が上げたように、人の子もあげられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ315)

今日の福音はその続き、最初の箇所は次のようになっています。、

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

これは非常に有名な聖句です。

 ここで、イエス・キリストの十字架の出来事は、イエスキリストを信じる者が誰でも永遠の命を得るためであったという、わたしたちの信仰の根本が告げられています。

今日の福音で強調されていることは、「信じる」ということで、「信じる者は救われる、信じない者は既に裁かれている」とヨハネの福音は述べているのです。

信じるということが、救われるか救われないかの分かれ目になる、と言っているようであります。

ところで、他方、人はどうして信じないのか、信じれば救われるのに、どうして信じないのか、という疑問が生じます。

それは「信じる」ということがどういうことなのかに、それはかかっているのです。ヨハネは、このことについて、

「自分の行いが悪いことが明るみに出るので、光の方に来ない、光に照らされれば、自分の行いが悪いということが明らかになる、それは嫌なので光の方に来ない」

と言っているようであります。そうすると、信じるということは、光を受けること、光の方に来てそして光に照らされて自分の行いが悪いということを認める、ということに他ならないということになります。信じないとは認めない、自分の悪が明らかになるのでそうならないようにするためにあえて信じない、光を拒むのだ、ということになります。

わたしたちが洗礼を受けた時に、すべての罪は赦されると信じました。過去においてどんなに悪い行いがあっても、それはすべて赦され、無かったことにされるというようにわたしたちは告げられ、そう信じました。ということは、いったんは、自分の過去を見なければならないです。しかしその過去が適切でなかったとしてもすべて洗い清められ、帳消しになるということを経験するのです。洗礼をうけるということは、古い人が死んで新しい人に生まれ変わるということだと復活徹夜祭で教えられているわけですね。

そうすると、自分の中に古い人があるということを認めないといけないですね。

古い人、それはキリストに従って生きることを拒んでいる人。霊の人ではなくて、肉の人という説明もあります。信じると言うことは、御子を信じるということは、自分の中にある悪い事、別の言葉で言うと罪を認めることであり、さらに罪の赦しを信じる、ということであります。自分に罪があっても神がわたしたちを赦してくださる、あるいは罪があるからこそ、神はわたしたちを赦し、大切に思ってくださる、ということを信じることであります。

非常に心惹かれる説明の一つが、

「神は、わたしたちひとり一人を、あたかもわたしたちただ一人を愛されるように愛し給う」

というアウグスチヌスの言葉です。

神はすべての人を愛してくださるが、ひとり一人の人をほかの人がいないかのように、その人を愛されるという意味です。自分を愛する神は他の人がいないかのように自分を愛する、という意味だと思います。自分しかいない。自分が自分であるから、愛してくれる、という意味。分かるような気がする。あなたがあなたであるから大切にしてくださる、欠点や罪があってもあなたがあなたでるという理由で愛してくださる、という意味だと思います。

 

イエスを仰ぎ見る

復活節第二火曜日ミサ説教
                                                                                                                                      2019年4月30日(火)

今日のヨハネによる福音の最後の部分を一緒に味わってみたいと思います。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
この言葉は、民数記が伝えている次の出来事に由来しています。
人々はモーセに率いられてエジプトを脱出し、長い試みの期間に入っていました。だんだん人々はモーセの指導による試練の連続に堪えがたくなってきました。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。 民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。(民数記21・6-9)これは、旗竿の先に掲げられた蛇の像を人々が仰ぐと命が助けられた、という話であります。この民数記の出来事が、イエスキリストの十字架上の死による救いを信ずることと結びつけられています。
「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
「青銅の蛇を仰ぐ」ということと、「十字架の上のイエスを仰ぐ」ということが結びつけられ、イエスを信じ、信仰をもって十字架を仰ぎ見る者は永遠の命を得ることができる、というわたしたちの信仰の中心が述べられています。そして、ヨハネの福音はこの直ぐ後の、非常に有名な聖句(聖なる言葉)につながっているのです。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)
十字架上のイエスを仰ぎ見てイエスを信じる者は永遠の命に与るのである、というヨハネの福音の教えを今日はさらに深く心に刻みたいと思います。
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