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2019年7月

2019年7月31日 (水)

霊操

年間第十七水曜日 聖イグナチオ(ロヨラ)司祭 記念日
                ミサ説教
                                 2019年7月31日(水)、本郷教会

7月31日は、聖イグナチオ・ロヨラの記念日であります。
聖イグナチオの創立したイエズス会の創立の同志である聖フランシスコザビエルが、日本に福音を伝えてくれました。
その聖イグナチオが、多くの人々に伝えた霊性(霊に従う生活)の非常に有力な方法として、霊操という修業があります。
霊操というのは、神の霊に従うための修行であります。
神の霊とは、聖霊であります。
神の霊に従うためには、神の霊に逆らう悪の力を退け、あるいは神の霊の働きから自分を遠ざける誘惑と闘わなければなりません。

ちょうど昨夜の読書会で、イエズス会出身である現教皇フランシスコが出された教え『喜びに喜べ』を読み終えましたが、そこでわたしたちは現代世界においてすべての人がイエス・キリストに倣い、キリストの霊である聖霊に従う道を学んだのであります。

昨日の福音は「毒麦のたとえ」でありました。
長い話はできませんでしたが、あの話の中で「毒麦を撒いた敵は悪魔」(マタ13・39)であるとイエスは言われた。
『喜びに喜べ』の中でも、教皇フランシスコと教皇パウロ6世は、現代の人々に対して悪の力である悪魔の働きに警戒するようにと警告しています。

わたしたちは日々、「わたしたちを悪からお救いください」と「主の祈り」で祈っていますが、この悪とは、「悪い者」と訳すことができるのであり、この悪とは抽象的なものではなく、ペルソナ的な存在であり、サタン、あるいは悪い者、神に逆らう天使のことであります。
悪魔ディア‐ボロスとは、神の計画とキリストにおいて成就した救いの業とに逆らうものだとされています。(『カトリック教会のカテキズム』参照}

わたしたちの心の中にも悪の力が働いていることを自覚し、日々聖霊の導きに従うことができますよう、そのためにご一緒にお祈りすること、ミサを献げることが、非常に大切であると思います。

毒麦の譬え

年間第十七火曜日 ミサ説教

2019730()、本郷教会

毒麦の譬え

マタイによる福音1324-3036-43

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 

説教

イエスは、天の国のたとえを話されました。今日の福音は、「毒麦のたとえ」であります。

この世界、そしてこの世界に住んでいるわたしたち自身は、良い麦と毒麦の両方が撒かれている世界であり、わたしたちの心にも良い麦と毒麦がまかれているような状態にあると思います。

残念ですが、現在のこの世界、そしてわたしたちの心の中にも、毒麦にあたるものが存在しています。

さて、毒麦の譬え話によると、早く毒麦を引き抜いてしまえばよいのにと思う人がいました。

しかし、主人は言います。『今はその時ではない。成長するまで待たせる』と言われます。

その理由は、先ずは良い麦と毒麦の区別が難しい、見たところよく似ているのです。

そして、もう一つ重要な理由があります。それは、良い麦と毒麦が、同じところで一緒に育っている。そうすると、外見が似ているだけでなく、その根が絡まってしまっている。

毒麦だけ引き抜くことが難しい。毒麦を引き抜くと、良い麦も一緒に抜かれてしまうのである。

世の終わりになれば、両者の区別はハッキリする。

この世界にどうして様々な問題があるのだろうか。神が造ったこの世界は極めてよい世界ではないのか。神はどうしてこのような状態を見過ごしておられるのか。

そのような疑問があります。

「毒麦のたとえ」はそのような疑問に対する一つの答えであります。

この世界では、善と悪と言うものは、はっきりと区別できない。人間についても同様である。

同じ人が良いことをすれば、悪いこともする。

悪いことをしないようにするには、その人自身を無いものに、つまり存在しないものにしなくてはならない。

病気の治療のことはよく分かりませんが、悪い細胞を殺すための薬は、同時に良い細胞にも害を与える副作用というものがあるそうであります。

毒麦はどうして入って来たのか。誰が入れたのか。

毒麦を撒いた敵は悪魔である、と福音は伝えています。

毒麦だけ切り離して見分けてそれを取り除くならば、良い麦も一緒に抜かれてしまうので、神は慈しみ深く寛大に、両方が育つままに任せて、世の終わりに総決算をしてくださる。

そのように今日の福音は言っております。

2019年7月29日 (月)

ヨハネの手紙

年間第17月曜日 聖マルタの記念日 ミサ説教
2019年7月29日(月)、本郷教会

 

7月21日の主日の福音は、ベタニアのマルタとマリアの話でありました。
今日の福音は、兄弟ラザロが亡くなった時に、マルタがイエスに対する信仰を告白したことを告げています。
「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
(ヨハネ11・21)

 

第一朗読は、使徒ヨハネの手紙(ヨハネ4・7-16)であります。神は愛であるということを、繰り返し述べています。
神が先にわたしたち人間を愛し、イエス・キリストをお遣わしになりましたので、わたしたちは神の愛を知りました。そして神の愛に応えることが出来るようにしてくださいました。
わたしたちの心に聖霊が注がれています。
神を愛するということは、神の愛に応えるということであり、それは目に見える兄弟を大切にするということにほかなりません。
目に見える兄弟を愛さない人は、目に見えない神を愛することはできないと使徒ヨハネの手紙が言っています。

 

 

負い目をおゆるし下さい

年間第17主日C

2019728日、本郷教会

 第一朗読 創世記 1820-32

第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 212-14

福音朗読 ルカ111-13

 説教

 今読みましたルカによる福音は、わたしたちが毎日唱える「主の祈り」を伝えています。「主の祈り」は福音の要約と言われています。わたしたちにとって非常に大切な祈りであります。

ある人が、「主の祈り」を他の人たちと一緒に唱えましたが、途中で続けることができなかったそうです。その途中の箇所というのは、罪の赦しについての箇所です。

 わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも人を赦します。

 この言葉を口にすることができない。その人の気持ちがわかるような気がいたします。

わたしたちは天の父に罪の赦しを願っています。

今日のルカの福音によれば、「罪を赦してください」と願ってさらに、「自分に負い目のある人を皆赦します。」と言っています。

罪という言葉は、わたしたちには、なかなかわかりにくい、と申しますか、なじみにくい、そういう響きがあるのではないだろうか。犯罪といえばすぐにわかりますが、罪と犯罪はもちろん違います。「罪」というのはなんでしょうか。あまり罪のことばかり聞いて、だんだん嫌になってしまうという気持ちも出てくるかもしれない。

 「負い目」という言葉もあります。「負い目」、あるいは「負債」とも訳しています。「負い目」というほうがわたしたちの気持ちには通じやすい。わたしたちは負い目をもっている。あるいは、別の言葉でどう言うかと、探してみると、わたしたちが毎日使っているであろう「おかげさま」という言葉ですが、これは抵抗なく「おかげさまでお元気ですか」などのように「おかげさまで」ということばを使っているわけです。

わたしたちはおかげさまで毎日生きている、生活している、いろいろな方々の助け、理解、支えなどによって、そのおかげで今日も過ごすことができた、心から感謝いたします。

この「おかげ」ということをわたしたちは子どものときから教えられているし、いろいろな場面において、おかげでそうすることができている、と思っています。

「負い目」というと少し意味合いが違ってきますが、ま、こちらのほうもいろいろな人に負い目がある、ということは理解できる。マタイの福音書18章に、多大な借金を赦していただいた男が、自分に借金している友達の借金を赦すことができなかったという話が出ております。1万タラントンとかいうものすごい額の負債を持っていた男、その男が、全部帳消しにしていただいて大喜びのはずですが、自分に対して100デナリという、1デナリが一日分の賃金といわれますので、ま、そういう額を、赦すことができなかったという話であって、その話の結論は、あなたがたが兄弟を心から赦さないならば、天の父もあなたがたに同じようにするだろうという言葉で結ばれている。これは考えてみるとかなり恐ろしいことである。「主の祈り」を最後まで祈ることができなかった人も、そのことが心に兆して 自分は赦せない、赦していないと思ったのでしょう。赦せないという気持ちもだいたいの人は経験したと思います。赦しがたい、何年も何年もその悔しい思いとか、嫌な思いが残っている、そういう人生の体験がある、そうでありながらわたしの罪をお赦しくださいとは言い難い。「わたしも人を赦します」と言い難い。この「赦します」というように言っていますが、この「主の祈り」の原文は主に、マタイの福音からとられている。今日はルカの福音ですけれども、そうすると、「赦します」という訳もあるが、「赦しました」、「赦しました」となっている場合もあります。これ悩んでしまう。どっちが正しいのだろう。ま、どちらとも言えるようであります。「赦しました、で、お赦しください」という場合と、「赦します」という場合。「赦します」というと、「今現在赦します」なのか、「これから赦す」のか、曖昧ですけども、「赦してもらう」ということと、「赦す」ということの、このつながりが大切であります。「赦してください」とお願いするならば、自分も赦すということがあるはずだ、と言っています。

 わたしたちは、本当におかげさまでいろいろなことをすることができるし、わたしたちのすることなすことは、本当に足りないことだらけ、人に満足していただけるようなことはなかなかできない。本当にふつつかな僕(しもべ)でありますという気持ちが本来のものでありましょう。そして信仰しているわたしたち、天の父を信じているわたしたちは、自分がいただいているものはすべて天の父からいただいたものであると思う。自分が自分で獲得したものはないですね。すべていただいたものである。いただいたもの、だから、下さった方に応えなければならない。でも、応えようがないくらい多くの恩をこうむっている。そうだ、我々は「恩」という言葉のほうがわかりやすいのかもしれないけれども、「おかげ」とか「恩」とかいう言葉。「罪」というと犯罪を連想してしまうのですけれども、もちろん犯罪に通じる罪もありますけれども、おかげを蒙っているという自覚を持つことが大切であると思うのであります。

 わたしたちの罪を赦してください。負い目を赦してください。負い目を破棄してください。

 第二朗読のすごい表現、借金の証書を全部破棄して十字架に釘付けにしてくれたという、釘付けっていう、もう全部、なんていうのかな、チャラっていうのか、ちょっと全部帳消しにしてくださったナザレのイエスは、十字架にわたしたちの負債を釘付けにしてくださった。その恩をわたしたちは日々深く思うべきであります。そして、その恩というのは、いろいろな人を通してわたしたちに示され与えられている。ですからわたしたちも、ほかの人に、神様からいただいた恵みをお伝えするようにいたしましょう。

 

困難の中で

「困難の中で希望を確かめるためのミサ」説教

2019年7月27日(土)、本郷教会

 「創世記」の第一章は、神が天地万物をお造りになったことを告げ、そして御自分のおつくりになった世界、被造物をご覧になって良しとされ、そして最後の六日目にすべてをご覧になられて、「極めて良い」と言われた、と述べています。「極めて」という言葉が入っています。

その「極めて良い世界」が、どうして「苦しみと悲しみに満ちた世界」になってしまったのでしょうか。

旧約聖書から新約聖書にいたる聖書の言葉はすべて、この問題 人間にとって最も重要かつ根源的と言ってよいこの問題に答えるものではないかと思います

どうしてこの世界にあってはならないことがあるのかという問題に答えるために、聖書が書かれていると思います。

 さて、パウロは「ローマの信徒への手紙」の8章で言っています。

「現在の苦しみは将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足らないとわたしは思います。」(ロマ8・18)

そして、人間だけではなくすべての被造物も、解放の時を待っている、と言っています。現在は「虚無に服している」という言葉ですが、あるいは「滅びへ隷属している」が、すべての被造物はイエス・キリストの救いに与ることができる、その日がくると言っています。

またパウロは言います。まだ目に見ていないものを望むことが希望である。

もう見えていれば信じる必要はないし、希望することもない。

わたしたち人間について言えば、神はわたしたちを召し出し、もともと神に似た者、神の写し、神の似姿として作られた人間が、さらに神の子に相応しい者とされ、そしてイエス・キリストの復活の栄光に与る者となるのであります。

8章はそういうメッセージだと思います。

 さて、マタイによる福音書の25章。

この個所は、教皇フランシスコが「いつくしみの特別聖年」を布告された時に、たびたび言及された箇所であります。

ちなみに「いつくしみの特別聖年」は、2015年12月8日無原罪の聖母の日から翌年2016年11月20日王であるキリストの日までの一年間でありました。

この時に、教皇がわたしたちに強くお望みになったことは、「神のいつくしみをより深く知り、そして神のいつくしみを実行する者でありなさい」ということでありました。

そして、神のいつくしみを実行するとは、マタイの福音に出てくる、困っている人、苦しんでいる人を助けるという仕事であります。

かなり長い福音の箇所ですが、4回も繰り返し同じ言葉が出てくることに、わたしたちは気がつきます。いつくしみのみわざとは、

飢えている人に食べ物を、

渇いている人に飲み物を、

裸の人に着る物を与えること。

泊まるところのない人に宿を貸し、

病者を見舞い、受刑者を訪問すること。

これが繰り返し4回も出てくる。4回も強調しているということになります。

「いつくしみの特別聖年」の勅書では、身体的ないつくしみのわざと、精神的ないつくしみのわざ、それぞれ7項目ずつを挙げられていました。

身体的ないつくしみのおこないの7つ目は、ちょっと意外な感じがしましたが、

「死者を埋葬する」、亡くなった人を埋葬する、ということです。これは、わたしたちは普通に行っていることですが、当時の世界の状況では大変なことだったのでしょうか。

そして、さらに精神的ないつくしみのわざを行うようにと勧めている。

この7か条を見ると、難しい事だなあという気がいたします。

ちなみに7つとは、

1.疑いを抱いている人に助言する。

2.無知な人に教える。

3.罪びとを戒める。

4.悲嘆に暮れている人を慰める。

5.人の侮辱を赦す。

6.煩わしい人を忍耐強く耐え忍ぶ。

7.生者と死者のために祈る。

です。これを、なるほどと思うか、あるいは疑問に感じるでしょうか。

これがカトリック教会が伝統的に伝えて来た良い行いでありまして、これを現代にさらに翻訳し直すとどういうことになるのでしょうか。

わたしたちは、個人としても、教会としても、この東京教区あるいは本郷教会にしても、このようないつくしみのわざをおこなっていると思います。不完全ですけれども、おこなっているのであります。

 これが、カトリック教会が伝統的に伝えて来た良い行いでありまして、これを現代にさらに翻訳し直すとどういうことになるのでしょうか。

わたしたちは、個人としても、教会としても、この東京教区あるいは本郷教会にしても、このようないつくしみのわざをおこなっていると思います。

不完全ですけれども、おこなっているのであります。

 今日のミサは、苦しみの中にある困難な状況にある人として、わたしたち自身が自分の信仰を確かめるということ、希望を新たにするということとともに、困難な状況にある人をどのようにして支援することができるか、どういう点を支援したら良いかということを、考え黙想する機会にしたいと思います。

 どうしてこのように苦しみがあるかということを探求することは大切ですけれども、現に病気の人がいる時に、この病気が癒しあるいは楽にするということの方が緊急に必要なことである。

現に火事が起こっている時に、どうしてこの火事が起こったのか調べるのは後のことで、火事を消さないといけないわけであります。

どうしてこうなったかと考える方が、わたくしの癖になってしまっているのですけれども。

今為すべきこと、あるいはしてはいけないことを確かめることが、大切ではないかと思います。

 

神の写しである人間

間第十六金曜日 

聖マリアの両親聖ヨアキムと聖アンナの記念日 ミサ説教

2019726()、本郷教会

先日(724日)の「種蒔きのたとえ話」の続きであります。

種とは「神の言葉」、あるいは「主イエス・キリストの言葉」を意味していると思います。

神の言葉を聞く人の心の状態は、さまざまである。

ある人の心は道端のような状態にある、あるいは石だらけの所、あるいは茨の状態。

そして、良い土地の状態にある心に蒔かれた種は、実を結ぶ。

わたしたちの教会の使命は、宣教・福音化ということであります。

先日申し上げたと同じことですけれども、相手が良い心でないと何をしても無駄であるのか。

すると、人間には良い心の人とそうでない人とに別れるのであります。

良い心の人だけ相手にすれば良いのだろうか。

そういうことは言えないだろう。

人間は、そもそも神によって造られた者で、昨日の話で創世記126をどう訳すかという問題でしたけれども、ラテン語ではイマーゴデイImago Dei、英語でimage of Godと言います。

これは、「神のイメージである」ということです。

それを「写し」と訳す方が良いというのが昨晩のお話でしたが、人間は全部神によって造られた。

神から悪い者は出ない。

すべての人間は、神から出た者なのです。

そして、神はご自分の造られたものを見て、「良い」、「良い」、「良い」、そして最後に「極めて良い」と言われた。

この「極めて良い人間」が、どうしてこのような悪い事をするのだろうか。

この問題を、聖書全体が創世記から黙示録にいたる長い長い物語で説明しているのだろうと思われる。

「わたしたちの生活は、悪との闘いである。」と教皇フランシスコは言っています。

今日の福音に「悪い者」という言葉がありますが、「悪い者」とは悪魔のことであると思われる。

悪は悪い者、あるいは人間の心の中にある乱れた欲望である。

そうすると、わたしたちはその悪と闘わなくてはならない。

その悪との闘いを霊的生活とカトリック教会では言っております。

霊的生活、つまり神の霊に従う生活であります。

 

 

 

 

ヤコブ使徒

年間第十六木曜日 聖ヤコブ使徒の祝日 ミサ説教

2019725()、本郷教会

七月二十五日は聖ヤコブ使徒の祝日であります。ヤコブはヨハネの兄弟であり、ゼベダイの子と呼ばれております。四十二年頃、ヘロデ王によって殉教しました。

スペインのコンポステラにはヤコブにささげられた大聖堂があり、有名な巡礼地となっております。

今日読まれた福音は、司祭叙階式の時の福音として、よく選ばれる箇所であります。

この話を読むと、二人共イエスの使命が何も分かっていなかったということが分かります。

イエスは二人に向かって、

「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」(マタ2022)と言われました。

たしかに分かっていないわけです。

分かっていないけれども、杯を飲むことができるかと言われると、二人とも「できます」と答えた。杯を飲むということが、何を意味しているのかということが分かっていなかったわけですが、「できます」と言った。そうは言いましたが、実際のところ、ヤコブは今日を記念するように、立派に殉教したのであります。

ほかの十人は、二人の兄弟のこの発言この行動を見て、非常に腹を立てた。ということは、十二人とも大同小異、五十歩百歩、同じようなことを思っていたと思われます。

イエスの弟子の集団は、世俗的な欲望や野心に支配されていた人たちでありました。

彼らは、イエスの受難、十字架、復活という出来事に出会い、気が動転してしまうような体験をしましたが、復活したイエスに出会って、すっかり新しい人として生まれ変わることができました。

今日の第一朗読の中で使徒パウロが言っていますが、

「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。」

と言っています。

パウロという人は、生前のイエスを知らない。復活したイエスに出会って、電撃的な回心をし、すっかり変えられて、異邦人にイエスの福音を宣べ伝える人となり、ご自身殉教しました。

パウロの場合は最初から、イエスの死と復活の神秘を深く悟り、そしてすべての活動をイエスのために献げ、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラ220)とさえ言うようになりました。

わたしたちの場合、イエス・キリストの復活を信じ、その命に与る者とされましたが、過越の神秘を少しでも毎日の生活の中で生きることができますよう、聖ヤコブの取り次ぎによって、祈りましょう。

 

 

 

 

種まきの譬え

年間第十六水曜日 ミサ説教

2019724()、本郷教会

「種蒔きのたとえ話」であります。

何度も申し上げておりますが、わたしたち教会は、イエス・キリストの弟子をつくるためにつくられ、派遣され、この東京において福音を宣べ伝えることが、わたしたちの使命であります。

わたくしの念頭にはいつも、宣教・福音化のためにはどうしたらよいだろうかということがあります。こちらが話しても聞いてもらえない、分かってもらえないという体験があります。

そこでこちらの話し方、あるいは提出の仕方、プレゼンテーションpresentation、というものに問題があるのか、あるいは受け取る方が問題なのか。

相手の方にそもそもイエスの教えを聞くつもりがない、あるいは多少あるが面倒であるとおもっているのか、一応聞くがその言葉はすぐに死んでしまう、という場合があります。

福音を告げる相手の人々は何かこの「種蒔きのたとえ話」のような状態なのかと思います。

聞いてもらえないような人に話すのは止めて、聞いてもらえるような人に話せば良いのでしょうか。そうすると相手はそれは、良い土地の人ということになるわけですけれども、良い土地の人もいれば、ここに書いてあるような、そうでない色々な状態の心の人もいる、ということだろうと思います。どうしたらいいだろうか?

いろいろ考えると分からなくなってしまう。

良い土地に蒔けば、実を結ぶわけです。そうすると、良い土地になってもらわないといけないわけです。良い土地になってもらうには、どうしたらいいのだろうか。

何か話が堂々巡りになってしまうけれど、良い土地とはどんな土地なのだろうか。

その前に我々自身が良い土地なのだろうか。

それで昨晩の勉強会の内容を思い出します。キリスト者の生活は毎日闘いである、と教皇フランシスコがおっしゃっています。

キリスト者の毎日は闘いなのです。何もしないで、のほほんとしていれば、どんどん悪くなってしまう。闘わなくてはいけない。闘って、聖性を獲得する。

どう闘うのか、相手は誰であるのかということになるわけであります。

霊的生活といいますが、ラテン語でヴィタ・スピリトゥアリスvita spiritualis

英語のスピリチュアルライフspiritual lifeです。

このスピリットspiritというのは、聖霊です。ですから聖霊に従う生活です。

聖霊に従うように毎日闘う。聖霊でないものには従わない。

聖霊の勧めであるかどうかを判断する、それを識別 英語でディサンメントdiscernmentといいます。

どうやって識別するのかを教皇様が説明しているのが、昨晩の勉強でありました。

 

2019年7月25日 (木)

チェレスティーノ神父と神林宏和神父の命日記念ミサ

チェレスティーノ神父と神林宏和神父の追悼ミサ   
                                                                                               7月22日(月曜日)本郷教会

 

きょう7月22日は、マグダラの聖マリアの祝日でございます。
今日という日に命日祭のミサを献げることになったのは、そもそも小池俊子さんからの依頼があって、二人で日にちを決めてしまったのであります。そして、あとはわたしの勝手ですが、最近神林神父さんが亡くなったので、二人合わせて追悼のミサ・命日記念ミサをあげようかと、これはわたしの方で決めてどんどん進めてしまった訳でございます。
そして、7月22日はどんな日なのだろうかと見たら、マグダラの聖マリアの祝日であると。これは相応しい日であるなぁーと思いました。
マグダラのマリアは非常に有名な女性です。いろいろな方が彼女に大きな関心を持っていますが、教会の歴史の中でも彼女の存在と働きは大いに評価されていると思います。
復活したイエスに最初に出会ったのはマグダラのマリア。ペトロではない。男性の弟子ではない。男は全然ダメでありました。それで、マリアは使徒たちへの使徒と呼ばれています。使徒に使徒した人。使徒したという日本語はないのですけれど。ですから、男性の使徒たちが使徒として働いたのはマグダラのマリアのおかげであって、マグダラのマリアなしに初代教会の男性の使徒たちの働きはなかったと言っても過言ではない。それなのに、だんだん当時の社会観の影響でしょうか、どんどん彼女を横の方に押しやって男性中心の教会構造をつくってしまったのかなと、思います。
マリアにイエスは呼びかけたわけですね。「マリア」と呼びかけました。呼びかけられて初めて彼女はその人はイエスだと気が付いて「ラボニ」と言った。先生という意味であるとヨハネは告げています。非常に劇的な場面であります。このマグダラのマリアの体験が、わたしたちの教会の基礎中の基礎ではないだろうかと思うわけで、その辺を、今日見えている阿部神父さんのような日本の神学者話していただけると、神学的な学問的な基礎付けのある話になると思います。
次に今日の第一朗読についてです。
パウロという方は、生前のイエスに出会っていない。復活したイエスに出会って、まあ、電撃的な回心をした方であって、生前のイエスと生活と行動を共にした弟子たちの間には、ある隔たりがあったわけですが、パウロは力強く「自分は、イエスから召された使徒である」と強調しています。
「キリストの愛がわたしを駆り立てる」。この言葉はわたしの前任者の白柳誠一大司教モットーでした。パウロはキリストの愛に駆り立てられて生涯を終わった。
今日の第一朗読でパウロが言う「一人の人がすべての人のために死んだ」とは。これは言うまでもなくイエスがわたしたちのために死んでくださった、ということに他なりません。では「すべての人も死んだことになります」とはどういうことでしょうか。多分こういう意味だと思う。それは、わたしたちも、イエスを信じて、主イエスの死に与る者とされた、されている、という意味です。洗礼を受けるということは、イエス・キリストの死と復活に与るということであり、古い人間が死んで新しい人と復活するということに他ならない。古いものが過ぎ去り、新しい者が生じたという意味だと思います。思います。

 

さて、このようにして生まれた教会で司祭として生涯にわたり多大な貢献をされた司祭が、チェレ神父と神林神父です。
今日はお二人に深い縁のある方が集まってくださいました。ほんとうにありがとうございます。
チェレスティーノ神父につきまして、もうわたしにとっては恩人中の恩人であります。2000年にわたしが東京大司教になりました時に、チェレスティーノ神父は既に2000年の4月から司教館に来て住んでいました。白柳大司教様に任命され事務局長になっていました。それ以来、2011年まで11年間わたくしと一緒に生活し仕事をしてくれた方であります。その間、総代理もし、大司教秘書もしてくださった。もうチェレスティーノなしにわたしの仕事は成り立たないというくらいに大変心強い方でありましたが、その苦労たるや大変なものであったと思います。その点で、わたしはふだん神経質な割には能天気で、どんなに彼が苦労したかということは、あまり察しなかったのですねぇ。今申し訳ないと思います。
それについては、みなさん、入り口でこれを受け取ったと思いますが、これはチェレスティーノ神父の葬儀の時に幸田和生補佐司教が行った説教なんです。そして、この写真はチェレスティーノ本人が撮ったカテドラルの青空の写真です。チェレスティーノというその言葉が青空を意味していて、そして写真が趣味でした。なかなか時間がなくて写真もできないようになってしまったのですが。そういうようなチェレスティーノのことを傍で幸田和生さんはよく見ていて、このように愛情深い説教を残したんですね。わたくしいくら思い出しても葬儀の時自分が何を言ったのか思い出せないのですけれど、それは当たり前です。わたしはしなかった。説教したのは幸田さんのほうなんです。
わたしは何をしたかというと、納骨式の時にひとこと言っているに過ぎないんですね。まぁ、わたしが言ったのか、周りの人が察したのか、お前は辛いだろうからその仕事は他の人にということで、幸田さんになったのだろうと思います。
チェレスティーノさんは、ここに11年居て、そのあと立川教会に行き、わずか3年で帰天してしまったのです。
チェレスティーノ神父緊急入院の知らせを受け、病院に見舞いに行き、医師からの説明を受けたのですが、そんなに早く帰天されるとは誰も予想しなかったので、ほんとうに辛い悲しい記憶であります。
チェレスティーノ神父さんの故郷にもわたしは行きました。「ボナテ」という所なんですが、そこの教会でミサもあげました。お母さまはお元気で、多分今も健在だと思うのですけれど、ほんとに残念であります。今日ここにいらした方々に、時間のゆるす限り、チェレスティーノ神父について一言でもお話していただけたら彼も喜ぶと思います。
 神林神父さんについては、神林神父さんにも大変お世話になりました。わたくしがカトリック中央協議会で働いていたときに、わたしを親切に丁寧に指導してくださった方なのです。
 ちょうど、ナイス、福音宣教推進全国会議が開かれた前後で、神林神父さんは、この重要な会議で、いわば裏方で、すべてを仕切っておられたのです。東京教区の岩橋神父さんと一緒でありました。あと、松本三郎という京都の神父さんもおりました。それで、わたくしと4人の司祭がナイスの裏方をしたのですけれど、神林神父さんが実質的な中心の役割を果たしたと思います。大阪に帰られて事務局長などなさいましたが、わたしにとっては、東京で毎日会っていた神林宏和、みんなから「かんばさん」と呼ばれていた彼のことが、今もほんとに鮮明な記憶となっているのであります。先日訃報を聞いて、ほんとうに心からの哀悼の意をお伝えした次第であります。
 きょうは皆さんに集まっていただきまして、ほんとに二人も喜んでくださると思います。
 予定ではこのあとすぐ共同祈願となっていますが、あらかじめ二人の方にお願いしましたので、お二人の神父について述べていただきます。

国政選挙の日に

年間第16主日 7月21日(日曜日)

                                                                                                                          茂原教会

年間第16主日の福音朗読はルカの福音10章。マルタとマリアの姉妹の話しであります。きょう主イエスがマルタに言われた言葉をご一緒に深く味わってみたいと思います。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」.

イエスは度々、マルタとマリアの家、ベタニアというところにありましたが、そこに赴いて、しばしの憩い安らぎの時を過ごしていたようであります。そこに、マルタとマリアという姉妹がいました。そして、ラザロという男の兄弟もいたようであります。

イエスはこの兄弟姉妹を深く愛していたのであります。「マルタ、マルタ」と二度もマルタの名前を呼んでいるところに、イエスがマルタに(かけている)対して持っている思いが現れているように感じます。

「あなたは多くのことに思い悩み心を乱している」

一生懸命イエスをもてなすためにマルタは忙しかった。ほんとに心からイエスをお世話することに心を砕いている様子が目に見えるようであります。そのことは大変素晴らしいことだと思われます。ただ、マルタは一生懸命になるあまり思い悩み心を乱し、そして、姉妹のマリアに対して不満を抱いたところにイエスの注意が向けられた。自分はこんなに忙しくしているのに、マリアの方は何にもしない。そういう気持ちが表明されている。このマルタの気持ちは分かるような気がいたします。イエスの方はマリアの方を庇ってというか、弁護しているようですが、マルタの事も深く思っている。両方の姉妹のことを、イエスは深く思っているのではないだろうか

自分が人をもてなすために一生懸命になる。それは良いことですが、自分の通りに他の人がしないことで、思い悩み心が乱れるということは良くないですよと、そういう意味でしょうか。

ここで連想されるイエスの言葉があります。

イエスは山上の説教で言われました。「生活上の事でどうしようかと思い悩まないで、天の父の計らいに信頼しなさい。ただ、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、必要なことは、必要なものは、それと一緒に与えられるでしょう。」

まあ、そう言われましても,わたしたち生身の人間は、生活上のいろいろな心配があります。心配するということと生活の必要のために心を配るということと、どこがどう違うのでしょうか。同じなのでしょうか。

おそらくわたしたちはいろいろなことに心配ではなく心を配らなければならないし、事実そうしております。しかし、天の父がわたしたちをいつも見守り、そしてわたしたちを助け導いてくださる、という信仰が一番大切ではないだろうか。

マリアの方は、ひたすらこのイエスのお言葉を聞くということに専心しております。またとない千載一隅の機会。ただただひたすらその足元に座って、直接イエスのお言葉を聴く。これ以上ありがたいことはない。他の事は別な時にゆっくりすることができるが、このイエスのみ言葉を直接そばでお聞きする(耳にする)ということは、ほんとに他のものには替えられない素晴らしいことなんだ。そのようにマリアは思っていたのだろうと思います。

きょうは日曜日、日曜日は主の日。主のために献げられる日であります。

主に献げるということは、まず他の事は止めて、直接主のために自分の体も心も用いるということであります。何よりもまず神のことば、主キリストの言葉を聴き、思いめぐらし、そして主の御体をいただき、お互いに主キリストにおいて一つであるということを確かめあう日であります。

他になすべきこと、たくさんあるのですよね・・・。

そうだ、今日は国選選挙の日でした。 わたしも帰って投票しなきゃいけないのですけど、それはどうでもいいというわけではない。しっかり投票いたしましょう。どの政党に投票するかってことは言いませんけど。政教分離ですから。

でも、神の国とその義を求めるというときに、日本の国会の選挙とが、どう関係があるのかということを、チラッとでも考えることは意味のあることだと思います。

でも、大切なことはあらゆることを置いてでも、特定の日、特定の時間、できたら聖堂で神の言葉、イエス・キリストの言葉を聴き、そして思いめぐらし、その言葉が自分の人生にどういう意味があるのかということをひたすら考えるということではないだろうか。

みなさんはその恵まれた時を過ごしていらっしゃいます。

 

2019年7月24日 (水)

家族・家庭

年間第十六火曜日 ミサ説教
                          2019年7月23日(火)、本郷教会

今日のイエスの言葉、
「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」(マタ12・48)、
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタ12・49‐50)を、少し黙想いたしましょう。

誰にとっても自分の家族は大切であります。
家族とのつながりの中でわたしたちは成長し、そして生活をしています。
しかし、神を信じるわたしたちにとって、主イエス・キリストを通しての神とのつながりが非常に大切であります。

日本のカトリック教会は、日本における宣教・福音化を推進するために、二度に亘って大規模な会議を開きました。
1993年には長崎で「第二回福音宣教推進全国会議」を開催し、家庭の現実から日本の福音宣教のあり方を考えるというテーマを取り上げております。
当時、日本の家庭の現実には非常に厳しいものがある、家庭が崩壊している場合もある、家族のつながりが薄くなっている、そのような中で教
会こそ人と人とを結びつけるしっかりとしたつながりを作っていかなければならない。イエス・キリストにおいて結ばれるネットワークを作り広げていこう、という決意を表明したのでありました。

現在の私たちの家庭・家族、そして日本の社会の家庭・家族の現状はどうであるのか。
神の御心を求めて集まる人と人とのつながりを大切にしたい。
そのためには共に祈るということが、非常に重要であると思います

マグダラのマリア

聖マリア(マグダラ)の祝日 ミサ説教

2019年7月22日(月)、本郷教会

 

7月22日は「マグダラの聖マリア」の祝日です。

マグダラのマリアは、復活したイエスに出会った最初の人であります。

 今読んだヨハネの福音は、その時の様子を伝えています

「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に言った。」(ヨハ20・1)

他の弟子たちはどうしていたのでしょうか。

ヨハネによると、マリアだけが朝早くイエスのお墓に行きました。

そして、復活したイエスがお現われになりましたが、マリアはその人を見ても、「イエスだとは分からなかった。」(ヨハ20・14)とあります。

復活したイエスの様子は、一見してその人だと分かるような様子ではなかったのでした。

イエスの方から「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(ヨハ20・15)と話しかけられ、さらにイエスが、「マリア」と言われて、彼女ははっきりと、その方が復活したイエスだと分かったのであります。

復活したイエスの方からの、呼びかけ 働きかけにマリアが応じることができたので、マリアは最初に復活したイエスにお会いする光栄を担ったのでありました。

ペトロを始めとする男性の使徒ではなく、女性の弟子であるマグダラのマリアが、復活のイエスの最初の証人となったのであります。

 

そこでマグダラのマリアは、「使徒たちの使徒」、「使徒たちに遣わされた使徒」であると言われ、いわば教会の歴史の中で、最初の使徒であるということになるのであります。

教会の歴史の中で、次第に女性の位置が低くされたという事実があると、指摘する人もおります。

 

2019年7月22日 (月)

宣教・福音化のミサ

宣教・福音化のための土曜日のミサ 説教
2019年7月20日(土)、本郷教会

 

主イエスは、弟子たちのもとから離れて天に昇るに際し、弟子たちに命じて言われました。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28・19)
イエス・キリストの弟子をつくるということが、弟子たちに与えられた使命であり、そして弟子たちの後継者であるわたしたち教会の任務であります。

 

この教会の使命任務をミッションmissionという言葉で言い表してきまして、ラテン語ではミッシオmissioですけれども、もともと「派遣する」という意味であります。
あなたがたは「行って」と言われました。
イエスが弟子たちを派遣したのであります。
「行きなさい」ということはつまり「派遣する」という意味であり、「派遣:はラテン語でミッシオmissioです。そして「派遣する」ということは、使命を行わせるということであり、その使命はイエスの教えを宣べ伝え、イエスの弟子をつくるということ、つまり宣教であります。
そこで、ミッションmissionという言葉は、「派遣」「使命」そして「宣教」という三つのことを同時に意味する同じ言葉であります。
さらに,後になって福音宣教、あるいは福音化という言葉が頻繁に使われるようになりました。これはエヴァンジェライゼーションevangelization、ラテン語のエヴァンゲリザティオevangelizatioという言葉の翻訳であります。
福音化とは、人々を福音に与る者、福音を生きる者に変えていくということと同時に、この社会・文化を神の国の到来に相応しいものに変えていくために働くということであります。
ですから平和のために働く、平和を実現するために働く、あるいは一人ひとりの人が大切にされるため、別な言葉で言えば、差別や人権侵害をなくすために戦うということも、福音化であります。
今のこの日本において、イエスの命じた使命を行うということは何をすることだろうか。

 

日本のカトリック教会は、1987年11月23日の前後三日間に、「福音宣教推進全国会議」というたいへん大がかりな会議を開きました。この会議は「開かれた教会づくり」というスローガンを掲げたのです。
誰に開かれているかというと、教会にあまり縁がない人、教会には行きづらい人、苦しんでいる人、後回しにされている人、悩んでいる人、いろいろなことで生きることに力が足りない、生き辛さを感じている人、そういう人のために力となる、安らぎとなる、助けとなる、そういう教会共同体のあり方を目指そうということで開かれた会議であります。
その会議の結果を三十年以上経って、どのような効果があったのか、どのような変化がわれわれ教会の中に起こったのかということを振り返ると、わたくしの正直な感想では、確かに良くなった部分はあるが、総体としてあまり変わらなかった、どうしてだろうという気がしております。

 

若い皆さんにこの問題を是非考えていただきたい。
人を変えるためには、自分が変わらなければならない。
自分がそのままでいて、人に変われというのはまったくおこがましい話であります。
わたしたちは福音というものを、どういうように受け取っているのか、どういうように生きているのか、どのような生きる喜びを、生きる動機づけをもって生きているのか、それをどういう表現で、どういう行動で、人々に表わし伝えていくのかということが、わたしたちに問われていると思うのであります。

 

 

2019年7月21日 (日)

いけにえではなく慈しみを

年間第十五金曜日 ミサ説教

2019719()、本郷教会

イエスは、律法学者やファリサイ派の人々とたびたび論争し、そして遂に彼らから抹殺されるに至る道を、自分から作ってしまったというようにも思われます。

その中に、「安息日の論争」というものがあります。

今日の福音は、その中の一つであります。

イエスの弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで食べたということについて、ファリサイ派の人から咎められたのでありました。

イエスは弟子たちを擁護して、旧約聖書の事例を引用しています。

ダビデとその兵士たちのことをまず言われましたが、さらにホセア書の言葉を引用しました。

このホセア書66節の「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえ ではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセ66)という言葉であります。

皆様覚えていると思いますが、教皇フランシスコが「いつくしみの特別聖年」を設けまして、わたしたちは約一年間、神のいつくしみについて学んだのであります。

いろいろな掟や定めがありますが、最も大切な掟 定めは、神のいつくしみに倣うということであります。

イエスが神のいつくしみをどのように実行したかという事例を教皇は述べながら、わたしたちもいつくしみ深い者であるように諭されました。

 

「神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセ66

 

イスラエルの人々は、神様にいけにえ を献げていました。

 

前の言い方では燔祭(はんさい)と言いましたが、いけにえ を全部焼き尽くしてしまうという献げ方でありました。それはいわゆる「ホロコースト」といういけにえ でありました。

 

しかし預言者が言われたのは、神は自分に献げられる動物のいけにえ ではなくて、自分を知ること、神のいつくしみを実行することを求めているということでありました。

 

 

 

昨日の福音は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ1128)というイエスの言葉でありました。

 

今、2019年という年、この東京という場所で、イエス・キリストの言葉をどのように受け止め、どのように実行したらよいかということが、わたしたち一人ひとりに、そしてわたしたちの教会 共同体に課せられた非常に大切な課題であります。

 

 

 

 

2019年7月18日 (木)

「わたしはある」という神

年間第十五木曜日 ミサ説教

2019年7月18日(木)、本郷教会

 「出エジプト記」で神はモーセに自らを現わされ、御自分の名を問われて、「わたしはあるという者だ。」(出3・14)と言われました。

たいへん不思議な言い方であります。

「わたしはある。」という神は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を、モーセを通してカナンの地へ導く神でありました。

 さて、その同じ神、「わたしはある。」という神は、御子イエスを遣わされ、そして今日の福音でイエスは言われました。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)

わたしたちは、毎朝のミサの入祭の歌でこの言葉を聖歌として歌っており、またこのカトリック本郷教会の掲示板の標語として、この聖句をつかっております。

 実に人生には苦労が多い。

エジプトにおいて奴隷であったイスラエルの民は、エジプトからは解放されましたが、しかしその後、イスラエル民族は苦難の連続を経験しました。

イエスの時代にも多くの民は、病み衰え苦しみ悩んでいました。

そのような人々のところに遣わされたイエスは、すべての人を御自分のもとに招き、そして共に重荷を担う者となってくださいました。

 さて、今日の聖書福音書のメッセージは、わたしたちにとってどういう意味があるだろうか。

わたしたち自身、「疲れた者、重荷を負う者」(マタイ11・28)でありますが、わたしたちの周りには本当に多くの人が、人生に疲れて迷っているのであります。

そういう方々のために、わたしたちはいわばオアシスのようになって、休ませることができるように、安らぎ 希望そして力を回復することができるようにして差し上げたい。

本郷教会は、そのようなわたしたちの使命を、微力ではあっても主イエスが共にいてくださるという信仰に基づき、日々ささやかな努力を続けていかなければならないと思います。

 ―――

第一朗読  出エジプト記 3:13-20

(その日、柴の間から語りかける神の声を聞いた)モーセは神に尋ねた。

「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。

「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。

これこそ、とこしえにわたしの名,これこそ、世々にわたしの呼び名。さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。」

 福音朗読  マタイによる福音書 11:28-30

(そのとき、イエスは言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

幼子のような者

年間第十五水曜日 ミサ説教

2019年7月17日(水)、本郷教会

 第一朗読は出エジプト記であります。

いよいよ主なる神がモーセに御自分を現わされる次第が告げられています。

モーセに現れた神は、ナザレのイエスを通して人々に、さらに天の父をお示しになりました。

イエスはその生涯を通し、その言葉と行い、しるし、様々な秘跡などを通して、人々に天の父を示されました。

イエスに出会ってイエスを信じた人もいますが、イエスの数々の行い、奇跡をみても悔い改めない人々もいたのであります。

昨日の福音は、数多くの奇跡を行われた街々をイエスがお叱りになった、ということが出ております。

 今日の箇所は、それとは調子が変わって、それでもと言うべきでしょうか。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11・25)

「これらのこと」というのは何でしょうか。

イエスを信じ受け入れた人は、幼子のような者、あるいは小さな人々、あるいは心の貧しい人々、そういう表現で言われている人々であります。

「知恵ある者や賢い者」(マタイ11・25)はイエスを認めなかった。

認めないどころか、イエスに敵対するにさえ至ったのでありました。

ナザレのイエスという大工の子、御自身も大工をしていたらしい、そういう人が説く神の国の福音は、当時のユダヤの社会の指導者たち、政治的な宗教的な社会的な指導者たちにとっては、とても受け入れ難いことであったようです。

貧しい人、苦しみ悩む人、何も自分を支え自分を表わし伝える術を持たない人にとっては、それは神様からの恵みであり、そのような人を通して神様は慈しみ深い神、すべての人の救いを望まれる神であるということをお示しになったのだと思います。 

二千年前にガリラヤで起こった出来事を福音書は伝えていますが、それでは今ここで、つまり2019年この東京というところで、福音とは何であるのか、福音を宣べ伝えるということはどういうことであるのかという、大変重要な課題をわたしたちはいわば突き付けられていると思います。

 

2019年7月16日 (火)

悪の力

年間第十五火曜日 ミサ説教

2019年7月16日(火)、本郷教会

「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」(マタイ11・20)という言葉で、今日のマタイによる福音が始まっております。

どのような奇跡を行われたのか聖書は告げておりませんが、ご承知のようにイエスは数々の奇跡を行い、人々はイエスを信じるようになりましたが、イエスを信じない人々、それどころかイエスを排斥する人々もいたのであります。

さて、わたしたちの使命は、宣教あるいは福音化という言葉で表されています。

イエス・キリストを宣べ伝えること、イエス・キリストを信じて、そして神の国がすでにこの世界に来ているということを信じてもらえるように努力することであります。

人々に神の存在、あるいはイエス・キリストを救い主として信じるためには、いろいろな困難があるでしょう。

もちろん信じない人間の側に問題があるでしょうが、神の造ったこの世界にいろいろな問題があることも、神を信じることを妨げているのではないだろうか。

今日の集会祈願では、

「全能の神よ、あなたの支配に逆らう悪の力を滅ぼしてください。罪から解放されたわたしたちがあなたの国を待ち望み、正義を行う者となることができますように。」と祈っています。

この「悪の力」というものが働いていることを、わたしたちは知っています。

フランシスコ教皇様が出された教え、使徒的勧告「喜びに喜べ」という本の中で(今夜その箇所をやると思いますけれども)、

「この世界には悪の力が働いている。しかしわたしたちはその悪と日々たたかって打ち勝たなくてはならない」と言っております

その「悪の力」を別の名前で言うと、「悪霊」とか「悪魔」という言葉になります。

現代の人はそういう存在を単なる例えとか、あるいはおとぎ話のように思うかもしれないが、それは悪魔のつけ込むところであって、実際に悪魔は存在し、働いているのだということをフランシスコ教皇、そしてさらにパウロ6世教皇も強調しています。

そういうことが、今日学ぶ箇所に出ているのであります。

それはともかく、わたしたちが日々の生活で出会うさまざまな困難、さまざまな悪の力に対し、わたしたちは霊的な力によって、つまり神の力によって対抗し、そして打ち勝つことが出来ますように

2019年7月15日 (月)

隣人を愛せよ

年間第十五月曜日 聖ボナベントゥラ司教教会博士 ミサ説教

2019年7月15日(月)、本郷教会昨日の主日の福音は、いわゆる「良いサマリア人」の話でありました。
誰が隣人であるのかという発想よりも、誰が隣人になったのかということの方が、神の愛を実行するために大切ではないだろうか、という話であったとわたくしは思います。

ところで、それでは改めて、隣人になる前に既に隣人になっている人との関係はどうなっているのだろうか、と考えさせられます。

わたしたちの生活は隣人との生活であり、隣人と言えばまず家族です。

同居している家族、あるいは同居していない家族、そして毎日顔を合わせる近所の人々、あるいは勤め先で一緒に働いている人です。

その時にしか会わない人のために出来ることをすることよりも、毎日一緒にいる人のために犠牲を献げるということの方が、かえって難しいのではないだろうか、という気がしますがどうでしょうか。

わたくし、自分の事を言うのはちょっと躊躇いたしますが、司祭になろうと思った時に今日のイエスの言葉を黙想しました。

イエスに従う者は、何もかも捨てなければならない。

しかし、自分にとって大切な家族がいて、その家族のことよりも、イエスの招きに応えることの方が大切だというならば、本当の意味で神の呼びかけに従うということになるでしょうが、家族のことは面倒だから、そっちは止めて司祭になろう、修道者になろうという動機であれば、イエスの教えに従うことにはならないだろうと思います。

日本のカトリック教会は家庭、家族という現実の中で、キリスト者がどう生きるべきか、ということについて話し合ったことがあります。それは1993年、第二回福音宣教推進全国会議でありました。

 

 

 

チェレと神林両司祭命日ミサ

命日記念ミサ案内

1.意向:元東京教区事務局長チェレスチーノ・カヴァーニャ
 神父とカトリック中央協議会事務局次長神林宏和神父へ 
 感謝と追悼

2.日時:2019年7月22日(月)午後4時

3.場所:カトリック本郷教会(文京区本駒込5-4-3)

4.司式者:岡田武夫(元宣教研究所所長、前東京大司教、
 現本郷教会司祭)

5.主催:小池俊子ステラ・コポレーション社長と岡田

6.参加自由

追記
ミサ後両師を偲んで食事をします。参加希望の方は岡田までご連絡ください。
  ad-okada@nifty.com
09069364998

 

 

2019年7月14日 (日)

「だれが隣人か」と「だれが隣人になったのか」

年間第15主日C年

2019年7月14日、本郷教会

第一朗読 イザヤ 66:10-14c

第二朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙 6:14-18

福音朗読 ルカ10:1-12,17-20

 

説教

ただいま読みましたルカによる福音10章は「善いサマリア人」の話を伝えています。

この話は、イエスと律法の専門家の対話から成り立っています。

聖書を読み解くときに、わたしたちは、いつも、この対話がユダヤ人の世界で行われ、言われたことだということを念頭に置かなければならないと思います。そのために多くの場合、主日のミサの朗読で、第一朗読では旧約聖書が読まれます。

イエスはユダヤ人でありまして、ユダヤ人の宗教であるユダヤ教の伝統の中におりました。律法の専門家はもちろん、モーセに授けられた 律法、いましめ、定め を専門的に勉強し、そして人々に教えることを自分の仕事としていたのであります。

さて、イエスと律法の専門家の間で行われた議論は、「永遠の命を受け継ぐためにはどうしたらよいのか」ということが主題でありました。律法の専門家は旧約聖書から引用して答えております。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」また、「隣人を自分のように愛しなさい」このおきてを実行することである。

イエスはその答えに対し、「それは、正しい答えである、それを実行しなさい」と、言われました。

話はそこで終われば、二人の間には合意が成立し、対立や緊張が生じないわけですけれども、話は続きます。後半のほうが、きょうの福音で もっとも大切な点であるのであります。

二人の間の議論が、よくかみ合っていないのです。「隣人を愛しなさい」ということについては合意しています。しかし、それから先の議論が うまくかみ合わない。「隣人を愛しなさい」といえば通常は、それでは、「隣人とはだれですか」という議論になります。

ところが、イエスは、隣人とはだれであるかということについてのご自分の考えではなくて、「隣人になる」ということをお話になる。

隣人であるかどうかをまず考えるのであれば、隣人であればその人を大切にする、隣人でなければ、すみませんが、そこまではできません、ということになる。この話を、わたしたちは何度も聞いているのでありますが、わたしたちが、もし、この話を自分の生活の中で実行するとなると、どうなるのでしょうか。

わたしたちは、いろんな人に対する責任を担っております。自分の仕事もあるし、家族の間の務めもあるし、近隣の人にしなければならないことも多々ある。「その人が自分にとってだれであるか」ということによってわたしたちの判断と行動が決められてしまっている。それが正直なところではないでしょうか。

この祭司、レビ人も、そこに半殺しの目にあっている人が倒れていても、その人に対して、自分が何かをなすべきだとは思わなかった、あるいは、思ったかもしれないが、いまほかにすることもあるし、あるいは、そういうことに関わると自分の仕事にさしつかえると思ったのか、結局何にもしなかったのであります。

おおむね、わたしたちも、この話を他人事のように聞いているときは平安でありますが、自分のことになると、もしかしたら、むずかしいかな。その人が自分にとってだれであるかによって、わたしたちの判断と行動が決められてしまっている。

そこで、このサマリア人のように行動するためには、いま一歩、自分の都合、自分の立場、自分の判断の、いま一歩、外に出ないといけないわけであります。ほんのちょっとでも外に出るということは、かなりの努力を必要とします。かなりのエネルギーを必要とします。

それを際限なくするわけにいかないのですね。このサマリア人のしたことは、その人にとってできる妥当な援助をしたと思われます。

わたしたちの場合も、いろいろな人の問題を全部背負い込んで自分の生活や仕事を放り出すというのとは良いことではない。自分の生活、仕事に支障をきたさない範囲でしょうか、とにかく、できることは何であるかを考えて、具体的に人を助けることになるのではないかとも、考えるわけであります。

イエスと、律法学者、ファリサイ人はしばしば対立しました。

律法を守るという点において、彼らの間に対立はなかった。ただ、「律法を守るとはどういうことか」、そして、神はそもそも、このような律法を授けられた「神はどのようなかたであるか」ということについて、大きな見解の違いがあったのではないだろうか。

神とは、どんなかたであるかについて、彼らの間には大きな隔たりがあったのではないかと思われます。

「安息日」の論争*を思い出しても、そのような気がします。

イエスは言われました、「わたしは律法を廃止するために来たのではない、完成するために来たのだ」。ですから、この「隣人を愛しなさい」という律法に対して、こちらから「隣人になる」という発想の転換を提示したのがイエスでありました。わたしたちの場合、具体的にどうすることがイエスの教えに叶う、教えを実行することになるのでありましょうか。

 

*安息日の論争

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書はすべて安息日をめぐるイエスとユダヤ人、律法学者、ファリサイ派との対立を述べている。以下に代表的な事例を一つ引用します。

ルカによる福音書

6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。

6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。

6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。

6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。

6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

2019年7月12日 (金)

聖霊の時代

年間第十四金曜日 ミサ説教

2019712()、本郷教会

わたしたちは、イエス・キリストを信じています。

イエスという人は、二千年前にナザレというところで成長し、そして三十年余りの生涯を終えました。

そのイエスは復活して弟子たちに聖霊を注ぎ、弟子たちはイエスの復活という出来事を人々に告げ知らせることになりました。

今わたしたちは、その弟子たちの宣教の結果、教会として存在しています。

イエスが登場するまでには、イスラエルの長い歴史がありました。

イスラエルの民の先祖はアブラハムという人であります。

そこで、イエス・キリストをよく理解するためには、イエスが登場する前のイスラエルの民の歴史と、そしてイスラエルの民の信仰を学ぶ必要があるのであります。

今、わたしたちは聖霊の時代を歩んでいます。

聖霊はわたしたちに何を教えてくださるのかということを一緒に学び、聞き、そして知る必要があるのであります。

―――

第一朗読  創世記 46:1-728-30

(その日、)イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。その夜、幻の中で神がイスラエルに、「ヤコブ、ヤコブ」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」

ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ファラオが遣わした馬車に父ヤコブと子供や妻たちを乗せた。ヤコブとその子孫は皆、カナン地方で得た家畜や財産を携えてエジプトへ向かった。こうしてヤコブは、息子や孫、娘や孫娘など、子孫を皆連れてエジプトへ行った。

ヤコブは、ヨセフをゴシェンに連れて来るために、ユダを一足先にヨセフのところへ遣わした。そして一行はゴシェンの地に到着した。ヨセフは車を用意させると、父イスラエルに会いにゴシェンへやって来た。ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」

 

福音朗読  マタイによる福音書 10:16-23

(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」

 

 

2019年7月11日 (木)

ヤボクの渡し

年間第十四木曜日 聖ベネディクト修道院長記念日 ミサ説教

2019年7月11日(木)、本郷教会

 今読みました「マタイによる福音」(マタイ10・7-15)の箇所は、7月7日の日曜日に読まれた「ルカによる福音」(ルカ10・1-12、、17-20または10・1-9)とほぼ同じ内容であります。

イエスが弟子たちを宣教に派遣した時の話でありました。

イエスの宣教は、生前の宣教と復活後の宣教とに分けて考えることができます。

復活したイエスの御命令に従って、世界中で福音を宣べ伝えた弟子たちの働きのおかげで、今日のわたしたちの教会があります。

 ところで、今日はこのところ毎日読まれている「創世記」にわたしたちの注意を向けたいと

思います。

今日の「創世記」(創世記44・18-21a、23b-29、45・1-5)ヨセフとその兄弟の物語であります。

ヤコブには十二人の息子がいました。

ヨセフは兄弟から妬まれて、エジプトに奴隷として売られてしまうという展開でありました。

さらに話を遡らせると、彼らの父はヤコブであり、アブラハムの息子イサクの子、ヤコブという人の物語をわたしたちは何回か読んできたわけであります。

 7月9日の朗読(創世記32・23-333)は、ヤコブがイスラエルという名前に変えられた次第が語られています。

この話が分かり難い。どういう意味だろうか。

聖書の解釈は、聖書全体、特にその個所の文脈の中で読み取るべきであります。

そうすると、この時ヤコブはどういう心境にあったのかということが、解釈の上で重要であり鍵になります。

ヤコブは非常に苦しい心境にあった。

ヤコブには二人の妻がいましたが、お母さんの故郷の家、つまり伯父さんの家でその二人の娘を妻とし、そのラバンという伯父さんに仕えて大変良好な関係を保ったのであります。

しかし次第に彼が栄えると伯父家の人達、いとこにあたる人やその使用人との間に摩擦が生じる。

そして、ラバンのところに居づらくなり、神のお告げに従い、二人の妻と相談して、故郷カナンの地に帰ることにしましたが、その帰り方があまり良くなかった。

こっそり逃げ出すというやり方で、自分の子供たち、妻たちと家畜等の財産を伴って逃げ出したわけでありますが、そこで当然逃げられた方は面白くない、追跡するという状況になったわけでありました。

幸い話がついたのですけれど、今度は行先で兄のエサウが待っているわけで、エサウの許には事前に召使を派遣して、膨大な贈り物を事前にもって行かせ、それを差し出して兄の怒りを鎮めようとした。

御承知のようにエサウはヤコブのことを非常に憎んでいた。

長子権と祝福を奪われた、その次第が創世記で展開しています。

兄エサウは弟ヤコブを殺そうとしたので、母はヤコブの方を愛していたので、ヤコブを自分の実家に逃がしてやったという物語です。

 今やヤコブは伯父ラバンのもとには帰れない。後には引けない、前に行くのも怖い、進退窮まったという状況になった。ヤコブはともかく「ヤボクの渡し」というところまで来るわけです。

そこはヨルダン川の「ヤボクの渡し」を渡る時に、彼はものすごい心の葛藤を覚えた。

ともかく、一行は一緒に川を渡りますが、ヤコブだけ引き返して一人でテントを張った。

なぜか?そこに何者かがやって来て、夜明けまで格闘したが、それがどういう人なのか分からない。

「イスラエル」という名前をその時からつけられたというのですが、ヤコブの心の葛藤を表す物語ではないかというように解釈されています。

どういう心の葛藤かというと、兄の怒りをどういう風に鎮めたら良いか、それから川を渡って行くしか選択肢が残されていないので、どうしたら兄の怒りを解くことができるかということを彼は終夜悩み、神に祈ったのであろう。

そして、神の怒りよりも神の優しさ 神の赦し 神の慈しみに信頼し、神様の助けを願って一晩過ごしたのだろうと思われるのであります。

 神に勝ったとなっていますが、人が神に勝つわけがないわけですけれども、ヤコブは神の怒りよりも神の憐みにより頼み、そして神の怒りよりも神の憐みを選び、そして神の怒りに打ち勝ったという体験をしたのだろう。

心の中で起こった出来事をこのような物語で書き記しているのではないだろうか。

 怒りの神と憐みの神。処罰する神と赦す神の間の葛藤を表わしていて、怒る神に赦す神の方が勝ったのだという意味ではないかという解釈が、わたくしには納得できる解釈であります。

なお、この機会に創世記をよく読んでください。

 

2019年7月 9日 (火)

悪魔の親分と言われた男イエス

年間第十四火曜日 ミサ説教

201979()、本郷教会

イエス・キリストは神の国の福音を宣べ伝え、そして人々の病気や患いを癒され、また悪霊に取りつかれている人から悪霊を追放するということをなさいました。

そのようなイエスと対立し、イエスを攻撃した人々がおりました。

それは、意外だと言えるかもしれないが、ファリサイ派の人、あるいは律法学者と呼ばれる人々で、この人達は非常に熱心に聖書を勉強し、そして聖書の掟を実行している人でありました。

福音書はいろいろな場面でイエスと律法学者やファリサイ派の人々が論争し、そして対立した場面を伝えています

今日の福音でファリサイ派の人々が、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」

と言った。(マタイ934)ということが伝えられています。

さまざまな悪口の中でも、この悪口は最も酷い悪口に属するのではないでしょうか。

イエスは彼らに「神を冒涜する者」と言われましたが、さらに「あの男は悪霊の頭に等しい者」とさえ言われたのであります。

そのようにイエスに敵対した人々に対してイエスはどのような態度をとったでしょうか。イエスは彼らの問題点は指摘しています。しかし、彼らの迫害を甘んじてその身に受けたのでした。イエスは「敵を愛するように」と教え、また「悪に対して悪を以って対抗してはならない」とも言われ、自分の教えを実行したのであります。

悪に対して善を以って悪に打ち勝ちなさいと教えました。

暴力を受けたら暴力で対抗し、相手をやっつけるとか壊滅するというやり方がありますけれども、悪に対して悪を以って報いてはならないというのが、イエス・キリストそして聖書の教えであります。

 

 

2019年7月 8日 (月)

あなたの信仰があなたを救った

年間第十四月曜日 ミサ説教

2019年7月8日(月)、本郷教会

12年間も出血が続いて、非常に苦しんでいた女性を、イエスがお癒しになりました。
「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」とイエスが言われた時、
その女性は癒されたのであります。出血症の女性の話はほかの福音書、マルコとルカも伝えております。
マルコの方がより詳しく述べております。どんなにかこの女性は苦しんできたことでしょうか。
あらゆる手段を尽くし、財産もすべて使い果たしておりました。
イスラエルの世界で、女性の出血ということは、非常に穢れたことだと思われていたので、
彼女に触ると自分も穢れた者になるというように、思われていたようであります。
そのような状況で、イエスに触れるということは、非常な危険を冒すことにもなると考えられました。
イエスは謂わば、その女性の穢れを自分で引き受けて、自分のものにして、その女性をお癒しになったのであります。
そして、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。
イエスはほかの人にも、この言葉「あなたの信仰があなたを救った。」と言っておられます。

現代の日本の社会で、この出来事をどのように受け取ったらよいでしょうか。
「あなたの信仰があなたを救った。」とイエスに言っていただけるような、強い深い信仰をもって人々に信仰を伝えることができますようにと、祈りたいと思います。

2019年7月 7日 (日)

平和のために働く

年間第14主日

201977日,本郷教会

 第一朗読 イザヤの預言 イザヤ661014

第二朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙

福音朗読 ルカ 101121720

 今日のごミサでわたしたちは、特に何を学んだらよいでしょうか。3つの朗読、そして集会祈願を通して、わたくしは、「平和」ということをご一緒に考え、学び、そしてそのために祈りたいと思います

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)と、イエスは言われました。

今日の第一朗読では、「主は言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう 平和を大河のように、国々の栄を洪水の流れのように。」(イザヤ6612)と言われています。

 また第二朗読では、「大切なのは、新しく創造されることです。神のイスラエルの上に平和と憐みがありますように」とあります。

 福音は、イエスが72人を遣わされたという話であります。

このときに、イエスが言われたのは、「財布も袋も履物も持っていくな。途中で誰にも挨拶するな。どこかの家に入ったらまず『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの平和はその人にとどまる。もしいなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」という言葉でありました。

 何も持たずに出かけるようにと、自分の必要のために、いろいろなこと、いろんなものが考えられるけれども、そういうものは持っていくな、という、なんと軽装備というのか、無防備というのか、今のわたしたちの考え方とはまるで反対のことをイエスは言われました。

 そのように言われてもなかなか実行できないなぁとまぁ感じます。そして、「この家に平和があるように」といいなさいと。その言葉をしっかりと受け止めていただければ良いのですが、必ずしもいつもそうなるわけではない。その場合、それから押し問答するとか、議論するとかいうわけじゃなくて、それはそれで終わり。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまるが、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。そう言われた。これはどういう意味であろうかと、考えさせられるのであります。しかしイエスはそう言われたのですから、単純にこの言葉を信じ、そのように実行するべきでありましょう。

 平和はすべての人にとって最も大切な、神様からの賜物、霊の、聖霊の実りであります。平和というのは争いがないということだけではなく、神様の恵みに満たされた状態、欠けることのない、神とのふさわしい関係にあるということだと思います。そのためには、わたしたちは神との平和のうちにいなければならない、それはほかの言葉でいえば、罪の赦しを受けているということをわたしたちがいつも確信していることではないだろうか。

 わたしたちは罪の赦しを受けているものであります。復活したイエスが弟子たちに現れて、最初に言われた言葉はなんであったかと思い出しますと、「あなたがたに平和があるように」という言葉でありました。

「あなたがたに平和があるように。」弟子たちはこのイエスの言葉を聞き、イエスの姿をみて、非常に喜んだのであります。

平和とは、神の御心が浸透しているという秩序であります。平和の君、キリストの恵みによって初めてもたらされます。

平和の願いはすべての人の願いであるはずです。しかし、神の平和、神の祝福を、受け入れられるとは限りません。それでもわたしたちは、ただひたすら平和を述べ伝え、そして平和を実現するために努力し、その結果は神の計らいにおゆだねしなければならないと思います。

 平和、それはわたしたち自身の心の平和であり、また神との平和であり、さらに、わたしたち人間とこの自然環境との平和でもあります。そしてこの世界、この社会の中に築きあげられるべき平和であります。

ヨハネ23世教皇は「地上の平和」という回勅を出されました。そして平和について述べています。

「それは、一つの秩序であり、真理を土台とし、正義によって築かれ、愛によって生かされ、そして自由によって実践されるものであります。」すなわち、イエス・キリストを土台にし、真理・正義・愛・自由という柱の上に建てられる家であると、ヨハネ23世は説明しました。

 日本の教会は毎年86日から15日、平和旬間を行っております。わたしたち本郷教会は、カテドラルに近い教会であり、今年もいろいろな企画が予定されておりますので、ぜひカテドラルで行われる行事、ミサにご一緒に参加したいと考えております。

 

命日

「命日祭のミサ」説教

2019年7月6日(土)、本郷教会

 死者のためのミサを「命日祭のミサ」と呼ぶことにいたします。

日本語で命日といえば、ある人の亡くなった日であり、祥月命日と言えば、亡くなった月のその日を指しているのであります。

わたしたちの場合、《命日》とはいのちの日です。どういういのちかというと、新しいいのちに生まれる日という意味であります。

死者のためのミサ、あるいは追悼のミサで、司祭が唱える叙唱の中に、次のような言葉があります。

「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています。」

いのちへの門に入った日が、命日であります。

わたしたちのもとから、天の父の家へと旅立った方々、今日はその方々をしのぶ日といたしましょう。

亡くなった人のいない家はないわけです。わたしたちのために生きた人達、友人・知人、そのほかいろいろな方、教会の中では司祭、亡くなられた方を思い起こし、その永遠(とわ)の安息のためにお祈りいたしましょう。

 イエスは言われました。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」

イエスが地上にこられたのは、わたしたちを天の父のもとへと連れて行くためであり、その道をイエスは準備されました。

「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。

わたしたちと一緒に、わたしたちを天の父のもとへと連れて行ってくださるのが、イエス・キリストであります。

そして、わたしたちの地上の体はなくなってしまいますが、わたしたちの慈しみ深い神は

わたしたちの体を栄光ある体、主イエス・キリストの復活の体と同じような体に変えてくださるのであります。 

もちろん地上の体は、火葬にすれば灰になってしまいますが、わたしたちのあたらしい命の体、それは霊的な体であり、わたしたちの目には見えませんが、イエス・キリストの復活の体と同じような体に変えてくださるとわたしたちは信じているのであります。 

本郷教会は、毎月第四主日のミサの共同祈願で、その月に亡くなられた方のお名前を呼んでお祈りしておりますが、それに加えてわたくしは、毎月の第一土曜日に故人、亡くなられた方のためにミサをお献げし、そのミサを「命日祭のミサ」としたいと思っております。

 

2019年7月 6日 (土)

神理解の相違

年間第十三金曜日 ミサ説教

2019年7月5日(金)、本郷教会

 昨日の福音は、イエスが中風の人を癒した話でありましたが、その際「あなたの罪は赦される」(マタイ9・2)とイエスが言われたことについて、律法学者がイエスを「神を冒瀆する者」であると考えたということを伝えています。

今日の箇所は、昨日の話とよく似ている話ではないかと思われます。

 イエスは、マタイという徴税人をご自分の弟子になさいました。

徴税人は、当時のユダヤの世界で罪人の代表とされ、非常に忌み嫌われていた人々でありました。

イエスはしばしば徴税人と一緒に食事をしたようであります。

今日の場面でも、「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」(マタイ9・10)とあります。

今日はファリサイ派の人々ですけれども、これを見てやはり律法学者のようにイエスにつまずいた。

「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。(マタイ9・11)

イエスは彼らにこたえて言われました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9・12)

 イエスが言われた「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」という言葉は、

旧約聖書の預言書 ホセア書の言葉でありました。

ちなみに新共同訳からその個所を引用しますと、こうなっております。

「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく、神を知ることであって 焼け尽くす献げ物ではない。」(ホセア6・8)

 イエスはしばしば当時の宗教的な指導書、宗教上の権威者と対立し、ついに十字架の刑に追い詰められるようになりました。

その理由、原因について、福音書がたびたび告げている場面から考えますと、神とはどんな方であるかという最も大切なこと「神理解」について、大きな相違があったからだと思います。

彼ら律法学者、ファリサイ派の人々が考える神と、イエスが人々に教えた神との間には大きな隔たりがあった。

イエスは、神とは人々の罪を赦し、そして人々の病を癒す方であると考えていたのであります。

 

2019年7月 5日 (金)

癒しと赦し

年間第十三木曜日 ミサ説教

2019年7月4日(木)、本郷教会

 中風(ちゅうぶ)の人を床に寝かせたまま、人々がイエスのところへ連れて来ました。

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。」(マタイ9・2)

イエスは、「あなたの病気は赦される」と言われたのではなくて、「あなたの罪は赦される」と言われた。それを聞いた律法学者はつまずいた。それは、罪を赦すことのできる方は神だけであるからです。イエスが、「あなたの病気は癒される」と言われたのであれば、「癒される」のかどうかは明白であります。もし失敗すれば、言ったことが実現しなかったわけですから、イエスは人々の前に恥を掻くということになります。しかし、イエスは、「罪は赦される」と言われたのです。なぜそう言われたのでしょうか。 

そこで、律法学者はこの言葉について、当然かもしれない疑問を持った。

イエスは言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(マタイ8・4)

どちらが易しいでしょうか。

なにしろ目の前に病人がいて、「あなたの病気は癒される、さあ起きて立ちなさい」と言ってその通りにならなければ大変ですけれども、「赦される」というのは、言うだけは簡単ですからね。赦されているかどうか、誰がどうして証明できるでしょうか。 

「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(マタイ9・4)

この答えは明白です。言うだけなら簡単だからです。

しかし、「起きて歩け」と言って、その通りにならなかったなら、大変なことになる。

その通りになったかどうかは直ぐに分かるわけです。

「罪を赦す」と言って、赦されているかどうかは、どうやって判定するのか。

イエスは、両方を言ったのです。

「あなたの罪は赦される。」赦されているという意味だと思う。赦されているのです。いたのです。しかし、律法学者はそれを認めない、信じない。その結果、イエスは冒涜の罪に問われることになります。

「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」(マタイ9・6)

これはその通りになるかどうかは明白なので、イエスがそう言われるとその通りになった。

「その人は起き上がり、家に帰って行った。」(マタイ9・7)

 ここで、わたしたちは改めて考えるべきことがある。

わたしたちは、「罪の赦し」を信じている。自分の罪が赦されているということを、どういう風に考えているか。

交通違反をしたとして、罰金を科せられたら、罰金を払わないと落ち着かない、わたくしの場合できるだけ早く払ってせいせいしたい。払ったらもう追及されることもないと安心する。

神様が赦しているということを、どうやって知るのか、知るかではなくて信じるかどうかなのですね。それが一つの重要な課題です。 

それから、それからもう一つ。「癒す」ということと、「赦す」ということの間に、関係があるのだろうか。

信仰のない人間なら、正直な気持ち、罪よりも病気を治してもらいたいという気持ちが勝っていないだろうか。多くの人は、あなたの言う罪の問題はどうでもいいのだ、この病気を治してくれと、そう思っているのではないだろうか。

しかし、人間にとって、わたしたちにとってどちらが大事なのでしょうか。「罪を赦してもらうこと」、「病気を癒していただくこと」、両方とも大事です。しかし、でも病気は癒していただいても、罪が赦されていないなら、その方が我々には大変なことであるはずなのです。

わたしたちは、本当に罪が赦されているということを、そしてそれがどんなに嬉しいことであるかということを、どれだけ日々感謝しているのであろうか、と思うのであります。

 今日の第一朗読は大変重要なところです。次の機会にお話ししたいと思います。

 

 

2019年7月 4日 (木)

見ないで信じる者は幸い

聖トマ使徒の祝日 ミサ説教
2019年7月3日(水)、本郷教会

 

今日は使徒聖トマスの祝日です。
トマスという人は、何といっても疑い深い使徒として知られています。
復活したイエスが弟子たちのところに現れた時に、トマスはその場に居合わせなかった。
それから一週間後に再びイエスが現れて、トマスに言われました。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20・29)

 

わたしたちの教会の成立は、イエス・キリストの復活という出来事を体験した人々の上に成り立ちました。
そして、復活を信じた使徒は見ないで信じたのではなくて、復活したイエスを見て、復活したイエスに出会って、イエスの復活を信じたのであります。
それ以後、わたしたちを含めて多くの人は、復活したイエスに直接肉眼で見るという体験はしていないが、イエスが復活したということを信じています。
わたしたちもイエスの復活を信じて、キリスト教徒になりました。
どうして信じることができたのかというと、イエスを見て信じた使徒たちがいたからであり、その使徒たちの証しを信じたからであります。

 

7月1日は「福者ペトロ岐部司祭と一八七殉教者」を記念する日でありましたが、日本には多くの殉教者がおり、殉教者というのは、「命を賭けて信仰を証しした人」という意味であります。
今、難しい時代を生きているわたしたちは、復活したイエスを見ないで信じる者として歩んでいます。
イエスは復活された、そして復活したイエスがわたしたちと共にいてくださる、と信じています。
しかし、復活したイエスがわたしたちと一緒にいてくださるということはどういうことだろうか。復活したイエスは何処におられるのか?
様々な困難や問題の中で、この信仰を日々新たにして歩んでまいりましょう。

 

どの時代もそうですけれども、根拠の無いいい加減な噂や、人を騙す話などが横行している時代であります。
そういう社会の、時代の、動きの中で、自分の人生を賭けても良いという真実に基づいて、日々歩んでいるわたしたちの信仰を、聖霊がさらに強めてくださいますように祈りましょう。

2019年7月 3日 (水)

イエスは誰か?

年間第十三火曜日 ミサ説教

2019年7月2日(火)、本郷教会

 「人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った。」(マタイ8・27)と今日のマタイによる福音が告げています。 

ナザレのイエスという人は、どういう人であるのか。

このことは、わたしたちキリスト者にとってだけではなく、人類の歴史の中で大きな問題であり、課題となっています。

 今日のマタイの福音(マタイ8・23‐27)は、何を告げているのでしょうか。

船というのは多くの場合、わたしたち教会の事をあらわしているという考え方があります。

教会が激しい嵐に襲われても、イエスは少しも慌てることなく、船に乗ったまま眠っておられた、そういう場面であります。わたしたちが慌てて右往左往しても、イエスは落ち着いて何事もないかのように眠っておられる、そういう場面であります。(教会という船にはイエスが乗っているので転覆することはない。) 

昨日今日と創世記の朗読でありました。

ソドムとゴモラの罪が非常に大きくなったので、神はソドムとゴモラを滅ぼそうとなさった。

アブラハムが取りなして、正しい人がいれば罰を下すことを止めていただけないでしょうかとお願いしたら、それでは何人の正しい人がいたら止めるか、そういう話が展開して,結局人数がどんどん減って、十人いれば滅ぼさないということになったのですが、十人もいなかったという話なのですね。

そして今日の箇所(創世記19・15‐29)では、ロトとその娘の3人だけが救われた。

ソドムとゴモラの罪というのは、どういう罪なのだろうか。創世記を読んで改めて人類の罪とは何かということを考えてみたいと思います。

人間が持っている罪、人類が直面している罪、人間自身が引き起こしている罪、そして人間が直接の原因ではないが、この宇宙の中で起こるさまざまな災害という問題があります。

神がお造りになったこの世界に、どうしてそういうことが起こるのだろうかという考えと、

しかし、神がお造りになった世界は、すべて神の栄光を現わしているのです。この信仰と世の罪・悪の存在との間の調和をどう考えたらいいでしょうか?

 

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