困難の中で
「困難の中で希望を確かめるためのミサ」説教
2019年7月27日(土)、本郷教会
「創世記」の第一章は、神が天地万物をお造りになったことを告げ、そして御自分のおつくりになった世界、被造物をご覧になって良しとされ、そして最後の六日目にすべてをご覧になられて、「極めて良い」と言われた、と述べています。「極めて」という言葉が入っています。
その「極めて良い世界」が、どうして「苦しみと悲しみに満ちた世界」になってしまったのでしょうか。
旧約聖書から新約聖書にいたる聖書の言葉はすべて、この問題 人間にとって最も重要かつ根源的と言ってよいこの問題に答えるものではないかと思います
どうしてこの世界にあってはならないことがあるのかという問題に答えるために、聖書が書かれていると思います。
さて、パウロは「ローマの信徒への手紙」の8章で言っています。
「現在の苦しみは将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足らないとわたしは思います。」(ロマ8・18)
そして、人間だけではなくすべての被造物も、解放の時を待っている、と言っています。現在は「虚無に服している」という言葉ですが、あるいは「滅びへ隷属している」が、すべての被造物はイエス・キリストの救いに与ることができる、その日がくると言っています。
またパウロは言います。まだ目に見ていないものを望むことが希望である。
もう見えていれば信じる必要はないし、希望することもない。
わたしたち人間について言えば、神はわたしたちを召し出し、もともと神に似た者、神の写し、神の似姿として作られた人間が、さらに神の子に相応しい者とされ、そしてイエス・キリストの復活の栄光に与る者となるのであります。
8章はそういうメッセージだと思います。
さて、マタイによる福音書の25章。
この個所は、教皇フランシスコが「いつくしみの特別聖年」を布告された時に、たびたび言及された箇所であります。
ちなみに「いつくしみの特別聖年」は、2015年12月8日無原罪の聖母の日から翌年2016年11月20日王であるキリストの日までの一年間でありました。
この時に、教皇がわたしたちに強くお望みになったことは、「神のいつくしみをより深く知り、そして神のいつくしみを実行する者でありなさい」ということでありました。
そして、神のいつくしみを実行するとは、マタイの福音に出てくる、困っている人、苦しんでいる人を助けるという仕事であります。
かなり長い福音の箇所ですが、4回も繰り返し同じ言葉が出てくることに、わたしたちは気がつきます。いつくしみのみわざとは、
飢えている人に食べ物を、
渇いている人に飲み物を、
裸の人に着る物を与えること。
泊まるところのない人に宿を貸し、
病者を見舞い、受刑者を訪問すること。
これが繰り返し4回も出てくる。4回も強調しているということになります。
「いつくしみの特別聖年」の勅書では、身体的ないつくしみのわざと、精神的ないつくしみのわざ、それぞれ7項目ずつを挙げられていました。
身体的ないつくしみのおこないの7つ目は、ちょっと意外な感じがしましたが、
「死者を埋葬する」、亡くなった人を埋葬する、ということです。これは、わたしたちは普通に行っていることですが、当時の世界の状況では大変なことだったのでしょうか。
そして、さらに精神的ないつくしみのわざを行うようにと勧めている。
この7か条を見ると、難しい事だなあという気がいたします。
ちなみに7つとは、
1.疑いを抱いている人に助言する。
2.無知な人に教える。
3.罪びとを戒める。
4.悲嘆に暮れている人を慰める。
5.人の侮辱を赦す。
6.煩わしい人を忍耐強く耐え忍ぶ。
7.生者と死者のために祈る。
です。これを、なるほどと思うか、あるいは疑問に感じるでしょうか。
これがカトリック教会が伝統的に伝えて来た良い行いでありまして、これを現代にさらに翻訳し直すとどういうことになるのでしょうか。
わたしたちは、個人としても、教会としても、この東京教区あるいは本郷教会にしても、このようないつくしみのわざをおこなっていると思います。不完全ですけれども、おこなっているのであります。
これが、カトリック教会が伝統的に伝えて来た良い行いでありまして、これを現代にさらに翻訳し直すとどういうことになるのでしょうか。
わたしたちは、個人としても、教会としても、この東京教区あるいは本郷教会にしても、このようないつくしみのわざをおこなっていると思います。
不完全ですけれども、おこなっているのであります。
今日のミサは、苦しみの中にある困難な状況にある人として、わたしたち自身が自分の信仰を確かめるということ、希望を新たにするということとともに、困難な状況にある人をどのようにして支援することができるか、どういう点を支援したら良いかということを、考え黙想する機会にしたいと思います。
どうしてこのように苦しみがあるかということを探求することは大切ですけれども、現に病気の人がいる時に、この病気が癒しあるいは楽にするということの方が緊急に必要なことである。
現に火事が起こっている時に、どうしてこの火事が起こったのか調べるのは後のことで、火事を消さないといけないわけであります。
どうしてこうなったかと考える方が、わたくしの癖になってしまっているのですけれども。
今為すべきこと、あるいはしてはいけないことを確かめることが、大切ではないかと思います。
« 神の写しである人間 | トップページ | 負い目をおゆるし下さい »
「ミサ説教」カテゴリの記事
- 死から命へ(2020.02.27)
- 「敵を愛しなさい」という難しい教え(2020.02.23)
- 使徒座(2020.02.23)
- 死から命へ(2020.02.21)
- 勘違い、思い違いはないか?(2020.02.20)
コメント