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2019年7月 5日 (金)

癒しと赦し

年間第十三木曜日 ミサ説教

2019年7月4日(木)、本郷教会

 中風(ちゅうぶ)の人を床に寝かせたまま、人々がイエスのところへ連れて来ました。

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。」(マタイ9・2)

イエスは、「あなたの病気は赦される」と言われたのではなくて、「あなたの罪は赦される」と言われた。それを聞いた律法学者はつまずいた。それは、罪を赦すことのできる方は神だけであるからです。イエスが、「あなたの病気は癒される」と言われたのであれば、「癒される」のかどうかは明白であります。もし失敗すれば、言ったことが実現しなかったわけですから、イエスは人々の前に恥を掻くということになります。しかし、イエスは、「罪は赦される」と言われたのです。なぜそう言われたのでしょうか。 

そこで、律法学者はこの言葉について、当然かもしれない疑問を持った。

イエスは言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(マタイ8・4)

どちらが易しいでしょうか。

なにしろ目の前に病人がいて、「あなたの病気は癒される、さあ起きて立ちなさい」と言ってその通りにならなければ大変ですけれども、「赦される」というのは、言うだけは簡単ですからね。赦されているかどうか、誰がどうして証明できるでしょうか。 

「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(マタイ9・4)

この答えは明白です。言うだけなら簡単だからです。

しかし、「起きて歩け」と言って、その通りにならなかったなら、大変なことになる。

その通りになったかどうかは直ぐに分かるわけです。

「罪を赦す」と言って、赦されているかどうかは、どうやって判定するのか。

イエスは、両方を言ったのです。

「あなたの罪は赦される。」赦されているという意味だと思う。赦されているのです。いたのです。しかし、律法学者はそれを認めない、信じない。その結果、イエスは冒涜の罪に問われることになります。

「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」(マタイ9・6)

これはその通りになるかどうかは明白なので、イエスがそう言われるとその通りになった。

「その人は起き上がり、家に帰って行った。」(マタイ9・7)

 ここで、わたしたちは改めて考えるべきことがある。

わたしたちは、「罪の赦し」を信じている。自分の罪が赦されているということを、どういう風に考えているか。

交通違反をしたとして、罰金を科せられたら、罰金を払わないと落ち着かない、わたくしの場合できるだけ早く払ってせいせいしたい。払ったらもう追及されることもないと安心する。

神様が赦しているということを、どうやって知るのか、知るかではなくて信じるかどうかなのですね。それが一つの重要な課題です。 

それから、それからもう一つ。「癒す」ということと、「赦す」ということの間に、関係があるのだろうか。

信仰のない人間なら、正直な気持ち、罪よりも病気を治してもらいたいという気持ちが勝っていないだろうか。多くの人は、あなたの言う罪の問題はどうでもいいのだ、この病気を治してくれと、そう思っているのではないだろうか。

しかし、人間にとって、わたしたちにとってどちらが大事なのでしょうか。「罪を赦してもらうこと」、「病気を癒していただくこと」、両方とも大事です。しかし、でも病気は癒していただいても、罪が赦されていないなら、その方が我々には大変なことであるはずなのです。

わたしたちは、本当に罪が赦されているということを、そしてそれがどんなに嬉しいことであるかということを、どれだけ日々感謝しているのであろうか、と思うのであります。

 今日の第一朗読は大変重要なところです。次の機会にお話ししたいと思います。

 

 

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