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2019年7月29日 (月)

神の写しである人間

間第十六金曜日 

聖マリアの両親聖ヨアキムと聖アンナの記念日 ミサ説教

2019726()、本郷教会

先日(724日)の「種蒔きのたとえ話」の続きであります。

種とは「神の言葉」、あるいは「主イエス・キリストの言葉」を意味していると思います。

神の言葉を聞く人の心の状態は、さまざまである。

ある人の心は道端のような状態にある、あるいは石だらけの所、あるいは茨の状態。

そして、良い土地の状態にある心に蒔かれた種は、実を結ぶ。

わたしたちの教会の使命は、宣教・福音化ということであります。

先日申し上げたと同じことですけれども、相手が良い心でないと何をしても無駄であるのか。

すると、人間には良い心の人とそうでない人とに別れるのであります。

良い心の人だけ相手にすれば良いのだろうか。

そういうことは言えないだろう。

人間は、そもそも神によって造られた者で、昨日の話で創世記126をどう訳すかという問題でしたけれども、ラテン語ではイマーゴデイImago Dei、英語でimage of Godと言います。

これは、「神のイメージである」ということです。

それを「写し」と訳す方が良いというのが昨晩のお話でしたが、人間は全部神によって造られた。

神から悪い者は出ない。

すべての人間は、神から出た者なのです。

そして、神はご自分の造られたものを見て、「良い」、「良い」、「良い」、そして最後に「極めて良い」と言われた。

この「極めて良い人間」が、どうしてこのような悪い事をするのだろうか。

この問題を、聖書全体が創世記から黙示録にいたる長い長い物語で説明しているのだろうと思われる。

「わたしたちの生活は、悪との闘いである。」と教皇フランシスコは言っています。

今日の福音に「悪い者」という言葉がありますが、「悪い者」とは悪魔のことであると思われる。

悪は悪い者、あるいは人間の心の中にある乱れた欲望である。

そうすると、わたしたちはその悪と闘わなくてはならない。

その悪との闘いを霊的生活とカトリック教会では言っております。

霊的生活、つまり神の霊に従う生活であります。

 

 

 

 

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