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2019年7月18日 (木)

「わたしはある」という神

年間第十五木曜日 ミサ説教

2019年7月18日(木)、本郷教会

 「出エジプト記」で神はモーセに自らを現わされ、御自分の名を問われて、「わたしはあるという者だ。」(出3・14)と言われました。

たいへん不思議な言い方であります。

「わたしはある。」という神は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を、モーセを通してカナンの地へ導く神でありました。

 さて、その同じ神、「わたしはある。」という神は、御子イエスを遣わされ、そして今日の福音でイエスは言われました。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)

わたしたちは、毎朝のミサの入祭の歌でこの言葉を聖歌として歌っており、またこのカトリック本郷教会の掲示板の標語として、この聖句をつかっております。

 実に人生には苦労が多い。

エジプトにおいて奴隷であったイスラエルの民は、エジプトからは解放されましたが、しかしその後、イスラエル民族は苦難の連続を経験しました。

イエスの時代にも多くの民は、病み衰え苦しみ悩んでいました。

そのような人々のところに遣わされたイエスは、すべての人を御自分のもとに招き、そして共に重荷を担う者となってくださいました。

 さて、今日の聖書福音書のメッセージは、わたしたちにとってどういう意味があるだろうか。

わたしたち自身、「疲れた者、重荷を負う者」(マタイ11・28)でありますが、わたしたちの周りには本当に多くの人が、人生に疲れて迷っているのであります。

そういう方々のために、わたしたちはいわばオアシスのようになって、休ませることができるように、安らぎ 希望そして力を回復することができるようにして差し上げたい。

本郷教会は、そのようなわたしたちの使命を、微力ではあっても主イエスが共にいてくださるという信仰に基づき、日々ささやかな努力を続けていかなければならないと思います。

 ―――

第一朗読  出エジプト記 3:13-20

(その日、柴の間から語りかける神の声を聞いた)モーセは神に尋ねた。

「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。

「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。

これこそ、とこしえにわたしの名,これこそ、世々にわたしの呼び名。さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。」

 福音朗読  マタイによる福音書 11:28-30

(そのとき、イエスは言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

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