無料ブログはココログ

« 「わたしはある」という神 | トップページ | 宣教・福音化のミサ »

2019年7月21日 (日)

いけにえではなく慈しみを

年間第十五金曜日 ミサ説教

2019719()、本郷教会

イエスは、律法学者やファリサイ派の人々とたびたび論争し、そして遂に彼らから抹殺されるに至る道を、自分から作ってしまったというようにも思われます。

その中に、「安息日の論争」というものがあります。

今日の福音は、その中の一つであります。

イエスの弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで食べたということについて、ファリサイ派の人から咎められたのでありました。

イエスは弟子たちを擁護して、旧約聖書の事例を引用しています。

ダビデとその兵士たちのことをまず言われましたが、さらにホセア書の言葉を引用しました。

このホセア書66節の「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえ ではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセ66)という言葉であります。

皆様覚えていると思いますが、教皇フランシスコが「いつくしみの特別聖年」を設けまして、わたしたちは約一年間、神のいつくしみについて学んだのであります。

いろいろな掟や定めがありますが、最も大切な掟 定めは、神のいつくしみに倣うということであります。

イエスが神のいつくしみをどのように実行したかという事例を教皇は述べながら、わたしたちもいつくしみ深い者であるように諭されました。

 

「神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセ66

 

イスラエルの人々は、神様にいけにえ を献げていました。

 

前の言い方では燔祭(はんさい)と言いましたが、いけにえ を全部焼き尽くしてしまうという献げ方でありました。それはいわゆる「ホロコースト」といういけにえ でありました。

 

しかし預言者が言われたのは、神は自分に献げられる動物のいけにえ ではなくて、自分を知ること、神のいつくしみを実行することを求めているということでありました。

 

 

 

昨日の福音は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ1128)というイエスの言葉でありました。

 

今、2019年という年、この東京という場所で、イエス・キリストの言葉をどのように受け止め、どのように実行したらよいかということが、わたしたち一人ひとりに、そしてわたしたちの教会 共同体に課せられた非常に大切な課題であります。

 

 

 

 

« 「わたしはある」という神 | トップページ | 宣教・福音化のミサ »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 「わたしはある」という神 | トップページ | 宣教・福音化のミサ »