ヤコブ使徒
年間第十六木曜日 聖ヤコブ使徒の祝日 ミサ説教
2019年7月25日(木)、本郷教会
七月二十五日は聖ヤコブ使徒の祝日であります。ヤコブはヨハネの兄弟であり、ゼベダイの子と呼ばれております。四十二年頃、ヘロデ王によって殉教しました。
スペインのコンポステラにはヤコブにささげられた大聖堂があり、有名な巡礼地となっております。
今日読まれた福音は、司祭叙階式の時の福音として、よく選ばれる箇所であります。
この話を読むと、二人共イエスの使命が何も分かっていなかったということが分かります。
イエスは二人に向かって、
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」(マタ20・22)と言われました。
たしかに分かっていないわけです。
分かっていないけれども、杯を飲むことができるかと言われると、二人とも「できます」と答えた。杯を飲むということが、何を意味しているのかということが分かっていなかったわけですが、「できます」と言った。そうは言いましたが、実際のところ、ヤコブは今日を記念するように、立派に殉教したのであります。
ほかの十人は、二人の兄弟のこの発言この行動を見て、非常に腹を立てた。ということは、十二人とも大同小異、五十歩百歩、同じようなことを思っていたと思われます。
イエスの弟子の集団は、世俗的な欲望や野心に支配されていた人たちでありました。
彼らは、イエスの受難、十字架、復活という出来事に出会い、気が動転してしまうような体験をしましたが、復活したイエスに出会って、すっかり新しい人として生まれ変わることができました。
今日の第一朗読の中で使徒パウロが言っていますが、
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。」
と言っています。
パウロという人は、生前のイエスを知らない。復活したイエスに出会って、電撃的な回心をし、すっかり変えられて、異邦人にイエスの福音を宣べ伝える人となり、ご自身殉教しました。
パウロの場合は最初から、イエスの死と復活の神秘を深く悟り、そしてすべての活動をイエスのために献げ、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラ2・20)とさえ言うようになりました。
わたしたちの場合、イエス・キリストの復活を信じ、その命に与る者とされましたが、過越の神秘を少しでも毎日の生活の中で生きることができますよう、聖ヤコブの取り次ぎによって、祈りましょう。
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