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2019年7月14日 (日)

「だれが隣人か」と「だれが隣人になったのか」

年間第15主日C年

2019年7月14日、本郷教会

第一朗読 イザヤ 66:10-14c

第二朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙 6:14-18

福音朗読 ルカ10:1-12,17-20

 

説教

ただいま読みましたルカによる福音10章は「善いサマリア人」の話を伝えています。

この話は、イエスと律法の専門家の対話から成り立っています。

聖書を読み解くときに、わたしたちは、いつも、この対話がユダヤ人の世界で行われ、言われたことだということを念頭に置かなければならないと思います。そのために多くの場合、主日のミサの朗読で、第一朗読では旧約聖書が読まれます。

イエスはユダヤ人でありまして、ユダヤ人の宗教であるユダヤ教の伝統の中におりました。律法の専門家はもちろん、モーセに授けられた 律法、いましめ、定め を専門的に勉強し、そして人々に教えることを自分の仕事としていたのであります。

さて、イエスと律法の専門家の間で行われた議論は、「永遠の命を受け継ぐためにはどうしたらよいのか」ということが主題でありました。律法の専門家は旧約聖書から引用して答えております。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」また、「隣人を自分のように愛しなさい」このおきてを実行することである。

イエスはその答えに対し、「それは、正しい答えである、それを実行しなさい」と、言われました。

話はそこで終われば、二人の間には合意が成立し、対立や緊張が生じないわけですけれども、話は続きます。後半のほうが、きょうの福音で もっとも大切な点であるのであります。

二人の間の議論が、よくかみ合っていないのです。「隣人を愛しなさい」ということについては合意しています。しかし、それから先の議論が うまくかみ合わない。「隣人を愛しなさい」といえば通常は、それでは、「隣人とはだれですか」という議論になります。

ところが、イエスは、隣人とはだれであるかということについてのご自分の考えではなくて、「隣人になる」ということをお話になる。

隣人であるかどうかをまず考えるのであれば、隣人であればその人を大切にする、隣人でなければ、すみませんが、そこまではできません、ということになる。この話を、わたしたちは何度も聞いているのでありますが、わたしたちが、もし、この話を自分の生活の中で実行するとなると、どうなるのでしょうか。

わたしたちは、いろんな人に対する責任を担っております。自分の仕事もあるし、家族の間の務めもあるし、近隣の人にしなければならないことも多々ある。「その人が自分にとってだれであるか」ということによってわたしたちの判断と行動が決められてしまっている。それが正直なところではないでしょうか。

この祭司、レビ人も、そこに半殺しの目にあっている人が倒れていても、その人に対して、自分が何かをなすべきだとは思わなかった、あるいは、思ったかもしれないが、いまほかにすることもあるし、あるいは、そういうことに関わると自分の仕事にさしつかえると思ったのか、結局何にもしなかったのであります。

おおむね、わたしたちも、この話を他人事のように聞いているときは平安でありますが、自分のことになると、もしかしたら、むずかしいかな。その人が自分にとってだれであるかによって、わたしたちの判断と行動が決められてしまっている。

そこで、このサマリア人のように行動するためには、いま一歩、自分の都合、自分の立場、自分の判断の、いま一歩、外に出ないといけないわけであります。ほんのちょっとでも外に出るということは、かなりの努力を必要とします。かなりのエネルギーを必要とします。

それを際限なくするわけにいかないのですね。このサマリア人のしたことは、その人にとってできる妥当な援助をしたと思われます。

わたしたちの場合も、いろいろな人の問題を全部背負い込んで自分の生活や仕事を放り出すというのとは良いことではない。自分の生活、仕事に支障をきたさない範囲でしょうか、とにかく、できることは何であるかを考えて、具体的に人を助けることになるのではないかとも、考えるわけであります。

イエスと、律法学者、ファリサイ人はしばしば対立しました。

律法を守るという点において、彼らの間に対立はなかった。ただ、「律法を守るとはどういうことか」、そして、神はそもそも、このような律法を授けられた「神はどのようなかたであるか」ということについて、大きな見解の違いがあったのではないだろうか。

神とは、どんなかたであるかについて、彼らの間には大きな隔たりがあったのではないかと思われます。

「安息日」の論争*を思い出しても、そのような気がします。

イエスは言われました、「わたしは律法を廃止するために来たのではない、完成するために来たのだ」。ですから、この「隣人を愛しなさい」という律法に対して、こちらから「隣人になる」という発想の転換を提示したのがイエスでありました。わたしたちの場合、具体的にどうすることがイエスの教えに叶う、教えを実行することになるのでありましょうか。

 

*安息日の論争

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書はすべて安息日をめぐるイエスとユダヤ人、律法学者、ファリサイ派との対立を述べている。以下に代表的な事例を一つ引用します。

ルカによる福音書

6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。

6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。

6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。

6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。

6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

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