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2019年7月31日 (水)

毒麦の譬え

年間第十七火曜日 ミサ説教

2019730()、本郷教会

毒麦の譬え

マタイによる福音1324-3036-43

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 

説教

イエスは、天の国のたとえを話されました。今日の福音は、「毒麦のたとえ」であります。

この世界、そしてこの世界に住んでいるわたしたち自身は、良い麦と毒麦の両方が撒かれている世界であり、わたしたちの心にも良い麦と毒麦がまかれているような状態にあると思います。

残念ですが、現在のこの世界、そしてわたしたちの心の中にも、毒麦にあたるものが存在しています。

さて、毒麦の譬え話によると、早く毒麦を引き抜いてしまえばよいのにと思う人がいました。

しかし、主人は言います。『今はその時ではない。成長するまで待たせる』と言われます。

その理由は、先ずは良い麦と毒麦の区別が難しい、見たところよく似ているのです。

そして、もう一つ重要な理由があります。それは、良い麦と毒麦が、同じところで一緒に育っている。そうすると、外見が似ているだけでなく、その根が絡まってしまっている。

毒麦だけ引き抜くことが難しい。毒麦を引き抜くと、良い麦も一緒に抜かれてしまうのである。

世の終わりになれば、両者の区別はハッキリする。

この世界にどうして様々な問題があるのだろうか。神が造ったこの世界は極めてよい世界ではないのか。神はどうしてこのような状態を見過ごしておられるのか。

そのような疑問があります。

「毒麦のたとえ」はそのような疑問に対する一つの答えであります。

この世界では、善と悪と言うものは、はっきりと区別できない。人間についても同様である。

同じ人が良いことをすれば、悪いこともする。

悪いことをしないようにするには、その人自身を無いものに、つまり存在しないものにしなくてはならない。

病気の治療のことはよく分かりませんが、悪い細胞を殺すための薬は、同時に良い細胞にも害を与える副作用というものがあるそうであります。

毒麦はどうして入って来たのか。誰が入れたのか。

毒麦を撒いた敵は悪魔である、と福音は伝えています。

毒麦だけ切り離して見分けてそれを取り除くならば、良い麦も一緒に抜かれてしまうので、神は慈しみ深く寛大に、両方が育つままに任せて、世の終わりに総決算をしてくださる。

そのように今日の福音は言っております。

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