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2019年7月 6日 (土)

神理解の相違

年間第十三金曜日 ミサ説教

2019年7月5日(金)、本郷教会

 昨日の福音は、イエスが中風の人を癒した話でありましたが、その際「あなたの罪は赦される」(マタイ9・2)とイエスが言われたことについて、律法学者がイエスを「神を冒瀆する者」であると考えたということを伝えています。

今日の箇所は、昨日の話とよく似ている話ではないかと思われます。

 イエスは、マタイという徴税人をご自分の弟子になさいました。

徴税人は、当時のユダヤの世界で罪人の代表とされ、非常に忌み嫌われていた人々でありました。

イエスはしばしば徴税人と一緒に食事をしたようであります。

今日の場面でも、「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」(マタイ9・10)とあります。

今日はファリサイ派の人々ですけれども、これを見てやはり律法学者のようにイエスにつまずいた。

「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。(マタイ9・11)

イエスは彼らにこたえて言われました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9・12)

 イエスが言われた「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」という言葉は、

旧約聖書の預言書 ホセア書の言葉でありました。

ちなみに新共同訳からその個所を引用しますと、こうなっております。

「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく、神を知ることであって 焼け尽くす献げ物ではない。」(ホセア6・8)

 イエスはしばしば当時の宗教的な指導書、宗教上の権威者と対立し、ついに十字架の刑に追い詰められるようになりました。

その理由、原因について、福音書がたびたび告げている場面から考えますと、神とはどんな方であるかという最も大切なこと「神理解」について、大きな相違があったからだと思います。

彼ら律法学者、ファリサイ派の人々が考える神と、イエスが人々に教えた神との間には大きな隔たりがあった。

イエスは、神とは人々の罪を赦し、そして人々の病を癒す方であると考えていたのであります。

 

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