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2019年7月18日 (木)

幼子のような者

年間第十五水曜日 ミサ説教

2019年7月17日(水)、本郷教会

 第一朗読は出エジプト記であります。

いよいよ主なる神がモーセに御自分を現わされる次第が告げられています。

モーセに現れた神は、ナザレのイエスを通して人々に、さらに天の父をお示しになりました。

イエスはその生涯を通し、その言葉と行い、しるし、様々な秘跡などを通して、人々に天の父を示されました。

イエスに出会ってイエスを信じた人もいますが、イエスの数々の行い、奇跡をみても悔い改めない人々もいたのであります。

昨日の福音は、数多くの奇跡を行われた街々をイエスがお叱りになった、ということが出ております。

 今日の箇所は、それとは調子が変わって、それでもと言うべきでしょうか。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11・25)

「これらのこと」というのは何でしょうか。

イエスを信じ受け入れた人は、幼子のような者、あるいは小さな人々、あるいは心の貧しい人々、そういう表現で言われている人々であります。

「知恵ある者や賢い者」(マタイ11・25)はイエスを認めなかった。

認めないどころか、イエスに敵対するにさえ至ったのでありました。

ナザレのイエスという大工の子、御自身も大工をしていたらしい、そういう人が説く神の国の福音は、当時のユダヤの社会の指導者たち、政治的な宗教的な社会的な指導者たちにとっては、とても受け入れ難いことであったようです。

貧しい人、苦しみ悩む人、何も自分を支え自分を表わし伝える術を持たない人にとっては、それは神様からの恵みであり、そのような人を通して神様は慈しみ深い神、すべての人の救いを望まれる神であるということをお示しになったのだと思います。 

二千年前にガリラヤで起こった出来事を福音書は伝えていますが、それでは今ここで、つまり2019年この東京というところで、福音とは何であるのか、福音を宣べ伝えるということはどういうことであるのかという、大変重要な課題をわたしたちはいわば突き付けられていると思います。

 

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