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2019年8月

2019年8月18日 (日)

宣教・福音化

宣教・福音化のための土曜日のミサ 説教

2019817()、本郷教会

 

わたしたち教会がなすべき使命は「福音宣教」、あるいは「福音化」という言葉で言い表されます。

今日の福音でイエスは言われました。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタ2819

イエスの弟子をつくることが、福音宣教であると思います。

しかし、イエスの弟子になるということと、福音を受け取ってイエスに従う者になるということの間に、繋がりがあるはずでありますというよりは同じことであります。

イエスの教えは「福音」と呼ばれ、喜ばしい便りであります。

教会は、人々にとって、喜ばしい便りを伝えてきました。

そこで多くの人が教会に加わった。

当初、イエスの福音を受け入れた人は、貧しい人々でありました。

イエスの周りに集まった人は、貧しくそして力がない、社会の中で周辺に押しやられていた人々であります。

「貧しい人々は、幸いである」(ルカ620)、あるいは「心の貧しい人々は、幸いである」(マタ53)とイエスは言われました。

貧しい人にとって、イエスの存在とイエスの言葉は、本当に喜ばしい言葉、救いの言葉でありました。

ところで、時代は移り変わって、キリスト教は当初は迫害される宗教でありましたが、ローマ帝国の中で非常に人数が増えると、ローマ帝国はキリスト教徒の存在を認め、そして紀元313年という年に、キリスト教を公認しました。

そして、その後キリスト教はさらに発展し、ついにローマ帝国の宗教、いわば支配階級の宗教となりました。

そこから本来の教会の在り方に少しずつ変化が生じてきたのであります。

貧しい人の宗教であった、貧しい人のための福音であったにもかかわらず、支配する人、権力のある人、財産を持っている人、名誉のある人々の宗教になっていったために、本来のイエスの教えと逸れていくという問題が生じたわけであります。

そこで教会は、何度も改革をしてきました。

1962年から1965年、「第二バチカン公会議」が開催されました。

その公会議を受けて、その10年後の1975年にパウロ6世教皇は福音宣教についての新しい教えを発表しました。

日本のカトリック教会としては、1987年に「福音宣教推進全国会議」を開いて、日本の社会にイエス・キリストの福音を宣べ伝える努力をすることを再度決意したのであります。

その時に、「開かれた教会」にしようという目標を掲げました。

そして、貧しい人、苦しんでいる人、孤独に苦しんでいる人々にとっての温かい交わりが憩い、助け、支えとなる、そういう共同体を造ろうという決心を表明したのでありました。

それからもう30年以上経ったわけでありますけれども、この決意はどの程度実行されてきたでしょうか。

開催時の決意を実行する当事者の一人であるわたくしとしては、とてもまだ道は遠く、大変恥ずかしいという状況にあると思います。

一人ひとりの人が、自分にとって福音とは何であるのか、自分はなぜキリスト者になったのか、どういう喜びをもって信者になり、どういう支えをいただいてきたのかということをご自分の言葉で話し、かつその信仰を生活の中に反映させることが、本当に正しい有効な宣教ではないかといつも考えております。

この暑い夏が過ぎて、秋になる時に改めて教会の使命をご一緒に考えたいと思います。

よろしくお願いします。

 

 

 

 

2019年8月16日 (金)

離縁と離婚

年間第19金曜日ミサ

 第一朗読  ヨシュア記 24:1-13

 福音朗読  マタイによる福音書 19:3-12
(そのとき、)ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

 説教

今日の福音はイエスとファリサイ派の人々との議論を伝えています。それは、結婚と離婚についての論争でした。どういう理由があれば離縁してよいのかということをファリサイ派の人々はイエスに問いかけました。

今読んだ福音の箇所からどんな文脈で議論が行われたのか、ということを考えてみますと、イエスは、男性優位の社会の中で、女性の立場から、女性を守るために発言しているように思います。

本来、離婚ということはない筈なのです。しかし当時現実には、男性が自分のほうの一方的な理由だけで妻を離縁することが珍しくはなかったので、妻を守るために、離縁する場合はどのような理由が必要かということを律法で定めたのであろうと思われます。

これはイエスの時代の話ですが、現代はどうなだろうか、ということになりますと、わたしたちは婚姻については、地上の法律である市民法、例えば民法などと、教会の法律である教会法の二種類の法律のもとに置かれているのです。そこで両方の定めを知らなければならない、ということになります。教会は神聖な結婚を守るために様々な努力をしてきました。しかし、残念ですが、現実には、破綻してしまう結婚があります。その当事者をどう救済するかということについては、教会は配慮してきました。まず離婚はできなくとも教会法上の『別居』という選択肢があります。また婚姻の解消、あるいは婚姻の無効宣言という可能性もあります。このような問題については、教会法の勉強をした専門家がいまして、関係者からの相談に応じることになっています。

結婚・離婚の問題は非常に微妙であり、重要であります。その解決のためには、教会二千年の知恵に助けてもらうという道があるということをお伝えします。

2019年8月15日 (木)

聖母の被昇天

聖母の被昇天

                                                                                                                2019年8月15日、本郷教会

第一朗読黙示録11.19a,12.1-6,10ab

第二朗読:1コリント15.20-27a

福音朗読:ルカ1.39-56

 

福音の本文

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 説教

皆さん今日は8月15日です。わたしたちカトリック信者にとっても日本国民、あるいは世界中の人々にとっても記念すべき日です。

8月15日は聖母マリアの被昇天を祝う日であり、また、第二次世界大戦、あるいはアジア太平洋戦争が終わり、平和が回復された日、日本にとっては敗戦を受け入れた日でもございます。

8月6日から15日はカトリック平和旬間できょうはその締めくくりの日となります。

マリア様のこと、平和のこと、わたしたちの日々の霊的生活のことにとって非常に意味深い日であります。わたしにとっては、この本郷教会での初めて聖母の被昇天の日です。

 聖母の被昇天という教えは、1950年に、時の教皇 ピオ12世が、正式にカトリック教会の教えとして、すべての人に向かって宣言して教義として定めた教えでございます。

すべての人は死ななければなりません。遺体は腐敗するのです。葬儀とは、遺体への尊敬を込めた葬送の儀礼と申しましょうか、聖母の場合は、そのご遺体は腐敗を免れて天に上げられたとわたしたちは信じます。それは聖母が死後直ぐに主イエスの復活の体の状態に上がられたということを意味しています。

 きょうの第二朗読で使徒パウロが教えていますが、わたしたちも主イエス・キリストのご復活に与り、栄光の体に変えていただけるという希望を与えられているのです。わたしたちの生身の身体は朽ち果てても、主の復活の体と同じような復活の体、朽ちることのない永遠の命を表し伝える体にしていただけるのです。

本日の第二朗読は述べています。

一人の人によってこの世に死が入ってきたが、一人の人によってすべての人にいのちが及ぶことになった。このいのちとは、わたしたちすべてのものに与えられる復活のいのちであります。

 ところで、きょうは第一朗読に注意を留めていただきたい。ヨハネの黙示録を読んで感じたことを申し上げたい。

身ごもった女と竜の壮絶な戦いが述べられています。

女とはわたしたち神の民を指しており、竜とはサタン、悪魔、悪の力を意味しているといいます。

本郷教会では昨年7月から火曜の晩に教皇文書の「読書会」をしてきました。無事、一年が経過しましたが、先日、三番目の文書『喜びに喜べ』を終了しました。

ここで教皇フランシスコが強調している点は、キリスト者の日々は悪とのたたかいである、ということです。悪とはサタンであり、人間を悪へ誘う霊的な存在です。

主の祈りの中で「悪からお救いださい」と祈っておりますが、それは、悪魔の誘惑に陥らないように守ってください、という意味であります。

悪との戦いとは、悪霊の誘惑を退け、聖霊の導きに従うことに他なりません。

それは思い上がらないように、高ぶらないようにとの聖霊の導きに従うことであります。

マリアの賛歌、マグニフィカトは述べています。

 主はその腕で力を振るい、

 思い上がる者を打ち散らし、

 権力ある者をその座から引き降ろし、

 身分の低い者を高く上げ、

 飢えた人を良い物で満たし、

 富める者を空腹のまま追い返されます。

 その僕イスラエルを受け入れて、

 憐れみをお忘れになりません、

それは権力への欲求、名誉、所有への欲望を放棄し、貧しい人々へ仕えることを意味しています。

 

主イエスと聖母の生き方に倣って、謙遜、柔和に生きることこそ、平和を実現するために使徒として生きることなのです。

日々そのような歩みを続けることが出来ますよう、聖霊の導きを祈りましょう。

アーメン。

 

2019年8月14日 (水)

兄弟の罪を赦す

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教

                                                                                                                                             2019年8月14日

 第一朗読  申命記 34:1-12

 福音朗読  マタイによる福音書 18:15-20
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 

説教

今日は聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の殉教を記念します。

昨日の福音は、子どものようにならなければ天の国に入ることが出来ない、という主イエスの教えでありました。それはマタイによる福音の18章の最初の部分にある教えです。今日の福音は同じ18章から取られています。そこで18章全体を見ますと、見出しだけ見れば、最初の話は先ほど言ったように、天の国一番偉い者は誰か、という話で、次は、小さな者を躓かせてはいけないという話、そして次は、迷い出た羊の話。100匹の中で一匹が迷い出た時にどうするかという話。それから今日の箇所で、兄弟に忠告する場合にどうするかという話。ちなみにそのすぐあと、兄弟が自分に罪を犯したなら、7の70倍まで赦しなさいという教えであります。

そいう文脈の中であらためて今日の教え、「兄弟的忠告」という教えを読んでいきましょう。

「兄弟があなたに罪を犯したなら」とあります。兄弟がいて、その兄弟が自分に罪を犯した、という場合。どんな罪なのか分かりませんが、罪を犯した場合ですから、自分とその兄弟の間の問題なのですね。あまりこの言葉に注意を向けていなかったのです。誰かが困ったことをしているとか、問題を起こしているという場合に、その人に忠告するということはよくあるのですが、自分に罪をおかした場合、となると、なかなか難しい(ケースだ)という気がするのです。わたしたたちはそういう場合どうしているだろうか。その兄弟に直接言うでしょうか。なかなか言わないような気がする。言うのは難しい。イエスは、二人だけでまず話し合いなさい、二人だけのところで忠告しなさいと言っている。こちらの言うことを聞き入れてくれたら、大変それはよろしい。兄弟を取り戻したことになる。失敗すれば、二人きりの話ではうまくいかなかったので、他に一人か二人一緒に話を聞いてもらうということになる。それで話がつけばよろしいが、それでも聞き入れてもらえなければ、教会に申し出なさい。マタイの福音が成立したころ、教会共同体というものがすでにあった。その共同体が彼の問題を取り扱う。それでも彼が自分の過ちを認めなければ、異邦人か徴税人と同様にみなしなさい。これはどういう意味だろうかと思いますが、教会共同体の交わりから外すという意味だろうと思います。(わたしの解釈ですが。)

それで地上でつなぐことは天上でもつながれるし、地上で解くことは天上でも解かれることになります。

これは、ペトロに言われたことと同じことのようですが、「あなたがた」と言っていますので、教会共同体に言ったことであって、共同体として兄弟の罪の問題をどういうように扱うか、ということを言っている。

そして、その次の話は、7の70倍赦しなさい、となります。

この話の展開をどういう風に受けとめたらよいだろうかと思います。

「兄弟を赦す。」

赦すためにはその兄弟に、自分の過ちを認めてもらえるようにしないといけない。そこで戒めるわけです。過ちを過ちでないないとすることが赦すことではないのであります。しかし、赦しなさい、7の70倍も赦しなさいと言っておられる。

どう考えたらよいのか?

一人の兄弟を大切にするという思いが強く滲んでいるように思います。

 

子どもの心

間第19火曜日

8月13日 

第一朗読  申命記 31:1-8

福音朗読  マタイによる福音書 18:1-5、10、12-14

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

[ これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 

説教

今日のイエスの言葉をご一緒に黙想しましょう。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

「心を入れ替えて子供のようになる」とは何を意味しているでしょうか。わたしたち大人は自分の考え、自分の思い、というものをもっています。すでに成長する過程で、物事を見、判断するための枠組みが出来ています。その枠組みに合わせて物事を判断し人の価値を決めたりしています。まだ子どもにはそのような枠組みが出来ていない。白紙のような状態でしょうか。教育というのは、子どもに正しい考え方、判断力をつけるようにすることだろうと思います。

子どもの場合、善い事、悪い子も、そのまま子どもの心に入って、刷り込まれてしまいますので大人の責任は重大だと思います。

天の国とは、神様の恵みが行きわたっている状態です。天の国と神の国は同じことです。神の支配が神の国です。わたしたちは、頭では、神の恵みを受け、神の御心を行うつもりでいますが、なかなか素直に、謙遜に、神様の恵みを受け取るようには出来ていないと思います。

例えば、天の国で一番偉いのは誰か、ということが弟子たちの関心事でありました。偉いかどうかということが彼らにとって大切であったようであります。

「偉い」というのは通常の意味で「権力がある」ということです。あるいは、「名誉がある人である」あるいは「人を動かす力がある」ということでしょうか。

自分が偉いかどうかということを第一の関心にする人は天の国の人ではないと思います。

ではわたしたちはどうだろうかと思います。本当に柔和、謙遜なイエスに倣って生きているだろうか、と思います。

この前の日曜日の福音ですが、わたしたちは、自分の生涯の終わりにその人生の総決算をしなければならないのです。その時に、どれだけ柔和、謙遜に生きたか、そして平和を実現するために力を尽くしたか、ということが問われているのだと思います。

 

2019年8月13日 (火)

ペトロの魚

年間第19月曜日ミサ

 

第一朗読  申命記 10:12-22
(モーセは民に言った。)「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。」

 

福音朗読  マタイによる福音書 17:22-27
(イエスと弟子たち)がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

 

説教

今日の福音はイエスが「神殿税」という税金を納めたという話であります。当時神殿税という税がありまして、人々は皆、神殿に税を納めなければなりませんでした。イエスは通常のイスラエルの民としてその義務を負っていたわけです。しかし、他方イエスは神のおん独り子ですので、自分の家である神殿のためには、人々から税を取り立てる側にいるわけです。それでも人々を躓かせないために、税を納めなさいとペトロに言ったのです。

ガリラヤ湖から取れる魚の口の中に銀貨一枚が見つかったのでそれをもってイエスとペトロの分として納入させました。ガリラヤ湖に行くとペトロの魚というのがいますがたぶんこの魚のことかもしれません。

昨日の日曜日わたしは、人は人生の最後の時に、最終的で決定的な神との出会の時を迎えるのであるから、そのときに備えて、毎日しっかりと目を覚まして歩みなければならない、という話を致しました。

主日の第二朗読はヘブライ書でありまして、信仰の模範を示した人々の話が告げられていました。その代表者はアブラハムであります。アブラハムは一子イサクを焼き尽くすいけにえとして献げるようにと神に命じられました。分かりにくい話ですが、それでもアブラハムは信仰によって神に従おうとしたのです。

わたしたちの地上の旅は仮住まいの旅であって、天には永遠の住処が備えられていると信じます。わたしたちはこの信仰に従い、天の故郷に向かって日々歩んでいるのです。その際、三つの対神徳、信望愛、信仰、希望、愛にいつも身を固めて、神を信じ、神を愛し、隣人を愛し、そして希望をもって、歩むようにしなければなりません。

そして同時に、地上における市民としての義務を果たしながら、神が命じている務めを行います。その務めとは、社会的弱者の保護ということです。旧約聖書は、今日の第一朗読、申命記などで繰り返し、社会的弱者である、孤児、寡婦、寄留者を大切にするようにと、イスラエルの民に繰り返し命じているのです。

 

 

2019年8月11日 (日)

日本は平和か?

年間第19主日C年

2019年8月11日、本郷教会

第一朗読 知恵の書 知恵18:6-9

第二朗読 使徒パウロのヘブライ人への手紙 11:1-2, 8-19

福音朗読 ルカ12:32-48

 

説教

日本の教会は、平和旬間をいま過ごしております。昨日は炎天下、カテドラルでの東京教区平和旬間行事に参加してくださった方々、ほんとうにお疲れ様、ありがとうございました。

「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」とイエスは言われました。

わたしたちが主イエスと決定的にお会いするとき。それは人類でいえば、イエスの再臨のときでありましょうし、個人でいえば、わたしたちの最後のときでありましょう。そのときに問われることがある。

「あなたはどう生きたのか。」そのどう生きるということの中に、あなたは平和の実現のためにどのように働きましたか、という問いがあると思います。

「平和」とは何かということをひとことで、言葉でいうことは難しいし、あまり意味のないような気もいたしますが、それは「調和」ということではないか。

自分と神との調和、ほかの人との調和、自然との調和、そしておそらく自分自身を受け入れる平和ということではないだろうかと思うのであります。

カトリック教会 総体全体として2千年の歩みの中で平和のために力を尽くしてきましたが、非常に不充分であったということも認めざるを得ない。

ヨハネ・パウロ2世教皇、列聖された教皇は、みなさま、覚えていらっしゃると思いますが、「紀元2千年という歴史の大きな節目を迎えるにあたって、心からの反省をしましょう」と言われました。その反省の中に、ある意味で非常に政治的なことが入っている。全体主義政権が、基本的人権を侵害したときに、見過ごしてしまった、或いは黙認してしまった、ということがひとつ。それから、わたしたち教会の子ら、ま、教会の子っていうと教会のメンバーのことでしょうが、真理に仕える熱心さのあまり、暴力を使ってしまったということを言っております。真理と暴力と、非常に微妙な関係にある。暴力を行使することをイエスは否定しました。そして、敵を愛するように教えました。教会は、しかし、その教えを忠実に守ることには失敗したことがある。

日本の教会総体としてはどうだったかというと、この冊子(「戦後70年司教団メッセージ 平和を実現する人は幸い」カトリック中央協議会)をぜひお読みいただきたい。入口に置いてあります。戦後50年、60年、70年、節目のときにわたしたちは、日本の教会の、戦争についての反省を行いました。特に50年のときに、なぜわたしたちは結果的にあのアジア・太平洋戦争、多くの尊いいのちが失われたあの戦争をとめないどころか、結果的に協力してしまったのはなぜだろうかという反省をしたのであります。

そして、60周年のときには、わたしたちが戦争を深く反省した結果うまれた憲法を、日本国憲法の中で、特に政教分離の規定と、それから戦力不保持、即ち憲法9条を大切にすることを改めて誓い、そして政府と人々に訴えました。「非暴力による平和」ということをあらためて訴えたのであります。

昨日の平和旬間行事で、中野晃一先生のお話、それから菊地大司教のミサに参加して感じましたことをひとつ、ふたつ申しあげてわたしの話を締めくくりたいと思います。

中野先生の話は非常に興味深いものでありました。彼は、前後関係が切れてしまいますが、わたしは日本の社会、けっこういい社会じゃないかと思っていたのだけれども、人間関係が冷えている、冷たくなっていると。自己責任ということをいわれて、困っている人がいても、それは自分のせいだという雰囲気が支配的だということを言われたのですね。あ~そうなのか、そういえば、そういう気もすると。それがひとつですね。それから、韓国との関係に言及されて、韓国のことをもっと大切にしないとだめだと。一番大切な国なのです。隣国、長い歴史上の付き合いがある。日本と韓国は力を合わせてこの極東の平和を守らないといけない。今、中国という大国とアメリカという大国の間にものすごい緊張が生じている。そのあいだで、日本などはすぐにやっつけられてしまうし、ひとたまりもないし、朝鮮も半島が2つに分裂してしまって非常な 緊張関係にある。そういう中でごちゃごちゃしている場合じゃないのです。日本の国益のために大切だ。別に信仰上の理由とか言ってないんですが、非常になるほどと思いました。

それから、ミサのほうですが、たしかに日本はここ60年70年、戦争はしていないし戦争に加わっていない、戦争に加わっているかいないかは微妙ですけれども、戦争によって殺したり、殺されたりはしなかった。しかし、ほかの理由で殺されているのですね。いのちが粗末にされている。障がい者が虐殺される。それからさらに、悲しいことに、自死、自殺者が多い。一時、毎年3万人を超えていた。*3万人とは大変な数字なのですね。10年経つと30万人ですからね。大変な数字なのです。10数年、毎年3万人を超える人が自殺した。自殺未遂者はたぶんその10倍はいるだろう。政府はじめ多くの方の努力で3万人は切るようになったけれども、依然として2万人台の人が死んでいる。この事実は戦争よりももしかしたら悲惨かもしれない。

人間が本当に粗末にされているのかなぁ。こんなに安全な国はないと思うのですけれども、しかし逆説的に、何よりも自分で自分を大切にするということが非常に不安定になっているのではないだろうかと。わたしたちキリスト者はこの事実の前に奮起しなければならないと思います。

*1998年より14年間、連続3万人以上が自殺した。2003年がピークで3万4427人。また自殺未遂者については次のような報告も見られる。

53万5000人―――。 これは過去1年以内に自殺未遂を経験した人の数である(推計)。 「自殺未遂者は、自殺者数の10倍程度」というのが、これまでの定説だった。ところが日本財団が行った調査で、20倍近くもいることが明らかになったのである。しかも、そのうち、女性の49%、男性の37.1%が、「4回以上、自殺未遂を経験した」と回答したのだ(「日本財団 自殺意識調査2016(速報)」)。

 

2019年8月10日 (土)

十字架

年間第18週の金曜日

2019年8月9日

福音朗読  マタイによる福音書 16:24-28

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 

説教

ペトロの信仰告白を称賛したイエスはその直後に同じペトロを悪魔呼ばわりし、さらにそのあとで「受難の予告」をして言いました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

「自分の命を救いたいと思う者」という時の「自分の命」とは何でしょうか。それはエゴ、偽りの自分、自己主張し自分の欲望を遂げようとする、古い命の自分をさしています。「わたしのために命を失う者は、それを得る」の「それ」と何でしょうか。いったん失われた地上の命が蘇生する、生き返るという意味でしょうか。

これはヨハネの福音が言う「永遠の命」のことを指しています。あるいは使徒パウロの言う「新しい命」を指しています。洗礼を受けたわたしたちは古い自分が死んで新しい自分に生き返らされたのです。パウロは教えています。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマ6・3-5)

 

日々新たに生まれるという生き方がキリスト者の生き方です。新しく生まれるためには日々死ななければなりません。それは日々イエスの過ぎ越しの神秘を生きることに他なりません。

聖霊の助けを祈ります。

 

2019年8月 8日 (木)

聖ドミニコの記念日

説教
8月8日は聖ドミニコ司祭の日であります。
ちょうど6年前の8月8日、わたしはさいたま教区の教区管理者として初めて、さいたま教区の司教座聖堂である浦和教会でミサを献げ、さいたま教区の皆さんに挨拶を致しました。ちょうどその日が聖ドミニコの日でありました。
今日の福音は御存じのとおりペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰宣言をし、イエスからお褒めに与り、天国の鍵を授かったという、カトリック教会にとっては非常に重要な箇所であります。それなのにその直後に当の同じペトロがイエスから、激しい叱責を受けています。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
ペトロの善意には疑いがないのです。イエスのことを思ってお諫めしたのであります。しかしそのペトロの言動はサタンの仕業であるとされて退けられてしまったのです。わたしたちの教会の設立に関しては、この二つの出来事、つまりペトロへのイエスの称賛・承認とペトロに対するイエスの激しい叱責の二つの出来事が同時に深くかかわっていたのです。これは大変不思議な現象ではないでしょうか。
他方わたしたちは毎日のミサで民数記を読み続けてきました。民数記はエジプトを脱出したイスラエルの民がモーセに率いられて約束の地に向かう様子を述べています。民は何度もモーセに反抗し、泣き言を言い、ついにモーセはもうどうにもならないと音を上げて、「どうかわたしのいのちを取り上げてください」とさえ神に訴えたと述べているのです。今日の朗読では「メリバ」という地名の由来が説明されています。「メリバ」というのは「争い」という意味であり、水がないということで民がモーセに逆らったという出来事を表わしています。

2019年の日本の東京というところでわたしたち教会はどう歩むべきでしょうか。様々な試練と誘惑の中でわたしたちが人間の思いではなく神の思いに従って歩むことが出来ますよう、聖霊の導きをお祈りいたしましょう。

イエスカナンの女性に根負け

説教

2019年8月7日

イエスはカナンの女性に向かって言われました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」

福音書の中にはイエスが何人かの人に向かってその人たちの信仰を称賛する場面が出てきます。「あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9・22、マルコ5・4、ルカ8・48、マタイ20・52、ルカ18・42)「イスラエルの中でさえこのような信仰をみたことがない。」(マタイ8・10、ルカ7・9)とイエスは言われました。

このカナンの女性の願いをイエスは無視し、また取り上げないと言ったのですが、女性がそれにもめげずに必死でイエスに願ったので、いわば根負けした形で、イエスはこの女の願いを聞き入れたのでした。

このカナンの女性の信仰と対比されるのが、40年間にわたって荒れ野を彷徨することになったイスラエルの民の不信仰であります。彼らは荒れ野での不自由な生活、出会う困難に不満を抱き、主である神への信仰、信頼を失い、神から遣わされた指導者、モーセとアロンに向かって神への不平を募らせ、泣き言を言って、神を怒らせたでありました。

さて2019年の東京といういわば現代の荒れにいるわたしたち現代のイスラエルの信仰はどんなものでしょうか。わたしたちの使命は福音宣教・福音化であります。一日としてこのことがわたしの念頭を去ったことはありません。現代の荒れ野におけるこの使命遂行に大きな困難を感じています。いつも自分を遣わされた主なる神への信頼が試されているように思います。

どんなに拒まれてもひたすらイエスへ懇願したあのカナンの女性の、強い信仰、信頼に肖りたいものだと思います。

 

 

2019年8月 6日 (火)

主の変容

主の変容

                                                                      2019年8月6日,本郷教会

第一朗読  ペトロの手紙 二 1:16-19

(愛する皆さん、)わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

福音朗読  ルカによる福音書 9:28-36

(そのとき、)イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

説教

イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登りました。それは「受難の予告」をしてから八日目のことであり、エルサレムへ出発する前に、静寂な環境で、父である神と親しい交わりのひと時過ごしたいとイエスが切望したからでした。たぶん深夜のことでしょう、祈っているイエスの様子が変わり、イエスの顔と姿は神の栄光に包まれました。そこにモーセとエリヤが現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について話していました。

モーセはシナイ山で神から律法を授かった人、エリヤは神の言葉を告げる預言者の代表です。 イエスはモーセとエリヤで代表される旧約聖書の教えと預言を成就するためにエルサレムに上ります。そこには十字架の最期という苦しみが待ち受けています。そのことをイエスは知っていました。受難へ向けて父である神との語らいが必要でありました。また弟子たちの前で、あらかじめ受難の前に、ご自分の栄光を垣間見させ、弟子たちの躓きと失望を防ぎ、彼らの信仰を堅くする必要を感じたのではないか、と思われます。

イエスは事前に復活の栄光を弟子たちに示し、弟子たちもその栄光にあずかる道を示しました。弟子たちは主の復活の後で、ご変容の出来事を明確に思い出し、後世のわたしたちに、栄光の瞬間の様子を伝えたのでした。  

ところで、主の栄光にあずかるという信仰と希望は弟子たちだけに与えられたのではありません。今ここに集うわたしたちは誰でも、キリストの復活の栄光にあずかるという信仰と希望を持っています。

わたしたち人間は本来「神の似姿」である神の子です。本来のわたしたちは神の栄光の輝きに包まれる神の子であるのです。

実はすでにわたしたちはイエスの復活の栄光を受けているのです。しかしその輝きは人の目には隠されており、自分の目にも隠されています。実際現実には、人間は、罪という毒に侵されています。毒麦の譬えを思い出してください。毒麦のおかげで、わたしたちのなかには影と闇が生じています。聖霊の導きと肉の欲望の間で葛藤を経験しています。また病気、心身の不自由、肉体の弱さに苦しんでいます。しかしこれは見せかけの状態であり、本来の人間の姿ではないのです。人は神の子であり、神の栄光にあずかる者であり、すでに神の栄光に与っているのです。そしていつか、神はこの「卑しい体」を、完全に、キリストの「栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリッピ3・21)

 

2019年8月 5日 (月)

モーセ

年間第18月曜日ミサ
                                                                                                         2019年8月5日、本郷教会

第一朗読  民数記 11:4b-15
(その日、イスラエルの人々は)泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」マナは、コエンドロの種のようで、一見、琥珀の類のようであった。民は歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった。夜、宿営に露が降りると、マナも降った。モーセは、民がどの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いた。主が激しく憤られたので、モーセは苦しんだ。モーセは主に言った。「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。」

福音朗読  マタイによる福音書 14:13-21
イエスは(洗礼者ヨハネが死んだこと)を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 

説教
明日から日本のカトリック教会の平和旬間が始まります。昨日は非暴力による平和の建設ということを主日の説教で申し上げました。
今日の二つの朗読は非常に印象深い話であります。
第一朗読、民数記はモーセという人の物語であります。モーセという人は非常に苦しんだのであります。「どうかむしろ殺してください」と神に願った、とあります。民衆の要求にこたえることができない。他方神はモーセに難しい要求をしている。民衆と神との間に立ったモーセは非常に苦しんだのであります。民衆の要求というのは、民数記によれば、食べ物に関することです。エジプトで食べていたような野菜とか肉を食べさせろということで、それはそう的外れな要求ではないと思う。
モーセは誰よりも柔和謙遜な人であったとあります。そのモーセが苦しんだという民数記の記述が非常に興味深い。神と人との間に在る人は苦しむのであります。
今日の福音は二匹の魚と五つのパンの奇跡の話です。わたしが司教になったときの紋章はここからとられています。(貧しい人々がわずかなもの物を分かち合う姿にわたしたちの教会の本来のあるべき姿が示されています。)

2019年8月 4日 (日)

平和を実現する人

年間第18主日C年

2019年8月4日、本郷教会

第一朗読 コヘレトの言葉1・2;2;21-23

第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙3・1-5,9-11

福音朗読 ルカによる福音12・13-21

 

説教

平和旬間の開始にあたりまして、きょうは平和について考える、そして、平和のためにお祈りしたいと思います。

きょうの福音は、「愚かな金持ち」の話であります。この金持ちは、安心したかったのでしょうか、自分のために大きな蔵を立て始めて、そこに自分の全財産をしまい、そして、これで安心できると思ったのでありました。

その金持ちに対して、神が言われたのは『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』

そしてイエスはさらに言われました。「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」

自分のために富を積むということを、わたしたちもしているのかもしれない。

第一朗読で、「すべては空しい…」と言われました。

どんなに財産を積んでも、所詮、いつか失われるものである。自分のために富を積むのではなくて、神の前に豊かにならなくては意味がない。人生の意味は、自分のために生きるのではなくて、神のために、神様のみこころに従って生きるところにあるのであります。

第二朗読をご一緒に思い起こしましょう。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い等を捨て去りなさい。」そして、日々新たにされるように努めなさい。

日々新たにされるということは、何よりも、神様のみ旨に従って新しい人間となるように努めることであり、そして、平和のために働くものとなるようになることではないでしょうか。

自分のためにだけ生きる者同士、いつも争いが絶えないのであります。しかし、ともに神のみこころに従い、平和を実現する人として努力するものが集まれば、そこに、平和が生まれるのであります。

イエスは、敵を愛するように教え、そして、暴力に依らないで平和を実現するようにと諭されました。

日本の司教団は、たびたび平和のためのメッセージを発表しております。

次のような事柄が非常に大切であると思いますので、いま、引用いたします。

「教皇ヨハネ・ペウロ二世は、聖パウロの教えに従って、平和は悪が善によって打ち負かされるときにのみもたらされる辛抱強い闘いの成果であることを明らかにしています。軍備と武力行使によってではなく、非暴力を貫き対話によって平和を築く歩みだけが「悪に対して悪をもって報いるという悪循環から抜け出す唯一の道」(注10)なのです。これはガンディーの非暴力による抵抗運動などが示しているように、多くの人の共感を呼ぶものです。この非暴力の精神は憲法第九条の中で、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄、および戦力の不保持という形で掲げられています。(注11)六十年にわたって戦争で誰も殺さず、誰も殺されなかったという日本における歴史的事実はわたしたちの誇りとするところではないでしょうか。」(カトリック中央協議会:戦後70年司教団メッセージ『平和を実現する人は幸い』)

きょうの『聖書と典礼』の7ページを皆さんご覧になって下さい。ここに、那覇教区のウェイン・フランシス・バーント司教様の言葉が出ております。

沖縄のかたのこころからの願いと叫びがここに綴られています。

「キリストのこころをもって新しい人となった皆さん、キリストが望んでいる世界を築く使命を果たしましょう。被爆者の泣き声を聴いて、核兵器を廃絶するために働きましょう。沖縄県民の叫び声に耳を傾けて、戦争の準備となることを止めましょう」。

 

注10:2005年1月1日「世界平和の日」メッセージ

注11:憲法第九条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。第2項:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。

 

本郷教会司祭命日記念ミサ

本郷教会帰天司祭合同命日祭ミサ説教

201983()、本郷教会

井手雄太郎神父様は、201834日帰天されました。

藤岡和滋神父様は、20181121日。

内山賢次郎神父様は、2017224日が御命日であります。

わたしたちがたいへんお世話になった司祭方を思い起こし、心から感謝申し上げたいと思います。

司祭は、主イエス・キリストから召されて、イエス・キリストの救いの御業を宣べ伝え、そしてイエス・キリストの生きたその神の愛を証しする、ということを使命として受けました。

今日記念する司祭方は、人間としての弱さと闘いながら、懸命に生きてその生涯を全うしてくださいました。心から感謝申し上げたいと思います。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ146

司祭は、このイエスの言葉を自らも生き、そしてこのイエスの言葉を人々に告げ知らせるのです。そして皆さんとご一緒に、天の父のもとへと歩んでくださった方々が司祭であります。

わたしたちの生涯は、神である父からこの世に生を与えられて、そしてこの世の中で共に歩みながら、また自分に命をくださった天の父のもとへと戻るという旅路のようなものであります。

そして、その天の父のもとに戻る時に、復活なさった主イエス・キリストが共にいてくださり、わたしたちを照らし、導き、そして一緒に歩んでくださいます。

その復活したイエス・キリストの不完全な代役をつとめるのが、司祭であります。

わたしたちの人生にはさまざまな困難が伴っている。

しかしわたしたちは、その生涯の終わりにおいて、死から命へと完全に移行することができると信じています。死から命へ移されるということは、イエス・キリストの復活の命に与ること、復活の栄光に与ることにほかなりません。

わたしたちは皆一度の生涯をいつか終わらなければなりませんが、その日こそは新しい命の始まりであります。

亡くなった司教司祭がわたしたちの祈りに応え、そしてわたしたちのためにも祈ってくださると信じ、今日のミサをご一緒にお献げしましょう。

 

 

2019年8月 2日 (金)

あなたの信仰があなたを救った!

年間第17金曜日

2,019年月2日

第一朗読  レビ記 23:1、4-11、15-16、27、34b-37

福音朗読  マタイによる福音書 13:54-58
(そのとき、イエスは)故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

説教

イエスの故郷ナザレの人々はイエスに躓き、イエスを信じることが出来なかったと今日のマタイの福音は伝えています。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」(マタイ13・58)のでした。普段から良く知っている人の中に神の力を認めるということは人間にとって難しいことなのでしょうか。ナザレの人々はイエスのことを良く知っていました。小さい時から一緒に育ったのであります。そこで「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」マタイ13・55)と言ってイエスに躓いたのでした。普段から良く知っている人の中に神の力を認め、その人が神から遣わされた人であり預言者であると信じることは、人間にとって難しいことだったと思われます。

逆に人間をイエスを全く知らなかった女性で、必死の思いでイエスに触れた女性は、イエスに触れただけでイエスから癒しの恵みを頂けるだろうと信じたのでした。マタイの福音は十二年間出血症を患っていた女性の癒しについて伝えています。

「すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った。」(マタイ9・20-22)

「あなたの信仰があなたを救った」という言葉をイエスはいろいろな人に言っています。なんという素晴らしい言葉でしょうか。わたしたちの場合はどうでしょうか。地上のイエスはもはやおられませんが、復活したイエスはいつもどこにでも、わたしたちとともにいてくださいます。復活したイエスから、聖霊の働きを通して、お恵みをいただき、「あなたの信仰があなたを救った」というお言葉を頂くことが出来ますように、より深く強い信仰が頂けますよう

2019年8月 1日 (木)

神の国の完成

アルフォンソ(リゴリ)司教教会博士ミサ説教

                                                                    2019年8月1日、本郷教会 

第一朗読  出エジプト記 40:16-21、34-38

福音朗読  マタイによる福音書 13:47-53
(そのとき、イエスは人々に言われた。)「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去(った。)

 説教

 イエスはしばしば天の国を譬えで説明されました。天の国はすなわち神の国です。神の国とは神が支配されるということです。神の支配は一挙に完成するものではありません。長い救いの歴史の中でその救いの計画に従って段階的に実現していくものです。最後の時、神の国の完成の時にイエスはすべての悪を滅ぼしてくださるのである、とわたしたちは信じます。

今日の福音は神の国の完成の時、神が悪を滅ぼされることを語っています。昨日の「毒麦の譬え」は現在の世界に悪が存在することへのわたしたちの不安、心配、疑問への一つの回答でありました。

わたしたち自身が、良い麦と毒麦の両方が同時に育っているという状態にあるのであります。

神が忍耐深く寛容であることを深く学びましょう。

 

 

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