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2019年8月10日 (土)

十字架

年間第18週の金曜日

2019年8月9日

福音朗読  マタイによる福音書 16:24-28

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 

説教

ペトロの信仰告白を称賛したイエスはその直後に同じペトロを悪魔呼ばわりし、さらにそのあとで「受難の予告」をして言いました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

「自分の命を救いたいと思う者」という時の「自分の命」とは何でしょうか。それはエゴ、偽りの自分、自己主張し自分の欲望を遂げようとする、古い命の自分をさしています。「わたしのために命を失う者は、それを得る」の「それ」と何でしょうか。いったん失われた地上の命が蘇生する、生き返るという意味でしょうか。

これはヨハネの福音が言う「永遠の命」のことを指しています。あるいは使徒パウロの言う「新しい命」を指しています。洗礼を受けたわたしたちは古い自分が死んで新しい自分に生き返らされたのです。パウロは教えています。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマ6・3-5)

 

日々新たに生まれるという生き方がキリスト者の生き方です。新しく生まれるためには日々死ななければなりません。それは日々イエスの過ぎ越しの神秘を生きることに他なりません。

聖霊の助けを祈ります。

 

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