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2019年9月

2019年9月30日 (月)

公開書簡:教皇庁の刷新について

公開書簡
教皇庁の刷新に関する非公式個人提言(日本語版)

 我が国の福音宣教は聖フランシスコ・ザビエルの到来によって始まり、既に470年の歴史を持っています。そのうちの200年以上は迫害と禁教の時代でありましたが、それにしても、依然この国のキリスト教信者は非常に少数者です。1億3千万人の総人口に対して、多くの外国人信者の滞在者を含めても、この国におけるキリスト教人口はおよそ100万人にすぎません。日本のカトリック教会は、世界の他の諸教会からの助けと導き、霊的支援を必要としています。特に、ローマ聖座からの支援を必要としています。

ところでおりしも、わたしたちローマ・カトリック教会の最高牧者であるフランシスコ教皇は、聖座の本部である教皇庁を刷新することを切望していると伝えられています。わたしはこの教皇の望みに心からの支援を表明します。この度教皇が来日されるに際し、わたしは教皇庁の刷新に関するわたし個人としての非公式な提言を、この公開書簡をもって公表したいと思います。

それは次の3点に関する提言です。

. インカルチュレーション
. 非中央集権化
. 霊的刷新

インカルチュレーション

日本のカトリック教会において最も重要な問題の一つは、福音の教えのインカルチュレーションと典礼に関するインカルチュレーションという課題です。

典礼については、わたしたちは、第2ヴァチカン公会議後にミサ式次第とミサの執行に関する特別な許可を頂いております。例えば、聖体の秘跡を受ける場合、わたしたちは日本の文化や習慣に従い、直接口で受けるのではなく、うやうやしく聖体を手で受ける許可を受けています。この許可は今後も有効であり維持されると思いますが、幾つかの他の事例において、この許可が取り消されるのではないかと危惧しました。『ローマ・ミサ典礼書の総則』の新版は、これまで日本カトリック司教協議会に対し許可されてきた適応の事例が取り消されかねないようにも読めるのです。現行のミサの祝い方を変えることは深刻な問題を来します。現在のミサの祝い方は信者たちに歓迎されてきたばかりでなく、既に日本のカトリック教会に深く根差しています。

また、わたしたち日本の司教協議会は、ラテン語から日本語に訳したミサの中の祈りの日本語文言の承認をお願いしてきました。すなわち、ラテン語原本から公式な日本語訳を決定する資格を司教協議会に委任するようお願いしています。

要するに、各地のカトリック教会が着手する文化の適応に対して、教皇庁がより寛大であるよう提案したいのです。

非中央集権化

わたしが危惧するもう一つの点は、教皇庁に権力が集中し過ぎているのではないか、ということです。上記の典礼式文・公式祈願文の日本語への翻訳の問題もその一例です。

各地の司教協議会に権限を委任することで権力の非中央集中化を図られるよう、わたしは教皇庁に提案します。カトリック教会にとって、各地の教会と責任を分かち合うことは大変好ましいことです。

世界人口の半分はアジア諸国に存在します。教皇庁は、アジア諸国の人材を登用すべきです。

霊的刷新

日本の社会は大変世俗化していますが、それでもなお日本人は善良な倫理観と強い良心を保持しています。ただし、この国に欠落しているものがあります。それは真生なるキリスト教的な価値観です。わたしたちはそれをローマにあるわたしたちの普遍の教会の中心地に見いだし得るだろうと期待しています。

わたしたちの願いは、教皇庁で奉仕する人々が、わたしたちにとってイエス・キリストに仕える僕であるという「しるし」となることです。その「しるし」とは、教皇庁の人々が、貧しく謙遜、清廉、貞潔であり、イエス・キリストに仕える主の忠実な聖なる僕である、というしるしです。

過去において、ヴァチカンという世界は、権力闘争やパワーゲームの場であるという悪い印象を与えていました。しかし今は、現教皇の発意と指導のもとに、聖座という名が示す通り、教皇庁が聖なる場として刷新されるだろうという希望を抱いています。

2019年9月29日

キリストにあって
ペトロ 岡田武夫
カトリック東京大司教区・前大司教
カトリック本郷教会小教区管理者

 

 

2019年9月29日 (日)

Pope

 フランシスコ教皇様のためのミサ

聖トマス西と15殉教者の祝日 ミサ説教

 2019928()、本郷教会

 わたしたちの教会、ローマカトリック教会の最高司牧者であるフランシスコ教皇様が、11月に日本に来られますので、教皇様の良きお働きのために、このミサを献げたいと思います。

 今日のミサは、聖トマス西と15殉教者の記念日となっております。

 日本は殉教者が多い国であります。

 「殉教者の血はキリスト者の種」という言葉がありますが、わたしたちのキリスト教という宗教は、この殉教という事実によって成立し、発展して来ました。

 今読んだ福音は、イエスが御自分の受難について予告している言葉だと思われます。

 「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」(ルカ944

 この言葉の意味を、弟子たちはよく理解できなかったが、朧気ながらも感じています。

 「彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」(ルカ945)とあります。

 実際のところ、福音書が多くのスペースを割いて述べているように、ナザレのイエスは、人々から見捨てられ惨めな恥ずべき犯罪人として処刑されたのでありました。

 磔の刑になった人を創始者と仰いでいる宗教というのは、ほかの宗教のことをよく知っているわけではありませんが、非常に珍しい。

 わたしたちは当たり前に受け入れておりますが、これは大変なことで、ナザレのイエスという人は、政治的にも宗教的にも恥ずべき犯罪者、異端者、反逆者と烙印を押されて、処刑されました。

 弟子たちは、そのイエスのことが最初は分かりませんでしたが、後にイエスの復活という出来事に遭遇し、生前のイエスの言葉と行動の意味を理解することができるようになりました。

 イエスの弟子の筆頭、12人の使徒のかしら(頭)とされた人がペトロという人ですが、ペトロの最期は、今の教皇庁の置かれているバチカンの丘で処刑されたと伝えられています。

 ペトロの後継者たちも次々と殉教しました。

 ローマカトリック教会は、その指導者が続けて次々と処刑されたのであります。

 そのような迫害と殉教の時代が約三百年続いて、その後多くの人がキリスト教に帰依するようになりました。

 ペトロをイエスの弟子の代表と考えるキリスト教は、ペトロの後継者をローマの司教と考え、その後継者たちが全世界の教会の最高の牧者であると仰いでいるのであります。

 二千年の間にいろいろなことがありましたが、歴代の教皇たちは主イエス・キリストと最初の弟子たちであるペトロたちに倣うように努力を重ね、教会の刷新に努めて来ました。

 現在の教皇フランシスコは、就任以来教会の刷新に努力する決意を表明し、貧しい人のための教会となるように、ご自身の教会の総本部であるローマ教皇庁を改革する決意を公にされたのであります。

 教皇フランシスコについては、いろいろな人がいろいろなことを言っておられるので、今日はわたくしがローマ滞在中に知った教皇様について少しお話ししたいと思います。

 わたくしは、わたくしの前任者である白柳誠一大司教(のちの枢機卿)の命令で、1975年にローマに留学しました。

 時の教皇はパウロ6世(在位19631978)という方でありました。

 大変立派な方で、のちに列聖されたヨハネ23世の開催した第二バチカン公会議(19621965)を引き継ぎ、成功裡に実り豊かな成果を得て終了させた方です。

 そ10年後の1975年には、「教会の使命は福音宣教である。良い便りを人々に宣べ伝えると共に、福音の教えを実行することである」ということを強調されました。

そのパウロ6世は、1978年の8月にお亡くなりになりました。

 そして、教皇選挙が行われて、イタリア人の司教でヴェネツィアの総大司教のアルビーノ・ルチアーニAlbino Lucianiという方が選出されたのであります。

 この方は、史上初めて教皇名にダブルネームというか二つの名前(複合名)を採用した、ヨハネ・パウロ1世(19121978)です。

 その後のヨハネ・パウロ2世は皆さんよく記憶していると思いますが、ヨハネ・パウロ1世を名乗ったのです。

 2世、3世が続くかどうか分からないのに、最初から1世を名乗るのは異例であり、1世とはつけないのが歴史上の慣例でしたが、彼はヨハネ23世教皇とパウロ6世前教皇二人の前任者たちへの尊敬を込め、彼らの路線を継承し、発展させる決意を示すために、二人の教皇名を受け継いだと言われております。

 しかし、就任僅か一か月余り、33日間の在位で亡くなってしまったのです。1978928日のことでした。

 非常に残念なことでありました。

 僅か一か月余りの在位でしたが、ヨハネ・パウロ1世は大きな働きをしました。

 さまざまな改革の方針を明確に打ち出し、具体的な改革の実行に取りかかりました。

 就任式を従来の豪華な戴冠式ではなく、牧者に就任する式としました。

 ローマの司教はローマ司教区だけでなく、全世界の教会を司牧する責任者であるので、従来は王や皇帝が就任する時に冠を受けるような教皇戴冠式をおこなっておりました。

 それを廃止して、最高の司牧者に就任する式としました。

 教皇冠は三重冠と言って、三重になっていて三つの権能を表していると言われている非常に豪華な美しい宝石をちりばめた冠ですけれども、その戴冠式をおこなわずに、最高の司牧者に就任する式、牧者の任務を開始する式というように命名をしました。

 さらに教皇は、お父さんという意味の英語ではポープPope、イタリア人はパーパ Papaと言いますが、それに大祭司という意味のポンティフィックスPontifex、ローマの大祭司の称号がローマの司教の称号と一緒になって、シュプリームポンティフィクスSupreme Pontifex最高位の大祭司と言うようになって、どんどん名称が栄誉ある名前になり、複雑になったのです。

 ポープ・ジョンポウル・ジ・ファーストPope john Paul the Firstになった訳であります。

 教皇が人々の前で公式に発言する時は、従来は一人称を特別な言い方(日本の戦前の天皇陛下のお言葉に思い起こすと「朕」という言い方でしたが「わたくし」という意味であります)、教皇も「朕」に相当する一人称複数である「我々」(「我々は今日風邪をひいた」というように使い、「我々」と言っても御自分一人の意味でありますが)を止めて、普通に「わたくし」という言い方にしました。

 彼は、飾らない柔和謙遜で率直な人柄で愛され、人々から「微笑の教皇」スマイリングポープSmiling Popeと呼ばれておりました。

 司牧者から教皇になった方でありまして、経歴から言って教皇庁の重要な職務に就いていた人ではなかった。

 何々省の長官とかそういう役職をしていて、それから教皇に選ばれた方ではないです。

 そして、就任する時は、大司教に就任する時に受けるパリウムPallium、これは世界中で教区大司教になる人は全部受けるものですけれども、そのパリウム、首輪のような物を受けて、冠は着けない、立派な輿に乗ることも止めまして、素朴な皆に仕える牧者であるということを身をもって表現しました。

 そして、教皇庁の改革を決意し、当時バチカン銀行(正式名称:宗教事業協会)のスキャンダルがいろいろ報道されていましたが、バチカン銀行の改革をすると宣言したりしたのですが、一か月で亡くなってしまわれました。

 本当に残念なことでした。

 このヨハネ・パウロ1世の次を選ぶために、僅か一か月でまた教皇選挙になって、帰ったばかりなのにまた呼び集められてもう一度選挙をして、ヨハネ・パウロ2世が選ばれたわけです。

 ヨハネ・パウロ2世は難病を持っていましたが、非常に長い年月を最期まで教皇を務められました。

 その後のベネディクト16世は、皆様覚えていらっしゃるでしょうが、6年ほど前に数百年ぶりに終身ではなくて在任中に退位を宣言し、そこで今のフランシスコ教皇が選出されたという歴史があるわけです。

 教皇という重責を担われる方々が、どんなに大きな負担を担っておられるかを想像しながら、日本に来てくださるフランシスコ教皇様のために、わたしたちの心からのお祈りを献げると共に、教会の改革が進むようにとお祈り申し上げたいと思います。

 

 

大きな隔ての淵

年間第26主日C年

2019年9月29日、本郷教会

 第一朗読 アモスの預言 6・1a,4-7

第二朗読 使徒パウロのテモテへの第一の手紙 6・11-16

福音朗読 ルカによる福音 16:19-31

(そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。)「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 

説教

 

ラザロという貧しい人と、ある金持ちの話でございます。
ラザロという名前は「神は助ける」という意味であります。
その言葉の通り、ラザロは死後、アブラハムのいる、神のところへと上げられたのでありました。
きょうの話から、わたしたちは何を学ぶことができるでしょうか。金持ちは、亡くなって陰府(よみ)に落とされました。
この金持ちと、そして、アブラハムとラザロのいるところの間には、「大きな淵」があったと、きょうの福音書は言っています。
淵というのは、お互いに行ったり来たりすることができない大きな隔てとなっているところです。

どうして、このような淵があるのだろうか、この話全体から考えてみますと、実は、この淵は金持ちが地上にいた時からできていたのではないだろうか。この金持ちとラザロの間には淵ができていた。この淵がはっきりしたのは死後の世界である、と言えないでしょうか。

この金持ちは毎日贅沢に、おもしろおかしく暮らしておりました。特に何か悪い事とか、ひどいことをしたわけではないようです。しかし、自分の家の門の前に、貧しい人が横たわっていることに、何の関心も払わなかった。食べるものにも事欠くありさまであり、全身ができものだらけで、非常に惨めな状態に置かれていた人であります。
金持ちは悪い事はしなかったかもしれないが、ラザロという人に関心を持たなかった。ラザロのために何もしなかったのであります。

この、しなかったというのは、「怠り」の罪が問われているのではないでしょうか。
金持ちは、自分の毎日の生活のことに、心がいっぱいで、自分のすぐそばにいる人、あるいは、自分の生きている世界の現実には関心を持たなかったようであります。
いつでも、貧しさに苦しんでいる人、病気、あるいは、様々な問題に、苦しみに出会っている人います。そういう人のために自分にできることは何かと考えて、いささかなりとも、何かのいつくしみの業を行わなければならなかったのではないでしょうか。

このたび、日本に来て下さるフランシスコ教皇は、「いつくしみの特別聖年」という、特別な一年を提唱され、神のいつくしみを実行するようにと、わたしたちに勧めてくださいました。
神のいつくしみは聖書の教えであります。それに、旧約聖書のモーセも預言者も教えている。旧約聖書の世界では、社会的に弱い立場に置かれている人々、親のない子ども、あるいは夫に死なれた女性、あるいは寄留者、国を追われた人達が、特に、困難な状況に置かれているので、そういう人々に心から同情し、必要な助けをするようにということが、モーセの教えであり、預言者の勧めでありました。
この金持ちは、そのモーセと預言者の教えには無頓着であったようであります。

わたしたちの主イエスは、人々のために、さまざまな「癒し」と「奇跡」を行いました。そして、多くの人は、イエスのみわざに感嘆したのでありましたが、他方、イエスを受け入れ、信じた人が多くはなかった。どんなしるしを見ても信じない人は信じないのであります。

この金持ちは、亡くなってから、せめて自分の兄弟が同じような苦しみに遭わないようにしてあげたいと考えたようであります。
生きているときに、そのような思いをもっと抱き、そして、兄弟だけでなく、多くの人に、いつくしみとあわれみの心を実行しなければなりませんでした。

マタイの福音書の25章で、わたしたちが「最後の審判」の時に、どういう基準で裁かれるかということが綴られております。
「飢えている人や、渇いている人、裸の人、寝る場所が無い人、居る場所が無い人のためにできる奉仕をしなさい」という教えであります。
「いつくしみの特別聖と教皇は教えました。
人間は身体と精神から成り立っておりますので、両方の苦しみはつながっております。

いまの日本の社会で、もっとも助けを必要とする人とはどんな人でありましょうか。
だれにも話を聴いてもらえないとか、だれにも相手にしてもらえないとか、自分のいる場所が見つからないとか、そういう思いを持っている人が少なくはないでありましょう。
もちろん、経済的に貧しい人もいないわけではありません。

「天の御父がいつくしみ深いようにあなたがたもいつくしみ深いものでありなさい」とイエスは言われました。

ややもすると、わたしたちは自分のことに追われて、人の必要を顧みることが後回しになってしまいますが、せめて、きょう、この「金持ちとラザロの福音」を聴いておりますので、既に、この地上において越えがたい淵を自分で作ってしまわないようにしたい。
この淵は、死後、明らかになったのでありますが、その淵を作ったのは、地上においてこの金持ちが自分で作り出したものではないだろうか。
わたしたちも、自分で、ほかの人との間に、貧しい人との間に「淵」、「越えがたい淵」をつくってしまっているのかも知れない。
神さまの呼びかけに応えるように、自分の心を静かに見つめたいと思います。
そして、日本に来て下さる教皇様の教えを、わたしたちも、心から良く学び、実行できるようにしたい。
生きているときに大金持ちであった人が、実は、不幸な人であったと言えることが明らかにされたのであります。
ルカによる福音では、「貧しい人は幸い」とイエスは言われました。
マタイによる福音では「心の貧しい人は幸い」となっております。
貧しい人に神さまは特別に関心を持ち、そして、ご自分の幸せに招いてくださるのであります。
わたしたち自身の日々のあり方を、心から反省したいと思います。

したいと思います。

2019年9月27日 (金)

イエスは誰か?

聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭記念日 ミサ説教

2019年9月27日(金)、本郷教会

第一朗読  ハガイ書 1:15b-2:9
ダレイオス王の第二年、七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。「ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者に告げなさい。お前たち、残った者のうち誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たときわたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度天と地を、海と陸地を揺り動かす。諸国の民をことごとく揺り動かし諸国のすべての民の財宝をもたらしこの神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。銀はわたしのもの、金もわたしのものと万軍の主は言われる。この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と万軍の主は言われる。

 福音朗読  ルカによる福音書 9:18-22
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者
ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 

 説教

イエスは弟子たちにお尋ねになりました。

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

(ルカ9:20)

立派な答えをしたのでありました。

しかしまだ、弟子たちはイエスの使命について、理解していなかったのであります。

受難の予告と呼ばれますが、今日の福音でイエスは自分が受けるべき苦しみについて宣べています。

 

アレルヤ唱でわたくしたちが唱えた、「人の子が来たのは仕えるため、多くの人のあがないとして自分のいのちを与えるため。」は主イエスの使命を示しています。

ご承知のように、ペトロはローマで殉教しました。

ペトロの後継者がローマの司教であり、こんにちローマ教皇と呼ばれる方々であります。

ローマの司教は、イエス・キリストの教えを最もよく実行し現すことが期待されており、わたしたちはミサの中で、常にローマの司教のために祈りを献げています。

最近、わたくしの心の中に浮かんでくる一人の教皇様がいます。

ヨハネパウロ1世という方です。

その方について、いつか一言お話ししたいと思います。

2019年9月26日 (木)

ペルソナ化

年間第二十五木曜日 ミサ説教

2019年9月26日(木)、本郷教会

 

今日の福音では、領主ヘロデが登場します。

最近のことですが、8月29日に洗礼者聖ヨハネの殉教を記念いたしました。

ヘロデによって、斬首されたのでありました。その時に、ヘロデという人がどんな人だったのかということを、ご一緒に考えてみたと思います。

ヘロデは、一方ではヨハネを尊敬していたようでありますが、自分の誕生日に(褒美にヨハネの首を所望されて)列席の人の前で大見得をきったこともあって、ヘロデはヨハネの首を刎ねるように命じなければならなかった。

そういう話でありました。

今日の福音では、ヘロデはイエスの噂を聞いて、「イエスに会ってみたいと思った。」(ルカ9:9)とあります。

実際にご受難の時に会うことになります。

 

人生は、人との出会いが非常に大切であります。

イエスの弟子たちは、ナザレのイエスという人に出会って、大きな影響を受けて、そしてそれぞれイエスの弟子としての生涯を送ることができた。欠点や問題のある人たちでありましたが、ペトロをはじめとする弟子たちは、イエスという人との出会いによって、人生が変えられた。

このヘロデは、そこまで至らなかった

人間は自分の立場や欲望、都合、いろいろのものに支配されていますので、そういうものを振り切って、まことの神、道であり真理であり命であるイエスに出会うということが、場合によっては難しい。

わたしたちの場合、さいわいイエスに出会っていると言えます。

しかし、地上のイエスはおられないので、いわば霊的にイエスと出会うのであります。

 

先日お会いした福田さんという方は、ヨハネ・ドンス・スコトゥス(1266?~1308)というフランシスコ会の偉い学者のことを勉強した方です。

名前のスコトゥスはスコットランドから由来していますが、1308年に亡くなっているので、

日本では鎌倉時代の終わり頃に当たると思います。

イエスのペルソナに限りなく近づくことが、キリスト者の道であるということでした。

これをペルソナ化と言います。

イエスのペルソナに触れて、イエスのペルソナに感化されるということなのでしょうか。

ペルソナ化ということを勉強したのだそうです。

わたしたちも甚だ不完全ではありますが、イエスに出会い、イエスのペルソナに触れ、イエスのペルソナに倣うものではないかと思います。

東京カリタスの家50周年

東京カリタスの家 創立50周年記念ミサ説教

9月20日(金)東京カテドラル

 

 今日の福音はルカの福音の15章に出てくる三つの譬話であります。

 第一の譬えは、失われた羊を羊飼いが探し出して喜んでその羊を担いで帰り、友達や近所の人々を呼び集めて「一緒に喜ぶ」という話です。

第二の譬えも、銀貨を一枚なくして女性が必死で探し出し、友達や近所の女たちを呼び集めて「一緒に喜ぶ」という話です。

三番目のたとえ話は有名ないわゆる放蕩息子のたとえであります。家を出て行った息子が帰ってきたので父親は祝宴を開いて喜び祝いました。

三つの話に共通している教えは失われた者、存在が、すなわち、失われた羊、銀貨、息子がともに、かけがえのない大切な存在であるという点にあります。見つけ出した人には大きな喜びがあり、その喜びはあまりにも大きいので、一人自分だけに留めておくことが出来ず、周りの人々を呼んで一緒に喜び祝うほどでありました。

放蕩息子の話を振り返ってみましょう。

二人の息子のなかで弟の方が父親から自分の財産の分け前を貰い受け父親の家を出て遠い国へ行って、放蕩して財産をすべて使い果たしてしまいました。折しも飢饉が起こり彼は食べる物にも困ってしまった。豚の世話をさせられる、というユダヤ人には屈辱的な状況に置かれて、やっと彼は「我に返った」のでした。

この「我に返った」ということは、どういうことでしょうか。大切な言葉です。

本来の自分に目覚めたということでしょう。「父の所に帰ろう」と思ったのであります。父のところに帰るということは、自分のいるべき場所は父の所であるということを深く悟ったのであります。

「底つき体験」というのでしょうか、どん底の状態におかれて、初めて自分の本来いるべきところは父の所であるということに気が付いたのでありました。この弟の体験は、人類全体の体験を象徴しているように思われます。父親の方は、出ていった弟の方を毎日心配しておりました。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけてあわれに思い、走り寄って首を抱き接吻した」とあります。弟の方は父親に詫びを入れて赦してもらおうと思いましたが、父親の方は最後まで言わせないですぐに彼を受け入れて、息子としての待遇を与えているのであります。

この話とよく似たたとえ話が仏教の方にもあります。「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬」と言いまして、長者は金持ち、窮子は窮乏状態で困り果てた状態にある息子という意味です。同じように家を出て放蕩三昧したが、困り果てて、やっとたどり着いた豪華な家で、彼は雑用係に採用されました。実はその家の主人は、息子を探そう思って家を出て、探し回り、とある所に新たに家をかまえた父親でありました。父親はすぐにその男が自分の息子であることに気が付いたが、あえてすぐには父親の名乗りをあげなかったのです。息子の方は、その家の主人が自分の父親であるとは夢にも思わなかった・・・。

そういう話でありました。父親の方はすぐに親子の名乗りをしたいと思ったが、そこは辛抱して、息子には掃除などのいわゆる汚い仕事をさせて息子がすっかり性根を叩き直されたところで初めて親子の名乗りをするようにした、という話でございます。

ルカの15章の譬話とは対象的で、父親は息子になんの罰も与えないし、質問もしないし、責めることもしない。無条件に受け入れているのであります。ただ自分のところに戻ってきたという事実だけで大喜びで宴会を催したという。

この話を私たちはどのように受け取ったらよいでしょうか。兄の方は、この父親の態度を理解することができなかった。わたしたちの場合はどうであろうか。

仏教の話の方が理にかなっているような気がしないでもない。福音書の父親のように、そんなに甘いことをしていたのでは息子のためにならないし、示しがきかないと、普通は思うでしょう。―――

兄の方の態度がわたしたちには分かりやすい。もしかして、この兄の態度はファリサイ派の人々や律法学者を指しているのかもしれません。しかし神がわたしたちに求めていることは、まず何よりも自分のところに戻ってくるということであります。

神のもとに立ち帰るというのはどういうことだろうか?

わたしたちの場合、どうすればよいのだろうか?

立派な人間にならないとわたしたちを神様は受け入れてくれないのだろうか、これこれ、の事をちゃんとできるようにならないと神様の前に立てないのではないだろうか、という思いがあるかもしれませんが、神が求めていることは信頼をもって自分の方に顔を向けるということであって、わたしたちがどんな状態にあろうとも、或いは、相変わらず罪びとであっても、過ちを犯していても、不完全であっても、そのことは問わない、ということではないだろうかと思うのであります。

 

東京カリタスの家の仕事とは神のカリタスを実行することですが、神のカリタスとは何より神の慈しみの実行です。ひとり一人の存在がかけがえのない大切な存在であるということを分かってもらえるように努めることです。ひとり一人をそのまま受け入れ、その人が、自分はかけがえのない大切な宝である、ということを分かるようになるよう、その人を助けることではないか、と思うのであります。

これは易しくはない仕事ではないだろうか。忍耐、努力、助け合い、たえざる研修と反省が必要でしょう。

―――

第一朗読  出エジプト記 32:7-11、13-14
(その日、)主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

 

 

福音朗読  ルカによる福音書 15:1-32
(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

 

2019年9月25日 (水)

神の国の福音

年間第二十五水曜日 ミサ説教

2019925()、本郷教会

 

旧約聖書の中に、エズラ記という書物がありまして、このところ続けてエズラ記の朗読をしております。

紀元前6世紀に、イスラエルとユダの国は滅ぼされ、ユダの民はバビロンに強制移住させられました。

そして約70年そこに滞在しましたが、その間に深刻な反省、回心、悔い改めの時を過ごしました。

そして、ペルシアの国が勃興した時にペルシア王は、イスラエルの民を帰国させ、神殿を建設することを許したのであります。

今日の箇所は、エズラという人が、自分たちが神の前に大きな罪を犯したことを告白し、そして赦しをいただいて、神殿を再建できることに感謝している、というくだりではないかと思います。

ルカの福音は、イエスが12人を派遣した時の話です。

たいへん簡素な宣教を命じています。

さて、今の時代の宣教は、どのようであるべきでしょうか。

イエスの宣教のメッセージは、神の国の福音ということが中心でありました。

わたしたちの場合、同じ神の国の福音ですけれど、イエス・キリストの復活という出来事が中心になると思います。

イエス・キリストが復活された、そして復活したイエスがわたしたちと共にいてくださるということを、わたしたちが単純素朴に信じて宣言し実行することが、わたしたちの宣教ではないだろうか。

その際、このエズラの告白のように、わたしたちも、神の前に罪の赦しを与えられているという感謝と喜びを表明しなければならないと思います。

 

 

 

2019年9月24日 (火)

わたしの母、わたしの兄弟とは誰か

年間第二十五火曜日 ミサ説教

2019924()、本郷教会

第一朗読  エズラ記 6:7-812b14-20

 

福音朗読  ルカによる福音書 8:19-21

(そのとき、)イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 

説教

わたしたちの教会は、聖霊降臨の時に誕生し、世界に広がる教会として発展してきました。

さまざまな困難や問題の中で、自分を新しくする自浄の努力をしてきたと思います。

同じ神を信じる者たち、同じキリストを信じる者たちとの間に、理解の違いや対立が生じましたが、それを克服するための努力が続けられています。それは、諸宗教対話、あるいはエキュメニズムEcumenismと呼ばれる運動であります。

ヨハネパウロ2世教皇は、紀元二千年を迎える時に、キリストの兄弟たちの間に生じた分裂は、お互いに自分たちの問題を見つめ直し、相互の理解と協力を進めなければならない。

そうしないと紀元二千年の敷居を跨ぐことはできないと言われました。

さて、日本のカトリック教会は、1987年に「福音宣教推進全国会議」を開いて、日本の社会にイエスの福音を宣べ伝えるための努力をすることを、さらに確認したのでありました。

それから6年後の1993年に「第二回福音宣教推進全国会議」を開いて、「家庭の現実から福音宣教のあり方を見直す」という課題を取り上げました。

家庭の現実に非常に厳しいものがありながら、共に神の言葉を聞いて行うということを、どのように実行することができるだろうか。

 

 

2019年9月23日 (月)

聖ピオ

聖ピオ(ピエトレルチーナ)司祭記念日ミサ説教

2019年9月23日(月)、本郷教会

第一朗読  エズラ記 1:1-6

 福音朗読  ルカによる福音書 8:16-18
(そのとき、イエスは人々に言われた。)「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」

 説教

今日の主イエスの御言葉から思うことを、少し申し上げたいと思います。

ともし火をともしたら、その光が入って来る人に見えるように、燭台の上の置くようにと言っていますが、どういう意味でしょうか。

アレルヤ唱で、わたしたちが唱えた「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたのよい行いを見て天の父をあがめるように。」(マタイ5:16)

アレルヤ唱の意味と、ルカによる福音の意味は、ほぼ重なっているのかもしれない。

 

第二バチカン公会議の教会憲章は、「諸国民の光」ラテン語でルーメン・ジェンティウム

Lumen Gentium という言葉で始まっています。

イエス・キリストは、諸国民を照らす光であります。

教会は、そのイエスから光を受けて、人々を照らしたいと望んでいる。

そういう出だしであります。

イエス・キリストという光を受けて、自身が光となって人々を照らした人で、模範とされるに足りる人が、教会では聖人として人々にその生涯を模範にするようにと示しています。

 何年か前に、聖ピオ(ピエトレルチーナ)司祭が生涯の大半を過ごした、サン・ジョバンニ・ロトンドというところに行きました。

確か2002年に列聖されまして、列聖式には大変な人数が集まったと聞きました。

 

 

 

On renewal of the Roman Curia

An open letter to express my personal views

On renewal of the Roman Curia

 

Beginning with the arrival of St Francis Xavier to Japan, our country has a history of 470 years of evangelization. More than 200 years of this was a time of persecution and prohibition of Christianity, and we are still very much a minority. We are only one million including many foreigners, in comparison with the total population of 130 million people. We do need help, guidance and spiritual support from other Churches in the world, especially from the Holy See.

Our Supreme Pastor of the world Pope Francis is very eager to renovate the situation of the Curia of the Holy See. I express heartfelt support to His Holiness, and on the occasion of his visit to Japan, I would like to express again my personal suggestions for the renewal of the Roman Curia of the Holy See.

I personally wish to make suggestions on the following three points:

Inculturation

Decentralization

Spiritualization

 

INCULTURATION

One of the most important issues for the Catholic Church in Japan is the task of inculturation of the teachings of the Gospel and the Liturgy.

Regarding the Liturgy, we received special permission after the Second Vatican Council for adaptations concerning the Order of the Mass and the way of celebrating Mass.

For example, according to our culture and custom, we wish to receive Holy Communion in the hand respectfully, and not to receive directly in the mouth. This practice may still be maintained, but I am afraid that in other cases permissions may be canceled.

It seems to us that the new version of the General Instruction of the Roman Mass will result in the cancelation of some cases of adaptation which were previously permitted to the Bishops’ Conference of Japan. We see a serious problem in changing the current manner of celebrating the Mass which has been welcomed by the people and taken root deeply in the Church. The Bishops‘Conference of Japan sent our new alternative plan to the Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacraments some years ago. Until now we have had no response from the Congregation.

We have also requested approval of the Japanese texts translated from the Latin for the prayers of the Mass. We humbly ask for acknowledgement of our qualification to decide official Japanese translations from the original Latin texts.

In sum, I propose that the Roman Curia be more open to cultural adaptations initiated by the local Churches.

 

DECENTRALIZATION

I am afraid that there may be too much centralization of power in the Holy See. I suggest that the Holy See try greater decentralization of power through delegation to the Bishops’ Conferences. It is very desirable for the Universal Church to share responsibility among local Churches.

Half of the population of the world consists of Asians. The Holy See should make use of the human resources of Asian countries.

 

SPIRITUALIZATION

Japanese society is very much secularized, although we Japanese still have a good moral sense and strong consciences. But what we lack are genuine spiritual Christian values, values which we would expect to find at the center of our universal Church in Rome.

We wish that the Roman Curia would be a sign for us through poor, humble, faithful and holy servants of our Lord Jesus Christ working there.

In the past we have had a bad impression of the world of the Vatican as a place of power struggles or games. Now we hope that under the initiative of the present Holy Father the Holy See will be renewed to become as holy as its name indicates.

 

23 September 2019               With best regards and wishes,

                                Yours sincerely in Christ

 

                                 Peter Takeo Okada

                                 Archbishop Emeritus of Tokyo

Administrator

Catholic Hongo Church

5-4-3 Honkomagome

Bunkyo-ku, Tokyo, Japan 113-0021

2019年9月22日 (日)

不正にまみれた富

年間第25主日C年

2019年9月22日、本郷教会

第一朗読 アモスの預言 8・4-7

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 一テモテ2・1-8

福音朗読 ルカによる福音 16:1-13

 

説教

本日の主イエスのみことばをご一緒に分かち合いたいと思います。

「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われました。

どういう意味でありましょうか。

日の話の中で、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とありますし、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とも言われました。

この言葉がわかりにくい。当惑させられるのではないでしょうか。不正をほめているのでしょうか。

そういう疑問を、わたしたちはもつのではないかと思います。

わたしたちは神様にお仕えしているのであって、富にお仕えしているのではありません。それはわかっていますが、なかなかこの言葉を徹底して実行できていないのも事実であります。

主イエスは、貧しいものとなられ、そして死にいたるまで天の御父に従順となられました。わたしたちも主イエスに倣うべきでありますが、いろいろなことに心を惑わされ、心を乱しています。いろいろな持ち物、いろいろな財産があって、そのことでわたしたちは心を労しているということも事実であります。富を持つことがいけないのではない。富に心を煩わせることがよくないのであります。自分たちの持っているものを、神への奉仕に生かさなければならない。神のために富を用いなければならないのであります。すべての地上の財産は、わたしたちに神から委ねられているのであり、わたしたちはいわば管理人であります。

管理人は管理を頼んだ者の意向に従って管理をしなければならないのでございます。

管理を任せた人、つまり天の御父は、わたしたちがそれぞれ委ねられたもの、その中にまず財産がありますが、それだけでなく健康とか才能とか、すべて良いものを与えてくださっているので、そういうものを、神様のご意向に従って生かさなければならない。貧しい人、苦しんでいる人、困っている人を助け、そして苦しみや悲しみを分かち合うために、用いなければならないのであります。

さて、それでも、この話はわかりにくいなと思います。この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたというのはどういう意味だろうか。不正といえば、主人からみたら不正かもしれないが、全体からみれば必ずしも不正ではない。それどころか、むしろほめるべきだという意見もある。

え?そうなのでしょうか。

以下は、ある考え方であって、参考にしていただければ結構です。この主人というのは、不在地主である。パレスチナでは、財産を持っていてそこには住んでいなくて、管理人を任命してそこから、貧しい人々から地代などをとりたてていた人いるのである。この不在地主は貧しい人から搾り取り、年貢を納めさせ、法外な利息を取り立てていた。日頃からこの主人のやり方に疑問を感じていた管理人は、自分に委ねられている財産を貧しい人のために使ってしまったのではないか、という説。そうかな、違うかな。

もう一つは、管理人は当然報酬があって、自分に委ねられた裁量がある。その裁量の範囲内で自分の取り分を減らして、或いは無くして、免除してあげて、そしてなんとか急場をしのいだ。主人には損害を与えない、自分に損害を与えるがそのほうがかえって自分のためになるのだ、という計算して、証文を書き換えたのであるという考えもある。そちらのほうが、ありそうな気がします。

さて、でもいずれにせよ、もう一つの言葉。この「不正にまみれた富」という、これも気になる言葉であって、ま、今はやりの、振り込め詐欺とかなんかで手に入れた富は不正かもしれないけれど、富というものは、地上においては何らかの、不正というと言い過ぎですけれども、何か垢がつかないものはあり得ない。問題はその富を何に使うのか、どう生かすのか、ということではないでしょうか。ですから、今日の福音で言っておりますことは、「不正にまみれた富で友達をつくりなさい。」友達を作るというのはどういうことなのだろうか。わたしたちは、自分が自由に使うことのできる財産、財貨を使って、友達を作る。どういう友達を作るのでありましょうか。神の国の友達、神の国に一緒に入るための友達、という意味でありましょうか。

さて今日の福音と直接つながりはないかもしれませんが、第二朗読は非常に重要な教えを述べております。「神は、すべての人が救われて真理を知ることを望んでおられます。」そのために神は、御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。すべての人が救われて、真理を知ることを望んでおられますので、すべての人が救われるように取り計らってくださるはずであります。地上のイエスに出会うことのなかった人達、それは人類のもう大部分、大部分どころか、ほとんどすべての人は、我々も含めて地上のイエスには出会っていない。しかし、ま、霊的な意味で出会っているのでありまして、聖霊の派遣を受けてわたしたちはイエス・キリストと出会い、イエス・キリストを知り、イエス・キリストの道を歩んでおります。

第二バチカン公会議は、教会憲章、そして現代世界憲章で、すべての人の救いの可能性ということを述べております。キリストに依らなければ救いはない、ということをわたしたちは信じておりますが、そのキリストによる救いは、聖霊によってもたらされるのであります。聖霊は、時間と空間を超えいつでもどこでも働いてくださる。この神の計らいに深く信頼して、日々わたしたちの務めを、イエス・キリストを宣べ伝え、証しするという務めを果たしていきたいと願っております。

 

徴税人マタイの召命

宣教・福音化のためのミサ説教

 聖マタイ使徒福音記者の祝日、2019921()、本郷教会

福音朗読  マタイによる福音書 9:9-13
(そのとき、イエスは、)通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

説教

921日は、聖マタイ使徒福音記者の祝日でございます。

マタイという人は、徴税人でありました。

「わたしに従いなさい」(マタ99)と言われたイエスの言葉を聞いて、すぐにイエスに従い、使徒となり、立派な生涯を終えたと伝えられています。

徴税人という人は、聖書によく出てきます。いわば罪人の代表とされた人であります。

ザアカイというような人を思い出します。

彼らは、ローマ帝国の支配下にあるユダヤのイスラエルで、税の徴収を請け負っていました。

自分の収入を増やすために、不正な取り立てをした人もいたのかも知れない。そのため、民衆から嫌われ、憎まれていた人々でありました。

そのマタイに向かってイエスは、「わたしに従いなさい」(マタ99)と言われたのであります。

わたしたちの教皇フランシスコが、ローマの司教になられた時に公表されたモットーは、このマタイに関する言葉で「慈しんで(憐れんで)選んだ」でありました。

フランシスコ教皇は、「いつくしみの特別聖年」を定めて、神の慈しみを学ぶようにわたしたちに強く勧めたのでありました。

できたら毎月一回は、宣教福音化を一緒に考え祈るためのミサとして、土曜日のミサを捧げたいと思っております。

福音宣教とは、どういうことなのか。

今の日本で、イエス・キリストの福音を宣べ伝える、あるいは証しするとは、どういうことなのかをご一緒に語り、話合い、祈りたいと願っております。

先日の福音は、罪深い女性がイエスによって、赦しを体験したという話でありました。(ルカ73650

イエスという人と、当時の宗教的な指導者であった律法学者、ファリサイ派の人との間に、何度も対立や摩擦が生じていた。

いつも対立ばかりしていた訳ではないようですが、結局のところイエスの律法の理解、神の理解と、彼ら律法学者、ファリサイ派の人々の理解には、大きな違い、大きな溝があったと思われます。

イエスの方も、わたくしからすればそこまで言わなくてもいいのに、口を極めて厳しく彼らを非難したということが出ています。

「おまえたち、偽善者め」という感じで強く弾劾していますが、そう言われたら怒るのも当たり前で、挑発的とさえ思われます。

そこまでされたので、彼らは何とかしてイエスを亡き者にしようと相談を始めた、とあるのであります。

そこまでしてナザレのイエスという人は、ユダヤ教の指導者と事を構えた。

イエスは、ユダヤ教から出て新しい宗教を始める意図は持っていなかったようです。

しかしイエスの弟子たちは、結果的に神殿にも行けなくなったし、会堂からも追い出されたので、やむを得ず自分たち独自の礼拝や集会を始めたのではないだろうか。

どこが根本的な対立の争点、争いの原因だったのであろうか。

イエスは言われました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

旧約のホセア書の預言者の言葉(66)を引用しています。

律法学者やファリサイ派の人々は、自分が病人であるとは思わなかった。自分たちが、神の前に赦しと癒しを必要とする人間であるとは、思わなかったようであります。

さて、現代の日本に生きるわたしたちは、自分自身をどんな者と思っているのか。

自分は赦しと癒しを必要としている病人であり罪人であると思うのか、自分は大丈夫だけれども、周りにはそういう人が多いので、そういう人のために何かしなければいけないと思うのか。

現代の日本で、イエス・キリストによって示された慈しみ、憐みということを最も必要としている人は誰なのか、どういう人なのか、そういう人に我々はどのように関わりを持ったらよいのだろうか。

福音宣教・福音化というのは、良い便りを告げ知らせることであります。

彼らにとって良いものでなければならないので、自分たちが非難されると思ったり拘束されると思ったりすれば、決してわたしたちの仲間になってはくれないだろう。

「あなたは駄目な人だから、我々のようになりなさい」というメッセージしか伝わらなければ、信者になろうとはしないだろうと思うのであります。

 

2019年9月20日 (金)

教皇庁への提言

聖アンデレ金と同志殉教者 ミサ説教

2019年9月20日(金)、本郷教会

 

昨日の福音は、罪深い女と言われていた女性の、罪の赦しをいただいたことに対する特別な感謝の行為を告げる話でありました。

今日の箇所はその続きであり、イエスの宣教の旅行には、十二使徒以外にも女性たちが同行し、彼らを助けていたと告げています。

また、第一朗読のテモテへの手紙では、パウロの愛する若い弟子が、立派に務めを全うするよう、忠告する手紙を送ったようであります。

 

さて、わたくしたちの最高指導者ローマの司教、フランシスコ教皇が来日されます。

そこで、一つ思い出したことがあります。

今日の外電を読みますと、バチカンの改革委員会の開催の様子が報道されています。

2013年のことですが、インドのオズワルド・グラシアス枢機卿Cardinal Oswald Graciasから日本の司教協議会に手紙が来ました。

教皇庁の改革を進めるための委員会が作られ、自分はアジアを代表して参加をするので、それについて、何でもいいから意見・提案を出して欲しいという内容でありました。

非常に急いでいるようなので、取り敢えずわたくしが返事を出しました。

三つの点をお願いしました。

一つは、教皇庁にあまりにも多くの権限が集中し過ぎているので、もっと地方の教会に権限を分散させてほしいという、非中央集権化であります。

二番目は、それぞれの地方の教会の文化を尊重し、その文化に溶け込んだ教えと典礼を実行できるように取り計らってもらいたい。

インカルチュレーションということです。

三番目は、教皇庁本部の中の霊的な刷新を進めて欲しいという、三つのことをお願いいたしました。

何度も会議が重ねられているようでありますが、まだ答申は出ておりません。

2019年9月19日 (木)

罪深い女

年間第二十四木曜日 ミサ説教

2019919()、本郷教会

 ある罪深い女性の話であります。イエスはこの女性に、「

あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ750

と言われました。

イエスは、ほかの場面でも同じような言葉、「あなたの信仰があなたを救った。」と言っています。

今日の話も、ファリサイ派の人とイエスの間に起こった、信仰の理解の違いの物語ではないかと思われます。

この罪深い女とはどんな女性だったのでしょうか。

この話はどこで起こったのでしょうか。おそらく、イエスが活動した主な場所、ガリラヤの湖のほとりではなかったかと思われますので、カファルナウムかもしれないと思われます。

罪深い女というのは、もしかしたら娼婦であったと考えられます。

この女性は、イエスのことをすでに知っていました。

もしかしたら、何処かでイエスの話を直接聞いたことがあったのかもしれない。

イエスは神の愛、神のいつくしみを説いていました。

「いつくしみの特別聖年」という、特別な期間があったことを思い起こします。

イエスは、「神はいつくしみ深い」ということを説いたのでありました。

この女性は、人々に後ろ指さされ、爪弾きされるような仕事をしていた。

そのことを非常に後ろめたく思い、毎日辛い思いをしていたと思われます。

このような自分でも救われるのだろうか。そういうふうに思ったことでしょう。

しかし、イエスの話を聞いて、神は自分を赦してくれると思うようになった。

どんなに辛いことがあっても、自分を受け入れてくれる者、自分を赦してくれる存在、

自分を認めてくれる者がこの広い世界に一人でもいる限り、生きるための力をいただくことができるのではないでしょうか。

毎日辛い思いをしていたこの女性にとって、イエスとの出会いは、命を賭けた大切な出来事でありました。

イエスを通して、いつくしみ深い神を知った女性は、精一杯の感謝の気持ちを表したのでありました。

その女性の感謝の仕方は、非常識というのでしょうか、人を十分に驚かせるに足るものであった。

特に、イエスを食事に招いたファリサイ派の人を躓かせたのです。彼女の行動はファリサイ派の人には到底受け入れ難いものでありました。

そのような女性の行為、

「この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。」(ルカ744

「この人は足に香油を塗ってくれた」(ルカ746)をイエスは受け入れました。

このようにして、この女性はなりふり構わずに精一杯、自分の感謝の気持ちを表したのでありました。

そのような女性をイエスは庇って言われた。

「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ747

この女性は、赦されたということを信じ、そして罪深い自分が赦されている、受け入れられているということを信じ、大きな喜びをもってイエスへの感謝を表したのでありました。

 

いつも同じことを言っておりますが、福音宣教というのは、良い便りを告げ知らせることであります。

聞く人にとって、良い便り、喜ばしい便りを告げ知らせなければならない。

この女性の場合は、いつくしみ深い神が自分を赦し受け入れてくださっているということを身をもって表現し行動で示してくださった方がナザレのイエスであったので、そのイエスに対する限りない感謝の念を、このような特別な行動で表明したのでありました。

わたしたちの場合、なにが福音であって、そしてどのようにしたら福音への感謝を表すことができるでしょうか。

 

大酒のみのイエス

年間第二十四水曜日 ミサ説教

2019918()、本郷教会

 

イエスの述べた神の国の福音は、受け入れる人もいましたが、受け入れない人も少なくはなかったのであります。

今日の福音によると、イエスは、悪口を言われています。

「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカ734

イエスは、代表的な罪人と思われていた徴税人の仲間であるとされていました。

教会の使命は、福音宣教ということですが、現在において徴税人という言葉で表されている罪人とは、誰のことでしょうか。

罪人という言葉は、今の人たちには受け入れ難い言葉でしょう。

確かに、罪人と犯罪人は違いますが、自分が罪人であるとは、どういう場合をいうのだろうか。

自分は救いを必要としている、このままの自分では駄目だ、足りない、寂しい、虚しさを覚えているという人は、多くいるのではないだろうか。

そういう人々のためにイエスは来たのであると思われる。

イエスによって建てられ、遣わされているわたしたち教会は、現代において、もしナザレのイエスが宣教するとしたら、どのようにして誰と一緒に何を言い、何をするのか。

多くの人が求めてはいる、しかし、その求めていることが何であって、その求めていることにわたしたちはどのように応えているのでしょうか。

カトリック教会は敷居が高いと思われ、日本の司教協議会は1987年に、その敷居の高さを取り除くための全国集会を開いて、誰にでもどんな人にでもアクセスしやすい、そこに行ったら助けがある、安らぎがあるという、そういう教会になりたいと宣言したのでありました。

その方針が今どのくらい実現しているだろうか。

さまざまな努力をしたが、依然としてイエス・キリストの福音は、遠い存在になっていると思わないわけでもない。

この前の日曜日の福音は、ルカによる福音15章で、「迷い出た一匹の羊」、「失われた銀貨」、そして「放蕩息子」の三つのたとえ話でありましたが、自分たちが失われた者であって、失われた者として行くところがあればどこかに行きたい、その行くべきところ、縋りつくべきところ、受け入れてくれるところが何であるかということを、もっと明確にしなければならないのではないかと、いつも考えております。

 

2019年9月18日 (水)

監督

年間第二十四火曜日 ミサ説教

2019917()、本郷教会

 

ナインというところで、イエスの一行は、お葬式の行列と出会いました。

ある母親の一人息子が亡くなったのでありました。

イエスは、この母親を見て、憐れに思い、亡くなったこの一人息子を生き返らせたのでありました。

イエスの母親はマリア様ですけれども、父親のヨセフは先に亡くなったので、マリア様もやもめの生活をしていたのだろうと思います。

イエスは、この母親に深く同情なさったのでありました。

この話は分かりやすい。

深く憐れという言葉は、心から同情するという意味であって、聖書のいろんな箇所で使われております。

 

第一朗読は、テモテへの手紙ですけれども、「監督」それから「奉仕者」にはどのような人が相応しいかということが述べられています。

「監督」という職は、スーパーバイザー、今日では司教が「監督」に該当するのでありますが、当時の「監督」は、今の司教とはかなり違う役割を持っていたのでしょうか。

「自分の家庭をよく治める人でなくてはなりません」(一テモ34)とされております。

「奉仕者」の方も、同じであります。

 

昨日、長崎教区で補佐司教の叙階式がありました。

あらためて、司教という人は、どういう人でなければならないのかということをつくづく考えてみますと、自分の名誉を求めない人でなければならないと思います。

自分のパワーを使って人を支配しない人でなければならないと思います。

これがなかなか難しいことではないだろうかと思うのであります。

 

2019年9月17日 (火)

喜び祝うのはあたりまえではないか

年間第24主日説教

9月15日(日曜日)敬老の日、茂原教会

  今日の福音はルカの福音の15章に出てくる三つの譬話であります。三番目のたとえ話は有名ないわゆる放蕩息子のたとえであります。

今、お聞きになった通りですが、弟の方は父親から自分の財産の分け前を貰い受け父親の家を出て遠い国へ行って、放蕩して財産をすべて使い果たしてしまいました。折しも飢饉が起こり彼は食べる物にも困ってしまった。豚の世話をさせられる、というユダヤ人には屈辱的な状況に置かれて、やっと彼は「我に返った」のでした。

この「我に返った」ということは、どういうことでしょうか。大切な言葉です。

本来の自分に目覚めたということでしょう。「父の所に帰ろう」と思ったのであります。父のところに帰るということは、自分のいるべき場所は父の所であるということを深く悟ったのであります。

「底つき体験」というのでしょうか、どん底の状態におかれて、初めて自分の本来いるべきところは父の所であるということに気が付いたのでありました。この弟の体験は、人類全体の体験を象徴しているように思われます。父親の方は、出ていった弟の方を毎日心配しておりました。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけてあわれに思い、走り寄って首を抱き接吻した」とあります。弟の方は父親に詫びを入れて赦してもらおうと思いましたが、父親の方は最後まで言わせないですぐに彼を受け入れて、息子としての待遇を与えているのであります。

この話とよく似たたとえ話が仏教の方にもあります。長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬と言いまして、長者は金持ち、窮子は窮乏状態で困り果てた状態にある息子という意味でしょう。同じように家を出て放蕩三昧したが、困り果てて、やっとたどり着いた豪華な家で、彼は雑用係に採用されました。実はその家の主人は、息子を探そう思って家を出て、新たに家をかまえた父親であった。父親はすぐにその男が自分の息子であることに気が付いたが、あえてすぐには父親の名乗りをあげなかった。息子の方は、その家の主人が自分の父親であるとは夢にも思わなかった・・・。

そういう話でありました。父親の方はすぐに親子の名乗りをしたいと思ったが、そこは辛抱して、息子には掃除などのいわゆる汚い仕事をさせて息子がすっかり性根を叩き直されたところで初めて親子の名乗りをするようにした、という話でございます。

ルカの15章の譬話とは対象的で、父親は息子になんの罰も与えないし、質問もしないし、責めることもしない。無条件に受け入れているのであります。ただ自分のところに戻ってきたという事実だけで大喜びで宴会を催したという。

この話を私たちはどのように受け取ったらよいでしょうか。兄の方は、この父親の態度を理解することができなかった。わたしたちの場合はどうであろうか。

仏教の方が理にかなっているような気がしないでもない。福音書の父親のように、そんなに甘いことをしていたのでは息子のためにならないし、しめしがきかないと、普通は思うかもしれない。回心とか、悔い改めということを、わたしたちはよく聞くし、よく話すのでありますが、それはどういうことだろうか。

回心とは、神の方に向かって向きを変える、神の方に向かうということであります。神の方に向きを変えるということは、神を信じる、神の慈しみを信じるということ、神の方にわたしたちの心を向けるということが、神の慈しみ、神のあわれみを信じる、ということではないかと思うのであります。

このような、父である神様の心というものをイエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに説明したのであります。

もしかして、この兄の態度はファリサイ派の人々や律法学者を指しているのかもしれない。

神がわたしたちに求めていることは、まず何よりも自分のところに戻ってくるということであります。

神のもとに立ち帰るというのはどういうことだろうか?

わたしたちの場合、どうすればよいのだろうか?

立派な人間にならないとわたしたちを神様は受け入れてくれないのだろうか、これこれの事をちゃんとできるようにならないと神様の前に立てないのではないだろうか、という思いがあるかもしれませんが、神が求めていることは信頼をもって自分の方に顔を向けるということであって、わたしたちがどんな状態にあろうとも、或いは、相変わらず罪びとであっても、過ちを犯していても、不完全であっても、そのことは問わない、ということではないだろうかと思うのであります。

 第一朗読は、怒りに燃える主なる神さまをモーセが宥めたので、神は民に災いを下すことを思いなおされたという話でありました。

第二朗読は、使徒パウロが、自分が如何にひどい罪びとであった、冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者であったが、神は忍耐をもって自分を見逃し、そして回心に導いてくれたという話でありました。

 わたくしの念頭にはいつも「日本における福音宣教」ということがあります。

何が福音であるのか?福音とは何であるのか?

わたしたちは何を人々に伝えなければならないのか?

たくさんの教えや掟がありますが、あまりにも複雑で難しそうに見えるので、なかなか人々にはなじみにくい。その中でこれさえ伝えれば、あとは自ずから備わってくる、というものがあるのではないだろうかと思うのであります。

さて、今日は敬老の日に因んで、これより病者の塗油が行われます。

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年間第24主日C年

 第一朗読  出エジプト記 32:7-11、13-14
(その日、)主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

 第二朗読  テモテへの手紙 一 1:12-17
(愛する者よ、わたしは、)わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 福音朗読  ルカによる福音書 15:1-32
(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

 

すべての人を救う神

聖コルネリオ教皇 聖チプリアノ司教殉教者 ミサ説教

2019916()、本郷教会

今日の福音は、カファルナウムに駐屯していた、ローマ軍の百人隊長の僕のいやしの話であります。

以前、聖体拝領の前に唱えていた言葉は、今日の福音から採られていました。

「主よ、わたしは主をわが家に迎え奉るに足らぬ者である。ただ一言語り給え。そうすればわたしの霊魂はいやされるであろう」

聖体拝領の前の祈りに採用されていました。

イエスは、百人隊長の信仰を称賛して言われました。

「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」

(ルカ79

イエスは、何人かの人にむかってその信仰を称賛し、あるいは「あなたの信仰があなたを救った。」と言っておられます。

さて、今日の第一朗読も非常に大切な箇所であります。

テモテへの手紙一

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」

(一テモ24

このパウロの教えを、第二バチカン公会議の後の教会は、どのように受け取っているのでしょうか。

「教会のそとに救いはない」という言い方がずっとありましたが、他方、異邦人の中にも、イスラエルの人が及ばないような深い信仰の人もいたのであります。

そのような人の救いは、どうなるのでしょうか。

イエス・キリストは、唯一の仲介者でありますので、イエス・キリストの仲介を経なければ、天の父のもとに行くことができないということになります。

しかし、イエス・キリストに出会う機会がなかった人は、イエス・キリストを信じる機会が与えられなかった人は、どうなるのでしょうか。

他方、神は、すべての人が救われて、真理を知ることを望んでいる。

この二つの命題、神はすべての人が救われることを望んでいるということと、イエス・キリストは唯一の救い主であるという、この命題をどのように両立させたらいいのだろうかという難しい問題があります。

第二バチカン公会議は、この問題に次のように答えました。

「神は、神だけがご存知の方法で、すべての人がイエス・キリストの過越の神秘に与ることができるように取り計らってくださる」

 

 

 

 

 

 

2019年9月15日 (日)

自分を無にする

病者のためのミサ説教

2019914() 十字架称賛の祝日、本郷教会

神は、すべての者が救われて永遠の命に入ることを望まれ、御子イエス・キリストを

わたしたちのところにお遣わしになりました。

イエス・キリストは、神の御子でありながら罪ということを除いてすべての点で、わたしたち人間と同じ者になられました。

それだけでなく、自分を空しくし人の僕となり、十字架の死に至るまで謙遜で従順な生きかたを示してくださいました。

「自分を無にする」ということは、いろいろな宗教でも同じように教えていると思います。

この「自分を無にする」ということは、誰にとっても難しいことではないでしょうか。

わたしたちは、自分の日々を振り返ってみますと、いろいろな時にいろいろな場面で、自分というものを主張しており、自分の思いが遂げられない時には、不愉快に思ったり、怒りを覚えたりするのであります。

それは、主イエス・キリストの生き方にはそぐわない生き方であります。

そういう謂わば原罪というマイナス要因に条件づけられている人間でありますが、それでもわたしたちは、イエス・キリストを信じることによって、聖霊の注ぎを受けております。

ただひたすら、イエス・キリストを信じるということは、日々イエス・キリストによって生かされているということを信じ、そして自分自身の中にイエスが来てくださっている、わたしたちは聖霊の神殿とされているということを、自分で認めることではないかと思います。

すべての人は、地上の生活をいつか終わらなければなりませんが、地上の生活を終わったのちも、天には永遠の住処が備えられております。

そして、日々イエス・キリストの復活の命を受け、最終的に復活の栄光に与ることができる、

完全に主と同じ姿に変えていただけると、わたしたちは信じます。

自分自身のことを含め、わたしたちは体についても心についても、何らかの問題を持っているのでありますが、その事実を謙虚に認め、そしてそのようなわたしたちの内に復活したイエス・キリストが来てくださっているということをあらためて認め、そしてお互いに尊敬するようにしたいと思います。

そして、この世界が神のお造りになった世界であり、そもそも極めてよい世界であるという創世記の教えをあらためて確認いたしましょう。

どんなことがあっても、この世界は神の造られた世界であり、そして神の輝きのもとに置かれています。

どうかわたしたちのこの信仰を、聖霊が強めてくださいますように。

 

 

 

 

 

2019年9月13日 (金)

自分のことは棚に上げて

聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士 ミサ説教

2019913()、本郷教会

第一朗読  テモテへの手紙 一 1:1-212-14

わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。

わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。

福音朗読  ルカによる福音書 6:39-42

(そのとき、イエスは弟子たちに)たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

説教

イエスは、ファリサイ人や律法学者たちに向かって、非常に痛烈な批判をしています。

今日の福音も、その流れの中で解釈する方がよいのでしょうか。

イエスは、偽善者に向かって言っています。自分の目の中に丸太があるのに、兄弟の目の中にあるおが屑を取り除こうとしている偽善者に向かって非難しています。

自分に大きな問題があるのに、人の小さな問題を云々することを批判しているのであります。

人間は、なかなか自分の問題に気がつかないが、他人の問題には敏感であります。

この今日の話は、大変耳に痛い話でありますけれども、わたくしはすぐに思い浮かべたことがあります。

それはヨハネ・パウロ2世教皇が、紀元二千年を迎える時に、世界中に手紙を出しまして、

「わたしたちキリスト者は心からの反省、回心、悔い改めをしなければ、紀元二千年という節目の年を過ぎることはできない。第三の千年紀の敷居を跨ぐことができない」と言われた。

そして、反省事項の中に三つのことを挙げています。

一つは、「キリスト者の間に生じた分裂」です。

第二は、「不寛容」ということで、表現としては、「真理への奉仕における暴力の行使」ということですね。

ちょっと具体的ではないのですが、おそらく異端審問とか、もしかして十字軍ということを指しているのかもしれない。不寛容の罪です。

三つめは、「全体主義政権による基本的人権の侵害を黙認」したということ。

全体主義政権が何を指しているのか。ナチスとか共産主義を指していたようであります。

人のことをとやかく言う前に、自分自身のことを反省しなければならないという教えであり、

わたしたち自身、個人としても教会としても、本当に心から自分自身を振り返なければならないと思います。

 

 

 

 

 

 

敵を愛しなさい

年間第二十三木曜日 ミサ説教

2019年9月12日(木)、本郷教会

 

第一朗読  コロサイの信徒への手紙 3:12-17
(皆さん、)あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

 

福音朗読  ルカによる福音書 6:27-38
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

説教

今読み上げたルカによる福音の6章は、あらためてイエスの教えが何であったかということを、わたしたちに思い起こさせ、そして畳みかけるようにわたしたちに繰り返し迫ってくるように感じます。

 

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」(ルカ6・27)

「あなたがたは敵を愛しなさい。」(ルカ6・35)

繰り返し「敵を愛する」ということについて、言い換えをしてわたしたちに迫ってくるように感じます。

キリスト教は、「敵を愛する」ことを教えているということは、多くの人が知っています。

しかし、この教えをどのように実行しているかということについては、もしかしてかなり批判的ではないだろうか。

キリスト教徒は、二千年の歴史の中で、このイエスの言葉をどのように実行してきたでしょうか。

わたしたちは、主イエスのご命令に従い、イエス・キリストの教えを宣べ伝え、イエスの弟子をつくるために力を尽くしていますが、なかなかその任務が発展しないのも事実であります。

どうして人々は、イエスの福音、教会の教えを受け入れないのだろうか。

もしかして、人々は思っています。

イエスの福音は非常に良いと思う、良いが実行は難しい、と思う。その非常に良い、イエスの福音の教えをあなたがたはキチンと実行しているのか。

そのように問いかかける気持ちを持っているのではないだろうか。

 

わたしたちキリスト者は、このイエスの言葉をいろいろ解釈し、例外を定めるという作業を繰り返して来たと思う。

「敵を愛しなさい。しかしこう言う場合は違います。」

あるいは、「暴力を使ってはいけません。しかし、こういう場合は当てはまりません。正当防衛という理論もあります。」

「人を裁いてはいけない。人を罪に定めてはいけない。しかしこういう場合はその言葉が当てはまりません。」

そういうことが多いように思う。

わたしたちは、イエスの言葉をどのように実行したら良いのだろうか。

それを考えると、非常に胸が苦しくなるような気がいたします。

 

 

貧しい人々は幸い!

年間第二十三水曜日 ミサ説教

2019911()、本郷教会

第一朗読  コロサイの信徒への手紙 3:1-11
(皆さん、)あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

 

福音朗読  ルカによる福音書 6:20-26
(そのとき、)イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 

説教

「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ620)とイエスは言われ、

また「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」(ルカ624)とも言われました。

マタイの5章の山上の説教に対応する、ルカによる山上の説教の教えであります。

わたしたちは、このようなイエスの言葉を福音として受け取り、そして人々に告げ知らせるように、求められています。

通常の人々の考え方とは合わない教えでありますので、そのような教えを人々に伝えるということは、けっして易しいことではないと思う。

その易しくないことを、福音宣教という使命を、わたしたちは与えられています。

今日のイエスの言葉を、さらに使徒パウロはコロサイの教会への手紙の中で説明しています。

キリスト者は貧しい者である。マタイの福音では、霊において貧しい者であります。(心の貧しい者と訳されています。)

貧しい者はひたすら上にあるものを求め、地上のものから心を引き離して生きる者です。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロ33)と言っています。

そして、地上的なものを捨て去りなさいと言っています。

地上的なものとは、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」(コロ35)のことであり、そしてさらに少し後で、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。」(コロ389)と言っています。

このように生きるということは、日々「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」(コロ310)ということです。

古い人を脱ぎ捨て、新しい人になるというパウロの教えを、わたしたちはどのように実行できるのか、祈り求めたいと思います。

 

証書の釘付け

日本二百五福者殉教者 ミサ説教

2019910()、本郷教会

第一朗読  コロサイの信徒への手紙 2:6-15
(皆さん、)あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。

 

福音朗読  ルカによる福音書 6:12-19
そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

 

説教

今日の福音は、十二使徒の選びを告げています。

イエスは十二人を選ぶ前に山に行き、一晩祈って過ごされました。

そのようにして選ばれた十二人でありますが、その中の一人が、のちにイエスを裏切ったイスカリオテのユダでありました。

ユダについて、いろいろのことが言われています。聖週間の典礼の時に、もう一度ユダについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

第一朗読のコロサイ書は、罪の赦しについて言っています。

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(コロ21314

十字架に付けられたのはイエス・キリストですけれども、同時に、何だか借金の証書のような感じですけれども、わたしたちを訴えていた罪の証書を、破棄し、なかったことにしてくれた、それは十字架に釘付けにされたことに因ってである、と言っています。

イエスの十字架と罪の赦しという、わたしたちの信仰の根幹に関わる教えについて、さらに深く黙想したいと思います。

 

 

 

2019年9月 9日 (月)

イエスの挑発行為

年間第23月曜日ミサ説教

 

第一朗読  コロサイの信徒への手紙 1:24-2:3

福音朗読  ルカによる福音書 6:6-11
(ある)安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

 説教

ナザレのイエスという人はどんな人だったのでしょうか。

わたしたちは福音の朗読を聞きながらイエスはどのように生きたのか、そしてどのようにして十字架刑に処せられるようになったのかということを学んでいます。

今日の福音によると、「律法学者、ファリサイ派の人々は怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」と出ております。今日の箇所から、イエスの態度は非常に挑戦的、あるいは挑発的であったと言えましょう。彼らがそのように怒り狂うほどに、イエスに反発するだろうということは充分に予想されていたにもかかわらず、あえてイエスは右手の萎えた人を癒す行為に出たのであります。安息日に掟を破る者として、瀆聖の罪を犯す者として、イエスは十字架に架けられるようになったのでありました。

自分を憎んでいいのか?

年間第23主日

2019年9月8日、本郷教会

第一朗読 知恵の書9・13-18

第二朗読 使徒パウロのフィレモンへの手紙9b-10,12-17

福音朗読 ルカによる福音14/25-33

(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 

説教

 

イエスは、大勢の群衆が自分について来られるのを見て、「自分の弟子になるためには、どうでなければならないのか」ということを言われました。

イエスの言葉を、わたしたちはどのように受け取ったらよいでしょうか。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、きょうだい、姉妹を、さらに、自分の命であろうともこれを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

「憎む」という言葉は、どういう意味でしょうか。おそらく、聖書の言い方では、わたしたちが使う「憎む」という意味とは違う意味合いが含まれていると思われます。

この『聖書と典礼』の脚注を見ますと、「憎む」は、ここでは「より少なく愛する」という意味になっております。「より少なく愛する」というのは、日本語の表現にはないので、どういうことなのだろうかと思うわけであります。

イエスは決して家族や、隣人をないがしろにして良いとは言っていない、それは明白なことであります。また、「モーセの十戒」の中に「父母を敬いなさい」という規定が、厳然としてそびえているわけであります。家族や、隣人を大切にするということと、イエスに従うということとが矛盾するのでしょうか。矛盾するはずはないわけですが、ではどのように解釈をしたらよいのであろうかと…。

きょうの福音では、二つのたとえが出てきます。

「塔を建てる人の費用の計算」というたとえ。それから、「戦いに行こうとするときの準備」のたとえが出ています。

二つのたとえに共通して出てくる言葉は「腰をすえる」、つまり「腰をすえて計算する」あるいは、「腰をすえて考える」という表現です。

自分が計画していることを、実行するかどうか、ということを最終的に決めるために、「大丈夫だろうか」、「成功するだろうか」、「やり遂げることができるだろうか」と考えるわけです。それを「腰をすえて」考える、計算するという、表現で述べているのだろうと思われる。

そうすると、「イエスに従う人は、イエスに従おうと決心するときに、腰をすえて考えなさい」、そういう意味ではないかと思われる。どういう心構えが必要なのか…。

何か、その過激な原理主義の宗教のように、家族を否定して、家を飛び出して、何もかもやめて、呼びかけに応えなさいという意味ではないだろう。教会の歴史の中で、このイエスの言葉をほぼ文字通り受け取って実行した人もいますが、全ての人が、自分の家族や、仕事・任務を放棄して、放り出して出かけてしまうということを期待しているわけではない、それは明白だろうと思う。

そうすると、どういう意味かということになります。一つ、二つ、考えられる解釈を申し上げて、皆さんにも一緒に考えていただきたい。

ひとつは、「より少なく愛する」ということですが…。

わたしたちは神からの呼びかけに応えなければならないわけです。さまざまなことをしなければなりませんが、「優先順位」というものがあります。わたしたちも、日々、意識してか、しないでか、なすべきことの中で「優先順位」をつけているわけであります。こちらより、こちらの方を選び、こちらの方を先にするということを選んでいるわけです。

ですから、「イエスに従う」という場合、「家族を大切にし、仕事をしながらイエスに従うという道」があるわけですが、家族を大切にすることと、仕事を誠実に行うということを、放棄するとか、ないがしろにするということではないはずであります。

それでは、どういうことになるのかと考えてみますと、「わたしがあなたに与える自分の十字架を背負ってついて来きなさい」いうことをイエスは言っています。

きょう、入祭の歌で「来なさい、「わたしの十字架を担って来なさい、「わたしの与える荷は軽い、負いやすい」と歌っていただいたのですが、イエスが与える十字架、あるいは重荷は軽い、負いやすい、その言葉を併せて考えて…。

「来なさい、「わたしのもとに来なさい、重荷を負う者。わたしはあなたを休ませる」と、そう、同じイエスが言われた。

きょうの福音だけを聴くと、「自分の家族を捨て」そして、さらに「自分のいのちでさえ憎まなければわたしの弟子になれない」と言われたので、全くもってそんなことはとてもできないというように思います。

「自分の十字架を背負ってきなさい」と言われたので、その十字架というのは何であろうか、「自分のなすべきことを放擲して、自分のいまの場所から出て、どこかに行って、イエスに従う、司祭になるとか、修道者になるとか、そういう道もありますけれども、通常、全員が司祭になるわけではないし、自分の置かれているその場所で、自分の置かれている状況の中でわたしの弟子になりなさい、それが、「わたしの十字架を担いなさい」ということと重なっているのではないだろうか。

「腰をすえてわたしに従いなさい」ということでもあります。そうすると、「腰をすえる」というのは、「いまの自分の立場で、さまざまな人とのかかわりの中で、自分が与えられている十字架を背負う」ということ、あるいは「重荷を負う」とは何であろうか…。

それぞれの人には、それぞれの課題があるようでありまして、ほかの人には代わってもらえない、その人が為すべき、その人しかできないことがあります。

 

きょう、みなさんそれぞれ「自分の十字架」、「自分の重荷」、「イエスが一緒に担ってくださる」、「軽くしてくださる重荷」というのは何であろうかということを一緒に考えてみたいと思います。

 

自分の思いに人を合わせようとすれば、自分の思い通りにしてもらえないから…、人生は思い通りにならないので、悩んだり、苦しんだりしますけれども…、それは、お互いのことであります。

自分の思いを捨てて、そして、人の問題や、人の欠点、人の問題を自分のこととして受け入れるならば、自分というものはそこから消えていくわけです。

これが、なかなかできることではないわけでして、十字架というのは、どこか遠くに行かなければ無いのではなくて、実は、毎日の生活の中にあるのです。

ですから、「憎む」というのは、自分の都合に合わせて他人が生きるようにするという生き方を否定して、人のために、それはイエス・キリストの生き方に倣って、神様がお望みの生き方を選ぶということだろうと思う。

 

そのことを第一朗読と併せて考えてみますと、「知恵の書」(9章17節)からの朗読でありまして、

「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれがみ旨を知ることができたでしょうか。」「人はあなたの望まれることを学ぶようになり、知恵によって救われたのです。」

 

神の知恵、それは聖霊によって示され与えられます。わたしたちが自分のものではなく、神のお望みを知り、神のお望みを行うことができますよう、そして、喜んで、自分の思い、望みを神のお望み、主イエスの生き方に適った生き方に合わせることができますよう、祈り求めたいと考えます。

2019年9月 6日 (金)

新しい革袋

年間第二十二金曜日 ミサ説教

2019年9月6日(金)、本郷教会

 

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」(ルカ5・37)と、イエスは言われました。

「新しいぶどう酒」とは何でしょうか。

「新しい革袋」とは何でしょうか。

エレミヤの預言において、新しい契約という言葉が出てきます。

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」

(エレ31・31)

「わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、かれらはわたしの民となる。」(エレ31・33)

「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。

彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。」

(エレ31・34)

新しい契約の預言であります。

「新しいぶどう酒」、そして「新しい革袋」という言葉は、このエレミヤの「新しい契約」

の預言と関係がある。あるいは、新しい契約のこと自体をさしているのかなぁというように思います。

「花婿が奪い取られる時が来る。」(ルカ5・35)とイエスは言われた。ご承知のように、それは、イエスが十字架刑につけられる時のことを言っていると思われます 。

そして、 新しい契約の血を流されたイエスは復活し、父のもとに昇り、聖霊を弟子たちの上に注がれました。

パウロのローマの信徒への手紙の中で、次のように言われています。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ5・1 - 2)

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5・5)

エレミヤは、わたしたちの心に新しい律法を記すと言われました。

それは石の板に刻まれた律法ではない、直接一人ひとりの心の中に、神がしるしてくださる

律法であり、そしてそれは聖霊の注ぎによって実現する、と言われたと思います。

わたしたち新しい契約の神の民は、新しいぶどう酒、新しい革袋の神の民として、日々神の新しさを生きることができるよう、祈りましょう。

 

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ペトロの召命

年間第二十二木曜日 ミサ説教

2019年9月5日(木)、本郷教会

 

今日の福音は、ペトロ、そしてヤコブ、ヨハネの召し出しを告げています。

昨日の福音で、ペトロの義母のいやしが告げられています。

ペトロの召し出しよりも、ペトロのしゅうとめの方のイエスとの出会いの方が、先にあったのでしょうか。

ペトロの家には、多くの人が出入りしていたようであります。

ペトロの召し出しの話は、いろいろなところですでに話されていて、強く記憶されていますけれども、ペトロのしゅうとめの話はあまり注目されていない。

イエスは、多くの病人をいやされましたが、その中にペトロのしゅうとめのいやしがありました。

人々がイエスに願ったので、イエスは彼女をいやされた。

いやされた彼女はすぐに元気になって、人々をもてなしたと出ております。

今日はその続きの箇所であって、漁師であるペトロがイエスの言葉に従って、

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」(ルカ5・5)とこたえて、そして沖に出て網を降ろしたところ、おびただしい魚がかかったという奇跡的なすなどり〔漁〕の話であります。

ペトロは、おびただしい魚がとれたことに非常に驚き、そしてさらにおそれを感じました。

「シモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。』と言った。」(ルカ5・8)とあります。

聖なる人のそばにいると感じた時に、人は自分が罪深い者であるということを感じます。

明るい光に照らされると、小さな埃やゴミまでが分かると同じようなことなのでしょうか。

ペトロは、イエスがただの人ではない、神から使わされた聖なるお方である、と直感したのだと思います。

ペトロの召し出し、長いペトロの生涯の話がここから始まります。

わたしたちも自分の召命ということを思い起こし、これから為すべきことを考えてみなければならないと思います

2019年9月 5日 (木)

野坂操壽葬儀ミサ説教

野坂恵子(野坂操壽)葬儀説教

2019年9月3日、東京カテドラル聖マリア大聖堂

 

わたしは神に一つのことを願い求めている。

生涯、神の家をすまいとし、

あかつきとともに目ざめ、

神の美しさを仰ぎ見ることを。

 

わたくしは野坂恵子さんの生涯を思うときにこの詩編27の祈りの言葉を深く想います。

野坂さんは「美しさ」を探し求め「美しさ」を表わし伝えようとされたと思います。その美しさとは筝曲によって表し伝える美しさです。

すべての美しさの源は天地万物を創造された神にあります。神の美しさは種々の形で、いろいろな道を通して現れています。芸術家は自分の専門分野で神の美しさを表現します。美術家は自分の作品である絵画、彫刻等を通して、音楽家は、作曲、演奏等を通して神の美しさを再現します。野坂さんは音楽を通して、演奏を通して、そして筝曲演奏を通して神の美しさを再現し伝達されたとわたしは考えます。

野坂さんはその生涯の間にキリストの福音に触れる機会がありました。野坂さんはヨーロッパの文化に根を下ろしたキリスト教の信仰表現を通してイエス・キリストとの出会いを経験したのであります。カトリック教会の信仰告白の代表が「クレド」であります。そのクレドと筝曲の間にある深いつながりに注目された方が皆川達夫先生でした。

ある日曜日わたくしは千葉県の教会でミサをあげるためラジオを聞きながら自動車を運転しておりました。たまたま自動車での移動時間が皆川先生のNHKの音楽の泉の放送の時間と重なりました。そのときの皆川先生のお話はとても興味深いものでした。その内容はすでの皆さんごぞんじでしょうが、筝曲の「六段」とカトリックの典礼の信仰宣言「クレド」はそのメロディーが基本的にはつながっている、という趣旨であったと思います。

さて2012年4月8日のこと、その日はその年の復活祭でしたが、野坂恵子さんはわたくし岡田大司教の立ち合いのもと、カトリック麻布教会において、カトリックの信仰を告白され、カトリック教会の一員となられました。

その翌年の2013年11月4日、野坂さんは東京カテドラル聖マリア大聖堂で、チャリティコンサートに出演してくださいました。その日はわたくしの司祭叙階40周年の記念の日であり、わたくしが理事長をしていた二つの公益法人のために野坂さんは喜んで奉仕の演奏をしてくださったのであります。この日の献金はすべて二つの団体、『公益財団法人・東京カリタスの家』と『社会福祉法人ぶどうの木・ロゴス点字図書館』に贈与されたのであります。

さて、神は御自分の住まいへすべての人を招いておられます。神の住まいとは復活したイエス・キリストのおられる世界であります。イエスは十字架の死を通して、罪と死に打ち勝ち、神のいのち、神の麗しさ、神の輝きの世界に入りました。そしてご自分の霊である聖霊を送り、復活の恵みに与るよう、わたしたちを招いています。わたしたちに求められていることはただ、イエスの招きに「はい」と答えること、そして日々神の美しさ、輝きに与りながら歩むということに他なりません。

わたしはいつも野坂操壽さんの演奏に神のうるわしさ、輝きを感じました。野坂さんに続くお弟子の皆さん、演奏を賭して神の麗しさ、美しさ、輝き、そして安らぎの世界を多くの皆さんに伝えて頂きたいと願いながら、次の祈りをもってわたしの話の結びといたします。

いつくしみ深い主なる神が、悲しみのうちにある遺族の方々に慰めと希望を与えください。ご遺族が故人の遺志を継ぎ、故人の目指した目標に向かって心を合わせて、力強く歩ことが出来ますように 
 また、世を去ってわたしたちの父母、兄弟、姉妹、恩人、友人、支援してくださったすべての方々に永遠の安らぎと喜びを与えてくださいますように。

                    アーメン。

シモンの姑の癒し

年間第二十二水曜日

201994()、本郷教会

ガリラヤの湖のほとりに、カファルナウムという町があります。

きのうの福音に引き続き、今日の福音もイエスがカファルナウムで行われた、いやしの業を伝えています。

きのうは、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追放されたという話でした。

今日は、シモンの家で、シモンのしゅうとめの病気をいやしたという話であります。

シモンはペトロのことであります。

ペトロは非常に重要な人物でありますが、シモン・ペトロの召し出しの話の前に、シモンのしゅうとめ、つまりシモンの妻の母ということになりますが、その人の高熱を下がらせた、熱を叱りつけて、熱が去るようにしたという話であります。

今の医学の考え方からは分かりにくいですけれども、熱は何か悪いものの仕業であるという考えが支配していた時代の話かもしれない。

ナザレで宣教活動の第一声を発したイエスは、捕らわれ人に解放を告げるために来たと言われました。

その解放というのは、まことの自由へ人々を導くための解放であります。

今日の集会祈願で、わたしたちは祈りました。

「あなたの愛を受けた民を顧み、御子を信じる人々に、まことの自由と永遠の喜びをお与えください。」

 「まことの自由と永遠の喜び」とは、神の霊、キリストの霊である聖霊によって与えられるのであります。

 

 

 

 

 

 

悪からの解放

聖グレゴリオ一世教皇教会博士

93日、本郷教会

 第一朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 5:1-69-11

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

 福音朗読  ルカによる福音書 4:31-37

(そのとき、)イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。

 

説教

故郷のナザレで神の国福音を宣べ伝え始めたイエスはガリラヤの町カファルナウムに来て、安息日に人々に教えておられました。人々はイエスの教えに非常に驚いたと今日の福音が告げています。それはイエスの言葉には権威があったからでした。権威があったというのは、イエスが自分自身の教えとして、自部自身の言葉として話したからです。律法学者やファリサイ派の人々はモーセの律法に基づき、モーセに律法にはこのように書いてあるというように教えましたが、イエスは自分自身の教えとして話したのでした。

またイエスの言葉には、力がありました。イエスの言葉はその内容をすぐにその場で実現させる力を持っていました。イエスが、男にとりついている悪霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行ったのでした。

イエスは公生活・宣教活動において、何をしたのかということを考えてみますと、神の国の福音を宣べ伝えるとともに、病人、障がいのある人を癒し、また悪霊にとりつかれた者から悪霊を追い出したのであります。

わたしたちは毎日主の祈りを唱え、結びの祈りとして「わたしたちを悪からお救いください」と唱えています。この「悪」という言葉は「悪霊」というように解釈することもできます。ナザレで宣教を開始したイエスは「捕らわれ人に解放を告げる」というイザヤの言葉を引用しました。昨日のミサで「捕らわれからの解放とは何か」ということをお話ししましたが、今日の福音からさらに考えるに、それは「悪からの解放」であり、悪からの解放の中には悪霊からの解放が含まれています。教皇フランシスコは使徒的勧告『喜びに喜べ』の中で、「悪魔は実在する。その誘惑に負けないよう絶えず聖霊の助けを祈らなければならない」と教えています。

聖霊の助けを祈りましょう。

 

解放の福音

9月2日 年間第22月曜日 ミサ説教

 第一朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 4:13-18

 福音朗読  ルカによる福音書 4:16-30

(そのとき、)イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 

説教

イエスは故郷のナザレの会堂でイザヤ書を朗読されてからお話になりました。イザヤ書は『主の僕の歌』と言われる個所であります。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」

「わたしに油を注がれた」ということと、「主の靈がわたしの上におられる」、ということは、同じことを意味しています。油注がれた者は、メシア、すなわちキリストであり、油とは主の靈、神の霊の力を指しています。キリストは油注がれた者であり、貧しい人に福音を告げ知らせるという務めを与えられています。

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

キリストは主なる神から遣わされた者であり、解放を告げるという使命を受けていました。解放とはいろいろな捉われからの解放であります。その捉われの中には社会的な捉われ、貧しさ、圧迫、差別、人権侵害とか、貧しい人々が被っている、あるべきでないすべての状態が含まれています。解放とはそのような捉われからの解放を意味しています。また、一人ひとりの人の心の捉われ、すなわち、人の心を縛っている思い込み・怨み・憎しみなどのからの解放を意味しています。

「目の見えない人に視力の回復を告げ」とは肉体の目の見えない人に見えるようにしてあげるということと共に、本当のことが見えなくなっている人々に、神の真実、神がお造りになったこの世界の美しさを見えるようにしてあげる、という意味も含まれています。

「主の恵みの年を告げる」とは、旧約聖書で定められているヨベルの年を指していると思われます。ヨベルの年は50年ごとに定められていて、その年には一切の負債が免除されることになっていました。

そこで、解放とは、精神的、霊的、社会的なさまざまな次元、領域での解放を意味し、そして同時に、主の靈に与ること、神の美しさ、神の麗しさに与ることを意味していたと思います。

 

 

2019年9月 2日 (月)

本当の自分を見つける

小黙想会「福音とは何か」
《イエスのみ心》のミサ説教
2019年8月31日(土)、本郷教会

 

今日、わたしたちは、「福音というのはなんであるのか」ということを一緒に学び、考え、祈り求めたいと思います。
「福音」であります。
この2時からのミサは、どういうようなミサにしたらよいかとずっと考えましたが、「イエスのみ心のミサ」に落ち着きました。
17世紀にフランスで、聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647~1690)という修道女がいまして、彼女にイエスが現れて言われた。
その出来事だけが「み心の信心」の根拠ではないと思いますが、イエスが彼女になんと言われたかということを確かめますと、次のようになっています。
「この心(イエスの心臓)を見なさい。これは人間を非常に愛し、人々にその愛を示すために涸れ果てるまで何一つ惜しまなかったものなのに、多くの人々からその報いに、特に聖体の秘跡において、忘恩、不敬、さらに冒瀆、冷淡、無関心しか受けていない。最も辛いのはわたしに献身した人々もそうした態度を取っていることである。したがってわたしの望みは、聖体の祝日の翌週の金曜日に、わたしが聖体において受けたすべての辱しめを償うための祝日を設け、その日に償いの心をもって、聖体拝領することである。」と言われた。
聖マルガリタ・マリア・アラコックが受けたこの「み心の信心」は、フランスから世界中に広がりました。
「み心」、「聖心」という名前のついた修道会とか学校とか、たくさんあるわけですね。
もっともカトリック的と言いましょうか。
そこで、福音ということを考える時に、多少「み心」ということに触れることにはためらいを感じますが、やはり「み心」の信心を一緒に味わうことが、「福音」とはなんであるかを考え、確認する、味わうためにもっとも良い道ではないかなぁと思いました。

 

神とはどんな方であるかということは、人間にはよく分からない。
そこで神の方から、いろいろな呼びかけがなされた。
旧約の歴史、そして新約の歴史は、神が人間にさまざまな機会にさまざまな人を通し、さまざまな言葉で行われた呼びかけの歴史であり、救いの歴史であります。
その神の呼びかけの頂点が、イエス・キリストでありました。
そのイエス・キリストが地上の生涯を終わりまして、天の父の許にお帰りになりましたが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28・20)と言われました。
どのようにして一緒にいてくださるのだろうか。
わたしたちカトリック教徒として、最もそのことを強く思う場所というか、機会というのは、ミサ聖祭であり、ミサの時に献げられるご聖体であります。
われわれ教会では、ご聖体はミサの時だけのことではなくて、いつもご聖体を安置し、いつでもご聖体を訪問して、礼拝しお祈りするようになっている、そうするようにと勧められています。
かつてそのことを強く言われていたが、段々それが廃れてきているような気がするのであります。

 

ところで観念的に言えば、神さまは完全に満ち足りている方ですから、何かが足りないとか、あるいはこうしてくれないと困るとか、こういうことをすると腹が立つとか、こんなことが非常に悲しいとか、そういう人間的な反応がないはずであります。観念的には。
しかし聖書を見ると、神さまは憤ったり、嘆いたり、あるいは人間に求めたりしているわけです。
そして、そういう神の心が、ナザレのイエスという人を通して、人々に知らされた。
そしてイエスは、復活して天の父の許に帰られましたが、それでも事は終わっていない。
特別な人に現れて、「わたしは大変悲しい。非常に辱めを受けている」と。
その「人々の忘恩、不敬、冷淡を償うために、これこれのことをして欲しい」と言われた。
このマルガリタ・マリア・アラコックに言われたことは、すべての人が信ずるべき公けの啓示ではない。公けの啓示は、新約聖書を以って終了したというのが、カトリック教会の立場ですけれども、しかしイエスがいろいろな人を通して、わたしたちに呼びかけておられるということを、わたしたちは尊重しなければならない。
それで、わたしたち人間と同じように、悲しいとか非常に辛い、辛いから何とかしろと言ったということは、イエスは本当に神さまなのか、そんなことあるのかなぁという思いもしないわけでもないが、でもそう言われたということを信ずるならば、それではそれに応えましょうというふうにするのが、通常のわたしたちの反応ではないだろうか。

 

さて、今日そういうふうにわたしたちは、「福音とは何ですか」ということを確認しようということで、時間を取っているのであります。
「あなたにとって福音とは何でしょうか」、そしてそれは「イエス・キリストとは誰でしょうか」ということと、深く強くしっかり結びついているわけでございます。
神は、そしてイエスは、わたしたちに強い深い関心を持っているわけですね。
どうでもよいと思ったら、嘆きも怒りもしない、勝手にしろということになるわけですが、強く求めている。
わたしたちは求められているわけです。
(神が)求めているのに、(わたしたちは)冷淡であった。
人間同士、そういうことありますね。
強く激しく求めたのに、相手は知らんぷりということは、わたしたちが経験しないわけではないんですけれども、神が、あるいはイエスがわたしたちに求めているということは、人間的にはなかなか実感できない。
これは霊の世界、信仰の世界の問答であります。

 

そこでどういう風に話を持っていったらいいかと思うのですが、今日の福音ルカの15章
一匹の「見失った羊」の話であります。
99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで探し回る。
そして見つけたら大喜びで肩に担いで連れ帰って、「一緒に喜んでください。」というように、羊飼いが言った。
その羊飼いは良い牧者であり、そしておそらくわたしたちのところに遣わされたイエス・キリストを指している。
そしてイエス・キリストによって派遣されたすべての牧者は、この良い牧者のようでなければならない、という教訓だろうと思います。
ところで、この話でちょっとスッキリしない思いがするのは、「悔い改める」という言葉なのですね。
「悔い改めなさい」。悔い改めの言語はメタノイア。
要するに、「あなたがたは罪ばかり犯しているから、悔い改めなさい」というためのたとえなのか。
してはいけないことをしてしまうわたしたち、あるいはすべきことをしていないわたしたちがいる。
「さあ、感謝してこれからは良いことをし、悪いことはしないようにしなさい」という話なのか。
「そんなことは言われなくても分かっている、ただできていないのだよね」となるわけで、果たしてそれが福音になるのか。
できていないのに、おまえはできていないと言われて、「あぁ嬉しい」とは、わたしは思わない。
「そんなことは言われなくても分かっているよ」と、かえってますます心が萎びちゃうという思いなのですけれど。
これは何を言っているのだろうか。
それは皆さん考えていただきたいのですが、わたしが思いますに、「悔い改める」という言葉は、あまり良い訳ではないのかもしれないのですけれども、「放蕩息子」のたとえ(ルカ15・11)が同じような趣旨であります。
息子がお父さんのところから出ていってしまったのですね。
出ていってしまったが、やっぱり自分のいる所はお父さんの所なのだ、今更どの顔をさげてお父さんの所に戻れるのかと思うけれど、勇気を出して戻る。
それで、お父さんの方は、出ていく時に留めたりはしないし、帰ってきたら「お前やっぱり言っただろう。だからちゃんと俺の言うことを聞けばいいのだよ」とは言わなかったですね。
「悔い改める」というのは、もちろん悪かったとつくづく認識して、もうしませんという決意することではありますが、やはりこの「天の父の許に戻る」、自分のいるべきところはない、お父さんの所なのだと思うことであり、それは自分自身の再発見というか、自分とは誰であるか、本当の自分は誰であるか、どういう存在なのか、本当の自分を見つける、それが改心するというか、神の許に帰るということではないだろうか。

 

今日は時間があるので、皆さん考えてください。
「福音とはなんであるのか」
あなたはできていないと言われることが「福音」であるとは、わたくしは思わないのです。
あなたはできていないが、あなたは大事なのだと言われると「福音」になりますね。
できていない、採点すると何点だ、だからもっと点数を上げろと言われることが「福音」であるわけではないですね。
では何なのか。
あなたはあなたとして素晴らしいが、わたしはあなたのことを大切に思っているのだ。
あなたはほかの者と比べられない大切な存在なのだ。
ほかの人では替えがきかない、スペアがない、あなたはあなたしかいないのだ。
そういうメッセージだったら、「そうか俺はそんなに大事なのだ。点数も悪い、会社の仕事もあまり上手くできない、性格も良くない、いろいろマイナスばかりだけれども、それでもあなたがあなたであることを喜んでくれるという人がいるのかな。」と。
親は本来そうだと思うのですね。
ですから、「福音とはなのだろうか」というと、本当の自分に出会うということではないだろうかとわたくしの場合、思うわけであります。

 

最近聖アウグスティヌスの日がありました。(2019年8月28日(水))
最も有名な聖人、神学者、哲学者で、彼の残した言葉の中でこういう言葉があります。
「わたしは神を一生懸命探した。探して探して探しまくった。外にいると思ってあちこち行ったんですけれども、見つけられなかった。でもあなたはわたしの心の中におられたのですね。どうして早く気がつかなかったのだろう。もっと早く気がつけば良かった。あなたはわたしの心の中におられました。」そういう告白をしているわけです。
われわれは、聖アウグスティヌスではないけれど、わたしたちの中にダイヤモンドのような本当の自分がいるのだ。
それは神さまがわたしたちを造ってくれた時からそうなのだ。
神の似姿、神に似た者としてわたしたちは造られている。
自分の価値に目覚めることが、神に立ち返ることではないだろうか。
悪いことをしました、もう悪いことをしませんと思うことは、また同じような結果になる。
どんなに頑張ってもできないで、ますます自己嫌悪に陥ってしまう。
自分の業績にかかわらず、自分は尊い存在なのだということを確認できることが、「福音」かなぁと思いますが、皆さんの場合どうだろうか。
「イエスのみ心」の信心は、あなたが冷淡であるのでわたしはこんなに傷ついているというメッセージですけれども、裏返せば、あなたはわたしを喜ばせることができるのだよというメッセージにもなるわけでもあります。
その辺をご一緒に考えてみたい。

 

2019年9月 1日 (日)

お返しのできない人を招きなさい

年間第22主日C年

2019年9月1日、本郷教会

第一朗読 シラ書 シラ3:17-18、20、28-29

第二朗読 使徒パウロのヘブライ人への手紙 12:18-19、22-24a

福音朗読 ルカ14:1、7-14

 

説教

「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

このようにイエスは今日の福音で言われました。お返しのできないような人を招きなさいという

この教えは非常に明解であります。しかし、わたしたちの常識には合わない、そして実行は難しいおしえでもあると思います。わたしたちの社会では、すべてがこの「お返し」という関係で成り立っているような気がします。物の売り買いの場合は、これは明白であって、対価交換。物を買うときにはその物の価値に見合った額のお金を払うわけであります。売買の場合はそうですけれども、売買でない場合は必ずしも対価を交換するというようにはなっておりませんが、かなりな影響を受けていて、わたしたちはいろいろな人との関係において、やはり、お返しをするという意識をもっているのではないでしょうか。あの方にはこうしていただいたからこのようにお返しする。或いは、あの方にこうしないと今後の自分の生活や仕事に差し支えが生ずる、とか、そのように考えて、ま、はっきり考えるわけではないけれども、そういうものの見方が身についております。教会もこの社会にある団体なので、いろいろな催しをするときに、どんな人を招くかということがあるわけです。そして、やはりその関係のある人たちをまずお呼びすると、そうすると、どの範囲までお呼びするのかという、その境界がどこにあるのかということを場合によっては考えることになる。このイエスの言葉のように実行すると、社会は混乱する。わたしたちの団体も難しいというように感じはしないだろうか。

神の国はこの世の論理とは違う論理に依って成り立っている。こうしたからこうしてもらえるだろうという期待を込めて行うのではなく、返しを期待しないで、無条件で必要なことを必要な人のために行うことが神の国のあり方ではないでしょうか。「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。そうすれば隠れたことを見ておられる父があなたに報いてくださる」(マタイ6・3-4参照)ともイエスは教えておられます。

わたしたちが持っている価値あるもの、金銭、財産、だけでなく、健康とか能力とかは、自分のものではあるが、預かっているもの、自分だけの力で獲得したものではなくて、多くの方々のおかげで今の自分があるし、今自分が預かっているいろいろなものがあるわけであります。預かっている、それをどのように生かすかということにおいて、責任がありますが、自分の所有物ではない、自分が好きなように、自分のこうしたいと思う目標のためにどのように使ってもよいというものではないのであります。そのことを考えると、この宴会を催すというときに、自分のために、今後の自分のあり方にプラスになるような人を招くということは、神の国の考え方には沿っていないということになります。ま、そうは言っても、そんな風にしていたら成り立たないという現実もある。わたしたちは、その、この世の論理と神の国の考え方の両方のなかにいて、できるだけ神の国のあり方を実現するようにしているのではないでしょうか。

今日、この福音を皆さんと分かち合うに際して、ひとつ思いましたことは、この分かち合うという精神ではないかと思うんですね。  「分かち合う」 英語でshareという言葉がありますけれども、シェア。シェアする。すべては神様によってつくられ、神様によって与えられた賜物であります。すべてのものは神のもの、その神のものをわたしたちは分かち合っているわけであります。ですから、すべての人がお互いに神のもとにある兄弟姉妹であるということを思い、持っている人は持っていない人のために、いただいているものを分かち合う。そのようにすれば神の国のあり方が実現するのではないかと思う。自分の実力で自分の責任で獲得したんだから、自分がどのように使ってもよいという考え方ではないのであります。「ただで受けたものだからただで与えなさい」(マタイ10・8)、とも言われました。

さて今日は、日本のカトリック教会は「すべての被造物を大切にすることを祈る日」と定めました。すべての被造物、この自然、大地は、神の賜物であって、人間が自分の都合に合わせて濫用してはならないものであります。環境破壊という問題が強く意識されるようになりました。神様からいただいている素晴らしい賜物を自分の都合、自分の生活、自分の快適な生活のために悪用するという間違いを正して、そしてともに神様に感謝を捧げ、より簡素な質素な生活をするようにいたしましょう。    

今日の第二朗読は、次のように言っています。わたしたちの行先はどこであるかといいますと、「生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス」であります。新しい天のエルサレムに向かってわたしたちはともにいっしょに歩んでいる。喜びも苦しみも悲しみも分かち合いながら、天のエルサレムに向かって歩んでいるわたしたちの旅を聖霊が導き、そして助けて下さることを今日あらためて確認いたしましょう。

 

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