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2019年9月26日 (木)

ペルソナ化

年間第二十五木曜日 ミサ説教

2019年9月26日(木)、本郷教会

 

今日の福音では、領主ヘロデが登場します。

最近のことですが、8月29日に洗礼者聖ヨハネの殉教を記念いたしました。

ヘロデによって、斬首されたのでありました。その時に、ヘロデという人がどんな人だったのかということを、ご一緒に考えてみたと思います。

ヘロデは、一方ではヨハネを尊敬していたようでありますが、自分の誕生日に(褒美にヨハネの首を所望されて)列席の人の前で大見得をきったこともあって、ヘロデはヨハネの首を刎ねるように命じなければならなかった。

そういう話でありました。

今日の福音では、ヘロデはイエスの噂を聞いて、「イエスに会ってみたいと思った。」(ルカ9:9)とあります。

実際にご受難の時に会うことになります。

 

人生は、人との出会いが非常に大切であります。

イエスの弟子たちは、ナザレのイエスという人に出会って、大きな影響を受けて、そしてそれぞれイエスの弟子としての生涯を送ることができた。欠点や問題のある人たちでありましたが、ペトロをはじめとする弟子たちは、イエスという人との出会いによって、人生が変えられた。

このヘロデは、そこまで至らなかった

人間は自分の立場や欲望、都合、いろいろのものに支配されていますので、そういうものを振り切って、まことの神、道であり真理であり命であるイエスに出会うということが、場合によっては難しい。

わたしたちの場合、さいわいイエスに出会っていると言えます。

しかし、地上のイエスはおられないので、いわば霊的にイエスと出会うのであります。

 

先日お会いした福田さんという方は、ヨハネ・ドンス・スコトゥス(1266?~1308)というフランシスコ会の偉い学者のことを勉強した方です。

名前のスコトゥスはスコットランドから由来していますが、1308年に亡くなっているので、

日本では鎌倉時代の終わり頃に当たると思います。

イエスのペルソナに限りなく近づくことが、キリスト者の道であるということでした。

これをペルソナ化と言います。

イエスのペルソナに触れて、イエスのペルソナに感化されるということなのでしょうか。

ペルソナ化ということを勉強したのだそうです。

わたしたちも甚だ不完全ではありますが、イエスに出会い、イエスのペルソナに触れ、イエスのペルソナに倣うものではないかと思います。

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コメント

本来、宗教者であり信仰者であれば、誰でも信仰の対象に近付こうと努力するのが常道だと思われます。
しかし、日本の宗教界を見渡すと、外形的に宗教関係者の体裁を整えている人々の中に精神的貧困の徴表を見出してしまうことが多くなりました。
具体的には、東日本大震災後の不安心理に付け込んだ、我こそは正道なりと言って憚らないような宗教者の態度に現れているように思います。その多くが中身のない権力闘争に堕していますが。
まるで、それは古代ギリシアにおける、実体をめぐる巨人たちの戦いの様相を呈しています(質は現代の方がかなり劣りますが...)。このような状態が、各自の強い信仰心の裏返しとして起きてしまうというのは不思議なことです。
このような状態を、かなり鮮やかに、そして美しく調停したのは、やはり新約聖書の記者たちなのでしょうが、今現在では、同じキリスト教者でも、中々、そこに理解が行き届かない人が多くいるようです。それは何故、権力の世俗化が許容され得たのかということを理解していないということに等しいと私は考えています。
結果として、今の時代にあっては、私も含めた人間のペルソナ化というのは、大半の場合、挫折する事が宿命づけられていると思います。現存する多くの聖典は、それを読む人の外部に向けて書かれたものではなく、それを読む人の内面に向けて書かれたものであることを理解する必要があるのだと思うのですが、自らの教条により他人を裁く事態というものが一向になくならないというのは、日本の宗教者の非力を物語っているように思います。これは私自身も他人事ではなく、人生を通しての難題なのですが。
今では、キリスト教関係の書籍も、相当贅沢な内容のものの翻訳が完了し、ネットなどを利用して自分で調べることをいとわない人間にとっては、自由が手に入りやすい時代になりましたが、古い時代の人達、特にマスメディアに依存的で情報に対する受け身の姿勢から脱却できない人々の中に、宗教を他人を裁くための道具にしてしまっているという人々が多くいることに気づきます。そういった人たちが言論で戦いを挑んでくるのであればまだしも、暴力的な手段によって、相手を服従させようという局面に遭遇するに当たっては、その野蛮さに言葉を失うしかありません。
こういった周回遅れの人々に自分たちが周回遅れであることを知ってもらうというのが大事なことなのだと思うのですが、戦後に信徒数を拡大した新興宗教などは、教義学的にも未熟であり、また信徒の生活指導も不十分である事が多く、個々人の教育が疎かになっているのが現実ではないかと思います。そのような彼らが我が国の政治においては権勢を張っているというのは、日本の宗教者が彼らに相当無関心であるということの現れだと思っています...恐らく今一番精神的な助けを必要としている人間たちの集団というのが、精神的には貧困で、政治的には大声を出し、やりたい放題な状態というのが日本の宗教界の現状ではないかと思います。伝統的な宗教に属する宗教家たちは彼らに対して何もしてあげられないのでしょうか?このまま、中身のない権力闘争を続けるだけになってしまうのでしょうか...

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