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2019年9月17日 (火)

喜び祝うのはあたりまえではないか

年間第24主日説教

9月15日(日曜日)敬老の日、茂原教会

  今日の福音はルカの福音の15章に出てくる三つの譬話であります。三番目のたとえ話は有名ないわゆる放蕩息子のたとえであります。

今、お聞きになった通りですが、弟の方は父親から自分の財産の分け前を貰い受け父親の家を出て遠い国へ行って、放蕩して財産をすべて使い果たしてしまいました。折しも飢饉が起こり彼は食べる物にも困ってしまった。豚の世話をさせられる、というユダヤ人には屈辱的な状況に置かれて、やっと彼は「我に返った」のでした。

この「我に返った」ということは、どういうことでしょうか。大切な言葉です。

本来の自分に目覚めたということでしょう。「父の所に帰ろう」と思ったのであります。父のところに帰るということは、自分のいるべき場所は父の所であるということを深く悟ったのであります。

「底つき体験」というのでしょうか、どん底の状態におかれて、初めて自分の本来いるべきところは父の所であるということに気が付いたのでありました。この弟の体験は、人類全体の体験を象徴しているように思われます。父親の方は、出ていった弟の方を毎日心配しておりました。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけてあわれに思い、走り寄って首を抱き接吻した」とあります。弟の方は父親に詫びを入れて赦してもらおうと思いましたが、父親の方は最後まで言わせないですぐに彼を受け入れて、息子としての待遇を与えているのであります。

この話とよく似たたとえ話が仏教の方にもあります。長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬と言いまして、長者は金持ち、窮子は窮乏状態で困り果てた状態にある息子という意味でしょう。同じように家を出て放蕩三昧したが、困り果てて、やっとたどり着いた豪華な家で、彼は雑用係に採用されました。実はその家の主人は、息子を探そう思って家を出て、新たに家をかまえた父親であった。父親はすぐにその男が自分の息子であることに気が付いたが、あえてすぐには父親の名乗りをあげなかった。息子の方は、その家の主人が自分の父親であるとは夢にも思わなかった・・・。

そういう話でありました。父親の方はすぐに親子の名乗りをしたいと思ったが、そこは辛抱して、息子には掃除などのいわゆる汚い仕事をさせて息子がすっかり性根を叩き直されたところで初めて親子の名乗りをするようにした、という話でございます。

ルカの15章の譬話とは対象的で、父親は息子になんの罰も与えないし、質問もしないし、責めることもしない。無条件に受け入れているのであります。ただ自分のところに戻ってきたという事実だけで大喜びで宴会を催したという。

この話を私たちはどのように受け取ったらよいでしょうか。兄の方は、この父親の態度を理解することができなかった。わたしたちの場合はどうであろうか。

仏教の方が理にかなっているような気がしないでもない。福音書の父親のように、そんなに甘いことをしていたのでは息子のためにならないし、しめしがきかないと、普通は思うかもしれない。回心とか、悔い改めということを、わたしたちはよく聞くし、よく話すのでありますが、それはどういうことだろうか。

回心とは、神の方に向かって向きを変える、神の方に向かうということであります。神の方に向きを変えるということは、神を信じる、神の慈しみを信じるということ、神の方にわたしたちの心を向けるということが、神の慈しみ、神のあわれみを信じる、ということではないかと思うのであります。

このような、父である神様の心というものをイエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに説明したのであります。

もしかして、この兄の態度はファリサイ派の人々や律法学者を指しているのかもしれない。

神がわたしたちに求めていることは、まず何よりも自分のところに戻ってくるということであります。

神のもとに立ち帰るというのはどういうことだろうか?

わたしたちの場合、どうすればよいのだろうか?

立派な人間にならないとわたしたちを神様は受け入れてくれないのだろうか、これこれの事をちゃんとできるようにならないと神様の前に立てないのではないだろうか、という思いがあるかもしれませんが、神が求めていることは信頼をもって自分の方に顔を向けるということであって、わたしたちがどんな状態にあろうとも、或いは、相変わらず罪びとであっても、過ちを犯していても、不完全であっても、そのことは問わない、ということではないだろうかと思うのであります。

 第一朗読は、怒りに燃える主なる神さまをモーセが宥めたので、神は民に災いを下すことを思いなおされたという話でありました。

第二朗読は、使徒パウロが、自分が如何にひどい罪びとであった、冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者であったが、神は忍耐をもって自分を見逃し、そして回心に導いてくれたという話でありました。

 わたくしの念頭にはいつも「日本における福音宣教」ということがあります。

何が福音であるのか?福音とは何であるのか?

わたしたちは何を人々に伝えなければならないのか?

たくさんの教えや掟がありますが、あまりにも複雑で難しそうに見えるので、なかなか人々にはなじみにくい。その中でこれさえ伝えれば、あとは自ずから備わってくる、というものがあるのではないだろうかと思うのであります。

さて、今日は敬老の日に因んで、これより病者の塗油が行われます。

  ―――

年間第24主日C年

 第一朗読  出エジプト記 32:7-11、13-14
(その日、)主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

 第二朗読  テモテへの手紙 一 1:12-17
(愛する者よ、わたしは、)わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 福音朗読  ルカによる福音書 15:1-32
(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

 

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