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2019年9月25日 (水)

神の国の福音

年間第二十五水曜日 ミサ説教

2019925()、本郷教会

 

旧約聖書の中に、エズラ記という書物がありまして、このところ続けてエズラ記の朗読をしております。

紀元前6世紀に、イスラエルとユダの国は滅ぼされ、ユダの民はバビロンに強制移住させられました。

そして約70年そこに滞在しましたが、その間に深刻な反省、回心、悔い改めの時を過ごしました。

そして、ペルシアの国が勃興した時にペルシア王は、イスラエルの民を帰国させ、神殿を建設することを許したのであります。

今日の箇所は、エズラという人が、自分たちが神の前に大きな罪を犯したことを告白し、そして赦しをいただいて、神殿を再建できることに感謝している、というくだりではないかと思います。

ルカの福音は、イエスが12人を派遣した時の話です。

たいへん簡素な宣教を命じています。

さて、今の時代の宣教は、どのようであるべきでしょうか。

イエスの宣教のメッセージは、神の国の福音ということが中心でありました。

わたしたちの場合、同じ神の国の福音ですけれど、イエス・キリストの復活という出来事が中心になると思います。

イエス・キリストが復活された、そして復活したイエスがわたしたちと共にいてくださるということを、わたしたちが単純素朴に信じて宣言し実行することが、わたしたちの宣教ではないだろうか。

その際、このエズラの告白のように、わたしたちも、神の前に罪の赦しを与えられているという感謝と喜びを表明しなければならないと思います。

 

 

 

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コメント

某教会のホームページにおいて、ある司祭が以下のような発言をしています。

”教皇様が滞日されている間のことは、詳しく報道されるでしょう。スマホを見れば、小さな言葉も受け止める事ができるかもしれません。仏教には「生き仏(ぼとけ)」という言葉があると聞いています。教皇様は、別の意味で、キリストのことを伝えてくださる「生き仏」かもしれません。”(清瀬教会【司祭短信021】教皇来日 2019年9月21日)

仏教界においては、例えば臨済録に「仏に逢うては、仏を殺せ」とあるとおりです。それは私達キリスト者が、救い主であるイエスと罪人である私達人間との違いを決定づける最も象徴的な出来事としての復活を大変重んじることと良く似ています。司祭の発言に悪意がないのは明白ですが、存命中の人物を名指しして、神だ仏だというのは場合によって大変危険であり、この発言は軽率です。元大司教の立場から、彼には忠言された方が良いと思います。司祭職という身にありながら明らかな勉強不足です。

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