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2019年9月19日 (木)

大酒のみのイエス

年間第二十四水曜日 ミサ説教

2019918()、本郷教会

 

イエスの述べた神の国の福音は、受け入れる人もいましたが、受け入れない人も少なくはなかったのであります。

今日の福音によると、イエスは、悪口を言われています。

「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカ734

イエスは、代表的な罪人と思われていた徴税人の仲間であるとされていました。

教会の使命は、福音宣教ということですが、現在において徴税人という言葉で表されている罪人とは、誰のことでしょうか。

罪人という言葉は、今の人たちには受け入れ難い言葉でしょう。

確かに、罪人と犯罪人は違いますが、自分が罪人であるとは、どういう場合をいうのだろうか。

自分は救いを必要としている、このままの自分では駄目だ、足りない、寂しい、虚しさを覚えているという人は、多くいるのではないだろうか。

そういう人々のためにイエスは来たのであると思われる。

イエスによって建てられ、遣わされているわたしたち教会は、現代において、もしナザレのイエスが宣教するとしたら、どのようにして誰と一緒に何を言い、何をするのか。

多くの人が求めてはいる、しかし、その求めていることが何であって、その求めていることにわたしたちはどのように応えているのでしょうか。

カトリック教会は敷居が高いと思われ、日本の司教協議会は1987年に、その敷居の高さを取り除くための全国集会を開いて、誰にでもどんな人にでもアクセスしやすい、そこに行ったら助けがある、安らぎがあるという、そういう教会になりたいと宣言したのでありました。

その方針が今どのくらい実現しているだろうか。

さまざまな努力をしたが、依然としてイエス・キリストの福音は、遠い存在になっていると思わないわけでもない。

この前の日曜日の福音は、ルカによる福音15章で、「迷い出た一匹の羊」、「失われた銀貨」、そして「放蕩息子」の三つのたとえ話でありましたが、自分たちが失われた者であって、失われた者として行くところがあればどこかに行きたい、その行くべきところ、縋りつくべきところ、受け入れてくれるところが何であるかということを、もっと明確にしなければならないのではないかと、いつも考えております。

 

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