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2019年9月17日 (火)

すべての人を救う神

聖コルネリオ教皇 聖チプリアノ司教殉教者 ミサ説教

2019916()、本郷教会

今日の福音は、カファルナウムに駐屯していた、ローマ軍の百人隊長の僕のいやしの話であります。

以前、聖体拝領の前に唱えていた言葉は、今日の福音から採られていました。

「主よ、わたしは主をわが家に迎え奉るに足らぬ者である。ただ一言語り給え。そうすればわたしの霊魂はいやされるであろう」

聖体拝領の前の祈りに採用されていました。

イエスは、百人隊長の信仰を称賛して言われました。

「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」

(ルカ79

イエスは、何人かの人にむかってその信仰を称賛し、あるいは「あなたの信仰があなたを救った。」と言っておられます。

さて、今日の第一朗読も非常に大切な箇所であります。

テモテへの手紙一

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」

(一テモ24

このパウロの教えを、第二バチカン公会議の後の教会は、どのように受け取っているのでしょうか。

「教会のそとに救いはない」という言い方がずっとありましたが、他方、異邦人の中にも、イスラエルの人が及ばないような深い信仰の人もいたのであります。

そのような人の救いは、どうなるのでしょうか。

イエス・キリストは、唯一の仲介者でありますので、イエス・キリストの仲介を経なければ、天の父のもとに行くことができないということになります。

しかし、イエス・キリストに出会う機会がなかった人は、イエス・キリストを信じる機会が与えられなかった人は、どうなるのでしょうか。

他方、神は、すべての人が救われて、真理を知ることを望んでいる。

この二つの命題、神はすべての人が救われることを望んでいるということと、イエス・キリストは唯一の救い主であるという、この命題をどのように両立させたらいいのだろうかという難しい問題があります。

第二バチカン公会議は、この問題に次のように答えました。

「神は、神だけがご存知の方法で、すべての人がイエス・キリストの過越の神秘に与ることができるように取り計らってくださる」

 

 

 

 

 

 

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