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2019年9月 2日 (月)

本当の自分を見つける

小黙想会「福音とは何か」
《イエスのみ心》のミサ説教
2019年8月31日(土)、本郷教会

 

今日、わたしたちは、「福音というのはなんであるのか」ということを一緒に学び、考え、祈り求めたいと思います。
「福音」であります。
この2時からのミサは、どういうようなミサにしたらよいかとずっと考えましたが、「イエスのみ心のミサ」に落ち着きました。
17世紀にフランスで、聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647~1690)という修道女がいまして、彼女にイエスが現れて言われた。
その出来事だけが「み心の信心」の根拠ではないと思いますが、イエスが彼女になんと言われたかということを確かめますと、次のようになっています。
「この心(イエスの心臓)を見なさい。これは人間を非常に愛し、人々にその愛を示すために涸れ果てるまで何一つ惜しまなかったものなのに、多くの人々からその報いに、特に聖体の秘跡において、忘恩、不敬、さらに冒瀆、冷淡、無関心しか受けていない。最も辛いのはわたしに献身した人々もそうした態度を取っていることである。したがってわたしの望みは、聖体の祝日の翌週の金曜日に、わたしが聖体において受けたすべての辱しめを償うための祝日を設け、その日に償いの心をもって、聖体拝領することである。」と言われた。
聖マルガリタ・マリア・アラコックが受けたこの「み心の信心」は、フランスから世界中に広がりました。
「み心」、「聖心」という名前のついた修道会とか学校とか、たくさんあるわけですね。
もっともカトリック的と言いましょうか。
そこで、福音ということを考える時に、多少「み心」ということに触れることにはためらいを感じますが、やはり「み心」の信心を一緒に味わうことが、「福音」とはなんであるかを考え、確認する、味わうためにもっとも良い道ではないかなぁと思いました。

 

神とはどんな方であるかということは、人間にはよく分からない。
そこで神の方から、いろいろな呼びかけがなされた。
旧約の歴史、そして新約の歴史は、神が人間にさまざまな機会にさまざまな人を通し、さまざまな言葉で行われた呼びかけの歴史であり、救いの歴史であります。
その神の呼びかけの頂点が、イエス・キリストでありました。
そのイエス・キリストが地上の生涯を終わりまして、天の父の許にお帰りになりましたが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28・20)と言われました。
どのようにして一緒にいてくださるのだろうか。
わたしたちカトリック教徒として、最もそのことを強く思う場所というか、機会というのは、ミサ聖祭であり、ミサの時に献げられるご聖体であります。
われわれ教会では、ご聖体はミサの時だけのことではなくて、いつもご聖体を安置し、いつでもご聖体を訪問して、礼拝しお祈りするようになっている、そうするようにと勧められています。
かつてそのことを強く言われていたが、段々それが廃れてきているような気がするのであります。

 

ところで観念的に言えば、神さまは完全に満ち足りている方ですから、何かが足りないとか、あるいはこうしてくれないと困るとか、こういうことをすると腹が立つとか、こんなことが非常に悲しいとか、そういう人間的な反応がないはずであります。観念的には。
しかし聖書を見ると、神さまは憤ったり、嘆いたり、あるいは人間に求めたりしているわけです。
そして、そういう神の心が、ナザレのイエスという人を通して、人々に知らされた。
そしてイエスは、復活して天の父の許に帰られましたが、それでも事は終わっていない。
特別な人に現れて、「わたしは大変悲しい。非常に辱めを受けている」と。
その「人々の忘恩、不敬、冷淡を償うために、これこれのことをして欲しい」と言われた。
このマルガリタ・マリア・アラコックに言われたことは、すべての人が信ずるべき公けの啓示ではない。公けの啓示は、新約聖書を以って終了したというのが、カトリック教会の立場ですけれども、しかしイエスがいろいろな人を通して、わたしたちに呼びかけておられるということを、わたしたちは尊重しなければならない。
それで、わたしたち人間と同じように、悲しいとか非常に辛い、辛いから何とかしろと言ったということは、イエスは本当に神さまなのか、そんなことあるのかなぁという思いもしないわけでもないが、でもそう言われたということを信ずるならば、それではそれに応えましょうというふうにするのが、通常のわたしたちの反応ではないだろうか。

 

さて、今日そういうふうにわたしたちは、「福音とは何ですか」ということを確認しようということで、時間を取っているのであります。
「あなたにとって福音とは何でしょうか」、そしてそれは「イエス・キリストとは誰でしょうか」ということと、深く強くしっかり結びついているわけでございます。
神は、そしてイエスは、わたしたちに強い深い関心を持っているわけですね。
どうでもよいと思ったら、嘆きも怒りもしない、勝手にしろということになるわけですが、強く求めている。
わたしたちは求められているわけです。
(神が)求めているのに、(わたしたちは)冷淡であった。
人間同士、そういうことありますね。
強く激しく求めたのに、相手は知らんぷりということは、わたしたちが経験しないわけではないんですけれども、神が、あるいはイエスがわたしたちに求めているということは、人間的にはなかなか実感できない。
これは霊の世界、信仰の世界の問答であります。

 

そこでどういう風に話を持っていったらいいかと思うのですが、今日の福音ルカの15章
一匹の「見失った羊」の話であります。
99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで探し回る。
そして見つけたら大喜びで肩に担いで連れ帰って、「一緒に喜んでください。」というように、羊飼いが言った。
その羊飼いは良い牧者であり、そしておそらくわたしたちのところに遣わされたイエス・キリストを指している。
そしてイエス・キリストによって派遣されたすべての牧者は、この良い牧者のようでなければならない、という教訓だろうと思います。
ところで、この話でちょっとスッキリしない思いがするのは、「悔い改める」という言葉なのですね。
「悔い改めなさい」。悔い改めの言語はメタノイア。
要するに、「あなたがたは罪ばかり犯しているから、悔い改めなさい」というためのたとえなのか。
してはいけないことをしてしまうわたしたち、あるいはすべきことをしていないわたしたちがいる。
「さあ、感謝してこれからは良いことをし、悪いことはしないようにしなさい」という話なのか。
「そんなことは言われなくても分かっている、ただできていないのだよね」となるわけで、果たしてそれが福音になるのか。
できていないのに、おまえはできていないと言われて、「あぁ嬉しい」とは、わたしは思わない。
「そんなことは言われなくても分かっているよ」と、かえってますます心が萎びちゃうという思いなのですけれど。
これは何を言っているのだろうか。
それは皆さん考えていただきたいのですが、わたしが思いますに、「悔い改める」という言葉は、あまり良い訳ではないのかもしれないのですけれども、「放蕩息子」のたとえ(ルカ15・11)が同じような趣旨であります。
息子がお父さんのところから出ていってしまったのですね。
出ていってしまったが、やっぱり自分のいる所はお父さんの所なのだ、今更どの顔をさげてお父さんの所に戻れるのかと思うけれど、勇気を出して戻る。
それで、お父さんの方は、出ていく時に留めたりはしないし、帰ってきたら「お前やっぱり言っただろう。だからちゃんと俺の言うことを聞けばいいのだよ」とは言わなかったですね。
「悔い改める」というのは、もちろん悪かったとつくづく認識して、もうしませんという決意することではありますが、やはりこの「天の父の許に戻る」、自分のいるべきところはない、お父さんの所なのだと思うことであり、それは自分自身の再発見というか、自分とは誰であるか、本当の自分は誰であるか、どういう存在なのか、本当の自分を見つける、それが改心するというか、神の許に帰るということではないだろうか。

 

今日は時間があるので、皆さん考えてください。
「福音とはなんであるのか」
あなたはできていないと言われることが「福音」であるとは、わたくしは思わないのです。
あなたはできていないが、あなたは大事なのだと言われると「福音」になりますね。
できていない、採点すると何点だ、だからもっと点数を上げろと言われることが「福音」であるわけではないですね。
では何なのか。
あなたはあなたとして素晴らしいが、わたしはあなたのことを大切に思っているのだ。
あなたはほかの者と比べられない大切な存在なのだ。
ほかの人では替えがきかない、スペアがない、あなたはあなたしかいないのだ。
そういうメッセージだったら、「そうか俺はそんなに大事なのだ。点数も悪い、会社の仕事もあまり上手くできない、性格も良くない、いろいろマイナスばかりだけれども、それでもあなたがあなたであることを喜んでくれるという人がいるのかな。」と。
親は本来そうだと思うのですね。
ですから、「福音とはなのだろうか」というと、本当の自分に出会うということではないだろうかとわたくしの場合、思うわけであります。

 

最近聖アウグスティヌスの日がありました。(2019年8月28日(水))
最も有名な聖人、神学者、哲学者で、彼の残した言葉の中でこういう言葉があります。
「わたしは神を一生懸命探した。探して探して探しまくった。外にいると思ってあちこち行ったんですけれども、見つけられなかった。でもあなたはわたしの心の中におられたのですね。どうして早く気がつかなかったのだろう。もっと早く気がつけば良かった。あなたはわたしの心の中におられました。」そういう告白をしているわけです。
われわれは、聖アウグスティヌスではないけれど、わたしたちの中にダイヤモンドのような本当の自分がいるのだ。
それは神さまがわたしたちを造ってくれた時からそうなのだ。
神の似姿、神に似た者としてわたしたちは造られている。
自分の価値に目覚めることが、神に立ち返ることではないだろうか。
悪いことをしました、もう悪いことをしませんと思うことは、また同じような結果になる。
どんなに頑張ってもできないで、ますます自己嫌悪に陥ってしまう。
自分の業績にかかわらず、自分は尊い存在なのだということを確認できることが、「福音」かなぁと思いますが、皆さんの場合どうだろうか。
「イエスのみ心」の信心は、あなたが冷淡であるのでわたしはこんなに傷ついているというメッセージですけれども、裏返せば、あなたはわたしを喜ばせることができるのだよというメッセージにもなるわけでもあります。
その辺をご一緒に考えてみたい。

 

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