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2019年9月13日 (金)

自分のことは棚に上げて

聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士 ミサ説教

2019913()、本郷教会

第一朗読  テモテへの手紙 一 1:1-212-14

わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。

わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。

福音朗読  ルカによる福音書 6:39-42

(そのとき、イエスは弟子たちに)たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

説教

イエスは、ファリサイ人や律法学者たちに向かって、非常に痛烈な批判をしています。

今日の福音も、その流れの中で解釈する方がよいのでしょうか。

イエスは、偽善者に向かって言っています。自分の目の中に丸太があるのに、兄弟の目の中にあるおが屑を取り除こうとしている偽善者に向かって非難しています。

自分に大きな問題があるのに、人の小さな問題を云々することを批判しているのであります。

人間は、なかなか自分の問題に気がつかないが、他人の問題には敏感であります。

この今日の話は、大変耳に痛い話でありますけれども、わたくしはすぐに思い浮かべたことがあります。

それはヨハネ・パウロ2世教皇が、紀元二千年を迎える時に、世界中に手紙を出しまして、

「わたしたちキリスト者は心からの反省、回心、悔い改めをしなければ、紀元二千年という節目の年を過ぎることはできない。第三の千年紀の敷居を跨ぐことができない」と言われた。

そして、反省事項の中に三つのことを挙げています。

一つは、「キリスト者の間に生じた分裂」です。

第二は、「不寛容」ということで、表現としては、「真理への奉仕における暴力の行使」ということですね。

ちょっと具体的ではないのですが、おそらく異端審問とか、もしかして十字軍ということを指しているのかもしれない。不寛容の罪です。

三つめは、「全体主義政権による基本的人権の侵害を黙認」したということ。

全体主義政権が何を指しているのか。ナチスとか共産主義を指していたようであります。

人のことをとやかく言う前に、自分自身のことを反省しなければならないという教えであり、

わたしたち自身、個人としても教会としても、本当に心から自分自身を振り返なければならないと思います。

 

 

 

 

 

 

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