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2019年9月 5日 (木)

解放の福音

9月2日 年間第22月曜日 ミサ説教

 第一朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 4:13-18

 福音朗読  ルカによる福音書 4:16-30

(そのとき、)イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 

説教

イエスは故郷のナザレの会堂でイザヤ書を朗読されてからお話になりました。イザヤ書は『主の僕の歌』と言われる個所であります。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」

「わたしに油を注がれた」ということと、「主の靈がわたしの上におられる」、ということは、同じことを意味しています。油注がれた者は、メシア、すなわちキリストであり、油とは主の靈、神の霊の力を指しています。キリストは油注がれた者であり、貧しい人に福音を告げ知らせるという務めを与えられています。

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

キリストは主なる神から遣わされた者であり、解放を告げるという使命を受けていました。解放とはいろいろな捉われからの解放であります。その捉われの中には社会的な捉われ、貧しさ、圧迫、差別、人権侵害とか、貧しい人々が被っている、あるべきでないすべての状態が含まれています。解放とはそのような捉われからの解放を意味しています。また、一人ひとりの人の心の捉われ、すなわち、人の心を縛っている思い込み・怨み・憎しみなどのからの解放を意味しています。

「目の見えない人に視力の回復を告げ」とは肉体の目の見えない人に見えるようにしてあげるということと共に、本当のことが見えなくなっている人々に、神の真実、神がお造りになったこの世界の美しさを見えるようにしてあげる、という意味も含まれています。

「主の恵みの年を告げる」とは、旧約聖書で定められているヨベルの年を指していると思われます。ヨベルの年は50年ごとに定められていて、その年には一切の負債が免除されることになっていました。

そこで、解放とは、精神的、霊的、社会的なさまざまな次元、領域での解放を意味し、そして同時に、主の靈に与ること、神の美しさ、神の麗しさに与ることを意味していたと思います。

 

 

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