無料ブログはココログ

« 2019年9月 | トップページ | 2019年11月 »

2019年10月

2019年10月27日 (日)

ファリサイ派と徴税人

年間第30主日C年

2019年10月27日、本郷教会

第一朗読 シラ書 シラ35:15b-17,20-22a

第二朗読 使徒パウロのテモテへの第二の手紙 二テモテ4:6-8,16-18

福音朗読 ルカによる福音 18:9-14

(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

説教

きょうも主イエスは一つのたとえを話されました。このたとえは、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して言われた話であります。そして、きょうの福音朗読の結びは、

「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる」と、なっております。

それでは、きょうイエスが伝えているたとえをご一緒に学んでまいりましょう。

二人の対照的な人物が登場します。

一人は、「ファリサイ派」の人、もう一人は「徴税人」であります。

ファリサイ派はたびたび福音書に登場する人物であります。

聖書をよく勉強し、そして、聖書が告げている掟を順守することに熱心な人々でした。「ファリサイ」とは「分離された人」という意味であり、律法を守らない罪人からは分離された清らかな存在であるという意味であると考えられています。

彼らは、本当にまじめに、すべての律法を守るようにしておりました。

本当に、うらやましいというか、感心するような人々であります。このファリサイ派の人と、イエスはたびたび衝突しているのであります。それはなぜでしょうか。

この「なぜ」ということが、イエスの宗教、わたしたちの信じているキリスト教の理解のために非常に重要だと思います。

 

さて、ファリサイ派の人は、「自分はこれこれこういうことはしていない、そして、こういうことを実行しております」と、胸を張って、神さまに報告し、そして、感謝します。ご立派です。

このファリサイ派の人には本当に感心しますが、問題があります。

それは、形式的には律法の掟を実行していたかもしれないが、しかし、「律法の精神」を本当に理解し、実行していたのであろうか、ということです。「全身全霊であなたの主である神を愛しなさい。」「隣人を自分のように大切にしなさい」という旧約聖書の掟を、彼はどのように理解し、実行していたでしょうか。

形式的に掟を実行しても、心の中で人を大切にする、尊敬するという心が無ければ、その律法順守は何の意味があるでしょうか。

このファリサイ派の人々は本当に、神の前に問題のない人であるのか、自分で自分が完璧だと思っていたかもしれないが、果たして神の前に全く清らかな問題のない人間であるのか…。

自分で自分を正しいとすること(自己義認)自体が問題であり、そして、他の人を見下すことがさらに大きな問題であると思われます。

他方、「徴税人」のほうはどうでしょうか。徴税人は人々から忌み嫌われ、自分自身も非常に引け目を感じていた人であります。

そのことを自覚していた彼は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神さま、罪びとのわたしをあわれんでください』」

「自分は神の前に至らない者である。罪、咎のあるものである」ということを彼は、強く、深く自覚していたので、何も誇るものが無い。ただ、神さまに赦しを願うしかないということを、彼はよく知っていたのであります。

ところで、神が受け入れた人はファリサイ派のひとではなく、徴税人のほうであったと福音は告げています。神の前にこの、「義とされた」のはファリサイ派の人ではなく、徴税人でありました。

義とされる」という言葉は、わたしたちの日本語の中では判りにくい、日常生活では使われることがありません。どういう風に言い表したらよいのか、いつも迷います。とりあえず、「神さまが祈りを受け入れ、そして、その人に問題があるにしても、それでもその人自身を、かけがえのない、愛する子どもであると認めてくだった」という意味ではないかと思います。

徴税人のほうは、すっかりもう、自分の問題を意識して自分の価値には全く目を向けようとしない自信喪失の態度です。ファリサイ派は神の前に堂々として自信に満ちた態度です。非常に対照的。どちらも極端ではないでしょうか。

わたくしがファリサイ派の人をうらやましいと思ったのは、「これこれのことはしていない、これこれのことをしていると胸を張って言える」ような自分ではないと自覚するからであります。

他方、徴税人のほうについては、あなたは自分のことを罪深いダメ人間だと思っているのだろうけれども、そういうあなたを神はそのままで受け入れ、愛してくださっているのですよ、と言いたい。

この神の神からの「よし」が福音の神髄ではないでしょうか。

神は正しい人、問題のない人をそれゆえに愛するのではない。問題があっても、不完全でも、過ちを侵す人であっても、あるいは、そうだからこそ、かけがえのない大切な人として認め、受け入れてくださるのであります。

そのような信仰理解こそがわたしたちにとって福音ではないかと思うのであります。

 

エレミヤ31章31節

宣教・福音化のためのミサ 説教

20191026()、本郷教会

 

今日のアレルヤ唱でわたくしたちは「全世界に行きすべての人を私の弟子にしなさい。」と唱えました。

昇天に際し、主イエスが弟子たちにくだされたご命令であります。

この命令は弟子たちだけでなく、今のわたくしたちに向けられたご命令でもあります。

宣教・福音化とは、このご命令の実施に他なりません。

ミサの集会祈願は、そのミサの趣旨を簡潔に表しています。

神は、全世界の人々がイエス・キリストの福音を聞き、そしてキリストの弟子になることを望んでおられます。

そのためにわたくしたちに神を派遣されます。

信じる者すべてに聖霊を注ぎ、イエスが世の終わりまで彼らとともにいることができるようにしてくださるのであります。

宣教の働きは弱いわたくしたち人間の働きではなく、聖霊の働きによってはじめて可能になる教会の使命の実行であります。

聖霊によってわたくしたちが、主イエス・キリストを宣べ伝えることができるようになるということは、旧約聖書ですでに預言されておりました。

今日選んだエレミヤの預言は、その中で最も重要な、新しい契約の預言を伝える箇所であります。

この箇所を今日はしっかりと読んでまいりましょう。

この契約は、古い契約ではない新しい契約、つまり新約のことであります

シナイ山でモーセを仲介として結ばれた古い契約とは違います。

彼らイスラエルの民は、古い契約を守ることができませんでした。

その契約は、石の板に刻まれていた十の戒め、十戒を指しています。

「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである」(エレ3133

古い契約は無効になり、新しい契約が発効される。

どういう契約でしょうか。

「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」(エレ3133

契約の律法は人のそとにあった文字でありました。

「文字は殺しますが、霊は生かします。」(2コリ36)と使徒パウロは言っております。

石の板に刻まれた文字が、モーセによってもたらされた古い契約、旧約であります。

その旧約は、彼らを生かすことができませんでした。

そこで新しく契約を結び直します。

この契約は人のそとに記すのではなく、「彼らの胸の中に授け、彼らの心の中にそれを記す」(エレ3133

このようにして、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレ3133

他の神を神とすることは、なくなるでしょう。

そして、「人々は隣人どうし、兄弟どうし『主を知れ』と言って教えることはない。」(エレ3134

「主を知る」ということは、非常に重要なことであります。

ヨハネの福音で言われていることを思い起こしてください。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハ173

「知る」ということが重要なキーワードとなっている。

頭で知ることではなくて、心で知る。

その人の心を受けて、その人になりきる。

言い換えれば、弟子になるということであります。

ある人を知るという時に、一般的にどういう人か知っているということは、その人を知る段階の最初の方でしょうけれど、その人を良く知るということは、その人のようになるということであります。

あるいは、その人がすることを自分もすることができるという意味でもあります。

深い交わりを意味しているのであります。

ですから主の霊が注がれますと、もはや「主を知れ」と言ってお互いに教える必要はなくなるというわけになります。

「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレ3134

このエレミヤの預言はナザレのイエスによって、ナザレのイエスの過越の神秘つまり死・純化・そして復活の神秘によって実現しました。

わたくしたちの上に主の霊、聖霊が注がれました。

そこで、問題は既にわたくしたちの心に注がれている聖霊の導きにどのように従うのかということであります。

そのためには聖霊に敏感でなければならない。

聖霊のはたらきをいつも受け止め、それを生活の中で行うことができるように準備していなければならないのであります。

キリスト者の生活、それはキリストの霊に従う生活、霊的生活であり、霊を受け、霊に従って歩むことであります。

 

2019年10月25日 (金)

時のしるし

年間第二十九金曜日 ミサ説教

2019年10月25日(金)、本郷教会

 

「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」(ルカ12:56)とイエスが言われました。

「時のしるし」を読み取るということは、どういうことでしょうか。

続けて言われます。

「あなたがたは、何が正しいのかを、どうして自分で判断しないのか。」(ルカ12:57)

 第二バチカン公会議の際、「時のしるし」という言葉がよく話されました。

1956年に終了した公会議の後何十年も経って、今の時代の「しるし」は何でありましょうか。

今日の福音の後半と、「時のしるし」という話との繋がりが分かり難いのですが、おそらくイエス・キリストによって示された神の国の福音を受け入れなさいという意味だろうと言われています。

「偽善者よ」と言っていますので、自分の問題を認めず、イエス・キリストの呼びかけに応えようとしない人々に向かって、「悔い改めて神の国の福音を信じなさい」というイエスのメッセージを早く受け入れなさいという意味ではないだろうかと思われます。

 さて、こんにちのこの日本という環境において、状況において、「時のしるし」は何であるのか、そして神との和解を受け入れるというのはどういうことなのかということを、わたくしたちは知らなければならない。

しばらく黙想したいと思います。

 

多く与えられた者

年間第二十九水曜日 ミサ説教

20191023()、本郷教会

「ローマの教会への手紙」を連続して読んできています。

今日の朗読では、

「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(ロマ618

と述べられています。

本日の福音は結びの言葉として次のように言われています。

「すべてを多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ1248

わたくしたちは、何をどのようにどのくらい求められ任されているでしょうか。

しばらく黙想したいと思います。

 

 

 

2019年10月22日 (火)

一人の人キリストによって救いが

年間第二十九火曜日 ミサ説教

20191022()、本郷教会

1020日の福音は、

「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ188

という言葉で終わっておりました。

今日の福音は、この言葉に関係があるのではないかと思います。

わたくしたちはいつも主キリストをお迎えする心の準備、信仰、を持っていなければならないと思います。

このところ第一朗読は「ローマの教会への手紙」です。

わたくしたちは、信仰によって救いを得ることができると教えていますが、その信仰は主イエス・キリストへの信仰であります。

最初の人間アダムによって罪と死が世に入って来ましたが、一人の人、イエス・キリストへの信仰によってわたくしたちは神の恵みに与り、永遠の命に入ることができることを使徒パウロが教えています。

 

 

 

 

 

 

 

2019年10月21日 (月)

神の前に豊かになる

年間第二十九月曜日 ミサ説教

20191021()、本郷教会

 

ルカによる福音の12章の今日のたとえは何を言っているのでしょうか。

「自分のために冨を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ1221

とイエスは言われました。

「神の前に豊かになる」とはどうすることでしょうか。

この金持ちの生き方は、現在の世界で多くの人がとっている態度であるかもしれない。

わたくしたちが所有している物は、実は神様からお預かりしている物であり、貧しい人々と分かち合うべき物であります。

個人としても団体としても、この世界の貧困という問題にわたくしたちは真剣に取り組まなければならないのであります。

第一朗読は引き続きローマ書の朗読でありました。

今日の箇所は、アブラハムの信仰について述べています。

アブラハムは神を信じたので義とされたと述べられています。

アブラハムのひとり子イサクを焼き尽くす献げ物とするように命じられたアブラハムは、躊躇したかもしれませんが敢えてその神の命令を実行しようとしました。

この話は、分かり難いと言えば分かり難いのですが、アブラハムが(神は)死んだ者も生き返らせることができると信じていたというように解釈することもできる。

そして、アブラハムの信仰はもちろんですが、イサクの信仰も評価されるのであると思われます。

 

 

 

 

牧者

牧者・司教・司祭のためのミサ 説教

20191019()、本郷教会

 

第一朗読  ローマの信徒への手紙 4:1316-18
(皆さん、)神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。

福音朗読  ルカによる福音書 12:8-12
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

 

説教

今日は「牧者」のためにミサを献げます。

「牧者」という言葉は、われわれカトリック教会では「司教」「司祭」〔助祭〕を指しております。プロテスタント教会では、「牧師」と言います。

ご承知の通り11月の末に、ローマの司教であるフランシスコ教皇が日本にお出でになります。

十二使徒の頭(かしら)とされた漁師のペトロがローマで殉教したという史実から、その後継者が使徒たちの頭(かしら)であるとカトリック教会では理解しております。

いつからか日本語では教皇という言葉を使うようになりましたが、英語ではポープPope

お父さんという意味でありますが、イタリヤ語ではパーパpapaであります。

紀元313年、この年は非常に重要で、ローマ帝国ではミラノ勅令によりキリスト教が公認されました。

それ以降キリスト教はローマ帝国の宗教となり、その指導者の地位も高い名誉ある権威あるものとされました。そして次第に司教という存在が、名誉、権威、財産をもつ地上的な存在となって行きました。そこでそのような教会のあり方を刷新するためにさまざまな努力が行われてきたのであります。

フランシスコ教皇も、大いなる決意をもって教会の改革刷新をしていると思います。

たしか以前の土曜日のミサでお話ししましたが、わたくしの記憶にあるローマの司教で非常に鮮明な存在はヨハネ・パウロ1世です。

2世は皆さんよくご存じですが、1世という方はわずか在位33日間でお亡くなりになりました。

1978年、ちょうどわたくしがローマ留学中のことなので、よく覚えております。

そのヨハネパウロ1世は、アルビーノ・ルチアーニAlbino Lucianiという方で、ヴェネツィアの総大司教でした。

彼は、教皇に就任する式を「全世界の最高牧者に就任する式」という位置付けにし、戴冠式を廃止しました。

極東の日本から見ると、戴冠式というものが良く分かりませんが、ローマの司教であるパーパPapaはイタリア半島中央部の領主になっていたのです。天上の権威だけではなく、地上の権威というか権力を持つ存在になりました。

その就任式は、荘厳な戴冠式で三重冠という三つの権能を象徴する冠を受ける式となったわけですが、ヨハネパウロ1世はそれを断固拒否した方であります。一か月余りで亡くなったので、急遽また教皇選挙が行われて、ヨハネ・パウロ2世が選出されるということになったわけです。

貧しい人々の教会、貧しい人々のための牧者である司教、そして、地上においては何も所有せず、人々を力で支配する存在ではないはずのイエス・キリストの弟子たちが、歴史の中で次第に権力・財力・名誉を持つ存在になってしまったのであります。

(ヨハネパウロ1世は)その在り方を根底から覆そうとなさったのではないでしょうか。

その後の教皇様たちもさまざまな努力はしてきたと思います。

現在の教皇は、貧しい人のための教会ということを力説してこられ、かつ教皇庁の改革を真に遂行していると報道されています。

司教は現在のところローマの司教から任命されていますがもとからそうではありませんでした。ローマの司教に権限が集中して、ローマの司教が全世界の司教を任命するようになっているわけです。

それはともかく、司教はローマの司教の下で、ローマの司教と共にイエス・キリストから託された任務を遂行する者であり、その司教を助ける人が司祭であり助祭であります。

司教、司祭、助祭の務めは三つの任務にまとめられます。

・神の民に仕えること、狭い意味での司牧

・福音を宣べ伝えること

・そして祭儀を執行すること。ミサを献げること

この三つにまとめることができる。

さて今読んだ福音ですが、マタイによる福音の25章(マタ253546)を思い出していただきたい。

これは最後の審判の場面です。

すべての人は、最終的に神の裁きを受ける。

その際、基準になることは、どれくらい神の慈しみを実行したか、しなかったかということであります。

非常に分かりやすい基準でありまして、要するにどれだけ人を助けたかということであります。

飢えている人に食べ物を、渇いている人に飲み物を、裸の人に着物を、寝る所がない人に寝る所を、そのほか病人を見舞う、囚人を見舞うなどのことが神の慈しみの業である。

そして、その人たちにしたことは、イエス・キリストにしたことである。

しなかったことは、イエス・キリストにしなかったことであると言われている。

4回も繰り返し「飢えている人に食べ物を、乾いている人に飲み物」をと、4回もまったく同じ文句が出てくるわけですね。

4回というのは、非常にそれが重要であるということを意味しているわけです。

そして、そういう人の中にイエス・キリストがおられると言っているのであります。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタ2540

しなかった人は、「イエス・キリストのためなら喜んでお仕えします。でもそうだとは思わなかったのでしませんでした」と言い訳をしますが、した人もしなかった人もイエス・キリストがそこにいるという意識がない場合が多い。

わたくしたちが誰かのために何か良い事をした場合、そこにイエス・キリストがそこにいるのでしたのであって、いないと分かればしないというのであれば、マタイ25章の裁きの前にバツをつけられてしまうわけであります。

ここで言われている事はわたくしの解釈ですが、キリストという看板がある場合に、「あなたはキリストでいらっしゃいますね。だったらこれこれのことをします」ということではなくて、そこに助けを必要とする人がいる場合に、その人のために何かをすることがキリストのためにすることだと言われているので、

今日の福音の「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者」(ルカ128)に該当するかどうかわかりませんが、たとえ言葉でキリストの仲間であると言わなくとも、実行においてキリストのお望みを行う者がキリストの仲間であるといえましょう。

名前だけキリストを名乗っていても、キリストの教えを実行しない者は、言葉だけはキリスト者ですけれどもキリストの仲間とは言えないという意味になるのかなあと思うわけです。

教会の牧者という者は、仕える者であって、支配する者ではない。

それぞれ人が自分の良い役割を良く果たすことができるように配慮する役割であります。

それぞれの人がみんな喜んで働けるように、そして教会共同体のためだけでなくて、この社会の中でイエス・キリストの生き方を伝えることができるように配慮し導くという役割が与えられていると思うのであります。

 

ルカの祝日

ルカ福音記者祝日 ミサ説教

20191018()、本郷教会

 

福音書を書いたと伝えられるルカの祝日であります。

ルカはシリアのアンティオキアの出身で、医者であったと言われています。

ルカの福音は、おそらく紀元70年から80年の間に書かれたと思われる。

使徒パウロの同行者として、異邦人に福音を宣べ伝えました。

マルコ、マタイの福音の伝える資料を使いながら、ルカ固有の資料を用いて、3番目の福音として、こんにちのルカの福音を編纂したようです。

ルカだけが伝える特別な内容がいくつかあり、特に女性の役割を重視する記事が目立ちます。

1章」、「2章」、「聖母マリアのエリザベトの訪問」など、ルカだけが伝えています。

今日の福音は「七十二人の派遣」の話です。

この話を今のわたくしたちに当て嵌めると、どういうことになるのだろうか。

多少なりとも当惑いたします。

わたくしたちは主の復活の時代を生きています。

わたくしたちにとって大切なことは、それぞれ派遣されている場所、それは職場であり地域であり家庭でありますけれども、そこでイエス・キリストが復活して、今もわたくしたちの中に生きておられるということを証しするということであります。

どう証しするかということが問題ですけれども。

どうしたら良いのか。

それがわたくしたちの課題ではないだろうかと思います。

 

 

 

気を落とさず絶えず祈りなさい

 

年間第29主日C年

2019年10月20日、本郷教会

 

第一朗読 出エジプト記 出エジプト17:8-13

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 二テモテ3:14-4:2

福音朗読 ルカによる福音 18:1-8

 

説教

 

主イエスは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ということを教えておられます。しかし今日の福音の結びの箇所では次のように言われました。

「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰をみいだすだろうか。」(ルカ188)これは気になるおことばではないでしょうか。

「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ということを教えるために、たとえを話されました。いわゆる、不正の裁判官の話です。「神を畏れず人を人とも思わない」ふととぎな裁判官であっても、うるさくてかなわない、という理由から、やもめの訴えを取り上げるだろう。まして全能で慈悲深い神が昼も夜も叫び求めている人々の声を聞き届けないはずはない、と言われます。

ところで、人は辛抱強く、いつもいつまでも祈り続けなければならないのですが、ときに祈ることに飽きてしまう、祈ることをやめてしまうことがあるのではないでしょうか。いくら祈っても聞き遂げていただけないように感じることがあるかもしれない。そういう場合、自分はどういう動機で何を願っているのか、ということをしばらく自分の心を見つめながら考えてみることが必要ではないでしょうか。神様はわたしたちの自分勝手な利己的な祈りは聞き入れないことでしょう。主イエスの名にふさわしい願いでなければなりません。

神様には神様の御計画があります。神は絶えず祈る者には必ず聖霊をあたえてくださるのであります。

福音書にはイエスが人々の不信仰をとがめる場面が出てきますが、人々の信仰を賞賛する場面もすくなくはありません。ルカの福音だけに限って思い出してみますと、たとえば次のような場面を思い出すことができます。

イエスは百人隊長の信仰に感心して言いました。〈言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない。〉(79

また罪深い女をゆるして言いました。〈あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。〉(750

さらに、ヤイロの娘をいやして言われました。〈娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。〉(839

エリコの近くで盲人をいやしたときに言われました。〈見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。〉(1842

 この人たちの非常に強く必死な祈りにわたしたちも見倣わなければならないのではないかと思います。

 

さて本日は世界宣教の日であります。

今日の第二朗読で次のように言われています。

「 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」

折が悪いときでも、人々に都合の悪い内容であっても、正しいこと、健全な教えを宣べ伝えるように、パウロはテモテを励ましています。わたしたち、洗礼を受け、さらに堅信を受けた者はすべてこのパウロの勧めに従って自分の場所で、自分のできる、御言葉を宣べ伝えるという任務に励まなければならないのであります。そうできますように、わたしたちの祈りをご一緒にお献げいたしましょう。

 

 

2019年10月13日 (日)

重い皮膚病

年間第28主日C年

2019年10月13日、本郷教会

第一朗読 列王記下 5・14-17

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 二テモテ 2・8-13

福音朗読 ルカによる福音 17・11-19

 

説教

イエスの一行は、ガリラヤからエルサレムに戻る旅をしておりました。そして、サマリアを通られた時に、十人の重い皮膚病の人と出会いました。

重い皮膚病という言葉は、従来は「らい」という言葉で訳されていました。しかし、この「らい」という言葉を使うことには問題があり、人々に不快感を与え、あるいは、差別を助長されるという理由で、この言葉は使わないことになりました。

らい」と訳されたギリシャ語は「レプラ」という言葉であります。そして、この「レプラ」は、旧約聖書では、「ツァラート」という言葉のギリシャ語訳であります。

そこで、このヘブライ語をどう訳したらよいかということが問題になりました。いろいろな研究と検討の結果、旧約聖書の「ツァラート」という言葉は必ずしも…、「レプラ」はあとで「ハンセン病」と言われるようになったのですが、「ハンセン病」であるとは言えない。そういうことで、結局、「重い皮膚病」という、少し曖昧な訳語に落ち着いたのであります。

因みに、昨年、聖書教会共同訳という新しい翻訳が出まして、ここでは、混乱するのですが、「既定の病」となっています。ここでは旧約聖書で規定されている病という意味です。

まあ、このような言葉の問題はさておいて、重い皮膚病の人の苦しみをわたしたちは知らなければならない。非常に忌み嫌われ、そして、隔離されていたわけでした。日本でもそうでした。「らい予防法」は、今日では撤廃されて無くなったわけですが…。

そして、さらに、この人は「サマリア人」でありました。サマリア人とユダヤ人は非常に仲が悪かった。その当時、二重に差別され、忌み嫌われていたのであります。「重い皮膚病」を患っている、「サマリア人」である、そして、全く、その社会の中で排除され、自分の場所の無いまま、さ迷い歩かなければならない。そういう人でありました。

そこで、十人の重い皮膚病の人、その中の一人は「サマリア人」であったということがわかります。

「先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(ルカ・17:13)この、必死の言葉を、イエスは耳にとめて、そして言われました。

「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(ルカ・17:)、彼らはそこへ行く途中で清くされた。

十人全員が清くされたのでありますが、その中で一人だけ「大声で神を賛美しながら戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」(ルカ・17:16)と、あります。

イエスは、そのサマリア人に言いました。

「あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ・17:19)

このイエスの言葉は彼にとって、どんなに大きな力、なぐさめになったでしょうか。

福音書には、イエスが他の人々にも同じような言葉をお与えになったことが記されています。

罪深い女と呼ばれている女性に対して、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

出血が止まらないで何年も苦しんでいた女性に向かって、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9:22)

さて、わたしたちは、イエスが「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9:22)といってくださるような強い信仰を持っているだろうか、そして、この排除されていた人々に対する深い同情、いつくしみの心を持っているだろうか。この点を反省したいと思います。

第二朗読を思い起こしましょう。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。」(二テモテ2:11-12)

わたしたちは、いわば「キリストと共に死んで、キリストと共に生きる」ものとされたのであります。

洗礼とは、「古い自分に死んで、新しい自分となって、新たに生きる」ということを意味しております。一度洗礼を受ければ、そのような生き方が完成するというわけではなくて、日々、この洗礼の精神を生きなければならない。

「古い自分に死ぬ」というのは、パウロの言葉に従えば、いわば、「肉の業とたたかい、肉の思いを捨てること」(ガラテヤ5・16-22)であります。

肉の業とは、例えば、「敵意、争い、妬み、憤り、みだらな心」(ガラテヤ5・19参照))などを指しています。

「キリストと共に支配するようになる」(二テモ 2:12)という時に、「キリストから与えられる聖霊に従って生きる」ということを意味しております。それは、「キリストの霊の実りを生きること」であります。

霊がわたしたちに与えてくださる賜物、それは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であると、パウロがガラテヤ書で言っております。(ガラテヤの信徒への手紙5:22-23参照)

わたしたちの心は、どういう状態なのだろうか、いろいろな人との関わりの中で、わたしたちは出来うる限り、霊の実りにふさわしい、聖霊の勧めに従う心を持つことができますよう、聖霊の助け、照らしを願い求めましょう。

 

第一朗読  列王記 下 5:14-17
(その日、シリアの)ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。

第二朗読  テモテへの手紙 二 2:8-13
(愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」

福音朗読  ルカによる福音書 17:11-19
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

 

2019年10月11日 (金)

イエスは悪魔の親分?

年間第二十七金曜日 ミサ説教

20191011日、本郷教会

 

わたくしたちは毎日ミサをあげて福音を読み、ナザレのイエスとはどんな人であったのか、何をした人であるのかということを学んでいます。

イエスはユダヤ人として生まれ、ユダヤ人の宗教を自分の宗教として生きた人ですが、ユダヤ人の宗教の指導者である律法学者、ファリサイ派、祭司たちと対立するようになりました。

今日の福音もその対立の場面を伝えています。

イエスはさまざまな誹謗中傷を受けましたが、その中で最も酷いものは「イエスは悪霊の仲間である」、「悪霊の頭(かしら)ベルゼブルの力を使って悪霊を追放している」という悪口であります。

悪の組織に通じていれば、その組織の一番上の者に指令を出すと、そこから配下に命令がわたって実行に移される、という考え方からこのような悪口が出てきたのでしょうか。

聖書の教え、福音書の教え、そして使徒パウロの教えは、「悪に対して悪を以ってせず、善を以って悪に勝ちなさい」、「暴力に対しては、非暴力で対抗しなさい」と言っています。

先日の福音(2019930日ルカ94650)で、イエスの弟子たちが、イエスの名を使って悪霊を追い出している者がいるのでやめさせましょうかとイエスに問う場面がありました。

今日の話はそれに似てはいるが、全く違う教えになっています。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

(ルカ1123

良いことをするについては、敵とか味方とかいう問題はない。

この世界には素晴らしいこと良いことがたくさん行われていて、それは教会の名において行われているか、あるいは教会の外で行われているかに関わらず、良いことは良いのであります。

この世の中で、あってはならないことがある場合に、その悪と戦うことがわたくしたちキリスト者の使命であり、すべての人類もその悪を追放することにおいて協力をしなくてはならない。

平和を実現するために、立場、宗教、主義、主張を超えて力を合わせるべきであります。

「わたしに味方しない者は敵対する」という言葉は、善の実現のために協力しないどころか反対する者は、悪霊の力に置かれている者、悪霊の仲間になっている者であるという意味であるかもしれない。

この度来日なさる教皇フランシスコは「喜びに喜べ」という最近出された教えの中で、

「わたしたちキリスト者の生活は、悪との戦いの日々である」と言っておられます。

 

 

2019年10月10日 (木)

霊的生活

年間第二十七木曜日 ミサ説教

2019年10月10日(木)、本郷教会

 第一朗読  マラキ書 3:13-20a
福音朗読  ルカによる福音書 11:5-13
(そのとき、イエスは)弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも
、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 

説教

今日の福音の言葉もよく知られている教えであります。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(ルカ11:9)

求めること、探すこと、門をたたくことがなければ、与えられたり、見つけたり、開かれたりすることはないだろう。

何よりも求める心が大切である、と教えていると思います。

懸命に求めれば、与えられることがあるだろうと考えられる。

わたくしたちの日常体験によっても、そのことは納得できるのではないでしょうか。

 今日の福音朗読の最後の部分であります。

「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:13)

この言葉の前までは分かりやすいと思いますが、この最後の部分は前との繋がりがよく分からない感じを与えている。

「聖霊」が出てくるのであります。

おそらく、わたくしたちが求めるべき最も大切なこと、大切のもの、は聖霊であり、聖霊を求めなければならないという意味だと思います

わたくしたちはいろいろなこと、いろいろなものを必要とし、求めています。

自分の胸に手を当てて、何が必要だろうか何を求めているだろうかと考えた時に、どういう答えがあるだろうか。

この「聖霊」ということが、わたくしたちの心に浮かんでくるだろうか。

 わたくしたちは毎日「主の祈り」を唱えています。

昨日の福音は「主の祈り」についての教えでありました。

「主の祈り」に聖霊という言葉は出てきませんが、聖霊の恵みを求めているということと、繋がっているのではないだろうかと思います。

そして聖霊を求めるには、求める強い気持ちがなければならない。

あればその求めに応じて神様が与えてくださる、というよりも、もう与えてくださっているのであります。

与えてくださっていることに気がつき、そしてそれに応えることができるように祈らなければならないのではないかと思います。

聖霊がすでにわたくしたちの心に注がれていることを知り、その聖霊の働きに応えることが大切ではないだろうか。

 キリスト者の生活は、霊的生活と呼ばれます。霊的生活というのは、聖霊の導きに従う生活ということであります。

聖霊の導きに従うことを妨げるさまざまなことから解き放たれなければならないのであります。

 

2019年10月 8日 (火)

マリアとマルタ

年間第二十七火曜日 ミサ説教

2019年10月8日(火)、本郷教会

第一朗読  ヨナ書 3:1-10

福音朗読  ルカによる福音書 10:38-42
(そのとき、)イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 

今日の福音は、「マルタとマリア」の姉妹の話であります。

よく知られている場面が読まれました。

マルタはイエスをもてなすために、姉妹のマリアが自分と一緒に働いて欲しかったのでした。

その気持ちはよく分かるような気がします。

マルタは思うだけでなく、イエスに向かって言いました。

「手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカ10:40)

そう思っても言うか言わないかはその人の決めることですが、マルタのこの言葉の内に不満、苛立ちを感じます。

マルタはいろいろなことを心配していました。

わたくしたちの人生も、毎日いろいろなことを心配したり、場合によっては恐れたりするようなことがあるのかもしれない。

なぜわたくしたちは心配したり、恐れたりするのだろうか。

それは相応しく正しいことであるかもしれないが、それが過ぎるとイエスの福音の精神には合わないことになります。

神様はすべてのことを備えてくださいます。

「何よりもまず、神の国とその義を求めなさい。」(マタ6:33)

そして復活したイエスは弟子たちに言われました。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ28:20)

さらにヨハネの手紙で言われています。

「完全な愛は恐れを取り除く」(一ヨハ4:18)

わたくし自身、心配や恐れにいつも囚われがちであると思います。

聖霊がわたくしたちを本当の自由、古い自分から新しい自分になることができるように、助けてくださいますように。

 

2019年10月 6日 (日)

福音宣教特別月間

年間第27主日C年

2019年10月6日、本郷教会

 

第一朗読 ハバククの預言 1・2-3, 2・2-4

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 二テモテ1・6-8、13-14

福音朗読 ルカによる福音 17・5-10

 

説教

 

「福音宣教のための特別月間」を迎え、わたくしたちは本郷教会としても、この一か月をどのように過ごしたら良いだろうかとご一緒に考えたいと思います。

教区からは、この一か月にこういうことについて、できることを実行するようにという勧めが来ております。

教皇さまの教え「福音の喜び」を学ぶこと。

或いは、10月20日の日曜日―「世界宣教の日」であります―カテドラルで「晩の祈り」がありまして、大司教が司式しますのでできるだけ出席してください。

それから先ほど申し上げましたが、ミサのときはご一緒に宣教のためのお祈りをいたしましょう。さらに10月31日ですが、尊者エリザベット・マリア北原怜子さんの足跡を、歩いた道をたどる巡礼が企画されておりますので、できる方はぜひご参加ください。

今日の福音朗読からわたくしが感じましたことを申し上げたいと思います。

弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」と言われた。この信仰というのはどういう内容であろうか。神に従う人は信仰によって生きるという旧約聖書、ハバクク書の言葉も読まれました。

わたしたちにとって「信仰」が非常に大切であります。折しも聖書通読会を本郷教会として行っておりますが、旧約聖書の「ヨブ記」を読んでいます。

ヨブは大変な試練に遭いました。持っているものは全部奪われ、そして非常に辛い病気になり、そして家族からも見放される、いう辛い試みに出遭った。それでも彼は神への信仰を貫くことができただろうか。そういうことについての物語であります。

順調な時に神に感謝することは易しい。しかし逆境にあって、それでも神への信頼を失わず、神のみ心に従って生きようとすることこそ真の信仰であります。弟子たちの言った「信仰」がそういう信仰であるかどうかわかりませんが、わたくし個人としては、自分はそういう信仰を持っているだろうか、そういう信仰を強くするように祈っているだろうかという思いがいたします。

もうひとつの点は、「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです。」という言葉です。前の話と後の話のつながりがわたくしにはよく見えないんですが、この僕というのは誰を指しているのだろうか。当然のことをしたから、なんら感謝されることはないんだと。「よくしてくれたね、ご苦労様」ま、普通はそう言いますけれど、いたわりも感謝も一言もない。それに対して物足りなさとか不満を感じないだろうか。普通の人は感ずる。

この僕というのは誰を指しているのか。おそらく最初の教会の奉仕者、今日でいえば、司祭とか司教とかそういう人のことだろうと言われています。彼らは一生懸命働く。それなのに、自分たちの努力が十分に報われていないと感じていたのかもしれない。感謝が足りないとか、もっとわたしたちのことを理解しろとか、そういう思いがあったのかもしれない。いや、かもしれないではなくて、そうだろうと思う。なにしろわたくしもそうですから。

人に奉仕する者は見返りを期待しないで、当然成すべきことをしているのだと思わなければならない。なにしろわたしたちは罪人(つみびと)であり、不完全な者であります。そういう者を神様が用いて、神様の御用に使っていただいている。それだけでおおいに感謝すべきであって、わたしはこんなことをしているのだ、してやっているのだと思って、自分が思うように報いが与えられないときに不満に思ったりするのは、神を信じる者のとるべき態度ではないという意味なのだろうと思います。

 

「信仰を増してください」そして「わたしは取るに足りない僕です」 この二つの言葉は、わたしたちが神の僕として当然の務め、つまり福音宣教するときに、非常に大切な心構えではないだろうかと思います。

お互いに相手を自分よりも優れた者と思い、感謝を捧げ、そして至らないところをお詫びするようでありたい。そうできますようにお祈りをいたしましょう。

 

 

第一朗読  ハバクク書 1:2-3、2:2-4
主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。
どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。
暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

第二朗読  テモテへの手紙 二 1:6-8、13-14
(愛する者よ、)わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

福音朗読  ルカによる福音書 17:5-10
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 

嫉み

病者のためのミサ説教

2019105()、本郷教会

今日のわたくしたちは、病者の恢復を願ってミサをお献げいたします。

神はイエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。

イエス・キリストを信じる者が永遠の命に入るためであります。

永遠の命、それはわたくしたちが神の命に与ることであり、神の命とは、神と共にある平和、神と共にいる幸福のことであります。

わたくしたちはすでに永遠の命に入っていますが、しかしまだ不完全な状態にあります。

そこでわたくしたちは日々祈りながら、わたくしたちがより豊かに神の命、そして永遠の命を受けることができるよう祈るのであります。

人間にどうして病気とか障がいがあるのかという疑問はとても難しい問題でありますが、神が望んでいることは、すべての人が幸福になることであります。

そのためにイエス・キリストがわたくしたちの病を身に負い、わたくしたちの贖いとなり、十字架にかかってくださった、とキリスト教徒は信じております。

永遠の命とは言い直せば復活の命でありますが、そのイエス・キリストの復活の命に与ることができますよう、死んでからでなくこの世において復活の命に与ることができますように、聖霊をわたくしたちに注いでくださいます。

聖霊がわたくしたちに与えてくださる賜物は何であるかということを使徒パウロが述べています。

それは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という恵みであります。

逆に聖霊の実りがまだ十分でない人の心には、聖書のいう「肉の思い」というものが残っています。

その「肉の思い」とはどういうものであるかというと、例えば敵意、争い、妬み、憤りなどであります。

わたくしたちは心も身体も健康になりたいと思っている。

心の健康とは、聖霊の実りに満たされていることであります。

それが不十分だといろいろな乱れた思いに襲われる。

襲われることは避けられないが、その思いに囚われないように、その思いに支配されないように、気をつけなければならないのであります。

聖書は不思議な書物で、立派に生きた人の話だけではなく、むしろこのような聖霊の働きが十分に受けられなかった人の思いが述べられております。

ペトロを始めとするイエスの弟子たちからして、イエスと一緒にいた時はまだ非常に不十分な心の持ち主であって、自分たちの中で誰が一番偉いのかということが最も大きな関心だったのであります。

イエスを死に追い詰めた人は真面目な宗教の指導者でありました。

彼らはファリサイ派とか律法学者と呼ばれていて、聖書をよく勉強し、そして実行していた人です。

そういう人がなぜイエスを追いやったかというと、いろいろな理由が考えられますが、イエスが人々の間でたいへんな人気者になりましたので、彼らはイエスを妬み憎むようになったのであります。

妬みが原因でありました。

旧約聖書を見ると、妬みや憎しみによって苦しんだ人々、あるいは大きな罪を犯した人々の物語が出ています

カインとアベルの話がその代表かもしれない。

アダムとエバが最初の人間で、その次にカインとアベルという子供が生まれたと創世記にあります。

二人ともそれぞれ自分が手に入れた物、畑で働いたカインは農作物、羊の世話をしていたアベルは羊の一番立派な初子を神に献げましたが、どういうわけか神はアベルの献げ物は受け入れたが、カインの献げ物には目を留めなかった。

カインの心に何が起こったかというと、猛烈な妬みそして怒り憎しみでした。

それを神様に「どうしてなのですか」と直接申し上げれば良かったのですが、その強いストレスをどのようにして解消したかというと、カインは弟のアベルを殺してしまう。

人類最初の殺人であります。

その原因、理由は兄弟の間の妬みであった。

イスラエルの人々の先祖はアブラハム、アブラハムの子がイサク、イサクの子がヤコブ。

このヤコブは、創世記を読むとわかりますが、二人の姉妹を妻にしたんですね。

姉妹の二人ともを妻にした。

そういうことをするとどういう結果を招くかというと、ラケルとレアという姉妹は非常に苦しんだ。

お互いに妬まなければならなかった。

どうしてこんなことをしたのか分かりませんが、一夫多妻制が普通であった社会だからでしょうか。

二人の女性は非常に苦しんだわけです。

これはわたくしたちに関係のない話ではなく、わたくしたちも時として妬みという気持ちに苦しまなければならない。

そういう時に心の平和が奪われてしまう。

聖霊の賜物を受けて、愛、喜び、平和が与えられますように、そしてそのようなマイナスの気持ちが起こった時に、そのような思いを退けてくださいますようにと祈りましょう。

「イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリ26

「自分を無にする」ということは、なかなかできないことであります。

そのイエス様が、わたくしたちに聖霊を受けることができますよう、そして御自分の生き方に倣うことができますよう助けてくださいますので、聖霊の導きを願って祈りましょう。

 

聖フランシスコ

聖フランシスコ(アシジ)修道者記念日 ミサ説教

2019年10月4日(金)、本郷教会

聖フランシスコという方は、カトリック教会だけではなく、教会の外の人からも愛されている聖人であります。

福音の勧めにすべてを献げて、生涯を貧しい者、小さな者として生きました。

今日のルカの福音は、人々の無信仰を責めています。

カファルナウムという地名が出てきますが、ガリラヤ湖畔の町で、イエスの活動の主な場所になったところです。

聖フランシスコはある時、キリストからの呼びかけを聞きました。

「わたしの教会を建て直しなさい。」

初は文字通り教会の建物を建て替えることであると思ったようでありますが、イエス・キリストの言葉を実践することによって、彼は十二世紀のカトリック教会のいわば刷新・改革をしたのであります。

多くの場合、教会の指導者を攻撃したり批判したりすることによって、改革し刷新することになりますが、聖フランシスコはそういうことは一切しなかったんですね。

しなかったが、そのままで良いとは決して思わなかったので、自分からイエスの言葉を実行し始めた。

その聖フランシスコに共感した人達が加わって、われわれは「フランシスコ会」と呼んでいますが、正式の名前は「小さい兄弟たちの会」が生まれました。

彼が心がけたイエスの福音の中心は、「貧しさ」ということでありました。

貧しいということは、物を持たない、物に依存しない、物から自由になる、ということでありました。

そして次に、「権力とか権限」を持たない。

人を支配したり命令したりする立場を放棄する。

人に力で接する、その力とは、金の力 肉体的な力、政治的権力でしょうが、そういうことを行使しない。

三番目は、「地位とか名誉とか威信」の放棄。

因みに、所有はポゼッションPossession、権力はパワーPower、威信はプレステージPrestige。

これを「三つのP」と言います。

貧しい、物を持たない、だけでなく、心においても小さな者として生きることによって教会を刷新したのでありました。

聖テレジア(幼いイエスの)おとめの精神に通うところがあります。

わたくしたちの教会も、この聖フランシスコの精神に従って改革されなくてはならないと思います。

平和があるように

年間第二十六木曜日 ミサ説教

2019103()、本郷教会

全世界のカトリック教会では、10月を「福音宣教特別月間」と宣言しております。

教会の典礼は、101日が「聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士」の記念日、102日が「守護の天使」の記念日、そして明日104日は「聖フランシスコ(アシジ)修道者」の記念日であります。

そのような教会の動きの中で、今日の福音はわたくしたちに何を語っているでしょうか。

「七十二人の派遣の話」であります。

現代の東京、文京区にある本郷教会として「福音宣教特別月間」にあたってどういう心構えを持つべきか、何を実行すべきかをご一緒に考えて実行しなければならないのであります。

「『この家に平和があるように』と言いなさい。」(ルカ105)というイエスの言葉ですけれども、平和にはさまざまな段階の平和があります。

世界の平和、心の平和、自然との平和、核兵器の禁止、紛争の終結・・・。

いろいろな平和があります。

その中でわたくしが特に感じることは、人々の心の平和ということであります。

自分自身の存在に不安を持っている人がいます。

自分が存在していることの意味が分からない。

自分は受け入れられているのだろうか。

自分のしたことについて、赦しを受けたい。

誰に赦しを頼むのか、どうしたら良いのかも分からない。

そういう気持ちを持っている人がいます。

イエス・キリストの福音の中心は「赦し」ということではないかと思う。

「あなたは赦されているのですよ」ということを、どのように伝えたら良いでしょうか。

人は「こんな自分はとても赦されていない」と感じる場合があります。

そのような人々に「あなたの存在は大切だ」ということを、どういうふうに伝えたら良いだろうか。

他方、わたくしたちは集まって主イエス・キリストの復活をお祝いし、そこから歓びと力をいただいております。

今日の第一朗読の「ネヘミヤ記」では、律法書の朗読を長時間行ったことが記されています。

「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主に喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘ810

(ネヘミヤ記は旧約時代の集会を伝えていますが)こんにち、わたくしたちはイエス・キリストの復活の時代を過ごしておりますので、復活を祝うということがわたくしたちの歓びであり力の源であるということを、もっとはっきりと思うべきであります。

 

第一朗読  ネヘミヤ記 8:1-4a5-67b-12
(
その日、)民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。
書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立(った。)エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
レビ人がその律法を民に説明したが、その間民は立っていた。彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」
民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。

 

 

福音朗読  ルカによる福音書 10:1-12
(そのとき、)主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

 

 

 

 

 

 

守護の天使

守護の天使記念日 ミサ説教

2019102()、本郷教会

今日102日は、「守護の天使の日」であります。

一人ひとりの人に、小さな者、幼い子供たちに、守護の天使がおられるという信仰を聖書が伝えております。

今日わたくしたちが学ぶべきことは何であろうかと考えてみますと、幼い子供一人ひとりを大切にするということはもちろんでありますが、わたくしたち大人も、子供のように自分を低くする者でなければならないということだと思います。

ご存じのように、繰り返し出てきますが弟子たちの関心は、誰が自分たちの中で一番偉い者であるのかということでした。弟子たちはこの思いをなかなか捨て去ることができなかったのでした。人は誰でもこの思いから解放されなければなりません。これは弟子たちだけでなくこれは、すべての人の課題ではないかと思います。

人間は、自分が誰であるのかということに重大な関心を持っていますが、自分がどれだけ重んじられるかということによって自分自身の存在を確認したいと思うところがあります。

神の前に最も小さい者が実は最も偉大であるというイエス様の教えを、人は、なかなか受け入れにくいと思います。

昨日の聖人、聖テレジアもその道、小さな者の道を歩んだのであります。

あさっては聖フランシスコの日になります。フランシスコは、小さな者として歩むよう教えた主イエスに最もよく倣って生きた聖人です。

小さい者になり、小さい者として歩むということの神秘を少しでも悟ることができますよう、祈りたいと思います。

 

 

 

 

 

 

2019年10月 1日 (火)

リジューのテレジア

聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士記念日 ミサ説教

2019101()、本郷教会

イエスの一行は、エルサレムへ向かって歩んでおりました。

その時、サマリア人の村を通過することになりましたが、村人はイエスを歓迎しませんでした。

サマリア人とユダヤ人の間にあった対立が影響していたのでしょうか。

その時に、弟子のヤコブとヨハネは、サマリア人のそのような態度に対し恐らく怒りを覚えて、彼らを滅ぼしてしまいたいと考えました。

「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ954)と言いましたが、イエスは二人を戒められたのであります。

自分たちに反対するものを打ち滅ぼしてしまう、あるいは徹底的にないものとしてしまうという気持ちが人間には起こるかもしれませんが、イエスはそのような心の動きに対して、非常に消極的な態度を示されました。

御承知の通り、「山上の説教」(マタ5312、ルカ62023)で敵を愛するように教え、自らもその教えを実行したのでありました。

さて、今日は聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士の記念日であります。

聖テレジアおとめは、教会博士にあげられました。

彼女の生き方が、すべての人の模範になると認められたからであります。

彼女の遺した自叙伝によると、彼女は自分が小さい者であり、病弱でもあったので、神様にお仕えすることについて、非常に困難を感じたことがあったと述べています。

自分の召命は何であろうかと黙想をしながら聖書を読んでいて、コリントの信徒への手紙一13章の中に見つけた言葉が、自分の召命を示しているということに気付き、大いに喜んだとあります。それは有名な「愛の賛歌」であります。

自分の召命は「愛」ということにあると彼女は確信しました。

ちなみにその言葉は次のようになっています。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(一コリ134

 

 

« 2019年9月 | トップページ | 2019年11月 »