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2019年10月 6日 (日)

嫉み

病者のためのミサ説教

2019105()、本郷教会

今日のわたくしたちは、病者の恢復を願ってミサをお献げいたします。

神はイエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。

イエス・キリストを信じる者が永遠の命に入るためであります。

永遠の命、それはわたくしたちが神の命に与ることであり、神の命とは、神と共にある平和、神と共にいる幸福のことであります。

わたくしたちはすでに永遠の命に入っていますが、しかしまだ不完全な状態にあります。

そこでわたくしたちは日々祈りながら、わたくしたちがより豊かに神の命、そして永遠の命を受けることができるよう祈るのであります。

人間にどうして病気とか障がいがあるのかという疑問はとても難しい問題でありますが、神が望んでいることは、すべての人が幸福になることであります。

そのためにイエス・キリストがわたくしたちの病を身に負い、わたくしたちの贖いとなり、十字架にかかってくださった、とキリスト教徒は信じております。

永遠の命とは言い直せば復活の命でありますが、そのイエス・キリストの復活の命に与ることができますよう、死んでからでなくこの世において復活の命に与ることができますように、聖霊をわたくしたちに注いでくださいます。

聖霊がわたくしたちに与えてくださる賜物は何であるかということを使徒パウロが述べています。

それは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という恵みであります。

逆に聖霊の実りがまだ十分でない人の心には、聖書のいう「肉の思い」というものが残っています。

その「肉の思い」とはどういうものであるかというと、例えば敵意、争い、妬み、憤りなどであります。

わたくしたちは心も身体も健康になりたいと思っている。

心の健康とは、聖霊の実りに満たされていることであります。

それが不十分だといろいろな乱れた思いに襲われる。

襲われることは避けられないが、その思いに囚われないように、その思いに支配されないように、気をつけなければならないのであります。

聖書は不思議な書物で、立派に生きた人の話だけではなく、むしろこのような聖霊の働きが十分に受けられなかった人の思いが述べられております。

ペトロを始めとするイエスの弟子たちからして、イエスと一緒にいた時はまだ非常に不十分な心の持ち主であって、自分たちの中で誰が一番偉いのかということが最も大きな関心だったのであります。

イエスを死に追い詰めた人は真面目な宗教の指導者でありました。

彼らはファリサイ派とか律法学者と呼ばれていて、聖書をよく勉強し、そして実行していた人です。

そういう人がなぜイエスを追いやったかというと、いろいろな理由が考えられますが、イエスが人々の間でたいへんな人気者になりましたので、彼らはイエスを妬み憎むようになったのであります。

妬みが原因でありました。

旧約聖書を見ると、妬みや憎しみによって苦しんだ人々、あるいは大きな罪を犯した人々の物語が出ています

カインとアベルの話がその代表かもしれない。

アダムとエバが最初の人間で、その次にカインとアベルという子供が生まれたと創世記にあります。

二人ともそれぞれ自分が手に入れた物、畑で働いたカインは農作物、羊の世話をしていたアベルは羊の一番立派な初子を神に献げましたが、どういうわけか神はアベルの献げ物は受け入れたが、カインの献げ物には目を留めなかった。

カインの心に何が起こったかというと、猛烈な妬みそして怒り憎しみでした。

それを神様に「どうしてなのですか」と直接申し上げれば良かったのですが、その強いストレスをどのようにして解消したかというと、カインは弟のアベルを殺してしまう。

人類最初の殺人であります。

その原因、理由は兄弟の間の妬みであった。

イスラエルの人々の先祖はアブラハム、アブラハムの子がイサク、イサクの子がヤコブ。

このヤコブは、創世記を読むとわかりますが、二人の姉妹を妻にしたんですね。

姉妹の二人ともを妻にした。

そういうことをするとどういう結果を招くかというと、ラケルとレアという姉妹は非常に苦しんだ。

お互いに妬まなければならなかった。

どうしてこんなことをしたのか分かりませんが、一夫多妻制が普通であった社会だからでしょうか。

二人の女性は非常に苦しんだわけです。

これはわたくしたちに関係のない話ではなく、わたくしたちも時として妬みという気持ちに苦しまなければならない。

そういう時に心の平和が奪われてしまう。

聖霊の賜物を受けて、愛、喜び、平和が与えられますように、そしてそのようなマイナスの気持ちが起こった時に、そのような思いを退けてくださいますようにと祈りましょう。

「イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリ26

「自分を無にする」ということは、なかなかできないことであります。

そのイエス様が、わたくしたちに聖霊を受けることができますよう、そして御自分の生き方に倣うことができますよう助けてくださいますので、聖霊の導きを願って祈りましょう。

 

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