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2019年10月 6日 (日)

福音宣教特別月間

年間第27主日C年

2019年10月6日、本郷教会

 

第一朗読 ハバククの預言 1・2-3, 2・2-4

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 二テモテ1・6-8、13-14

福音朗読 ルカによる福音 17・5-10

 

説教

 

「福音宣教のための特別月間」を迎え、わたくしたちは本郷教会としても、この一か月をどのように過ごしたら良いだろうかとご一緒に考えたいと思います。

教区からは、この一か月にこういうことについて、できることを実行するようにという勧めが来ております。

教皇さまの教え「福音の喜び」を学ぶこと。

或いは、10月20日の日曜日―「世界宣教の日」であります―カテドラルで「晩の祈り」がありまして、大司教が司式しますのでできるだけ出席してください。

それから先ほど申し上げましたが、ミサのときはご一緒に宣教のためのお祈りをいたしましょう。さらに10月31日ですが、尊者エリザベット・マリア北原怜子さんの足跡を、歩いた道をたどる巡礼が企画されておりますので、できる方はぜひご参加ください。

今日の福音朗読からわたくしが感じましたことを申し上げたいと思います。

弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」と言われた。この信仰というのはどういう内容であろうか。神に従う人は信仰によって生きるという旧約聖書、ハバクク書の言葉も読まれました。

わたしたちにとって「信仰」が非常に大切であります。折しも聖書通読会を本郷教会として行っておりますが、旧約聖書の「ヨブ記」を読んでいます。

ヨブは大変な試練に遭いました。持っているものは全部奪われ、そして非常に辛い病気になり、そして家族からも見放される、いう辛い試みに出遭った。それでも彼は神への信仰を貫くことができただろうか。そういうことについての物語であります。

順調な時に神に感謝することは易しい。しかし逆境にあって、それでも神への信頼を失わず、神のみ心に従って生きようとすることこそ真の信仰であります。弟子たちの言った「信仰」がそういう信仰であるかどうかわかりませんが、わたくし個人としては、自分はそういう信仰を持っているだろうか、そういう信仰を強くするように祈っているだろうかという思いがいたします。

もうひとつの点は、「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです。」という言葉です。前の話と後の話のつながりがわたくしにはよく見えないんですが、この僕というのは誰を指しているのだろうか。当然のことをしたから、なんら感謝されることはないんだと。「よくしてくれたね、ご苦労様」ま、普通はそう言いますけれど、いたわりも感謝も一言もない。それに対して物足りなさとか不満を感じないだろうか。普通の人は感ずる。

この僕というのは誰を指しているのか。おそらく最初の教会の奉仕者、今日でいえば、司祭とか司教とかそういう人のことだろうと言われています。彼らは一生懸命働く。それなのに、自分たちの努力が十分に報われていないと感じていたのかもしれない。感謝が足りないとか、もっとわたしたちのことを理解しろとか、そういう思いがあったのかもしれない。いや、かもしれないではなくて、そうだろうと思う。なにしろわたくしもそうですから。

人に奉仕する者は見返りを期待しないで、当然成すべきことをしているのだと思わなければならない。なにしろわたしたちは罪人(つみびと)であり、不完全な者であります。そういう者を神様が用いて、神様の御用に使っていただいている。それだけでおおいに感謝すべきであって、わたしはこんなことをしているのだ、してやっているのだと思って、自分が思うように報いが与えられないときに不満に思ったりするのは、神を信じる者のとるべき態度ではないという意味なのだろうと思います。

 

「信仰を増してください」そして「わたしは取るに足りない僕です」 この二つの言葉は、わたしたちが神の僕として当然の務め、つまり福音宣教するときに、非常に大切な心構えではないだろうかと思います。

お互いに相手を自分よりも優れた者と思い、感謝を捧げ、そして至らないところをお詫びするようでありたい。そうできますようにお祈りをいたしましょう。

 

 

第一朗読  ハバクク書 1:2-3、2:2-4
主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。
どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。
暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

第二朗読  テモテへの手紙 二 1:6-8、13-14
(愛する者よ、)わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

福音朗読  ルカによる福音書 17:5-10
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 

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