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2019年10月13日 (日)

重い皮膚病

年間第28主日C年

2019年10月13日、本郷教会

第一朗読 列王記下 5・14-17

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 二テモテ 2・8-13

福音朗読 ルカによる福音 17・11-19

 

説教

イエスの一行は、ガリラヤからエルサレムに戻る旅をしておりました。そして、サマリアを通られた時に、十人の重い皮膚病の人と出会いました。

重い皮膚病という言葉は、従来は「らい」という言葉で訳されていました。しかし、この「らい」という言葉を使うことには問題があり、人々に不快感を与え、あるいは、差別を助長されるという理由で、この言葉は使わないことになりました。

らい」と訳されたギリシャ語は「レプラ」という言葉であります。そして、この「レプラ」は、旧約聖書では、「ツァラート」という言葉のギリシャ語訳であります。

そこで、このヘブライ語をどう訳したらよいかということが問題になりました。いろいろな研究と検討の結果、旧約聖書の「ツァラート」という言葉は必ずしも…、「レプラ」はあとで「ハンセン病」と言われるようになったのですが、「ハンセン病」であるとは言えない。そういうことで、結局、「重い皮膚病」という、少し曖昧な訳語に落ち着いたのであります。

因みに、昨年、聖書教会共同訳という新しい翻訳が出まして、ここでは、混乱するのですが、「既定の病」となっています。ここでは旧約聖書で規定されている病という意味です。

まあ、このような言葉の問題はさておいて、重い皮膚病の人の苦しみをわたしたちは知らなければならない。非常に忌み嫌われ、そして、隔離されていたわけでした。日本でもそうでした。「らい予防法」は、今日では撤廃されて無くなったわけですが…。

そして、さらに、この人は「サマリア人」でありました。サマリア人とユダヤ人は非常に仲が悪かった。その当時、二重に差別され、忌み嫌われていたのであります。「重い皮膚病」を患っている、「サマリア人」である、そして、全く、その社会の中で排除され、自分の場所の無いまま、さ迷い歩かなければならない。そういう人でありました。

そこで、十人の重い皮膚病の人、その中の一人は「サマリア人」であったということがわかります。

「先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(ルカ・17:13)この、必死の言葉を、イエスは耳にとめて、そして言われました。

「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(ルカ・17:)、彼らはそこへ行く途中で清くされた。

十人全員が清くされたのでありますが、その中で一人だけ「大声で神を賛美しながら戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」(ルカ・17:16)と、あります。

イエスは、そのサマリア人に言いました。

「あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ・17:19)

このイエスの言葉は彼にとって、どんなに大きな力、なぐさめになったでしょうか。

福音書には、イエスが他の人々にも同じような言葉をお与えになったことが記されています。

罪深い女と呼ばれている女性に対して、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

出血が止まらないで何年も苦しんでいた女性に向かって、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9:22)

さて、わたしたちは、イエスが「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9:22)といってくださるような強い信仰を持っているだろうか、そして、この排除されていた人々に対する深い同情、いつくしみの心を持っているだろうか。この点を反省したいと思います。

第二朗読を思い起こしましょう。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。」(二テモテ2:11-12)

わたしたちは、いわば「キリストと共に死んで、キリストと共に生きる」ものとされたのであります。

洗礼とは、「古い自分に死んで、新しい自分となって、新たに生きる」ということを意味しております。一度洗礼を受ければ、そのような生き方が完成するというわけではなくて、日々、この洗礼の精神を生きなければならない。

「古い自分に死ぬ」というのは、パウロの言葉に従えば、いわば、「肉の業とたたかい、肉の思いを捨てること」(ガラテヤ5・16-22)であります。

肉の業とは、例えば、「敵意、争い、妬み、憤り、みだらな心」(ガラテヤ5・19参照))などを指しています。

「キリストと共に支配するようになる」(二テモ 2:12)という時に、「キリストから与えられる聖霊に従って生きる」ということを意味しております。それは、「キリストの霊の実りを生きること」であります。

霊がわたしたちに与えてくださる賜物、それは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であると、パウロがガラテヤ書で言っております。(ガラテヤの信徒への手紙5:22-23参照)

わたしたちの心は、どういう状態なのだろうか、いろいろな人との関わりの中で、わたしたちは出来うる限り、霊の実りにふさわしい、聖霊の勧めに従う心を持つことができますよう、聖霊の助け、照らしを願い求めましょう。

 

第一朗読  列王記 下 5:14-17
(その日、シリアの)ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。

第二朗読  テモテへの手紙 二 2:8-13
(愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」

福音朗読  ルカによる福音書 17:11-19
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

 

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