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2019年11月

2019年11月26日 (火)

終わりの時

 年間第三十四火曜日 ミサ説教

 20191126()、本郷教会

 

今読んだ福音は、二週間前の日曜日1117日年間第三十三主日の福音とまったく同じ箇所であります。

非常に立派な神殿を目の当たりにしてイエスが言われた言葉でした。

この神殿は、紀元70年にローマ軍によって破壊されることになります。

そういう状況で、イエスが世の終わりが来るまでに起こることはどんなことかと述べ、そしてその日に備えて日々を大切に生きるようということを言われたのではないかと思います。

クリスマスは主イエス・キリストが霊的にわたくしたちのところにお生まれになる日ですけれども、間もなく待降節、主をお迎えする準備をする時であります。

わたくしたちは、その時まで個人としても教会としても、自分に与えられた日々を大切に過ごさなければなりません。

大切に過ごすとはどういうことなのだろうか。

教皇様が日本に来てくださいまして、「命を大切にする。一人ひとりの存在の尊さを深く思うように」と言ってくださっております。

そのために世界レベルでのいろいろな必要、核兵器を廃絶するなどのことがあります。

そしてさらに、一人ひとりが自分自身の命を大切にしなければならないと思うのであります。

日本という国の現実を見るときに、いろいろの人が生きるための動機とか希望というものを削がれてしまっている、弱くされているという現実があります。

教皇様もそのことを心配してくださっていると思います。

ひとは何によって生きるのでしょうか。

個人としても世界としても、やがて終わりの日がくる。

 その終わりの時までに与えられた日々をどう過ごすか。

 仮に何月何日が自分の人生の終わりの日だと分かれば、わたくしたちは何をして過ごすだろうか。

 人類も同じことで、その日がいつか分かりませんが、その時が来るとすべては一旦破壊されて新しい天と新しい地に作り直されると聖書の黙示録などは伝えています。

 わたくしたちは、自分を大切にしながら他の人びとのために何をしたら良いのかということをもっとよく考える時ではないだろうかと思います。

 

孤独と自死

年間第三十四月曜日ミサ説教

20191125()、本郷教会

今日の福音は、貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を献金したという話であります。

レプトン銅貨というのは1デナリオンの128分の1だそうで、1デナリオンというのは一日の賃金ですから、幾ら位に相当するのでしょうか。

一日の賃金のおよそ100分の1という額になるのだろうと思います。

賽銭箱というのは神殿にあったのでしょうから、神殿に献金したわけです。

献金というのは、神様に差し上げるわけですけれども、神殿が神さまの御心に従って献金を活かすかどうかは分からないと思われる。

やもめはそのようなことには疑いを持っていなかったのだろうと思う。

この話はそこまでにしておいて。

フランシスコ教皇が日本に来てくださったことに心から感謝申し上げましょう。

命の尊さを全世界に向かって訴えられています。

長崎・広島を訪問し、核兵器の使用禁止だけでなく廃絶も訴えてくださったことは大変嬉しいことでありました。

さらに、原子力発電についても言っていただけると、なお有難いと思う。

さらに、日本の社会の現状につき、少なくない若者が自殺しているという事実、そして自分の居る場所が見つからない孤独な人が多い、孤独死という深刻な問題があることについて一言いっていただけると大きな反響があるのではないかと思いました。

 

 

 

 

 

2019年11月24日 (日)

僕と王

王であるキリスト(年間第34主日、C)

2019年11月24日、本郷教会

 

第一朗読 サムエル記 下5:1-3

第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 1:12-20

福音朗読 ルカによる福音23:35-43

 

説教

待降節が一週間後と、迫ってまいりました。

きょうは、「王であるキリストの祭日」です。

王であるキリストとは、復活されて、イエスが宇宙を支配する王となられたことを記念する日であると思いますが、きょうの福音から考えてみますと、彼は、どのようにして宇宙万物を神なる父と和解させて、万物を支配するものとなられたか、という「地上でのイエスの生涯」を思い起こすことが大切ではないかと思うのであります。

地上におけるイエスは、わたしたちが持っている「王」というイメージとは大変かけ離れた状態にありました。

 

王という言葉から、わたしたちは何を連想するでしょうか。王様という立派な人が登場する場面を子供のころ見た絵本などから思い起こすのであります。王様というのはどういう存在かと、そこから漠然と思う「王様」と、きょうのイエスのお姿は正反対といってよいのではないでしょうか。

地上では「王」といわれる人は、どのくらいいるのでしょうか。かつてはたくさんいた。だんだん減ってきて、いま、王といわれる人はどのくらいいるのでしょうか。もしかして、トランプの王様くらいしか残らないのでは、と冗談を言う人もいます。

王というのは、王らしい服装、衣装を着けている。この中で、わたくしの心にすぐ浮かんでくる、王が体に着けるものの中で一番目立つものは、「王冠」というものなのではないでしょうか。王様は冠を着けているわけであります。

 

教会の最高の指導者は、ローマの司教様、いま、フランシスコ教皇様、日本に来ておられます。

ヨハネ・パウロ一世という教皇様は、わずか一カ月で亡くなられましたが、就任されるときに、従来の就任式のやり方を根本的に変革しました。その時までは、立派な冠「三重冠」を受ける戴冠式をしていたのですね。しかし、それは、「最高の牧者」というか、「牧者の中の牧者」にはふさわしくないとお考えになり、そういう権力をあらわすと思われるようなアクセサリーをつけることをおやめになったわけですね、それ以来、ローマの司教は、戴冠式はしておりません。

ローマの司教は人々に仕える者ですので「僕たちの僕」という称号が相応しいのであります。わたしたちの教会の最高の牧者は、「僕たちに仕える僕」であるといわれているのであります。

聖書の中で、「王」という言葉よりも、「牧者」という言葉でその任務が表されております。

「牧者」とは羊の世話をする者であり、羊を養う者であります。神のみ心に従って、民に仕える僕が、牧者である。

 

きょうの第一朗読は、ダビデが、ヘブロンで油注がれて王とされたという出来事を告げています。

ダビデの前に、サウロという王がいました。このサウロという人は、王の務めをよく果たすことができなかったので退けられて、ダビデが王となったのでありました。

そもそも、イスラエルには、王というものがいなかった。王は必要ないと考えられたのであります。

なぜか、というと、王は「神さま」なのであって、「神さま」がイスラエルの民の王であって、神以外のものを「王」とする必要が無い、してはいけないとさえ思ったのかもしれない。

しかし、人々は周りの人王を戴いて、王によって国を支配し、他国と戦っている様子を見て、「どうしても王が欲しい」と、そのときの預言者サムエルを強要したので、やむを得ずサムエルは神様にお伝えすると、「そこまで言うなら、王を与えてあげよう、しかし、王とはこういうものだ。よく肝に銘じて聞きなさい。」と、言われたということがサムエル記に出ているのであります。

王は、神さまのみこころにしたがって、この地上において、神さまのみこころを行うように配慮するものであります。

特に、弱い立場の人を守り、いたわることがおもな役目でありました。

孤児、やもめ、寄留者に代表される弱者を父の愛を持って守り、いたわり、助けることが王の役割でありました。

しかし、人間は弱いもので、権力を持つと、自分の利益、自分の快楽を優先させてしまう、牧者は羊を養うべきであり、自分を養ってはいけないと、エゼキエルという預言者が激しく王たちを糾弾したのであります。

サウロの次がダビデ、ダビデの次がソロモンとなったのでありますが、ソロモンも最初の治政は良かったのでありますが、晩年、権力を乱用して、人々から大変嫌われるようになり、その後、王国は二つに分裂してしまったのであります。

 

旧約聖書に「列王記」そして、「歴代誌」という書物がありますが、これらを読んでみますと、大変興味深い記述が繰り返されています。「王の勤務評定」ですね。歴代の王がどうであったかということを述べている。

「大部分の王は主の目に悪とされることを行った」と、非難されているわけなのですね。合格した人はほとんどいないというわけです。

もし、どこかの国で、そういう記録を公式に残したら、大変、奇跡的ですけれども…。なにしろ、権力者は自分を否定するような公式な記録は残さないわけですが、『聖書』というのは、その辺は、大変公平なもので、王の業績を忌憚なく批判しているのであります。

さて、きょうの福音から、わたしたちの思うことは、ここに書かれている王、イエスは、わたしたちが、「王とはこういう者である」と何となく思っている姿とは全く反対の様子を示しています。

ここに告げられているイエスの姿は、預言者たちが告げている「あるべき王の姿」を現しているのではないかと思われます。

「王というのは民に仕える僕」であり、そして、「僕たちの痛みを担い、そして、過ちの結果を身に引き受ける」人であります。

 

イザヤ書には「主の僕の歌」というのがあります。

「この人は主の前に育った。

見るべき面影も無く、輝かしい風格も、好ましい容姿も無い。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。

彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、

彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。

ほふり場にひかれる子羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように、

彼は口を開かなかった。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いのささげものとした。

わたしの僕は多くの人が正しいものとされるために彼らの罪を自ら負った。」

これは、「主の僕の歌」の中から、わたくしが、この言葉が特に心に響く言葉ではないかと思った文だけ、わたしの判断で抜き出したものであります。(イザヤ書53章より)

 

イエスはこころと体に耐えがたい苦痛と侮辱を受けながら、人々のために自らの命を捧げる、そういう意味での王でありました。

今日読まれた福音が告げる、屈辱的なイエスの死は、わたしたちを離れ、わたしたちに罪の赦しをもたらすための死であったのであります。

わたしたちは「キリスト者」と言われています。

キリスト者、それは、「油注がれた者」という意味であり、イスラエルの歴史の中で「王」は油を注がれて王となりました。その「王の務めに与るもの」として、すべてのキリスト者は油注がれた者となっているのです。

人々のために、自分を捧げ、屈辱、苦痛を飲みながら、受難のイエス・キリストの生き方に倣うことによって、宇宙万物を支配する王であるキリストの栄光に与ることができますよう、お祈りをいたしましょう。

心に注がれている新しい掟

日本の福音化


                                                                              2019年11月23日(土)、本郷教会

フランシスコ教皇が、今日の夕方、日本に到着されます。
教皇の日本訪問が、日本の福音宣教のための良い励まし、良いきっかけとなるだろうと希望しております。わたくしたちは、この日本の地において、主イエス、キリストの福音を宣べ伝え、そして実行するようにと召されております
フランシスコ教皇は、「いつくしみの特別聖年」を制定し、神はいつくしみ深いかたであるということと、わたくしたちが、神のいつくしみを受けた者として、日々いつくしみ深いものであることを望まれ、そうできるよう祈るようにと勧められました。
わたくしたちの心の中には、既に困っている人に親切にしよう、助けてあげよう、という気持ちがすでに与えられているのであります。

エレミヤの預言は、神がイスラエルの人びとの心の中に、神の律法を授けるという預言をしています。
モーセに授けられた律法は、石の板に刻まれていました。
イスラエルの民はその律法を守ることができませんでしたので、神はもう一度彼らを救うための新しい契約の恵みを用意しました。神は一人ひとりの心の内に神のお望みを知り、そしてその望みを実行することができるようにしてくださいました。
それは、石に書かれた古い律法ではなく、心の中に刻まれた新しい律法であり、神の霊、聖霊によって与えられ、聖霊の力によって実行することができるようにしてくださるのであります。

さて、わたくしたちの心の中に注がれている聖霊は神の愛ですが、それは神のいつくしみという言葉で言いかえることができると思います。
「いつくしみ深いものでありなさい」という神の言葉をよく実行することであり、そのことが何よりも大切な福音宣教ではないでしょうか。
ほかの人に対していつくしみ深くあるということは、今日のマタイによる福音が告げておりますように、困っている人びとの必要に応えるということであり、飢えている人、渇いている人、旅をしている人、裸である人、病気の人、自由を拘束されている人などに対してできる助けを与えるということであります。
そして、それは単に肉体的に困難な状況に置かれているという人に対してだけでなく、精神的に難しい状況に置かれている人に対しても同じようにしなさいということだと思います。

大変気になることは、日本の社会において多くの人が生きる力を削がれている、生きるための気力、希望が持てない状態にある。少なくない人が依然として自死を遂げたり、あるいは行方不明になったりしているのであります。
自分の状態、肉体的のみならず精神的な状態に対して、否定的な気持ちが大変強くなっている人びとがいるのではないでしょうか。
「いつくしみ深いものでありなさい」という神様の言葉は、すべての人に対して「いつくしみ深いものでありなさい」ということであり、その中には自分自身に対しても「いつくしみ深いものでありなさい」ということが入っていると思います。
人はまず自分自身を大切にしなければならない。
それは我儘であってもよいとか、自己中心的であってよいということとは違います。
自分の現実、時には惨めである、時には孤独である、情けない、そういうふうに感じている自分をそのまま受け止め、そういう自分であることを認めながら、そのような自分を労わり、そして励ますことではないだろうか。

神はすべての人に聖霊を注いでくださいます。
すべての人は、神様のみ旨によってこの世に生命を受けました。
そして、すべての人をご自分のもとに招いてくださっています。
人生は神から出て、神のもとに帰る長い旅のようなものであります。
神のもとにたどり着くまでは、数々の試練に出会わなければなりません。
神の懐にたどり着いた時、わたくしたちは終わりのない喜びを味わうことになるでしょう。
その時、わたくしたちはわたくしたちの造り主を直接見ることができます。
その時までは、信仰においてのみ神の愛を信じ、神の導きに信頼して歩んでいくのであります。

教皇の日本訪問に際し、日本の社会で力を落としている人びとに励まし、希望、喜びが与えられますように。
そして、わたくしたち一人ひとりが自分を大切にすることを通して、悩んでいる人悲しんでいる人の励まし、希望となることができますように。いや、わたしたちが神からの励まし希望を伝える道具となることができますように。
このミサでお祈りいたしましょう。

 

 

自死

年間第第33主日C年

2019年11月17日、茂原教会

第一朗読  マラキ書 3:19-20a
第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 二 3:7-12
福音朗読  ルカによる福音書 21:5-19

説教

 

年間第33主日を迎え、待降節まであと二週間となりました。待降節はイエス・キリストのご降誕を迎える準備の季節でありますが、同時に主イエスの再臨を待ち望む信仰を深める季節でもあります。

本日のルカによる福音は世の終わりの時までに何が起こるかということを告げています。

まず今日の福音の初めに神殿の破壊ということが述べられています。イエスの時代にはエルサレムに非常に立派な神殿がありました。ヘロデの神殿と呼ばれる、それは壮麗なものだったようです。その神殿は紀元70年にローマ軍によってすっかり破壊されてしまいました。ルカによる福音はその後で書かれたようです。どんな立派な神殿でも、いつか破壊されてしまう時が来るのだ、ということから始まって、この世界に存在するものはいずれすべて世の終わりには破壊されてしまうだろうと言っています。しかし黙示録などで述べられていますが、そのときに同時にすべては神によって建て直され造り直されるのであります。その時が来るまで神は御自分の計画を徐々に実行に移しています。

神を信じるときに誰しも感じるかもしれない困難のなかに、神が造ったこの世界になぜ様々な悪が存在するのか、という問題があります。神がいるのにどうしてこのような災害や犯罪、戦争などの悪が起こるのだろうか。そういう疑問が起こるのではないでしょうか。

それで、今の世界は完成されていないので、必ずしも神の御心に適うことだけが行われているわけではないのです。

今日のイエスの言葉はさらに、「イエスの弟子たちは迫害を受けることになる」ということが続きます。

「人はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証をする機会となる。だから前もって弁明の準備をするまいと心に決めなさい。どんな反対者でも対抗できないような言葉と知恵をわたしがあなたがたに授けるからである。」

とイエスは言われました。

今、日本の状況ではそういうことは感じられない。それでもわたしたちは日々自分の信仰を言葉と行いで証しなければならないと思う。今日の第二朗読で言われているように、日々、自分のなすべきことを忠実に行いながら、自分の生活のために働き、人々の前で自分の信ずることを臆するころなく宣べ伝え、そして場合によっては、自分の生活や生命の危険をも侵すことも必要ではないだろうか。

今の社会で行うべき信仰の証と言えば、その前提として、まず今のわたしたちの社会で、どういうことが一番問題であるのだろうか、と考える必要があります。

昨日ある方とお会いしてお話を伺ったのですが、その方は今、日本では若い人が多数自死、自殺していることを大変心配しています。

今わたしたちは権力者によって処刑されるという心配はないのですが、もっと恐ろしい現実がある。それは権力者によって命を奪われるということではなく、自分で自分の命を絶つという人が多いという現実です。信仰の故に拘束されたり処刑されたりするのではなく、自分で自分の命を絶つということがどうして起こるのでしょうか。その原因や理由は様々に考えられていますが、わたしたちはこの現象の前に何をしたらよいのだろうか。

人々の、生きるための力、生きる動機が弱くなっている、削がれて、失われつつあるのではないだろうか。生きる意味、生きる理由、生きる動機を日々証しすることが現代のキリスト者の証しではないだろうかと思うのです。

すべてのものはやがて世の終わりに失われ、その後新しくされ、この世界は完全に新しい世界となり、「新しい天と新しい地」が現れると聖書は告げています。(黙示録21・1-5参照)その時が来るまでわたしたちは自分に与えられた命を大切にしながら、なすべきことをして生きて行かなければならない。わたしたちは互いに不足のある者、欠点のある者であります。お互いに助け合い、赦し合って、今ここに神の恵みが与えられているということを人々の前で証しなければならないと思うのであります。「王や総督の前で言うべきことは聖霊によって与えられる」とイエスは言われましたが、今のわたしたちにもイエス・キリストによって与えられている聖霊が働いてくださっている。信仰によって聖霊の働きに信頼し、知恵と勇気をもって生きる理由、意味、動機を証しすることが出来ますよう、今日のミサでご一緒にお祈り致しましょう。

 

第一朗読  マラキ書 3:19-20a
見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。

 

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 二 3:7-12
(皆さん、あなたがたは、)わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。

 

福音朗読  ルカによる福音書 21:5-19
(そのとき、)ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

2019年11月22日 (金)

イエス、神殿で商人を追い出す

聖セシリアおとめ殉教者記念日ミサ説教
                                                                                                                    2019年11月22日(金)、本郷教会

 

昨日の福音で、イエスはエルサレムの近くにまで到着し、エルサレムを見て、その滅びの日が来ることを思い、お泣きになったのでありました。
今日の福音は、イエスが神殿に入って、そしてそこで商売をしている人びとを追い出したという、いわゆる「宮清め」と呼ばれる出来事であります。
「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」(ルカ19:46)
このような言葉と行為は、当然の如く神殿を管理し神殿を根拠にしてユダヤ人を支配している人たち、祭司の階級に大きな反感そして敵意を生じさせました。
福音書は、しばしばイエスが律法学者やファリサイ派と対立したことを伝えていますが、今日の出来事が示しているように、イエスは当時のユダヤ社会の指導者、それは宗教的だけでなく政治的にも指導していた祭司の階級とも鋭く対立したのであります。
神殿はイスラエルの人びとにとって、非常に大切なものでありましたが、神殿を中心とした支配者たちが、民衆を圧迫しあるいは搾取していたという現実があったのであります。
イエスの生涯をたどりながら、わたくしたちはイエスがどのような人と対立し、そしてどのようにして十字架の刑にかけられたのかということをずっと見て来ています。
そして、わたくしたちの宗教がどのように成立したのかということを確かめながら、わたくしたち自身のあり方を日々見直していかなければならないと思います。

――
第一朗読  マカバイ記 一 4:36-37、52-59
(その日、)ユダと兄弟たちは言った。「見よ、我らの敵は粉砕された。都に上り、聖所を清め、これを新たに奉献しよう。」そこで全軍が集結し、シオンの山を目指して上って行った。
第百四十八年の第九の月――キスレウの月――の二十五日に、彼らは朝早く起き、焼き尽くす献げ物のための新しい祭壇の上に律法に従っていけにえを供えた。異教徒が祭壇を汚したのと同じ日、同じ時に、歌と琴、竪琴とシンバルに合わせて、その日に祭壇を新たに奉献した。民は皆、地に顔を伏せて拝み、彼らを正しく導いてくださった方を天に向かってたたえた。こうして祭壇の奉献を八日にわたって祝い、喜びをもって焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物と感謝の献げ物のいけにえを屠った。彼らはまた神殿の正面を黄金の冠と小盾で飾り、門と祭司部屋を再建し、戸を取り付けた。民の間には大きな喜びがあふれた。こうして異邦人から受けた恥辱は取り除かれたのである。ユダとその兄弟たち、およびイスラエルの全会衆はこの祭壇奉献の日を、以後毎年同じ時期、キスレウの月の二十五日から八日間、喜びと楽しみをもって祝うことにした。
福音朗読  ルカによる福音書 19:45-48
(そのとき、)イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。
「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

 

 

イエス、泣く

聖マリアの奉献・ミサ説教

20191121()、本郷教会

イエスの一行は何日もかかったことでしょう、エルサレムに上って来ました。

エルサレムが見えるようになった時、イエスは嘆いて言われました。

「泣いて、言われた」と書いてある。

イエスが泣くという場面は非常に珍しい。

なぜイエスは泣かれたのでしょうか。

恐らく紀元70年に、ローマ軍によってエルサレムが攻撃され、そして神殿が破壊されてしまうことを知っていたからでありましょう。

ルカの福音が書かれたのは、その70年の出来事の後であります。

すでに起こったことを、これから起こるだろうというような表現で語っているのであります。

どうして、すでにローマの支配下にあったエルサレムがローマ軍によって攻撃され、その神殿が破壊されることになったのであろうか。

明日の福音は今日の箇所の続きですが、イエスが神殿で商人たちを追い出したという、いわゆる「イエスの宮清め」の出来事を伝えています。

イエスは人びとが神の救い、助けを受け入れるように、神と和解するようにと説いたが、人びとは受け入れなかった。

特にイスラエルの指導者たち、それは祭司、律法学者、民の長老と呼ばれる人たちでありました。

イエスの話を聞き入れなかったその結果が、神殿の破壊ということに結び付いたのではないでしょうか。

なお、イエスが当時の指導者たちと何故どのようにして対決したのかということをたどりながら、イエスの真意がどのにあったのかということを学んでいきたいと思います。

――

第一朗読  マカバイ記 一 2:15-30
(その日、)背教を強いる王の役人たちが、異教のいけにえを献げさせるためにモデインの町にやって来た。多くのイスラエル人が彼らを迎えに出、マタティアとその息子たちも集められた。そこで王の役人たちは、マタティアに言った。「あなたはこの町では有力な指導者であり、御子息や御兄弟の信望もあつい。率先して王の命令を果たしてもらいたい。これはすべての民族が実行しているもので、ユダの人々も、エルサレムに残留している者たちも行っているのだ。そうすれば、あなたや御子息たちは王の友人と認められ、金銀、その他多くの報奨を受ける栄誉にあずかるであろう。」
マタティアは大声でこれに答えて言った。「たとえ王の領土内に住む全民族が王に従い、各自その先祖の宗教を捨てて王の命令に服したとしても、このわたしと息子たち、同胞たちはわたしたちの先祖の契約を守って歩みます。律法と掟を捨てるなど、論外です。わたしたちの宗教を離れて右や左に行けという王の命令に、従うつもりはありません。」
マタティアが語り終えたとき、一人のユダヤ人が一同の前に進み出て、王の命令に従いモデインの異教の祭壇にいけにえを献げようとした。これを見たマタティアは律法への情熱にかられて立腹し、義憤を覚え、駆け寄りざまその祭壇の前でこの男を切り殺した。またその時、いけにえを強要しに来ていた王の役人の一人をも殺し、この祭壇を引き倒した。それは、あのサルの子ジムリに対してピネハスがしたような、律法への情熱から出た行為であった。マタティアは町の中で大声をあげて言った。「律法に情熱を燃やす者、契約を固く守る者はわたしに続け。」こうしてマタティアと息子たちは、家財一切を町に残したまま、山に逃れた。
一方、これと時を同じくして、義と公正を求める多くの者が、妻子や家畜を伴って荒れ野に下り、そこに住んだ。災いが迫って来たからである。

福音朗読  ルカによる福音書 19:41-44
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

 

 

 

 

 

 

2019年11月21日 (木)

イエスの真意は何か

年間第33水曜日 ミサ説教

2019年11月20、本郷教会

 

昨日に引き続きマカバイ記の朗読が行われました。今日の箇所で7人の息子が惨殺される様子を直視しながら、息子たちを励まし、神への信仰と希望を説いた勇敢な母親の姿が告げられています。

「人の出生を司り、あらゆるものに生命を与える世界の創造主は、憐れみをもって、霊といのちを再びお前たちに与えてくださる」というこの母親の言葉の中に、既に復活の信仰と希望が込められていると思われます。

さて今日のルカによる福音の譬えについてです。この譬えは何を言っているだろうか。イエスの一行はエルサレムに近づいておりました。エルサレムで待ち受けているのはイエスの受難と十字架であります。

今日の話では、立派な家柄の人が王の位を受けるために遠い国へ旅立ったという出来事を背景にして話が進んでいく。この話は普通、神から受けた才能や財産を神の御心に従って有効に使いなさいという教訓ではないかと解釈されていますが、果たしてそれでよいでしょうか。

此処で言われていることはすでにイエスの時代に確立されて、いわば資本主義の支配する世界での考え方ではないだろうか。神から預かっている才能や財産を活用して増やしなさい、という教訓をイエスが述べたのでしょうか。イエスの時代すでに資産の運用といういわば「資本主義」の精神が浸透していました。イエスはこの譬えを使ってこの事実を指摘したと思います。そのような社会の在り方に批判する発言をしています。

それでは、財産ではなくて才能の問題であれば問題はないのか。

イエスの真意は何所にあるのか。なお時間をかけてこの問題をご一緒に考えてみたい。

――

第一朗読  マカバイ記 二 7:1、20-31
(その日、)七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう王に強制された。
それにしても、称賛されるべきはこの母親であり、記憶されるべき模範であった。わずか一日のうちに七人の息子が惨殺されるのを直視しながら、主に対する希望のゆえに、喜んでこれに耐えたのである。崇高な思いに満たされて、彼女は、息子たち一人一人に父祖たちの言葉で慰めを与え、女の心情を男の勇気で奮い立たせながら、彼らに言った。「わたしは、お前たちがどのようにしてわたしの胎に宿ったのか知らない。お前たちに霊と命を恵んだのでもなく、わたしがお前たち一人一人の肢体を組み合わせたのでもない。人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は、憐れみをもって、霊と命を再びお前たちに与えてくださる。それは今ここで、お前たちが主の律法のためには、命をも惜しまないからだ。」
アンティオコスは侮辱されたと感じ、その声に非難の響きを聞き取った。彼は、いちばん末の息子がまだ生きていたので、言葉で勧告するだけでなく、誓いをもって、「もし先祖の慣習を捨てるなら、富と最高の幸福を保障し、王の友人として遇し、仕事も与えよう」と約束した。だが、若者が全く耳を貸そうとしないので、王は母親を呼び寄せて、少年を救うために一役買うようにと勧めた。王があまりに強く勧めるので、母親は息子を説得することを承知した。しかし母親は、若者の上に身をかがめ、残酷な暴君をあざけってから、父祖たちの言葉で言った。「わが子よ、わたしを憐れんでおくれ。わたしはお前を九か月も胎に宿し、三年間乳を含ませ、養い、この年になるまで導き育ててきました。子よ、天と地に目を向け、そこにある万物を見て、神がこれらのものを既に在ったものから造られたのではないこと、そして人間も例外ではないということを知っておくれ。この死刑執行人を恐れてはなりません。兄たちに倣って、喜んで死を受け入れなさい。そうすれば、憐れみによってわたしは、お前を兄たちと共に、神様から戻していただけるでしょう。」
彼女が語り終えるとすぐ、若者は王に言った。「何を待っているのだ。わたしは王の命令などに耳は貸さない。わたしが従うのは、モーセを通して我々の先祖に与えられた律法の命令である。しかし、ヘブライ人に対して悪辣非道を重ねてきたあなたは、神の御手を逃れることはできないのだ。」

福音朗読  ルカによる福音書 19:11-28
(そのとき、イエスは)一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。

 

 

あなたの家に泊まりたい

年間第33火曜日 ミサ説教

2019年11月19日(火)、本郷教会

 

第一朗読は「マカバイ記」の今日の箇所は、エレアザルという高齢の律法学者が、律法で食べることを禁じられていた豚肉を食べることを拒否して、勇敢な最期を遂げた次第が告げられています。

 

今日の福音は、ザアカイという人の物語です。

本年11月3日の福音の箇所と同じであります。 

ザアカイという人は、徴税人の頭(かしら)で金持ちでありました。

イエスの評判を聞いていたのでしょうか、イエスがどんな人か見たかった。

背が低かったとあります。

いちじく桑の木という木に登って、上からイエスを見ようとした。

そのザアカイに向かって、イエスが言われました。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

イエスの一行は、エルサレムに上る旅をしていた。

毎日どういうところに宿泊していたのか分かりませんが、定まった旅館というようなところに泊まっていたわけではないでしょう。

「ぜひあなたの家に泊まりたい」と訳されていますが、「あなたの家にとどまることになっている」と直訳されます。

それは、神の救いの計画の中に入っていることだという意味であると解釈されています。

ザアカイは、人びとから忌み嫌われていました。

イエスから「今日あなたの家に泊まりたい」と言われて、どんなにか喜んだことでありましょう。

その後、ザアカイが言った言葉が告げられていますが、ザアカイはイエスからあなたの家に泊まりたいと言われたのでたいへん喜んで、「貧しい人には財産を施す」、「損害を与えていれば四倍にして返す」と言ったのであります。

イエスがザアカイに会った時に既に、ザアカイが改心し悔い改めていたので、イエスがザアカイの家に泊まりたいと言われたのではなくて、ザアカイの家に泊まりたいとイエスが言われたので、ザアカイは喜んで自分の生き方を変える決心がついたのであります。

教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」を行いましたが、その中で神の慈しみを説き、神の慈しみを実行するように勧められました。

「人の子は失われたものを探して、救うために生きたのである」という言葉の内に、神の慈しみが現れていると思われます。

 

第一朗読  マカバイ記 二 6:18-31
(その日、)律法学者として第一人者で、既に高齢に達しており、立派な容貎の持ち主であったエレアザルも、口をこじあけられ、豚肉を食べるように強制された。しかし彼は、不浄な物を口にして生き永らえるよりは、むしろ良き評判を重んじて死を受け入れることをよしとし、それを吐き出し、進んで責め道具に身を任そうとした。これこそ、生命への愛着があるとはいえ、口にしてはならないものは断固として退けねばならない人々の取るべき態度である。ところがそのとき、禁じられたいけにえの内臓を食べさせる係の者たちは、エレアザルと旧知の間柄であったので、ひそかに彼に席を外させて、王が命じたいけにえの肉を口にした振りをして、彼自身が用意し、持参している清い肉を食べることを勧めた。そうすれば、彼は死を免れ、その上、彼らとの昔からの友情のゆえに優遇されることになるからであった。これに対して、彼は筋の通った考えを持っていて、その年齢と老年のゆえの品位、更に新たに加わった立派な白髪、だれにもまさった幼いときからの生き方にふさわしく、とりわけ神が定められた聖なる律法に従って、毅然とした態度でちゅうちょすることなく、「わたしを陰府へ送り込んでくれ」と言った。「我々の年になって、うそをつくのはふさわしいことではない。そんなことをすれば、大勢の若者が、エレアザルは九十歳にもなって異教の風習に転向したのか、と思うだろう。その上彼らは、ほんのわずかの命を惜しんだわたしの欺きの行為によって、迷ってしまうだろう。またわたし自身、わが老年に泥を塗り、汚すことになる。たとえ今ここで、人間の責め苦を免れえたとしても、全能者の御手からは、生きていても、死んでも逃れることはできないのだ。だから今、男らしく生を断念し、年齢にふさわしい者であることを示し、若者たちに高貴な模範を残し、彼らも尊く聖なる律法のためには進んで高貴な死に方ができるようにしよう。」こう言い終わると、直ちに責め道具の方へ歩いて行った。今し方まで、彼に好意を寄せていた人々も、この語られた言葉のゆえに、反感を抱くようになった。彼らはエレアザルの気が違ったのだと思った。鞭の下で、まさに息絶えんとしたとき、彼はうめき声をあげて言った。「聖なる知識を持っておられる主は、すべてのことを見通しておられる。わたしは死を逃れることもできたが、鞭打たれ、耐え難い苦痛を肉体で味わっている。しかし、心では、主を畏れ、むしろそれを喜んで耐えているのだ。」彼はこのようにして世を去った。その死はただ単に若者ばかりか、少なからぬ同胞の心に高潔の模範、勇気の記念として残されたのである。

 

福音朗読  ルカによる福音書 19:1-10
(そのとき、)イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 

 

 

見えるようにになりたい

年間第33月曜日説教

2019年11月18日、本郷教会

イエスの一行はエルサレムへ向かって旅をしていました。エリコの近くである盲人と出会います。その盲人の名前は、マルコの福音によれと、バルテマイという人でありました。目が見えない、そして物乞いをしていた人であると出ています。

彼はナザレにイエスという人の評判をすでに耳にしていたのでありましょう。彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けて止めようとはしませんでした。イエスはその声を耳にして、その盲人を自分のところに連れてくるようにと言われました。マルコの福音によると、彼は「躍り上がって喜んだ」となっています。イエスは盲人に「何をして欲しいのか」とお訊ねになると、彼は「主よ、見えるようになりたいです」と答えました。そこでイエスは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われて盲人をお癒しになりました。

わたしたちは、もし、「何をして欲しいのか」とイエスに言われたら、何と答えるでしょうか。わたしたちは、肉体の視力は持っていますが、霊的な視力の方はどうでしょうか。本当に「見ても、見てえない」という状態にあるのかもしれないのです。「見えるようになりたい」という言葉の中には、「本当に、神の恵み、神の美しさが見えるようになりたい」という意味を含めることが出来るのではないでしょうか。

目を癒されたこの人はこの後、神を褒めたたえながらイエスに従って行ったのであります。この後この人はどうなったのでしょうか。聖書は何も伝えておりませんが、イエスの出会い、イエスから癒しの恵みを受けた彼は、イエスの弟子としての生涯を送ったのではないでしょうか。

 

第一朗読  マカバイ記 一 1:10-15、41-43、54-57、62-64

 

福音朗読  ルカによる福音書 18:35-43
イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

 

2019年11月19日 (火)

心と体の健康、社会と地球の平和

聖母マリアの土曜日のミサ

2019年11月16日(土曜日)午後2時、本郷教会マリア聖堂

 

今日は聖母マリアのミサをお献げして、わたくしたちの心と体の健康、そして更にわたくしたちの心の平和だけではなく、わたくしたちの住んでいるこの世界、そしてわたくしたちの共通の家である地球の平和を祈り求めたいと思います。

 

今読まれましたヨハネによる福音(ヨハネ19・25-27)をご一緒に味わってまいりましょう。

イエスの十字架の傍らには、女性たちが立っていました。

男性の弟子がどうしていたのかは、はっきり分からない。多くの男性の弟子は、恐怖のあまり逃亡してしまったように思われます。

「その母と母の姉妹」の「その母」とは、聖母マリアでありますが、「母の姉妹」とは誰なのか、ちょっと分かりません。

「クロパの妻マリアとマグダラのマリア」が立っていた。イエスの十字架の上でのお苦しみのご様子を共にしていた三人ともマリアという名前であります。

言うまでもなく母マリアは、わたくしたちがよく知っているとおりであります。

クロパの妻マリアという方はよく分かりません。

マグダラのマリアはよく知られていますが、復活したイエスが最初に会った方が、男性の弟子ではなく、女性のマグダラのマリアでありました。

マグダラのマリアは、「わたしは主を見ました」(ヨハネ2018)と言って、ペトロたち男性の弟子に報告しました。

そこから、マグダラのマリアは「使徒たちの使徒」と呼ばれています。

使徒たちのさらに先にいた人ですから、非常に重要な役割を果たした女性であるといえましょう。

イエスの生涯を見ると、イエスと共に歩み、イエスの使命に参加した女性たちの働きが大きかったということが分かります。

イエスの前の旧約時代においても女性の活躍がありましたが、一般的に女性の役割は非常に低いものとされていたのでありました。

イエスはマリアに向かって、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われました。

そして、それに付け加えて弟子に言われた。

この弟子は、ヨハネ福音書の著者とされるヨハネであると言われています。

「見なさい。あなたの母です。」(

この言葉から、教会はマリアをイエスの弟子たちの霊的な母であり、そしてさらに教会の母であると受け取るようになりました。

第二バチカン公会議において、『教会憲章』が発布されましたが、その中でマリアは教会の模範とされているのであります。

 

今日選ばれた第一朗読についても皆さんとご一緒に思いを深めたい。

イザヤ書十一章であります。

この世界は、弱肉強食と言うべき世界で、強い者が弱い者を支配し、圧迫し、食い物にするというように思われていますが、本来神の造られた世界はすべての存在が神の作品でありますので、それぞれ存在の意味があり、それぞれの存在の間には調和があるはずであります。

その理想をイザヤ書は先取りしてのべているのではないかと思います。

「狼は子羊と共に宿る。」

そういう場面は普段はあり得ないと思われますが、あえてそう言っている。

「豹は子山羊と共に伏す。」

「子牛は若獅子と共に育ち、」

それから人間と動物との間の調和、平和共存を想定されて

「小さい子供がそれらを導く。」

さらに少し先に、

「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」

そのような風景が神の国においては通常である、ということを述べているのではないでしょうか。

「水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。」

主と知るということは、主の御心が行き渡り、そしてそれを行うことが自ずからできているという状態ではないでしょうか。

その次にある「エッサイの根」というのは、何であるか。

エッサイはダビデの父になりますので、ダビデの子孫からメシアが生まれるという預言をここで述べているのかもしれない。

 

今日ご一緒にミサを献げるにあたって、まず自分自身の心と体の健康、そして人との関わりにおける平和、そして大地と人間とのあるべき共存ということを思い、そしてわたくし自身がなにを為すべきか、なにをしてはいけないかということを、ほんのしばらくでも考え、そのためにお祈りを献げたいと思います。

 

 

第一朗読 イザヤ116-9

狼は小羊と共に宿り

豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち

小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみ

その子らは共に伏し

獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ

幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては

何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

水が海を覆っているように

大地は主を知る知識で満たされる。

その日が来れば

エッサイの根は

すべての民の旗印として立てられ

国々はそれを求めて集う。

そのとどまるところは栄光に輝く。

 

福音朗読 ヨハネ1925-27

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 

 

2019年11月18日 (月)

聖母の土曜日のミサ

聖母マリアの土曜日のミサ

2019年11月16日(土曜日)午後2時、本郷教会マリア聖堂

 

今日は聖母マリアのミサをお献げして、わたくしたちの心と体の健康、そして更にわたくしたちの心の平和だけではなく、わたくしたちの住んでいるこの世界、そしてわたくしたちの共通の家である地球の平和を祈り求めたいと思います。

 

今読まれましたヨハネによる福音(ヨハネ19・25-27)をご一緒に味わってまいりましょう。

イエスの十字架の傍らには、女性たちが立っていました。

男性の弟子がどうしていたのかは、はっきり分からない。多くの男性の弟子は、恐怖のあまり逃亡してしまったように思われます。

「その母と母の姉妹」の「その母」とは、聖母マリアでありますが、「母の姉妹」とは誰なのか、ちょっと分かりません。

「クロパの妻マリアとマグダラのマリア」が立っていた。イエスの十字架の上でのお苦しみのご様子を共にしていた三人ともマリアという名前であります

言うまでもなく母マリアは、わたくしたちがよく知っているとおりであります。

クロパの妻マリアという方はよく分かりません。

マグダラのマリアはよく知られていますが、復活したイエスが最初に会った方が、男性の弟子ではなく、女性のマグダラのマリアでありました。

マグダラのマリアは、「わたしは主を見ました」(ヨハネ20・18)と言って、ペトロたち男性の弟子に報告しました。

そこから、マグダラのマリアは「使徒たちの使徒」と呼ばれています。

使徒たちのさらに先にいた人ですから、非常に重要な役割を果たした女性であるといえましょう。

イエスの生涯を見ると、イエスと共に歩み、イエスの使命に参加した女性たちの働きが大きかったということが分かります。

イエスの前の旧約時代においても女性の活躍がありましたが、一般的に女性の役割は非常に低いものとされていたのでありました。

イエスはマリアに向かって、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われました。

そして、それに付け加えて弟子に言われた。

この弟子は、ヨハネ福音書の著者とされるヨハネであると言われています。

「見なさい。あなたの母です。」(

この言葉から、教会はマリアをイエスの弟子たちの霊的な母であり、そしてさらに教会の母であると受け取るようになりました。

第二バチカン公会議において、『教会憲章』が発布されましたが、その中でマリアは教会の模範とされているのであります。

 

今日選ばれた第一朗読についても皆さんとご一緒に思いを深めたい。

イザヤ書十一章であります。

この世界は、弱肉強食と言うべき世界で、強い者が弱い者を支配し、圧迫し、食い物にするというように思われていますが、本来神の造られた世界はすべての存在が神の作品でありますので、それぞれ存在の意味があり、それぞれの存在の間には調和があるはずであります。

その理想をイザヤ書は先取りしてのべているのではないかと思います。

「狼は子羊と共に宿る。」

そういう場面は普段はあり得ないと思われますが、あえてそう言っている。

「豹は子山羊と共に伏す。」

「子牛は若獅子と共に育ち、」

それから人間と動物との間の調和、平和共存を想定されて

「小さい子供がそれらを導く。」

さらに少し先に、

「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」

そのような風景が神の国においては通常である、ということを述べているのではないでしょうか。

「水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。」

主と知るということは、主の御心が行き渡り、そしてそれを行うことが自ずからできているという状態ではないでしょうか。

その次にある「エッサイの根」というのは、何であるか。

エッサイはダビデの父になりますので、ダビデの子孫からメシアが生まれるという預言をここで述べているのかもしれない。

 

今日ご一緒にミサを献げるにあたって、まず自分自身の心と体の健康、そして人との関わりにおける平和、そして大地と人間とのあるべき共存ということを思い、そしてわたくし自身がなにを為すべきか、なにをしてはいけないかということを、ほんのしばらくでも考え、そのためにお祈りを献げたいと思います。

 

 

第一朗読 イザヤ11・6-9

狼は小羊と共に宿り

豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち

小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみ

その子らは共に伏し

獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ

幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては

何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

水が海を覆っているように

大地は主を知る知識で満たされる。

その日が来れば

エッサイの根は

すべての民の旗印として立てられ

国々はそれを求めて集う。

そのとどまるところは栄光に輝く。

 

福音朗読 ヨハネ19・25-27

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 

 

2019年11月15日 (金)

人の子が現れるとき

年間第三十二金曜日 ミサ説教

2019年11月15日(金)、本郷教会

待降節が近づく季節になると、主の再臨についての聖書が読まれるようになります。
今日の福音は、人の子が現れるときに起こることについてのべています。
すでに創世記で、「ノアの洪水」の話、「ソドムとゴモラ」の話が告げられています。
神は、地上に人びとの悪がはびこるのを見て、人びとを滅ぼそうとされました。
ただほんの少数の人、ノアの家族を方舟の中に入れて救われたのでありました。
ソドムとゴモラについても、その罪を訴える声を聞いて、その地の人を滅ぼそうとしましたが、アブラハムの願いを聞き遂げ、ロトとその家族だけは助けた、という話が展開しています。

さて、それではイエスの再臨という出来事は、何をわたくしたちに告げているのだろうか。
待降節は主イエス・キリストの御降誕を迎える準備をする時ですが、同時にこの世界の歴史の終末を思う時であります。
この世界には、まださまざまな問題がある。人間の罪と悪が依然として存在しています。
神は最後のとき、すなわち人の子イエス・キリストの再臨の時ですが、すべての悪を滅ぼしてくださいます。
ミサの「交わりの儀」の時に、司祭は主の祈りの副文で祈っている。
「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、
現代に平和をお与えください。
あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、
すべての困難に打ち勝つことができますように。
わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを
待ち望んでいます。」

――
第一朗読  知恵の書 13:1-9
神を知らない人々は皆、生来むなしい。彼らは目に見えるよいものを通して、存在そのものである方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至らなかった。かえって火や風や素早く動く空気、星空や激しく流れる水、天において光り輝くものなどを、宇宙の支配者、神々と見なした。その美しさに魅せられて、それらを神々と認めたなら、それらを支配する主が、どれほど優れているかを知るべきだった。美の創始者がそれらを造られたからである。もし宇宙の力と働きに心を打たれたなら、天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、それらを通して知るべきだったのだ。造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造った方を認めるはずなのだから。とはいえ、この人々の責めは軽い。神を探し求めて見いだそうと望みながらも、彼らは迷っているのだ。造られた世界にかかわりつつ探求を続けるとき、目に映るものがあまりにも美しいので、外観に心を奪われてしまうのである。だからといって彼らも弁解できるわけではない。宇宙の働きを知り、それを見極めるほどの力があるなら、なぜそれらを支配する主をもっと早く見いだせなかったのか。
福音朗読  ルカによる福音書 17:26-37
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

 

 

2019年11月14日 (木)

神に国は何所に?

年間第32木曜日ミサ説教

2019年11月14日、本郷教会

 

今日の福音でイエスは言われました。

「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』というものではない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

イエスの福音は「神の国」の福音と言われています。「神の国」と「天の国」とは同じことを指していると考えられます。そして、神の国とは、文字通り受け取れば、「神の支配」ということであり、神の御心が行われるということを意味しています。

「神の国」とは何であるのか、ということは、イエスがいろいろな譬えで説明されました。今日の話は、「譬え」ではないかもしれないが、「神の国はあなたがたの間にある」と言われています。「あなたがたの間にある」とはどういうことだろうか。

「神の国」とは人が死んでから行く「天国」というところではない。それではその「神の国」は何所にあるのだろう、という疑問があります。まだ来ていないのか、これから来るのか、来ているとしたらどこにあるのか。

そういう疑問があったのだと思います。その疑問は基本的に同じ事情で現代に、も存在しているかもしれません。

イエスは、ご自分の存在をもって、「神の国」はすでに来た、と宣言しています。

それでは、現在の教会が「神の国」であるかというと、そうとも言えない。確かに教会は「神の国」と深い関係にある。教会は「神の国」が来ていることを表し伝える「しるし」です。「しるし」ですから、「神の国」そのものと完全に一致しているわけではない。「しるし」は、それ自身は「神の国」と一致しないけれども、「神の国」が来ていることを表し伝えるものであります。わたしたち教会の在り方、それは日常のわたしたちの状態、人と人とのかかわり方、人間関係の中に、神の国が現れて来るだろうと思います。わたしたちの弱さ、自己中心性、という問題を思うときに、「神の国」は自分たちから遠いという気がしますけれども、しかし、わたしたちの間には、真実で美しい事柄、現実が沢山ある。それを思うときに、ああ、ここに「神の国」がすでに来ていると思うのであります。

 

――

第一朗読  知恵の書 7:22b-8:1

知恵には、理知に富む聖なる霊がある。この霊は単一で、多様で、軽妙な霊、活発で、明白で、汚れなく、明確で、害を与えず、善を好む、鋭敏な霊、抵抗し難く、善を行い、人間愛に満ち、堅固で、安全で、憂いがなく、すべてを成し遂げ、すべてを見通す霊である。この霊は、ほかの理知的で、純粋で、軽妙なすべての霊に浸透する。知恵はどんな動きよりも軽やかで、純粋さゆえにすべてに染み込み、すべてを貫く。知恵は神の力の息吹、全能者の栄光から発する純粋な輝きであるから、汚れたものは何一つその中に入り込まない。知恵は永遠の光の反映、神の働きを映す曇りのない鏡、神の善の姿である。知恵はひとりであってもすべてができ、自らは変わらずにすべてを新たにし、世々にわたって清い魂に移り住み、神の友と預言者とを育成する。神は、知恵と共に住む者だけを愛される。知恵は太陽よりも美しく、すべての星座にまさり、光よりもはるかに輝かしい。光の後には夜が来る。しかし、知恵が悪に打ち負かされることはない。知恵は地の果てから果てまでその力を及ぼし、慈しみ深くすべてをつかさどる。

 

福音朗読  ルカによる福音書 17:20-25

(そのとき、)ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」

 

2019年11月10日 (日)

わたしの父の家を商売の家、強盗の巣にしてはいけない

病者のために献げる「ラテラン教会の献堂の祝日」のミサ

201911914時、教会の献堂・説教

 

今日わたしたちはすべての人の心と体の健康を願ってミサを献げます。また同時に、この世界、神が造られたこの地球の「健康」、そしてわたしたちの住んでいるこの社会の「健康」をも併せて祈り求めたい。

第一朗読はエゼキエル書という預言書です。エゼキエルという人は、イスラルの民族がバビロンに強制移住させられたころ、バビロン捕囚のころ、神の言葉を伝えた預言者です。今日の箇所はエゼキエルが見た幻視、幻の風景。ヴィジョンを述べています。彼の見た神殿の有様が述べられています。これによると、神殿の敷居の下を水が流れている。この水の流れる所はすべて浄められる。何か(この水は)、現代世界が最も必要としているものかな、と思う。汚れた川、海の水はすべて浄められ、そこに居る生き物はすべて生き生きとされ、そしてその川のほとりに生えている果樹は豊かな果実を実らせる。(これは)環境破壊の現代世界の最も必要な恵みではないかと感じる。

エゼキエルの見たこの幻視は神殿のイメージです。

神殿というのは何であるのか。

イスラエルの民族は何もかも失いバビロンで捕虜の生活を強いられ、辱めと侮り、嘲りを受ける毎日を送っていた。そのイスラエルの民に与えられた慰めと希望がエゼキエル預言となって残っているのです。

今日の福音はエゼキエルの神殿と関連しています。イエスの時代には、ヘロデ大王によって建てられたヘロデの神殿という壮麗な神殿がありました。今日のヨハネの福音が言っているように、46年もかかって建立された神殿であるそうです。その神殿でイエスのしたことは非常に乱暴なことでした。普通、こんなことをしたらたちまち警備員に捕まえられてしまうでしょう。何故イエスがそうしたかと言えば、それは、神殿が「祈りの家」であるべきなのに「商売の家」、「強盗の巣」(マタイ2113)となっていたからでした。境内には神殿で献げる生贄の羊、牛、鳩が売られていました。イエスは縄で鞭を作って、羊や牛をすべて追い出したのです。また両替のお店があったがその台をひっくり返したのです。神殿に貨幣を納めるためには、外国の貨幣では受け付けないのでユダヤの貨幣に替えてもらう必要があったそうですが、その店の金をまき散らした。イエスは神殿の在り方を全部否定するような乱暴な行動をとったのです。イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい(マタイ1129)」と言いながら、反面、このような乱暴で過激な、怒りを爆発させる場面をみせているのです。人間、怒るべき時に怒るのでなければならない。さらにイエスは言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」46年もかかってやっと完成した建物を三日で建て直しとは正気の沙汰とは思えなかったでしょう。しかしイエスが言ったのは三日で復活するということでした。弟子たちは後から、イエスが復活された時に、この言葉、三日で神殿を立て直すと言われたことを思い起こしたのでした。

さて、エゼキエル書とヨハネ福音を通してこの神殿ということが言われております。ここでわたしたちは使徒パウロの言葉を思い起こしたい。パウロは

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(一コリント316)

と言っています。イエスが復活されて弟子たちにご自分の霊である聖霊を注がれました。わたしたちキリスト者も聖霊を注がれた者ですので、わたしたちも聖霊の住む家、つまり神殿とされているのです。

地上を旅する教会は具体的な場所と建物を必要としています。しかしその建物が聖霊の住む神殿の働きをしなければ意味がない存在となるだけでなく、イエスの怒りを招くという反対の結果を引き起こすことになります。立派な建物を建ててもそこに聖霊が働いているのでなければ、聖霊の働きを受けたキリスト者が集まってお祈りをしているのでなければ、その建物にどんな意味があるのでしょうか。日本のカトリック教会はローマ教皇フランシスコをお迎えする直前であります。日本の教会が本当に聖霊の住む神殿であることを証しすることが出来ますように。たしかに聖霊がそこに働いているということを証しすることが出来ますように、祈りましょう。

 

第一朗読  エゼキエル書 47:1-28-912
(その日、主の使いは)わたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 2:13-22
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。

 

 

不正の管理人

2019118日、年間第31金曜日ミサ説教

 

今日の福音のたとえは「不正の管理人」の話です。イエスのたとえにしばしばわたしたちは困惑しますが、きょうのたとえ話もその一つです。とは言え、わたしは、この「わかりにくい」という点が大事だと思います。
イエスは言われた。「不正にまみれた富で友達をつくりなさい。そうすれば、金がなくなったとき、あなたは永遠の住まいに迎え入れてくれる。」(ルカ169)イエスの真意はどこにあるのでしょうか?
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ1613)ともイエスは言われました。富への執着、貪欲を厳しく諌めています。

地上の富というものは何らかの不正にかかわっているのではないでしょうか。大事なことは、自分が預かっている富を神の国のために活かして使う、ということです。決して不正な富自体を認めているわけではありません。
神はすべての人の救いを望んでいます。神は救いの機会をすべての人に与えます。しかし、心にしっかり刻み付けるべきことは、神はそれぞれの人に生涯の責任を問う、ということです。地上を去る時に自分の富で何をしたのか、が問われるのです。心して自分の富を神の国のために使いたいものです。
わたしたちの神は憐み深い神、すべての人が救われることを望み、すべての人にイエスの過ぎ越しの神秘に与る機会を与えてくださる。その神が与えてくださる機会にわたしたちは神への応答をしなければならないのです。その応答の中に、自分に与えられた資産と能力を何のために、どう使ったのか、ということが含まれているとわたくしは思います。
――

第一朗読  ローマの信徒への手紙 15:14-21

 

福音朗読  ルカによる福音書 16:1-8
(
そのとき、) イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

 

めとらず嫁がず

年間第32主日C年

2019年11月10日、本郷教会

第一朗読 マカバイ記 二マカバイ7・1‐2、9‐14

第二朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 二テサロニケ2・16~3・5

福音朗読 ルカ20:27-38

 

説教

教会の典礼暦はまもなく待降節に入ります。今日は、復活についての主イエスの言葉を学びたいと思います。

わたしたちは死んだあと、どうなるのでしょうか。全ての人にとって最も大切な問題であります。わたしたちキリスト者は、死ということを次のように信じている。

「信じる者にとって死は滅びではなく、新しい命への門であり、地上の生活を終わったのちも、天に永遠の住処(すみか)が備えられています。」

死者のためのミサを捧げるときにとなえられる叙唱にある言葉です。

地上の生涯の終わりは死でありますが、死は滅びではない。新しい命へ移されることである。その新しい命は復活の命であります。復活の信仰は、聖書の歴史の中で次第に明らかにされてきました。そして主イエス・キリストの復活と弟子たちへのご出現によって、確固とした信仰としてわたしたちに示されています。

第一朗読は、マカバイ記という、第二正典とも呼ばれる聖書に属している聖書であります。このマカバイ記、マカバイという家の7人の息子とその母親の壮烈な、そして強い信仰に基づく最後の様子がマカバイ記で綴られております。このマカバイ記の中で既に、永遠の命への信仰と希望が表明されています。

今日の朗読から次のような箇所を読むことができる。

「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」

あるいは、「わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」とも言われています。

イエスの時代の宗教の指導者は、祭司たちとそれから、律法学者、そしてファリサイ派の人々でありました。イエスはたびたびこれらの人々と論争しています。今日の場面は、祭司の人たちの中でサドカイ派と言われる人々との論争を告げています。サドカイっていう言葉は、サドクという司祭から来ているという説がありますが、彼らは非常に勢力のある集団で、最高法院の主要メンバーであり、ローマ帝国への協力者でもありました。モーセ五書だけを正典として認めていて、復活あるいは、天使を否定していた人たちであります。その人たちに対してイエスは言われました。「この世では結婚するということはあるが、次の世に入るならば、もはや結婚するということはなく子孫を残す必要もないだろう。」レビラト婚という言葉がございます。旧約聖書で家の財産を確保し、そして引き継がせるために定められたと思われる結婚の制度で、今日の福音にありますように、兄弟と、次々に結婚する女性が出てくるということが想定される。長男と結婚した女性がいたが、子がないまま夫がなくなると次男と結婚しなければならない。三男、次々と同じ女性を妻としなければならないという規則がありました。それをレビラト婚といいますが、そういうことが旧約聖書で決められていることを持ち出して、サドカイ派の人は、だからそんな馬鹿なことはあり得ないので、復活ということはないのであると主張したのでありましょう。

死の向こうに待っている新しい生活は、地上の生活とは全く異なる新しい世界であります。死の関門を通りぬけた人は天使に等しい者となる。天使になるということではないが、天使のようになる。パウロの言葉に依れば、それは朽ちる体が朽ちない体に変えられる。あたかも主イエスの復活のからだ、栄光のからだのように変えられると言っています。

わたしたちは、家族や親戚、友人、知人の葬儀に参加します。そして場合によって火葬場に行って遺体を火葬してもらうわけですが、その時に本当にしみじみと感じ入ることがあります。この体はたとえ火葬にしなくとも、やがて朽ち果ててしまう。それで人生終わりだろうか。わたしたちの信仰によれば、わたしたちには朽ちない、栄光の復活のからだが与えられるのであります。それはこの地上の肉体とは違うので、地上の条件に支配されない状態にある。すぐに見たり触ったりすることができませんが、そのような世界にわたしたちは入る、そういう世界に入れてもらえると信じているのであります。

わたしたちは、地上におりますので、地上というのは場所があって時間があるわけで、場所と時間の中でしか存在できませんが、霊の世界というのは、場所と時間を超えた世界であります。復活したからだというのも、場所と時間に支配されないからだになっているのであります。

 

今日はあらためてわたしたちの信仰、復活への信仰をより確かなものにしていただけるように、お祈りいたしましょう。今日の第二朗読からわたしたちの励ましをいただきたいと思う。

 

主イエス・キリストの復活に与るものとされたわたしたちが、日々聖霊の導きを受け、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者として歩むことができますように。

――

第一朗読  マカバイ記 二 7:1-2、9-14
(その日、)七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。彼らの一人が皆に代わって言った。「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」
(二番目の者も)息を引き取る間際に、彼は言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」
彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、毅然として言った。「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」そこで、王自身も、供の者たちも、苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。
やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。死ぬ間際に彼は言った。「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 二 2:16-3:5
(皆さん、)わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。
終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。

福音朗読  ルカによる福音書 20:27-38
(そのとき、)復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。《「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」》
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

 

2019年11月 7日 (木)

ルカ15章

11月7日年間第31木曜日

 第一朗読  ローマの信徒への手紙 14:7-12
(皆さん、) わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。
「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」
それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

 福音朗読  ルカによる福音書 15:1-10

(そのとき、) 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 

説教

今日の福音はルカの15章です。15章には三つのたとえ話が出ています。そのうちの二つが今日読まれました。もう一つは有名な「放蕩息子」の話であります。

今日の話も、イエスとファリサイ派の人々や律法学者たちに向けて話された話です。イエスとファリサイ派の人々、律法学者たちとの対立の争点、あらそいの元になった点)は一体何であったのかといつも考えさせられます。

今日の二つの話は何を伝えているのでしょうか。

「大きな喜び」という言葉に注目したいと思います。

一匹の羊が見つかった時には、大きな喜びが天にある。

あるいは失われたドラクメ銀貨一枚が見つかったら、神の天使たちの間に喜びがあると告げられている。この「喜び」ということが一番伝えたいことではないかと思います。

「放蕩息子」の方は、途中で気がついて父のもとに帰ろうと決心したわけですが、今日の二つの話は、羊や銀貨が見つけられたという話であり、羊や銀貨が自分から帰るということは出てこないのです。見つけたほうの喜びが述べられているのですが、結果的には見つけられた方の喜びもあったことが暗示されていると思います。

ところで羊の方も銀貨の方も自分が探されているということについては何も言っていない。主体が羊であり銀貨ですから、自分がどういう状態にあるという意識はないのでしょうが、これを人間のことを言っていると考えれば、自分がどれだけ探してもらっているかということに気がつくはずであります。いや、気がついて欲しいのです。人はそれほど必要で大切な存在だということを言っているのではないでしょうか。99匹を置いてでも一匹の羊を探し回る羊飼いの気持ち。あるいはたった一枚の銀貨であっても、何を置いてでも探し回る女性の気持ち。その気持ちというものが天の父の心を表わしていると思われる。そういう神の心に気がつくことが求められているのです。

 第一朗読には、葬儀の時によく読まれる個所が出てきます。その中で次の言葉、「キリストが死にそして生きたのは、死んだ人にも、生きている人にも、主となられるためです」に注目したい。キリストは、生きている人のためだけではなく、死んだ人のためにも、死んでくださった主である、という意味であります。

福音宣教とはイエス・キリストを宣べ伝えることですが、それはイエス・キリストがすべての人のために死んだくださったのであり、それは、すべての人がそれぞれ誰であっても、なくてはならない、かけがえのない大切な存在であるということを伝えること、そのことを理解してもらえるように努めることであ

 

 

2019年11月 6日 (水)

非常識

11月4日、5日、6日ミサ説教

 説教

 11月6日、水曜日の第一朗読ローマ書のなかで使徒パウロは言っています。

「すべての掟は『隣人を自分のように愛しなさい』という掟に要約される。愛は律法を全うする。」

誰しも納得できる教えです。隣人の中には当然、家族が含まれている筈です。

ところが今日の福音では、イエスは言われました。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

分かりにくい教えです。パウロの教えとイエスの教えは矛盾していないでしょうか?整合性がないように感じませんか?

そもそも、聖書の中には一見対立するような、矛盾するような表現がみられることは珍しくはありません。ここではこう言っているが他ではこうも言っている、というように感じる場合があります。

今日の福音で問題に感じるのは「憎む」という言葉です。イエスは家族を憎むようにと教えているのでしょうか。憎むと言えば「ヘイト・スピーチ」を思い出しますが、ここで言っているのは、家族に従うよりもイエスに従うことを優先するように、という意味です。

フランシスコ会の聖書の注によれば、「憎む」は「より少なく愛する」という意味であり、比較級を表わすのにしばしば対立概念である憎しみを用いているのであり、文字通りの日本語での「憎む」ではない、ということです。

イエスは「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」(マタイ10・37)と言っています。家族との係わりは難しい場合があります。しばしばイエスに従うことを妨げる原因となっていることをわたしたちは体験します。イエスに従うためには場合によっては、家族との絆を断ち切りあるいは自分の所有への執着を放棄しなければならないのです。

 イエスの教えは常識には合わないと感じることがあります。例えば一昨日の福音です。

「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

わたしたちはお祝いの席にはお世話になっている人、自分には大切な人、これからお返しをしてくれることが期待できる人を招待しているのです。いわばこの世の習わしである、「等価交換の原則」によっているのです。神の国は等価交換を超えた世界です。

わたしが司教叙階を受ける前に行った黙想でこの譬えをしみじみと考えました。その後司教になってからこのイエスの教えをどのくらい実行したでしょうか。斬鬼の至りです。

 福音とは常識に会わない教えです。

昨日の教えですが、宴会に呼ばれた人はこの世の事に忙しく、畑を買ったとか、牛を飼ったとか、結婚したとかいう理由で招待を辞退しています。このような理由は世間の常識です。福音とは常識を超えた世界です。何を差し置いてでもイエスの招きに応えるということが神の国の福音の招きに応えることなのです。

 

こう考えてみると、福音宣教の難しさ福音自体の「非常識」にあるのかもしれません。

 

 

11月6日 年間第31水曜日

第一朗読  ローマの信徒への手紙 13:8-10
(みなさん、) 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

福音朗読  ルカによる福音書 14:25-33
(そのとき、) 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

1月5日 年間第31火曜日

第一朗読  ローマの信徒への手紙 12:5-16a
(皆さん、わたしたちは) 数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。

 

福音朗読  ルカによる福音書 14:15-24
(そのとき、) 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

 

11月4日 聖カロロ・ボロメオ司教

第一朗読  ローマの信徒への手紙 11:29-36
(皆さん、)神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

福音朗読  ルカによる福音書 14:12-14
(そのとき、イエスは招いてくれたファリサイ派の議員に言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 

2019年11月 3日 (日)

ザアカイの物語

年間第31主日C年


2019年11月3日、本郷教会

第一朗読 知恵の書 知恵11・22~12・2
第二朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 二テサロニケ1・11~2・2
福音朗読 ルカ19:1-10

 

説教

今日の福音は、ザアカイという徴税人の頭の話であります。このザアカイという人は、人々から忌み嫌われていた人のようです。嫌われ者というんでしょうか。 このザアカイにとって、イエスの言葉「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」

この言葉は、文字通り喜びの言葉、福音でありました。
教会の使命は福音宣教であります。福音。喜ばしい幸いなたよりを告げることが教会の使命。人によってどういう言葉が福音であるのかは違ってくるかもしれませんが、このザアカイの場合は「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とイエスが言って下さったことが、福音でありました。
彼は、人々から罪人(つみびと)であるとみなされていた。罪深い男であると言われていた。そのような男のところにイエスがお泊りになる。それは大変光栄なことでもありました。ザアカイは大喜びであった。そして自分の財産の半分は貧しい人に施します。損害を与えていたら四倍に賠償します、とさえ言った。この順番、つまり、イエスから声をかけてもらったということがあって、その結果、ザアカイは非常に喜んだ。喜んで、良いことをすることを即座に宣言した。逆ではなかった。ザアカイが良いことをするので、イエスは「今日あなたの家に泊まりたいと、あなたは良い人だ」と言ったわけではない。

 

知恵の書は、新約聖書に非常に近い内容と年代の書。イエスの到来の直前に成立したといわれている、第二正典に属する書ですが、非常に大切な内容を告げています。
神はお造りになったものを何一つ嫌われない。そして存在するものは全ていとおしまれる。もし存在するものを嫌ったり憎んでおられるのなら、それは矛盾ではないか。そういうものをお造りにならなかったはずだ。ここには、全ての存在は神によって存在している、造られた、という信仰があります。そして特に人間は、神の作品、傑作であるとさえ考えられています。

 

あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。と、書いてある。
ですから、すべてのものに、神の霊が働いている。そして、人間は神の写しというのか、似姿というのか、神ではないが、神の子、神に似たものとして造られている。
その割に、なぜ、われわれは変なことをしているのかという疑問があるのですが…。
神は自分の造ったものを決して退けない、嫌われない、憎まれない。いとおしく思い、そして、慈しんでくださる。このメッセージが福音ではないかと思います。
ザアカイは人から嫌われていた。しかし、イエスをとおして、神の行為「わたしは今日、ぜひ、あなたの家に泊まりたい。」という、イエスの言葉を受けることができたのであります。
人間と人間の関係は、なかなかむずかしくて、ある人のことはどうしても嫌いでしょうがない、ということも有り得る。逆もありますね。誰かから嫌われている、と。理由はよくわからないが、好き嫌いはやむを得ず起こる感情であります。しかし、その時に、神はご自分の造ったものを何一つ嫌われることはない、という言葉は、わたしたちの慰め、励ましになると思います。
人のことを嫌いになるだけではなくて、場合によっては自分で自分を認めにくいという気持ちになることもある。
日本では、この「自死」を遂げる人が多い。
最近、おかげさまで減少してはいますが、若い人、あるいは、子どもでさえも自殺する。どうしてだろうか、と。自分で自分のことを大切に思えないとか、自分で自分のことが嫌になってしまうという動機なのでしょうか。人からいじめられたり、否定されたりすると生きていく力がそがれてしまうからでしょうか。動機、理由は良くわかりませんが、しかし、人間が生きていくためには、だれかから認められ、期待されているということが必要であります。
わたしたちの場合は、人間関係ではむずかしいことがあっても、わたしたちを造られたのは神であり、神はわたしたちをいつくしんでくださる。
たとえ、どんな問題があっても、どんな欠点があっても、人から嫌われても、神は自分の作品を、自分のことですからね、自分でしたことを否定はしないわけであります。それが福音でないかと思うのであります。

 

さて、わたしたちは、地上の教会に属していますが、天上の教会には多くの聖人が憩うていらっしゃる。その間に、浄めの教会があると教会は信じている。
だれが浄めの教会にいるのか、だれが天上の教会にいるのか、わたしたちにはわかりません。わかりませんが、亡くなった方は浄めを受けて、主のもとに受け入れられるとわたしたちは信じている。
きょうは、昨日に引き続き、亡くなった方、帰天された方を想いお祈りをお捧げいたしましょう。
カトリック本郷教会の歴代の主任神父様を思い起こしていただきたい。お名前をお呼びします。
松下義一、平田忠、瀬野勇、柴田真、関戸順一、水谷九郎、内山賢次郎、井手雄太郎。
そして、レイ大司教様、そのほか多くの方が本郷教会のために牧者として働いてくださいました、感謝申し上げます。
そして、皆様ご存じの、直接ゆかりのある、亡くなったご家族、先祖の方、友人、知人、恩人、いろいろな方を思い起し、お祈りを捧げてください。あとで、もしよろしければ、ここで焼香をしてお祈りすることがふさわしいと思いますのでどうぞなさってください。

 

2019年11月 1日 (金)

祝福あれ、貧しい人々!

諸聖人の祭日 ミサ説教

2019年11月1日(金)、本郷教会

 

アジア太平洋戦争が終わって、日本が非常に貧しい状態に置かれた時代に、一人の若い女性がイエス・キリストの福音に接し、イエス・キリストの生き方に倣って、人々の模範となるような美しいしかし短い生涯を献げました。その方はエリザベト・マリア北原怜子(きたはらさとこ)さんであります。

昨日は北原さんの足跡を辿る巡礼をいたしました。

今日はすべての聖人を記念する日です。

わたくしたちはイエス・キリストに出会い、イエス・キリストを信じる者となりました。

その時点ですでに神の子となっています。

地上においては、さまざまな困難・試練がありますが、地上の生涯を終える時に、御子イエス・キリストを直接仰ぎ見ることができるようになると、わたくしたちは信じています。

その時までは、地上においてさまざまな問題・困難・誘惑の中に置かれている。

そういう人びとに向かって、イエスは「あなたがたは、祝福された者である。」と言われました。

「幸いである」という言葉は、「祝福された者」という意味であります。

どういう人が祝福されているかというと、山上の説教においては八か条が宣べられている。

昔の言葉で言えば、「真福八端」。まことの幸いの八か条という意味です。

どうしてこのような人が祝福されているのでしょうか。

そのことについて、いろいろな人がいろいろ解説しています。

教皇フランシスコは、『喜びに喜べ』という教えで、山上の説教、特に真福八端について宣べています。

最初の一か条は、「心の貧しい人々は幸いである」(マタ5:1)という言葉です。

ルカの福音では、「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)となっています。

おそらく、同じことを述べていると思われる。

決して貧困と幸福を同じものであると言っているわけではない。

わたくしたちの教会も、地上から貧困をなくすために戦いましょうと呼びかけているわけであります。貧困と清貧とは、別なことであります。

イエスの周りに集まった人たちは、貧しい人びとでありました。

自分で自分を守ることができない、そのための手段を持っていない、権力や財産あるいは地位・名誉を持っていない無力な人たちであります。

イエス・キリストの教えた「神」は、そういう人びとの「神」であります。神は「そういう人びとの味方である」、「そういう人びとを御自分の幸せに招いてくださる」、「すでに神はあなたがたと一緒にいる」というメッセージでありました。

神の国はすでに来ていることをあらわすために、イエスは病人を癒し、そして悪霊に憑かれた人から悪霊を追放しました。

「心が貧しい」という日本語は良い意味には響きませんが、精神的に問題を抱えている人びとや生きる力が乏しいという人びとのことかも知れない。

「心」と訳されていますが、「霊」という意味であります。ギリシャ語プネウマ、ラテン語でスピリトス、です。

地上で生きることが難しい人びとに、「神さまはあなたのことを良く分かっているよ」、「いつも一緒にいるよ」とそのようにして、慰めた言葉ではないかと思われます。

 

―――

第一朗読  ヨハネの黙示録 7:2-7:4、7:9-7:14
わたし(ヨハネ)はまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」
また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」
すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。

 

第二朗読  ヨハネの手紙 一 3:1-3:3
(愛する皆さん、) 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:1-5:12
(そのとき、) イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 

 

狭い戸口

年間第三十水曜日 ミサ説教

20191030()、本郷教会

 

「狭き門」(アンドレ・ジッド)という小説があります。

今日の福音では、門ではなく戸口となっております。

「狭い戸口から入るように努めなさい。」(ルカ1324)というイエスの言葉が告げられています。

どういう意味だろうか

努力して神から授かった律法をよく学び、実行することによって、戸口を通って神の国に入りなさいという意味だろうか。

聖書全体の教えから言うと、それは誤解であるということになります。

教皇フランシスコは、教会の歴史の中で危険な思想が人びとを惑わしたと言っております。

「人間は自分の努力によって神の救いに与ることができる」という誤った考えであります。

その考えはさまざまに形を変え、未だ教会の中に残っている。

それでは、「狭い戸口から入りなさい」とは、どういう意味なのでしょうか。

狭いか広いかは、どうやって分かるのだろうかとも思います。

何年か前、カテドラルの子供のミサの時にもこの言葉が主題になっていました。

イエス・キリストという入り口を通らなければ、誰も神の国に入ることができない。

これは聖書全体のメッセージから出てくる結論ですね。

イエス・キリストは、神と人との仲介者です。

イエス・キリストに依らなければ、天の父のもとに行くことはできない。

ですから、イエス・キリストを通らなければいけないわけです。

関所があれば、関所を通らないと入れない。

飛行機に乗るときは搭乗口を通らないといけない、パスポートを提示しないといけない、ということになるわけであります。

そうすると、イエス・キリストを通るか通らないかということが、カギになるわけです。

それで、恐らく今日の福音は、イエス・キリストという戸口を通りなさいという話だと思う。

イエスという戸口を通らない人、認めない人、信じない人に向かって言われたのではないだろうか。

人はどんなに努力しても、自分の努力で神の掟を守ることはできないし、神の恵みを受けることはできない。

恵みというのは、一方的に神様から与えられる神の行為であります。

その行為を感謝して受け取るのであって、受け取らない人には神は強制することはしないわけです。

ですから、(戸口が)狭いか広いかは受け取る側の心構え、つまり信仰に因るのであります。

この前の日曜日の福音(ルカ18914)もそういう見方で受け取ると分かるかもしれない。

ファリサイ派の人は、自分がどんなに立派に掟を守っているかということを神様に報告しています。

徴税人の方は、自分はまったく落第であると思っていますので、「罪人のわたしを憐れんでください。」(ルカ1813)と神様に祈りました。

義とされた人、つまり神様から祈りを受け入れられ、神の国の戸口から入ることができるようにされた者は、ファリサイ派の人ではなく、徴税人の方でありました。

 

 

被造物の救い

年間第三十火曜日 ミサ説教

2019年10月29日(火)、本郷教会

 

主イエスは、たびたび「神の国」をたとえによって説明されました。

「神の国」という言葉は、神の支配という意味であります。

神の御心が行われるようになることが、「神の国」であります。

今日の福音では、二つの短いたとえ話が告げられています。

「からし種のたとえ」、それから「パン種のたとえ」です。

「からし種」は非常に小さいもののたとえであります。

神の国は非常に小さいが、やがて成長して空の鳥が巣を作るほどの木になると言っています。

 今日の第一朗読も、神の国と関係のある説明ではないかと思う。

わたくしたち人間は、罪から解放されて永遠の命にはいることを期待している、あるいはすでに永遠の命に移されていると信じていますが、すべての被造物もやがて神の国が完成する時に「滅びへの隷属から解放」(ロマ8:21)される時がくると言っています。

滅びへの隷属からの解放とは、どういうことを言っているのでしょうか。

十二使徒の選び

聖シモン聖ユダ使徒 祝日 説教
2019年10月28日(月)、本郷教会

 

十二使徒の中の二人、シモンとユダを記念する祝日であります。
今日のルカによる福音を読んで感じましたことを二、三申し上げます。
「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」(ルカ6:12)とあります。
一晩中山の中で祈って、そしてその後十二人を選ばれました。
十二人は十二使徒と呼ばれるようになりましたが、イエスが一方的に選んだ人であります。
誰かを選ぶときにはいろいろな方法がありますが、十二使徒の場合はイエスが祈ってその結果ご自分の考えで、聖霊の導きに従って、十二人を指名したというように思われます。
それであるのに、といいましょうか、十二人の中で最後に挙げられている人が、後に裏切り者となったイスカリオテのユダでありました。
ユダはなぜイエスを裏切ったのでしょうか。
聖週間の頃、ご一緒に黙想したいと思います。
その後「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」(ルカ6:17)
非常に多くの人たちがイエスの周りに集まってきました。
イエスの教えを聞くためでありましたが、さらに病気を癒していただくため、汚れた霊を追い出してもらうためでありました。
そして、「何とかしてイエスに触れようとした。」(ルカ6:19)とあります。
触れるだけでイエスから力が出て、すべての人の病気を癒したのでありました。
今日の福音から、イエスという人から力が多くの人に伝わり、人々を癒す力をイエスは持っていたということが読み取れると思います。

 

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