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2019年12月

2019年12月31日 (火)

今年最後のミサの福音の「言は肉となった」

主の降誕第七日 ミサ説教

20191231()、本郷教会

 

今日、2019年最後の日の福音朗読は、「ヨハネによる福音」の冒頭の部分であります。

主の降誕日中のミサの福音朗読と同じ箇所です。

「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハ1:14

わたくしたちが唱える「お告げの祈り」の中に採られている言葉です。

「肉となった」という時の肉は、ギリシア語でサルクスΣαρξと言いますが、わたくしたち人間が持っている肉体と同じ肉体となったという意味であります。

神は目に見えない方ですが、その神がわたくしたちと同じ肉体を持った存在になってくださったというわたくしたちの信仰を、この言葉が端的に表現しています。

この肉体という言葉は、同時にわたくしたち人間がやがて滅び去るものであり、感覚と欲望の主体であるということも意味しています。

わたくしたちの肉体はいずれ滅びる日がきますが、神の子となったわたくしたちは、いつでもどこにおいても神と共に生きる存在であるとされました。

昨日の朗読を思い起こしていただきたい。

「ヨハネの手紙」であります。

「世も世にあるものも、愛してはいけません。」(一ヨハ2:15

「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(一ヨハ2:16)という言葉がありました。

この中に「肉の欲」という言葉あります。

この時の「肉」という言葉と、今日の福音の「肉」は同じサルクスという言葉で表されており、矛盾しているように感じるかもしれない。

サルクス(肉)という言葉自体に否定的な意味は本来ありません。

神の御ひとり子がわたくしたちと同じ肉体となってくださったことによって、わたくしたちの肉体は価値あるものとされました。

ただし、今日の福音が言っておりますように、「世は言を受け入れなかった」のであります。

神の呼びかけであり神の現れである御言葉を受け入れないこの世は、神との関りにおいて大きな亀裂を生じている世であります。

この世にいる人は、神のめぐみによらずに神のめぐみから離れた状態にある場合、自分の肉体の欲望を制御することが出来なくなっている。

そのことを表していると思う。

「肉の欲、目の欲、生活のおごり」という言葉は、神の支配から離れているこの世界の現状を意味していると思います。

使徒パウロは「ガラテアの手紙」(ガラ5)で、肉の業(わざ)ではなく霊の導きによって歩みなさいと言っております。

「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の霊の実りがあるように、霊的な生活をするようにしなさいと勧告しています。

わたくしたちの新しい年が霊の導きに従う一年となりますよう、聖霊のたすけを祈りましょう。

第一朗読  ヨハネの手紙 一 2:18-21
子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。

福音朗読  ヨハネによる福音書 1:1-1:18
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 

 

 

 

 

 

世も世にあるものも愛してはいけません

主の降誕第六日 ミサ説教

20191230()、本郷教会

わたくしたちは毎日「主の祈り」を唱え、

「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」と神に願っております。

今日の第一朗読「ヨハネの手紙」におきまして、次のように言われています。

「世も世にあるものも、愛してはいけません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」

悪というものは、どこから来るのでしょうか。

今日の「ヨハネの手紙」によれば、すべて世にあるものが悪であり、肉の欲、目の欲、生活のおごりがわたくしたちを悪に誘うのであると言っているようであります。

さて、昨日わたくしたちは「聖家族の祝日」を祝いました。

お生まれになったイエスは父ヨセフと母マリアのもとで成長していきます。

彼らは律法の教えに従って、最初に生まれた子イエスを神殿に連れて来て、律法が定めた通り、初子(ういご)として神に献げました。

その時にシメオンという老人とアンナという女預言者に出会った次第が告げられています。

今日の福音では次のように言われている。

「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」

このようにしてイエスは両親のもとで成長し、約30年の期間を過ごして、おそらくヨセフが亡くなった後のことでしょう、神の国の福音を宣教する使命に着手したのでありました。

第一朗読  ヨハネの手紙 一 2:12-1
子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

福音朗読  ルカによる福音書 2:36-40
(そのとき、)アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

 

2019年12月30日 (月)

使徒ヨハネ

聖ヨハネ使徒福音記者 祝日ミサ説教

2019年12月27日(金)、本郷教会

 

使徒ヨハネは「ヨハネの福音」の著者と言われてきました。

最近の学者の研究によると、ヨハネの弟子たちの集団が書いたもので、ヨハネの名前を使って残したものではないかと言われています。

わたくしたちにとっては、どちらでも大した問題ではない。

 

今読んだ福音によると、「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」が登場しますが、このもう一人の弟子がヨハネのことであると伝統的に言われてきました。

ペトロと二人で墓に行きましたが、ペトロよりも先に墓に着いた。

どうしてでしょうね。

彼の方が若くて元気だったからかな。

しかし、ペトロに遠慮したからなのでしょうか、中には入らなかった。

ペトロが先に中に入って、その後この愛する弟子も中に入り、墓がからであることを確認したという証言であります。

ヨハネ使徒が非常に重要な役割を果たしたことに疑いはない。

 

第一朗読は「使徒ヨハネの手紙」でありました。

ヨハネの手紙、あるいはヨハネの福音に頻繫に出てくる重要な言葉があります。

「永遠の命」、「愛」、「栄光」などの言葉であります。

わたくしたちは聞き慣れ、読み慣れているので、この言葉の意味をあまり深く考えないようになっていますが、じっくり考え学ぶべき言葉でありましょう。

 

昨夜の勉強会を思い出していただきたいのですが、「栄光」という言葉は日本語では誤解されるのではないかというような話でしたね。

「栄光」のヘブライ語はカーボードゥと言いますが、第一の意味は「重さ」であり、それを由来として「重要さ」や「力あるもの」「価値あるもの」を表現するようになっていった。

わたくしたちが「栄光」という言葉から受けるのは、「輝かしい」「晴れやかな」というような印象でありますが、それは結果がそうであっても、もともとは「重いもの」という意味だそうです。

 

ヨハネの福音によると、イエスは受難に向かう前に「人の子が栄光を受ける時がきた。」(ヨハ12:23)と言っています。

わたくしたちは復活した時が栄光の時だと思っていますが、十字架にかけられることが栄光の頂点であるというようにも読める。

いろいろなことから、わたくしたちは「神とは何か」、「イエスはどんな人か」ということについて誤解している面もあるのではないだろうか。

「全能の神」という言葉についても、問題を感じていますね。

「全能」と訳してしまうと誤解するのではないかという気がしております。

 

ともかく今日はヨハネ使徒の日であって、ヨハネの福音もしっかり勉強しなければならないと痛感しています。

2019年12月29日 (日)

聖家族のヨセフ

聖家族(祝日 A年)

20191229日、本郷教会

第一朗読:シラ書(シラ3:2-6,12-14
第二朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ3:12-21)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ2:13-15,19-23

 

説教:

きょうは、聖家族の日でございます。

待降節第四主日1222日の福音について申し上げましたが、ヨセフという人の信仰を、わたしたちはきょうも引き続き、より深く学びたいと思います。

ヨセフは、許嫁であったおとめマリアが妊娠したことを知って深く悩みますが、主の天使が夢の中で告げたことを信じて、マリアを妻として受け入れました。きょうの箇所は、さらに、その続きであります。

22日の時も申し上げましたが、ヨセフという人が何を言ったかということが聖書には出てこない。そして、夢の中で天使が告げたことを信じ、受け入れ、即、実行したのであります。これが、非常に、特色となっている彼の生き方ですね。

いま、読んだ箇所でも何と出てきましょうか。「エジプトに行きなさい」、それから、「イスラエルに帰りなさい」、そして、さらに、内容は書かれていませんが、「ナザレという町に住んだ」、ということですね。「子どもとその母親を連れて」という表現が何度か出てきます。
そうしますと、わたしたちは、もちろん、イエス・キリストを信じ、その母マリアを崇敬していますが、(聖家族には)もう一人、ヨセフという人がいるわけで、きょうは、そのヨセフという人が主役になっているわけなのですね。

ナザレというところは、どんなところでしょうか。わたしは昔、バスで通過したので、ゆっくりナザレというところを見る余裕がなかったのですが、聞くところによると、いまは、イスラム教徒のアラブ人が住んでいる場所になっている。もちろん、カトリックの聖堂とか、修道院はありますが、一度巡礼で訪問して、ナザレの聖家族の生活を偲んでみたいなあとつくづく思います。

ナザレで、聖家族ヨセフ、マリア、イエスは、どのように過ごしたのでしょうか。
およそ三十年間と考えられています。この期間、イエスは、何ら目立った行動をしていない。少なくとも『聖書』は何も告げていない。ただ一つ、12歳の時に、神殿を詣でた時の逸話が「ルカ福音書」の中で告げられていますが、それだけです。
普通に、彼らは目立たない生活をしている。おそらく、会堂に通って礼拝に参加していた。まあ、そこが学校の役割を果たしていたのでしょうか、イエスは『聖書』を学んだはずであります。そして、ヨセフは大工をしていたので、父親の仕事を手伝い、父親の教える大工の仕事、技術を身に付けたのでしょう。まあ、大工と言っても、まあ、わたしたちが連想する大工さんではない。どういう仕事かよくわかりませんが、まあ、「便利屋さん」というか、どんなことでも求めに応じて、家屋に関することだけではなく、農具そのほかを作ったりする仕事であったようです。
さて、きょう、わたしたちは聖家族の日を迎えて、何を学ぶべきであろうか、と。

現代のわたしたちの生活から見て、この二千年前の、ローマ帝国の一番端の方にあった「ナザレ」というところで過ごしたこの家族の生活、今の私たちの生活とはかなり違う生活で、そこから何を学ぶべきだろうか考えます。
パウロ六世教皇が、かつて、ナザレを訪問し、そのとき行った説教が残っています。パウロ六世がおっしゃったことを参考にしながら、一緒に考えてみたいと思います。
パウロ六世が最初におっしゃったことは、意外と言えば意外だが、意外でないかもしれない。

「沈黙の尊さを学びましょう」ということです。
既に、パウロ六世はそんなに昔ではないが、かなりもう時間がたっているわけですね。パウロ六世の時代から30年近く、亡くなってもう何年も経ちましたが、彼は言う。

「現代、われわれは非常に忙しく、うるさい生活をしている。わたしたちに必要なのは、沈黙の生活である。静かに、自分の心を見つめ、そして、さらに、神の声に耳を傾けることです。」
「あれもある、これもある。なにやかやで自分を失ってしまう日々を過ごしている。」
先に、何度か言いましたが、教会では、聖堂では、静かに過ごしましょう。いろいろなこと、仕事のことや、そのほかいろいろなことが頭と心に浮かんでくるでしょうけれども、それを一旦どこかにしまって、神様が何をおっしゃっているのか、或いは、自分はいま、どこにいるのか、何をしたら良いのか、何を選ぶのかなど、自分が人間らしく、そして、信者として生きるために非常に大切なことを学び知るための時間、沈黙の時間が必要であります。

二番目、それは、父親の役割、ということです。
いまの教皇、フランシスコ教皇も「家族」について講話をしています。
そして、わたくし自身の拙い経験から思うことです。父親ですね、きょう、ここにお父さんがたくさんいらっしゃいますけれども、父親の役割が非常に大切である。いまの子ども達は、今に限らないが、父親と一緒に過ごす時間が非常に少ない。お父さんが、どこで何をしているのか見えない。
ナザレでは、一緒に生活し、少年イエスは父親が大工の仕事をしている場面を見ているわけで、父親がいつどこで何をしているかということは自ら分かったことでしょう。もちろん、『聖書』には何も書いていないからといって、ヨセフが全く無言で生活したとは言えず、会話もあったことでしょう。

父親は、自分の生活、自分の仕事を通して、生き方、男たるものはどのように生きるのか、どういう困難があるのか、困難にどう立ち向かうのかということを父親は身をもって示すものであります。

いまの時代、日本に限らないでしょうが、「父親不在」が問題だとフランシスコ教皇が言っています。まあ、そうなってしまうには、それなりの事情、理由があるわけです。

父親は、人生がいかに生きることが大変であるかということを子どもたちにも見せないといけない。
わざわざ見せなくても、わかるように生きている。
そして、何をなすべきか、何をしてはいけないかという「父性原理」を生きなければならないのであります。何があっても、どうでもよいということではない。これはこれ、あれはあれとしっかり区別して、自分の人生をしっかりと生きている姿を子どもに示さなければならないと思います。

それに関連して、すぐに思い出すことは、われわれ「司祭」のことであります。
日本では、司祭は「神父」と呼ばれています。以前は「霊父」(れいふ)と言ったのですね。「霊的な父」の意味。「神父」という呼び名は誤解をされますが…。
明治時代になってキリスト教の宣教が許可されたときに、おそらく中国からいろいろなキリスト教、カトリック教会をも輸入した。その中に、「神父」という言葉があった。キリシタンの時代には「神父」という言葉は見られないのです。
この中国語で「神」(しん)という語は「霊的」(れいてき)という意味であるので「霊」(れい)と同じことであります、「霊的な父」。
司祭は「司祭は、霊的な父親である」その父親の役割をどのように果しているだろうか、果たすべきであろうか。

司祭の役割は大きく分けて三つあります。
一つは、祭儀を執行する。いま行っているミサを献げること。
それから、教えを宣べ伝えること。
そして、「牧者」、旧約聖書で言えば「王」の役割であります。
特に、この牧者の役割について『聖書』は、特に『預言書』はしばしば警告をしている。
牧者は羊を養う者である。当たり前です。羊を導き、養い、守るものである。
牧者は自分を養うものではない。自分の利益、自分の名誉を求める者ではない。
必要な時に羊飼いは羊のために命を捨てる。
主イエスがおっしゃっている通りであります。

いま、司祭が、言葉で教えることも大切ですけれども、自分の説いていることを心から信じ、実行しているだろうか、そのことを、深く反省すべきではないでしょうか。

 

2019年12月26日 (木)

クリスマス

主の降誕

2019年12月24日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言 イザヤ 9:1-3,5-6
第二朗読 使徒パウロのテトスへの手紙 テトス 2:11-14
福音朗読 ルカによる福音 ルカ2:1-14

説教

かつて、地中海沿岸を支配していた巨大な帝国がありました。ローマ帝国。皇帝アウグストゥスの時代に、ローマ帝国の辺境の地ベトレヘムというところで、一人の男の子が生まれました。その子の名前は「イエス」と言います。

キリスト教という宗教は、このイエスという人を「キリスト」すなわち「救い主」であると信じる宗教であります。

イエスは、ダビデの子孫であると信じられていました。ダビデという人は紀元前千年頃の人で、そのとき、彼らの民族は非常に栄えておりました。しかし、そのあと、彼らは次第に衰退して行き、そして、大国、北の方にある大きな国、それから南の方にある大きな強い国の間で常に揺さぶられている状態になり、紀元前六世紀のこと、最後に残った「ユダ」という国が滅ぼされ、ユダの国の指導者たち、王を始めとするその家族、宗教の指導者、あるいは、技能を持った人達など、おもだった人が、バビロンに強制移住させられたのであります。
その時の体験は非常に悲惨なものであった。絶望的といってよいような日々を過ごしていましたが、まあ、不思議なことにその人々の間から新しい希望が生まれてきたのであります。
その希望というのは、将来、ダビデの子孫の中から「メシア」と呼ばれる「救い主」が生まれるだろうという希望であります。

そのことを告げる旧約聖書の書物が「イザヤの預言」という書物であり、きょう第一朗読で読み上げられました。

「闇の中に歩む民は 大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」
と、言われております。
闇の中に置かれているような思いで生きていたユダヤの民は、本当に、一日千秋の思いでメシアと呼ばれる救い主が生まれる日を待っていました。

この、イエスと呼ばれる乳飲み子が、その、預言された救い主、メシア、キリストであるということを信じる人々が「キリスト教徒」と呼ばれているのであります。
キリスト教徒にとっては、ですから、救い主が生まれたことは、大変大きな喜びであり、そして、本当にうれしいことでありました。
実際のところ、イエスの生まれた日が何日であったかは、歴史的には限定できなかったと思われますが、教会は、12月25日が生まれた日であるとしまして、その日を盛大に祝うことにしているのであります。

この日を「クリスマス」と呼びますが、クリスマスというのは、読んで字の如く、「キリストのミサ」、ミサというのはイエス・キリストの生涯を記念するキリスト教徒にとって一番大切な共同の祈りであります。
クリスマスだけにミサを挙げているわけではなくて、ミサは毎日献げておりますが、まあ、どうしたわけか、クリスマスのミサが一番人々によく知られるようになったのであります。

クリスマスは救い主キリストの誕生を喜び祝う日である。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               さて、イエスがキリストであり、キリストが生まれた日を喜び祝うということは、キリスト教徒にとっては当然かもしれませんが、外の人々にとって、どういう意味があるのだろうか、と…。

キリスト教徒であるわたしにとっても、外の人々にどういうように話したらよいのだろうかと、毎年考えてきました。

わたしたちがこの世に生まれたということについて、わたしたちはそれぞれどう思っているのでありましょうか。そのこと、自分の誕生、を深く考える日ではないだろうか。

キリストの誕生を祝うならば、だれにでも誕生日はあるわけで、全ての人の誕生を喜び祝うべきではないだろうか。クリスマスに、ナザレのイエスを祝うのであれば、全ての人が生まれたことを喜び祝う日が必要ではないだろうか。

そうすると、一人ひとりの人に、それぞれ誕生日があるわけでありまして、まあ、全員で祝うというわけにはいかないのですけれども、恐らく、ここにおられる皆様、それぞれ、ご家族や友人、知人などによって、誕生日おめでとう、と言っていただいているだろうと思います。深い考えも無しに、お互いに習慣的に言っているかもしれませんが、考えてみれば、あなたが生まれたことは大変良いことだ、うれしいことだ、という意味であります。

そう言っていただけることは大変うれしいことでありますが、この広い世界の中で、だれからもそう言っていただけない方もいるのではないだろうか。そのような現実は存在します。

わたしたちは、この世に生まれてきた全ての人が「この世に生まれてきて良かったね、」と心からお祝いできるようでありたい。

そして、そう言われた人が、「わたしは、この世に生まれてきて良かった、皆さんと出会えてよかった、本当に、私の人生には意味があるし、喜びがあるのだ」と、思っていただきたい。そう思っていただけるように、わたしたちも努めなければならないのではないだろうか。

世界の現実を見ると、いつもそうでありますが、いまの時代の多くの人々は、苦しみ、悶えている。
貧困に、苦しみ、騒乱や、戦争、病気、そのほかさまざまな問題に出会って、本当に生きることが実に大変であるという思いを抱いている人が、決して少なくは無いのであります。

そういう人に、苦しんでいる人に「あなた生まれて良かったね」なんて言ったら、「冗談じゃないよ」と、言う人もいるかもしれない。

わたしたちは、すべての人が、この世に生まれてきて良かったね、と思っていただけるような、お互いの人と人との関係を築いていくべきではないだろうか。それは、全人類の努めであります。

国家を超え、民族を超え、宗教の違いを超え、イデオロギーの違いを超え、お互いにそこにいるあなたが大切な人であり、あなたがそこにいることはすばらしいことだ、と認め合うことが一番大切なことでないだろうか。そのように思えない人々、そのように言ってもらえない人々がいるだろうと思う。

経済的に恵まれた国においても、自分がなぜこの世に生まれて来たのだろうか、という思いを抱いてしまう人がいないわけではない。この日本においても、少なくない人が、自分の人生の意味を見失い、自分の命を縮めてしまう、そういう悲劇が生じているのであります。

きょう、このミサの中で、この後、共同祈願というお祈りを捧げます。二番目の例文をご覧ください。

「争いや、対立の絶えない世界で、人の心に聖霊の息吹を注いでください。平和を目指すあらゆる取り組みが、み心に適うものとなりますように」

聖霊とは、神の霊、神がわたしたちに注いでくださるお恵みのことです。

どうか、わたしたちが、それぞれ、一人ひとりの人が、神さまのみ心に従って命を与えられたのであるということを深く思い、自分自身を大切にし、そして、同時に、日々、出会う外の人も、神様から命をいただいたかけがえのない存在であるということを深く思いながら、平和を建設するために力を合わせようではないかと申し上げたいと思います。

 

人間を優れた者として造られた(主の降誕・日中のミサ)

主の降誕 日中のミサ 説教

20191225()、本郷教会

 

昨夜わたくしたちは、クリスマスの夜半のミサを献げました。

今、主の降誕日中のミサを献げます。

先ほど司祭が皆様を代表して献げましたミサの最初の祈りを思い出していただきたい。

集会祈願

「永遠の父よ、あなたは、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、さらに優れたものにしてくださいました。神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに

神のいのちが与えられますように。」

ミサの集会祈願は、そのミサがどんな趣旨のミサであるか、その日のミサの主題は何であるのかということを、簡潔・適格・正確にあらわす祈りであります。

今日、この祈りをご一緒に味わってまいりましょう。

神は人間を優れたものとして造られました。

創世記は、神がすべてのものを造った次第を述べています。

神は御自分の造られたものをご覧になって、「良し」とされたのであります。

最後の六日目に人間を造られ、そしてすべての被造物をご覧になり、「極めて良い」と言われました。

この世界、そしてわたくしたち人間は、極めて良いものとして造られました。

神の創造のはたらきは、その時に終了してしまったものではありません。

わたくしたち人間は、時間と場所の中でしか存在できませんが、神はすべてを時間のない世界としてご覧になっていると思います。

「極めて良い」と言われたわりにはいろいろな問題がある世界であり、人間でありますが、基本的に神はこの世界全体を、御自分の造られた完成された姿として見ておられ、「極めて良い」と言われました。

造られた被造物の側にいる人間としては、それでもいろいろな問題、不具合のある状況をどう考えたらよいのだろうか。

「神は救いのわざを通して、さらに優れたものにしてくださいました。」

「救いのわざ」、それは御ひとり子イエス・キリストをわたくしたちのところに遣わすということであります。

イエスの誕生こそが、今日わたくしたちが祝っている主の降誕であります。

肉をとる(受肉)という意味で、インカルナチオincarnatio(ラテン語)、インカネーションincarnation(英語)と言っております。

昔の言葉で言えば、御託身であります。

わたくしたちと同じ人間となってくださった、そしてわたくしたち人間を神の子としてくださいました。

わたくしたち人間は、肉なる者であります。

肉なる者という意味は、弱い者、脆い者、そして過ちを犯す者であります。

その人間となってくださったことによって、わたくしたちを神の子の輝きに与る者としてくださいました。

第二朗読「ヘブライ人への手紙」で言われています。

「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れである」

誰も神を見たものはいません。

見えない神を完全に現わし、その姿かたちと生涯を通して天の父をしめしてくださった方がイエス・キリストであります。

ヨハネの福音は、神の御子を神の御言葉ギリシア語でロゴスと呼んでいます。

わたくしたちは、イエス・キリストを受け入れ信じることによって、いわばイエスとまったく同じではないが同じような存在としていただきました。

昔、イレネウスという聖人がおりました。

この方が残された有名な言葉があります。

「神の栄光は人間の中に現れる」

神の栄光、神の輝き、神さまはどんな方かということを人間は直接見ることができない。

そこで神は御自分の大切な御ひとり子イエス・キリストをわたくしたちのところに遣わして、

神さまが人間となった場合にはこういう方ですよということを示してくれました。

ナザレのイエスという人であります。

ですから、神さまがどんな方であるかということは、地上の人間であったナザレのイエスという人が良く完全に現わしていた。

そのイエスが地上を去る時に、御自分の姿をできるだけ人間に伝えるようにしてくださったのであります。

「神の栄光は人間の中に現れる」

わたくしたちは、神の栄光、輝きを受けるものであります。

ただし、自動的に機械的に神の栄光を受けるものとなるのではない。

わたくしたちには、人間の尊厳が与えられ、自分で判断し、自分で心を開くように造られております。

わたくしたちは、自分が神の栄光の現れであるということを信じ、神にむかって心を開かなければならない。

ロボットではありませんので、何もしないで機械的に神の子となるわけではありません。

「神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに神のいのちが与えられますように。」と祈りました。

当然のこととして省略されておりますが、神のひとり子が人となられたことを「信じる」ことによって、神のいのちが与えられます。

信じるということを、わたくしたちは求められている。

信じるか信じないかは、ほかの人が代わりにすることができることではない。

このわたくしが、信じるか信じないかを決めるのであって、ほかの人には代わることができないのであります。

ヨハネの福音は、毎年「主の降誕日中のミサ」で読まれます。

そこで言われておりますことを、今一度振り返ってみましょう。

「初めに言(ことば)があった。」で始まりますね。

この「言」は、「光」であった。

光は、光を受け入れる人にとって救い主である。

闇の中に輝く光としてイエスは来てくださいました。

イエスを光として受け入れる人には、つまり自分を受け入れる人、その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた。

光という言葉が大切であると思います。

ミサの時に唱える信仰宣言の中に、「光からの光」という言葉があります。

光のおおもとは、父である神であります。

その光から出て来た光が、御子イエス・キリストであります。

さらにその光を受けている人びとが、わたくしたち教会である。

教会というのは、わたくしたち一人ひとりでありますが、わたくしたちは自分で光ることはできないわけです。

光を受けて、その光を以って、周りを照らすわけであります。

ですから、いつも光を受けるように努めなければならない。

光源体というのでしょうか、そのもの自身から光が出てくるものではない。

わたくしたちは脆い弱いものに過ぎませんから、光をいただいて、その光を以って周りを照らすというものであります。

第二バチカン公会議の中で、「教会憲章」(1964)という重要な教えが発布されましたが、その教会憲章は「諸国民の光」(ルーメン ジェンティウムLumen Gentium)という言葉で始まっています。

諸国民を照らす光はイエス・キリストであり、そのイエス・キリストから光を受けているわたくしたちは教会であると教えているのであります。

期するところ、光であるイエス・キリストの光をどのようにして受けたらよいのだろうか、どうしたら光を受けることができるのだろうかというところに、わたくしたちの課題は集約されるのであります。

皆様お一人おひとりが自分にとって光を受けるというのは、どういうことであるのかをお考えいただきたい。

それではもう一度、本日の集会祈願を唱えます。

「永遠の父よ、あなたは、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、さらに優れたものにしてくださいました。神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに神のいのちが与えられますように。アーメン。」

 

 

 

 

2019年12月24日 (火)

正しい人ヨセフ(待降節第4主主日)

待降節第4主日説教

2010年12月22日、本郷教会

きょう、待降節第四主日は、「お告げの祈り」と深く結びついています。先ほど、ミサの始まる前に、「お告げの祈り」をいたしました。そのとき、最後に祈願を唱えます。

「神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを知ったわたしたちが、

キリストの受難と十字架をとおして復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。」

この祈りは、わたしたちの信仰を要約している内容であります。

おとめマリアが天使ガブリエルから受けた神のお告げを、このお告げを信じ、そして、

「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」

と、神の子の母となることを受諾いたしましたので、わたしたちは同じ人間となって下さった救い主イエス・キリストをお迎えすることができるのであります。

イエス・キリストは受難、十字架を経て、復活の栄光に入られました。

イエス・キリストに従うわたしたちも、復活のよろこびに入ることができると信じています。

これが、わたしたちの「信仰の要約」といってよいでしょう。この信仰を、日々、新たにするように教会は勧めております。

お告げの祈りはいつから始まったのでしょうか。朝・昼・晩の1日3回、お告げの鐘とともに唱える、伝統的な教会の祈りです。注1

「お告げの祈り」は、おとめマリアの信仰に倣う祈りですが、きょうの福音はヨセフの信仰について述べており、その信仰に倣うようにと勧めております。

マタイによる福音は、ヨセフが、苦しみの内にも主の天使が夢を通して告げられたお告げを信じたことによって、マリアは無事に男の子を産むことができたと伝えています。

このヨセフという人は「正しい人」であったとされています。

全く、自分の身に覚えがないにもかかわらず、許嫁であったマリアが妊娠するという出来事に直面し、非常に苦しんだ。その、苦しんでいる様子をあらわしているのでしょうか、東京カテドラルの庭に、「ヨセフ像」が建っています。確か、「受け容れるヨセフ」という銘が刻まれていたと思います。

「受け容れる」というのは、「天使のお告げを受け容れる」という意味なのか、それとも、その前にマリアの妊娠を知った時に、「その事実を受け容れようとしていた」のか分かりませんが、ともかく、苦しみの内にマリアを信じて受け入れようとした一人の男の姿が現れている。

ヨセフという人は、非常に誠実で、寡黙な人であった。聖書の中にヨセフの発言というのは一言も記されていないのですね。ヨセフはこう言ったということは出ていない。
そして、「不言実行の人」というのでしょうか、夢の中で天使から告げられたことを信じて、すぐに実行する。主の天使というのはどの天使かは書いていませんが、同じガブリエルだったかもしれませんけれども、「夢の中で告げられたこと」を信じ受け入れました。

さらに、思い起こしてみれば、彼は、イエスが生まれたすぐその後ですね、ヘロデ王が「生まれた子供を全員殺すように」という命令を出したわけであります。
その時も夢の中で、彼は天使のお告げを受けた。「幼な児を連れてエジプトに避難しなさい。」

彼は、夢を見ると、すぐ起きて、夜のうちに、妻と子どもを連れてエジプトに逃げて行ったと出ているのであります。さらに、ヘロデが死んだ後のことも、夢の中で、「危険は去ったから、帰っていいよ」というお告げを受けて、ナザレに住居を定めたと出ております。

このヨセフの地味な生き方は、教会の歴史の中で次第に多くの人の崇敬を集めるようになりました。

いまの教皇の前の教皇ベネディクト十六世は、引退される直前でありましたが、ミサの奉献文の中にヨセフの名前を挿入するようにという決定をして、全世界に通達しました。ですから、いま、すべての司祭はミサの奉献文の中に「ヨセフ」の名前を入れているのであります。

マリアの信仰が偉大であることは言うまでもありませんが、ヨセフの信仰があったので、「主の受肉」「ご托身」が実現したと言っても過言ではありません。

次の日曜日、主の降誕を挟んで「聖家族」の祭日となっております。その時にさらに、ヨセフという人の信仰について、いま一度、心を向け、この信仰をわたしたちの生活の中に生かすようにしたいと思うのであります。

 

注1 大天使ガブリエルがマリアに救い主の母となることを告げた(受胎告知)ことを記念して唱える祈り。一日に3回、朝6時、正午、夕方の6時に唱えます。Angelus Domini nuntiavit Mariae (主の天使がマリアに告げた)というラテン語の冒頭のことば「天使」に基づいて「アンジェラスの祈り」とも呼ばれています。またこのときに鳴らされる鐘をお告げの鐘(アンジェラスの鐘)と呼んでいます。この習慣は、13-14世紀頃に始まったといわれています。復活節中(復活の主日から聖霊降臨の主日まで)は、このお告げの祈りの代わりにRegina caeli laetare alleluja(天の元后、喜びたまえ、アレルヤ)を唱えます。
バチカンでは教皇が正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を唱えています。(カトリック中央協議会のホームページより)

 

2019年12月21日 (土)

12月21日、雅歌とマリア、エリサベト

病者のためのミサ(12月21日) 説教

2019年12月21日(土)、本郷教会

 

主イエスの御降誕を直前に控え、今日わたくしたちは、その喜びを予め分かち合うミサを献げます。

今日の第一朗読、福音朗読をご一緒に分かち合いましょう。

 

第一朗読では、雅歌という旧約聖書の書が選ばれています。

雅歌という書は、歌の中の歌Song of Songsという原題がつけられていて、最も素晴らしい最も美しい歌という意味であります。

今お聞きになりましたように、若い男女がお互いに恋する相手との交わりを喜び、そして分かち合うという内容になっている。

どうしてこのような内容の書が聖なる聖書の正典になっているのかという論議がありました。

雅歌を通読すると、神とか主という言葉はまったく出てこない。

若い男女間の健やかな微笑ましい愛の物語であります。

そこで、この話をいわば一つのたとえとして受け取って、神とイスラエルの民の間の愛の関係を述べているという解釈もあるし、そのほかの似たような解釈も行われたそうであります。

他方この雅歌を文字通り受け取るべきであるという見解もある。

紀元90年のことですが、聖書のどの巻物を正典と認めるべきかということを決定する会議があったそうです(イエス・キリストよりかなり後のことですけれども)。

そこでラビ・アキバという人物が、雅歌は非常に聖なる書であると強く主張した結果でしょうか、正典になったそうであります。

若い人たちの間に、このような互いに愛し合う関係があるということは、神さまが喜ぶことであるという解釈なのでしょうか。

なぜ聖なるかについては、論議があるそうです。

 

福音朗読、「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。」

「そのころ」というのは、昨日の朗読に続いて述べていて、不妊の女と呼ばれていたエリサベトが神様への願いが通じたからでしょう、子供に恵まれて妊娠しました。

六か月経っていたとあります。

マリアとエリサベトは親類なのでしょうか、以前からの知り合いであり、マリアは躊躇なくかなり距離のあるエリサベトの家、すなわちザカリアの家まで出向いている。

距離がどのくらいあって、交通手段がどうであったのか何も説明はないですけれども、身軽に急いで出かける少女の姿を思いますと、何となく聖母マリアとしてわたくしたちが考えてる女性とは違う姿が浮かんできます。

このマリアの挨拶に対し、エリサベトとエリサベトの胎内にいた洗礼者ヨハネが聖霊によって呼応しているわけです。

ここに本当に健やかで清々しい、神を信じる人の世界が描かれているように感じます。

このクリスマスの直前の雅歌とルカの福音は、主イエス・キリストを迎える準備をするわたくしたちの心を、そちらの方に向けるために相応しい朗読の箇所ではないかという気がいたします。

 

ところで今日は「病者のためのミサ」ですので、すべての病気の方の回復を願いましょう。

そしてさらに、わたくしたちが自分自身を含めて、神さまが本来与えてくださったはずの健やかな状態に変えていただけるよう、あるいはもっと健やかな自分にしていただけるようにお祈りしましょう。

皆様は、ご自身のご家族・友人・知人・教会のお友達で病気になっている方、手術を受けている方のために本当に良い奉仕をしてくださっていることを知っております。

感謝申し上げるとともに、そのような働きを主イエス・キリストが喜びのうちに受け入れてくださることを信じます。

わたくしたちにはそれぞれ家族がいます。

その家族の一人ひとりの健やかな日々のためにお祈りしたい。

そして、地上の生涯を終えて主のもとに旅立った方々の永遠の安息を願って、この御ミサをお献げいたしましょう。

――

第一朗読  雅歌 2:8-14
恋しい人の声が聞こえます。山を越え、丘を跳んでやって来ます。恋しい人はかもしかのよう、若い雄鹿のようです。ごらんなさい、もう家の外に立って、窓からうかがい格子の外からのぞいています。
恋しい人は言います。「恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。
岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ、姿を見せ、声を聞かせておくれ。お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。」

福音朗読  ルカによる福音書 1:39-45
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 

2019年12月20日 (金)

サムソンと洗礼者ヨハネ

降誕六日前 ミサ説教(12月19日)

2019年12月19日(木)、本郷教会

 

今日はイエスの誕生の六日前の日にあたります。

今日の第一朗読と福音朗読は、それぞれサムソンという士師の誕生と、洗礼者ヨハネの誕生について語っています。

この二人の誕生には共通の点が見られます。

それぞれの母親は不妊の女であった。

イスラエルの伝統の中で、その当時女性が不妊であるということは、たいへん不名誉なこととされておりました。

子どもができない女性は、非常に後ろめたい思いをしなければならなかった。

そのような女性に子どもが生まれるということは、大きな喜びであったことでしょう。

サムソンの母親の場合は、子どもがナジル人として神にささげられたのであります。

ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないようにして、妊娠中の期間を過ごすようにということが天使から告げられている。

そして、サムソンは士師記に出てくる英雄の一人として大活躍するわけですが、その力の秘密は、生まれてから一度も頭にかみそりを当てられたことがない、というところにあったのであります。

そして、洗礼者ヨハネの誕生の場合は、父親は祭司のザカリア、母親はエリサベトであります。

生まれた子ヨハネはどういう人であるかというと、ここにありますのは、

「彼は主の御前に偉大な人となり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」となっていますので、主イエスの先駆者としてイスラエルの民を父である神のもとに立ち帰らせるという役割を果たす人でありました。

二人の誕生は母親の強い思いと信仰に深く関わっていたことを思わされる。

答唱詩編を見ますと、

「あなたはわたしのからだをつくり、

  母の胎内でわたしをかたち造られた。

 わたしを造られたあなたのわざは不思議。

  わたしは心からその偉大なわざをたたえる。」

となっております。

 

わたくしたちの誕生も、母が受胎した時から神の計らい、神のめぐみのもとにあることを思い起こすべきでありましょう。

さらに今日の福音から思いますことは、ザカリアは天使のお告げを信じることができなかった。

おとめマリアは同じ天使ガブリエルの言葉を受け入れて、「わたしは主のはしためです。

お言葉通りこの身に成りますように。」

受託の返事をしたのでありました。ここに神のお告げを信じることの大切さと難しさが現れています。

 

ヨセフの苦しみ

降誕七日前 ミサ説教(12月18日)

2019年12月18日(水)、本郷教会

 今日はエレミヤの預言が読まれました。次のように言われています。

「それゆえ、見よ。このような日が来る、と主は言われる。人々はもはや、『イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる』と言って誓わず、『イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる』と言って誓うようになる。」(エレ23:7-8)

この預言は明らかにバビロン捕囚と捕囚からの解放、エルサレム帰還のことを指しているように思われます。

 イスラエルの歴史の中で、紀元前六世紀に起こったユダヤの国の人たちの、バビロニアへの強制移住とその後の70年間の生活が、イスラエルの歴史に非常に大きな影響を与えました。

その体験の中から旧約聖書が生み出されたと学者たちは言っています。

そしておそらく、出エジプト記はバビロン捕囚の頃に編集されて成立したのであって、バビロン捕囚と帰還、そして出エジプト記の記述が重なっているのではないかという話を聞いたわけであります。

 今日のマタイによる福音は、おとめマリアと許婚であったヨセフがマリアの妊娠の事実を知って非常に苦悩したという物語であります。

ヨセフは夢の中で天使のお告げを受けた。

「マリアの妊娠は聖霊によるものであるからマリアを妻として受け入れなさい。生まれる子はすべての人の救い主となる。」というお告げがあった。

夢の中のお告げというものを、ヨセフは信じて受け入れたのであるとマタイが言っている。

ヨセフに対する崇敬が広まり、引退された先代の教皇様であるベネディクト16世教皇が、確か引退する直前に、ヨセフの名をミサの奉献文に挿入するようにという決定を、全世界に通達したのでありました。

カテドラルの庭、祭壇から真正面の西側の隅、隣家との境目にヨセフの像が立っておりまして、「受けとめるヨセフ」と銘が入っております。

天使の声を苦しみの内に、信仰の内に、受け止めようとしているヨセフの姿を表したものでありましょうか。

 

 

2019年12月17日 (火)

タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリア

降誕八日前 ミサ説教

20191217()、本郷教会

今日は御降誕の八日前の日になります。

今日の福音は「マタイによる福音」の冒頭の部分であります。

イエス・キリストの系図が読み上げられました。

合わせて十四代の三倍ですから、四十二代の先祖たちの名前が挙げられています。

この四十二代の人びとの中に四人の女性の名前が出てきます。

タマルという人です。

ユダはタマルによってベレツとゼラを生んだ。

ユダはユダ族の祖先であって、ユダヤ人という名前もここから来たのでしょう。

今日の第一朗読「創世記」は、ヤコブがユダを祝福したくだりである。

しかしこのユダは嫁にあたるタマル、息子の妻のタマルをそれとは知らず遊女であると思って、タマルと通じて子供を作っているわけであります。創世記38章。

二番目の女性はラハブ。

ラハブは、イスラエルの民がエリコに侵入した時にイスラエル軍を手引きして、ラハブの一族を救済してもらったということがヨシュア記の2章に出ている。

このラハブの子がボアズ、そしてボアズがルツと結婚し、ルツの孫にあたる人がエッサイ、エッサイの子がダビデという系図になっているわけですね。

それから、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」となっておりますので、ダビデは部下のウリヤの妻バテシバと通じて、のちに妻にし、ソロモンをもうけています。

最後にマリアの夫ヨセフが登場する。

「イエスは約束されたメシアである」ということを証明するために、マタイによる福音は長い系図を述べているのでありましょう。

イスラエルの救いの歴史は、同時にイスラエルの人びとの罪の歴史でもありました。

 

何の権威で?

待降節第三月曜日 ミサ説教

20191216()、本郷教会

 

昨日の待降節第三主日の福音におきまして、イエスは「洗礼者ヨハネは女から生まれた者の中で、最も偉大な者である」と言われ、しかし「天の国では最も小さな者でも、ヨハネよりは偉大である」とも言われました。

不思議な言葉であります。

洗礼者ヨハネが誰であるのかということは、彼らにとって大きな問題であった。

祭司長や民の長老たちは、ヨハネの権威を認めることができなかった。

もし認めれば、自分よりも遥かに偉大な者であるとヨハネが示したナザレのイエスの権威を認めなければならなくなるからではないでしょうか。

祭司長、民の長老、律法学者やファリサイ派の人びと、これらの人びとは当時のユダヤの国の宗教的指導者であるだけではなく、政治的指導者でもありました。

彼らはイエスの権威を認めることができなかった。

認めようとしなかった。

イエスが数々の力あるみわざを行い、神の言葉を告げ知らせたにもかかわらず、イエスを排斥するようになったのであります。

神殿を拠点とする祭司長たち、そして最高法院という支配の機関に属する人たち、律法を拠り所とする律法学者やファリサイ派の人びと、そのような人たちの旧体制は、イエスの出現によって少しずつ壊されていき、紀元70年にエルサレムの神殿が破壊された時に彼らの支配の体制は完全に崩壊したと言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

イエスの弟子

宣教・福音化のための土曜日のミサ説教

20191214()、本郷教会

 

イエスは復活ののち、天に昇られるときに弟子たちに命じて言われました。

「全世界に行き、すべての人をわたしの弟子にしなさい。」

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ28:19-20

わたしの弟子をつくりなさいと言われました。

キリストの弟子であるかないかはどこで分かるのでしょうか。

教会という組織に所属していればキリストの弟子と言えるかというと、必ずしもそうではない。

教会に所属していないからキリストの弟子ではないと言えるかというと、それも必ずしもそうではない。

キリストの弟子であるかないかは、その人がどのように生きているかどうかによって決められるのであります。

ではどのようにしている人がキリストの弟子であり、キリストの弟子でないのかというと、今読んだマタイの福音の25章がその基準であると考えられる。

4回も繰り返し言われているわけであります。

「飢えている人に食べさせる。のどが渇いている人に飲ませる。裸の人に着せる。寝るところがない人に寝る場所を用意する。病気の人、牢にいる人を訪ねる。そういうことをしているか、していないかによって、キリストの弟子であるかないかが判定されると言っています。

4度も繰り返し言われているのであります。

これらは体を使っておこなう良いわざですが、同時に心を込めておこなう良いわざでもなければならない。

「肉体的ないつくしみのわざ」と「精神的ないつくしみのわざ」があると教皇フランシスコが言っております。

人間は本来善であるのか悪であるのかという論争があります。

性善説と性悪説と言います。

誰でも困っている人苦しんでいる人を見れば、そこで会議を開いてどうするかを決めるわけではありません。

何かしてあげたいと出来ることはすぐに実行するわけであります。

ですから人は本来良いことをする者であると言えましょう。

それは人間であれば誰の心にもすでに存在している良いことをしようという思いであります。

エレミヤの預言という旧約聖書では、「神様は人間の心の中に何を為すべきか、ということを教える掟が刻まれている」と言います。

外にある掟が人を規律するということよりも、誰でも心の中にある良心という良い心があって、その良い心に促されて、今自分が直面している,困っている人、苦しんでいる人のために出来ることをするのが人間であります。

たとえ組織としての教会に属していても、傍に苦しんでいる人がいるのに何もしないという場合があれば、教会には関係していないが、自分が出会う、苦しんでいる人飢えている人のためにできることを喜んでしますという人はたくさんいるわけであります。

イエスが言われたのは、教会をつくって教会のメンバーを増やしなさいということではなかった。

「わたしの弟子をつくりなさい」

わたくしたちは教会に所属していても、イエスの弟子であるかどうかを反省しなければならないことでありましょう。

 

頑な心

待降節第二金曜日ミサ説教

20191213日、本郷教会

 

「打ち砕かれた心をいやすために遣わされた主よ、あわれみ給え」と開祭の祈りで唱えました。「打ち砕かれた心」とはダビデが罪を痛悔した時に神に祈ったことばであります。(詩編51でダビデは〈神よ、わたしのささげものは打ち砕かれた心。あなたは悔い改める心を見捨てられない〉と祈りました。教会の祈りの第二金曜日朝の祈りより)

人の心は頑なでなかなか神の言葉を聞き入れようとはしないのです。

旧約聖書は紀元6世紀のバビロン捕囚という、非常に悲惨で絶望的な状況の中で生まれ編纂されました。イスラエルの人々はそのような体験,言わば〈底突き体験〉をして、やっと彼らの目が開かれたと言えるのでしょう。バビロン捕囚から解放されて、エルサレムへ帰還することが許可されましたが、そのままバビロンに留まった人も多数おりました。出エジプトという旧約聖書の書はこのバビロン捕囚と帰還の話を下敷きにしているのだそうです。(昨夜の太田道子さんの話から。)

人間とは厄介な存在あり、自己のとらわれから解放されて自立することが難しいのだということを強調するために作られた物語である、というように解釈されます。人は神でない他の何かに囚われ、それに依存してしまうと、神の呼びかけに心を開かないのです。今日の福音も同じことを言っているのかもしれない。洗礼者ヨハネの呼びかけにも、人の子イエスの呼びかけにも人々は応えようとしなかったのであります。ヨハネについては、悪魔にとりつかれていると悪口を言い、イエスについては、大飯ぐらいで大酒飲み、徴税人や罪人の仲間だと、悪口を言ったのでありました。

わたしたちはどんな囚われを持っているでしょうか。今年の待降節はその点を良く反省したいと思います。

 

 

 

第一朗読  イザヤ書 48:17-19
イスラエルの聖なる神、あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる。わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように恵みは海の波のようになる。あなたの子孫は砂のように、あなたから出る子らは砂の粒のように増え、その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもない。

 

 

福音朗読  マタイによる福音書 11:16-19
(そのとき、イエスは人々に言われた。)「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 

 

 

イエスの到来

待降節第2木曜日ミサ説教

2019年12月12日

 

待降節で大きな役割を果たす人は洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネはイエスが生まれるまでの救いの歴史の中でもっとも偉大なものであった、と今日の福音が告げています。さらにイエスは言われました。

「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。・・・実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。」

ヨハネの時から全く新しい時が来るのであると今日の福音が言っていると思います。このイエスの言葉をしばらく黙想したい。

すでに最近のミサ説教で申し上げましたが、ヨハネはエリヤの姿を彷彿とさせる人でありました。エリヤは激しい預言活動をした人であり、神の怒りを表し伝える人であったと言えましょう。彼はらくだの毛衣を着、革の帯を締め、荒れ野で、一人で生き、はちみつとイナゴを食物としていた、という、非常に禁欲的な生き方をしていました。

それに対してイエスは、人々と生活を共にし、罪人と交わりを持ち、ヨハネとは対照的な生き方をした人でした。

このイエスの到来は旧約の時代から新約の時代への移行を示しています。その橋渡しをした人が洗礼者ヨハネであります。

それではイエスによってもたらされた天の国(神の国)の新しさとは何であるのか。

イエスの生涯は復活という出来事によって完成しました。今は待降節で、イエスのご誕生の準備をしておりますが、イエスのご誕生から復活にいたるイエスの生涯がわたしたちにとってどのような新しさを意味しているのか、をわたしたちなお考え、祈り求めたい。

わたしたちが日々新しく生まれ変わるためには、精霊の助け、精霊の照らし、精霊の導きが必要であります。今年の降誕祭にわたしたちもそれぞれ何らかの意味で新しく生まれ変わることができますように祈りましょう。

――

第一朗読  イザヤ書 41:13-20

福音朗読  マタイによる福音書 11:11-15
(そのとき、イエスは人々に言われた。)「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。」

 

 

来なさい、疲れている者

降節第二水曜日 ミサ説教

20191211()、本郷教会

 

この本郷教会の掲示板には今日の福音のお言葉が掲示されています。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28

何年か前のことですが、わたくしはカテドラルから毎月一回、この本郷教会に歩いて通ってお話をしておりました。

ここに来る途中もう教会が近いなあと思われる頃、不忍通りに面した右側にルーテル教会があり、その教会の看板にも同じ言葉が出ておりました。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」

多分、多くの教会がこのイエスの言葉を掲げているのではないだろうか。

教会がこの言葉を人びとに示しているということは、教会自身がこの言葉を大切に思い、そしてこの言葉をイエスに代わって、あるいはイエスと共に実行するということを世間に宣言していることになると思うのです。

わたくしたちはこの言葉をどう受け取り、どう実行しているでしょうか。

昨日から今日にかけて、今日のミサの言葉を読みながら自分自身の現状を見て、自分は一体

この言葉をどういうように受け止め、どういうように実行しているのかなあと考えさせられております。

 

今日の第一朗読はイザヤの預言の40章です。

わたくしたちは今、イザヤ書の勉強をしております。

40章からは第二イザヤという部分であります。

 う随分昔のことになりますが、イザヤ書を読んだ時に40章のこの箇所の言葉にたいへん深く心が惹かれました。

 毎年待降節第二水曜日になると、この箇所が出てくるわけですね。

 司教になる時にモットーを決めるのですが、この言葉を採用したかったのですが、長いのでこの言葉の中からほんの短い言葉「主に望みをおく人」を選びました。

  いろいろな人を見、自分自身の現状を見て、そして本当にこの世界は大変な状態にあるから、人間というものは疲れたり失敗したり病気になったり老いて、やがて最期の時を迎える。

 そういう中で「主に望みをおく人」として歩むというのはどういうことだろうか。

 太田道子さんの勉強会でわたくしたちは学んでいますけれども、イスラエルの民はバビロン捕囚というたいへん悲惨というか、絶望的な状態に置かれたと聞いております。

 そういうような状況で紀元前6世紀にたいへん不思議なことですが、そういう人びとの中から生まれた信仰。

 イザヤ書の40章は、イザヤという人自身によるものではないそうですけれども、それはどうでもよいことで、絶望的と言われる状況の中で信仰を新たにする、神から見捨てられてしまったのではないかというような気持ちになっている人にむかって、「なぜそういうことを言うのか」「あなたは知らないのか」この言葉にイスラエルの人びとは支えられて希望を新たにして、さらにメシアの到来への思いを強くしたのでありましょう。

 「主に望みをおく人」として歩んでいく、残りの人生を自分の選んだ言葉の通りに生きたいと思います。

 

 

 

喜びの主日

待降節第3主日A年

2019年12月15日、待降節黙想会の日、本郷教会

 

第一朗読 イザヤの預言  イザヤ 35・1‐6a、10

第二朗読 使徒ヤコブの手紙 ヤコブ5・7-10

福音朗読 マタイによる福音 マタイ11・2-11

 

説教

今日、待降節第三主日は昔から『喜びの主日』と呼ばれています。

主イエスのご誕生を喜び迎える日を準備する日として、降誕祭の前に既に喜びを分かち合いましょう、そういう日であります。

 

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

 

イザヤ書の言葉であります。イザヤの預言は紀元6世紀、イスラエル、ユダヤの民がバビロニアに強制連行された時の苦しい体験の中から生み出された預言書であります。彼らは、その、いわば絶望的と言われる状況の中で主なる神様への信仰を深め、さらに、メシア、王が到来されるという希望を生み、育てることができました。

 

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

 

この言葉をきくと、これは紀元前6世紀、あるいはその前後のときの状況をいっているわけですけれども、そのまま今のわたしたちにも当てはまるのではないか。この東京というところ、今2019年ですが、まさに荒れ野であり、荒れ地であり、砂漠のようなところではないだろうか。物質的、経済的には豊かかもしれない。ま、かもしれないというのは、この豊かといわれていた日本にも貧困が忍び寄り、少なくない人が生きるのに事欠く状態に置かれているのであります。さらに、精神的に非常に貧困な状態におかれている人が少なくはない。生き甲斐を失い、生きる喜びがなく、ある人々は行方不明になったり、ある人は自死を考えたりしている。そういう状況の中で、まさにわたしたちは、荒れ野であり、荒れ地であり、砂漠である現代の東京、首都圏において、わたしたちの信仰、主イエス・キリストと出会う喜びを人々に伝えていかなければならないし、証ししなければならないのであります。

 

先週、そして今週の主日の福音の重要な登場人物は洗礼者ヨハネであります。洗礼者ヨハネは、荒れ野で叫ぶ声であると、いわれています。そのヨハネのスタイルというのがすごいですね。らくだの毛衣を着、革の帯を締め、野蜜といなごを食物としていた。とてもこんな生活はできませんけれども。

他方、ナザレのイエスは人々と交わる生活をしておりました。時には楽しく食べたり飲んだりしていたようであります。ヨハネとイエスを対照すると、比べてみると、新しい時代の到来を感じることができるのではないだろうか。もちろん、この二人はお互いに尊敬し、認め合っていました。しかし、洗礼者ヨハネのほうは獄に捕えられているあいだにふと不安と疑惑を感じたのでしょうか。人を遣わしてイエスに尋ねさせた。「来(きた)るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの人を待つべきでしょうか。」その使者に対してお答えになったのが、今日の福音であります。この福音をふまえて集会祈願、ミサの集会祈願は非常に工夫して作られているのでありまして、今日の言葉をもう一度見てください。

 

「今こそわたしたちの目を開き、やみに輝く光に気づかせてください。わたしたちの耳を開き、あなたの呼びかけに従う者としてください。」と祈りました。

 

目を開き、耳を開かないと、聞くべき声が聞こえないし、見るべきものが見えない。

今日、黙想会で、普段こころが忙しいので、音として聞こえていても、声として聞こえていないかもしれない。目にしているけれども、こころの中に入ってきていないかもしれない。

 

今日、皆様。少し時間を神様に献げてください。

ほかのことはやめて、ただ無駄と思われる時間を主イエス・キリストの声に耳を傾け、そして皆様のこころの目に映ることをみつめるようにしていただきたいと思います。 

 

――

第一朗読  イザヤ書 35:1-6a、10
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
弱った手に力を込めよろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。主に贖われた人々は帰ってくる。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。

第二朗読  ヤコブの手紙 5:7-10
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。

福音朗読  マタイによる福音書 11:2-11
(そのとき、)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

 

2019年12月12日 (木)

一匹の羊

待降節第二火曜日 ミサ説教
2019年12月10日(火)、本郷教会

 

本日の朗読はわたくしたちに非常に豊かな内容を伝えております。
イザヤの預言40章は、イザヤ書の中で第二イザヤと呼ばれる部分の最初の章であります。
バビロン捕囚という悲惨な出来事の中で、預言者は主なる神への信頼と希望を呼び覚ますように呼びかけていると思われます。
 見よ、あなたたちの神
 見よ、主なる神。
 彼は力を帯びて来られ
 御腕をもって統治される。(イザ40:10)
と言われます。

マタイによる福音18章は、ルカによる福音15章に出てくる、いつくしみ深い神のたとえと同じ内容であります。
百匹の羊がいて、その中の一匹が迷い出たとすれば、羊飼いは九十九匹を残しておいて迷い出た羊を捜しに出かけ、見つけたら肩に担いで帰ってきていに喜ぶというルカの福音と同じ内容であります。
今の日本の社会に最も必要なたとえ話ではないだろうか。
ひとりの人が孤独に死んでいてもまったく周りの人には気づかれない。
一人ひとりが孤立している状況にあるのが、今の日本の社会ではないだろうかと思う。
もちろんわたくしたちの教会の中では、そうではありません。

昨日、東京教区の澤田和夫神父様の百歳のお誕生日を祝い、菊地大司教をはじめ多くの司祭が集まりました。
神父様は多くの人から大切にされて、毎日を過ごしておられます。
わたくしたちの間のつながりもそのようなものであり、そのつながりを教会の外に広げていかなければならないと感じました。

 

2019年12月11日 (水)

無原罪の聖マリア

「無原罪の聖マリア」ミサ説教

2019129()、本郷教会

今日は「無原罪の聖マリア」の祭日をお祝いいたします。

今読んだルカによる福音が伝えておりますように、マリアは天使ガブリエルのお告げを受けて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38

と答えられました。

天使の言われたことは、彼女には理解し難いことでありました。

そしてさらに、それは受け入れ難いリスクが大きいことでありました。

しかし、「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:37)という天使の言葉に信頼し、神のお告げを信じ、受け入れたのであります。

マリアの信仰と従順は、わたくしたち教会の模範とされています。

マリアが教会の模範であると『教会憲章』が言っています。

わたくしたちはその模範に倣うように努めていますが、かなり遠いところにいるのではないだろうか。

このたび教皇フランシスコが日本に来てくださいました。

そしてわたくしたちは教皇様のお言葉を聞いたわけであります。

いろいろなことを言ってくださいましたが、その中でもわたくしは「二つのこと」に特に強い関心を持ちました。

昨日わたくしはイエスのカリタス修道女会の誓願式を頼まれていたので、そちらでのミサは聖母のミサでありましたので、「無原罪の聖マリア」のミサを献げたのであります。

その時の説教がすでに文字化されていますので、聖堂の入り口に置いていただきました。

それを是非お読みください。

そこで述べたことと同じことを短く申し上げたいと思います。

わたくしたち自身とこの世界は、神がお望みの状態にはなっていないということを、まずわたくしたちははっきりと知らなければならない。

どうしてそうなったのかということについては、最初の人間アダムとイヴの神への不信仰と不従順によるのであると創世記は説明しています。

そのことを、のちにカトリック教会では「原罪」と言っている。

そして例外的に、おとめマリアだけはその「原罪」の汚れから免れている。

しかしすべての人は罪の汚れの中に置かれている。

個人としてだけでなく人類としても、そうあってはならない状態に置かれているのであります。

そうあってはならないということの中に、わたくしたち個人のさまざまな問題がありますが、今日は人類としての問題をご一緒に考えたい。

教皇様が日本に来て、長崎と広島から全世界に向かって発信されたお言葉、それは「核兵器の禁止」ということでありました。

核兵器を使用してはいけない。

それだけではなく保有してもいけない。

それは神の御心に反する。

そう言ってくださったわけです。

唯一の被爆国である日本においては大変ありがたい重要なメッセージでありました。

それと関連して思うことがあるのですが、国際連合(国連)では、「核兵器禁止条約」というのが採択されております。

国際連合というのは世界中にある沢山の国が参加して、それぞれその条約を受け入れるかどうかを決めることになっているわけですが、世界中のほとんどの国が「核兵器禁止条約」に賛成している。

核兵器は使ってはいけない、使わないどころか開発するとか他の国に移譲するとか核兵器の使用をほのめかして相手を脅すとか、あらゆる核兵器に関することは止めましょうという内容だそうです。

ですから問題なく全世界の国が賛成し、その条約が有効になるべきですけれども、核兵器を保有している国は賛成しないですね。

自分たちは持っていて、自分たちはいつでも使用できるようにしておいて、でも他の国は持たない方がいいという、そういう論理でしょうか。

安全保障理事国という大国があるわけで、アメリカを始めとするこれらの大国は全部核兵器を持っている。

では日本ではどうか。

日本は持っていません。

持とうとすればいつでも持てる実力はあるそうですが、持っていない、少なくとも持っていないと言われている。

だから、この条約に賛成して批准するかというと、していない訳ですね。

自分たちが酷い目に遭ったこの核兵器、それはもう全世界の人に使ってもらっては困る、持つのを止めましょうと当然思っているわけですが、そのことを決めている条約を認めないという、この矛盾は何であるのか。

これが教皇様の言われた第一点ですね。

もう一つは違う方面のことです。

人間はなぜ造られたのかというと、幸せになるためですね。

神は人間に命をお与えになり、この地上で神の恵みの下(もと)に生涯を終え、そして神の恵みの下に還るのであります。

すべての命は尊い。

今回の教皇の日本訪問のテーマは、「すべてのいのちを守るため」ということでありました。

戦争は命を破壊する最も酷い悪でありますが、それ以外にも命を損なうことはたくさんある。

さらに非常に残念なことは、自分で自分の命を絶つということです。

自分で自分の命を大切にできない状況、これは非常に悲しいことであります。

昔は自殺と言いましたが自死、そこまでは至らないとしても自分の場所がないと思うからなのか、家出や蒸発をしてしまう。

あるいは引き籠って人との関りを拒絶するような現象があるわけです。

自分が存在していることの意味が見つからない、あるいは喜びがない。

それは神さまが望んでいない、神様のお望みに反することであります。

このような状況、つまり国と国が戦争をして人を大量に殺戮する戦争、あるいは人間が生きがいを失って自殺してしまうという状況、これは神が造った世界にはあってはならない、本来なかったことです。

神は御自分が造った世界を見て、「極めて良い」とおっしゃったと創世記が述べています。

今日は「無原罪の聖マリア」の祝日でありますが、世界に蓄積されている悪の中にわたくしたちは生まれ、そして生きて行かなければならない。

その罪と悪の影響から免れ得ないという弱さを持っている。

それが人間の「原罪」ということではないかと思いますが、おとめマリアはこの世の不条理の中で信仰 信頼 従順を守って生涯を終えられました。

教会の模範である聖母に倣い、わたくしたちも日々見たり聞いたりするいろいろな問題の中にあっても神の導きを信じ、神の助けを頼りに勇気を持って生きていくことができますように、今日祈りたいと思います。

日本という国が直面している難しい状況の中で、勇気を持って福音を実行したい。

それは、他国やあるいはほかの人、あるいは自分自身を傷つけることによって自分の安全を保とうとする、自分の生きがいを見出そうとすることを止めるということです。そうできますようお祈りをしたいと思います。

 

待降節第二主日―主の僕

待降節第二主日ミサ説教

2019年12月7日(土)14時、本郷教会

待降節第二主日には洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは主イエス・キリストの到来を準備するという役目を与えられておりました。

彼は人びとに悔い改めのための洗礼を授け、そして更に言われました。

「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」

「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

聖霊と火とは多分同じことを指していると思います。ヨハネは人びとに水の洗礼を授けましたが、後から来る方は聖霊によって洗礼を授けますと言われたのであります。

さて、このヨハネという人はエリザベトの子どもですが、おそらくナザレのイエスと親類の関係にあった人なのでしょう。イエスとヨハネの間には、成長するまでの間にいろいろ連絡や接触があったのかもしれませんが、聖書はそのことには触れておりません。

期せずして、でしょうか、二人は神から遣わされた者として同じ目的に向かって歩む神からの使者になりました。

ヨハネの方が先に活動を開始しました。

そのヨハネのスタイル、服装や生活の仕方が今日の福音に出ています。

「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」

これはたいへん厳しい禁欲的な生活の有様を示しており、このヨハネの姿は、旧約聖書の代表的な預言者の一人であるエリヤを彷彿とさせるのであります。

エリヤという人は、非常に激しい活動をした人でした。

バールの預言者と闘って彼らに打ち勝ち、彼らを一人残らず打ち殺すという挙に出た人でありますが、時の王から激しい憎しみを買って命に危険を覚え、シナイ山に向かって逃亡するということになった次第を列王記は伝えています。(列王記上18・16-19・18参照)

またエリヤは非常に激しい人であって、自分に差し向けられた兵士たちに神からの火を放って焼き殺すということもしています。(列王記下1章参照)

このエリアのイメージと、洗礼者ヨハネのイメージがかなり重なってきます。

それに対してイエスの方はどうでしょうか。

 

今日の福音に引用されているイザヤの預言は、非常に豊かな内容を告げる非常に長い預言書であります。第一朗読がイザヤの預言でありました。素晴らしい内容をわたくしたちに告げている。

この「エッサイの株」というのは、エッサイという人がダビデの父でありますから、切り倒されてしまったようなイスラエルの民族の中から微かに残された、いわゆる「残りの者」である芽が生え出て来ると言います。「ひとつの芽が萌いで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」

イザヤの預言ではしばしば、「主の霊がとどまる」、「主の霊が与えられる」と言っているのであります。今日のイザヤ書では、この主の霊はどういう霊かというと、次に述べられています。

「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」(イザ11:2)

実はここで述べられているこの主の霊は、堅信の秘跡の時に授けられる聖霊の賜物と同じであります。

福音書はしばしばイザヤの預言を引用しています。さらにいろいろな箇所がありますが、一つだけ選ぶとすると次の箇所になりましょう。

 

マタイの福音に引用されております。(マタイ12・9-21参照)

イエスは安息日に会堂で手の萎えた人をお癒しになりました。その次第は次のようです。

イエスは会堂で片手の萎えた人を癒されました。その有様を見ていたファリサイ派の人びとは、安息日を破る者としてイエスに激しい敵意を抱き、イエスを無きものにしようと考え始めたのでありました。

その出来事のすぐ後で、イエスは多くの群衆の病気をお癒しになられた。

マタイの福音書は、預言者イザヤを通して言われたことがこうして実現したのである、と言います。

そのイザヤの言葉、それは主の僕(しもべ)の歌と呼ばれる箇所の一つです。

マタイの福音書での引用ではイザヤ書の引用は次のようになっています。*

「見よ、わたしの選んだ僕。

わたしの心に適った、愛する者。

僕にわたしの霊を授ける

彼は異邦人に正義を知らせる。

彼は争わず、叫ばず

その声を聞く者は大通りにはいない。

正義を勝利に導くまで、

彼は傷ついた葦を折らず、

くすぶる灯心を消さない。

異邦人は彼の名に望みをかける。」(マタイ12・18-21)

 

このイザヤの預言からわたくしたちは何を読み取ることができるでしょうか。

この僕の姿はナザレのイエスによって実現しました。この僕は主なる神の心にかなった者、イエスが洗礼を受けた時に天から声がした時に言われた言葉通りの神に愛された者。イエスは天の父の御心にかなう者であります。神の霊を受けた者、神の霊に満たされた者であります。

イエスはナザレの会堂でイザヤの預言61書(1-2節)引用して、ここで言われている主の僕の歌の言葉「神である主の霊がわたしの上にある」は、自分人自身のことを指していると言われました。イエスはイザヤ書の言葉を引用しながら、主の霊が自分の上に降っていると強調しているのであります。

さて、この僕は「異邦人に正義を知らせる」人であります。ユダヤ人、イスラエルの人びとを越えて異邦人に神の言葉を知らせる者である、と言っています。

その次の節の表現が非常に特徴的であります。

「彼は争わず叫ばず その声を聞く者は大通りにはいない」

正義を勝利に導くまで、最後に神の義が実現するその時まで忍耐して待ち望むのである。

「彼は傷ついた葦を折らず くすぶる灯心を消さない」

傷ついた葦はもう少し力が加わると折れてしまいます。

それは、苦しめられ痛めつけられ蔑まれ、もう生きていく力が尽きそうになっている人のことを指しているのでしょうか。もうちょっとしたことがあれば命が尽きてしまう、あるいは生きる力、命を支える力がなくなってしまうような状態にある人を細心の注意をもって優しく労り助ける。そういうことを言っていると思います。

「くすぶる灯心を消さない」も同じことだと思います。

昔の明かり取りはランプの油に芯を通して、その芯に油を沁み込ませて、その芯に火を点けて周りを明るく照らすという照明であったと思いますが、何かの原因でその灯心がくすぶって消えそうだといっているのですが、これももう少しで命が絶えそうな非常に脆い弱い危ない状態にある人のことを言っているのではないだろうか。

そういう人に対して、優しく細心の注意をもって命が尽きないように命の火が少しずつ明るく灯るように助ける、という、そういう行為を指しているのではないかと思います。

この主の僕は、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない人である。

洗礼者ヨハネがわたくしたちに示した姿は、激しい気性を持っている自分に敵対する者を打ち殺し、あるいは神の火をもって焼き殺してしまうエリヤの姿を思い起こさせますが、そのヨハネが到来を告げ知らせたナザレのイエスという人は、そのエリヤとはかなり違った姿、生き方を示している。

弱い人貧しい人苦しみ悩む人に寄り添い、彼を最後まで慰め励まして神の下に導く人ではないかと思います。

わたくしたちはそのイエスの弟子となっていますので、そのようなイエスの生き方を少しでも自分の日々の生活と活動の中で実現するようにしたいと思います。

 

 

待降節第二主日C年朗読個所の本文

 

第一朗読  イザヤ書 11:1-10
(その日、)エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

 

第二朗読  ローマの信徒への手紙 15:4-9
(皆さん、)かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。

 

福音朗読  マタイによる福音書 3:1-12
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 

*イザヤ書の原文はマタイへの引用とは少し違う表現になっています。

以下のとおり。

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。

わたしが選び、喜び迎える者を。

彼の上にわたしの霊は置かれ

彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。

傷ついた葦を折ることなく

暗くなってゆく灯心を消すことなく

裁きを導き出して、確かなものとする。

暗くなることも、傷つき果てることもない

この地に裁きを置くときまでは

島々は彼の教えを待ち望む。

(イザヤ42・1-4)

2019年12月 9日 (月)

教皇への感謝と支援

イエスのカリタス会誓願式ミサ説教

2019年12月8日、カリタス会管区本部聖堂

 

皆様、本日12月8日は聖母マリアの無原罪の祭日であります。主日と重なりましたので典礼としては明日になりますが、今日はお二人のシスターの終生誓願式、並びに三人のシスターの初誓願式のためにマリア様のミサをお献げしております。

「わたしは主のはしため、お言葉通りになりますように」。おとめマリアは神様からの呼びかけにそのようにお答えになり、神への従順と信仰を表明なさいました。聖母マリアはわたしたち教会の模範であります。特に修道誓願を立てられる皆さんは聖母の信仰、そしてその生涯にならいこの社会の中ので地上の生涯を通し、神の国が既に来ていることを多くの人々に証しするという非常に尊い使命を受けています。

わたしたちは自分自身についても、またわたしたちの住んでいるこの社会についても「何かが間違っている、うまくいかない」という自覚と実感を持っております。全ての人、全ての社会は神がお望みになるような状態にはなっていないという事実について、教会は原罪という言葉で説明をしております。

日本に住んでいるわたしたちもこの原罪という状況の中で、神の恵みのもとに主イエス・キリストの生涯にならい、聖母をはじめとする諸聖人の模範を目の当たりにしながら、日々「それでも神様がわたしたちと共にいてくださり、復活した主イエスが世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる」ということをさらに固く、その証しを行なっているのであります。

さて本日は教皇フランシスコが日本に来てくださったことを受けて、その感謝の言葉あらたにするとともに、教皇様がわたしたちへくださった戒めを分かち合いながら、日本の社会でキリスト者として生き、社会をより福音の精神に適った社会に帰るための決意を新たにしたいと思います。教皇様は非常にきついスケジュールの中で長崎・広島・東京で色々な機会に非常に心に響くお言葉をくださいました。わたしが個人的に受け取りましたことを感想として申し上げて、皆様の参考に供したいと思います。

教皇様は日本に来られて、唯一の被爆国日本において長崎と広島を訪問し、力強く核兵器の弊害を宣言なさいました。核兵器を使用することが許されるべきでないということだけではなく、保有することも倫理に反すると言ってくださったのです。さらに帰国される機中で原子力発電の問題にも触れられました。日本の司教団は「原子力発電は即時廃止するように」というアピールを行っております。

ところで国連では核兵器禁止条約というものが成立しております。それは核兵器を開発すること、実験・製造・備蓄移譲・使用及び威嚇としての使用を禁止、並びに排除することを目指す条約であり、全ての人類がこのことを強く望んでいるはずです。ところがその核兵器を保有している大国・強国はこの条約に賛成していません。アメリカ、イギリスなどの大国は核兵器を保有しているので賛成すればやめなければならないので、条約に賛成しない。日本はもちろん核兵器を持っていませんが、核の傘の下にあるということからでしょうが、条約を批准していません。原爆の被害を受け悲惨な体験をしている国は日本だけですね。ですから当然核兵器を持たず使用しないということは強く決意しており、それを世界中に呼びかけていますが、しかし他方核兵器を保有している国にも「それはやめてください」と言うべきであります。日本の司教団はそのようにお願いしましたが、政府としては板挟みなのでしょうが、はっきりしないという深刻な問題があります。

教皇様は就任以来もう7年になりますが、力強く教会の改革・刷新を叫んで来られました。わたしたちは社会の問題や人々の問題を指摘しますが、同時に自分自身を省みなければなりません。教会の中にある様々な課題・問題、あるいはあえて言えば腐敗や暴力について真摯に反省し、それをなくすような努力をしなければなりません。そのことを最も強く自覚し、呼びかけておられる方が教皇フランシスコであります。

ご自分のお膝元のバチカンにおいて起こっている様々な問題、財政や性暴力についても、あるいは権力闘争というような様々な問題について大変強く心を痛めておられ、それを解消し、刷新すべく努力しておられることに心から敬意を表します。そのためにわたしたちも祈りをもって必要な活動をしながら、刷新・改革が進捗しますよう、心からお祈り申し上げたいと思います。

教皇様は日本に来て日本の人々と会い、日本の社会を見てどう思われたでしょうか。かつてマザーテレサが日本に来られた時と同じような思いをお持ちになっただろうと感じました。日本は経済的に発展しており、その意味では豊かな国かもしれません。貧しい人はあまりいなかった、とは言っても今ではそうでもない状況にありますが、経済的・物質的な貧困よりも、精神的な貧困がわたしたちを支配しているのではないでしょうか。わたしたちは自分自身に閉じこもり、孤立し孤独を感じています。この社会は今競争と消費の精神で覆われており、その競争の中で落伍したものはもう生きていく張り合いが失われてしまう、弱められてしまう、そして何のために生きるのかということが分からなくなってしまいます。そういう状況の中で少なくない人々が、病気になったり自分の命を縮めたり、あるいは蒸発というか行方不明になってしまっているのも事実です。

自分自身が神様から望まれてこの世に生まれ、そして尊い命を受け自分にはなすべきことがあるという自覚を持つことができない人々は、人生の意味が分からなくなってしまいます。特に若い人々あるいは子供にまでそのような「病める魂」が蔓延しつつあり、非常に痛ましい状況であります。わたしたちは神様から頂いた恵みを周りの人々と分かち合い、喜びも悲しみも、楽しみも苦しみも分かち合い、そしてお互いに「あなたは大切な人である」ということを確認しながら生きて行かなければならないと思います。

隣の家に住んでいる人が亡くなっても何日も周りの人に気づかれない孤独死。かつてはあり得ないと思われたような悲しむべき現象がこの大都会の生活で起こっています。そういう状況で地の塩・世の光として洗礼を受け、そして更に神の国の到来を指し示すべき修道者は、日本の人々にイエス・キリストの復活の光、そして聖母マリアの従順と信仰の生き方を指し示して頂きたい。そのための恵みを今日ご一緒にお祈りいたしましょう。

 

2019年12月 1日 (日)

王の使命

小黙想会・土曜ミサ説教

20191130()、本郷教会

 

教会の典礼歴では年間という季節があって、その中ではイエス・キリストの宣教活動をわたくしたちは学ぶことになっています。

それ以外の季節は、明日から入る「待降節」という主の降誕を迎える準備をする季節、そのあと「降誕節」となります。

さらに、キリスト教で最も大切な日は復活祭でありますので、その復活祭の前の季節を40日間の「四旬節」と言い、復活を祝う準備をする特別な季節とされている。

そして、復活節の後は50日間聖霊降臨祭までの期間が「復活節」であって、復活したイエス・キリストと出会った弟子たちの体験を分かち合う時となっています。

この年間という季節に、教会は4つの福音書の朗読を通してイエスが何を語り、何をしたかということを伝えています。

日曜毎にわたくしたちは福音の朗読を聞いて、イエスをより深く知ろうと努めているのであります。

その年間最後の日曜日が「王であるキリスト」の祭日となっています。

イエスは王である、というのがどういう意味だろうかということを、わたくしたちは特にこの日学ぶわけであります。

復活されたイエスは、天の父のもとに上り、父からすべてのものを支配する権能を与えられました。

「王であるキリスト」の日は、そういう意味でのキリストがすべてのもの、この宇宙を含めて世界と人類を支配する王であるということを深く思う時であると思います。

今日の二つの聖書朗読の中で第二朗読は、そのようなイエス・キリストの位置、権威、役割を述べています。

しかしながら、福音の方は全く逆、つまり主権、権威あるいは支配という、イメージとは反対の姿をわたくしたちに示しているのであります。

それは嘲られ、辱められている一人の男の姿であります。

四つの福音書はそれぞれ受難の時のイエスの姿を伝えています。

王は王冠と言う冠を被るわけですけれども、ナザレのイエスの場合は茨で編んだ冠を被せられた。

そしてさらに罪人として、人々の嘲笑と侮蔑の対象とされたのでありました。

わたくしたちの宗教は、そのような人が開祖と言いましょうか、宗教を始めた人であるということになります。

天上で支配する「王であるキリスト」と、人間として地上で人びとから排斥され侮辱され辱められた「ナザレのイエス」との間には大変大きな落差があります。

イエスの使命を受け継いだ教会は、この二つの面つまり天上の王であるイエスと、地上で人びとから蔑まれた人間イエスの二つの面を引き継いでいるのであります。

ですから教会の最高指導者は、カトリック教会ではローマの司教ですが、ローマの司教は「僕(しもべ)たちに仕える僕」であると言われています。

しかし地上にある組織である以上、それなりの地位や名誉・権力がなければ統治できない訳ですから、地上ではイタリアの中央部ローマにあるバチカンという独立国の元首にもなっている。

以前は教皇領という領土があって、イタリアの中央部は直接ローマ教皇が支配していた地上の領主でもあったわけですが、それはイタリア王国が統一する時に領土を侵略されて奪われてしまった、それが却って幸いな結果をもたらしたと思います。

イスラエルの歴史で、王という存在は必ずしも良い評価を得ていなかった。

そして理想的な王というのは神に仕える僕である、そして人びとの苦難を自分で引き受けてそして人びとの贖いである主の僕という考えが次第に発展してきたのであります。

旧約聖書のイザヤ書で主の僕の歌という非常に素晴らしいというか、非常に意味深い人物の姿が描かれている。

主の僕の歌という特別の詩が載っているのであります。

(イザ42:1-449:1-650:4-952:13-53:12

イスラエルで最初に王になった人はサウルという人でしたが、この人は神の意に沿わない人として退けられました。

そもそもイスラエルには王というものは存在しなかった。

神がイスラエルの王であるので、神の御心をおこなう人こそ大切であって、王という世襲の権力者は王の支配と必ずしも合わないという考えがあったのだと思います。

サウルを継いだ人が有名なダビデ王であります。

ダビデは理想的な王として王の務めを果たしました。

神から託された使命、それは外敵から自分の民を守ることだけでなく、弱い立場に置かれている人びとを守り庇うということでありました。

弱い立場の人というのは、孤児、やもめ、そして寄留者という名前に代表されます。

ダビデは理想的な王でありましたが、人間として大きな罪を犯しました。

しかし聖書が告げている通り、彼はその自分の罪を認め、そして心からの痛悔を神に献げたのであります。

その点で、ダビデは理想の王と言えましょう。

しかしダビデ以降の王は、ほとんどすべて神の御心にかなう王とは言えなかった。

主の目に悪とされることを行ったという勤務評定が下されているのであります。

わたくしたち教会を今振り返って見る時に、自分たちは受け継いでいる使命、それはキリスト者という使命、キリスト者というのはご存じのように洗礼を受ける時に塗油を受けますので、「油注がれたもの」という意味であり、イスラエルの王のように油を注がれたわけでありますが、それはこの地上において神の慈しみを現わし、実行する者とされたのであります。

そのような自分の使命をわたくしたちはどのように実行しているだろうか。

待降節を明日にひかえて、イエス・キリストをそれぞれの心にお迎えするために、わたくしたち自身の心の内を見つめ、毎日忙しく暮らしておられるでしょうから静かな時間を持ち、自分自身の現実や心の動きを見つめながら、心の大掃除と言いましょうか、年末は大掃除の時ですけれども、わたくしたち自身自分の人生、今の状態、今の心の動きというものを見つめ、そして清々しい状態にしていただき、降誕祭に主イエス・キリストをお迎えすることができますよう祈りを献げたいと思います。

―――

第一朗読  サムエル記 下 5:1-3
(その日、)イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」
イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。

第二朗読  コロサイの信徒への手紙 1:12-20
(皆さん、わたしたちは、)光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝(しています。)御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

福音朗読  ルカによる福音書 23:35-43
(そのとき、議員たちはイエスを)あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

主の再臨

年間第34金曜日ミサ説教

2019年11月29日、本郷教会

わたしたちは今週のミサの第一朗読で、ダニエルの預言を読み続けてきました。今日の箇所では次のように言われています。

「夜の幻をなお見ていると

見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り

「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み

権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え

彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。」

此処で言われております「人の子」とは、主イエス・キリストを指しており、「日の老いたる者」とは父である神を表わしていると思われます。

わたしたちは11月24日の主日に「王であるキリスト」の祭日を祝いました。イエス・キリストは王として再びわたしたちの所に来てくださいます。

今日の福音は昨日の福音の続きの箇所です。

「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

昨日の福音では、主イエスが再び来られるまでに、数々の恐ろしい出来事が起こり、その後で天地は滅びます。その時に主イエスが再臨されるのです。

クリスマスを準備する待降節は主イエス・キリストの誕生を迎える季節ですが、同時に、この時なすべきもっと大切なことは、主イエス・キリストの再臨を思い、再臨への信仰と希望を深めることではないでしょうか。

わたしたちが何時でも主イエス・キリストの再臨の時に、主イエスのみ言葉に生きていることが出来るよう、聖霊の導きを祈りましょう。

 

――

第一朗読  ダニエル書 7:2-14

福音朗読  ルカによる福音書 21:29-33
(そのとき、イエスは弟子たちに)たとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

最後の時

年間第三十四木曜日ミサ説教

20191128()、本郷教会

エルサレムの神殿が滅ぼされるということについて何度か聖書が述べております。

今日の福音は、エルサレムが異邦人によって滅ぼされるということを述べています。実際、エルサレムは紀元70年にローマ軍によって滅ぼされましたが、わたくしたちにとって大切なことは、この世界の最期の時が来るということであります。

「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(ルカ2127

信徒信条のなかでわたしたちは「主は生者と死者を裁くために来られます」と信仰宣言しています。

この世界には終わりということがある。それでは、終わったらどうなるのかということですが、その後「新しい天と新しい地が現れる」と黙示録などが告げています。

そしてわたくしたちの一人ひとりにも終わりが来るのであります。

その終わりの時というのは、決定的な神との出会いの時であります。

わたくしたちは多くの人の死を見送りましたが、今度は自分自身が見送られる時を迎えるのであります。

クリスマスというと楽しいイメージを持ちますけれども、自分自身の最期とクリスマスを引き合わせるとすれば、ただ喜んで待っているわけにはいかない。

クリスマスはイエスが生まれてくださったことを記念し、そしてまた今年もいわば霊的に生まれてくださる、一人ひとりの人の心に来てくださるということを思う時であり、そしてさらに自分の人生の最期の時を思う時でもあります。

残された時間が自分にはどれだけあるだろうか。

一か月だろうか、一年だろうか、二年だろうか、十年だろうか。何十年だろうか。

その残された時間をどう生きるかということが最も大切なことではないだろうか。

人類についても同じことなので、人類にも最期の時が来る。それがいつであるかは誰にも分からないですね。分からないから来ないものだと錯覚して、それぞれ皆勝手なことをしている。しかしもし一年後、五年後ということがはっきり分かれば、その限定された期間内に為すべきことをするのではないだろうかと。

終わりがあると思う時に、わたくしたちの人生の在り方が根本的に変わってくるのではないでしょうか。

 

 

 

現在の恐ろしい敵

年間第34水曜日 説教

20191127()、本郷教会

 

キリストの弟子たちは迫害を受け多くの人から憎まれることになるだろう、とイエスは言われます。

「しかしあなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によってあなたがたは命をかちとりなさい。」

このイエスの言葉に従って日本では多くの人が信仰を証し、殉教いたしました。実に日本は殉教者のくにであります。それから何百年も経過し、今の日本はかなり違う状況に置かれていると言えましょう。権力者による迫害ということはありません。権力者ではないが、しかし、考えようによってはもっと手強い、恐ろしい敵がわたしたちを襲っているいのではないかという気がします。

フランシスコ教皇は日本にまで足を運んでくださり、いろいろな機会にわたしたちにお話しくださいました。

東京ではカテドラルで「青年の集い」、そして東京ドームでは教皇ミサでわたしたちの、非常に心に響くお話をしてくださいました。

今、キリスト教の信仰の故に処刑される人はいないわけです。しかし多くの人は生き辛さを感じている。そして、誰かに処刑されるのではなく、自分を処刑している。自分で自分の命を絶ってしまうのです。自分の存在、自分の人生に意味を見出せない。そういう人がいるのです。

わたしたちの社会は経済的な利益、快適な生活、あるいは効率の良さということが、いわば偶像のようになって、わたしたちの心を支配しています。あるいは、この社会のなかでの成功とか失敗という基準が何となくあって、その中でわたしたちは自分の価値、自分の存在の意味を確認するように思わされています。しかし人間の価値はその人の社会における経済的な成果あるいは名誉とか地位とかによって決められるのではないのです。その人がその人であることだけで評価されなければならない。聖書は救いの歴史の中で、主イエス・キリストを頂点とする神からの啓示があり、神がわたしたちひとり一人を心から慈しんでくださっているのであります。教皇はこの状況から脱出するためには「神の慈しみを分かち合うことしかない」と言っておられたと思います。慈しみを分かち合うということは、一人ひとりの出来高というか、その人の業績とかによって評価するということではなく、すべての人の中におられる神の美しさを分かち合うということであり、それは人間が持っている限界とか弱さ、あるいは間違いをお互いに受け入れあい赦し合うことであると思います。

いまわたしたちに求められているのは、キリシタン時代の状況とは違う状況における殉教であり、それは、わたしたち互いに善い事、悪いこと、美しいこと、醜いこと、楽しいこと、嫌なことを分かち合うことによって、そこに神の国が来ていることを人々に示していくことではないかと思うのです。

 

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