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2019年12月26日 (木)

人間を優れた者として造られた(主の降誕・日中のミサ)

主の降誕 日中のミサ 説教

20191225()、本郷教会

 

昨夜わたくしたちは、クリスマスの夜半のミサを献げました。

今、主の降誕日中のミサを献げます。

先ほど司祭が皆様を代表して献げましたミサの最初の祈りを思い出していただきたい。

集会祈願

「永遠の父よ、あなたは、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、さらに優れたものにしてくださいました。神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに

神のいのちが与えられますように。」

ミサの集会祈願は、そのミサがどんな趣旨のミサであるか、その日のミサの主題は何であるのかということを、簡潔・適格・正確にあらわす祈りであります。

今日、この祈りをご一緒に味わってまいりましょう。

神は人間を優れたものとして造られました。

創世記は、神がすべてのものを造った次第を述べています。

神は御自分の造られたものをご覧になって、「良し」とされたのであります。

最後の六日目に人間を造られ、そしてすべての被造物をご覧になり、「極めて良い」と言われました。

この世界、そしてわたくしたち人間は、極めて良いものとして造られました。

神の創造のはたらきは、その時に終了してしまったものではありません。

わたくしたち人間は、時間と場所の中でしか存在できませんが、神はすべてを時間のない世界としてご覧になっていると思います。

「極めて良い」と言われたわりにはいろいろな問題がある世界であり、人間でありますが、基本的に神はこの世界全体を、御自分の造られた完成された姿として見ておられ、「極めて良い」と言われました。

造られた被造物の側にいる人間としては、それでもいろいろな問題、不具合のある状況をどう考えたらよいのだろうか。

「神は救いのわざを通して、さらに優れたものにしてくださいました。」

「救いのわざ」、それは御ひとり子イエス・キリストをわたくしたちのところに遣わすということであります。

イエスの誕生こそが、今日わたくしたちが祝っている主の降誕であります。

肉をとる(受肉)という意味で、インカルナチオincarnatio(ラテン語)、インカネーションincarnation(英語)と言っております。

昔の言葉で言えば、御託身であります。

わたくしたちと同じ人間となってくださった、そしてわたくしたち人間を神の子としてくださいました。

わたくしたち人間は、肉なる者であります。

肉なる者という意味は、弱い者、脆い者、そして過ちを犯す者であります。

その人間となってくださったことによって、わたくしたちを神の子の輝きに与る者としてくださいました。

第二朗読「ヘブライ人への手紙」で言われています。

「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れである」

誰も神を見たものはいません。

見えない神を完全に現わし、その姿かたちと生涯を通して天の父をしめしてくださった方がイエス・キリストであります。

ヨハネの福音は、神の御子を神の御言葉ギリシア語でロゴスと呼んでいます。

わたくしたちは、イエス・キリストを受け入れ信じることによって、いわばイエスとまったく同じではないが同じような存在としていただきました。

昔、イレネウスという聖人がおりました。

この方が残された有名な言葉があります。

「神の栄光は人間の中に現れる」

神の栄光、神の輝き、神さまはどんな方かということを人間は直接見ることができない。

そこで神は御自分の大切な御ひとり子イエス・キリストをわたくしたちのところに遣わして、

神さまが人間となった場合にはこういう方ですよということを示してくれました。

ナザレのイエスという人であります。

ですから、神さまがどんな方であるかということは、地上の人間であったナザレのイエスという人が良く完全に現わしていた。

そのイエスが地上を去る時に、御自分の姿をできるだけ人間に伝えるようにしてくださったのであります。

「神の栄光は人間の中に現れる」

わたくしたちは、神の栄光、輝きを受けるものであります。

ただし、自動的に機械的に神の栄光を受けるものとなるのではない。

わたくしたちには、人間の尊厳が与えられ、自分で判断し、自分で心を開くように造られております。

わたくしたちは、自分が神の栄光の現れであるということを信じ、神にむかって心を開かなければならない。

ロボットではありませんので、何もしないで機械的に神の子となるわけではありません。

「神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに神のいのちが与えられますように。」と祈りました。

当然のこととして省略されておりますが、神のひとり子が人となられたことを「信じる」ことによって、神のいのちが与えられます。

信じるということを、わたくしたちは求められている。

信じるか信じないかは、ほかの人が代わりにすることができることではない。

このわたくしが、信じるか信じないかを決めるのであって、ほかの人には代わることができないのであります。

ヨハネの福音は、毎年「主の降誕日中のミサ」で読まれます。

そこで言われておりますことを、今一度振り返ってみましょう。

「初めに言(ことば)があった。」で始まりますね。

この「言」は、「光」であった。

光は、光を受け入れる人にとって救い主である。

闇の中に輝く光としてイエスは来てくださいました。

イエスを光として受け入れる人には、つまり自分を受け入れる人、その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた。

光という言葉が大切であると思います。

ミサの時に唱える信仰宣言の中に、「光からの光」という言葉があります。

光のおおもとは、父である神であります。

その光から出て来た光が、御子イエス・キリストであります。

さらにその光を受けている人びとが、わたくしたち教会である。

教会というのは、わたくしたち一人ひとりでありますが、わたくしたちは自分で光ることはできないわけです。

光を受けて、その光を以って、周りを照らすわけであります。

ですから、いつも光を受けるように努めなければならない。

光源体というのでしょうか、そのもの自身から光が出てくるものではない。

わたくしたちは脆い弱いものに過ぎませんから、光をいただいて、その光を以って周りを照らすというものであります。

第二バチカン公会議の中で、「教会憲章」(1964)という重要な教えが発布されましたが、その教会憲章は「諸国民の光」(ルーメン ジェンティウムLumen Gentium)という言葉で始まっています。

諸国民を照らす光はイエス・キリストであり、そのイエス・キリストから光を受けているわたくしたちは教会であると教えているのであります。

期するところ、光であるイエス・キリストの光をどのようにして受けたらよいのだろうか、どうしたら光を受けることができるのだろうかというところに、わたくしたちの課題は集約されるのであります。

皆様お一人おひとりが自分にとって光を受けるというのは、どういうことであるのかをお考えいただきたい。

それではもう一度、本日の集会祈願を唱えます。

「永遠の父よ、あなたは、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、さらに優れたものにしてくださいました。神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに神のいのちが与えられますように。アーメン。」

 

 

 

 

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