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2019年12月26日 (木)

クリスマス

主の降誕

2019年12月24日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言 イザヤ 9:1-3,5-6
第二朗読 使徒パウロのテトスへの手紙 テトス 2:11-14
福音朗読 ルカによる福音 ルカ2:1-14

説教

かつて、地中海沿岸を支配していた巨大な帝国がありました。ローマ帝国。皇帝アウグストゥスの時代に、ローマ帝国の辺境の地ベトレヘムというところで、一人の男の子が生まれました。その子の名前は「イエス」と言います。

キリスト教という宗教は、このイエスという人を「キリスト」すなわち「救い主」であると信じる宗教であります。

イエスは、ダビデの子孫であると信じられていました。ダビデという人は紀元前千年頃の人で、そのとき、彼らの民族は非常に栄えておりました。しかし、そのあと、彼らは次第に衰退して行き、そして、大国、北の方にある大きな国、それから南の方にある大きな強い国の間で常に揺さぶられている状態になり、紀元前六世紀のこと、最後に残った「ユダ」という国が滅ぼされ、ユダの国の指導者たち、王を始めとするその家族、宗教の指導者、あるいは、技能を持った人達など、おもだった人が、バビロンに強制移住させられたのであります。
その時の体験は非常に悲惨なものであった。絶望的といってよいような日々を過ごしていましたが、まあ、不思議なことにその人々の間から新しい希望が生まれてきたのであります。
その希望というのは、将来、ダビデの子孫の中から「メシア」と呼ばれる「救い主」が生まれるだろうという希望であります。

そのことを告げる旧約聖書の書物が「イザヤの預言」という書物であり、きょう第一朗読で読み上げられました。

「闇の中に歩む民は 大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」
と、言われております。
闇の中に置かれているような思いで生きていたユダヤの民は、本当に、一日千秋の思いでメシアと呼ばれる救い主が生まれる日を待っていました。

この、イエスと呼ばれる乳飲み子が、その、預言された救い主、メシア、キリストであるということを信じる人々が「キリスト教徒」と呼ばれているのであります。
キリスト教徒にとっては、ですから、救い主が生まれたことは、大変大きな喜びであり、そして、本当にうれしいことでありました。
実際のところ、イエスの生まれた日が何日であったかは、歴史的には限定できなかったと思われますが、教会は、12月25日が生まれた日であるとしまして、その日を盛大に祝うことにしているのであります。

この日を「クリスマス」と呼びますが、クリスマスというのは、読んで字の如く、「キリストのミサ」、ミサというのはイエス・キリストの生涯を記念するキリスト教徒にとって一番大切な共同の祈りであります。
クリスマスだけにミサを挙げているわけではなくて、ミサは毎日献げておりますが、まあ、どうしたわけか、クリスマスのミサが一番人々によく知られるようになったのであります。

クリスマスは救い主キリストの誕生を喜び祝う日である。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               さて、イエスがキリストであり、キリストが生まれた日を喜び祝うということは、キリスト教徒にとっては当然かもしれませんが、外の人々にとって、どういう意味があるのだろうか、と…。

キリスト教徒であるわたしにとっても、外の人々にどういうように話したらよいのだろうかと、毎年考えてきました。

わたしたちがこの世に生まれたということについて、わたしたちはそれぞれどう思っているのでありましょうか。そのこと、自分の誕生、を深く考える日ではないだろうか。

キリストの誕生を祝うならば、だれにでも誕生日はあるわけで、全ての人の誕生を喜び祝うべきではないだろうか。クリスマスに、ナザレのイエスを祝うのであれば、全ての人が生まれたことを喜び祝う日が必要ではないだろうか。

そうすると、一人ひとりの人に、それぞれ誕生日があるわけでありまして、まあ、全員で祝うというわけにはいかないのですけれども、恐らく、ここにおられる皆様、それぞれ、ご家族や友人、知人などによって、誕生日おめでとう、と言っていただいているだろうと思います。深い考えも無しに、お互いに習慣的に言っているかもしれませんが、考えてみれば、あなたが生まれたことは大変良いことだ、うれしいことだ、という意味であります。

そう言っていただけることは大変うれしいことでありますが、この広い世界の中で、だれからもそう言っていただけない方もいるのではないだろうか。そのような現実は存在します。

わたしたちは、この世に生まれてきた全ての人が「この世に生まれてきて良かったね、」と心からお祝いできるようでありたい。

そして、そう言われた人が、「わたしは、この世に生まれてきて良かった、皆さんと出会えてよかった、本当に、私の人生には意味があるし、喜びがあるのだ」と、思っていただきたい。そう思っていただけるように、わたしたちも努めなければならないのではないだろうか。

世界の現実を見ると、いつもそうでありますが、いまの時代の多くの人々は、苦しみ、悶えている。
貧困に、苦しみ、騒乱や、戦争、病気、そのほかさまざまな問題に出会って、本当に生きることが実に大変であるという思いを抱いている人が、決して少なくは無いのであります。

そういう人に、苦しんでいる人に「あなた生まれて良かったね」なんて言ったら、「冗談じゃないよ」と、言う人もいるかもしれない。

わたしたちは、すべての人が、この世に生まれてきて良かったね、と思っていただけるような、お互いの人と人との関係を築いていくべきではないだろうか。それは、全人類の努めであります。

国家を超え、民族を超え、宗教の違いを超え、イデオロギーの違いを超え、お互いにそこにいるあなたが大切な人であり、あなたがそこにいることはすばらしいことだ、と認め合うことが一番大切なことでないだろうか。そのように思えない人々、そのように言ってもらえない人々がいるだろうと思う。

経済的に恵まれた国においても、自分がなぜこの世に生まれて来たのだろうか、という思いを抱いてしまう人がいないわけではない。この日本においても、少なくない人が、自分の人生の意味を見失い、自分の命を縮めてしまう、そういう悲劇が生じているのであります。

きょう、このミサの中で、この後、共同祈願というお祈りを捧げます。二番目の例文をご覧ください。

「争いや、対立の絶えない世界で、人の心に聖霊の息吹を注いでください。平和を目指すあらゆる取り組みが、み心に適うものとなりますように」

聖霊とは、神の霊、神がわたしたちに注いでくださるお恵みのことです。

どうか、わたしたちが、それぞれ、一人ひとりの人が、神さまのみ心に従って命を与えられたのであるということを深く思い、自分自身を大切にし、そして、同時に、日々、出会う外の人も、神様から命をいただいたかけがえのない存在であるということを深く思いながら、平和を建設するために力を合わせようではないかと申し上げたいと思います。

 

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コメント

どのお説教も分かりやすく文章にしていただいているおかげで、部分的にしか理解していなかったことが少しずつ繋がりはじめています。ありがとうございます。

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