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2019年12月17日 (火)

来なさい、疲れている者

降節第二水曜日 ミサ説教

20191211()、本郷教会

 

この本郷教会の掲示板には今日の福音のお言葉が掲示されています。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28

何年か前のことですが、わたくしはカテドラルから毎月一回、この本郷教会に歩いて通ってお話をしておりました。

ここに来る途中もう教会が近いなあと思われる頃、不忍通りに面した右側にルーテル教会があり、その教会の看板にも同じ言葉が出ておりました。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」

多分、多くの教会がこのイエスの言葉を掲げているのではないだろうか。

教会がこの言葉を人びとに示しているということは、教会自身がこの言葉を大切に思い、そしてこの言葉をイエスに代わって、あるいはイエスと共に実行するということを世間に宣言していることになると思うのです。

わたくしたちはこの言葉をどう受け取り、どう実行しているでしょうか。

昨日から今日にかけて、今日のミサの言葉を読みながら自分自身の現状を見て、自分は一体

この言葉をどういうように受け止め、どういうように実行しているのかなあと考えさせられております。

 

今日の第一朗読はイザヤの預言の40章です。

わたくしたちは今、イザヤ書の勉強をしております。

40章からは第二イザヤという部分であります。

 う随分昔のことになりますが、イザヤ書を読んだ時に40章のこの箇所の言葉にたいへん深く心が惹かれました。

 毎年待降節第二水曜日になると、この箇所が出てくるわけですね。

 司教になる時にモットーを決めるのですが、この言葉を採用したかったのですが、長いのでこの言葉の中からほんの短い言葉「主に望みをおく人」を選びました。

  いろいろな人を見、自分自身の現状を見て、そして本当にこの世界は大変な状態にあるから、人間というものは疲れたり失敗したり病気になったり老いて、やがて最期の時を迎える。

 そういう中で「主に望みをおく人」として歩むというのはどういうことだろうか。

 太田道子さんの勉強会でわたくしたちは学んでいますけれども、イスラエルの民はバビロン捕囚というたいへん悲惨というか、絶望的な状態に置かれたと聞いております。

 そういうような状況で紀元前6世紀にたいへん不思議なことですが、そういう人びとの中から生まれた信仰。

 イザヤ書の40章は、イザヤという人自身によるものではないそうですけれども、それはどうでもよいことで、絶望的と言われる状況の中で信仰を新たにする、神から見捨てられてしまったのではないかというような気持ちになっている人にむかって、「なぜそういうことを言うのか」「あなたは知らないのか」この言葉にイスラエルの人びとは支えられて希望を新たにして、さらにメシアの到来への思いを強くしたのでありましょう。

 「主に望みをおく人」として歩んでいく、残りの人生を自分の選んだ言葉の通りに生きたいと思います。

 

 

 

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