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2019年12月 1日 (日)

王の使命

小黙想会・土曜ミサ説教

20191130()、本郷教会

 

教会の典礼歴では年間という季節があって、その中ではイエス・キリストの宣教活動をわたくしたちは学ぶことになっています。

それ以外の季節は、明日から入る「待降節」という主の降誕を迎える準備をする季節、そのあと「降誕節」となります。

さらに、キリスト教で最も大切な日は復活祭でありますので、その復活祭の前の季節を40日間の「四旬節」と言い、復活を祝う準備をする特別な季節とされている。

そして、復活節の後は50日間聖霊降臨祭までの期間が「復活節」であって、復活したイエス・キリストと出会った弟子たちの体験を分かち合う時となっています。

この年間という季節に、教会は4つの福音書の朗読を通してイエスが何を語り、何をしたかということを伝えています。

日曜毎にわたくしたちは福音の朗読を聞いて、イエスをより深く知ろうと努めているのであります。

その年間最後の日曜日が「王であるキリスト」の祭日となっています。

イエスは王である、というのがどういう意味だろうかということを、わたくしたちは特にこの日学ぶわけであります。

復活されたイエスは、天の父のもとに上り、父からすべてのものを支配する権能を与えられました。

「王であるキリスト」の日は、そういう意味でのキリストがすべてのもの、この宇宙を含めて世界と人類を支配する王であるということを深く思う時であると思います。

今日の二つの聖書朗読の中で第二朗読は、そのようなイエス・キリストの位置、権威、役割を述べています。

しかしながら、福音の方は全く逆、つまり主権、権威あるいは支配という、イメージとは反対の姿をわたくしたちに示しているのであります。

それは嘲られ、辱められている一人の男の姿であります。

四つの福音書はそれぞれ受難の時のイエスの姿を伝えています。

王は王冠と言う冠を被るわけですけれども、ナザレのイエスの場合は茨で編んだ冠を被せられた。

そしてさらに罪人として、人々の嘲笑と侮蔑の対象とされたのでありました。

わたくしたちの宗教は、そのような人が開祖と言いましょうか、宗教を始めた人であるということになります。

天上で支配する「王であるキリスト」と、人間として地上で人びとから排斥され侮辱され辱められた「ナザレのイエス」との間には大変大きな落差があります。

イエスの使命を受け継いだ教会は、この二つの面つまり天上の王であるイエスと、地上で人びとから蔑まれた人間イエスの二つの面を引き継いでいるのであります。

ですから教会の最高指導者は、カトリック教会ではローマの司教ですが、ローマの司教は「僕(しもべ)たちに仕える僕」であると言われています。

しかし地上にある組織である以上、それなりの地位や名誉・権力がなければ統治できない訳ですから、地上ではイタリアの中央部ローマにあるバチカンという独立国の元首にもなっている。

以前は教皇領という領土があって、イタリアの中央部は直接ローマ教皇が支配していた地上の領主でもあったわけですが、それはイタリア王国が統一する時に領土を侵略されて奪われてしまった、それが却って幸いな結果をもたらしたと思います。

イスラエルの歴史で、王という存在は必ずしも良い評価を得ていなかった。

そして理想的な王というのは神に仕える僕である、そして人びとの苦難を自分で引き受けてそして人びとの贖いである主の僕という考えが次第に発展してきたのであります。

旧約聖書のイザヤ書で主の僕の歌という非常に素晴らしいというか、非常に意味深い人物の姿が描かれている。

主の僕の歌という特別の詩が載っているのであります。

(イザ42:1-449:1-650:4-952:13-53:12

イスラエルで最初に王になった人はサウルという人でしたが、この人は神の意に沿わない人として退けられました。

そもそもイスラエルには王というものは存在しなかった。

神がイスラエルの王であるので、神の御心をおこなう人こそ大切であって、王という世襲の権力者は王の支配と必ずしも合わないという考えがあったのだと思います。

サウルを継いだ人が有名なダビデ王であります。

ダビデは理想的な王として王の務めを果たしました。

神から託された使命、それは外敵から自分の民を守ることだけでなく、弱い立場に置かれている人びとを守り庇うということでありました。

弱い立場の人というのは、孤児、やもめ、そして寄留者という名前に代表されます。

ダビデは理想的な王でありましたが、人間として大きな罪を犯しました。

しかし聖書が告げている通り、彼はその自分の罪を認め、そして心からの痛悔を神に献げたのであります。

その点で、ダビデは理想の王と言えましょう。

しかしダビデ以降の王は、ほとんどすべて神の御心にかなう王とは言えなかった。

主の目に悪とされることを行ったという勤務評定が下されているのであります。

わたくしたち教会を今振り返って見る時に、自分たちは受け継いでいる使命、それはキリスト者という使命、キリスト者というのはご存じのように洗礼を受ける時に塗油を受けますので、「油注がれたもの」という意味であり、イスラエルの王のように油を注がれたわけでありますが、それはこの地上において神の慈しみを現わし、実行する者とされたのであります。

そのような自分の使命をわたくしたちはどのように実行しているだろうか。

待降節を明日にひかえて、イエス・キリストをそれぞれの心にお迎えするために、わたくしたち自身の心の内を見つめ、毎日忙しく暮らしておられるでしょうから静かな時間を持ち、自分自身の現実や心の動きを見つめながら、心の大掃除と言いましょうか、年末は大掃除の時ですけれども、わたくしたち自身自分の人生、今の状態、今の心の動きというものを見つめ、そして清々しい状態にしていただき、降誕祭に主イエス・キリストをお迎えすることができますよう祈りを献げたいと思います。

―――

第一朗読  サムエル記 下 5:1-3
(その日、)イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」
イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。

第二朗読  コロサイの信徒への手紙 1:12-20
(皆さん、わたしたちは、)光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝(しています。)御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

福音朗読  ルカによる福音書 23:35-43
(そのとき、議員たちはイエスを)あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

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コメント

とても分かりやすいお言葉で多くのことを教えていただきました。 ありがとうございました。

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