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2019年12月17日 (火)

イエスの弟子

宣教・福音化のための土曜日のミサ説教

20191214()、本郷教会

 

イエスは復活ののち、天に昇られるときに弟子たちに命じて言われました。

「全世界に行き、すべての人をわたしの弟子にしなさい。」

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ28:19-20

わたしの弟子をつくりなさいと言われました。

キリストの弟子であるかないかはどこで分かるのでしょうか。

教会という組織に所属していればキリストの弟子と言えるかというと、必ずしもそうではない。

教会に所属していないからキリストの弟子ではないと言えるかというと、それも必ずしもそうではない。

キリストの弟子であるかないかは、その人がどのように生きているかどうかによって決められるのであります。

ではどのようにしている人がキリストの弟子であり、キリストの弟子でないのかというと、今読んだマタイの福音の25章がその基準であると考えられる。

4回も繰り返し言われているわけであります。

「飢えている人に食べさせる。のどが渇いている人に飲ませる。裸の人に着せる。寝るところがない人に寝る場所を用意する。病気の人、牢にいる人を訪ねる。そういうことをしているか、していないかによって、キリストの弟子であるかないかが判定されると言っています。

4度も繰り返し言われているのであります。

これらは体を使っておこなう良いわざですが、同時に心を込めておこなう良いわざでもなければならない。

「肉体的ないつくしみのわざ」と「精神的ないつくしみのわざ」があると教皇フランシスコが言っております。

人間は本来善であるのか悪であるのかという論争があります。

性善説と性悪説と言います。

誰でも困っている人苦しんでいる人を見れば、そこで会議を開いてどうするかを決めるわけではありません。

何かしてあげたいと出来ることはすぐに実行するわけであります。

ですから人は本来良いことをする者であると言えましょう。

それは人間であれば誰の心にもすでに存在している良いことをしようという思いであります。

エレミヤの預言という旧約聖書では、「神様は人間の心の中に何を為すべきか、ということを教える掟が刻まれている」と言います。

外にある掟が人を規律するということよりも、誰でも心の中にある良心という良い心があって、その良い心に促されて、今自分が直面している,困っている人、苦しんでいる人のために出来ることをするのが人間であります。

たとえ組織としての教会に属していても、傍に苦しんでいる人がいるのに何もしないという場合があれば、教会には関係していないが、自分が出会う、苦しんでいる人飢えている人のためにできることを喜んでしますという人はたくさんいるわけであります。

イエスが言われたのは、教会をつくって教会のメンバーを増やしなさいということではなかった。

「わたしの弟子をつくりなさい」

わたくしたちは教会に所属していても、イエスの弟子であるかどうかを反省しなければならないことでありましょう。

 

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