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2019年12月 1日 (日)

現在の恐ろしい敵

年間第34水曜日 説教

20191127()、本郷教会

 

キリストの弟子たちは迫害を受け多くの人から憎まれることになるだろう、とイエスは言われます。

「しかしあなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によってあなたがたは命をかちとりなさい。」

このイエスの言葉に従って日本では多くの人が信仰を証し、殉教いたしました。実に日本は殉教者のくにであります。それから何百年も経過し、今の日本はかなり違う状況に置かれていると言えましょう。権力者による迫害ということはありません。権力者ではないが、しかし、考えようによってはもっと手強い、恐ろしい敵がわたしたちを襲っているいのではないかという気がします。

フランシスコ教皇は日本にまで足を運んでくださり、いろいろな機会にわたしたちにお話しくださいました。

東京ではカテドラルで「青年の集い」、そして東京ドームでは教皇ミサでわたしたちの、非常に心に響くお話をしてくださいました。

今、キリスト教の信仰の故に処刑される人はいないわけです。しかし多くの人は生き辛さを感じている。そして、誰かに処刑されるのではなく、自分を処刑している。自分で自分の命を絶ってしまうのです。自分の存在、自分の人生に意味を見出せない。そういう人がいるのです。

わたしたちの社会は経済的な利益、快適な生活、あるいは効率の良さということが、いわば偶像のようになって、わたしたちの心を支配しています。あるいは、この社会のなかでの成功とか失敗という基準が何となくあって、その中でわたしたちは自分の価値、自分の存在の意味を確認するように思わされています。しかし人間の価値はその人の社会における経済的な成果あるいは名誉とか地位とかによって決められるのではないのです。その人がその人であることだけで評価されなければならない。聖書は救いの歴史の中で、主イエス・キリストを頂点とする神からの啓示があり、神がわたしたちひとり一人を心から慈しんでくださっているのであります。教皇はこの状況から脱出するためには「神の慈しみを分かち合うことしかない」と言っておられたと思います。慈しみを分かち合うということは、一人ひとりの出来高というか、その人の業績とかによって評価するということではなく、すべての人の中におられる神の美しさを分かち合うということであり、それは人間が持っている限界とか弱さ、あるいは間違いをお互いに受け入れあい赦し合うことであると思います。

いまわたしたちに求められているのは、キリシタン時代の状況とは違う状況における殉教であり、それは、わたしたち互いに善い事、悪いこと、美しいこと、醜いこと、楽しいこと、嫌なことを分かち合うことによって、そこに神の国が来ていることを人々に示していくことではないかと思うのです。

 

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