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2020年1月

2020年1月31日 (金)

日本という土壌

聖ヨハネ・ボスコ司祭記念日 ミサ説教

2020年1月31日(金)、本郷教会

 

イエスは神の国の福音をたとえ話で説明されました。

今日の福音を見ますと二つのたとえが告げられています。

「神の国は土に種を撒いて、その種が芽を出して成長するようなものである。」

これを読むと先日(1月29日)の福音を思い出します。

神の国の福音は、聞く人の状態能力によってその効果が変わってきます。

受け取る人の心が良い土地であれば、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶという話でした。

今日の話は少し趣きが違う。

土に種が撒かれると、種は芽を出して成長します。

土には力がすでに宿っている、存在している。

種を受け取って発芽させ、成長させ、結実させるように働きかける力が、土壌の中には存在しているのだと言っているように思います。

 

わたくしは長年日本の福音宣教ということを考えてきました。

日本という土壌はどういう土壌なのだろうか。

聖フランシスコザビエルは、日本に福音をもたらした時に、日本人は非常にレベルの高い国民であることに驚いたそうであります。

教育もよく普及しているし、人びとの道徳も立派である、納得できない点もない訳ではないが、ということを本国に報告したと聞いています。

日本という土壌は、神の国の福音を受け取って、それを発芽させ成長させる良いものがすでに存在していると思います。

それは日本に住んでいるわたくしたち自身のことであり、わたくしたちの心を指していると思う。

今日の第一朗読は有名なダビデ王の重大な罪の話ですが、あの理想的な王であるダビデも大きな罪を犯している。

しかし、人間は本来良いもの、神の似姿として造られています。

機会があれば芽を出し実を結ぶことのできる可能性を秘めている、与えられている。

「からし種のたとえ」も告げられています。

どんなに小さな種であっても、成長して空の鳥が宿るほどの大きな木に成長する。

 

話が前後しますがわたくしたちの本郷教会にとって、次の日曜日は大切な日であります。

信徒総会の日です。

小さな存在である本郷教会ですが、空の鳥が巣を造るほどの大きな枝に成長する可能性を持っている。

そうなることができるのだ、そういう恵みはすでに与えられているのだ、ということを自覚して、心を神の招きに開くようにしたいと思います。

第一朗読  サムエル記 下 11:1-4a:4c-10a13-17
年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。
ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。
ダビデはヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」
ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」
ダビデはウリヤを招き、食事を共にして酔わせたが、夕暮れになるとウリヤは退出し、主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかった。翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。

福音朗読  マルコによる福音書 4:26-34
(
そのとき、イエスは人々に言われた。)「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 

聞く耳のある者は聞きなさい

年間第三木曜日 ミサ説教

2020130()、本郷教会

 

昨日の福音は「種蒔きのたとえ」でありました。

神の言葉は受け取る人の心の状態によって実の結び方が異なってくると言っているようです。

良い土地に蒔かれると何倍もの実を結ぶ。

今日の福音をその譬えで考えてみると、まず「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。

さらに「何を聞いているかに注意しなさい。」と続きます。

イエスの言葉をよく聞くならば、そして聞いて実行するならば、持っている人は更に多く与えられることになる。神の恵みに与っている者は、更に神の恵みに与るように注意して努力して心を開いていれば、更に豊かに恵みを与えられるでしょう。

しかし心を向けていなかったり、ほかのことに囚われていたりすると、既に与えられている恵みまで失うことになるから気をつけなさい、そう言っているのかもしれないと思います。

「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」とも言っています。

「自分の量る秤」とはどういう意味だろうか。人間の器の大きさによって受ける恵みも変わってくる。広い深い大きな心を持てば、神の恵みはそれだけ豊かに与えられるでしょう。

そういう意味ではないかと思います。

第一朗読  サムエル記 下 7:18-1924-29
(ナタンから主の言葉を告げられた後、)ダビデ王は主の御前に出て座し、次のように言った。「主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。主なる神よ、御目には、それもまた小さな事にすぎません。また、あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてありえましょうか。主よ、更にあなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御自分の民として堅く立て、あなた御自身がその神となられました。主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください。『万軍の主は、イスラエルの神』と唱えられる御名が、とこしえにあがめられますように。僕ダビデの家が御前に堅く据えられますように。万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。あなたは僕にこのような恵みの御言葉を賜りました。どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください。主なる神よ、あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。」

福音朗読  マルコによる福音書 4:21-25
(そのとき、イエスは人々にわれた。)「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 

 

 

2020年1月29日 (水)

キリストの言葉を受け入れる心

年間第三水曜日 ミサ説教

2020129()、本郷教会

第一朗読 サムエル下74-7

福音朗読 マルコ41-20

 

イエスはしばしば「たとえ」をもって、神の国の福音をお話しになりました。

今日の福音は「種蒔きのたとえ」と呼ばれています。

イエス御自身がこの「たとえ」の意味を説明されました。

「種」というのは神の御言葉、「種を撒く人」はイエス・キリスト御自身です。

パレスチナの農業では、種はいろいろなところに撒かれるようであります。

道端に落ちた種、石だらけの所に落ちた種、茨の中に落ちた種、そして良い土地に蒔かれた種、それぞれ撒かれた場所の状態によって実の結び方が異なってきます。

道端に撒かれると、すぐにサタンが来て御言葉を奪ってしまう。

石地に撒かれた場合は、一旦は御言葉を受け入れるが、根がないので困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまう。

茨の中に撒かれた場合、わたくしたちはこの場合に当てはまることが多いと思いますが、この世の思い煩いや富の誘惑、自分の欲望に囚われて、身を結ぶことができなくなる。

良い土地に蒔かれた場合は御言葉を受け入れて、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ。

カトリック教会の教えの中には、いろいろな定理・命題があります。

その中に次のような言い方がある

「何であっても受け入れられるものは、受け入れる人の受け入れ方に従って、受け入れられる。」(ラテン語で「Quid quid recipitur ad modum recipientis recipitur.」と言います。)

これは人間の認識の仕方についての法則であります。

人は物事を理解する時に、理解の仕方の枠組みというか、理解の仕方の仕組みというものが既に出来ていて、その人の受け入れる能力や方法によって受け入れるので、その結果が異なってくる。

わたくしたちの理解の仕方も、既に知っていることの中に受け入れようとする。

知らないことについても、すでに知っている事と結びつけて受け入れようとするわけであります。

今日のこの譬え話の説明のために、この定義が有効かどうか自信がありませんが、「心の貧しい人は幸いである」とイエスは言われた。

心から神の救い神の恵みを求めている人は、神の言葉が心の中に沁み込んでくるのであります。

 

2020年1月28日 (火)

わたしの兄弟・姉妹とはだれか

聖トマス・アクィナス司祭教会博士記念日
ミサ説教

2020128()、本郷教会

今日のマルコによる福音の場面を思い浮かべてみましょう。

イエスは神の国の福音を宣べ伝えていました。

多くの人がイエスの周りに集まって、話に聴き入っていた。

「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。」とあります。

そこにイエスの母と兄弟が、何か用があったのでしょうか、イエスに会うために訪ねて来た。

そういう場面であります。

「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、

イエスの言葉は意外なものでありました。

「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して、

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

ここに教会のありかたが示されていると思われます。

聖書全体を通して見ると、イスラエルという民族集団は、血縁によって成立していたと思われます。

マタイの福音書の冒頭は、カタカナの名前の羅列である系図が続くので、多くの人はここで躓いてしまう。

しかし、聖書にはそのような血縁を越えて、すべての人を一つに集めるという動きが流れている。

イスラエルの人びとは、十二の部族の連合体であったようですが、イエスによって天の父を信ずる人びとの範囲がユダヤ人以外の人に広がっていく様子が、使徒言行録などによって示されています。

さらに、「すべての人に福音を宣べ伝えるように」と復活したイエスが命じられ、その命令を受けた教会は、民族の境界を越え、国家の違いを越え、文化、言語の違いを越え、すべての人にイエス・キリストを宣べ伝えるという使命に励んできました。

しかし、同じイエス・キリストを信じる人の間に対立や相克があったことも事実であります。

ほかの宗教に対する態度が、必ずしもイエスが望んでいたようなものではなかった。

カトリック教会は二千年の歴史の中で絶えず反省と刷新を繰り返してきました。

第二バチカン公会議において、教会一致運動と諸宗教対話という路線をはっきりと打ち出したわけであります。

日本のカトリック教会も、1993年の第二回福音宣教推進全国会議を端緒に、家庭という現実を踏まえて、家族という繋がりを教会という繋がりと重ねて、より確かなものにしようとする努力が行われてきました。

第一朗読  サムエル記 下 6:12b-1517-19
(その日、)王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。
人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、兵士全員、イスラエルの群衆のすべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った。

福音朗読  マルコによる福音書 3:31-35
(そのとき、)イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年1月27日 (月)

赦されない罪

年間第三月曜日 ミサ説教

2020127()、本郷教会

 

今日の「マルコによる福音」も、悪霊についての話であります。

悪霊の存在、悪霊の働きを、わたくしたちはどう受け取ったらよいのでしょうか。

悪霊に対して聖霊があり、悪霊の働きと聖霊の働きがあります。

ある宗教では悪の力と善の力が両方働いて、ある時は善が勝ち、ある時は悪が勝つ、という解釈をしているようです。

聖アウグスティヌスが一時期信奉していたマニ教は、そういう善悪二元論であったそうです。

わたくしたちの宗教は、唯一の神、父と子と聖霊を信ずる宗教であります。

神によってすべての罪は赦される。

教皇フランシスコも「神はすべての罪を赦してくださる。どんな重い罪を犯しても神は赦してくださる。」とたびたび言っております。

しかし今日のイエスの言葉によれば、「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

この言葉をどう受け取ったらよいでしょうか。

律法学者たちはイエスのことを「悪霊にとりつかれた者、悪霊の頭(かしら)の力を使って悪霊を追い出す者」という、ひどい中傷をしていたのであります。

「聖霊を冒瀆する者は赦されない」という言葉は、わたくしたちが、自らを赦しの必要とする者と思い、赦しを願うならば、どんな罪でも赦していいただけるという意味であると思う。

言い換えれば、赦してもらう必要がない、自分には問題がないと思い、赦しを受け入れず赦しを拒む者は、自分で自分を許されない状態のままに置いている、ということになるのだと解釈されます。

聖霊はわたくしたちをいつも神の命に導いてくださいますが、わたくしたちの中にそれを受け入れない悪の力が働いている、その悪の力が悪霊だと考えられます。

わたくしたちは毎日「わたしたちを悪からお救いください」」と祈っています。

わたくしたちは赦していただくべき人間である、どうかわたしたちをおゆるしくださいと赦しを願うならば、神はいつでも赦してくださるのであります。

ーー

第一朗読  サムエル記 下 5:1-710
(その日、)イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」
イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。
ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した。王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」
しかしダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。
ダビデは次第に勢力を増し、万軍の神、主は彼と共におられた。

福音朗読  マルコによる福音書 3:22-30
(そのとき、)エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年1月26日 (日)

パウロの回心

宣教・福音化のためのミサ(パウロの回心)説教

2020125()、本郷教会

 

今日125日は聖パウロの回心を記念する日となっています。

聖パウロは、聖ペトロと並ぶ教会の二本の柱とでも言うべき重要な人物であります。

パウロは異邦人の使徒と呼ばれ、ユダヤ人ではない人びとにイエスの福音を宣べ伝えた人であります。

およそ紀元5年から10年頃と推定されますが、タルソスという繁栄していた都市で生まれました。

イエスよりも十歳くらい若いということになります。

ガマリエルという律法学者のもとで熱心に勉強した、いわば筋金入りのファリサイ派のユダヤ教徒でありました。

「サウロ」「サウル」はユダヤ名(ヘブライ語)であります。

彼は手に職を持っており、テントを造る「テント職人」と呼ばれています。(使18:3

第一朗読では、そのパウロがサウロと呼ばれていた時に、復活したイエスに出会って回心した次第を述べています。

使徒言行録には実に三回もパウロの回心の物語が出てきます。

(使9:1-2222:3-1626:12-18

内容はほぼ同じですが、三回も出てくるのは、それだけ重要な出来事だったからでありましょう。

その回心の出来事は紀元36年頃と推定されています。

イエスが十字架につけられた年が紀元30年と言われているので、その6年後のことです。

6年しか経っていなかった時期にパウロは回心して、熱烈なイエス・キリストの使徒になりました。

一体なにが起こったのでしょうか。

第一朗読ではその時の様子を告げています。

サウロという名前のパウロがダマスコへ向かう途中、天から光が差して来て、その光はあまりに眩しかったのでしょう、彼は地に倒れた。

そして「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

この声は、「同行していた人たちには、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えずに立っていた」

声は聞こえたということは、呼びかけている内容は分かったのでしょうか。

それともただ声がしたということだけなのか、そこは分からないですね。

そしてサウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあって、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」

サウルはイエスを迫害するつもりはなかったと思う。

イエスに従う人たちを迫害していた。

イエスの弟子たちを迫害することは、そのままイエスを迫害することになるという意味だと思われます。

「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」

このサウロを助ける人が、アナニアという人であります。

わたくしたちは自分だけでイエスの恵みを受けることが出来ない、難しい。

サウロもこのアナニアという人の手引き助けがあって、目が見えるようになり、立ち上がることができました。

アナニアはサウロがどんな人であるのかをすでに聞いていたので、そのサウロのために何かするように言われても納得できなかったのであります。

その時の主の言葉が非常に印象深い。

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」

サウロの方は志願するどころかむしろ正反対で、その気がないどころかキリスト教徒を根絶やしにするために働いていたわけですが、その人をイエスは選んで自分の使徒とされたわけであります。

イエスは十二人を選んで、十二使徒とされましたが、その使徒の中にはのちにイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダも入っていました。

これも分かり難いことですが、今度はキリスト教徒を猛烈に迫害しているその当人を選んで、自分の手足となる者に変身させた。

「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」

実際、サウロ(のちのパウロ)はたいへんな苦しみを体験しながら、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたのであります。

コリント書(2コリ11:24-29)には、自分の被った数々の苦難が列挙されております。

それを読むと、このパウロという人は非常に身体が頑健だったようで、とても並みの人間では耐えられそうにないような、非常に危険な旅行を幾度も体験したのであります。

何度も舟が難破して漂流したり、むち打ちの刑を受けたり、石を投げられたりと散々な目に遭っているわけですが、それでも彼はひるまずに最後までイエスの道を走り抜いたわけです。

さて、アナニアはサウロの上に手を置きました。

この「手を置く」という行為は、聖霊が降ることを意味しています。

こんにちでもミサの時に司教、司祭は手を差し伸べて、聖霊が降るようにと祈ります。

叙階式の時も、司教が司祭志願者の頭の上に手を置いて祈る、そして決められた祈りの言葉を唱えると、その瞬間その人は司祭に叙階されるのであります。

サウロをパウロにしたのは神の霊、聖霊です。

「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れて下さった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」とアナニアが言います。

「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」

『目からうろこ』という言い方は、普段から日本人が使うような言葉になっておりますが、起源はここにあります。

そのあとサウロは元気になって、すぐにイエス・キリストを神の子救い主と述べ始めた。

昨日まで迫害していた者が、今度は迫害される側に向かって、イエスこそ救い主と言ったものですから人びとは驚いた。

なかなか彼の言うことを信じようとはしなかった。

無理もないことですね。

それでもめげずにサウロは自分の務めを果たしたわけであります。

彼はしばしば、自分は神から選ばれイエス・キリストによって派遣されたキリストの使徒であると主張しています。

ペトロを始めとする十二使徒は、イエスと一緒にほぼ三年間生活を共にし、イエスから直接任命され、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」という命令を受けている者です。

しかし、パウロは生前のイエスに出会ってはいない。

復活したイエスが現れたと言っても誰が信じるだろうか。

同行の人はどういう風にこの事件を受け取ったのでしょうか。

天からの声というのが、同行の人に分かるような言葉であったのか。

それらは不明であります。

パウロは自分がイエスから召し出しを受けて、イエスの福音を宣べ伝えるように命令された者であるということを、繰り返し繰り返し主張しなければならなかったのであります。

さて、2008年にベネディクト16世教皇は「聖パウロ年」を定め、パウロについて勉強するようにという指示を出されたのであります。

その折にも、わたくしたちはパウロについて勉強したわけであります。

パウロは新約聖書に沢山の手紙を残しています。

パウロ自身は自分の書いた手紙が聖書になると思って書いたわけではなく、日々の宣教活動の中で必要に迫られて書いた手紙であります。

おそらく自分で直接書いた手紙ではなくて、口述筆記によって記され、最後に本人が署名したものが回覧されて、それが何年か経って新約聖書の正典となったと思われます。

パウロの教えの中心は、「人は律法を守ることによって正しい者、救われる者になることはできない。イエス・キリストを信じることによってのみ、救いに与るのである。」という点につきるのであります。

このパウロによってイエス・キリストの宗教は、ユダヤ教からキリスト教として独立したといえるのでないでしょうか。

ーー

第一朗読  使徒言行録 22:3-16
(その日、パウロは人々に言った。)「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。
ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」

福音朗読  マルコによる福音書 16:15-18
(そのとき、イエスは11人の弟子に現れて、)言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

祈りのヒント

わたしについて来なさい

年間第3主日A年

2020年1月26日、本郷教会

 

第一朗読 イザヤの預言  イザヤ 8・23b~9・3

第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 一コリント1・10-3、17

福音朗読 マタイによる福音 マタイ4・23

 

説教

 

主イエスは、漁師であったペトロとその兄弟アンデレをお召しになり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われました。

「わたしについて来なさい。」と言われたのであります。ペトロとアンデレはすぐにイエスに従いました。ペトロはご承知のように、十二人の使徒の頭(かしら)となり、最初のローマの司教とされてわたしたちカトリック教会の頭となった方です。

 

コリントの教会への手紙の朗読を聞きました。パウロが創立した教会であります。このコリントの教会には、仲間争い、分派、対立という問題が生じていたことが、きょうの朗読で告げられています。教会は、同じイエス・キリストを信じる神の民でありますが、時としてお互いに攻撃したり、排斥したりするということが起こりましたし、現在もある程度起こっているかもしれない。

昨日は、使徒パウロの回心の日でありました。使徒パウロ、使徒ペトロはわたしたちの教会の創立に大きな役割を果たしました。歴史の発展の中で、いろいろな事情からキリストの教会はいくつかの教派、教団に分かれてしまっています。そういう現状の中で、イエス・キリストにおいて、もっとひとつになろうという運動が起こってきました。教会一致運動であります。

1517年、今から503年前になりますが、ルーテルというアウグスチノ会の修道者が、結果的に宗教改革を開始しました。500年の間、対立、分裂が続いておりますが、第二バチカン公会議、62年から65年に開催されたこの会議においてわたしたちカトリック教会は対話をするという方向に転じたのであります。人の話をよく聴こうという姿勢になりました。そして50年の間、耳を傾けてみると、意外なことがわかってきた。両方の教会の教えは基本的に同じである。強調点、或いは表現の違いはあるが、基本的には同じように主イエス・キリストを理解し、受け取っているのであるということがわかりました。

キリスト教徒の間でも意見の違いがあっても、同じイエス・キリストを信じており、そして同じ聖書を正典として学んでおります。お互いの違いに注目するよりも、同じ信仰理解をもっと大切にするほうが、イエス・キリストのみ心にかなうことであります。この考え方をさらに広げますと、ほかの宗教の人々にも同じ態度をとらなければならないということになります。これも第二バチカン公会議の教えですが、ほかの宗教の教えから学びましょうという運動が、諸宗教対話ということであります。世界中の教会で、この諸宗教対話が勧められており、日本の教会でも司教協議会、司教たちの協力する機関、において、諸宗教対話部門が設置され、定期的にほかの宗教の方と対話するようにしております。わたくしも担当しておりました。

 

わたくしの心に残っている仏教の教えをひとつ、紹介したいと思います。

わたしたち宗教者はどんな宗教であれ、平和のために働かなければならない。戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない。

どこかで聞いた言葉だと思いませんか。「ユネスコ憲章」の言葉であります。

人の心の中に平和を妨げるものがある。それはなんであるのか。

仏教では「三毒」ということをいうそうであります。

「三毒」は三つの毒、ということで、難しい漢字ですけれども、「貪(とん) 瞋(じん) 癡(ち)」 といいます。

貪(とん)というのは貪欲のどん、で、むさぼるということ。「瞋」(じん)いうのも難しい字ですけれども、こうこう。 嫉み(ねたみ)、そねみ、怨み、いかる、憤るということですね。」

癡(ち)っていうのは病ダレの中に疑いという字を入れた字なんですけれども

認知症の痴とちょっと違って、中が疑うという字なんですけれども、これは、無明(むみょう)、無知という意味だそうです。無明というのは、光がない。きょうの第一朗読では、光ということが出てきますが、

光がない、というのは無知であるということです。真実を知ろうとしない、相手の立場に立って、相手のことを知ろうとしない。自分の本当の姿を見ようとしない。これは大変耳に痛い言葉ですね。

程度の差こそあれ、人間はこの三つの毒に侵されてと、仏教で教えているそうです。「貪瞋癡」

そこで、修行とは この「貪瞋癡」から解放されることであり、人の為に尽くす修行をすること。

それはとりもなおさず慈悲の行いに励む、ということであります。

 

慈悲といえば、フランシスコ教皇は、就任してすぐだったと思いますが、「慈しみの特別聖年」を宣言されました。

「わたしたちの神は慈しみ深い方であるから、あなたがたも慈しみ深いものとなりなさい」と言われます。そして慈しみ深くあるということはどういうことであるかというと、非常に具体的にお話になりました。

 

「飢えている人に食べ物を、渇いている人に飲み物を、裸の人に着るものを、泊まるところがない人に宿を、病気の人をお見舞いし、牢に繋がれている人を訪ねる。そして最後に亡くなった人に尽くす。死者を大切にする。」ということであります。

 

で、さらに、精神的な慈悲の行いが勧められています。

「疑いを持っている人に助言する。」

「無知な人に教える。」

「間違いを犯している人を戒める。」

「悲しんでいる人を慰める。」

「いろいろな侮辱をゆるす。」

「煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶ。」だそうです。

 

きょうの福音は、漁師であったペトロ、アンデレ、そして、ヤコブとヨハネを、イエスがお呼びになると、彼らはすぐさま、全てを捨てて従われました。「わたしについて来なさい。」と言われた。イエスが「ちょっと来て、わたしの説教をきいて、よく考えて、良ければ来なさい」と言ったのではなくて、「わたしについて来なさい」 それで終わり。ものごとがそのように行くと大変よろしいのですけれども、わたしたちの場合はなかなかそうは行かなかったのでありますが、考えてみると、結局、根本的な決断、それはだれかに出会ったときにその人について行くかどうかということであり、わたしたちの場合は、誰かを通して示されたイエス・キリストに、ついて行こう、途中でわからなくなったり、疑わしくなったり、疲れたりしても、それでも最後までついて行こう。

「わたしについて来なさい。」その声をもう一度心にこだまさせる必要があると思います。

2020年1月24日 (金)

12使徒の任命

聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士記念日 ミサ説教

2020年1月24日(金)、本郷教会

 

今日の福音は、イエスが山に登って御自分の意思で十二人を選び、使徒と名付け、十二使徒を任命された次第を告げています。

十二人を任命した目的は、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」

まず御自分のそばに置くためでありました。

御自分との親しい交わりの中で、十二人に自分の使命を理解させ、養成するためであったと思います。

使徒という言葉は、派遣された者という意味であり、彼らはイエスによって派遣され、宣教しました。

宣教というのは、神の国の知らせを宣言するという意味であります。

そしてイエスは、悪霊を追い出す権能をお授けになりました。

しばしば聖書に出てくる悪霊、汚れた霊、あるいはサタンという言葉は、現代のわたくしたちには分かり難い。

わたくしたちは、主の祈りで「わたしたちを悪からお救いください」と唱えております。

悪との戦いをおこなうための力を授けたという意味であると考えられます。

のちに十二使徒を中心に造られた教会は、十二使徒に与えられた使命を継続し、発展させています。

悪と戦うということが、イエスから直接受けた、教会の使命であると思います。

 

第一朗読は昨日の続きですが、サウルという人の難しい性格を言っているのでしょうか。

彼の心はダビデとの関係の中で大きく揺れ動いている。

何度もダビデのことで後悔し、ダビデの誠意を認めると言いながら、またダビデに対する憎しみや嫉妬に負けてしまう。

そのようなサウル王の心の動きが描かれていると思います。

――

第一朗読  サムエル記 上 24:3-21
(その日、)サウルはイスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って「山羊の岩」の付近に向かった。途中、羊の囲い場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた。ダビデの兵は言った。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです。」ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」
ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。」

福音朗読  マルコによる福音書 3:13-19
(そのとき、)イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

 

2020年1月23日 (木)

ダヴィデの嫉妬

年間第二木曜日 ミサ説教

2020年1月23日(木)、本郷教会

 

第一朗読「サムエル記」、福音朗読「マルコによる福音」を読んで、心に思うところを申し上げます。

 

マルコによる福音では、イエスが目覚ましい「いやし」をされたと告げている。

「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ」とあります。

病気は汚れた霊によって引き起こされるという考えが前提にあるからでしょうか。

「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」と続きます。

このイエスの「自分のことを言いふらさないように」という言葉は、イエスが病者や障がい者をいやした時によく使われる台詞であります。

これはなにを意味しているのだろうか。

「メシアの秘密」という言葉がありますが、おそらくイエスが目覚ましい働きをすることによって、人びとがイエスの使命を誤解し、地上の王にしようとすることを避けるためであったという考えがある。

五千人の人を養うためにパンを増やす奇跡をおこなったという話がありました。

この奇跡の話は四つの福音書すべてに出ています。四つの福音素が共に同じ話を伝えているわけであります。

人びとはイエスを王にしようとしたので、人々を避けて逃れていったとヨハネの福音で述べられています。

この「王」という者はなにであるのかということについて、イスラエルの歴史の中でいろいろな記述がなされています。

すでに朝のミサで出てきましたが(1月17日)、人びとは自分たちも王が必要だから王を任命して欲しいと要求をしたわけですね。

神さまはその民の要求を喜ばなかったが、サウルという人を任命しました。

このサウルは今日の朗読にあるように、ダビデに激しい嫉妬を覚え、ダビデを殺そうとします。

ダビデはサウルの息子のヨナタンと仲が良かったので、ヨナタンはダビデを守りました。

ヨナタンが父を戒めるとサウルは過ちを認めて、「主は生きておられる。彼を殺しはしない。」と誓いますが、またしばらくすると同じことになる。

サウルの心はダビデに対する怒り、憎しみ、嫉妬から逃れることができなかったことが窺えます。

王という名誉や権力に捉えられると、人間は神の前に素直な従順であることが非常に難しくなると思われます。

 

日本の教会の歴史において、短い生涯を神さまの招きに応えて貧しく清らかに生きた女性、

北原怜子(きたはらさとこ)さんは、ローマ教皇庁から尊者と認められました。

その北原さんの取り次ぎを求める祈りを、御命日である1月23日の今日、ご一緒に唱えたいと思います。

 

尊者エリザベト・マリア北原怜子の取り次ぎを求める祈り

 

主よ、あなたは

尊者エリザベト・マリア北原怜子に

多くの恵みをお与えになりました。

とりわけ東京で戦争の犠牲になり、

顧みられなかった貧しい人々に喜びをもって自らを与え、

輝く証しのうちに信仰生活をおくる力を与えてくださいました。

またけがれなきみ母マリアのご保護のもとに

小さな人々の育成と援助に愛をもって生涯を捧げる恵みをも

お与えくださいました。

わたしたちは彼女をとおして示された

あなたの業に心から感謝いたします。

主よ、エリザベト・マリア北原怜子の取り次ぎによって、

あなたに真心をもって祈るわたしたちに、

言葉と行いの一致のうちに信仰を証ししてゆく力を与え、

あなたを求めるすべての人に信仰の光を与えてください。

また、いま信頼をもって祈る

わたしたちの願いをききいれてください。

わたしたちの主、イエス・キリストによって、アーメン。

 

 

第一朗読  サムエル記 上 18:6-919:1-7
(その日、)皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。女たちは楽を奏し、歌い交わした。「サウルは千を討ちダビデは万を討った。」サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。
サウルは、息子のヨナタンと家臣の全員に、ダビデを殺すようにと命じた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデに深い愛情を抱いていたので、ダビデにこのことを告げた。「わたしの父サウルはあなたを殺そうとねらっている。朝になったら注意して隠れ場にとどまり、見つからないようにしていなさい。あなたのいる野原にわたしは出て行って父の傍らに立ち、あなたについて父に話してみる。様子を見て、あなたに知らせよう。」
ヨナタンは父サウルにダビデをかばって話した。「王がその僕であるダビデのゆえに、罪を犯したりなさいませんように。彼は父上に対して罪を犯していないばかりか、大変お役に立っているのです。彼が自分の命をかけてあのペリシテ人を討ったから、主はイスラエルの全軍に大勝利をお与えになったのです。あなたはそれを見て、喜び祝われたではありませんか。なぜ、罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか。」サウルはヨナタンの言葉を聞き入れて誓った。「主は生きておられる。彼を殺しはしない。」ヨナタンはダビデを呼んで、これをすべて彼に告げた。ヨナタンはサウルのもとにダビデを連れて行き、ダビデはこれまでどおりサウルに仕えることになった。

福音朗読  マルコによる福音書 3:7-12
(そのとき、)イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 

2020年1月22日 (水)

安息日論争

間第二水曜日 ミサ説教

2020122()、本郷教会

 

昨日の福音と今日の福音は、共に安息日を巡る論争を伝えています。

昨日、イエスは言われました。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マコ2:27

この言葉は人びとには許し難いと受け取られたと思います。

安息日は主の十戒の中の三番目の掟で、彼らは非常に重要な掟と考えていました。

昨日も申しましたが、安息日には何をしてはならないということが、律法学者の重要な研究課題でありました。

こんにちでもユダヤ教では、安息日にしてはならないこと許されることについての詳しい分類がされていると聞いております。

この議論は、わたくしたちにはあまり意味がないですね。

わたくしたちの場合は、主の日である日曜日があり、その日曜日をどう過ごすかということが大切であります。

昨日も言ったことですが、今はさほど日曜日の意味を考えることがないように思う。

これは問題であると思います。

さて、今日の福音では、イエスは最初から安息日に彼らが許されないと思っている行為を行うつもりであったことが窺えます。

いわば挑発的とも思える行為でありました。

そこで率直に感じるのは、なぜわざわざ彼らを怒らせるようなことを安息日にしたのかということであります。

安息日ではないほかの日時に手の萎えた人を癒すこともできたわけです。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

論理が飛躍していないでしょうか。

命を大切にするということは重要でありますが、手の萎えた人をいやす行為は、命を救うというほどのことではないのではないか。

「善を行うことか、悪を行うことか。」

答は明白であります。

しかし善いことであっても安息日にしなくともよいという論理があります。

今日のわたくしたちの場合、日曜日に《いやし》をおこなってよいかどうかについては、ほとんど議論の余地がないでしょう。

日曜日に家族の具合が悪くなったら救急車を呼ぶのは当たり前で、日曜日だからは止めておこうと思う人はいないわけです。

それでは、この安息日論争というのは、なにを意味しているのでしょうか。

そこでわたくしたちが考えるべきことは、イエスはなぜ律法学者やファリサイ派、ひいてはヘロデ派の人と対立し、処刑されるようになったのかということであります。

キリスト教の成立というのは、律法についての解釈の違い、律法とはなんであるかについての理解の違いから来ているとわたくしは思います。

 

第一朗読  サムエル記 上 17:32-3337:40-51
(その日、)ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」
ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。

 

 

福音朗読  マルコによる福音書 3:1-6
(そのとき、)イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 

 

 

2020年1月21日 (火)

主の日の意味

聖アグネスおとめ殉教者ミサ説教

2020121()、本郷教会

 

「安息日を守りなさい」という掟は、イスラエルの人びとにとって非常に重要でした。

こんにちでもユダヤ教徒は厳格に安息日を守るようにしているそうです。

キリスト教徒の場合、安息日の規定は廃止され、その代わり主の日である日曜日を聖とすることが重要な義務となっています。

日曜日のミサの参加、日曜日を主に献げるという掟がこんにちどうなっているのか。

はっきり言うと、事実上ほとんど守られていないわけです。

これをどう考えたら良いのでしょうか。

もちろん、いろいろな事情がありましょう。

日曜日に仕事をしなければならない人もいる、家族の中で自分だけが信者であるので毎日曜日に教会に出かけることが難しい人もいる。

しかし、どんな理由があるにせよ、主の日を聖としなさいという掟が廃止されたわけではない。

そして、なぜ主の日を聖としなければならないのかという理由について、わたくしたちはさらに黙想する必要があるのではないだろうか。

 

今の社会は、労働して収入を得るということが基本になっている社会です。

労働しない、自分のために働かない、何の利益にもならない時間を神さまに献げるということがほとんど行われていない。

今のユダヤ教徒がキリスト教徒にとって廃止された安息日を、こちらから見れば極端にまで守っているということを否定的に見るよりも、肯定的に見る必要があるのではないだろうか。

聞くところによりますと、何をしたら良いのか何をしたらいけないのかということが厳格に厳しく定められているそうです。

そこまでしなくても良いと思うが、しかし、日曜日をどう過ごすのかということについて、わたくしたちはもっと真剣に反省する必要がある。

自分のためではなく、神のために献げる時間であります。

神のために献げるということが、結局自分のために献げることになるのではないだろうかと思う。

 

 

第一朗読  サムエル記 上 16:1-13
(その日、)主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」
サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

福音朗読  マルコによる福音書 2:23-28
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

 

 

2020年1月20日 (月)

新しい革袋

年間第二月曜日 ミサ説教
2020年1月20日(月)、本郷教会

 

今日のサムエル記の結びにおいて、サムエルはサウルに言いました。
「主の御言葉を退けたあなたは 王位から退けられる。」
もともと、王の存在は神の喜びとするものではなかったとサムエル記は伝えています。
イスラエルの民は、周辺の国々に倣って王が欲しいとサムエルを通して神に要求したので、神はやむを得ずその要求を聞き入れ、サウルを王としました。
しかしサウルは神の御心にかなう王として、王の任務を果たすことができなかったのであります。
焼き尽くす献げ物やいけにえよりも、主の声に聞き従うことが大切であると言っています。

 

今日のマルコによる福音では、イエスの弟子たちは断食をしていなかったらしく、その点で非難を受けたようであります。
イエスは御自身を婚礼の花婿のような存在である、と例えています。
イスラエルの人びとに、神の福音の喜びを告げ知らせる使命を持っていました。
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
新しいぶどう酒は発酵して、古い革袋を破る恐れがある、という説明もあります。
ここでいう「新しいぶどう酒」とは、イエス御自身、あるいはイエスの福音を指していると思います。イエスによって新しい時代が到来したのです。
律法はいわば子供を養い育てる養育係のような役割を担っていたが、新たにイエスの福音が述べられて、イエスを信じることによる救いが人びとに告げられました。

 

パウロが力説していることは、人は律法を守ることによってではなく、イエスを信じる信仰によって救われるのであるということであります。
イエスの救いは、聖霊を受けることによって実現します。
聖霊のもたらす実り、それは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であるとガラテヤ書で述べられております。(ガラ5:22)
新しいぶどう酒とは、もしかしてイエスの復活と聖霊降臨を通して人びとに注がれる聖霊の恵みをさしているのかもしれません。

 

第一朗読  サムエル記 上 15:16-23
(その日、)サムエルはサウルに言った。「やめなさい。あなたに言わねばならないことがある。昨夜、主がわたしに語られたことだ。」サウルは言った。「お話しください。」
サムエルは言った。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」サウルはサムエルに答えた。「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです。」サムエルは言った。
「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる。」
福音朗読  マルコによる福音書 2:18-22
(そのとき、)ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 

 

神の小羊

年間第2主日A年

2020119日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言  イザヤ 49・3、5-6

第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 一コリント113

福音朗読 ヨハネによる福音 ヨハネ1・2934

 

説教

今日、年間第2主日の福音は、ヨハネによる福音、1章からとられております。

洗礼者ヨハネがいわれた言葉「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」という言葉を今日、少し深く味わうようにしたいと思います。

わたしたちは、イスラエルの民の中から生まれたキリスト教という宗教を、この日本において告げ知らせ宣教しているのであります。イスラエルという民族の歴史、文化、言語と非常に遠い環境にあるわたしたちが、このイスラエルの民の中から生まれたイエス・キリストを信じる宗教をどういうように理解し、どのように説明したらよいだろうか。これがわたしたちの課題であると思います。

今日の福音の言葉のおそらく中心となる表現は 「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉ですね。

あぁ、なるほどなるほど、と心から共感できればよろしいのですけれども、「神の小羊」という言葉はもう何度も何度も耳にしていて、もしかして素通りしているかもしれないんですけれども、なんで「神の小羊」が世の罪を取り除くことになるのかと言われたら、どう説明できるでしょうかね。

わたくしも、もう何十年もの信者ですが、あまり人に説明するということを考えたことがない。しかし、司祭になり、説教もするときに、もうわかっていることだからあまり言わなくともいい、という感じで過ごしてきてしまいましたが、ま、今回、ふとこの言葉を一般の人に、自分の家族に、友達に、もし説明する機会があったら、どういうように話すだろうか。皆さん、どうしますかね。

イスラエルの人々は、牛や羊を飼う人々だったですね。わたしたちの周りには、あまり、というかほとんど牛や羊っていうものはないわけです。それからこの「罪」という言葉ですが、まぁ、もちろん意味は知っていますけども、一般の人は「あなたは罪人(つみびと)です」といわれると、わたしは何も悪いことはしていないよ、と。ま、交通違反をしたりですね、或いは、人のことを憎らしいと思ったりすることはあるけれども、それがどうしたんだ、というような反応が、ま、言葉には出さないかもしれないけれども、起こるのではないだろうか。どう言ったらよいのかなーと思うんです。でもそれで終わりだったら仕事にならないわけなので、一生懸命考え祈っています。これはわたくしがやらなければならないことなんですけれども、皆さんもしなければならない宿題なんですね。それでこの問題を延々と話すわけにいかないんですけれども、今、献げているミサですね、ミサの中で、毎回、ほとんど毎回、「神の小羊」という言葉を使っているわけで、平和の賛歌で「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、我らをあわれみたまえ」 と唱えています。栄光の讃歌でも「世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」と唱えています。

そこでヒントになるようなことをご一緒に、ちょっとの時間しかありませんけれども、考えてみたいと思う。

この聖書と典礼はいつも脚注、この下の欄に小さな活字で大切な言葉についての説明がついております。

神の小羊というのは過越祭のときに捧げられる犠牲なんですね。

イスラエルの民はエジプトから脱出したことを記念する過越の祭りというのをしてきました。

そして、そのイスラエルの民の罪を赦してもらうために捧げる生贄(いけにえ)でありました。

イスラエルの人々は、モーセを通して律法を授かったわけです。この律法を守ることができなかった。そういう場合どうするかというと、神様には「わたしたちは、守りおこないます。」と約束したわけですから、約束を守れなかった場合には、お詫びして赦してもらうことになるわけで、お詫びする、そのお詫びの仕方が、彼らのやり方としては、動物の生贄を捧げる。動物、自分たちの財産である動物、家畜、羊、牛、あるいは山羊とかを、屠る(ほふる)、殺して神様にささげる、特に、「焼き尽くすという生贄」という生贄があって、焼き尽くすんですから、全部焼いて、あとかたなく、灰しか残らないようにする献げ方なんだろうと思う。そうやって、「神様、ごめんなさい、おゆるしください」とお詫びするわけですが、罪の度に、何度も何度も繰り返しお詫びしなければならない。

そのうちに、預言者を通して神様言われた。「わたしはもうあなた方の血なまぐさい生贄には飽きた、もうそんなものはもういらないよ、」と。「わたしが願っているのは動物の生贄ではない。あなた方が心から悔い改めることだ、あなた方の心が欲しいんだ、心だよ」そういうお告げがあったのです。

わたしはあなた方から動物の生贄を望んではいない、そういわれました。

そういうイスラエルの歴史の中で、ナザレのイエスというひとが現れたのであります。

皆さま、ご存じと思いますが、このミサの中でわたしたちは繰り返し罪の赦しのための犠牲を、パンと葡萄酒という形で捧げています。

昔のように動物を殺して、動物の血を流して、神様に捧げる必要はない。それはイエス・キリストがただ一回だけ、十字架にかかってすべての罪を贖う(あがなう)、罪のお詫びとなる犠牲となってくださったので、もう神様に動物の生贄を捧げる必要はなくなった。

わたしたちはその新しい時代、イエス・キリストによってもたらされた新約の恵みを受け取る時代に生きているのであります。

使徒パウロの言葉をもう一度思い起こしましょう。

「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために、御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ書8・3)

この言葉を、まぁ、わかりやすいとは言えないですね。

神は御ひとりごイエス・キリストを送ってくださった。わたしたちと同じ人間となってくださった。わたしたちと同じ人間の弱さを身にまとってくださった。そしてその体をもって神様へのお詫びの生贄となってくださり、そして罪を罪の結果として受けるべき罰を、イエス・キリストが十字架によって受けてくださったのである。そういうように説明していると思います。

こういう説明が我々、この日本列島に住んでいる者にとってわかりやすいのかどうか、ずっと昔から考えているけれども、わかりやすいとは言えないような気がするが、しかし神様に動物の生贄を捧げることは必要ない、必要ないどころかあまり意味がないということはわかります。

何が大切かというと、神様がお望みになっていることを行うことであって、形式的に儀式に与り動物を殺してそれで済んだということは、そういう生き方は意味がないんだ、ということをイエス・キリストは自分の命をかけて示してくださったのであります。ですから、我々は血なまぐさい生贄は捧げません。そのかわり イエス・キリストが生涯をかけて示してくださった生き方を記念するミサ聖祭を捧げているのであります。

 

2020年1月19日 (日)

タリタ・クム

病者のためのミサ説教

                                                                                                                              2020年1月18日(土)、本郷教会

病者のためのミサを献げながら、福音書からイエスが病気の人や障がいのある人にどのようになさったのかということを学んでいきたいと思います。
非常に目立つことは、イエスが多くの病人をいやしたり、悪霊に憑かれた人から悪霊を追放したという記述であります。
今読んだルカによる福音では、二つのいやしの話が告げられている。
一つはヤイロという会堂長の娘のよみがえり、もう一つは出血症の女性のいやしの話です。
この二つの話が同時進行のように述べられています。
ヤイロの娘の話の中に、出血症の女性の話が挿入されているという形になります。
出血症の女性の方の話をまず見ますと、どんなに辛いどんなに苦しい体験を重ねてきたことでしょうか。
十二年間にもわたって出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしが、一向に効き目がなく、治らなかった。
出血している女性には触れてはいけないという考えがイスラエルの人びとの中にあったので、この女性がイエスに触れるということはその禁を犯すということになるわけです。
こっそり分からないようにすれば何とかなると思ったのでしょうか。
みんなの見ている前でイエスの体に触れる、イエスに触れていただくというわけにはいかない、そういう状況だったと思います。
群衆に紛れてイエスの服の房に触れると、たちどころに出血が止まったと述べられている。
「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し」(ルカ8:47)とありますが、触れてはいけないという禁を犯し、たちどころにいやされたという状況で、イエスがどういう態度をとるのか注目されるところですけれども、イエスは言われました。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ8:48)
「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、かなり頻繁にイエスの口から発せられた言葉であります。
「信仰」と「いやし」との間には何か関係があるのでしょうか。
この出血症のいやしの話はほかの福音書にも出ていますが、この娘はイエスの体にさえ触れればいやされるであろうという強い信仰を持っていたのであります。
「安心して行きなさい。」とイエスは言われましたので、この女性はどんなにか喜んだでしょうか。
 
そして、この女性のいやしが間に挟まっている形でヤイロという会堂長の娘、十二歳の少女の話が進行していきます。
これから人生が花開いていく時に死ななければならない、本人もさることながら、家族の嘆きはどんなに深かったかと思います。
会堂長はイエスに娘のいやしを願ったが、家に着く前に娘は息を引き取ったので、遣いを送ってもう来ていただくには及びませんと伝えました。
ここで言われたイエスの言葉は、
「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(ルカ8:50)
この「恐れることはない。」という言葉も、イエスがたびたび口にしている言葉ですね。
わたくしたちはどういう場合に恐れを持つのでしょうか。
いろいろな場合がある
もちろん第一次的には健康に関することでしょうが、それ以外にも生身の人間はいろいろなことを恐れている。
何かを失うこと、財産を失うこと、名誉を失うこと、失敗することなどさまざまなことを恐れている。
信仰というのは、人間としての恐れを持つとしても、でも恐れない、ということではないだろうか。
恐れるなと言われても、生身の人間は恐れるわけです。
ヨハネの手紙にこういう言葉があります。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(一ヨハ4:18)
愛があれば恐れることはない、恐れがあるのは愛がないからだと言われてしまうと、愛のテストみたいですけれども。
人間はいろいろなことに恐れます。
恐れても恐れに負けない、恐れを越える力、それが信仰だと思います。
「恐れることはない、ただ信じなさい。」
信じるという場合に、いやしを受ける人の信仰がまず考えられます。
出血症の女性は、その思いつめたとさえ言える信仰、イエスへの深い信仰、信頼の心にたいしてイエスは応えられたと思われる。
ヤイロの娘の場合は、娘自身の信仰については何も言っていない。
父母を始めとする娘のことを心配している人びとの信仰に対して、「ただ信じなさい。」と言われたのであります。
さて、イエスは会堂長の家に着いて娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけると娘はすぐに起きあがったとあります
「その霊が戻って」という言葉が入っているので、死ぬというのは霊が去ることであり、
生き返るというのは、その霊が戻るというふうに考えたのでしょうか。
イエスが娘の手を取り、言葉をかけると、彼の言葉は力があって、その言葉の内に込められている真実が現実になったのであります。

 

共観福音書の並行箇所を見ると、マルコの福音では、
「そして子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。』という意味である。」(マコ5:41)
イエスの言われた「タリタ、クム」はアラム語でありまして、ギリシア語で編纂された新約聖書には、イエスが語った言葉の音声として、いくつかのアラム語が直接使われている例があります。
それは非常に印象が強かったために、音声がそのまま耳に残ってほかの人にも伝えられていった「言葉は力」という考えです。
現代のわれわれの力は薄く、いい加減なものという感じがありますが、本来人間は言葉というものが持つ力を信じていた。
良い言葉を使い、悪い言葉は使わないように努めていた。
良いことを言えば良いことが起こり、悪いことを言えば悪いことが起こると素朴に信じていたのであります。
イエスの「タリタ、クム」(娘よ、起きなさい)
この「タリタ、クム」という言葉が発せられると、娘の霊が戻ってきてすぐに起きあがったのでありました。

イエスとはどんなかたであったのかということを、日々より深く知るように努めることが、わたくしたちの務めであります。
すべての人が心と体の健康を願っています。
なかなか実現は難しいわけですが、今日の第一朗読にもあるように、人の痛みや苦しみを担うことによって、わたくしたちは互いに支え合い、助け合うことができるのであります。
今日のミサ、そして今日授けられる病者の油が、わたくしたちの力、わたくしたちの希望となりますように祈ります。
――

 

第一朗読 イザヤの預言 53・1-5
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 

福音朗読  ルカによる福音書 8・40-56
イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。
イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」エスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

 

 

 

2020年1月17日 (金)

イスラエルの王制の始まり

年間第一金曜日 聖アントニオ修道院長記念日 ミサ説教

2020年1月17日(金)、本郷教会

 

今日のサムエル記は、王制の起源について述べています。

イスラエルには、もともと王という存在はありませんでした。

周囲の部族はそれぞれ王と呼ばれる人を戴いていた。

しかしイスラエルの民の王は主であると考えられていたので、王の存在を必要としてきませんでした。

しかし今日のサムエル記が告げているように、人びとはどうしても王が必要だとサムエルに訴えたのであります。

サムエルは、王の存在はよくないと考えておりました。

しかし民の強い要求に屈し、それを主に申し上げると、主は民の要求を聞き入れることに同意されたのであります。

「サムエルは民の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れた。主はサムエルに言われた。

『彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。』」

 

王の権能がどういうことであるかということが、今日の朗読で具体的に告げられています。

これを聞くと、王制というものに対してイスラエルの歴史は否定的であったと思われる。

サムエルはまずサウルという人に油を注いで王とした。

以後の歴史は御承知の通り、サウルが退けられてダビデが王となり、ダビデのあとはソロモン、ソロモンのあとはイスラエルとユダの二つの国に分裂し、それぞれの国は滅亡の道を辿ることとなります。

歴代の王のほとんど全員が、「主の目には悪とされることを行った」という評価を得ている人たちでありました。

 

「王であるキリスト」(典礼歴最後の主日)という日があります。

イエス・キリストは神がおのぞみになる王、神の御心をおこなう王として来られたのであります。

 

さて、今日の福音はイエスが中風(ちゅうぶ)の人をいやされたという話です。

病気のいやしと罪の赦しということの関係がどうなっているのか。あるのかないのか。

いやすということと、罪を赦すということは、どういうことになるのか,

ということを考えために非常に重要な箇所であると思います。

―――

第一朗読  サムエル記 上 8:4-7、10-22a
(その日、)イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」
サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた。彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。
また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。
また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。
また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。
あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」
民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」サムエルは民の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れた。主はサムエルに言われた。「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」

福音朗読  マルコによる福音書 2:1-12
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

 

2020年1月16日 (木)

既定の病

年間第一木曜日 ミサ説教

2020116()、本郷教会

今日のマタイによる福音は、重い皮膚病の人をイエスがいやされたという話です。

110日の福音も同じような内容でありました。

主の公現後金曜日のルカによる福音であります。

マタイ・マルコ・ルカは共観福音書と言われていて、共通する内容を多く記載しており、並行箇所と言われています。

繰り返しお話しする必要はないと思いますが、「重い皮膚病」という翻訳が妥当であるかということは未だ議論されている。

もともとは、ライ病と訳されていた。

しかし日本でもライ予防法(1953-1996)という法律が廃止され、ライ病者と呼ぶことは差別につながるということになり、ハンセン病という呼称も採用されましたが、新共同訳の聖書では、現在のところ「重い皮膚病」となっている。

新共同訳は刊行からほぼ三十年経過しているので、新しい翻訳が必要であるということになり、聖書協会は先日新しい翻訳を発表、出版しました。

そこでは「規定の病(きていのやまい)」という翻訳になっています。

レビ記で規定されている病という意味です。

ツァーラアトという言葉が原文(ヘブライ語)ですが、旧約聖書のレビ記(レビ13:2-46)で規定されている皮膚病という意味で規定の病としたのですが、それについても異論がある。

旧約聖書だけではありませんが、聖書の翻訳は難しい。

今日の福音から注目すべきもう一つの点は、イエスがいやされた人にむかって厳しく注意していわれた言葉です。

「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」

重い皮膚病を被っていた苦しみは、肉体上の苦しみよりもむしろ社会的な苦しみ、人びとから蔑視され、疎外され、排除されるという苦しみでした。

いやされたということを祭司に証明してもらえれば、社会復帰ができるのであります。

「だれにも、何も話さないように」となぜイエスは言われたのでしょうか。

当時、この病気に罹っていた人は非常に多かったと思われる。

噂を聞いて、数えきれない人がイエスのところに押し寄せてくるようになったでしょう。

それを恐れてのことでしょうか。

イエスが述べた福音は神の国の福音であります。

難病がいやされるということだけに人びとの注意が集中して、神の国の到来ということに人びとの心が向かないようになるということを恐れてのことでしょうか。

「メシアの秘密」という言葉があって、「メシアの秘密」とは何であるのかということが論議されてきました。

 

第一朗読  サムエル記 上 4:1b-11
(その日、)イスラエルはペリシテに向かって出撃し、エベン・エゼルに陣を敷いた。一方、ペリシテ軍はアフェクに陣を敷き、イスラエル軍に向かって戦列を整えた。戦いは広がり、イスラエル軍はペリシテ軍に打ち負かされて、この野戦でおよそ四千の兵士が討ち死にした。兵士たちが陣営に戻ると、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。」

兵士たちはシロに人をやって、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱を、そこから担いで来させた。エリの二人の息子ホフニとピネハスも神の契約の箱に従って来た。主の契約の箱が陣営に到着すると、イスラエルの全軍が大歓声をあげたので、地がどよめいた。ペリシテ軍は歓声を聞いて言った。「ヘブライ人の陣営にどよめくあの大歓声は何だろう。」そして、主の箱がイスラエル軍の陣営に到着したと知ると、ペリシテ軍は、神がイスラエル軍の陣営に来たと言い合い、恐れて言った。「大変だ。このようなことはついぞなかったことだ。大変なことになった。あの強力な神の手から我々を救える者があろうか。あの神は荒れ野でさまざまな災いを与えてエジプトを撃った神だ。ペリシテ人よ、雄々しく男らしくあれ。さもなければ、ヘブライ人があなたたちに仕えていたように、あなたたちが彼らに仕えることになる。男らしく彼らと戦え。」
こうしてペリシテ軍は戦い、イスラエル軍は打ち負かされて、それぞれの天幕に逃げ帰った。打撃は非常に大きく、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。神の箱は奪われ、エリの二人の息子ホフニとピネハスは死んだ。

 

 

福音朗読  マルコによる福音書 1:40-45
(そのとき、)重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

 

 

 

 

 

 

癒し、悪霊の追放、引きこもり

年間第一水曜日ミサ説教

2020115()、本郷教会

 

「主の洗礼」の日を祝ったわたくしたちは、その翌日から年間という典礼の期間に入りました。

13日の月曜日から「サムエル記」という旧約聖書の朗読が始まりました。

サムエルという預言者の生涯を告げる旧約聖書の書物であります。

サムエル記ではサウル、そしてダビデという二人の王の話が展開していきます。

今日の朗読では、少年サムエルがシロの神殿で寝ている時に神の呼びかけを受けたという話が述べられている。

聖書の中で、神はしばしば夢の中であるいは寝ている時に直接話しかけられます。

三度にわたって神は、まだ幼い少年のサムエルに話しかけられました。

エリという祭司は、「サムエル、サムエル」という声がしたら、次のように答えなさいと言っています。

「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております。」

サムエルは救いの歴史の中で大きな役割を果たしました。

今日の福音で、イエスはシモンのしゅうとめをおいやしになりました。

夕方になって日が沈むと多くの人がイエスのところに病人や悪霊にとりつかれた人を連れてきました。

日が沈むと次の日になるということなので、安息日が終わったという意味ですね。

安息日に労働してはいけないということですので、日が沈んで安息日が終わったという意味です。

イエスは病人をいやし、悪霊を追い出されました。

イエスのなさったことは何であったかというと、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書が告げている頻繫におこなわれたみわざは、いやしということ、悪霊の追放ということでありました。

イエスの使命を受け継いでいるわたくしたち教会は、現代においてイエスのおこったことをどのように実行すべきでしょうか、実行することができるでしょうか。

昨日の夜は、教皇フランシスコの「福音の喜び」という使徒的勧告を勉強する日でしたが、わたくしはその後遅い夕食を摂りながらテレビのチャンネルをあちこち回すと、引きこもりの人を支援する活動をしている人の話が映っていました。

日本全国にたいへんな数の人が引き籠っている、そういう人をどういうふうに支援するかということに生涯を捧げている五十過ぎの人の話でありました。

わたくしたち、日本の教会、東京教区、そして本郷教会は何のためにここに存在するのか。

その問いを自分に問わなければならないと思う。

 

第一朗読  サムエル記 上 3:1-1019-20
少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。


主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。

主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」

サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。

福音朗読  マルコによる福音書 1:29-39
(そのとき、イエスは)会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。


朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 

 

 

 

 

 

2020年1月12日 (日)

Baptism of the Lord

Baptism of the Lord A

January 12, 2020, Hongo Church

First Reading      Isaiah 42:1-4, 6-7

Second Reading Acts 10:34–38

Gospel          Matthew 3:13–17

Jesus came from Galilee to John at the Jordan
to be baptized by him.
John tried to prevent him, saying,
“I need to be baptized by you,
and yet you are coming to me?”
Jesus said to him in reply,
“Allow it now, for thus it is fitting for us
to fulfill all righteousness.”
Then he allowed him.
After Jesus was baptized,
he came up from the water and behold,
the heavens were opened for him,
and he saw the Spirit of God descending like a dove
and coming upon him.
And a voice came from the heavens, saying,
“This is my beloved Son, with whom I am well pleased.”

- - -

Homily

Jesus was baptized by John the Baptist in the Jordan River.

Then the heavens opened, and the spirit of God fell on Jesus like a dove. And there was a voice from heaven.

"This is my Beloved Son,with whom I am wel pleased."

It is also possible to say, "It is my pleasure."

The Church believes that the voice of God that "my favor rests on him." has already been prophesied in the Book of Isaiah in the Old Testament.

Let's remember the first reading.

A person called "Servant of the Lord" appears. "Here is my servant whom I uphold, my chosen one with whom I am pleased, upon whom O have put my Spirit."

A bruise reed. Is it a person who is already in a broken state that it breaks if there is a little already? "Dark light" Does it mean a weak person who is in a state where the fire goes out when the wind blows?

It tells these people that I am a servant of the Lord who takes care of them gently and carefully.

In addition, Peter said in today's second reading.

"God anointed Jesus of Nazareth with the Holy Spirit and power. He went about doing good work and healing all those oppressed by evil, for God is with him

 

Today we commemorate that Jesus of Nazareth was baptized.

We were baptized, too. And then received the Holy Spirit and was made a Child of God.

Being a child of God means that it was "made similar to Jesus."

It was not exactly the same as Jesus, but, well, so to speak, Jesus' brother. We have made to be the lives of the Son of God because the Eternal Word has given us the same weak humanity as we do.

Some of us still have weaknesses, fragility, or, if we dare to say, miserable parts.

Sometimes you step off your feet. But we are already made a child of God.

Isn't it important to deepen that awareness today?

When we look at others and look back at ourselves, we may wonder if this is a child of God, but if we look with the eyes of faith, we are already children of God.

God's grace is invisible, but faith believes that the grace of the invisible God works and lives that way, isn't it?

According to the Gospel of John, we have already been transferred to eternal life by believing in Jesus Christ.

So what is the difference between Jesus Christ and us?

This question, in other things, is like an eternal question.

In the case of Jesus, there is a perfect unity between Jesus, the human being, and Christ, the Son of God. Everything Jesus did was pleased with the will of God.

In our case, it's hard to do that. But in general, I think we live according to God's will. It's not perfect. But we work to live the way God wants us to. And it is because we receive the Holy Spirit of God, and the Holy Spirit has cleansed, encouraged, and moved us in us. We can say that we are given to the "divinity" of God's life.

 

Let us review this faith again and renew our resolve and continue our journey of the year 2020.

 

わたしたちも神の命に与っている

の洗礼 A

2020112日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言(イザヤ42:1-46-7
第二朗読 使徒たちの宣教(使徒言行録10:34-38
福音朗読 マタイによる福音(マタイ3:13-17

 

説教

イエスは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。

そのとき、天が開いて、神の霊が鳩のようにイエスの上に降ってきたのであります。そして、天からの声がしました。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」(マタイ313
「わたしの喜びとするものである」という言い方もできるそうであります。

わたしの心に適う、わたしの喜びとするものであるという神の声は、既に、旧約聖書の『イザヤ書』において預言されていたと教会は考えています。

第一朗読を思い出してみましょう。
「主の僕(しもべ)」と呼ばれる人物が登場します。この僕は、神が選んだもの、神の霊が注がれたものであります。彼は、大きな声を出すことはしない、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことが無い。」(イザヤ42:3

「傷ついた葦」もう、ちょっとしたことがあればポッキリ折れてしまうような、打ちひしがれた状態にある人のことでしょうか。「暗くなってゆく灯心」風が吹くと火が消えてしまうような状態にある、弱り果てている人のことを言うのでしょうか。

そういう人達に対して、やさしく、注意深く取り計らう主の僕の姿が告げられています。

さらに、きょうの第二朗読でペトロが言っております。
ナザレのイエスは聖霊と力によって油注がれたものであり、彼は方々を巡り歩いて人々を助け、悪霊に苦しめられている人を全て癒された。

きょうは、そのナザレのイエスが洗礼を受けたことを記念する日であります。
わたしたちも洗礼を受けました。そして、そのとき、聖霊を受け、神の子とされたのであります。
神の子とされたということは、“イエスと同じようなものとされた”ということを意味している。

イエスと全く同じものになったのではないが、まあ、イエスの兄弟。わたしたち人間は、永遠のみことばがわたしたちと同じ弱い人間性を執って下さったことによって、わたしたちも神の子の命に与るものとされました。
わたしたちの中には、依然として、弱さ、脆さ、或いは、敢えて言うならば惨めな部分が残っています。
足を踏み外すこともある。しかし、わたしたちは既に神の子とされています。
その自覚を、きょう深めることが大切ではないでしょうか。

わたしたちは、ほかの人を見、そして自分自身を振り返るときに、これで神の子かなあ、などと思うことがあるかもしれませんが、信仰の目で観るならば、わたしたちは既に神の子となっているのであります。

神の恵みは目に見えませんが、信仰は、目に見えない神の恵みが働いているということを信じ、そして、そのように生きることではないでしょうか。

ヨハネの福音によりますと、わたしたちはイエス・キリストを信じることによって、既に、永遠の命に移されているのであります。

それでは、イエス・キリストとわたしたちとの間には、どのような違いがあるのだろうか。
この問いは、謂わば、永遠の問いのようなものであります。

イエスの場合、人間であるイエスと、神の子であるキリストとの間には完全な一致があります。
イエスのなさることは全て、神のみ旨(こころ)に適ったことでありました。

わたしたちの場合は、なかなかそうはいかない。しかし、概ね、わたしたちは神のみ旨に従って生きていると思います。完全ではないですが。しかし、神さまがお望みになるように生きようと勤めています。そして、それができているのは神の霊、聖霊を受けているからであり、聖霊がわたしたちの中でわたしたちを浄め、励まし、動かしてくださっているのであります。わたしたちはいわば、神の命、人性と神性の「神性」に与っているということができます。
この信仰をもう一度確かめ、そして決意を新たにして2020年の歩みを続けて参りましょう。

 

 

2020年1月10日 (金)

重い皮膚病、ツァーラアト

降誕節金曜日(主の公現後)

2020年1月10日(金)、本郷教会

 

ナザレのイエスという人は何をした人であるかと言いますと、イエスのなさったことは4つの福音書が告げています。

非常に目立つことは、イエスが癒しということをなさったということです。

病者の癒し、障がい者の癒し、そして悪霊の追放ということをされました。

今日の福音は重い皮膚病の人を清くしたという話です。

重い皮膚病とは従来「らい病」と訳されていましたが、いろいろな問題が指摘されて、現在「重い皮膚病」という翻訳になっています。

従来ハンセン病と言われていました。

研究が進むに従って、必ずしもハンセン病と重い皮膚病が一致するものではないということが分かってきた。

今なお、どういう訳語が良いのかを論議されています。

ヘブライ語の原文は「ツァーラアト」と言います。

カビという意味があるようであります。

この病気にかかった人は、全身が非常に醜い状態になるだけではなく、共同体から排除され差別されていました。

そこでその癒しと清めを受けた場合には、祭司に体を見せ、そして清めの献げ物をして社会復帰が許されるようになっていたそうであります。

現代ではハンセン病は決して不治の病ではなくなりましたが、この病気によって差別されるという辛さは、今もわたくしたちが抱えている大きな問題ではないかと思います。

なお、第一朗読は使徒ヨハネの手紙であります。

今日の朗読の最後の部分をもう一度心に刻みつけたいと思います。

「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」

ヨハネによれば永遠の命というのは、父である神とその父がお遣わしになったイエス・キリストを信じることであり、御子イエス・キリストを信じる者はその時から永遠の命に移されているのであります。

 

第一朗読  ヨハネの手紙 一 5:5-13
(愛する皆さん、)だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません
神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。

福音朗読  ルカによる福音書 5:12-16
イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

 

イエス宣教の開始

降誕節木曜日(主の公現後)

202019()、本郷教会

 

今読んだ「ルカによる福音」は、イエスが故郷のナザレの会堂で宣教活動を開始した場面を告げています。

非常に印象的な、記述、目に見えるような光景が浮かんでくるようなルカの記述ではないでしょうか。

イエスは子供の時からナザレの会堂にたびたび通っておられたのでありましょう。

会堂でおこなわれていた礼拝は、どういうようにして進行していたのでしょうか。(式次第)

ここに出てくる「聖書」とは、われわれのいう旧約聖書のことであります。

決まった箇所を朗読するのではなくて、その都度朗読する者が箇所を選ぶことができたのでしょうか。

今までは、たまたま開いた箇所が次の箇所であったというように読めていたのですが、ほかの翻訳を読むと、イエスはわざわざこの箇所を探し当てて、そしてそれを読み上げられたというようにも読めます。

この箇所、「主の霊がわたしの上におられる。」はイザヤ書の中で終わりの方にある第三イザヤと呼ばれる部分からの引用です。(イザ61:1-2

ユダヤの民は約70年、バビロン捕囚という辛い体験をしましたが、ペルシヤがバビロンを滅ぼしたために解放されて、エルサレムに帰還することができた。

そして希望に満ちて新しい歩みを始めたところでありました。

その時のユダヤの民に告げられた預言を、それから500年経った後にイエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのでありました。

イエスは霊の力に満たされていた。

自信を持って自分の使命の遂行の開始を宣言されました。

わたくしたちも聖霊の力に満たされて、それぞれ自分の使命を実行することができるように祈りたいと思います。

 

第一朗読  ヨハネの手紙 一 4:19-5:4
(
愛する皆さん、) わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。


イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。

 

 

福音朗読  ルカによる福音書 4:14-4:22a
(
そのとき、)イエスはの力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。


イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い(た)

 

 

 

 

 

 

2020年1月 8日 (水)

愛には恐れがない

降誕節水曜日(主の公現後)

202018()、本郷教会

弟子たちはイエスが湖の上を歩いておられるのを見て幽霊だと思い、恐怖に駆られて叫びました。

イエスは弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

「恐れることはない」という言葉をイエスはいろいろな場面で言われています。

今年の11日元旦「世界平和の日」の教皇フランシスコのメッセージの中に、恐怖が平和を脅かすということが述べられています。

人間の心の中を平和ではなく恐怖が支配すると、自分を守ろうとして相手を恐れたり、攻撃したりすることになるのではないだろうかという意味であったと思います。

今日の第一朗読は、昨日に引き続き「神は愛である」と述べています。

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。

なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」

この言葉を今日は特にゆっくり深く味わってみたい。

わたくしたちはいろいろなことで怖れを覚えています。

何かを失うという恐れ、何かをすることができなくなるという恐れ、さまざまな恐れがある。

恐れるのは愛が足りないからでしょうか。

幼子は母の手に抱かれて恐れということを知らないのでありますが、わたくしたち大人になると、いろいろな時に不安そして恐れを感じます。

神は愛である、そして神がいつもいてくださる、神がわたくしたちを守ってくださる、そして御自分の下に引き寄せてくださる、という信仰を持つ限り恐れは生じないはずですが、なかなかそうはいかない現実があります。

神をどのようなかたとして受け取っているのだろうか

神の怒り、そして罰、ということが確かに聖書には出てきますが、他方、神は赦すかたである、神は慈しみ深いかたであるということが強調されています。

「神のいつくしみの特別聖年」が教皇フランシスコによって行われ、宣言されたことをあらためて思い起こしましょう。

 

第一朗読  ヨハネの手紙 一 4:7-10
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

福音朗読  マルコによる福音書 6:34-44
(
そのとき、イエスは)大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

 

 

 

 

 

 

2020年1月 7日 (火)

スプランクニゾマイ

降誕節火曜日(主の公現後)朝ミサ説教

2020年1月7日(火)、本郷教会

 

今日のマルコの福音は、有名な「五つのパンと二匹の魚」の奇跡の話であります。

イエスの周りに集まった群衆を見て、イエスは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」とマルコは述べています。

この「深く憐れみ」という言葉は、「内臓」という言葉に由来しています。

「内臓」というのは、ギリシア語のスプラングノンδπλάγχνονという言葉で、深く憐れみという動詞はスプラングニゾマイσπλαγχνίζομαιと言います。

ある人は「はらわたする」という日本語にしています。

 

教皇フランシスコが「いつくしみの特別聖年」という一年を宣言したことを思い起こしてください。

神は慈しみ深いかたであるということを深く味わう一年とするようにと言われました。

神の慈しみは、苦しんでいる人 悩んでいる人に対する深い慈しみとして現れました。

そしてその神の慈しみを完全に体現した人間として実現したかたが、ナザレのイエスという人であります。

 

今日のヨハネの手紙が言っておりますが、「神は愛である」

神はまず人間を愛することによって、神の愛を示されました。

人が先に神を愛したのではなくて、神が先に人間を愛してくださったことによって、わたくしたちは愛するということを学んだのであります。

 

 

第一朗読  ヨハネの手紙 一 4:7-10
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

福音朗読  マルコによる福音書 6:34-44
(
そのとき、イエスは)大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。

「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

 

仮現説の誤り

降誕節月曜日(主の公現後)ミサ説教

2020年1月6日(月)、本郷教会

 

昨日は「主の御公現」の祭日でありました。

永遠の「神のみことば」が人となってわたくしたちのところに生まれ、異邦人に知れ渡ったことを記念する日であります。

今日の第一朗読「使徒ヨハネの手紙」によると、すでに最初の教会の頃からイエスが人となった神であるということを認めない人たちが多数いたことが推測されます。

反キリストという言葉が出てきます。

イエス・キリストは人間という姿をとっていたが、実は仮の姿で本当の人間ではなかったという仮現説と言われる考えも、ヨハネの手紙が書かれた頃広まっていたようであります。

 

キリスト教というのは、永遠のみことばがわたくしたちと同じ人間になってくださった、わたくしたちと同じ人間の弱さを身に纏ってくださった、ということを信じる宗教であります。

人間が被っている悪、それは病気あるいは罪という言葉で言い表すことができるでしょう。

その罪や悪を克服し、人間を罪や悪から解放するためにイエス・キリストが来られたのであるとわたくしたちは信じます。

教会はその使命を継承していますが、未だイエス・キリストの福音宣教は緒に就いたばかりという印象があるかもしれない。

イエス・キリストの再臨の時に、福音宣教の働きは完成するのであります。

 

第一朗読  ヨハネの手紙 一 3:22-4:6
(愛する皆さん、)神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。
愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。

福音朗読  マタイによる福音書 4:12-17、23-25
(そのとき、)イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

 

2020年1月 5日 (日)

主の栄光が極東の島国に・・・

《主の栄光が極東の島国に・・・》

 

主の公現

202015日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言(イザヤ60:1-6
第二朗読 使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ3:23b5-6
福音朗読 マタイによる福音(マタイ2:1-12

 

説教

主の公現の祭日です。
公現、公に現れるという言葉に表されていますが、お生まれになった主イエスが、異邦の民にも現れたという日を記念する日であります。

本日、登場する占星術の学者達とは、東方から、ベツレヘムまで、星の導きに従って遥々訪ねてきた人達であり、「三人の博士」と昔から言われています。
この「占星術の学者たち」と訳されています言葉はmagoi(単数はmagos)(マゴイ)というギリシャ語から出て来ていて、どういう意味でしょうか、ペルシャの宗教家を本来意味していたのだそうです。

後に、「占星術の学者」とか、あるいは、「魔術師」、あるいは、「手品師」magician (マジシャン)をあらわすようになりました。
三人の博士といいましたが、人数は書いていないのです。おそらく、三人だろう、というのは、「黄金」「乳香」「没薬」をささげたから、それぞれの三人がその一つを献げのだろうと推測されているからです。

先ほど、歌った詩編で、「タルシス」や島々の王が献げ物を、「シバやシェバの王が」貢ぎ物を納めた、という箇所が三人にあてはめられ、彼らは王であるとされているのです。
皆さん、ご存知と思いますが、東京教区とケルン教区は友好関係にあり、ケルンのカテドラルは、この三人の博士、三人の王に捧げられた教会です。
三博士は「三賢王」とも言われています。三賢王の遺物が納められている教会となっています。

そして、その三人の名前も聖書には書いていないが、歴史の流れの中で、それぞれ名前が付けられたということです。「黄金」をささげた王がMelchiorメルキオル、「乳香」をささげた王がBalthasarバルタザル、没薬をささげた王がCasparカスパルとされている。
これはそれぞれドイツではよく使われる有名な名前と
なっている様ですが、それはともかくとして、きょう記念する「ご公現」、「三賢王」の礼拝というのは、今の私たちにはどんな意味があるのでしょうか。何か、そういうおとぎ話を聴いて、「ああ、そうですか」ということで終わるのでは申し訳がない。
わたくしは、二つのことを思います。
一つはヘロデ王のことです。ヘロデ王は「不安」に思った。なぜ、不安に思ったのでしょうか。ヘロデは「大王」と呼ばれていて、業績を上げた人なのです。神殿を再建した人であり、税金の免除などもした、立派な王という評価もあるが、他方、非常に残忍な王であるという記録も残っている。非常に猜疑心が強い人であった。自分の地位を脅かすのではないかと疑うと、その人を情け容赦なく排除するということをした人であります。
ユダヤの王が生まれるとなると、その子が自分の地位を脅かすものであると彼は考えたのでしょう、本当に、理不尽な残酷なことをしたもので、「幼子殉教者」の日というのを先日、記念したのでありますが、

全く無辜の、何の罪の無い、生まれたばかりの子どもを惨殺したのでありました。

人間の心というのは、まことに不思議なもので、生まれた子供が自分を脅かすと、どうしてそう思ったのか。それでベツレヘム周辺の子どもを全部殺すように命じたわけであります。

ここに思うに、ヘロデは特にひどい人であったけれども、わたしたちの中にも、時に、ヘロデ的な心がどこかに棲んでいるのではないかという気もする。

それは、さておきまして、東の方から三人の博士が来ました。わたしたちはその東のまた東、極東といわれるこの島国に住んでいるものであります。

この日本という国で、イエス・キリストの栄光をどのように受け、どのように伝えたらよいでしょうか。

わたしたちの課題は、どのようにして、わたしたちが受けた福音を人々に伝え、そして、表し、証しするかということであります。何度も同じことを言っておりますが…。

まあ、わたくしは今年の年始、三日間ほど、故郷、千葉県市原市というところですけれども、行ってまいりまして、そこでしみじみと考えました。毎回のことですけれども、全くといっていいほどキリスト教、まして、カトリックと縁のないところであります。そこに住んでいる人に、どういうふうにイエス・キリストを伝えるのか、わたしもそこで生まれ育て一人なのですね。
今、こうしていますけれども…。
この、繋がりというものは、どこにあるのだろう…。当惑し、自信が持てない、そういう自分を見出す。
しかし、イエスが弟子たちに言われた言葉の中で、非常に多い言葉として、「恐れるな」という言葉言があります。いろいろな時にイエスは「恐れてはならない」と言われました。

まあ、ヘロデが恐れたのは、自分の地位が脅かされるということを恐れたのですが、まあ、わたしたちはそういう理由ではないが、なんとなく自信が無い。
本当に自分は福音を信じているのだろうか、信じていれば、堂々とその信仰を伝えればよいのではないか、そうすると、本当に自分は神の恵みに与り、そして、聖霊が注がれて、自分の中に父と子と聖霊の神さまの恵みが注がれているということを心から固く信じているだろうか。
自分ではない、わたしたちをとおして働いてくださるのは、父と子と聖霊の神さまであります。

神の愛がわたしたちの中に注がれている。そして、「完全な愛は恐れを取り除く」と言われています。

使徒パウロは、何かわかりませんが、とても辛いことがあって、「棘」と呼んでいますが、その棘を取り去ってくださいと祈り求めましたが、聞き入れられなかった、そして、主は言われた。「私の恵みはあなたに十分である」「私の恵みはあなたの弱さの中に働く」。
あの使徒パウロ、あの猛烈な人ですから、まあ、わたしたちはその何分の一でもパウロに倣い、自分の弱さあるいは、至らなさ、あるいは、罪深さにもかかわらず神がわたしたちをとおして働いてくださるという信仰を、きょう、改めて確認し、深めるようにしたいと思うのであります。

この本郷教会に、かの幼子イエスの栄光が輝き出ますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。

 

 

 

2020年1月 2日 (木)

平和の敵は「恐れ」

神の母聖マリアの祭日

2020年1月1日、本郷教会

第一朗読:民数記(民数記6・22-27)

第二朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ4・4-7)

第三朗読:ルカによる福音(ルカ2・16-21)

 

説教:

きょうは、主イエスがお生まれになってから8日目にあたり、イエスは割礼の日を迎え、そしてイエスという名前を付けられました。母マリアは、天使のお告げを受けて以来、自分の身に起こったことについて、思い巡らしていたのであります。

さて、きょうは「世界平和の日」と定められています。教会は世界の平和について思い巡らすようわたしたちに求めております。わたしたちは、この地球に住む人類の一員として、また日本という国に住む国民として、さらに一人一人の人間として、静かに平和について思いめぐらし、そして平和の為に祈りをお献げいたしましょう。

毎年、世界の平和の日に向けて教皇は世界中の人に向かってメッセージを出して下さいます。今年のメッセージは「希望の道である平和―対話、和解、エコロジカルな回心」という副題がついています。
このメッセージを読んで思いましたことを一つ二つお伝えしたいと思います。

教皇フランシスコは、エコロジーの問題に大変深い関心を寄せています。過ぎ去った一年を考えてみれば、環境の問題はますます深刻になり、そして世界規模で多くの人がこの問題を取り上げ、考え、論じております。わたしたちも信者として、そして聖書を心の糧とする者として、この問題を真剣に考え、その解決のために祈らなければならないと思います。

おそらく、この問題について、わたしたちは基本的な理解をもう一度確認する必要があるのではないでしょうか。わたしたちは自分の住む家であるこの「地球」を、自分のために、自分の生活、自分の利益のためにある存在として考えて、誤解しているのではないでしょうか。
わたしたちと共通の家であるこの地球、そして、それに連なるほかの「被造物」との間には、深いつながりがあります。

わたしたちは、自分の家である「地球」を離れて存在することができません。わたしたちの日々の生活は、この大自然が与えてくださる数々の恵みによって支えられ、助けられているのであります。感謝こそすれ、それを乱用したり、あるいは、傷つけたりすることは、本来、もってのほかのことであります。

この被造物の中に、神の恵みが働いているのであります。

聖フランシスコが、すべての被造物に感謝と賛美を捧げたように、わたしたちも、「与えられているこの自然に、心から賛美と感謝をささげること」ができますよう、この新しい年、改めて、それぞれ、この一年の計画の中にそのようなことができるような具体的な計画を考えたらよいのではないかと思うのであります。

もう一つ、今日のメッセージからわたくしが受け取りましたことを申し上げます。

人間はみな、同じ神の子として造られています。どうして同じ神の子の間に、悲惨な、残酷な現実が起こっているのでしょうか。

教皇のメッセージを読むと、その原因は、「不信」と「恐れ」、あるいは「そこから生じる暴力」というものにあると言っています。

わたしたちの心の中にあるもの、それは複雑であって、同じ人間として、「お互いに感謝し」、そして「信頼する」ということが基本になっており、われわれは、大体、そのようにして毎日を過ごしております。が、時として、心の中に忍び込んでくること、それは、他人のことを疑ったり、あるいは、不安に思ったり、あるいは、恐れたりするということであります。

特に、争いが起こる場合に、「恐れ」ということが人間の心の中に支配しているのであると教皇は言っています。

その恐れを、取り除くためにイエスは十字架に架かり、十字架の血によって人と人の間を隔てている、「敵対」、「恐れ」の壁を打ち砕いてくださいました。

全ての人の中に神の霊が宿り、神の霊が働いているというわたしたちの信仰を、さらに確かめ、新たにするべきではないでしょうか。

そのために、わたしたちはまず自分自身を神によって造られた神の似姿であるということ、そして、イエス・キリストが十字架によって救ってくださっている存在であるということを、さらに改めて深く信じるようにしたいと思います。

自分とほかの人、それから人間以外の被造物との間にある「つながり」を改めて見つめ直し、そして感謝すること、「全てのものは神から出て、神によって一つに保たれている」という信仰の基準に、立ち戻るようにしたいと思います。

神の母聖マリアが、わたしたちのこの信仰を強め、支え、そして、困難の中でわたしたちを導いてくださるよう、祈りましょう。

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